小さな寮の物語


     1
     
 福島県のとある高校に千葉彩乃という人がいる。彼女は、その高校、虹の花学院を卒業したのは良かったが、大学受験に不運も重なってことごとく失敗し、苦境に立たされていた。
 状況を打破するために昵懇の間柄である校長に相談にいっていた。
「校長先生、私、いったいどうしたら良いのでしょうか……? このままじゃ、就職に不利になってしまいます」
 校長は首をかしげた。
「う~ん、まさか君が浪人するとは……そうだな――じゃあ、これはどうだろう」
「何ですか?」
 千葉は希望に目を輝かせながら聞き返した。
「新しく寮ができただろう? 実は、まだ寮監が見付けられていないのだ。教職員に交替で就かせようと思っていたのだが、もし良いなら、寮監にならないか?」
「寮監……?」
 千葉は、少し考えてみた。確か、寮はそんなに大きくないから人数も多くないはず。それに寮生は後輩たちだし、気難しいこともない。やってみようかな……。
「やります。やらせて下さい」
「おお、そうかそうか。君なら安心だ。じゃあ、早速たのむよ」
 千葉は、校長から寮の鍵を受け取った。
 こうして、千葉の新たな生活が始まった。

 虹の花学院の寮は、学校の裏側にあって、1階建て、屋上付きと小さい。学校の生徒数が少ないこともあるが、寮に入れるのはわずか11人だけ。本当に小さい。
 千葉は鍵を使って、ペンキの匂いがしそうな建物に入ってみた。中に入ると中央に大きな空間が広がっていて、そこに長机が置かれていた。そこで食事をするのだろう、と思いながら他を見渡すと、机の先にテレビもあり、ソファもあり、キッチンもあった。その時、千葉はふと思った。もしかして、食事は私が作らなければならない
のかしら。だとしたら、何も作れないよ。
 不安になって、さっき行ったばかりの校長室に引き返した。
 そこに入れ違いで1人の男が寮の前に立った。ここが寮か、けっこう立派じゃん。値段が安すぎて、心配だったけど、これなら生きていけそう。そう思いながら、扉に手をかけた。千葉が鍵をかけないで出たため、開いてしまった。
「うそ、開いた」
 思わず声を上げた。
「見た目は良いけど、セキュリティーは大丈夫か……?」
 あきれた足取りで中へ。すると、左右に7つずつ部屋が並んでいた。右手から101、102と続いていき、107まで。左手側は、108から112と、その隣に学習室、さらにその隣に洗濯室があった。
「俺の部屋は――103か」
 机の上の紙を見ながら呟いて、102に入ろうとしたが、そこは鍵がかかっていた。何だ、セキュリティーも大丈夫じゃん、と思いながらソファに腰掛けた。

 千葉は、校長から料理の本をもらっていた。まさか、私が作ることになるとは。
 学校の門をくぐると、女の子が1人立っていた。背が低く、幼い顔をしている。なんとも、かわいらしい。
「学校に何か用?」
 千葉が尋ねると、驚いた顔をした。
「あの、寮を探して……」
「寮? 虹の花の生徒?」
「はい、4月から」
 千葉は、突然少女に抱きついた。
「ホントー? あなたみたいなかわいい子なら大歓迎だよ。あ、私はその寮の寮監、千葉彩乃。よろしくね」
「えっと……はい、よろしくお願いします。本多姫代といいます」
 本多はおもむろに答えた。
 2人は寮へと向かった。

 寮に着くと、中にソファに座ってテレビを見ている少年を発見した。千葉と本多は彼に近づいていって、千葉が声をかけた。
「あなた、寮に入る人?」
 少年は振り向いて、
「そうですけど」
 と無愛想に答えた。
「あんたらも寮生?」
 逆に聞き返した。千葉は本多を示して、
「彼女はそうよ。本多姫代」
 と言った。
「じゃあ、あんたは?」
「寮監の千葉彩乃」
「りょ、寮監? 若すぎだろ」
「今年で19歳よ」
 これには本多も驚いた。
「……つまり、卒業したばかりですか?」
 千葉は頷いた。
「君、名前は?」
「亀井皓介。部屋103でしょ、鍵ちょうだいよ。荷物入れたいからさ」
「ああ、ごめんごめん。はい、鍵は1つしかないから失くさないでね。姫っちは、104だね」
「姫っち……?」
「そう、姫っち。今、考えたニックネーム。亀井君は、亀井君で良い?」
「何でも良いっすよ」
 そそくさと部屋に入っていった。

 夜になった。千葉はとりあえずカレーを作って、夕食にすることにした。
「姫っち! 亀井君! ご飯だよ」
 本多はすぐに出てきた。少しして亀井も出てきた。
「いただきまーす」
「いただきます」
 亀井は無言で食べ始めた。
「あの、寮監さん。他の寮生って、あと何人いるんですか?」
 本多が小さな声で尋ねた。
「女子が2人と男子1人。そろそろ来ると思うよ……むむ、噂をすれば何とやら」
 来客を告げる呼び鈴が鳴った。千葉は急いでドアを開けた。
 そこにはメガネをかけた少女と少年がいた。
「今日からお世話になる坂本諒太です」
「岩崎文香です」
「寮監の千葉彩乃です。これからよろしくね」
 2人は顔を見合わせた。
「若いですね。ここに来るまでのイメージだと、寮監っておばちゃんかと思っていました」
 坂本が言うと、千葉は幾分か嬉しそうな表情をした。
 坂本と岩崎も食卓の輪に加わった。

 千葉にとって、寮監になって最初の寝る時間を迎えた。そして、これからの事を思索していた。明日は早起きして、朝食作って、日中は洗濯とかもしないと。1日で易々と判断できないけど、良い感じだし、上手くやっていけそう。元々、人付き合いも苦手じゃないし、後輩とも仲良かったからね。大丈夫。私は生きていける。未来はきっと、希望に満ち溢れている。
 そういえば、あと1人いるのに、まだ来ないのかしら。明後日、入学式だから明日には来るだろうけど……。千葉は隣の部屋を見た。隣の102は、まだ来ていない少女の部屋。千葉は101で、坂本は106、岩崎は107とそれぞれ入っている。つまり、反対側の部屋は全部空いている。
 考え事をしていたら、甘い眠りに誘われてしまった。

 誰かが部屋を強く叩く音で、千葉は眠りから覚めた。ドアを開くと、亀井が眠そうな顔で立っていた。
「呼び鈴、ずっと鳴ってますよ。うるさくて起きちゃったじゃないすか。早く出て下さいよ」
 そう言うと、部屋に戻った。
 代わりに出てくれても良かったのに、と思いながら玄関へと急いだ。恐らく、まだ見ぬ彼女だろう。
 ドアを開けた。荷物を持った上品そうな少女がそこにはいた。
「摂津さんですか?」
 千葉が優しく尋ねた。
「はい、摂津舞衣です」
 しゃべり方も品がある気がする。
「寮監の千葉彩乃です。よろしく、マイ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 丁寧にお辞儀をした。まったく、亀井にも見習って欲しいものだ。
 これで寮生は全員揃ったことになる。だが、波乱の人生の幕開けに過ぎなかった。

 寮生活2日目、朝食の時間となった。朝食は、昨日の残りのカレーライス。
 朝、千葉はちゃんと起きられた。ただ、予想以上につらく、これがずっと続くと思うとゾッとする。しかし、他の同級生はもっと苦労しているだろう、と自分に言い聞かせて頑張った。
 朝食の後、自己紹介の機会を設けた。
「じゃあ、まず私から。寮監の千葉彩乃です。誕生日は、11月30日。去年、虹の花を卒業したばかりです。高校時代は、ずっとテニス部で、3年の時、部長でした。あんまり頼りにならないと思いますが、協力してがんばっていきましょう。はい次、コースケ」
「おれ? 何言えばいいんすか?」
「名前と学年――は良いや、皆1年生だし。あと、誕生日、部活、皆にひとこと。はい、スタート」
 亀井は、頭をかきながら始めた。
「亀井皓介です。誕生日は、2月14日です。中学では、野球部でした。高校でも野球やります。よろしく」
「質問して良い?」
 岩崎が手を上げた。
「何?」
「野球でポジションはどこだったの?」
「ピッチャー。3年間ずっと」
「おー、すごい。かっこいいー」
 その後、ピッチャーの話題で少し盛り上がった。
 次の自己紹介者に千葉は本多を指名した。
「えっと……本多姫代です。誕生日は、5月5日です。部活は、バスケ部でした――高校でもバスケ部に入ろうと思っています」
「そんな小さいのにバスケやってんの?」
 亀井がぶっきらぼうに聞いた。
「うん、バスケが好きだから」
「何がきっかけで好きになったの?」
 今度は、坂本が尋ねた。
「マンガのスラムダンクっていう……」
「おー、スラムダンク、私も読んだことある」
 千葉が同調した。スラムダンクの話題でまた盛り上がった。
 次に岩崎が指名された。
「岩崎文香です。9月2日生まれです。坂本と中学が同じだったけど、話すようになったのは最近です。部活は、陸上部に入ろうと思っています。皆さん、仲良くしてください」
 落ち着いた語り口で述べた。性格の良さが滲みでている。
 その次は、坂本。
「坂本諒太です。誕生日は、寮監と同じ11月30日です」
 と言うと、千葉が話を遮った。
「え、そうなの。すごい偶然」
 坂本は、爽やかに笑みで返した。
「部活は、サッカー部に入ります。迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「リョータ、ありがとう――じゃあ、最後にマイ。締めちゃって」
「プレッシャーかけんなよ」
 千葉に亀井がつっこんで、皆の注目が摂津に集まる。
「摂津舞衣です。8月24日生まれです。部活は、吹奏楽部に入ろうと思っています。楽器は、フルートです。充実した寮生活を過ごしましょう」
 けっこう、上手く締めた。
「ねえ、マイ。マイって中学でモテた?」
 岩崎が興味津々、といった目で尋ねた。
「どうしてですか?」
「だって、すごい美人じゃない。ヒメヨもちっちゃくて、かわいいけど、マイってすごい美人――ねえ、亀井君?」
「あ? 何で俺に聞くんだよ。知らねーよ、そんなの」
「……モテるかどうか分からないですけど、何度か男子に告白されたことはあります。でも、ちょっとそういうのが苦手で……全部、断っちゃいました」
 摂津が伏目がちに答えた。そのしぐさもかわいい。
「へえー、じゃあホワイトデーとか大変だろうな」
 岩崎がうらやましそうに言った。千葉的には、岩崎の性格のほうがモテそうな気がするが、言わずに黙っておいた。
「ホワイトデーと言えば――」
 坂本が亀井を見ながら言った。亀井は、ちょっとしかめ面。
「コースケの誕生日って、バレンタインデーだね」
「だからなんだよ」
 亀井の顔がちょっと赤くなった。何か、苦い思い出でもあるのだろうか。
「じゃあ、チョコをプレゼントしてあげないとね」
 と岩崎。
「そしたら、他の男子に自慢できますね」
 と摂津。横で本多も笑っている。
 その光景を見ながら、千葉は安心していた。良かった、この雰囲気なら問題なさそう。皆、明るいし、それぞれ個性があって。私も寮生になりたかったな……。

 翌日、寮生5人は入学式を迎えた。千葉は後ろの保護者席に混じって、その風景を懐かしそうに眺めた。
 クラスも発表された。1年生は、全3クラスで、1クラス30人前後。1組に亀井と摂津、坂本、2組に岩崎、3組に本多とばらけた。
 入学式の後、千葉は校長に会った。
「どうだい、上手くいっているかな?」
「はい、とても楽しいです。私も寮生になりたかったです。皆、明るくて良い子ですよ」
「そうか……」
 だが、校長の顔にはちょっと陰があるようにも見える。
「校長……?」
「千葉君、彼らは実は暗い過去をそれぞれ持っているのだ」
「暗い過去、ですか?」
「ああ――気をつけて接したまえ」
 そういい残して、その場を去ってしまった。
 暗い過去。昨日の彼らを見たら、そんなものがあるようには思えない。校長先生の心配しすぎだろう。自分に言い聞かせて、千葉は寮に戻った。

     2
 
 入学式から数日たって、部活が本格的にスタートした。つまり、1年生の入部が始まるのだ。寮生たちも例外ではない。
 本多は、授業が終わると、入部届けを持って体育館に向かった。体育館ではすでに先輩たちが練習を始めていた。本多は端っこを通って、顧問の八木沼先生の元へ。
「あの、八木沼先生」
 八木沼は本多に気付くと、
「お、待ってたぞ」
 と歓迎した。
「入部だな?」
「はい、よろしくお願いします」
「じゃあ早速、ゼッケン着てミニゲームに混じってこい」
 本多は言われるままにゼッケンを着て、コートに入った。先輩たちに緊張の色が走る。
 ミニゲームがスタートした。ボール運びがポジションの本多は、ボールをもらうと、いっきに相手コートにドリブルで切り込んだ。スピードと走りのキレで軽く1人かわし、体を外に向けてパスすると見せかけて、また1人抜いた。そっからジャンプシュート。ボールはリングに吸い込まれた。
「さすが……」
 先輩から感嘆の声が漏れた。
「いいぞ、本多。周りも使っていけよ」
「はい」
 また試合がリスタートした。
 部活が終わってから、本多は先輩たちに声をかけられた。
「やっぱ上手いね、本多。全中の再現って感じだったよ」
「ありがとうございます。でも、先輩方のスタミナには敵いません」
「大丈夫、その内つくって」
「レギュラーの1枠、埋まっちゃったなー」
「でも、今年は県大会いけるかも」
 本多の目標は、県ではない。全国だった。

 その2時間半前、亀井も野球部に向かっていた。虹の花の部長は、亀井の中学時代のチームメイトであった。グラウンドにいって、その彼を探してみたが、グラウンドにはサッカー部とテニス部、陸上部しかいない。
 すると、後ろから声をかけられた。
「亀井じゃないか?」
 振り向くと、声の主は彼だった。
「村上先輩――」
「久しぶりだな。虹の花に入ったのか」
「はい、それで野球部を探していたんすけど、今日は練習なしっすか?」
 村上は悲しそうな顔をした。
「悪いな。実は、部員が少なくて、練習はいつも屋上でやっているんだ」
 亀井にとって、突きつけられた現実はあまりにショックだった。
 亀井は、中学時代、1年生からエースとして活躍し、3年の時には県大会まで駒を進めた。そして、高校では誰もが夢見る甲子園を目指していた。だが、虹の花は屋上で練習する程、少人数だった。
 屋上だと、バッティング練習も守備練習も本格的にできない。
「でも、お前が3年になったら、もう少しマシになるだろう。甲子園はそれからだな」
 村上は簡単に言ったが、チャンスがつぶれるのは痛い。
「無条件でお前をエースにしてやるから。キャッチャーは、他にできそうなのいないからおれがやろう」
 そんな事が聞きたかったんじゃない。亀井は叫びたかった。
 その日は、仕方なく何球か投げて、寮に帰った。

 寮に帰ってから、千葉は校長の言っていた「暗い過去」が頭から離れないでいた。校長の杞憂だろうか。それならそれで良い。今日は、彼らを注意深く見ていこう。千葉は心にそう決めた。
 6時過ぎぐらいから続々と皆が帰ってきた。口々に疲れたー、と言ってはシャワーを浴びにいった。
 夕食の時間、昨日と同じ雰囲気に思えた。しかし、亀井の様子が少し違う。発言が極端に少ないし、笑顔もない。
 夕食後、岩崎と本多、摂津はテレビの方に向かったが、亀井はすぐに部屋に入ってしまった。心配そうに眺めていると、坂本が寄ってきた。
「コースケ、元気ないですよね」
 坂本も気付いていたらしい。
「ええ……何かあったのかしら」
「じゃあ、僕が探ってきますよ。寮監、耳をすまして聞いていて下さい」
 と言うが早いか、亀井の部屋をノックして、中に入った。
 亀井は、中でベッドに横になっていた。
「コースケ、話があるんだ」
 亀井は顔を坂本に向けた。
「今日、部活どうだった? 野球部どんな感じだった?」
「……最悪だよ」
 亀井は今の野球部の実態を伝えた。
「そうか――それじゃあ、サッカー部の俺も居心地が悪いね」
 坂本は、サッカー部に今日、入っている。
「今日さ、部活で先輩や友達と練習してたら、周りはほとんど俺より上手いってことに気付いてさ。3年になるまで必死で頑張らないと、レギュラーにはなれそうもないな、って本気で思った。だからコースケ、お前が羨ましいよ」
「羨ましい……?」
「1年からエースになれて。練習場所は悪いかもしれないけど、試合に出る機会は多いじゃん」
「………」
「お前の力で、虹の花を甲子園に連れて行けばいいじゃん」
 坂本は、ドアノブに手をかけた。
「じゃあ、おれテレビ見てくるよ」
 ドアを開けた。すると、亀井が呼び止めた。
「リョータ――ありがとな」
 表情は見えなかったが、声は少し元気が戻っていた。
 坂本は部屋を出た。出たところで千葉とニッコリ。千葉は安心して、キッチンに洗い物をしにいった。

 翌朝の朝食の時間、坂本は以前のように生意気な言葉を発していた。
 ただ、その一方、寮にまた問題が浮上していた。千葉は皆を見送った後、自分の通帳を見ながら頭を抱え込んでいた。
「どうやりくりしても、食費がたりないな」
 寮は、電気代や水道代などは寮生のお金と学校の援助でなんとかなるが、食費は全て千葉がなんとかしてきていた。ただ、ここにきて限界がきた。
 千葉は仕方なく街に出た。自転車に乗って、福島駅までひとっ走りしていった。福島駅には都会のような町並みが広がっている。
 まず、本屋で立ち読みしていると、誰かに見られているような気がした。しかし、すぐ気のせいと分かった。去年までなら友達が見てないかソワソワしながら立ち読みをしていたから、その名残があった。
 そういえば、と千葉は思い出した。福島駅に友達のリコちゃんのお母さんがやっている饅頭屋さんがあったな。久しぶりに行ってみようかしら。
 饅頭屋は、時間帯のせいもあって、客が全然いなかった。すると、そこで暇そうにしている店員はリコだった。
「リコ!」
 千葉の呼びかけに、驚いた顔をして目を向けた。
「うそ、アヤ? まだこっちにいたんだ」
「うん。虹の花で寮監やってんだ」
「りょうかん……って、寮の偉い人? すごいじゃん、アヤ」
 実際は、すごくもなんともないのだが。
「リコは、ここで働いてるの?」
「うん、お母さんが倒れちゃって、人手が足りないって言うから、大学いきながら働いてる」
「へえ、そうだったんだ……」
 この時、千葉はふと気が付いた。
 そうだ、こうすればリコにとっても私にとっても良いんじゃないかな。

 夕食の時間がきた。千葉は、皆に打ち明け話をした。
「皆さんにお願いがあります」
「何だよ、改まって」
 亀井がいぶかしんだ。
「私の高校時代の友達に東野リコっていう人がいます。彼女は今、お母さんがやっている饅頭屋の手伝いをしているんだけど、近頃、お母さんが倒れてしまって、人手が足りないと嘆いていました。友達の危機を放って置ける訳ないので、助け舟を出しました。リコにこう言ったのです――じゃあ、寮の子達にアルバイト代わりに行か
せようか――ってね。とういう訳で、アルバイトやりませんか?」
 沈黙が1秒間ぐらいの後、言いたいことをそれぞれ口にした。
「メンドイ」
 と亀井。
「良いんじゃないですか。僕は賛成です」
 と坂本。
「やってみようかな……」
 と本多。
「私も賛成―。一度やってみたかったんだよね、バイト」
 と岩崎。
「私も構いませんけど」
 と摂津。賛成多数。
「亀井は、やってくれないの? 良い社会経験になると思うよ」
「……っち、皆やる気かよ。なら、やるよ」
 よし、千葉は心の中でガッツポーズした。 
 ただ、食費のことは黙っていた。

 夜。皆が寝静まった後、また通帳を眺めていた。
「はあ……眺めたって、変わんないよ」
 独り言を言って、部屋に戻ろうとしたら、背後に岩崎が立っていた。
「バイトって、寮の生活費を賄うためでしょ?」
「……感づいてた?」
「少し。別に言っても良かったんじゃないかな。寮のお金のことなら、許してくれたと思うよ――まあ、亀井君は、文句言いそうだけど」
 2人は笑い合った。
「良いのよ。人助けって思ってやった方がやる気でるでしょ」
「――そうですね。じゃあ、皆には黙っておきます」
 岩崎は独特な笑みでそう言った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 また、1日が終わった。

 バイトは、日曜日に1人ずつ交代でローテーションしていくことになった。岩崎から始めて、本多、坂本、摂津、亀井という順番に決まった。千葉も時間があれば応援にいくことになった。
 
