テミスの怒り Ⅱ

陸上自衛隊一等陸尉・柊竜二の妻 涼子は、夏の陽の下で麻薬に汚染された暴力団準構成員の凶刃の犠牲になった。
特殊作戦群を自らの意思で辞めた柊の怒りは、闇の組織に向けられ、それを壊滅へと導いた。
おりしも、戦後金権腐敗体質に嫌気のさした国民が、民自党に変って民生党を誕生させたが、危機感を抱いた渡辺誠一郎は自由改革連合を起ち上げ、政権を担うことになった。
彼は次々と国民のための政策を実現する傍ら、麻薬の汚染から国民を守るために首席秘書官の内村と密かに対策を練った。
柊の所属していた第三師団の木暮幕僚長と総理との出会いは、内村を通じて密かに実現され、国民の安全と財産を守るという大義の元にW機関が創設された。
“法が機能せず、正義が実現されない今、私が創ろうとしている組織が法を執行する権利を・・・・”それはその一言から始まりテミスの天秤は傾いた。
“裁判所で見る正義の女神テミスも悪と戦うために剣を持っています”男が応えた。
時を移さず警察や政府内に浸透する反社会勢力との戦いの幕が切って落とされた。
闘いの中、危機に陥った柊を救ったのは、あの阪神淡路大震災の事後処理に忙しかった頃、娘が麻薬に侵されたのを察知できずに救えなかった、夙川病院を経営する和田兄弟夫妻であった。
ビルの爆破から遠距離狙撃、闇に潜む敵をあぶりだし鉄槌を下す。
政府のトップとスーパー戦士が手を組み、強力な武器と火力を駆使し、反社会勢力と政府や警察に浸透する犬たちと、暗闘が続く・・・・
年が変わり、柊は浅井組壊滅の際、暴露された衆議院議員大室を、総理大臣首席秘書官・内村正の協力の元、東京の祐天寺に拠点を移し密かに探索を開始していた。
その様な中、警視庁麻布警察署に架かった一本の電話が探索の方向を変えた。
それは総理の盟友・五陵財閥の会長・秋月信三郎の孫娘が拉致されたと云う緊急情報であった。
その救出が最優先事項として背中にのしかかるが、拠点での活動の中で、張り巡らされた情報網から、からくも接点を見つけると柊の動きは素早かった。
民間の協力者として名乗りを上げた西宮・和田兄弟夫妻の協力も得て、新たな麻薬の拡散阻止に東京・西宮・島根と東奔西走の活躍が始まった。
縺れかけた探索の糸が再び縒り合され一本の糸になって、全国の反社会勢力が嘗て遭遇したことも無い敵が立ち塞がる。
一方、毎朝新聞政治部記者上野理沙は一連の報道での社長賞にも心からの満足感は得られず、その後も心の深奥に潜む男の存在が小さな熾火から次第に大きく育つのを受け容れつつあった・・・・・・

政府のトップと元陸上自衛隊特殊作戦群のスーパー戦士が手を組み反社会勢力と政府内に巣食う犬達との暗闘

           プロローグ 


 三月の彼岸の入りを迎えた東京麻布の高台一帯は戸あたりの敷地面積も一般の住宅よりはるかに大きく、それぞれの区画はその住人の個性に合わせて大谷石や和風の竹垣、洋風の化粧ブロック等の様々な塀で仕切られて、各邸宅は春の日差しを浴びて塀越しの植栽が緑の濃淡も鮮やかにそれぞれの屋敷を柔らかく包んでいた。
なかでも芽吹き始めた数本の桜に彩られ、横に三本の筋を刻んだ築地塀が囲む、一際目立つ広壮な屋敷が静かな佇まいを見せていた。
長く続く塀の中央には数寄屋門が構えられ、横には小さな桧の無垢材に《秋月》と墨痕も鮮やかに刻まれた表札が格調高く掲げられていた。
今や日本の経済界で重きをなす五稜財閥の総帥秋月信三郎の屋敷である。
朝の十時を過ぎた頃、数寄屋門の片隅にある通用口が静かに開けられ、青いジーンズにベージュのコットンシャツ、その上に白のブルゾン、足元は白いローヒールで先端が黒く、同色のリボンをあしらったパンプスを履き、ショルダーバッグを掛けた若い女性が顔を出した。肩まで届いたストレートな髪に軽く笑みを浮かべた顔は気品のある雰囲気を醸し出している。
信三郎の孫である綾乃が春の聖心女子大学入学に備え、友人との買い物に出かけるために広尾に向かって坂を下り始めた。通学時間帯を過ぎているせいか人通りも無く静かで、時折各邸宅の木々の間からもれるメジロであろうか「チィーチィー」と鳴く声が樹間に聞こえるだけである。
彼女の後ろから大型の黒いワンボックスカーがゆっくりと坂を下り始めた。窓はスモーキングガラスに覆われ中の様子は窺い知れなかった。
後ろから来る車の気配を背に感じて彼女は僅かに歩む方向を変えて道を譲った。
スピードを落としたワンボックスカーが彼女の脇を通り過ぎ、やがて広尾方面に姿を消したが、その跡に彼女の姿は無かった。


          麻 布 警 察 署


その日の午後八時頃、署長の太田三郎は今日も大した動きも無さそうだと帰り支度を始めた。署内も一般事務署員は大半が家路につき、これから当番署員の交代が始まろうとしていた。署長室のドアを開けようとノブに手を伸ばした時、デスクの電話が鳴った。太田は軽い舌打ちと共にデスクに戻って受話器を取り「太田だ」一言応えた。
「署長、秋月さんからお電話です」事務的な声が受話器を通して聞こえた。
「秋月?」一瞬考え込むように眉をしかめたが、内線はそれで途絶え、目の前の電話機のボタンが白く明滅していた。
《秋月さんが今時分何の用だろう》いぶかしい感じのまま明滅しているボタンを押した。
「はい、太田ですが」名乗るのを待っていたように「署長、遅くにすまないね」と聞き覚えのある秋月宗信の声がした。父親の信三郎共々麻布管内きっての名士として太田もよく見知っていた。
「いえ、とんでもありません。それで何かありましたか?」心配そうに応じた。
「実は・・・」言いよどむように一瞬間が空いたが直ぐに「娘が五時ごろに帰宅すると言って出掛けたまま、未だ帰ってこなくて・・・交通事故にでもあったのではないか?・・・そちらに事故などの連絡が入っていないかと・・・」
「それはご心配ですね。それでお嬢様は携帯とかお持ちでは無いのでしょうか」話を途中で引き取って確かめた。
「持ってはいるのですが、六時頃から家内がいくら電話しても応答がないと心配しています」当然のことだなと太田も納得しながら「きっと、何か突発的なことで、連絡が遅れているのでしょう。今から各部署や近隣署に問い合わせて後ほど連絡を差し上げます。なぁにきっと大丈夫ですよ。ご心配でしょうが少し時間をください。あぁ、それでお嬢様は確か綾乃さんと仰いましたよね?」
「そうです。なにとぞよろしくお願いします」
「解りました。・・・では、後ほど」帰宅が出来なくなったのは明白だった。
背広を再びロッカーに仕舞いながら深く考え込んでいたが、自席に戻ると電話を取り上げ交通課に今日一日の交通事故の報告を全部持ってくるように命じ、更に警視庁管内の今日一日の事故で特に女性が被害者になった事案を大至急検索するようにも命じた。
次に捜査一課に内線を通して近藤一課長に署長室に来るよう頼んだ。
暫らくするとドアがノックされて返事を待たずに近藤が現れた。
「署長、よく私が未だ帰っていないと判りましたね」年は七つほど若いが笑顔で話す彼の気さくな部分が誰からも好かれていた。
しかしその実像は強盗、暴行、誘拐などを扱う一課長として麻布署一、二を争うと言われる能力を秘めていた。署長はデスクの前に置かれたソファーを勧め乍ら、先ほどの秋月氏からの電話の内容を何も省かずに伝えた。
その時ノックがして交通課の久保田巡査長が書類を持って入ってきた。敬礼をして書類を差し出し「当日に該当する事故報告は警視庁管内で五件発生していますが、全員軽症で死亡事案はその内一件ですが男性です」と報告した。
書類を受け取った署長が礼を言って下らせると、それを待っていた近藤が「まず、家出の線は考えられませんか?」問うような顔を署長に向けた。
「それは、外してもいいと思う。あのご両親やその父親もとても温厚で、お嬢様とも何度か会ったことがあるが、その線は無いと言ってもいい」
「とすると、誘拐、拉致という線が濃厚ですが現状身代金の要求は無さそうだし、拉致ですかね」同意を求めるように再び署長の顔を覗き込んだ。
未だこの段階で軽々に捜査方針を決めるわけにもいかず署長も腕を組んで考え込んだ。
ようやく腕組みを解いた太田が近藤を睨み付けるように「とにかく内々に君の班で動き出してもらおうか。あくまで慎重にな。マスコミには特に気を付けて・・・」
深く頷いた近藤は「とにかく一度秋月さんに事情を聞いた方がいいんじゃぁないでしょうか」
「そうだな、少し待ってくれ、出来れば私も一緒に行くよ」それだけ言うとデスクに戻って再び受話器を取り上げた。
近藤は黙って頭を下げ署長室を出た。未だ残っている課員を会議室に招集して警視庁本部の捜査課、生活安全課など関連各部署に連絡して、ここ一か月以内の行方不明者それも若い女性に絞って情報を集める様に指示を出し、別の課員には今日の女性の不審死が無かったかも調べるように命じたが秋月の名は伏せた。
とにかく相談してきたのは日本の経済界を動かす重鎮である。
拉致、誘拐どちらにしても絶対マスコミに察知されてはならず下手をすると日本中が騒然となるような事案でもあった。
太田が個人の電話帳を繰って電話をした相手は警視庁警視総監池田隆一の自宅であった。その情報はその日のうちに五十嵐警察庁長官の耳に届いた。
寝ようと床に就いたところを起こされた五十嵐は話を聞き終えて受話器を置くと、心配そうに見守る妻を残してパジャマのまま居間へ足を向けた。
キャビネットの扉を開けてレミーマルタンと共にグラスを持ってソファーに浅く腰掛け、グラスに三分の一ほど満たして深く座りなおした。
テーブルの時計を見ると十時を過ぎていた。ソファーを立って寝室に引き返すと携帯を手に戻った。
五十嵐は現政権の渡辺誠一郎総理には、昨年末の神戸川北組傘下の浅井組麻薬密輸入事件摘発の際、警察内部の情報漏えい者の存在を教えられ、摘発にも手を貸してもらった挙句その手柄を私せず警察庁の手腕として世間に公表してくれたのである。
日本中にはびこる麻薬禍を防ぐために彼の指揮はいささかのブレも無く、その熱い気持ちは五十嵐の胸に深く刻まれていた。
今の日本経済は渡辺総理を軸に閣僚、財界一体となって進められ、首席秘書官の内村も拘りなく五十嵐の立場を理解、応援してくれている。
渦中の秋月氏は総理の盟友として巷間良く知られていることを五十嵐はよく承知していた。
警察の威信にかけてこの犯人は検挙しなければならないが、事前に総理の耳にも入れておくべきと、ディスプレイに出た首席秘書官である内村の名前を確認すると、通話ボタンを押した。


総  理  公  邸


春の陽が降り注いでいた昼とは打って変わって、夜の闇が忍び込むと外気も涼しさが増したが、庭園を照らす灯りは優しく静かな夜を包んでいた。
今しがた官邸から帰った誠一郎が着替えを済ませ、庭一面を見渡せるように造られた程よく暖かいリビングで淑子とひと時を過ごしていた。テーブルにはブッシュミルズの水割りが琥珀色に染まってアイスペールと共に並んでいる。動きの楽な花柄のワンピースに着かえた淑子が今日来た郵便物の整理をしている前では煎茶が上品な香りを漂わせていた。
新聞を読んでいた誠一郎が水割りを取ろうと手を伸ばした時、ソファーのサイドテーブルで軽快な呼び出し音が鳴った。
受話器を取り乍らホールクロックに目をやると十時を少し過ぎていた。耳にあてた受話器からの話を黙って聞いていた。
「判った。待っている」顔をあげた誠一郎は心配そうにこちらを伺っている淑子に「内村君だ。急用があるそうだ」それだけ言って受話器を戻した。
「そうですか。では内村さんにもグラスを持って来ましょう」と静かに自分の前の茶たくを持って立ち上がった。
「いや、何か心配事らしい。お茶にしてくれないか」そう言うと自分のグラスも横に置かれたトレイに乗せた。
この遅い時間に何の不平も言わず、黙って尽くしてくれる淑子に誠一郎は心の中でいつも感謝の気持ちを忘れたことは無かった。
待つほどの事も無く内村がリビングに顔を見せた。官邸から走ってきたのだろうか、幾分顔が赤く吐く息も整っていなかった。
「どうした」いつもの柔和な顔で内村と向き合った。
「はい、たった今五十嵐長官から電話を頂いて・・・」
「五十嵐?警察庁の?」
「そうです」
「このような時間に?何か事件か?」
「いえ、未だ、事件としては立件されていませんが・・・実は総理のご友人でもある五稜商事の秋月会長のお孫さんが行方不明との一報が、先程麻布署から警視庁を通じて連絡があったそうです」
「秋月さんの・・」驚きで少し高くなった声が誠一郎の口をついて出た。
「どういうことだ。詳しく聞かせてくれ」気を静めるようにソファーに腰を沈めた。
内村は電話での報告を思い出しながら全てを報告した。誠一郎は考え込むように顔をしかめて腕組みをし、改めてホールクロックを見つめた。
この壮麗なホールクロックはドイツAMS社製で、英国ボウ教会のウィティントンの鐘が時報を告げ、貧しかったウィティントンがロンドン市長として上り詰める故事に倣って、支援者が末永く総理の座が続くようにとの願いを込めて贈ってくれた時計であったが、その支援者こそ内村が口にした秋月信三郎であった。
その秋月さんのお孫さんが・・・暗澹たる気持ちを抑えきれなかった。
「警察も全力を挙げて探してくれているのだろうが・・・我々に手伝えることは無いのか」内村を睨み付けるように問いかけた。
「八時過ぎに息子の信宗さんから一報が入って、九時過ぎに麻布署の太田署長と近藤という一課長が秋月家へ行って事情を聴いているそうですが、失踪か拉致なのかまだ何も判っていないのが現状です」
「事故という線は?」
「いえ、それは既に調べて、その線は消えているそうです。それにこの件はマスコミを通じて探すという手もあるのですが、万一拉致と云う事も考えると下手に犯人を刺激することにもなり兼ねません」誠一郎は黙ったまま頷くように首を前後に振ったが、リビングを再び沈黙が支配した。
お茶を持って入ってきた淑子にも聞こえたのだろう、内村の前に置く茶たくが小さく震えて顔色も青白く眉根を寄せて心配そうに主人を見た。
「内村君、秋月さんに電話を入れてくれないか。夜分だがこのような時だ、まだ起きておられるだろう」黙ったまま彼を見ていた内村が静かに席を立ってサイドテーブルに向かいながら手に持った手帳を開いた。

明治元年薩摩・長州を中心とした政府軍と奥羽越列藩同盟が戦った戊辰戦争の際、籠城を余儀なくされた会津城で食料も尽きると先を読んだ藩士の佐川官兵衛は盟友の秋月五郎達十余名を伴い福島県大芦村や栃木県麻生村を斬り開いて江戸へ向かった。途中では喰うために敵を襲い、村落に押し込んだ。分捕り品は結構な戦果をもたらしたが秋月家の来歴に、そのことに関する記述は無い。勇躍、江戸に出た彼らは新たに捲土重来を期して蝦夷地へ向おうとする抗戦派の榎本武揚率いる幕府軍艦隊に乗り組み、函館の五稜郭に無血入城を果たした。しかしそれも束の間、翌年には政府軍総攻撃の前に城を明け渡すことになった。時に秋月五郎二十六歳であった。
慶応から改元された明治三年に、縁者の元に落ち延びていた五郎達は再び会津を脱出して江戸へ向かう途中、戦果を預けてあった麻生村へ同士三人と訪れ、十分な礼と共に当時の戦利品を持ち帰った。さて東京での居をどこに構えるかとなった時、五郎は麻生村での義に感謝し、呼称が同じ麻布を選び、三人の同志と創った会社も五稜商事と名付けた。以来百五十年を経て日本を代表する企業に育っていた。

夜分遅く申し訳ないと内村の声がリビングに流れていたが、やがて内村が誠一郎の前に受話器を差し出した。受け取った受話器に向かって話す彼の言葉は聞き取れないほど小さく弱かったが、最後には「とにかく警察も全力を尽くしてくれるし、私も手伝えることは何でもする。気を強く持ってください」変な慰めの言葉は使わずきっぱりとした口調で電話を終えた。
「今しがた、麻布署の署長と捜査課長が事情を聴きに来て帰ったそうだ。彼等も現状は交通事故などのアクシデントは無いと云って、今後は誘拐拉致の線で全力を挙げて捜査しますと言って帰ったそうだ。さすがに信三郎さんもいつもの元気をなくしていたな」短く内村と淑子に呟くように言った。
公邸と麻布で心配の種が芽生えた夜が静かに更けていった。


秋月綾乃の行方不明から二日経とうとする公邸の夜は、霧の様な細かい雨が明るく照明された新緑の庭を濡らしていた。この二日間、秋月家は勿論渡辺も気の重い日々であった。国会の委員会でも何回も質問を問い質すなどいつもの歯切れの良さは影を潜め、野党のヤジにもイライラを隠さなかった。昨日も今日も事件の好転を伝える話を聞くことが無かった。委員会が終わって直ぐにも公邸に帰ってきたが、服を着替えもせず私室に閉じこもってしまった。
内村も心配して公邸に顔を出したが誠一郎の内心を忖度して、じっとリビングに座って控えていた。淑子が何回目かのお茶を淹れなおして内村の前に置いた時、静かに誠一郎が部屋に入ってきた。
「来ていたのか」静かに一言いうと内村の前に深く腰を下ろした。暫らくして淑子がそっと誠一郎の前にお茶を置くと「何か進展はあったか」湯呑に手を伸ばして内村に顔を向けた。
「未だに大きな進展は何もありません・・・麻布署でも警視庁本部の応援を得て二十名ほどの専従班を作って聞き込みなどに全力を挙げているそうです。ただ報告の中で一寸気になったことがありまして・・・」
「なんだ?」
「はい、昨日太田署長と秋月家に同行した近藤と云う課長が部下に指示して、この一か月以内の若い女性の行方不明者を調べさせたところ今回のお嬢様を含めて三名の少女が報告されたそうです」
「三名も?」思わず誠一郎が問い質すように聞いた。
「そうです。それが十九日の昼頃で、不審に感じた課長が、今年に入ってからの不明者を改めて指示したところ、何と六名の行方不明者がいることが判ったそうです」
「そんなに沢山・・・」絶句して見つめ返す誠一郎に「はい。ただ、行方不明者の届けは全国の警察署から東京に出て行った可能性ありなどの報告を入れると、一日に十数件有って、それぞれに捜査員を張り付けるわけにはいかないのが現状だそうです」
「そうか、しかし君は今その課長が、改めて調査を指示したところと云わなかったか?」
「そうです、行方不明者の家出や動機は千差万別で・・」言いつつ自分が持ってきたメモを見て「高齢者の認知症、家庭内トラブル、異性関係、学校関係それと犯罪など、更には年齢別でも大きく異なり、その近藤課長は年齢を二十歳前後の女性に絞り、次に動機不明者に絞って調査させたそうです」
「なるほど、それで出てきた人数が六名なのか?」
「その通りです。課長曰く、それでもこの三か月近くで動機不明の二十歳前後の女性が六名と云うのは多すぎると云う事だそうです」
「そうだろうな・・・しかしそれと今回の行方不明とはどう結びつくんだ」
「あくまで、彼の想像ですが・・・」と前置きして、内村は顔をあげて誠一郎を見た。
「このところ、総理の意をくんで五十嵐長官を先頭に暴力団の取り締まりを強化していますが・・」
「そうだあの事件以来、彼も陣頭に立って取締りに力を注いでくれているので期待しているんだ」
「各企業や商業店舗、飲食業なども企業舎弟に取り込まれるのを嫌って排除の方向に進んでいますが、その煽りを受けて彼らの資金源が細くなってきていて、新たな高級売春組織を立ち上げようと企んでいるのではないかと・・・」
「それは一寸飛躍しすぎではないのか」誠一郎が否定的な意見を言った。
「はい、私も近藤課長にはそのように言ったんですが、彼はその六名の写真も入手していまして、それぞれが皆、上品な良家の子女のような点が共通点だと・・」これには誠一郎は再び腕を組んで考え込んでしまった。
「それだと目星がついているから却って捜査し易いのじゃぁないか?」と再び顔をあげて聞いた。
「それが、彼の答えは逆で・・彼等の本拠に彼女達を置いておくことは無く、この都内のどこかのマンションにでも押し込められていれば捜索はかなり厳しいと・・確かな証拠でも掴んで家宅捜索に踏み込むならまだしも、手当り次第に踏み込むとなれば、それこそこちらが不法侵入で訴えられかねないし、マスコミも黙って見ているわけではないでしょうと云うのです」
「そうか、そうだな。マスコミには絶対知られたくないし、踏み込むこともできない。公開捜査も論外だし、正に八方ふさがりだな。それにそのような話は秋月さんには言えないな」再び腕を組んで考え込んでしまった。
「それで仮にその女性たちが彼らに捉えられているとすればどうなるんだ?」思い出したように聞いた。
「それは・・」内村が言いよどんだ。
「それは何だ。内村君、何も隠さず正直に話してくれ」数十年誠一郎に仕えてきた内村はその一言で腹が決まった。
「つらい事ですが、彼らの手口は先ず彼女たちを薬漬けにするそうです。何日かかけて麻薬中毒にして逃げ出さないようにしてから、高級売春婦として彼ら独自のルートで商売をするらしくて・・買う方も社会的にも地位があって、世間体もあるので口の堅さは間違いないようです」一気に話すと悔しさも顕わに唇を咬んだ。
「何故、そのようなことが許されるんだ。この日本で、この法治国家で・・・」誠一郎もこぶしを握り締めてテーブルを叩いた。卓上のお茶が飛び散ったが二人とも微動だにしなかった。
「何とかならないのか」暫らくして誠一郎が絞り出すような声を出した。
「一つだけあります」一人で待っている間、今後を考えていた時思いついたことがあった。
「聞かせてくれ」
「柊君です。幸い彼は今祐天寺にいます。昨年初めて彼と大阪でお会いになった時、木暮が『連中は世間が考えているよりずっと強大で政治や警察などあらゆる世界の階層に入り込んでいることを想定しなければならない』と暗に強い警戒を怠らないように戒めた時、『彼等は他人を恐怖で支配しようとしますが、彼等自身がそれに面と向かう事は経験がありません。彼等には彼等が嘗て経験したことがない経験を実感させねばなりません。又、それで得た情報や証拠は法廷に提出するわけではありません』その様なことを言っていたと思うのですが、ここは彼の力を借りてもいいのではと考えます」誠一郎は柊と出会った時の彼の言葉に強い印象を持っていた。
「彼は今大室を追っているのではなかったか」と一言聞いた。
「はい、その通りですが、未だ尻尾がつかめませんとの報告を受けています。でもここは、ご友人の大事な時です。大室の方は長期戦でもやむを得ないのじゃあないでしょうか」
内村も総理の心中を思って説くように訴えた。誠一郎は又暫らく考え込むように腕を組んだが、直ぐに内村を真正面から見据えた。
「柊君に連絡を頼む」
内村がW機関専用の携帯を取り出し、W⑤のボタンを押して相手を確認すると総理に手渡した。
二十日の夜もあと四時間ほどで日付が変わろうとしていた。


祐 天 寺


首都防衛を担う陸上自衛隊三宿駐屯地を西に、東に目黒駐屯地を持つ目黒区祐天寺の周辺はモダンな住宅が立ち並ぶが、その一角に風情のある日本家屋が残っていた。
表札のない家は相続対策で物納された屋敷で、今では元・陸上自衛隊一等陸尉であった柊竜二が昨年内村の配慮で東京の拠点として利用していた。
お彼岸を明日に控えた二十日の夜の帳が降りる頃、居間のソファーで今日の行動を反芻していた柊はふと傍らの水割りグラスを持って窓際に立った。
春の雨が静かに窓を濡らしていた。彼は手に持った水割りを口に含むと真っ暗な闇夜に遠い目を向けた。


兵庫県伊丹の陸上自衛隊第三師団の特殊作戦群(SFGp)【通称S】に所属し、自他ともに認めるエースであった彼は昨年の夏、二人の初めての子を身籠っていた妻の涼子が麻薬に汚染された暴力団準構成員の凶刃の犠牲になった。
マスコミは連日のごとく事件を報じ、TVでも井戸端会議よろしく勝手な推理を繰り返していたが、一向に解決への道は開かれなかった。密葬を終えた柊の双眸は冷たく凍り、引き締まった三十一歳、百八十三㌢の体躯に怒りの炎を閉じ込めた。
自らの意志で除隊届を出した彼の矛先は、神戸に本拠を置く広域指定暴力団川北組の下部組織であり、準構成員が所属していた塩田組に向けられ、慎重に準備を整え特殊作戦群で培った技量を、初めて実戦の場へ歩を進めた。
結果、九月三日未明に尼崎に巣食う塩田組に単身乗り込み組長以下九名を屠り壊滅へと導いた。
おりしも、戦後金権腐敗体質に嫌気のさした国民は民自党に変わって民生党を誕生させたが、イメージ作りに精を出す議員と、迎合的な政治に危機感を抱いた渡辺誠一郎は、有志を糾合して自由改革連合を起ち上げて政権を担うことになった。
彼は次々と国家の危機を訴えた政策を実現する傍ら、昨年、伊丹で起きた麻薬中毒者による惨殺事件のTV報道で麻薬が国民を如何に汚染しているかを知り、その国民を守るために首席秘書官の内村正と密かに対策を練り始めた。
《法がその役割を果たせず正義が無視され、弄ばれ、抜け道を作られる今、それらに鉄槌を下す力を手に入れたい。例えそれが合法だと言われなくても・・》それはこの一言から始まった。
柊の所属していた第三師団の木暮幕僚長への高校時代親友だった内村からの相談は、柊の単独での組織壊滅と相まって複雑に絡み始めた。やがて渡辺総理と首席秘書官、木暮幕僚長と腹心の平田最先任上級曹長そして柊との出会いは、内村を通じて総理が補欠選挙の応援で大阪のロイヤルホテルに宿泊した際に密かに実現され、国民の安全と財産を守るという大義の元に渡辺の頭文字を採ったW機関が極秘裏に創設された。
同席していた柊は《裁判所で守護神とされる正義の女神テミスも悪と戦うために剣を持っています》女神の持つ天秤は傾き男達が吠えた。
次の日から平田最先任上級曹長の助けを得て銃器等戦闘機材が尼崎の塚口町に借りたマンションで密かに準備されていった。
W機関での最初のターゲットは塩田組上部組織である川北組直系の浅井組に絞られた。
それは即ち警察内部や政府内に浸透する反社会勢力との戦いでもあった。
戦闘員は唯一人という中で直参六団体、直系四団体合わせて構成員六百五十名の規模を持つと云われる浅井組との戦いは困難を極めた。
先ず、尼崎東南警察署に巣食う悪徳警察官三人をあぶり出し、彼らの供述から浅井組にたどり着き、麻薬の大掛かりな密輸入をかぎ出した。副産物として国会議員の中から情報漏洩の人物を特定できる自白も得ることが出来た。
その様な中、夙川で組長を尾行中、篠突く雨の中で不意打ちを喰らった柊は腹部を狙撃されて窮地に陥った。それを救ったのが、あの阪神淡路大震災の事後処理に忙殺されていた頃、娘が麻薬に侵されていたのを察知できずに救えなかった夙川病院を経営する和田兄弟夫妻であった。
彼等もまた掌中から娘を奪った麻薬を心底から憎む民間の協力者に育っていった。
反社会勢力が今までに出会ったことの無い敵として、立ち塞がるW機関との間に死力を尽くした戦いが始まった。
やがて浅井組ビルの爆破から、SATによる神戸港の麻薬押収作戦に於いて、遠距離狙撃による援護に至るまで闇に潜んでいた敵をあぶり出し鉄槌を下した。
日本政府のトップと自衛隊特殊作戦群のスーパー戦士が手を組み強力な武器と火力を駆使し、反社会勢力と政府内や警察に浸透する犬たちとのいつ果てるとも知れない戦いの幕が開いた。
昨年末に浅井組を壊滅に追いやった時、彼らの後ろに蠢く政府内の犬が民生党の大室大悟ではとの疑いが浮かび上がっていたが確たる証拠を掴めず、年が改まった今年になり大室の選挙区である尼崎の自宅事務所から東京・六本木の青山議員宿舎まで徹底的に洗いはじめたが慎重な行動をとる大室の尻尾は未だに掴めないでいた。
一月末から始まった通常国会に合わせて単身尼崎から黒のランドクルーザー一〇〇VXを駆って祐天寺に入っていた彼は、ほぼ一か月半に亘る尾行もさしたる収穫を得ることは出来なかった。大室の行動パターンは国会と青山の議員宿舎の往復以外は、時折同僚議員達と赤坂の割烹料理店に出向くだけで、政治活動が忙しいのか宿舎に帰ると再び外出することが無かった。
矢張り巨大な敵に対して戦闘員が一人というのは厳しいのか、まして浅井組の時のようにレーザーマックス3500の様な盗聴器も無く柊の怜悧な顔も曇りがちになった。

そのような柊にとって唯一の息抜きというか気分転換のひと時は周辺の調査を兼ねて歩く散策と毎日の不規則な生活の中での食事であった。
国会が始まると昼間は様々な委員会等で簡単には動きを探る事が出来ず、その間は周辺の日比谷や赤坂、少し足を延ばして新宿周辺を歩いて回ることで土地勘も養った。
中でも気に入ったのが赤坂見附を南に少し下がった所にある《食堂ちさ》と云う厨房を入れても一〇坪少しの小さな店であった。周辺はビジネス街とマンション、中華料理店や大衆食堂、ドラッグストア等が混在するどちらかというと下町的な雰囲気を持った町が形成されていた。
店では主人が厨房に入り女将が接客、息子が出前と典型的な家族経営で、女将の千佐子の名を採った店はサラリーマンや職人、商店員や主婦といった雑多な客で結構繁盛していた。それは夫婦仲の善さもさることながら、おしゃべり上手な女将が結構鉄火肌の一面も併せ持ち、馴染みやすく、微笑ましさを併せ持っていたせいでもある。
柊にとってもう一つの目的もあった。種々雑多な噂話が、小さな店のせいか結構聞こえるのである。特にこのような場所に政治家が来る訳ではなかったが、質の違った噂話は東京という都会に馴染むためにも柊には必要なことであった。
最近は殆ど昼と夜の食事をするようになって、かなり親しく口をきくようになってきていた時、女将に名を聞かれて咄嗟に木辺正司を名乗った。(これは尼崎で浅井組を追っていた時に、他のW機関の四人の名をシャッフルして作った偽名であった)
今日も昼食に立寄った時、電話に出ていた女将が「ありがとうございます」と言って電話を切って「お父さん、赤坂ハイツ出前だよ、お願い」手に持ったメモを厨房に渡した。
主人がメニューと数を確かめるように見て「今日も結構いるんだね」とガスに火を入れて洗ったばかりの鍋をかけ料理の準備に入った。
「そうね、今月に入った頃から急に注文が倍ほどになっちゃって・・いったい何やってんだろうね。あの部屋で・・・」女将も軽い相槌で応えた。
「女だよ。若い女が増えたんだ」客が帰った後のテーブルを拭きながら横から息子の徹郎が答えた。「女?お前顔を見たのかい」女将が思わず振り返って聞いた。
「顔は見てないけど、持ってった時、玄関に白い女ものの靴やハイヒールが四、五足あったから・・・」
「そうなの、やだよ、昼間っから何やってんだかね」怒ったように女将が呟いた。
「でもさぁ、あそこは何か暗いんだよなぁ」徹郎がぼやくように応える「へえー、女性がそれだけいてもかい・・何か悪さでもしてなきゃあいいけどね・・・」
女将と息子の会話はそれで一段落した。忙しい昼間の時間帯で女将は次に入ってきた客に向かった。


突然、電話の呼出し音が鳴った。
春の雨空を見上げて回想に耽っていた柊は現実に戻され、首を回してテーブルを眺めた。
W機関で使う携帯の青い光が明滅し、断続音を鳴らしていた。

機関が誕生したときにこの組織が出来ることを予期していた木暮が、通信大隊に所属する飯田曹長に、極秘作戦に使うとして作らせた特殊携帯で普通の機能以外に、盗聴防止機能や相手が電源オフの状態でも呼び出せる機能、通常電源が切れても約十分の通話可能な機能が搭載され、総理がW(ダブリュー)①(ワン)、内村がW②、木暮がW③、柊がW⑤、最後に平田がW⑥とされた。内村から木暮が②を持つべきだと異論も出たが、俺は第三師団だとの木暮の言葉で封じられた。
テーブルに戻った柊がディスプレイのW②を確認して「W(ダブリュー)⑤(ファイブ)」と名乗った。内村と思って電話に出ると渡辺総理の声に少し驚いたが、それ以降は黙って聞き役に回った。
殆ど相槌を打つだけで聞き終わると「判りました。直ぐに動きます」と答えた後、内村と変わってもらった。
「内村さん、出来ればその綾乃さんの写真と身長などの特徴、それと不明時の服装など分かる範囲をすべて送ってもらえませんか」
「判った。手持ちの情報は直ぐにでも君のPCにPDFで送っておく、二十分ほどで送れると思う。それと彼女が履いていった靴だけれど白いパンプスで先が黒いそうだが、PDFでは同じ色が無かったので同型の黒を映した奴だからね。それではよろしく頼む」
「了解しました」会話はそれで終わった。
暫らく考え込んで今聞いた話を整理した後、柊は改めて携帯を持ってW⑥を押した。相手の応答を待って「平田先任、実は・・・」と今得た話を省かずに話して聞かせた。それで夜の張り込みなどに必要だと、スターライトスコープ(暗視装置)を送ってもらうように頼んだ。――――スターライトスコープは赤外線スコープと違って、強力な電源を必要とせず、暗闇の中にも存在する極めて僅かな自然光を捕えて増幅する仕組みで、人間が梟の眼を持ったと云われる所以である。今では陸上自衛隊の夜間訓練では欠かせぬものとして常備されている――――
「ブイエイトで良いか?」
「それで結構です。ヘルメット装着用では無くハンディタイプの物をお願いします」
「「それは判ったが、そっちは中々難航してるようだな」
「そうです、夜も隙を見せてくれません。それで、とにかく不明の綾乃さんという女性は総理の盟友である秋月信三郎さんという方のお孫さんのようです。丁度、自分も大室の探索をどうするか悩んでいたところで、気分転換の意味でも当面、このお嬢さんに全力をあげようと思います。そうそう、よければプラスチックカフも一緒に入れておいてください」
「よしわかった。幕僚長とも話して明日一番で送っておくよ。慎重に体に気を付けてな」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いします」相変わらず気配りのきいた最先任上級曹長の言葉に嬉しくなったが、その間も柊の頭はめまぐるしく回転していた。
平田と話をしている最中に何か閃くものを感じたが、彼の励ましを喜んでいる間に失念してしまった。取りあえず、内村からの情報を受けるために二階に向かった。
階段を上がった右手に書斎を設け、隣の洋室を塚口から運んできた武器や装備品の置場にしていた。
武器、装備品と云っても昨年浅井組らと対峙した時使った狙撃銃(レミントンM700)や拳銃(グロッグ十七)、それぞれに装着できるサプレッサー、黒のバトルドレスユニフォーム、ザイル数種類などで、厳重に鍵が施されて管理されていた。
書斎のPCを起ち上げると早くもPDFの画像と共に関連書類が一通届けられていた。それらをW機関専用の携帯に取り込んで窓外に目を向けると、闇夜に遠くマンションの明るく輝く灯火がきらめいて見えた。‘マンション’という言葉が頭の中で増幅された時、不意に柊は先程失念してしまったことを思い出した。
階段を駆け降りて車のキーに手をかけたが、先ほどまで水割りを飲んでいたことを思い出し、壁の濃紺のジャケットと傘立てのビニール傘を掴むと、タクシーを求めて通りへ飛び出した。

