CRUMBLING SKY

・CRUMBLING【ぼろぼろな】(クルムブリング)
・SKY【空】(スカイ)

エピローグ――逢魔時の欠落者――


 饗庭(あえば)小夜(さよ)は毒虫のように生きていた。しぶとく、強張りながら、じっとして動かなかった。
 それは彼女の世界に度々おこる自然災害的暴力に対して身につけた生き方で、生みの親という者が皆子供に対して強く当たるのは教育なのだと理解していた。悲しいことに彼女は納得していた。しかしそれは饗庭(あえば)家の親子間で完結している教育ではない。そこにあるのは愛情でも無ければ親心でもないもので、暴力は暴力であり、家庭環境は事実崩壊していると言っていい。
 饗庭小夜(さよ)が身体を強張らせて暴力に耐える姿勢に入ると、親はその(うずくま)った背中に拳を叩きつけた。鈍い音が響く。それは断続的に、悪意を込めて不規則に、幾度も繰り返された。
 饗庭小夜は歯を食いしばりながらじっとしていると、終いに親はつまらなそうに肩を落とし、そして饗庭小夜の髪を乱暴に掴むとそのまま外に引きずり出した。

 夜風が寒いはずだったが、全身を痛めつけられたせいか身体は暖かく、饗庭小夜はほんの少しだけ清涼さを感じてアスファルトに転がった。
 家から閉め出されたのだ。しかし解放されたと言ってもいい。
 饗庭小夜は玄関先の花壇の隅に隠していた平たく潰れたサンダルを裸足の上に履いて新年の街を歩き始めた。

一話 都市の幽霊・上


 新年の街並みは灯りがぽつりぽつりと点いていて、察するに夜通しで起きている人達がその部屋に居るのだろう。
 俺は武蔵関公園の片隅、池を眺められるベンチに腰掛け、少しずつ白んでいく空の色を眺めていた。夜闇に溶け出した眠りの中にある人の意識が街に拡散されて夢を見ている。それが朝の光に反応して、自身の棲家に戻り、狂いなく再構築されていく。後には清廉な朝靄と、電車の走行音。そして誰かの足音。
 木々が自然のままに生える薄暗い公園、その足音は僕に向かって来ている。何か用事があるのか、あるいは俺の存在に気付いていないのか。ともかく、俺は足音に振り向いた。
「っ……」
 短く声を漏らして警戒している目の前の人は年端もいかない女で、かといって少女と言うには纏う雰囲気は陰鬱としていて、新年を迎えた人のイメージ像からは離れすぎていた。とても浮いている。というよりは沈んでいると言ったほうが、正しいのかもしれない。
 その彼女の目は鈍く街灯の光を反射し、臆病さからくる攻撃的な表情は猫のようで、浮かれた世界とは無縁な意思を湛えている。着ているものは黒いセーラー制服で、おそらく学校指定のものだろうが、夜明けに、そもそも祝日に見るものではなく、全体の印象として喪服のような意味合いを含んでいるように思えた。
「……おはよう、ございます」俺は沈黙を払うためにそう言った。処世術じみた新年の挨拶は、先の印象から憚られた。
 彼女は視線をこちらには向けずに、挨拶を返した。
「……どうも」

 俺に用があったわけではないらしい彼女が、ならば何故ここに現れたのかについて、俺は少なからずの関心があった。というのもこの場所は公共の場でありながら、深夜から夜明けにかけての時間に限り、俺の貸し切りと言っても良い。大晦日や元日とは関係なく、連日連夜僕はここに通っているのだ。もしかすると彼女は昼間にこの場所を訪れ、お気に入りの場所としている人で、年の瀬をここで迎えようと訪れたのか。再び沈黙が生じるより前に俺は聞いてみる事にした。
「ここにはよく来るんですか?」
「いんや、」彼女は少し鼻をすすり、短く答えた。
「……気が向いて、散歩とか?」
「……いいえ、」
「……」
 ……ふむ。会話をする気分ではないみたいだ。俺は少し肩を落として、沈黙に包まれることに抗うのをやめた。遠くでバイクのエンジン音がけたたましく鳴り響く。若者が浮かれているのだろうその音は、曖昧な方角から現れたのちに曖昧な方角へと消えて行った。
 池の水面が揺らめく。街灯を反射する池の水面はタールのような黒い液体のように見えた。
「家」
「?」いつの間にか隣のベンチに座っている彼女は呟いた。『イエ』そのイントネーションは否定の意味ではなく建物を指す語感である。「家、がどうしたの?」俺は子供に向かって話すような優しさで会話を促してみた。彼女は少し惚けたような顔で池を眺めたまま続けた。
「家がもうダメなんだ。こんなこと他人に話すことじゃないけど」
「ダメ、とは?」
「……家庭的ないろいろ、もうどうしようもないんだよ」
「どうしようもない……」
 諦観の心理特有の情報量の不足した言葉に、俺は手のつけようもない。きっと具体的な事象を話されても、それこそどうしようもないことには変わらないだろうが、それとは別に好奇心は満たされず。ちらりと彼女を見やると、変わらず池を眺めていた。
「もしかして、家出とか」
「閉め出された。今日はここで野宿でもしようかと思ってさ」
「それは、危険じゃない? 変な人に連れ去られたりしたら」
「心配される? そんなことないよ」
 彼女は俺の言葉に被せて否定した。心配してくれる親はいないということを意味していた。
 不審者、誘拐、殺人。これらとは無縁なこの治安の良い地域、それでも目の前の彼女は見るに堪えないというか、危うい。
「なら、僕が連れ去っても問題ない訳だ」
「は――」
 彼女は俺の方を向いて驚いている。不安と怒りに曲がりくねった眉の形は、張り付いた癖か、おそらく俺に誘拐されるかもしれないという恐怖か。
「なんてね。不安なら無理に連れては行かない。けれども、もし屋根のある所で過ごしたいなら僕の部屋に匿う事が出来る」
「……見返りは?」
「しない」俺は彼女の目を見て即答する「無償の愛という奴だと思ってくれていい」
 この御時世では滅多に聞かなくなったな。
「……信じたわけじゃないけど、外よりマシかな」
「もちろん。こう見えて僕は人助けが仕事みたいなものだから、安心してくれていい」

 武蔵関公園の遊歩道を歩き、俺は家に案内する。空が明るくなって、時刻は6時に迫っていた。俺の仕事を切り上げるにも丁度良かった。他の人に少女を連れて歩く姿を見られる事もない。年始の今は、外に出ようと思う人はいないだろう。
 一つ誤解がないように明記するなら、俺は本当に彼女に何かをするつもりはない。夜に活動する俺にはよくあることなのだ。こういう厄介事は。

 歩き始めて5分もかからない所で、東伏見駅を通り過ぎ、自宅に着く。
「さ、上がって」
「……お邪魔します」
ベッドと小さな本棚、机にはパソコンが一つ。散らかる余地のない部屋なのは、こうして誰かを招き入れることも少なくはないからだ。
「……」惚けている表情で部屋を眺める彼女。俺はその制服から覗く脚に幾つかの痣があるのに気付いた。
「傷」彼女は呟く。
「え?」
「あんまり見るなよ、傷」
「ごめん」
「……いや、宿のお礼にこれから見せることになるのか」彼女は俺に背を向けたまま、俺の正面に立って「私の家庭がもうダメな証明」と言ってセーラー服に手をかけた。
 彼女は誤解している。俺が対価として肉体を求めていると思っているのか、その傷だらけの身体を露わにする事で男の欲望を削ごうとしているのだろうか。ともかく、彼女はセーラー服を脱ぎ始めた。
「そうじゃないよ……!」俺は彼女の手を掴む。「傷を見たのは確かだけど、服を脱ぐ事はないよ」
「……じゃあ、私はどうしたらいい?」
「何もしなくていいから、とにかく座って」
 そう言って彼女を落ち着かせると俺も側に腰を下ろした。
 彼女は震える身体を抱きしめるように体育座りをしている。警戒を解くべきか悩みながら、睡魔と戦っているのがわかる。だが、俺の口からベッドに誘ってしまっては、彼女にまたあらぬ誤解をさせてしまいそうで、慎重に言葉を選ばなければならない。
「僕はもう寝る事にする。君も今日は眠ったほうがいい。僕は床で寝るから、ベッドを使ってくれていいからね」
「私、床でいいよ」
「客人を床で寝かせるなんて出来ないよ、眠れなくてもいいからベッドの上にいてくれ。おやすみ」俺は強引にベッドを勧め、床に横たわる。部屋は狭い。二人が床に居てはとてもじゃないが窮屈だ。兎にも角にも目を閉じる。次に目を覚ました時に彼女が居なくなっていても構わない。盗まれるようなものも無ければ、彼女の行動にお節介を焼くのも独りよがりな善行に感じられるので、考える事はやめて、早々に眠りの中に潜って行った。

 次に目を覚ましたのは何時ものように昼過ぎだと感覚した。完全に夜行性の体内時計となっている俺にとって寧ろ早起きをしたと言っても過言ではない。次に彼女の事を思い出した。
 床で眠ったせいか背骨が痛む。凝り固まった身体を蠢かせて、傍に置いていた携帯端末を手に取って時刻を確認する。13時半。うまく眠れていなかったようだ。俺が思っているよりもずっと早い時間だ。次に彼女の姿を確認するために上体を起こした。ベッドの上にはもう居なかった。帰ったかと思うと少し落胆したが、そもそも彼女の帰る場所などあるのだろうか。次の宿を探してふらついているのかも知れない。と。
「……あんた、ずいぶん長く寝ていたな」
 玄関のドアが突然開くと、彼女が戻って来た。
「……おはよう。よく眠れたかい?」俺は問う。
「いんや」彼女は少しだけ笑顔のような表情を作る「ベッドで寝るのが久しぶりで、身体が落ち着かなかった」
 俺はそうかと返事をして、彼女の手に持っている高校生鞄に目をやった。
「家に帰ったのか?」
「……窓から入って自分の物を詰め込んで、改めて家出して来た。」彼女は鞄を前に提示して、詰め込まれた荷物がその中にあると示した。その鞄の軽さを見て取るにとても少ない所有物しか持ち合わせていないみたいだ。
「あの、さ」
「何か?」
「改めて、しばらくここに身を置かせてもらってもいいか?」
「……親は君を探すかな?」
「探さないだろうけど、家出っつっても二、三日に一度は家に帰るよ」
 二、三日に一度、家に帰ることで何を得るのだろうか。新しい傷以外に彼女の親が彼女に与えられるもの。
「学校には通うの?」
「……冬休みが終わったら。」
「じゃあそれまでは、ここにいていい。……それよりご飯は食べたのか?」
「まだ、何も」
「そうか」
「いや、実は……お金全部親に取られたんだ」
「そうか」俺はまだ眠りを引きずる意識を無理矢理働かせながらこれからの計画を立てる。とりあえずシャワーを浴びないことには外に出る気が起きない。彼女もまた身なりがお世辞にも整っているとは言えない。全身の痣や擦り傷、髪だって傷んでいる。
「とりあえずシャワーを浴びてこい。着替えは持ってるか? 僕の服でも構わないなら適当に見繕うけど」
「シャワー……」
「?」
「あ、いや。着替えね。……お、お願いします」
「ん」
 彼女にバスタオルを手渡して、バスルームに案内する。湯沸かし器のスイッチを入れて彼女を中に案内した後、俺は彼女に合いそうな着替えを探す。
 押入れの中に眠っている衣服の中で男女関係なく着れるものといえば民族系のものしか持ち合わせていない。俺はサルエルパンツを引っ張り出して確認する。ウェストは多少緩いかも知れないが、腰紐が通っているから調節は可能だろう。次にトップス。幾つかシャツを見繕って、彼女に選ばせよう。
 おそらく10分もかからない内に彼女はバスルームから出てきた。腰まで伸びたままの、決して手入れの行き届いていない髪を張り付かせた肌からは湯気を立ち昇らせている。彼女と入れ替わるように、バスルームに入りシャワーを浴びた。