 坂本は学校に着くと、男子の塊に混ざった。
「おはよう。何の話ししてた?」
「おう、リョータ。いや、3組の本多って女子いるじゃん。あいつ、こないだバスケ部ちょっと覗いてたら、すげー上手いんだよ」
「聞くところによると、1年でレギュラー当確らしいよ」
 朝から驚かされるな、坂本は苦笑いを浮かべた。あののんびりしたお姫様が、バスケの天才だったとは。
「確か、寮生だよな、彼女?」
「ああ、そうだよ。でも、知らなかったな。普段は、おとなしくて、のんびりしてるから」
「そうなの? 人って普段の姿からじゃ全部はわからねーんだな」
 でも、俺はそんな気がしていた。本多は、何かすごい長所があるって予感していた。
 昼食の時間、坂本はいつも1人で食べている亀井の席にいった。弁当は、千葉が作ったものだから中身はほとんど同じ。
「コースケ、いっしょに食べよう」
「ああ、良いけど。珍しいな」
「ちょっと、話しがあってさ――本多がバスケかなり上手いって知ってた?」
 亀井は、彼の癖で眉毛を少し釣り上げた。
「知ってたよ。一回、バスケ部で見た」
「何だ、知ってたのか。教えてくれても良かったのに」
「別に、その内わかるだろうって思ったから」
 坂本の食べるペースは速い。先に食べ始めた亀井よりも食べ進んでいる。
「それで思ったんだけどさ。他の寮生って、どのくらい部活で活躍してるのかな」
「俺は、リョータが気になるな」
 亀井は不敵な笑みを浮かべた。
「俺は、前も言ったじゃん。周りに俺よりも上手いヤツでいっぱいだって。野球部の大エース様には敵いませんよ」
 亀井は嬉しそう。
「岩崎は? 同じ中学だろ?」
「うーん、体育祭とかで速かったけど、陸上界のレベルだとわかんないな」
「摂津は?」
「本人に聞いてみたら。せっかく同じクラスなんだし」
「バーロ、変な噂がたつだろ」
 亀井でもそういう事を気にするんだ、坂本はちょっと可笑しかった。
「どうだろ……でも顔的に上手そうだね」
「確かに、そんな顔してるな」
 2人は、その言い回しに笑った。
 坂本が食べ終わって、袋に弁当を包んだ。亀井はあせらず、マイペースに食べ続けた。
「そういやさ」
 亀井が食べながら言った。
「何で摂津って、未だに誰に対しても敬語なの?」
 坂本は首をかしげた。
「そういえば、そうだね。男子ならまだ分からなくもないけど、本多と岩崎に対しても敬語だもんね。別に馴染めてないこともないのに」
 2人は不思議そうに、少し離れた席で食べている摂津を見た。

 その頃、寮で雑務に追われながら千葉も同じ事を考えていた。
 何でマイは誰に対しても敬語で話すのかな。姫っちとフミカとも上手くやってるし、リョータやコースケに冗談を言うことだってあるし――もしかして、今度こそ校長先生が言っていた「暗い過去」に関係があるのかも。コースケの時は、不発に終わったけど。
 洗濯物を1つ1つ丁寧に畳んだ。初めはこなせていなかった作業も次第にレベルを上げてきた。これなら、嫁にいっても恥ずかしくないわね。でも、寮監やってたら結婚できないかも。生徒と――いやいや、それはマズイって。問題行為だし。
 いつまで私は寮監を務めるのだろう。2、3年で辞めるかな。それとも長らく続けるかな。といっても、まだ先を見据えるには早すぎる。来年の今頃に、もう1回考えてみよう。
 外は、春の心地よさで満ちていた。田舎だから、季節の移り変わりを肌で感じられる。大学に受かって、都会に出ていたら、この感覚はもう味わえなくなっていただろう。寮監になって良かった。
 千葉は軽く伸びをして、昼寝をするため、ベッドに横になった。

     3
     
 アルバイトの話しをしてから、最初の日曜日を迎えた。トップバッターは岩崎。性格的にしっかり順応できそうだが、当の本人はちょっと緊張気味で午前中を過ごしていた。
「やばいよ、ヒメ。緊張してきた」
「大丈夫だよ。文香さんなら」
 本多は、優しく言ってやった。
「ホント? ヒメにそう言ってもらえると、安心する」
 岩崎はそう言って本多の部屋を出ると、今度は摂津の部屋にいった。
「マイー。緊張してきた、バイト」
 同じ事を摂津にも言った。
「最初は誰でも緊張しますよ。でも、フミなら心配ないですって」
 と今まで幾人もの男子を虜にしてきた笑顔とともに言った。
「そうだね。マイの笑顔見ると安心する」
 と言いつつ、次に坂本の部屋へ。
「坂本――」
「緊張してきた、って言いにきた?」
 坂本は機先を制した。
「何でわかったの?」
「しかも、そうやって他の部屋も回ってきた?」
「あってる、あってる」
 坂本はため息を漏らした。
「緊張が解れるかも知れないけど、それよりイメージトレーニングしといた方が良いんじゃない? 饅頭売りといっても、やることはいっぱいあるよ。客を呼び込んだり、お釣りを渡したり、それから――」
「わかった、ありがとう。やってみる」
 岩崎は部屋を出て、自分の部屋に戻った。
 
 昼食を済ますと、岩崎は福島駅に向かった。もう大丈夫そうだ。坂本の目にはそう映った。
 福島駅に着くと、饅頭屋にいって千葉の友達であるリコに声をかけた。
「リコさん」
 リコは岩崎を認めると嬉しそうな顔になった。
「待ってたよ。じゃあ、最初は隣で見てて。でも、すぐ出番だからね」
「はい」
 岩崎は返事をして、店の中に入った。
 店から通行人を見ていると、水族館みたいだった。慌てて駆けていく中年のおっさん、手をつなぎあった兄と妹、短いスカートで美脚を見せ付ける女性、大声で笑いながら歩いていく学生たち。岩崎は、次第にできるような気がしてきた。
「リコさん。もう、だいたい覚えました。代わりますよ」
「そう? ――なら、任せるね。奥にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
 岩崎は頷いた。
 岩崎の初バイトがスタートした。

 岩崎は無事にバイトをこなした。その次の週に、本多のバイトの日がきた。本多は緊張してそうだが、いつも通りのほほんとしていた。
 岩崎と同じように昼食を食べて、バイト先に向かった。
 あー、久しぶりの街だ。人込みはあんまり好きじゃないけど、リコさんを助けるためにも、バイト頑張らないと。仕事内容は文香さんに聞いてきたし、きっと大丈夫。
 饅頭屋に到着した。リコが慌てて本多に近づいてきた。
「ごめん、急用が入っちゃったから、1人で店番しててくれる?」
 本多が了承しないうちにどこかへ消えていった。
 えーと、とりあえず、頑張るか。
 本多が店に入ってから、彼女はずっと突っ立っていた。
「……あ、いらっしゃいませー」
 思い出して口にしたが、自分でも分かるぐらい声が小さい。それでも、いらっしゃいませーを言い続けた。
 やがて、女子高生3人が近寄ってきた。
「ねえ、1人で店番してるの?」
「は、はい」
「へえ、かわいいね、この子」
「ねー。うちの妹に欲しい」
「ホント、家にいたらずっとかわいがっちゃう……私の妹なんかさ――」
 3人は勝手に盛り上がり始めた。本多は対応に困った。とりあえず、せっかくだから饅頭を買ってもらおう。そう思って、饅頭を1つ差し出した。
「あの……おいしい饅頭いかがですか?」
 3人は、顔を見合わせた。
「せっかくだから、1つワリカンで買おっか」
「かわいさに免じて、いただきますか」
「ありがとうございます」
 本多はお金と引き換えに饅頭を渡した。
「ありがとうございました、またお越しください」
 本多にとって、初めて人に物を売った。
 やがて夕方になって、リコが帰ってきた。
「ありがとね。饅頭、売れた?」
「はい、17個売れました」
「まあ、繁盛したわね……じゃあ、これお駄賃」
 本多は紙幣の入った封筒を受け取った。これまた彼女にとって初めての給料だった。
 本多は、意気揚々と寮に引き上げた。

 1人の男が学校の前に立っていた。
「ここが虹の花学院か……」
 中に足を踏み入れようとしたが、誰かに呼び止められた。
「学校に何か御用ですか?」
 明るい雰囲気の女性が声の主だった。
「ええ、学校を見学させてもらってもよろしいですか?」
「構いませんよ。よろしければ、私が案内しましょうか?」
「お願いします」
 男は女に促されて校舎に吸い込まれていった。
 学校の各教室を回った。1年1組のところで、自分の息子が楽しそうにしているのに男は気付いた。思わず、涙をこぼしそうになった。久しぶりに姿を見るからである。
 最後に寮を見せられた。
「実は私、ここで寮監を務めていまして、5名の生徒の親代わりとなっています」
「へえ、お若いのに立派なことです――あの、中をお見せいただいてもよろしいですか?」
「もちろん。どうぞ」
 千葉は鍵を開けて、男を招いた。
 部屋を見て回ると、自分の息子の名前があることに男は気付いた。路上生活してなくて安心した。
 千葉と男は席に向かい合って座り、千葉はお茶を出した。
「寮監さん、今日はどうもありがとうございました」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「実はまだ名乗ってなかったのですが、私はここでお世話になってる亀井皓介の父なのです」
「え、そうだったんですか」
 千葉は意外な事実にかなり驚いた。
「3月に息子と口げんかして――まあ、以前から喧嘩が絶えなかったのですけど、あいつが大好きな野球を否定してしまって――そしたら、あいつ家を出て行ってしまって――」
「………」
「それで、本当は連れ戻しに来たのですが、あいつの楽しそうな姿を見たら、邪魔するわけにはいかないな、と思いました――息子は、寮で上手くやっていますか?」
「はい。毎日、楽しそうに過ごしています」
「そうですか……」
 亀井の父は立ち上がった。
「生意気な息子ですが、これからもよろしくお願いします」
 深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 千葉も慌てて頭を下げた。
「じゃあ、これで帰ります」
「コースケ君にお会いにならないんですか?」
 すると彼は苦笑いを浮かべた。
「会ったら、また喧嘩してしまいますし。ここに来たことだけ伝えてもらえますか」
「――わかりました」
 亀井の父は、虹の花を後にした。
 
 その日の夜、千葉は亀井の部屋にいった。
「今日、コースケのお父さんがここに来たよ」
 亀井は、肩をピクッと動かした。
「……何か、言ってました?」
「これからも息子をよろしくって。良いお父さんだね」
「へえ、意外だな。俺を無理矢理にでも連れて帰ると予想してたのに」
 亀井にとって、俺にとって、父さんは自分の未来の姿だった。だから、だらしないところを見たりすると、無性に腹が立って、暴言をつい吐いてしまう。それでも、父さんを心の奥底で愛していた。たった1人の息子として。でも、野球を侮辱したのだけは、どうしても許せなかった。あの時の自分は、自分でも驚くぐらいの行動力だった。ただ、学校に来たのなら、喧嘩しても良いから会いたかった。そんな気持ちがない、と言ったらウソになる。やっぱり父さんを愛しているから。
  
 これがコースケの「暗い過去」か。千葉は、布団の中で思っていた。他の人も、何か人に言えない闇の部分があるんじゃないか。
「さしあたり、マイね――」
 と呟いて、眠りについた。

 5月に入った。陸上部は大会を目前にして、追い込みがきつさを増していた。陸上部員の岩崎は、サボることも練習で手を抜くこともなく、ひたむきに頑張っていた。
 その日は練習の後、顧問の塚原先生から話があった。
「明後日、大会が始まる。個人競技は、地区大会突破を目標にして、全力で戦っていけ」
「はい!」
 岩崎ら陸上部員は声を揃えた。
「明日は軽めの練習で調整日にする。ここで無理して、怪我でもしたら元も子もないからな」
 そうだけど、岩崎は思っていた。大会を目の前にして、軽めの練習って、当たり前のことだけど酷な話だな。
 
 寮に帰った岩崎を待ち構えていたのは、ひどい悪臭だった。
「何、何があったの?」
 近くにいた本多に問いかけた。
「寮監がステーキを作ろうとしたら、こがしちゃって」
 こがしても、ここまで悪臭になるのだろうか、と岩崎は思いながらキッチンに向かった。
 キッチンでは、困った顔して突っ立っている千葉を横目にテキパキと処理をしている本多がいた。
「寮監、また何でステーキなんて作ろうと思ったの?」
 岩崎が尋ねた。
「明後日、フミカの陸上大会でしょ? だから、必勝祈願にステーキ食べようと思って――ほら、前日にステーキじゃ、お腹に悪いでしょ」
 必勝祈願にステーキって……岩崎は声に出して笑った。こんな寮の雰囲気が私を和ませてくれる。支えてくれる。
 その後、こんがり焼けたステーキに代わって、カップラーメンで夕食を済ませた。
「ったく、部活で疲れてんのに、これじゃ腹が満たされねーよ」
 亀井は文句たらたらだった。

 ついに大会の日の朝を迎えた。岩崎の目は、凛としていた。本人も驚くほど、気持ちが落ち着いていた。
 出発しようとドアに手をかけた時、後ろから仲間の声がした。
「フミカ、頑張ってね」
 千葉寮監。こんな朝早くに見送りに起きてくれるとは思わなかった。
「出るからには、負けんなよ」
 亀井君。相変わらず、憎まれ口。
「文香さんなら、負けないから。いつも部活で頑張ってるし……」
 ヒメ。優しいな、あんたは。
「リラックスして、自分の力を出し切って下さい」
 マイ。ありがとう。
「寮で応援してるからね」
 坂本。
 岩崎は、これ以上ない最高の気分で出発した。

 岩崎が出場するのは、3000メートルと500メートル、それからマイルリレー(4×400メートル)に午前と午後で出場する。午後からは、部活の終わった亀井と摂津、それから千葉が応援に駆けつける。
 開会式の後、全体で3種目に3000メートルがある。岩崎は、陸上部の友達とさっそくアップした。
 虹の花学院の陸上部は、総勢15人と多くないが、誰もやる気のない人はいない。ただ、他の学校に比べると、実力で大きく遅れをとっている。それだけに、県大会出場者が出るかどうかは微妙なところだ。
 時間がきた。ついに待ちに待った岩崎の競技の時間。召集場所に集まって、トラックの入口まで案内され、中に入り、アナウンスで名前を読み上げられ、気が付けばスタートラインに立っていた。
 合図とともに一斉にスタートした。3000メートルは、400メートルトラックを7周半する。岩崎は、序盤抑えて、終盤に勝負をかけることに決めていた。すると、1人すごい速い人がいて、その彼女が前に出た。後ろも遅れじとついていったが、岩崎は冷静だった。焦ることなく自分のペースを守り、チャンスを待った。
 終盤。速いペースについていった人たちが次々とペースを落とした。それも極端に落としたため、岩崎は労せずして順位を上げていった。そして、残り1周で速い人の背後まできた。
 だが、彼女はまだ余力があった。振り返って岩崎を確認すると、ラストスパート。さすがに岩崎はそのペースにはついていけず、2位でゴールした。
「フミカ!」
 友達の興奮した声を聞いた。
「すごいよ、県大会だよ」
 それでやっと思い出した。地区大会で6位までが県大会にいけるのだ。走りに夢中で意識していなかった。

 その頃、寮に部活を終えた亀井と摂津が戻ってきた。
「よし、応援いくよ」
 千葉が急かした。亀井と摂津は無言で頷いた。
 寮を出て、競技場までタクシーで向かった。
 
 運転席の隣に千葉が座り、後ろに亀井と摂津が座った。千葉は黙って外を眺めていた。すると、2人が話し始めた。
「吹奏楽部って、大会とか近いの?」
「まだ先ですよ。どうしてです?」
「だって、休みの日に練習って珍しいじゃん」
「今日は、自主練です。1年生と各パートリーダーだけ」
「へえ、1年は大変だ」
「亀井君こそ、野球部は順調なのですか?」
「さあね。個人的には、試合をしたいけど、今のチーム状況じゃ、相手が見つからないよ」
 その後も色々な話題で盛り上がった。
 ふと、亀井は以前から気になっていたことを摂津に尋ねた。
「なあ、摂津。何でお前、いつも敬語でしゃべんの?」
 摂津は、無表情で黙っていたが、やがて微笑んだ。
「敬語が好きだからですよ」
 言い終えたタイミングでタクシーが目的地に到着した。

 3000は順位を意識しないで走れたが、500は走る前からあれこれ考えてしまって、全体の17位に終わった。まあ、元々実力的に地区突破も難しかった。
 昼ごはんを食べているときに、千葉と亀井、摂津が来てくれた。
「フミカー。応援にきたよ」
 千葉が言うと、岩崎は安心した笑顔を作った。
「待ってましたよ」
「結果はどうでした?」
「うん、3000は県大会出場」
「マジ? お前すごいな」
「亀井君、私のこと見くびってたでしょ?」
「ああ、正直言うと」
 岩崎は笑った。そして、時計を見た。
「あ、ごめん。そろそろ行かないと。応援よろしくね」
「まかしといて。頑張ってねフミカ」
 岩崎は背中越しに手を振って、走り去っていった。
 残った3人は陸上部の応援に混じって、次の競技を待った。

 岩崎が出場するマイルリレーは、3年生1人、2年生1人、1年生2人の構成で、地区突破は難しいと言われている。それでも個人競技よりも枠的には可能性があるから、岩崎たちは全力を誓っている。
 マイルリレーの時間になった。岩崎は靴紐をきつく結びなおした。
 岩崎は3走目。1レースで4校ずつ走る。ここで1位、最低でも2位にならないと県には進めない。
 レースが始まった。マイルは、普通のリレーに比べて非常に順位が分かりやすい。つまり、1人1人の実力がモロに反映される。
 岩崎は、4位でバトンを受け取った。3000の勢いそのままに、序盤からとばしていった。そして、1人抜いた。さらにもう1人抜いて、バトンパスになった。だが、疲れきっていたのか、慢心があったのか、理由は分からないが4走目にバトンを渡せず、手からするりと落ちてしまった。痛恨の失格。
 岩崎は、しばらくその場から動けなかった。
                               
 帰りのバスの中、岩崎は千葉、亀井、摂津と帰ったが、ひとことも話さなかった。千葉は、それが起因して「暗い過去」を呼び起こさないか不安だった。
 寮に着くと、岩崎は真っ先に自分の部屋へ入り、ドアを閉めた。千葉は言葉をかけに行こうとしたが、突然すぐにドアが開いた。
「ふふ、どうしたの皆? 暗い顔して」
 出てきた岩崎は笑っていた。
「もしかして、落ち込んでると思った? 私がこのぐらいで落ち込んだりするわけないじゃん。3000で県大会、頑張るしかないよ」
「……何だ、落ち込んだ面を期待してたのに」
 と亀井。
「県大会も応援に行きますね」
 と摂津。
「今度こそ、ステーキ作らないと」
 と千葉。
 岩崎は曇りのない笑顔で応えた。こうして、岩崎文香の高校最初の陸上大会が終わりを告げた。競技によって明暗を分けたが、笑って次に目を向けていた。

     4

 5月5日は、何の日か読者の皆さんはご存知でしょうか? こどもの日? いえいえ、違います。虹の花学院が誇る天才バスケットボールガール、本多姫代の誕生日です。
 寮では、ささやかなパーティーが開かれていた。
「誕生日おめでとうー」
 千葉の声とともにクラッカーが寮内に響いた。本多は少し照れて、
「ありがとうございます」と呟いた。
「今日は姫っちの誕生日だから、ご飯食べたらバスケやりましょうか」
「腹いっぱいじゃ、できねーつの」
 いつも通り亀井が文句を言う。
「それに、相手にならないと思いますよ。ヒメ、相当うまいですから」
 摂津がもっともなことを言い添えた。
「なら、ヒメに決めてもらおうよ。ヒメ、何やりたい?」
 岩崎の問いに本多は、少し考える素振りをしてから、
「トランプ……かな。皆でやるなら大富豪が良いかも」
「じゃあ、そうしよう。でも、早く食べないと冷めちゃうよ」
 坂本が促し、自ら早く食べ始めた。
 食事は普段と大差なかったが、買ってきたケーキの味は絶品だった。

 食べ終えて食休みしたら、お待ちかねの大富豪をやった。言いだしっぺの本多は、1度も大富豪にならなかったが、無難に富豪と平民を往復していた。
 大富豪は毎回、変わったが、1番多かったのは亀井だった。しかし大貧民も経験した。
 弱かったのは、坂本だった。あんまり普段からやらない上に、性格的に苦手らしい。貧民と大貧民しかなれずに終わり、
「不完全燃焼だ」
 と叫んで、悔しがった。でも、笑っていたし、そこまで悔しそうでもなかった。
 大富豪の後、誕生日プレゼントが皆から本多に手渡された。千葉の物が最も大きく、背の低い本多と同じぐらいのクマのぬいぐるみだった。本多は、嬉しそうにそれを抱いて、寝た。その姿がかわいかったから、勝手に写真を撮ったりした。

