傾ける


小さい花が踊るように散りばめられたティーポットを前にして,祖母が私にしてくれた昔の話は,主に学生時代を中心にして繰り広げられた,祖母の心を射止めるための殿方たちの涙ぐましい努力の思い出であり,それに出来る限り応えてきた祖母の羨ましい恋の始まりと,切なく悲しく,終わりを迎えてしまった祖母の涙と,笑顔の男性評によって締められるのがいつもだった。日当たりが良くて,カーテンレースが軽くて,焼き菓子が齧られては減っていったテーブルに,私は肘を置いたりせず,佇まいを正して,熱心に,ワクワクと,日ごとに語られるストーリーに耳を傾けていた。思い出してみても,その内容は劇的な要素はいたって控えめだったのに,自分の体験の様にありありと再現できるのは,そのどれもを経験してきた祖母が何の衒いもなく,淡々と感じ思ってきたことを,小さい私に話してくれたことによるのだろう。私は祖母と同じように恋をして,幻滅し,失恋をして,恋をした。泣くこと以外の感情を見せる祖母は,眉間に皺をよせ,本気で怒りながらカップを空にすることも少なくなかったが,大体は口もとに笑みを浮かべて,「懐かしい」と漏らしていた。祖母は綺麗だった。若い頃の写真を見せてもらったこともあったが,私にとって,目の前の祖母が一番だった。包み込まれる雰囲気が,シャツ姿を真っさらなものにしていた。眉間とは違う,消えない皺が祖母の手にはあった。薬指で,指輪がくるっと回りそうだった(祖母はたまに,本当に回したりしていた)。お茶に誘ってくれたのも,祖母だった。祖母はお喋り好きだった。まったく一緒だと,母に嫌がられる私だった。だから,時間はあっという間に過ぎ去った。一時間の約束だったから,という意味ではなくて,実感として。要は楽しかった,ということで,温かい毎日だった。幸せはあった。茶っ葉の名前はダージリンといった。私は「だーりん」と覚えていた。外国の,そういうドラマを観たのだ。
ティースプーンとは別に,アイスを食べるために出してもらったスプーンに写る自分を見ていた時だった。祖母はそうそう,と言って,自分が一番大好きだったという人の話をし始めた。今まで聞いたことがない話だった。付き合っていた時期でいうと,その人の前後に付き合っていた人の話は聞いていた。だから,祖母はあえてその話を飛ばしていたのだった。言いにくい事情があった,という訳でもなかったのは,話された内容から分かった。話の展開自体は良く言って普通,その時の私の正直な感想としては,他の話に比べると詰まらない,というものだった。もちろん,その話も熱心に聞いていたけれど,私の気持ちはハテナの記号に突かれていた。そのうちに口をついて,私は祖母に訊いていた。思わず,というものだったから,変な訊き方になっていたことには,その時の私は気付いていなかった。問われた祖母は困ったように笑っていたのに。
「おばあちゃんは,なんでその人が一番好きだったと言えるの?」
祖母は注ぎ足そうとして,手に取ろうとしていたティーポットの蓋を指で叩きながら,悩んでくれた。誤魔化すことも出来たはずだ。だって私ならそうする。ここよ,ここ,なんて胸のあたりを指して,注ぎ口から熱い一杯を満たして終わりだ。湯気でメガネを曇らせればいい。私の期待なんて見過ごせばいい。
普段は裸眼で過ごしていた祖母は,けれど「そうねー」と答えを見つけて,とりあえずは納得したという頷きとともに,私に視線を置いてから,理屈っぽく言った。
「想像した度合いが違うもの。その人とはね,どこにでも行けると思ったし,いつまでも居られると思ったわ。リアルにね。本当だったのよ。」
だから,と言って,祖母は注ぎ口を傾けた。私はその姿を見つめた。戸惑う姿だった。祖母は綺麗な陶器だった。その陶器が赤みがかって,活き活きとして,こちらを向いて,ウィンクでもしようものなら。大人の私は魔法の存在から疑うだろうし,ありきたり,と笑うかもしれない。でも,実際はそう易々とはいかない。目の前の幼い世界は,ただ気持ちを追い抜いていく。発したが最後の言葉になる。
「かわいいね。」
「あら,ありがとね。」
椅子から立ち上がった私たちは使った物を順番に運んでから,水を流して,濯いだ。背の低い私は洗い終わった物を祖母から受け取ってから,つるつるになるまで,すべての滴を拭った。斜めにすると,照り返す表面だった。そうなれば合格である。祖母はお礼を言う。どういたしまして,と私が答える。
たまに口ずさんだのは,古くて簡単なものだった。祖母と私が一緒にハモれる。森のクマさん,とまではいかないけれど。

傾ける

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-30

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