 熱い湯を頭から浴びたことで、幾分目が覚めた後、一通り身体の汚れを洗い落とすと、俺もすぐにバスルームから出た。
 髪を乾かそうとした時に、彼女がタオルで髪を乾かしているのを見て、ドライヤーの在り処を伝え忘れていた事に気付いた。
「おっと、ドライヤーがどこにあるか教えてなかった。ほら」俺は手に持ったドライヤーを彼女に手渡した。
「あ、ありがと」彼女は覚束ない操作でドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始めた。あまり想像したくはないが、彼女のたどたどしい動きは全て家庭環境に繋がっているのだろうと思う。ドライヤー一つ、彼女には馴染みのないものなのだろうか。
「……まえ」
「え?」ドライヤーの温風によってかき消された彼女の言葉を聴き返す。
「名前をまだ知らない」
「あぁ、名前」
 そうだった。名前も知らない彼女を家に上げている。彼女からすれば、名前も知らない男の家にいることになる。
「僕の名前はオトリだ」
「おとり? それは本名なのか」
「鳥の尾と書いて『尾鳥(おとり)』」
「じゃあ、次は何の仕事をしてるんだよ」彼女
はドライヤーを止めて俺に手渡す。もうほとんど自然乾燥してしまった髪を温風に当てながら答える。
周波数調整員(バランサー)だよ」



 周波数調整員(バランサー)。22世紀の発達したネットワークとそれによって発生する浮遊バクテリアの霊素可視化現象について問題を解決する組織。
 拡張現実による物質世界への侵略。それは黒幕の存在しない歴史上最大規模の人口災害であり、集団で共通の幻覚を見る等の事件報告が相次いだ。それは、風化しつつあったカルト宗教やテロのような理解不能の恐怖と混乱を全世界に、そして同時多発的にもたらした。具体的な解決策が見つからぬまま世界は3ヶ月もの間拡張現実とともに過ごした。天地が反転したり、肉体が腐り落ちる幻覚や魑魅魍魎の目撃談。地獄が溢れかえったのだと例えられる世界的集団幻覚事件は、義務教育の教科書にもいち早く取り上げられる。とにかく、それ以来インターネットは国営化され、納税額によって閲覧権限が比例するように整備された。当時は避難の声も強かったが、閲覧権の保証されているお偉方は肯定的で、力ない市民はすでに無力だった。何より、インターネットの接続を制限してから事実、拡張現実の侵食は抑えられたのだ。――今現在インターネットの閲覧は個人の納税額によって6段階に分けられている。
 そして周波数調整という仕事は、侵食する拡張現実に対して調査する仕事を指す。調整員は特定の周波数が溜まりやすい地域や人物に対して調査を行う人の事だ。そして周波数というものは奇妙なことに幽霊や未確認生物などのオカルトな現象に非常に似通っていた。

 ……大掴みに言うならば、『幽霊退治する仕事(ゴーストバスターズ)』だと、同期は揶揄していた。言い得て妙だと、俺も思う。

「幽霊退治……聞いたことあるな。嫌われがちな仕事だっけ」
 周波数調整員という仕事について、およそ中学校の教科書に載っているのと同じような俺の説明を聞いて、彼女はそんな事を言う。
「まぁな。インターネット制限だって、混乱している内に施行されたから、未だに反感を持つ人が大半だろうし、周波数調整員である事を公言したら、怒りの矛先を向けられる可能性が高い」
「どうして、周波数調整員なんかに」
「理由は二つある。一つは国営化する前はウェブデザイナーだった事。もう一つは適性があった事」
「適性?」
「適性。体内に流れる電気が特殊で、周波数に親和性が高いんだ」俺は饒舌になっている自分を不意に自覚して、彼女を置いて行っている事に気付いた。そもそもすべての人間の身体から電気が流れていることも、当たり前の知識とは言えないのだ。改めてわかりやすい言葉を探す。「簡単にいうと、変な人は周波数調整員に向いているってことだよ」
 俺はそう言ってまとめると、彼女は、なら私も向いているかもな。と笑顔を作った。その笑顔はやはりぎこちない。
「何でこんな話になったんだっけ?」
「名前を聞かれて、職業を聞かれたんだよ。次は君の名前を教えてくれ」
「あ、そ」彼女は自己紹介をする。ここでやっとお互いの名前を知ることになる。「饗庭(あえば)小夜(さよ)。……高校2年」
 饗庭(あえば)小夜(さよ)か、家庭環境を踏まえると意外なほど綺麗な名前だ。
「いい名前だ。……現実でこんなこと言うのは初めてだけど」
「そうか?」
「親がつけたとは思えない」
「おばあちゃんが付けてくれたんだ。今はもう居ないけど」
「そうか」なるほど。
 祖母が居なくなって、いよいよ家庭の均衡が崩れたとか、そんな感じだろうか。

「さて」俺は話が落ち着いた所で、昼食を食べに行こうと立ち上がる。「饗庭さん、ご飯は何か食べたいものはあるか?」
「何でもいい」彼女も俺に続いて立ち上がる。饗庭の選んだシャツは灰色の無地のものだ。理由は単に丈が長く、傷を隠せることに尽きる。サルエルパンツも男女共用のデザインだったから、違和感はない。季節を考えると寒いかもしれないが、饗庭は大丈夫そうだった。制服の時とは意外なほど印象は変化して、お通夜のような暗い影はだいぶ薄れた。親の元を離れているという状況も大きな要因だろう。改めて見てみれば、饗庭の外見はとても整っていた。
 外に出ると街は家族連れが多く見られた。正月の穏やかな空気に、住む世界の違いを実感する。
 俺は今、家出少女と共にいる。
「饗庭さんの親がいるかも知れないな」
「いるわけない」
「何でわかる?」
「外に出たがらないから」
 何か含みのある言葉と表情の陰りを見て、何となく追求するのは避けた。饗庭の断定的な物言いを、とりあえずは信じておこう。そして昼飯は最寄りのファミリーレストランで問題ないかと饗庭に確認する。何一つ不満はないと言う旨の返事が返ってきたので、店内に入る。
 ウェイトレスに案内された席に腰を下ろす。正月の影響か店内はまるで貸し切り状態と化している。気まずいほど空いているのに、店員はこれから客が押し寄せるなんて妄想でもしているのか、堂々として中央の二人席を指定した。向かい合って座るような狭い席だ。不満を覚えるが、ここでいちいち腹を立てるほどの事でもない。勝手に移動するだけだ。少なくとも隅の四人席でも大した問題も無い。
「移動する?」と、俺に向かって聞いてきた。
「僕らしか居ない店内で、馬鹿みたいに狭い席に座る必要はないさ」
「……ま、ね」
 饗庭が興味無さそうな返事をして付いてくる後ろに、先程のウェイトレスが歩いてきた。
「こちらお冷になります。ご注文お決まりになりましたらベルでお呼び下さい」
「どうも」俺は軽くお礼を言って、ウェイトレスが奥に消えるのを見届けた。「ほら、何も言わないだろう」
「でも、なんか悪くないか?」饗庭は抽象的な道徳観念を持ち出す。
「そんな曖昧な善悪の価値観じゃあ、苦労するぞ。……この場合の悪人は二人。一人は狭い席に座らせた店員。もう一人は指示に従わない僕。饗庭さんは今回は第三者ってことで」
「第三者?」
「悪人になれなかったってことだよ。善悪に限らず、自分の意思を尊重して生きたほうがいい」
「自分の、意思……」饗庭には何か思うところがあるのか、口の中でその言葉を転がした。どこを見るでもない視線は猫のようだった。その視線は僕とぶつかり、そして逸らした。
「昔から意思を伝えるのが下手だったよ」
「……例えば?」僕は聞き手にまわる意思を表して話を促す。
「今まで、人から言われた事はなんとなく受け入れてきた。記憶に残っているのは、そうだな、初めてクラス委員長になった時だ――」


 私が初めてクラス委員長になった時は、小学校の3年生の時だった。中学年という区切りになって私は名簿番号が一番になった。2年生の時まではクラスに相田という男の子がいたので、初めての一番だった。
 担任の先生が『新しく委員長を決めたいと思います』と、生徒の前で伝えると、辺りからは誰を選出するか、ひそひそと会議が始まった。私は当時から友達作りが苦手で、後ろの宇垣君も、横の柴咲さんももう私に背を向けて新しい友達と話し合っていた。
 3分ほど経ったのち、驚くことが起きた。
 教室の生徒全36名中35名が『委員長は饗庭さんがいいと思います』と、一字一句同じ言葉を教室に響かせた。
 私の知らない内にみんなが操られているみたいな光景は、今でも覚えてる。
 名簿番号の順に一人ずつ名前を挙げていくから、一番最初は私から発表したの。椅子から立ち上がって『委員長は、えっと、……羽田さんがいいと思います』そう言って着席。後ろの宇垣君が入れ替わりで立ち上がると『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。入れ替わりで大谷さんが『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。入れ替わりで尾木君が『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。――それを35名。怖かったという言葉では形容できない異質さがあって、私はずっと固まっていたと思う。私だけが理解できない共通の認識が存在して、みんなはその認識からくるシステムに対して絶対的支配下にあるんだと、子供心に思っていた。だから私はそのシステムの支配下に入っているふりをしたの。私も同じシステム下に置かれている。と。
 委員長になった私は、あとで数人のクラスメートに、私を選んだ理由を尋ねた。全て同じ答えが返ってきた。『饗庭さんは名簿番号が一番だからだよ』……相田君は委員長にはならなかったのに。


 そんな子供の頃の環境から、私の生きる方針が形成された。『多数決』というルールの上で自分を殺してきた。

「……最近、それじゃあダメだって思い始めて、でも……」
「トラウマか」
 子供の頃に形成された価値観は、作り変えるのが難しい。『善悪を定義する前に善悪を定義する物差し』は、外部から矯正した所でどうしても人格否定の領域に入る。だから、やり直すには自分の力で自分をやり直さなければならない。
「確かに、饗庭さんの過去に今の性格を作った原因はあると思う」
「ま、結局、今回の家出だって、親に追い出されてから始まったことだし」饗庭は少し疲れた顔をして笑った。
「……まだ17歳だから、ここから性格を作り治せる。ゆっくり自分を見つめ直すしかないよ」そして僕は両手を叩いて乾いた音を鳴らす。「それより、何食べる?」

