キャリアウーマン

ある日の午後、僕の隣に皮ジャンみたいな服を着た髪の長いちょっと美人な女の人がいきなり座りました。
下請けさんか元請さんかもわからないし、なにかちょっととっつきにくい感じの人だったので、取り敢えず黙って仕事をしていました。

2週間くらいたって、ジョンレノンのような髪型で夕方の4時に出社する謎の上司が、この人が元請の劉さんという人だと紹介してくれました。
「どうも、はじめまして。」
「よろしくおねがいします。」
とこんな調子でした。

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僕は机の上でモノをとっ散らかす悪い癖があり、劉さんがやってくるとものをかたします。
その度に、劉さんは「大丈夫、大丈夫ですよ」と止めます。

そのうちに、劉さんは僕についてあれこれ聞いてくるようになりました。
「いつからこの現場なんですか?」
「そうですねえ、1年前くらいですかね。」
「最初はこのチームじゃなかったんでしょ。聞きました。」
「ええ、最初は余所にいました。」
「劉さんは?」
「もうここに2年です。」
「この領域に詳しくてここにきたの?」
この劉さん、8時を超えて仕事の具合が悪いと同僚の中国人と怒鳴り合いのけんかをやるような結構気性の荒いところも見ているので、
僕は警戒しました。こいつは俺の能力を見極めようとしている。

穏便にこう答えました。
「いえ、そういうわけではないんですよ。毎日勉強ですね。でも、ここの人は良く教えてくれますから、ありがたいです。」
「そうですね。私も前の会社の請けていたシステムよりもここのはよっぽど複雑で、毎日勉強です。」
「ここに移られる前は、どちらにいらしたんですか?」
彼女はちょっと声を強張らせて
「いえ、ただのSIerですよ。」
きっとこれ以上聞かれたくないのだろうと思って、こう答えました。
「そうですか。そうなんですね。」

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この劉さん、段々日がたってくるにつれて、夜8時を超えると、毎日のように
「ねえ、なんでこんなに遅くまでいるんですか?」
と声を掛けてくるようになりました。
僕は、この元請の女の人に工数当たりの効率を確認されているものだとばかり思いこんで、
緊張して答えたものです。

時々、「XXXってどういう意味なんですか?」と無邪気に声を掛けてきます。
きっと俺がどれだけモノを分かっているかを見極めようとしているのだろうと思い、
頑張って説明しようとしますが、僕自身もこの間先輩から教わったばかりの概念だから、
上手く説明ができないわけです。
冷や汗をかいていると、劉さんは
「うんうん、なんとなく分かりました!ありがとね。」
とその場をまとめてくれました。そう意地悪な人ではなかったんですね。

ある日、劉さんは、うちの会社が使っている3つの孫請けの対応のどこが一番良いか聞いてきました。
僕はBと答えました。
「どうして?」
「まず反応が早いですし、担当者がシステムの仕様をよく分かっています。そして、できることとできないことをクリアにして説明してくれます。それに変に政治的なやり取りをしません。」
「そうなんだ。良く見てらっしゃいますね。」

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ある日、ジョンレノン氏と劉さん、僕と元請さんの他の部署の人との会議に出ることになりました。
この領域のシステムは、実質的にはジョンレノン氏しかその全容を把握していないので、会議はジョンレノン氏中心に進みます。
元請さん側には、新しくこの部署に配属になったらしい20代半ばの若い女性がいました。
にこやかな態度で、テキパキ応答し、かつその応答がポイントをついている、優秀な女性という印象を受けました。
対する劉さん、ちょっと顔がこわばっていて、緊張しています。応答もつっかえつっかえです。