 5月の終わり頃、岩崎の県大会が行われようとしていた。虹の花から県大会に出るのは、岩崎を含めてたったの3人だけ。それだけに、応援に熱がこもる。
 この日は午前から寮メンバーが応援に駆けつけていた。千葉と摂津、本多の3人。
 岩崎が走る3000メートルは、地区と同じで日程の早いほう。そのため、アップも着いてすぐにして、モチベーションを高めていった。
 時間がきた。岩崎は自分と走る人たちを順番に見ていった。どれも速いのは間違いないが、場数を多く踏んでいるだろうし、精神的に私よりも強い。それでも、岩崎は前を見据えた、諦めるにはまだ早い。やってみなければ、結果がどうなるかなんて分からない。
 スタートラインに立った。緊張感が無条件で高まってくる。
「位置について、よーい――パン!」
 号砲が聞こえた。足を前に出す。自分のペースを意識して、1歩1歩、前へ前へ進んでいく。
 ふと、逆風に押された気がした。実際に吹いたわけじゃないが、周りに比べると上手く走れないから、私の周辺だけ強い風が吹いているように感じた。
 最初は集団に混じっていたが、次第に離されていき、2000メートルぐらいで最下位に落ちた。
                               



 結局、途中で棄権した人がいたため、後ろから2番目の順位だったが、実質的に最下位だった。
「フミカ……」
 千葉が心配そうな声で近寄ってきた。
「良かった。最下位だったけど、県大会で走れてよかった。良い思い出になった。応援ありがとう」
 努めて明るく振舞った。例え演技だろうと、それで皆が安心するなら、いくらでも声を絞る。

 風邪をひいた。ひいたのは、摂津だった。
「大丈夫、マイ? 何か食べれる?」
 千葉がおろおろして看病していた。摂津は首を横に振って、意思表示した。
「コースケ、担任の先生に風邪で休むって伝えて」
「何で俺が? リョータのほうが良いでしょ」
「そんなこと言ったら、コースケが風邪のとき誰も助けてくれないよ。こういうときは、率先して動かなきゃ」
「……まあ、良いや。伝えとく」
 亀井は学校へ向かった。
 学校に着くと、真っ先に担任のところへ。
「先生、摂津、今日風邪で休みです」
「そうか、ありがとう」
 先生は、出席簿に何か書いた。
 これで良いんだろ? 寮監――。

 苦しい。頭が熱いし、体は寒気がするし、関節も痛いし、つらいよ。
「マイ、今から買い物に行ってくるから、何かあったら携帯に電話してね」
 そんなこと言わないで、ずっと側にいて。私を1人にしないで。
 ああ、寮監の背中が小さくなる。余計、つらさが増す。
 あえいでいる中、ひと筋の希望が降ってきた。目の前に坂本が現れた。
「加減どう?」
 優しくそう言ってくれた。
「サッカー部、雨がひどいから今日は休みになったんだ。他の部活はやってるみたいだけど」
 雨が降って良かった。
 坂本に優しくされている内に、うとうとと眠りの世界に堕ちていった。
                               
 こんなに苦しそうな摂津の顔を初めて見た。それ程つらいのだろう。早く帰ってきた良かった。
 ふと気付くと、摂津が寝息をたてて、眠っていた。寝顔がかわいく目に映る。よく、自宅生から、
「摂津と1つ屋根の下で過ごしてるなんて、羨ましいな」
 と言われる。摂津を恋愛対象に考えたことはないが、かわいいのは認めざるを得ない。僕が言うんだから、そうとうだよ。
 あえいでいたせいか、寝巻きのボタンが外れて、白くて眩しい胸があらわになっていた。だからといって、ここで男がとるべき行動はとらず、掛け布団を顔近くまで引っ張ってやった。
 亀井がこういう状況に直面したら、同じ事をするだろうか。それとも、逆のことをするだろうか。いや、何もしないだろうな。
 しばらく、このかわいい寝顔を眺めていよう。見てるだけで良いんだ。

 風邪は、夜に熱が下がり、翌朝には元気を取り戻していた。摂津はいつものように学校に向かっていった。
「なあ、コースケ」
 登校までの短い道のりで、坂本が亀井に尋ねた。
「摂津のこと、どう思ってる?」
 亀井は平然とした表情のまま、
「どうって……良い話し相手だな」
 と答えた。
 期待した答えが返ってこなくて坂本は苦笑したが、それでこそコースケだよ、と思い直した。

 摂津の携帯が鳴り響いた。何気なく手にとって、電話に出た。
「はい、もしもし」
「舞衣? 母さんよ」
 それは、以前のことを嫌でも思い出させた。
「――お母さん、久しぶりです」
「久しぶり、じゃないわよ。いったいどこにいるの? 帰ってきなさい」
 摂津は黙った。電話を切ろうかと思った。
「父さん、怒ってるけど、それ以上に心配してるよ」
 切ろうとした思いを取り消した。私を心配している。あの父が……。
「どこにいるの? 会いに行くから、教えて」
 摂津は迷いに迷った挙句、虹の花の場所を伝えた。
 こうなったら、皆に本当のことを話さなければならない。そう覚悟を決めた。

 その日の夕食、全員が食べ終わったところで摂津が「大事な話しがあります」と切り出した。千葉が真っ先に反応を示す。
「マイ、何かあったの?」
 その顔は、摂津が「暗い過去」を心の奥の引き出しから無理矢理、引っ張り出したのではないか、と心配していた。
「――明日、私の両親が寮に来ます。私の両親は、相馬で旅館を営んでいるんです」
 摂津の話は、こうだった。
 その旅館は、ただの旅館ではなく、歴史と伝統がある由緒正しい旅館だった。そのため、旅館の1人娘として生まれた摂津は、小さい頃から礼儀作法を学ばせられ、言葉遣いも徹底的に叩き込まれ、とにかく厳しかった。
 その厳しさに耐えかね、また他人が親から受ける愛情の美しさを知っていき、家出した。
「私は、家出してここに来たんです」
「お前も家出だったのか……」
 亀井が驚愕する。摂津は頷いて続けた。
「亀井君に前に、何で敬語で話すか聞かれましたけど、実は旅館時代の名残といいますか――自分でも不思議なくらい、敬語でしかしゃべれないんです」
「それで、打ち明けた理由は……?」
 本多が尋ねた。
「両親が私のことを許すって、言ってるから――もしかしたら、旅館に帰るかもしれません」
 その時、誰もがそれぞれの耳を疑った。
 摂津が、寮からいなくなる――?

 摂津の打ち明け話の後、皆がとった行動はさまざまだった。亀井は、
「勝手にしろ」
 と言い捨てて、部屋にこもった。坂本も、無言で部屋に入った。
 一方で、岩崎と本多はその後も残って、摂津を説得しようと試みた。
「マイ、これからもいっしょにいようよ。マイがいないなんて、淋しすぎるよ」
 岩崎が泣きそうになりながら、言った。摂津も泣きそうになる。
「せめて今年だけでも、寮にいてほしい……」
 本多が細々と呟いた。これも摂津の胸を打った。
 だが、千葉が2人の説得を止めさせた。
「これはマイ自身の大事な問題なんだよ。決めるのは、マイ。私たちがどうこう言っちゃいけないわ」
 そう言ってる千葉自身、1番彼女を引き止めたいと思っている。
 だが、やはり決めるのは、摂津舞衣ただ1人。決断の時が迫っていた。

 翌日、学校が終わった放課後の時間に摂津の両親が寮に来た。ちょうど部活の時間で、寮には摂津以外には千葉しかいなかった。
 摂津は、両親を出迎えて、中に招き入れた。千葉は挨拶だけして、寮を出た。
 久しぶりに自分の両親と向かい合った。椅子に腰掛けると、話しを始めた。
「お父さん、お母さん、お久しぶりです」
「変わりはないか」
 父親が重い口を開いた。
「はい」
「舞衣、家に戻ってくるつもりはないの?」
 母親が心配の眼差しを向けてきた。心配してくれるのは嬉しいが、寮生活を不安視されるのは癇に障る。
「ここでの生活が、とても楽しいと思っています」
 とりあえず、反応を窺がった。
「本当に、そう思っているのか?」
 言ったのは、父親だった。
「はい。これ以上にないくらい」
「なら――分かった。ここで暮らすことを許そう」
 予想外の返答に、耳を疑った。
「あなた――」
「いいんだ。娘が望んだことを叶えてやるのが、親の役目だ」
「お父さん――ありがとうございます――」
 摂津の目に涙が溢れてきた。
 もっと早く、この優しさに気付いていれば良かった。そういう後悔が含まれた涙だった。

 両親の帰り際、摂津は吹奏楽部のことを話した。
「7月の中旬に、コンクールの地区大会があるので、見に来ていただけませんか?」
 だが、父親は渋い顔をした。
「無理だ。その辺まで予約がビッシリ入っている」
「そうですか――そうですよね。無理言って、ごめんなさい」
「県大会は、いつあるんだ?」
「え……8月上旬ですけど――まだ、出れるか分かりませんよ?」
「その日は絶対に空けておくから、頑張って県大会にいけ。そしたら、見に行こう」
「分かりました。全力を尽くします」
 とびっきりの笑顔で、摂津は両親を見送った。
 そして、摂津は寮に残る決心をした。
「本当にこれでいいのね?」
 影で終始、窺がっていた千葉が言った。
「はい。後悔なんかしませんよ」

 その日の夜、摂津は皆に寮に残ることになったと告げた。
 また、愉快な6人の寮生活が始まる。彼らだけの特別な生活が続く。
 そして、季節は本格的に夏に入っていった。

     5

 亀井属する虹の花学院の野球部が、初めての公式戦を目前にしていた。いわゆる夏の甲子園を目指す、地区大会が始まる。本当は練習試合で経験を積みたかったのだが、無名校の相手を承諾してくれる高校もなく、ぶっつけ本番となってしまった。こうなれば、1年生エースの亀井に否が応でもプレッシャーがかかる。
 その亀井は、1回戦の前夜、いつもより2時間も早く布団に入ったが、あれこれ考えてしまい、起きた。
 部屋を出ると、坂本と岩崎が何やら話していた。
「リョータ、ちょっといいか」
 坂本は、亀井のほうに向き直った。
「なに?」
「寝付けないから、外でキャッチボール付き合ってくれ」
「え――いいけど、野球できないよ……?」
「キャッチボールぐらいできるだろ」
 グローブを渡して、外に出た。坂本も続いた。岩崎も見についていった。
 外は夏とはいえ、冷え込んでいた。亀井と坂本は軽くストレッチすると、外灯の下でキャッチボールを始めた。
「明日、勝てそうなの?」
 坂本が単刀直入に尋ねた。
「予想もできないな。相手はそんなに強いとこじゃないが、うちは点が入らないだろうから」
 亀井の表情は、口調のわりに明るかった。
「ま、おれが抑えるだけだ」
「……余裕だな」
「余裕っつうか、楽しみだな。自分の力だけでどれだけ甲子園に近づけるのか、ピッチャーの醍醐味だな、まさに」
「亀井君、打つほうはどうなの?」
 岩崎が口を挟んだ。
「別に普通だけど」
「打順は?」
「3番」
 4番はキャプテンの村上。
「亀井君がホームラン打って、点とればいいんじゃないの?」
「それができりゃ、苦労しないって。俺のバッティングじゃ、弱小校のピッチャーでもひと苦労するから」
 岩崎は野球のことを良く分かっていないらしく、ふうん、と言っただけだった。
 亀井は少し速めにボールを投げた。坂本は弾いた。
「速いよ。捕れないって」
「わりい、わりい……じゃあ、ありがとな。これでグッスリ眠れるわ」
 亀井は寮に踵を返した。坂本と岩崎も戻った。
 言ったとおり、その後すぐに眠りにつけた。

 翌朝、亀井は試合が行われる「いわせグリーン球場」に向かった。応援に千葉、本多、岩崎、坂本が来た。
 1回戦の相手は県立松川高校。亀井が言っていたように、強くないが、虹の花が勝てるかは微妙。
 試合が始まる。先攻は虹の花。せっかくだから、スターティングオーダーを発表。1番ショート杉本、2番セカンド小林、3番ピッチャー亀井、4番キャッチャー村上、5番ファースト遠藤、6番レフト有賀、7番センター堀江、8番サード森山、9番ライト小川。
 1番の杉本が打席に入り、審判のプレイボールが球場内に響いた。杉本は、初球を打ち上げてセカンドフライ。2番の小林は、空振り三振。ここで、3番の亀井が打席に入る。ふと、岩崎の言葉が脳裏をよぎる。ホームランを打てば、自らを助けることになる。1発狙ってみようか、亀井の手に力が入る。
 松川高校のピッチャーはストレートが速いが、コントロールはあまり良くなく、変化球も緩いカーブだけ。1球目、ストレートがきた。亀井は空振りした。2球目、またストレート。ボールになった。
 その後、ボールが2つ続いて、5球目にカーブがきた。亀井は強振した。バットがボールに当たり、快音が球場内に響いた。そして打球は、失速せずにスタンドに飛び込んだ。
「まさか、本当に自分で打つとはなあ」
 自分でもあきれるホームランとなった。
 4番の村上は、センターフライに終わった。

 1回ウラ、虹の花の守り。亀井がマウンドに上がった。亀井の武器は、マックス140キロの剛速球とキレが抜群のスライダー。フォームは非常にゆったりしている。
 1番バッターを迎えた。ストレートで追い込んで、スライダーで見逃し三振。2番は、ストレートで見逃し三振。3番は、スライダーを3球続けて空振り三振に打ち取った。
 その後、虹の花はヒットがまったく出ず、追加点なし。ただ、亀井の好投で1点リードを保ち続け、ついに最終回を迎えた。
 9回ウラ、ここまで許したヒットは1本だけ。ランナーはエラー3つで出したが、それ以外はなし。この回の松川高校の攻撃は、2番から。
 ちょっと疲れたかもな。ま、あと3人だし、気力で抑えるしかないな。
 初球、ストレートを投げたが、痛打された。打球はライトの小川の前に落ち、ランナーが一塁に出た。
 3番には、初球にスライダーを投じたが、バットに当てられ、セカンドに転がった。しかし、セカンドの小林がダブルプレーをとろうと思って焦ってしまい、打球を弾いてしまった。これでノーアウト一、二塁とピンチが広がった。
 ここで4番。ここまで全て三振。初球、いきなりバントの構えをし、セーフティバントをしてきた。亀井が落ち着いて処理したが、ランナーが二、三塁に進んだ。
 5番を迎えたところで、この試合初めて内野陣が集まった。
「スクイズもあるかもしれない。ベースカバーは、絶対に忘れるなよ」
 キャッチャー兼キャプテンの村上が促す。亀井は黙ってうつむいていた。
「無理して点を防ぐ必要はない。捕ったら、ランナーがこけないかぎり、ファーストに投げろ」
「おう!」
 ファーストの遠藤、セカンドの小林、サードの森山、ショートの杉本が声を揃えた。亀井は黙って頷いた。
 守備が元に戻った。1アウト二、三塁。亀井は、集中力を高めていった。
 6番バッターに対して、初球にストレートを投げた。空振り、少し球威が戻ってきた。2球目、再びストレート、見逃し。3球目、決め球のスライダー。ストライクからボールになって、バッターの空振りを誘った。3球三振。2アウトとした。あと1人。あと1人で、勝利だ。
 バッターは7番。彼が松川高校の初ヒットを打っている。初球、スライダー。見逃しで1ストライク。2球目、ストレート。ボールになった。3球目、スライダー。これもボールに。4球目、カウントを整えようと投げた甘いストレートを打たれた。
 打球はレフトに上がった。レフトの有賀がグローブを構えた。これで試合終了、誰もがそう思ったが、日差しが目に入り、有賀は打球を落としてしまった。ボールが転々とする間、2人のランナーがホームに帰ってきた。
 亀井はマウンド上で膝をついた。

 その日の夜、寮に村上と有賀が訪れた。亀井の部屋にいって、中に入れてもらった。
「亀井、俺が悪かった」
 有賀は真っ先に謝った。
「先輩、先輩のせいじゃないですよ。打たれた俺が悪かったんす……」
「亀井」
 村上が優しい口調で言った。
「俺も有賀も他の3年も、今日で引退なんだ。だから、今日は本当は謝りに来たわけじゃなかったんだ」
 亀井は意味がよく理解できなかった。
「甲子園を夢見させたお前に、恨み言でも言おうかと思っていたんだ」
「………」
「だけど、やっぱり、お前のお陰で高校生活最後の最後に、やっとまともな試合ができた。ありがとう」
 村上が軽く頭を下げた。有賀も、ありがとう、と言いながら頭を下げた。
「お前に甲子園の夢は託すよ。来年でも、再来年でもいいから、虹の花をお前の手で甲子園に導いてくれ」
 村上の言葉は力強いものだったが、それに反して表情は今にも泣き出しそうだった。思わず亀井も泣きそうになる。
「……はい。絶対に甲子園へ……」
 結局、涙をこぼしてしまった。それを合図に村上と有賀も涙を流し始めた。
 この涙が晴れる頃には、甲子園に架かる虹の橋が姿を現すだろう。

 摂津にとって、幸いなことに虹の花の吹奏楽部は県大会の常連だった。加えて、全国大会にも数年に1度出場している。今年も問題なそうなため、摂津の親が見に来る県大会はいけるだろう。
 吹奏楽部は、フルートやホルン、クラリネット、トランペット、サックス、トロンボーン、チューバなどの楽器があるのはもちろん、その各楽器ごとにパートリーダーがいて、そのパートリーダーの1人が部長である。今の部長は、サックスのパートリーダー鈴木が務めている。
 摂津が属するフルートのパートリーダーは、榎本という3年生。
 ある日、摂津は練習中に同じフルートで1年生の小野地と話していた。
「今年は、どこまでいけるかな?」
「県は問題ないと思いますけど、全国が難しいですね」
 小野地は、摂津の敬語についてつっこんだことがない。
「だよね……鈴木部長とか、榎本先輩とかすごい人もいるけど、全国の高校となったら、先輩ぐらいがいっぱいいるからね」
「何言ってるの。今年は全国いけるよ」
 いつの間にか、2人の背後に榎本が立っていた。
「先輩――」
「本当だって。セレナーデの完成度はかなり良いよ」
 セレナードとは、虹の花のコンクールでやる自由曲「ムーンライト・セレナーデ」のことである。
「ですが先輩、課題曲はちょっとキツイんじゃ――」
 今年のコンクールの課題曲は「ネストリアン・モニュメント」という。これは提示された5曲の中から選んだのだが、最後まで曲決定に時間がかかってしまい、あまり充分な練習時間がとれていなかった。
「大丈夫、地区大会で上手く調整していけば、県と全国で最高の演奏ができるよ」
 榎本の言葉に小野地は頷いたが、摂津は浮かない顔をしていた。
 皆、地区は余裕だと思ってるけど、この油断は命取りになるんじゃないかな……。

 摂津の心配をよそに、地区大会がやってきた。会場は、福島県文化センター、という所だった。
 虹の花の演奏順は、最後から3番目。次第に緊張感が高まってくる。
 そして、出番がきた。摂津らの面々がステージに上がった。そして、課題曲ネストリアン・モニュメントから始めた。
 これがひどかった。トランペットが最初の方で早出すると、それにつられて他のパートもつまずいてしまい、演奏はぐだぐだになってしまい、鈴木がわざと大きな音を出して落ち着かせるまで、ひどい状態が続いた。
 それとは対照的に、自由曲のムーンライト・セレナーデは完璧な仕上がりだった。速さもバッチリ、ソロもミスなし。観衆の心を打った。
 そして、結果発表の時間が到来。例年なら普通に座って結果を聞くところだが、今年は誰もが両手を握って、お願い、と呟いていた。
「――虹の花学院高等学校」
 首の皮がつながった。県大会出場可能ラインギリギリのところだったが、なんとか通過した。
 
 ホント、危なかったです。摂津は帰り際、いろいろと考えていた。ウチなら心配ないと思いましたけど、こんなに苦戦するとは……でも、お父さん、お母さんに私の勇姿を見せるまで、負けるわけにはいきませんでしたから、良かったです。
 でも、こう考えることもできます。今回のできでも県大会に進めるぐらいなら、課題曲ネストリアン・モニュメントをこれから完璧に仕上げていけば、鈴木部長が言うように全国にいけるかもしれません。
 とはいえ、もう油断や慢心は抱いちゃいけませんね。今年の虹の花は挑戦者のつもりでコンクールに臨まないと、また痛い目にあいますから。

 その日の夜、摂津は寮の外に出てフルートの練習をしていた。
「次も負けんなよ」
 途中で亀井が見に来た。
 摂津は頷くと同時に、自分の胸の高鳴りに気付いた。もしかして、これって恋……?
     
