ガニュメデスの受肉 (断片)

親しい女よ、良識は我らに告げて居る、
地上のものは殆ど存在してはゐない、真の現実はたゞ夢の中にあるのみだと。

シャルル・ボオドレール『人口楽園』 (富永太郎訳)

序曲 不遇なる天使の肖像

 ギュスターヴ・ジュネ少年にとって『鳥』とは汚穢(おわい)恐怖(きょうふ)の象徴記号以外の何ものでもなかった。胆、亀のごとく、けたたましい鳴き声をあげながら悪し様に人々を睥睨(へいげい)し、屍肉を啄ばみ地へと白い汚物を振り撒いてゆく飛行体。醜怪たるその様は当年とって十二の少年を慄然とさせるに充分なまでの怖気を孕んでいた。(こと)にレオナルド・ダ・ヴィンチが幼少期に禿鷹(はげたか)に襲われ、口腔を何度も何度も尾で突かれたという逸話を読んでから加速的に彼の怖気には拍車がかかったものである。
 程なくして鳥どもはすべからく、繊細な少年の忌避対象と相成るに至った。
 しかるに自然の空が、ジュネ少年にとって苦痛の対象になってしまったのもむべなるかなと言わざるをえまい。生身の自然はとにかく彼を辟易させた。彼はだんだん外気を避けて自室に篭るようになり、趣味で彩られた人工楽園のごとき部屋を建造せしめ、塵垢(じんこう)をなるたけ振り払おうという決意を立てた。晩翠(ばんすい)煌々(こうこう)と雪の降る冬頃の話である。繰り返すが、ジュネは未だ色香も知らぬ十二の幼な子だったのだ。


 ウェーブがかった金茶色の髪に包まれたジュネの顔は、まさに壮麗そのものだった。落ち窪みやつれてはいるが、それでもなお光彩を放ってやまない双眸(そうぼう)。程よく丸みをおびた輪郭。薔薇(ばら)色の頬紅のように淡く浮き出るほっぺたの赤味。すらりと伸びた鼻。得体の知れぬ妖しさを秘めた柘榴(ざくろ)の如きルビーの坩堝(るつぼ)の唇。女らしさを醸し出す妖艶な眉相。染み一つないミルクの肌。
 ──ガニュメデスもかくやと言わんばかりの中性的なその花貌をひとたびでも目にした者は、ローマの恋愛神クピドを連想せずにはいられない。よしんば男色家の主神ゼウスが実在するならば、かかる美しさをすぐに嗅ぎつけ、問答無用でオリュンポスへと連れ去ったに違いない。
 そんなギュスターヴ・ジュネが画一的な教育制度と周囲に蔓延(まんえん)する稚拙な言動とにほとほと嫌気をさして、おのずから小学校へ行くのを差し控えるようになったのは八歳の頃だった。母のアンヌ=マリーは当初そんな息子を譴責こそしなかったものの、自宅で彼が勉強できるようにと値の張る家庭教師を一人取り計らった。が、しかしそれは直ちに無用の長物だということが分かった。というのも『私人にとって本当に大事なことは誰からも教わることが出来ない』という真理を、他人の受け売りでもなく全くの本能で悟っていたジュネ少年は根っからの独学人間だったし、かててくわえ彼の人間嫌いという性質が”見知らぬ大人”という存在を許容する筈もなかったからである。母親の杞憂が発覚し、その家庭教師が一季節もまたがぬうちに暇を出されてジュネ邸から追い払われて行ったのは、そう考えれば甚だ自然な道行であったといえよう。
 独学者ジュネの人間へ対する侮蔑の情は、不登校になってから漸次日に日に洗練されていった。ブルジョア的な唯物主義や金銭万能のリアリズムは彼に嘔吐感を植え付けた。大方の世を占めているのは芸術を解さぬ下劣漢と人非人だけだと認識し、モラリストのように人間の諸行為を批判的に観察することを非常に好んだ。鳥類への病的な嫌悪から由来した過敏な神経質を見に被った故、外気をより一層避けるようにもなった。そして先述した『人工楽園』に、ヴィニーの”象牙の塔”よろしく安住したいのだという密かな願望も、また漸を追って確固たるものへと変じて行ったのだ。
 高踏的でアラベスクな趣味生活を送ることに、当時九歳のギュスターヴ坊やは神聖な快楽を見出した。
 金のかかる放逸生活への変造が頓挫せずにいとも容易く実現した理由のひとつは、彼の邸宅が経済的に恵まれていたことであろう。上流階級出の外交官であった実父ジャン=バチストが残した莫大な遺産と、ブーヴィル一端の地主である存命中の義父シャルル・シュタイナーの多大な収入とを一手に引き受けている母親アンヌ=マリーは──口さがない性分であったとはいえ──とかく息子の頼みは断れない女だったので、実質的に彼女はジャンの経済面における傀儡(かいらい)だったのである。彼女は一人っ子の息子に甘い声でお願いさえされれば、普通人が目を丸くするような額を躊躇なく明け渡すような女だった。畢竟(ひっきょう)ジュネにとって”母親”とは単に自分が人工楽園を形成する為の礎石の役割をする存在でしかなく、”父親”とはもっと無意味で──それが実であれ義であれ──それよりも更に卑小な、金の湧き出る水源地のようなもの以上の何でもなかった。親とはこの理不尽かつ醜悪な世界に自分を勝手に投げ降ろす戦犯である。洋の東西を問わずして、それは先天的に憎悪の対象になると決まっているのだ。

