ジローの伝言(2)

   五

 半蔵門線で二駅ほど揺られて清澄白河駅に着いた。
 地下鉄に乗っていたのは十分ほどだったというのに、階段を使って出た地上は、やけに眩しく映った。八月の終わりから二週間ほどが過ぎ、夏の盛りの頃からは、空気が乾いていた。その分だけ、陽射しを強く感じるのかもしれない。
 駅前に立てられた案内板で、私の事務所まで〝お越しいただいた〟金髪頭のカマキリ――菊地良明の名刺に記された住所を探した。どうやら〈オフィス・クリザンテーモ〉は、目の前にある〈清澄庭園〉とは、反対の方角にあるらしい。一番近い交差点を右に折れて、清洲橋通り沿いに歩いた。
 昨今の再開発で、この辺りにも新築の高層マンションが建ち並び、その住人を当て込んだ新しい店舗と、古くからの佇まいを残す建物が混在していた。ガラスをふんだんに使い、空に向かって伸びるマンションの隣は、陽焼けと排ガスで、モルタルの壁が灰色にくすんでしまった三階建てのビルだった。壁には〝深川ヂーゼル〟と看板が掲げられているが、そんな会社はもう営業していないようだ。入口のドアが開け放たれていて、青々とした観葉植物と家具やら調度品が並べられている。居抜きで新しい店を始めたのだろう。道路に向かって据えられた黒板を使った立て看板に、店名らしきものが記されているのだが――おそらく、スペイン語だ――かなりクセのある筆記体で、判別できなかった。
 〝深川ヂーゼル〟の隣からは、芳しいコーヒーの香りが流れてくる。こちらは新たに建てられたビルのようで、目に痛いほど壁が白く塗られた四階建てのビルの一階には、コーヒーショップが入居していた。店内では頭にバンダナを巻いた男が、サイフォンの前で難しい顔をして、コーヒーを淹れている。用事を済ませた後で、立ち寄るのも悪くない。
 もう一ブロック歩き、路地に折れた。この辺りは、再開発から漏れてしまったようで、生活の匂いが強く感じられた。肩を寄せ合うようにして並ぶ住宅、少ししなびた野菜を軒先に並べる八百屋、サインポールが動くことをやめても営業を続ける床屋――
 五十メートルも歩くと、四つ辻にぶつかってしまった。左に目を向けると、味噌と磯の香りを漂わせた〝深川めし〟と看板をぶら下げた食堂があった。四つ辻を右に曲がって〈深川江戸資料館〉を横目に見ながら二ブロック歩けば、清澄通りに戻ってしまう。ここまでの間に、〈オフィス・クリザンテーモ〉という看板もなければ、〝菊地〟と表札を掲げた住居もなかった。電信柱にある住所と照らし合わせると、名刺に記された番地はこの辺りになるはずなのだが。
 路地を引き返して、八百屋の店先に立った。扉を開けて入らなければならない床屋よりも、話がしやすい。店先には誰もいなかったが、ちょうどいいタイミングで、段ボール箱を抱えた男が店の奥から姿を見せた。頭にぺったりと張りついた短めの髪と下ぶくれした細長い顔は、そろそろ旬を終えようとしている店先のナスを思わせた。
 私は男に声をかけた。「ちょっと、訊きたいことがあるんですが……」
「はい、なんでしょう」ナス顔の八百屋が抱えてきた段ボール箱を足下に置いて、駆け寄ってきた。近づくにつれ、声をかけてきたのが、野菜を買うような男ではないことに気づき、表情から愛想笑いが消えてゆく。
「この会社に、行きたいんです」私は、金髪頭のカマキリが残していった名刺を差し出した。「この辺りになると思うんですが、ご存じですか?」
「会社ねェ……」八百屋は受け取った名刺を一度眺めてから、名刺を手にした右手を目から話した。ヘタのように張りついた髪は黒々としているのだが、細かい文字は眼球運動でピントを合わせるよりも、距離を調節した方が読みやすいと感じる年頃のようだ。
「〈オフィス・クリザンテーモ〉という会社なんですが……」
 名刺からを離した八百屋が、難しい顔を作った。
「なにか、問題でも?」
「いやァ、問題っていうかさ……」八百屋は名刺を私に戻すと、路地に出て右手で二軒先の家を指差した。「住所はさ、あの家なんだけど――」八百屋の指差す先には、路地に面した玄関先に、植木鉢を並べた家がある。「あそこは、フチってのが、住んでんだよね」
「フチ……さん? 菊地さんではないんですか?」
「菊地? あんた会社探してるって言ったよね?」
「ええ。〈オフィス・クリザンテーモ〉という会社です」
 八百屋は首を捻って「会社の名前、変えたのかな……」と呟いてから言った。「フチがやってる会社は、〈キクチ企画〉っていうんだよ。それに、カミさんに〝仕事と家庭は、別にしてくれ〟って言われて、別のとこで仕事するようになったはずなんだけどな」
 〝クリザンテーモ〟はイタリア語で「菊」という意味だ。八百屋が言うように社名を変えたのか、菊地良明が〈キクチ企画〉をもじって、〈オフィス・クリザンテーモ〉を名乗ったのか。どちらにせよ、自分の目で確かめるのが一番だ。
 私は訊いた。「その〈キクチ企画〉が、どこに移転したか、ご存じですか?」
「ああ、知ってるよ」と言ってから、八百屋が〈キクチ企画〉の移転先を説明し始めた。
 なんのことはない。〈キクチ企画〉の移転先とは、〝深川ヂーゼル〟の看板を掲げたビルの隣、コーヒーショップのあるビルの二階だった。
 私は八百屋にお礼を告げて、踵を返した。再び清洲橋通りに出て、〈キクチ企画〉へと向かう。一階のコーヒーショップでは、先刻までサイフォンを睨みつけていた男が、今度は太い腕でコーヒーミルを回していた。男の真剣な顔つきを見て膨らんだ期待は、店先にぶら下げられた木製のボードに、〝当店はコーヒーの香りを楽しんでもらうため、禁煙です〟と注意書きされているせいで、一気に萎んでしまった。煙草の匂いに負けてしまうようなコーヒーなど、クソ喰らえだ。
 コーヒーショップの脇にある入口からビルに入った。私の事務所がある雑居ビルの半分ほどの奥行きで、エレベータは設置されていない。もっとも、〈キクチ企画〉は――案内板に記された社名は〝菊池〟だった――二階にあるので、わざわざエレベータを使う必要はないのだが。
 真新しい白い壁のせいか、あの雑居ビルよりも明るく感じる階段を上がると――こればかりは、あの雑居ビルが古いだけでなく、西日しか当たらないせいもあるのだが――コバルトブルーのドアがあって、日本語と英語で表記されたアイボリーのプレートが貼られていた。〝Kikuchi Planning〟というプレートの下をノックする。返事がない。
 今度は強めにドアを叩いた。やはり、返事はない。
 ドアノブに手をかけて、手前にそっと引くと、鍵のかかっていないコバルトブルーのドアは、思ったよりも軽く開き、〈菊池企画〉に踏み入れた私を出迎えてくれたのは、黄色い声だった。入ってすぐの右側、ペパーミントグリーンのパーティション越しに聞こえてくる。姿は見えないが、若い女がふたり、仕切りの向こう側でお喋りに興じている。ふたりの話しぶりでは、私のノックに気づかないのも無理はない。ただ、それ以上に彼女たちの嬌声が、外にまで漏れていなかったことに驚かされた。このビルがまだ真新しいからだろうか。あの雑居ビルなら廊下はおろか、確実にビルの外にまで届いているはずだ。
 フロアの右壁には書類棚が置かれ、左壁はポスターとカレンダーに占拠されていた。ポスターとカレンダーのどちらも、映画かドラマのものだった。私でも知っている俳優の顔がいくつか見られた。デスクは五台あるが、対面して配置されたデスクに人の姿はなく、一台だけこちらを向いた一番奥のデスクに、薄いピンク色のワイシャツを着て眼鏡をかけた男が、デスクトップパソコンを前にしていた。このやかましい環境で仕事ができるとは、彼は怖いほど寛容なのか、それとも畏るべき集中力の高さがなせる業なのか。
 私はこの〝騒音〟に負けてしまわぬよう「すいません」と声を張った。彼は反応を示さない。もう一度、奥のデスクに向かって声をかける。
「――なんですかァ?」答えはパーティション越しに返ってきた。
 私の肩ほどの高さにあるパーティションの向こう側を覗くと、そこは簡単な応接スペースのようになっていて、赤いTシャツにデニムのショートパンツ姿と、花柄のアロハシャツに淡いブルーのフレアスカート姿のふたりが、私を見上げていた。ふたりとも年の頃は二十歳そこそこで、大人びて見せようと施した化粧が、幼さを際立たせていた。
「訊きたいことがあるんだけど……」目が合ったショートパンツを履いた女に言った。「きみたちは、ここの人?」
 彼女は首を傾げてから、もうひとりに視線を送った。その視線を受けたアロハシャツの女も、首を傾げる。
 ――そんなに難しい質問はしていないはずだが
「ちょっとォ、待っててもらえますゥ」舌足らずの間延びした口調で言うと、ショートパンツ姿の女が立ち上がった。ピョコピョコと跳ねるようにして、フロアの奥へと駆けていった。
 さすがに彼女が視界に入ったのか、男はすかさず両耳に手をやった。なんのことはない。彼を寛大にし、集中力を研ぎ澄まさせていたのは、耳栓だったのだ。
 私を見ながらショートパンツ姿の女が二言三言ささやくと、男の目も私の方へと動いた。居住まいを正して、立ち上がった。「どうも、すいません。気づかなくて……」深々と頭を下げる。
「いいえ。こっちも突然、来たんです。あまり、気にしないでください」私は言った。「……さて、お訊きしたいことがあるですが、よろしいですか?」
「昼食に出払ってしまって、社員は私ひとりになるんですが、構いませんか?」
「ええ。構いませんよ」私は〈菊池企画〉の奥へと進み、名刺を差し出して自己紹介をした。
「探偵さん?」かけていた眼鏡をずらして、私の名刺に目を落とした。男がかけているのは、老眼鏡だ。
 薄いピンク色のワイシャツに、濃茶のカラージーンズ――若々しい恰好をしているが、男の年齢は八百屋のオヤジと、そう変わらないくらいなのだろう。よく見れば、ゆるくウェーブのかかった長めの髪には、白いものが混じっている。
 男は「ああ、そうだ」と言って、慌ててデスクの抽斗を探り、名刺を差し出した。「私、〈菊池企画〉の社長で、フチといいます。それで……探偵さんが、いったいなんの用なんです?」
「この名刺に書かれた住所を頼りに着たんですが……」私は上着のポケットから名刺をもう一枚、手渡した。「この人をご存じですか?」
 〈菊池企画〉の社長、渕建太は再び老眼鏡を額へ持ち上げて、金髪頭のカマキリが残していった名刺に目を通した。「菊地……」
「そうです、菊地良明さんです」
「あいつ、またこんなことを」と呟いた後、渕が訊いてきた。「どこで、これを?」
「私の知り合いがもらったそうなんです。まァ、それで、その……〈オフィス・クリザンテーモ〉ですか、その会社が、どんな会社か調べて欲しいと頼まれましてね」さらっと、その場を取り繕った。
 まさか、ナンパ目的で渡された女から名刺を頂戴してきた、などとは言えない。ましてや、その名刺を渡した男に、事務所の前で襲われて、怪我までさせられたことなど、もってのほかだ。
「そうですか。あなたの事情は、わかりました」渕は持ち上げていた眼鏡を戻して、言った。「その名刺に書いてある住所は、私の自宅です」
