もう後悔しない


 五年前、私はお兄ちゃんが所属しているサッカークラブの試合を見に、お母さんと土手に来ていた。あまりスポーツは好きじゃないけど、最後だったから。
「翔太、行けー」
 ビデオカメラを回しながら大声で叫ぶお母さん。私は隣でお兄ちゃんのチームが勝てますようにと、神様にずっと祈っていた。
「真唯、応援は祈るんじゃなくて声にしなきゃ」
「だって恥ずかしいんだもん」
 さっきから、たくさんの人がこっちを見てるし。
「じゃあ負けちゃうよ。それでもいいの?」
 私は大きく首をふった。
「それなら、ね?」
「うん」
お母さんの後に続いて、お兄ちゃん頑張れと大きな声で言った。
「あーもう、惜しい。後ちょっとだったのに……」
 ゴールをする直前で相手チームにボールは奪われてしまった。惜しいのかは分からないけど、誰かがそれを更に奪った。背は私と同じくらいだけど、お兄ちゃんにどこか似ている。
「あっ!」
 彼が一瞬の隙をついてシュートを決めた。
「キャァー」
 大きな歓声と同時に笛が鳴った。
「勝ったよ、真唯。勝ったのよ」
 一人はしゃぐお母さんの隣で私は少しだけ笑った。だってお兄ちゃんと彼が凄くキラキラした顔でハイタッチをしていて、そんな彼らに少年が抱きついて一緒に喜んでいた。この時、また二人がサッカーしているところを見たいと思った。勿論、私がこのスポーツを好きになったきっかけ。それから数年後、彼らの名前を知るなんて――

「はい終了。ペンを置いて用紙を前に回して。おい、下羽! いつまで寝ているんだ」
 ふぅ。テストが終わりやっと帰れると思ったら、ぎゅるるるるってお腹が鳴って恥ずかしい。
「相島」
 真剣な表情で井川が見つめてくる。な、何。こんな大事な日に遅刻して、しかも肝心の筆箱まで忘れた井川祥! 相川さんと同じクラスじゃなきゃ下羽君の隣になれたのに……通路は挟むけどさ。よりによって、いつも何でこいつになるわけ。
「お前どんだけ腹減ってるんだよ」
「う、うるさい!」
 下羽君に聞こえるような声で言わないで。まだ寝ているから大丈夫だとは思うけど……。

 教室から校門までのたった数分、それだけがテスト期間中、唯一の楽しみ。授業が終わるとすぐに部活へ行ってしまう井川と下羽君。だけど今は部活がないから、こうやって一緒に帰れることが嬉しい。だけど本当は下羽君と二人きりで、って内心では思っている。
「通り魔かぁ」
「物騒な世の中だよな」
 左側に下羽君、右側に井川がいるんだけど双子みたいに揃って空を見ている。さっきまで晴れていたのに今は曇り空。雨は降らない予報なのに、まるで通り雨がきますよって教えられているみたい。折り畳み傘があるから私は問題ないけど、またお兄ちゃんはずぶ濡れで帰ってきそうだな。お母さんのが怒りそうだから早く部屋にこもろう。
「相島、気をつけろよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと持ってきているし」
「はぁ? 何の話だよ」
 そんな怒ったような顔して見ないでよ、井川。
「通り雨じゃなくて、通り魔の心配をしているんだよ。相島さん」
「あぁ。そっちの話」
 ホームルームの時間に先生が言ってたな。確か、もう夏なのに黒いコートとマフラーが特徴なんでしょ。だから夜の外出は気をつけてくださいって言われたけど、私は問題ないな。塾には通っているけど、家から駅までは近いし電車の中は安全でしかも一駅だし。そこから塾まではちょっと歩くけど一人じゃないから。それにしても――
 “下羽君はいつ見てもかっこいいな”
「……島、相島! ボーっとするな。みさによると二つ結びをした女子中学生が、襲われるらしい」
 “それって……”
「かなりの女子に当てはまるな。うちの中学、相島さん以外にも二つ結びの子はいるし」
 みさちゃんは井川の妹で年は一つ下、私達と同じ公立ではなく私立に通っている。口喧嘩が多いらしいけど仲はいいらしい。よく二人で買い物に行っているらしい。
 “この髪、下羽君に似合うねって言われたからな”
「相島さん、何かあったら俺に言って」
「下羽君……うん、ありがとう」
 彼を見つめられる時間がこのままずっと続いてほしいけど、そろそろ終わりだね。さっきまで遠くにあった門が、もう今は目の前にある。これを通ったらバイバイなんだ。
私は真っすぐ進むけど、二人は右に曲がって信号をわたる。だから、しばらく待って振り返っても彼らはいないんだ。それがなんだか寂しくて、たまに辛くなる。
「じゃあ私、こっちだから」
 すると下羽君が手を振って言ってくれた。
「うん。明日もテスト頑張ろうね」
 さよならなんて言葉は使わない。昔からあまり好きじゃないし、永遠になりそうで怖い。出会いの春ってニュースとかでは言うけど、逆に考えれば別れの春。環境が変わるのはしょうがないけど私は嫌い。どうして今のままじゃダメなの? 大人の考えはよく分からない。
「俺、やっぱり送るよ」
「えっ?」
 今、いい感じの雰囲気だったのに、なんでいつも壊そうとするかな。こいつは。
「いいよ。遠回りになるじゃん」
 それに、どうせ宿題まだやってないんでしょ。また先生に怒られたいの。
「別に。電車で帰るから」
「交通費代の無駄じゃん!」
 たかが百二十円かもしれないけど、それでいろんな物が買えるんだからね。目でそう訴えたけど井川は諦める気がないようで、睨み返してくる。はぁ。もう、分かったよ。