夜の九時半を過ぎた赤坂は鮮やかに彩られたネオンの海が広がり、会社を退けたサラリーマンやOL、更には外国人や学生など雑多な人種の坩堝となり、眠らない夜のピークを迎えていた。
表通りから一歩入った《食堂ちさ》の前でタクシーを降りた柊は、客も疎らになっていた店内に入った。客と話をしていた女将が彼を認めると「あら、木辺さんどうしたんだいこんな時間に」いつもは六時ごろにやって来て酒も飲まずに食事だけする彼を見て好感を持ってはいたが、どの様な仕事をしている人なのか気になっていた。
「実は、徹郎さんに少し聞きたいことがあって・・」傘をたたみ乍ら女将を見た。
「徹郎かい、徹郎は今出前に行ってるよ。でも、もう帰るころだよ。まあ、立ってないでそこんところへでも座って待ってて」気さくに声をかけた女将は厨房から「あがったよ」の声がかかって奥に引っ込んだ。
待つほども無くジーンズに前掛け、Tシャツ、帽子を黒で纏め、雨がっぱを着た徹郎が木製のおかもちを片手に帰ってきた。一旦おかもちを持って奥に入った徹郎が女将から言われたのか直ぐに柊の前にやってきた。
「木辺さん、俺に用だって」気のよさそうな笑顔で聞いた。
「そうなんだ、少し聞きたいことがあってね。ここでは何だから」と傘立てに仕舞ったばかりの傘を手に表へ誘った。
隣の店との間の路地に入った木辺が「徹郎さん今日、自分がお昼に来た時、確か近所のマンションへの出前で女性が急に増えたような話をしていましたね」と気軽に尋ねた。
「あぁ、赤坂ハイツ一五〇一のお客さんね。正確には赤坂グランハイツって云うんだけど、あそこのセキュリティは厳しくてさ。最近はやりのカードキーで開けるんだ。今月位からかなぁ急に女性が増えて・・でも昼も言ったけど暗いんだよな、あの部屋」
「暗いって?」
「普通、若い娘(こ)がいる部屋って結構声が聞こえて明るいだろ。でもねぇあの部屋はウンともスンとも声がしないんだから困っちゃうよな」木辺は徹郎のおしゃべりに任せた。
「ほかに何か気の付いたことはある?」
「気が付いたっていうか、前からの噂だけれどあそこの部屋を借りてるのは・・・」言いよどむ徹郎をじっと待った。
「ここだけの話、関東吉津会だって云うぜ」
「関東吉津会って?」指で頬を切る仕草をすると「そう、あくまで噂だぜ・・・その筋の若者の寮のように使っているって・・・」柊は僥倖に巡り合った事に半信半疑の気持ちだった。
「そのほかに何かある?」
「そのほかは特にないぁ」
「匂いとかは」ヘロインやモルヒネは無臭だと和田先生から聞いていて予備知識はあったが、念のために聞いた。
「匂い?いや、それもないなぁ」話は行き詰ってしまった。
「それより、木辺さん・・刑事みたいだね。桜田門っていうんだろ」ニヤッと笑って覗き込むように木辺を見た。
「違うよ、たまたま知り合いのお嬢さんが突然いなくなり、探してほしいと頼まれて、溺れる者藁をも掴むやつで徹郎さんの話に飛びついたんですよ」苦しい言い訳だった。
「そうかなぁ」案の定、未だ疑り深い視線を投げかけた。
「そうそう、そのお嬢さんが履いていた靴がこれなんだそうだ」と話題を逸らし、携帯の画面を呼び出した。黒いリボンをあしらった真っ黒のパンプスが画面に映っていた。
「この前出前に行ったとき白い女物の靴を見たって言っていたでしょう。思い出してもらえませんか。この靴が白いと想像してみてください」しげしげと画面を見ていた徹郎は首を捻って「うーん、この黒い花の形はよく似ている感じだなぁ。だけど靴の先は黒だったよ」と尚も画面を見入っていた。
昼間の親子の何気ない会話がここまで話が繋がると残っていた疑いがほぼ確信に変わった。
「それにしても木辺さん、その携帯変わってるねぇ。どこのメーカー」突然聞いてきた。これには柊も少々慌てた。
「これはね、尼崎にいた時友人から貰ったんだ」
「尼崎ってどこにあるの」ますます徹郎の目つきが興味を増して迫ってきた。
「徹郎、出前だよ」路地の出口に立った女将が呼んでいた。
丁度良い助け舟が来たと柊は逃げるように「ありがとう」の言葉を残してそこを走り出た。

十一時を過ぎて祐天寺に帰り着いた柊は書斎に上がってPCを起ち上げ、直ぐに関東吉津会の様々な情報を検索しだした。
当初関東の暴力団連合(八団体)は全国制覇を企む関西の川北組の関東進出を警戒し結束していた。川北組はその先鋒として横浜に吉津会の拠点を築いて、虎視眈々と東京進出を図っていたが、十余年前に起きた関東の暴力団連合の内紛から、川北組の山本組長と関東連合の一人楠田組々長が盃を交した事であっけなく関東進出を果たした。
現在の楠田組は川北組直系吉津会と共に川崎、横浜、舟橋、習志野市など東京の衛星都市をはじめ都内渋谷区、中央区、品川区を含めて二十五の団体で構成される巨大指定暴力団に育った。構成員も一万人を超え、政治家とも未だに黒い噂が絶えない。
川北組との昨年来の死闘を思い返し因縁すら感じ始めた柊は改めて静かな闘志を燃やして装備品の点検に向かった。

祐天寺に来ても体調を整える日課を欠かさず、霧雨の降る早朝のジョギングから帰って熱いシャワーを浴びるとサイフォンでコーヒーを淹れ、じっくりと新聞に目を通した。
先日来の行方不明事案は警察や関係者にも完全な箝口令が敷かれているのか何処にも書かれていなかったが、内村からの電話は麻薬漬けの可能性有りとして時間的余裕が無い事を示唆していた。
柊も麻薬に関する知識は昨年の戦いの際、現物を手にした事はあるものの、医学的な所見は皆無に等しかったが、内村の示唆を受け容れ、昨日からの僥倖ともいえる出来事を思い返して、失敗が許されない実行計画を練り始めた。
数時間かけて周到に練り上げたメモを見返しているとき、来客を告げるチャイムが鳴った。階下に降りて玄関を開けると、大きなバッグを担ぎ傘を持った平田最先任上級曹長が立っていた。
「よぉ、元気そうだな。昨日、暗視装置の件を幕僚長に報告したら一度お前も東京の拠点を見ておけと言われて、今日から日曜まで休暇をもらってお邪魔したよ」驚く柊に微笑みかけた。
「いやぁ、突然だったので驚きました。課業もお忙しいのに恐縮です」平田の持つバッグを受け取り、スリッパを揃えた。
挨拶もそこそこに平田から行方不明の事案を持ち出した。朝方淹れたばかりのコーヒーを温め、昨晩の電話以後、赤坂で徹郎から聞いたマンションの一件を説明し、それが川北組と繋がっている事を話した。
「偶然とはいえ、すごい進展だな」少し興奮気味に前に置かれたコーヒーを手に持った。
それからは、先程仕上がった実行計画のメモを取り出し、平田が来てくれたことで急遽修正を加えながらの打合せでは、今日(二十一日)と明日、明後日に実施する行動の手順を説明し、不測の事態への対応も詳しく指示を出した。柊は年の差を超えた即応部隊指揮官の顔になっていた。
「それにしても、このプランは良く出来ているが、何故夙川なんだ?」気になった疑問をぶつけた。「三つの理由が有ります。一つにはこの綾乃さんは総理の盟友のお孫さんと聞いています。それに、あくまで極秘裏にと云う強い要請が有ります。もし全員救出できた場合、本来はそこから警察に引継ぎ、都内の病院に収容してもらうべきですが、その場合全員の名前が公になる事は避けられません」そこまで言うと、言葉が平田に浸透するのを待った。
「二つ目は今あのマンションに監禁されているのは、内村さんの情報では多くて六人、《ちさ》の徹郎さんの話でも四、五人と考えられます。自分の車に乗せることが出来るのは一人か二人が限界です。三つ目は救出後、都内の他の病院と云う事は事実上無理があります。であれば少し遠いですが気心が知れている夙川しか有りません。それに洋子先生は薬理学の専門で、自分の治療の際にも内々に処置して頂いて信頼がおけます」説明が一段落すると、平田は柊の顔をしみじみ眺め「了解した」と一言言って頷いた。
何時もは後衛と兵站を担当しているが、その実本音では柊が実戦で活躍するのを見るにつけ、あと十年若ければ俺も同じように実戦で働けたのにと羨ましさと悔しさを持ち続けていたが、やっと実戦に直接関われることを素直に喜んだ。
一時前になって、一人暮らしの夜食用にと買い溜めていたインスタント食品を平田に渡すと、柊は「それではよろしく」の言葉を残して拠点を後にした。

再び《食堂ちさ》の前に立った柊は未だ混んでいる店内に入っていった。
客の注文を聞いていた女将はメモを厨房の主人に渡すと、迷わず柊を一番奥の席に連れて行った。
「あんたも水臭いよ。桜田門ならそうと早くに言っといておくれよ」腰を屈めて小さな声で抗議するように柊の肩を叩いた。どうやら徹郎が昨晩の出来事を話してしまったようだ。
腰を伸ばした女将は「何にします」と普通に聞いてきた。

「はい、お待ち」注文した昼定食の盆を柊の前に置くと、又、腰を屈めて「かどわかされた女の子を探しているんだって、で、今度は何を知りたいんだい」興味深そうに笑顔で聞いてきた。その間合いとテンポの良さに言い訳をする暇もチャンスも無かった。
「はい、そのマンションに住んでいる男は何人くらいで、人相や年齢などを聞きたくて」腹を括って真面目に質問を返した。
「人数?それは判んないねぇ。徹郎の話じゃぁ、四、五人って言ってたけど、でも数えたわけでもないしさぁ・・・後は徹郎に聞いてみるしかないねぇ。でも、そんなの調べてどうするの。家宅捜索ってのをするのかい」あくまで刑事だと勘違いして興味を膨らませている。柊はやはりきちんと誤解を解かないと今後も困ることになり兼ねないと、女将に顔を向けた時、「お疲れさま」女将が入口の方に声をかけた。顔を向けると徹郎が前日と同じ格好でおかもちを下げて帰ってきた。
「後は、徹郎に聞いてよ」そう言うと徹郎からおかもちを受け取って奥に引っ込んだ。
改めて徹郎に同じ質問をぶつけると「全員三十前後だと思うよ、年寄りがいない事だけは確かだよ。それに人相たってねぇ・・」首を捻るようにして考えていたが「あっ、あの二人・・」と入口の方へ小走りに向かった。
柊も後に続くと入口で立ち止まった徹郎が顎をしゃくるように「木辺さん、あの男だよ。白い背広上下の男と黒いTシャツの二人がいるだろ」徹郎の視線の先には赤坂見附の方向に歩く二人連れが見えた。
「あのTシャツの方が出前に行くと受け取りに出てくる男だよ」それを聞くと傘立てから傘を抜き取り、ありがとうの言葉を残して後を追い始めた。
しばらく歩くと二人揃ってコンビニに入ったのに続いて柊も店内に入ったが、店内の防犯カメラの位置を確認すると可能な限り死角に位置取りをした。
二人は直ぐに篭を手に持つと別々の棚に向かって商品を篭に移し始めた。買うものを事前に決めている動きだった。
店内は他に二、三人の客がいるだけで柊も目立たぬように商品を見乍ら彼らの顔を順次確認していった。
レジの前でバツの悪そうな顔で会計を済ませると、二人が一つづつ袋を下げて店を出た。柊がレジ近くのガムを手に会計を済ませて店を出ると、五十㍍ほど先を傘もささずに肩を並べて歩く二人を追った。実際、霧のような雨はそれを必要としなかったが、柊は敢えて差したまま彼らの後を追った。
行き着いた先は商業ビルに挟まれ、高さ二㍍弱の白い塀に囲まれた十五階建で間口は二十㍍もあるだろうか黒い大理石で覆われ、フロントは重厚感あふれる高級マンションで入口の右横に徹郎の言っていた《赤坂グランハイツ》と書かれた青銅のプレートが嵌め込まれていた。
白い背広の男が入口の認証器にカードをかざすとこれも重厚な黒い扉が静かに開いた。
奥にあるエレベーターに消えた二人を見届けた柊は何気なく振返って向かい側に建つ雑多なビル群を眺めた。ドラッグストア、コンビニ、レストラン、喫茶店などがそれぞれ特徴を競うように並んでいた。マンションの前を何度も行き来するのは監視カメラに写り込む可能性が有り、丁度斜め前に位置する西欧風の外観を持った二階建の喫茶店に足を向けた。
窓際の席に着くとコーヒーを注文して改めてマンションの外観をチェックしていった。
各部屋からはベランダが張出しているが、表側の道路からの侵入は車や人の通りが深夜まで続くとみられ無理だと分かった。
東側は駐車場への進入路であろうか、地下への通路が口を開けていた。通路の入口は中が素通しのパイプシャッターが下りていて入場時には何らかの方法で自動開閉になっているのだろう。
屋上の状態はここからでは見えず判断しにくいが、これは他のマンションを参考にするしかなかった。防犯カメラは正面玄関横の軒天井に、出入りする人を監視できるのが一台と玄関ドアの上部に道路に向けて設置してあるのが視認できた。更に塀を乗り越える者がいないかを監視するために塀の左右両サイドに一基づつ配置されていた。
その後暫らく観察を続けていたが、やがて席を立つと喫茶店を出て辻を折れ、裏側に回った。裏通りは住宅や背の低い事務所の様な建物が並び、正面の通りよりも少し狭く、車の通りも少ない。マンションの部分は同じ塀が全体を囲み、植栽が多く緑の壁を作っていたが端の方にその一部が刈られて小さな通用門が作られていた。そこからマンションを見上げると窓も少なく中心より少し右寄りに非常階段が屋上まで伸びて、そこにも表側と同じく塀の左右と非常階段を睨んで設置されていた。

祐天寺に帰り着いた時は四時半になっていた。
一階のリビングに入ると平田が旨そうにコーヒーを飲んでいたが、その顔は汗と埃で薄汚れていた。
「おう、お帰り。どうだった?」首尾の報告を待ちかねるように聞いた。
「何とか二人は確認出来ました。マンションの内部まではオートロックになっていて無理でしたが、防犯カメラや非常階段はチェック出来ました」
「そうか・・いよいよだな」呟くように応えて自分を鼓舞するように唇を咬んだ。
柊が着替えをしようと二階へ上がると、家全体の様子が今までと違って見えた。今朝まで他の部屋に在った、通販で買ったのか健康器具らしきものや、ガットの破れた古びたテニスラケット、その他の雑多な廃物と思しき前住人の品々が全て片づけられ、見た目にも小奇麗になり実際に住む住宅の新鮮な感覚が蘇っていた。
それで、帰った時平田の顔が汗と、埃で薄汚れていたのだと理解出来た。それを何も話す事も無く、自然に自分を迎える平田の気配りに無言で頭を下げた。
夜間の行動に備えて早めに食事をした後少し寝ておこうと、ストックのインスタント食品を選んでいた時、《ちさ》で昼食を食べず、更には代金の支払いもしていなかったことを思い出した。多少の心苦しさを感じたが、次回に支払いとお詫びをすることで勘弁してもらおうと勝手に納得させた。



          毎 朝 新 聞 社


毎朝新聞政治部気鋭の記者上野理沙は、総理と秘書官、更には第三師団幕僚長とその部下と思しき人物二名の極秘会談を、選挙の応援取材に来ていたロイヤルホテルで偶然キャッチした日から、その動きを追い始めた。
彼らの動きに彼女独特のカンと取材で何かが動いていると漠然とした疑問から始まったが、未だその相関を捉えられないもどかしさと、二十八歳の胸を熱くさせ、凛々しさを持った男の名も掴みきれない苛立ちで、焦りの色を濃くしていた。
ある日、内村の使う携帯電話の特殊なボタン装置を偶然見たことから、その行動を注視していた時、公邸に政権幹部と警察庁幹部が密かな会合を再三持っていることを察知、内村を介して総理に直接その会合の趣旨質問をする事で、麻薬の大量密輸入撲滅作戦(イレイザー)が進行中であることを掴んだが、新聞発表は総理との紳士協定で事件解決まで伏せられた。
内村秘書官の計らいで、作戦の実行現場である神戸ポートアイランドの特定国際コンテナ埠頭PC十八バースに乗り込み、兵庫県警特殊部隊SATとコロンビアからの運搬船パトリオット号の武装船員との銃撃戦から、100㌔の麻薬の押収までをスクープし、社長賞を受けた。
だが、その影で神戸港の沖合からの長距離射撃によって銃撃戦に終止符を打ち、その直前の尼崎浅井組ビルの爆破による壊滅まで、柊が後方又は直接支援の形で掩護していることは知る由も無かった。
事件後、理沙は社会部の記者から羨望と嫉妬の入り混じった視線を受けた。本来なら社会部が掴まねばならない事案を政治部にスクープされたことで悔しさもあったのだろうが、成り行きとはいえ彼女の動きは注目を集めた。
中でも警視庁記者クラブにいる横田修一は自分より二歳上になる彼女の美貌もさることながら、記事の鋭い切り口と行動力に憧れ、最近は警視庁と国会が近いせいか何かと理由をつけて顔を出すようになっていた。
春分の日の今日は国会も休みで、各議員は選挙区に帰って議会報告だの地元の催しに顔を出すために忙しく立ち回る中、渡辺総理は三権の長と共に宮中祭祀である春季皇霊祭・神殿祭に出席の為、皇居に参内していて記者達は開店休業の状態にあった。
気怠い雰囲気が漂う中、腕時計を見ると正午を少し過ぎようとしていた。その様な折、顔を出した横田に理沙は軽く挨拶をしてデスクの横にある応接ソファーに招き、備え付けのコーヒー抽出器から二人分を淹れてテーブルに置いた。
「横田さん、最近よくこちらへ来られているようですが警視庁の方はいいんですか」と揶揄するように聞いた。「それが、いいようで、良くないような・・・」照れ隠しなのかコーヒーに息を吹きかけて冷まそうとした。
「なーにそれ、いいようで良くないと云うのは」
「それが・・先輩が言うには、何か上の方で動きがある様なんだが、下の連中に聞いても本当に何も知らない感じで雲を掴むような話だと云うんです」
「その上の方というのは誰なの、捜査課長とか・・・」
「いえ、それは下のほうです」
「えっ、じゃぁ上というのは?」
「それが総監とかその辺の動きが、何かいつもと違う気がするという程度で・・・」
「動きが?ただそれだけ。何か大きな犯罪が陰で・・とか、特捜が動いている・・とか、今の話じゃぁ動きようが無いじゃぁない」
「そうなんですよ・・ただ・・・」
「ただ、何なの?」聞いている理沙も焦れてきた。
「そう言いだしたのが磯田さんだったんで・・」
「磯田?磯田太吉さん?彼が言ったの?」畳みかけるように問いただした。
毎朝で磯田の名を知らぬものは無かった。社会部のベテラン記者で確か今年で五十になったはずである。事件への鋭い追求と、読みから書かれる記事は理沙も一目置く存在だった。
改めてコーヒーを手に取るとソファーに深く腰を掛けなおした。
《警視総監が動いていて、肝心の刑事部に目立った動きが無い。それでも総監又はその周辺が動いていると磯田さんは睨んでいる・・総監を動かせるのは警察庁・・五十嵐長官。その長官は昨年の警察内部の内通者摘発から麻薬撲滅作戦に至る過程で、渡辺総理や内村秘書官と密接な信頼関係を築いた。即ち今総監が動いているのは総理か又は内村秘書官からの依頼?》
正に上野理沙自己流の三段論法で推論を導き出した。
ただ、いつものカンで何かあると思うのだが、これもそれ以上動きようが無かった。
突然、携帯の呼出しが目覚ましのように大きく聞こえた。
「理沙、お元気」携帯を耳にあてた途端、明るい智子の声が聞こえた。清家智子とは中学以来の親友で、理沙が父親の転勤と共にアメリカへ渡り、イェール大学から毎朝新聞ニューヨーク支局での五年間を経て帰国後、既に結婚していた智子との交友が復活していた。
昨年末には共通の友人のニューオータニでの結婚披露宴の後、ザ・バーで少し飲んだ時、偶然内村と第三師団の木暮幕僚長(彼が第三師団の幕僚長と判ったのは後の事だったが)とが同席しているのを目撃したことから、昨年の銃撃戦から麻薬撲滅に至るまでのスクープに繋がった。
「お久しぶり、去年のニューオータニ以来ね、元気だった」親友からの電話に理沙も気軽に応じた。
「朝から国会図書館まで来ていて、丁度お昼時だからお食事でも一緒しない?」と言う誘いに少し迷ったが、今日の取材に大した要件は無いと判断して智子の誘いに応じた。
只、同僚の越智には訳を告げて取材を変わって貰った。
赤坂見附駅傍のエクセルホテル東急のロビーで待ち合わせた二人は、智子が直ぐ近くに最近オープンしたイタリア料理店へ行ってみたいと言った時、自分には何の当てもないからと親友の希望を受け容れた。二人は霧雨の中、色彩豊かな傘の波の中を歩き始めた。
赤いレンガ造りの壁が雨に濡れて濃く変色しつつあるビルの階段を上がると、正面の扉がルネッサンス調のヴィンテージドアが重厚さを醸し出し、壁には《リストランテ ルカ》と書かれた小さな看板が掛かっていた。一歩中へ入るとイタリアの教会を連想させる造りになっていて窓には小さなステンドグラスが填めてある。ステンドグラスは本来フランスとかドイツに多くあったのではと、理沙は多少の違和感を持ったが、意外とマッチしているので直ぐに忘れ去った。
「凄いところを知っているのね」と感心しながら席に着くと、「いらっしゃいませ」の声と共に黒い革表紙のメニューが目の前に差し出された。
二人ともお昼だからと食前酒は省き、カルボナーラのパスタと魚料理を注文して、調理の間お互いの生活や世間話に花を咲かせた。賑やかなおしゃべりの最中にパスタ料理が目の前に置かれて一旦話が途切れると料理の味を楽しむ静かな時が流れた。
理沙が何気なく窓外に目をやった時、一人のビニール傘を差した若い男性が目に留まった。男は見ている間、マンションの周辺をじっと探るように見渡し、立ち止まって上を見た。その時、ビニール傘の間から男の顔が垣間見えたが、そのまま喫茶店の中に消えてしまった。
理沙の胸を小さな動悸が見舞った。襲ってきた感情は《何故、此処に》だった。
その男こそ、言葉で表現し尽せない凛々しさを持ち、自身の携帯に今も当時の写真が残る大阪ロイヤルホテルで会った男だった。マンションを見上げる今日はあの凛々しさとは別の濃い翳のある印象が強かった。
「理沙、どうしたの」不意にかかった声に驚いて智子に振り向いた。
「別に、何でもないわ」取り繕うように手に持ったフォークでパスタを掬った。
「ウソ、あの方お知り合い?」冷やかすような口ぶりで理沙の顔を伺うように見つめた。今一度窓の外を見て、通りを歩き去る彼が次の辻を曲がるまで見つめていた。
「背が高くて素敵な方ね、何かスポーツやってる方?」すっかり理沙の彼氏と決めつけた聞き方をした。
「違うの、本当に。去年大阪に出張で行った時見かけた方に、あまりに似ていたから・・・でも、きっと人違いよ。だって名前も知らないもの」智子はいたずらっぽい微笑で疑いの目を理沙に投げかけた。
それからの食事は味の無いものになった。智子が話しかけても上の空の状態が続き、彼女も匙を投げた。
国会の記者クラブに帰り着いてもソファーで携帯の写真を呼び出して、先程の衝撃を思い返していた。何故東京に?何故、あのマンションを?そういえば内村秘書官と木暮幕僚長の二人が出会った時も智子とザ・バーへ行った時で・・・今回、あの男性と再会したのも智子と食事をしようとあのイタリアンへ行ったから・・・智子と二人の時に・・・彼女は私の仕事に情熱を注ぐきっかけを作ってくれる源泉だと、その縁と偶然に感謝した。


          準 備 と 実 行


二人が仮眠から起きたのは夜の九時を過ぎていた。
柊はキッチンでコーヒーの為のお湯を沸かし始めた。平田も自分の部屋から今夜着る新しい服装一式を持って降りてきた。大阪から上京した直後に計画を聞かされ、柊から依頼された装備品以外は自分の下着と洗面道具しか持って来なかったので急遽、柊が偵察行に出かけた後、駅前のスーパーで揃えたものであった。
コーヒーが注がれ、平田が最近の幕僚長の動向や師団の状況などを話し、柊も上京以来の祐天寺での生活や大室の尾行と監視の苦労話を語る等リラックスしたひと時を過ごした。
テーブル上の時計が十一時を告げた。
柊は点検を終えた黒のバトルドレスユニフォームを身に着け、上から同じく黒いタクティカルベストを着こみ、その金具にスターライトスコープ(暗視装置)JGVS―V8に麻紐を通して取り付け、タクティカルライト(サイズは小さいが照射距離が800㍍以上で連続点灯時間が普通の三倍)はベストのW機関専用携帯を入れたポケットに並べて収めた。テーブルの上にはザイル、エイト環、ハーネス、皮手袋そして黒いフェイスマスクが用意され、最悪の事態に備えて接近戦用に愛用のダガー(十年前未だ空挺部隊在籍時、優秀さが認められアメリカ陸軍のデルタフォースへ一年間留学した際、終了時に同じ研修米兵から記念品として贈られたもので優美な全長約三十㌢の諸刃の短剣で、彼らはナイフとは呼ばず単にダガーと呼んだ)を足首に装着した。
平田も真新しい黒のニットシャツの上から上下黒の作業服に着かえて柊の着替えを見守った。一段落して、柊が二階の装備室から英国の特殊部隊(SAS)が制式採用していると云われる腕時計niteを二つ持って来て平田と共に時刻を合わせ、互いの服装をチェックすると揃って外へ出た。
昨夜来の雨も漸く止んでいたが、未だ空は曇っているのか星空は見えなかった。
ガレージの扉を開けると薄汚れた黒いランドクルーザー一〇〇VXが目に飛び込んだ。
これからの夜間行動でナンバープレートを出来る限り読み取られないように、泥で汚してもらうように行動計画の打合せの中で平田に依頼していた作業だった。
柊が帰った時、計画通りに汚されているかどうか確認しようとしたが、その時の汗と埃に塗れた平田の顔を見た時や、部屋の変貌ぶりを見て確認をやめた。先程まで降っていた雨の中、泥道を走って来たかのような印象で見られるのが望ましかったが、目の前の車が答えを出していた。
平田が運転席に、柊は助手席に座るとナビゲートシステムを作動させ赤坂グランハイツにセットした。
十二時少し前、ランドクルーザー一〇〇VXはゆっくりと祐天寺の拠点を出た。
暫らく走って駒沢通りへ出ると西麻布を経て六本木方面に向かった。軽くハンドルを握る平田の運転は滑らかで、前後の車間距離を適正に保ち同乗者に安心感を与える技量だった。通りには深夜というのに未だ多くの車両が行き交うが、矢張り昼間と比べるとトラックなどの貨物車両が多い。ナビは直進を差していたが、柊は六本木の交差点で左折の指示を出した。暫らく走る間にナビの自動補正装置が機能して乃木坂交差点を右折する画面が表示された。行き交う車両も数は目に見えて減っていた。
外堀通りへ出る手前の一方通行を左折すると目的地のⒼマークが画面に現れた。さすがに通りの商店やビルはシャッターが降り、明るく光るのはコンビニや深夜営業の飲食店、バーの色彩豊かな看板だけであったが、柊が指示する裏通りに入ると、約一〇〇㍍間隔で立つ街灯がほの白く真下の道路を照らすだけであった。
平田はランドクルーザーを赤坂グランハイツの通用口の前に静かに停めた。
黒いフェイスマスクを被り腰にハーネスを取付け、八ミリのザイルを肩に柊が滑るようにドアから出て、ランドクルーザーを足場に使って監視カメラの死角から塀の内側に消えた。
相変わらずの素早い身のこなしに感心しながら、前照灯を消し腕時計niteを見ると十二時三十二分を指していた。背中を椅子に預けて、その位置からバックミラーとサイドミラーを調節して、目を動かすだけで両方を監視出来るように微調整して動きを止めた。
じっと待つのは退屈さを伴ったが、柊の車載CDのスイッチを押してみると音楽が流れ出し、曲名は判らなかったがクラシックという事だけは判った。柊の趣味にも感心して静かに流れる曲を聴いて気を紛らわせた。
何曲か聴いた時、バックミラーに揺れる光源が二つ映った。巡邏をする警察官の自転車の前照灯と懐中電灯らしい。平田は午前一時十分を確認して、ライトを点け静かに車を発進させた。サイドミラーに映る警官は懐中電灯を車に向けてナンバーを読み取ろうとしたが、未だ遠すぎることとナンバーは泥で汚れていて光は空しく車の遠ざかるのを照らしていた。
この後の行動はこの辺を周回しながら柊からの合図を待つだけだった。

柊は非常階段に設置してある監視カメラを極力避け、入口に設けられた防犯用の柵に手をかけて押すと簡単に開いた。(七階建て以上のマンションは非常階段の位置に『連結送水管』が設置してあり、外部から非常階段へは鍵をかけず、各階に通じるドアの施錠で対応する様に消防署の指導があり、その場合サムターン式のドアが一般的である)
柊は二五〇段近くある階段を一気に駆け上がった。屋上に出るドアはさすがに施錠されていたが、此処もサムターン式のドアが取り付けられていた為二分近くで開錠出来た。
屋上からの夜空は雨上がりで空気も澄み、かなり遠くまで見通しがきいた。目を下に移すと東側に国会議事堂、正面にホテルニューオータニ、その左には迎賓館が静寂の中に浮かんで見えた。
気を引き締めた柊は屋上を走る給水パイプを見つけ、その本管にザイルを固定して東の端に走った。手元のカラビナにエイト環を取り付け、ザイルを手際よく通すとフェンスを乗り越え懸垂下降を始めた。特殊作戦群で手慣れた一連の動作であった。
十五階のベランダ近くまで降りた時、目的の部屋は未だ煌々と明かりが灯いて、アルミ製の窓は夜風を入れる為か少し開かれ、レースのカーテンは閉められていたが中は透けて見る事が出来た。端の方から室内を覗くとリビングルームらしく広い部屋の中にジャージー姿の若い男が三人笑い声をあげ乍らソファーに座ってテレビを見ているのが見えた。
前のテーブルには女性用の下着や生理用品のような商品がコンビニで買った時のまま包装ごと乱雑に積み重ねられていた。支払いをする時のバツの悪そうな顔が蘇った。
彼等にとってこの時間帯は未だ寝るには早いのか、それとも明日からは週末の土・日曜日で休みなのか・・柊は宙吊り状態でホールドした身体を入れ替えて見やすい姿勢を取ろうとした時、正面奥のドアが開いて別の男が一人中に入ってきた。
それは昼間見た白い背広の男だった。
三人の前に立つと座っている一人にボリュームを下げるように命じた。
「今、兄貴から電話があって明後日(あさって)十時に二人引き取るので、ちゃんと仕度させておけと云う事だ」
「二人って誰と誰を」
「十七と十八が出来上がるだろ、その二人でいこう」
三人が三様に判ったという頷きを返すと男は黙って出ていった。
「チクショウ、あの十八は俺が頂きたかったのによう」残った一人が言うと、隣にいた男が右手で軽くその男の頭を叩いて「バカ、この前もそんなことを言った男が、兄貴から半殺しにあったんだぜ、めったなことを言うな」
「何でなんだよ」頭を張られた男が尚も聞き返すと、もう一人の男が「要するに商品には手を出すなってことさ」たしなめるように言って立ち上がり部屋を出ていった。
廊下の奥はトイレとキッチンでもあるのか、水を流す音と冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえ、しばらくすると男が廊下に現れ部屋に戻ってきた。
先程の男が兄貴からの指示を伝える時、必ず全員のいるところで伝える筈だから、今ここにいる三人と合わせて総勢は四名になる。自らを納得させた柊は屋上へ引き返し、ザイルを纏め終えると専用の携帯を取り出しW⑥を押して呼び出し音が三回鳴った所で切り、非常階段を素早く降り始めた。
下に降りて柊は通用口に走ってドアを確認すると、これもサムターン式の鍵で内側からは簡単に開くようになっている。ドアの隙間から覗いて暫く待つと、フォッグランプを点けた車が辻を曲がってくるのが見えた。
来た時と同じ場所で静かに停止するとランプが消された。カチッと云う音と共に後部ドアが開かれ、柊が音も無く乗り込むと、ランドクルーザーは再び前照灯を点け静かに走り出した。
祐天寺に向かう後部席でフェイスマスクとハーネスを取り去り、助手席に移ってきた柊に何も問いかけず平田は黙って法定速度を守り前方を注視していた。
性急に結果を知りたがる上官が敬遠される事を師団で何度も見聞きしてきた平田は長年の経験で知っていた。
「先任、計画を一日早めましょう」席に座ってからじっと腕を組んで考えていた柊が呟くように言った。
「一日早める?何か拙い事でも・・・?」
「いえ、逆に良い情報が聞けました。春の雨上がりのせいでしょうか、ベランダのガラス戸を開けていてくれたので会話は殆ど聞き取れました」
「なるほど、それで女性の人数は確認できたのか」
「いえ、女性はこの時間帯ですから確認できませんでしたが・・」と先程見聞きした状況をありのまま報告した。
「そうか、それで明後日の十時に引き取ると云う事は、女性を二人引き取って別の場所に移すと云う事だな」
「そう解釈しても良いと思います」
「それと、その十七と十八と云うのはどういう事だ?年齢か?」
「年齢か若しくは拉致した日のどちらかじゃぁないですかね。或いは彼女たちの背番号か」柊も未だ確信が持てない数字だった。
「それで、一日早めて明日の・・・と云うより今日の夜中?いや、矢張り明日か・・・」日付の変わり目で平田も戸惑った。
「そうです、だからこのまま帰ってもう一度打ち合わせをしましょう」
「判った。しかしとんでもない連中だな。商品だとか、まるで物を扱うように・・・」話を聞いて怒りに燃えた眼で前方を見据えたが、運転の調子は全く変わらず祐天寺に帰りついた時は四時を少し回っていた。
ガレージに車を入れた二人は後部座席に置いたフェイスマスクやハーネスを取り出すと、そのままリビングに入り、平田はサイフォンでコーヒーを淹れ、柊は風呂場へ行って湯を入れ始めた。無言のまま服を着替えた二人はソファーに座り、交代で風呂から上がると直ぐにプランの再検討を始めた。
初めの計画では、二日かけての入念な偵察で男女の人数を確定させ、間取りを把握し、捕われている女性の状況も知りたかったが、明後日の朝に別の場所へ移される事や男の人数が判っただけでも収穫だった。
時は待ってくれなかった。
作ったプランを一日前倒しにするだけで良かったが、昨年の浅井組殲滅の時の様に一挙に葬り去るという行為は、今回の集合住宅ではどうしても無理が有った。
麻薬漬けにされている彼女たちが万一修羅場を目撃した場合、二重のショックを受けかねない事と、計画終了後に来る警察に余計な警戒心を持たれてその詮索がより強くなることは避けたかった。
しかし柊にとって四人との戦いが一番大きな課題として残った。

充分な仮眠をとった彼等は昨日と同じ九時に起き、同じようにコーヒーを淹れ、リラックスした時間を過ごした。十時半になって無言で装備を着け時計を填め、互いの装備を点検するのも同じだった。違っていたのは柊がプラスチックカフをタクティカルベストの別のポケットに収め、平田が念のためにと柊から託されたメモリーレコーダーを胸のポケットに収めた事だった。
二人が大きなバッグを手に持ち、出発の時間も半時間早めた。それは計画を再度練り直した時、今回は平田も屋上まで同行してもらわねばならない事で警官の巡邏時間によっては道路駐車が問題になった。現場近くの二四時間駐車場に入れる案も検討されたが、現場と一番近い駐車場でも一〇〇㍍は離れていて、今晩の服装では無理があると判断した。
本来ならばもう一日偵察の時間を取って、巡邏のサイクルも掴みたかったが初日の偵察で事態が急進展した事を受け、今日決行せざるを得ず、改めて制圧時間を入室後四十分と設定した。
平田の報告で、昨夜の現地離脱の時間が午前一時十分との報告を聞き、地元警察の巡邏を少し余裕を見て午前一時とすれば、そこから逆算して午前〇時が我々の侵入前の巡邏になると想定して、出発を昨日より半時間早めたのである。
救出目的である女性の容態も気になる点であった。もし歩行も困難で抱えて階段を降りるとすれば、それも時間ロスの要素になると思われた。従って現地での行動時間は一時間として躊躇やミスは許されず何よりも平田との連携が一番の要素になるが、その点に関しては全く心配しなかった。
今夜は花曇りと云うのだろうか、やはり星や月は見えなかったが雨の心配は無かった。
ガレージを開けると柊は車の前後に回り込みナンバープレートの泥が昨日走ったことで剥落していないかを確認した。雨上がりを走ったせいか泥の付着は少し増え、ナンバーも前後とも読み取りが難しい状況に満足した。
昨日と同じコースを辿って現地の数百㍍手前から赤坂グランハイツの通用口のある裏道へ入った。通りに人影は無く街灯が道路を薄明りで照らしていた。
柊が助手席から無言で前方を指さした。平田が目線を上げると、街灯の電球が切れているのか、一部道路が暗くなっているところがあった。
平田は軽く頷くとその暗くなった場所に幅寄せをして車を停め、エンジンを切った。この場所は昨夜警官の曲がってきた辻から七~八十㍍後方に位置していて、時計を見ると十一時四五分過ぎだった。
車の横を足元が少しふらついた二人の酔っ払いが肩を組んで通り過ぎ、車の中を覗きこむことも無く赤坂見附方向にヨタヨタと歩いて行く。
時計を見ていた平田が「予定を一分過ぎた。来ないようだな」と囁くように言ってイグニッションに手を伸ばした時、その腕を柊の手が抑えた。
前方の辻の前の道路が明るくなり、次第に大きな円状に広がり始めた。懐中電灯を手に持った警官が酔っ払いの後をつけるように自転車で走り去った。彼等が視野から消えたのを確認するとランドクルーザーも前照灯を消したまま移動して昨日と同じ位置に停めた。
零時四分に両方のドアを出て、車のボンネットから屋根を使って塀を乗り越えた。
階段を上り始めて柊のスピードと平田のそれとは圧倒的な差が開いたが、無視してピッチを上げて行く。平田も着実なスピードで後を追った。
屋上へあと一階となった所で柊は立止まって非常ドアに取りついた。昨夜の経験から一分ほどでサムターンは解除されたが自動施錠を防ぐ為、デッドボルトに紙を挟んで静かに手を離した。下を覗くと平田が二階ほど下を着実に昇って来ていた。それを認めると、床に置いたザイルを手に屋上に向かった。
平田が漸く屋上のドアを開けた時、柊は屋上の手すりを乗り越え懸垂下降で降りだしていた。窓の上端でホールドして内部を覗き込む。昨日と同じように半開きになったレースのカーテンがかすかに揺れ動いている中、二人の男がテレビでビデオ映画に見入っていた。
ホールドの状態を解くとそっとベランダに着床し男達の左斜め後方に位置した。
そのままの状態で室内を覗いつつエイト環を外した。

屋上ではロープを手にかけ平田が下を覗き込むように見ていたが、柊がベランダに降り立つと弛緩したロープを手繰り揚げ、給水パイプに括りつけられた結びを解いて左肩に担ぐと階段を駆け下りた。
先程柊が開けておいたドアを静かに押し開け、真っ直ぐに伸びる廊下を覗って一五〇一号室まで這う様に進み、廊下と玄関の窪みに身体を入れ‘誰も起きないようにと祈るように佇んだ。

