鼎立
付き合って数ヶ月経った男女が、デートの帰り、陰鬱な電灯の光に浮かぶ小さなラーメン店に入ってみると、カウンターにはもう誰もいなかった。
そのカウンターに沿って細長くのびた店内の床や天井は油や煤、埃などで塗り重ねられているが、内壁は映像を転写したように均質な橙色に染まっていて、そこだけ真新しく映る。奥のほうで店主がテレビの音を聞きながら、長ネギをみじん切りにしていた。
上着を脱いで二人が席につくと、店主は気だるそうに包丁を置いて湯を沸かしにかかる。
「翔君。ここ、よく来るの」
それまで店内を見回していた女が、息苦しさを誇示するかのように、パールのネックレスに手をかけて訊いた。
「時々ね。この店は、スープが隠れるくらい大量の葱が有名でね」
と町田翔はスマートフォンを手元に出しながら答える。
「へえ。おいしそう」
耳につく高めの声を放ち、女は口角を上げてみせる。その表情を確認して、男が注文する。
しばらく、店内は換気扇のうなりとニュース番組のアナウンサーの声だけになる。町田は少しのあいだ手元の画面に集中していたが、思い出したように昼間観た舞台の話題を女に振った。
「今日のはちょっと分かりにくかったかな。あの作品は劇作家の近藤が初期の頃に手懸けたものでね、突然閃いた一場面のイメージを基に、日本人の根底にある民族意識をリンクさせて、ひと月もかからずに仕上げてしまったそうなんだ。だからこそ場面々々の説明が足りなくて難解でもあるけれど……」
「シーンがどんどん次へと移っていくから、私、途中でついていけなくなっちゃった……でも、装飾がとってもよかった。――それに、あの脇役のお婆ちゃんの仕草が可笑しくって。男の人が演(や)ってるのに、全然違和感なかった」
「ああ。恩田のことか。彼は狡猾な老人の役をやらせると一級さ。そうだね、あの役は知り合いもよく演じていたが……」
町田は厨房のほうから立ちのぼる蒸気をしばらく見つめる。
「実はね、大学時代の同級生があの婆さんの役を昔演じていたんだけど、それを見たのがきっかけで観劇にハマるようになったんだよ。奴は今日の恩田よりももっと切実で、もっと観客に迫るような台詞回しをしていたな」
「そうなんだ。その人の演技、見てみたい。今はどうしてるの」
急に物思いにふけるような町田の瞳を覗きこみ、女は問うた。
「さあ……どうしてるのだろう。ここ二、三年は連絡を取ってないから。とにかく、体の中に何人もの人間を飼っているような奴なんだ。授業中、同じ教室にいるあいつを見て飽きることはなかったが、そのくせいつも何を考えていたのかさっぱり分からなかった……」
手元のケースから煙草をおもむろに取り出し、火を点す。町田は旧友金田の不審な言動を次第に思い出していた。ほの暗い店内の照明に吐き出した煙が重なり、無限の過去と未来が絡みあっていくように見える。気がつくと町田は、旧友の一見奇抜にとれる行為を語り始めていた。
「あいつは大学入学当初から教室の誰とも打ち解けてなかった。打ち解けようともしていなかった。こっちから声をかけようとして近づくと、じっとこちらを見て、声も漏らさずに笑うんだ。今日見た劇のあの卑屈な婆さんみたいにね」
「気持ち悪い」
舞台上でゴキブリのようにせわしなく立ち回る老婆の仕草を想起し、仁美は少し間の抜けた声を上げた。
「女子は陰でみんな奴を相当に悪く罵っていたよ。でも、金田は人の意見を気にするような小心者じゃない。あいつは毎回違う服装で通学してきた。それも、ジャージとか学生の私服とかでもない。ワックスで髪をしっかり留めてスーツ姿で教室に現れたこともあれば、着物に下駄を鳴らすこともあった。口癖や振舞も毎回微妙に違っていてね。和装のときは、囃子の「シラセ」を真似た甲高い声で腹から笑うんだ。まるで、教室を狂言の本舞台だとでも思っていたんだろう」
ふふ、と手の平で頬を支えたまま仁美は笑顔を作ってみせる。けれど、彼女の努力は虚しく目尻にしわを滲ませただけだった。男のほうは、いくらか興に乗ってきた風に、金田の奇行を身振りを交えて舞台役者のように伝えている。
「そう、授業のあいだどの教授も金田のことを見て見ぬふりをしていたね。ただ、あいつは、外見こそ不真面目に見えたが、中身は誰よりも勤勉だった。学内のどの科目の試験でもあいつはトップクラスだった。いつも最初にレポート課題を提出していたのもあいつでね」