「渕さん……あなた先ほど、〝またこんなこと〟と仰いましたね。ということは、彼はこの会社に関係があるんですか?」
 私の質問に、渕は唇を強く引き結んでしまった。ただ、押し黙った渕が回答を拒否しているようには見えなかったので、私は彼の言葉を待つことにした。
「――ねえねえ」しばしの沈黙を破ったのは、舌足らずな声だった。「フッチー、この名刺の人ってさァ、キクリンでしょ?」渕の手にした名刺を覗き込む。
「ユナ、ちょっと黙ってて」フッチーと呼ばれた渕がショートパンツ姿の女――ユナに告げ、キクリンこと菊地良明の名刺を私に戻してきた。
「あァ、ひっどォい」ユナが頬をふくらませた。厚い化粧のせいなのか、ユナの仕種はあどけないというよりも、幼稚に見えた。
 渕は尻のポケットから財布を取り出し、財布から五千円札を抜き出して、ユナに渡した。
「なに、これ?」とユナ。
「昼メシを食べてらっしゃい。あの……なんだ。新しくできたクレープのレストランに行きたいって言ってたよな」
「〈ゲクラン〉のこと? あそこで出るのは、クレープじゃないよ、ガレットだよ。それに、〈ゲクラン〉はレストランじゃなくて、カフェだよ」
「どっちでもいいから……とにかく、その〈ゲクラン〉に、リサとふたりで行ってらっしゃい」渕は噛みしめるようにして、ユナに言った。
「はァい」と、ふくれっ面で返事をしたユナだったが、アロハシャツ姿の女――リサと肩を並べて出かける頃には、先刻のように耳栓が必要になるほどの嬌声を上げるまでに、機嫌は治っていた。
 騒々しい背中が事務所を出ていくのを見送った後、渕は大きく息をついてから、ユナとリサが占拠していた応接スペースへと招き入れた。
「賑やかな会社ですね」渕と向き合って腰を降ろすと、胸の裡が思わず口をついて出た。
「いやァ、面目ないです」渕は恐縮しきりに、頭をかいた。
「先ほど、社員は出払っていると仰ってましたよね」
「ええ」と渕は答えた。
「彼女たちは、ここでなにをしてたんです?」
 平日の昼日中に、社員でもない二十歳そこそこの若い女が出入りしている――〈菊池企画〉は、なにを商っているのか。
「ああ、ユナとリサですか。あの子たちは、ウチに所属しているタレントです。ウチは、小さいですけど、芸能事務所なんです。彼女たち、ああ見えてウチでは売れっ子なんですよ」渕は老眼鏡の奥にある目を伏せて、最後につけ加えた。「お恥ずかしい話ですけどね」
「売れっ子……ですか」〈ドゥーシュバッグ〉の〝門番〟が聞いたら、なんと言うのだろうか。
「スーパーのチラシのモデルから、ドラマのエキストラに、街頭インタビューの回答者……まァ、小さい事務所だから、なんでもやってもらってます」
「街頭インタビューの回答者? あれは、タレントなんですか?」
「ええ。テレビ局が思ってるように、誰もが答えてくれるわけじゃないですから。タレントを何人かにひとり、ふたり混ぜておくんです」渕は優しい口調のまま、さらりと言った。
「シナリオがある、ということですか……」
「そういうことになりますね。ただ、この事務所を継いだばっかりの頃は、私も驚きましたよ。そんなことがあるんだって」
「継いだばかりの頃……じゃァ、渕さんは、二代目になるんですか?」
「はい。この会社は、カミさんのお父さんが始めたんです。そのお父さんが、五年前に亡くなったので、私が後を継ぎました。社長なのに、名前が〝菊池〟ではないのは、そのせいなんです」
「では、後を継ぐまでは、なにを?」
「学校の教師……横浜の県立高校で古文を教えてました」
 ユナとリサ――彼女たちが、渕の言葉にあっさりと従ったのは、渕が単に社長だからということだけではなく、あの年頃の娘たちを従順にさせる術を、前の稼業で身につけたからなのだろう。私の前の稼業では、まず身につけられない技術だ。転職前の稼業で、渕と私に共通点があるとすれば、それは他人様の税金でメシを食っていた、ということだけだ。
「それで、あなたがお訊ねになられた良明……いや、菊地ですがね」渕の方から本題を切り出した。「彼は、私の教え子なんです。あいつ、サッカーが上手くてね。三年のときには、県代表にまでなったんです。高卒でプロ……というわけにはいかなかったんですけど、大学には推薦で進学しました。ただ、残念なことに、大学の二年のときに膝を壊しましてね。それで、サッカーをやめざるを得なくなってしまって……〝いつかはセリエAでプレーするんだ〟なんて言って、独学でイタリア語の勉強をしたりしてたそうなんですけどね」
 いつの日か、スクデットをその手で掲げたいという夢へのたゆまぬ努力は、インチキの名刺に〝クリザンテーモ〟と刷り込むことで実を結ぶことになった。人生、なにが役に立つのか、わかったものではない。
 渕が話を続けた。「ちょうど、私がこの事務所を継いだばかりの頃になりますか……あるイベントの会場で偶然、菊地に会ったんです。あいつは、そのイベントのスタッフのアルバイトをやっていたので〝なんなら、ウチで働かないか〟って、名刺を渡したんです。あいつも〝いつか遊びに行きます〟なんて言って、しばらくは、ちょくちょく顔を見せに来てたんですけど……そのうちに、パッタリ寄りつかなくなってしまいました。ちょうど、私も忙しい時期だったもので、またいつか顔を出すだろう……なんて甘く考えていたんです。そうしたら――」
「ある日、住所を勝手に使われてしまった……というわけですか」
「ええ。お恥ずかしい話なんですが……二年前のことなんです。その頃、菊地はキャバクラで、女の子をスカウトする仕事をしていたそうなんです。それで、スカウトした女の子を信用させるために、ウチの名前とここの住所を名刺に使っていたんです」
「警察沙汰になって、そのことがわかったんですか?」
「いいえ。違います。スカウトされた女の子の父親が、怒鳴り込んできたんです。〝ウチの娘はまだ未成年だ。警察に訴えるぞ〟って。まァ、事情を説明したら、その父親も理解をしてくれたからよかったものの、二年前は自宅を事務所にしていたものですから、大騒ぎになってしまいました。それで、ご近所に迷惑をかけるわけにもいかず、事務所をこちらに移したんです」渕はまくし立てるように話した後、訊いてきた。「あいつ、まだこんなことをしてるんですか……どこにいるんです?」
「それを訊きたいのは、私の方です」
「仰るとおりですね……ホントにお恥ずかしい話です」本来なら、会社の名前を勝手に使われた経営者として、怒りを露わにしていいはずなのに、渕はうつむいて畏まってしまった。彼にとって菊地良明はまだ〝教え子〟のひとりなのだ。
 私は小さくなってしまった渕に訊いた。「あなたは、菊地さんの居場所をご存じではない?」
「はい。私の方が知りたいくらいです」渕が顔を上げた。「いや、探偵さん、あいつの居場所を探してもらえませんか? ウチの看板に泥を塗るようなヤツは、許せませんよ」科白は経営者のそれだったが、表情は別の稼業のものだった。
「結局、彼のことを……菊地さんを捜さなければ、ならないようですからね。彼の居場所がわかったら、お伝えしますよ」
「そうしていただけると、助かります」
「あァ、そうだ」私は元教師に念のため訊いた。「ジローという名前に、聞き覚えはありませんか?」
「ジロー……ですか?」
「ええ。どうも、菊地さんと関係があるようなんですが」
「いやァ、ありませんねェ……」渕が言った。「でも、なにか思い出したら、連絡します」
「こちらこそ、そうしていただけると助かります」
 私は椅子から立ち上がり、コバルトブルーをしたドアを開けて、元教師が経営する〈菊池企画〉を後にした。
 清澄白河まで出張ってみても、まったくの収穫はなかった。一階に漂うコーヒーの香りが、私の心を癒すことはなかった。どうせ、煙草の香りに負けてしまうようなコーヒーなのだ。とにかく、次の算段は鴨南蛮か深川めしでも食べながら、考えることにしよう。
 雑居ビルの入口では、ユナとリサが立ち話をしていた。昼食から戻って来るには早すぎる。私たちが話をしている間、ここでおしゃべりに興じていたのだろう。若さとは、無駄に使える時間を多く持っているということなのだ。
「あ、探偵さんだ」ショートパンツ姿のユナが私に気づいた。彼女は先刻、渕が手にした私の名刺を覗き見ている。「探偵さん。キクリンのこと、捜してるんでしょ?」
 私は軽く会釈をして、ユナとリサの脇を通り抜けた。私に使える無駄な時間は、そう多くない。
「シカトするなんて、ひっどォい」背中越しにユナの声が聞こえた。「キクリンが今なにしてるか、わたしたちは知ってるんだよ」
 私は立ち止まった。「どういうことだ?」
「一緒に〈ゲクラン〉まで行ってくれたら、教えてあげる」ユナが答えた。
 振り返ると、ユナとリサがいたずらっぽく微笑んでいた。

   六

 牛に曳かれていくのが善光寺であるとすれば、うら若い乙女たちに連れていかれるのは、流行りのカフェだった。
 〈菊池企画〉を探した路地を通って、〈ゲクラン〉なるカフェへと向かっていた。私の前をユナとリサが、歩いている。肩を並べておしゃべりしながら歩くふたりの後ろをついていく私を、八百屋のオヤジが好奇の目で見ていた。初秋独特の鋭い陽射しよりも、痛く感じられたオヤジの視線に、前を行くふたりは気がついていないようで、その足取りは軽やかだった。
 先刻は引き返すことになった四つ辻を通り抜けて、一〇〇メートルほど歩くと、路地に沿う形で行列ができているのが目に入った。行列はヨーロッパ家屋を模した木造家から伸びている。
 前を行くアロハシャツを着たリサが「うわッ」と声を上げた。彼女たちも、行列に気づいたようだ。ふたりは立ち止まり、揃ってこちらを振り向く。
「〈ゲクラン〉ってのは、あの店か?」
 ユナとリサは私の問いかけには答えず、顔を見合わせると、唇の端をキュッと上げた。それから、含みのある笑みを残して、ふたりは再び〈ゲクラン〉に向かって歩き始めた。
 どうやら、下町風情を残す辺りの町並み――もう少し歩けば、富岡八幡宮だ――の中で一際目立つ〈ゲクラン〉の行列に並ばされることになるらしい。よく見れば、並んでいるのは、ユナとリサと同年代の若い娘たちで、私のような中年男の姿は見当たらない。
 大きく息を吐き出してから、彼女たちの後に続いた。しばしの間、恥をかくだけのことだ。早々に彼女たちから話を聞き出してしまえばいい。羞恥心と自尊心いう感情は、この際ひとつにまとめて、胸の奥にしまい込んだ。
 そんな私の決心を余所に、ユナとリサは長蛇の列に並ぶことなくハーフティンバー様式をした〈ゲクラン〉の中へ入ってしまった。私も後に続いて〈Bertrand du Guesclin〉と書かれた看板の下をくぐる。最後尾に回らなかったユナとリサに対して声を上げることなかった若い娘たちは、咎めるような視線を私にぶつけてきた。列に割り込まれることよりも、自分たちには似つかわしくない異分子がテリトリーに侵入することの方を、〝常識外れ〟と感じるらしい。もっとも、列をなす若い娘たち以上に、私自身がここにいることを〝常識外れ〟だと思っているのだから、お互い様と言うべきなのかもしれない。