“これが下羽君だったら、どんなに嬉しいことか”
「悪かったな。恭平じゃなくて」
「きゃっ!」
「ほらよ。これで少しはあいつに見えるだろ」
 目が悪い人のことを絶対バカにしてるでしょ。メガネ外したら確かに視界がぼやけるけど、声を聞けば目の前にいる人間が誰かなんてすぐに分かるもん。
「返してよ。それ」
 外したままだと落ち着かないし。それに、また弱い自分を見せちゃいそうだから。下羽君の前では絶対に笑うようにしているけど、井川の場合は泣いてることが多いな。同じくらい怒ってもいるけどさ。
「なぁ相島」
「何」
 井川は急に立ち止まって振り返ると、私の腕をつかんで自分の胸に引き寄せた。告白したからって両思いになったわけじゃないんだから、人に誤解されるようなことしないで。だから力づくで放れようと思ったんだけど、彼の言葉を聞いて動きを止めてしまった。
「もうイジメられてねぇか」
 本当はまだ悪口を言われる時がある。でも、しょうがない。だって二人は学校中の女子からかっこいいってキャーキャー言われて、月に一回は告白されてるらしい……見たことがないけど。
だって入学して初めての友達が彼らで、他の人とは仲良くなれなかった。それでも下羽君さえいれば幸せだって思っていたけど、気づいた時にはいろんな人の標的になっていてその結果、イジメにあった。だんだん学校に行くのが嫌になって不登校になり、誰が来ても部屋を開けなかった。ご飯もあんまり食べなくなった時に井川が家に来た。会うつもりなんてなかったのに、ドアを壊そうとしてきたから、あのバカは。おかげで今があるんだけどさ。
「俺が必ずお前を守るから」
「うん」
「通り魔にあっても助けに行くから。俺を信じろ」
 あれから半年たって冬から夏へ季節は変わったけど、彼の温もりだけはずっと同じ。嫌がらせと忘れ物は多いし、どこに行こうとしてもストーカーみたいについてくる。でも手だけはいつも温かい。私は冷え性だから羨ましいけど、こいつになりたいと思ったことはない。
男に生まれ変わるなら下羽君がいい。お兄ちゃんに似てるからって理由もあるけど、誰にでも平等に優しいから。そんな心が広い人間になりたい。
「だから俺の彼女になって」
「それは絶対にイヤだ」
“これさえなければ好きになれたのに”
「なんで? 恋人になれば一緒に学校行けるじゃん」
「朝練あるでしょ。それにずっと一緒だと疲れる」
 そう言ったらいきなりメガネを押しつけて、学校に戻ろうとしたから思いっきり叫んだ。
「明日、寝坊なんかしないでね」
「じゃあ恭平のこと見るな」
 好きな人じゃなくても、前に人がいれば視界に入るよね。普通。しかもテスト中に横とか、まして後ろなんか見たらカンニングになるし。下羽君はあんたと違って、何してもかっこいいから見ちゃうよ。だから私も言い返した。
「それなら、筆箱も忘れないで!」
 振り向きはしなかったけど、確かにあいつは小さく頷いた。