     6

 学校が夏休みに入った。寮生たちは、色々と夏休みの計画を立てていた。
「夏休みの予定、皆教えて」
 場を仕切っているのは、岩崎。
「7月26日、サッカーの試合」
 坂本が言った。
「それ以降は?」
「勝ったらあるけど――結果次第で、また予定書き足してくよ」
 岩崎がメモ帳に坂本の予定を書いた。
「他は?」
「吹奏楽の県大会が8月5日」
 摂津が言った。
「全国は夏休み中じゃ、ない?」
「うん、10月です」
 予定を追筆した。
「バイトは?」
「僕が7月26日なんだけど、試合あるから、誰か代わって」
 坂本が頼むと、摂津が応えた。
「いいですよ。私が代わります」
「ありがとう」
 2人のやりとりを聞いて、岩崎がメモ帳に、7月26日摂津バイト、と書き足した。
「じゃあ、8月2日は坂本にチェンジで」
 岩崎が言うと、坂本が頷いて、またメモ帳に書き足した。
「俺、8月9日」
 亀井が言った。
「オッケー……8月16日は――私か」
 岩崎は自らの名をメモ帳に記した。
「私、8月23日」
 本多が言った。
「8月23日、ヒメ……と。24日は、マイの誕生日だね」
「あ、すっかり忘れてました」
 摂津が笑った。
「8月30日、坂本とマイ、どっちにする?」
「僕がやるよ。順番、元に戻した方がいいでしょ?」
「じゃあ、決まり」
 岩崎がこれで終わり? と周りを見た。
「8月13日に夏祭りが近くであるけど、皆で行かない?」
 千葉がようやく口を開いた。
「おお、いいですね。行きましょう。じゃあ、予定に書いときます――ってか、寮監は、実家帰らなくていいんですか?」
 千葉がそんなこと考えてなかった、という顔をした。
「そしたら、その間の家事はどうするの?」
「5人で協力してやりますよ。1週間ぐらい帰ったらどうです?」
 千葉は少し考えてみた。家事はおそらく、問題ないだろう。それに、卒業してから両親には電話でしか話していない。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな。8月6日から12日まで」
「はい、分かりました」
 岩崎は千葉の予定を書き加えて、それを皆に見せた。
                               
 7月26日 坂本、サッカー試合 マイ、バイト
 8月2日 坂本、バイト
 8月5日 マイ、吹奏楽の県大会
 8月6日 寮監、里帰り
 8月9日 亀井君、バイト
 8月12日 寮監、帰寮
 8月13日 夏祭り
 8月16日 私、バイト
 8月23日 ヒメ、バイト
 8月24日 マイの誕生日
 8月30日 坂本、バイト

 試合の前日、サッカー部の練習があった。坂本はいつもどおり学校に行って、グラウンドに出た。すると、いつもと違う空気が流れていた。
「部長、何かあったんですか?」
 部長の伊藤に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「永井が怪我したって……家で階段から落ちて……試合には間に合わない……」
 永井とは、めっちゃ上手いトップ下の司令塔である。ウチの精神的支柱が伊藤部長なら、技術的には永井だった。
「そんな……」
 坂本は言葉を失った。
「坂本、代わりに明日の試合はお前が出ろ」
「僕が……そんな、無理ですよ」
「分かってる、でも頼む」
 とんでもない代役を任されてしまった。

 坂本のポジションは、永井と同じトップ下。サッカー部には、この2人しかいない。だから、出る予定のなかった試合に坂本が出ることになった。
 しかし、実力者の代わりとなれば、求められる成果のハードルが自然に高くなる。負ければ、坂本のせいに簡単にされてしまうだろう。
 それでも、坂本はこれを前向きにとらえることにした。いずれ3年生が引退すれば、永井の代わりになるはずだったし、何より試合に出られるのだ。1年生で試合に出られるのは、坂本だけだ。
 明日は、自分にできることを全てやってやろう。坂本は、胸にそう誓った。
                              
 夜を迎えた。部屋で明日のイメージトレーニングに勤しんでいると、亀井が訪ねてきた。
「よお」
「やあ、コースケか。入れよ」
 亀井は部屋の中へ。
「どうしたの?」
「いや――明日、試合だから緊張ほぐしてやろうと思ってな」
 珍しいこともあるもんだ、と思いながらも坂本は安堵した。誰かと話していれば、緊張は確かにほぐれる。
「コースケの気持ちが分かった気がするよ」
 坂本が切り出した。
「試合の勝敗を左右する立場に立たされたら、すごい興奮して、眠れる気がしない」
 亀井は軽く頷いてから、
「俺のほうが大変だろ」
 と答えた。
「サッカーはさ、そんなに詳しくないけど、11人もいて、しかも協力しやすいんだろ。野球は、ピッチャーの出来が大きく影響するから」
「――まあな。言いたい事は分かるよ」
 坂本は両手を上げて、伸びをした。
「俺がさ、何で司令塔のポジションを選んだんだと思う?」
 そう言うと、亀井は首を無言で傾げた。
「好きな選手がいるとか?」
「いや――確かに、好きな選手は司令塔だけど、きっかけは違うんだ。実はさ――」
 坂本がおもむろに語り始めた。

 翌日、郡山高校で虹の花の1回戦が行われた。トップ下のポジションには、エースの代役、坂本諒太がいた。
 審判の持つホイッスルとともに試合が開始された。
 実はさ、坂本が語った。俺の両親、もうこの世にいないんだよね。4歳ぐらいの時に母親が病気で亡くなって、その10年後に父親が自殺した。10年間、けっこう頑張ってたんだけど、まさか自殺するとは思わなかったな。こどもの俺に詳しいことは話してくれなかったけど、職場のごたごたが原因らしい。
 淋しかったよ、そりゃ。母親のときはひと晩中泣いてたし、父親の死は、かなりショックだった。俺も死のうかと思った。でも、死ななかった。いや、死ねなかった。そんな勇気なかった。包丁持っただけで、手が震えて、いうこと聞かなくなっちまった。
 その後、伯父の家に引き取られたんだけど、何か気遣わしちゃって、家族の雰囲気を乱したような自責の念に駆られて、それでここに来ることに決めたんだ。
 寮に入って、良かったと思ってる。心の底からそう思う。仲間たちと過ごす時間は、今までで1番充実している。
 本題に戻すけど、何で司令塔になったかと言うと、父親が中学・高校でサッカーやってて、司令塔だったんだよ。それで、自殺する2か月前ぐらいに2人でサッカーしたとき、思えばあれが最後のサッカーだったな、その時に父親が
「諒太、司令塔になって、俺を国立に連れて行ってくれよ」
 って、言ってたんだ。その言葉が忘れられなくて、そして司令塔になったんだ。
 もしかしたら、司令塔は俺に向いていないのかもしれない。でも、誰が何と言おうと、俺は司令塔を続ける。いつかレギュラーをとって、天国の両親に国立競技場のピッチに立つ姿を見せてやりたいんだ。
 別に、同情とかはいらないけど、ただ、俺の司令塔をやる決意の強さは分かってほしい。

 試合は、1―3で敗れた。しかし、奪った1点は坂本のアシストで、誰も坂本のせいで負けたとは言わなかった。
 欠場した永井も、
「よくやってくれた」
 と坂本の頑張りを讃えた。
 虹の花のサッカー部は、史上初めて1回戦負けとなったが、悔しさも確かにあったけど、満足感の方が強かった。
 その日の夜、サッカー部は悔しさを晴らすため、学校の近くのファーストフード店で打ち上げを開いた。そして、これまた史上初めてとなる、坂本の帰寮時間遅れがあった。

 それから数日後、摂津の県大会が迫ってきた。摂津は部活だけじゃなく、寮でも暇さえあればフルートの練習を積み重ねていた。
 そして、前日を迎えた。午前中に部活があるため、摂津は学校に向かっていた。
 学校に着くと、音楽室へ進んだ。音楽室では、来た人から鈴木部長を待つことなく自主練を自発的に始めていた。地区大会の失敗に、多くの部員が危機感を抱いていた。
 やがて鈴木が来て、練習の音が止まった。
「ちょっと聞いて。明日、本番だから、今日は全体の合わせしかやりません。個人的にレッスンしたい人は、終わってからにして」
 皆が頷く。
「じゃあ、隊形に並んで、ネストリアン・モニュメントから始めます」
 鈴木の指示で、吹部部員が綺麗に並んだ。
 全体練習が正午まで続き、疲れきったところで部活が終了となった。摂津は音楽室に小野地と残って、パートリーダーの榎本の個人レッスンを受けることにした。
「今年の1年は頼もしいね。これなら、安心して引退できるよ」
 榎本は人当たりの良い笑顔でそう言った。
「引退するのは、嫌ですか?」
 摂津が思わず口にした。
「まあ、嫌じゃなかったら、3年間も頑張れなかったね。フルート、好きだし」
「大学でやらないんですか?」
 今度は小野地が尋ねた。
「やると思うよ。でも、大学いけるか分かんないし、吹奏楽できる環境かどうかも……だとしたら、趣味で続けようかな」
 榎本の表情は明るかったが、言葉に寂しさが少しこもっていた。
 それを察した摂津が、同情から涙をこぼしそうになった。
「ほら、じゃあ練習始めよう。どっちからやる?」
 榎本の問いに、摂津は自分の今の感情を悟られないように、できる限りいつも通りで、
「ムーンライト・セレナーデで」
 と答えた。

 その頃、寮では。今日の寮は、摂津以外が全員いて、しかも摂津も学校にいるから、ほぼ全員集合。
 時計の針が3時を回った。千葉が、皆を居間に呼んだ。
「何だよ、寮監」
 亀井が不満そうに来た。
「今日はおやつにホットケーキを作ってみました」
 千葉が得意げにホットケーキを掲げて、言った。
「おー、おいしそう」
 岩崎が嬉しそう。
「いっぱい作ったから、どんどん食べて」
「いただきまーす」
 坂本と本多、岩崎が声を揃えて言い、食べ始めた。亀井も嬉しそうに目を輝かせていた。
 5人で食べていると、摂津が部活から帰ってきた。
「ただいまです――わ、いい匂い」
「マイもホットケーキ食べな」
 摂津は洗面所で手を洗うと、テーブルの輪に加わった。
「舞衣さん、もう準備万端なの?」
 本多が吹奏楽部のことを聞いた。摂津は頷いて、
「バッチリですよ。今年は絶対に全国にいけます」
 と自信を見せつけた。
「明日なら、皆で応援にいけるね」
 岩崎が言った。
「何か僕まで緊張してきたな」
 と坂本。
「何でだよ。県の雰囲気なら、岩崎の陸上大会で味わったろ」
 と亀井。
「あれは全国の可能性が低かったから」
 と岩崎。
「今回は全国いけるかどうか、ギリギリのところだから」
 と本多。
「にしても、全国いったら何年ぶりだろ……3年ぶりかな」
 と千葉。
「え、そうなんですか?」
 と摂津が驚く。
「私が1年の頃に全国いって、全校生徒の前で表彰されてたよ」
「そうだったんですか……」
 つまり、鈴木や榎本ら現3年生は、全国にすれ違いでいっていない。
 このまま卒業したら、悔しさしか残らないだろう。それなら、私にできる限りの事をして、全国にいこう。先輩たちのためにも、自分のためにも。そう、摂津は心の中で誓った。
 
 そして翌朝、摂津は県大会が行われる「いわき芸術文化交流館」に向かった。応援には、千葉や亀井、本多、坂本、岩崎ら寮生組、それに来ることを約束していた摂津の両親もちゃんと来ていた。
 摂津の決意に満ちた県大会が、開幕した。
 
     7
    
 会場の外は雨で、空が滲んでいた。本多は外を眺めようと立ち止まった。
 雨を見ると、あの日のことを思い出す。嫌でも思い出してしまう。あの時、私は1歳未満だったから、記憶があるはずないのに、あの日は曇天だったことだけ覚えている。
「姫っち、置いてっちゃうよ」
 千葉の声がした。
「はい、今行きます」
 本多は小走りで追いついた。

 摂津の緊張は、さほどでもなかった。だが、小野地の緊張がやばかった。さっきからトイレを行ったり来たりの繰り返し。摂津は心配で、それに毎回、付き添っていた。
「小野地、大丈夫ですか?」
「……うん」
 返事がか細い。そして、もう時間がない。
「もう時間ないから、行かないと」
 だが、小野地から返事はなかった。
 しばらくして、ようやく返事がした。
「何でマイは、そんなに平気そうなの?」
「え……何ででしょう」
 両親のことや、先輩のことを絶えず考えているから、とすぐ答えが浮かんだ。
「他のことを色々、考えているからかな」
「……私はさ、人前に出るのが苦手だから、ずっと逃げてきた。最初のうちは、逃げても許された。慰めてもらえた。でも、だんだん逃げられなくなっていった。高校に入ったら、逃げることなんてできるはずもない――だから、緊張がやばい――動悸が止まらない――逃げないで戦ってくれば、こんなことなかったのに……」
 摂津は困った。こういう時、なんて言葉をかけてやれば良いか分からない。とりあえず、思いつくままに言ってみた。
「別に、誰もが逃げずに戦ってきた訳じゃないですよ。全部じゃないですけど、逃げはあります――そりゃ、私だって――でも、逃げちゃダメなときがあるんです」
 小野地は黙って聞いていた。
「女にはやらなきゃいけない時があるんです。そして、それが今です」
 まだ反応がない。
「いっしょにがんばりましょうです」
 そこに、榎本が駆け込んできた。
「摂津、小野地もいる? もう時間ないよ」
 摂津はしかたなく、小野地を置いていこうとした。すると、ドアが開いた。
「大丈夫です。私もいけます」
 小野地が力強い目で訴えた。
「マイ、いっしょにかんばろう」
 摂津は笑顔で頷いた。

 虹の花の演奏時間になった。すでに摂津らは舞台に上がっている。摂津は、隣の小野地を見た。すると、笑顔で頷いてくれた。
 顧問の福田が指揮台に立った。その先に、摂津の両親と寮の仲間たちを見つけた。彼らに良い演奏を聴かせてみせる。
 課題曲のネストリアン・モニュメントが始まった。その間、私は夢中だった。最初は小野地を気にかけていたが、途中から夢中になった。自由曲のムーンライト・セレナーデのときは、演奏を楽しむ余裕すらあった。
 演奏が終わると、もう終わりか、とすら感じるぐらい満足していた。そして、地区大会よりも大きな拍手に包まれながら舞台を下りた。

「良かったよ、マイ」
 岩崎が会って、真っ先にそう言った。
「ありがとうです」
「摂津、何か嬉しそうと言うか、楽しそうと言うか、とりあえず良かったよ」
 と坂本。本当に楽しんでいた。
「いやー、3年前の代よりも迫力があったと思うよ」
 と千葉。
「でも寮監、3年前の演奏は見てないんじゃ……」
 と本多が痛いところを突く。
「練習は聴いてたから、それと比べて、ね」
「……ったく、当てになんねーな」
 と亀井がとどめを刺すと、亀井は摂津に近づいて、耳元に口を寄せた。
「お前の両親が入口で待ってる。早く行って、話して来いよ」
「――うん、ありがとう」
 摂津は小走りで入口に向かった。
 亀井はその背中を見つめた。

 入口には、2人が待っていた。少し緊張した。
「お父さん、お母さん、見に来てくれてありがとうございます」
「とっても良かったわよ。これなら、全国にいけるでしょう?」
 摂津母が興奮気味に言った。
「まだ断言はできないけど、自信はあります」
「全国も応援に行くからね」
「えー、東京ですよ」
「東京なんて、今時、近いところよ――ほら、あなたも何か言ってあげれば?」
 摂津母が摂津父に話しを振った。咳払いをしてから、
「舞衣、普段も敬語で話しているのか?」
「え……はい、そうですけど……」
 意外な質問だった。
「それじゃあ、何かと不便だろう。もう旅館にいないのだから、無理して使う必要はないだろう。これからは普通に――」
 そこに、心配で様子を見に来た亀井が通りかかった。亀井は、とっさに壁の後ろに隠れて、話しの内容を盗み聞きした。
「違うんです」
 摂津が父の言葉を遮った。
「別に、無理してる訳じゃないんです――私にとって、敬語は――私と旅館を、お父さんとお母さんをつなぐ証だと思っていて――だから敬語をずっと使っているんです」
 摂津父は、雷に打たれた気分だった。
「――私、会場戻らないと。これから結果発表ですから」
 摂津は足早にその場を去った。
 そして、入ってすぐで亀井にぶつかった。
「――もしかして、盗み聞きしてました?」
「あ、ああ、悪い、心配になって……」
 摂津はふう、とため息をついて、亀井の背中を押していった。
「は、何すんだよ」
「今、悩んでるから、ちょっと相談に乗ってくれませんか」
「結果発表はどうすんだよ?」
「それどころじゃないです」
「いや、普通に結果の方が――ま、いいか」
 亀井は乗ってやることにした。
 摂津が押していった先は、使われていない小さな個室だった。有名な演奏家専用の控え室として作ったが、ほこりっぽい所を見ると、最近は有名な人が来ていないらしい。
 摂津と亀井は小さな正方形の机に向かい合って座った。
「相談って、敬語の話?」
 亀井が切り出した。
「うん……」
「敬語をずっと使ってて、クセになっちゃったのが理由じゃなかったんだな」
「あんな話、皆にしてもしょうがないでしょ」
「まあ、そうかもな」
「それで、亀井君的にはどうすれば……」
「どうすれば良いかって? 決まってんだろ、敬語やめれば良いんだよ」
 亀井の投げやりな言い方に、摂津はちょっと腹を立てた。
「でも、敬語は私と家族をつないでいる証なんです。まったく、亀井君に相談するんじゃなかったです」
「敬語がなけりゃ、家族とのつながりはなくなるのか? それっておかしくなーか?」
 摂津は言葉に詰まった。言われてみれば、そうだった。
「家族って、そう簡単に切れるような関係じゃねーだろ? おれだって、家出しても親の存在の大きさは変わらねーぞ」
 摂津は納得してしまった。答えは、案外さっぱりしていた。
「えっと……」
「何だよ、まだ何かあんのか?」
「いや、納得しちゃって……」
 亀井はあきれた。
「ったく、だったら、早く結果聞いて来いよ。もう出てるかもしんねーぞ?」
「うん、行ってくる。ありがと、亀井君」
 摂津は走って、個室を出た。
 亀井はまたあきれた。もう敬語やめてるし。ホントにこだわりあったのかよ。ま、これであいつも元気になるだろ……って、何考えてんだ、おれ?

 摂津はギリギリのタイミングでホールに駆け込んだ。小野地が、急いで、と口を動かして摂津を手招きした。摂津は小野地の隣に座った。
 舞台上のメガネをかけたおばさんが、
「それでは、優勝校を発表します」
 と言った。本当にギリギリだった。摂津は両手を握って、額に押し当てた。
「優勝は――虹の花学院高等学校です。おめでとうございます」
 歓声と悲鳴が交錯した。もちろん、虹の花は歓声に包まれた。摂津も感動のあまり涙を見せた。
 鈴木と榎本が代表して、表彰状とトロフィーを受け取った。そして、それを高々と掲げた。また、歓声と拍手が湧き起こった。

 摂津は、閉会式のあとに再び両親に会いに行った。
「お父さん、お母さん」
 2人が振り向いた。
「私、決めました。いや、決めたよ。もう敬語は使わない」
 摂津が心に誓っていたことだった。
「だって、そんな事しなくたって、私とお父さん、お母さんはつながっているから。だから、離れて暮らしても、これからも家族としてよろしくね」
「舞衣……そうか、そうか」
 摂津父は、喜びに満ちた表情をしていた。
「だが、先生や寮監には、ちゃんと敬語を使うんだぞ」
「やだ、そんなの分かってるよ」
 そして、3人で笑いあった。
 心地よい風が吹いてきた。夏の暑さを忘れさせる。
「じゃあ、全国に応援に来てよ。約束だからね」
 と言うと、摂津は仲間たちの方へ駆けていった。
 その後姿を見ながら、
「舞衣があんなに活き活きしているのを見るのは、久しぶりだな」
 と摂津父が呟いた。摂津母は、
「そうね……」
 と相槌を打った。

     8

 坂本は朝、目覚めて寮内を見渡して、いつもと違う雰囲気が漂っていることに気付いた。そうか、坂本は思った、もう出かけたのか、寮監。
 亀井が起きてきた。
「リョータ、おはよー」
「ああ、おはよう。今日はいつもと違うね」
「寮監いないからな。ま、何だかんだいって、寮監もまだ子どもだし、トラブルメーカー的なところあるからな」
 亀井は台所に入って、置いてあったパンをつまみ食いした。
 次に摂津が起きてきた。
「おはよ。朝ごはん、作らないと」
 千葉がいない間、食事は摂津が全て担当することになった。本人も県大会が終わって、部活が忙しくなくなったから、暇つぶしにちょうどいい、と乗り気だった。
 洗濯は、各自でやることにした。
 摂津が料理を作り始めると、岩崎が起きてきた。
「おはよー、皆。早起きだね、夏休みなのに。まあ、お姫様はまだ寝てるけど」
「はは、部活遅れるかもしんないから、起こしてこようか」
 と坂本が言って、本多の部屋に入った。
「寮監――」
 亀井が呟いた。
「そろそろ着いたかな……」
 その目は、ちょっと淋しそうだった。

 千葉の実家は、虹の花からけっこう離れた場所にある。電車を使って、1時間かかった。それでも、福島県内。田んぼや畑が広がる、いかにも田舎という所だった。千葉彩乃は、そこで育った。
 家に着くと、あれから全然、変わってなくて安心した。田舎ほど、変化を恐れる所はない。
 インターホンを押すと、これまた変わらぬ千葉の母親が出てきた。
「よく来たね。さ、中さ入りな」
 千葉は言われるままに従った。
 中に入ると、5人の男女が出迎えた。父親の和真、長男で高校2年生の修一、次女で高校1年生の綾羽、三女で中学3年生の彩夏、次男で中学1年生の修二。千葉は長女で、兄弟で1番年上。母親の名は、遥風。計7人という大家族。そんな中で育ったから、千葉は寮監に向いていた。
 食卓を囲むと、千葉は質問攻めにあった。寮監になったこと自体、ちゃんと報告していなかったから、尚更だった。寮生って何人ぐらいなの? 5人だけなんだ、じゃあ兄弟の相手してるのと変わらないね。料理できんの? へえ、たいしたもんだ。お母さんみたいじゃん。というか、何で寮監になったの。え、大学受験落ちたから?
ちょっと、それ聞いてないわよ。だって、色々あって。
 話は尽きなかった。千葉は人知れず、家族の暖かさに久しぶりに触れて、心が暖まっていた。