 家族からの莫大な経済的援助を保持したまま、少年は早くも十一の時分に親許を発ってブーヴィルの一郭に家を買い、職人を雇ってリフォーム工事させた。特に内装をこだわって彫心鏤骨し、憧れのシャルトル大聖堂を模刻したようなゴシック風の幻想美と、バロック的(いかめ)めしさを調合せしめるべく入念に職工と打ち合わせをした。家の完成後にはすぐ若い女中二人と給仕一人を雇い、家事全般を申し付けた。起床し寝るまでのあいだは、珍品や美術品をありったけ取り寄せ飾って堪能したり、ピアノを弾いたり、古今東西の文学をなるべく原文で読み耽ったり、詩や絵画の批評を書くことに好んで励んだ。殊に批評を匿名で美術雑誌に投稿するようになってからしばらくすると、とても若輩とは思えぬ流麗な文体と本質をすぱりと言ってのける批評眼が芸術家連中の目に留まり、期待の寵児(ちょうじ)たる新鋭文士などと持て(はや)されるようになった。
 ジュネはこの肩書きがあまり気に入らなかったが、さしもの彼といえど自分の表現がその道の熟達者に褒められることには言い知れぬ悦びを覚えざるをえなかった。やがて近い将来、彼はブーヴィルに隣接した都会町ド・リラダンの芸術サロンなどにも間々顔を出すようになる。
 部屋を買って豪華な調度や室内装飾を取り揃えたり、万巻の書物を並べたり、絵画や音楽に耽ったり、珍奇な花や香料を集めたり、希少な宝石や鉱物を箱に入れて楽しんだり、凝った飲み物や料理を堪能したり、芸術のための芸術という目的生活を日々に取り入れたり、等々……悠々(ゆうゆう)たる無為と思弁の生活を送る唯美主義少年ジュネを小学生の頃からここまで突き動かしてきた内的な動機とは、一体何なのであろうか?……
 全ての行為の淵源(えんげん)は、彼の腕の中に在った。
「さあリュリュ、ここが新しいお部屋だよ。今日からやっと僕たちは二人暮らしが出来るんだ」
 腕の中には、聖少女を模って作られた一体の人形が恭しく抱きしめられていた。

 その夜はノアルスイユ夫人が催す芸術夜会だというので、ド・リラダン街にある夫人の邸はいつにも勝る賑やかさを放っていた。酒池肉林の宴もたけなわ、チョッキの胸に薔薇の花を飾った数人の作曲家が大笑いしながらシャンペンを飲んでいるかと思えば、その横で美しい衣装を身を纏った若女達がめいめい最高の晴れ着にその美を競いあっている。他方では贅を凝らした貴婦人連中が葉巻を燻らす文士と愛想よく談笑し、これまた別のところでは著名な画家と袖擦り合わして密談していた。酔った詩人達は申し合わせたように一丸となって体の熟れた女どもを踊りに誘い込む。階段の上では美術書出版社のお歴々が数人、あたかも我こそは偉人なりといった風采で葡萄酒の杯を傾け、詩人達のダンスを楽しそうに俯瞰している。
 サロンというよりむしろ舞踏会の様相を呈しているその乱痴気騒ぎは、まさしく種々雑多な芸術家達の饗宴と呼ぶに相応しい有様だった。主催のノアルスイユ夫人も例外なく既に酩酊しており、もはや客人達へのもてなしの義務など忘れ果てた様子で、旦那の目を盗んでは気に入った青年に唾をつけるという行為に無我夢中である。
 皆がみな得意の絶頂とも言うべきこの一夜、美酒に酔いしれ忌憚なく言葉を吐く個性の坩堝の中でたった一人、ペルシャ製の鞣皮ソファーにぽつねんと腰を掛けている小さい影があった。
 十二歳という若輩にもかかわらずその詩眼と炯眼とによって人々から神童と一目置かれていた少年──ギュスターヴ・ジュネは、頬杖をつきながら瑪瑙色の目で以って、前を去来する不思議なパノラマに呆れた視線を送っていた。すると時しも、ジュネの名を背後から呼ぶものがあったので振り向いてみると、黒いファー付きのトレンチコートを身に纏った詩人メルロー侯爵が、房付きのステッキを片手にしゃなりしゃなりと近づいてくる姿が目に入った。
 人間嫌いのジュネ少年が唯一掛け値なしに心を開けっぴろげにしていた人間が、ほかならぬこの男であった。彼にしてみれば結局のところ四囲の芸術家の大半も俗人と大差ない精神の持ち主だったのだが、この二十歳そこそこの美青年だけは例外であり、少年の好意という特権を勝ちえていたのだ。ジュネのまなざしには、尊崇と興味とわずかな嫉視とが含まれていた。
 謎を孕んだ細めの双眸は少年の心を何故かもやもやさせて落ち着かせなかったし、蜂蜜のように甘そうな口元は薔薇の花盤の一房を思わせた。
 世俗離れした瀟洒な格好は、少年をしてそれを模倣したくなる欲求に駆らせた。だが何よりも愛おしく、かつ羨ましくジュネが思っていたのは、メルローの昇騰しそうなまでの詩性(ポエジー)であった。
 類稀なる知性と比類なき感性によって編まれたメルローの詩篇はこぞって文壇で持て囃された。その生来の芸術家気質は並々ならぬものであり、作品よりも生活に贅を凝らすことを好む彼曰く『僕は自分の作品に才能というおこぼれ(、、、、)だけを注いでいるのであって、あくまで中心は生活を彩ることに在る』というのだった。
 ジュネは彼の口から紡がれる一言一句を尊び、陶酔していた。彼こそが現代に生ける芸術至上主義者であり、自分の尊崇を受けるに値する人間だと思って憚らなかった。俗耳とは縁無きその耳には、現実の無味乾燥な音とは無縁の浪漫的な〈自然の声〉を直接に聴きとる能力が備わっているのではないかと思われたほどだった。