 それから二週間後、夏休みになったけど勉強ばっかりだなと思いながら駅に向かっていた。しかも隣にいるのはまた井川だし――
「あぁ。せっかくの休みが勉強とサッカーで潰れるし。しかも恭平、来ねぇし」
「えっ! 下羽君、部活に来なかったの。なんで?」
「看病だと。昌太の風邪が長引いてるらしくて二日間も休んでる」
 昌太君は下羽君の弟で小学六年生。だけど昔から体が弱くてよく体を崩している。下羽君が幼い頃にお父さんは亡くなっていて、お母さんはそれから一日中、二人の為に働き続けている。だから昌太君の面倒はほとんど下羽君が見ていて、部活や学校を休むこともたまにある。    
やる気ない人だと勘違いされるけど、それは井川だけ。彼は陰でいっぱい努力しているもん。
「明日の試合、あいつがいないと勝てねぇんだよ」
「そんなに強いの?」
「あんまり。でも、俺のモチベーションが上がらないから」
 なんとなく、その気持ち分かるな。下羽君と同じ高校に行きたいから塾に通い始めたけど、なかなか授業に追いつけなくて。あいつには口止めさせたけど、塾のミニテストで悲惨な点数だったこともある。だけど彼に頑張れって言われると、授業の内容がいつもより分かるし、テストも一番になるんだ。基礎って呼ばれる下のコースでだけど。
「明日は皆、試合するんだな。」
“皆? 二人はまだしも私は”
 不思議そうに首をかしげていると、井川は私にデコピンして言った。
「合宿も自分との戦いなんだから、試合だろ」
「そう……だね」
「あ、でも移動中か。俺達がボール追っかけているとき、朝だし」 
 バスの中でも単語帳くらいはパラパラめくるよ。成績が上がってきたから、この合宿だけ特訓にコースを変えてもらったし。そんな無理しなくてもいいよって先生には言われたけどさ。今回のテスト、私は四十三位だったけど下羽君は十七位だからね。前回よりも順位を上げてやっと半分は超えたけど、まだまだ頑張らなきゃ。ついでに井川は四十二位、いつも私の一つ上にいるんだよ。なんか勉強も下羽君との関係も邪魔されている感じがする。
「相島さん?」
 “この声はもしかして――”
 そう思ってすぐに後ろを振り返ったら、やっぱり彼の姿があった。
「下羽君」
 私服もカッコいい。ギンガムチェックの服ばっかりしか着ない井川と違って、白のシャツに青いパーカーをはおっている。今日の服、ワンピースにして正解だったな。
「恭平、お前って……主夫みたいだな」
「ちょっと! そんなの失礼でしょ」
スーパーの袋を両手に歩いているから気持ちは分かるけど、あんたと違って事情があるんだから。それに料理できる男の子ってかっこいいじゃん。私なんか玉子焼きすら作れないし。砂糖なんか入れていないのに、どうして黒コゲになるのか不思議でしょうがない。
「いいよ。それより二人は塾帰り?」
 そう言われてとっさに鞄を隠した。当たり前のことだけど、井川とお揃いだったから。
「うん。あっ、昌太君は大丈夫なの」
「だいぶ熱も下がってきたし、明日は部活に行けるよ」
「はぁ、よかった。恭平がいない試合なんてつまんねぇし」
 同感。想像しただけで眠くなりそうだし、下羽君がいないと井川は無理しちゃうんだよな。自分を追いつめて周りが見えなくなるし。サッカーはチームプレイなのに、ほとんどパスしないでシュートを決めようとする。毎回、外していることに自覚あるのかな。
「俺もさ、相棒は祥だけだと思ってるから」
「な、何だよ急に。照れくさいだろ!」
 本当だ、耳が赤くなってる。