他の男がトイレに行っているのか窺って暫く見守っていたが、この場所から見える室内のドア越しに何の兆候も無かった。意を決した柊はベランダの窓枠に手をかけ一気に部屋に飛び込み一番手近の男に近づくと、音に気付いて振り返った男の水月に空手で云う正拳を打ち込み、素早く掌底突き(正拳突きやパンチ攻撃などと比べ、打撃対象の内部に浸透する重いダメージを与える技である)を入れた。
鈍くアバラの折れる音と共に男が足元に崩れ落ちた。驚いた顔を見せたままの、もう一人の男に素早く体を寄せると前蹴りで相手の下腹を攻撃して、前屈みになるところに膝蹴りを水月にヒットさせた。ものの十秒もかかったであろうか二人目の男が倒れる音で、残った男二人が廊下の先に飛び出してきた。
百八十㎝を超す大きな男が二人を屠り、リズミカルで跳ぶような素早い動きで、出てきた男達に対峙した。フェイスマスクの奥に光る眼はそれだけで相手を射抜かんばかりに鋭く、容赦のない気迫が噴き出しているように見えた。
二人は稼業柄数々の喧嘩や修羅場にも出会ってきたが初めて恐怖を感じた。
間近に男の眼が迫った時、戦意は萎えていたが、それでも倒された配下の手前、意地を見せ「てめぇ、俺たちが誰か知ってんのか」凄んでみせたのは昨日の白い背広の男だったが今は派手な赤いジャージ姿だった。後ろに立っている黒いプリントのTシャツ男の手には夜食を作っていたのか包丁が握られていた。柊が冷たく鋭い視線を男達に向けた。
「吉津会の若い者と云うくらいは知っているが、お前たちの名前までは知らないし知ろうとも思わない」冷たく言い放った。
赤いジャージ姿の頭の中で慌ただしい推理が始まった。《余所の組の者か?縄張り荒らしか?・・しかしその様な者で無い事は既に判っていた。では誰だ?・・・何も解らなかった》と、後ろに控えていた男が「てめぇ」と一声叫ぶなり包丁を振りかざして切りつけた。彼らの普通の喧嘩や出入りでは相手がたじろいで一歩引くか、背を見せて逃げ出すのが普通だが、フェイスマスクの男は逆に一歩踏み込んで突かれた刃を間一髪で避けると、空手の技に見る振り打ちの様に男のこめかみに強烈な一撃を与えた。男は横にあったソファーに激しく昏倒するとそのまま動かなくなった。
赤いジャージ姿はかつて見たことも無い圧倒的な攻撃力を目の当たりにして一気に戦意を喪失した。今までの渡世で、このようなスタイルの男に出会ったことが無く、これほどの恐怖を味わったことも無かった。
「何が目的だ」静かに精一杯の虚勢を張った。
その言葉に柊も、ジャージ男が抵抗の気配を消したのを感じ取った。
油断なく周囲に目を配ると「手を後ろに回して向こうを向いてもらおう」と静かに告げた。タクティカルベストからプラスチックカフを抜き取ると男の左右の指を括ってその場所に座らせ、足の両方の親指も同様に括った。
「そのまま静かにしていてもらおう」一言言い残し、各部屋や奥のキッチンまでチェックした後、玄関に回ってチェーンロックを外してドアを開けた。
同じフェイスマスク姿の男がロープを肩に立っていた。
二人揃って室内に戻ると、平田が床やソファーに転がっている三人の手足にプラスチックカフを填め、それぞれを抱えるようにしてソファーに並べ、各々のポケットを探った。
赤いジャージの男のポケットから出てきた白い粉末の入った小さなポリ袋はテーブルの上に並べたが、一袋だけ自分のポケットに仕舞った。柊はその男を立たせ、タクティカルベストから携帯を取り出し綾乃の顔を呼び出して見せた。
「この女性の部屋は何処だ」静かに問いかけた。
男は暫くじっと写真を見ていたがやがて「十八の女だ」呟くような声で言った。
「十八の女?それは昨日お前が十七と十八の女が出来上がると言っていたが、それはどういう意味だ?」静かな声で問われ《昨日?この男たちは昨日もここに居る俺達を見張っていたのか》新たに知らされた事実は改めて背筋が凍るような恐怖をもたらした。
「十七日と十八日に攫った女で、丁度薬(やく)に染まった頃だと云う意味です」喘ぐように言う男の声は震えはじめた。
「その後彼女たちはどうなるのだ」先を促すように尋ねた。
「それから後は・・・・」その先を喋ってしまう事に躊躇を見せた。柊は暫らく男の目を見つめていたが、バトルドレスユニフォームの裾からダガーを抜き出し、手を後ろに括り、座らせた男の腿に刃先を置き躊躇無く押し込むように刺した。
「うわっ」吠えるように膝を庇い苦痛に耐えるが、ジャージの腿が血に染まり、次第に広がりを増してゆく。下から救いを求めるような目を向けたが、冷ややかに見つめ返すその眼に耐えられなかった。
「兄貴たちが政府や役人の夜の世話をさせるって聞いてます」歯を食いしばって鳴くように応えた。
「お前等は彼女達に手は出さなかったか?」昨夜の偵察で商品には手を出さないと聞いていたので、大丈夫だと思ったが確認のために聞いた。
「それは、不良品が出るとうちの信用に関わると言われて・・」
「それでも悪戯をする者がいるのじゃぁないか」尚も追及した。
「半年前に一度、手を出した奴がいてエンコを詰められて・・だからしてません」苦悶の中で絞り出す様に答えた。
それからは兄貴と言われる男の名前や移される別の場所はどこにあるのか、兄貴との連絡方法は、更に残りの麻薬の隠し場所は、次から次へと浴びせられる質問に男は観念したように素直に吐いていった。
横にいる平田のポケットでメモリーレコーダーが動き、話が一段落した時、時計を覗き込んだ平田が一時十五分前を差している文字盤を柊に見せた。
「十八の女性の所へ案内してもらおう」と相手の胸ぐらを掴んで立たせた。
痛さに顔を歪めた男はカフに括られたまま両足を揃えて立ち上がり、柊の脇を持つ手に支えられ、うさぎ跳びの様にドアを抜けて二つ並んだ部屋の手前に立った。
平田に奥の部屋も見てもらうように仕草で合図して、柊は男の立った部屋をそっと開けた。
真っ暗な部屋は廊下の灯に照らされ仄明るくなったが、かろうじてベッドが三つ並んでいるのが見えた。ドアの横のスイッチを押して灯りを点け「十八番は?」の問いに「一番奥です」出血する足を押さえて男は、目を奥で寝ている女に向けた。
手前の女性二人は物音と明かりで目が覚めたのか、薄目を開けてこちらを覗うように、呆けた顔を見せていたが、奥のベッドに上向きで軽くシーツを首までかけて眠る女性に、柊が写真を見ながら近付いた。
戸口の物音で振り向くと、平田が入ってきた。
「三人いたよ。まだ眠っていたからそのままにしてある」隣室の状況を報告した。
「このお嬢さんで間違いないですね」言いつつ再び寝顔に見入った。
「引き上げるか」平田の言葉で柊はそっとシーツを取ろうとしたが、気配を感じたのかシーツの先を強く握って綾乃の目が開いた。
目の前の黒いフェイスマスクに驚いたのか、更に強くシーツを握りしめた。
「驚かせてごめん、怖かったですか?大丈夫ですよ、助けに来ました」赤いジャージ姿に見せた鋭い視線は消え、柔和な目を向けた。
それでも未だ眉間に皺がより不安の眼差しで見つめ返していたが、やがて握る力が徐々に弱まるまで辛抱強く待った。シーツの下は青いジーンズにベージュのコットンシャツと云う内村の情報通りの姿だった。
「シックス」W機関の呼称で平田を呼んだ。
「手筈通り彼等をお願いします」言葉が終わると同時に平田が足を血に染めた男を後ろから持ち上げるようにリビングへ運び、ソファーに三人並ばせると新しいカフを取り出してそれぞれの足の小指を二人三脚の様に括って転がした。
後ろ手に指を括られ、両足も親指同士を括られたうえ、各々の小指同士を括られると数歩を歩くことも不可能だった。
柊達が玄関から出た後、カフで括られていても個別に動ければ玄関まで這って行き、ドアを開けることも可能だと判断した事前の打ち合わせ通りだった。
漸く、何とか説得できた綾乃を左肩に担いで、二人が玄関ドアに揃ったのが一時五分前だった。
平田が土間に有った黒いリボンがあしらわれた白いパンプスを見つけ、手に取るとドアを細目に開け、左右に人の気配が無い事を確認すると非常階段目指して走った。
打合せではエレベーターを使う事も考えたが、バトルドレスユニフォーム姿や女性を抱えたままでは、真夜中とはいえリスクが多すぎると非常階段を選択した。
平田が先頭に立ち降り始めたが、女性を抱えた柊が逆にスピードを緩めねばならなかった。
しかしこれは万一、柊が躓いても平田が緩衝剤になるとの判断だったから、やむを得ない事でもあった。平田は内心、年を取ったことを実感しつつ、何とか巡邏の警官が来る前に車まで辿り着けるよう全力で駆け降りた。
通用口から人通りの消えた道路に出ると先ず綾乃を後部座席に乗せ、ロープや靴を放り込むと、柊が運転席へ飛び込むように乗りエンジンをかけた。
バックミラーを覗くと今正に懐中電灯を持った警官が折れ曲がって追うように向かってきた。フェイスマスクを脱いだ二人が顔を見合わせ、安堵の笑みを交わした。
車内が落ち着くと平田が後部座席に移り、不安そうに見つめる綾乃に寄り添って肩に手を回し簡単な経緯と状況を、ゆっくりと諭す様に話し出した。
ランドクルーザーは赤坂見附から三宅坂の右手前を霞が関ランプに向けて高速道に入ると、
自動速度違反取締装置(オービス)やHシステムに掛らないように、帽子を目深にかぶり細心の注意を払い、用賀を過ぎるとスピードを徐々に上げた。
この時間帯はやはり貨物自動車が圧倒的に多かった。
柊は携帯をハンズフリーにセットして110番を呼びだした。
『事件ですか事故ですか』と呼びかける声を無視して「赤坂グランハイツ一五〇一号室に拉致された女性がいます。助けてあげてください」そう言うと電話を切った。
警視庁通信指令センターの守備範囲がどこまであるのか知らなかったので都心を出るまでに知らせておきたかった。
夙川まで約五百二十㎞のドライブが始まった。


          赤 坂 グ ラ ン ハ イ ツ


赤坂グランハイツの前は深夜にも拘らずごった返していた。
周辺には規制線が張られ、野次馬と報道陣がぐるりと玄関を取り巻き、投光器に明るく照らされ、出入りする人間を撮るフラッシュが途切れる事なく瞬いていた。入口のドアは自動が解除されて開け放たれたままで、そこを鑑識班や刑事たちが忙しく飛び回っていた。玄関前には救急車の白い車体が三台、玄関を塞ぐように並び、その周りを取り囲むようにパトカーが十台近く雑然と停められていた。
警視庁と麻布警察署の捜査一課の刑事達が現場を出入りする中、麻布署の近藤課長がバインダーの書類を見ながら、先頭の救急車の横で、二人の女性を収容した直後の救急隊員と話をしていた。
「間違いなく女性は五人だけだったんだね」念を押すように隊員を睨むように見た。
「間違いありません」返った言葉でバインダーに目を戻すと首を傾げた。
警視庁からの深夜の連絡で事件の概要を知らされた時、秋月綾乃さんを含めた六名が無事発見されたと信じ込んで来たが、救助されたのは五名で、その中に秋月の名は無かった。
今年に入ってから動機不明の行方不明者六名のうち五名は氏名まで一致していた。
不幸なことに五人共麻薬を打たれて意識も薄い状態だという。
今回の拉致に関しては殆ど自分の推測が間違っていなかったと思ったが・・・何故彼女だけいないのか・・・改めて通報からの経緯や、現場の状況を精査する必要があるとマンションの中に戻った。
入れ替わるように十数人の刑事たちが玄関を出て二人一組で周辺の聞き込みに散って行った。鑑識班は現場や、玄関の周辺、非常口周辺、屋上などに配置され証拠の保全、収集に当たっていた。一階にある管理人室では監視ビデオが全て回収され警視庁に運ばれた。

朝の五時になってTV、ラジオの報道各社が事件の一報を流し始めた。未だ、詳細を掴みきれない報道は五人の行方不明だった女性が赤坂のマンションから救出された事実だけを伝えていたが、詳細が掴めて来た六時にはセンセーショナルに報じ始めた。
食材の生鮮食料品の仕込みで市場から帰ってきた《食堂ちさ》の女将はテレビを点けて六時のニュースに見入った。
一昨日からの今日である。木辺と結びつけるのに時間はかからなかった。店内の椅子に座りなおして食い入るように拉致監禁の報道を見乍ら、あの木辺がこの事件にどのように係っているのか漠然とした興味を持った。
突然入口に人影が差して男が二人店に入ってきた。先頭の男が懐から何か取り出すと、それを見せながら「警視庁の者ですが」と女将に言って、テレビの報道に目をやった。
「実はこの事件で」と画面を指し「昨夜から今朝にかけて不審な者や車を見かけなかったでしょうか」と聞いてきた。
「さあ・・・何も気がつかなかったわねぇ」刑事二人を見乍ら応えた。男たちはお互いに目顔で頷きあうと「何かお気づきになったことが有ればこちらに連絡ください」と名刺を渡し出て行こうとした。
「あのさ」呼び止めて「おたくの刑事さんで木辺さんって云う方いらっしゃる?」単刀直入に聞いた。
一瞬考えるような仕草を見せた男が「いえ、そういう者は居ませんねぇ。その木辺さんていう人が何か?」と逆に質問した。
「いえね、知り合いの甥っ子が刑事になったって聞いたから、もしかしてそちらにいるのかなって・・・」はぐらかすように応えて笑った。
刑事達が立ち去った後、報道をジッと見ていた千佐子は木辺の立ち位置に個人的な興味を持ち始めた。

神楽坂の芸者の私生児として生まれた千佐子は、なるべくして芸者の道を歩き始め、売れっ妓となって毎夜酔客を相手に三十歳を迎えようとした時、将来に不安と迷いを抱えていた千佐子は一人で新宿へ飲みに出かけ、赤坂から飲みに来ていた新井吉蔵という男と成り行きで一夜を共にしてしまった。数か月後千佐子が身籠ったと知った吉蔵は黙って聞き終わると所帯を持とうと一言言ってくれた。赤坂で食堂を営んでいた吉蔵は千佐子と所帯を持つと、客の仕切りはお前がやれと言って厨房に立ち、店も《食堂ちさ》と名を変えてくれた。その男気に二度惚れした千佐子は、酸いも甘いも噛み分けた女将と評判になり今まで以上に店を盛り立てた。
吉蔵の元に飛び込んで二十二年の歳月が過ぎ去った。
今年になってから毎日のように食べに来てくれる木辺に、女将は現代に見る若い男達とは全く違う昔気質の男の匂いを感じていた。無口な男で一見不器用な一面を見せるが、繊細な神経で人に接する男だと思っていた。それは若い時の吉蔵の匂いと同じだった。

刑事と入れ替わって、吉蔵と徹郎が並ぶように店に入ってきた。壁に掛けてあった料理人の白衣と前掛けを取って吉蔵に渡しながら朝の顛末を二人に話した。
「じゃぁ、木辺さんって刑事じゃないんだ」徹郎が失望したように呟いた。
「そうみたい。だけど・・悪い事をする人にも見えないよ」同意を求めるように吉蔵の顔色を窺った。
「あの面(つら)は悪さをする顔じゃぁねぇ」吉蔵も同調するように呟いた。
とにかくもう少し様子が判るまで木辺さんの事は黙っていようという事に意思を同じくした三人は開店の準備に厨房へ入った。


          夙 川 病 院


未だ暗い闇の東名高速道路を一路西へ向かう柊と平田は車内で、祐天寺を出る時に持ってきた大きなバッグに入れた普段着に着かえた。
後ろの席で眠る綾乃は当初、柊たちの会話に敏感に反応していたが、トイレ休憩で立ち寄ったSAで買ったペットボトルの水を渡すと奪うようにして一気に飲み干し、そのまま寝入ってしまった。麻薬中毒者はのどが渇いたり手足をやたら掻く兆候がある事を聞いていた二人は静かに見守るだけだった。
日曜日とはいえ、夜の高速は多くのトラックが前後を行き交い気の休まる運転は出来なかったが、五時三十分過ぎに無事養老SAに滑り込んだ。駐車場の一角に車を停めると平田が一人で水や朝食の為の買い出しに車を降りた。
柊は再び携帯をハンズフリーにセットして夙川病院の和田敏一医師の自宅に架けた。
昨年、麻薬密売の元を絶つべく夙川で組長を尾行中、篠突く雨の中で柊は腹部を狙撃されて窮地に陥った時、それを救ったのが最愛の娘を麻薬過で亡くした和田敏一夫妻だった。
その後彼等の行動に麻薬撲滅の高い志を汲み取り、陰ながらの支援を夫婦で申し合わせた。
柊も、その様な熱い思いを受け、次第に夫妻を民間の協力者として認知するようになっていた。
暫らく呼出しの音が続いたが、やがて受話器を取る音が聞こえ洋子のはきはきとした声が耳に飛び込んできた。
『はい、和田でございます』
「先生、ご無沙汰しています。日曜日の朝早くに申し訳ありません」
『柊さん、柊さんでしょう?お元気でした』被せるように華やいだ声が弾んだ。
「お陰さまで元気に過ごしています。院長ご夫妻や副院長もお変わりないでしょうか」
『えぇ、みんな元気ですよ・・それでいかがなさったの?』
「実は・・」と今回の経緯を要領よく話した柊は「それで今、そのお嬢さんとそちらに向かっている途中なんですが、ご迷惑でしょうがそちらで治療をお願いできればと思っています」と続けた。
『迷惑だなんて・・まぁ、では東京から・・それで今どちらなの』
「今丁度、養老サービスエリアに入った所で、そちらに着くのは七時半か八時ごろになると思います」
『まぁそうなの・・大丈夫よ。でも病院の方は、今日は休診だから・・・そうだわ、今建築途中だけれど恵涼苑の方なら病室は出来上がっているから、そちらの方がいいわね。ちょっと待って・・いいかしらそちらの住所言うわよ』柊はメモを取り出して住所を書き出した。
『覚えていらっしゃる、あなたの奥様とうちの娘の名を取ってつけた心療患者の治療棟がほぼ完成したの。その綾乃さんて言う方が第一号の患者さんよ。そちらでお待ちしてるわ。でも、あなたも一晩中運転し続けじゃぁ疲れていない?気を付けてね』柊達を気遣いつつ電話を終えた。
ナビに恵涼苑の住所を打ち込んでいるときに平田が買い出しから戻った。
ナビに現れた夙川病院の画面を見て「久しぶりだなぁ、先生方はお元気だったか」
「えぇ、洋子先生と話をしたんですが快く引き受けて頂きました。それに綾乃さんは新しく出来た恵涼苑の方で受け入れてくれるようです」
「そうか、良かったなぁ。恵涼苑と言えば確か精神科と心療内科を作って麻薬やPTSDなどで悩む患者を救おうという病院だろ」
「そうです、精神科という言葉は患者さんには何か抵抗感があるので、ただ単に恵涼苑というだけで宣伝もしないからこれからが大変だと副院長も仰っていました」
「先生方もお嬢さんをあのような事故で無くされたから、心から麻薬を憎むようになって損得を抜きに治療院を造るんだといっておられたものなぁ」昨年の末に西宮のヨットハーバーでの話を懐かしむように平田が呟いた。
今度は平田が運転席に座って静かに車を発進させた。
暫らく走って彦根のインターチェンジを過ぎ、前方に多賀SAの案内板が見え始めた頃、ようやく空が白み始めた。時折後部の綾乃を見るが、よくもこれだけ眠れるものだと思うほど眠っていて、時折なにか呟いて目を覚ますと水を欲しがった。
「運転しながら日の出を迎えるのも久しぶりだなぁ」師団での訓練時代を懐かしんで平田が呟く横で、柊が腕時計を見て時間を確認した。
「六時なら内村さんも起きているでしょう」と携帯を取り出した。
早く、昨夜の成果を報告したかったのだが深夜ではとの遠慮もあって計画の中で、六時に連絡と書き込んでいた。
『W②』という確認を耳にして、昨夜からの経緯と夙川病院を選択した理由を細部にわたって報告し、今の現在地を告げ「それではよろしくお願いします」それだけ言うと電話を切った。

名神高速道路の終点である西宮ICを出ると国道四三号線に入り、数キロ進んで、建石町の交差点を北に上がって行く。ナビの示す道を平田が綾乃を起こさぬ様、慎重なハンドル操作で、二号線を横切り山手幹線の寿町北を左折すると阪急夙川駅のロータリーに出た。高架になっている駅の下を尚も北に進むと、やがて懐かしい夙川病院の姿が右手に見えてきたが、ナビは未だその先へと車を誘導した。
閑静な住宅地の中を走り、電柱に松生町の標識が見え始めた時、先の公園の横にナビのGマークが映った。柊がナビから目を移すと真新しい三階建てで、外装が白いタイルの建物が飛び込んできた。近づくにつれて外構工事が未完成で、敷地全体に敷かれた芝生も三分の一ほど張り残しがあった。
日曜日で工事も控えられていたが、緑の中の白い建物はいかにも清潔な佇まいを見せていた。建物の正面と思われる開口部から車を静かに乗り入れてエンジンを切った時、時計は七時四十八分を指していた。五二〇㌔約八時間の旅が終わった。

建物には大きな看板も無く、正面の右横に欅であろうか幅一㍍高さ五〇㌢の板に、手描きで墨の痕も鮮やかに恵涼苑と書かれていた。
間口が四㍍近くあるアルミ製の自動ドアが開いて上下白のユニフォームに身を包んだ和田夫妻が、空の車椅子を押した看護師長の鏑木良子を伴い微笑みを浮かべて現れた。
鏑木は柊が手術を受けた時の看護師でもあった。
車を降りた柊は真っ直ぐ和田夫妻に歩み寄り深々と頭を下げた。鏑木はその横をすり抜けて車椅子をランドクルーザーに近づけ、平田が後部ドアを開けて綾乃を優しく掬うように抱き挙げ車椅子に移し、その上に良子が優しく毛布を膝に掛けた。
一階の奥にある診察室に移された綾乃は早速洋子の診察を受け、柊たちは敏一と共に院長室に移って東京での経緯を再び話した。
「何と云う事だ」聞き終わった敏一は隠そうともせず怒りを露わにした。
「しかし柊さん良く救い出してくれました。綾乃さんと言ったかな、あの娘(こ)はきっと私たちで治しますよ。そのためにこの病院を造ったんだからね」決意を新たにするように柊たちに頷いた。
入口のドアが開き、洋子が入って来て敏一の横に座った。
「彼女、今良子さんが三階の病室に連れて行ってくれたわ。綾乃さんは症状の程度で言うと〈離脱症状〉ね、お電話でお聞きした限りでは最低でも昨夜、いやもう今日か、の一時ごろからは薬物の摂取はしていないわけでしょ。だからもう少し経過を診てみなければ解らないけど、恐らく〈禁断症状〉が出ても軽微なものよ。きっと治る、いや治して見せるわ」敏一と同じことを言って微笑んだ。
柊の横に控えていた平田がポケットから小さな包みを取り出し「これは赤坂の現場にあった薬で恐らく綾乃さんが打たれていたものと同じものだと思うのですがお役に立つでしょうか」と洋子に手渡した。受け取った包みには白い粉末が見えた。
「ありがとう、これが有れば助かるわ。一応検査はしてみるけれど成分を見極めるのに大変役に立ちます。それよりあなた方は疲れたでしょう。何ならもう一部屋用意させるわよ」気遣いの声をかける洋子に「いえ、平田さんは今から伊丹へ帰らなければならないので、送って行って、自分はそのまま東京へ帰ります」と頭を下げた。
「そうなの、それは残念ね、でも貴方たちは私たちの恩人でもあるのよ。何時でもいらしてね」
優しく言葉をかけた洋子は思い出したように胸のポケットから封書に入ったものを取り出して柊の手に渡した。「それはね、あなたが東京へ当分の間単身で行くって言われた時、又危険なお仕事じゃ無いかと思って、この前西宮の廣田神社でお守りを頂いてきたの。あの神社は何でも何百年も前に国難にあった際、時の武将がその戦争に勝って凱旋された時、母親がこの神社を建てられたことで、勝利の神様として祀られてきたらしいのよ。次にお会いしたら渡そうと思って・・・」屈託なく笑った。
柊は咄嗟の事に驚いて戸惑い気味に受け取った。その不器用な仕草を見て、洋子は彼の真摯な姿勢と行動を信頼したことに一層の自信を深め息子を見るような微笑みで応えた。
一時間と少し居ただけだったが、柊たちは安らいだ気持ちで夙川を後にした。綾乃をここに連れて来て良かったと何度も思い返した。
平田を伊丹の官舎まで送った柊はそのまま名神に入り、内村に洋子医師の初診の報告をすると東京までの仮眠と食事をどのSAで摂るか頭を悩ませた。


          総 理 官 邸  


朝の六時に柊から昨夜来の説明を受けた内村は朝食も摂らずに官邸の執務室に入った。
少し早いと思ったが吉報を知らせるのは早い方が良いと、公邸への直通電話に手を伸ばした時、総理が秘書室のドアを自ら開けて内村の顔を見た。
立ち上がった内村が小走りで総理の執務室に入った。
「それで、どうなった」その後の推移を聞くべく心配そうに内村を見つめた。
「はい、実は昨夜急展開が有りまして、綾乃さんは無事に救出されました」結果を先に報告した。
「なに!本当か」叫ぶように声をあげると、たった今深く腰を下ろしたソファーから身を乗り出した。
「はい、先程柊君から連絡が有って、顔も服装も確認して間違いないと言っております」
「良かった・・で、綾乃さんは今どこにいるんだ。もう、秋月さんには連絡したのか」畳み掛けるように内村を睨んだ。
「いえ、それも含めて総理にご相談したいとお待ちしていました」
「それも含めて?一体どういうことだ」理解できないというようにテーブルに手をついた。
「実は、二十日の夜、私が与えた綾乃さんの服装などの緊急情報と、その日の昼間柊君が偶然赤坂の食堂で聞いた情報とを結び付けて間違いなさそうだと判断したものの、万が一別人だったらという危惧があり、その相手が反社会勢力だと云う事情を考えて・・・」と
先程聞いた柊からの話を誠一郎に伝えた。
黙って内村を見つめて聞いていた誠一郎は「しかし、ただそれだけの情報で彼は今回の監禁に結び付けたのか」尚も腑に落ちない思いで聞いた。
「彼は僥倖と偶然が積み重なったと云っていましたが・・・」内村も自分の気持ちの中の驚きを隠せなかった。
誠一郎は再びソファーに深くかけ直し腕を組むと、今の内村の報告を胸の内で反芻しながら考え込んだ。
やがて、自ら納得をしたのか内村を見て「それはそうかも知れないが、常に周囲への注意力や身辺の些細なことにも気を抜かず、情報のパズルを組み立てる能力が無ければ僥倖というものは向こうから歩いて来るものでは無いと思うね」と呟くように言った。
内村は自分の思いも込めて大きく頷いた。
「それで、相談というのは何だ」と改めて問いかけた。
「はい、私も直ぐに秋月さんに連絡をと思ったのですが、きっと今どこにいるのかと聞かれると思って・・これは先に総理に相談してからの方が良いと判断しました」
「何、それじゃぁ今どこにいるんだ」
「西宮です」間髪を入れずに応えた内村を誠一郎は唖然と見つめ、やがて「西宮?どういうことだ」と静かに内村に問いかけた。
「それは、彼は今回の自分の任務がどういうものか、その遂行に対して留意すべき事は何か、を完全に理解してくれています・・つまり、総理の盟友でもある秋月家のお孫さんが拉致されたことは極力、世間、特にマスコミには知られたく無い事。今回お孫さんも含めて六人の娘さんを発見、救助したわけですが纏めて通報すれば、当然同じ病院に収容されることになり、お孫さんの名前がマスコミに流れ出すことは必然になります。その場合特にマスコミはお孫さんを一番のニュースとして取り上げる事もまた必然です。現場で見る限り全員麻薬を打たれて中毒症状が出ていたので、報道によってPTSDなどの後遺症がより一層顕著になることが想定されるので、独断でしたが思い切って現場とはかけ離れた西宮を選択したと云っていました」一気に柊の報告要旨を話した。
「柊君の報告には私も合点がいって、良い選択をしてくれたと思ったのですが、秋月氏にはどう報告すればよいかと考えた時、素直に報告すれば我々と柊君の関係が露呈してしまいます。しかし秋月さんに無事を知らせないわけにもいけません。それが相談したいことの第一です」と今後の対応を誠一郎に問いかけた。
内村が話し終わっても尚、誠一郎は目を瞑り微動だにせず考え込んだ。内村も総理を見つめたまま動かなかった。
やおら「内村君、昨年も言ったことだが、我々はとんでもない凄い男を味方にしたものだと思うよ」誠一郎が口を開き静かに話し始めた。
「それは・・」言いかけた内村を制するように軽く手を挙げて「これは先程、君は柊君が独断で西宮へ運んだと言ったが・・・彼はきっと最善の策はどうする事か、事前に計画を立てて実行したんだと思う。我々と秋月さんの立場を考えた上で実行したんだ。勿論秋月氏が私の盟友だと知った上でだ」一気に今考えていた事を内村に話した。
「何故なら、単に全員の救助だけなら事情を警察に通報して、その力を借りれば簡単に救えるのに、そうせずに修羅場を覚悟して二人で乗り込んだのは、事後のマスコミや世間の物珍しさの追求から綾乃さんを守ると云う前提が無ければならない事だし、加えて西宮の和田ご夫妻は、お嬢様が麻薬に侵されて亡くなった時、それまで病理学の分野で日本有数の権威だと云われていた学究の道を捨てて、娘を侵した麻薬やPTSDで悩む患者を救うために目には目、では無く医学で対抗しようと、その専門施設を造ろうと奔走されているそうだ・・このことを全て知った上で事前に彼は準備をして今回の決行に及んだのだと思う」と言い切った。
内村は総理の推測に大きく何度も頷いて同意の意思を示した。
「よし、これからは僕達がその事実を秋月さんにどう報告し、どう収拾するか、私たちの出番だな」初めてすっきりした顔を挙げて内村を見た。
それから二人は一時間ほどをかけて今後の対策を議論した後、誠一郎は九時からの衆議院本会議があると執務室に残って資料を読み始めたが、内村は秘書官室に戻って外出の支度をした。

秋月家の門前に黒塗りのレクサスハイブリッドLS600hLが静かに停まり、運転手が開けるドアから降り立った内村が脇のインターホーンを押したのは九時半過ぎだった。
丁重に案内された応接室は広く、大きな中央テーブルを挟んで三脚づつのアームチェアが両サイドにも一脚づつ置かれて、それぞれの脇にはサイドテーブルが有り、いかにも来客が多そうな拵えになっていた。
庭を臨む客室の床は艶やかなローズウッドのフローリングが敷かれ、壁も同じ素材で重厚な雰囲気が漂っていた。
庭には石や灯篭が巧みに配置され、イヌマキやツゲ、カエデが庭園に影を落とす間から桜の大きな木が散見され、屋敷を囲む築地塀が隠され、春夏秋冬を巧みに演出していた。
大きな窓にかかるレースのカーテンが日差しと共に風を柔らかく包んでいた。
待つほども無く当主の信三郎を先頭に、彼から五陵商事を継いだ息子の宗信が入ってきた。
「これはこれは内村さん、ご無沙汰しております。総理の首席秘書官が朝早く何事でしょうか。生憎、私どもは今日、ご承知のように・・」アームチェアに座るなり突然の訪問を喜べないような素振りを見せた。
「綾乃さんの件で伺いました」内村の一言で信三郎は次の言葉を飲み込んで絶句してしまった。
「綾乃の?・・」やっと一言話すと体を前に乗り出した。
「綾乃さんを無事に保護しましたのでお知らせに参りました」続いて出た言葉が信三郎達に充分染み渡った所で「十八日の夜遅くお嬢様が拉致されたとの一報で、遅くに失礼を顧みず総理から電話をさせて頂いたのですが、それ以来総理は内閣調査室にも連絡されて警察のほかに出来ることは無いのか手を尽くされ、その結果、昨夜というか今朝未明に無事に保護したとの連絡が入りました」
「それは、朝からテレビなどの報道で存じていますが、宗信にニュースの後麻布署に確認させたところ、救助された五名の中に綾乃は居なかったと聞いています」
「その通りです。救出の際秋月さんの名が出ると、マスコミはそれこそ綾乃さんを前面に出して報道する事は明らかです。又、敢えて隠そうとしても六名が同じ病院に収容されれば看護師や他の入院患者の口を塞ぐことは難しいと考えられました。総理は更に、表面化すれば、その後の精神面の後遺症の方がもっと怖いと仰って、秋月さんの名前は一切出ないようにと極秘に内調に強い要請をされていたのです」ここまで言った時、信三郎は内村を遮るように手を挙げた。
「内村さん申し訳ないが、家内も綾乃の母親もずっと寝ずに心配しています。二人をここに呼ばせてもらってもよろしいかな」と傍らの宗信を押し出すように呼びに行かせた。
内村は彼女たちが来るのを待つ間、目の前のお茶を手にして誠一郎との打ち合わせ通りに進んでいると思った。
廊下を走る数人が飛び込むように部屋に入ってきた。最初に顔を見せたのは宗信の妻邦子に支えられた信三郎の妻佳乃だった。
全員が席に着くと信三郎が内村の報告を要約して二人の女性に話した。
「それで、内村さん、その内調の方は綾乃をどうしたのでしょう」と幾分落ち着いた口調で素直に聞いた。
「はい、それで係官はそのままマスコミにも悟られないように西宮まで運び、夙川病院に収容したそうです」
「西宮?・・兵庫県の西宮ですか」
「そうです、今回の事件は既に報道でご存知でしょうが全員麻薬に侵されていました。残念ながら綾乃さんも例外ではなく拉致以来毎日摂取させられていたそうです」その言葉を聞いた途端二人の女性は両手で顔を覆ってしまった。男二人も顔を引きつらせて苦悶の表情を浮かべた。
「夙川病院は和田さんと云うご兄弟が経営されているのですが、弟さんの奥様で洋子先生と仰る方は病理学の分野で日本有数の権威だと云われていて、先生にはきっと治りますと断言して頂いたそうです」一気に話し終わると、内村は懐から折りたたんだ便箋を取り出し信三郎に手渡した。
「それは、夙川病院の住所と連絡先です。それと綾乃さんはその夙川病院にはおられなくて、病院が新しく建てた療養所の恵涼苑という近くの施設におられるそうです。来られた時には洋子先生がご案内するそうです」声も無くハンカチを目に当てる女性二人を辛そうに見ながら話を終えた。
内村はありがとうと深々と頭を下げる四人に見送られて官邸への帰路に就いた。

小一時間もすると秋月家の大門が静かに開き、綾乃の着替えなどを入れたバッグを持って宗信夫妻が東京駅に向かった。

残った信三郎は書斎に入り暫らくの間内村の話を吟味していたが、やがて電話を掛けて二、三の指示を伝えると受話器を戻し、自分を納得させるように頷いた。


          吉  祥  寺


吉祥寺は東京都杉並区の西隣、武蔵野市に在り、前進座が戦前から根を下ろし、ジャズ喫茶などの音楽の街としても、又アニメーション制作会社やゲームソフトメーカーも本社を構え、国際基督教大学など七つの大学が吉祥寺駅近辺に点在し、お茶の水と並ぶ東京有数の学生の街としても知られ〈住みたい街ランキング〉で度々全国一位に選出されている。
上野理沙は吉祥寺駅の南にある井之頭公園に近い住宅街に両親と共に住んでいた。
五年前に理沙よりも早く日本に帰国した両親は、それを機に都内からこの吉祥寺に移り住み、そこへニューヨークから転属してきた理沙が転がり込んだのが実情である。
春分の日に出社して、総理の宮中祭祀への出席にもあまり興味が持てず、寧ろ、社会部の磯田太吉記者の話に興味を引かれた。
また、昼食で智子と赤坂で遭遇したあの男性の事が気になって、社会部に顔を出してみたが肝心の礒田には休みで会えなかった。早々に自宅に帰り、両親と共に久しぶりの食卓を囲んだのは良かったが、話が弾み明日は日曜という気安さもあって飲みすぎ、起きたのは十時少し前であった。
両親は、お気に入りの井之頭公園に散歩でも行ったのか見当たらず、テーブルに置かれた新聞を手に取ってテレビの電源を入れた。
ジャーナリストの常でニュース番組を見ようとしたが生憎、日曜日各局の十時はバラエティー番組や漫画などが並んでいた。
理沙は最近、テレビの娯楽番組の増加に眉を顰める一人であった。芸人としては未熟な、若手芸人を画面一杯にこれでもかと起用する製作者は自分の信念やプライドを棄て去り、単に視聴率だけを追うのか、番組制作の創造能力が無いのか、或は又予算が無いのか・・度が過ぎた笑いやバカ騒ぎは顰蹙を買うもので、質の高い報道、教養、音楽、ドラマ、アニメ、スポーツ、趣味などの番組が増えないものかと願っている一人であった。
結局、NHKの〈日曜座談会〉にチャンネルを合わせた。
十時の時報と共に、画面から《緊急ニュース速報》の文字が飛び込んできた。
男性アナウンサーが“この時間は〈日曜座談会〉の時間ですが、予定を変更して本日未明に東京赤坂で起きた女性救出事件を現地のレポートと共にお伝えします。本日未明、今年に入って行方不明になっていた十八歳から二十四歳までの女性五名が警視庁によって赤坂のマンションから無事救出され、同時に小分けにされた麻薬三十㌘が押収されました”と緊張した顔で話し始め、全員が麻薬を注射され意識不明の女性も含まれていると、詳細も徐々に語られて現場の映像に切り替わった。正に智子と食事をした赤坂のイタリアレストランの向かい側に見たマンションが目の前に映っていた。
立っていた理沙は側にあった椅子に座ると食い入るようにニュース速報に見入った。
「あら、今朝のニュースね。可哀相に拉致された女性たちの話でしょう。みなさん麻薬も打たれて、彼女たちをどうするつもりだったんでしょうね」いつの間にか散歩から帰って来た母親が汚いものでも見るような顔で意見を言った。
その声に、我に返った理沙は「お帰りなさい」条件反射のように声をかけて再びテレビに目を移した。
頭の中は昨日の男に戻って《あの男性はこの事件に係っているのかしら?・・いえ、きっと係っているんだわ》心の中で断定するように別の理沙が叫んでいた。
《彼を見かけたのが一昨日・・そして今日の未明の赤坂・・一寸待って・・大阪のロイヤルホテルで彼を見かけ・・それから、あの神戸での麻薬押収作戦での銃撃戦・・両方の事件とも・・共通項は・・麻薬が絡んでいる・・》理沙の中で、今まで雲を掴むような細い一本の糸が、縒り合されて徐々に太くなってきたのを実感した。
目の前に、母親が淹れたばかりの紅茶を黙って置いてくれたが、それも目に入らなかった。唖然と見守る母親を尻目に自室に飛び込んで、メモとペンを用意すると昨年からの経緯を順を追って書き始めた。
《あの一目置く磯田記者が、上の方で何か動いていると察知した。そこから私は五十嵐警察庁長官から総理か内村秘書官に繋げた・・前の事件も総理と内村秘書官が絡んでいた・・乱暴な推理かもしれないけれど、真実のような気がする・・あの男性・・麻薬・・総理と内村秘書官・・それと五十嵐長官の役目は何?それにあの男性と内村秘書官の関係は?あの男性はいったい誰なの?・・それにこの動悸は何?》繋がりかけた糸が再び絡み、自分でも理解できない動悸が胸を打っていた。
明日、出社したら社会部の磯田太吉記者に会って話を聞かせてもらおうと手帳の二十四日を見ると予定が十時から埋まっていた。