 次の日、農作業に出かけた和真と遥風、それから長男の修一以外の3人と祖父母の墓参りに出かけた。
 そこへ続くあぜ道で、かつての思い出が脳裏に甦った。あの秘密基地で兄弟5人で隠れてたなあ。あの丘の上で、よくご飯食べたっけ。この先の橋の上で、好きな人に告白したなあ。失敗したけどね。勇気あったな、あの時は。あれ、あのお地蔵さん、ちょっと場所が変わってる。確か、翌日に場所が変わるって、皆を怖がらせてたっけ。あの犯人、私だったんだよなあ。誰にも言ってないけど。あ、リコには言ったかな。
 墓に到着した。
「そろそろ父さん、母さんもここに入るかな」
 次男の修二がサラッと言った。次女の綾羽がしかった。
「不謹慎なこと言わないの」
「ってか、修二、もうパパ、ママじゃないんだね」
 と千葉がからかった。
「いつの話しだよ。とっくに変わってるっつの」
「でも、寝言はパパー、ママー、って夜な夜なうめいてるよ」
 三女の彩夏もからかった。
「うそ!」
「うそ」
「……うそかよ。うぜーな」
「はいはい、その辺にして、お祈りしよう」
 綾羽が促すと、全員が掌を合わせた。
 千葉は心の中で話しかけた。おじいちゃん、おばあちゃん、久しぶり。2人で仲良くやってる? おじいちゃん、お酒はほどほどにしなよ。おばあちゃんに心配かけちゃダメだからね。
 私、今、高校の学生寮で寮監やってるんだ。すごいでしょ。でも、失敗も多くて、皆に迷惑かけてるけど、楽しくやってるよ。寮監になって、本当に良かったと思ってる。大学に行ったら、味わえなかった日々が、あそこにはあるよ。
 また、来るから、それまで2人で仲良くしてて。
 千葉は立ち上がった。
「じゃあ、帰ろうか?」
 その言葉に頷いて、家への帰路を進んだ。

 亀井にとって、夏休みにテレビで甲子園を見ることは、あまり良い気分じゃなかったが、ライバルの実力をチェックするためにも、できるだけ見るようにしていた。
 坂本は、サッカー以外の趣味は読書ぐらいしかないので、本屋で小説を買っては、それを読みあさっていた。
 岩崎は、駅伝の予選が10月にあるため、この時期を体力作りの期間と位置づけ、毎日走りこみを続けていた。
 本多も部活に汗を流し、冬のバスケットボール大会に向けて必死に練習をしていた。
 摂津は、流行の曲や昔の名曲をフルートで吹いて、寮内にBGM代わりに響かせていた。
 そんな時、寮の玄関のベルが鳴った。真っ先に坂本が反応し、ドアを開けた。開けると、約1週間ぶりの顔が、つまり千葉がいた。少し日に焼けていた。
「お帰りなさい、寮監」
「ただいま。こっちは大丈夫だった?」
「はい、食事は摂津がよくやってくれました」
 と坂本が言うと、摂津はフルート片手に笑顔で応えた。
「ありがとね、マイ。明日からはちゃんとやるから」
「えー、摂津のままで良いんじゃね?」
 と亀井がいたずらっぽい顔で言った。
「そんなこと言って、本当は私の手料理が恋しいんでしょ?」
「は、そうでもねーよ」
 亀井は笑った。千葉も笑った。
 この寮の雰囲気も家族と違って、また良い。私は幸せものだな、千葉はそう感じた。

 千葉が寮に帰ってきた翌日、虹の花の校庭で行われる夏祭りに6人で参加した。夏祭りはけっこう盛大で、かなり大勢の客が来るし、出店も多い。
 まず、遊ぶことにした。射的をしたり、金魚つりをしたり、ヨーヨーつりをしたり、輪投げをしたり、とにかく楽しんだ。
 次いで、食べ回ることにした。たこ焼きや焼き鳥、わたあめ、やきそば、ラムネも飲んだ。
 途中で、本多の携帯電話が鳴った。
「もしもし。はい――はい――」
 何やら話していた。
 電話が終わると、5人に向き直って、
「ごめん、八木沼先生に呼ばれたから、ちょっと行ってくる」
 と告げた。そして、人混みの中を駆けていった。
「何だろうね」
 摂津が不思議がった。
「さあな。部活のことじゃね」
 亀井が答えた。
「……そうだ、金魚とかヨーヨー邪魔だから、寮に置いてこようか?」
 岩崎が提案した。
「おれも行くよ」
 坂本が言った。2人は全員分の金魚とヨーヨーを持って、寮に歩いていった。
 ふいに、千葉の背後に3人の女性が近づいてきた。
「やっほー、アヤノ」
 千葉は驚いて、振り向いた。
「リコ――それに、レイコとマナまで。来てたんだ」
「久しぶりだね。変わってないな、アヤノは」
「そう? 寮監になって、老けた気がする」
「ははは、なるほど」
「ねえ、せっかくだから、4人で飲もうよ」
 マナの手にはビールが握られていた。ちなみに4人とも、まだ未成年。
「いいよ」
 千葉は快諾した。
 そして亀井と摂津の方を向いて、
「という訳で、ちょっと行ってくるから、2人で回ってて」
 と告げて、千葉までいなくなってしまった。

 残された2人は、しばらく動かなかった。
「どっか、行きたいところある?」
 亀井が口を開いた。摂津は人差し指をあごに当てて、考えるそぶりをした。
「じゃあ……屋上いってみる?」
「屋上?」
 亀井は意外な答えに驚いた。
「友達に聞いたんだけど、屋上から盆踊り見ると、花みたいで綺麗なんだって。行ってみよう?」
 すっかり敬語じゃないな、と亀井は思いながら、その案に賛成して、2人で学校に忍び込んで、屋上に向かった。
 屋上に上がると、見やすいところに座って、下を眺めた。確かに、見応えがある。その中には、いつのまにか戻ってきた岩崎と坂本や、旧友といっしょの千葉もいた。
「あ、踊ってる。ぷ、寮監、動きが逆」
 摂津が笑った。その笑顔を見て、亀井の胸がきゅっと苦しくなった。
「――ねえ、亀井君」
 摂津が下を見つつ、話しかけた。
「あ?」
「亀井君って、好きな人いる?」
 亀井は質問の心裏を図りかねた。
「別に……」
「別に、どっち?」
「いない――何でそんなこと聞くんだよ?」
「うーん、なんとなく気になっただけ」
 その後、しばらく沈黙が続いた。摂津は盆踊りを嬉しそうに眺めていた。亀井もそっちを見つつ、たまに摂津の顔をちらちら見た。
 風が吹いてきた。雨が明日、降ると出発前に見てたニュースの天気予報であった。もしかしたら、それの前兆かもしれない。亀井は脈絡のないことを考えた。さっきの摂津の問いは、どういう意味だったのだろう。本当に、なんとなくか? それとも――。
 さっきは言えなかったけど、おれの好きな人は――。
「亀井君?」
 摂津の呼びかけで思考がストップ。
「大丈夫? 何か、ボーっとしてたけど」
「ああ、大丈夫」
 亀井は立ち上がった。
「そろそろ行くか」
「うん、そうだね」
 摂津も立ち上がった。
 突然、強風が2人を襲った。
「きゃあ」
 摂津は慣れない浴衣とゲタだったため、倒れそうになった。亀井が反射的に摂津を抱きかかえた。
 時間が止まったようだった。2人の視線がぴったり合って、しばらくその状態が続いた。
 亀井が摂津から手を放すと、ようやく視線がはずれた。だが、心臓の鼓動は高ぶったままだった。

 本多は八木沼に呼ばれて、校門の前に来ていた。八木沼の隣には、どこかで見たことがある少女がいた。
「先生、何の用ですか?」
「おう、悪いな。こいつがどうしても、お前に1度会っておきたい、って言うもんだから」
「こいつ……?」
 本多は改めて彼女を見た。背丈は本多と同じぐらいで、髪型も似ている。顔は、本多に比べると、やや目が細い。いつも笑っているみたいだ。
 そして、本多は思い出した。目の前の彼女は、バスケの全国大会に無名の中学をほぼ1人で進めさせた、朝比奈椿姫だった。
「朝比奈――椿姫」
「知ってたんだ。私のこと」
 朝比奈が答えた。落ち着いたしゃべり方だった。
「忘れにくい名前だから。でも、顔と一致しなかった」
「それでも、思い出してくれただけで嬉しいよ」
 本多は黙った。相手になるべく話させようと思った。
「本多。私が率いる――まあ、実際は先輩がいるけど、その高校、月の輪高校が虹の花の全国行きを阻止するよ。それまでは、負けないでね」
「言われなくても、どこにも負けないから。月の輪にも」
 本多にしては珍しく、闘争心が表に出ていた。バスケに関すると、彼女は人が変わる。
「――楽しみにしてるよ」
 朝比奈は不敵に笑った。
「じゃあ、今日はこれで。挨拶に来ただけだから――バイバイ」
 本多は無言で見送った。
 見えなくなってから、本多が呟いた。
「朝比奈椿姫か……勝てるかな……」
「どうだ? 不安になってきたか?」
 八木沼が尋ねてきた。本多は力強く答えた。
「いえ、さっきも言ったように、勝って全国に行くのは、虹の花です。全国に行くまでは、どこにも負けません」
「よし、その意気だ」
 本多の目は、闘争心に満ちていた。
 夏祭りは、最後に花火が打ちあがって、終わりになった。

     9

 8月18日のことだった。寮生は、暇を持て余していた。千葉を除く5人で集まって、作戦会議をした。
「カラオケがいい」
 と言い出したのは、岩崎と摂津。
「ボーリングのほうがいいって」
 と反論するのは、亀井と本多。坂本はどっちつかず。
「カラオケなら、皆が楽しめるって」
「ボーリングは、誰でも上手くできるだろ。歌はそうとは限んねーじゃん」
「そんなことないよ。好きな歌、歌えば気持ちいいよ」
「でも……ボーリングの方がいい……」
「あのー」
 千葉が口を挟んだ。
「何でその2つなの? それ以外じゃダメなの?」
「……例えば?」
 亀井が聞き返した。
「ビリヤードとか」
「却下」
 亀井が即答した。
「いいですね」
 しかし、坂本がまさかの賛同。
「僕はビリヤードがいいな」
 話し合いは、まとまりそうになかった。
 しばらくして、千葉が提案した。
「じゃあさ、全部行けばいいんじゃない?」
 5人は顔を見合わせた。やがて、誰からともなく賛成の声が上がった。
「午前中に出かけて、まずボーリングして、お昼ご飯とって、カラオケ行って、最後にビリヤードでいいんじゃない」
 この日の千葉は、冴えてるな、と亀井は1人で思っていた。
 結局、千葉の言ったとおりに予定が決まった。8月19日は、ボーリングとカラオケとビリヤードに行く。
「私は学校のお偉いさん方に会わなきゃいけないから、楽しんで来てね」
 と言う千葉を除いた5人で。さてさて、どうなることやら。

 朝10時、5人は出発した。まず、ボーリング場へレッツゴー。
 ボーリング場は、夏休みなだけあって混んでいたが、1レーンしっかり確保できた。5人は、名前順で投げていくことにした。
 1人目は、カラオケに行きたがっていた岩崎。
「フミ、頑張ってー」
 摂津の応援を背中に受けて、1投目をピンへ。4本倒れた。
 結局、7本で終わった。
 2人目は、ボーリングに行きたがっていた亀井。実はおれ、ボーリングが得意なんだよね。悪いな、お前ら。と思いながら投げて、見事にストライク。
「すごーい、亀井君」
 摂津の賞賛を得た。
 3人目は、ビリヤードに行きたがっていた坂本。投げたが、フォームがぎこちない。ガーターにいってしまった。
「実は、あんまし得意じゃないんだ」
 と告白した。
 結局、0本に終わった。
 4人目は、摂津。意外と普通で、スペアだった。
 最後は、本多。カラオケも嫌だったけど、ボーリングも得意じゃないのに……。と、不安を抱いて投げた。1本だけ当たった。
 その後、亀井が絶好調で、ぶっちぎりの1位。2位は摂津。3位は、岩崎。ブービーは、本多。ビリは、坂本となった。
 時間があるから、もう1回りすることにした。
 2回目も亀井がぶっちぎりの優勝。ブーイングも浴びた。2位は、これもさっきと同じで摂津。3位は、慣れてきて強くなった本多。ブービーは、岩崎。ビリは、またもや坂本。しかも、スコアを大きく落とした。
「じゃあ、お昼にしよっか?」
 摂津が促すと、4人が頷いた。

 4人は、近くのファーストフード店に入って、思い思いの物を食べたり、飲んだりした。
 食べ終わると、次の目的地であるカラオケへと足を向けた。

「あーあ、あーなたの声が遠くなーる。遠く、遠く」
 早速、歌っているのは、元々行きたがっていた摂津と岩崎。2人ともうまい。
 坂本もたまに歌った。うまくはないが、下手でもない。知ってる曲が豊富だった。
 亀井と本多は、まだ1曲も歌っていない。亀井は、歌える歌がないから、ずっと不機嫌そうに座っていた。本多は、恥ずかしくて歌えない。
「亀井君、何も歌わないの?」
 岩崎が亀井に尋ねた。
「ああ……」
 亀井は無愛想に答えた。
「もう……マイも何か言ってやってよ」
 あきれた岩崎は、摂津にふった。
「う、うん……」
 摂津はちょっと照れた。夏祭りの日以来、2人の関係はちょっとぎこちない。
「歌える曲がないんだろ?」
 坂本が割って入った。
「まあ……」
「だったら、お前が歌える歌、知ってるぜ」
 坂本は、番号を打って、曲を選んだ。その曲は、GReeeeNの『キセキ』だった。
「あ、これ知ってる」
 坂本の読みどおり、亀井は知っていた。
「何で分かったの、坂本?」
 岩崎が尋ねた。
「だって、キセキって春の甲子園の行進曲だったし、テレビ中継も使ってたから、知ってるだろうと思って」
 亀井は感心すると同時に、自分ってそんなに分かりやすいのか、とも思った。
 亀井と坂本は、キセキを歌った。
 残るは、本多だったが、本多も皆で歌えば大丈夫、と歌い始めて、数曲を歌った。
 カラオケが終わると、坂本が楽しみにしていたビリヤードの時間が来た。坂本以外は、みんな初心者なため、ちょっと乗り気じゃない。
 ビリヤードの基本は、キューでボールを狙い通りに突くコントロールと次を見据えた判断力。とはいえ、坂本以外にそれを要求しても無理だから、まずは当てられるようにならなければいけない。しかし、時間がない上に、料金も加算されていくから、練習なしで始めることにした。
 坂本と岩崎チーム、亀井と摂津、本多チームに分かれてスタートした。

 坂本の1人舞台だった。ほとんどの球を坂本が入れ、他の4人は当てるのが精一杯という感じだった。本多にいたっては、届かない球が多くて、苦労した。
 それでも皆、始めたころより楽しそうにしていた。坂本は、ビリヤードに来て良かった、と安心した。
 寮生5人は、寮に揃って帰った。

 何がいいだろう。岩崎は悩んでいた。明日、マイの誕生日なんだよね。マイ、何なら喜ぶかな。フルートの新品とか。高すぎだし、買えるわけない。マイも気まずいだろうし。
 それより、マイだって女の子なんだから、かわいいものが欲しい、と思ってるかも。だとしたら、これがいいか……。

 困ったな。坂本も悩んでいた。女子にプレゼントとか、したことが少ないから、どれにしたらいいか分かんない。
 コースケ誘ったのに、おれは1人で行く、とか言って断られたし、相談できる人がいないじゃん。
 そうだ、これなら、摂津でも喜ぶだろう……。

 どうしようかな。本多も迷っていた。道にではなく、プレゼント選びに。
 そういえば、舞衣さんって、料理好きだなあ……だとしたら、何が欲しいだろう。フライパン? もうあるし。料理の本? 何か、作って、って強要してるみたいで嫌だな。うーん……待てよ、これなら……。

 亀井は坂本と行けば良かった、と後悔していた。結局、1人で福島駅周辺に来て、店を見て回っていたが、決められずにいた。
 疲れて、デパート内のベンチに腰掛けた。
「はあ……」
 亀井は、あの日以来、摂津のことが気になってしょうがなかった。
 気が付けば、摂津の振る舞いを目で追っていた。話しかけられると、ドキッとした。この感情は、もしかして――。
「亀井君って、好きな人いる?」
 あの言葉が今でも頭から離れない。おれの好きな人は――。
 そういえば、摂津の好きなアーティストって、誰だったけなあ。えーっと、サルみたいな名前だった気がする。サル……モンキー……モンキーマジック? 違うな。なんだっけ……。
 あ、もしかして――そうだ、思い出した。よし、そのCD買おう。

 千葉は、ケーキ屋にケーキを買いに来ていた。誕生日っていったら、イチゴのショートケーキでしょう。料理は、マイの好きなポテトサラダを中心に、あとはいつも作ってる物でいいかな。
 にしても、4人は朝からプレゼント買いに行くし、マイは人気者ね。私も何かあげたいのはやまやまなんだけど、食費で尽きちゃったから、買えないのよね。申し訳ない。まあ、4人が満足させてくれるでしょう。
 そういえば、マイは寮でのんびりしてたけど、自分が今日、誕生日って覚えてるかな。夏休みの予定決めした時、あの子、すっかり忘れてたからな。旅館で祝う習慣がなかったのかしら。まさかね、さすがにそれはないか。
 さ、帰って、料理の準備に取り掛からなくちゃ。
 千葉は、ケーキを片手に、寮へと歩いて帰っていった。

 摂津は、自分の誕生日のことを完全に忘れていた。その日も普通に部活で学校に出かけ、普通に部活していた。
 ところが、練習が終わってから、仲間たちに囲まれた。
「誕生日おめでとう」
 小野地が言った。皆が思い思いの誕生日プレゼントを差し出した。
「うそ……私、今日、誕生日だったんだ」
 摂津は正直に驚いた。
「忘れてたの? 人の誕生日は、ちゃんと覚えてるのに」
 小野地があきれた。
「ありがとう、皆。大切にするよ」
 摂津はとびきりの笑顔で応えた。
 その輪に鈴木と榎本も近づいてきた。
「今日、摂津の誕生日なの? じゃあ、何かあげる」
 と鈴木が言うと、金管楽器の中を磨くオイルを1つ摂津に渡した。
「誕生日おめでとう」
 すると、笑いが起こった。
「部長、それはちょっと……」
「何言ってんの? これも結構、高いのよ」
「そですけど」
「いえ、気持ちがこもってるから、嬉しいです」
 榎本も何か持ってきた。
「はい、私はこれ」
 ケータイのストラップだった。
「え、いいんですか?」
「うん。私、ストラップいっぱい持ってるから」
「ありがとうございます」
 摂津は幸せな気持ちになった。
 
 元々、家では旅館が忙しすぎて、誕生日を忘れられていることが多かった。だから私は、自然と自分の誕生日を忘れるようになった。期待して、それが裏切られるのは、つらいから。
 だから、皆の優しさがただひたすらに嬉しかった。誕生日の価値って、捨てたもんじゃない。これからは、しっかりと覚えておこう。期待もいっぱいしてやろう。
 寮に帰ると、5人がクラッカーを私に放ってきた。
「誕生日おめでとー!」
 皆が祝ってくれるから、私は期待し続ける。
「ありがとう」
 そして、裏切られることをもう恐れたりしない。だって、私にはこんなに暖かい仲間たちがいるから。

