春はまだこない(天野しづか)

春はまだこない

春はまだこない
天野しづか

 カメラの音がパシャリとなる。それは遠い昔の記憶だった。乾いた音。フラッシュ。つるりとしたレンズが向けられた先には、彼女と彼がいた。たかれる光が嫌いでむずがる彼を、彼女は笑いながら引っ張り、シャッターを切らせるのだ。切る。
 もうそれは、永遠に訪れない景色だった。過去にしか存在しない景色。まさに写真のようなものだった。大切に残されているかのように見えて、もう二度と取り戻せない時間。過去へと沈んでいく瞬間をカメラは切り取る。だが沈んでも、その『時』だけは決して崩壊しない。腐食することもない。永遠に刻印しておきたいとの強い思いが、冷たい水底に沈めるのだから。内面は死んでも、外は変わらない。心は朽ちても、残像だけは鮮やかに残る。
 そんな風に、彼と彼女の未来は失われた。


 僕と最初の彼女が出会ったのは春だった。僕が朝に生まれた季節。彼女が夜に生まれた季節。僕たちは幼なじみで、生まれた時から一緒だった。もしもその表現が大げさだとしたら、記憶の最初から共にいた。いつも髪を短くし、男の子のように活発だった彼女をよく覚えている。
 僕はおとなしく、彼女は我が儘いっぱい。僕は青を選ぶけど彼女は赤を選び、僕が部屋で猫をなでていると彼女は犬と走ろうと無理矢理外に引っ張り出した。そんな風にあべこべで、ちぐはぐな僕らだったけど、大人になるまでそばを離れた時はなかった。一生共にいようと、幸せになろうと何度も誓ったからだった。だから、ずっと一緒にいるんだろうな、と思っていた。信じていた。ずっと。


 四番目の彼女である花子さんと出会ったのは、春が散って夏も燃え、秋が枯れ始めた頃。三番目の彼女と別れたすぐ後だった。手ひどい別れ方でとても落ち込み、食事もろくにとっていなかった僕を心配してくれたのが花子さんだった。相当ひどい様子だったのか、同僚という共通点と、何回か飲みの席で会話を交わしたことがあるという接点だけで、彼女はこちらが申し訳なくなるほど親身になってくれた。僕の泣き言も笑いながら聞いてくれた。
 えー、めくらさん、初恋の人が忘れられなくて振られたんですかあ? 別にいいと思うけどなあ。一途じゃないですか。ころころ好きな人が変わるよりもずっと。え? 私? ……私の好きな人の話よりも、好きなことについて話そうよ。その方が気分が明るくなるでしょ。へえ、めくらさん、青が好きなんだ。確かにそんな感じがするかも。私はね赤が好き。めくらさんと正反対ね。あとアウトドアするのも好きかな。昔やってたんですよー。今は全然時間なくて出来ないけど。好きな動物? うーん、大体好きだけど、犬かな。チワワとか可愛くて好きです。
 素敵だなあ、と思った。彼女の笑顔に、惹かれた。一緒にいたいな、と願った。

「これとかどうかな?」
「えー、なんでこれ……。」
 綺麗に整えられた眉をひそめながら、花子さんは僕が指さしたコートをとりあえずといった風に手に取る。何回目かの買い物。何回目かのデート。その頃にはもう僕たちは俗に言う、恋人同士になっていた。今日はクリスマスセールのデパートで彼女の服選びに付き合っていた。この後夕食をレストランでとり、初めて僕の家に招待するのだ。
 彼女から受け取った上着を丁重に手に取りながら、ゆるやかに波打つ長い髪を持ち上げ試着する姿をじっと見る。切ればいいのになあ、それ。と思いながらも、どうだった? と鏡を睨み付けている花子さんに声をかけた。
「やっぱり似合わないよ。」
「じゃあこれは? いいんじゃないかな。」
「だからなんでこれも、さっきのあれも赤なの?」
「赤が好きっていったじゃないか。」
「…………まあ、好きだけど。でも派手すぎない?」