理沙は早めに出社して社会部に立ち寄り、傍らにいた部員に磯田記者の席を尋ねると親切に教えてくれた。
席の横に立った理沙は「おはようございます、政治部の上野理沙と申します」頭を軽く下げて挨拶をした。読んでいた朝刊から目を外した磯田は理沙の顔をみると、組んでいた足を戻して立ち上がった。背は理沙よりも数センチ低く小太りの体を頑丈そうな下半身が支えていた。
「おはよう、ほう、君が上野さんか・・いい記事だったね、おめでとう」と昨年の理沙の記事を褒めた後「それにしても噂にたがわぬ美人だな。俺ももう少し若ければなぁ・・」と悔しがった顔は笑っていた。
「ありがとうございます」素直に礼を言った。
「それで、俺に何か用?」と気さくに問いかけた。
「はい、実は赤坂の事件で、磯田さんが事件の前に〈総監とかその辺の動きが、何かいつもと違う気がする〉と言っておられたそうで、その事で少しお話を伺えればと思って・・・
言い終わらぬ内に「ほう、そんな話何処で聞かれたのか知らないが、でも立ち話も何だからそちらに行きましょう」と自ら部の隅にあるソファーに誘った。
改めて座った磯田は両手を前に合わせ、少し俯き気味に間を取った。やがて顔を上げ理沙を見つめて話し始めた。
「さて、あの日は確か春分の日の二日前だったか、大きな事件も無くて外回りでもするかと記者クラブを出た時、総監とバッタリ玄関で会って、挨拶をしようとすると真剣な顔で車に乗り込んでいっちゃったんだよな。あれって思ったんだが・・あれがこの事件の前兆だったような気がしたんだけどね。結果は昨日の事件も大きな事件には違いは無いけれど
総監が真剣な顔で追いかける事件とは思えないしね。ただ単にたれ込みから事件が発覚して捕まえただけではねぇ・・ただなぁ・・」雄弁に経緯を話してくれた磯田は話し終えて腕組みをしてしまった。
理沙は今の磯田の言葉を頭の中で整理していた。
「あのぅ」腕を組んだまま上を向いた磯田に話しかけた。
磯田が理沙を見つめた。
「もしその総監の態度がこの事件に関係あるとすれば、どの様なことが考えられますか」素直な疑問を口にした。
「もしか・・もし・・あるとすれば有名人、それも芸能人とかそういった類(たぐい)では無く政界や財界の子女がその中に混じっていれば彼の動きは理解できないことも無いが、今回救助された女性の中にはそういう人は居なかった」
「それは、どうしてそう言えるのでしょう。それでも、もしいたとすれば・・」
理沙の反論に磯田は大きく目を開いて「もし?・・君は、救助された女性がもう一人いたと云うのか?」
「いえ、例えばと思って・・・でもそうであれば総監の動きも理解できるのかと・・」
再び腕を組んで磯田が上を向き何か呟いていたが「それも有りかもな。それにしても私の独り言を又聞きしただけで、良くそこまで考えたね」そう言いながら流石に噂にたがわぬ切れ者だと思ったが、口には出さなかった。
「分かった。私ももう一度洗い直して見るよ。面白そうだ」いつの間にか俺が私になっていた。相手に敬意を表した時の磯田の癖だった。
「よろしくお願いします」頭を下げた理沙はせっかくの機会だと「あのぅ、もう一つ聞いていいですか」と体を前に寄せた。
「私に分かる範囲なら良いがね」
「実は、昨年のあの銃撃戦の時、現場の神戸から二、三十㌔離れている尼崎で浅井組と云う暴力団のビルが爆破されたのはご存知ですよね」磯田がかすかに頷いた。
「あの爆破事件の犯人は捕まったのでしょうか?」あの強烈な銃撃戦のあとフォローしていなかった自分を反省しながら問いかけた。
「あの事件か・・・あの事件では東京の政治部に抜かれてお前たちは日頃、何を追っかけているんだと大阪の編集長以下相当絞られたらしいぞ」微笑みながら冗談を言ったが、直ぐ真顔に戻って「私も、あんなに凄い殲滅の仕方がこの日本でもあるんだなと思って、管掌は違うんだが注意してフォローしていたんだが犯人が捕まったというのは聞いていないなぁ」質問に正直に答えた。
「そうですか・・でも何か磯田さんがあの事件で不審に思った事とか疑問に思った事は無かったでしょうか」尚も食い下がって意見を求めた。
磯田は流石この女性はジャーナリストとしては一級品だなと感じていた。
「そうだねぇ、強いて言うならば銃撃戦で三人の男がSATに射殺されただろう」理沙はその時の様子がフラッシュバックのように蘇った。
頷く理沙を見て磯田は続けた。
「こっちの科捜研に昔からの友人がいてね、その男と一緒に飲んだ時、聞いたんだが、三人の検視鑑定をした神戸の同僚の話だと、三人共こめかみの同じ位置に弾丸の射入口があったそうだ。ちょっと面白い話だと思ったが、年末の忙しい時期だったから忘れていた。気になったのはそれくらいかなぁ」
「あのすいません、そのシャニュウコウって何でしょうか」
「そうか、それはだね、銃弾が命中して頭に当たるとそこに穴が開くよね、その穴を射入口と呼んで出口を射出口と言うのさ」
「成程、それでその射入口が同じだと、どうしておかしいのでしょう」銃撃戦など知らない素人の強みが如何なく発揮された。
「それはそうだろう。数十名で撃ちまくる中で、誰かの撃った弾が三人共同じ場所に当たる確率など皆無と言ってもいいんじゃあないかな」苦笑いを浮かべ、磯田が丁寧に説明をした。
「そうですね・・・」理沙は考え込んでいたが、再び「磯田さん、勝手を言うようですが、その科捜研のお友達をご紹介頂けませんでしょうか」と頼み込んだ。
彼は快くその頼みを聞き入れ、少し待つように言うと自分の席に戻って行った。
やがて、理沙の所に戻った磯田はテーブルに黙って名刺をテーブルに置いた。
「そいつは私が警視庁の記者クラブに詰めていた頃、親しくなった鑑識でね、気さくで飲んべぇだが腕の立つ男だよ」と顎をしゃくりながら説明を始めた。
名刺には科学捜査研究所 物理鑑定班 山田専一とあった。
理沙がそれを書き写している時「それと、今一つこれは推測だが、先程あんなに凄い殲滅は初めてだと言ったが、あれには何か強烈な怒りがあるような気がしてならないんだ」
「怒り?ですか」
「そう、怒りだ。あの地区で浅井組と言えば川北組の傘下にあって、武闘派と呼ばれた組だった。それがやられると云う事は余程の恨みか反感が無いと、あそこまで強烈な攻撃は簡単には出来ない。だから私はこの件は組同士の争いじゃぁ無く、相当な恨みを持った何かの集団が起こしたのではないかと睨んでいるが、生憎大阪まで出て行って調べるには今の状況では無理と言わざるを得ない」悔しそうに唇を咬んでいたが、チラリと腕時計を眺めて「今日はそんなところだな。又、いつでもいらっしゃい」と言って立ち上がった。
余程、昨年の事件と今回の事件に内村秘書官とあの男が絡んでいるのでは、との話をしようか迷ったが未だ決定的なことは何も無かったので今回は控えた。
「お忙しいのに今日はどうもありがとうございました」立ち上がって深々と頭を下げた。


          五 稜 商 事


五稜商事の前を東西に走る、青山通りは赤坂見附から渋谷へ延びる幹線道路の一つで、その一帯は絵画館前の銀杏並木や表参道ケヤキ並木などの街路の景観が美しく、それを神宮外苑や赤坂御所の緑が取り囲む日本有数の市街地である。
その中心に我が国トップクラスの商社が三十階建の威容を誇っていた。
秋月信三郎が三十階の会長室に入ったのは八時過ぎであった。始業は九時であったが社長就任から会長に至る現在まで八時に出社して九時までの約一時間、世界中に展開する支社からの情報を把握した後に業務に入るのが習慣になっていた。
今日はいつも朝のお茶を淹れる女性秘書よりも早く秘書室長が入って来た。
「アポイントは十二時三十分から十五分間頂きました」と報告し、「解った」の返事が返ると「夙川病院と先生方の来歴です」そう言うと左手に持っていた封筒を差し出した。
受け取った封筒の中身を取り出し、背を後ろに預け書類を読み始めた。
やがて顔をあげると室長の鳥井に「ありがとう。短時間で良くここまで調べてくれた。すまなかった」
一言礼を言われた鳥井が「それと小切手は十時には銀行からこちらへ持参すると申しておりますが、それで良かったでしょうか」と問うのに「それで充分だ」笑顔で応えた。
会長室を出た鳥井は一瞬首を捻って、不思議なものを見たような顔をしたが其の侭下がって行った。
鳥井は昨日の昼前に信三郎からの電話で簡潔な三つの指示をされた。
何時もなら指示された内容は何の目的で、理由は何か的確な判断をして用意するのが秘書だとして、大きな問題を引き起こすことなく務めてきたが今度ばかりは何も解らず、言われたことをこなしただけで、笑顔でありがとうの言葉が返った。
それも小切手は私的に使用するものだと言われたが金額を聞いて驚いた。
彼は信三郎の個人資産の管理も任されていたが、これほどの出費は初めてだった。秘書室のドアを開け乍ら再び首を捻った。
信三郎は午前中、時間が空いたことで世界や国内の各支店からの報告に目を通し、精力的に仕事をこなしていたが昼前には地下二階にある駐車場に向かった。

官邸の総理大臣執務室に通された信三郎はソファーに静かに座って、部屋の主を待っていたが約束の時間より少し前にドアが開けられて総理が歩み寄った。
「待たせたかな。秋月さん、この度はとんだことだったが不幸中の幸いと云うか、兎も角良かったですね」と自慢するのでもなく自然な笑顔で握手を求めた。
握り返す手に少し力が入ったが、信三郎は万感を込めてその握手を受けた。
秘書の女性が入って来て、信三郎の前に置かれた煎茶を新しく淹れたものに差し替えると、総理の前にも新しい煎茶を置き、一礼して出て行った。
「総理、私はこういう仕事です。経営と云う世界で戦っています。必然、敵も多いが友も多くいる。だが、その友も結局は利害が絡んできます。でも、私は今までの人生で今回の様な幸せを感じたことは無かったと思っています。それは孫が助かったことも喜ばしい事だが、それよりも最高の友人を持った幸せと誇りです。心からお礼を申し上げる」言い終わる前から深々と頭を下げ、あげた顔は涙に濡れていた。
誠一郎も目頭が熱くなるのを覚えた。
「秋月さんどうか手をあげてください。私は大したことはしていません。内調の恩田君が・・」言いかけた総理を押しとどめるように信三郎が静かに手をあげた。
「総理、総理のお立場は私も理解しているつもりです。だが今回内村秘書官から経緯をお聞きして以来、私なりに考えました。確か、内調は政治面での不安な動きや或は各国の情報を収集調査する機関だと承知しています。それがただ単なる麻薬や反社会団体の拘束に動くとは考えられません」言葉は丁重だが総理の言葉に異論を挟んだ。
「内村さんからは私の名が出ると、マスコミは綾乃を前面に出して報道する事は目に見えている。そうなればその後の精神面の後遺症の方が更に怖いと総理が仰って内調も動員されたと聞いています。その時は私も嬉しさのあまり何も考えることが出来ずにいましたが、どう考えても無理がある。又、今回綾乃がお世話になっている病院も勝手でしたが調べさせて頂いた。仰ってた通り日本でも指折りの、この方面での権威の先生方だそうです。そのような病院を、綾乃を救い出して直ぐに探し出せるとはどうしても思えません。いつか総理と私の関係は盟友だと言ってくれたマスコミが有る。でも今の私は刎頚の友と呼んでもらいたいと思っています・・どうか総理、真実を教えてくれませんか」血を吐くような言葉だった。
「首を落とされても後悔しない・・・ですか・・」暫らく沈黙が部屋を支配した。
やがて顔をあげた総理は「信三郎さん、内閣総理大臣としてでは無く、渡辺誠一郎としてお話ししましょう」として今回の経緯を簡潔に話し始めた・・・・・
「そのような経緯でこの事件は解決を見ましたが、急激な展開で判断に多少の齟齬がこれから出てくるかもしれません。その時は我々後衛の仕事だと思っています。それにこの件に係った機関や個人の名前は、あなたでも申し上げる訳には参りません。申し上げれば、勿論あなたご自身は首を切られてもそれを口には出さずに死ぬ覚悟をしておられても、今回のように貴方や貴方のご親族が人質に取られた時、困るのは貴方ご自身だからです。それとその男の名前や、後衛に我々が居ることも病院長ご夫妻はご存じありません。その理由もあなたと同じ理由です」再び沈黙が続いたが、徐に顔を上げた信三郎は総理をじっと見つめた。
「総理、良く話してくださいました。よく理解でき、そして納得も出来ました。今日ほど腹を割って話が出来たのは生涯初めてです・・・それにしても私は貴男に背負いきれない借りを作ったようだ」頭を上げた目には再び涙が滲み出ていた。
ややあって信三郎が立ち上がり、懐から封筒を取り出し総理に手渡した。
「これは?」渡されたものを持ったまま尋ねた。
信三郎は暫らく俯いていたが、意を決したように応えた。
「渡辺さん・・貴方の掲げる大義名分に馳せ参じる人の数は少ないだろうが、間違いなく存在します。今回麻薬と云うものの恐ろしさも充分に伺った。私も是非あなた方のお役に立ちたい」きっぱり言い残すと信三郎は官邸を退出した。
残った誠一郎はそっと封筒から、入っていた紙片を取り出した。
額面が十桁にもなる銀行振出小切手だった。驚きで信三郎の出て行ったドアを見つめたまま暫らく動けずにいたが、腕時計を見て「オッとまた昼飯にありつけなかったな」十五分が三十分の会談になってしまった。
国会へ向かう準備にデスクへ向かったが、唇に思わず苦笑いを浮かべ封筒を内ポケットに入れて慎重にボタンを掛けた。

信三郎は官邸を出ると運転手に東京駅へ行くように命じた。
五稜商事が新大阪駅へ差し回した社用車を駆って、夙川病院の恵涼苑で降りた時は午後四時半になっていた。秘書も連れない単独行動だった。
新幹線の車内で内村から渡された便箋を見て和田院長に連絡していたので、受付の看護師に三階の真新しい病室へ案内された。
一歩室内に入ると東南の角部屋の大きな窓から、夙川河畔が目前に広がり、その清流に心まで洗われるようであった。
部屋ではベッドに寝ている綾乃の横に、ライトブルーの診察服で穏やかな笑顔の和田夫妻が待ち構え、脇の付添い用の椅子から立ち上がった綾乃の母・千賀子が軽く会釈をした。
夫の宗信は五稜商事の社長として職務が山積みしていたが、昨日父親に甘えて妻と共に娘の様子を見て、和田夫妻や苑の施設にひと安心すると、後を妻に任せ月曜日の出社に備えて最終の新幹線に飛び乗った。
「初めまして、お疲れ様です」静かな声で和田夫妻が出迎えた。
「先生、この度は孫の綾乃が大変お世話になり、ありがとうございました」深々と頭を下げて衷心よりの礼を述べた。
信三郎は今朝がた秘書室長から受け取った夙川病院の調査書で、院長夫妻が国内屈指の能力を持つと評価されていることは勿論、この病院の経営状態もここへ来るまでにその概要を把握していた。
患者が静かに眠れるようにとの配慮で、院長室に場所を変え現状の報告と今後の治療方針の説明を洋子が、敏一からは彼女が拉致の間、内科的にも外科的にも暴行の事実が無かった事が告げられ、更に自分達の最愛の娘が麻薬に侵され亡くなった事も含めて、この治療院を設立しようとした経緯を問わず語りに話して聞かせた。
信三郎はこの夫妻の苦悩と葛藤を聞くにつけ、今、秋月家に起こった現象を重ね合わせ、綾乃にとって最高の環境にあることを確信した。
「今後の治療も全面的に先生方にお任せします。何卒、よろしくお願いします」再び深々と頭を下げた。
彼は胸のポケットから五稜商事の名刺を取り出し改めて名乗った。二人が受け取った名刺を見て「秋月さんと云う名前は珍しいわねと主人と話していたんですが、そうですかあの五稜商事の・・・如何に私たちが経済界の事を何も知らないか・・」
「私も五稜商事という名は良く存じ上げていたのですが、そうですかあなたが会長さんでしたか」一般の人が聞けば惚けた会話にしか聞こえなかった。
自嘲気味な笑いが収まると信三郎は懐から封筒を取り出し敏一に手渡した。
「これは?」受け取って訝しげに問うた。
「私は綾乃がこの夙川病院に収容されたのを、ある方からの連絡で知りました。その方は孫をここに運んでくださった方々と共に国民が麻薬に侵されるのを座視できないと、それを扱う反社会勢力と戦っていると言われた。お陰様でマスコミ等の興味本位の取材や中傷などからこの秋月家の名誉と尊厳が守られました。今まで、このような事件を他人事のように思っていた自分が恥ずかしい。あなた方がお嬢様を、そのような事故で奪われたお気持ちは今の私には痛いほど判ります。私を含めて国民が自由と繁栄の中で、如何に平和ボケしているのかを痛切に感じています。人間の尊厳を侵す邪悪な存在が、常に我々を脅かしているのを恥ずかしい話だが、今回の事で骨の髄まで知ることが出来ました。そして、あなた方は苦しむ患者さんを医学の力で救おうとなさってこの治療院まで建てられた。それは即ち彼等を側面援助する行為に外なりません。今回の件で商売ばかりに目を向けていた私は眼から鱗が落ちる思いでした。遅きに失した感は有りますが、これを機会に、私も私財を擲ってでもお手伝いをさせて頂きたい。同時に是非ともお仲間の端に加えて頂きたいと思っています。それは今の私の覚悟です。どうか何も仰らずにお納めください」新三郎の心から迸る熱い言葉は和田夫妻に浸み込んだ。
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」封筒の中を改めもせずに夫婦が口を揃えた。
和田兄弟夫妻に続く第二の民間の協力者が誕生することになってしまった。
夕刻の春の日差しが柔らかく夙川の河畔を包みこんだ。


          調    査


東京・西宮間を二十四時間かけて往復した柊は、祐天寺の拠点に昨夜十時前に帰り着くと朝まで爆睡することになった。
午後の三時頃、洗車や昨夜来の戦闘服、武器などの片づけを終えて一段落した時に内村からの電話を受けた。
「ご苦労を掛けました」の言葉と共に報告と慰労を兼ねて食事を一緒にどうかと誘われたのである。喜んで伺いますと答えて、指定されたのがニューオオタニの鉄板焼きレストラン石心亭だった。都心に一万坪以上あるとされる日本庭園の中、重厚な歌舞伎門に迎えられた濃紺の背広姿の柊は、その風情に圧倒された。
美しく磨き上げられた鉄板の上は専属のシェフの晴れ舞台のように、魚介から肉に至るまで丁寧に味付けされ、出された味は彼を充分満足させた。
鉄板で焼かれる音と、目の前で客の様子を見ながらタイミングを計って出されるその気配りには感心するものの、込み入った話を排除する雰囲気もあった。
内村が夕闇迫る石心亭で食事を終え、柊を連れて次に向かったのが、このW機関が生まれる起点となったガーデンタワー四十階にある“ザ・バー”であった。
木暮と同じように、その夜景を堪能しつつ部屋の落ち着いた静かな雰囲気が気に入った。
窓際の丸いテーブルに座ると、程なくブッシュミルズモルトの一六年ものがボトルごと出され、アイスペールと水が置かれた。内村が良く使うのかボーイにチーズ各種盛り合わせとチョコレートを頼んで自ら水割りを作り始めた。
夜景を楽しみながら、昼間、秋月さんが官邸に現れ大変感謝された事、今回の事件を振り返ってその経緯の矛盾点を突かれ、やむを得ず総理が我々の名は一切伏せて私的な機関がある事を仄めかされたことを伝え、事前に予測されていたのだろうか、名も無い組織への寄付だと十億円の小切手を置いて帰られたことを話した。
「総理も今回はありがたく頂いておこうと仰って、早速木辺正司名義の口座に入れておいたよ」事もなげに言った。
「十億ですか・・凄いですね」日頃冷静な柊が戸惑うように内村を見た。
「これはこのW機関の軍資金だと思って、必要な機材や人材が有れば遠慮はいらないと仰ってたよ」柊の活躍を労うように声をかけた。
「次はいよいよ大室大悟だな」話題を変えるように内村が水割りを口に含んだ。
「そうです・・それにしても彼はあんなに真面目な政治家だったんでしょうか?」柊も水割りを飲みながら今までの尾行の様子を詳しく説明していった。
「そんなに真面目だとは思えないが、外に出ないと云うのも・・中に何かあるんだろうか」不思議なことでも聞いたかのように内村も考え込んだ。
「分かった。僕も国会で機会が有れば、青山の宿舎を使った事のある議員を探して、あの宿舎に連日外に出ないでも何か楽しみがあるのか探ってみるよ」
光の競演を見ながらの会話は遅くまで続いた。


科学捜査研究所 物理鑑定班 山田専一の名札を首から下げて出てきた四十半ばの小太りの男と名刺を交換した。
磯田記者の紹介で、昨年彼と飲んだ時の神戸の銃撃戦の話をと訪問の趣旨を話し始めると
「あぁ、射入口の話ね。あれは、同期が神戸の科捜研にいて、出張で来た時にすごい銃撃戦の話題になって、三人共こめかみの同じ位置に弾丸の射入口があったと云うから、何十人もの間の銃撃戦の中では奇跡に近い事だ、と言っていたのを磯田さんに話したんですよ」意外と簡単に乗って来てくれた。
「それは、そんなに有り得ないことなんでしょうか」
「だって、そりゃそうでしょ。弾が四方から飛んでいる現場でそんな事は普通に考えて有り得んでしょう。それとこれは磯田さんにも話してなかったんですが、事件後鑑識課からの依頼で科捜研の弾道検査の結果、銃弾は港の沖合から発射されたものと結論が出てますからね。あっ、これはオフレコでお願いしますよ」苦笑いを浮かべて口に人差し指を当てた。相手が美人だったせいか乗りもよかった。
「はい・・それではSATが撃ったんじゃぁ無いと・・」
「そうですね。SATの誰かが海に出ていない限りは・・・」
「それじゃぁ犯人と云うか撃ったのは?」
「さぁ、それは・・我々鑑識はそこまでが仕事でね。それからは捜査班の仕事ですから」
「なるほど、それでは山田さんの見解などをお聞かせ頂けないでしょうか」
「見解?特には無いですが、射撃の腕は超一級ですね。撃った男の」
「それほど凄いものなんですか」
「えぇ、あの日は、沖合に海上保安庁の大型・小型を含めて数隻の艦艇が警備をしていたと聞いています。その中で夜間にあれほどの精度で射撃ができるのは先ず聞いたことが有りませんね」
理沙にとっては神戸事件での新しい発見だった。
今迄、あれはSATの活躍で麻薬密輸入を水際で阻止できたと、我々も含めて各社が報道してきた事で、加えてあの尼崎浅井組の爆破も同時に報道できたのは我が毎朝だけだった。尼崎の事件は犯人が未だ捕まらず、そして新たに神戸の事件はSATが撃ったのでは無いという事実が・・では、犯人は?
「それでは山田さんは、その神戸の時と同じ日に尼崎で浅井組のビルが爆破された事件もご存知ですよね」改めて山田を見つめて質問を変えた。
「あぁ、あれも興味を持ちましたね。凄い爆破でしたからね。恐らくC4を使ったんでしょうが街中であれほどの爆破をやって周囲に殆ど被害が出なかったと云うのは、勿論やくざ組織のビルだから周囲の塀などが頑丈に出来ている事も計算の中に入れていたんですね。私に言わせればこれも超一級の腕を持った爆破のプロですね」理沙の胸に新しい動悸が小さく音をたて始めた。
「そのC4って何なのですか」
「あぁ、C4と云うのは簡単に云えば粘土のように柔らかくて成形も自由にできるプラスチック爆薬の呼び名で、テレビで海外のビルが爆破解体される様子を見られた事があるでしょう」
「なるほど、それもプロだと・・・」
「それも超一流のネ。だから神戸と尼崎の事件は距離さえ離れていなければ同一犯かと思ったくらいですが、交通事情などを考えると矢張り厳しいなと云うのが私の感想です」
「では、その交通事情を無視して同一犯と云う可能性はどうでしょうか」
「そいつは無理でしょう。射撃も爆破も超一級の腕を持った男なんて聞いたこともありませんね。仮に居るとすれば自衛隊位でしょうが、それでもいるとは思えませんがね」
理沙の胸の動悸はより強く早くなっていたが、素朴な疑問が残った。
弾道検査で沖から撃ったと結論が出ていて、それが何故公表されていないのだろう・・
磯田の最後の言葉を思い返していた。
“あのような凄い殲滅は初めてだ。組同士の争いじゃぁ無く、相当な恨み?怒りを持った何かの集団が起こしたと睨んでいる”では、何に怒ったのだろうか、ビルを跡形も無く吹き飛ばすほどの怒りってどのような事実があったのだろう。それも集団では無く一人では不可能なのだろうか?
理沙の中で何かが形を作り始めた。しかし、自分がこれらの事件を深く探る事にためらいと怖さがあった。動悸の高まりと共に携帯の中の彼が胸の中で大きくなりつつあった。


内村は誠一郎の許可を得て第二秘書の後藤に国会への随伴を頼み、自分は秘書室に残って昨夜柊に依頼された青山の議員宿舎の調査に取り掛かった。
管轄である財務省から資料を取り寄せて調べると、この宿舎の特徴と言うか特異な点が見えてきた。一つは一九六二年築と五〇年以上経つ古い宿舎で、二つ目は資料では四〇室となっているが図面を見る限り五〇室近くあるのではないかと思われた。
次に入居者名簿を見ると一六名の名前が載っていた。青山の一等地にあっても古くて部屋の大きさも2DKときては、最近の議員には人気が無いのかと思いながら名簿の中ほどに大下圭一郎の名前を見つけた。
内閣府設置法と警察法に基づいて内閣総理大臣所管の下に置かれた国家公安委員会の長は国務大臣で、昨年のイレイザー作戦(昨年、神戸の麻薬摘発の際、官邸で指揮を執っていた総理が名付けた作戦名)の折には中心的な役割を担ってくれた福島県選出の硬骨漢である大下圭一郎が青山の宿舎を使っていた。
この事実に内村は喜んだ。
このままでは何の収穫も無く、古参議員でもある大下の意見を聞く方が何かの手がかりを掴めるのではないかと思った。
行動派の内村は直ぐに国家公安委員会の大下に面会を求め、了解を得ると霞が関に向かった。
イレイザー作戦での総理の指揮ぶりと厚誼溢れる信頼に、今では警察庁の五十嵐長官と共に警察の信頼回復と綱紀粛正に全力を尽くす姿勢は、野党からも一目置かれる存在になっていた。
「これは内村首席秘書官お久し振りです」と満面の笑みで迎えられた。
広い委員長室で向かい合って座ると熱いコーヒーが振舞われた。
「その節は大変お世話になりました」改まって内村が礼を述べた。
「こちらこそ、あの時の総理の指揮で我々こそ勉強させて頂いた。国民の安全に対してこれほどまでに真剣に向き合ってきた政治家がいただろうかと、最近も五十嵐長官と話したところです」阿ることも無く率直な意見を吐露する大下は感慨深く手前のコーヒーに手を伸ばした。
ひとしきり近況を語り合った後、内村は本題に入った。
「大臣は今、青山を宿舎にされていますが、赤坂の新しい宿舎では無く何故青山なんでしょうか」単刀直入に聞いた。
大下は一瞬驚きの表情を見せたが苦笑いを浮かべて「なに、単純な話でね、私が福島から出てきたころは赤坂には無くて、此処が一番近かったからです。部屋代も安かったですし、私の部屋は南向きの日あたりの良い場所でね、バルコニーはサンルーフのようになっていて田舎出の私には天国だったですよ」と大らかに笑った。
内村もつられるように笑って「そうなんですか、でも、大臣が望まれればいつでも新しい宿舎に入れるでしょう」
「そう、何人かの方に移ってはとお誘い頂いたが、昨年総理のご指名で、この職に就いて以来、この前の事件で、警察内部の不正を摘発された毅然とした指揮を目の当たりにして、五十嵐君共々警察の綱紀の粛正と信頼回復に全力を尽くして、総理の期待に応えようと誓ったんだが、その私があの赤坂の宿舎へ入っては苦労を掛けている全国警察官諸君に申し訳が立たないと思ってね」淡々と心情を吐露する長官に「そうですか、その事は総理にお伝えします。きっとお喜びになると思います」
「いや、内村さん、それは辞めてください。人に自慢する事では無いので・・」謙虚に話す言葉の端々に大下の人柄が滲み出ていた。
「ところで大臣、率直なお話を伺いたいのですが、夜の遊びの方はどうなさっているのでしょう」
「夜の遊び?・・そうだなぁ六本木も近いしね・・でも私にはあまりご縁が無いですね」訥々と話す大臣は全く気負いが無かった。
「他の議員の方々も余り夜の外出はされないのでしょうか」尚も食い下がるように聞いた。
「皆さんはそれぞれ適当に外出されて楽しんでおられるようですが、私は会合などで皆さんと飲む程度で個人的には興味を持たないなぁ」
「でも、この青山の宿舎にもマスコミの連中が少しは張り付いて、外出、特に夜の外出などはチェックされているのでは・・」
「そう・・・でもね、内村さんはご存知ないだろうけれど、この宿舎は確か一九六二年に建ったそうだが、その年は例の革マル派の誕生した年でね。それまでも左翼系の学生が今とは想像もつかない暴力集団となって暴れまわっていた時代でね。この宿舎もテロに襲われた時の逃げ道とか、マスコミ等から回避する方法や、地震や火災から議員をどう守るかなどを設計の時の思想に取り入れたとかで、書類などには残していないが外へ出る道はあるんですよ」驚くような事実が大下の口から語られた。
「本当ですか。では・・あの・・秘密の通路のようなものが・・」
「そう、地下の細い通路ですがね、これは入居した議員に口伝えで伝わったものでね。ここを出た議員も紳士協定で外には漏らさないと今でも守られていますよ」意味深長な含み笑いで内村を見た。
「そうだったんだ」柊が毎夜張り込んでもその姿を認めることが出来なかったのは当然だと納得した。
「まあ、私には無用の長物でしか無いが、しかしその紳士協定は守って行こうと思っています。だから、内村秘書官もよろしくお願いします」静かに頭を下げた。
「はい、大臣の信頼を損ねるようなことはしません」応える内村は内心快哉を叫んでいた。
「参考までに、それはどの方向のどのような場所に出るのか、ご存知でしょうか」
「内村さんも興味をもたれたようですな。私は使ったことが無いから、どこへ出るのかまでは判りませんが、おいでになれば何時でもご案内しますよ」気軽に答えてコーヒーを一口飲んだ。
「それにしても、秘書官が青山の宿舎の件だけで訪ねて来られるとは・・何かの調査ですか」大下の素朴な疑問だった。
「いや、この前総理と話をしていて、国民から議員宿舎の家賃が安すぎるのではないかと云う話が提起されて社会問題化してきているので、少し下調べをしておくようにと・・・」
総理には後で、話を合わせてもらおうと言葉を濁して応えた。
「そうですか、確かにこの場所で一万四千円程度の家賃と云うのは、安いかもしれませんねぇ」真面目に答える大臣に、後ろめたさを覚えながら早々に辞去の挨拶をして退出した。
三日後、金曜日の夜七時ごろに内村は、大室大悟が選挙区の尼崎に帰るのを待って、青山に大下圭一郎を訪れ、大室の部屋が二〇八号室であることを確認すると、地下道を通って北側五〇㍍ほどの所にある民家の地下階段を上った。
一戸建ての民家は表札も無く、庭の木々は手入れされて端にはシャッター付のガレージがあった。内部は人の気配はないが掃除は行き届いて、一階のリビングは小さな家庭バーのようなセットがあり、ガラス戸棚にはスコッチやブランデーがグラスと共に並べられて、直ぐにも暮らせそうな雰囲気を漂わせていた。
門の前は幅約四㍍程の狭い道路だが西へ五〇㍍行くと都道三一九号線に出る交通至便の位置にあった。


科学捜査研究所での取材から帰った理沙は、自分のデスクに座ると日曜日にリビングでテレビを見乍ら書いたメモを取り出し、科捜研の山田と社会部の磯田記者の話を重ね合わせた。
・・と云う事は三つの事件の共通点は・・麻薬・・そして何れも犯人は捕まっていない。それと大阪のロイヤルホテルで会った男三人は内村秘書官が自衛隊の第三師団の男だと言った。
山田さんは射撃も爆破も超一級のプロだと言っていた・・自衛隊には居るかもしれないとも言った。でも移動距離が時間的には不可能とも言っていた。
又、磯田さんはあの事件は底に何か強烈な怒りがある様だと言っていたが、犯人の麻薬に対して激し過ぎるほどの“怒り”はどうして生まれたのか。
そして・・そして・・リビングでメモを取っていた時・・・超一級のプロだと聞いた時・・・あの私の胸の動悸はいったい何だったのだろう。理沙の心の深奥にある女の根源までは辿れなかった。
取材からもたらす推理には限界があった。もう少し事実と向き合って調査しなければ解決には遠い事を実感した彼女は、今一度神戸と尼崎で起きた事件を思い起こした。
あの両事件ともロイヤルホテルで、内村と第三師団の人との会談を偶然見かけたことから始まったが、その事件には何かきっかけが有って必然的に起こったものであれば、そのきっかけはあの事件の何日か前に必ずあったはずだという結論に至った。
理沙は書きかけのレポートを持って情報調査部に向かった。
そこは過去、現代の膨大な資料が網羅される所謂新聞社の心臓部であった。
最近の事件や出来事は日々刻々と変化が著しく、各部署の喧騒の中では落ち着いて考えられないし、記事も満足に仕上げられないと記者達の要望もあり調査部の一角に三つの小さなブースが設けられた。僅か一坪足らずのブースに机と椅子の他にはパソコンとプリンターが乗っているだけの無味乾燥な部屋だったが、防音が施され集中して記事を執筆したり、調査するにはもってこいの環境があった。
理沙は小さな肘掛椅子に座ると考え込んだ。
先程結論を出した、あの両事件のきっかけが何日か前に必ずあって必然的に起こったものだとすれば、これから調べるのは私がこの件に係る事になったきっかけ・・それはロイヤルホテルで第三師団の三人・・違う・・あれはその前にニューオオタニで内村さんと木暮幕僚長を見かけてから・・つまり・・理沙は持って来たシステム手帳を繰って日付を確認した。
ロイヤルが九月八日、ニューオオタニが八月二十五日だった。
一瞬理沙は二十五日から遡る事を考えたが僅か二週間の違いならば、見落とせば元に戻らねばならない作業と考えて九月八日から遡る事にした。
マウスを手に取り縮刷版を呼び出すと画面は関東・関西以外にも各地の縮刷版の選択画面に変わった。
躊躇する事無く関西の縮刷版から九月八日の社会面を呼び出し、反社会勢力と麻薬関連の記事に絞って日を遡り始めた。
大見出しと小見出しだけを注意深く見ながら七日・・六日・・と辿るとそれは四日の朝刊にあった。
九月三日未明に広域指定暴力団川北組傘下の尼崎の塩田組が全滅し七人が惨殺されて麻薬が押収され、警察は複数犯の仕業と見て捜査していると出ていた。確か先日の赤坂での拉致犯も川北組の傘下だった筈と思いながら、この画面をプリンターに送った。
更に九月一日にも塩田組員が二人、須磨海岸で殺された小さな記事を見つけた。
どちらも複数犯と見られていることに理沙は戸惑いを覚えた。では、あの男性には仲間がいるのだろうか・・・それは兎に角後で考えよう。   
その前に、これはあくまで結果として考え、そのきっかけが必ず有る筈だと更に縮刷版のスクロールをつづけた。
作業は遅々として捗らず、一週間分の朝刊と夕刊を見るだけで三十分近くかかった。目が疲れ腰も痛くなってきたが、たまに部屋を出て紙コップにコーヒーを淹れて戻ると作業に没頭した。調べが八月も後数日に迫りこれ以上は無駄なのかと諦めかけた時、小さく塩田組の文字が眼に入った。
八月四日の夕刊の片隅に小見出しで、白昼伊丹で妊娠中の主婦が惨殺され、塩田組準構成員が麻薬中毒による殺傷事件となっていて、殺されたのは柊涼子さん二七歳とあった。マウスを持つ手が小さく震えだした。
この記事が探していた《きっかけ》なのか。再び心臓が大きく動悸を打ち始めた。食い入るように記事を読み進むうちに理沙の目に光るものが滲んだ。
同性として年齢も近く最愛の人の子と共に、麻薬に侵された男の無慈悲な力で踏み躙られた涼子と云う女性に、限りない同情と犯人の男に対する怒りが心の底から湧きあがった。
暫らく経って震えと動悸が収まってきた時、ポケットからハンカチを取り出しそっと目頭を抑えた。確たる証拠も無かったが彼女のカンはこれが《きっかけ》だと告げていた。
プリントアウトされた記事を改めて吟味すると、この事件を契機に涼子さんの夫であった彼は犯人が所属していた組織を壊滅して・・そして・・尼崎の上部組織である浅井組の爆破・・そして・・神戸の銃撃戦・・そして・・今回は赤坂での拉致者の救出・・それらの共通項は・・・・麻薬・・そう、尼崎も赤坂も現場に麻薬が残されて・・それは麻薬に侵された男に妻が殺され、その怒りを個人に求めず、麻薬に向けた・・・しかしその彼が何処に住むのか、彼の上司と思われる木暮幕僚長はどう絡んでいるのだろう・・渡辺総理と内村秘書官も絡んでいるのか・・その奥が全く見えない迷宮に踏み込んでしまったと云う焦燥感もあった。
呆然とした時が過ぎ、プリントアウトされた用紙の束を抱えるようにブースを出て政治部に戻ろうと窓の外に目をやると、新月なのか星だけが瞬く空が澄み切って美しく見えた。