 店に入ってわかったのだが、店の入口近くにあるカウンターが列の先頭だった。カウンターの上に置かれたコルク製のボードには、〝A・本日のガレット B・本日のクレープ〟――おそらく〝A〟はランチで、〝B〟はデザートだ――と書かれていた。カウンターの中にいる清潔なコックコートを着た三十代前半の優男が、テイクアウトのガレットだか、クレープだかの注文をさばいていた。私の位置から厨房を覗くことはできないが、カウンターの奥から香ばしい匂いが強く漂っている。
 ユナとリサは、カウンターの先でウェイトレスと立ち話をしていた。肩の辺りで切り揃えられたきれいなブロンド髪は染められたものではなく、青い瞳は生まれついてのものだった。
 一六〇センチほどのユナより少し背の高いブロンド髪のウェイトレスが、私に気づいた。接客業特有の柔らかな笑みをたたえる。
 ――さて、私はフランス語を話せないのだが
「いらっしゃいませ」彼女の口からこぼれたのは、流暢な日本語だった。「ユナちゃんとリサちゃんと、ご一緒なんですよね?」
 不意のことに動揺した胸の裡を隠すため、私は短く「そうだ」と答えた。
「三名様、こちらへどうぞ」そう言って、ブロンド髪のウェイトレスは店の奥へと招き入れた。
 いたずらっぽい笑みを残して、ユナとリサがウェイトレスの後を追う。
 七つほどあるテーブル席は三組の先客で埋まっていた。三組とも女同士の客だったが、表の通りで列を作る客よりも、年齢層は高かった。店の中を進む私たちに、今度はそれぞれのテーブルから訝しむような視線が注がれていた。ユナとリサには〝まだ若いくせに……〟。そして私には〝若い娘を誑かしてどうする気?〟――
 私たちは、フロアの奥にある先客からは少し離れたテーブルに通された。ブロンド髪のウェイトレスにとって、〝招かれざる客〟ではないにしろ、私たちは異質に映っているようだ。肩を並べて席についたユナとリサと向き合う恰好で、腰を降ろした。
 ウェイトレスは、メニューを配り、テーブルにあらかじめ置かれていた瓶からグラスに水を注いだ。ユナとリサはメニューを開いて、ひそひそを話し始めた。煙草を喫いたいところだが、この手の店は禁煙と相場が決まっている。諦めて、腰の高いグラスに入った水を一口だけ飲んだ。
「あのォ……」ユナが、メニュー越しに私を覗き込んできた。
「なんだ?」
「キクリンのこと話すからさァ――」例の間延びした口調で言った後、ユナはメニューで顔を隠した。
「――ここで、昼メシを奢ってくれ……そういうことだろ?」彼女が口に出せないことを、私は口にした。
「さっきィ、フッチーからお金もらったんだけど、わたしたちィ……今、ちょっとお金がないからァ――」顔を隠したまま、ユナが言った。隣のリサも同じ仕種をしている。
 メニューに隠れたふたりの顔色を見抜くのは、たやすいことだった。「奢ってやってもいいが、他人にモノを頼むときは、ちゃんと頭を下げるんだな」
 ユナとリサはメニューをひとまず置いて、互いに目を合わせた。そして、アロハシャツを着たリサが小さく「せーの」と声をかけ、ふたりそろって頭を下げた。「お昼ご飯、ごちそうしてください」
「わかった。まずは、食いたいもんを選べ。話はそれからだ」
「はァい」ふたり揃って声を上げ、メニューの選定に戻った。
 なにやら出来の悪い生徒を連れてきた学校の先生にでもなった気分だ。元教師だという渕でも、心労が絶えないに違いない。
 テーブルの傍らに立つウェイトレスは、握りしめた右手を口元に当てていた。肩が小さく震えている。彼女には、微笑ましい光景にでも映っているのだろうか。
 やがて、リサがメニューを閉じた。「わたしは、Aセットにする」
「ええェ、そっちにするのォ?」ユナが、メニューの向こうから声を上げた。不意を突かれたのか、慌てて「じゃあァ、ユナは〝B〟にする」と続けた。
「リサちゃんがAセット、ユナちゃんがBセットね」ウェイトレスはふたりのオーダーを復唱した後で、こちらに視線を運んだ。
「ホットコーヒー」
「それだけ……ですか?」
「ああ、それだけで結構だ」
「なんでェ、お昼食べないの?」ユナが訊いてきた。「そんなに高くないよ」
「今、ダイエット中なんだ」
「えェ、太ってないじゃん」ユナが目を丸くする。
 コーヒーだけでいい、と言ったのは、懐具合の問題でもなければ、目方の問題でもない。ナイフやらフォークやらでこねくり回さずに、勢いよく〝そば〟をすすりたいだけなのだが、そのあたりのことを、いちいち説明するのは面倒だった。
「わかった」リサがユナの肩を叩いた。「ナイゾーシボーって言うヤツでしょ? ウチのパパも、それでウォーキング始めたんだもん」
「そうなの? でも、リサのパパって、チョー痩せてんじゃん」
「なんか知んないけど、お医者さんに言われたんだって」
「へェ……じゃァ、おじさんも、そうなの?」
 私はふたりに向かって、相槌を打った。
「……で、ナイゾーシボーってなに?」とリサがユナに訊いた。
「わかるわけないじゃん。最初にナイゾーシボーっていたのは、リサちゃんだよ」
「そうだっけ?」
「そうだよォ」
 顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合う。
「注文は以上ですか?」なんの実りもない会話にウェイトレスが割って入った。ユナとリサは頷いて応え、私は「そうだ」と答えた。
「差し出がましいことを言うようですが、食事を抜く方が、ダイエットは成功しないそうですよ」柔らかな笑みを浮かべたままウェイトレスが、私に言った。「何事も〝身体が資本〟です」
 右目を軽くつむってみせてから、踵を返した彼女の後ろ姿を眺めた。
「あァー、ミシェルさんに、見とれてるゥ」間延びした口調で、ユナが私をからかった。
 まさか、金髪碧眼の彼女から〝差し出がましい〟という科白を聞けるとは思っていなかったので、いささか面を食らってしまっただけなのだが、このあたりのことを説明するのは、〝ナイゾーシボーってヤツ〟を解説するよりも、骨が折れそうだった。
「ミシェルさん、きれいだもんねェ……しょうがないよ」リサが言った。
「でもさァ……ミシェルさんは、ここのオーナーの奥さんじゃん」ユナは唇の端を、キュっと上げた。「残念だったね」
「……で、俺になにを話してくれるんだ?」私は会話の流れを無視して、本題を切り出した。
 ユナの唇の端は下がり〝への字〟になった。リサの視線は、隣のユナと正面の私の間を落ち着きなく行き来した。
「俺は約束を果たしたんだ。きちんと話をしてもらおうじゃないか」ただでさえ、こちらは想定外の出費をしているのだ。時間まで無駄にしたくない。
「うんとね、まずは、キクリンの本名なんだけど――」ユナが答えた。
「菊地良明だろ」
「え、知ってたのォ?」
「あのなァ、俺はヤツの名刺を持って、渕さんに会いに来たんだ。知らないわけがないだろう」
「あ、そうだったね」ユナが唇の間から舌を覗かせた。
「ユナちゃん、バカじゃね?」と、抑揚なく言うと、リサはおかしそうに笑った。
「ちょっと、間違えただけじゃん」ユナは口を尖らせて、ふてくされた。
 この調子では、こちらの聞き出したいことにたどり着くまで時間がかかりそうだ。とにかく、話の主導権を彼女たちに渡してしまってはならない。
 私は訊いた。「キクリン……いやその菊地良明は、どこでなにをしてるんだ?」
「モデル事務所で働いてる」
「なんて事務所だ」
「〈オルキデーア〉って事務所」
 ユナの隣でリサがしきりと頷いていた。彼女の様子を見る限り、ユナの話は嘘ではないということだ。
 リサがつけ加えた。「オルキデーアってね、イタリア語で〝蘭〟の花のことなんだって。キクリンが言ってた」
「イタリア語ねェ……」名刺に〝クリザンテーモ〟と刷る悪知恵を与えたのは、この事務所の連中なのだろうか。それとも、やはり彼の〝努力の証〟なのか――
 私は、質問を続けた。「〈オルキデーア〉って事務所は、どこにあるんだ?」
「原宿だよ」リサが答えた。
「違うよ。麻布だよ」ユナがすぐさま否定した。「原宿はァ、〈ソルシエール〉のあるとこじゃん」
「そうだっけ」リサの目が、所在なさげに宙を泳ぐ。
「そうだよ。先週さァ、ミミちゃんに会いに〈ソルシエール〉行ったじゃん。覚えてないのォ?」
 リサは、ようやく定まった視線の行き先にあるアロハシャツの裾を、もじもじといじりながら「覚えてない……」と小さく答えた。
「リサちゃん、バカじゃね?」ユナは先刻の仕返しとばかりに、リサの口調を真似て言った。
 うつむいたままのリサが、頬をふくらませていた。
 私はユナに訊いた。「しかしだな、菊地良明が、その……〈オルキデーア〉で働いてるとするなら、なんで彼は、自前の名刺を持ってるんだ?」
「そんなのわかるわけないじゃん」ユナが唇を尖らせた。「おじさんが、〈オルキデーア〉行ってェ、キクリンに訊けばよくない?」
「ユナちゃん、それは無理っしょ」リサが顔を上げた。勝ち誇った笑みを浮かべている。
「どーしてェ?」と、ユナが気の抜けた口調で訊いた。
「だって、今ァ、〈オルキデーア〉は、めっちゃ忙しいんじゃないかな? きっと、キクリンには会えないよ」
「どうして、会えないんだ?」今度は私が、はっきりとした口調で訊いた。
「え? だって……〈オルキデーア〉ってェ、エミリちゃんのいる事務所だよ」リサが答えた。
「エミリってのは、鶴田エミリのことか?」
「うん」リサが頷いた。「今朝、テレビでやってたじゃん。エミリちゃん捕まっちゃったって」
「嘘ォ、エミリちゃん、捕まっちゃったのォ。なんでェ?」ユナが口を挟んだ。
「ちょっとォ、ユナちゃん、テレビ見てないのォ?」
「うん……今日、ちょっと寝坊しちゃったからァ……」芝居がかった仕種で、ユナが頭を搔いた。
「しょーがないなァ」と呟きながら、リサはスマートホンを取り出して、あれやこれやと操作を始めた。ユナが隣から覗き込む。
 ――菊地良明の勤務先は、〈オルキデーア〉
 ――〈オルキデーア〉は、鶴田エミリの所属事務所
 菊地良明が、カミキリムシとコガネムシを引き連れて、私の事務所を訪れたのは〈オルキデーア〉なる事務所の差し金なのか。それとも、〈オフィス・クリザンテーモ〉と刷られた自前の名刺を、わざわざ使用しているのは、雇い主に迷惑が及ばないようにという彼なりの配慮からなのか。
 理由はどうあれ、〝敵は麻布にあり〟というわけだ。相手の事情など知ったことではない。むしろ、迷惑を被っているのは、こちらの方なのだ。
 スマートホンを挟んではしゃぎ合うユナとリサ、その前で〈オルキデーア〉への攻め手を算段する私が座るテーブルに影が差し込んだ。
「コーヒーは、どちら様でしょう?」
 声をかけてきたのは、先刻までカウンターから連なる行列をさばいていた優男だった。見た目から想像されるトーンよりも低かった。
 正面のふたりが、私に目を向ける。彼女たちの視線を受けた私は、そっと右手を挙げた。
 優男は私の前にコーヒーを、テーブルの中央にフォークとナイフの入ったバスケットを置くと、深々と頭を下げて、テーブルから離れていった。
 入れ替わりに別の男がテーブルの脇に姿を見せた。ひどいあばた面で、つぶれてしまったかのような鼻の穴が上を向いてしまっている。身長はおそらく私と変わらないだろうが、体重は十九貫弱の私よりも三〇キロは重く、シェフコートの腹の辺りがはち切れそうになっていた。隅田川から荒川までで一番の醜男といって差し支えないだろう。ただ、小さな黒目がちの潤んだ目には、どこか愛嬌が感じられた。
「Aコースは、リサちゃんかな?」〝シェフコートを着た豚〟の声は、酒灼けでもしたかのようなしゃがれていた。「それとも……」
「そォでェーす。リサちゃんでェーす」
 リサが両手を挙げて答えると、〝シェフコートを着た豚〟はリサの前にAコース、ユナの前にはBコースの皿を並べた。どちらの皿にも、ガレットは見当たらない。Aコースには香ばしい香りを漂わせる肉が、Bコースにはキッシュが、サラダとバケットとともにワンプレートで収められていた。ガレットとクレープは、テイクアウト用のメニューで、店内ではそれなりの料理を食べさせてくれるようだ。少しばかり後悔をした。
 〝シェフコートを着た豚〟がリサに言った。「Aコースの鴨のコンフィは、今月からの新メニューだから、後で感想を聞かせてくれるかな?」
「リョーカイです」リサは右手で敬礼の形を作った。
「えェー、ユナはなにもしなくていいの?」ユナが頬を膨らませた。
「ユナちゃんのキッシュはァ、〈ゲクラン〉のテーバンじゃん」
「だけどォ……リサちゃん、ばっかりィ」
「……わかった、わかった。ユナちゃんも後で、キッシュの感想を聞かせてもらえる?」しゃがれ声で、ユナを慰める。
 それを聞いたユナも敬礼をして「リョーカイです」と答えた。
 運ばれてきたばかりのコーヒーを飲みながら、目の前のやり取りを眺めていた。コーヒーは好みのブレンドではないものの――私には、少し酸味が強い――丁寧に淹れられていて、立ち上る香りも芳しいものだった。これなら煙草の香りに、負けることはないだろう。店内禁煙なのが、悩ましい。
「ごゆっくり、どうぞ」〝シェフコートを着た豚〟が踵を返して、店の奥へと引き込んでいった。私を見る目には、ユナとリサとは違って敵意が剥き出しだった。煙草を喫いたい、などという胸の裡にある不埒な思いを見透かされたのだろうか。
「今の人がァ、〈ゲクラン〉のオーナーなんだよ」ユナが言った。
「となると、彼がさっきの――」
「そう、ミシェルさんの旦那さん」ユナが私の言葉を継いだ。「なんて言うんだけ……そう、美女と野獣だよね」さらりと毒を吐く。
 彼がオーナーであるのならば、容貌魁偉で知られた百年戦争でのフランスの英雄の名を冠しているのも頷けた。妻の名前がジャンヌであれば――いや、それでは話ができすぎだ。
 私は話題を変えた。「そもそも、菊地良明とどうして知り合いなんだ?」
「キクリンとはァ……去年、イベントに行ったときに、声をかけられたの。フッチーの事務所の子なのって」と、ユナが答えた。
「なんて、イベントだ?」
「名前は忘れちゃったけど、代々木公園でやったファッションショー。わたしたちも、ランウェイを歩いたんだよ」
「違うよ、ユナちゃん。代々木体育館でしょ。屋根があったもん」鴨のコンフィを一口分だけ切りわけたリサが、すかさず修正をする。
「えェ? そうだっけェ」
 おそらくリサの方が正しい。野天のファッションショーなど、聞いたことがない。回答を正されたユナはといえば、リサが切りわけた鴨の切り口――淡いピンク色をしていて、美味そうだ――に目を奪われている。
 ユナが余計な感想を漏らし出さないうちに、私は質問を重ねた。「ところで、ジローという名前に、聞き覚えはないか?」
 鴨肉に気を取られたユナは、答えようとしなかった。コーヒーを一口飲んで、いらだち始めた心を鎮める。無性に煙草が喫いたくなった。
「そのジローって人と、キクリンとなにか関係あるの?」リサが言った。
 私はリサの質問に答えた。「どうもね、菊地良明……キクリンが、ジローって男を探し回っているらしいんだ」
「そォなんだ。ジローねェ……」リサが首を傾げる。
「あ、ジローってさ」ユナが口を開いた。目は鴨肉の切り口に向けられたままだったが。
「どうしたの? ユナちゃん、なんか思い出したの?」
「ジローってね、シーちゃんの〝カレシ〟じゃない?」
「そうだ、そうだ。シーちゃんの〝カレシ〟だァ」リサが首を大きく縦に振った。
「でしょ、でしょ。リサちゃんも、聞いたことあるでしょ」
「ある、あるゥ」
「それで、その……シーちゃんってのは、誰なんだ?」話があらぬ方向に進んでしまわないよう、はしゃぎ始めるふたりに口を挟んだ。
「そうだ、シーちゃんの事務所も〈オルキデーア〉だよね?」
 リサがユナに確認を取ると、鴨肉を見つめたままユナが頷いた。
「〈オルキデーア〉ってのは、鶴田エミリの事務所だよな」念を押してから、私は肝心なことを訊いた。「シーちゃんの名前は?」
「知らない」リサが即答する。
「知らないって、友達なんだろ?」
「そうだけど……シーちゃんは、シーちゃんだもん」
 どうも、なにもかも期待した私が愚かだったようだ。
「でも、リサちゃんってさァ」ようやく鴨肉から興味をなくしたユナが言った。「シーちゃんと、LINEで繋がってなかった?」
「え、繋がってるけど……ここで、教えちゃうの?」
「それも、そうだね」
 彼女たちもそれなりのリテラシーは持ち合わせているようだ。私は提案した。「それなら、きみらがその……シーちゃんに、俺にメールをするように伝えてくれないか?」名刺をテーブルに滑らせる。
「えェ、メールぅ……めんどくさいよォ」見事なユニゾンで返された。
「俺はLINEをやってないんだ」
「マジでェ?」ユニゾンが続く。「めんどくさァいィ」
 面倒くさくなってきたのは、こちらの方だ。一向に納まらないいらだちを押し殺して、私は別の提案をすることにした。「わかった。俺とシーちゃんが会えるよう、きみらがセッティングをしてくれないか?」
「それならいいけどォ……でも、どうやって、おじさんに教えたらいいの?」
「渕さんなら、俺の連絡先を知っている。だから、彼から俺に連絡するよう頼んでくれ」こうなったらユナとリサ、そしてキクリンこと菊地良明の〝保護者〟である渕を使うしかない。
「うーん、それもめんどくさいけど……まァ、いいや。フッチーに頼むことにする」渋々とユナがこちらの申し出に応じてくれた。
「ありがとう。じゃァ、食事を楽しんでくれ」コーヒーを飲み干して、私は立ち上がった。
「えェ、もう行っちゃうのォ」とリサ。
「ああ。俺はいろいろと忙しいんだ」
「ふーん。大変だね。〝カラダがシホン〟だから、気をつけてね」ユナが軽く右目をつむってみせた。
 覚え立ての単語を使って、生意気なことを口にする小娘たちに、もう一度お礼を告げて、テーブルから離れた。彼女たちとの約束を果たすために、カウンターへと向かう。カウンターには、先刻料理を運んできた〝シェフコートを着た豚〟――この店のオーナーが立っていた。彼に財布から抜き出した一万円札を手渡す。
「ひとつ、訊いていいかい?」レジからお釣りを準備するオーナーが言った。
 私は「どうぞ」と答えた。
「どうして、料理を注文しなかったんだ?」黒目がちの目に映る敵意と固い口調は、料理人としてのプライドの高さを示していた。
 ――ここでフレンチを楽しむよりも、鴨南蛮をたぐりたかっただけだ
 そのまま答えてもよかったのだが、それでは彼のプライドを傷つけることになる。束の間、どう返事をするか考えて、今日の上着が黒であったことを思い出した。
 私は言った。「生憎とな、俺の名前は、エドワードってんだ」
 〝元帥閣下〟の唇がめくり上がった。笑ったのだと思うことにした。
 柔らかな口調のしゃがれ声が続く。「とっとと、帰ってくれ」
 〝元帥閣下〟からお釣りを受け取って、私は〈ベルトランド・デュ・ゲクラン〉を後にした。

   七

 門前仲町まで足を伸ばしてみたものの、お目当ての蕎麦屋を見つけることはできなかった。結局のところ、清州橋通りまで歩き、最初に目に飛び込んできた古びた中華料理屋で、遅い昼食を摂ることにした。
 〝お冷や〟を運んできた店員に、タンメンを注文すると、「東京オリンピックの頃から、一番人気なんですよ」と、ソウルオリンピックを知らないような年頃の店員が告げてきた。彼女が指し示す壁に貼られたメニューは、どれも色褪せていて、文字がはっきりと読み取れなかった。〝一番人気〟は、注文毎に変動しているに違いない。
 氷が入っているくせに、やけにぬるい〝お冷や〟を飲みながら、壁にかけられたテレビを眺めた。ワイドショーが流れていて、関西出身の司会者がなにやら話をしていた。テレビの音が小さくて、なにを視聴者に訴えているのかは聞き取れなかったが、テレビの片隅にあるテロップで、鶴田エミリとゴンザーガ・ヤツの事件についてだ、ということはわかった。〝ポッと出〟であれ、なんであれ、ワイドショーを賑わすだけの人気が、彼女たちにはあるということだった。
 やがて画面には渋谷署前が映し出され――武中の姿は、見当たらなかった――神妙な顔つきをした女性リポーターが、マイクを手にワイプに収まった司会者と会話を始めた。どうやら、鶴田エミリとゴンザーガ・ヤツが解放される時間が近づいているらしい。渋谷署前からのリポートが終わると、今度は住宅街に集まった報道陣に切り替わった。テロップに〝東京・港区 鶴田エミリさん所属事務所前〟とある。ユナとリサが言っていたように、〈オルキデーア〉に押しかけてみても、こちらが思うような話を聞けそうにはなかった。
 私の後に入店した客がいないため、タンメンは〝一番人気〟の座を死守したまま私の前に運ばれてきた。ラードを強く利かせたタンメンは早々に胃袋へと収めてしまい、地下鉄を使って事務所へと戻った。
 道すがら、切らしてしまったブックマッチを買い足し、雑居ビルのある路地裏に入った。狭い道路に不釣り合いな大きい車が停められていない。身構えることなく、雑居ビルの入口へと向かう。五階までは階段を使った。途中、四階の様子を探ってみると、〈学朋出版〉は平穏に営業を続けていた。ひとまず胸を撫で下ろし、もうひとつフロアを上がる。同じフロアにある鈴木の事務所には電気が灯されていた。〝床の汚れ〟をきれいに拭き去ったおかげで、鈴木には午前中に起きた騒動を気づかれずに済んだようだった。
 事務所に戻ってから、温め直したコーヒーを飲みながら、デスクのパソコンが起動するのを待った。今日二度目の温め直しともなれば、さすがの黄金比率のブレンドも、お世辞にも美味いとは言える代物ではなかったが、ぬるい〝お冷や〟で落としきれなかった口の中に残る動物性脂の強い残り香を消し去るには、渋味と酸味の増した分だけ最適なものに感じられた。
 口腔洗浄を終えた後は、〈カフェ・ド・ゲクラン〉でのやり取りを交えつつ、ユナとリサとの連絡係を依頼するメールを、〈菊池企画〉の渕に宛てて送ってから、ブラウザを起ち上げて、〝オルキデーア〟をキーワード検索する。
 世間を騒がすだけあって、鶴田エミリが所属するモデル事務所は、検索結果の先頭に表示された。リンクをクリックすると、薄紫の蘭の花が画面いっぱいに広がった。しばらくして、画面は白と薄紫のストライプ、市松模様の順に変わり、トップページへと遷移した。目にうるさいサイトだ。
 トップページの上部に並べられたメニューの中から〝COMPONY〟と書かれたリンクを選ぶと、会社概要を見ることができた。住所を見る限り、ユナとリサは麻布にある、と言っていたが、むしろ白金高輪の方が近いようだ。
 あとは社長と役員名簿めいたものが記載されているだけのシンプルな作りで、社長の名前は〝秋山京平〟と記載されていた。役員名簿の中から、菊地良明の名前も〝ジロー〟に該当しそうな名前も見つけることはできなかった。それ以外でわかったことといえば、〈オルキデーア〉の設立が八年前で、現在二十三人のモデルが所属している、ということだけだった。
 マウスカーソルを〝MODEL〟というメニューに合わせて、クリックした。画面に二十三人分の顔写真が並び、先頭には渋谷のコーヒーショップで、武中から見せられた写真があった。黄色いツバ広帽子をかぶった鶴田エミリが、キスをする直前のように唇をすぼめていた。名前と顔が一致するのは、彼女――鶴田エミリひとりだけで、残りの二十二人は初めて見る顔ばかりだ。ただ、ユナとリサの言葉を信じるとするならば、この二十二人の中に、鶴田エミリから〝伝言を依頼された〟ジローという男の恋人がいる。
 ――シーちゃんは、シーちゃんだもん
 二十二人の名前だけを頼りに、ジローの彼氏だという〝シーちゃん〟を捜すと、それとおぼしき女を三人見つけた。
 井上しおり
 志賀江里香
 三沢静佳
 ふたり目の志賀江里香――シガエリカを今どきの若い子が〝シーちゃん〟と呼ぶのだろうか。いささか無理があるような気もするが、これだけ手がかりがつかめないでいるのなら、リストアップしておかないわけには、いかなかった。彼女たちのプロフィール欄を覗いてみると、生年月日、身長、体重、血液型、服のサイズが記されていた。偶然なのだろうが、誕生日こそ違え、三人とも二十三歳だというこがわかっただけで、このサイトからはこれ以上の情報を望めそうになかった。煙草をくわえて、ブックマッチで火をつける。いつもより時間をかけて、紫煙をくゆらせた。
 ――古人曰く〝下手の考え、休むに似たり〟
 降りかかる火の粉を払うのに、デスクに腰を降ろしてじっとしているだけでは脳がない。ましてや、アームチェア・ディテクティブを気取るような柄でもない。パソコンの電源を落として、車のキーをつかんで立ち上がった。事務所のある雑居ビルを出て、二ブロック離れた駐車場まで歩き、ドブネズミ色の古いダットサンに乗り込んだ。エンジンキーを捻ると、エンジンは一発で始動した。
 路地を抜けて白山通りを南下する。まだ夏の名残を感じさせる強い陽射しが降り注ぐ中、色とりどりの恰好でジョギングや観光を楽しむ人々を横目に、かつてはサファリラリーを制覇したという、私よりも歳上のダットサンは、内堀通りを軽快に駆け抜けた。国会議事堂を目印に左折して、六本木通りに入った。制服姿の警官や、難しい顔をして歩く暗色のスーツを着た霞ヶ関の住人を追い越してゆく。
 六本木一丁目の交差点で麻布通りに入った後は、生真面目に制限速度を守るシルフィに行く手を阻まれる恰好になった。強引に追い抜いてしまってもよかったのだが、バックミラーに映る無粋な白いバイクのせいで、しばらくの間は妖精の後ろをついて行く羽目になってしまった。
 麻布十番駅を越えた交差点で、白バイは左折をした。芝公園の方へと向かっていくのを、バックミラー越しに確認して、私はアクセルを踏んだ。古いダットサンは青い翼を羽ばたかせて、妖精を一気に抜き去り、白金高輪へと急いだ。
 白銀高輪の住宅街の一画にある駐車場に、古いダットサンを滑り込ませた。六台停められる駐車場には、先客がいた。フロントにトライデントのエンブレムをつけたマットブラックに塗装された車の隣に、ダットサンを停めた。私が予想していたのは、跳ね馬のエンブレムをつけた真っ赤なスポーツ、いやレーシングカーだったのだが。
 道路を渡り、くすんだ灰色をした外壁をした二階家へ向かった。〝Corleone〟と小さく刻まれた木製ドアを開ける。シンプルな外観のおかげで、周囲に溶け込んでしまっているが、〈コルレオーネ〉はイタリアンレストランなのだ。それも、なかなかに流行っているらしい。
 照明を抑えた店内の右手にあるクロークでは、タキシードを着た男がふたり、話し込んでいた。ひとりは、ネコ科の大型動物が立ち上がったかのようながっちりとした大男で、もうひとりは口髭を生やした若い男だった。若い男の表情から察するに、彼は叱責をされていたらしい。
 先に私に気づいたのは、口髭の男の方だった。叱られている者は、なにかと逃げ道を求めるものなのだ。
 彼は取り繕うように、やけに大きく落ち着いた声で言った。「いらっしゃいませ」
 大男がゆっくりとこちらを向く。短く刈り込んだ髪は、私とそう歳は変わらないはずなのに真っ白だった。
「久しぶりだな」私は大男に声をかけた。
 〈コルレオーネ〉のカーポ・カメリエーレ――給仕長である平原は、入店してきたのが私であることを認めると、顔をほころばせた。太いバリトンで、「ご無沙汰しています」と挨拶をした。
「尾藤に会いに来たんだ。あいつの車はないようだけど、いるのかい?」
「はい。すぐに、ご案内します」平原が、私を店の奥に招き入れた。
「ごゆっくりどうぞ」口髭の若造が声をかけてくる。
 平原は振り向いて、口髭の若造にひと睨みを利かせた。若造の顔が蒼白になっているのは、店内が薄暗くても容易に見て取れた。トラに睨まれれば、誰もが顔色を変えるに違いないのだが――この男が、ここまで怒りを露わにするのも珍しい。
「なにか、あったのか?」足音を立てずにゆったりと歩く平原に訊いた。
「お恥ずかしい話です……」と言ったきり、平原は口を閉じてしまった。
 平原を怒らすだけのことを、口髭の若造がやらかしたのだ、と思うことにする。
 フロアの片側はウエイティングバーになっていて、カウンターの真ん中に男がひとり、背中を向ける恰好で座っていた。平原と私の気配を察したのか、男がこちらに顔を向けた。硬くてきついクセっ毛を無理矢理にオールバックにした細身の優男――〈コルレオーネ〉のオーナー、尾藤だ。先刻の平原とは違い、私に気づいた尾藤は口角を下げて、あからさまなため息をついた。私の方は、舌打ちのひとつでも返してやりたいのを我慢した。さすがに、そればかりは大人げない。
「きみは、なにしにきたのかな?」隣のスツールに腰を降ろすのを待って、尾藤が言った。
「随分と、ご挨拶じゃないか」
 フンっと鼻を鳴らして、尾藤はライムを浮かせたカットグラスにを口に運んだ。仕立てのいいベージュのサマースーツに、黒いブイネックのTシャツ。仕種といい、恰好といい、私と同じ稼業でかつては糊口を凌いでいたようには見えない。
「なにに、なさいますか?」いつの間にか、カウンターの中に入っていた平原が訊いてきた。
「お前さんの作るカクテルを久々に飲みたいところだが……今日のところは、こいつと、まったく同じものを」
「よろしいんですか?」
 ジントニックを飲んでいるような素振りでいるが、尾藤はまったくの下戸なのだ。中身はクラブソーダか、トニックウオーターに違いない。スクリュードライバーを飲んでいる風を装って、ただのオレンジジュースを飲んでいるようなこともある。
 私の前に陶器製の灰皿をそっと置くと、平原は「あっ」と声を漏らして続けた。「そうでした……まだ、陽が高い時間は、飲まれませんでしたね」
 この場で私が酒を飲まない理由は、それだけではない。もうひとつの理由を口にした。「今日は、車で来たんだ」
「車? ブルSSS……ですか?」
「それ以外なにがある。二台分の駐車場を手配できるほど、稼いじゃいない」私は煙草をくわえた。
「きみにしては、いい心がけだな」尾藤が口を挟んできた。「相手を喜ばすためには、なにをすべきなのか……その辺のことに目を配れるようになれば、きみだって、もっと稼げるようになるんだよ」
 尾藤は〈コルレオーネ〉を含めた二軒の飲食店の他に、中古車販売店を経営している。私がここまで乗ってきたドブネズミ色の古いダットサン――ブルーバード510SSSは、その中古車販売店から手配されたものだ。ただ、私から尾藤に頼み込んだわけではない。
 ある依頼の際に、尾藤から車を借りたことがきっかけだった。尾藤が用意したのは、フォード・ファルコンXBという私の稼業には似つかわしくない車だったのだが、ある人物のご機嫌取り、いや依頼を遂行する上で役には立った。尾藤の方も、その〝ある人物〟と太いパイプで繋がるだけではなく、フォード・ファルコンXBを売りさばくことができたのだとかで、それ以来押しつけられるようにして、私は尾藤が手配した車を乗り回すようになっている。
「うるせェ」と口の中で呟いて、ブックマッチを使って煙草に火をつけた。「そのおかげで、お前は何台、車を売りさばいたんだ? どうせ、言い値だろうがな」
「馬鹿なことを言わないでくれよ。僕はいつでも適正価格で、ご提供してるんだから。きみみたいにね、いい加減な価格設定で経営している事業主と、一緒にしないでくれ」
「俺ひとりが食っていける分ぐらいは、稼いでいるさ」
「なにカッコつけっちゃってるの。事業を発展させられないなんてのは、経営者として失格だぜ」
「俺は、経営者になったつもりはない」
「そうだったね。きみは、〝フリーランスの猟犬〟だったね……」尾藤は、上着からクロームのシガレットケースを取り出した。両切りの煙草をくわえる。「まったく……ああ言えば、こう言うだ。きみに〝フリーランスの猟犬〟を気取るチャンスを与えてしまったこと――これは、僕の人生にとって、拭い切れない汚点になってしまったよ」
 私の前に立った平原が、いつになく強い毒を吐く尾の代わりに小さく頭を下げた。「どうぞ」と言って、尾藤と同じライムが添えられたカットグラスを置く。
 私は平原に言った。「なにやら、ご機嫌斜めじゃないか。おたくの大将は」
 平原は曖昧な笑みを浮かべるだけで、私の隣では、ゴロワーズをくわえた尾藤がため息をついていた。
「なにが、あったんだ?」
「車で来たんなら、わかるでしょ?」尾藤が答えた。「まさか、気づかなかったとは言わせないよ」
「あァ……車、マセラティに変えたのか?」
「変えたんじゃない。変えなきゃならなくなったんだ」
 私と違い〝有能な経営者〟である尾藤が所有していたのは、フェラーリだった。もっともその理由は、イタリアン・レストランを経営しているからという、俗物的な理由なのだが。
 尾藤は私に答えず、ゴロワーズにロンソンで火をつけて、葉巻に似た香りのする煙を吐いた。
 回答は太いバリトンで返ってきた。「傷をつけられてしまいましてね……この町に、フェラーリは二台もいらないって」
「おいおい、それは確信犯じゃないか。警察には、通報したのか?」
 私の問いかけに平原は口を閉ざし、尾藤は先刻よりも大きなため息をついた。
「それが、できりゃ苦労しないよ」と尾藤。