 店員を呼んで注文を伝える。話しは長くなりそうなので、食べながらいろいろ聞いていきたい。
「……尾鳥(おとり)さんが優しい人でよかったよ。正直、気が休まらなくて眠れなかったけど、本当に信じてもいいんだな」饗庭はメニューを片付けて両手を組み、俺を見つめた。ほんの少し和らいだ表情は信頼と取れるが、もし俺が悪人だった場合、油断とも取れる。
「そうかな?」俺は少し微笑んで、「油断させてから襲う悪い人かもしれないぞ」
「本当に悪い人はそんなこと言わない」
 饗庭の油断、今は少なからず好意的に受け取る。
「……今日はゆっくり寝るといい。俺は夜仕事だから、朝まで公園にいるけど」
「周波数調整員の仕事って、必ず夜じゃないとダメなの?」
「いや、人によって違う。基本は変動給制だから、報告書の内容で評価される」
「報告書に嘘を書いたら?」
「バレるよ。上から支給されるものはいろいろあって、例えばこの携帯端末も支給されたものだ。守秘義務のせいで言えないけど、この端末で仕事の量や質は全て共有される」
「……なんだか現実味がない話だね」
「んー、まぁ、僕たちは『幽霊』を相手にする仕事だからな、普通の人からすれば嘘みたいな話だ」
「じゃあ、尾鳥さんについていけば、夜に幽霊が見れるの?」
「見えるんじゃないか……と、」途中で店員が料理を運んで来るのが見えたので会話を止める。店内に未だ客は訪れず、このお店は正月とは関係なく閑古鳥が鳴いているのだろうか?
 注文した料理がすべてテーブルの上に並び、店員が再び奥に消えると、俺はカトラリーケースからナイフとフォークを手に取る。ミックスハンバーグのコーンをフォークで掬いながら、中断した会話を再開する。
「微弱な電界が、この辺りの公園にあるんだ。今やっている仕事は女の子の幽霊が相手だから、むしろ仲良くなれるかもよ」
「本当?」
「ついてくるか? 深夜だから、眠くならないように昼寝しておかないと体力もたないぞ」
「じゃあ、すぐに寝ないとだな」饗庭はオムライスをスプーンで一口大に切り取って口に運んだ。「言っとくけど、寝込みを襲うなよ?」
「襲わない」俺はハンバーグを食べながら「言っとくけど、体力的には僕が負ける気がする」
 今夜はぐっすり寝ろと言ったそばから、饗庭は徹夜仕事について来ると言う。まぁ、昼寝するのなら問題ないか。なんて考える。この仕事は秘密が多いが、幽霊を見せる位は問題ない。誰にでも見ることができる拡張現実だから。

二話 機械じかけの幻想・上

 夜。
 仕事の時間である。

「昨日の公園じゃないの?」と、後ろで饗庭(あえば)がついて来る。
「今日は東伏見公園に行く」

 家を出て、武蔵関公園から反対の道を進み、鳥居を潜った線路沿いにある道を歩いている。

 この土地には三つの公園があり、その地点を線で結ぶと三角形を描くようになっている。そして東伏見神社の存在。……これらによって幽霊、拡張現実と呼ばれる浮遊バクテリアが集まる肥沃な土地として機能する。
「どこの公園でも一緒じゃないの?」
「うーん、…」俺は説明するために言葉を選ぶ。「幽霊と言われているのは、浮遊バクテリアの集合体だって言うのは知ってるよね?」
「習ったと思う」饗庭(あえば)は頷いて「生物や周波数に感応して、浮遊バクテリアが空間投影する。…それが幽霊と呼ばれてるんでしょ」
「浮遊バクテリアがインターネットと人間の橋渡しをしているからだって言われてる。けど、ネットを規制された今も幽霊は現れる。多額の納税を収めて未だにネット接続している者の意識や、死者の意識の残滓だ。」
「死者の意識の残滓…」饗庭は興味深そうに言葉を反芻した。
「そう。浮遊バクテリアによって、死者の魂が『可視化』しているとも言える。『幽霊の正体見たり、浮遊バクテリア』」
「………字余り。それに、公園の場所は浮遊バクテリアと関係ないじゃん」
「いや、その知識を頭に入れた上で、浮遊バクテリアの意識についての説明をしないといけない。」俺は歩きながら後ろを振り返り、饗庭の横に移動した。横に並んで歩幅を合わせる。「浮遊バクテリアそのものには意識はない。それでも固有の幽霊に姿を変えて、決まった場所に現れるのは、感応した人間の、生前の人格から来ていると言われている。」
「じゃあ、その死んだ人との待ち合わせ場所が、ここなの?」
「そう。ここが待ち合わせ場所ってこと」



 東伏見公園。時刻は三時。眠りを忘れた都市の光がぽつりぽつりと四方を囲み、木造デッキのすぐ下を西武新宿線の線路が通る。その木造デッキに上がり、俺と饗庭は手すりに凭れる。背中に触れる手すりの冷たさが少しずつ馴染んでいく。
「…何も起きないよ」饗庭が手のひらを擦り合わせながら隣で寒さに耐えている。
「あれ、見えてない? 少しずつ見えてくるはずだよ」俺は木造デッキの中央を指差して饗庭に示す。
 そこには煙のような、夜闇に馴染まない白い粒子の集合体がある。少しずつフラクタルのような図形を描きながら、崩壊と再構成を繰り返し、人の形に変わる。
「…あ、見えてきた」饗庭は興奮を押し殺しながら、見えてきた見えてきたと繰り返す。

『お待たせ』
 姿が定着して、デッキに立つ女の子の姿は、病衣を纏う幼い子供だ。見た目は14歳ほどで髪は短く肩にかかるあたりで切りそろえられている。青白い燐光を放つ様はまさに幽霊。名前は杵原 真綸香という。
「おう」
「え? 話せるの」
 饗庭は年齢相応の無邪気さで幽霊に興味を示す。が、俺の隣から離れず、近付こうとはしない。
「そりゃあ、話せなきゃ仕事にならない」
『…誰さん?』
 杵原は饗庭の反対側で俺の服を摘んで引っ張り、説明を求めた。
「…訳あって今保護してる家出娘だ。名前は本人から」
「あ、えっと」饗庭は未だ驚きを隠せない顔で杵原と俺を交互に見ながら「饗庭小夜(さよ)です。」と短く名乗った。
『初めまして。僕は杵原 真綸香。訳あって死ねない女の子だよ』
 破顔一笑。
 饗庭は動揺して俺に視線を送る。
「…まず、仕事内容から改めて説明しよう。」俺は杵原と饗庭から離れて前に立つ。「僕の仕事はこの『不死帯:杵原真綸香』の観察。及び話し相手だ。」
『うむうむ。』
「…前聞いた話となんか違うくないか?」
 二人は正反対の反応をした。まあ、予想はしていた。昼に話した内容では説明不足であることは意図している。百聞は一見に如かず。実際に見ながら説明した方が良いと考えていた。それに、杵原と饗庭は仲良く出来そうだと思っている。

「饗庭のために説明を続けるぞ。まず、この仕事は基本的に幽霊退治(ゴーストバスター)だ。だが、別に暴力に訴える必要はない。この『不死帯:杵原真綸香』は肉体が火葬された今も意識を周波数帯域に残している稀有な例で、何故そうなったのかは…言ってもいいのか? 杵原さん」
『いや、僕から話すよ』簡単な話だけどね。と杵原は経緯を説明する。『修学旅行のバスで交通事故にあって、死にきれませんでしたー』
「…って感じだ。調査資料によると、」
「ま、待ってよ」饗庭は俺の説明を遮った。「急にいろいろ言われてもわかんないって! えっと、…まずフシタイって簡単に言うと何なの?」饗庭は混乱しながら、俺に質問する。
「……通常、死者の意識が浮遊バクテリアと感応しても、一夜限りしか持たない。不死帯って言うのは、浮遊バクテリアが形成するネットワークの中で『不死の帯域=不死帯』と呼ばれる周波数、または、そこで生き続ける幽霊のことだ」
 饗庭は眉間にしわを寄せながら、なるほどと呟き、「次に、何で杵原さんだけ死にきれなかったんだよ」
「そこで、調査資料だ。」俺は携帯端末を操作する「バスの事故は山道で対向車との衝突。…んで、崖から川へ落下。死者は杵原を含め3名の生徒、その他は重軽傷。」
『私は川に落ちて、その時はまだ死んでなかった。』杵原が補足する。
「川に転落して、溺れた杵原は、救急隊によって病院で治療を受けたが、大脳はダメージを負った。半年間ネットワークに繋がっている医療器に脳を接続されながらの植物状態が続いた。」
調査資料の情報をかいつまんで読み上げる。説明し終え、饗庭を見る。
「…それが原因で、今ここにいるってことだな?」饗庭は頭を抱えながら俺を見る。
『どう、どう?』杵原は無邪気に詰め寄る。
「いや、どうって言われても。…何も言えないだろ、これ」
『今じゃ生きてた年数より、不死の年数が長くなっちゃった』杵原は笑う。その奥にどこか大人びた哀愁を感じる。
「今何歳だっけ」俺は杵原に問う。
『14歳と15年の不死。合わせて29だけど、4月までは28歳』
「あ、新年だもんな」
「…はあ、なんかすごい疲れた。」饗庭は目の前の幽霊にまるで生気を吸われたかのようにデッキにしゃがみ、「ちなみに尾鳥(おとり)さんは何歳?」と聞いてきた。
「僕は25」
「年下かよ」
『いや僕は永遠の14歳だから』



 その後も仕事として杵原と会話をする。主に饗庭が。
 早くも打ち解けた二人が、改めていろいろなことを話す。そのほとんどは俺が過去に行った会話と同じだったが、杵原は嬉しそうに応えていた。
 俺は携帯端末に報告書を作成しながら会話を聞いていた。

饗庭「杵原さんは夜以外は何してるんだ?」
杵原『ネットワークの中にいる気がする』
饗庭「気がする?」
饗庭、隣に座る杵原の顔を見る。
杵原『多分、インターネットのいろいろな情報を夢の中で見てるというか、意識が融けてる感じ』
饗庭「へぇ」

 とか。

饗庭「不死帯になってから、誰かと会った?」
杵原『親に会いに行こうかなって思ったけど、普通の人に近付くと、体が消えるんだー。』
饗庭「私は平気?」
饗庭、杵原に手を伸ばす。杵原はその手を掴む。
杵原『平気みたい。でもあんまり触らないほうがいいかも。この身体は浮遊バクテリアだから』
杵原はそう言いながら饗庭の腕をべたべたと触る
饗庭「なんか炭酸みたいに痺れるね」