二十九日に内村からもたらされた青山の宿舎にテロやマスコミ対策、そして地震や火災から議員を守る為に図面には無い地下道が存在すると云う情報は柊を勇気づけた。
早速、祐天寺のリビングに乃木坂周辺の住宅地図を広げた。
内村の指摘した五〇㍍程北側に名前の載っていない住宅を見つけた。前面道路は四㍍程と狭いが西へ五〇㍍程行くと都道三一九号線の広い道路に出る。北へ向かうと青山通り、南に向かうと首都高速三号渋谷線に当たる交通至便の場所である。
土曜日の夜から降り始めた雨が今朝もまだ祐天寺の空を暗く染め、湿度の高いリビングでは柊が淹れたてのコーヒーを片手に今後の対応を検討し始めた。
赤坂の事件までの動きは全く捉えられなかったが、大室の日頃の言動からも国会と宿舎の往復だけの議員生活とはだれも信じていなかった。
一般的には老年期と言われる六十六歳を迎えていたが、若い時は自称プレイボーイとして鳴らしたと云うだけあって一七五㌢の堂々たる体躯は最近下腹が出てきたとはいえ、エネルギッシュで黒い髪をオールバックにした顔立ちは彫が深くTV映りの良さもあって中年女性の人気度はかなりの物であった。
しかし、国会での野党同僚議員には昔の金権体質を引き摺る男として敬遠され、更に政策立案能力に欠けるとして重要役職には就いていない。
与党議員は民生党前幹事長の大沢三郎の側小姓として日和見主義者のレッテルを貼った。
月曜日を待って綿密且つ臨機応変の計画の下で大室の監視が再開されたが、従前の議員宿舎よりも新しいターゲットとして北側の民家に絞り込んだ。
しかし民家は前面の道路が四㍍程と狭く且つ人通りも少ないため西側の都道三一九号線を渡った所にアカマツ、ヒノキ、ケヤキ、クスノキなど種々雑多な古木が、低い石垣に護られて取り囲む広大な青山霊園の端に潜み、双眼鏡と暗視装置V8を使って外出の機会を伺った。
だが、肝心の大室は全く動かず無為の日が続き、内村の情報も空振りかと思われた六日目の土曜日、午後七時過ぎになって四㍍道路から都道三一九号線へ出る道が車のヘッドライトで明るく照らし出された。
出てきた車が、都道に設けられた街灯の下で左折ウィンカーを出し一時停止をした。
柊はボディが白の日産フーガ三七〇GTであるのを視認すると迅速に動いた。
三月に尾行を開始して以来、その車が大室の自家用車であることは確認済みだった。
走りながらフーガが四一三号線との交差点をどちらに向かうのか、目の端で追った。動き出した車は直ぐに右の方に車線を変更しだしたが、日頃運転に馴れていないのかゆっくりとした動きだった。
神宮前方面に行くと判断した彼は道路を横断しながら、タクシーを拾おうと乃木坂方向に目を向けた。信号が変わって目の前にタクシーが止まった時には、フーガの後姿は他の車の影に消えていた。
運転手に頼んでスピードを上げてもらったが、乱暴に追い越しをかけるわけにもいかず、少々焦りを感じ始めた。どこかの交差点で左右どちらかに曲がったかと疑い始めた時、前方一〇〇㍍にある根津美術館前を表参道の方向へ曲がっていくフーガを捉えた。
表参道の両サイドには世界のブランド店が軒を連ね、この時間帯は多くの人で賑わっているが、やがてフーガはルイ・ヴィトン表参道店を過ぎると左車線に寄ってウィンカーを出して曲がった。
後に続くと、表の大型店舗が建ち並ぶ華やかな通りとは違って小奇麗なブティックや低層の高級マンション等の間を走り、突き当りの道を左折したフーガは裏道とはいえ少し場違いな感じがする一軒家の大きく開いた黒い門の中に滑り込んだ。
柊はそのまま五〇㍍ほど進んだところでタクシーを停めた。
車が入った一軒家に戻り、向かい側の建物の陰から暫らくその家を観察した。
二階建ての瀟洒な建物は結構大きく、一階は背の高い塀に遮られて見えなかったが、暫くして二階で灯りが点けられた。その照明で東南に位置するその部屋はベランダが引き回され主寝室であるのが覗え、大室が入った部屋だと推認された。
持っていた地図に一軒家の位置を記すと、自分の背丈より高い黒い塀に沿って先程閉められた大きな門扉の前に来た。
そこには小さく《田畑》と記された表札が掛かっていた。

祐天寺に帰ったのは十時少し前だったが地図上の一軒家の印を中心にコピーを撮り、内村秘書官の自宅にFAXで送った。
彼が寝ていなければ折り返しの電話がかかる筈だった。寝ていれば明日でもしようがないと、コーヒーを淹れている途中でW機関専用の携帯が鳴った。
「W2」相手が名乗るのを待って「W5」と名乗り、直ぐに要件を切り出した。
「夜遅く申し訳ありません」と詫びた後、大室が、送ったFAXに印を入れた田畑と云う一軒家に入った事を報告し、その登記簿謄本を挙げてもらうように頼んだ。
その時、ふと思いついた、もう一つの謄本も合わせて頼んだ。

総理の渡辺は就任以来、外遊や地方遊説が無い時、国会の審議や委員会が始まる九時までに書類や決裁書類を片付けるべく八時には官邸に入る習慣をつけていた。七日の月曜日も内村は朝の八時前に総理を迎え一緒に執務室に入った。
最初に一昨日受けた柊からの報告を行った。
「先日の赤坂では彼も大変賢明に動いてくれて、秋月さんも心底から喜んでくれた。それに例の協力金と云うか大層な寄付も頂いて何よりだった。今回の件は良くお礼を言っておいてください」内村の頷きに被せるように「それにしてもその様な地下道があるとはねぇ、僕も知らなかったよ」感慨を込めて言った。
「はい、矢張り大木大臣は政界の生き字引だと云われるのが良く判りました」
「でも、その表参道の謄本をと云うのは分かるが赤坂の謄本をどうするんだ」
「私にも判りませんが、とにかく先程謄本の方は指示しましたので九時半頃には手に入ると思います」内村の言葉に頷いて、早々に今日の委員会での質疑に対する検討に入った。

国会内で所用を片付けた秘書官が自席に戻ったのは十時を過ぎていたが、机上には二通の謄本が乗っていた。席に座って謄本の要約書を読み始めた内村が思わず前に身を乗り出し机の上に二通を並べて見比べた。改めて柊の直観力と云うか本能的な嗅覚に驚きながら二通に共通した所有者の田畑絹江の名前を睨みつけた。
――――神宮前の一軒家は別にして赤坂のマンションは確か神戸の川北組の若頭でもある関東吉津会が絡んでいるとの報道があった。と云う事は――――内村は自席の電話を掴むと旧知の五十嵐警察庁長官に繋ぐよう指示した。
総理大臣首席秘書官からの依頼は池田警視総監、太田麻布警察署長に伝わり、十一時を過ぎて受け取ったFAXを見て内村は机の前で興奮を隠さなかった。
それは関東吉津会の序列一覧表だった。組長の下地辰夫以下主だった幹部が序列に従って並び、其の八番目に若頭田畑徹の名が記されていた。
再び五十嵐長官に電話をして調査の礼を言った後、若頭の田畑徹の妻の名を内密に調べて欲しいと依頼した。念のためであったが内村はその嫁が絹江である事は間違いなく、これで赤坂と神宮前が一本の線で繋がったことを確信した。


田畑邸では大室と田畑が主寝室のテーブルを挟んで座り、室内に造られた小さなバーカウンターの前には田畑配下の若衆が二人並んで立っていた。
「用意は出来てんのかいな」大室はブランデーのグラスを手に横柄な口調で田畑に聞いた。
「はい一応待たせていますが、先生、もう少し時間を空けて頂いた方が・・未だ警察の方も動いていることですし・・」遜って言う田畑の前のテーブルには水割りが置かれていた。
「この場所までは判らへんて」空いている手を顔の前で振って笑う大室を苦々しげに田畑が見つめた。
「もう一週間やで、これ以上もう一週間待て言われたらたまらんがな」関西弁で絡みつくような言葉を使う大室に田畑は辟易としていた。
「ヤス」低い声で若衆の一人に声をかけると顎を杓った。言われた男が黙って階段を降りて行った。それを機に田畑ともう一人の若衆が階段に向かうと、一人の若い女がすれ違って上がって来て「パパ、久しぶり」大仰な身振りで大室に抱きついた。
「寂しかったやろ」女の腰を抱いた大室を尻目に、苦虫を噛み潰した田畑と若衆が階段を降りていった。
高度な情報社会では地方や都内も例外無く、中学や高校を出たばかりの一部の少女たちが進学や就職に希望を求めず、刺激と金を求めて華やかな舞台装置の整った大都市へ群れ集まる。すると田畑やその部下達が組織の息がかかった名ばかりのエンターテインメント業界やバー、クラブなどに送り込もうと手ぐすねを引いて待ち構え、あるものは自分の女にし肉体的服従を勝ち取り、又あるものは薬漬けにして依存的服従により売春を強要して組の資金源に育て上げていた。
それらの少女たちは年を経るごとに親元に帰る気力も失せ、次第に自分の運命を受け容れていくが、その先には棄て去られ廃人となる道が待ち受けているだけであった。
こうした売春部門を仕切るのが関東吉津会若頭補佐の田畑徹であり、中でも目立って若く魅力的な少女は組織の政治的な一端に組み入れて、政治や経済界要人の取り込みに利用してきた。
赤坂で警察の手入れを受けた時、会長の下地からその失敗を痛烈に罵倒された田畑は大室の我儘に苛立ちを隠せなかったが、下地の庇護下にある限りその行動を受け容れるしかなかった。
実際、囲い込んだ政財界の大物たちは組関係者からの、金に飽かせた接待攻勢の力に当初不安を抱く者も少なからずいたが、次第に罪悪感も消えて唯我独尊の世界に酔いしれていった。
田畑が新たな組織作りに精を出し始めたのは、最近の政財界の大物達は組員たちが味見をして手垢の付いた女たちに不満を募らせており、彼等を我々の駒として使うためには今までと違った女達を、餌として出さなければコントロールが難しくなっていると下地会長から云われた事に起因した。
田畑は組の若い衆の中でも女の仕込みに強い中村と大井を呼び、従来の若くて魅力的な女をスカウトしても一切の手出しを禁じるとともに、これはと思われる女は拉致してでも十人程度は揃えろと命じていたのである。田畑の命令は親の命令であった。
中村と大井は慎重に女を厳選して配下にも女には手を出すなと云いつけた。中にはばれる事は無いと手を出した組員も居たが、見せしめのために半殺しにされて組を追い出された。
他の組員を従わせるにはそれで充分だった。
数か月のスカウトや拉致の結果、二十三日には新しい女を出荷できる予定だったが、その日の未明に赤坂グランハイツに何者かが押し入って、全てがご破算になってしまった事は、彼自身初めての誤算だった。それにしてもあの赤坂には六人の女がいた筈が、報道では五人になっていた事が解せなかった。あと一人は何処に消えたのか配下の中村と大井には徹底して探す様に命じた。
同時に敵は誰だと云う問題も彼を悩ませ、関東吉津会の若頭として顔や沽券を容赦なく踏み躙った敵に怨念の籠った憎悪を募らせていた。
そのような中、大室から今日そちらに行きたいと連絡を受けた。ほとぼりが冷めるまで、せめてもう一週間待ってもらえないかと頼んだ結果が先程の会話であった。
予め中村に命じて大室が何時も相手をする女を呼ばせておいたが胸には苦いものが込み上げた。

田畑邸の二階で翌朝十時ごろに目覚めた大室はカーテン越しの空がどんよりと曇り、小粒の雨がベランダの大きなガラス戸を濡らしていた。
ベッドサイドのナイトテーブルからタバコを取り上げ、火を点けて大きく煙を吐き出した。つい数時間前までの余韻を味わいながら薄明りを浴びて胸をはだけ、しどけなく眠る女の顔をじっと見つめた。
二十歳だと聞いていた女の素顔は陽の光の下では顔色も悪く、どう見ても二十五、六にしか見えなかった。――――俺も年を取るにつれて、もっと若い女が欲しくなる。それもこんな顔色も悪くて、肌艶もくすんで来たのは飽きた。次は田畑に言ってもっとピチピチして清純な子にしてもらおう――――感傷は無かった。会長の下地にはそれなりの貢献はしてきた。彼は雨空にも拘らず気分がすっきりしてきた。
ソファーの上に脱ぎ捨ててあった下着や靴下で身繕いをするとベッドで眠る女を見た。
「今度はいつ会えるの」いつの間にか目を覚ました女はシーツを胸元まで引き上げ、甘えるように聞いてきた。
大室はにっこり笑って「近いうちに昼食にでも行こう。六本木に美味しい店があるそうだ。時間が出来たら田畑に言って連絡するからね」国会議員が如何にも水商売と視られる若い女と繁華街で食事をすることは自殺行為だが、大室はそれだけ言うと女の返事を待たずに階段へ向かった。


五日の土曜日に大室を尾行して表参道の一軒家を掴んだ夜遅く、内村秘書官に電話で依頼していた謄本が月曜日の午後には柊のパソコンにPDFメールで送られてきた。
咄嗟の判断で赤坂の謄本も挙げてもらったが、結果は予想通りであった。
関東吉津会を表面には出さず、その若頭である田畑徹の妻の名義だとメール本文に注釈がついていた。
問題は大室の隠された裏の顔を白日の下に晒し、鉄槌を下すための手法を煮詰めなければならない。
次の日から柊は神宮前の調査を開始した。青いジーンズに白のカットソーシャツ、デニムのジャケットという軽装で東京メトロの表参道駅を降り、日曜日の人出に交じって田畑邸に繋がる道に入った。結構人が多く、それも親子連れらしい二人組、三人組のカラフルな人混みが広がっていた。ここ数か月殺伐とした雰囲気の中で過ごしてきた柊にとって癒されると云うか和みのある風景だったが、明日が各学校の入学式であることに思い至った。
ウインドウショッピングや仲間と話をしながら歩く人たちのブラブラとした流れに乗って邸の前まで来ると眼を挙げて陽の光を浴びる全体を眺め、再び自分の任務に戻った。
周囲が低層のマンションやビル群に囲まれた一軒家ではあるが、白い外装の邸は最近建てられたばかりなのか白く輝き、黒い塀と対照的な佇まいで周囲との違和感は避けられなかった。
関東吉津会系列の建築物の例に漏れず塀の脇には二基の防犯ビデオが設置され、ガレージの扉と兼用になっている大型の門とは別に黒塀の片隅に通用口が設けられ、そこから邸まで、およそ十㍍程の距離を松などの植栽が緑のオアシスを造っていた。
柊はある程度の概要を掴むと、その場を離れ再び人の流れに混じった。
次の目的は田畑邸を終日見張れるような賃貸マンション等を見つけることで、歩く途中の不動産業者の扉を開け、賃貸案件の物色を始めた。短期間の賃貸案件は少なく、有っても窓から見える方向が田畑邸から逆向きだったり、低層階の部屋だと前の建物が障害になったりと満足のゆく物件を見つけることが出来なかったが辛抱強く歩き続けた。
七軒目に五階建ての古いビルの一階にある小さな不動産業者の前に立った時、田畑邸から少し遠くに離れすぎてしまった気がしたが此処を遠地点として、駄目ならば他を当たろうと遠藤不動産と書かれた扉を押した。小さな事務所に入った時、カウンターの後ろに座っていた老人が顔を上げ竜二を見つめた。
早速彼は先程まで回った業者に言ったセリフを繰り返した。曰く東北に向いた窓がある事と賃貸料は特に注文が無い事、古くても問題は無い事、出来れば二週間ほど借りたいこと等を挙げてその様なウィークリーマンションが無いかと尋ねた。
「無いね」老人の返事はにべも無かった。
「そうですか。いや突然伺ったうえ無理なお願いをしました。ありがとうございました」軽く頭を下げて入ってきたドアを押した。
「何故、東北の窓でないといけないのかい」女性の声が柊を追いかけた。思わず振り返ると奥の方に座っていた、上背は無く小太りで白髪の老婦人が席を立ってゆっくりと前に出てきて、にこやかな笑顔で老人の横に並んだ。
「はい、私の上司が方位に拘っていまして、東京に部屋を取る時は必ず東北の窓の部屋を選ぶようにと云われたものですから」竜二は内心平田に手を合わせて謝った。
「そうなの、今時そんな人がいるんだねぇ。で、貴方お仕事は」テキパキと質問を繰り出す顔は笑っていた。柊はジャケットから名刺入れを取り出し老婦人に手渡した。
「オフィスK ルポライター 木辺正司 尼崎市塚口町・・尼崎と云うと兵庫県の?」―――W機関が誕生した時、どこに出入りしても不振に思われない職業として業界紙のルポライターの名刺を作っていた―――
「そうです」
「そうなの・・それで貴方いえ木辺さんのご希望に合うウィークリーマンションは無いけれど、このビルの五階に東北向きの窓付きの部屋ならあるよ。見てみる?」
「お前あれは・・」主人が反論しかかるのを抑えて、頷き返した柊を見ながら「いいじゃぁ無いの、どうせ空いてるんだから」夫人が押し切った。
「それじゃぁ案内するから付いて来て」相変わらず歯切れ良いもの言いをする夫人を見て、これが江戸っ子と云われる人かと一人納得した。老婦人が先に立ってドアを開けるとUターンするようにビルの横にある通路を奥に入って行き、エレベーターに乗った。
五階で降りると雑然と物が置かれた廊下が伸び、ドアが四つばかり並んでいた。エレベーターの前にあるドアを開けると十畳ほどの和室で、中は小さな古い食卓がポツンと残されて他には何もなかった。
「この部屋は息子の部屋だったんだけど、二年前に結婚して出て行っちゃって今はご覧の通りさ。和室だけれど東北向きの窓だし・・これじゃぁ駄目かい」覗き込むように柊を見上げた。彼は黙って窓際に行きガラス戸を開けた。左手に東急プラザが見えて角度的には少し窮屈な感じはしたが、目線を少し下げると田畑邸の屋根や黒塀が見通せる位置にあった。今まで六軒も回ってこれ以上は望めないと即断した。
「和室は全く問題ありません。是非ともよろしくお願いします」
「そお、そりゃぁ良かった。トイレはドアを開けて左の奥にあるからね。それとお風呂はどうする?」
「いえ、お風呂は結構です。駅前でサウナにでも入りますから」まさか祐天寺にあるとは言えなかった。
老婦人、遠藤道子は柊が店に入って来た時、背が高くその端正な顔立ちと、主人がにべも無く断った時『無理なお願いをしました。ありがとうございました』と丁寧に挨拶をしたのを見ていて一度に好感を持ったのである。
永年の不動産業を経て賃借人の人柄を見るのには長けていたとも言えた。賃料の話になった時、古くて風呂も無いので二週間五万円で良いと云う夫婦に、六軒回って相場としては七~八万と読んでいた柊は黙って八万円を二人の前に置いた。
そのようなやり取りの後、黙って奥に引っ込んだ夫人はお盆に煎茶とお茶菓子を載せて戻った。主人も漸く柊の人柄に納得したのか夫人共々店先での茶飲み話に加わった。
「木辺さん、あなた市川雷蔵に似ていると云われたことなあい」契約が一段落したところで突然夫人が問いかけた。
「お前、そんな昔話木辺さんが知ってるわけがないだろう」主人が笑って茶菓子で出された水羊羹を口に入れた。
「だって、木辺さん、雷蔵にそっくりなんだもの」頬を膨らますようにして柊を見つめた。
「市川・・雷蔵ですか?その方はどなたなのでしょうか?」突然の質問に戸惑いながら問いかけた。
「はははは・・木辺さんはご存知無いだろうが・・今から四~五十年前くらいかなぁ・・元々は歌舞伎役者でねぇ、直に映画スターになった二枚目の俳優さんだよ。当時は道子が大ファンでね」大きく笑って夫婦で懐かしむように見つめあった。
「そうなんですか・・・」柊も照れくささなのか手元に置かれた羊羹に手を伸ばした。
三人でお茶を飲む一時の静寂の後「それはそうと、日曜日だというのに神宮前は人が多いですね」と何気なく問いかけた。
「逆だよ。日曜だから込むのさ。この辺はブランドショップと云うのかい、外国の鞄とか服等を売る店が多くなってさ、尤も一番混むのは土曜日だけどね」
「そうですか、いや、今日もここまで来るのに結構込んでいたので・・途中で少し場違いな感じの建物が在って、ここは何屋さんだろうと思いながらウィークリーマンションを探して歩いていたんですよ」竜二は話題を逸らすつもりで田畑邸の話題をそれとなく持ち出した。
「場違いな建物?・・どこだい?」夫人が問いかけた。竜二が一瞬説明に困るのを見ていた主人が横の棚から住宅地図を取り出してページを繰り、神宮前周辺の場所を開いた。
地図上に赤や黄色のマーカーが色鮮やかに塗られている上を、指で駅前から追っていた柊が田畑邸で止めた。
「あぁそれね、木辺さんもそう思った?去年の春ごろに建ったんだけれどさぁ。何でこんな商業地に個人が住宅を建てたのか建てた人の気がしれないと悦ちゃんも言ってたよ」
「悦ちゃんって?」主人が夫人に問いかけた。
「ほら、ここでブティックをやっている佐野さんの奥さん」指で地図上の田畑邸の斜め向かいを押さえて主人に応えた。
「あぁ佐野さんね。判った」主人が小さく頷いた。
「そう、その悦ちゃんがさ、あの家が建ってから奥さんらしい人を見たことが無くてさ、そのくせ毎週土曜日の昼には花屋が大きな花束を抱えて配達して来るんだってさ」
「別に花屋が花持って来たって不思議でも無いんじゃぁないか」
「でもさぁ土曜と日曜日だけ人が出入りして、その他の日は殆ど出入りが無いんだよ」
「へぇそうなのかい」
夫婦の会話が飽きることなく続きそうな感じがして、立ち上がり「明日からよろしくお願いします」の言葉を残してその場を辞した。
帰り道も相変わらずカラフルな人通りが駅まで途切れることなく続いていた。。


理沙のいる政治部に社会部の磯田記者がぶらりと入って来て、部内に視線を走らせていたが、やがて理沙を見つけるとゆっくりと歩き出し、傍まで来ると後ろから彼女の肩を軽く叩いた。
振り返った理沙が「あら、磯田さん」驚いたように立ち上がり「どうなさったんですか」と笑顔を見せた。
「少し、時間はあるかい」磯田も微笑を返して尋ねた。
改めて部内にいくつか点在する応接セットに彼を案内して、近くにあるお茶のサーバーから二つの紙コップに淹れ、テーブルに置いて向かい合った。
理沙が先日のお礼も言い終らぬうちに「実はあれ以降、今回の赤坂の事件を洗い直してみたんだが」テーブルの紙コップを手に取り磯田が話し始めた。
「二、三気になる事があってね」と言いつつ懐からメモを取り出して、お茶を一口飲んだ。
「事件の全容は拉致、誘拐された若い女の子五人を、あの部屋で麻薬漬けで逃げられないようにした上で、高級売春婦として組織の資金源に利用しようとしていたのは周知の通りだが、新たに判った事はヤクザ達を襲ったのが黒い戦闘服と黒のフェースマスクをした二人の男だったそうだ」ここまで言って再びお茶を手に取った。
「襲われたヤクザ達は少なくとも四人いたというのに何の抵抗もせずにやられたと云うのが気になって捜査員に突っ込んでみると、いつもは喧嘩自慢のチンピラたちが怯えたような顔で、あの男の速さと技は人間とは思えなかったと供述しているそうだ」
「でも良くあのマンションにその様な戦闘服やマスクの人が入って行けましたね。それも一階の玄関だけでなく部屋にもドアスコープがあったでしょうに・・・」話しが途切れた時に理沙が疑問を口にした。
磯田は軽く右手を挙げて理沙の反論を制すると「ここからは内部情報なんだが・・どうも犯人は屋上から懸垂下降で侵入したらしい」
「ケンスイカコウ?」
「そう、よく災害などでヘリコプターからレンジャー隊員がロープで降りるのをテレビなどで見たことがあるだろう」身振りを交えて話す磯田の動きを見て理沙が頷いた。
「あれと同じように屋上から入って来たらしい」
「二人同時に・・ですか」
「いや、一人で侵入し、四人を倒した後、玄関ドアを開けて仲間を引き入れたと云う事だ」
「すると、一人で四人を・・」
「そう、それが先程言った人間業とは思えない強さと素早さだったと云う供述に繋がるんだ」そう言うと磯田は再びテーブルのお茶に手を伸ばしたが、空になっているのに気が付くと自分でお茶を淹れに立った。
理沙は話の展開を追って、磯田さんはレンジャーと云ったが自衛隊員に置き換えることも出来ると思った。
「それでだなぁ」突然、戻った磯田の声に自分の想念から引き戻された。
「次にもう一つ気になるのは、これも内部情報だが、その四人を別々に取り調べている捜査官曰く四人共、女の子は六人居たと供述しているそうだ」
「五人では無く?」
「そう、六人だ」頷きながら応える磯田は理沙を正面から見つめた。
「・・と云う事は、その襲撃者が一人連れ去ったと・・・」後の言葉が続かなかった。
「そう考えるのが妥当だろうな」暫く二人の間を沈黙が支配したが、破ったのは理沙だった。
「では・・その女性が侵入の目的だったのでしょうか?それと磯田さんが仰っていた、警視庁の上の方の動きが気になると云う事と関係するのでしょうか」正面から磯田を食い入るように見つめた。
「そこだ、さすが良く気が付いたね。これは飽くまで推測にすぎないので迂闊には言えないが僕も君と同じように考えた」内緒話をするように声が小さくなった。
「それで、いなくなった女の子の名前は判っているのですか」理沙も同じように声を落とした。
「イヤ、連中は薬を与えることと見張りが役目だったようで12とか18と云う番号でしか教えられていなかったようだ」
「番号・・まるで商品を扱うみたい」理沙の眼が吊り上って吐き捨てるように言った。
「全く奴等にとっては君の言うように商品なんだよ、あの子たちは・・」
「なんという人たちなの」怒りと女としての悔しさだろうか唇を噛むように呟いた。
彼女の女としての怒りと悔しさを目の前で見せられた磯田が、組んでいた腕を解くと優しく話しかけた。
「君を少し安心させる話もあるんだ。保護されて病院で治療を受けている彼女たちの様子だが、ショックを受けてPTSDなどの後遺症も出ているが、少しの時間なら事情を話してくれる子もいて、それによると彼等から麻薬を注射された以外は暴行などの性的行為は一切なかったと言っているそうで、収容後の医師による検査でも問題無し、と診断されたそうだ」
「そうですか・・良かった・・不幸中の幸いと言えますね。でも私はそんな悪党を許せません」いつもの快活で颯爽とした理沙は影を潜め、怒りを隠そうともしなかった。
「前にも一度言ったと思うが、この犯人は同業同士の抗争とかの類では無く、麻薬に対してなのか反社会勢力に対するものか判らないが、その心の底には強烈な怒りのようなものが流れているような気がしてならないんだ」磯田は理沙の心からの怒りを受け止めて犯人像を淡々と呟くように語った。
理沙はその話を聞きながら、全てが尼崎で麻薬の常習者に惨殺された柊涼子と元自衛隊員であったその夫に繋がったことを確信したが、その思いは自分の中にそっと仕舞い込んだ。
今、彼女の中で何かが変わろうとしていたが、それが何か、自分の中でも未だ判然としなかった。
涼子に対して嫉妬にも似た羨望の感情が芽生え、心の中で小さな熾火が静かに燈った。


          遮    断 


大室大悟は夕闇迫る国会の衆議院議員専用出入り口を出ると、第一秘書斎藤勝一がドアを開けるのを待って黒塗りのシーマハイブリッドVIPの後部座席に座り、手に持った封筒を横の席に置いた。
ビルや街路灯に灯火が入る時刻の東京は、その光の加減や色彩で賑やかさ、妖しさ、楽しみ、好奇心などを演出して夜の世界を創りだしていく。
シーマはいつもの運転手に変わって斎藤がハンドルを握っていたが、大室は気にする素振りも見せずに窓の外に目を向けて懐からタバコを取り出して火を点けた。
車はいつもの乃木坂への道には入らず四谷方面に向かって走り、二十分ほどで神楽坂上を左折して早稲田通りに入るとスピードを落として結構人通りの多い坂を下り始めた。
予めセットしてあったナビの命じる右折箇所は一台が漸く通れる様な狭い道であったが、齊藤は難なく曲がりきると先程までの人通りが消え、数軒の住宅が軒を連ねた後、夕闇に溶け込むような黒塀が二十㍍程続く中に二階建ての日本家屋が見えた。
車を進める中ほどに、道から少し下がって小振りな数寄屋門が置行燈の仄かな灯りに照らされて浮かび上がった。
斎藤はその前で静かに車を停めて降り立ち後部ドアを開けた。
門の両脇には塩が形良く盛られ、横には流麗な行書体で[よし乃]と書かれた小さな看板が掛かっていた。
開け放された門から打ち水をされた飛び石を伝って数㍍入ると浅黄色の地にこれも右下に小さく[よし乃]と書かれた麻暖簾が封筒を持つ大室を出迎えた。
墨色の地に染められた江戸小紋を粋で色っぽく着こなした女将が、木の香漂う廊下を先に進む後を追うように歩く大室は、その美しい襟足に見とれながら母屋から続く離れに案内された。
廊下に沿うようにして雪見障子が並び、それを開けると正面床間には季節に合わせて月夜に桜の掛軸が架かり、床には茶褐色に窯変した備前の花卉に、蕾が五つほど成った桜の小枝が形良く活けられ、二十畳ほどの和室の中央には漆黒の座卓が据えられている。
上座にある黒革張りの脇息付の座椅子に案内し、改めて挨拶をしようと正座をした女将に「下地君は未だ来ていないのか」と遮るように尋ねた。
席からは開け放たれた雪見障子の向こうに剪定された木々が巧みに配され、灯篭や庭石などと共に枯山水の庭が庭園灯の中で幻想的な光景を浮かび上がらせていた。
「いえ、先程お着きになって別室でお待ちです。直ぐにお見えになると思います」
折よくおしぼりとお茶を運んできた仲居から盆を受け取ると大室の前にお茶を置いた。
ほど無く、微かに黒の縞模様が入ったダークグレーのダブルのスーツに身を包み、クリーム色のシルクのシャツにエルメスのブラウンのネクタイ姿で長身の男が顔を出した。
細面の顔は鼻梁が高く、細い目は人を射抜くような鋭さがあり、切れ者のプロデューサーの雰囲気を彼に与えていた。
「いやぁ先生お久しぶりです」親しく一声かけて対面する席に笑顔を見せて座った。卓上に衝いた手の袖口からはヴァシロン・コンスタンタンの腕時計が顔を覗かせていた。
関東吉津会会長の下地辰夫は大学卒業と同時に大阪に本社を置く一流商社に勤めていたが、数年を経て川北組の四代目に誘われて組に入った、自他ともに認めるインテリヤクザであったが、十余年前川北組の関東進出の際、抜擢されて会長に就任していた。
「あんたもご機嫌で良かった」鷹揚に声をかけて使っていたおしぼりを卓に戻した。
「お陰さまで、先生には今回もお手数を掛けます」丁寧に応える姿からはヤクザの片鱗も見せなかった。
一旦下がった女将を先頭に二人の仲居が料理と酒を運び入れ、二人の席の前に並べだした。
普段は向付から八寸、煮物、造里と時を措いて出されるのが普通だが、今日は下地の指図があったのか一度に卓上が賑やかに彩られた。並べ終えた女将がビールを手に持ち二人のグラスを満たすと下地に軽く頷くような仕草を見せて部屋を後にした。
「さぁ先生、何もお構いできませんが先ずは乾杯しましょか」グラスを手に大室を促した。
「酔わんうちに渡しておくよ」乾杯のビールを一口飲んだ大室が持ってきた封筒の書類を
漆黒の卓上に置き下地の方に押し出した。
両手で封筒を取り上げた下地が中の書類を引き出すと『東京五輪用地計画案 文部科学省・国土交通省』と書かれた分厚い書類が現れた。
「与党の時はそうでもないが、野党になるとこんな書類でも手に入れるのが難しくてな」
愚痴るように言うが、自分の力を誇示するような言い方だった。
「いや、本当に先生にはご苦労を掛けます。これさえ頂ければ大助かりです」軽く頭を下げて傍らのビール瓶を取り上げ大室のグラスに注いだ。
それは、昨年九月にオリンピックの開催都市が正式に東京と決まった時から始まった。
各種競技の開催場所と新設の競技場の候補地、それに伴う沿線の開発、道路の整備など彼等にとって大きな金が動く情報戦が始まり、大手建設業者や中小の開発業者まで国会議員や地方議員を総動員してその収集に精力を使った。
関東吉津会も例に漏れず四方手を尽くして自薦他薦の情報を集めていたが、今回の文部科学省と国土交通省の両省が取り纏めた計画案は決定稿でこそないが今後の指針となる極秘資料に違いなかった。
「ところで、この前の赤坂はえらい災難やったな。未だ犯人も捕まってない云うし、あんたの所にも警察の捜査が及ばへんのかいな」書類を渡した後は今正に不安と興味の対象になっている赤坂の事件に話を振って刺身を口に運んだ。
「あぁ、あの件ですか、先生にも心配かけて申し訳ありません。田畑にもこの前叱ったんですが、嫁さんが勝手に動いて吉津会に迷惑かけましたと詫びを入れて来ましてね。本部には一切迷惑かけませんと言ってきました」他人事のように淡々と言い切った。
「せやけど、川北も去年の尼崎、神戸と来て今度は赤坂や、山本さんも頭痛いやろ。それで一連の事件の犯人は誰か判ったんですか」グラスを手に問いかけた。
「今、うちの者が色々動いている所です。おっつけ報告がありますやろ」と言った下地は今までのにこやかな顔を捨て一瞬、鋭い視線を大室に向けたが、それは大室が箸を持って料理に目を移していたため届かなかった。
鷹揚に構えてはいるものの、一連の事件がわが身にまで及ぶのではないかという疑心暗鬼が大室を支配して、その挙措言動に微妙に反映されているのを下地は見逃さなかった。
彼にとって大室の存在は貴重な情報源ではあったが、さらなる大物と組との関係を遮断する装置に過ぎなかった。
「早う捕まえてもろて、ゆっくり寝れるようにしてや。それにしても、こうも次々捕まるものが出て来るとあんたも大変やな。問題は人やな下地さん、これからの時代は人材やで。
能力のある優秀な男を使わんと、大きな商売にも繋がれへんのと違いますか」恰もヤクザの組織は能力のある人材が乏しいと指摘していた。
彼に云われるまでも無く川北組の四代目に誘われて組に入った当初は組員の能力の無さと直ぐに力に訴える単純さに苦労が絶えなかった。――五代目山本龍一に認められて、関東吉津会会長に抜擢されると麻薬、売春、違法賭博,ミカジメ料の徴収、脅迫等の主力事業を大手製造業の手法をまねて、それぞれの業(なりわい)を事業部として捉え、各事業部を競り合わすことで一大組織に仕上げたのである――当初それぞれの組長に厳しく求めたのは、それぞれの事業部で一か所が摘発されると、厳しい尋問に必ず屈するものが出てくるのは覚悟しなければならない事、その時被害を最小限にするために全体の情報を一人の人間に全てを伝え無い事など、幹部会の度に情報遮断の方法事例を挙げて厳しく指導した。
「よろしいか大室はん」自分が束ねる組を見下すように云う彼に、下地は飽くまで紳士的な態度を崩さなかったが声はざらついたものに変わった。
「私も四代目に誘われる前まで世間に一流と云われる商社に勤めたことが有ったんですが、そこである日上司の部長に言われたことが有りましてね」ゆっくりと昔を懐かしむようにグラスのビールを飲み干した。
「毎年全国の有名国公立大学を卒業して、難関の入社試験を優秀な成績で会社に入った新人が、やがて研修を経て各部署に配属され、先輩達に同僚と呼ばれるようになるわけですが、それでも数年経つと、その評価は出来る奴二割、出来ひん奴二割、後の六割は出来ると思てる奴に分かれるそうです」そこまで言って手酌でビールをグラスに満たしてニヤリと笑って続けた。
「ヤクザも同じやと言いたいけど、この世界は勉強も出来ん、社会に馴染めん、喧嘩が好き、そんな半端な連中の集まりや。そやから出来る奴一割、出来ひん奴六割、後の三割が出来ると思てる奴と云う所が正味ですわ。でもね大室はん、そんな奴ほど私には可愛いんですわ」言い終えて大室に鋭く目を向けた。
その様な人間の集団である反社会勢力の組織作りは、彼等独自で特殊なヒエラルキー社会を築きあげてきたのであった。
「成程な、面白い話を聞かせてもろた・・そうか、出来ると思てる奴三割か・・それは良い表現やなハハハハハ」その目を受けて背筋に冷たいものを感じた大室は取り繕うように大きく笑い、ビール瓶を手に取り下地のグラスに注いだ。注がれるのを受けて、今朝がた架かって来た本命議員秘書からの連絡を思い返していた。《国土交通省のドンとして君臨する男は大室が何とかして東京五輪用地計画案が手に入らないかと相談に来た時、絶対に部外秘だよとして渡したと言っていた。親の地盤、看板、カバンを引き継いだ世間の修羅場も知らないボンボン議員が年を経て顔が売れると必然的に金が要る。本命はそれを利用して彼が下地らを操っているように見せかけて自らは安全地帯に身を置いた。下地は本命の大物議員が直接下地らとの接触を控えて大室を遮断器として使うのに納得していた》
話しが一段落し飲物がビールから酒に変わるころ、廊下に衣擦れの音がして島田髷に詰袖の着物姿の芸者や地方(じかた)が桃割髪に肩上げした振り袖姿の半玉、雛妓(おしゃく)を従えて下座に座って挨拶を終え、席に着くと座が一段と華やかに盛り上がった。
雛妓、半玉から始まる修行は立方(たちかた)になるまで厳しく指導され、立方を卒業した芸妓が地方に廻るのだが三味線や鳴物、茶道など様々な素養を要求される粋と心意気を売り物にする神楽坂の芸者は『芸は売っても体は売らぬ』気概を持ち誇りも高く、これこそが政財界の著名人が女の本質を求めて通う所以でもある。
しかしながら大室にとっての関心は芸妓がその腕を披露する三味や舞などの芸でも無く、長唄や清元などの音曲でもなかった。酔う程に目が座り雛妓の手を取り執拗に絡んでいくのである。それを姉さん芸者が客に不快な思いをさせず小粋に捌くのだが、暫くすると再びちょっかいを出し始めて顰蹙を買う所謂迷惑な客の一人であった。
下地はそんな大室の乱れを見せつけられる度に、不快感を隠して杯を乾すのだが一向に酔えなかった。
先日、田畑からの報告で「あの先生、ちょっとロリコンじゃぁないですか」と云われた事を思い出したが、それもこの渡世で這い上がるために我慢して利用する世界でもあった。
淡い月に照らされた黒塀の外は、三味や太鼓の音に混じって、微かに長唄の声が静かな街に流れ出ていた。


首相官邸の秘書官室で内村は考え込んでいた。
今回の秋月家令嬢の行方不明事件は麻布警察署太田署長の機転から警視庁、警察庁と伝わった情報が、その日の内に渡辺総理まで届き、偶然と僥倖が重なったとはいえ柊君の臨機応変な活躍で無事に救出でき、西宮の夙川病院まで運ばれ治療を受けている事実はW機関のみぞ知る極秘事項であった。
その中で秋月家は当然のごとく平静が装われていたが、今朝後藤第二秘書官が、逮捕された反社会勢力の四名が全員、女は六名いたと供述していて捜査関係者は赤坂マジックとか神隠しとか名付けて首を捻っていると話してきた時「本当に!」と返したが、その後の情報も無く気分的には落ち着かなかった。
内村はゆっくりと卓上の受話器を取り上げ五十嵐警察庁長官に架けた。幸いに長官は在席していた。挨拶もそこそこに拉致された女性五名が救出されたことに労いの言葉を言った後「ところであれから二週間以上経つのですが秋月家令嬢の捜索状況はいかがなものでしょうか」飽くまで令嬢の心配を装った。
「ご令嬢の捜索は鋭意続行させておりますが、未だに手がかりが掴めず、総理を初め皆様にご心配をおかけして申し訳ありません」素直な詫びが返った。
長官を騙していると云う忸怩たる思いもあったが「ご苦労を掛けますがよろしくお願いします。ところで例の赤坂の犯人たちは素直に供述していますか」と後藤の言った風聞に話を向けた。
「・・・実は・・当時逮捕した男たちは連日担当刑事達の峻烈な取り調べを受けて、近々大きな取引があるとの供述を引き出したまでは良かったんですが・・」
「女性のですか」
「いえ、そうでは無く麻薬の取引です」
「あぁ成る程、それで?」
「それが・・彼らは二十日の日曜日に荷が入ると言うのみで、何処で、どの位の量の取引があるのか本当に知らないようで・・今、その場所や時間・量の特定をすべく捜査員総動員で情報入手に手を尽くしており、行方不明事案への人手が極端に少なくなっているのです」本来は警察庁内部の極秘捜査情報であったが、総理秘書官には尼崎や神戸の事件でお世話になった経緯も有り、行方不明者の捜査に充分な人手を投入できない弁解を込めて打ち明けた。

この事はその日の夕刻、柊から神宮前の田畑邸を監視する為、遠藤不動産ビル五階に部屋を借りて、当分の間祐天寺の拠点は留守にしますと云う報告を受けた後で、赤坂事件捜査内部の情報として連絡された。
何気ない内村秘書官と五十嵐長官の会話だったが、その情報は柊を緊張させるに充分だった。特殊作戦群でも味方が敵に捕捉された場合を考慮して、全体作戦を知るのは隊長のみで隊員には一部しか説明しない場合があった。
これは関東吉津会の情報遮断が機能している証であると判断した。
柊には山室代議士の腐敗を白日の下に晒すと云う任務以外に、麻薬の取引場所の特定と云う任務が加わった。


          増    員


柊はW機関発足以来、一人で計画の立案、偵察から実行と特殊作戦群以上に過酷な作戦が続いていた。
当初は涼子の弔いと反社会勢力への怒りの意味合いが強かったが、総理を初め秘書官の内村、第三師団の木暮幕僚長、平田最先任上級曹長らの強力な支援を背後に感じる今は素直に戦闘員としての使命感に燃えていた。
今回の経緯を振り返ると平田最先任上級曹長を戦闘員として使わざるを得なかったことには悔いが残っていた。後衛の四人は何が起ころうと表に出してはならない存在であることを考えると、あと何人か自分と同じ戦闘員、最近の電子テクノロジーに対抗できる専門の要員や、自分には出来ない船舶などの操船が出来る要員が望まれるが、それもW機関の大義に適う者である事、万が一の場合に不屈の精神力を持った者と云う要件を考えると、当面は現状維持を強いられるが、それでも一連の作戦遂行を苦労とは思わなかった。
忙しい行動の中で彼が気を使ったのは自身の健康で、体調を保つためには早朝のジョギングやエクササイズも欠かさなかった。
食事の後、神宮前での生活の準備と仕度に取り掛かったが、八時になった時W機関専用の携帯を取り上げW3を押した。
型通りの合言葉が終わると「久しぶりだな」と木暮幕僚長の低いが良く通る声が耳に飛び込んで来た。「ご無沙汰しました。先日は平田さんを使わせて頂き申し訳ありませんでした」柊は短く詫びを言って携帯を持ったまま頭を下げた。
「事情は平田の報告で聞いた」木暮も短く返事をして間を取った。
「今回は緊急時の対応としては止むを得なかったとは言え、平田は飽くまで現役の自衛隊員だと云う事も忘れるな」――お前たちが万が一捕らえられれば全体を窮地に追い込むことになる、との言葉は飲み込んだ――柊は木暮の簡単な注意の本意を理解して下げた頭を挙げることが出来なかった。
「だが、今回は上出来だったな。W1からもお礼の電話を頂いた・・・しかし、そろそろお前の補助要員が必要だな・・・」柊が頭を挙げ静かに次の言葉を待った。
「さて、次はあの議員の番だが、策はあるのか」―――大室は昨年末の尼崎浅井組爆破・神戸の銃撃戦の前から、反社会勢力と関わる腐敗議員として俎上に上がっていたが、簡単に追求できるだけの証拠が掴めずにいた―――
柊は木暮の質問に、西宮から赤坂に戻って以来、今日までの経緯と今後の計画を何も省かずに報告した。
「作戦としては理解できるが、又平田を使うのには同意できない・・・今聞いた監視作戦を続行することは了解するが・・決行は早くて十九日と云う事だな」
「そうです。それで平田さんを考えていたのですが・・・」
「分かった。少し考えさせてくれ。今日は八日だから十日か十一日までには改めて連絡する。お前も慎重に行動してくれよ。変わりは居ないんだ」それだけ言うと電話は切れた。
矢張り平田最先任上級曹長を使う事は拒否された。
先程の《彼は現役の自衛官だ》との言葉は重かった。
しかしこの作戦は平田が居なければ成立しないのも事実だったが《十日か十一日までは待て》とも言われた。幕僚長には何か代案でも・・・柊は入隊以来、幕僚長の目配りと指揮能力に些かの不安も無く、満腔の信頼を寄せていた。
結論は明白で《十日か十一日までは待て》と言われれば《待つ》だけであった。

九日の朝八時に、赤坂潜入時名残の泥が洗い流されたランドクルーザーが短期滞在の装備と食料や雑貨が二つの鞄に詰められ、遠藤不動産ビルの前に横付けされた。
改めて夫妻に挨拶を済ませ、車を二軒横にあるコインパーキングに入れると五階の部屋に入った。
窓際に遠藤夫妻の息子が残していった食卓を引き寄せ、バッグから平田推奨の2-in-1ハイパフォーマンス型のノートパソコンやミルスケール内臓のトロフィーXLT双眼鏡、暗視装置JGVS―V8、タクティカルライトなどの持参品を並べて置いた。
水曜日の八時過ぎでもあるせいか人通りも少なく、通勤や配達の車が行き交うだけで特に変わった動きは無く、8倍の視野を持つ高性能Bak-4プリズム双眼鏡の視界は良好で黒塀の木目まで見ることが出来た。
ノートパソコンの画面上には、監視を始めてからの田畑邸の動きが時間ごとに書き込まれるようになっていたが、昼までは何も書き込まれることは無かった。
動きが出たのは一時頃であった。宅配便が通用門の前に停まり、配達員がインターフォンを押して一、二分立つと中から若い男が出てきて小さな小箱を受け取って、そのまま家の中に消えた。それ以降、動きは再び止まってしまった。しかし特殊作戦群の偵察訓練の過酷さと我慢とは雲泥の差が有り、楽なものではあったが邸内や周辺の変化を見逃すことの無いように神経だけは集中させていた。


第三師団の通信中隊、飯田五郎曹長は当直将校から朝八時の国旗掲揚終了後、速やかに幕僚長の元に出頭せよとの命令を受け、緊張した面持ちで幕僚長室のドアを開けた。
執務机の後に座る木暮幕僚長の背後に、重厚な織物の日本国旗と団旗が左右に並び立ち、傍らには濃緑色の制服を着た平田最先任上級曹長が控えていた。
自席から立ち上がった幕僚長のシャツの上襟章は昨年の三個の金の桜から一回り大きな金の桜二個に変わって准将としての威厳を更に増していた。
緊張したままの飯田曹長の敬礼に答礼した幕僚長は、気さくに飯田の背後にある応接セットに座る様に促した。
飯田にとって第三師団に入隊以来何人かの幕僚長を迎えたが、木暮幕僚長には歴代の幕僚長とは異質の雰囲気とカリスマ性が有り、通常課業では何の接触も無かったが、全隊員を前にする訓話とか指示に説得力が有り、彼等はそのエネルギーを肌で感じていた。
幕僚長が席に着くと隣に平田も腰を下ろした。未だ立ったままでいる飯田に平田が促して初めて飯田は腰を下ろし背筋を伸ばした。
タイミングを見計らったように女性曹士がコーヒーを部屋に運びいれた。
平田が持っていたファイルを木暮の前にそっと置いたが、じっと飯田を見つめたまま声をかけた。
「昨年、特殊作戦群の為に作ってくれた通信機器は実に良く出来ていた・・・それと・・・
生野での人命救助に始まり訓練場の探索に至るまでご苦労だった」低い声で歯切れよく話すと、手を伸ばしてテーブルのファイルを取り上げて開いた。
飯田は未だ緊張が解けなかった。頭の中では幕僚長に感謝されている事は理解できていたが言葉としては何も出てこなかった。
「身長一七三㎝、体重七五㌔・・通信・デジタル機器に精通・・か、時に君は師団の訓練時に大切だと思っている事は何か」手に持った身上書を見ながら質問をした。
突然の問に少し驚いたが「自分は隊員同士の相互信頼と思っています」飯田が即答した。
「ほぉ、どうしてそう思うんだ」
「はい、敵と遭遇時の銃撃戦では銃弾は前からばかり来るとは限らず、横からの銃撃には全く無防備で相互信頼が無ければ前方の敵に集中できないからであります」日頃自分が思っている事を一気に喋って少し緊張が解れた。
その後、身上書を見ながら実家の家族構成や、兄弟の状況、通信中隊での勤務状況などに質問が及んだ。
「ところで、柊一尉は知っているな」
「はい」
「彼の除隊理由は知っているか」
突然話題が変わったのに戸惑いを覚えたが「いいえ、知りません」と素直に応えた。
木暮は横に座る平田を見た。微かに平田が頷きを返す。
「彼はあの事件の後、奥さんの追悼の為に殺人を犯してしまった」秘密が暴露された。
その場が一瞬凍ったかのように全ての動きが止まった。木暮と平田が前に座る飯田を見つめていた。
「矢張りそうだったんだ」俯いたままの飯田が小さく呟くと顔を上げ、思いつめたように二人を見た。
「自分の実家は先程も申し上げた通り朝来市ですが去年の夏のあの事件の後、お盆の休みを頂いて帰った時、兄弟が久しぶりに全員揃って・・私が自衛隊員と云う事もあって当然のようにあの事件の話になって・・一番上の兄貴が《もし、睦子があの奥さんのように殺されたらお前達どうする》と全員に聞いた時、自分達兄弟の答えは全員一致で《犯人を殺す》と云うものでした。その答えを出した時、新聞では縄張り争いだとか複数の犯行と憶測記事が書かれていましたが、自分は、これは柊一尉の単独犯だと云う確信に似たものを感じていました。柊一尉なら可能だと思ったんです。だから今、それが事実だとしても不謹慎かもしれませんが、自分は柊一尉を非難しようとは思いません」背筋を伸ばして言い切った。再び沈黙の時間が続いたが今度は平田が幕僚長を見た。木暮が僅かに頷いた。
「飯田曹長、あの塩田組が全滅した後、縄張りをそのまま引き継いだ浅井組が壊滅し、更に神戸港の銃撃戦で大量の麻薬が摘発された事件も全て彼が絡んでいるんだ」まさに驚天動地の話が続いた。飯田は話を聞きながら心の中から湧き上がる興奮を抑えるべく手で掴んだズボンの膝を強く握りしめた。顔は赤く染まり平田を凝視していた。
「まだある」平田は淡々と話を続けた。
「先月の二十三日には東京の赤坂で拉致された女性五名が救出された事件があるだろう?」
問われた飯田が平田を凝視したまま頷いた。
「あれも警察は知らないが柊が救出した」全ての秘密が暴露された。
静寂が時を刻み、やや落ち着きを取り戻した飯田は顔を上げて幕僚長に問いかけた。
「何故、自分にこの秘密を話して頂けたんでしょうか」素朴で素直な質問だった。
「今、柊は助けを求めている」幕僚長は一言いうと平田を促すように見た。
平田は渡辺総理と内村秘書官を《ある高官》―――情報の遮断措置であった―――と云う表現で全てを話し始めた。
W機関の誕生。張込みや、追跡、盗聴、銃撃戦、接近戦、更には狙撃によって負傷したことまで全てを話し、戦闘員として力を貸して欲しいと説いた。
続いて木暮から、もし助力を貰えるならば、君には除隊してもらわねばならない事、敵に捕らえられても法的な救出手段は無い事等、柊の時と同じように告げられた。
二人を真直ぐ見つめて、話を聞き終わった飯田は暫く考えた後話し始めた。
「先程、申し上げたように自分は生野で生まれ育った電気屋の小倅です。兄弟が多くて全員高校しか出して貰えませんでした。親も面倒だったのか上五人の名前も一郎から始まり自分の五郎まで順番で名付けられました。最後に生まれた妹に親は喜んで、真剣に名前を考えたそうです。それで兄弟仲睦まじく過ごすようにと付けられた名前が睦子でした。女と云う事で自分たちも睦子を可愛がりました。その睦子が殺されたらどうすると云う質問に《犯人を殺す》と全員即答でした。その後兄弟で話し合った時、確かに法は法として在るのですが、その網を掻い潜って悪い奴を守っているのも法では無いんかと・・・つまり法では裁けなくなっているのと違うかと云うのが我々の出した結論でした。だから今幕僚長から話をお聞きして、兄弟たちもきっと言うと思います。五郎ここでお前が立たんかったら男や無いぞと。それに柊一尉の下で働けるのは自分にとって最高の気分です」訥々と話す言葉に衒いは無かった。
「柊は君より年下だが・・」幕僚長が問いかけるのに「あの人は別格です。あの人は自分の憧れですから」その一言で結論が出た。
「今の日本の自衛隊には名誉除隊と云う言葉は無いが、今回の君には名誉除隊と云う言葉こそ相応しいものだな」幕僚長の言葉に立ち上がって頭を深く下げた飯田は胸が熱くなるのを抑えられなかった。
テーブルに置かれたコーヒーは冷めて、置時計は十一時過ぎを指していた。

柊は幕僚長からの電話を午後一番に遠藤不動産の五階で聞いた。
型通りの対応の後「平田最先任上級曹長の替りは通信中隊の飯田五郎曹長を十一日付で除隊させ十二日にはそちらに送る。彼は我々の話を聞いて迷うことなく受け入れてくれた」そう言って、午前中行われた三人の会談内容を簡潔に伝え、総理と内村の事は《ある高官》としていることも言い添えた。
「了解です。彼なら生野以来気心も知れており心強い限りです」本心から喜んだ。
続いて、飯田の除隊手続きに時間がかかること、W機関専用の携帯を飯田自ら現在造っていること、オフィスK名義の名刺も作らねばならないことが十二日になる大きな理由だと聞かされた。
「それで、オフィスKでの彼の名前は決まったのでしょうか」興味津々で聞き返した。
「彼は谷村新司の歌が好きで、是非谷村にして欲しいと言い張って、名前は自分が五男でいつも長男が羨ましくて仕方なかったから一郎にして下さいとさ」声がおかしそうに笑っていた。
「それで結局・・」
「あぁ、谷村一郎で決まりだ」つられて柊も笑っていた。
「それと、W機関一名増員の件は内村を通じて総理にも報告しておくが、それまでにお前が必要な装備品があれば持たせることが出来るが、何かあるか」いつもの口調に戻って聞いてきた。
「有難うございます。今のところは全て揃っています」柊も淡々と応えた。
何時でも全体に細かく気を配り、的確な指示と、俊敏な行動は木暮幕僚長の真髄であった。


          偵    察


飯田は朝の九時過ぎに柊の部屋をノックした。ドアを開けた柊は一瞬驚いた表情を見せたが「やぁいらっしゃい、随分早いですね」にこやかに彼を出迎えた。
「はい、一番の新幹線に乗ったら、この時間になりました」大きな擦り切れたキャンバスバッグを抱えるようにして屈託なく答えた。
十畳ほどの部屋だが百七十㌢を超える体格のいい二人が立つと部屋が狭く見えた。
今朝淹れたばかりだというコーヒーを自分で注ぐように頼むと、柊は窓際の座布団に戻り監視を再開しながら「それにしても急だったから驚かれたでしょう」事情を知った柊が先輩を立てた物言いだった。
「いやぁ、少し驚きましたが、やっぱりと云うのが感想でした」
「やっぱり?」
「えぇ、【S】は自分の憧れでしたから、この結末は一尉なら不思議ではなかったです」言いながら飯田は幕僚長との面談の詳細を語った。
概略しか聞いていなかった柊は嬉しさよりも《今後起こるだろう事案では自分が彼を守る》双眼鏡を眼に当てたまま、改めて自身に言い聞かせた。

十時になって飯田を伴い一階の遠藤不動産のドアを開けた。相変わらず主人は入り口近くの椅子に座り、夫人は奥の席で帳簿を繰っていた。
「おはようございます」柊は元気よく声の調子も上げて挨拶をした。それぞれの席で顔を上げた二人はにこやかな笑顔を作り、夫人は席を立って前に出てきた。
「部屋の住み心地はどおぉ」最初に声をかけてきた。
「はい、眺めも良くて、気に入ってます」
「そう、それは良かった」ふと柊の後ろに立つ飯田に目をやって「そちらは?」微笑みを絶やさずに聞いた。
「あぁ、紹介します。僕と一緒に働く同僚で谷村一郎君と云います。今日は彼と一緒に打ち合わせと思って来てもらったんですが、紹介がてらご了解を頂きに来ました」
前にそっと進み出た飯田が谷村一郎の名刺を取り出してぎこちなく差し出した。
受け取った名刺を顔に近づけて見ながら「それはご丁寧に、でも彼方に友達がいないとは思ってないわよ。一旦貸した部屋だもの勝手に使ったら良いのよ。女の子も自由だからね。でも、木辺さんの女性の趣味がどのような人か一度、見てみたいわね」からかい半分の冗談も飛び出して気さくに笑った。

部屋に帰った柊は窓際に座り、先ず監視を二時間毎に交代することを決め、今までの塩田組殲滅から赤坂の女性救出を経て今回の監視に至った経緯と、今後の行動計画を説明した。その間、昼食の為の交代もあったが、冷静に聞き終えた飯田は、先日幕僚長の要請を快諾して隊舎に帰った夜、自問自答して自分なりの結論を出していた。
以前、テレビで見た事のある能楽の中のシテとワキの立場と同じだと思った。
能そのものは自分には縁遠いものと思っていたが、確かあの時、ワキは極めて重要な役回りを演ずると言っていた。即ち状況の説明やシテとの会話で物語が進んで行くというものだった。正にそこに飯田は自分の立ち位置を見つけた。
暫らくして監視時間を終えて柊と交代した時、飯田が初めて口を開いた。
「一つ質問よろしいでしょうか」未だ馴染めていない丁寧な口調だった。
「何でもどうぞ」柊がトロフィーXLT双眼鏡を眼に当てたまま返事をした。
「一尉が中へ入って制圧した後は、待機している自分が車をどこに運べば良いか・・未だ自分は東京に不案内で場所の特定に時間が掛かる可能性が有ります。この時間を利用して渋谷区の地図を二冊買っておきますから、それで指示を頂けますか」―――地図には場所を特定するために上の余白にアルファベット、横には数字が等間隔に並び、自衛隊で通常使われる位置の特定手段だった―――
「あぁ、そうですね・・・ではそのついでに無線式のインカムも買っておいてもらえますか。両手を空けておきたいので・・」
「了解しました」お互いに自衛隊同士、まして通信中隊にいた飯田には、それの持つ役割が理解出来た。柊も双眼鏡から眼を離して柔和な笑顔を見せた。
しかし飯田は未だ立ったまま俯き加減に柊を見ていた。
「何か?」不思議そうに問いかけた。
「実は自分用の携帯を作ったり、除隊手続きが忙しくて新幹線代で・・・・」柊は思わず苦笑いを浮かべた。
「そうでした、すいません気が付かなくて・・」言いながら自分のバッグを手元に引き寄せて小さなポーチを取り出すとそのまま飯田に手渡した。
「中に通帳と印鑑それにキャッシュカードも入っていますから。それで必要なだけ引き出してください。カードの暗証番号は40243です。それを作ってくれた方は《仕置きに予算》と覚えれば良いと言っていました・・それと今後は飯田さんが、それを管理してくれませんか。どうも自分は会計とか金の管理は不得手で」そう言うと再び監視に戻った。
「はい、ではお預かりします」飯田はポーチを持ったまま踵を返して出て行った。が、暫らくすると再びドアを開けて入って来た。
手には開けられた通帳が握られていた。
「一尉殿。これは・・・」緊張した面持ちで十桁の数字が並んだ通帳を突き出して動きが止まった。
監視から飯田に柔和な目を向けた柊は「我々の大義のために預かった資金です。だから大切に使わねばなりません。でも、必要ならばそれを全部使う事も吝かではありません」きっぱり言い切ると再び双眼鏡を覗き込んだ。
飯田はエレベーターに乗り込み、遠藤夫妻に挨拶に行った朝を思い返した。
夫妻に紹介するとき一尉は自分を『僕と一緒に働く同僚』と紹介してくれた。普通なら『僕の部下』だろう。そして十億数千万の金を自分に預け、よろしく頼むと・・
さらに今・・その信頼に、今までに味わったことの無い高揚感、そして限りない充実感を覚え、幕僚長に呼ばれ慌ただしく東京へ来た時の、小さくなかった不安感は跡形も無く消え去った。

飯田が未だ買物から帰らぬ午後の三時ごろ田畑邸に動きがあった。田畑邸の通用口の前に[フローリスト神宮]と花文字が車体に大きく描かれた白いワゴン車が止まり、グリーンの帽子に同じ色のジャンパーを着た運転手が降りて、後ろのドアを開け大きな花束二つを取り出すと車を回り込んで黒塀とワゴン車の間に入った。その背中には車体に描かれたのと同じ店名が書かれていた。柊は家主の遠藤夫人が契約時の雑談で『田畑邸の前でブティックを開いている佐野さんの奥さんが、毎週土曜日の昼過ぎに花屋が大きな花束を運んでくると言っていた』と話していたのを思い出し、今日がその土曜なのを確認した。
四時過ぎに飯田が買い物から帰り、留守中の状況をノートパソコンを見てチェックすると監視を交代した。
夕闇が迫り街灯や店舗内の照明が点きはじめた頃、監視は双眼鏡から暗視装置JGVS―V8に替えられ、柊が夕食のインスタントラーメンを食べ始めた時、飯田が「女ですねぇ、それも若い女です。それに今気が付いたんですが・・あのロックはオートロックですね」
「オートロック?」直ぐに柊が暗視装置を受け取り、覗くと色は定かでは無かったがタイトスカートの女が邸内に入るところだった。
「はい、表のインターフォンを押すとあの家の中の監視カメラで顔を確認して開錠するんですが、戸が閉まると自動でロックするシステムです」飯田には比較的簡単なシステムだった。
「八時前後には、大室が車で来る可能性が高い」装置を飯田に返しながら邸内に入る方法を考えていた。
予想通り八時過ぎになって黒塀の正門が開かれ、間もなく大室の日産フーガ三七〇GTが邸内に消えた。
暫らくして二階のベランダのある部屋の電気が点けられた。
夜は三時間おきの交代にしたが、翌日の小雨が降りだした日曜日は十時頃に大室の車が出て行くのを確認し、十一時になって見送った女のタイトスカートは真っ赤だった。
月曜日になって新しい動きが見えだした。
十時を過ぎた頃から時間的にはランダムに二十代から四十代と幅広い年代の男が訪れて、玄関に入ると、僅か二、三分後には帰って行った。服装も多くは背広上下にネクタイを締めていた。他にジャンパー姿、ジャケット姿と多彩で、いずれもサラリーマンには見えず、夕方の四時を過ぎるとそれらの動きが全く無くなるのである。
火曜、水曜と同じ動きが続いた。昼の仮眠が終わった柊が交代の前にノートパソコンを見ると《午後一時十分宅配便手荷物配送・受け取りC》の書き込みがあった。――この数日間で邸内には田畑以外に四人の男がいて、仮の名をAからDとして書き込んでいた――
これは?柊は今日が水曜日だと確認すると画面をスクロールして前の週を呼び出した。
「矢張り」呟いて見つめた画面には先週九日にも《午後一時宅配便手荷物配送・受け取りB》の文字が並んでいた。
「今日のこの宅配便が持ってきた手荷物の大きさは?」画面を指して聞いた。
「この位の箱です」両手で三〇㌢角程度の大きさを作って柊に見せた。
先週の箱の大きさと同じだった。あの箱には何が入っているのだろうとの疑問が残った。
二十四時間の監視は粘り強く続けられたが、飯田の加入で疲労は全くと言っていい程無く、一人と二人ではこうも違うのかを実感していた。
柊は決断を迫られた。本来ならばもう一週間ほど偵察を続けて慣習通りかどうか、ランダムに訪問する彼等の身元はどのような者か確認したいことは多くあったが、先日の内村がもたらした《二十日に大きな取引がある》との情報は、それまでに場所の特定が必要な事を示唆していた。
九日から本格的な昼夜の監視を始めて一週間程しか経っていないが、遠藤不動産ご夫妻の世間話からの情報も含めて概要はつかめた。
柊は見切り発車を決めた。
関東吉津会の情報遮断が幹部である田畑にどの程度の情報を与えているのか、全く未知の部分だが、直接聞くには相当の修羅場も覚悟しなければならない。しかしずっと通信中隊に居た飯田には未だ見せたくなかった。柊は敢えて今回の突入は一人でやろうと臍を固めた。―――この戦いは長期戦になる。徐々に慣れてくれればいい、何れもっと厳しい場面が待ち受けている―――

十六日は早朝から細かい雨が降っていたが、四時に交代した柊は霧雨の中をジョギングに出かけ、六時ごろに全身を濡らして帰ると、紺色のジーンズと同色のTシャツに着替えた。監視を続ける飯田から留守中に異常無しの報告を受けると、このまま買い物に出かけるからと、トイレに行くように促し双眼鏡を受け取った。暫らくして戻った飯田からキャッシュカードを受け取ると「後は頼みます」の一言を残して出て行った。

柊が帰って来たのは午後の四時を過ぎていた。
「遅くなりました、さぁ変わりましょう。何か動きが有りました?」食卓のノートパソコンを見ながら聞いた。
「いぇ、何時ものように男が三人ほど来ただけで他の動きはありません」窓際に座る飯田が淡々と報告する。
「飯田さん、明日の夜此処を撤収して一旦拠点の祐天寺へ戻ります。次起きた時から部屋の片付けとかインスタントのゴミの処理、自分の衣類など、交代で準備にかかりましょう。それまでゆっくり休んでください」
「了解です。では少し休みます」素直に応えて部屋の隅に横になった。一尉がどこに行っていたのかは判らなかったが、自分より疲れているにも拘らず、先に休めと指示を出す一尉に、ワキに徹すると決めた飯田は《知りたい》願望は呑みこんだ。
監視はそのまま次の日の夜まで続けられ、交代の度に撤収の準備が整って、遠藤不動産の夫婦が寝静まるのを待って夜中の十二時を過ぎてランドクルーザーにバッグを積み込んだ。
「遠藤さんにご挨拶しなくて良いんでしょうか」飯田が気遣うように聞いた。
「この部屋は二十二日まで借りる契約だから、仕事が終わってから改めてご挨拶しようと思ってる」
柊は静かにアクセルを踏み込んだ。

祐天寺に帰り着くと柊は鍵を飯田に預けドアを開けるように頼み、郵便受けを覗いた。
新聞は取っていないが、中には多くのチラシで満杯になっていた。暗かったので全部まとめて束にすると、飯田が開け門灯が点いた玄関に向かった。
久しぶりの拠点は出て行った時のままで、食卓の上にチラシの束を置くと、中に一枚だけ
違った紙片を見つけた。それは《宅配便の不在連絡票》で差出人は平田幸司とあった。  
配送依頼は夜が明けるのを待つことにして飯田を伴い拠点の説明をして廻った。

たっぷりと六時間ほどの睡眠をとった飯田が二階の部屋を出て階下に降りると、上下白いジャージー姿の柊が朝食の準備をしていた。
「すいません遅くなって」飯田が慌てて柊の手にあった玉杓子を掴んだ。準備をしながら聞けば、二時間ほど前に起き出しジョギングとストレッチを済ませ三十分ほど前に帰った所だと云う。飯田は偵察の時から特殊作戦群で【S】と言われた男の片鱗を随所で見せつけられた。

食事の後、連絡を取った宅配便は十時過ぎに届いた。中には飯田用の黒のバトルドレスユニフォーム、防弾ベスト、タクティカルベスト、戦闘手袋が予備も含めて二着ずつ入っていて、手紙の類は何もなかった。
それを見た柊は、直ぐに専用携帯で平田に礼を言うと『それが後衛の仕事だよ』と一笑にふされ、改めて宅配便の段ボール箱をつくづくと見やった。その時、何かが柊に訴えかけた・・宅配便?・・田畑邸の宅配便・・あの宅配便の中身はもしかして・・麻薬?・・それを受け取りに・・あの連日田畑邸に来る二十代から四十代と思われる男達・・即ち売人・・矢継ぎ早に想念が浮かんだ。そうだとすれば全て辻褄が合う。平田の配慮が思わぬ思考へ導かれ、大室の非行を暴くための偵察が奥深く潜んでいた副産物を生みだした。

十一時を過ぎて二階の武器庫から持って降りる装備リストを飯田に渡し、柊は庭に出て駐車場に向かった。そこにはランドクルーザーの横に一台の白い中古のハイエースバンが置かれていた。
この十日ほどの偵察の間に試行錯誤を重ねた実行計画には欠かせない、車の廃棄場所の選定があった。ネットで見つけた前橋の廃車置き場の下見を兼ね、一昨日飯田には買い物に出かけると言って前橋の中古車販売店まで出かけ即金で買い取り、祐天寺への帰路は買物に立ち寄りながら此処まで運んでおいたものであった。
後部ドアを開けて紙袋やレジ袋を取り出すと家の中に持ち込んだ。
リビングテーブルには飯田が運び下ろした装備品が所狭しと並べて置かれていた。柊は手荷物を床に下ろすとキッチンテーブルに移動して明日の実行計画の説明に移った。飯田が初めて聞く戦闘前ブリーフィングだった。


四月の渡辺政権はその政策の実行能力と腐敗政治の立て直しが着々と成果を上げ、国民の支持率も二〇〇一年六月の今泉政権発足時の八十五%には及ばないが、その後一年足らずで四〇%台に低迷したのとは逆に、発足時六五%だったのが任期三年を迎えようとする今では七六%までうなぎ上りの人気を誇っていた。又、三月に行われた石川県や大阪市、四月の京都府の首長選でも自由改革連合が圧勝し、不祥事続きだった警察も五十嵐長官の登板以後、汚名は返上されつつあった。
毎朝新聞政治部もいつもの批判的な論調は陰を潜め、追及する材料も無く盛り上がりに欠けていた。
その中で理沙は自席に座り順風の渡辺政権よりも、昨年来の尼崎・神戸事件に始まる今回の赤坂事件に思いを馳せた。
春分の日の二日後、二十三日の深夜に解決された赤坂の拉致事件は、それまで警察も全く気付かなかった事案で、磯田記者の事後調査では一通報者による電話連絡が発端で即結末だったと聞かされた。その後、救助された五名の女性たちは麻薬を連日摂取され、中毒にまで及んでいる者もいるが性的行為からは免れていると云う。
不可解なのは彼女達や逮捕された者達が異口同音に六名居たと供述している現実だった。
その女性はいったい誰?・・・磯田さんと想像したのは政財界の子女・・だったが何処に隠れたのか周辺には全く影すら見えなかった。一方報道各社も事件当初は大々的に報道したにも関わらず、日が経つとともに毎日のニュースの中に埋没させ、追跡調査もおざなりになっていた。
あのベテランの磯田記者は、女性達を救出したと思われるマンション襲撃犯は麻薬に対してか反社会勢力に対してかは定かではないが、その底辺には強烈な怒りがあるのではないかと推量していた。
それらの事象から彼女が導き出した結論は、惨殺された柊涼子さんのご主人であり、陸上自衛隊第三師団に所属していた彼が実行者に違いないと云う事だった。(残念ながら名前は未だ判らなかった)
理沙はこの結論に確信に近い真実を見ていたが、同時に事件の解明そのものより柊と云う個人に興味の軸足が移っていった。
赤坂の拉致救出以来、今日は四月十九日、一か月近く経つのに一歩も進展が無かった。
思い出したのは、磯田の紹介で会った科捜研の山田技官が《神戸と尼崎の事件は超一級の腕を持ったプロだ》と云う言葉だった。更に先日磯田は赤坂の犯人?はレンジャーの隊員がやる懸垂下降で侵入したと言った。
ふと、理沙はデスクに置かれたパソコンに(陸上自衛隊最強の部隊)と打ち込んでクリックした。
画面に《陸上自衛隊最強?特殊作戦群》の文字が浮かんだ。
自分の体が急に緊張したのを自覚したが、更にクリックすると、いきなり自衛隊の迷彩服を着た兵士が黒い覆面をして銃を持った不気味な姿と共に説明文が出た。
『日本最強の部隊として二〇〇四年に編成された特殊部隊で、その素顔や内容は秘密のベールに包まれている』マウスを持つ手が小さく震えだし、内心、コレダ!”と叫んでいた。
尚もスクロールして読み進んだ。
『隊員は空挺資格とレンジャー資格の両方を保有している事が原則で、全隊員の三〇%に満たず、さらにその両方の資格を持つ者達の三〇%しか、特殊作戦群に合格しないとされ、隊員は選りすぐれの中の選りすぐりであり、一般隊員からは畏怖を込めて【S】と呼ばれている』とあった。
何という集団だろう、これは正しく科捜研の山田さんが言っていた《超一級のプロ》そのものではないか。理沙の確信は深まったが、メビウスの帯の中を当ても無く彷徨い、辿りつくことの無い世界に足を踏み入れた気がした。


          決    行


「決行は明日の午後四時にします」と告げた。
何時書き上げたのだろうかと首を捻る様な計画書が飯田の前に置かれた。そこには、決行は四時からと聞いたばかりだったが、一五〇〇から二二〇〇迄(軍隊用語で午後三時から午後十時迄の意)十分おきに罫線が引かれ、二人の綿密な行動計画が描かれていた。
「今回の作戦に当って、この拠点を出た時から飯田さんはW6、自分はW5を名乗り本名は使いません」二人の確認事項を厳しい口調で告げると再び続けた。
「次に、先程四時に決行と言いましたが、飯田さんは一時間前の三時にランドクルーザーで先発して神宮前の、この駐車場に駐車した上で携帯を使って自分に知らせて下さい」
渋谷区の地図をテーブルに広げ、都道四一三号線から田畑邸へ入る手前の歩道橋の傍にある駐車場を指した。
「自分はバンで三時半に此処を出て、飯田さんを拾ってから三時五五分には進入路に入ります」
「何故、一緒じゃないのでしょう、それと連絡はインカムだと駄目でしょうか」すかさず質問を挿んだ。
「一つはこの時間帯の渋滞を考慮した事、二つ目は駐車場に空きスペースが無い場合が有り、空き待ちで車が二台並ぶのは目立ちすぎるからです。インカムも同じ理由です」計算された理屈に飯田は黙って頷いた。
簡潔で要領を得たブリーフィングは、その後一時間を超えて続けられたが、何故か侵入後の柊の動きは計画書には一行も無かった。
飯田は二台でスタートして最後は一台で帰る全容を知って納得し、興奮も覚えたが小さな不満もあった。
「最後に・・飯田さんに田畑邸に入って貰わないのは、今回は少々手荒い作戦になる事が想定され、実戦に不慣れな飯田さんには厳しいと判断しました。この戦いは今後も続きます。その為の演習だと思ってください・・それと三時からは自分が先発することも考えたんですが、今言ったように自分は防弾ベストやタクティカルベストを着こんで駐車場を歩くのは余りにも目立ちます」不満があるのを見透かしたような言葉に少し赤面して大きく頷き、差し出された手を強く握り返した。経験の浅い自分への配慮と、失敗を考慮に入れない自信に圧倒された。
「了解しました」返事がやけに大きかった。

今朝は雲が薄く空を覆う、所謂花曇りになった。
二人は朝のジョギングから帰ると朝食の準備に取り掛かった―――祐天寺に帰って飯田は柊の朝のジョギングに毎日付き合うようになった―――
朝食を済ませると飯田はそのままランクルを駆って外出した。
見送った柊はリビングに戻ると、飯田が降ろしてくれた装備の装着に掛った。
先ず、タクティカルベストをTシャツの上に着込み、今日は重要な役割を果たす拳銃に目をやると真剣な表情に変わった。テーブルに黒い光を帯びたグロッグ十七とベレッタM八四が置かれていた。グロッグより装弾数は少なくなるが銃身長が九七㎜と小型で操作性の良いベレッタ(通称チーター)を選び、サプレッサーを装着するとテーブルに戻した。
予備のマガジン二本はベストの下段ポケットに収納した。
次いで、プラスチックカフ十数本を束にして上段ポケットに押し込み、前橋の帰りに買ったレジ袋の中身をテーブルに広げ、出てきたジップ付のビニール袋、ガーゼ、大小のゴムバンド、カッター、メモリーレコーダー等を手際良く収納し、別の紙袋からは緑色のジャンパーと帽子を取り出し、ベストの上から着込んだ。
タクティカルベストの上から着ることを想定して大き目を買ったが、ジッパーを上げて隠すには少し余裕が無く厳しかったが何とか上げることは出来た。
拳銃ホルスター、インカム、腕時計nite、戦闘用皮手袋、防弾ベスト、フェイスマスクと共に点検を終えると最後にダガーを足首に装着して準備をほぼ終えた。
柊が一息入れようとコーヒーを淹れている時、飯田が大きな花束を抱えて帰って来た。
「こんなもので良いでしょうか」無骨な男二人には不釣り合いな極彩色の花束は何十本も束ねられて派手な包装に包まれ、仄かな香りが部屋を漂った。
「凄い!・・いや、充分です」柊も言葉に詰まるほど見事な花束だった。

「花?間違いじゃぁないか。先程届いたばかりだぜ」飯田は助手席側の窓を下げてその声を聴いていた。
「はい、今日はもう一束増やすように言われていたのを手違いで、持たせるのを忘れていたもので・・」帽子を目深にかぶり大きな花束で監視カメラを遮るように柊が言い訳をする。
「・・・・」インターフォンの向こうで誰かと話す声が聞き取れない。
「それじゃぁ持って来てくれ」ドアがカチリと小さく音を発ててロックが解除された。
飯田はその音を聞き柊が黒塀の中に消えるのを確認すると、ランクルを停めた駐車場で、九時の撤収まで待機するため静かに車を発進させた。
柊は邸内に足を踏み入れて直ぐにジャンパーからフェイスマスクを取り出し、インカムを着け帽子を被り直した。腰に手を回しチーターにサプレッサーを装着するまで一連の動作は驚くほど俊敏だった。
右手に持ったチーターを花束の後に隠し持ち玄関ドアを開けると、右奥のドアが開き、茶色のタンクトップ姿の若い男が出てきて花束を受け取ろうと前に出た瞬間、柊は花束ごと体当たりをしてサプレッサーの先端で男の鳩尾を激しく突き、その勢いで男が出てきた入口の前に立った。倒れた男は頭を床に強く打ったのか、その場で花束と共に海老のように体を折り曲げて動かなかった。
リビングにはベージュのカーペットが敷かれ、センターテーブルを挟んで向かい側にある三人掛けのソファーの前で白いブレザーを着た四〇がらみの男が立ち上がろうとした。
「動くな、そのままそこに座れ」チーターを男に向けたまま静かに命じた。
木製のセンターテーブルを挟んだ一人掛けのソファーには赤いTシャツを着た若い男が座っていたが、じっと柊を睨んで動かなかった。
その時、柊の対角線にあるドアが思い切りよく開けられた。
「親分!何か・・」若い男が叫ぶように入って柊を認めるとその場に立ちすくんだ。
手にはロシア製のトカレフが握られていた。
「其の侭、銃を床に置け」銃口を入って来た男に向けて静かに命じた。無地の白いポロシャツの男は「うるせぇ」と叫ぶなり拳銃を柊に向けようと動いたが、チーターから発射された弾丸は男の右手首を正確に打ち抜いた。
映画やドラマではプシュと云う小さな効果音を出しているが、本来は集成材を金属ブラシで素早く擦る音に似て、数値的には九〇デシベル(電話機のベル並みの音)程度で、単発であればリビングの窓ガラスに減殺され、外部には銃声では無いと誤認させるには十分な音であった。柊はこれが銃を使う最後であってほしいと願いつつ、銃口を白いブレザーに向けた。
「ア、ア、アー」声にならない呻き声を出した男は、血が流れ出した手首を抑えその場に蹲った。
特殊作戦群で戦闘行為時の安全とは、敵にチャンスを与え無い事と戒められ、戦闘は常にフェアでは無いと叩き込まれた結果だった。
しかし、この事は思いもかけぬ効果をもたらした。腰を上げかけていた田畑は、後から出てきた配下が撃たれるのを見て、諦めたように座りなおした。
彼はマスク姿の男が飛び込んできた時、最初はサイレンサー付のモデルガンかと思ったが、吉夫の手首が血に染まったのを見て事実を受け容れた。
だが、その目は柊のマスクを見つめて動かなかった。
偵察では四名の若者を確認していた。あと一人・・・赤シャツの男の後から銃口を首筋に当て「他に人は居るのか」冷たく問いかけた。
男は俯いたまま首を横に振ったが、廊下にチラリと目をやったのを見逃さなかった。
柊はすぐさま廊下に飛び出し、ドアが一つあるのを見て思い切り蹴破った。
ジーンズに白のTシャツの男が携帯を持って立ちすくんでいた。それを取り上げて発信の痕跡を探したが何も無かった。
突入時に一番恐れていた外部に連絡される事態は回避できた。
男をトイレから引き摺り出し、後ろで昏倒している男の襟首を掴み、二人を部屋の中に引き入れ、撃った男の体の下からトカレフを取り上げ、マガジンを抜くとベストに収めた。
五人をソファーに座らせ、ベストから抜き出したカフで左右の親指を括りつけ、同じように全員を括り終えると、手首から血を流す男には、幅広のゴムバンドを取り出して締め付け、血止めを施した。
田畑はまさかの昼間の襲撃に戸惑ったが、男の動きを追う内に次第に落ち着きを取り戻し、流れる様な動きと正確に手首を打ち抜く射撃の精度、リスクの高い順に括りつけていく様子を見て、今までの渡世で味わったことの無い異質の恐ろしさが湧き上がるのを感じた。
任侠の世界に入って十五年、数々の修羅場を潜り抜け関東吉津会の四千名に及ぶ組織のナンバー8まで、のし上がった自尊心があった。まして自分は事業部化された吉津会の風俗部門を仕切るトップだと云う自負もあった。
柊は手の自由を奪った男たちの靴下を脱がせその親指同士をカフで再び括り、各人のポケットから携帯を取り出し、それぞれを留守電に設定を変えた。
完全に男たちの自由を奪うと静かに立ち上がった柊はチーターを手に部屋を出て行った。それを見ていた赤シャツが体を突っ張って足の親指に渾身の力を込めカフを引き千切ろうとしたが、却って指の痛さが増幅されただけだった。階段を駆け上がる音やバタンとドアが開け閉めされる音が暫らく続き、再び男がマスク顔をリビングに出し、niteに眼を落した。四時十二分だった。
柊は改めてリビングの中を見渡した。ゆっくりとした動きで見落としの無いように目を移していく。壁に架けられた抽象画、高級な洋酒やグラスで満たされた飾り棚、立派に装丁された本を収めた本箱、その横に置かれたゴルフバッグ、部屋の雰囲気を演出する暖炉・・その上に置かれた三〇㌢角程度の段ボール・・・宅配便で届けられた箱に間違いなかった。
箱の蓋を取り、中を覗いた柊は中身をテーブルにぶちまけた。
箱の容量からは四分の三程無くなっていたが、白い粉が透明のポリ袋に、小分けされ均等に入っていた。それでもざっと見て数十数袋は有った。
「これは何だ」男達に向かって聞いた。言葉は返ってこなかった。
柊は暖炉の上にチーターを置くと、緑色のジャンパーを脱いだ。先程、各階のチェックで体が熱を帯びていた。黒いタクティカルベスト姿を見た男たちは一様に目を見張って椅子の上で体を後ろに引いた。空いているスツールの上にジャンパーを置くと再び部屋を出て、洗面所に向かった。
田畑はこの男が誰なのか手がかりを求めて必死だった。縄張りを争う他の組の組員と云う考えは既に捨て去った・・何かが違う・・他の組織では無い・・ふと、先月、赤坂で自分の配下の男三人が苦も無く捻じ伏せられ、警察に踏み込まれた事件に思い当たった。
《もしかして、この男が、俺のメンツを泥靴で踏みにじった男なのか?》一瞬、その時の屈辱と憎悪が甦った。
男が洗面所からタオルと氷を入れたボウルを持って帰り、飾り棚からウイスキーを取り出すとテーブルにそれらを置き、再び田畑に冷徹な視線を向けた。
男は寛容な素振りを微塵も見せず「これは何だ」再び問いかけた。
田畑は懸命に堪えた。組の幹部としての沽券が意地を見せた。男を正面から見つめ値踏みするように睨みつけ「知らねえなぁ」吐き出す様に応えた。
数秒の間、田畑を見ていた眼は下を向き、黒のユニフォームの裾からダガーを取り出した。後ろ手に括ったカフを切り取ると、新しくカフを取り出して体の前で再び括った。黙って両手を掴むと有無を言わせず大きな木製のテーブルに置きダガーを躊躇なく突き刺した。叫ぶ暇も無く容赦のない一撃は田畑の顔を傷みと屈辱で真っ赤に染めた。
左の手の甲を貫通したダガーは木製のテーブルにも突き刺さり、そのまま田畑の動きを封じた。
「これは何だ」改めて問いかけた。
「ヘロインだ」痛みに堪え振り絞るように答えた。
「近々大きな取引が有ると聞いています。その場所と量を聞かせてもらいましょう」
―――敢えて二十日とは言わなかった―――
田畑は掌を貫通した傷みも忘れ考え込んだ。《確かに大きな仕込が有ると聞いているが何時なのか自分も知らされていなかった。この男はその情報をどこから聞いたのか・・判らなかった》
再び腕が掴まれて現実に引き戻された。その膂力は組でも猛者と言われる奴とも対等以上だと肌で感じた。「俺は聞かされていない」組織幹部としての抵抗を試みた。
男は黙ったまま手に力を籠めダガーを手から引き抜くと、そのまま小指の第二関節にあてがい一気に押し込んだ。
「マ・ウォー」一声叫ぶと手を胸の前に引き寄せ屈み込んだ。
『待て』と叫ぶ暇も無かった。男は屈んだ田畑の両手を引き寄せると手にウイスキーを掛け、タオルをその上に置いた。次いでベストから取り出したビニール袋へテーブルに残った小指を入れジッパーを引くとボウルの氷の中に投げ入れた。
田畑は普段なら警察権力に拘束されても、弁護士が短い刑期で済むように様々な力を駆使してくれるが、この様な目に遭って初めて命の心配をし始めた。
「あなたの知っていることを話してください。指が全部無くなりますよ」地獄の底から聞こえるような冷たい声だった。
「何が知りたい」手に巻いたタオルがみるみる赤く染まるのを見ながら声を振り絞った。
「取引の場所です」静かな抑揚のない声が返った。
冷酷で慈悲を持たないダガーは容赦なく迫り、配下の一人は昏倒したまま起き上がれず、他の三人も成り行きを見て下を向いたままだった。
自分の名を聞くだけで震え上がった男達には無い非情さは、この世界で初めて知る恐怖だった。突っ張っていた肩から力が抜けた。
「浜田だ」
「浜田?どこの浜田ですか」
「島根の浜田港だ」思いもかけぬ地名が飛び出した。
「島根県の浜田港ですね」念を押すように問いただした。
微かな頷きが返った。
「量は?」
「三〇〇㌔だ」淡々と答える。
「どこの国の船で、船名は?」
「フィリッピンのマリーグレース」
「受け渡しの方法は?」田畑は答えを躊躇した。
方法は本来、自分は知る立場に無かったが、昨年末に麻薬仕入担当の吉津会ナンバー3である若頭の金田武士と兄弟分の盃を交した際、受け渡し方法を、今日から兄弟だからと教えてもらった事は言えなかった。
「俺が知っているのはそれだけだ」
柊は田畑のその躊躇を見逃さず、知っていると確信した。
再び血に塗れた両手をテーブルに引き据え、ダガーを残った指に当てようとした。
「待って!解った」叫ぶように顔を歪め、括られた両手を血まみれのタオルごと胸元に引き寄せた。
ダガーが止まった。
この男の冷徹さは、本気で全部の指を切り落とすまで続けられると本能が教えた。
「シップチャンドラー・・」呻くように声が一段と小さくなった。
「シップチャンドラー?何ですかそれは」初めて聞く言葉だった。
「マリーグレースが入港して荷降ろしをする時、フィリッピンから航海中に消費した食料品や酒、医薬品などを補給する専門の会社だ」絞り出すような声は震えていた。
「そのシップチャンドラーと云う会社の役割は?」余り理解が出来ない会社に戸惑いを覚えながら聞き返した。
「免税販売の免許を持っているから簡単に乗船出来て、帰りに廃棄物に紛れ込ませて荷を受け取ることになっている」
「その荷と云うのが麻薬ですか?」漸く柊にも仕組みが理解出来た。
「そうだ」血塗られた手をタオルの上から押さえ苦しそうに頷いた。
《しかし、シップチャンドラーと云うのは会社名か?違う様な気がする》
柊は質問を変えた。
「シップチャンドラーは全国の港でシップチャンドラーと言うのですか」
「そうだ」
「と云う事は一つの会社が独占で仕切っているのですか」
「いや・・・・」田畑の答えが詰まった。
柊の混乱を察した最後の抵抗の試みが失敗した。
「何社か在るんですね」
「・・・・さかいやと云う会社だ」
「さかいや?それはどのような字を書きますか?」
「ひらがなだ」
「つまり、浜田港の“シップチャンドラーさかいや”と云うのが今回の取引で日本に運び入れると云う事ですか」苦痛にゆがんだ顔が小さく頷いた。
「それで取引の時間は?」今度は田畑の首が左右に力なく振られた。
田畑の話した言葉を暫らく吟味していた柊は、やがて赤く染まった手を手元に引きよせ、タオルを外してウイスキーを全体に振りかけた。
「ク――」歯を食いしばり真っ赤な顔で呻く田畑を無視して、ベストからガーゼとゴムバンドを取り出し手の甲に張り付けた。ガーゼは直ぐに赤く染まり、小指にゴムバンドを巻きつけると上からガーゼと包帯で手際よく包んだ。
「一応の止血にはなるでしょう。我々が帰った後、この小指と共に医者に行くと良いです。上手くいけば小指も繋がるでしょう。でも、医者にはもう少し待ってもらいましょう」
そう言うとniteに目を向けた。四時四九分だった。
当初の計画では、指の二、三本も切り落とせば喋ると読んでいたのが一本で済み、マスクの中で第一の目的が達成されホッと一息ついた。

「W6こちらW5」インカムで飯田を呼び出した。『はいW6です。良く聞こえますどうぞ』興奮した少し甲高い声が応答した。
「少し計画を変更します。W6は直ぐに動けますか」
『いつでも動けます、どうぞ』自衛隊でのトランシーバーで会話するように“どうぞ”の癖が抜けなかった。
「では、ジャンパーは着たまま、帽子も被って来て下さい。この屋敷に入る迄インカムは外して、マスクは屋敷に入った所で装着してください」
『了解、五分で着きますどうぞ』マスクの中で柊は苦笑いをかみ殺した。
柊はトイレから引き摺り出した男を、チーターで撃った男が出てきた部屋に引き摺って行き通用口の開け方を聞いた。
部屋に入って来た飯田はリビングまで来て呆然と佇んだ。トイレのドアは破壊され、テーブルは一面に血しぶきが飛び、白いブレザーの男の足元ではベージュのカーペットが血を吸って大きな黒いシミを作っていた。
「W6、靴は?」問われて我に返った飯田は玄関で靴を脱いで上がったのを思い出した。慌てて玄関に戻り改めて顔を出すと、対面の戸口に蹲る男を指し「あの男が居る部屋に防犯カメラやドアの自動開閉をする機器類が有ります。次に女性が来るのは六時から七時の間と思われます。それまでに扱いを聞き取ってください。それが済めばカメラの監視を頼みます」静かに命じる柊に思わず敬礼をしかかった。
「了解!」力を込めて応えた飯田は、ここで初めて柊が準備した、ゴムバンドや包帯などの意味を理解することができた。ここまで読んで準備をしていたのか、聞きしに勝る実戦の厳しさと【S】のエースと呼ばれた男の力を肌で感じた。
手首に包帯を巻かれた男を抱え上げ、室内の椅子に下ろすと飯田も隣の椅子に腰かけ、取り扱いの聞き取りに掛かった。
ものの十分ほどで飯田が部屋から出て、柊に握った拳の親指を立てて見せた。
「一般家庭には見られないシステムで、通用口からあの重い大きな門まで全部手元で操作できます」流石に得意の分野なのか、その概念を知って全てを把握してしまった。
「それではW6は此処で彼等を監視してください。私は二階で電話を架けねばなりません。よろしく」事務的な口調に戻って二階に向かった。
メインの寝室の対面にある部屋に入ってドアを閉めた。ここなら盗聴や、今からの会話を聞かれる恐れはないとの判断だった。部屋のソファーに座ると、先程の突入の際、血で少し強張った戦闘用手袋を外し、周囲の家具に指紋が付かないよう注意を払い、ベストからW機関専用の携帯を取り出しW2を押した。
「W5」と名乗って相手が応えるとniteを見て「今、大丈夫ですか」と聞いた。
五時十三分だった。
「今、W5と6は神宮前の田畑邸です」そう言うと四時からの経緯を報告した上で「先日
秘書官が長官と話をされた時、二十日に大きな取引が有ると思われるが、その場所や時間・量が判らないと仰っていましたね」
『確かにそんな話をしたような記憶はあるね』雑談のつもりで話した記憶が蘇った。
「それで今こちらで聞いたところ、恐らくこれがその答えと思われます」と言って、聞いたばかりの話を詳しく報告した。
『浜田港?シップチャンドラー?・・凄い情報だな、これは。二十日と云えば明日じゃぁ無いか・・一刻も早く長官に連絡しなくては・・それで取引の時間は判っているの?』
「そこまでは聞かされていないようですが、今から手配できれば二十日の二十四時間監視は可能ではないかと思われます。しかし今、長官にこの情報を秘書官から入れられると、情報の出所とかで却って秘書官の立場が心配です」その指摘に内村も電話口でジレンマに陥ったが、一刻を争う事は明らかだった。
急遽柊が密告者を装って直接長官に連絡することで一致したが、その際この神宮前の後始末は、本来なら原宿署の管轄だが赤坂の件との絡みも有り麻布署に通報しますと云う提案に、長官と麻布署の太田署長の直通番号を教えた。

柊は直ぐに長官に架けたが『今、会議中で六時には席に戻られます』と聞いて「六時にかけ直します」と電話を切りniteに目をやった。五時二十八分を過ぎていた。

内村は、まさしくW機関結成の時に柊が言っていた警察の捜査では知る事の出来ない情報を目の当たりにした。電話を終えた後、暫らく机の前で今の報告を吟味していたが、つと席を立って他の秘書室員に国交省へ出かけると言い残して外出した。
総理に報告する前に、先程聞いた“シップチャンドラー”と云う業界がどのような業界なのか詳しく知っておきたかった。


六時過ぎに席に戻った五十嵐は、直後に架かった直通電話に出た。
名を名乗らない男からの電話に、初めの内は怒りを隠し黙って聞いていたが、内容を聞くにつけデスクの警察用箋を手元に引き寄せメモを取り始めた。
先程までの全体会議で、何としても今日中に、明日の取引場所を特定する様に出席者全員に督励をかけたばかりであった。
その答えが今電話で語られていた。
聞き終わった長官が「ところで君は・」と声を掛けた時には切られていた。
暫らくそのまま書き留めた用箋を見返していたが、目の前の内線電話を取り上げ組織犯罪対策部の時任部長に大山・前田両課長と共に直ぐに来てくれと命じた。
三人が長官室に揃ったところで、用箋を見ながら電話内容の詳細を話した。
「一体誰がその話を・・」時任部長が切り出した。
「判らない・・・しかし先月の二十三日に逮捕以来、二十日に大きな取引が有るとの供述を引き出したのは良かったが、既に今日は十九日の六時四十分だ」腕時計を見ながら長官が続けた。
犯罪対策部の三人は、自分たちの捜査が行詰まっているのも自覚していた。
「兎に角、『誰が』の詮索は後ですれば良い。ここには時間こそ判らないが、島根県の浜田港、フィリッピンのマリーグレース号、三百㌔の麻薬、シップチャンドラーさかいや、これだけのキーワードが揃っている。今はこの情報に賭けるしかない」言い切った長官が三人を見つめた。
五十嵐長官の着任以来、縦社会だった庁内の空気が、少しづつではあるが変わって来たのを彼らは実感していた。
神戸における密輸入摘発の際も長官の直接指揮だった。今回も何処からの情報か判らないが、それは後回しにしてもこれらのキーワードは魅力があった。
何しろ三百㌔と云えば末端価格にして百八十億円にも及ぶ金額だ。
腹が決まると彼等の動きは早かった。
所轄の島根県警への連絡は長官自らして頂きたいと要請するや組織犯罪対策部の非常招集に走った。
一時間後、三人が再び長官室に集まり時任部長が捜査態勢の説明を始めた。
「先ず、現地には大山暴力団対策課長以下三名、前田薬物・銃器対策課長以下三名の六名を今日中に現地に送り指揮を執らせます。現地までは約九百㎞有りますので足の長いベル412を使います。現在既に立川を出て庁舎屋上のヘリポートに向かっています。八時迄には此処を出発し、現地到着は十一時半の予定です。以後島根県警と協力して二十四時間の監視体制を敷きます。自分は此処を本部にして全体を指揮します」
「先程、島根県警とも連絡が取れ、本庁の君達が合流次第、県警本部長がこの極秘作戦の指揮を執り、県警と浜田署の刑事課と組織犯罪対策課の署員に待機態勢を取る様に指示をしておいた」にわか仕立てではあったが麻薬摘発の初動はギリギリで間に合った。
「時任部長」前田課長が部長に向き直った。
「浜田署の何人かに、そのシップチャンドラーとかいう会社の張込みに今からでも掛かってもらってはどうでしょう」
「そうだな、それは君達が出発した後に私から浜田署長に要請しておく」答えた時任は、そろそろヘリが着く時間だと全員を促して長官室を後にした。
長官は出て行く彼等の足取りが軽く、それを満足そうに見送った。


顔色が白く見える田畑は手を抱え込んでソファーに深く座り込んでいた。手は失血で震えていたが、出血は少なくなったように見えた。
そのまま飯田のいる部屋を覗くと「そろそろ女性が来る頃です」と耳元で呟いた。
七時五分に待っていた通用口のチャイムが鳴った。飯田がカメラで確認すると、白いブラウスの上からピンクのカーディガンを羽織った女性が顔をカメラに向けた。飯田にはどう見ても十四、五にしか見えないあどけなさの残った顔だった。
黙って開錠ボタンを押すと彼女が通用門を潜った。
門灯と庭園の照明に照らされた赤と黒のタータンチェックのミニスカートが眼に眩しかった。
開けられた玄関ドアの陰に隠れていた柊が、女性が中へ入るとドアを閉め鍵を掛けた。
思わず振り向いた女性は黒いベストとフェイスマスク姿の男を見て、口を半開きにしたまま立ち竦んだ。柊は何も言わず女性を抱え上げるとリビングの中を見せないように小走りで二階の主寝室まで運んだ。
寝室は三時頃に届けられた花が大きな白い花瓶に活けられ、仄かな香りを室内に漂わせ、窓外は夜の帳の下りた庭園に、ガーデンライトの青白い輝きがベランダや木々の内側を明るく照らし、後の黒塀は闇に溶け、外の通りから邸内を隔離していた。
部屋の壁際中央に置かれたキングサイズのベッドに、彼女を静かに降ろした柊はその眼を覗くように「乱暴なことはしないから静かにしていてください」と静かな口調で言った。
叫び声も上げず、運ばれる腕の中でも大人しかった娘は、幼さの残った可愛い顔を微かに上下させた。
「何か欲しいものはありますか」優しく問いかけると、少し考えたあと「お水」と一言応えた。部屋の隅にあるミニバーのカウンターに小型冷蔵庫を見つけると、中にあったペットボトルを取り出して娘に渡した。小さなボトルではあったが蓋を取ると一気に半分ほどを飲み干し、手の甲を口に当てて拭うとホッとした顔を柊に向け、じっとマスク越しの眼を見つめた。
彼は、この戦闘服姿を見ても、何処か意識が遠くにある様な不思議な表情を見せる彼女に同年代の娘が取る仕草と違う違和感を覚えた。
ふと昨年銃創を負った際、夙川病院の洋子先生の言葉を思い出した。
『初めて打ったものは最初宇宙へ打ち上げられたように気分がハイになって暫らくその気持ちが持続するが、時間と共にそれが溶解して各々が逃避したい地上へ静かに引き戻される。そんな気分を再び味わいたくなって又手を出すといった常習性が麻薬の特徴であり、それによって内臓が次々と冒され、所謂廃人にしてしまうまで終わらない、又喉が渇くのも特徴ね』と云うような内容だった。
改めて娘の傍に寄り添うように座り、そっとブラウスの袖をめくり腕の内側を見た。
そこに数か所の針痕を認めると目を瞑って唇を噛んだ。
彼女には今後治療の過程で、精神的にも肉体的にも地獄の苦しみが待ち受けている事は知る由もないことだが、柊は胸を締め付けられるようなやりきれない寂寥感を覚えた。


六十六歳を迎えた大室大悟は政界再編に伴う階級闘争に敗れ続け、党内での政治的求心力も衰え、要職からも遠ざかり、今では国交省道路整備計画や行政監視委員会、青少年問題の調査会に委員として名を連ねるだけの存在でしかなく、あとは兵庫県からの陳情や来客と会い、時間が来れば数合わせに登院するだけの生活だった。
果たせなかった栄達目的は遠く過去のものとなり、国会内情報から得られる物質的利益が優先され、それに伴い付随的に享受する悦楽は、年と共にエスカレートする自分に歯止めがかからなくなった。
十日ほど前の神楽坂で、下地との秘密饗応の帰り際「神宮前に来る女は、もう少し若いのを・・・」と囁いた。その効果を期待した先週の土曜日はアテが外れ、田畑からも「先生、幾らなんでもそう早くは無理ですよ」といなされ「来週は期待していて下さい」の言葉に送り出された。
日産フーガ三七〇GTのハンドルを自ら握り青山を出て神宮前へ向かう車の中で、今夜への期待感が大きく膨らみ、気分が高揚するのを感じていたが、公道でスピードを自制するだけの思慮は残っていた。
意外と混んでいた四一三号線根津美術館前のカーブを曲がると左側車線に入り速度を落とした。ハンズフリー電話に手を伸ばし画面に出た『田畑』を押した。何回かの呼出し音の後に受話器が外れると「扉を開けてくれ」それだけ言うと腕時計を見て回線を切った。
八時三分だった。


麻薬による陶酔感に浸っている少女を暫らく見守り、この娘にはカフなど必要無いと判断した柊は、そっと寝室を後にして階段を降りた。
防犯カメラのモニターを監視しながら、リビングの男達を油断なく見張っている飯田が突然鳴り始めた電話の音に驚いた。
丁度戸口に現れた柊が掌を前に出し、受話器を挙げるのを待つように合図し、飯田の傍まで寄って来た。「先ず、何も応えず相手が名乗るのを待て」囁くように命じると飯田の確認を待って頷いた。
五回目の呼出し音で取り上げた飯田が受話器を耳に当て、暫らくしてそれを架台に戻した。『扉を開けてくれ』と云う報告を聞いた柊は「大室だ」とモニター室に向かった。
飯田が操作盤の前に座って二、三分もせぬ内に煌々とライトを点けたフーガGTがモニターに映り、大門の開錠ボタンを押すとゆっくりと開く中、車が中に入った。
柊は先程の少女の時と同じように玄関ドアの陰で待ち受けていると、勢いよく開けられたドアから白いシャツにノーネクタイの大室がグレーのズボンに濃紺のブレザー姿で入って来た。
直ぐに、驚くような光景が目に飛び込んだ。玄関先のトイレのドアが壊され、その横に黒いフェイスマスクの男が立っているのを見た時、後ろからグイと襟首を掴まれ釣り上げるように押された。脱ぎかけた靴が小さく飛んでタイルの上を転がった。
唖然として押されるままにリビングの前に立たされると、そこに見たのは悄然とソファーに座る田畑とその配下達であった。組長といつも『ヨシ』と呼ばれていた若者が手を血で染め、テーブルや床のカーペットも大きな黒ずみを見せていた。
呆然自失の状態で言葉も無く、恐怖だけが襲い掛かった。
自身、議員の中でも体格は大きく、押し出しもそこそこだと少なからず自負していたが、目の前の黒ずくめの男達から受ける恐怖感は、相手がより大きく見える錯覚に陥らせた。その威圧感は想像を絶するものがあった。
温室育ちの男は強いものに対して憧れと畏怖を抱き、自身をそれに同化させると、弱いものや女に対して強烈な支配欲が表出されるが、自身に降りかかると恐怖と服従を現出させる。
愕然とした大室は恐怖の真っただ中に放り込まれた。
襟首を掴まれたまま二階の寝室へ連れ込まれて見たのは、自分が求めてやまなかったあどけなさの残った少女の姿だったが、性欲は萎えうつろな目を向けただけだった。
柊は大室をソファーに座らせると、ベストからメモリーレコーダーをテーブルにセットしてスイッチを入れた。部屋の中はベッドに座った少女が物珍しそうに二人を見ているだけである。
「さて、大室議員、少しお聞きしたいことが有ります」静かに質問を切り出した。
目の前のマスクの男は自分が国会議員だと云う事を知っている。それだけでも恐ろしく、体が震えだしたのを必死で堪えようとするほど力が入り、顔が赤くなっていった。
「議員は何故今日ここにお出でになったのですか」敬語を使った丁寧な質問だった。
「・・・・・」何としても答えたくなかった。
柊のniteは八時十五分になろうとしていた。九時の撤収予定には間が有ったが、このままでは大室が話し出す雰囲気は無かった。
柊はゆっくりとした動きでメモリーレコーダーのスイッチを切った。
「議員、ここ三週間の間に今日で三回目です。土曜日になると青山の宿舎から秘密の通路を使って、ここ神宮前まで通われているのを我々は知っています。三回とも、若い女性がこの部屋に来ています。今日の女性は特にお若いようです。更に下に居る田畑組の人たちは麻薬の密売もしているようです。先程全てを話して頂きました」鋭い眼差しを大室に向けて静かに話しだした。
言いようのない恐ろしさが再び全身を襲い、先程まで赤くなっていた顔が青白く変わっていた。
全てを知られ、田畑までが血で染まり、宿舎の秘密の通路まで知られている現実は大室に議員生命の終わりを悟らせた。
大きな声で脅されるよりも、静かな低い声で言われると心の中にジワジワと染み渡るようで、精神的なダメージは増幅されていった。
今までの虚勢は消え去り、その眼から堰を切ったように涙があふれ出した。大室は流れ落ちる涙を拭おうともせず静かに話し始めた。
柊は急いでメモリーのスイッチを入れ、バトルドレスユニフォームの裾を挙げて握っていたダガーから手を離した。
話した内容は自分の党内での権力の凋落に始まり、尼崎で川北組の情報網に取り込まれた経緯から、若い女に埋没していく過程まで、ここ数年の述懐をするように語られた。途中、
柊の捕捉質問の形で問われると、関東吉津会下地組長と神楽坂での極秘会談で東京五輪用地計画案を渡した事までがメモリーレコーダーに記録された。
「大室議員・・貴方は地元の皆さんが期待した選良です。これ以降は警察に委ねますが、後はご自身の良心で行動される限り、メモリーは公開されません」手に持ったレコーダーをポケットに収めた。今回の作戦では想定外の収穫だった。

一階に降りて「W6、撤収にかかりましょう」そう告げた時は予定を十分過ぎていた。
飯田が玄関を出て通用口に行くまでにマスクとインカムを外し、帽子を目深に被って出て行った。二十分後には白いハイエースバンが通用口の前に着けられた。
改めて駐車場に戻った彼等は、車内で装備を解いた後、柊はW機関専用携帯を使って内村に聞いた太田麻布警察署長の番号を押した。
自宅で食後の一杯をやっていた彼は『番号非通知』の表示を見て訝しげに耳に当てた。
「神宮前の関東吉津会、田畑組長邸に怪我人がいます。麻薬とそれを打たれた少女もいます。よろしくお願いします」それだけ言って電話は切られた。
ランクルとバンが揃って駐車場を出て、二台で向かった先は群馬県の前橋だった。
赤城山の麓にある廃棄自動車置き場まで百五十キロ余りを一気に走った。
都内や近郊の都市で廃棄される車は膨大な数に上るが、都内には小さな廃棄場所しか無く、大型の集積場は群馬以外でも年々少なくなってきていた。数百台が解体を待つ集積場に乗り入れたバンからバールを使ってナンバープレートを外すと、共にランクルに乗り込み、日付が変わった群馬を後にして祐天寺まで約二時間半の帰路についた。
麻薬の現認に始まり、少女の保護、そして大室大悟の指定暴力団との癒着の暴露まで五時間余に及んだ。一か所に留まることの危険性を孕んだ作戦は、柊にとって初めての経験だった。
真っ暗な夜道を運転しながら飯田が「木の葉は森に隠せ・・ですか」速度制限を守って走る車の中で楽しそうに呟いた。
街路灯の灯りが二人の顔を点滅させている車内で眼が合うと、柊の静かな微笑が返った。


神宮前の田畑邸前はパトカーや救急車の緊急車両で埋められ、周囲がその明滅する赤色の光で染まっていた。狭い道路は四一三号線の入口で規制線が張られ、各社の記者や一般の野次馬は夜の十時に何事が起っているのか詳細が掴めず、周辺を走り回っていた。
現場到着一番乗りを果たした近藤捜査一課長は、怪我を負った田畑組長と手を撃たれた組員の事情聴取から始めて、終わった二人を順送りに救急隊員に引き渡した。
その頃になって警視庁や原宿署の捜査員も現れ、更に大きな喧騒に包まれた。
全員の事情聴取を済ませた近藤が捜査車両に戻りながら、この事案が先月の赤坂の事案に余りにも酷似しているのに驚き、後部座席に座るとメモを取り出した。
【赤坂との類似点】
一、正体不明の男性からの通報 
二、両事案とも田畑組関係者が被害者 
三、犯人は二名で、黒のフェイスマスクとユニフォームで武装(証言から一人はSATが着用するタクティカルベストと思われる物を着用) 
四、両事案で赤坂五名(被害者の供述では六名)神宮前一名の女性が救出された 
五、現場では麻薬の小袋が手つかず?で押収された(モルヒネかヘロインと推量される) 
六、短時間で組員が制圧された 
七、両事案共、拘束にプラスチックカフが使用された
【赤坂との相違点】
一、拳銃のロシア製トカレフは弾倉が抜かれて押収された(弾倉は未発見) 
二、六十代と思しき老人がカフで括られ発見されたが、現在黙秘しているため何者か判明していない(泣いていたのでは?と思われるほど赤く腫れた目が印象的)挙動不審
三、赤坂では監視カメラの映像が残っていたが、神宮前は映像ディスクが抜き取られ残っていない(花屋に仮装して侵入との供述だが確認出来ず)
四、神宮前で初めて武器が使用された(拳銃とナイフ=種類は不明だが、三八口径?)
五、組長の田畑はナイフで刺された上、右手小指を折損。小指は冷蔵され応急手当の痕跡。
近藤はメモを繰り返し読み、考え込んだ。どう読み解いても組同士の抗争には見えなかった。つまりは田畑組に対する怨恨、若しくは上部団体の指定暴力団川北組に対する挑発か・・それに救出された双方の女性はどう絡むか・・普通、犯罪は利害が絡む。しかしこの犯人の二人組はどのような利益が?・・今回は武器を使った上に粗っぽいが治療まで・・プロ?・・何の?・・そして、それを我々に通報する・・正義の見方か?・・一瞬近藤は自分の想念に苦笑いを浮かべ頭を抱え込んだ。
如何にして犯人を特定し探し出せば良いのか五里霧中の世界に漂い出て、呼吸が苦しくなるような錯覚に陥った。
その時、不意に後部座席のドアが外から開けられ、部下の徳永が顔を見せた。彼には邸内のガレージに置かれた二台の乗用車の調査を命じていた。
「課長、乗用車の所有者ですが、ベンツは組長の田畑で、フーガの所有者は・・」言い淀み言葉が詰まった。「それで・・」促すように徳永を見た。
「陸運局の調査では大室大悟になっています」
「大室大悟?押収した免許証の男だな。組関係者か?」
「いいえ、念のため先程ネットで検索したところ・・民生党の議員に同姓同名の方が・・」車内にいた全員が言葉を失った。