 しぶる彼女だったが、人がごった返す賑やかなこの空間であって尚赤色のコートを着た姿ははっとするほど美しかった。あとは髪の毛さえ切れば完璧なのだが、そこは何も言わない。あまり注文をつけすぎると顰蹙を買うということは、三番目の彼女から既に学習済みだった。
「花子さんは色が白いからさ、赤がとても綺麗に映えるじゃないか。」
「ううん……。」
「この季節皆暗い色の服ばかりだから、鮮やかでいいと思うな。」
「…………。」
「前から言っているけど、花子さんは赤色が似合うよ。一番似合う。」
「……そう?」
 そこまで言葉を重ねたところで、彼女はついに折れた。眉間の皺もなくなっている。ただし会計を済ませた後、光溢れるデパートから出ながらも少し心配そうに聞いてきた。
「ねえ本当に似合ってた?」
「ああ。」
「大丈夫よね?」
「赤は君の好きな色だろう? それにコートを着た花子さんはとても綺麗だよ。」
「……まあ、赤は確かに私の好きな色だけど。でも、ねえ? あまり派手すぎると飽きるんじゃないかと思って。」
「飽きないよ。」
「本当? おばあちゃんになって着ててもそう言える?」
「百年先までもずっと一緒にいるからさ。ずっと言い続けるよ。」
 なんだか安っぽいわね、と花子さんは幸せそうに笑う。僕も笑う。ふと、彼女の髪に何かがついているのに気づく。雪だ。手を伸ばして出来るだけ優しく丁寧に雪を払う。僕の動作はがさつすぎると、二番目の彼女に怒られたことがあるからだ。
「あ、ありがとう。」
 照れたように目を伏せ、髪に手をやって笑う彼女に愛おしさを感じる。でも。
「どういたしまして。」
 と温かく返しながら、いつ髪切るのかなあ、と少し思った。


 浮気をしたの、と最初の彼女に髪の毛をいじりながら、何でもないように言われたのは、夏の季節だった。輝かしい初夏の朝。僕はすっかり伸びた彼女の髪を見つめながら、ただ、そうか、と呟いた。
 始まりは何時だったのだろう? 予兆は何だったのだろう? 気がつけば、彼女は僕の何もかもが気に入らなくなっていたようだった。食器の持ち方がいやだ。ゴミ捨てに行かない。帰りが遅いのは浮気をしているからだ。くだらないことばかり喋る。嘘をついている。僕はほとんど弁解しなかった。彼女はストレスが溜まっているのだと、自分に言い聞かせた。
 数年後罵声が飛び始めた。初めは抑え気味だったが、次第にエスカレートしていった。自分の何がいけなかったのかは、最早関係がなくなっていることは分かっていた。これを終わらせるには、彼女との関係も終わらせなくていけないのだということも知っていた。けれど、一生共にいると誓った。幸せにすると誓った。今が困難な時だからこそ、誓いを守らなくてはいけない。順調な時だけ約束を守るというのでは駄目だ。心が折れそうになるたびに、僕は色あせた子供の時の写真を見つめた。どこかの屋外で、彼女と僕がいる。犬と走ろうと連れ出された時だった。今は全く笑わなくなった、彼女の幼い笑顔を人差し指でなでた。僕は疲れていた。
 静かな夏。おだやかな朝。なのに、僕たちの空気だけは冷たく、訳も分からない寒さが肌をぴりぴりとちぎっていった。誰も片付けなくなり物が溢れてそのままになっているテーブル越しに、彼女を見る。髪を伸ばし、写真とはすっかり変わってしまった彼女を。
「浮気をしたの。」
「そうか。」
「出て行くわ。」
「そうか。」
「さよならね。」
 その時、その瞬間、何を思ったのか僕は今でも正確に思い出すことが出来ない。ただ、椅子から立ち上がり既にまとめていた荷物と共に、彼女が玄関に歩いて行く背に、髪の毛が揺れていたのを覚えている。髪。長い髪。あの時から長くなった、なってしまった、髪。机の上のがらくたの中から鋏を手に取り、立ち上がった。金属に光が反射する。赤だ。赤い光。全て照らし出された。眩いほどに。