会議の後、元請さんの課長さん、この人は穏やかそうな人です。彼が劉さんに言います。
「この子が新しくきた佐藤さん。」
「宜しくお願いします。」
自信たっぷりに挨拶する佐藤さん。
「結構進捗管理とか、色々忙しいと思うから、佐藤さんにすこしサポートしてもらったらいいと思ってねえ。」と課長さん。
「えぇ。」と劉さん。
「取り敢えず、たまっているメールを全部転送して下さったらあとはこちらで見て、分からない点はこちらからお伺いしますので。」やはり自信に満ちた笑顔の佐藤さん。
硬い表情で劉さんは言いました。
「分かりました。」

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劉さんには同期が同じ部署にいて、お互いをニックネームで呼び合っていました。
「ねえ、リャンちゃん、今日ランチどうする?」
「ちょっと待って玲子、あと一本メール書いてから。」
「ねえねえ今日何たべよっか?」
「あそこのビルのフレンチのランチが今週1500円らしいよ、安くない?」

小洒落た彼女たちキャリアウーマン方を横目に、我々肉食系男子は今日も今日とて徒党を組んでとんかつを食べに出かけます。このとんかつ、並ぶことは並ぶんですが、このとんかつが旨いこと旨いこと。我々の思い出のとんかつ屋ですね。


劉さんが参加した飲み会があって、酔っぱらってちょっと羽目を外したうちのチームリーダーが言いました。
「ねえ、劉さん、劉さんは玲子さんと上海に出張に行ったことありましたよね。」
「ええ、ありましたよ。」
「やっぱり、2人でクラブとかに行ったりしたんですか?」
劉さんはきっぱり言いました。
「いえ、全然。仕事が終わったらそれぞれのプライベートです。あ、一回上海料理を食べに連れて行ったかな?でもそれだけ。」

ちょっと気まずくなった空気を取っ払うように、リーダー、僕に向かって「ビール1杯!」。
「へい!」僕はお兄ちゃんに生一杯を頼みます。
劉さんも飲む。「あたしはカシスオレンジ。」
「はい、わかりました。」僕はお兄ちゃんにカシスオレンジを頼みます。

劉さんは、タバコを吸う人でしたので、喫煙者席。僕はタバコはやりませんから、禁煙者席。
劉さんは、ピンク色の箱に入ったDUOというタバコをいつも吸っていました。
調べたら、ドイツのタバコでした。

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劉さんが夕飯で行くのは、近くの中国人経営中国料理店です。劉さんがイライラすると怒鳴りつける弟分の中国人と連れ立って出かけていきます。
DUOを一緒に吸いに行くのも弟分の中国人です。

ある日、夕飯を食べて、ビールの一杯でも飲んできたのでしょうか、いつもよりくだけた口調で、話しかけてきます。

「ねえ、今日もまだ働いてんの?」
他にうちの社員は誰もいませんでしたから、こちらもちょっとだけいつもよりもくだけた調子で答えます。
「そうですよ。疲れましたよ。」
「じゃ、これあげる。」
といって、歌舞伎煎餅を2包みくれました。
僕は何を思ったのか、この煎餅、きっと弟分さんが買ったものだと勘違いして、
「これはあれですか、林さんが買ってくださったものですか?」
劉さん、不満そうにほっぺたを大きくして
「違うわよ。これ買ったのは私。私よ。」
「そうですか、じゃあ頂きますね。ありがとございます。」

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うちの嫁は、弁当を作るのが好きです。
それは口では家計の節約のためといっていますが、実際のところは、自分が旦那に尽くしている、というある種の自己陶酔に浸っているところがあるわけです。
まあ、自己陶酔でもなんでも、弁当を作ってくれた以上はありがたく頂かなくてはいけませんけどね。
嫁にそんな関心さえ持ってもらえなくなったら、家庭生活はほとんど破たんしているようなものです。

劉さんは、弁当をつつく僕を見るたびに、
「今日も奥さんのお弁当なのね。幸せね。」
と声を掛けてきます。
何と答えていいか分からないので、
「まあ、適当に15分くらいで作った代物ですよ。」
と混ぜっ返すよりほかにありません。