「……るな」
 夜道を進んで入ると、誰かの声が聞こえた。ここは駅から近いけど住宅街で私達以外は誰も歩いてない。目の前に公園はあるけど暗いから遊具がぼんやりと見えるだけ。九時半過ぎの今、盆踊りは昨日で終わったし花火大会は来月だから、用がある人なんていないはずだ。
「相島さん? どうしたの」
 下羽君が不思議そうに私の顔を見る。どうやら彼には聞こえていないようだ。
「ううん。なんでもない」
 だから無理して笑った。もしかしたら昨日、塾から帰って少しだけホラー番組を見ていたから、その影響かもしれない。
 “そんなことより今は合宿。余裕であいつに勝てるくらい成績を上げなきゃ”
 井川は勉強よりもサッカーが大事なので、今回はついてこない。だから何も気にしないで勉強に集中できる。一つのことに打ち込める二人が羨ましくて、まだ受験生ではないけど私も頑張ろうって思える。
「あぁ、聞いてくれよ恭平。今日の練習でさ……」
 この角を曲がれば駅までまっすぐ、今度こそ登校日まで会えないのか。井川の話を聞き流しながら私は少しだけ寂しさを感じていると、
「……るな、春菜」
 どこからか、さっきと同じ声が聞こえてきた。助けてほしいけど彼の前ではそんなこと言えない。でも、あいつにだけは気づいてほしいから服のすそをつまもうとした。その瞬間、
「誰だよ、お前。俺達になんか用か?」
 おそらく井川の声だっただろう。初めて聞く声だったけど下羽君はこんな口調ではない。恐る恐る振り返ると二人の前に男性が立っていた。ボロボロのコートになぜかマフラーを巻いていて、顔はフードを被っていて見えないけど体型的に男性だ。
「春菜、春菜……」
 頭の中ですぐに通り魔という三文字が浮かんだ。先生が言っていた特徴にも当てはまっているし、明らかに普通の状態ではない。同じことを思ったのか下羽君がさりげなく私を隠すように立った。二人だったら走れば逃げられるだろうけど、運動音痴の私はすぐに追いつかれる。どうしようか悩んでいた時、下羽君が井川に耳打ちした。
「僕のこと覚えてる? 僕だよ、僕。ねぇ春菜」
 そう言いながら彼は私達との距離をどんどん縮めてくる。急に背中が寒くなって震えも止まらない、立つことすら精一杯の状態。怖くて、怖くて、ただ下を向くことしかできない。
「行け!」
 この声と同時に下羽君はスーパーの袋を手から離した。そして私は井川に腕をつかまれ、そのまま流されるように走った。頭は混乱して涙はも止まらなくて、何が起こったのか理解できなかった。
「ねぇ、ちょ……」
「アーヒャヒャ、フハハハハ」
 バタッ
 奇妙な高笑いとともに何かが倒れる音がした。
 “何、今の”