 百一年目がこんなに早く訪れるとは思わなかった。
 気づけば部屋が壊れていた、花子さんのために新調したカーテンは引き裂かれ、念入りに掃除をしたカーペットはひっくり返され、清潔な布巾で拭った棚や椅子、全てが破壊されている。誰がやったのか。間違いなく、僕だった。

 彼女を家に招待し、飲み物を持ってくる為に少し待っているように告げた。お手洗い借りるね、という声に返事をした次の瞬間、悲鳴が聞こえた。見に行くと、案の定彼女が真っ青になりながら飛び出してきた。全身震えていて、とても可哀想だったので落ち着かせるために抱きしめようとしたら、振り払われ突き飛ばされた。
「あ、あ、あ、あれなに。」
 そう花子さんは顔を僕の方に向けたまま、ぶるぶると定まらない指を、先程飛び出した部屋に向ける。
「なにって。」
 言われてもなあ、と僕はその部屋をのぞき込む。そこには彼女がいた。二番目の彼女もいた。三番目の彼女もいた。皆赤い服を着ていて、皆髪がおそろいに短かった。
「っ、わ、私を、どう、するつもり。」
「別に何も。」
「じゃ、じゃあ。なんで、なんで付き合った、の。こ、こ、殺すつもり、だったの。」
 その問いに、僕は少し沈黙し、考えた。でもあまり長く黙っていると怒られるのは最初の彼女から学んだので、すぐに口を開いた。

「赤が好きって言ったから。」
「…………え?」
「赤が好きで、犬が好きで、活発な女の子だったから。」
「…………………。」
「笑ってくれて、ずっと一緒にいるって言ってくれたから。」
「…………………。」
「幸せにするよ。」
 あ、でも髪の毛は切って欲しいなあ。なんて。どうかな、と伺うように笑う。
彼女は、花子さんは、さっきまでの怯えたような目をしていなかった。僕を嫌いみたいな目を何故かもうしていなかった。二番目と三番目みたいな目ではなかった。ただ代わりに、とても虚しそうな、寂しそうな、苦しそうな目をして、僕を見つめていた。
「私。」
「うん。」
「あ、赤、ほ、本当は、好きじゃないんだ。」
「………………。」
「犬とかも、本当は、に、苦手。吠えるとか、こ、怖いし。あ、アウト、ドアも、全然、出来ない、し。やって、ない。」
「………………。」
「全部、う、嘘なの。めくら君初めてみ、見たときから、す、好きになって。それで、ほ、他の子から聞いたの。めくら君の、好きなもの。」
「………………。」
「か、彼女さんと別れたって、聞いた時、チャンスだって思った。性格悪い、とか自分でも分かって、たけど。でも、でもめくら君のこと、ずっと、ずっと好きだったから。」
「………………。」
「ねえ、めくら君も、っ。」
「ああ。」
「私を、あ、愛してくれるよ、ね。だよね。ねえ。」
「………………。」
「私は、……君に、っ……必要だよね?」
私はめくら君のこと、好きだよ。愛してるよ。
 めくら君がどんなことしても、ずっといるよ。どんな姿になっても、ずっと一緒にいるよ。
 なら私もめくら君に愛されるよね。
 赤が好きじゃなくても、犬が好きじゃなくても、外遊びが好きじゃなくても、初恋の、その子じゃなくても、私はめくら君の世界にいるよね。私は君に必要だよね。ねえ。
 突き飛ばして離れた空間をなくそうと、よろめきながら近づき、彼女は僕に手を伸ばす。抱きしめる。しがみつく。
 僕は彼女の言葉を反芻し、考えた。そして、しがみつく四番目の彼女を温かい両腕で抱きしめて、僕はいつも通り、光に照らされたように優しく笑った。
「別に要らないかな。」

 
 全てが終わった後、彼はしわくちゃの封筒から、写真を取り出す。子供のころの彼女と彼の写真。じっと、じっと、じっと見つめ、人差し指で彼女の顔をなでた。なで続けた。写真の保護膜はすっかり剥がれ、彼女の顔は真っ白になっていた。
 パシャリ。どこかでカメラの音が鳴った。

春はまだこない(天野しづか)

春はまだこない(天野しづか)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-05

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