店主が丼を並べて沸いた湯ですすいでいる。相変わらずテレビの報道番組は数日前都心で起きた連続殺人事件を報じている。容疑者の関係者がマイクを向けられ、出会った当初の印象などを口々に話す。誰にでも優しくて、殺人を犯すような人ではなかったと、判を押したような回答ばかりが繰り返される。そこに町田の大げさな話し声が覆いかぶさる。女は頭を声の方に少し傾けたまま、派手な色で彩られた指先で前髪を巻いている。
「ホント変な人ね、その人。どうやって仲良くなったの」
無表情な顔で自分の髪をもてあそびながら仁美は尋ねた。
「大したきっかけじゃないよ。休日にお洒落な女の子で賑わうようなガラス張りのカフェに、金田が両手を組んで往来をじっと見ているところに出くわしてね。しかも今度はスーツでも作業着でもない。球団のロゴが目立つ黄金色のキャップに紅白のスタジアムジャンパーだ。全くあいつの周囲はいつも異空間だったな。大学内でなければ話しかけやすい、そう思ってこちらに少しも気付かない金田に声をかけた。けれど、何度名前を呼んでも視線はガラスを突き刺したまま。仕方なく肩に手を置いてこちらを向かせようとすると、やつは眉間にしわを寄せて『なんや』と体勢を変えず唸り声だけ。自分は金田じゃない、緒方だ。人違いなんだと。思い出してみると、あいつは学科の試験で答案に偽名を使って後で教員に呼び出されることが度々あった。その“緒方”に何をしているのか尋ねると、あと一七分経てば、ある女性がここを母親と歩いてくるという。詳しく訊くと、あいつは一度興味を持った女性にはおよそ三ヵ月に渡って素行調査を行い、その女性の家族構成、出身地や住まい、仕事先や趣味や行きつけの店、一週間のスケジュールなんかを事細かに観察・調査するんだと説明するんだ。そつなくそう言ってのけるやつの様子に一瞬うろたえたけれど、普段の勤勉な姿からは想像のつかないその異常な言動に、その時の俺は面白いと感じてしまった。盗撮したという女性の写真を見せてもらうと、偶然にも金田が調べている女性は同じサークルの後輩だった。そのことを伝えると、金田は初めて俺に興味を示し、結局やつの借りているアパートに向かうことになった。大人四人も座れば手狭になるその居間には勉強机とその両脇に何列にもわたって教科書や書類の束が積み重ねられていていて、他の余計な家具は一切なかった。押入れにはびっしりと制服やコスチュームの類が並んでいた。足元のケースの中には、盗聴器などの電子機器がきちんと整理されて収まっていた。あの男なりのルールにそってモノが必要な場所に必要なだけ配置されているみたいだった。室内を舐めまわすように見ていた俺を制すと、やつは冬だというのに窓を完全に開けてから、床に手帳を広げて胡坐をかき、後輩の溝口さんについて事細かに質問をぶつけてきた。特に彼女のバイト先や好みのブランドについて詰問されたな。後になって分かったのは、あいつが“標的”の行動パターンや嗜好をいったん把握すると、必ず実際に同じ服装で同じ行動をとってみるということなんだ。それで“標的“と同じか、あるいは近親者の名前を名乗るようになってくる」
いよいよ不審者めいてきた旧友金田の執着心に恐怖を感じ始めたのか、仁美は髪を撫ぜていた手を止め、体をやや話し手の町田から離している。先程まで、男の話の節々に思いつく限りの感想を伝えていた唇は、やや開いたまま動かない。そんな彼女の変化に注意を払うこともなく、男は益々強まってくる懐古の念に突き動かされ、今や尽きることなく頭に浮かんでくる記憶の断片をつなぎ合せようと躍起になっていた。
「俺は益々面白くなって、溝口さんを紹介しようと提案してみた。しかし、やつは急にうつむき、瞳孔を小刻みに揺らしただけ。それから、三度『要らない』と首を振った。まるで近所の家に預けられるガキのように。その特異な発声の仕方にはどこか覚えがあった。当時、俺の下宿の近くに住んでいた婆さんの声によく似ていたんだ。その人は、昼間不気味に微笑を顔にたたえたまま、通りをぼんやり見て過ごしていてね、時折誰もいないのに横を向いて誰かの名前を呼ぶんだ。続けて何度も。そのことを思い出すと、とっさに俺は二人を引き合わせようと思いついた。お前の調べている溝口さんの幼少期をよく知る婆さんの居所を知っている。今は少々呆けてしまって彼女を我が子と勘違いしているが、育ての親ではあるから話を聞いてみればいいと」