ある日、劉さんは言いました。
「ねえ、私もお弁当作ってたのよ。昔は。」
「そうなんですか。」
「土日の作り置きだけどね。」
「まあ、仕事がこんなに忙しくって、で毎朝弁当じゃ大変ですからねえ。」
「でも、今度久しぶりに弁当にしてみよっかな。」
「そうですか。」
「うーん、でもやっぱめんどくさいからやめた!」

ケラケラ笑いながら、お昼を食べにオフィスを出ていきました。

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ある日、どういう風の吹き回しか、日本語のできるベルギー人が僕の下につくことになりました。
ベルギー人ですから当然英語ができます。しかしシステムの用語についてはベルギー人はそんなに詳しくないので、白人の英語を黄色人種の僕が添削する必要があるわけです。
システムの世界では、不具合のことを「バグ」というのですが、これをBugと訳すべきか、Defectと訳すべきか、ちょっと意見が分かれました。
と、劉さんが自信に満ちた声と満面の笑みでこういいました。
「それはね、「Defect」ですよ。」
「そうなんですか。劉さん、英語に詳しいんですね。」
僕は、「いや…」と言いかけようとしたベルギー人の足を思いっきり踏んづけながら言いました。
そんなどうでもいいこと、客に花を持たせておけばいいのです。
「そんなことないですよ。ちょっとだけです。」
彼女は嬉しそうでした。

こんなこともありましたね。
ベルギー人が劉さんと身の上話をはじめだし、ベルギー人は英語と日本語とフランス語が話せるという話になりました。
すると、劉さん何事かフランス語で話し出すのです。すると、ベルギー人も何事かフランス語で話し出す。
劉さん、楽しそうに何事かフランス語で話す。二人は何故かフランス語で笑っています。
四国生まれのジョンレノン氏と群馬生まれの僕はただ口をあんぐり空けているだけです。
僕はなぜか仲間はずれにされたようで、ちょっと腹が立って、大人げなくこういいました。
「お二人ともフランス語がお上手ですねえ。僕はメルシーとボンソワしかわかりませんよ。お二人とも結構なことで。」
すると劉さん茶目っ気をみせて
「なんならフランス語教えましょうか?時給3千円でいいわよ。」といったので
「いえ、僕はHeavily Japanese Accented Englishで十分です。」とこたえました。

彼女のプライドは外国とのつながりにあったんですね。
劉さんの心の奥底がほんの少しだけ見えたような気がしました。

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いつだったか、誕生日の話になりました。
「僕は誕生日が12月ですからねえ、今年の12月で26。今は25です。」
「え?12月なの?」
「はい。」
「何日?」
「10日。」
「えー!私9日!一日違いじゃない。」
大分その頃には気心が知れてましたからね。少しおしゃべりします。
「そうすると、二人とも射手座になりますね。」
「うん、そうそう!」
といったが早い、急にちょっと表情に影が差して、
「でも、歳は全然違いますね…。」
僕は劉さん、十分に綺麗だしチャーミングだし、なんでそんなことで思い悩むのかが分からなかったのですが、恐らく女性には女性の事情があるのだろうとも思いました。そんなこんなで、何も誰も言えない間に、劉さんは言いました。
「今25なのね…いろいろありましたね。あの頃は。」
僕は本当に何も言えなくなってしまいました。

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僕は突然に、この現場を離れることになりました。
本当に突然。突然で、理不尽な異動でした。
僕は劉さんにそのことをメールで連絡しました。劉さんには話さずにはいられなかったんですね。
で、そのことがばれて、僕は課長に怒られました。
IT業界で、担当者の交代は元請と下請けがもめる原因になり得ます。元請は下請けに同じ額を払っているわけです。ですから当然新人よりは現任者にいてもらいたいのです。だから、普通言い訳を十分に準備し、タイミングを慎重に計った上で、偉い人同士が担当者交代の話をするのです。

怒られた方の僕も怒りました。
「このミスのリカバリープランを提出しろ。」
という課長からのメールに、
「現任者より新任者の方が語学力技術力職務経験その他諸々において能力が高い人材ですから、是非ともご安心ください、と申し上げるのが上策と存じます。」
と返信しました。
当然課長からの返信はありませんでした。

