余剰

余り物みたいな日々を過ごしていた。

 慎二は焦っていた。それは「時間」という一つの名詞に含意される全ての歴史に対しての焦燥感であったり、誰かや何かに追われていたりするが故のものなどではなく、むしろその焦りは、一滴の水による波紋さえ浮かべていない、月並みな言葉で言えば「鏡」のように静かな面持ちで、慎二の心に切迫していた。慎二はベッドの上に腰掛けながら、遠くから聞こえ始めた打上花火の音に耳を傾けた。花火の音は遠い。見るまでもなくそう分かった。しかし、慎二にとっては、まるで心臓が二つに分離してしまったかのように思えるほど、重く、鋭く胸を突く音であった。鼓膜を介さずに心を直接震わせる音を、この打上花火の音以外に、未だに慎二は知らなかった。しかし、だからこそ、慎二は夏になるとカーテンを閉め切るようにしていた。フィルム写真の現像でさえも出来てしまうかもしれないなと、そう思えるほどに、ほとんど完璧に、遮光カーテンが窓を覆っていた。しかし、音は。音だけは、何をどうしても聞こえるから、仕方なく、慎二はその空気の振動を、心で受け止めるようにしていた。息が詰まる。部屋の中だというのにこんなに暑いのは、慎二がエアコンを付けていないからだろうか。本当にそれだけの理由なのかどうか、慎二には分かりかねた。だが一つだけ、たった一つだけ慎二にもはっきりと分かることは、今の自分に眠気がない、ということ、それだけだった。
 打上花火の音が止んだ頃、慎二はiPhoneを手に布団に包まり、部屋の電気を消していた。相変わらず眠気はなかったが、お気に入りの音楽を聴きながらTwitterを眺めていれば、どうにか寝られるのではないかと、そう思ったのだ。再生ボタンをタップすると、慎二の鼓膜は、クランチサウンドのエレキギターの音色に震えた。そのまま誰もいないTwitterのタイムラインをしばらく眺めて、無駄に何度か更新してみて、それでも新しいツイートは表示されないまま、まるで不愛想な睨めっこのように対峙していたため、慎二はそのまま目を閉じて、自分の世界へと逃げた。
 ほんの一ヶ月ほど前まで、慎二はスリーピースバンドを組んでいた。同じ中学校出身の友人二人と結成し、慎二が作詞作曲を担当していた。高校の有志バンドが出演するライブで自作曲を演奏した時には、数人のファンが出来るくらいには、良い音楽を奏でていた自信もあった。しかし、メンバー全員がそれぞれ異なる大学へ進学したこともあり、現在、これといった活動も、活動する予定を立てようとも、していなかった。そして遂に一ヶ月ほど前、耐えかねた慎二はバンドのメンバーに、メールを送ろうと思い立った。その内容は、勿論、友人との近況報告の意味もあったのだが、一番確認したかったことは、バンドの今後についてであったから、前置きは非常に短く、つまりは大変簡素で不愛想なメールであった。
「……バンド、どうする」
慎二のこの問いに、真正面から具体的な答えを提示するメンバーはいなかった。皆、心のどこかに、未練と表現すべきか定かではないが、蟠りのようなものを抱えていたのは事実だろう。慎二自身も例外ではなかった。しかしこれは、裏返せばバンドの存続は困難であるという現状を示唆していた。慎二にとって、自分の才能の限界を示されたようにも思えた。結局バンドを結成する発端であり、フロントマンであり、リーダーであり、メンバーの誰よりもバンドを愛していた慎二自身が、バンドの解散を決定し、バンドのTwitterアカウントで報告することになった。数人いたはずのファンは、その報告に反応さえしなかったから、慎二には、余計に自分のことが不憫に思われた。
 慎二は、焦っていた。死ぬまでに何かを残さねばならない、何かをしなくてはいけないという気持ちが、沸々と浮かんできた。閉じた瞼の暗闇に無意識を投影していると、イヤホンの奥から、先刻の打上花火の音が聞こえてきた気がして、言いようのない哀しみに包まれながら、いつしか慎二は眠りに落ちていた。眦には小さく涙が滲んでいた。