「育ての親って、本当」
「もちろん、でたらめさ。その婆さんは溝口さんとは何の関係もない。でも、真面目なあいつはそれから度々俺を訪ね、その婆さんから聞き出した成果を報告してきた。時にアングラ演劇に惹かれていたようだったから、報告の後二人して街中の小劇場に繰り出すことも度々あった。午後の講義が無くなった日には、金田の参加していた学生劇団の練習をみて帰るようになった。今日上演された劇の存在も彼らが練習していたので初めて知った。いつの間にか俺たちは単なる知り合いではなくなっていたんだ」
――現代は生の尊厳を欠いている。疑いもなく甘受する安易な基準を、枠を、この現身とともに一度破壊し尽くさねばならない。
追憶のうちに、舞台上で旧友の叫ぶ声が聞こえてくる。懐かしさではなく、厳粛さをもって。
「調査を始めてひと月ほど経って、やつの手帳が小さく細かい字でびっしりと埋まってくると、にやにやしながら光沢のある一枚の紙を携えて、これから溝口の成績表を婆さんに渡しに行くと言ってきた。その厚紙の表には、彼女の素行調査の結果とそこから推察される行動心理と、各々の行動に対する評価を丸や三角などの記号で記してある。そこにはこんなことが書かれていた。かねてより地方の三姉妹の末の子として、貧窮にあえぐ生家の家事手伝いによって自己犠牲の精神を培った溝口茜は、惰性と腐敗の象徴でしかなかった故郷から離れ、学費を稼ぎ身を立てるにはと娼婦になるのも厭わず、そのくせ世間知らずで、未だはかりかねる自身の価値を売りに出せば必ず買ってくれる理解者がどこにでもいると信じている。しかし、女友達の間でも、彼女はもっぱら利己的で無知でなおかつ地味であって、雑務を任せる役にしかならぬとの悪評。これまで見聞きした世界が唯一とする愚かさと、増大していく痛みや妄想に身を投げうちかねない危うさを兼ね備えたあなたの娘は、誠に昨今の若者の陰を体現していて大変いじらしく○(まる)――。他の記述も、似たような断定的で、激しい批判に満ちたものだった。僕の知る溝口さんのイメージからかけ離れた金田の“溝口茜”像が紙面の上に出来あがっていた。この後、金田の見ている前で、細かい字でびっしりと覆われた“成績表”を読まされる婆さんを想像して、少し可哀想に思えてきたよ。彼女は批判されているのが自分の子どもだと勘違いして、怒りだすかもしれない。あるいは全くその状況がよく理解できずただ困った笑顔を向けられたあいつが不機嫌になるか。どちらにせよ、赤の他人同士が交際を深めていってやがては形骸化された昨今の家族より親密な関係になる、みたいな感動的なドラマは期待できなかったようだね」
思い出しながら、町田はこれまで不自然にも疑問にしなかった金田の行動の奇妙な点を認めてしまった。既に三本目の煙草をくゆらせながら、考えを巡らせた。どうして金田はつきまとっていた女性本人には(町田の知る限り)一度も対面することがなかったのか。“成績表”を何故本人に直接渡し、彼女の反応を見ることをしなかったのか。単に本人に会う勇気がなかったと思うこともできるが……。
「それで、そのお婆ちゃんの反応はどうだったの」
「分からないままだよ。路傍に腰掛ける姿もそれきり見なくなった。
僕も少し気がかりになって溝口さんに確認してみたんだけど、特に誰かにつけられた記憶もなかったそうだ。金田もそれきりもう俺に自分から話しかけてくることもなくなった。“成績表”のことを聞いても曖昧に返事するだけ。もうやつの気は済んだということらしい」
「結局よく分からないままか……。ほんとに実体験。どこからが事実で、どこまでが想像」
そうこぼすと仁美は、上体をさすりながらわざとらしく町田の方に近づく。いたずらっぽい瞳が男を覗きこむ。ピアスが室内の光を受けて怪しく輝く。
「実はね、最近、わたし引っ越したの。それまで住んでたアパート広くて居心地良かったんだけど、隣の男の人が、わたしが帰宅するのを待ち伏せて、部屋の扉を閉めるまでじっと見つめてきたりして気味が悪かったから。で、次に引っ越したとこの近くにも、また不審というか、変わってるというか。そう、その金田さんみたいな個性的な人が住んでいたの」
「引っ越したって。どこに。何かされたのかい」