 とか。

饗庭「他の幽霊とは会うの?」
杵原『よく会うよ。納税者もそうだし、死者ともそう。尾鳥(おとり)に情報をあげたりする』
饗庭「尾鳥さんとはどんな話をするの?」
饗庭はデッキの溝に溜まった土を小さい木の枝で弄る。
杵原『恋とか』
饗庭「こ、恋…」
俺は携帯端末に文字を打ち込みながら「嘘だぞ」と伝える。
杵原『こういう話苦手? 顔赤いね』
饗庭「んー…。」
饗庭は今まで見たことのない顔をしていた。

饗庭「そ、そんなことより! これからどうしたい?」
杵原『何を?』
饗庭「人生? 死なないけど、目標とかあるかなーってさ」
杵原『目標、ないんだよねー。他の不死帯はどうしてるんだろ。(オトリ)は知ってる?』

 突然俺に話を振られた。そうだな、他の不死帯の情報か。
「今まで報告された不死帯は3名。そのうち一人は杵原だな。資料によれば、2名とも自由に生きてるらしいな。」
『どんな風に?』
「あんまり気分のいい話じゃないぞ。」
『いいよ』杵原は僕の制止を気にも留めない。『暇つぶせるなら何でも』
 俺は饗庭に目を向けると、饗庭は頷いた。気は進まないが、資料を読み上げる。
「不死帯:佐藤 太郎(本名不明)…」
 不死帯になった経緯、借金苦により飛び降り自殺を試みたが失敗。病院で一命を取り留めたが頭骨の陥没骨折と半身麻痺に苦しみ、一時帰宅の際に再び服毒自殺。
 調整員発見時、彼の死亡時の醜形と呪詛に影響され、調整員本人も自殺を行うが、同行していた他の調整員によって止められる。
「…彼は現在も服毒自殺を行ったアパート内にて死ぬ方法を模索している。………だそうだ。」
 俺は資料の一枚目を読み上げたところで止めた。後の報告書は不死帯となった佐藤太郎氏の自殺奮闘記が書き連ねられていたので、読む気にはならなかったのだ。
 二人を見る。杵原は苦々しい顔をしていた。聞いたことを後悔しているらしいことは容易に想像できた。そして饗庭は空を見上げてこう言った。
「死んでも死に切れないなんて、私より大変だ」
「…」饗庭の感傷を慰めるのは軽率に思えたので、俺は何も言わない。
『因みに、もう一人は?』
「ん、あぁ。もう一人は事例が特殊すぎて、厳密には不死帯じゃない感じだな、特異体質の家系の娘が生み出した不死帯で、元から人間じゃなくて、妄想が具現化した事象をとりあえず不死帯に分類した…って感じだ」
 まぁ、この報告書を書いた同期はこの業界内でも一癖も二癖もある奴だから、こんな荒唐無稽な報告書でも今更驚かないが。
『また嫌な話になる?』
「いや、…昔話みたいな感じだな。」
 俺はその報告書を読み上げる。「えぇと、『不死帯:封月 灯』………」
 一人の女性と恋に落ちて、子供を作ったという不死帯の話を、報告書に沿って説明した。

『すごい!子供まで産めるなんて、僕も不死帯として、なんでも叶えられそうね』
「いや、やっぱり特異な例だよ。本質から違う」
「その、」饗庭は控えめに、しかし抑えきれない興味を滲ませながら会話に割り込む「赤ちゃんは、さ…。結局人間なのかよ?」
 おお、そういえば肝心な所を話していない。俺は報告書に改めて目を通す。
「いや、結論としては人間じゃないみたいだ。そもそも人間の定義が何なのかは難しいところだが、頭角が生えているという外見的特徴から、封月家の中で匿う形で育てているらしい。」
「へぇ、そっか」
「不服か?」
「いや。でも見てみたいな」
「それは、…」報告書の内容で二人に話していない部分がある。
 ――報告書に出てくる不死帯:封月 灯を生み出した女性は重度の薬物中毒者だと記載されている。屋敷内で過ごしている以上、人と会うのは避けているのだろうし、難しいだろう。
「それは、…出来ないな」
「なぁんだ、」饗庭は肩を落として、また空を見る。
 それを真似して俺も見上げる。冬の星座はだいぶ薄れて、朝の気配がもう迫りつつあった。
「もう朝か」
『今何時ー?』
「五時。仕事ももう直ぐ終わるな。…んで、目標は?」
『僕は神にでもなろうかな』ほら、ちょうど神社も近くにあるし、神になってあそこに住むよ。なんて暢気なことを言う。
「まぁ、不死帯には可能性と時間があるから、頭ごなしに否定は出来ないな。饗庭は?」
「え?」
「これからどうしたいのか、目標だよ」
「う、うーん。…目標か」饗庭は手すりに肘を置いて街を眺める。「尾鳥さんと会って、こんなに短い時間で、いろいろなものが見れたっていうか、視界が開けた。…みたいな感じだ。」
『…つまり?』
「つまり、もっといろいろなものを見たい。かな。不死じゃなくても、可能性と時間はあるしな。」
 饗庭は振り向いて俺を見つめる。最初にあった時とは違う。微笑みの柔らかさ。
『うんうん。いのち短し恋せよ少女…ってか!』杵原は茶化してケラケラと笑う。
「なっ!? ち、ちげーよ!!」饗庭の不器用な表情筋がオーバーヒートしたらしく、真っ赤になて否定する。
『隅に置けませんなぁ(オトリ)ぃー』
「饗庭さんが困ってるだろ、あんまり茶化してあげるなよ」
 俺はそう言って永遠の14歳の頭を手のひらで二回叩く。生暖かい静電気、浮遊バクテリアの感触が伝わる。
「そういえば、杵原さんが、尾鳥さんを呼ぶときの発音って変じゃない?」と饗庭。
「あぁ、仕事では『囮』って名乗るから、イントネーションが違うんだ。」
「何で囮なんて名乗ってるの?」
「この仕事は普通、面倒事に首を突っ込んで調査するだろう? だけと、僕は体質からか、面倒に巻き込まれるんだよ。だから囮ってあだ名で呼ばれ始めて、僕も名乗り出した」
『夜に公園にいるだけで良いんだもんね』
「へぇー。」
 饗庭はそんな、間の抜けた返事をした。ちょうどその時、始発の電車が俺たちのいるデッキの下を走り抜けた。仕事上がりの時間だ。
「よし、今日の仕事終わりだ。じゃあな」
『じゃあまた、饗庭ちゃんはまた来るの?』
「本人次第だな」
「私はまた来たい」
『じゃあ決まりね』
「また」
『うん、またね』
 こうして、不死帯:杵原真綸香は朝日に溶けていった。

三話 告白/酷薄・上

 瀬川(せがわ) (しのぶ)
 俺が小中高と学生時代を共にした同輩。女性。一度として同窓会に出席したことはなかったが、噂では結婚したと聞いている。俺の、ついぞ叶わぬまま潰えた初恋の相手である。
 そして、今目の前に対面している人間の名前である。
「………。」
「………。」
 互いに何も言わない。武蔵関公園の灯に照らされた顔から名前を思い出したばかりだ。おそらく瀬川(せがわ)(しのぶ)も俺が誰かは理解しているのだろう。
 饗庭(あえば)は二日に一度家に帰ると言った通り、今夜はいない。新しい傷や痣を、その身体に付けられているだろうことは心配であったが、俺の今の状況を思えば、もしかしたらまだ幸運かもしれない。
 俺は生唾を飲み込んで、努めて落ち着いて話しかける。
「とりあえず、包丁を置いてくれないか。…瀬川、だよね」
 ブランコに座る俺の前。瀬川はおよそ3メートル先に立って微動だにしない。どんな時を過ごしたのか、雰囲気は荒んでいて、記憶の中の瑞々しい少女は、上から黒く塗りつぶされるようにして、禍々しい女になった。
「久しぶりね」瀬川は言う。右手に持った包丁は黒い液体で濡れていた。明るい所で見ればその液体はきっと赤いだろうことはもはや確信していた。
「そうだな、久しぶり。何年ぶりだろうな」
「5年くらいね。成人式で見かけたわ」
 見かけた。という。俺の記憶にも、会話した記憶はない。会場で俺を目撃しただけなのだろう。
「…困ったな。俺はどうしたらいい?」
 俺は取り繕うのをやめて、素直に降参した。瀬川の目的がわからない。
「別に、何もしなくていいわよ」
「………。」
 俺はブランコに座ったまま、瀬川を見つめてみた。目の前の瀬川はもうずっと動かない。生気の無い、それこそ幽霊のように。
「とりあえず包丁捨ててきてよ。」
 キィ。と。隣のブランコに人がいる。
「!?」
 俺は驚いてそのブランコに座る声の主を見る。
「そう、5年ぶりね。尾鳥(おとり)くん」
 もう一人の瀬川だ。いや、どういうことだ?
 驚いて声も出ない。先ほどまで目の前に立っていた瀬川は、老婆のように背中を曲げ、そのまま武蔵関公園の池に包丁を落とした。水音が一つ。池の底に沈んだ。
「……おい、どういうことだ?」
 俺は説明を求めた。隣のブランコに乗って揺れる瀬川は、若々しい。そして包丁を捨てた一番目の瀬川はみるみるうちに老婆のような姿へ変貌して、ついには錆のような黒い皮膚を風に晒して崩壊して消えた。
 後にはコートと靴が脱ぎ捨てられたようにあるのみだ。
 とても、人の成せる技では無い。
「どうもこうもないわ。全部幽霊の仕業。」それより、昔話でもしましょうよ。と、瀬川は隣で微笑んだ。



 遠くで硬貨が飲み込まれる音がする。その後に籠った落下する音。
「あなたコーヒー飲めたっけ」瀬川は缶コーヒーを二つ、持ってくる。一つは僕に差し出された。
「飲めないことはないよ」
「そう、よかった」
 瀬川は缶コーヒーを開けると一口飲み込んだ。飲みなれたもののように見える。
尾鳥(おとり)くんが周波数調整員(バランサー)だって聞いてね、前々から話したかったのよ」
「俺に会うためだけに、こんな余興を?」
 消えた老婆は何の手品か、今では包丁が本物なのかさえわからない。
「そんな訳、今日、夫を殺しちゃったのよ」
 疲れた顔で言って、瀬川は再びコーヒーを啜った。
「そうか」俺は、瀬川の殺人の告白をどこか夢の中のような心地で受け止めていた。「お前はそんな浮かれた女じゃなかった」
「あら、覚えてるのね」
「なぁ、何があったんだ?」瀬川が自分の夫を殺めた経緯、さらには消えた老婆。そしてその老婆が瀬川と同じ容姿だった事。
 俺の特異体質は、今夜は特に困ったものを連れてきた。おそらく俺には手にあまるものだろう。随分温くなった缶コーヒーを啜り、怠くなった頭にカフェインを送り込んだ。

