鬼の名前
男は美しい顔をしていた。
やりすぎじゃないのか、そんなに整ってなくたっていいだろうと言ってやりたくなるほどの顔だ。それゆえに愛嬌のようなものや欠点といったものがおおよそ見つかりそうになく、どこか冷たく近寄りがたい空気さえ纏っていた。しかし、話してみればそれほど分かりづらい男ではない。元気で快活で人懐っこいとは言わないが、普通の、少し話せば親しくなれる程度の、やりやすい人間である。
僕が彼と初めて話をしたのは梅雨が始まって少ししたころ、六月のことだった。大学の医局の前に佇む彼を、僕は運命的に発見したのだ。
季節柄、雨雲は機嫌よく無数の細い雨を垂らしていた。やりたい放題に雨を降らせられるのは今だけだとでも言いたいように、僕には見えた。下界を歩く人間たちはまるで羽虫のようにぬれた地面の上を、溺れ死なないようこっそりと歩いているから、雲たちはその上を面白がって水をかける。その日も湿度は八十パーセントを超えていて、じめじめした薄暗い夕暮れだった。
ここが医局だと知っている人は少ない。そもそも医師でも医学生でもない人間からすれば、無機質な灰色の建物のなかでいったい誰が何をしているかなんて、どうだっていいことなのだろう。稀に白衣を常用している変わり者もいるが、たいていの人間は部屋から出るときに、脱皮するように一緒に脱ぐか、冬なら上からコートを被せる。
だから見知らぬ人が、無防備に開ききった医局の入り口の前で立つ彼を見たところで、何の推理もできなかっただろう。彼はポリクリの帰り、教授との面談を済ませるついでに、後輩女子からCBTについての質問を受けたのでこれに答えサンプルを見てやり、これからようやく帰って国試の勉強をするところなのだ。でも、そんなことはシャーロック・ホームズにも分からない。なぜ僕が知っていたかといえば(僕がホームズ以上の名探偵だったからなんてことはもちろんなく)半分は事前に分かっていたことで、もう半分は後で本人から聞いたから。しかし、この場面においては僕たちはまだ出会っていなかった。廊下ですれ違ったり、同じ教授の授業を受けたりしたことはあるものの、喋ったことは一度も無い間柄だった。
彼はたった一人きりで、立っていた。
湿気に髪先を濡らし、困り果てたように空を見上げていた。もう夏になろうというのになぜか左手にコートを持っていて、右手にかけられたキャメル色のバッグからは雑にたたんだ白衣が覗いていた。(これで、とりあえず医学生であることだけは、ホームズには分かったかもしれない。)
なんなら僕は、美しい男を見たらどうか不幸になれと願う側の人間だ。どうせ今までその顔のおかげで大事にされ、愛されて自信をつけさせてもらい、意気揚々と生きてきたのだろうから、ちょっとした雨程度には素直に困っていればいいのだ。家に帰ってから頭を拭いてくれるやさしい家族か恋人かがいるのだから。
と、普段は思うのに、その時はなんとなく声をかけようかと思った。この気まぐれのことを、僕はのちのち運命と呼ぶようになる。
「おい、これ貸すよ」
医学部に限らない、どの大学のキャンパスにもあるだろう、デザインは簡易的でしかし丈夫な傘立てから、箸を取り出すように二本、ビニール傘を引き抜いた。彼は一瞬だけ、僕の声かけに酷く驚いた表情をしてみせた。しかしすぐに均整を取り戻し、僕の差し出した傘を指差す。
「君のなのか?」
声まで美しいのか、と、浅慮な青黒い気持ちがその時僕の体を駆け巡ったのを否定できない。
もし女だったら、きっと今の言葉だけでこの男に恋をするだろうし、そもそも男の現在ですら、電話口で彼の声を聞いたら好感を持つに違いないのだ。
彼と同じほどに美しい男は他にも見たことがあったが、彼と同じほどに美しい声を持つ男には後にも先にも出会ったことがない。
「五年前大学に入ってからというもの、毎年梅雨の時期に一本ずつ、傘を買い足してる。こいつを最初に購入したのが誰かは分からないけれど、損傷率と消耗率をそれぞれ二十パーセントだとしても、この傘立てにあるうちの三本程度は僕のものだと考えていい」
「屁理屈だな」
そう言って、彼は傘を受け取った。
癒着した皮膚のように引き合うビニールを無理やりこじ開けて、傘は花開く。汚れて半透明になった膜の色を、どこかで見たことがあるような気がした。人間の瞳だろうか。
「そういえば、自己紹介がまだなんじゃなかったかな」
彼は薄い唇を三日月状に美しくしならせて、微笑みの形を作った。今なら分かるが、それは偽りの、出来合いの、外向きの笑顔だった。
「俺の名前は東条渉」
こうして僕は、彼――東条と出会った。そんなに美しい顔なのに一人称は俺というのか、というとりとめない感想が、僕が彼に対して初めて思った人間的な、嫉妬心の混じらない正しい感情のひとつだった。
鬼の名前