「厄介な相手なのか?」
 平原と尾藤が、ほぼ同時に頷いた。他人前で怒りを露わにする平原も珍しいが、それ以上に痛手を受けておきながら、ここまで大人しい尾藤を見るのは始めてのことだった。
「……だったら、古河に言えばいいじゃねェか」
「ちょっと待て、今なんて言った?」尾藤の眉間に、深いしわが刻まれている。
 古河と尾藤、そして私たちは、かつて同じ釜のメシを食っていた。そして、古河だけが今もあの〝釜のメシ〟を食っている。
「古河だよ、古河。あいつなら、きっちりと〝落とし前〟つけてくれるだろうよ。お前から言い出しにくいってのなら、俺から言ってやってもいいぜ」
「よしてくれ」尾藤はそれだけを言って、カットグラスを口に運んだ。一息で半分ほどを流し込む。
「どうしてだよ? 他人の厚意を拒否するには、それなりの理由があるはずだぜ」
「あのね、きみが〝フリーランスの猟犬〟なら……そう、あの男は〝鎖に繋がれたコヨーテ〟じゃないか。なにしでかすか、わかったもんじゃない」
 ――鎖に繋がれたコヨーテ
 〝言い得て妙〟とはことのことだ。自分の唇の端が上がっているのを感じながら、私は長くなってしまった煙草の灰を、灰皿に落とした。
「相当、厄介な相手みたいだな。どこのどいつなんだ?」
 尾藤が答えた。「アキヤマキョウヘイってヤツだよ」
「今……なんて言った?」この科白を言うのは、今度は私の番だった。
「この先の明治通りを挟んだとこにある〈オルキデーア〉ってモデル事務所の社長……秋山京平ってヤツさ。
 なにか、きみは?」尾藤が灰皿に押しつけるようにして、まだ長いままのゴロワーズを揉み消した。「僕の車が傷つけられたことが、そんなにおかしいのか?」
 私の顔を覗き込む尾藤の目が、いつになく鋭かった。
 どうやら、私の唇の端は上がったままらしい。
 いや、これが笑わずにいられるか。

   八

 カットグラスに口をつけて、間を取った。喉を通っていたのは、クラブソーダだった。ライムが優しい自己主張できるのも、微かに感じる甘さのおかげだった。これにジンが加われば、美味いカクテルを味わうことができるに違いない。昼の日中であることと、ブルSSSで〈コルレオーネ〉を訪れたことを、少しだけ悔やんだ。
「今朝のニュース、見たか?」私は尾藤と平原に訊いた。「芸能人が捕まったって、ニュースがあったろ?」
「あァ……知ってるよ。鶴田エミリが、捕まったんだってな」
「それがわかってるんだったら、今が〝攻め時〟なんじゃないのか?」
「きみに言われなくても、それぐらいのことは、わかってるさ……」
「なにか、〝わけ〟ありなのか?」
「〝わけ〟ありも、〝わけ〟あり……」尾藤は両手で前髪を撫でつけると、天を仰いだ。「手を出さない方がいいんだろうなァ」
 尾藤の言葉に、平原が難しい顔で頷いていた。先刻、口髭の若造を怯えさせた〝トラの目〟はどこへやら。これではまさに〝借りてきたネコ〟ではないか。どうにも、今日のふたりは歯切れが悪い。
「その〝わけ〟ってのは、なんだ? 聞かせてくれ」
 天井を見つめたまま、尾藤が答えた。「あのね、秋山京平の親父ってのはね、誰あろう〝アキヤマショウヘイ〟なんだよ」
 私は「それで?」と言って話の先を促し、煙草を喫った。
「きみは、今……〝それで〟って言ったのか?」
 まだ、耳が遠くなるような歳でもないだろう。今度は、はっきりと言ってやった。「それで? その〝アキヤマショウヘイ〟ってのが、どうしたってんだ?」
 隣で尾藤が息を呑んでいるのがわかった。そちらを向くと、彼は目を丸くしていた。クロームのシガレットケースからゴロワーズを抜き出して、ロンソンで火をつける。尾藤にとっても、ニコチンは精神安定剤のようだ。
 両切り煙草を二回吹かしてから、尾藤が言った。「きみは、あの〝アキヤマショウヘイ〟を知らないのか?」
「〝あの〟だろうが、〝その〟だろうが、俺は知らん」
 尾藤がゴロワーズを深く喫い込んだ。気持ちを落ち着かせるのに、どれだけのニコチンを使ったのか、勢いよく吐き出したにもかかわらず、煙は薄く広がっていった。煙を吐き出した後、尾藤は煙草を持った右手を額に当てて、目を閉じた。平原はカウンターの下を、なにやら探っている。
 私は煙草を喫って、彼らの次の言葉を待った。
 平原がカウンターの下から、タブレット端末を取り出し、太い指で操作し始めた。騒々しい日常から隔絶されたい輩が集う場所でも、電子機器は必要不可欠なアイテムらしい。
 もう一度、煙を吐き出した尾藤が目と口を開いた。「……きみは、〈レッド・リーフ・プロモーション〉って会社は、知ってるよな?」
 いつになく優しい口調でされた質問は、基本中の基本、あるいは常識なのかもしれないが、私の答えは決まっていた。「生憎だが、知らん」
「じゃァ、〈秋山プロダクション〉は?」
「それなら、知ってるさ。結構、大きな芸能事務所だろ。確か……」私は、何人かの芸能人の名前を、口に出した。「……その辺りが、所属してるんじゃなかったか?」
 くわえ煙草で尾藤が小さく拍手をした。今度こそ、彼の期待する答案を出せたらしい。
 出来の悪い生徒は、特別講師に質問をした。「〈秋山プロ〉が、その〝レッド・ナントカ〟って名前を変えたのか?」
「もう、十年以上も前の話だぜ」と前置きして、尾藤が言った。「秋山……秋の山だから、紅葉。紅葉を英語にすると、〝レッド・リーフ〟。だから〈レッド・リーフ・プロモーション〉になったってわけさ」
 クリザンテーモに、オルキデーア。そして、レッド・リーフ――我が国の国際化は〝着実〟に進んでいると言っていい。ため息をつきたい気分を、優しいライム味をしたクラブソーダで慰めた。
 尾藤が言った。「その〈秋山プロ〉の社長が、秋山京平の親父……〝アキヤマショウヘイ〟なんだよ。〝東洋の魔女〟が金メダルを獲った年に創業した老舗だぜ」
「老舗の社長ってのは、そんなに怖いのか?」
「言ったろ……創業したのは、円谷幸吉が、銅メダルを獲ったときだって。あの時代、コンサートやらなんやら、興業を打つには〝この筋〟のヤツらが……」〝この筋〟のところで、尾藤は左手の人差し指で、頬を切る仕種をしてみせた。「……幅を利かせていたってことは、きみだって知ってるだろ?」
 〝国民的な映画スター〟や〝国民的な歌姫〟――最早、どちらも死語になっているが――ですら、日本の首領と目された男にプロモートされていた時代が、かつて我が国にあったことは、ああいった世界に疎い私でも知っている。
 私が頷くのを待って、尾藤は講義を続けた。「アキヤマショウヘイは、当時から極太のパイプで繋がっていた……というよりも、ヤツの場合は〝あちらの筋〟から転職してきたって言われてるぐらいなんだ。そのせいなのか、どうかは知らないけど、円谷が〝三日とろろ、美味しゅうございました〟って遺書を書く頃には、〈秋山プロ〉は、かなりの規模になっていたそうだ」
「そりゃ昔の話じゃないか。それにお前の相手は、息子の秋山京平だけだろ?」
「それが、あるんだよ」
 尾藤が吐き捨てるように言ったタイミングで、平原がタブレット端末を私の前に置いた。画面には髪を短く刈った細面の男がいた。濃紺のスーツを身に着けて赤いネクタイを結んだ男が、こちらに微笑みかけている。年の頃は三十半ばといったところ。腫れぼったい二重瞼をしているせいなのか、せっかくの笑顔もどこか間が抜けているように感じられた。
「これが、秋山京平か……」
「そう。ちょっとした優男に見えるけど、親父の名前をバックに、好き勝手やってる〝どら息子〟さ」
「どら息子ねェ……」
「あの〈オルキデーア〉だって、〈レッド・リーフ〉が出資してるんだぜ……」喫い差しのゴロワーズで灰皿に溜まった灰を一方に寄せた。「まァ、今回も親父が、揉み消すんだろうがな」
「おい。親父は、今でも〝この筋〟と……」先刻の尾藤のように、人差し指で頬を切る仕種をして続けた。「繋がっているのか?」
「公然の秘密だよ。まさに、アンタッチャブルってヤツだね」尾藤が投げやりな口調で言った。「〈オルキデーア〉は、ここを出てすぐだから、行ってみればいい。僕が嘘を言ってないことがわかる」
 短くなった煙草を消す私の前で、平原が再びタブレット端末を操作した。チャコールグレーのスーツを着た恰幅のいい老人が、重厚な黒革のソファに腰をかけた画面に切り替わる。画面の右側に大きく縦書きで、〝レッド・リーフ・プロモーション社長 秋山正平〟と記されていた。元は、経済誌かなにかに掲載された写真のようだ。
 〝どら息子〟に受け継がれた腫れぼったい二重瞼のせいで、好々爺のようにも映るが、左頬から胡桃すら噛み砕けそうなごつい顎の先まで、ドーランでは隠しきれない傷跡があった。尾藤の話も、あながち嘘とは言い切れないようだ。
「残念だけど、今の僕にはバッジがないからね。代紋には表立っては、逆らえないよ……」
 肩を落とす尾藤に私は言った。「俺がエリオット・ネスになってやるって言ったら、どうする?」
 尾藤が眉をひそめた。彼のお代わりを作り始めた平原の手が止まる。
「なにか、きみは。僕らをからかおうってのか?」
「そうじゃない。まァ、聞いてくれよ」私は昨晩から今朝にかけてのことを、ふたりに話した。金髪のカマキリたちと事務所の前でひと悶着あったことは伝えたが、肋骨を怪我したことは伏せておいた。
 私が話を終えると、口を挟むことなく聞いていた尾藤は、カットグラスに口をつけた。中身がジントニックかであるかのように、クラブソーダを舐める。私は新しい煙草をくわえて、ブックマッチを擦った。落ち着くのを待って、煙草の先を火に近づける。
 平原の目が私と尾藤の間を二往復した頃、尾藤の肩が小刻みに震え始めた。尾藤は右拳を口元に当ててひとしきり忍び笑いをした。「……と、いうことはだ。きみも秋山京平には、含むところがあるってことなんだね?」
「まァ、そういうことになるな」
「ならば、全面的に協力しましょう。僕がいろいろと情報を集めてあげるから、きみは思う存分、調査をしたまえ」先刻までの弱気はどこへやら、尾藤の目が輝きを増してきた。金の匂いでも、かぎつけたのに違いない。オールバックにした前髪を両手で撫でつけた。「ただし……」
「ただし?」私を見る尾藤の目から、嫌な予感がした。
「きみに、なにかがあったとしても、僕らは一切関知しないから。その辺は、承知しておくように」
「ちょっと待て。それは、どういう意味だ?」
「どういう意味って……いいかい。僕らは、きみに情報を提供するだけなんだ。情報提供者に、危険が及ばないようにするのは、きみの稼業じゃァ、義務なんじゃないの?」
 情報提供者の秘匿。これは、私の稼業では絶対に守らなければならないルールで、尾藤の言うことは、もっとなことだった。
「僕の言ってることは、間違ってないだろ? だから、きみになにがあっても、僕らは一切関知しないって言ったわけさ……わかったかね、フェルプス君」
 話を終えた尾藤が、葉巻に似た香りのするゴロワーズの煙を吹きかけてきた。禁煙ファシストどもなら、卒倒するか、彼に襲いかかっているに違いない。しかし、私はそんな野蛮な真似はしなかった。なにせ、痛いところをつかれているのだ。尾藤の言葉に、渋々と頷くしかなかった。
 深く喫い込んだ紫煙を、ゆっくりと吐き出して――他人の顔に吹きかけるような行儀の悪い真似はしなかった――尾藤に答えた。「その代わり、ちゃんと情報をよこせ」
「きみは、僕を誰だと思ってるんだ」尾藤の鼻の穴が広がっている。いつになく声も高い。
 私はカットグラスに残ったクラブソーダを、一気に飲み干した。三分の一ほど喫った煙草を消して、立ち上がった。
「なんだ、もう帰っちゃうのか?」
「ああ。いろいろと、やらにゃァならんことがあるしな」絡み酒ならぬ〝絡みソーダ〟に、つき合っている暇はない。
「そうか……それじゃァ、頑張ってくれたまえ。すべては、きみの両肩にかかっているんだからね」
 芝居がかった尾藤のエールは背中で聞いた。フロアを渡ると、いつの間にか平原が背後についていた。音も立てずに忍び寄るあたりは、まさにネコ科の大型動物だ。
「申し訳ありません。尾藤が、無理を言って……」太いバリトンでささやく。
「まァ、いつものことさ」
「本来であれば、我々だけで、処理すべきことなんですが……」平原がクロークに立つ口髭の若造に、視線を走らせた。
 口髭の若造はフェラーリが傷つけられたことに、なにがしかの関与をしているのだ。そうでなければ、先行のようにあからさまに平原が怒りを露わにするようなことはない。
「さっき、尾藤にも言ったけどな。俺は俺で、含むところがあるんだ。お前さんが、気にすることはない」私は言った。「それにな、今回の件……お前さんには、任せられないんだよ、尾藤は」
「私では、役に立てないと……」平原の目が鋭くなった。
「そうじゃない。お前さんに任せるとな、〝ただごと〟じゃァ済まなくなるんだ」
「〝ただごと〟じゃ済まないって、それはどういうことなんでしょう?」
「この辺り一帯に、血の雨を降らしかねない」
「冗談は、やめてください」平原の表情が、ようやく柔らかくなった。
「さァ、どうかな……」
 平原は、〈コルレオーネ〉の外まで見送ってくれた。
「これから、どうされるんです?」
「とりあえず、〈オルキデーア〉に行ってみる」
「そうですか。ここからでしたら――」平原は〈オルキデーア〉までの道順を明してくれた。ここから歩いて、十分もかからない。
「ありがとう。しかし、それなりに賑わってるんだろうな」渋谷署の前で、たむろしていたマスコミを思い出した。
「いや……どうでしょう? そうでも、ないかもしれません」
「どういうことだ?」
「先ほど、尾藤が申していたように、〈レッド・リーフ・プロモーション〉から、応援が来ているようですから」
「〝あちらの筋〟から応援が来ているというわけか……」
「ええ。ですから、お気をつけください」
「気をつける? なにをだ?」私は平原に訊いた。
「トラブルが起きてしまったら……」少し間を置いて、平原がつけ加えた。「〝ただごと〟では済まさないでしょう?」
「それは、買い被りすぎだ」
 白い歯を見せる平原に苦笑を返して、私は〈オルキデーア〉へと向かった。

   九

 〈コルレオーネ〉を後にして、明治通りへ。平原が教えてくれた道順に従って、高架下を歩く。首都高目黒線が陽を遮っていることもあって、やがて来る季節を告げるような乾いた風は、残暑に晒された身体には心地よく感じられた。
 ――今回の件、いっそのこと尾藤が依頼人になるよう、話を持っていくべきではなかったか?
 ふと思い立った。仕事だと思えば、胸の裡で熾り火のようにくすぶり続ける天邪鬼な血に任せて、動き回ってもいられなくなるはずだ。己の不甲斐なさを呪った。
 いや。あの尾藤が私に金を払ってまで、なにかを依頼するようなことがあるだろうか。金を払うどころか、私に借りを作るような真似をするなど考えられない。
 先刻のことを思い返してみる――
 〈オルキデーア〉の調査について、尾藤は最後まで頭を下げることはなかった。しかも、最後は私から申し出るような恰好になっていた。
 己のうかつさが、ますます恨めしい。
 前から歩いてくる女が、制服とおぼしき黒の半ズボンに白いワイシャツを着た男の子の手を強く引いて、そそくさとすれ違っていった。幅広の帽子の下にはサングラス、青と白のボーダー柄をしたワンピースをまとった〝シロガネーゼ〟にとって、今の私は幼児教育に適さない表情を浮かべているらしい。
 煙草が喫えれば気持ちも少しは晴れるのだろうが、私の足元には吸い殻に大きく赤いバツ印をつけたイラストが描かれていた。〝路上禁煙地区〟とも記されている。仕方なく、一度立ち止まって深呼吸をした。両の掌で顔を叩いて、再び〈オルキデーア〉に向かって一歩を踏み出した。
 四の橋の信号で明治通りを渡り、角にお寺がある細い道に入った。左手にイラン大使館を見ながら、一方通行の緩やかな坂道を登る。坂を登っていく先、マンションが向かい合うようにして建つ辺りで、道がふさがれていた。カメラやマイクを手にした人だかりができている。品性のかけらもない連中が、右に見える落ち着いたブラウンの外壁をしたマンションのエントランスを取り囲んでいた。どうやら、あのマンションに〈オルキデーア〉があるようだ。あの様子を見る限り、日を改めて訪れるのも手なのだろうが、あの連中がたむろしている割には、周囲が静けさを保っていることが気になった。
 悪びれることなく公道をふさいでいる連中の後ろから、下品にならないよう心がけて、マンションのエントランスを窺ってみると、体格のいい五人の男たちが立ちはだかっているのが見て取れた。彼らが漂わせる暴力と狂気の気配は、地味なビジネススーツで隠しきれるようなものではない。他人の領域にであろうとズカズカと踏み込むことを稼業にしている連中が、大人しくして引き下がっているのも頷けた。尾藤や平原が言うように、厄介なヤツらに関わることになりそうだ。
 不穏な空気に当てられてしまわぬよう、彼らから少し距離を置くことにした。行き場を探して辺りを見回してみると、〈オルキデーア〉のあるマンションに向かい合って建つパウダーブルーの外壁をした瀟洒なマンションのエントランスで、閑静な住宅街には似合わない人だかりを、肩を並べて眺めている男と女がいた。
 女の方と目が合った。私がそっと近づくと、女は戸惑いの表情を浮かべて一歩下がった。女の様子に気づいた男が、女と私の間に立ちふさがる。一七〇センチほどのがっちりとした五十絡みの男で、なにかのチームロゴの入った赤いTシャツから覗く腕は筋肉で盛り上がっていた。
 敵意を剥き出しにする男に、私は訊いた。「……あそこに、〈オルキデーア〉があるんですよね?」ブラウンの外壁をしたマンションを指差す。
「そうだけど」男が答えた。
「あァ、あそこが〈オルキデーア〉ですか……」少し間延びした口調を心がけて、呟いた。
「あんた……なにしに来たの?」私の芝居が功を奏したのか、男の表情から硬さが消え始めた。
「ここは、あれでしょ? 捕まった鶴田……エミリさんの事務所でしょ?」
「だから、そうだって言ったじゃないか」私のことを、仕事をさぼって足を運んだ野次馬だ、とでも思っているのに違うない。どこか蔑むような響きがあった。「あんたと、どういう関係があるの?」
「いやァ、あのですね。姪っ子がね、あの〈オルキデーア〉って、事務所にいるんですよ」私は小芝居を続けた。「田舎にいる兄貴に、頼まれましてね……ちょっと、様子を見てきてくれないかって」
「姪っ子さんがねェ……なんて子?」
「芸名を使っているようなんですが、私は、ああいう世界に疎いもので……なんて、言ったっけかなァ」わざとらしく頭をかいてみせた。
「まさか、鶴田エミリじゃないよね?」男が軽口を叩いた。目を輝かせている。
「そんな有名人じゃないですよ。あそこまで、きれいじゃないし」芝居というのは、思ってもいないことを気軽に口にできるとても便利なものだ。
「だろうね。あんた、彼女と全然、似てないもん」男が控え目な嘲笑を漏らした。
 男の嘲りに気づかぬフリをして、私は話を続けた。「とにかくね、私ら親戚は〝シーちゃん〟って、呼んでたんです。ご存じないですかね?」
「〝シーちゃん〟ねェ……それだけじゃ、わかんないよ」
「そうですかァ、困ったなァ」
 事務所を出る前に調べた限りでは、〝シーちゃん〟の候補は三人。
 ――井上しおり
 ――志賀江里香
 ――三沢静佳
 今回ばかりは、虱潰しに訊くわけにはいかない。
 私は質問を変えた。「あのですね。なんでも、ジローって恋人……彼氏がいるそうなんですけど。ジローって、名前はこの辺で聞かないですか?」
「ジロー?」男はそこに答えが書かれているかのように、空を見上げた。「聞いたことないね」空はただ青いだけらしい。
「ねェ、ハルキさん」男の背中に隠れるようにしていた女が、男を呼んだ。女の口振りから、ハルキは苗字ではなく、名前であることがわかった。
 男――ハルキが振り向く。「なに?」
 見れば、女の羽織っているグレーのパーカーの肩口には、ハルキが着ているTシャツと同じロゴが刺繍してあり、左手の薬指には、お揃いのリングがはめられていた。彼らは夫婦だ。
 女――ハルキの妻が言った。「わたし、ジローって、名前を聞いたことあるよ」
「いつです?」私はハルキの妻に訊いた。
「先々週かな。〈オルキデーア〉の社長と……そうそう、ゴンザーガ・ヤツが、あのマンションから出てきたのよ」
「〈オルキデーア〉の社長とね、ゴンザーガ・ヤツって友達なんだよね」ハルキが口を挟んだ。「随分と歳は離れてるけどさ、仲いいんだよね、あのふたり」
 〈オルキデーア〉の社長、秋山京平は私より年下で、ゴンザーガ・ヤツは私よりも年上だ。しかし、歳が離れていても、友情は培える。元来、友情とは、同年代のコミュニティを指す言葉ではない。まあ、そのことを今ここで一席ぶつつもりはないのだが。
 ハルキの妻も、緊張が解けたようで、こちらから促すことなく話の先を続けた。「そのときにね、ゴンザーガ・ヤツがね、〝ジロー、俺の車を持ってこい〟って叫んだのよ。そうしたら、マンションから出てきた若い子が、あっちに向かって走っていったの」ハルキの妻が、私が来た道とは反対の方向を指す。
「どんな男でした、ジローってヤツは?」
「普通の子かな……」ハルキの妻が首を傾げた。「あんまり、覚えてないわ」
「歳は、いくつぐらいでした?」
「三十ぐらいかな。とにかく、若い子よ」
「そのジローって男、気になるのかい?」再びハルキが口を挟んできた。
「実は……その辺のことも、兄貴に頼まれてましてね。ちゃんと報告しなきゃ、いけないんです」
「あんたも、大変だね」ハルキが妻の方を向いた。「ミキさァ、もうちょっと思い出してやんなよ。かわいそうじゃん」
「そんなこと言ったってさァ、ジローって男の子のことなんか、最初から気にしてるわけがないでしょ」ハルキの妻――ミキが口を尖らせた。
 その仕種が年相応なのかどうかは、ひとまず置いておくとして――目尻に寄せられたしわを見る限り、年齢はハルキとそう変わらない――ジローはゴンザーガ・ヤツと関係のある人物だ、ということがわかっただけでも収穫があった。ということは、この田舎芝居も、そろそろ幕を下ろさねばなるまい。