いつものように弟分を引き連れDUOを持ってデスクに戻ってきた劉さんは、
ニコッとして
「色々ありますよね。」
とだけ言いました。

僕も
「はい、色々あります。」
と笑顔で答えました。

その後、劉さんと僕は2週間限定の恋人になりました。

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諸々の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、本当に純粋な上海生まれの女の子でした。

ある日、彼女がいつになくフォーマルなスーツを着てデスクに着くのを見て、
「劉さん、今日はいつもより、なんていうか、普通のサラリーマンっぽい恰好をしてますね。」
と、声を掛けました。
劉さんは顔を赤らめて、声が上ずって、かすれた声でこういうのです。
「いや、その、これは…適当に春物をタンスの上からひったくってきただけなんです。特に意味ないです。」
そして息を継ぐまもなく
「そういえば、今日の初めてのプレゼンテーション、どうでしたか?うまく行った?」
と無理に話題を変えてしまいました。

また別の日、劉さんはいつものように
「ねえ、今日はまだ帰らないの?」と聞いてきます。
その日はビールでも飲んでいたのか、そんなことはないと思いますが、10分に1回同じことを聞いてきます。
「この作業、本当に神経使うわよね…」
と問わず語りに僕に話す彼女に
「劉さん、今その作業やってるんですか?」
と聞くと、
「うん。そうよ。」
と無邪気に答えます。
「劉さん、ちょっとしばらく黙ってその作業を片付けたほうがいいと思いますよ。」
「うんん。いやだ。」
「なぜ?」
「今私しゃべりたいの。だからしゃべるの。いい?いいでしょ?」

なんでこんな素直でかわいい人が、この東京で一人っきりで、周りに張り合って、心を閉ざして、自信なさげに、生きているのだろうと、思ってしまいます。
もうちょっとだけ肩の力を抜いて、うまく人に心を開くことができれば、きっと彼女は幸せになれるのに。

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最後の日。

「あれ、まだ今日も残ってるの?」
「はい。引継をして、で追加で作ってくれって頼まれた資料が出来上がらなくって。」
タイプしながら彼女に答えます。
と、視線を感じて上を見上げると、彼女がじっと僕のことを見つめています。
思わずこちらも彼女を見つめ返してしまいます。
どれくらいの間見つめ合ったことでしょうか。
彼女の目は、なんというか、聖母マリアの目というか、子供を慈しむ母親の目というか、遠くに行ってしまう好きだった幼馴染をプラットフォームで見つめる目というか、なんといっていいか分かりません。僕に絵心があったら、間違えなく彼女のあの表情を絵にしてのこしておきたい。

気まずくなりました。
「いやだって、任期は今日まででしょ?今日中に片付けていかなかったら、気分が悪いじゃないですか。ね、そうでしょ?」
彼女はなおもじっと僕を見つめていました。

「ひょっとして、また戻ってくることがあったりして。」
「うん。そうかもしれないですね。」
「どれくらいで?」
「うーん。意外と半年くらいで戻ってくるかも。」
「かもね。そうだよね。」
二人で笑いました。
「それに…」
彼女は言いました。
「メールでなら、連絡は取れますからね。」
「うん。そうですね。」

弟分氏がやってきました。
「劉さん、今日の送別会は、行きます?」
彼女は右後ろをさっと見て
「行きます。」
と簡潔に答えます。

「あまり働きすぎて、体を壊さないようにしてくださいね。」
僕は席を立つ彼女に声を掛けました。
「またね!」
彼女は言いました。

僕は頭を下げました。

********************

僕は彼女にメールしました。

メールは返ってきませんでした。

キャリアウーマン

キャリアウーマン

もうちょっとだけ肩の力を抜いて、うまく人に心を開くことができれば、きっと彼女は幸せになれるのに。

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2016-12-01

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