くつ

 前を見ると、軽そうなチェスタアコートを着て、きめ細やかな、重さを感じさせないようなマフラーを巻いた青年が見える。彼の歩き方が非常にぎこちないので、ついつい目で追ってしまっていた私は、目だけではなく、脚すらも無意識に動いていた。
 彼のどこが不自然なのか観察を始めると、上半身の動きは他のすれ違う者たちと相違なく、普通の動きをしている。いや、少し違う。左右へ大幅に揺れている。すると、問題は下半身にあることが想定される。見てみると、どうも重いブーツのような靴を履いており、引きずるような恰好だ。丁度、上り坂であるためにそれを助長させている。
 一度、話したことのある程度の間柄である私に、話しかけられるのは嫌であろうことは承知しているが、好奇心は話しかける方の選択肢を採った。
「やあ、どうしたんだい? 足取りが重いじゃないか」
「ええ、まあ」
 彼は、初対面の人にでも声を掛けられたような渋い顔を作っている。
「これは失礼。私は、ほら、隣人の」
「ああ、あなたか。いきなりだと、うん。最近、近所付き合いというのかな、そういうのがないからねえ」
「あ、もちろん、もちろん。私が、良くなかったので」と、あれこれ弁明した。「ところで、あなた、靴が合っていないんじゃないのかい?」
「なぜ?」
「いや、だって固有周期の長い建物のように揺れていたから」
「ああ、そういうこと」彼は、一度自分の足元をしげしげと眺め、何事もなかったようにこちらへ目線を戻した。「重たいのだけれどね、良いんだ」
「良いって?」
「ほら、こんな実用性のない靴なんて持っていても何の価値もないから、あってもなくても良いのだけれど、あるなら使った方が良いじゃないか」
「なくても良いなら、履かないで良いだろうさ」
「生憎、これ以外靴がなくてね」
 彼は、片方の靴をもう片方に当て、俯いて言った。
「じゃあ、なくちゃ駄目じゃないか」
「うん、形式上はね。でも、気分においては要らないんだ」
「そうかい」彼はおそらく金がないのだろうと思い、私は条件によっては金の援助をしてやらんでもないと思った。「どうだろう、靴でも見に行かないかい?」
「いや、あれだ。今は月末だろ?」
 私の推量は的中したらしく、先ほど決めた条件を言うことにした。
「じゃあ、こうしよう。あなたにお金を貸すから、新しい靴をそれで買えば良い」私は、そこまで言い、少し間を置いて次の言葉を言った。「そして、担保としてその重い靴を、私が預かるよ」
「そりゃあ、助かる」
 彼は、天衣無縫の笑顔の後に、元気を取り戻したのか、主導権を握って靴屋にまで私を運んでいった。
 店に着くと、彼は既に購入をする靴を決めていたのだろうか、即刻レジカウンタアにまで一足の靴を持っていった。その足取りは先ほどの男坂の時とは違い、軽妙なもので、母親にねだる子のような顔をこちらに向けると、私にお会計するよう媚びた。
 私はクレジットカアドで一括払いの文言を店員に素っ気なく言い放ち、店員の作業が済むのを待った。
その間、暇だったので、彼の方を見ると、ブーツの靴底が厚いためか、或は彼自身の身長が高いためか、恵比寿のような目のとろんとした面持ちはどこかに吹き飛び、鋭敏な目に嘲笑を包含し尽した顔が私を見下ろしていた。
 店員が挨拶を言い終える前に、彼は商い品を手に持ち、満足そうに手にぶら下げていた。
「まあ、返すのは来月の落ち着いた時で良いから。家はすぐ近くなのだし」
「ああ」
「あ、そうそう。今、ここで履き替えちゃいなよ」
「そうしよう、そうしよう」
 彼は、店を出てすぐの、人通りのまばらな歩道の端によると、袋に入れられた紙箱を引きずり出し、中から新品の、軽やかな白のスニーカーを取り出した。履いていた重い靴は、両方とも側溝の上にべたっと横にされ、精根尽き果てている様子だ。
「こりゃあ、いいや。軽い、軽い」
 彼は、数歩あるいて跳ぶ、という行為を何度か繰り返した。桎梏を無くし、今にも飛び立ちそうな雰囲気だ。
「そうかい、それは良かった」私は、横にされた靴を凝視していた。何故だか知らないが、その重い靴は、私に関心を寄せられる対象としてそこにあった。履くことで、自分のこの身の上が良い方向へと転ぶような気がした。
「じゃあ、ちょっと失礼して」私はそう言うと、自分の履いていたぺらぺらの靴を地面に投げ捨て、地面に垂直に置いた靴をおもむろに履いた。「ああ、確かに重い、こりゃ重い」
「そうだろ? ところが履いている時、気分は良いんだ。守られているような、それは人の力の及ばないような」彼は諭すように言った。「でも、自分の思うとおりに動けなくてね。今日も挑戦したのだけど、やはり駄目でね」
「なんだい、動かないだ?」
「じゃあ、僕は講義があるから」
「あ、ちょっと待て」
 私は、彼を追いかけようとするが、思うように身体が動かない。上半身は大きく左右に揺れ、行こうとは思っていない方向に足が運ばれていく。地面に放り投げた靴からも大きく離れた。彼の去った方向を見ると、人物の把握が難しい距離にまで離れ、小さい影になった彼は、重い靴を履いていた時からは考えられない程の速さで、脚を前に運び、走るようにして進んでいた。何にも縛られない自由が、その背中には植え付けられていた。
 私は、しかし、不思議とこの状況が嫌ではなかった。
 身体に合っていない、てろてろのシャツが曇りの北風に揺れた。

くつ

くつ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted