ハルシオンブルー
ハルシオンブルー
この世界が大きく変化したのは、科学の進歩により死体から死者を蘇生することが出来るようになってからだ。人間は既に不老の術を身に着けていたが、そこで決定的に「死」が終わりを示さなくなり、我々人間はまさしく死後に第二の人生を歩めるようになった。
しかし、そこで人間の死は徹底的に管理されるようになった。国の管轄外で死ぬことは出来ず、各地には常に住民を監視するドローンが配置された。「死」は国の管理する施設で、意図的に選択しなければ訪れないものとなった。
長く続くようになった人生で人々は自堕落に生きる。いつからか退屈する人々の一部の間にはあるひとつの単語が飛び交うようになった。
ハルシオンブルー。
その海が、一世代前に絶滅した翠鳥の羽色に似た色をしていることからそう呼ばれている。光の加減でその海は青にも緑にも見えるのだという。空中道路も設備されておらず、地図上にも登録されていない。無論、安全管理のドローンもそこには居ない場所。そのことは、常に何かの監視下にある人々の興味を惹きつけた。
いつしかハルシオンブルーが理想の死に場所として認識されるようになった。ハルシオンブルーのような誰も知らない美しい場所で、誰にも管理されず人生を終えることが出来たのならそれはどんなに素晴らしいのだろう。海に死体が沈んでしまえば、もう蘇ることもない。二度目の人生、三度目の人生に飽きて、本当に命を終える暁には、ハルシオンブルーへ行こう。そんな理想が人々の間に飛び交うようになった。
しかし、ハルシオンブルーに関する噂は流言の域を出ることはない。それは、実際にその海に行って帰ってきた者がひとりも居ないからだ。
夜の公園。緻密に設計された噴水の側、今日も一組の男女がハルシオンブルーの夢を見る。
「今夜、ハルシオンブルーで一緒に死なないか」
整った顔立ちの男の肌は白く、美しい。男に寄り添っていた女は、男の言葉にふと顔をあげた。
「ただの口説き文句かしら?」
ハルシオンブルーで一緒に。それは恋愛における口説き文句として使われることもあった。誰も知らない、未知の場所でたった二人で死にたい――そのくらいに貴方は魅力的だ、そういう意味が込められている。
「まさか。本気で言ってるんだ」
しかし、男は首を振る。女は、男の型にはまらない、そういう所が好きだった。男の腕に纏わりついていた女は、男の言葉にうっとりと微笑み、頷いた。女は二十四歳の姿のまま寿命で一度死んだが、二度目の人生を謳歌している最中である。
「良いわね、一度やってみたかったのよ、心中」
「じゃあ、決まりだ」
男は、女の腰を引き寄せると公園内の監視ドローンをちらりと見た。
「どうするの?」
「私が手を引いたら走るんだよ、いいね?」
女が返事をしようとした束の男は走り出した。
男は、ハルシオンブルーへの道を知っているらしく、迷うことなく建物と監視の隙間を掻い潜っていった。女は、途中から自分が今何処にいるのか検討もつかなくなっていたが、背徳感とスリルに高揚していた。
どれくらい時間が経ったのか。気が付けば、密集した建物は消え、何もない荒廃した土地に出ていた。頼りにすることの出来る明かりも月の光のみになっていた。
「さあ、着いたよ」
少し傾斜のある坂を登らせ、その向こうへ目配せをした。
「…ここがハルシオンブルー?」
女は、目の前に広がる光景に呆然とした。
「そうだよ、ここがハルシオンブルー」
目の前に広がっていたのは、月夜に煌くブルーの海――ではなかった。鈍い灰色の水面に生き物の気配はなく、そこには波ひとつ存在しない。
「冗談じゃないわよ」
女は、すぐに顔を真っ赤にして腹を立てた。男が嘘をついたこと自体に対する苛立ちよりも、自分がこんな子供騙しのような嘘に騙されたことが許せなかった。女は、泥の海に背を向け、男の横を通り過ぎようとした。
「ハルシオンブルーの夢を見るんだよ」
「……!」
月明かりに照らされた男の顔が微笑んでいることに気づいた時には遅かった。男は女を後ろから抱きしめ、自身ごとハルシオンブルーへと身を投げた。女は咄嗟に声をあげようとしたが男の手により口を塞がれてしまった。
――どぼん、鈍い音と共に止まっていた海面に波が起こる。女は男の拘束を解こうと暴れたが、か細い腕では叶う筈もなかった。そのまま男は、女の細い首に手をかけた。女はさらに抵抗を強めたが、もがけばもがく程に肺の空気が泡となって消え、沈んでいく。やがて、男が首から手を放す頃には、女の身体は動かなくなった。
光を映さなくなった女の瞳には――人魚が映った。薄暗い水底で微かな光を受けて様々な色に輝く鱗。
女は、その人魚が男であると気づくことが出来ただろうか。
男だった人魚は、冷たくなった女の身体を抱きしめ、さらに深く深く底へと沈んでいく――人々を魅了するその海が、本当はただの産業廃棄物に汚染された海の成れの果てであることを彼だけが知っている。
ハルシオンブルーは、遥か昔、美しい人魚の都であった。しかし、時代が進み、海は汚れ、仲間は別の場所へと移っていってしまった。それでも、彼にはハルシオンブルーを捨てることが出来なかった。息が苦しくても、夜が寒くても、大切な故郷を捨てるよりずっと良かった。
彼は、誰かと一緒に海底に居る時だけ、在りし日のハルシオンブルーの夢を見ることが出来た。痛い程に鮮やかな故郷の夢を見ることは、今の彼にとっての唯一で全てだった。彼は人間に化け、夜を共にする誰かを探すようになった。己の好奇心に逆らうことの出来ない人間は、彼にとって都合が良かった。
青く輝く宝石のような、今は亡きハルシオンブルー。そんな美しい故郷の夢を見ることを願って、今日も彼は眠りにつくのだ。
end
ハルシオンブルー