平日であればこの霞が関界隈はサラリーマンや登庁する役人で混雑しているのだが二十日の日曜日の朝は閑散として春の名残の日差しが、柔らかくビル群を照らしていた。警察庁長官室では五十嵐が秘書室員の淹れたコーヒーとトーストで簡単な朝食を摂っていた。
昨日の午後七時頃、組織犯罪対策部の時任部長と浜田港に飛ぶ課長達を見送った後、再び島根県警本部長から配備状況の説明などを聞いていた九時半過ぎに、時任がドアを開けて飛び込んできた。一瞬、浜田港に向かったヘリが何か事故でも・・と少々緊張したが渋谷神宮前の事件発生報告に何故かホッとした。
「通常ならば、長官に報告するまでも無く我々で処理するのですが、内容が少し気にかかったものですから・・」と事件の概要を報告した。
「すると神宮前も名前を名乗らない男だったと云うのか」
「大田署長はそう言っています」その様な偶然が有るのか・・五十嵐は考え込んだ。
「しかし、何故所轄の原宿署か新宿署では無く麻布なのだ」
「私も不思議に思ったのですが、先月の赤坂の事案も匿名の男が警視庁に架けてきて、通信指令センターは管轄の麻布署に出動命令を出したのが発端でしたから、今回の事案も同じ署に連絡をしたのではないかと思われます」
「それが今回の浜田港と結びつくとすれば、浜田港も関東吉津会かその上部組織の川北組が絡めば三つの事案は根が一緒だと云う事になるな」五十嵐が時任を睨んで言った。
「はい、私も同感です」時任の応えも力が入った。
「よし、では明日八時に警視総監と組織犯罪対策部長、麻布署長と今回の捜査責任者を此処に集まってもらうよう手配してくれ。君も当然出席して欲しい。其れまでには浜田も何か動きが有るだろう」それだけ命じると考え込むように目を瞑った。

その様な訳で五十嵐も久しぶりの徹夜明けに二杯目のコーヒーを味わっている時、早くも麻布署の二人の来庁を告げられ、思わず腕時計を見ると七時半だった。
二人が太田を先頭に長官室に入ってきた時、彼等も昨夜の事件で徹夜だった事に思い至り、労いの言葉と共に二十人近く座れる楕円形の円卓に向かった。
太田は今回、管轄が違う部署での捜査活動の理由を述べた後、今朝までかかって近藤課長が書き上げた神宮前事案の報告書を手渡した。
二人に着席を促し、自分も座った五十嵐は全員が揃うまで未だ二、三十分あるのを確認すると報告書を読みだした。
事案の顛末が要領よく簡潔に纏められていた。中でも彼の気を引いたのは赤坂と神宮前の類似点と相違点に焦点を絞った箇所だった。
五十嵐は自身の徹夜の原因となった島根・浜田港の事案も、正体不明の男による通報が発端になっているのを重ね合わせ、これも同じ男ではないかと思い始めた。
昨夜遅く、時任部長から裏付け捜査の結果報告で《フィリッピンのマリーグレース号》・
《シップチャンドラーさかいや》も実在しており、マリーグレース号は二十日の午後一時に入港予定だとする報告を受けていただけに、三事案の通報が悪戯や愉快犯とは一線を画して考えねばならないと結論付けていた。それにしても全て同一の男、若しくは同一集団だとすれば、それは一体誰で、何の為の行為なのか全く理解に苦しむ話だった。
その時、池田警視総監と米田組織犯罪対策部長到着の連絡が入った。
六人による会議は、神宮前の捜査責任者である麻布署の近藤の詳細報告に始まり、時任が現在進行形の島根県浜田港の事案の詳細報告まで一時間半に及んだ。
「このように三つの事案に共通して正体不明の男からの通報があった事で、私はこれらの根が一緒だと考えています。今迄は警察の縦割り社会が問題視されてきたが、これを機会に諸君もオール警察を念頭に捜査して頂きたい。もし、現在進行中の浜田港事案が情報通りであれば三百キロに及ぶ麻薬の押収は関東吉津会にとり最大の打撃になることに疑問の余地は無い。まして先月の赤坂とこの神宮前事案に追い打ちをかけるチャンスであり、念願の広域指定暴力団壊滅に向けての第一歩と位置付けたい」五十嵐長官渾身の熱弁は出席者全員に緊張と興奮をもたらした。五十嵐は自分の言葉が全員に浸み込むのを待って続けた。
「そこで、捜査体制はこの三事案を中心とする広域捜査に切り替え、時任部長を捜査本部長とし、米田組織犯罪対策部長を副本部長とする体制で臨む」任命された時任と米田が同時に「はっ」と軽く頭を下げて承諾の返事を返した。
「尚、浜田港の事案は本日午後からが本番になると思われ、摘発が出来た段階で島根県警からも要員を出して貰って捜査体制を敷きたい」警察組織が本気で指定暴力団の壊滅に向け取り組むと云う意思表示でもあった。
「ところで近藤課長、赤坂で救出された五人は、その後の回復状況は何か聞いていますか」池田警視総監が心配そうに尋ねた。
「はい、担当医に依れば彼女達も相当苦しんだようですが、約一か月経って漸く快方に向かっているそうです。むしろ心配はその後遺症と云うか精神的な立ち直りの方が心配だそうです」
「そうか、早く立ち直れると良いがね・・・とにかく何としてもこの麻薬禍を防ぐ為には我々の役目が重大だな」出席者全員の心情を代表して吐露した言葉だった。
「よし、最後に・・」五十嵐は厄介だと思われる問題の検討を最後に持ち出した。
「それで、この大室大悟と云う男は民生党の議員に間違いないのだね」報告書を見ながら一番気にかかることを聞いた。
「はい、本人は黙秘しておりましたが、早朝、弁護士立会いの下で認めました」
「そうか・・でも何故現場に彼がいたんだ」
「これは、飽くまで推論ですが」近藤が口を開いた。
「我々が現着時、大江栞と云う十六歳の少女を保護しましたが、麻薬を打たれ、酩酊状態で事情聴取が出来ず、そのまま病院へ搬送しました。しかし、残りの組員からの聴取によりますと、大室に提供するために呼んだ女性だと供述しています」
「少女を?・・大室が?・・」五十嵐が絶句して言葉を呑みこんだ。
暫くの間、その場を沈黙が支配した。
「それで釈放したのは・・」漸くショック状態を立て直した長官が続けた。
「それは私から説明しましょう」署長の太田が質問を引き取った。
「本人が民生党の大室大悟であることは疑いが有りませんが、現在国会の会期中である事、ここで逮捕となれば不逮捕特権を行使される可能性も有り、今後の捜査が難しくなる事も想定できます。しかも現状被疑事実は児童買春のみで金銭の授受が行われた形跡も、麻薬の摂取反応も無く裸でいたわけでもありません。従って立証も困難と云う近藤君達の意見も有り、加えて逃亡の恐れも無いと判断して、報告書の通り処分保留で釈放の手続を採りました」明解な説明だった。
「成程、じっくりと腰を据えて追い詰めるためには、今回はそれで良かったかな・・それにしても国会の会期中に十六歳の少女を買いに来るとは・・彼は六十六だろう?」報告書を見ながら吐き捨てるように言った。
「少しいいですか」警視庁の米田組織犯罪対策部長が手を挙げて「大室と田畑組との関係は何か掴めたのでしょうか」と近藤を見つめた。
「そこが黙秘をされていて何も掴めず、田畑は現在切り離された指の修復手術を受けており、本格的な取り調べが出来ていません」近藤は悔しそうに唇を咬んだ。
「そうか、でも組と癒着しているのは間違いないですね」同情するように米田が言った。
「それは間違いありません。報告書には書いていませんが、彼は我々が現着した時、田畑と同様にカフで手足を括られていたのですが、泣き腫らしたような赤い目で怯え、取り調べ中もオドオドして落ち着きが無く挙動不審者そのものでした」経験豊富な捜査官の言葉に全員が大きく頷いた。
「田畑組長は確か関東吉津会の幹部でしたね」時任が米田に聞いた。
「そうです、部長のご推察の通り、大室は田畑より、むしろ下地と繋がっていると視るのが当たりでしょう」時任の鋭い指摘を受けた米田の応えだった。
流石に捜査幹部の質疑応答に頼もしさを隠した五十嵐が「それぞれの部署で全力を尽くして壊滅に向けて協力してほしい」と会議の終了を告げた。
島根県の浜田港ではマリーグレース号の入港が間近に迫っていた。


花曇りの公邸の夜の庭は星空が見えないが、庭園灯が若草色の芝を鮮やかに照らし、後ろに控える黒々とした木々と好対照な景観を演出していた。
土曜日の夜ともあって、時折芝生の周囲に備えられた殺虫灯がジジ―と音を立てるだけの森閑とした森の中に居る様な錯覚を覚える中、リビングではホールクロックの十点鐘を聴きながら誠一郎は内村の報告を聞いていた。手には好きなブッシュミルズの水割りが握られている。
「その少女も麻薬を打たれていたのか」
「はい、柊君の報告では、ほぼ間違いないと言っていました」
「十六と云えば未だ子供じゃないか・・・」苦いものでも飲むように水割りを飲み込み、「その子を大室議員が抱くと云うのか・・吐き気を感じるな」汚いものを見るような眼を天井に向けた。暫らく沈黙が続き、内村もテーブルの水割りを手に持った。
「それで、柊君たちは無事なんだな」やっと言葉を繋いだ
「はい、今頃は赤城山に向かっています」
「何?赤城山?群馬の?」
「そうです。説明では中古のバンですが、万が一、近隣住民に見られていれば、唯一の物証なので大量の中古車廃棄場所にナンバーを外して置きに行くそうです」
「何だって、都内の廃棄場所に捨てないのだ」
「都内の、廃棄場は無い事は無いそうですが規模が小さくて、新たな車が増えては目立つそうで、少しでも危険は侵したくないそうです」
「成程・・・我々素人は捨てれば済むと思ってしまいがちだが・・彼は矢張り、先の先を読んで行動しているな・・本当に味方で良かった」しみじみと述懐して今度は美味そうに水割りを口に含んだ。
「それで・・麻薬だが、先程の君の報告を聞くと、警察が躍起になって場所の特定に苦労していると雑談で話したのを、柊君が神宮前で聞き出した・・と云う事だが、警察は動いているのか」
「はい、確認はこちらからは取り難い状況で、彼が間違いなく五十嵐さんに連絡出来たと
話していたので、五十嵐長官は直ぐに動いている筈です。今はそこまでが我々の限界です」
「そうか、五十嵐君は我々が知っている事も判らないのだから仕方がないのか」W機関として、その存在は飽くまで極秘だと云う認識を改めて確認した。
「そうです、正に、あの時彼が“警察が知り得ない情報を聞き出すことが出来ます”と言っていた通り、その力が行使された結果でしょう」
「どうして聞き出せたのだと云う言葉はタブーだな」誠一郎も内村の言葉に頷いた。
「それと、シップ何とかと言ったか・・」
「チャンドラーですか」
「そう、一体それは何だ」誠一郎も初めて聞く言葉だった。
「私も初めて知った言葉でしたが、その後、調べたところ・・・海外から日本全国の港に来る観光船や貨物船等の船舶に、日本への航海で消費した食料、酒、日用品、船具や船舶機械を免税販売の許可を得て、納入する業者を『シップチャンドラー』と呼称しているそうで、全国に数百社が登録されているそうです。例えば総理も良くご存じのメイジヤもその資格を持った大手だそうです」ポケットから資料を取り出して説明した。
「そうか、あのメイジヤさんもシップチャンドラーを・・・そして浜田港では『さかいや』が船への資材搬入の際、船からの廃棄物の中に麻薬を混入させて密輸すると云う事か」
「実に巧妙な手口で、密輸入の中でも新たな手口かもしれません」
「実際よくも次々と考えつくものだなぁ、彼等も・・・」眉をしかめて呟いた。
「しかも、今までは中国や北朝鮮からの密輸が重点監視目標だったのが、昨年の神戸での摘発以来、コロンビアの船も重点監視目標に加えられたばかりで、今回はフィリッピンが新たな脅威となりますね」内村も相槌を打つように新たな脅威に言及した。
「そうだ・・・これは一度五十嵐長官も交えて対策会議を開く必要が有りそうだ」内村も大きく頷き、手帳に総理の意向を書き込んだ。
「もう、十時半を過ぎてしまった。どちらにしても浜田港は明日にならなければ、判らないのだろう。今日はこれ位で・・明日は五十嵐長官から何らかの発表があるだろう。君も日曜なのに申し訳ないがよろしく頼む」
花曇りの公邸は、明るく照らされた庭の芝生を取り囲むように設置された殺虫灯がジジ―と音を立てた。


風呂上がりの理沙がパジャマの上からガウンを羽織り、頭をタオルで巻き、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとプルタブを引きながらリビングに向かった。
そこには既に両親が同じようにガウン姿で寛いでいた。
父親は仕事がらみであろう専門書を読み、傍らで母親がテレビドラマに見入って、空いている両袖ソファーに理沙が座っても、二人は気がつかないかのように本とテレビに集中していた。
彼女は留学時代と同じように、缶ごと直接口に押し当てると一気に喉に流し込んだ。正に五臓六腑に浸みわたるという表現が実感できる清涼感に思わず「フー」とため息をついた。
その声に気付いた母親が「まぁ・・理沙、コップに注いで飲みなさいと言ったでしょ。未だ嫁入り前よ」諌めた目は笑っていた。
父親もその声に漸く顔を上げ、読みかけた本を閉じ理沙を見ていたが、テーブルの時計を見ると「もう、十時半か・・私は寝るぞ」と言い残すと立ち上がった。母親もつられたように立ち上がり「後始末よろしくね」一声かけると夫の後に続いた。
テレビは母親が見ていたドラマが終り、CMタイムに入って音量が僅かに大きくなった気がしたが、ビールを再び口に運ぶと目を天井に泳がせ、今日一日を思い返した。
次の週末から始まる最大十一日間のゴールデンウィークを控える国会は、重要法案の審議も一段落し、各議員は地元に帰ってからのスケジュールの調整に追われ、国民と同じように早くも気分は郷里へ飛んでいた。
理沙も中途半端な気分で週末を迎え、昨年の夏に起こった事案から赤坂の事案を振り返る中で、あの男性が柊涼子の夫である可能性が高いことを炙り出したが、その精悍で怜悧な顔を思い出すにつけ、涼子に対して嫉妬にも似た感情が熾火の様に燈ったのに戸惑いを覚えた。
突然、テレビの男性アナウンサーが緊張した顔で『今、入ってきたニュースをお伝えします』と話し始めた。
『今夜十時前に麻布警察署に男の声で《神宮前の関東吉津会田畑組長邸に怪我人がいます》との通報で署員が駆け付けたところ、組長の他四名の組員が何者かに刺され、重傷を負って病院に収容されました。繰り返します・・・』と緊急ニュースを流し始めた。風呂上がりの思考が宙を漂っていた理沙は現実に引き戻された。
食い入るように画面を見つめていたが、速報以外に目新しい事実も無く、アナウンサーは次のニュースに移った。
理沙は今聞いたばかりの速報に何か引っ掛かるものを感じて考え込み、釈然としないまま缶を口に当てたが空しく数滴が口中に落ちただけだった。
再び冷蔵庫からビールを取り出し、ソファーでプルタブを引き上げた時、その原因に気が付いた。
確か、あのアナは麻布警察に男の声で通報があったと言った・・つまり、この事件も警察が地道な捜査活動で挙げた成果では無く、誰とも判らない通報者による摘発・・と云う事は、この事件も一連の事件と同列の・・一気に、酔いも土曜日の寛いだ気分も吹き飛んだ。直ぐにでも社に出て詳しい内容を知りたいと思ったが、政治部の私が、この時間に社会部に行ったところでお門違いだと思い直した。
テレビでは今日都内で起きた傷害事件の詳細が語られていたが、理沙には聞こえていなかった。この神宮前の事件では麻薬は摘発されたのか、その他にも何かあったのか気になったが、十時前の通報で警察が動いたのであれば、そんなに早く詳細が報道陣に知らされる筈も無かった。明日になれば麻薬が有ったのか、無かったのかはっきりと判るわ。理沙にはそれが既定事実の様に思え、手に持っていたビールを口に運んだ。


          エピローグ


島根県浜田港は港湾法上の重要港湾として東側にある浜田漁港とは区別された存在である。
又、浜田港内でも東側を福井地区と呼び、主にコンテナ船の入港が多く、西側は長浜地区と呼ばれ、主として原木や鉱石類の陸揚げに供されている。
近年になり、貨物量の増加や新規誘致貨物に対応した機能強化が提言されると共に、非効率的な輸送経路への対応が叫ばれた結果、四年前から道路の拡充、港湾の整備、大型船対応の浚渫工事などで活況を呈してきた。それでも輸入の増加は工事速度を上回り、検疫、税関等の検査業務が超過密になり、増加する外国船に物資を供給するシップチャンドラーも乱立した。畢竟、一部ではそのチェックも顔パス等お座成りな面もみられた。
反社会勢力はこの混乱を見逃すはずも無く、小規模のシップチャンドラーを抱き込み一年前から密かに機を伺っていた。
二十日の浜田港の朝は先日来の雨がやみ、水平線を染める茜色の空は鈍色の波に映り沖合に停泊する船の影を際立たせていた。
八時頃からは、港湾に出入りする車両が増え各種作業員の数も揃って、何時もの活気ある荷揚げ風景を作りだした。その作業員たちに交じって、同じような作業服姿の県警捜査員たちが、昨夜来練られた計画に添って所定の位置に配置された。
予定より少し遅れ一時二十分に入港したフィリッピン籍のマリーグレース号からクレーンによる荷降ろしが始まった。その合間に反対側から、船首部分に『さかい丸』と書かれ、船外機を付けた平底の艀が静かにマリーグレース号に横付けされ、食料品や水、酒などの物資が運び込まれた。
荷降ろしが終わった艀は、日本までの航海で使い終わった物資の箱や大小のゴミが変わって積み込まれ、再び港内の長浜地区にある波止場に引き返した。
『さかい丸』が係留されるのを待っていたかのように、どこからともなく現れた作業員姿の捜査員が取り囲み、船長を確保して捜索令状の提示ももどかしげに捜索を開始した。
同船に乗り込んでいた関東吉津会の幹部三人と地元の暴力団三人の六名が公務執行妨害の現行犯で逮捕されたほか、目当ての麻薬三百㌔も情報通り回収ゴミの中から発見された。
島根県浜田港における摘発は警察の完全勝利に終わった。
この摘発は地元の島根県では夕刊の社会面で大きく配信されたが、東京では小さく扱われて話題にはされなかった。


全ての報告を聞き終わった誠一郎は手元の水割りグラスを傾けた。
日曜日ではあったが、秘書官の内村は公邸のリビングで同じようにグラスを手に、総理と向き合っていた。
「それにしても、五十嵐長官はよく話してくれたな」
「はい、長官は今日、絶対霞が関で指揮を執っていると思って、連絡を入れたら案の定おられ『秋月綾乃さん捜索の遅れの原因となっている麻薬は、その後場所は特定できましたか』と探りを入れて、良ければ総理も麻薬撲滅で腐心されておられるので、結果を是非教えてください、とお願いした処、四時過ぎにお電話を頂いて『三百㌔も摘発出来ました。これを橋頭保として関東吉津会の壊滅に全力を挙げます』と力強く仰っていました」
「結構きつい皮肉だな、それにしても五十嵐長官が日曜日に陣頭指揮か。苦労を掛けるね」綾乃嬢が既に救出されたことを言えないジレンマに、苦笑いを浮かべ、しみじみと呟いた。
その時、淑子が酒の肴にと渇きモノやチーズを入れた小皿を持って来てテーブルに置くと下がろうとした。
「そうだ、君も心配していた秋月さんのお孫さんだが・・」淑子が心配そうに誠一郎の顔を見つめた。
「安心して良いよ。無事に助け出されたそうだ」聞かされた淑子の顔がパッと明るく弾けた。
「そうですか。良かったー」心からの喜びに、内村もつられて微笑みを返した。
「だが、麻薬を打たれていて治療には時間が掛かるそうだ。この分野で最高の先生が絶対に治ると言ってくれて、今西宮の療養所にお世話になっている・・それで、この事は世間に漏れると大騒ぎになるので我々と秋月家の方以外には極秘にしてあるので、君もよろしく頼む」再び心配そうに大きく頷いた淑子は深い追求もせずに「内村さんご苦労を掛けます」の言葉を残してリビングを後にした。
「事件の一報を君が持って来てくれた時に、淑子が聞いていて・・それ以来時々心配そうに尋ねてきていたんだ・・」
「私も迂闊でした。奥様がおられた時に話してしまって」
「いや、あの時は緊急の時だったから、仕方が無いさ。でも少なくとも助かったと知れば、後は時が解決してくれるさ」屈託なく笑って水割りを口に含んだ。
暫らくして内村が帰ると、誠一郎は徐にカーディガンのポケットからW機関専用の携帯を取り出しW3を押した。
「W1」を名乗って、相手の返事を確認すると「全てうまくいったよ」そう言って田畑邸で柊が聞き出した情報によって、今日の三時過ぎから着手された警視庁と島根県警によるマリーグレース号の合同捜索で、情報通り三百㌔が摘発出来た詳細を話した。
「それにしても、彼が言っていたように法が足枷になって探れない情報を良く掴んでくれた。これで五十嵐長官も弾みがつくだろう。それにしても木暮君・・・・・」
誠一郎は木暮といつまでも話していたいような気分に浸って電話に語り掛けた。
木暮幕僚長とは昨年の夏に内村の紹介で知り合って以来、いつしか相談相手として、友人として忌憚なく話し合える仲に育まれていた。
リビングの前庭は、いつの間にかガーデン灯が点き芝生の色が鮮やかに映えていた。


理沙が出勤するとデスクの上にメモがあった。
《出社次第連絡乞う。 磯田》
先日に一度来たことが有るので磯田のデスクが何処にあるのか判っていた。
生憎電話中だった磯田は、肩越しに理沙の姿を見ると、空いた手で傍らのソファーを指し座る様に促した。
やがて電話を終えた磯田が、デスク上の書類を手に理沙の前に座った。
「ヤァ、どう、忙しいかい」気軽に声を掛け、手に持った書類を理沙の前に置いた。
手に取ってみると、毎朝新聞の島根県版、神戸版そして島根中央新聞の三紙で、それぞれ今日の朝刊の社会面がコピーされ、いずれも浜田港で警視庁と島根県警の合同捜査本部が二十日の午後三時半頃フィリッピンからの貨物船マリーグレース号の船内廃棄物を積んだ『さかい丸』を捜索した結果、麻薬三百㌔を押収した記事で両船々長の身柄を拘束して取り調べていると云ったものであった。
「これは?」理沙が訝しげに三紙を持って磯田に問いかけた。
「どこかおかしくないかい」磯田がどうだ、見抜いてみろとでも言いたげに聞いた。
理沙がもう一度、島根中央新聞の記事をじっくり読み込んでいた最中に「あっ、警視庁、
警視庁が何故島根に?」
「矢張り気付いたか」満足げに頷いた磯田が続けた「実はね、ここから見えるあのビルが警視庁だろう」と皇居の向こうに見えるビルを指さした。
「朝早めに出社した時、当直していたうちの若手記者が『昨晩八時ごろ警視庁のヘリポートから大型ヘリが西の方に飛んでったんですが何かあったんでしょうか』と聞いてきたんで、とにかく名古屋以西の我が社の今日の社会面を全部検索させてみたんだが、引っかかったのがこの記事だってわけだ。本社にも配信されていたんだが、どういうわけか、こんなベタ記事で処理されてたよ」と本社記事の社会面を見せた。
「地方都市の事件だからでしょうか・・・それにしても、どうして名古屋以西だったんでしょう?」
「ウン、その若手が大型ヘリと言ったんで、長距離だと思ってね」淡々と自分の見解を述べた。
理沙は“その、細かい機転がスクープを生むことに繋がっている”と思った。
「神宮前の後だろう、その後の調べで、これも匿名の電話が麻布署にあって、管轄違いの署が出っ張った・・・麻薬も少量押収したそうだが・・それもこの田畑邸が卸元で売れ残りがあったようだ。そして、そして・・その事件の最中に大型ヘリが飛んで・・島根で大量押収だ。なんだか繋がっているように見えないかい」窺うように理沙を見た。
「きっと、繋がっています」背筋を伸ばして磯田を真正面から見つめて断言した。
その後、神宮前の事件でも麻薬を打たれた少女が保護され、他に六十代の一般男性と思われる男も任意同行されたが、こちらは釈放されたことも磯田から聞き出し政治部に戻った。

自席に戻った理沙は松永副編集長に断りを言って、調査部の小さなブースに向かった。
一連の事件を整理してみようと思った。途中の自販機で買った紅茶の缶をテーブルに置いて小さな肘掛椅子に座ると彼女の準備は整った。
先ず、今までに遭遇した事件を追った。あの尼崎の小さな組・・塩田組の九人全滅と麻薬の押収に始まり、次いで浅井組の爆破殲滅、同時に神戸の銃撃戦による大量の麻薬押収・・赤坂の拉致少女救出と少量の麻薬押収・・神宮前の麻薬摂取された少女の救出とこれも少量の麻薬押収・・そして今磯田記者に教えられた島根県・浜田港の大量の麻薬密輸の摘発まで、一見バラバラな様だが、四つの事件の共通項は・・・・・《麻薬》・・・《女性》いや・・女性は副産物・・全てに共通するのは麻薬しか無い。然も全て、警察が地道な捜査活動で挙げた成果では無く、匿名の通報者による摘発だった。
しかし、尼崎と神戸・浜田港の事件は通報者が居たのは確認(公表)されていない。
一体、これら一連の事件は何を意味するのか・・理沙は、これらの全てに大きな意図が内在しているのを感じた。
磯田が先日いみじくも言った“麻薬に対してなのか反社会勢力に対するものか判らないが、その心の底には強烈な怒りのようなものが流れているような気がしてならない”言葉が思い出された。
同時に、それらの事件に共通する【麻薬】に敢然と立ち向かう柊という姓しか判らない、怜悧な印象を与える端正なマスクを想像するにつけ、アメリカ在住時に麻薬禍で友人を失った悲しみを重ね合わせ、彼の戦いに共感すら覚え始めた。―――理沙はアメリカで、その青春時代を過ごし自己主張・自己実現・アイデンティティが重んじられる社会、その為には喧嘩も辞さない環境で育ち彼女自身もアメリカナイズされていた―――一部に時間的な矛盾は有るものの概略はこのようなものである事に確信を持つと共に、それは理沙に思いもかけない微妙な変化をもたらし、小さかった熾火が心の中で大きく広がりはじめた。


綾乃の回復は眼を見張るものがあった
『人間は環境の動物である』古代ローマの哲学者の言葉だったか、夙川での手厚い看護と環境は劇的な効果を生み出した。
入院して親族が帰京した日から開始された治療は、睡眠と激痛の連鎖に終始した。
最初は内臓が捻じれる様な痛みから始まり、薬の処方で改善されると、昏々と眠る。
その連続に耐え、徐々に処方量が減り、睡眠時間が短縮され、三週間も経つと流動食が摂れるようになっていた。四週目を迎えた現在は、八㌔近く落ちた体重も二㌔ほど戻り、食欲も日増しに出てきて来週には普通食も考えられ始めた。
夙川の堤は十日ほど前の桜祭りが終わり、両岸を覆うように咲き誇っていた染井吉野の並木は殆どが葉桜となり、変わって日頃の爽やかな静謐な時間が戻ってきた。
澄み切った水はゆったりと流れ、春の名残を惜しむような柔らかな陽が恵涼苑の窓から差し込むと綾乃の目が静かに開かれた。
ベッドの横に置かれたサイドボードの時計はもうすぐ五時三十分になろうとしていた。
綾乃は窓外の桜の木に目をやった。葉桜の緑色が陽を浴び、恵涼苑を包むような爽やかな風に揺れていた。
朝早い目覚めには理由があった。
昨日の夕食前に洋子先生が「四週間、よく頑張ったわね。貴女の治そうとする意欲の結果ね。この回診が終わったら、ご家族にお電話するわね。いつ面会にいらして貰っても、もう大丈夫ですよと伝えるわ」手に持ったカルテを見ながら綾乃に微笑みかけた。治療を始めた頃は、自分のこのような姿は絶対に家族には見せられないと頑なに殻に閉じこもっていたが、最近は日を追って回復しているのを実感していただけに、心の底から喜びが溢れた。逆にこんなに痩せてしまった自分を見せるのには抵抗があったが、両親に会える喜びが勝り、その高揚は遠足前の小学生に戻った様だった。
しかし、綾乃は治療期間を通じて揺るぎない強い決心をしていた。

和田夫妻が九時からの診療に備え八時半に恵涼苑の前に着いた時、苑の前庭に二台の黒塗りの乗用車レクサスハイブリッドが停まっていた。二台共、白い手袋にネクタイを締めた中年の運転手が座っていた。脇をすり抜けるように苑の中に入ると、ロビーのソファーから四人の男女が立ち上がり和田夫妻に軽く礼をした。
「まぁ、秋月さん」洋子が速足で四人の前に駆け寄った。
「こんなに早くから押しかけてしまいました」恐縮したように前に出た宗信が頭を下げた。
「女房たちが一刻も早くと云うもので・・ご迷惑でしょうがご理解ください」後ろから信三郎が声を掛けた。
「いえ、そんな。迷惑だなんて・・ここでは何ですから、どうぞ奥へ・・」洋子が先頭に立って院長室へ案内した。
看護師長の鏑木良子が淹れたお茶を応接テーブルに並べていく中「こんなに早くお出でになるなんて、飛行機で?・・」訝しそうに尋ねた。
「イヤイヤ昨日六時ごろに頂いたお電話で、女房がどうしても明日朝一番で会いたいと云うもので、たまたま一昨年我が社が芦屋の翠ヶ丘に分譲マンションを造った際、その一部を迎賓館にさせて頂いたのが有りましたので昨日の内に我々も一緒に来てしまいました」いかにも一か月ぶりに娘と会える喜びに声が弾んでいた。
喜びに溢れた会話が交わされ、洋子から治療の経過説明と今後の治療方針が語られた。
最後に敏一が「綾乃さんは我々も驚くような回復を見せています。これは自分の意思に背いて麻薬を打たれた。その拒否反応からこんなことで負けてはならないと云う強い意志があったと思われます。しかし、未だ精神的には苦しい戦いが続くと視なければなりません。彼女は賢く聡明なお嬢さんです。今日見せて頂いた皆さんの愛情は、きっと彼女にも届き、克服されると我々も信じています・・・さぁ、それではご案内しましょう」横にいた洋子が大きく頷いて院長室を出た。

綾乃は療養室のベッドの上に淡いピンクのパジャマ姿で座り、白い掛布団を軽く腰まで掛け、窓の外を流れる夙川と風にそよぐ葉桜に目を向けていた。
軽いノックの音と共に洋子先生に続いて母親の顔が見えた。
邦子は洋子を追い越すように前に出たが、足はそこで止まり、余りにも痩せた綾乃に思わず顔を両手で覆ってしまった。後に続いていた宗信が邦子の肩を優しく抱いて前に押した。
事前に和田夫妻から説明を受けていたが、このように痩せた綾乃を想像できなかった。
「元気そうだな」父親が声を掛けた。
「はい、お陰さまで。心配を掛けました」家族全員を見て軽く頭を下げた。
和田夫妻が静かに療養室の扉を開けてそっと出て行った。
部屋の中では尽きることの無い話が交わされ、快活で聡明な綾乃が戻りつつあるのを実感していたが、邦子が「あなたが行くことになっていた聖心女子大学の方には、四月の一日にお邪魔して休学の届けをしておきましたから、ゆっくりと此処で治して頂いてからでも遅い事は無いわ」軽く慰めの言葉を投げかけた。
「ありがとう」と力なく礼を言った綾乃の気配を宗信は敏感に感じ取った。
「どうした、一年遅れでもいいじゃぁないか」励ましの言葉を掛けた。
その言葉を聞いても綾乃の反応は無く、俯いて考え込む姿に「あまり長く話して疲れたのかい」佳乃が邦子の後から声を掛けた。
その声で顔を上げた綾乃は信三郎を見て父親に視線を移した。
「お父さん、お母さん、そしておじいさんもおばあさんも、聞いて欲しい事が有ります」意を決したように、今までの柔和な顔からキリッと引き締まった顔に変わった。
「私、このまま聖心を辞めたいと思っています。我儘を言うようですが駄目でしょうか」三人が呆然として見つめる中、訴えるように話し出した。
「この病院で治療を始めて麻薬の怖さを思い知りました」そこまで言うと滲み出る涙が掛布団を濡らした。
「苦しくて・・辛くて・・何度もこのまま死なせて欲しいと先生方にお願いしました。本当に何度もお願いしたんです。その度に先生方は力づけて下さり、徹夜で付き添ってくださいました。何も食べることは出来ないのに、いつも吐き気がして・・その度に胃液が口から飛び出すんです。それを・・・それを・・・」滂沱の涙で言葉が続かなかった。
見ていた佳乃が綾乃の背後に廻りその背を静かに摩り始めた。
母親も涙が止まらなかった。背中を摩られて少し落ち着きを取り戻した綾乃は再び続けた「その飛び散る胃液は先生の白衣を染めるように汚すんです。でも先生たちは何も仰らないで、私の治療のために全力を尽くしてくださいました。恐らく酷かったときの三、四日はお二人とも寝られなかったのでは・・・そのお陰で今、家族と再びこの様に笑える私が有ります・・・私、考えたんです。聖心も楽しいところだと思います。でも先生方のようなお医者様になれたらもっと楽しいと云うか、生きがいと云うか・・・あの先生方のお手伝いがしたいと思って・・・だから私・・・もう一度勉強して医学の道に進みたいのです」顔を上げて家族に向き合った眼は強い決意を表し、療養者のそれでは無かった。
涙が流れるに任せて綾乃の言葉を聞いていた宗信は、握っていた拳を上げ目を一擦りすると「よく判った。君の思う通りにしなさい」言い終わって後に立つ信三郎を見た。
「素晴らしい生き方を見つけたな」一言声を掛けた。
信三郎は、再び家族が作り出した歓びの輪を抜け、静かな夙川の河畔を見渡せる窓際に一人立ち、思いを巡らせた。
『あの先生方は孫を絶対に治して見せると言われて、実際に期待以上の成果を見せて頂いた。それもその孫から今、想像を絶する闘病生活を聞かされた。そのご苦労はいかばかりか・・素振りも見せずに我々に喜びを与えて下さった。この無償の愛に応えるには、私は何をすれば良いんだ』答えのない難問だった。
「あなた、綾乃も疲れたでしょうから、そろそろ・・」いつの間にか傍に来た佳乃が笑顔を見せて囁いた。
「そうだな」我に返った信三郎が腕時計を覗くと十一時になろうとしていた。
夙川の清流に浮かぶように泳ぐ数羽の鴨の横を青いカワセミが水を切る様に飛び去った。


柊と飯田は朝から神宮前の遠藤不動産へ行き、借りた部屋を引き払う為に遠藤夫妻へ挨拶に来た。そのまま赤坂にも立寄り《食堂ちさ》で少し早めの昼食を摂った。
先月の春分の日に、徹郎に教えてもらった男達を追う為、代金の支払いをしなかった事を詫びると「やっぱり木辺さんは律儀な人だねぇ、わざわざ払いに来て貰うなんて。それであの男達を何で追ってたの?」木辺が刑事では無いと判った今、彼が何者かに興味が移った。
「あれはですねぇ、実は僕達、週刊誌に記事を書くルポライターをしていまして、彼らが田畑組の組員で麻薬の売人ではないかとの噂で、この谷村と一緒に調査を始めたばかりで・・」
そこまで聞くと女将が反応した。
「ところが調べるまでも無く、あいつらは警察に捕まっちゃった」茶化すように柊の胸のあたりを軽く叩いた。
「そうなんですよ。おかげで僕たちの記事も没になってしまって・・」頭を掻く仕草で苦笑いを浮かべた。
「でも、あの後が大変だったねぇ。かわいそうに女の子が五人も麻薬を打たれて・・でも良かったわよ、売春させられる前に助けられて。それにしてもあんなやくざ達は許せないよ。女の敵だね」女将が相槌を求めるように柊たちを睨んだ。その時店の奥にあった客用のテレビが一時の時報と共にニュースを始めた。
『お昼のニュースをお伝えします。本日午前十時、衆議院議員の民生党比例近畿ブロック選出の大室大悟議員が衆議院議長に辞表を提出し受理されました。明日の衆議院本会議で承認される見通しです。民生党本部も突然の議員辞職表明に困惑を持って受け止めているようです。では、民生党本部前から中継で・・・』
「何だろうね、突然・・」女将の興味がテレビの方に移って、間近で見るために画面に向かった。柊たちは軽く女将の後ろ姿に頭を下げると外に出た。
「思ったより早かったですね」飯田がニュースの感想を言った。
「ドイツの詩人ゲーテは言っています。半端な愚者と半端な賢者が一番危険だと・・新しい後悔を造らない様に願うだけです」
この人は本当に特殊作戦群の【S】なのだろうか?飯田は柊の顔をしみじみと見た。

                                     了

テミスの怒り Ⅱ

テミスの怒り Ⅱ

年が変わり、柊は浅井組壊滅の際、非行が暴露された大室議員を、総理秘書官・内村正の協力の元、東京の祐天寺に拠点を移し密かに探索を開始した。 その様な中、総理の盟友・五陵財閥・秋月会長の孫娘が拉致されたと云う警視庁麻布警察署に架かった一本の電話が探索の方向を変えた。 その救出が最優先事項として背中にのしかかるが、拠点での活動の中で張り巡らされた情報網から、図らずも接点を見つけると柊の動きは素早かった。 民間の協力者としての西宮・和田夫妻の協力も得て、新たな麻薬の拡散阻止に東京~西宮と東奔西走の活躍が始まった。 縺れかけた探索の糸が再び縒り合され一本になり、全国の反社会勢力が嘗て遭遇したことも無い敵が立ち塞がる。 一方、毎朝新聞政治部記者上野理沙は一連の報道での社長賞にも心からの充足感は得られず、彼女の心の深奥に潜む男の存在が小さな熾火から次第に大きく育つのを受け容れつつあった・・・・

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2016-11-28

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