 私は言った。「しかしまァ、この様子じゃシーちゃんに会えそうもないですね。今日のところは、諦めます。お騒がせしまして、申し訳ありません。いろいろと、ありがとうございました」深々と頭を下げて、踵を返す。
「ちょっと待って!」ハルキが私を呼び止めた。
 聞こえないフリをして、そのままでいると、ハルキの方から駆け寄ってきた。
「ちょっと、待ってよ。あんたのさ、姪っ子、名前教えてよ」ハルキが肩を寄せて呟く。
「だから、私は芸名とかわからないんですよ」
「そこをなんとかさ、頼むよ」ハルキが片目をつむり、唇の端を上げた。「俺ね、フリーのライターやってるんだけどさ。〈オルキデーア〉とかと、コネを持ちたいんだよね」
 ――やれやれ、とんだカーテンコールだ
 とにかく、私は〝シーちゃん〟という単語しか、知らない。長居をするのは、得策ではないのだが、なんと答えていいものやら。
 答えに窮する私を救ってくれたのは、無粋な乱入者たちだった。シルバーのマークXが、同じ色をしたワンボックスカーを二台従えて、一方通行の道に姿を現した。報道陣と〈レッド・リーフ・プロモーション〉から派遣された五人を押しのけるようにして、〈オルキデーア〉があるマンションの前で停まると、三台同時にドアが開き、濃い青色をしたウインドブレーカーを羽織った男たちが降りてきた。背中には黄色い文字で〝渋谷署〟と書かれているのがわかると、つい先刻までおとなしくしていた報道陣が、一斉に警察車両に駆け寄った。彼らを押しとどめる〝あちらの世界〟から来た五人組との間で、小競り合いが始まった。見れば、ハルキとミキのふたりも、スマートホンを片手に騒ぎに加わっている。
 ――目の前で起きた目を背けたくなるような出来事でも、ファインダー越しなら凝視することができる
 ある戦場カメラマンが、語っていたことを思い出した。もっとも、中東の戦場でファインダーを覗き込んでいた彼は、足元の地雷に気づかずに、天に召されてしまったのだが。
 スポットライトは私ではなく、マンションの入口に続く階段を昇っていく刑事たちを映し出している。前座の役目を終えたのなら、早々に姿を消すべきだ。〝真打ち〟に心を奪われてしまっているハルキとミキには、別れは告げなかった。
 五歩ほど進んで、声をかけられたような気がした。〈オルキデーア〉のあるマンションを振り返れば、舞台、いやマンションの入口に一際背の低い人影があった。化粧品のセールスレディ――女刑事の川田が、こちらを睨みつけている。今にもこちらに駆け出しそうになっている彼女を、廃業したての相撲取りのような冬木が、ごつい手で肩を掴み、引き留めていた。
 右手を挙げて、彼らにだけは別れの挨拶をして、私は古いダットサンの待つ駐車場へと向かった。何度か名前を呼びかけられたようだったが、振り返ることも、立ち止まることもしなかった。
 尾藤はどこかへ出かけたのか、〈コルレオーネ〉の駐車場にマセラティの姿はなく、ドブネズミ色をしたブルSSSがただ一台、片隅でひっそりと私を待っていた。そのブルSSSのフロントガラスに封筒が置かれていた。駐車場に停めているのだ。〝駐禁の切符〟ではない。封筒を開くと、便箋が一枚入っていた。ひどい金釘流で、私宛のメッセージが書き添えられている。
 〝この車は、しばらくの間、きみに貸しておく〟
 ここまで、他人を腹立たしくさせる〝心のこもった〟肉筆もない。この場で破り捨ててしまいたい気持ちをグッとこらえて、便箋と封筒を上着のポケットにしまった。街を汚すわけにはいかない。
 ここまで来た道を戻る恰好で、ブルSSSを走らせた。帰りは、渋滞につかまることも、妖精に道を遮られるようなこともなく、順調に事務所へとたどり着いた。
 事務所に戻って最初にしたのは、窓を全開にすることだった。吹き込んでくる初秋の風が、澱んだ事務所の空気とともに、悪い卦も運び去ってくれるといいのだが。
 コーヒーの香りが事務所の中を満たす頃合いで、開け放していた窓を閉めて、デスクに腰を降ろした。帰りしな買い足したブックマッチで、くわえた煙草に火をつける。マグカップのコーヒーを半分ほど飲んだ頃には、なにやら手持ち無沙汰な気がしてきたので、パソコンの電源を入れることにした。ブラウザを起動させて、頭に浮かんだキーワードを入力すると、パソコンのディスプレイがゴンザーガ・ヤツの名前で埋め尽くされた。〈ドゥーシュバッグ〉で出会った〝門番〟が言っていたように、ゴンザーガ・ヤツはいくつかのテレビドラマや映画――どれも、私は訊いたことのないタイトルだったが――に出演していて、何冊かの本も出版していた。先月だけでも二冊出版している。
 『嫌われない勇気』
 『好かれようと思うな』
 それぞれが別の出版社とはいえ、ゴンザーガ・ヤツのことを〝門番〟が〝文化人気取り〟と評したのは、このあたりのことを踏まえてのことなのだろう。
 この〝文化人気取り〟にも、オフィシャルサイトなるものがあるようで、私はそちらのサイトを閲覧することにした。
 ゴンザーガ・ヤツのサイトは、モノトーンを基調にしているせいなのか、〈オルキデーア〉のサイトとは違って目に優しく映り、たやすく情報を収集することができそうだったが、オフィスの所在地は記されてなく、連絡先として、メールアドレスといくつかのSNSアカウントが掲載されているだけだった。このオフィシャルサイトからわかったことといえば、渋谷のコーヒーショップで武中から見せられた写真がこのサイトから転載されたものであるということと、〝ゴンザーガ〟と名乗るようになった由来はイタリアにあるのではなく――彼は、フランス映画の美術評論で頭角を現したらしい――谷津義雄という男の出身地、権太坂をもじった学生時代からのあだ名である、ということぐらいだった。
 続いて、このサイトからリンクされているゴンザーガ・ヤツのブログとSNSもチェックしてみた。ブログは昨年末から更新されておらず、最近はもっぱらSNSで情報を発信しているようで、SNSの方は一日に数回投稿されていた。最新の投稿は昨日の午前十一時に投稿された〝遅い朝食として、恵比寿で味噌ラーメンを食べた〟という第三者にとっては、どうでもいい情報だった。
 ブログとSNS、それぞれの過去の投稿を追ってみる。アートディレクターを名乗るだけあって、彼の作品が、いくつか掲載されていた。鳥が彼のモチーフのようで、すべての作品になにがしかの形で、鳥がデザインされていた。どこかで見たような気がする作品ばかりで、〝あの作品が、実はゴンザーガ・ヤツのデザインだったのか!〟と感動を覚えるようなことはなかった。
 その他の投稿は、彼の食生活に関するものが、投稿のほとんどを占めていた。どこでなにを食った、誰それと飲んだ――そんなこといったことを、逐次発信する必要があるのだろうか。首を捻りながら、過去の投稿を読み進めた。
 ちょうど一年前の今日、更新された投稿に目が止まった。撮影された場所が〈ドゥーシュバッグ〉でなければ、読み飛ばしていたかもしれない。
 パーティーの最中、五人の男女が肩を組んて撮影されていた。真ん中には真っ赤なジャケットを羽織った〈オルキデーア〉の社長、秋山京平がいて、その右隣では黒いタンクトップ姿の鶴田エミリがこちらにウインクを送っていた。撮影された場所が場所だけに、写真の左端でゴンザーガ・ヤツが手にした煙草は、〝別のなにか〟のように思えた。とにかく、ゴンザーガ・ヤツ、秋山京平、鶴田エミリは一年前から交流があったようだ。
 ただ、この写真の中に、ジローが映り込んでいるのかどうかは、わからなかった。そもそもが、私はジローの顔を知らない。そして、ゴンザーガ・ヤツの投稿に〝ジロー〟という名前は、ここまで一度も登場していなかった。
 短くなった煙草を灰皿で揉み消した。デジタルコンテンツの進化は、他人様の生活を容易に覗けるようにしてくれたが、そこに映されているのは、所詮は〝氷山の一角〟に過ぎない。事実は自分の目で確かめるしかないのだ――
 なにやら柄にもないことを考え始めていることに気づき、私はパソコンのブラウザを落とした。デスクの上に置いたハードカバーに手を伸ばした。赤い表紙に、黒い馬が跳ねている絵が描かれている。先日、手に入れた古本――朽木寒三の『馬賊戦記』の続きを読み進めることにした。少し頭を休めた方がいい。
 事務所のドアがノックされたのは、戦前の満州を駆け巡った日本人馬賊、小日向白朗が〝尚旭東〟の名と破魔の銃〝小白竜〟を葛月潭老師から授けられる場面を読んでいたときだった。腕時計を確かめてみると、十五時を回ったところ。私が予想していたよりも、早い到着だ。
 栞を挟み、読みかけの『馬賊戦記』を閉じた。新しい煙草に火をつけてから、私はドアに向かって「どうぞ」と応えた。
 一呼吸置いてドアが開き、事務所に入ってきた客は、私が予想していた化粧品のセールスレディと廃業したての相撲取りではなかった。ただ、〝彼〟も事務所に入るなり、顔をしかめて鼻の辺りを手で払ってみせた。
 尾藤とは違うタイプの優男が、書類カバンを手に立っていた。私と同じダークスーツを身に着けているが、彼は赤と紺のレジメンタルタイを、きっちりと締めている。そしてなによりも、彼の襟元には金色のバッジが輝いていた。ヒマワリを模したものであることは、デスクからでも見て取れた。
「弁護士が、なんの用だ?」私は言った。
「突然、お伺いして申し訳ありません」弁護士は、縁なし眼鏡の奥にある目をフッと細めて、私のデスクの前まで歩み寄ってきた。事前に準備をしていたのか、上着のポケットから出した名刺を一枚取り出して、デスクの上を滑らせる。「私、馬場と申します」
 ――マイティ法律事務所 弁護士 馬場一治
 名刺には、そう記されていた。
「あなたに、仕事を依頼したいんです」
「生憎だが、今はなにかと立て込んでてね。他を当たってくれ」
「そう仰らずに……決して、損をするようなことでは、ありませんから」馬場が唇の端をやんわりと上げた。
「悪いが、損得じゃァないんだ。もう一度だけ言う。他を当たってくれ」
「困ったなァ……」きっちりと櫛を通した髪をかき上げて、馬場が言った。「私も、もう一度だけ言います。あなたが損をするようなお話では、ありません」
「持って回った言い方をするヤツは、好きになれないんだ」
「しょうがありませんね……」馬場は目を閉じて、首を小さく横に振った。「私は、鶴田エミリの弁護を務めています」
「鶴田エミリの弁護士?」
「ええ。本件には、あなたを巻き込んでしまったようですね。だから、あなたにお聞きいただきたい話と、お願いしたいことがあるんです」
「話を聞かせてもらおうじゃないか」

ジローの伝言(2)

ジローの伝言(2)

子供の頃から無鉄砲で、いい歳をした大人になっても損ばかりしている。 私が厄介事に巻き込まれたのも、そのせいだった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-05

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