「恭平」
 私は振り返れなかったけど、あいつの表情を見て大変なことが起こっていることは分かった。いじわるだけど優しくて、邪魔ばっかりするけど誰よりも強いあいつが涙を流していたから。
「井川、井川!」
 呼びかけても呆然と立ち尽くしたままで、何回かゆすったらようやく正気に戻った。私は何を言えばいいのか分からず、両手でひたすら服を引っぱり続けた。髪が濡れたような感覚がした時、あいつに強く抱きしめられた。
 “えっ”
 でも、それはたった一瞬の出来事ですぐに離れてしまった。びっくりして顔をあげるとすごく真剣な表情で呟き、風のように通りすぎてしまった。
「お前はここにいろ」
 何が起きたのか分からなくて、目が点になってしまった。でも、だんだん怒りがわいてきてガツンと言おうとして振り返った。すると井川に隠れて誰かが倒れていた。最初は暗くてよく見えなかったけど、
「……平、恭平」
 と言うあいつの声が聞こえた。
 “し、下羽君……?”
 そんなわけないと思った。どうせ何かの冗談で驚かせたいんだと。でも、あまりにも荒れた声だから本当のように思えてきて、だから私は確かめたかった。ゆっくり、一歩ずつ震える足をおさえながら。だんだん距離を縮めると何か液体のようなものが道路に広がっていることに気づき、指でさわろうとした。だけど、そんなことしなくても正体はすぐに分かった。
 “――血、だよね”
 白いサンダルを履いてきたはずなのに、一部分だけ赤い色に変わっていたからだ。
「恭平。おい、恭平、返事しろ!」
 下羽君の姿を見たのと同時に近くにあった街灯の明かりが消えた。一瞬の出来事で少ししか見えなかったけど、シャツが真っ赤に染まっていてお腹には刃物があった。
「ねぇ井川、私」
「おまっ……。いいか、よく聞け。この数分で起きたことは全て忘れろ。それと、恭平のことは俺に任せてお前は今すぐ帰れ!」
 急にそんなこと言われたって無理だよ。立っていることがやっとの状況で、しかも下羽君が自分の好きな人が通り魔に殺されたんだよ。私のせいだ……私が我慢しないで正直に話していれば、勇気を出して悲鳴をあげていれば、こんなことにはならなかった。
「帰んない」
 ここにいても何かできるわけじゃないし、逆に邪魔かもしれないけど一緒にいたいの。
 “お願い井川、一人になりたくないの”
「さっき恭平のいないサッカーはつまんなねぇ、って言ったけど取り消す」
 今そんなこと関係ないじゃん! あんたの相棒が、私の大好きな下羽君が殺されたんだよ。知らない男に。私は春菜じゃないのに、どうして狙われなきゃいけないの。
「お前がいなきゃダメなんだよ。応援している相手は違ったとしても、相島の存在だけでスッゲー力が込み上げてくるんだ。なぁ、あいつと同じ高校に行ってマネージャーになりたいんだろ? その為に頑張って勉強して、ようやく結果が出てきたじゃねぇか。なら最後まで頑張れよ。だから、さっさと帰って合宿に行け」
「まだ通り魔がいるかもしれないじゃん」
「いねぇよ。そう信じていれば出てこない」
 “バカ”
「恭平は死なねぇよ。いや、俺が死んでも殺さねぇ」
「あんたが死んだら意味ないじゃん」
「ま、そうだな」
 この時の私達はもう涙もとまっていて、不謹慎かもしれないけど笑っていたんだ。
「行け! 俺の分まで頭よくなってこい」
「うん」
 
 その日は、ほとんど眠れなかった。寝ようとすると、今も彼は病院で手術をしているんだよって、あなたのせいだからって頭の中にいる私が話しかけてくる。どんなに耳をふさいでも聞こえなくなるどころか、同じ言葉を繰り返してくる。
「真唯、朝よ。起きなさい」
 いつもはカーテンを開けたら部屋をすぐに出るお母さんだけど、今日はスーツケースを盛大に広げて点検をしながら、ぶつぶつ何かを言っている。まだ家を出るまで時間はあるけど、睡眠不足なのか起きる気力がほとんどない。下羽君は死んでないって信じたいし、あいつの言葉も忘れたわけじゃない。だけど、もしかしてって気持ちが頭をよぎって怖くなる。
「合宿に行きたくないんでしょう」
 “――えっ”
 その反動で一瞬だけ元気になった。でも数秒後には頭やお腹が痛くなって、気持ち悪いのも復活した。今にも吐いて楽になりたいって思うくらい苦しい。
「昨日のテスト悪かったから。特訓についていける自信がなくて、怖気付いているんでしょう」
「あっ、うん」
「真唯、人には誰でも波があるの。ずっと成功なんかし続けない。どんなに努力しても報われないことはあるし、諦めることもある。よく可能性って言葉を使うけど、それを高くするには頑張るよりも信じるの。今は関係のないことでも続ければ鍵になる。鍵穴は一つしかないけど、一回で開けられる人は少ないから。だから何があっても最後まで自分を信じなさい」
 そう言うと、お母さんはポケットからお守りのついた鍵を出した。
「帰ってくる時、誰も家にいなかったら困るでしょ。大丈夫だとは思うけど一応ね」
「……うん」
「早く着替えなさい。あっ、酔い止め忘れないでよ、台所にあるから」
 お母さんが部屋を出ると、すぐに鞄から携帯を取り出しあいつから連絡がないか確認した。メールはきていたけど下羽君のことは何もかかれていなくて、ガッカリした。携帯を持っていたら勉強に集中できなくなると思って、電源をきってからベッドの下にある袋に入れた。この中には血が付いたサンダルも真っ白な箱に包まれて入っている。捨てたいけど、それをやったら昨日のことを忘れようとしているみたいで……私は覚えていなきゃいけない。彼は生きてる。信じなきゃ奇跡なんて起こらないから――