「さて、どこから話そうかしらね。」瀬川は隣でブランコを揺らしながら考えている。そして続けた。「いろいろ複雑に絡み合ってるから、やっぱり時系列で、順を追って話さないといけないわ」
「いいよ。それで」
 長くなるだろうことはわかっている。俺は瀬川の話を聞いた。


 
 大学を卒業して、当時付き合っていた彼氏と結婚した。『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は精力的に働いてくれていたし、私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で、幸先のいい結婚生活。
 …ずっと続くと夢見ていた生活に陰り。

 子宮頸癌の発見。それは夫の未来設計に暗い影を落とした。表面上ではいつもの笑顔でも、心は遠くに感じた。そしてその影は間違いなく闇として存在し、幸せだった日常に侵食し始めた。

 ――これが五年間の出来事。そしてもう一人の私について。

 『それ』がいつから存在したのかはわからない。けれど、少なくとも出会った日のことは覚えている。忘れもしない。私が癌を発見して数ヶ月。通院による闘病の日々に疲れたある日。
 その日は大学時代からの友人と飲みに行った帰りで、夜の街を歩いていた。
 そこで夫の姿を見つける。声をかけようかと思ったが私は躊躇った。おかしい。今日は仕事で夜遅くなると言っていたのを思い出す。隣にいる親しげな女性を見て、私は呆然と立ち尽くす。
 そのまま歓楽街に二人が消えるのを見ることしかできなかった。
 何を思ったのか、私はその光景に気をやられたような、遅れてきた酩酊のような眩暈に導かれるように、昔通っていた大学へふらふらと歩き始めた。当時の通学路をなぞりながら一歩、また一歩と足を動かすと、奇妙なことに自分の青春が鮮明に蘇る。……いや、それは一種の走馬灯と言ってもいい。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は次々と押し寄せる記憶と入れ替わるように再び色褪せて消えてゆく。そして薄れた意識で確信していた。それらの記憶は私の中から分離して、もう思い出せることはないのだと。
 大学の中に入る。遅い時間だが、誰かがまだ校内にいるのだろう。門は開いていて簡単に進入することができた。講堂下のピロティで立ち止まる。そこは当時私がよく利用していた憩いの場だった。
 そしてそこに私はいた。
 もう一人の私。溌剌とした私。
 幸せの絶頂の私が、私の前に存在していた。



「…それから私は、やり直すことにしたのよ」
 瀬川は五年間の出来事を語った後で、そう言った。
「どうやって?」
「その時の私たちも、五年間の出来事を共有して、語り合って、理解し合った。そして、私じゃない方の私が、決断したの『あなたはまだ癌に脅かされていない。私は夫と決着をつけるから、あなたは今からでもやり直して欲しいの。』って」
「それは…、」俺は直ぐに確信した。「つまり、今目の前にいるお前は、五年前の瀬川だな? そして、さっきまで包丁を持っていたのは…」
「そうよ」瀬川はまっすぐに俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた本当の瀬川はさっき死んでしまったわ」

 つい先程、たった今目の前で消滅した。

「そして……お前は幸せの絶頂にいた当時の記憶を振り絞って構成された、幻の瀬川だな。」
「なんでこうなったのかは、私は門外漢だからわからないけど。それで正解よ。…そして私があなたに会いに来た理由もわかるかしら?」
 瀬川はブランコから立ち上がり、地面に打ち捨てられたコートとパンプスを回収する。その後ろ姿を眺めながら、考える。
 思考の隅では不謹慎な事に、学生時代の恋心を思い出している。砂埃をはたき落として、腕に引っ掛ける姿を見つめながら、俺は答える。
「それは、俺が周波数調整員(バランサー)だから…2つに分離した原因とか、情報を………」
「ちがうでしょ。」
 瀬川は俺の前に立つ。視線は真剣そのもので、俺は困惑するしかない。瀬川が何を言おうとしているのかは理解している。
「決着はついた。私はやり直すの」
「俺の意志は尊重されないのか?」
「昔からの念願が叶うのよ?」
 念願と言うには風化した記憶だ。瀬川への好意は長い時間の中で埋み火となっており、強い想いを抱いていない。
「私もね、夫と出会う前までは、あなたのこと好きだったわ」
 畳み掛ける瀬川の言葉。白い手が俺の顎に触れて、そっと持ち上げる。瀬川と視線を合わせると、瀬川は優しく微笑んだ。昔の俺ならこれ以上ないほど嬉しいことだろうに。今の俺にはその劇薬に対して免疫がついたと思われる。
「『私も』ということは、俺がお前のことを好きだったこと、バレてるんだな。」
「今は好きではない事も。わかってるわ」瀬川はそれでも俺の顔に手を沿わせて、逃がそうとはしない。「再燃してくれないかしら?」

 今目の前にいる瀬川は、大学時代の、つまり5歳若返った姿だ。夫との交際は精神的にも身体的にも無かったことにされて、痕跡一つない。5年の月日を遡行して若返った瀬川に、初恋を再燃するのは容易だ。先程消滅した一人目の瀬川の悲願でもある人生のやり直しに対して、協力してもいいのではないだろうか。
 ――だが、しかし。

「魅力的な話だけど、俺がお前を幸せにできるとは思えない」
「叶わなかった初恋を成就させることが、私たちの悲願なの」幸せにできるかどうかじゃなくて、幸せになるの。それが幸せなの。
 瀬川は呪文のように一息に告げる。

 瀬川の悲願だからこそ、命を賭してまで願ったからこそ、俺は軽い気持ちでは答えられない。それに、今目の前にいる瀬川はまともとは思えない。
「考えさせてくれ」俺は一言だけ返して、瀬川の手をそっと取り払う。
 問題の先延ばしはあまり褒められたものではないが、結論を急いではいけない。少なくとも瀬川は人を一人殺害しているのだ。別人のように姿を変え、証拠を消して、捕まらないとしても、瀬川の内にある狂気には細心の注意を払う必要がある。
「…そう。考えてくれるのね」
「あぁ」
「それじゃあ今夜はお暇するわ。」瀬川は俺から手を離し公園の入り口を見る。「それに、あなたは忙しそうだし」
 瀬川の視線の先に目を向けると、覚束ない足取りの饗庭(あえば)が立っていた。
 ずぶ濡れで、様子がおかしい。親に虐待されたのだ!

「おい…! 大丈夫か!!」
 慌てて駆け寄ると饗庭は緊張が解けたらしく、倒れこんだ。俺はなんとか抱きとめて、饗庭の体を揺する。服がじっとりと濡れていて、鼻に刺さる異臭に気が付いた。灯油の臭いだ。冬の外気にさらされて、饗庭の肉体からは熱が奪われていた。饗庭は震える体力すら残っておらず、気絶に近い形で意識を失っていた。

 瀬川はいつの間にか公園から消えていた。

四話 都市の幽霊・中

 壊れ切った体内時計は、眠らぬままに朝を迎えた。部屋には暖房を効かせて、饗庭(あえば)を布団に寝かせている。

 全身に浴びせられた灯油は、部屋に運ぶなり直ぐにシャワーで洗い流した。今更女の裸に躊躇っている場合では無かったので、衣服を剥がして髪にまでじっとりと重く染み込んだ灯油をすべて洗い落とし、身体を乾かして毛布に包んだ。
 ――予想していた通り、体には内出血で紫に変色した痣が全身についていた。分かっていたのに家に帰らせたことを、少し後悔している。
 意識のない饗庭(あえば)に服を着せるのは、現実問題無理な話なので、全裸のまま毛布に包んでいる。
 少しだけ体力を取り戻した饗庭は、か細い声で寒い寒いと繰り返し、身体を震えさせ始めた。俺は毛布を隔てて添い寝をする。体温を移しながら、徹夜の看病を行った。
「寒い…寒い………。」饗庭はうわ言のように繰り返し、身体の位置が落ち着かないのか、蠕動を繰り返すと、俺の身体にしがみついた。芯が冷えているらしく、その手は白く冷たい。
 俺は饗庭を抱きしめて熱を送った。

 窓から見える朝の光を眺める。時刻は八時。こんな時間まで起きているのはいつぶりだろう。青空の清々しさを懐かしく思える。
 不意に、携帯端末が振動した。
 バイブレーションによるメッセージの受信通知。俺はしがみつく饗庭の抱擁から右手を抜き出して、携帯端末を掴んだ。
 メッセージを確認する。貝木(かいき)からだ。

 『お疲れ様です。

  多分囮(オトリ)のタイムテーブル的には
  寝てるかな?

  急だけど情報共有の連絡です。
  『龍』の出現予測が発表されました。
  そこで、詳しい情報については実際に
  会って話すので、飲みに行きましょう。

  今日の20時に新宿駅に集合!
  強制です。時間厳守!』



「げ」メッセージを開封したのは悪手だった。既読通知がもう、貝木(かいき)の携帯端末に表示されてるだろう。
 直ぐに貝木からメッセージが届いた。

 『見たな』

 …恐ろしい。読まずに眠るべきだった。
 面倒だか強制だと記載されているからには無下にできない。それに『龍』についての情報は是非とも手に入れたい。俺はせめてもの反抗として、メッセージには返信しないでおいた。目覚ましのアラームを十八時に設定して、俺は眠ろうと思う。

 『龍』の事を考えると胸が踊って寝付けないと思ったが、ここ数日の面倒事によって輾転反側(てんてんはんそく)するであろう俺には程よい薬のようで、明日への活力をくれた。
 隣で眠る饗庭も落ち着いて、血色がよくなった。目が覚めたら饗庭も新宿へ連れて行こう。饗庭にも『龍』の事を話そう。きっと目を輝かせてくれること間違いない。…少しでも生きていたいと思える世界を見せてやりたい。そんな庇護とも慈愛とも言えない気持ちがある。
 無償の愛情、か。



 身体を揺すられているのを、薄膜を隔てた向こう側の意識によって感覚する。
 眠りの中にいることを自覚すると、引き剥がされるように意識は闇の中から覚醒する。目の前には俺の服を着た饗庭が、俺の身体を揺すっている。視界からの情報を得た脳は、次に耳をつんざくアラームを感知した。
 そうだ。『龍』について話すために、今日は新宿に行かなくては。
「おい、…なんか目覚まし鳴ってるけど、起きなくていいのか?」
「いや、…起きなきゃならん…。」脳は働いているのだが、体を動かすのが億劫だ。こうしていつまでも饗庭に揺すられていると、かえって心地よく二度目の睡眠に入りそうだ。「饗庭、体は平気か?」
「おかげ、さまで…。」饗庭の顔が赤くなる。「昨日の夜はあまり記憶が無くて、灯油を浴びてすごく寒かったのは覚えてるけど、尾鳥(おとり)を探したきり、会えたかどうか思い出せない………。その、私が起きた時、裸だったのって…」
 俺は昨日のことを思い出して、意識がよりクリアになる。俺の服を借りている饗庭は、顔を赤くしていた。
「何もしてないぞ。…昨日は僕の目の前で倒れたんだ。灯油が気化するせいでかなり体温を奪われていて…、
 とにかく、灯油を洗い落とすために服を脱がせた。あとは温めるために添い寝した。裸にしたのは悪かったが、命には変えられん、許してくれ」
「そ、そうだよな。…助けてくれてありがとう。」
「それより、先にシャワーを浴びて、適当に出かける準備をしてくれ、」俺は携帯端末を確認する。メッセージが届いていた。「八時に新宿に用事がある」
「仕事?」
「ちょっといい仕事」