     10

 摂津の誕生日パーティーは、まずおいしい料理を食べてから、それぞれのプレゼントを渡すことにした。
「迷ったあげく、これにしました」
 岩崎が敬語で申し訳なさそうにイルカのぬいぐるみを渡した。摂津は露骨に嫌な顔をわざと見せた。岩崎は狼狽した。
「えー、ごめん、マイ。探してたら疲れちゃって、物を見る目が鈍っちゃって……」
「ウソだって。すごい嬉しい。ありがと、フミ」
「ホント? 良かったー」
 岩崎は安心して、グラスの中のジュースを飲み干した。
 次に本多が動いた。
「誕生日おめでとう、舞衣さん。これ、使って……」
 と渡したのは、くまのかわいいナベつかみ。
「わー、かわいいー。でも何か、料理しろ、って強要されてるみたい」
「え……」
 本多は心の中でショックを受けた。それを避けたつもりだったのに。
 失意の本多を横目に、亀井が近づいた。
「これ、持ってるかもしんないけど」
 と差し出したのは、3人組のガールズバンド、チャットモンチーのCD。
「え、何でこれ……1番最近のアルバムだし――高くなかった?」
「いや……」
 亀井は言葉に詰まった。本当は、結構なお値段だった。しかし、
「友達からの貰いもんだから」
 とウソをついた。
「そうなの? だったら、いいんだけど」
 摂津は亀井の言葉を目で捉えた。
「はいはい、次は僕だね」
 坂本が割って入った。
「摂津、誕生日おめでとう。これから皆でこれやろう」
 と意気揚々と掲げたのは、花火だった。
「わー、いいね。やろうやろう」
 摂津がそう言って、屋上に向かうと、岩崎と本多、坂本が続いた。
 亀井は残った。
「マイ、敬語じゃなくなってから、明るくなったよね」
 同じく残った千葉が言った。
「まあ、そうっすね。しゃべりやすいんじゃないすか?」
「それだけかな?」
 千葉が意味あり気な笑みを浮かべた。
「あ? 何が言いたいんすか?」
「別に――さ、花火しに行こう」
 千葉が逃げるように屋上に上がった。
 亀井は首をかしげながら、それに続いた。
                               
 スモールサイズの打ち上げ花火から、ネズミ花火、線香花火、噴出花火などが屋上で彩られた。主役の摂津は、誰よりも楽しそうにやっていた。他の連中も同じだった。
 亀井は途中で端っこにいって、その様子を眺めていた。ああ、夏って感じだ。よく考えれば、おれもちょっと昔までは、こうやって親父とお袋と3人で、花火やったっけ。懐かしいな。
「疲れたの?」
 いつの間にか摂津が隣にいた。
「いや、見てるだけってのも悪くないな、と思って」
「そっか」
 摂津は柵に寄りかかって、しゃがんだ。
「さっきのCD、ホントは買ったんでしょ?」
 亀井も座った。
「……ああ、実は」
「やっぱり、そんな気がした。何でウソついたの?」
「……悪い思いさせたくなかったから。買ったって言ったら、申し訳ないでしょ」
「ふーん、亀井君って意外と優しいんだね」
 摂津は口元を緩めて、少し笑った。
「なあ……」
 亀井は夏祭りのことを聞こうとした。
「なに?」
「あのさ――」
「何してんの、2人ともー。最後の打ち上げ花火やるよ」
 千葉が話を遮った。仕方なく、亀井と摂津は皆の方へ向かった。
 最後の打ち上げ花火が綺麗に夜空を彩った。言葉通り、花のようだった。
 屋上から下りる階段の途中で摂津が亀井に尋ねた。
「さっき、なんて言おうとしたの?」
「いや、たいしたことじゃないから」
「……そう? なら、いいけど」
 これでいいんだ、亀井は思った。無理して関係を深めようとする必要はない。ゆっくり、慎重に、だけど確実に。

 夏休みが終わった。あっという間だった。あっという間だったし、それだけ充実していた。
 2学期が始まった。クラスでは、9月下旬にある文化祭についての話し合いが行われた。話し合いは白熱し、岩崎や坂本はそれぞれのクラスで舌をフル回転させていたが、他の3人は、やる気のない人が1人、恥ずかしがり屋が1人、余計なことをしゃべらない人が1人いた。
 話し合いの結果、亀井・摂津・坂本のいる1組はカレー屋をやることになり、岩崎のいる2組は縁日をやることになり、本多がいる3組はお化け屋敷をやることになった。
 
 その日は、岩崎の誕生日だった。豪華な料理が並べられ、プレゼントも渡され、場の雰囲気は温まった。そんな中で、話題は自然と文化祭について話された。
「カレー屋って、準備が大変らしいよ。誰が指揮ってんの?」
 と岩崎。
「バレー部のメッチャ上手いヤツ。あいつ、学級委員だから。まったく、いつ決めたんだか」
 と亀井が不機嫌そうに言った。
「4月に決めたでしょ。覚えてないの?」
 と摂津があきれる。
「ああ、その時なら、コースケ寝てたよ」
 と坂本があっさり。
「あれ、そうだったっけ。ま、学級委員なんて、誰でもいいけど」
「何言ってんの? 坂本君が立候補してたのよ。しかも僅差だったんだから」
 と摂津。
「確かに僅差だったけど、それでもコースケの票があったとしても、勝てなかったよ」
「本多のクラス、お化け屋敷だろ?」
 亀井が本多に話を振った。
「うん」
「お前、お化けやんの?」
「まだ決まってないけど、たぶん全員やることになるって」
「ローテーション制か。私のクラスもそうだよ」
 岩崎が話しに入った。
「2組、縁日だっけ?」
 坂本が尋ねた。
「そう、縁日」
「何やんの? 輪投げとか?」
 今度は亀井が尋ねた。
「輪投げ、射的、ヨーヨーつり、線引きなどなど。従業員は、みんな浴衣を着るんだよ」
「へえ、いいな。私なんか、お化けの格好だし」
 と本多が言ったところで、台所の後片付けをしていた千葉が席に着いた。
「懐かしいな、文化祭。私も頑張ってたな」
「しみじみしちゃって。寮監、何やったんですか?」
 と岩崎が聞いた。
「1年は、海の家っていう飲食店やったんだけど、当日に間に合わなくて――2年は、体育館で筋肉番付やって、これはまあまあ成功したかな。3年は、カフェやった。3年が1番楽しかったな」
 千葉の3年は、たった1年前のことである。
「バンドとかやらなかったんですか?」
 また岩崎が聞いた。
「やってない。でも、やりたかったな……そうだ。どうせなら、5人でバンドやったら? 寮生バンド、って銘打って」
 この何気ない一言が、5人の胸の内に波風を立たせた。
「いいかも、やってみようよ」
 岩崎が早くも乗り気。
「私もいいと思う」
 摂津が同調した。
「僕もいいけど――2人は?」
 視線が亀井と本多に集まった。が、意外と2人とも反対しなかった。
「やってもいいぜ、別に」
「私も……楽器は、何もできないけど」
 こうして、寮生バンドが急遽、文化祭のステージに参加することになった。
 議題は、バンドについて一色になった。誰がどの楽器をやるのか。曲はどうするのか。そもそも楽器はどうするのか。
「楽器、みんな持ってんの?」
 岩崎の問いに摂津が答えた。
「家にキーボードならあるよ」
「じゃあ、それ決まりだね――あとは?」
「おれの親父がギター持ってっけど」
 と言ったのは、亀井。
「ドラムは、あるからいいとして――ベースだね、残るは」
「買うしかない、かな」
 本多の言うとおり、買わなくてはいけない物も出てくる。
「――ってか、曲はどうする?」
 坂本が尋ねると、摂津が真っ先に反応した。
「チャットモンチーがいい」
「……いいんじゃない」
 岩崎が賛成した。他の者も異論なさそうだった。
「え、反対意見なし?」
 摂津は驚いた。こんなに簡単に意見が通るとは、思っていなかった。
「じゃあ、ボーカルは摂津で決まりだね」
 坂本が提案した。
「私? ムリムリ。人前じゃ、緊張して、まともに歌えないよ」
「でも、カラオケで歌えるから……」
 本多がポツリ。
「カラオケとステージで歌うのは、違うって。それなら、フミの方が絶対いいよ」
「だとさ、岩崎。ボーカルいける?」
 亀井が振ると、
「いいよ、やっても」
 と好反応を示した。
 その後も話し合いが続き、ボーカルは岩崎に決定した。他の楽器は、キーボードが摂津、ギターが本多、ベースが亀井、ドラムが坂本となった。ベースは、軽音楽部の人に借りることにした。
 曲は、チャットモンチーの『バスロマンス』という曲に挑戦することになった。そして、練習は明日から、となった。だが、時間があまりないので、間に合うかどうかは微妙なところだ。

 翌日の夜から練習が始まった。当然、いきなりできるようになる訳もない。ギター、ベース、ドラムは初心者だから、基本から覚えていき、摂津と岩崎はそれの手伝いと自分の練習を並立させて進めた。
 それから数日がたっても、なかなか思うようにいかない日々が続いた。やる前からある程度、予想できていたことだが、現実に直面すると、不安と焦りが増してくる。

     11

 ある日、教室でカレー屋の装飾の準備をしていた亀井と坂本が作業をしながら、話していた。
「なあ、バンド間に合うと思うか?」
 亀井ははっきりとそう聞いた。坂本は苦笑しながら、
「どうだろ、間に合うと断言するのは、難しいね」
 と答えた。
「おれらもそうだけど、特に本多がな……」
 亀井が心配そうに呟く。
 ギターに初挑戦の本多は、ギターのコードがなかなか覚えられず、曲の練習どころではなくなっていた。
「まあ、できる限りのことをするしかないよ」
「でもよ――」
 亀井が何か続けて言おうとした瞬間、摂津が突如、現れた。
「2人とも、何の話してんの?」
「摂津か……バンドが間に合うかどうか、って話」
 亀井がいつも通りの口調で答えた。いつかの照れは、表面に出なくなっていた。
「うーん、微妙よね。私とフミは、もういつでもいけるけど」
 キーボードの経験者である摂津と、歌を音も含めて覚えればいいだけの岩崎は、すでに完璧に近い状態に仕上げていた。
「でも、せっかくだから、諦めないでやろうよ」
 坂本が促した。
「別におれも諦めちゃいねーよ」
 亀井が強気に言い返した。
「私も、皆のこと信じてる」
 摂津も頷いた。
 だが、口先で何と言おうと、現実は変わらない。文化祭まで、日にちがあまりない上に、部活も忙しいし、それぞれのクラスの準備だってある。そんなハードスケジュールの中で、果たして間に合うのだろうか。寮生の誰もがそう思っていた。

 私って、役に立たないな。本多は授業中にぼんやりと考え事をしていた。文香さんや舞衣さんは、もうできるようになったのに、私はコードすらおぼつかない。バスケだったら、誰よりも上手くできるのに。
 昔からそうだ。要領が悪く、おまけに恥ずかしがり屋の私は、いつも足手まといだった。バスケのときには、頼りにしてくれる人も、普段は逆だ。
 でも、今回はこれ以上、皆に迷惑をかけたくない。何とか、本番までに間に合わせたい。頼りにされようとは思わない。でも、せめて、やらなきゃいけない事はしっかりとやりたい。
 本多は窓の外を眺めた。鳥が空を飛んでいた。風が木々を揺らしていた。芝生が地面を覆っていた。鳥が空を飛ぶように、風が木々を揺らすように、芝生が地面を覆うように。私は、当たり前のことを当たり前にこなせるようになりたい。いや、なる。
 本多の決意が実を結ぶまで、残り1週間。

 文化祭前日、ようやく本多らが1通り弾けるようになり、ついに5人で合わせる練習を始めた。しかし、ここでまた問題が浮上した。自分の演奏に必死なため、周りとリズムを合わせる余裕がなく、バラバラになっていた。
「うーん、ダメだね。やっぱり、3人がリズムを乱してる」
 聴いた感想を千葉が言った。3人とは、言うまでもなく亀井と坂本、本多のことである。
「まあ、できるようにはなったね」
 腕組みをしながら、千葉が褒めるとも皮肉とも捉えられる事を言った。 
「弾くのに必死で、リズムまで頭が回んねーよ」
 亀井が3人の思いを代弁した。坂本の場合、叩くだが。
「どうしよ……」
 岩崎が腕組みをして考え始めた。他の人は、彼女の言葉を待つことにした。
 やがて、おもむろに口を開いた。
「3人は、できる限りリズム合わせに注意して。できる限りでいいから。ミスったら、元も子もないし。……私とマイは、3人に合わせるしかないないね。特にマイは、キーボードでリズムを示して」
 4人が頷いた。岩崎のリーダーシップが発揮されている。
「寮監、あと何かありますか?」
「そうね……フミの音、あってる?」
「……? たぶん、あってると思いますけど……」
 岩崎はそう言ったが、少し不安になった。
「原曲、聴かせて」
 千葉に言われて、CDを持っている摂津が自分の部屋からとってきた。
 その曲を聴くと、千葉は頷いた。
「やっぱり、はずれてる」
 岩崎は落胆した。そんなはっきり言わなくても。
「フミ、歌ってるとき、自分の声あんまり聞こえないでしょ?」
「はい……演奏の音もありますし」
「絶対音感もってる訳じゃないしね――カラオケとも違うし」
「それ、軽音部が使ってるイヤホンみたいなやつで解決すると思いますよ」
 坂本が言った。
「ああ、あるんだ。それで自分の歌声、聞こえるでしょ」
 千葉は安心した。
「じゃあ、それも借りますか」
 亀井が同意を促す言い方をした。岩崎は頷いた。
 その後、もう1度あわせて、練習を終わりにした。

 翌日、文化祭当日なのに、いや当日だからこそ早朝から練習をした。疲れた体に鞭打って、学校生活で修学旅行に次ぐ行事、文化祭に精魂を尽くして、とにかくギリギリまで頑張った。
 バンドの演奏があるのは午後2時からと、中夜祭と呼ばれる1日目の終わりにあるお疲れ様会の2回。2日目は、午前11時から予定されている。
 午前9時、開会式が行われ、校長の話、文化祭の実行委員長からの諸注意、そして各クラスの出し物紹介があった。
 午前10時、ついに文化祭がスタートした。縁日の岩崎は、浴衣を着て、来客を待ち望んでいた。長い黒髪のかつらを被り、花子さんをイメージした姿の本多は、緊張していた。
 午前10時30分、縁日に初めての客が来た。岩崎はテキパキと対応し、次々に来る客の波に上手く乗っていった。一方、お化け屋敷にも客が押し寄せ、本多は忙しく、脅かしたり、脅かしたりしていた。お化け屋敷なんだから、脅かすしかない。
 午前11時、カレー屋が他から遅れて開店した。とは言え、まだ客は来ない。基本、昼食として機能するからだ。接客の坂本と摂津は店内の掃除を小まめにやり、客を待った。調理担当の亀井は、朝からカレーの準備に追われていて、早くも疲れ気味だった。
 午前11時半、カレー屋に初めての客がやって来た。坂本が1番客を対応し、席まで案内した。流石に落ち着いていた。

 正午、カレー屋は客の列が止まることなく、延々と続いた。そんな中で、自分のシフトじゃなくなった亀井は、その忙しさを横目にカレー屋を離れた。
 まず、メシでも食うか。といって、カレー屋には行けないし、3年の焼きそば屋にでも行こうかな。じゃあ、誰かお仲間を見つけないと。そう思って、適当に人混みの中をねり歩いた。

 お化け屋敷の本多は、一段落ついて、外の様子を見に出た。外は、いつの間にか知らない人で溢れかえっていた。本多は思わず喉を詰まらせた。これだけの客をさばかなければならないのか、改めて、文化祭の大変さを物語っている。
 そこに知っている顔が近づいて来た。
「暇そうなやつみっけ。メシ食いに行こうぜ」
 亀井だった。本多はちょっと安心した。と同時に、不思議に思った。このお昼時にカレー屋を抜け出してきて良いのだろうか。千葉に飲食の忙しさを聞いていただけに、心配になった。
「カレー、大丈夫なの? 抜けたりして」
「ああ、シフトが決まってるし、おれ、作る係りだから、今は大丈夫」
 本多は納得してみた。次に、自分がここを抜けるかどうか考えてみた。バンドがあるから、午後は抜けても良いと言われていたが、客足は途切れることがない。
「ほら、行こうぜ」
 亀井が無造作に背を向けた。本多は仕方なく、付いていった。

 3年の焼きそば屋は、カレー屋よりも客が少なかった。入口近くのカレー屋に比べるとと、3階の焼きそば屋に気付く人が少ないからだろうが、そのうち一気に増えてくるだろう。だから、空いている今、食べなければ。
 本多と亀井は女子の先輩に、
「いらっしゃいませー」
 と声をかけられた。
「あ、先輩」
 本多が声を上げた。どうやらバスケ部の先輩らしい。
「ヒメヨじゃない。もしかして、彼氏?」
 と言いながら、亀井の方を見た。別に照れることでもないのだが、本多は妙に慌てて、否定した。そんなに俺の彼氏ってのが嫌なのかな、亀井はちょっとしょんぼり。
 席に着くと、亀井は本多に尋ねた。
「ずいぶん必死だったけど、おれの彼氏って、そんなに嫌?」
 冗談めかして言ったつもりだったが、本多は急に真顔になった。
「……だって、亀井君には好きな人がいるんでしょ……?」
「……まあ、好きな人の1人や2人はいるよ」
「舞衣さんでしょ?」
 きっぱり言い切った。こうも簡単に当てられると、逆に否定したくなる。でも、しなかった。
「……よく分かったな。見てて分かる?」
「私には、分かる」
 何だ、知ってたのか。そうだよ、おれは摂津のことが好きでたまらねーよ。でも、それ以上に寮の仲間たちが好きだ。誰が、とかじゃなく、あの雰囲気が好きなんだ。
 それだけに、俺と摂津が付き合ったりして、その雰囲気を悪くしないまでも、変えてしまうのが不安だ。だから、この想いは封印するしかないんだ。
「……本多、俺が摂津のこと好きって話、誰にもすんなよ」
 その理由を本多に話しても仕方ない、亀井は諦めに近いため息を漏らした。
     
 縁日の岩崎は、ずっと働きっぱなしだったが、午後2時が近くなって、クラスを離れた。縁日は好調で、客足はほとんど止むことなかった。
 生徒ホールに行くと、カレー屋が大盛況となっているかと思って、人混みを覚悟したが、もうピークを過ぎたらしく、そこまで人は多くなかった。見ると、坂本と摂津が他のバンドの様子を眺めていた。
「マイ、坂本、おつかれ」
 岩崎は近づいて話しかけた。
「フミ。そこは、おつかれーライスでしょ?」
 摂津が笑いながら冗談を言った。岩崎は、ごめんごめん、と言って、笑い声を上げた。
「この次だから、準備しといて」
 坂本が隣から言った。
「大丈夫、準備万端だよ――ヒメと亀井君は?」
「まだみたい。そろそろ来るかな」
 摂津が答えた。
 噂をすれば、2人が一緒に来た。結局、焼きそばを食べた後、2人であちこちを回って、時間を潰した。
「遅いよ2人とも」
 岩崎が叱責。自分と大差ないのに。
「ごめん文香さん」
 本多は律儀に謝った。
「まだ前のバンドやってんじゃん」
 亀井は自分の非を認めず。
 やがて、その前のバンドも終わり、寮生バンドの出番となった。5人はステージに上がった。
 ボーカルは、岩崎文香。ギターは、本多姫代。ベースは、亀井皓介。ドラムは、坂本諒太。そしてキーボードは、摂津舞衣。岩崎が観衆の前でマイクを握った。
「こんにちは、寮生バンドです。今日は、チャットモンチーのバスロマンスという曲をやります。聴いて下さい」
 緊張のあまりか、MCが予定より短くなった。
 それでも演奏は始まった。

 結果は、散々だった。岩崎の歌は問題なかったが、演奏がバラバラで、摂津が必死に合わせようとしたが、最後までバラバラでいってしまった。しかし、人前で何とかできたから、まあよしとすることにした。あと2回で、少しでもマシな演奏を披露すればいいのだ。
 2回目の時間は、あっという間に訪れた。一般客が帰って、生徒たちは生徒ホールに集まり、それぞれのバンドの演奏を見ては、盛り上がっていた。
 ところが、この中夜祭のトリを務めるのが、なんと寮生バンド。岩崎が少しでも練習時間が欲しい、と言ったものだからこうなった。まさかトリをやらされるとは。
 寮生バンドの前のバンドが演奏を終わらせると、盛り上がりは最高潮になっていた。寮生バンドが、この雰囲気をかき消してしまうかもしれない。だが、当の本人たちは、そんなこと気にも留めず、集中力を高めていた。考えているのは、ただ自分の演奏を完璧にこなすだけ。
 5人が再びステージに上がった。今度はMCをやめて、ギターの前奏を長くして始めた。本多がギターを弾く姿に、歓声が起こる。そして、ドラムの音、ベースの音、キーボードの音が入っていき、
 岩崎が歌い出した。
「あなたを乗せてやってくる夜行バス。ピンク色に見えました」
 音の高さはバッチリ。練習した甲斐があった。
「あなたを連れて走っていく夜行バス。灰色に見えました」
 演奏も目立った問題はなし。
「早すぎる3日間。あなたを見送った帰り道。何度も後ろ振り返り、無言で歩いた」
 こうやって書くと伝わりにくいが、実際はもっとノビノビと歌われる。気になるなら、本物を聴いてみてください。
 サビへ。
「あなたを好きでいてよかったな。あなたを待っていてよかったな。新しいスタートラインから今、走り出すよ2人だけを乗せて」
「あなたを好きでいてよかったな。あなたを信じてよかったな。ウェディングベルが鳴り響く今、走り出すよ2人だけを乗せて」
 1番を終わって、ノープロブレム。むしろ、良いぐらいだ。
 2番のAメロは1番の繰り返し。よってBメロから。
「離れて過ごした3年間。あなたが来る日、子どもみたいに指折り数えた」
「あなたを好きでいてよかったな。あなたと出会えてよかったな。ウェディングベルが鳴り響く今、走り出すよ2人だけを乗せて」
 亀井はベースを弾きながら、一種、変なことを考えていた。
 あなたを好きでいてよかったな、なんて摂津に言われてみたいもんだ。そう言われるぐらい、おれが何かしたのか、って問われると、言葉に詰まるけど。
 ラストの部分へ。
「もう1人では行かないでね。真っ白なバスに乗って、永遠を誓おう。隣どうし座って、虹の橋渡ろう」
「あなたを幸せにするからね。真っ白なバスに乗って、永遠を誓おう。隣どうし座って、この愛を祝おう」
 終わって、5人は周囲の反応を恐る恐る見た。するとそこには、予想もしなかった光景が広がっていた。皆が笑顔で、そして拍手で包んでくれた。5人は、やって良かった、と同じ感想を抱いた。
 寮生バンドの2回目の演奏は、大成功だった。 