 実際この二人は一月ほど前にとある夫人の家で催された晩餐会で知り合ったばかりなのだが、互いに備わった花貌と芸術思想とによって直ぐに交感し、運命的なまでに波長も共振したので、今ではすっかり相補的な友人と相成るに至ったのだ。
 ジュネは彼を認めるや否や、先刻までとは打って変わった年相応の屈託ない笑みを浮かべ、その小さな手を差し出した。
「またお会いできて光栄ですメルロー侯爵。いつここへ?」
「丁度今さっきさ。入って早々陰気な様子の少年を見咎めたので、ひょっとしたら坊やかと思って近づいてみたんだが、やはり正解だった」
 軽い握手を交わしたメルローはそう言いながら少年の右隣に腰かけ、銀色の瀟洒なケースから取り出したハーブ入りの重い紙巻き煙草に火をつけた。
「にしても一体全体なんだいこの喧騒は。バッカスの狂騒でもあるまいし。まるで節操がない。こうして見ると日頃の彼らがどれほど不満や苦痛を耐え忍んで生きているかが伺えるねえ。坊やは、あんな風になってはいけないよ」
 紫煙を燻らせ、口元に妖しい笑みを湛えながら言った。
「ええまったく。ノアルスイユ夫人曰く『芸術のための健全な会合』だそうですが、当の本人は既にそんなの言ったことすら覚えてないでしょうね。それどころかもはやあんな真赤な顔して、客の存在など忘れる始末。大人というのはどうして酒ひとつでここまで言動が醜くなってしまうのでしょう。こうなるといよいよ人前で酔うなんてのは一種の露悪としか思えませんが」ジュネはフロアの真ん中で男と談笑しているノアルスイユ夫人に目を向けながら、嘆息交じりに言った。
「そりゃ君、大人なんてのはそもそも醜いものだよ。この世に於いて歳をとることぐらい滑稽なことはない。時間という化物に若さを間断なく抜き取られてゆくのに対して彼らは現実的な手立てを持たないので、その悔しさを酒にぶつけることで刹那的な忘却を得ようという塩梅さ。憐憫せざるをえないだろう? 自身の老いを忘却しなければ生きていくことさえ出来ないのだ、彼らは」そして、と言って付け足した。
「だからこそ君のように若くて美しい少年にとって酒は無用の長物なのだよ」
「あの、劈頭に申し訳ないのですが、メルロー侯爵。僕は貴方と会ってから殊にその考えが頭を駆け巡るようになり、遂には実感になってしまった。あなたは以前こう仰った。『若いうちにこそ自分の若さを自覚しなければ』と。固より死にたくない死にたくないと日々嘆いていた僕ですが、今はそれに加えて更に老いたくないと来た。貴方があんなことを言うから……これでは取りつく島もあったものではありません。ねぇねぇ、僕は一体どうしたらよいのでしょう」
 至って真面目な顔で迫る少年に対して青年は、ふふふ、と愛らしそうに笑いながら煙を吐いた。
「芸術家たるもの病的であってはならないよギュスターヴ坊や。芸術家は全てのことを表現しうるのだから……とまぁそれはさて置いて君の悩みだが、端的に言って僕には何とも治癒しがたいな。魔術師でもない限り、老いも死も不可避だ。措定したロマンが花弁のように刻一刻と剥ぎ取られてゆくプロセスこそ、我々が人生と呼んでいるところのものにほかならない」
「僕は自分の弱さを披歴するのが最大の弱さであると思ってます。でも、知ってしまった以上、どうしようもなく耐え難い」
「ほほう、いや、君は自覚があるだけマシさ。むしろそのぐちゃぐちゃした感覚を決して忘れないほうが良い。不条理を不条理のまま立ち上がらせるのだ。パスカルはおよそ死と無縁の意識行為はすべて『気晴らし』だと言った。大きい意味でこれは正しい。だが、われわれの如き頽廃主義者には通用しない……そうではあるまいか?」