「真唯?」
 階段を下りようとしたら珍しい声が聞こえた。振り返るとユニフォーム姿のお兄ちゃんが立っていた。また身長が伸びたみたいで、顔も少し焼けていた。
「おはよう。お兄ちゃん」
「どうした?」
 首をかしげていたらお兄ちゃんは鞄を持ったまま近づいてきて、私のメガネを取ると親指でそっと目を拭った。その時に初めて自分が泣いていることに気づいた。前にいるのはお兄ちゃんなのにどこか下羽君に見えて、二人は少しだけ無口なところしか似ていないのに。
 “……あれ? どうして涙が止まらないんだろう”
「違うの。私は、私は」
 止めようとしているのに涙はどんどん溢れてくる。ついさっき、頑張ろうって決めたばかりなのに、井川にも忘れろって言われたじゃん! あいつに任せればきっと大丈夫なのに信頼しているはずなのに、どうしてこんなにも不安になるの。
「そんなに家が好きなのか」
「えっ」
「お泊りや修学旅行の時も泣いていたから」
 あれはお父さんが誕生日にくれたうさぎのぬいぐるみを喧嘩して、ついゴミ箱に入れたらそのまま、お母さんに捨てられたから。怖い話もされたけど。
「途中まで送ってやるから、早く顔洗ってご飯食べてこい」
「でも部活……」
「いいよ。俺は男だから」
 意味はよく分からなかったけど、ポンポンと頭をなでてくれたから心配してくれてるってことだよね。私は急いで準備して、お腹すいてないけど無理して食べた。その間もずっと玄関で待っていてくれて、一緒に歩いている時もスーツケースを持ってくれた。
高校と塾は反対方向なのに最後までついてきてくれて、しかもお小遣いまでくれたんだ。でも三百円って小学生じゃないんだから、せめて五百円にしてほしかったなぁ。

 合宿が始まってからの三日間は最悪だった。初日から嫌いなピーマンを食べなきゃいけないし、授業にはほとんどついていけない。今回は特別プログラムだから、どの教科もテストの連続で順位が悪いと補習になって残される。一番得意な社会でもギリギリだったけど他、特に数学に関しては最後までビリのままだった。だから下羽君のことなんか考えている余裕がなくて帰りのバスに乗った瞬間、ようやく思い出した。