     12

 寮に帰ると、疲れがピークに達し、すぐに自分の部屋のベッドに倒れこんだ。千葉も日中、学校内を歩き回っていたため、5人ほどではないが、疲れていた。
 それでも、ビデオで撮った寮生たちの姿を編集して、思い出の1部をまとめていた。
 千葉は、正直うらやましかった。去年までは自分も企画、準備していた文化祭が、もう見ることしかできない。しかも、もし大学に受かっていたら、大学の文化祭に参加できたかもしれなかった。しかし、それの救いとなるのが、寮生5人が本当に嬉しそうな顔をしていることだ。私が寮監になって良かった、そう思えるのは、こういう時なんだよね。千葉は幸せに満ちた笑顔を時折り見せながら編集を続けた。
 
 翌日も文化祭がある。この日は、寮生バンドが午前11時からなため、それまでの時間、リハーサルに使ってもいい、との許しが出た。昨日のライブの成功の影響もあるだろう。
 音楽室で何度も合わせて、その度に意見を交換した。その結果を次に活かし、向上心を忘れなかった。
 そして、本番の時間を迎えた。生徒ホールに行って、ステージ下で前のバンドが終わるのを待っていた。
「ねえ、私の声、いつもと同じ? 変じゃない?」
 岩崎が摂津に尋ねていた。
「普通だよ。喉でも痛いの?」
「ちょっとね。こんなに歌いまくるの初めてだから。まあ、これが最後だから、大丈夫だと思うけど」
 それでも岩崎は、喉を気にしているようだった。
 ステージに上がるとき、坂本が摂津に言った。
「岩崎、途中でダメになるかもしんないから、そしたら摂津も歌って、助けてあげて」
「――わかった」
 摂津は、力強く頷いた。もう、恥ずかしいとか言っていられない。
 演奏が始まった。最初は普通に歌えていた岩崎だったが、サビに入る直前で声が苦しそうになった。摂津は機敏に反応して、マイクを手繰り寄せて、サビから歌い始めた。アドリブとは言え、ツインボーカルもなかなか味があって良かった。初めからこうすれば良かったんじゃないか、っていうぐらい。
 演奏が終わって、岩崎は摂津に何度もお礼をした。
 急造の寮生バンドだったが、この3回目のライブを持って、一時解散となった。だが誰もが、またバンドをやりたいと思っていた。

 文化祭も終わりに近づいていた。どのクラスも最後の最後まで躍起に働き、終了の時間を待った。そして、時間が訪れた。各クラスでは、クラスメイトたちでハイタッチの嵐となり、寮生5人もそれぞれのクラスでハイタッチの輪に加わった。
 虹の花の文化祭は、今年も大成功で幕を閉じた。

 文化祭が終わると、次に寮生たちを待っているのは、部活の大会だった。といっても、男子は夏で早々と大会が終わり、これからが本番なのは女子だけ。吹奏楽部の摂津は、ついに全国大会を迎える。陸上部の岩崎は、駅伝が待っている。そしてバスケ部の本多は、バスケの大会が地区予選から始まる。
 岩崎は、陸上部の練習に勤しんでいた。虹の花は、とうてい高校駅伝に出られるようなところではないが、岩崎は諦めていない。本番で何が起こるか分からないし、やる前から諦めていたら、モチベーションは上がらない。
「でもさ……」
 岩崎は寮で本多に愚痴をこぼしていた。
「やっぱり駅伝、出たいな……だって出たら、テレビに映るんだよ?」
「うん」
 本多は聞き上手だ。うんうん、頷いているだけだけど。
「全国の速い人達と走ってみたい。自分の可能性を試してみたい」
「うん」
「でも団体競技だからさ、やる前から結果が見えているのが嫌だな……」
「うん」
 その光景を眺めていた亀井が口を挟んできた。
「だったら、選抜チームにでも選ばれたら?」
 駅伝は、予選落ちした高校の中から速い人を選抜して、予選突破した高校と本番の高校駅伝で走る。
「私のタイムじゃ無理だよ」
 岩崎はあっさり否定した。だが、それが無理なら、虹の花が予選を突破するのは、もっと無理だろう。
「ところで、岩崎は何で陸上やってるの?」
 坂本も口を挟んできた。寮の会話は、いつもこんな感じ。
 坂本の問いに、岩崎はふと考え始めた。すると、ボーっとし始めた。心配になった坂本が、
「い、岩崎? どうしたの?」
 と、恐る恐る尋ねた。
「……ああ、ごめん。始めたのは、走るのが好きだったし、得意だったからだよ」
 だが、岩崎は心の中で呟いた。続けている理由は違う。皆には言えない、誰からも見えない重いものを私は背負っている。
「おーい、岩崎? さっきからどうしたんだ?」
 亀井が私を呼んでいた。いけない、またボーっとしてしまった。
 その後、話は弾まなくなり、そろそろと自分の部屋に戻っていった。

 10月16日。高校駅伝出場をかけた、福島県内の予選が行われようとしていた。岩崎は入念にストレッチして、スタートの合図を待っていた。
「フミカ、いつも通りの走りを心がければ、大丈夫だからね」
 付き添いに来てる短距離専門の先輩が声をかけてくれた。わざわざ来てくれたのか、まあ、当たり前なのかもしれないが、嬉しい限りだ。
「はい」
 岩崎は短く返事して、先輩の目を見つめた。こういう時、多くを語る必要はない。
 やがて、時間が訪れた。スタートまで30秒。……15秒……10秒……5、4、3、2、1……スタート!
 各高校の長距離ランナーたちが、一斉に寒空の福島を走り始めた。私は落ち着いて、周りを見ながら、いつもと同じペースで走っていった。
 次第に塊が、細長く伸びて、やがて20人ほどの先頭集団ができた。私はその中にいた。そんなにキツイペースではない。これなら、付いていける。
 ふと、あの会話の内容を思い出した。何で陸上をやっているのか。その答えは、死んだ家族のためだ。誰かさんが危惧していた暗い過去を、私もちゃんと持っている。
 あれは、よく晴れた日だった。私の父親と母親、それに3歳下のかわいい妹は、私の誕生日に死んだ。
 3人でデパートにケーキとプレゼントを買いに行って、私はそれを家で待っていた。1人でそわそわしながら、3人の帰りを心待ちにしていた。だが、届いた誕生日プレゼントは、最悪の不幸だった。警察の人が電話で、3人の死を伝えた。
 轢き逃げだった。轢いた本人は、未だ捕まっていない。3人はちゃんと歩道を歩いていて、そこに車が車道から突っ込んできたという。飲酒運転だったらしい。事故の前から蛇行運転をしていたのを複数の人が目撃している。運が悪かった、と言えばそれまでだが、残された私の心は傷ついた。学校でも、心に闇が立ち込めるともうダメで、それ以降は休みがちになった。
 新居となった親戚の家も苦痛でしかなかった。食事をおいしく感じないし、何をしていてもイライラした。たまに親戚につらく当たったりした。
 もうこれ以上、迷惑をかけられない。そう思った私は、虹の花の寮に入ることを決めた。親戚は、口では反対していたものの、心の奥底では、安堵していたに違いない。
 そして、私が陸上を続けている理由は、この事故に起因する。轢き逃げをした犯人に自首してもらうために、陸上界で有名になって、マスコミを味方につけて、情に訴えて、家族の仇を討つ。それが私の残りの人生の大目標だ。当然、そう上手くいくとは思わない。でも、この生きる目的を失ってしまえば、私がこの世にいる意味がなくなってしまう。行き続けるために、私は陸上を続ける。これからも、死を迎えるまで。
 いつの間にか、ゴールが近づいていた。私は先頭集団に置いていかれて、だいたい25位ぐらいのところにいた。ラストスパートして、ゴールラインを駆け抜けた。順位は、28位だった。自己ベストを更新し、虹の花の中で最高の順位だった。だんだんと喜びが湧き上がってきた。
 ゴール付近で坂本に会った。彼は、いつもより力強い眼差しで私を見据えた。
「岩崎」
 声も凛としていた。私は、ちょっとドキッとした。
「岩崎が何に悩んでるのか知らないけど、俺は、いや俺たち寮生は、絶対に岩崎の味方だから」
 涙が溢れそうになった。必死で堪えて、
「ありがとう」
 と震える声で言った。生きる目的が、もう1つ加わったかもしれない。
 駅伝は、やっぱり全国で走れなかった。でも、代わりにすごく大切な物が、人が側にあることを知った。きっと、神様はこの日の私をずっと待っていたのだろう。お待たせしました。
                               
 翌週、本多の待ちに待ったバスケの大会がスタートした。県大会を戦って、優勝すると、全国への切符を手に入れる。
 あいづ総合体育館に虹の花バスケ部は集合し、開会式を経て、初戦を待った。初戦の相手は、さほど強くないところと決まっていた。例年以上の充実度である虹の花なら圧勝と思われていた。
「どうしてですか?」
 本多が珍しく突っ掛かっていた。普段、穏やかな彼女もバスケのこととなると熱くなる。
「どうして私がベンチなんですか?」
「実力的には、文句なしでレギュラーだけど……」
 顧問の八木沼が弁解していた。
「だがな、お前抜きにした時、あいつら3年がどれだけ頑張れるかが、強豪校とのあれになる」
 八木沼は言葉を濁した。
「それぐらい練習の時から取り組んでくださいよ……じゃあ、前半は我慢します。後半になったら、試合に出してください」
 八木沼はそれ以上、何も言えず、その妥協案を受け入れた。
 試合が始まった。前半は、5人とも3年生で固めた。ジャンプボールからスタートし、相手にボールを捕られると、いきなり切り込まれて失点した。
 本多は試合を見ないで、廊下で缶ジュースを飲んでいた。そこに見覚えのある少女が近寄ってきた。
「こんな所で何してるの?」
「朝比奈――」
 月の輪高校の1年生エース朝比奈椿姫だった。すでに1回戦を終え、2回戦進出を決めている。
「もしかしてベンチ? 虹の花はずいぶん余裕なのね」
「知らない……ウチの顧問に聞いてみれば」
 本多はさっきから不機嫌そうなままだった。
「なるほどね、3年の底力を試そうって訳か――でも、やばいよ」
「やばい?」
「もう20点差つけられてる」
「ウソ……」
 本多は驚いた。負けてることはあるかもしれない、と思っていたが、まさかこんなに早く点差をつけられているとは。本多は朝比奈を置いて、コートの方へ走り出した。
 朝比奈が言うとおり、36―16で20点差だった。本多は慌てて八木沼に詰め寄った。
「私を出してください。もう悠長なこと言ってられませんよ」
 八木沼は渋い顔をした。出したいのは山々だが、自分の面目は丸つぶれだ。
「ワーッ!」
 相手にスリーポイントを放たれた。23点差。さすがに八木沼は、マズイと思い、本多を投入した。
 本多の加勢に、他の3年は安堵の表情を浮かべた。とはいえ、ちょっと逆転するのはキツイ。本多はいつも以上に焦りと高揚感を感じていた。
 ボールを受け取ると、いきなり高速ドリブルで敵ゴールへまっしぐら。相手ディフェンスは慌てて、止めようとして手を出したが、ファールの笛が鳴った。鳴ると同時に本多が不十分な体勢から放ったシュートが決まった。
「バスケットカウント、ワンスロー!」
 2点入ったうえに、フリースローを1本打てる。
 本多はフィジカルで負けることが多い。だから、技術面を完璧に研ぎ澄ましてきた。ドリブル、パス、シュートというバスケの基本から自分のスキルを高めていった。フリースローもその1つ。本多にかかればお手の物だ。あっさり決めて、20点差とした。

 前半が終わるまでに、本多は7点連続得点し、差を14点にまで縮めた。
「何でこんなに差が開いたんですか?」
 本多はベンチで隣に座った先輩に尋ねた。先輩はずいぶん疲れているようで、タオルで顔を覆って、ゼーゼーと息を切らしていた。
「シュートが全然、決まらなくて……」
 それしか言ってくれなかった。なるほど、つまり得点が私頼みになっている事実が浮き彫りになったのか。本多は1人で納得して、
「わかりました」
 と答えた。
「後半も頑張りましょう」
 本多は全員に聞こえるように言った。皆の目に、少しの希望が宿った。
 
 後半がスタートした。本多は体力無視で飛ばしまくった。コートで舞い、誰よりも躍動していた。点差が5になると、本多は急に守備だけをするように変わった。体力回復の意味合いが強いが、僅かなチャンスをものにするぞ、という腹積もりもある。
 相手の放ったシュートがリングに当たり、それを味方が捕った。本多はボールをもらうと、高速ドリブルでコートを駆け抜けた。無駄な動きが少ないから、普通に短距離を走るのとスピードが変わらない。誰も追いつけず、そのままリングに沈めた。
 結局、本多の縦横無尽の活躍で逆転し、12点差つけて勝利した。今日の功労者は、間違いなく本多。それを認めるように、観客が歓声と拍手を送った。しかし、当の本人はさすがに疲れきってベンチに横たわり、それに応えることができなかった。
 何とか県大会1回戦、突破。

     13

 本多がバスケで気を吐いた翌日、摂津が吹奏楽のコンクールの全国大会を迎えていた。
 大丈夫かな、私。摂津は自分を気に懸けていた。さっきから心音の高鳴りが止むことない。つらい、というより、怖い。全国大会なんて、テレビで見たことしかない。自分が立っていい場所じゃない気がする。ねえ、知ってる? 緊張は人を成長させる材料なんだよ。ねえ、知ってる? 本番で100%実力を発揮できる人もいるけど、それ以上を出すにはある程度の緊張や不安が心を満たしている方がいいんだよ。ねえ、知ってるよね……? 今日で3年生は、引退なんだよ……。
「摂津?」
 目の前に亀井の顔が現れた。
「どうした? ボヤーンとしてたぞ。緊張してんのか?」
 ストレートに聞いた。聞いてから、亀井は後悔した。これじゃ、励ましにならない。逆効果だ。
「でも、ほら……平常心でいけば、絶対大丈夫だって」
 すると、摂津がふふ、と小さく笑い声を漏らした。
「亀井君、励ましが下手だね。それじゃ、ダメだよ」
「む……」
 亀井は赤面した。確かに、いつもの自分じゃなかった。でもそれは、目の前の愛する人がいつもと違うからだ。
「でも、ありがとう。笑ったら、緊張が少しほぐれた」
「――なら、いいけど」
「じゃあ、もう行くね。会場で会おっか」
 摂津は右手を左右に動かして、寮を出た。
 亀井は、その後ろ姿をしばらくの間、眺めていた。が、止めた。理由は、誰かが背後に隠れていたからだ。
「本多」
 亀井はその名を呼んだ。本多はおずおずと出てきた。背が低いから隠れるのは、お手のもの。
「何で隠れてた?」
「邪魔しちゃ――」
「余計なことすんな」
 亀井は皆まで言わさず、本多を制した。本多は首をすくめた。
「おれは、こういうのが嫌だから、あいつに想いを伝えないでいるんだよ。本当は、いますぐ好きだって伝えて、2人の時間を過ごしたいのに」
 付き合えるとは決まってないのに、おれは何言ってんだろ。しかも、こんなこと本多に言ってもしょうがないのにな。そう思いながらも、亀井は続けた。
「おれは、この寮が好きだから……この家族みたいな関係が楽しいから、失いたくないんだよ。壊したくないんだよ」
 言いながら本多の表情を窺がうと、普段、見せない恐ろしい剣幕をしていた。
「……簡単に家族とか言わないでよ」
 声が冷たかった。表情に色がない。亀井はたじろいだ。
「――私は、寮の皆を家族とか思ってないから。というより、いらないんだよね、そんな物」
 亀井は自分の失言にようやく気付いた。本多には、亀井よりも厄介な寮に来た理由があるのだろう。謝ろうとしたが、千葉の部屋のドアが開いた。
「おはよう、2人とも。舞衣はもう行った?」
「はい、ついさっき」
 本多が普通の声音で答えた。
「私たちも行きましょう」
「そうね。文香と諒太を起こしてきて」
 亀井は言われるままに坂本を起こしにいった。
 その後、普通に出発したが、亀井の胸の淀みは消えなかった。――あの表情の裏には、どんな過去があるのだろうか……。

 全国大会が行われるのは、東京だ。福島から東京へは、新幹線で行く。応援組も同じ。居心地のいいシートに座り、どんどん流れていく景色を眺めながら、摂津は思った。バイトで福島駅によく行って、新幹線をそれなりによく見てきたのに、乗るのはこれが初めてとは。
 旅館時代、旅行に行ける筈もない我が家は、新幹線に乗るなんて、あるわけがなかった。高校の修学旅行が京都・奈良だから、それが初新幹線だろう、と決め付けていたが、まさか自分の好きな吹奏楽によってその機会を得るとは、夢にも思わなかった。
 景色は、相変わらず流れる。その景色を前にして、私は誓った。次にこの景色を見るときは、結果は気にせず、心を満足感でいっぱいにしてくる。そのためには、悔いの残らないように奏でなければ。
 
 東京駅に着くと、朝早かったこともあり、人があまりいなかった。閑静とした駅を歩いて、会場の普門館に急いだ。
 気付けば、偶然にも摂津の隣には部長の鈴木がいた。摂津は話しかける言葉を探して、選んだ。
「先輩、緊張してますか?」
 亀井にされた質問を、引退を目前に控えた鈴木にしてみた。
「もちろん、してるよ。今までにこんな緊張したことない、っていうぐらい」
 言葉とは裏腹に、鈴木の声は澄み切っていた。
「でも、それ以上に楽しみがある」
「楽しみ、ですか?」
「だって、全国のたくさんある高校の中から、全国大会に出られる高校なんて限られてるじゃん。私たち、恵まれてると思うの。幸せ者だと思うの」
 摂津は頷いた。
「だから、出られない人たちの分まで楽しまなきゃいけないね」
 いい部長だな。摂津は感心した。他校に自慢したいぐらい、すばらしい部長だ。部長の鏡だ。
「……何だか、楽しみになってきました」
「あれ、楽しみじゃなかったの?」
 鈴木は笑った。敵わないなあ、と思いながら「いえ、そんなことありません」と答えた。
 後で、この話を小野地にしてあげよう。今日も固くなってるかな。榎本先輩にもしよう。先輩は、どんな気持ちで全国大会を待っているのだろう。
 そして、普門館に着いた。ついに始まる。

 地区予選、県大会と同じで、課題曲、自由曲という順番で連続して演奏する。これから始まる。さあ、楽しもう。課題曲のネストリアン・モニュメントが吹かれだした。
 
 自由曲のムーンライト・セラナーデが終わり、私たちは一礼して舞台を下りた。誰もが晴れ晴れとした表情をしていた。暗い顔の人なんて、1人もいない。いるはずがない。
 演奏は完璧だった。呼吸も各パートでピッタリ合い、練習のときに危惧されていた部分も、この日は上手くまとまった。充実感が胸の奥底まで満たされていた。あとは、結果を待つばかりだ。
 全ての高校の演奏が終わって、表彰式の時を迎えた。小野地は隣で両手を合わせて祈っていたが、摂津は別に表彰されなくてもいい、と思っていた。確かに、表彰状を貰えば、得られた感動に花を添える、感動を形にして残すことができる。でも、そんな物よりも大切なものを今日、手に入れたのだから、そこまで欲しいとは思わない。これは、強がりとか、負け惜しみではない。純粋に、こう感じた。
 やがて、司会が金賞校を発表した。虹の花ではなかったが、悔しくも悲しくもなかった。十分に満足していた。鈴木先輩や榎本先輩も同じ気持ちだろう。
 こうして、全国吹奏楽コンクールは幕を閉じた。

 表彰式が終わってから、摂津は両親に会った。
「おめでとう、舞衣。頑張ったな」
 父が嬉しそうに言った。まるで自分のことのように。
「堂々としてたわよ。さすが私の娘ね」
 母も嬉しそうだった。私の喜びを、自分のことのように喜んでくれる人がいるのは、幸せなことだと思う。摂津は笑顔で応えた。
「私、これからも寮で暮らしていくけど、お父さんとお母さんの娘であることは、絶対に忘れないから……だから、これからもよろしくお願いします」
 両親の頬に、うっすらと涙が浮かんだ。そんな、泣かなくてもいいのに、と思いながら自分の頬に触れてみると、湿っていた。私が誰よりも泣いていた。気付かなかった、こんなに感極まっていたなんて。
 さあ、帰ろう。仲間が待っている寮へ。