 饗庭は素直に出かける準備のためにバスルームに消えた。俺は携帯端末のメッセージを確認する。予想通り貝木からだ。

 『飲みの店は鶏肉と牛肉どっちがいい?』

 …ビーフ・オア・チキンとは、相変わらず能天気な奴だ。俺は鶏肉とだけ文字を打ち込み、返信する。直ぐに開封記録が付いて既読になる。――そもそも貝木本人はいつ寝ているんだろうか。このメッセージも受信時刻は十二時ということは、相当な早起きなのか。
 驚異的なスピードで貝木からメッセージが届いた。

 『おっけ』

 ともかく、俺も出かける準備をしなければ。
 覚醒した身体を起き上がらせて、粘ついた口内を洗浄すべく、洗面台に向かう。バスルームに取り付けた洗濯機に掛けられた灯油に濡れた衣服。…昨日から放置していたが、これはもう捨ててしまおう。そんなことを考えながら、歯ブラシを口に咥えて、ベッドに腰掛ける。歯を磨きながら机のパソコンを立ち上げる。杵原に伝言を送るためだ。
 型落ちしたパソコンは時間をかけて立ち上がる。俺に似て寝起きは大分ローギアだ。俺は歯をせわしなく磨きながら、パソコンが起動するまでに饗庭の服を見繕う。男物だが新品のシャツがある。それとネイビーのダッフルコート。これも男者だが、しょうがない。というか、饗庭の服でも買ってやるべきだろうか。…ともかく、次はボトムスだが、持ち合わせがない。チノパンツならいくつかあるが、男装が過ぎるか。
「おーい。饗庭」俺はシャワーを浴びている饗庭を擦りガラスのドアを挟んで呼びかける。
 ハンドルを捻って湯を止める音がした。
「わ、何?」
「自分の服とか、持ってきてないか? 僕の服が足りなくて」
「制服があるから、私の服は気にしないで」
「おぉ、制服があったか」
 …やっぱり、服は買ってやろう。今まで気にしなかったが、饗庭は制服以外の服を持ってないとなると俺も困る。いや、それならちょうどいい奴がいた。
 携帯端末を開いてメッセージを打ち込む。貝木は世間体を気にして表面上では服屋でも働いているという。話すと長くなるが女物の服をいくつか持ってきてくれないか。という旨のメッセージを送る。例によって返信は早い。

 『女装?』
 …いや、違う。
 『ならサイズ教えてよ』

 確かに。俺はハンガーにかけてある饗庭の制服を見る。タグにはMと表記されているが、それだけで正確なサイズ感が伝わるのかわからないので、タグを撮影してメッセージに添付した。

 『胸大きい』
 ――そういえば、そうかも。
 『好きな色とか、指定はないなら、適当に持ってくよ』
 ――お願いします。
 『かまわんよ』

 胸の大小は確かに気にしてなかったが、それこそ添い寝した時は、強かに主張していた。
 ちょうどバスルームから饗庭が出てきた。バスタオルで隠しているが、腕に抱えて持ち上げられた胸は、改めて見れば確かに、大きい。
「…なんでそんなに見るんだよ」饗庭は俺を冷ややかに睨んでいた。
「…いや、服を用意しようとしたら、サイズが分からなくて」
「気にしなくていいったら!」そう言って饗庭は俺を洗面台押し込んだ。俺は咥えていた歯ブラシを片付けるとバスルームに入った。
「おっと」杵原に伝言を送り忘れていたことを思い出す。
 杵原への伝言はともかく、パソコンを触られては困るので、俺はバスルームから戻り饗庭に伝える。
「そうだ、饗庭。パソコンは弄るな…」
 絶句。
 というより時間が凍る。まさに今目の前で、饗庭がブラジャーを装着する手前だった。
「あ、あぶ…、危な…。」俺はうわ言のように呟く。饗庭の平手打ちを食らう前に鼻から血の匂いがした。
「見んなってば!!」頬に爆裂。饗庭の大きくしなる右手が俺の脳を揺らす。その後に浴びたシャワーでは浴槽が朱く染まり、なかなか血は止まらなかった。

 そしてバスルームから出て、出かける準備もあらかた終わった俺は、パソコンの前で杵原に伝言を送るためにキーボードを叩く。内容は単純に、『今日来れないので、1日ずらして明日行く』。それだけである。本来の予定なら、隔日で東伏見公園に赴いて、杵原の孤独を緩和させる。つまり幽霊の話し相手をするはずなのだが、『龍』の出現が予測された今、杵原には我慢してもらうほかない。

「…今日は杵原さんに合わないのか」後ろで未だ眉を吊り上げて不機嫌そうな饗庭が言う。裸を二度も見られてしまったことが不服なのだろう。本当ならパソコンや携帯端末の内容は第三者には機密情報なのだが、破廉恥な失態をしてしまった手前、偉そうに注意するのは憚られる。
「残念だが、杵原と会うのは明日にずらす。…でも、これからイベントがあるんだよ」
「イベント??」
 饗庭の半音上がった疑問符の言葉に頷く。

 イベント。
 逢魔時の欠落者だけが参加する幻想。あえて斜に構えた言い方をするのなら、集団ヒステリ。
「僕たちはこれから『龍』を追う」

 外出の準備を済ませて部屋を出ると、俺と饗庭は電車に乗り込んだ。西武新宿線を東に上り、片道およそ三十分。西武新宿駅に向かう。
 そういえば、車輌の景色も歴史的には大きな変化があったのだそうな。二十一世紀末、例の拡張現実災害が起こるまでは、人は一人に一つ、電子頭脳を肌身離さず持って生きていたと言う。今ではインターネットは大きく制限され、使える機能は電話、メッセージ、天気予報、ニュース。これだけだ。個人が匿名で情報を発信することは全面規制され、個人が個人とネットを介して繋がることも規制された。それにより、暇を埋めるためのツールとしての輝きを失い、別の携帯ゲーム器、書籍や雑誌が再び光を浴びることとなった。
 人間同士の会話は未だ隔絶的な雰囲気があるが、俺よりも当時の歴史を生きてきた人間に言わせれば、『薬物依存から抜け出すような感覚だった』らしい。それは本人も、本人の周りの人間の姿を見ても同じ感想だったらしい。

尾鳥(おとり)の携帯は、ネットに繋がってるの?」
 小さく、人の耳は聞こえない密やかな声で饗庭は聞いてきた。おそらく俺が車輌内でもずっと携帯端末に報告書を作成しているから、ネットに接続されていると踏んだのだろう。
「…繋がってないよ。」
 ――嘘である。
 厳なレヴェルの機密情報として扱われているが、周波数調整員(バランサー)に支給されている携帯端末は全て納税者と同じ権限を持ってネットに接続されているのだ。
 少し気を緩めていたかもしれない。これからは饗庭の前では携帯端末やパソコンを見せびらかすような行いが無いようにしないと。
「報告書とか、いろいろと書き留めてるだけさ」俺はわざと車輌の人間にも聞こえる声で、かつ、露骨すぎない声で、ネット接続されているわけでは無いと、嘘をついた。甘い蜜…というわけでは無いが、インターネットに接続できる権利なんて、自慢げに教えては妬み嫉みを買うことになる。
「…それより、西武新宿に着くぞ」



 西武新宿線は文字通り西武新宿に着く路線だ。電車から降りた俺たちは、少し離れた新宿駅へ徒歩で向かう。いつの時代、いつの時間でもそうだが、新宿という場所は常にキャパシティオーバーな人口密度でごみごみとしている。あまり得意な街では無い。
 俺が人混みを泳ぐようにかいくぐって歩くと、すぐに饗庭と離れてしまった。十メートルほど後方でネイビーのダッフルコートを着ている饗庭を発見した。
「尾鳥、もっとゆっくり」俺以上に人混みに慣れていないらしい饗庭は顔を青くしてお願いしてきた。
「思ったより約束の時間まで余裕がない。…その、手を繋ぐのは難しいか?」
「いや、…へ、平気。」饗庭はそう言いながら一度躊躇って、手を繋いだ。「それより誰かと待ち合わせなのか?」
「そうだ」俺は頷く「例によって変人だが、優秀な同期と会う」
「それって私が来ていいの?」
「特別だ。一応、助手という立ち位置にしたから、話は合わせてくれ」
「えー。」
 そんな話をしながら、待ち合わせ場所の新宿駅。しかし、どこの出入り口かはわからない。新宿駅南口、新南口、東南口、東口、中央東口、西口、中央西口…と、正気とは思えない改札口が存在している。ちなみに今の俺たちは中央東口にいる。
 三が日も終わる今日は、駅の往来も恐ろしい。夥しい人の波に目眩がするようだ。
「お、いたいた。(オトリ)
「!」
 後ろから声をかけられて振り向く。貝木だ。手には大きな紙袋を提げている。おそらくは饗庭のために頼んだ服だ。
「明けましておめでとう。…どこの改札口かは決めてなかったけど、運がいいね」
 貝木は腰まで届く長い髪を鮮やかな赤色に染色して、記憶の中のイメージよりも派手さが増していた。
「明けましておめでとう。相変わらずだな、貝木」
「わかりきったことを聞きなさんな。…で、彼女がやんごとない理由で助手になった女の子ね」貝木は饗庭を舐め回すように見る。
「派手な見た目で絡んでくるなよ。警戒されてるぞ」
 饗庭は俺の後ろに隠れるようにして、貝木と距離をとっている。
「初めまして。私は貝木 (もみじ)。あなたの名前は何ですか?」
饗庭小夜(さよ)…です」恐る恐るというような、それは動物的本能なのか。貝木の内にある得体の知れないものを感じているのだろうか。饗庭は人見知りと一言で片付けられない程の警戒をしている。しかし、饗庭の視線は貝木のさらにその向こう。饗庭の目と貝木の頭を直線で結んだ線の先、斜め上の都市の空を見ているような…。
「………。」貝木は指を顎に当てて考えている。「饗庭ちゃんには派手に見えるのかねぇ」
「服装の話か? 誰が見たって派手だと思うが。」
 貝木の言葉を軽口と受け取り、俺も軽口で返す。
 ただでさえ異様な人間なんだから、見た目だけでもカムフラージュしてもらいたいものだ。
「…さ、饗庭さん。」俺は饗庭の方を向いて、「貝木はこんな見た目だけど、悪いやつじゃないぞ」と、ありきたりな弁明を図る。
「じゃなくて、…そうじゃなくて、その、後ろに…」
 饗庭は指先で指し示す。指先はやはり貝木の後ろ。ビルの立ち並ぶ都市の空は電光掲示板や店の看板で絢爛豪華で暴力的な光で埋め尽くされていた。
 いつもの都市の空である。
「後ろってどこだよ?」
「見えてないんですか?」と饗庭は共有できない恐怖を溜め込んで、不安そうな顔をする。
「饗庭ちゃんはもう『見えてる』んだね。怖がらなくていいよ。今夜はまさにそいつが目当てなんだけどね」貝木は全て理解しているような態度。
 ……待てよ。
 貝木の言葉から察するに、饗庭の指差すところに、もう『龍』が姿を現そうとしているのか?
「変だな。僕には見えない」どれだけ目を凝らしても、『龍』を視認することができない。
「嘘!? あんなに大っきいのに」と饗庭。
「まぁ、まぁ。時間はたっぷりあるから、とりあえず飲みまひょー」貝木は呑気にそう言って、いるはずの『龍』に背を向けたまま歩き始めた。俺は依然として見ることができないことに微かに歯がゆさを感じながらも、貝木について歩く。
「なんで俺には見えないんだ?」
「適正というか、相性がいいんでしょ。
 饗庭ちゃんは『龍』と相性がいい。」貝木が言うにはそうらしい。そして、「ちなみに、私もまだ見えてないよん」と気楽に言った。

 都市上空に少しずつ可視化を始める巨大な浮遊バクテリア群…『龍』。
 腹が減ってはなんとやら。俺たちはビルの中にある居酒屋に入った。

五話 龍を追う者

「都市を円で囲う巨大な陣。それが所謂山手線なんだけど、その内部は常に浮遊バクテリアが飽和している。環境が整っているからね。
 …ほら、(オトリ)のところで言うと三つの公園で囲われた三角形。あれと同じ。
 それに、山手線は巨大な上に人が多いでしょ? ただでさえキャパシティオーバーなのに、大晦日なんて終電がない。
 東京で『龍』が出るのは当然のことなのよ」
 貝木(かいき)は掘り炬燵式の席に座るやいなや、目を輝かせて『龍』について語り始めた。

 個室の狭い空間に三人が押し込められた。店は稼ぎ時らしく、薄い壁からも賑やかな酔いどれの諍いが聞こえる。
 最初の注文を決めながら、俺は貝木(かいき)の話に応える。
「だろうな。去年の出現には貝木は居なかったけど…何にする?」
「とりあえず生3つ?」
「僕はジャンディガフ」
「えー」貝木はステロタイプな抗議をする。「初めは生でしょ、そこは」
「わ、私はなんでも」
「じゃあ私と饗庭(あえば)ちゃんは生ね」
「バカ、饗庭(あえば)さんは未成年だ。ジンジャーエールとかにしとけよ」
「もう、最初は生ビールがお約束でしょ!」じゃんけんで言えば最初がグーと一緒!ミームよミーム!!
 貝木はアルコールを摂取する前からやかましい。俺は無視して店員に生ビールとジャンディガフ、そしてジンジャーエールを注文した。

「ジンジャーエールって初めて聞いた。お酒?」と饗庭。
 俺はその疑問に対して内心驚きながら、ジンジャーエールについて軽く説明する。
「いや、ジュースだよ。生姜シロップの炭酸割」
「ジャンディガフも初めて聞いたー。ジュース? ねぇジュース?」
 貝木は茶々を入れる。
「お前は知ってるだろ。ビールとジンジャーエール割ったやつ」
「へぇ」饗庭はシャンディガフの知識も手に入れて感心する「尾鳥(おとり)は生姜好きなの?」
「うぅん、生姜というよりジンジャーエールが好きだな。喉が温まるから、擬似的にアルコールを飲んだ気分になれる」

「そんなのより、『龍』! 一大イベントだよ!!」
 貝木は生姜の話をしに来たんじゃないとばかりに会話を遮る。しかし……。

「その…」

 ……饗庭は控えめに手を挙げていた。俺と貝木は同輩の無遠慮な盛り上がりから少し落ち着いて、目を向ける。
「『龍』って…さっき見た大きな化け物ですよね。あれってなんなんですか? こうして楽しそうにしてるってことは、危ないものじゃないんですよね」と、貝木に向けて質問した。
「…あれ、饗庭ちゃんには説明してないの?」と貝木。俺は具体的なことは秘密にしていたことを伝える。
「にゃるほど。…えっと、『龍』ってのはね、饗庭ちゃん。要は浮遊バクテリアの嵐よ」
 ぴっと人差し指を立てて、貝木は得意げに話を始めた。
「饗庭ちゃんはさっき姿を見たと思うけど、巨大な影のように見えたと思う。
 それは浮遊バクテリアが溜め込んできた都市を飛び交う数多のイメージが混濁して、混沌としているせい。…いわゆるラジオの砂嵐状態。そこから時間をかけて『龍』は姿を現す。
 浮遊バクテリア内のイメージが収束して溶け合って、一つの確立したイメージを投影するわけ。
 その姿は毎回ランダムだから、今回はどんな姿になるかわからないけど、要はそれを見て楽しむお祭りみたいなものよ。」
「お祭り…」饗庭は言葉を転がす。表情は少しだけ興奮の色を帯びていた。
「そ。お祭り。真夜中の、見える人にしか見えないお祭り。」
「じゃあ、調整員以外の人も見える人なら見えるんですか?」
「もちろん。饗庭ちゃんのように」貝木はウィンクをした「でも、インターネットを規制されてからはそんな人は滅多に居ないし、見える人はだいたい調整員の道に進むよ。類は友を呼ぶというか、運命の因果というか」
 結局、光に集まる羽虫のように導かれるものだと、貝木は言う。深夜に街を徘徊するような落伍者でなければ幽霊とは出会さないし、周波数が合わなければ『龍』の姿を見る機会は訪れない。

 さて、三人の認識を共有したところで、各々の飲み物が行き渡る。乾杯をして、ささやかながら宴を始める。
「ぷはーっ! …美味い!!」貝木は旨そうに生ビールを飲み干す。
「上機嫌だな」
「まぁね。『龍』の出現は予想よりも早かったけど、寧ろ三人で見れるのはいいことよ」
 フフン。貝木は笑う。蕩けた酔いの眼差しを見る。
「お二人はどんな関係なんですか?」饗庭はジンジャエールの炭酸が昇るグラスを揺らしながら、聞いてきた。
「そうだなぁ、ただの同期だな。…8年くらいか?」
(オトリ)とはもうそんなに一緒か、歳はとりたくないわー」貝木はぼやきながら席に取り付けられたタブレットを操作する。ビールのおかわりと、焼き鳥の盛り合わせを注文する。
「最初は仕事の担当地域が近いから、関わるようになったんだっけな。…そこから三年くらいして、貝木が引っ越しだんだっけ?」
「どっかというと実家に戻った感じかな。弟が事故にあって心配だから、田舎に戻った」
「あれ? 今実家か、一人暮らしって話してなかった?」
「実家に帰ったけど、親とは暮らしてないわ。少し離れた賃貸で弟と二人暮し。」
「弟さんと仲いいんですね」と饗庭。
「普通よ普通。弟が付き合ってる彼女ちゃんも仲良いけど、二人きりにさせてあげない」ひひひ。と貝木は意地悪に笑う。
「弟はいくつ下だっけ?」
「二つ下だから二十三。」
「もう働いてるのか」
「働いてるよ。忙しそうにしてる。」二杯目のビールと焼き鳥の盛り合わせが運ばれる。貝木はそれを受け取って少し物思う気な顔をした。「そうだ。服!」ぱっと明るい顔に変わり、手を打ち鳴らす。ころころと表情が変わる奴だ。
 とはいえ、服。
「そうだった、服」俺は思い出す。
 貝木は隣の座席に置かれている紙袋を俺に手渡した。
「いくらした?」
「まだわかんないよ。実際に気にいるものを選んで貰わないと。」
「確かに。…んじゃあ、ほら選んで」俺は受け取った紙袋をそのまま饗庭に渡す。
「え? 私?」饗庭は思ってもない話の流れに不意を突かれて驚く。
「お姉さんからのお年玉よ」と貝木はウィンクをした。実際は俺のお年玉みたいなものだが、細かいことは気にしない。二人からのお年玉だ。
「好みじゃない服以外は貰ってくれ。なんなら全部貰ってもいいぞ。」
「そんな、悪いよ」
「遠慮なんてしなくていい。前に言ったろ」
 初めて合って1日目、ファミレスでの事。悪人になれ。自分を殺してまで他人を優先する必要はない。饗庭に話したことだ。

 その後も饗庭はしおらしくでもでもと繰り返したが、俺は無理矢理全部を渡した。
「尾鳥、」饗庭は俯いて俺を呼んで「あ、…ありがとう」と言った。言葉尻が聞こえないほど小さく、耳は真っ赤に発熱して、困っているとも喜んでいるともつかない曲がりくねった眉と唇が愛らしい。
「ふふ。可愛い」貝木はうっとりと饗庭を眺めてビールを呷った。
「家に置けないなら僕のクローゼットに置いておけばいいからな。」俺は饗庭の肩を一つ叩く。饗庭は嬉しそうに頷いた。
「サイズが合ってるか見たいから、いくつか着てみてくれ」
「う、うん」饗庭は紙袋から上着を取り出す。黒い革のジャケットに袖を通した。
「サイズはどうだ?」
「ぴったりだ…なんでサイズがわかったんだよ?」
「調整員ってのは目が命の仕事だからな。見ればわかる」
 なんて冗談を言ってみる。実際は制服のサイズを確認しただけだ。
「そうか、裸見たもんな。」
「え?」貝木は珍しく驚いた顔をした。なんでも訳知り顔な貝木の珍しい表情だ。「二人はどういう関係よ」
「誤解だ。別に変なことはしてない」
「なんとなく一線は越えてないだろうなーって思ってたけど、囮も隅に置けないねぇ」貝木は俺を肘で小突いてニタニタと笑う。
「誤解だって、勘弁してくれ」俺はあんまり強く否定しても曲解されてしまいそうなので、あしらう事にした。焼き鳥の串を一つ手に取って口に運ぶ。饗庭の熱のこもった視線を横目で見て見ぬふりをする。冷たい汗が背中を流れる。饗庭の視線。見間違いだと自分に言い聞かせ、またちらりと確認する。
「な、…なんだよ?」饗庭は何事もないといった様子で俺に言う。
「いや、饗庭さんからも貝木の誤解を解いてくれ」
 そう言って、貝木の相手は饗庭に任せる。先程感じた怖気のような寒々しい感覚にはっきりと一人の名前が思い浮かんだことが、どこか気がかりだった。
 それは昨夜にあった瀬川(せがわ)(しのぶ)。紛れもない彼女の名前だった。