「よっ」
「……井川」
 バスから降りると部活帰りのあいつがいた。練習が相当きつかったのか髪が濡れていて呼吸も少しだけ荒かった。側に自動販売機があったから、お兄ちゃんから貰ったお金でスポーツドリンクを買いそのまま渡した。
「いいのか?」
「疲れてるんでしょ」
「サンキュ。水筒の中身空っぽでさぁ、困ってたんだよ」
 井川は五百ミリのペットボトルを一気に飲むと、生き返ったような顔で転がっていた小さな石をボールのように蹴った。そして人のスーツケースをじっくり眺めて、こう言った。
「好きだな。水色」
 “これはお母さんが買ってきたの”
 声に出して言いたかったけど、いつも着ている洋服まで買ってもらっているのを知られたくないから黙っていた。本当はピンクが好きだけど下羽君に子供っぽく見られたくないし、中学生になって……って思われたくないから言わない。
「下羽君は?」
 私がそう聞いたら、あいつは人の荷物を持って何も言わないまま歩き出した。
「ねぇ!」
 運動部の早歩きは文化部の走りと同じくらいって、前にどこかで聞いたことがある。その通り、まるで持久走の特訓でもされているような気持ち。バスは駅の近くに止まったはずなのに、気づいたら反対方向、これじゃ塾に向かっているようなもんじゃん。
「井川、いいから止まって」
 荷物を掴んだおかげで、ようやくあいつの足は止まった。
「駅、あっちだよ」
「相島、俺は今から恭平の仇を討ちに行く。だから、お前も来い」
 仇って、じゃあ下羽君はもう……。私は立つ気力さえ残っていなかった。自分のせいで好きな人が死んで、彼の相棒がその仇を今から討とうとしている。このままで私はいいの。去年、トイレでびしょ濡れにされて言われたじゃん。あんたなんか死ねばいいのにって、その通りだよ。私が、私なんかが生まれてこなければ、二人は巻き込まれたりなんかしなかった。
「春菜みーつけた」
 聞き覚えのある奇妙な声。たった二回しか会っていないのに、覚えてしまった忘れられない声。
「なーんだ、また邪魔者も一緒か。まぁいい。あの坊主と同じように」
 ドンッ
 何かが地面に叩きつけられる音、まさかと思って顔をあげたら井川は悔しそうな表情で舌打ちしていた。周りを見てみると通り魔の後ろに、学校の鞄が落ちている。何か重たいものが入っているみたいだけど、本当に殺す気なんだ。
「お前も死ねぇ」
 通り魔のコートからナイフが出た瞬間、あのアホを横に突き飛ばしてスーツケースを投げた。どこかに当たれば痛がるはずだから、その隙に逃げようって。私は仇なんかどうでもいいから、こいつだけは絶対に失いたくない。いつも助けてもらっているし、私は女の子だけど、負けてもいいから戦いたい。競技は違うけど同じ試合をしている仲間だから!
「いってーえ。彼女のくせに刃向いやがって!」
「彼女? そんなこと知らないけど、殺したいなら私を先にやってよ」
 大人はやっぱり舐めちゃいけないな。でも、こいつだけは逃がしたい。助けたい。原因は私なんだから、私がいなくなれば全て終わる。井川が殺されることもなくなる。通り魔の目をじっと見て、手や足は震えているけど絶対に下がりたくなかった。
「オラァ」
 通り魔がナイフを振り上げた瞬間、その後ろから誰かの声がした。
 “誰”
 その正体が分かるのと通り魔が倒れるのは、ほぼ同時だった。
何かが弾む音が少し遅れて聞こえて、私は目を疑った。
 “下羽君……?”
 スリッパに黄緑色の患者服姿、でもお腹の部分だけまた赤く染まっている。顔も真っ青で今にも倒れそうな様子。よかった。彼が、下羽君が生きている……。
「ふぅ。今度は守れ――」
「下羽君!」
 力を使い果たしたのか、通り魔と同じように彼も倒れてしまった。
「クッソー。俺のボール使うなよ」
 “はぁ? 今、それどころじゃないでしょ”
 後ろで井川が悔しそうに頭をかいている。俺のボールって……。
「これ、学校のじゃん!」
「そうだ、盗んできた。とにかく救急車と警察……相島、こいつの上に座ってろ、動かれたら困るし俺の足でとどめをさしてやる。ボールだと思えば楽勝だ」
「その前にナイフ奪ってよ。危ないから」
 あいつが通り魔に何かしている間、とにかく私はいろんな場所へ電話をした。警察に病院、下羽君の家、お母さんには後で説明するから遅くなるとだけ伝えた。先に警察が来て私が事情を説明している間に、救急車が到着して下羽君は運ばれた。何を話したかは正直、覚えていないけど学校と名前を聞かれたから、また後で話すことになると思う。           
井川が頼んでくれたおかげでパトカーに乗せてもらい病院まで向かった。

