事前


長い紐の先に結び付けたホイッスルは真っ白で新品だった。一応訊いてみると,何故か返事は「そうだぞ」と自慢げだった。スターターピストルと火薬が入った箱と一緒に受け取って,用具室を出た。ごちゃごちゃと邪魔だったから,ホイッスルはヒロシ君に渡したら,ホイッスルはやっぱり,ヒロシ君にぶーんぶんと振り回されることになった。当たったりしないように気を使ってくれているのか,ヒロシ君は私の先を歩いた。私は首にかけていたストップウォッチを手に取って,左のボタンでリセットした。ゼロが並んで,右のボタンを押して,その動作確認をした。問題ない。ちゃんと測れる。コーチが用具室から出てきて,ドアが閉められる音がして,廊下の向こう,肌寒さの原因である開けっ放しの窓から,別の甲高い音が聞こえた。きっと別の部活の基礎練の始まりだった。往復ダッシュか,外周か。校舎の構造のせいで見えないけど,大体の当たりをつけられる。その曜日と時間が決まっているから。だからあの角を曲がっちゃいけない。多分,勢いのついた,ガタイのいい男子とぶつかって怪我をする。お互いにとって,それは素敵な出会いにはならない。安全第一,は欠かせない。校内のどこであろうと。何であろうと,
上半身にジャージを羽織っていた。身体が温まる前はいつもそうで,短パンで素足の格好の助けにはなっていた。シューズはまだ履き替えていない。スパイクは持ってきている。他の部員のものと同じく,トラックの内側に並んでいるはず。几帳面なマネージャーであるミッチーが,一列五足の決まりで,それを三列並べているはず。サイズの不揃いはあるけれど,上から見るといつも見事な正方形だ。走者が位置につく度に,それは見事に削れていく。今日の走る順番は,私が後で,ヒロシ君がさらにその後だ。中距離に命をかけているとまでは言えないけど,エントリーしてもいいと思っている。だから私は割と真剣だった。ああ見えて,ヒロシ君も熱い。上下ジャージ姿は,脱げば直ちに走り出せる。だから今日の記録は大事だった。コーチの下手くそな発破だって効いていた。トクトク,と意識する度に早くなる。早く走りたい。
後ろにいるコーチが私の名前を呼んだ。そのまま立ち止まって来るのを待つつもりだったけど,手招きして,コーチは私を呼ぶ。仕方ないから,私は小走りになって,コーチの所まで廊下を戻った。すぐに着いた。コーチは今日の記録会について,私に指示をした。その指示に関して,私はコーチに質問をした。コーチは少し考える素ぶりを見せて,「任すわ」と私に一任した。じゃあ,とばかりに提案をして,コーチにはオッケーをもらった。「ヒロシにも伝えろよ」とコーチは言って,「はい」と私は応えた。今度はずっと前にいるヒロシ君の所まで,私はまた小走りになった。すぐには着かなかった。けど,着いた。足音が聞こえていたから,ヒロシ君はちょっと前からこっちを振り返っていた。ヒロシ君は何も振り回していなかった。長い紐の先で,ホイッスルがぶら下がって暇そうにしていた。
「指示?」
続けて「記録会?」とヒロシ君は私に訊いた。「うん」と答えて,私はコーチに言われたことをヒロシ君に伝えた。
「私に任せるって。みんなの意見も聞きたいな。ヒロシ君は?一発勝負か,トータルで決めるか。」
「悩むよなー。お前は?」
「一発勝負,かな。ヒロシ君はトータル?」
「どっちでもいい,が本音なんだけど,選出の理由がはっきりするのは,一発勝負の方だよな。トータルは納得できる説明が要るから。」
「上手くできそう?」
「自信ねぇ。」
「だね。」
「だなー。」
左手の階段を通り過ぎた。私たちのずっと後ろを歩くコーチはそこに差しかかったら,階段を上がって二階に向かう。プリントの印刷と,用事の電話を済ませた後で合流する。多分,私が走っている頃になる。コーチはその様子を見ながら,第一グループの結果に目を通して,第二,第三グループの順位とタイムの記録を終えた後で,私たちの意見を聞き,それらを参照する。だから,私たちの意見はそれまでに決まっているんだ。報告するのは,部を代表する二人。候補者の中から,じゃんけんぽんで決まったヒロシ君か,私。責任は重大だった。
「決を取るしかねぇかなー。」
とりあえず,という感じでヒロシ君が言った。
「過半数は決まる人数だもんね。」
それを補うつもりで,私が続けた。でも,あー,というダメだと言う代わりのような声を出して、ヒロシ君が指摘した。
「でも,決めかねるヤツ,出てくるかもなー。」
「そうなると,話し合い,だね。」
私も言った。
「俺らが主導しないと。意見をまとめとくか。」
「じゃあ,今のうちに言い合っとく?もっと詳しく,メリット,デメリットとか。」
「普段の実力,まあ底力みたいなのは,トータルで判断した方が見えやすい,とかか?」
「そうそう。あと,トータルで決める場合,第二回,第三回の記録会を実施するかどうか。日程考えると,頑張って第三回までだろうし。」
「判断材料を増やす,ってことか。あーあ。」
と,ヒロシ君は分かりやすく両手を上げた。紐がそれに沿って,ぶら下がっていた。揺れていた。
「走って決めたい。」
「走って決めるんだよ。どっちの場合も。」
そう言った私の方を見て,ヒロシ君の顔は驚いていた。「あ,そっか」と言っていた。
「そうだよ。だって,そういう部活だもん。」
「だな。問題解決せず。あー。」
それから唸ってばっかりのヒロシ君を見て,私は安心して笑った。胸の内にあるものを,代弁してもらっている気持ちだった。ジャージの表面で大人しくしているストップウォッチと,スターターピストル,箱から出した火薬を放り投げて,駆け出したくなった。校舎の構造上,意外と長い廊下の端から端へ,バレないように,短時間で。
「ま,やるしかねぇか。」
「そうだね。」
日陰になっている空間で,今は電気が消えている空き教室の前に差しかかって,靴箱まではもう少し。私たちは話し合った。ヒロシ君は紐を指にかけて回し始めた。私に当たったりすることがないように,私が立つ反対側で,新品のホイッスルが振り回されていた。鳴っていなかった。
声がよく響いた。気にしなかった。

事前

事前

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-05

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