この苦しみは恋にも似て
まるいものを見ると、なぜか、左手の中指がぴりぴりする。
ボールとか、地球儀とか、満月とか、丸底フラスコとか、それから、おっぱいとか。
あの夜の、空気がなくなる瞬間は、いつも憂鬱である。
あの夜は、何度もやってくる。何度もやってきて、部屋の空気を奪ってゆく。それから、外の空気も薄めてしまう。息苦しさは、一晩続く。酸素を求めて夜の街をさまよい、歩き、ときに早歩きをし、駆け足をし、立ち止まって呼吸を整える。とはいえ、肺は、じゅうぶんな酸素をとりいれられず、酸素をくれよおと、訴えてくる。そして、ぼくは幾度となく、胸の痛みに足を止め、空が明るくなる頃には朦朧としながら、ふらふらと家に帰りつく。まるで、ゾンビのようだ。
空気がなくなる夜に街を歩いているのは、ぼくと、近所のサンドイッチ屋のライオンくらいである。
ライオンは、サンドイッチ屋でアルバイトをしているライオンである。大学生であるらしい。ぼくと同い年かな、と思ってたずねたら、ぼくよりも一つ年上であった。タメグチでいいよと、ライオンは言った。
ライオンは黒縁の眼鏡をかけている。茶色っぽいような、橙色っぽいような髪に、よく似合っている。
「キミ、おっぱいは好きかい」
ある夜、これで何十日目かの、部屋の空気がなくなった夜に、空気の薄まった街で、ぼくは、ライオンにそうたずねられた。
ライオンは、おっぱい、などと軽く口にするようには見えないライオンだったので、ぼくは思わず立ち止まって、息をのんだ。
空にはたくさんの星、ではなく、光の点滅が見えた。星ではなく、あれは宇宙船だった。さいきん、ぼくたちの国は異星人との外交にちからを入れているらしく、多種多様な異星人と街ですれちがうことが増えたのだった。ある者は観光に、ある者は出稼ぎに、またある者は移住にと、様々な目的で異星人たちは、ぼくたちの国に降り立つようになった。
「嫌いではないけれど、好きでもない」
ぼくは答えた。ぼくはおっぱいに、あまり興味がなかった。
「そうなんだ。ぼくはね、どちらかというと好きだよ。小さければそれはそれで素敵だし、大きいのもまた個性だと思っている」
ライオンと並んで歩いていると、ライオンの方からいつも、ふしぎなにおいが漂ってくる。
サンドイッチ屋のにおい、だろうか。
ライオンの体臭、だろうか。
嫌な感じはしない。おっぱいのことをはっきり、おっぱい、と言っても、小さいのも大きいのも好きだと知っても、ライオンはなんでか、とてもまじめな人に思えるのだった。いやらしさがないというか、なんというか。
「でも、おっぱいは二の次だよね。やっぱり気が合う子がいいよ。フィーリングっていうのかな。笑いのツボがぴったりだと、最高だよね。ふたりでいるときに、片方が笑っていて、片方が冷めているのって、なんだかとても、さびしい感じじゃない?」
ライオンは、よくしゃべる人だった。特に色恋の話を、ライオンは好んだ。好きな女の子のタイプだとか、今までにどういう女の子とつき合ったかとか、別れ方はああでこうだったとか、キミは何歳で結婚したいとか、なんだか女子高生みたいなライオンだなと、ぼくは思った。おっぱい、という単語を発してもいやらしさが感じられないように、ライオンの口からつるんと出てくる、セックス、という単語もまた、ふしぎとしっくりくるものだった。なんだかセックスというものが妙に神々しく、厳かなものにすら思えた。
時間が経つにつれ、からだのなかの酸素が減ってゆく。頭でなにかを考えることが、億劫になってくる。
ライオンは平然としている。ぼくの歩く速度に合わせてくれているが、早歩きをしても、駆け足をしても、息を乱す様子はないし、夜の空気が薄まっていることを忘れさせてくれるような軽快さで、おしゃべりをやめない。
空に浮かんでいる宇宙船のなかには満月のような、まるい光を放っているものがいる。
それを見ると、ぼくの左手の中指は、ぴり、ぴり、と、けいれんをはじめる。
けいれん、というより、脈を打っているようである。ぴり、ぴり、ぴり、ぴりと、一定のリズムで指は震える。痛みはない。
くるしいよ、ライオン。
ぼくが訴えると、ライオンはそっと背中をさすってくれた。
「大丈夫かい、キミ。ああ、ぼくにはわからない感覚なのだけど、あれかい、三時間ほど全力疾走したあとみたいな、くるしさなのかい?」
三時間も全力疾走したことはないけれど、ぼくは、だいたいそんな感じだろうと思い、そうだと答えた。
ライオンの手は大きくて、あたたかくて、すこし怖かった。爪が長く、鋭いのだ。爪の先が時折、服の上を滑ってゆくのがわかるのだが、そのとき、背中を引き裂かれる想像を、ぼくは自然としてしまうのだった。
どこかですこし休もうと、ライオンに連れて行かれたのは、ライオンがアルバイトをしているサンドイッチ屋の店の前においてある、木のベンチだった。ライオンはぼくを寝かせて、ぼくの頭を、自分のひざの上にのせた。ぼくはライオンに、ひざまくらをしてもらう形となった。ライオンの脚は太いようで意外と細くて、こりこりしていて、水まくらに頭をのせているような不安定感が、あった。
「よしよし、苦しくないよ。苦しくない。ゆっくり息を吸って、吐いてごらん」
ぼくは息をゆっくり吸って、ゆっくり吐いてみた。何回か繰り返しているうちに、息苦しさがすこし軽くなった気がした。
ありがとう、ライオン。
お礼を言ったら、ライオンはやさしく微笑んだ。
そういえばライオンの眼も、まるい。
ボールのように、地球儀のように、満月のように、丸底フラスコの底の部分のように。
左手の中指をぴりぴりさせながら、ぼくは、早く朝になりますようにと祈り、目を閉じた。
この苦しみは恋にも似て