 翌朝、目覚まし時計の音に起こされた慎二は、汗でべたついた髪の毛をくしゃくしゃと掻きながら体を起こし、目覚まし時計を止めた。時刻は八時前だった。遮光カーテンの隙間から入ってくる日光の筋が、まるで定規を使って丁寧に引かれた直線のように真っ直ぐと、空間を幾つかに分けていた。部屋の電気をつけて、歯磨きをする。先程まで分けられていた部屋がひとつに戻るように見えた。慎二は自分の顔を見るのが嫌いだったため、いつも歯磨きは鏡に背を向けて行っていた。そのため、寝ぐせはいつも残ったままだった。着替えを済ませてから、昨日用意していた大学の支度を持ち、大学へと向かった。原付に乗っていつもの道を走っていると、慎二と一緒にロック同好会に加入した、高校からの友人が、ギターケースを担いで前を歩いていた。追い抜く直前に「翔」と、大きすぎず、かといって小さすぎない声で呼ぶと、翔はヘッドホンを付けていたが、声が届いたのか、慎二に気づいたらしく、軽く手を挙げ、振った。慎二も軽く手を挙げた。
 駐輪場に原付を停め、講義室へ向かう。講義開始にはまだ余裕があった。慎二は途中でジュースを二本買って、講義室に入った。というのも、翔は慎二と同じ講義を受講しており、夏場、この講義の際には慎二が翔にジュースを奢るのが、所謂習慣となっていた。そのお返しに、慎二は冬場、この講義の際は温かい缶コーヒーを奢ってもらうことになっていた。講義開始までイヤホンで音楽を聴いていると右肩を叩かれたので、イヤホンを外してジュースを差し出した。翔は「サンキュー」と答えて、ギターケースを降ろし、隣に座った。そして間髪入れず、ジュースを開けて飲み始めた。「なぁ慎二、お前まだバンド組んでないのか」ジュースを一気に飲み干した翔が、鞄からパソコンを取り出しながら、どこか慎二を諭すような口調で尋ねた。「ん、あぁ。まだバンド結成する気になれなくてな」と答えると、小さく溜息をついてから翔が「勿体ないぞ」と放り捨てるように言った。翔は、慎二の作る曲を聴いたことがあり、非常に好んでくれていた。つまりは慎二のファンだったのだ。慎二にとってはあまり理解できないことだったのだが、翔曰く、一週間前に解散したバンドのことは正直あまり好きではなかったらしく、単純に慎二の作る曲が好きだったらしい。あのバンドは、慎二の作る曲の良さを殺していた気がすると、そう言っていた。故に、解散には全く未練がなかったらしい。むしろ翔は、漸く慎二の曲の良さが復活すると思って、興奮さえしたらしい。慎二には、どこか腑に落ちない点があったが、しかし、それを言葉にするにはあまりにも翔の言葉が誠実に感じられたので、慎二は黙って、翔の言い分を聞くことしかできずにいた。
 講義が始まると、講義室全体の空気が張り詰める。といっても、大学一年生の間はほとんどの講義が教養教育科目であるため、単位さえもらえればいい、という魂胆の人が多数だろう。慎二や翔も、真面目に講義を受けているわけではなかった。一八〇分間、何をするでもなく、ただ興味もない話を聞くばかりであった。そんな中、翔が一枚のメモ書きを慎二の前に滑らせてきた。慎二は翔の顔を見た。翔は慎二に少し目配せし、まるで無邪気な子供のように、にかりと笑い、そうしてまたパソコンへと向き直った。慎二がメモを開くと、そこには、「なぁ、せっかく一緒にロック同好会に入ったんだ。俺とバンド組もう。勿論、慎二が作詞作曲だ。フロントマン。考えてみてくれ」と書かれていた。慎二の心臓が一瞬動きを止めた。まるで鼓膜を障子のように貼り直し始めたかのように、教授の声が遠ざかって消えた。
「他のパートは。ベースとドラムは、どうするんだ」
慎二はメモの裏側にゆっくりと書き、小さく畳み、翔に手渡した。翔は戸惑うことなくそのメモを開き、読み終わるや否や一気に返答を書き、手渡してきた。
「大丈夫」
慎二には翔の言葉の真意が分からなかった。しかし、心のどこかに不安で憂鬱な気持ちがある裏側に、期待感に似たような感情が浮かんでいるのも確かであった。慎二には、この曖昧な心情の理由も分からなかった。
 一八〇分の講義はあっという間に終わった。パソコンを鞄にしまった翔が、「慎二、今週末のサークルの飲み会、行くか」と、ギターケースを担ぎながら聞いた。「あぁ、土曜のやつか、」慎二は、元々行く気がなかったのだが、先程の曖昧な心情にやられたのだろうか、「行く、翔が行くなら、行くさ」と答えた。また、翔が笑った。「じゃあ、俺も行く」手帳を開き、今週の土曜日の枠に「飲み会」と書いた。翔と一緒に講義室を出て、学食に向かう途中、慎二は歩く速度を落とし、もう一度手帳を開いて、土曜日の枠に「メンバー探し」と書き、その後ろに小さく「?」と加えた。そうして、少し微笑んだ。土曜日が少し楽しみになった。慎二は、曖昧な心情のことを考えないようにしていた。それは、慎二にとっても無意識の作業であったため、言葉にして表すなら、忘れたとか、消えた、と書く方が正しいだろう。とにかく、慎二は今晩、もう一度歌詞を書いてみようと思い、学食の前で慎二の名前を呼ぶ翔に小走りした。
 大学での講義が全て終わると、慎二は一目散にサークルの練習室へと向かった。というのも、慎二は練習室に自分のエレキギターとエフェクターボードを置きっぱなしにしていたのだ。バンドを組む気がなかったから、全く困ることはなかったが、今日からは家に持ち帰っておこうと思ったのだ。練習室のドアを開けると籠っていた空気が慎二を出迎えた。他の部員が誰もいないことを確かめ、練習室の隅の方、うっすらと埃を被って忘れられていたギターケースとエフェクターボードを持ち上げる。懐かしい重みが、ずしりと、慎二の両腕にかかった。その時、背後から、「慎二」と名前を呼ぶ声がして、咄嗟に慎二は手を放して振り返った。それは、草薙部長の声であった。「お前、久しぶりだな。何か月ぶりだ」慎二が「四ヶ月です」と即答すると、草薙部長は「そうか。バンド、組むのか」と聞いてきたので、慎二は再びすぐに「たぶん、そうですね」と答えた。「よかったな。それじゃあ、」草薙部長はそこで少し言葉を選ぶように間を空けて、「頑張れ」と一言だけ言ってから、練習室の中に入り、あとは会話がなかった。慎二は草薙部長がドラムのセッティングをしている姿を暫くの間眺めていたが、余りにも無意識に立っていたことに自分で気づき、我に返ったようにギターケースとエフェクターボードを持って練習室を後にした。 
 草薙部長のドラムは、言葉では言い表せない良さがあった。それは勿論、技術面での上手さというものも含んでいたが、それだけではない、情緒的で感覚的な何かを含むような、そんな良さであった。慎二は内心、パートは違えど、草薙先輩のことを尊敬し、憧れていた。そのせいだろうか、練習室を背にして歩いている間、慎二は嫌に緊張していた。今すぐ練習室に駆け戻って、草薙先輩をバンドに誘いたい気持ちがしてならなかった。しかしそれを実行に移せるほど、慎二には未だ自分の才能に自信がなかったから、矛盾する自己の狭間で、慎二は、自分の家に向かって、前に歩くしかなかった。
 家に着いてからは早かった。エフェクターボードを机の上に置き、鞄とギターケースを降ろしケースからギターを取り出すとFender USAのテレキャスターが光ったように見えた。弦を軽く指で撫でると、どこかノスタルジックな音が小さく響いた。エフェクターボードを開くと、高校生の頃に貯金を切り崩しながら買ってきたエフェクターが三個並んでいた。慎二は久しぶりの感覚に浸りながら、カーテンを少しだけ開いた。薄っすらと夕焼け色に染まっていく空が広がっていた。慎二は、久しぶりに翔と晩飯を食べたい気分になった。
 財布の残金を確認してみると、皺の付いた五千円札が入れられていた。慎二は、財布と携帯を上着のポケットに突っ込み、翔の家まで原付を走らせた。翔は、まだ帰宅していなかった。「バンド練習か」慎二の目線は自然と大学の方向に向いていた。翔に「晩飯、食おう」とLINEを送り、翔の家の前で音楽を聴きながら待つことにした。慎二はぼんやりと今晩書こうと思った歌詞について考えていたが、本腰を入れて書こうとしないとまるで思いつかなかったから、いつも歩いている道が茜色に染まる様を、慎二は気にも留めずに、しかし同時にしっかりと眺めていた。翔からの返信が来るまで、慎二は茜色の街を眺め続けていた。

余剰

余剰

余り物みたいな日々を過ごしていた。

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更新日
登録日
2016-12-05

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