 病院に着くと、下羽君のお母さんと小学生くらいの男の子がいた。おそらく弟の昌太君だろう。すると井川が私の一歩前に出て突然、頭を下げて叫んだ。
「ごめんなさい!」
 だから私も二人に頭を下げて謝った。
「祥くんと……あなたが相島さんね。いつも話は聞いているわ」
「あ、あの」
「やっと守れたのね。あなたのこと」
 言葉の意味が最初は分からなかった。でも私が知らなかったことを、井川や彼のお母さんが教えてくれてようやく理解した。部活を出れないのが理由で悪口を言われ続けていたこと、よく近くの公園でサッカーの練習をしていたこと、それに私のイジメも彼は気づいていた。だけど自分が原因だから何かすると余計に悪化すると思って、その気持ちをずっとボールにぶつけていたらしい。今でも悪口を言われていること、下羽君は知っていた。酷い言葉が書かれたプリントが私の机とかに入っていると、いつも持ち帰っていたみたい。
「……どうして」
「俺の前ではずっと笑い続けるから、それに応えたいって。だから裏で守ろうとしたみたい」
 彼のお母さんは続けてこう言った。
「堂々とあなたを守っている祥君のことが、本当は悔しくて羨ましかったんだと思う」
 “……”
「この子達の父親も人をかばって死んだの。やっぱり血は争えないわ」
 私はその時、初めて母親の涙を見た。子供のように無邪気に泣かず、通り雨のように頬を流れていく。美しくて寂しくて、かっこいいと思った。
「下羽君のお母さん。私はいつも二人に守られてばかりなんです。でもこれからは、いっぱい、いっぱい強くなって私が二人を守ります!」
 今の私はすぐに泣くし、運動音痴で頼りないかもしれない。だけど男の子にはない強さが女の子にはきっとある。それが何なのか気づいた時、大人になれるんだと思う。時間はかかるけど、下羽君のお母さんにはそれを見ていてほしい。私も守られっぱなしは嫌だから……。
それから何時間くらい経っただろう。突然、手術中と書かれた赤いランプが消えた。
ドアが開くと四十代くらいのおじさんが出てきて、
「もう大丈夫ですよ」
 と笑って言った。その言葉に安心したのか下羽君のお母さんはその場で泣き崩れ、側にいた昌太君を思いっきり抱きしめていた。止まりだした私の涙もまた溢れてきて、井川の肩にもたれかかりながら喜びを一緒にかみしめた。
「あぁ。お前がこんなに泣くなら俺が代わりに死にたかった」
「この状況で何アホなこと言ってるの」
「だって、相島の涙は俺だけのものにしたいし」
 “はぁ? 絶対、井川を思って泣いたりしないもん”
 すると奥から下羽君がベッドに横たわったまま出てきた。数人の看護婦に囲まれながらすぐに通りすぎてしまった。一瞬だけ顔が見えたけど、手術が終わったばかりだから静かに眠っていた。だから二人に軽く挨拶をしてから、井川と一緒に帰った。

 一週間後、あの日と同じ格好をして彼のお見舞いに行った。サンダルを念入りに洗いながら考えたけど私服の中で一番自信のある服だし……自分で選んだわけじゃないけど。それに下羽君のお母さんがこっそり教えてくれたんだ。水色が好きだって。
「お前さ、それ以外で好きな色ねぇの」
 バス停で座っていたら上からあいつの声が聞こえた。井川だって、こういう時ぐらい私服で来いよ! 部活は大変なのかもしれないけど、そんな格好していたら自慢しているみたいじゃん。下羽君が誰よりもサッカーやりたいこと知っているくせに。
「何してるんだ。バス来たぞ」
「はいはい」
 約三十分、いびきをかいて人の肩にもたれかかってるあいつの頭が重いと感じつつ、景色を見ていた。笑っていれば大丈夫って、お母さんは言うけど……。井川を起こしてバスを降り病室に着くと、どこか悲しそうな表情で外を見ている下羽君がいた。あのバカが鞄をドアにぶつけると、彼は私達の存在に気づいたようで少しだけ笑った。
「久しぶり」
 私は小さく頷いてから、ゆっくり彼に近づいた。涙を必死に堪えて笑おうとしたけど、我慢ができなかった。そのままお互い何も言わず、時間だけが過ぎようとしていた。
「恭平。俺、仮眠していい?」
「さっき寝てたでしょ」
 返事も待たずに、椅子を二つも使って眠り始める井川。口が開きっぱなしで、しかも半目だったので私達はちょっと笑ってしまった。
「下羽君」
 覚えていないと思うけど、初めて会った時はメガネなんかつけていなかった。これをしたところで何か変わるわけではないけど……それでも、この姿で彼に伝えたかった。それは簡単だけど難しくて、なかなか声に出せない大切な言葉。
「ありがとう!」
 彼がどんな表情をしていたのか、はっきりとは見えなかった。でも一つだけ言える。
 “やっぱり私は恭平君が好き”
                             完

もう後悔しない

学校の卒業制作で書きました。去年、文化祭で書いた「貴方への手紙」に比べれば上達したと思っているのですが……下手になっていないことを祈ります。

もう後悔しない

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted