感想「マタイによる福音書、9の20から22を読んで~もうひとつの小さな復活」

たかなみ なと

毎年、年末になると、日本では各地で盛んに、
ベートーベンの第九交響曲が演奏され歌われます。
この交響曲も大好きですが、JSバッハの大規模な
宗教音楽をコンサートで聴くことも大好きです。

また、いろいろと新聞を読んでいると、
心も体も酷い状態であることが予見できたにも関わらず、
そんな状態を生じさせる可能性のある環境を知っていたにも関わらず、
充分な対策をせず、あるいは全く放置し、
そのために更なる大きな不幸な出来事が発生してしまった、
このような記事も目にします。
「復活」に関する短い文章を書いてみようと思いました。

1)
「復活」という言葉を手元の辞書で調べると、
「死んだ人が生き返ること」と説明されてある。
そのような自然を超越した低次元から高次元へ移る
現象の意味と併せて、「原案復活」という使用例を挙げ、
「いったんやめになっていたものを、改めて生かすこと」とも
説明されてある。日常の出来事からそれを超越した出来事まで、
「復活」という言葉が用いられる範囲は極めて広いようである。

キリスト教では「復活」とは何を意味するのか、その事を
手元のカトリック要理改訂版(1994年カトリック中央
協議会発行)調べてみた。2つの内容が書かれてある。
ひとつは、イエス・キリストが十字架に架けられて死に、
その3日後に死者から蘇ったことである(歴史的事実)。
もうひとつは、この世の終末的完成の時には全人類の善悪が
顕れ裁かれるのだが、そのために一度死んだ人間は全て
「肉体を持って」蘇ることである(未来における摂理)。

以下の文章で自分が書く内容は、「復活」に関する分析ではない。
神と人との関係、あるいは人と人との関係において、
「復活」という出来事が生じるためには、どのような言葉と行為が
必要であり、それぞれの段階において人の良心はどのような状態にあるのか、
それらの事柄を分析した内容の文章ではない。

また、以下の文章で自分が書く「復活」とは、
キリスト教の教義における「復活」のことではない。今回の文章のために、
自分が取り上げた福音書の出来事は、「復活」と言うよりはむしろ、
ひとつの小さな「奇跡」と表現することの方が適切であるかもしれない。

2)
12年間も出血の止まらない病気で苦しむ女がいた。
多くの医者にかかったが酷く苦しめられ、全財産を使い果たしても
何の役にも立たず、病気は悪くなる一方であった。
その女はイエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろから
イエスの服に触れた。「この方の服に触れれば、癒していただける」と
『思ったから』である。すると、すぐに出血は止まり、病気が癒された。

イエスは自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群集の中で振り返り、
「私の服に触れたのは誰か?」と言われた。そして、触れた者を見つけようと、
辺りを見回した。女は震えながら進み出て、全てをありのままに話した。
そして、イエスは言われた。「あなたの『信仰』があなたを救った。
もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
(マタイによる福音書、9の20から22。マルコによる福音書、
5の25から34。ルカによる福音書、8の43から48。
以下、新共同訳新約聖書を参考。)

3)
長い病気のために心も体も苦しみ、しかも全財産を使い果たしてしまい、
その女の生活は余裕のあるものではなかったであろう。
他の人達の事を心に掛けて尽くす余裕はなかったであろう。
自分自身が良くなりたいという一心で精一杯であったであろう。
多くの医者にかかったのだから、常に救いを求めていたのであろう。

「弟子は師にまさるものではない」とイエスは言われるが
(マタイによる福音書、10の24から25。)、それでもイエスの教えを
多くの村々に述べ伝えた弟子達に比べると、その病気の女は、
はるかに小さな幼い子供(マタイによる福音書、18の3から5。
同、18の14。)にも等しい存在であったであろう。
そのような女のイエスに対する心のあり方は、例えば、シモン・ペトロが
「あなたはメシア、生ける神の子です。」と『信仰を告白した』時のように
(マタイによる福音書、16の16から17。)、
力に満ちた輝かしいものではなかったであろう。「この方の服に触れさえすれば
治してもらえる、と『思ったから』である」という福音書の記述の通り
(マタイによる福音書、9の21。)、極めて『素朴な思い』であったであろう。

しかし、生ける神の子であるイエスは、その女の『素朴な思い』と
長い間の病気との闘いに『信仰』を認め、「あなたの『信仰』が
あなたを救った。」と(マタイによる福音書、9の22。)、
全身全霊をもって言われたのではないだろうか。
全身全霊をもってその女に伝えたい言葉があるからこそ、
大勢の群集の中からその女を見つけようとした(マルコによる福音書、
5の30から32。)のではないだろうか。

その女の『信仰』が、当時、民衆に大きな影響力を持っていた
ファリサイ派やその他の人々の言葉や行為よりも優れていることは、
福音書の次のような出来事から推測できると思われる。

4)
山に登って腰を下ろしたイエスの近くに群集が集まり、
イエスは群集に向かって、「偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取り除け、
そうすればはっきりと見え、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」と言う
(マタイによる福音書、7の3から5。)。

また、イエスは別の時に、群集と弟子に向かって、
「律法学者やファリサイ派の言うことは守りなさい、
しかし、彼らの行いは見倣ってはならない、言うだけで
実行しないからである。彼らは、宴会や会堂では上座を好み、
挨拶されたり先生と呼ばれたりすることを好むからである。」
(マタイによる福音書、23の1から7。)と言う。

5)
全知全能の神の子イエスの心情を推し量ることは、
普通の人間にはとうてい不可能なことかもしれない。
しかし、「あなたの『信仰』があなたを救った。」というイエスの言葉は、
単なるお褒めやお世辞や励ましの言葉などではなく、
その女に対する一種の深い共感を伴った全身全霊の言葉であるように思われる。
なぜならイエス自身も、その心と体において、凄まじく深い苦しみと試練を、
経験しているからである。そして、近い将来、自分の身に必ず起こる
十字架の苦しみを知っていたからである。

かってイエスは荒野で、「野獣と一緒におられた」と表現されるような
悪魔の誘惑を受けられ、それに打ち勝たれた(マタイによる福音書、
4の1から11。マルコによる福音書、1の12から13。)。
また、悪魔の誘惑に伴う心理的生理的苦しみの凄まじさ、苦しみの極限は、
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟における「大審問官」の文章から推測できる。

十字架を前にしてイエスは、とても悲しみもだえ苦しみ、
血の滴るように汗を流され、神に祈られた(ルカによる福音書、
22の43から44。)。
また、イエスは、肉において生きていたとき、激しい叫び声を上げ、
涙を流しながら、自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを
ささげたと、聖書には書かれてある(ヘブライ人への手紙、5の7から8。)。

6)
12年間もの長い間、病気に苦しめられ、それを治すために
全財産を使い果たしたが良くならなかった女は、イエスのことを聞き、
イエスの服にでも触れれば癒されると思って、服に触れた。
そしてその女は病気が癒された(復活した)。
女がその服に触れたイエスは、その女の苦しみに等しいか、
あるいはより大きな苦しみを経験して、それに打ち勝った人なのである。

感想「マタイによる福音書、9の20から22を読んで~もうひとつの小さな復活」

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