順番
一
かなづち,は人を評するときに用いると,泳げない人という意味になる。辞書に載っていた。面白いと思って,すぐに覚えた。それから頁を捲って前に戻り,『かたかな』を探した。『かたかな』は漢字で片仮名と書き,音節文字を意味する,外来語を意味する,と書かれていた。その起源についてまでは,詳しく載っていなかった。先生が配ったプリントにはその起源について説明せよ,と短く書かれていたから,この説明じゃ答えにならないことは分かっていた。それでも,僕は調べた結果をノートに記した。
「『かたかな』は漢字で片仮名と書き,音節文字や,外来語のことをいう。」
音節,についても一応調べて,「まとまった音の区切り」とメモをして,僕はまた辞書を捲った。外来語,についても調べるつもりだった。けれど,タイミング悪く,テーブルの前を通ったママから「早く髪から乾かしなさい!」と怒られてしまったので,「はーい!」と答えて,鉛筆をノートの上に転がして,洗面所へ走っていった。スイミングスクールから帰って来て,お風呂から上がったばかりだったことを忘れていた。クロールで,50メートルの自己記録を更新した記念すべき日だった。もちろん浮かれていた。だからそのままの勢いで,難しそうな宿題のひとつを終わらせられると思った。ドライヤーなんて,プリントの空白を埋めてから使うつもりだった。でも,その順番は前後した。僕はじっくりと調べなきゃいけなくなった。必要なのは辞書よりも,辞典になりそうだった。辞典はシリーズのものがあった。みんなで使う本棚の一番下に並べてあった。厚くて重いから,一冊ずつしか持っていけない。効率よくしようと思うなら,本棚のある真ん中の部屋で,『カタカナ』について書いてある部分を見つけておかなきゃいけない。あの索引検索ってやつから始めて,その一冊を取り出して,書いてあるところを読んでみて,これじゃないと思ったら,また索引検索から始めて,その一冊を取り出して,書いてあるところを読んでみて,これじゃないと思ったら,また。教えてもらったあの作業を頭の中で繰り返すだけで,ため息が出てしまう。『かたかな』の起源は調べやすいかな?洗面所で水滴を飛ばす僕は,明るい未来と暗い予測の間を行ったり来たりして,勝手に喜んだり,落ち込んだりした。その間に髪はどんどん乾いていった。触り心地も戻っていった。
スイミングスクールに入ったきっかけは,幼稚園で仲が良かったミヨちゃんのお母さんの勧めで,特に僕の希望を聞くことなく,僕のママが決めてしまったことだった。初めは嫌だったスクールも,泳げるようになってしまえば楽しくて,ママに言われるまでもなく続けることを僕が望んで,週二回,毎週欠かさずに通っている。ミヨちゃんは小学校の途中で辞めてしまった。背泳ぎが速かったのに,本格的にピアノを習いたいというのが理由だった。ミヨちゃんとは小学校でも二回同じクラスになった。音楽の時間にする合唱コンクールの練習のときは,ミヨちゃんが課題曲を弾いた。たまにミスもしたけど,上手だった。僕は二列目に並んで歌っていた。息を切らさずに声を出し続けることが出来たから,先生には褒められた。銅賞を獲れたのが最高の成績だった。
ミヨちゃんは勉強ができた。僕はまあまあだった。同じクラスのときは分からないところを教室で教えてもらった。違うクラスになってからは,隣の席の子に教えてもらったりした。訊いた方が早かった。校庭で遊ぶのも,下校するのも,スイミングスクールに行くのも,自分の思い通りにすることができた。放課後の居残りなんて絶対にしなかった。授業が終われば,教室は僕の居場所じゃなかった。僕にとって図書館は,教室に似ていた。どこが?と訊かれたら,読んだり書いたりするところが。だから率先して学校の図書館に寄ったことはなかった。僕の用事はなかった。だから日曜日に,『市立』の図書館の方に通ったのは,ミヨちゃんのお姉さんのせいだった。
僕とミヨちゃんのお姉さんは顔見知りで、会えば話したりした。僕はミヨちゃんのお姉さんが好きだった。ミヨちゃんのお姉さんは週の初めの日曜日,『市立』の図書館で勉強していた。僕はミヨちゃんのお姉さんに会いたかった。だから僕は日曜日になると,『市立』の図書館に通った。通って本を読んだり,勉強をしたりした。ミヨちゃんのお姉さんが僕に気付けば,お姉さんは僕に挨拶をしたし,僕は挨拶を返した。それが嬉しくて,本当に勉強をするようになった。辞典の使い方だって,お姉さんに教わった。頑張って調べた。エライね,と言われた。ミヨちゃんのお姉さんのおかげです,と答えた。一回だけ,駅まで一緒に帰った。学校の話をしたし,学校でのミヨちゃんの話をした。僕の話をしたし,スイミングスクールの話をした。お姉さんの話も聞けた。お姉さんは大学に進学することが決まっていた。音楽大学じゃなくて,普通の大学だった。
「ミヨが習っているから,私もそうだと思った?」
お姉さんが笑顔で僕に訊いた。僕は頷いた。「違った?」とお姉さんに訊いた。お姉さんは,また笑って言った。
「違うよ。残念でした。」
その時のミヨちゃんのお姉さんには恋人がいた。僕はそれを知っていた。辞書を開いて,頁を捲ると,横槍,を見つけて,横恋慕,を覚えた。慕う,の漢字も。その成果は小テストの一点になった。僕は図書館に通った。通って,真っ直ぐに帰った。
案ずるよりも生むが易し,は塾でアルバイトをしている僕のお姉ちゃんが,よく説教のついでに僕に言ったり,パパに言ったりしたコトワザだった。一度,僕はお姉ちゃんに「じゃあ,お姉ちゃんは好きな人に必ず告白するんだ。だって,生むが易しだもんね?」と訊いたことがある。けれど,そう訊かれたお姉ちゃんは真顔で僕に答えた。
「勝算によるに決まってるでしょ。むやみやたらに玉砕はしないわよ。私。」
つむじを突かれて,「まだまだね」と言われた僕はリビングから去っていくお姉ちゃんの背中に向けて,舌を出して,引っ込めた。パパはそれを見て笑っていた。ママがリンゴを出してくれた。それを齧って,目を伏せた。リンゴのゴ,が漢字になってくれなかった。リンゴの甘さを感じた。
僕は調べものができるようになった。
すっかり乾いた髪になった後で,きちんと調べたら,『かたかな』の起源はちゃんとあった。テーブルの上で僕は鉛筆を手に取って,スペースに書いていった。真ん中の部屋から持って来た一冊を開きっぱなしにして,指差したままの頁のその部分を読むために,顔を上げて,顔を伏せた。
「熱心ね。」
と言ったママの言葉には,「うん」と答えて,それから,返事をして。
「記録更新したからね。」
僕はクロールが得意なんだ,と言えるようになった。
順番