 ようやっとメルロ―の来訪に気付いた夫人がやにわに旦那と共に彼らのもとへやってきたので、会話はそこで一旦途切れた。挨拶を交わし、それから四人はしばし談笑し合った。夫人は給仕にバーボンを注がせて青年をもてなし、少年にはアルコールが殆ど皆無のカクテルを振舞った。夫妻は真っ赤になりながら、二人の美貌と才能と活躍とをこれでもかというくらいに褒め称え、さらに「まるで兄弟のようだ」と白痴のように何回も言った。夫妻が千鳥足で出版社員たちのいる二階へ戻って行ったのは、十五分ほど経ってからだった。
「ああ、繰り言のようで悪いが、君はああなってはいけない」
「言われなくても」
「詩人には元来酒の声を聴きとる特権があるから、嫌でも分かってしまうのだ。『人間よ、廃嫡の子よ、俺は君の喉を通って墓穴に入りたい。そうして二人が合一することによって神韻が天から訪れるだろう』と。つまり酒の側にしてみたってあのようなたちの悪い酔漢ではなく、怜悧な詩人にこそ飲まれるのを欲しているのだ……ん、確か何か話の途中ではなかったか」
「老いと死と芸術家の生です」と少年が言うと、そうだったと言いながらメルローは赤子の拳くらいの大きさの氷をグラスの中で弄びつつ、息を吐いた。
「芸術家は死を克服し、生活の細部に至るまで常に感覚と魂の快楽に浸っていなければならぬ。感覚の増幅は魂の増幅を導く、逆もまた然り。それに……本当に死ぬことが怖いものかい? どだい経験不可能なものや想像不可能なものをどうやって怖がれと言うのだ? 不死の薬と不老の薬を同時に出されて『どちらかを選べ』と宣告された時に、迷わず後者を飲まないような芸術家は芸術家ではない。美しく死ぬことは永遠になることに等しく、その故にこそ必要なのだ。しかし老いはどこまで虚飾しても庇いようがなく無用でしかない。だからこそ美しい男に課せられた使命とは、夭折すること以外にないのだよ」
 少年にとってメルローの思想が奇特なものであるとは毫も思えなかった。少年の中には燻っていたものや、芸術至上主義という点でやはり彼らはどこか似通っていたのだろう。
「……実は僕、このあいだ貴方がしてくださった話の中に、一つ不審な点があると直感しました。そのこともずっとずっと考えていました。むしろどちらかというとこっちの方が早急だと思えてしまう程」
「はて、僕は君に何の話をしたっけか。すまないが自分がした話など一々覚えていられないタチでね」メルローは脚を組んで煙草に火をつけた。
「僕たちの相違についての貴方の見解ですよ。僕たちはこの世に美なるものしか認めないという意思の共通点がありますけれど、あなたはあくまで女性の肉感的な官能性を重視なさる。貴方は放蕩と交際に明け暮れる現代のドン・ジュアンだ。僕はどうしてもその嗜癖が認められないし、理解も出来ません。そもそも……官能は美しさに無縁ではないのか、という話です」
「女というのは愛するものであって、理解するものではないよ」
 そう言いながら笑ってジュネの肩口を指で軽く弾き、
「女の自慰を捨象した芸術なぞ、空疎極まりないではないか。なんだって君はそこまでエロチシズムを嫌悪するのだい」
「天上界に住まう壮麗たる神々への永遠の愛に比せば、性の快楽などが何になりましょう」

 ジュネは昔から『純潔』という言葉に名状しがたい憧憬の念を抱いていた。彼はその言葉に節制や観念的な愛、即ち童貞と処女との象徴を込めて解釈していたので、彼の生活に於ける信条が『俯仰天地に愧じぬ生活をば』という美徳を志向したのは、極めて当然の帰結だった。そして観念的な愛でなくてはならないということは勿論、地上の現実的なる愛慾を悉皆犠牲にするということにほかならない。非処女性とは彼にとって地獄のデモンじみた悪意の表白であり、自分とは何の縁もない穢れた夢魔でしかなかった。これには幼き頃からずっと耽溺してきた霊肉二元の神学論や『福音書』の教えの数々、それからトルストイに於ける反性慾主義などの骨子をしっかりと継承したことの影響が濃く表れ出ている。ジュネは性愛の華が咲く以前よりもう既に、性慾を自らの道の妨げになるだろうと信じて疑っていなかったのである。
「やはり君は君なのだね坊や。いやはや大いに結構。思い出したよ。君の純潔思想やそこから由来する人形愛好の話などは、エンマ夫人の家で初めて会ったとき耳にたこが出来るくらい聞かされたので、もうちゃんと分かっている。私はそれを否定する気は毫もないし、さらに言えば議論をする気など毛頭ない。議論など暇人がやることさ。主義を闘わせるなど以ての外だ。僕は主義よりも趣味を愛惜するし、なんなら主義の無い人間が大好きだ。そういったこと全てを置いといた上で僕が言いたいのは……君が果たしてそのままでいられるだろうか、ということだ」
 メルローは一呼吸おいてからステッキに両手を重ね置き、その上に顎を乗せて体勢を支えた。談義が真面目の相を帯びてくると、彼は決まってこの姿勢をとる。
「無論、予感を感じないほど鈍感でもありません。でも……それでも、変わりませんよ」
「時は移ろう。忌々しいがこればかりは人の手ではどうにもならない。先にも述べたごとく、人は生まれた瞬間から滑稽にも老い始める。人の構成細胞など八年で丸々替わってしまうし、それと同じように精神も交々流転してゆく。それでもさしあたっては生きねばならない。自己とは、過去の集合などではない。未来への志向を孕んだ現在の選択によって常に再創造されるところのものに過ぎない。まったく不定なものだ。さる仏蘭西詩人が詠った『人間は人間の未来』というのはあながち笑えぬ事実なのかもしれないね。必定、現在の坊やが何を確約したところで未来が君に応えてくれるという確証はないのだよ」
「肉体も魂も変わってゆくとしても、美神への潔白なる愛は永久不滅です。思うに、官能性を含んだものだけが変わってゆくのではないでしょうか? 僕にはそうとしか思えな──」
 遮るように、メルローは少年の唇にその細い人差し指をあてた。それから「やっぱり」と前置きして、
「僕は君の唇を好かないな。なるほどサロメの欲しがったヨカナーンのそれと似ていて、見栄えは素晴らしい。だけどこれは嘘を知らない唇だ。本当の詩人になりたいのなら、君は君に内在する恐怖を自分の顕微鏡で覗かなくてはならないよ。恐れているものを克服するための手段は、それを知悉することに限る」
「……またそうやって馬鹿にする」
「馬鹿にしてなどいないさ」
 紅潮した頬をぷくりと膨らませるジュネを見て、青年はまた笑い声をあげた。
「世界が三つの相貌を持つことを知らねばならないよ。ひとつは現実の世界。これは僕らが普段見ているところのもので、語らずとも存在する世界だ。ふたつめは想像や御伽話の世界。これは語らなければ存在しえない世界のこと。そしてもう一つが、官能と暴力の世界。これは”語れないが確かに存在する”という世界だ。エロスも暴力も語ることは出来ないけれど、これらなくして芸術はあり得ない……君の潔癖なまでのストア主義的態度は宗教徒としては申し分ないが、やはり芸術家としては欠点なのかもしれないねえ」
「……穢れたものを僕はあくまで排斥します」
「ふむふむ、君の人形愛好の根源をたったいま垣間見た気がする。君は恐らく自身の感受性にどこまでも誠実なのだろう。だから必定、周囲に純潔なる真善美を期待する。期待した分だけ幻滅する。幻滅は必然だからね。そして幻滅のあとは……空虚しか残らない」
 そう諭されていながらも、ジュネは内心にある幾分かの喜びを隠しきれていなかった。ジュネは彼のこの余裕綽々とした笑みが大好きだったのだ。一切が美しき長広舌の素材と成り果てるこの瞬間が愛おしかった。思想も言語も、彼の前では芸術の道具に過ぎぬかと思われた。幼きジュネにしてみればメルローの口から紡ぎ出せれる言葉は神託にも似た御告げであり、そのウィットに富んだ逆説は全て少年の人生の糧となり、金言となったのだ。
「さて、話を続ける前に失礼、場所を変えようではないか。この乱痴気騒ぎの環境は美の話をするのに全く適さない。ノアルスイユ夫人に早退の胸を知らせてくるから君はここで少し待っていてくれ」