 1年生エース、本多が率いる虹の花学院は、1回戦以降は快進撃を続け、ついに県大会決勝を迎えていた。決勝の相手は、本多のライバル、朝比奈椿姫を擁する月の輪高校。勝った方が、全国大会へと駒を進める。
 決勝の日の朝、6人はいつもの調子で朝ごはんを食べていた。メニューは、ごはん、納豆、ひじき、きゅうりの漬け物、味噌汁だった。
「亀井君、ひじき多くない? 好きなの?」
 摂津が尋ねた。
「納豆が嫌いだから、代わりに増やしてもらった」
 見れば亀井の食事スペースには納豆がない。
「何で嫌いなの? おいしいじゃん」
 千葉が咎めるように言った。じゃあ何で、納豆なしを許したんだよ。
「食べると頭が良くなるんだよ。脳が活性化されるらしいし」
 岩崎も千葉に加勢した。
「まあ、好き嫌いがあってもいいんじゃない。僕だって、辛いものは食べれないし」
 坂本が言うと、本多が思い出したように呟いた。
「あ、そういえば、そろそろ坂本君の誕生日――」
「ちょっと、私も同じ日よ」
 千葉が口を尖らせた。2人の誕生日は、11月30日。あと2週間ほどだ。
「すごい偶然だよな。この小さな寮に同じ誕生日の人がいるなんてよ」
 亀井が言うと、岩崎が話をそらした。
「それより、料理はどうする? やっぱりマイが作る?」
「私はいいけど――」
 摂津は坂本をゆっくり見た。
「何かリクエストある? 寮監も」
「何でもいいよ。辛くなければ。摂津の得意なもの作ってよ」
 坂本は摂津にお任せ。しかし千葉は、
「食後に甘いショートケーキが食べたいな」
 と注文した。
 結局、ケーキは買うことに決まった。
 本多は食べ終わると席を立ち、
「では、いってきます」
 と告げて寮を出た。
「頑張れよー」
 亀井と坂本が声を揃えて言った。
「応援いくからねー」
 岩崎と摂津が声を揃えた。
 千葉はショートケーキに思いを馳せていた。

 試合開始直前、本多は朝比奈と視線がぶつかり、無言で互いの健闘を誓い合った。
 そして、試合の始まりを告げる笛が鳴り響いた。
 ジャンプボールで月の輪に捕られたが、その選手から本多がボールをインターセプトし、レイアップで先制パンチをお見舞いした。
 負けじと朝比奈も、ボールを受け取ると前線まで上がっていき、味方の助けを得て中でフリーになり、シュートを放った。綺麗な弧を描いて、ゴールに入った。
 2人は互いに互いの闘争心を高めていた。その雰囲気を本多は楽しんでいた。こんなバスケをしたかった。失礼だけど、学校で先輩たちとやっても、できなかった。全国にいけば、朝比奈みたいな人たちがたくさんいて、あきるぐらい刺激的でハードなバスケができるだろう。私は、闘ってみたい。自分以上の実力を持った人たちと。私は、見てみたい。その先にあるバスケをすることの答えを。私は、自分の限界に挑戦してみたい。
 36―35、虹の花1点リードで前半が終わった。朝比奈はチームのシュートの6割を占め、本多は7割に達した。
 2人の勝負は、そう簡単には決着がつきそうにない。
     
 後半が始まると、前半と打って変わって、2人ともおとなしくなった。外からシュートを放つものの、派手な切り込みやレイアップは、影を潜めた。しかも、どちらかがおとなしくなるなら、体力が尽きたかな、とか何か企んでるのかな、と言えるだろうが、今は両方だった。つまり、お互いに終盤戦のために体力を温存しようとしているのだ。示し合わせたわけでもなく、ただ自然に。
 それでも2人のシュート技術は、コートに立つ10人の中でも飛び抜けていた。スリーポイントシュートを鮮やかに決め、不十分な体勢からでもシュートを決めて観客を沸かせた。
 やがて、試合は残り10分を切った。得点は、56―55。まず動いたのは、朝比奈だった。前半を思い出させれような切り込みで、華麗に2点シュートを入れた。本多も再稼動した。高速ドリブルで相手ディフェンスをかわすと、朝比奈にぶつかる前にちょっとゴールから離れたところからシュート。ボールは、ゴールに吸い込まれていった。
 その後も互いに譲らず、試合はシーソーゲーム状態。逆転を繰り返し、どちらが主導権を握るか予断を許さない。
 流れを変えたのが、ファールだった。朝比奈がディフェンスの際にファールをとられたが、それでこの試合4つ目となってしまった。あと1つで退場である。試合に集中していた朝比奈は、普段なら絶対にないのだが、自分のファールの数を意識していなかった。
 ここで朝比奈に迫られた選択肢は2つ。残り時間は8分ほどだから、気にしないで最後までプレーする。5ファールになったら、しょうがない、諦めよう、というのが1つ。もう1つは、自分の動きを抑えて、消極的な動きで闘う。朝比奈は、前者を選んだ。
 残り4分。本多がドリブルで中に切り込んだ。真っ先に反応した朝比奈が止めにいった。本多はお尻から倒れた。それと同時に笛がなった。朝比奈のファール。朝比奈は、退場となってしまった。朝比奈は怒るでもなく、苦笑いしながらコートからゆっくり歩いて出た。最後まで全力のプレーをした彼女に、観客は拍手喝采を送った。
 朝比奈がいなくなった後、本多は手錠を外されたかのように、活発な動きになって、得点を積み重ね、月の輪を突き放した。
 試合終了と共に、虹の花の優勝が決まった。本多は仲間たちと喜びを分かち合った。

 試合後、本多は帰りのバスに乗り込もうとする朝比奈を引き止めた。
「待って――話が――」
 朝比奈は足を止めて、本多と向き合った。
「何? 敗者に試合後すぐ近づくなんて、嫌味この上ないわね」
「……ごめん。でも、言っておきたくて。本当は、最後のプレーは、わざとファールを誘ったの……」
 本多は、実はずるをしたのだ。試合を有利にするために、朝比奈を退場させるために、最後のファールをさせたのだ。だが、バスケではけっこうありがちなこと。
「そんなの、分かってたよ」
 朝比奈は優しい口調を心がけた。
「別に、気にしてないから。ファールもバスケのうち。私の負けっていう事実に変わりはない――全国大会、頑張って」
 口早にそう告げると、バスに乗り込んだ。本多は、黙って見送った。
 朝比奈は、帰りのバスの中で、悔し涙を滲ませていた。

     14

 11月30日は、幸いにも日曜日だった。寮生たちはのんびりと朝を迎えた。寮で1番の朝方人間は、坂本諒太だ。この日も誰よりも早く起き、部屋を出た。外の景色を見ると、空気が澄んでいて、とても心地良さそうだった。
 散歩しよう、と思った坂本は、上下とも長袖、長ズボンのジャージに着替えて、外に出た。見たとおり、気持ちよくて、思わず身震いした。今日はなんて素晴らしい朝なんだろう。まるで僕の誕生日を、天が祝ってくれているようだ。
 やがて常置されているベンチに腰掛けて、その景色を堪能していた。すると、前から誰かが来た。あれは、摂津だ。
「誕生日おめでとう」
 笑みと共に言った。屈託のない笑顔だ。
「ありがとう」
「今、寮監起こしたから、30分ぐらいでご飯になるよ」
「そっか。じゃあ、ここでのんびりしてるよ」
「……隣、いい?」
「いいよ」
 摂津は坂本の隣に座った。ベンチは狭いため、2人の距離はけっこう近い。
 しかし、坂本は異性に対する想いは、ほとんどない。だから、こういう最高のシチュエーションでも、何も感じない。さらに、亀井が摂津のことを好きだということを、薄々感づいていた。摂津が亀井をどう思っているかは知らないが。
「今日のご予定は?」
 摂津が遠くの青空を見つめながら、尋ねた。
「特に……部屋で勉強でもしてようかな」
「勉強? 偉いね、さすが優等生」
「そんな……成績じゃ、摂津に敵わないよ」
 寮では、摂津がダントツで頭が良く、次が坂本と岩崎のどちらか。本多は普通より少し下で、亀井は毎回、赤点をぎりぎりで免れている。
「――じゃあさ、フミとどこかお出かけしてきたら?」
 摂津は坂本の顔を見ないようにして言った。
「岩崎と? 何で? あいつ暇なの?」
「うん。一緒に駅の辺りをうろついてきたら?」
 坂本は考える素振りをした。摂津は言ってから、岩崎に悪いことしたかな、と少し後悔した。
「そうしよっかな」
 だが意外なことに、坂本は了承した。

 岩崎と坂本は福島駅に到着した。岩崎の胸中は、複雑だった。嬉しいけど、いきなり過ぎる。
 岩崎は、坂本のことが好きである。そしてそれを摂津にだけ打ち明けていた。ところが彼の誕生日の朝、突然彼に一緒に出かけよう、だなんて言われて焦った。これは、つまるところのデートである。まったく、摂津は余計なことをしてくれる。
「どこ行く? 本屋でいい?」
 坂本が聞いてきた。
「いいよ。今日は誕生日なんだから、好きなところ行きなよ」
「ホント? じゃあ本屋の後、100円ショップ行こう。ハンガー欲しいんだ」
 坂本はいつもと全然、調子が変わらない。
 本屋に着くと、坂本はサッカー雑誌を手に取った。岩崎はまったく分からないので、近くにあった音楽雑誌を手に取った。雑誌を見ながら、岩崎は坂本を横目で見つめた。もし、想いが成就して、結ばれることになったらいいな、とは思うけど、同時にある不安が私の胸の内を締め付ける。大切な人を失うことに対する恐れだ。私は
両親と妹を愛していた。でも、愛していた分だけ、交通事故で失ったときの悲しみは大きかった。私が坂本のことを好きになればなるほど、その不安は大きくなる。
 急に坂本が雑誌を閉じた。
「今週のあんまり、よくないや。次、行こう」
 坂本に促されて岩崎は雑誌を置いた。2人は、本屋を出た。

 亀井と摂津が寮から歩いて15分かかるケーキ屋に向かっていた。本多が部活でいなくて、千葉も誕生日だから、ということで買い物に摂津がかってでて、1人じゃ淋しいから亀井を誘った、という次第である。
「なんかさ、俺たちって誕生日をしっかり祝いすぎてね。もっと簡素でいいじゃん」
 亀井がお得意の愚痴。摂津は笑って答えた。
「そうかもね。でも、家族なら当たり前でしょ。それに、美味しい料理食べれるのも、こういう時だけだし」
 摂津には、旅館時代の誕生日を祝ってもらえなかった、という過去がある、そういう理由もあるが、わざわざ言ったりしない。
「まあな。でも、今日も寮監が作るんだろ。自分のために最高の料理作れんのかね」
「坂本君のため、ってのもあるから大丈夫でしょ……あ、見えた」
 摂津が指差した先に、お目当てのケーキ屋があった。

 100円ショップでハンガーを買うと、2人は喫茶店に入った。岩崎はミルクティー、坂本はアイスコーヒーを頼んで、会話の合間に飲んでいた。
「ねえ、亀井君とマイ、怪しいと思わない?」
 話題は色恋沙汰になっていた。
「確かに。俺が思うに、コースケは摂津のこと好きだろうね」
 普段、寮では恋話は寮生以外ならいくらでもしているが、寮内に関してはタブー扱いされていた。そのため、2人はこの機会に言いたかったことを次々と口にした。
「やっぱりか……でも、マイは好きなのかな?」
 岩崎は砂糖を入れてスプーンでかき混ぜた。
「どうだろう――彼女、モテるからね。言い寄ってくる男子も少なくないだろうし」
「そういえばこの間、生徒会の島袋君と映画見に行ってた。おごってくれたから行ったらしいけど、どうなんだろうな」
「ああ、島袋か。あいつ、その後、摂津に告白して、見事に撃沈したから」
「え、そうだったんだ。じゃあ、違うね」
 時間がどんどん過ぎていく。学生に恋話をさせたら、ほとんどが長くなる。それだけ恋愛に関するネタが溢れている。
「――本多って恋してると思う?」
 坂本が思い出したように言った。
「え、ヒメ? わからないけど」
 岩崎は不安になった。もしかしたら、坂本はヒメのことが……。
「あいつ、恋とは無縁そうな性格だけど、見た目はいいから、狙ってるやつとかいるんじゃないかな」
「かもね。密かに彼氏いたりして」
「さすがにそれはないだろ」
 笑い合った。
 いつまでもこうしていたいと思った。でも、時間には限りがある。2人は寮に帰ることにした。

 千葉が希望したショートケーキを買って、亀井と摂津も家路についていた。
「おいしそう、寮監もきっと喜ぶね」
 摂津がケーキを覗きつつ言った。
「だろうな」
 亀井は短く相槌を打つ。
「寮監って、今年で19だから、来年はお酒にしよっか」
「そうか、寮監は来年から飲めるのか。いいなー」
「亀井君、飲んでみたいの?」
 摂津が妙に心配そうな顔をした。
「ああ、まあ。タバコは嫌だけど」
「ふーん。男子って、皆そうだよね……」
 摂津が少しうつむく。何を考えているのか分からない。分からないが、そんな姿が愛おしい、と亀井は感じる。
「来年、寮生増えんのかな。部屋あと5個しか空いてないじゃん」
「学習室も予備部屋だから、一応6部屋だよ。まあ、それでも少ないけど」
「下手したら、家族がまだいる俺や摂津は、寮を出なくちゃいけなくなるかもな。ないと思うけど」
 亀井は思いつきで言ったのだが、予想以上に摂津が深刻な顔をしてしまった。
「やだな……来年も再来年も、今の5人でいたい」
 亀井も同感だった。
 凍てつく風が2人を包んだ。これから冬の寒さは本格的になる。
 
 私には子孫を残そう、という意志を持った遺伝子はないのかしら。
 夕食を作りながら、千葉は変なことを考えていた。特定の誰かを好きになったことがない、つまり性欲がまったくない。周りの皆は恋をして、やがてやることやって、子孫をこの世に残していくのだろうが、私はそんな未来がまるで想像できない。
 といって、子供が欲しいとも思わないし、誰か私を熱烈に愛してくれる人が現れたら、その人と添い遂げようかな。
 寮のドアが開く音がした。千葉が振り向くと、部活帰りの本多がいた。
「ただいま」
「おかえり、姫っち。お疲れ様」
 本多は満ち足りた表情をしていた。バスケをいっぱいした後の本多は、いつもこの表情をする。
 寮生の中で、本多が最も恋愛をしている気配がない。千葉にとって、自分に1番近い存在が、目の前の少女なのだ。
「ねえ、姫っちは好きな人いるの?」
 本多はきょとんとした後、
「いませんけど」
 と答えた。
「誰かと付き合いたい、とか思う?」
「別に思いません」
「じゃあ将来、結婚したいと思う?」
「……さあ、まだ先の話ですし、分からないです。でも、誰か私に尽くしてくれる人がいたら、その人の優しさに報いたいです」
 千葉は共感した。それこそが言いたかった事なのよ。
「仲間だ」
 千葉は本多の手を握った。本多は頭の上に疑問符を浮かべながらも、その手を握り返した。
 同士が誕生したとき、恋する4人が続々と帰った来た。
 4人を加えて、千葉と坂本の誕生日会が和やかな雰囲気の中、執り行われた。その夜は、たいそう愉快な夜だったとさ。

 12月21日、東京体育館で女子バスケの全国大会が開催された。
 全国47都道府県の代表校が日本一を懸けてトーナメントで争う。男子も同時に行われていて、男女共にハイレベルなバスケを展開する。
 虹の花は、正直なところ、1回戦突破が危うい。何故なら初戦の相手は、去年のベスト4、神奈川県代表青葉高校だからだ。本多も半ば諦めかけていた。
「やっぱり厳しいね。まあ、全国だからしょうがないか」
 先輩と並んで歩いているときに、先輩が本多に言った。本多は一応、
「そうですね」と頷いた。
「全国レベルを味わって、来年には虹の花を優勝に導いてよ」
 本多は期待されているのは嬉しかった。だが、全国だから、と言って簡単に目の前の強敵を諦めようとしているのが悲しかった。
 こんなんだから、いつまでも福島から強豪校が生まれないのだ。強くなるには、まず自信をつけなければ始まらない。技術面をどんなに高めたって、気持ちを弱く持っていたら、戦う前から負けを認めているようなものだ。
「その前に、この大会で1つでも多く勝てるように、ベストを尽くしましょう」
 本多は言いたいことを少し抑えて、そう言った。
「そうね」
 先輩は短く相槌を打ち、髪を結わった。あまり戦意は感じられない。でも、もうこれ以上言っても無駄だろう、本多はそう思って諦めた。

 ついに全国大会の初戦がスタートする。コートには、周りよりも背の低い、だけど誰よりもバスケを愛し、バスケに愛されてきた少女がいる。彼女の名を本多姫代という。
 試合が開始された。
 あれは、雨の日だった。最初は、私のお母さんが死んだとき。生まれてすぐだったから、記憶があるはずないのに、その日が雨だったことだけは覚えている。もちろん、お母さんの顔をちゃんと見たことはない。写真を嫌っていたらしいから、本当に幼い頃の写真しかなく、だがそれは私によく似ていて、正真正銘の親子なんだなあ、と思わされた。
 生まれつき体が弱かったそうだ。何で私はこんなに健康体なんだろう、っていうぐらい。持病をいくつも抱えていて、私を生むかどうかもかなり悩んだそうだ。しかも、その相手は責任に苛まれたのか、妊娠が発覚してすぐに蒸発した。しかし、私のお母さんは強かった。生むことを決断したのだ。この決断がなかったら、私はこの
世にいなかったことになる。それを考えると、恐ろしいし、ありがたい。お母さんには、頭が上がらないよ。
 それでも、やっぱりお母さんは死んだ。私を残して、いなくなった。
 その後、私は祖父の家に預けられることになった。戸籍上の父親は蒸発し、それの親類も不明なため、お母さんの父親に養ってもらったのだ。おばあちゃんは、既にこの世の人ではなかった。
 おじいちゃんは、とても優しかった。一緒に遊んでくれたし、相談にも乗ってくれたし、勉強も教えてくれたし、何より私にとって大事なことを諭してくれた。
 でも、そんなおじいちゃんも私が中学卒業を間近に控えたときに逝ってしまった。
 この日も雨だった。朝から雨で、憂鬱な気分で学校に行き、いつものように時間を過ごし、普通に家に帰ってきた。すると、玄関でおじいちゃんが突っ伏していた。私はとっさに脈をはかった。そして、冷静な電話口調で救急車を呼んだ。あの時の私は、不思議なほど落ち着いていた。私は薄情な人間なのかな、と思っていたら、お
じいちゃんとの思い出が走馬灯のように脳内を巡った。そして、抑え切れないほどの涙が溢れてきた。
 ワタシハ、マタヒトリボッチ。トリノコサレテシマッタ。

 高校は、寮のある虹の花にし、寮でかけがえのない仲間たちと出会った。寮で過ごす日々は、楽しくてしょうがない。
 それなのに、皆裏切った。亀井君と舞衣さん、坂本君と文香さんはそれぞれ想いを抱き合っている。私は、のけ者にされてしまった。憎らしい――なんて、そんな感情はない。1人には慣れているし、別に仲間はずれにされている訳ではない。ただ、ちょっと淋しい……。

 試合が終わった。結果は、本多の奮闘も虚しく、大差で敗れてしまった。

 今年がもうすぐ終わる。12月31日にNHKの紅白歌合戦を見ながら、寮生たちは実感していた。1人も里帰りするものはいなくて(といっても、摂津と亀井、千葉しか帰る家がないけど)、6人でのんびり福島の寒い冬を過ごしていた。
 紅白が終わり、あと15分で新年を迎える時になって、
「じゃあ、行きますか」
 と千葉が立ち上がった。彼らは近くの神社に初詣に行く。
 彼らが何を祈るかは、分からない。
 星が綺麗な夜だった。こういう時にだけ、彼らは田舎で良かった、と思うのだ。都会のような夜も明るいところでは、星はまったく見えない。便利な生活を得た代償に自然の美しさを1つ失った。人間は何かを得ては、何かを失くしている。そして、それはこれからも続いていく。
 彼らが何を祈るかは、なんとなくなら分かる。
 楽しい寮生活を過ごせるように、かもしれない。甲子園に出場できるように、かもしれない。国立に行けるように、かもしれない。箱根駅伝に出られるように、かもしれない。吹奏楽コンクールの優勝かもしれない。バスケで日本一になることかもしれない。
 家族との再会、あるいは仲直りかもしれない。恋愛の成就かもしれない――。

 そして、虹の花でこれから過ごす日々が彼らにとって幸せなものになることを祈って、この小説を締めくくろう。

小さな寮の物語

小さな寮の物語

高校に併設された小さな寮で、高校を卒業したばかりの女性寮監とともに共同生活を始めた男女五人。彼らにはそれぞれの夢がある。暗い過去もある、絆もある、甘い恋もある、かもしれない。平凡な日常の中に潜むきらめきたちの物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-07

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