「K駅のあたり。何もされない……ただにたっと笑うの。まるでチェシャ猫みたいに。平日のお昼によく公園のベンチで親子連れをじっと見つめてね、ほくそ笑んでるのよ。ずっと。広場にぐるぐる立ち回りながらぶつぶつ何か唱えているときもあるし。とにかく、あまり関わりたくないなーと思ってたんだけど、いつかU駅で突然声を掛けられて、道案内を頼まれたの。商談だっていうから、服装をよく見たらスーツはオーダーメイドの英国風のものだし、縦縞の入ったオメガの時計をしてた。彼の態度がとても紳士的でね、目的地までそう遠くなかったから案内してあげたの。その人ね、実はとっても話上手で、わたしのこと何でもすぐに当てちゃうの。どんな仕事してるかとか、これまでの恋人はどんな人だったかとか……。さっき会ったばかりなのに、表情と仕草で。怖いくらいに」
厨房から金属の触れる音が響く。寸胴に満たされた湯に卵黄色の麺が投入される。台上の二つの鉢にタレが注がれ、そこに煮立ったスープが湯気をまといながら流し込まれる。
「それでね、横断歩道を渡ろうとしたら、音が鳴るでしょ、リーローって。その音を聞くと、彼突然歩道の真ん中で立ち止まって肩からガタガタと揺れだすの。どうしたのかと思って顔を覗いたら、子どもみたいな泣き顔をして、何か訴えてるの。とりあえず、木陰に連れていって名前を呼んだり汗を拭いてあげるうちにだんだん落ち着いてきて、鞄を持たせてあげようとしたらね、それを引っ掴んで、『ほっといてくれ』って駆けていったの。わたし、意味が分からなくてその場でしばらく動けなかった。話している間は、あんなに優しそうだったのに――翔君、また違うこと考えてるでしょ」
腕を組み、頭上をぼんやりと見つめる町田に気づいて、仁美は腕を絡めて注意を促そうとする。
「なんだろう、いちいちその男の奇抜な行動が、一つの像を結ばないな。確かに金田に似ている……。そういえば、仁美ちゃんはどうしてそいつの名前を知っていたんだ。初対面だったんだろ」
仁美は大げさに首をもたげる。水平に旋回する彼女の視線の先は、人間の首を簡単に握り潰せそうな店主の逞しい腕にとまる。ざるに入った麺が平らな網の上で何度も返される。
「道案内の途中で彼から聞き出したのよ。なんてったけな。仲野……」
「彩人か」
「そう、仲野彩人だった。知り合いなの」
あれ、と町田の表情を目にして何かを訊こうとする仁美を遮り、
「そいつはその後君に連絡してこなかったか。どんなことを訊いてきた」
「連絡なんて……。どうやら今住んでるアパートの真向かいに彼の家があるみたい。それで三日くらい前にもわたしが家を出るとすぐに声を掛けてきて、この前の非礼を詫びたいって食事に誘ってきた、それきり。もちろんその場で断った」
急に語気を強める彼氏にいくらか戸惑いながらも仁美はゆっくりと現状を報告する。
「いいかい。仁美ちゃん。やつに声を掛けられても何も言うな。そいつは金田だ。仲野彩人という名は、あいつが学生時代に好んで使っていた偽名の一つなんだ。それに、あいつは女性を狙うときには、必ず生い立ちから念入りに調べ尽くしてから、目標の女性に偶然を装って近づいて、なんでも見通しているクレバーな人間のように振る舞うのが最善だと断言していた。まさに大学生の頃の金田そのものだよ、そいつは。明日にも俺がやつのところを訪ねて話をつけてくる。ストーカーまがいの行動は慎めとね。君も気の毒だけどもっと安全な場所に部屋を借りたほうがいい。費用は俺がもつから……」
話を遮るように、二人の頭上から丼が差し出された。細かく刻まれた青ネギが山と盛られている。
それから食事のあいだ、町田は不自然に明るい話題をまき、仁美は笑顔を振りまいた。ラーメンなど誰も味わっていなかった。男が金を出し、二人並んで引き戸を開け外に出ようとすると、後ろから店主の声がかぶさってきた。
「お兄さんたち。金田っていうのは、今ニュースに出てるあの男のことかい」
男はすぐに店主の示すほうに上体を向けた。女は一度足元に視線を落とした。テレビ画面には「金田」の文字と、二人の全く知らない人物が警察車両に乗り込む様子が映し出されている。都心の連続殺人事件の容疑者だという。
「違う。あいつはあの中にはいない」
無言のまま二人は寒夜の街に出た。陰鬱な闇に、彼らの記憶とは少し違った色の、月が吊り下がっていた。
鼎立