さぁ、ピクニックに行きましょう。
初めて手に取ったお母さんの真っ赤な口紅。あの時、確かに私の胸は高鳴った――――。
「雅! 早くしろよ!!」
玄関から、幼馴染みの健吾の声がする。相変わらずせっかちで甲高い声。声変りもしていない健吾を男の子として意識するなんてあの時は思ってもみなかった。
中学に入りたての頃、まだ化粧の仕方だってまともに知らなかった私が、小学校の時からの幼なじみだった健吾に恋をした。ブカブカの学ランの袖をまくって、それが恥ずかしくてたまらないと言った様子の健吾を初めて可愛いと思った。
「おい、まだかよ。 雅!?」
しびれを切らした健吾が、再び叫んだ。私の部屋の窓からは玄関前に佇む健吾が、いつもより少しだけ小さく見える。もともと中学三年生にしては低身長の健吾は、今でも自分より背の高い人と並んで歩く事を嫌っていた。それなのに私ときたら、中学に入ってすぐの頃に急激に身長が伸び始めたのだ。
私は勉強机の隣に置かれた化粧台の前に座り、鏡を覗きこみながらため息をついた。化粧台に並べられた淡いピンクのリップグロスに手を伸ばす。
初めてお母さんの口紅を手に取ったときの胸の高鳴りは今でも覚えている。明日これを塗って学校に言ったらみんなはなんて言うだろう。『健吾は気に入ってくれるかな?』そんなバカな事を考えながら、緊張で少し顔が引きつる鏡の中の自分を見つめていた。
結局のところ、それは未遂に終わった。
翌日、両親の寝室に忍び込み、母の化粧ポーチからあの口紅をくすねた私は、自分の部屋に駆けこんで、小さな手鏡とにらめっこしながら、自分の唇に口紅を塗った。意気揚々と階段を駆け下り、玄関で靴を履いている途中、玄関まで見送りに来た母が言った言葉は今でも忘れない。
私は、眉をひそめた。あの時の母の言葉を思い出しただけで腹が立ってしょうがない。母は意気揚々と、鼻歌まじりで扉のノブに手をかけた我が娘にとんでもない罵声を浴びせたのだ。
「ちょっと、雅。貴方まさか、その顔で行くつもり?」
私は少しイラつきながら振り返った。せっかく人が良い気分で出かけようとしているのに、水を差す母が許せなかった。
「どんな顔で行こうと私の勝手でしょ?」
「でも……、さすがにそれはやめておいた方が良いんじゃない。」
母は顔をひきつらせながら言った。
「うるさいなぁ! ほっといてよ!」
「でも、その顔……人間じゃないわよ?」
「は!?」
そう言って母は、玄関のすぐわきにあるキッチンに戻ると、戸棚の引き出しから少し大きな鏡を持ってやってきた。
「ほら。」
そこには、まるで妖怪・口裂け女のような自分の顔が映っていた。
私は驚きのあまり声も出なかった。手に持った手提げかばんを落としてしまう。
「ね?」
どこか嬉しそうに微笑む母を尻目に、私は慌てて二階の自分の部屋に駆け上がった。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。あとから、私は色が白いから口紅の赤だけが浮いて見えてしまっていた事、口紅を塗る時は、細い筆を使って丁寧に塗る事を教えてもらった。
(たくっ。何が「ね?」よ!)
私はため息をついた。
(娘の顔見て「人間じゃない」はないでしょ!)
ふと鏡を見ると、鏡に映る自分の眉間にしわが寄っている事に気付き、私は慌てた。今日は近くの公園で健吾と二人で課外授業のレポート作りをする事になっていた。本当は夏休みの宿題だったのだが、宿題を忘れ、なおかつこの時期までそれをほったらかしにしていたのは健吾だけだった。つくづく、なんでこんな男を好きになったのかと我ながら情けなくなってくる。
でも、“レポート作り”というのはとてもいい口実なのだ。広い公園に可愛い花柄のピクニックシートを広げて健吾とお弁当が食べられるなら何だっていい。
私は階段を駆け降りた。
扉の向こうには健吾が待っている。きっといつものように“待ってやってたぜ”オーラ満載で自転車にまたがっているに違いない。小さいくせに、恰好付けたがりで、バカで、お子様だけど、私はそんな健吾が大好きです。
「待った? さぁ、ピクニックに行きましょう。」
さぁ、ピクニックに行きましょう。