 やがて二人は風に吹きさらされた電灯のちらつくなかへ出て行き、暗く静まり返った夜のリラダン街をゆっくりと歩いていった。世にも不思議な美しさを放つ青年と少年の組み合わせが並んで夜道を徘徊しているその光景に、道ゆく通行人たちは横目で訝しげな視線を投げかけざるを得なかった。
「都会のカッフェは皆揃ってこの時間に店仕舞いを始めるのが気に食わないね。誰でもいいからリラダンに芸術家専用のカッフェを構えてくれないかなあ。営業時間は夜の七時から朝の六時までにするといい、そうすればきっと芸術家と芸術家に扮した浮浪者とでごった返すに違いない」
「共に社会的には無用だという点では変わらないですしね」
「ははは、違いない」
 談笑しながら歩いていたが結局めぼしい処が見つからなかったので、二人は仕方なく外灯でほの明るく照らされた公園のベンチに座した。砂場の横でチューリップの花壇が朱色に映え、微風の所為で幾つもの火輪が震えているようだった。話頭はジュネの人形愛好の話へ近づいて行った。メルローは雛菊の花を神経質そうな指先で弄りながら言った。

「うーむ、やはりそこが問題なのだ。およそ美と呼べるものに関連したことは知悉しているつもりだが、どうも人形に対するその想いだけは了解しかねる。無論、飾って鑑賞する分には素晴らしいことだと思うが、君みたく本気の愛慕を抱ける自信、僕はないね」
「メルロー侯爵も分かってくれないのですか? ……もしかして僕がリュリュ……人形を愛していることを単なる錯乱とでもお思いに?」
「いや、思っちゃいないねえ」
 しかし、と前置きし、
「君がそこまで崇めるリュリュとかいう美の形象に一度でいいから一言挨拶したいものなんだが、君はどうせ『嫌だ』と言うだろう?」
「当然です」
 ジュネは毅然として言い放った。
「たとえ詩人アンドレ・メルローといえど、リュリュに会うことは叶いませんよ。僕はついぞ人間をあの子に合わせたことなどないのですから。家に来てくださる分には一向に構いませんが、あの子の部屋には入れさせません」
「困った子だなあ、人形趣味に抵触するといつもそうやって頰を膨らませられては。再三言うが僕は趣味自体にケチをつける気は毛頭ないし、その理想主義を幼さに還元して切り捨てる気もないよ。それに、何であろうと物質、液体、奇形児、死体、汚物……人類にとってすべての物が愛慕の対象でありうるからね。ただ、永遠の持続はありえないのだと知るべきだ」
「リュリュへの想いは大人になっても、否、死ぬまで変わりませんよ。変わってはならないのです」
「この世の全てを賭けてもよい。必ずだ。君は近い将来必ず現実の女性への想いを胚胎し、内界と現実の差異に悩み、そして僕の言葉を思い出すだろう。殊に君が純然たる芸術家の精神を持ち合わせているなら尚更だ」
「いいえ、現実の女性の主体性という代物は僕の手に余るのです。であればこそ自我が無限に希薄な女性を追い求める。貴方も口に出さないだけで、心中では馬鹿げた理想的浪漫主義だと思ってらっしゃるのでしょう、でも僕はあくまでその不可能を追求したいのです。不可能なら不可能で、ごましてでもそこを通り抜けたい」
「不誠実で馬鹿な人間なら可能だろう。だが、君は誠実で聡明な人間だ。そんな人間が自分の糊塗を許せるはずがない」
「なるほどメルロー侯爵が仰った有限のものに対する嫌悪が僕の心中にあるのは否めません。だって、終わってしまうものに対してどうして愛慕を抱くことが出来ましょう?」
「終わりとそれに先立つ幻滅は恋愛の先約にほかならない。恋愛をするということはとりもなおさず未来の幻滅を受託することなのだ。永遠の愛は美神にしか捧げられないものであって、その媒体たる下界の物象に捧げられるものでは断じてない。それが人間であれ……何であれ」
「すると現実の恋愛は悉皆演技だということになります。そんな欺瞞じみたものなどが、狂気の戯曲でなくしてなんでしょう」
「演技していない人間が一体どこにいるというんだい? 演技こそが人間の条件じゃないか」メルローはステッキを軽快に振り回しながら恬淡と応えた。
「シェイクスピアも言っている、『人生は歩き回る影にすぎぬ』と。舞台上では、運命に背く正直な言葉など白痴のおしゃべり同然なのだ。地上の恋愛は必然的に全て虚構であり、劇作だ」
「それでも、僕は仮面を被りたくはないのです!」
「仮面を取ったら何が残る? 坊や……そこにあるのは素顔という仮面だ。素顔こそが原初的な仮面にほかならない。それも最も人を腹立たせる類の仮面だ」
 とはいえ、と青年は譲歩するように前置きし、
「我々のような血と太陽の殉教者というものは『美を志向せずにいられない』という呪いの一点を除けばどこまでも自由な存在だ。だから畢竟選択は君のものでしかないよ。人生は細々とした無数の選択とそれに伴う排除とから成り立っている。僕がなんと言おうと結局は君自身が選択し、それを生きるしかない。かててくわえて芸術とはすべて何らかの意味で、扱っている素材に対する批評であり判断であり、選択なのだから。……さあ、君が選びたまえ。君が生きたまえ」
 いいかいギュスターヴ・ジュネ。僕がこれから言うことをよく聞きたまえ────そう前置きしてから、メルローはジュネの目を見据え、邪な口を歪ませながらゆっくり囁いた。

「かけがえのない人生を、無駄に費やしてはいけないよ。俗悪な禁欲主義を説くものの言質に耳を傾けたり、弱く愚かな清貧思想にかかずらわったり……こういう人生の浪費が嘆かわしいことに現代では目的とせられ、偽りも甚だしいが理想とすらなっているのだ。ギュスターヴ・ジュネ……生きるのだ! あなたの中に燻る生命と性愛の産声に身を任せるのだ! 何ものも取り逃がさず、絶えず新しい感応を探し求めるのだ。何ごとも恐れることはない……新しき快楽主義、官能の美神の膝元に拝跪する快楽主義──それこそ我々が必要とするものであり、君はその象徴となることができる人間なのだ。君のような子に汲み尽せない快楽は何もない。全世界は一季節の間はきみのものだ……僕は初めて君にあった時から見て取っていた。君は自分がいかなる人間であるか、いかなる人間になるかをまったく意識していない、と。君は僕の心を奪う要素を実に多く持っているので、僕はどうしても君に君自身のことを教えておかねばならぬと感じたのだ。もし君が理想の片鱗すら見ずしてむなしく葬り去られてしまったら、何たる悲劇だろうかと考えたのだ。なにしろ君が若さを保ち続けていられる期間はほんの僅かなのだから。花は一度しぼむが、また花を咲かせる。桜は来年の初春にもまた満開の花を咲かせるだろう。けれど人間はその若さを取り戻しはしない。四肢は力を失い、五感はだんだん朽ちてゆく。こうして我々は醜悪な機械と成り果て、恐れや不安のあまり逃した過去の情熱や、思い切って身をゆだねることの出来なかった誘惑の思い出につきまとわれるようになる。若さ! この劇的なるもの!……若さをのぞいたらこの世には何も残らないのだよ、ジュネ」
 圧倒的な感動はたった一回限りの体験で以てその人の心に消え得ぬ疵痕を残すものである。しかるに詩人の昇騰した詩性が少年の精神の底に刻んだ言葉は、幸か不幸か、その心に決定的な打撃を与えた。それは世界観のよろめきを伴わざるを得ない類の啓示的な助言であり、こんにち『感染』と呼ばれているところのものに相違ない。
「フフ、真の友人とは相手のことを刺すものだ」
 メルロー青年はかたわらで『心ここにあらず』の態で固まっている少年に起こりはじめた兆しを感受したのか、ステッキを支える両手の上に乗せた顔をあげ、いやらしい笑みを浮かべながら事も無げに小声で言った。
「そうだ、今夜劇場へ行く予定だったんだが、良かったら話ついでに君も一緒にどうだい? まだ夜十時前だろうから、中心街まで急いで行けばどこかしらで最終幕がやっているだろう」
「…………、」
「ジュネ?」
「……あ、ああ、誘っていただいて非常にありがたいのですが、僕はもともと出不精なので……それに少し喋りつかれてしまいました。帰ります。劇場はまたの機会に是非。近いうち手紙を送ります」
「うむ、そう言うなら仕方があるまい」
「ではまた会おうギュスターヴ坊や。今夜の君はいつにも増して綺麗だったよ。さようなら」
 手を振りながら踵を返していった青年の後ろ姿が、夜目(よめ)にも遥かに小さくなって消えるまでの間ずっと、ジュネは青年の影をジッと凝望し続けていた。蕩けた顔は不安と入り混じって同時に、何かの予感に満ちた、言い知れぬ微笑をたたえていた。

ガニュメデスの受肉 (断片)

ガニュメデスの受肉 (断片)

「────汚れたものを、僕はあくまで排斥する。」 世俗を唾棄し、聖性なる唯美主義を信奉する天涯孤独の美少年が、ある日の夜半、頽廃主義の詩人メルローからデカダンスへ至る為の呪文を囁かれる。それを契機に少年の純な心には一筋の亀裂が走り…… 『人形への愛』『生身の人間への愛』という相容れ難き二項対立の狭間で揺曳する青春の残滓。プラトニズム的愛とエロチシズム的愛の相剋と物神崇拝の意味を探る──馥郁たる幻想譚。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-29

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  1. 序曲 不遇なる天使の肖像