 およそ二時間程の宴の後、三人は店の外に出る。時刻は十時半。
「いくらだった?」と貝木。
「一万程度だよ」
「服のお金分、奢ってもらおうかと思ったけど、お腹いっぱいだ」
「あといくらだ?」
「服は全部で…、」貝木は自分の財布からレシートを取り出す。「二万と八千円。あと二万五千円分だね」居酒屋が一人当たり三千と考えると残りの差額はまだまだあるようだ。
「この場で現金で返すよ」
「それもいいけど、せっかく『龍』が出現したんだし、今夜は全部奢ってよ」それでも足りない分は別れる時に現金で貰うから。と言って貝木はほろ酔い気分上機嫌で街を歩き出す。俺と饗庭はついて歩く。
「おー。見えてるじゃん」
 貝木は駅前を見渡して『龍』を視認した。同じ方角に向かって俺も視線を向ける。そこには液体金属のような流線型の硬質なシルエットが都市のビルの隙間から姿を覗かせた。闇夜を映した黒い艶のある巨躯。その下半身あたりから街のネオンを反射して煌びやかに輝いている。その足下を走る車はぶつかる事もなく『龍』の皮膚に潜っていく。対向車も、何事も無くすり抜けている。まさしく、彼らには何も見えていないのだ。
「不思議だ…」饗庭は恍惚と、しかし興奮に開いた瞳孔でその景色を眺める。「こんなに大きいのに、みんな『龍』が見えないんだ」
「……例えば、量子は観測されることで影響を受ける、らしい」饗庭の呟いた疑問に貝木は答える。
「観測されることで?」
「うん。」貝木は頷いた。そして、あんまり詳しくないけどね。と断ってから続けた。「あらゆるものは、人が見ている時も、見ていない時も変化しないの。炎とか川の流れとか、いろいろなものがそう。人が居る居ないに関係なく、火は灰になるまで燃えるし、川は海にたどり着くまで流れ続ける。
 所が、もっともっとミクロな世界、量子って呼ばれるそれは、観測されることで結果が変化するの。」
 ――ま、よくわからないけど。とにかく、『龍』も同じようなものよ。

 貝木は、そんな風に、わかるようなわからないようなことを、わかったようなわからないような言葉で説明した。
「つまり…?」俺は結論を求めて貝木に求める。
「重ねて言うけど、私だってわからないわよ? その上で持論を話してるだけだから、その辺りは理解してよ。」困ったように笑いながら、どこか酩酊の心地よさに身をまかせるように、貝木は話し始める。「さっきの話は観測者問題と言って、観る人が現象に影響を及ぼす事を話しているんだけど、ここからは本当に持論。たらればの話だからね。
 観ている人によって影響を受けることがあるなら、『龍』や浮遊バクテリアと呼ばれているそれらは逆さまのことが言えるかもしれない。『観ている人に影響を与える』。つまり『龍』が人を選ぶ側である。…なんて思うのよ。昔から未確認な存在は多種多様に存在していて、観る人には姿を現し、観ない人には姿を見せない。
 『龍』はその典型で、観測したい人に影響を与えているのかな。…なんて思うのよ。」
 貝木は理論的とは言えない、浪漫科学な解釈を話してくれた。
「同じ夢を見てる…ってわけだ。」俺は駅前の手すりを背凭れにして『龍』を眺める。
「集団ヒステリね」貝木は自嘲して笑う。
「饗庭さんはどうだ? なんとなくわかったか」
「あぁ。観たいと思えば見せてくれる。…なんか深い言葉だな」
「そうか?」
「そうだよ」饗庭は『龍』から目を離さずに言う。「助けてほしいと思えば助けてくれた。尾鳥さんと似てる」
「そうか。…そうだな」俺は饗庭の頭を一つ優しく叩いて納得した。俺が『龍』と同一視されるのはどうかと思うが、悪い気はしない。

 願う力というものは、強い。

 例えこの『龍』が多数決では存在しないとしても、集団ヒステリの産物だとしても。
 願えば叶う。その言葉が饗庭の心に光を灯せるのなら、充分だ。

 少しずつ可視化を進める『龍』が、俺たち三人の目に見えるようになってからも、その巨躯はより現実味を帯びて顕現する。質量、空気感、存在。まるで合成写真のようだった『龍』の設置感のない姿も、今では都市の真ん中に屹立した迫力のあるオブジェのように存在していた。もしかしたら今にも『龍』の立っているアスファルトがひび割れて、流線型の滑らかな外殻に干渉しているビルがひしゃげてしまうのではないかと心配したが、そのような心配は杞憂だった。
 『龍』は長い首を、幸運にもこちら側、駅前の方へと傾いだ。正面からご尊顔を拝めるだろう。
 天体の軌道をなぞるように夜空を滑る『龍』の首は、いくつもの建造物に貫かれながら低空まで降ろされた。
長い長い首を下ろして、俺たちの上に覆い被さる。『龍』の身体は遠くにあるまま、都市に遮られて見えない。
「今回の『龍』は鏡見たいな姿だね」貝木は言いながらその鏡面反射する冴え冴えとした外殻に手を伸ばそうとする。反射して映る俺たちの姿は曲面に沿って引き伸ばされ、歪んで見えた。そして目をこらすと『龍』の外殻を滑る魚影を発見する。それは手を伸ばしていた貝木の指先に向かって泳いでいた。
「おい、貝木」俺がそれを伝えようとするより前に魚影は外殻の表面に出てきた。
 眼球を腹に抱えた小魚だった。鮭の稚魚と似た形で、その腹にまん丸な眼球がきょろきょろと世界を見回している。
「おわ、びっくりした。」貝木は手を引っ込めて、そしてまた手を伸ばす。背伸びをしても届くかどうかの距離がある。
 小魚はその眼球で貝木を認めると、一つ瞬きをして、白目を向いた。そして白目がそのまま形を変えて貝木の伸ばした腕と鏡写しの腕を生やした。二つの指先が触れる。俺と饗庭はその光景に息を飲んで見守る。
 邂逅。
 そうだ。
 まさしくこれは『龍』との邂逅。
 観測と現象が出会った。
「わ、わ! …すごい………。」
 子供のような無邪気な反応をする貝木。瞳には『龍』の外殻に反射した光が写り込んで、潤んでいるように見える。
 ふと視界の横に気配を感じて、貝木から目を離し、目の前の『龍』の外殻を見ると、ここにも小魚の眼球が二つ。
「お、尾鳥…。」饗庭が俺を呼ぶ。俺は頷いて、手を伸ばしてみせる。それに続くように饗庭も手を伸ばす。
 『龍』はおそらく、外殻の表面を滑る眼球によって俺たちを見ている。そしてコミュニケーションを図るように、俺たちの真似をした。
 『龍』本体の金属反射とは違う大理石彫刻のようなマテリアルの白目はどろりと解けて腕となる。俺たちの指先と『龍』の指先が触れる。驚いたことに浮遊バクテリアで構成された幽霊特有の触り心地よりも滑らかで、絹のようなそして血の通った仄かな暖かさを感じる。視覚と触覚の情報のズレに新鮮な驚きを覚える。先程の貝木のように。



 夢を見ていた気分だ。時間の感覚さえ曖昧で、いつからそうしていたのかはわからない。
 『龍』はいつの間にか都市から消滅して、俺たちは空に手を伸ばす三人として、往来の衆目を集めていた。
「あ、あれ?」饗庭は状況を理解して腕を引っ込めた。「消えた………?」
「『龍』はいつも呆気なく消えちゃうのよ」貝木は名残惜しそうに掌を見つめて饗庭の疑問に答える。
「他の人達には、私たちの奇行が見えていたんですよね」饗庭は顔を赤くした。
「ま、貴重な体験が出来たんだから、それくらいは気にしない気にしない。」
 まさに集団ヒステリ。ってね。
 貝木は愉快そうに笑った。

六話 機械仕掛けの幻想・下

 『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かって、さらに三件目とハシゴした。
 貝木(かいき)との約束通り、全額俺の奢りで。
 気がついた時には饗庭(あえば)の服代を上回る額を注いでいた。それはまぁ、いい。

 街灯から街灯へふらふらと足を運んで、夜の街を歩いた記憶。断片的に思い出せるが、ひどく酔ってしまったらしく、鮮明な像を結ばない。俺はどうやって帰ってきたのか。
 俺は自室にいる。ベッドの上だ。饗庭(あえば)も一緒に眠っているが貝木(かいき)は居ない。昨夜のうちに何があったのかは、とろけた記憶と冷え切った財布の残額で理解したが、貝木は家に帰れただろうか……。
 隣で眠る饗庭を眺める。貝木から買った服の一つだろう。肌を包む柔らかな綿の生地で出来た寝巻きに着替えている。唯一素面だった饗庭が、俺を連れ帰ったのだろう。
 閉じられた瞼に生え揃う長い睫毛が震え、程なくして目を開いた。
「ん…」
 吐息とともに怠い眼差しが俺を見るともなくぼんやりとしている。
「おはよう」と、俺は言う。
 今何時なのかわからないけれど、二人の間に流れる時間は朝だ。
「おは……昨日は大変だったぞ」饗庭は挨拶を返す途中で、昨晩の出来事を思い出したらしい。怒気を孕んだ声になる。ひどく酔っていた昨晩は、やはり饗庭の介抱によって帰宅できたらしい。
「そうか。俺は覚えてないけどな」
「………。」饗庭は一度膨れ顔を作り、そしてあっさりと怒りを忘れる。「尾鳥(おとり)って、俺って言う人だったか? 自分の事は僕って言ってたのに」
「あ」
 ――気を抜いていた。
「ま、いいか。本当は一人称は俺だぞ。饗庭と最初に会った日から、少し性格を隠してた。」
「なんでさ」
「優しい雰囲気でないと、安心してくれないだろうから」
「あー。そんな気遣いしてたんだ」饗庭はベッドの上で身体を起こす。「なら、この際私のことを名前で呼んでよ。」
 親と同じ苗字、あんまり好きじゃないんだ。と、饗庭…否。小夜(さよ)は言う。
「なんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「お互い様だろ」小夜(さよ)は柔らかく微笑んだ。
 穏やかだ。
 暴力に晒されていない環境で、彼女は健やかな精神状態にある。



 なぜ饗庭小夜を救うのか。
 理由の一つとしては、饗庭の容姿が美しいからだろう。容姿によって態度を変えるのは、世間ではあまりよく思われないが……。
 結局のところ、美しいものは守りたくなるものなのだ。蝶のために蜘蛛を払う。
 言葉にしないだけで、人間は目で見たもので全てを判断する。そして俺も小夜が美しい容姿だから無償の愛情が芽生えるというものだろう。
 言葉遊びはいくらでもできる。放っておけなかったから助けたのは事実だ。だからこそ、自分を厳しく律しなければ、饗庭を本当の意味で救うことはできない。



「さて、今は何時だ?」俺は独りごちて携帯端末を見る。
 午前の九時。『龍』の出現によって生活リズムを狂わされた結果、真人間と同期した。
「俺が活動する時間じゃないな。寝るか」
「もう、そんな生活してないで、外に出かけたらいいのに」
「今から起きてたら、夜に杵原と仕事が出来なくなる」
「むむむ」
 小夜は杵原に会えるとなると、強くは言えない。ベッドに再び寝転んだ。
 俺も隣で目を閉じる。輾転反側(てんてんはんそく)。隣の小夜のぬくもりと微睡みの気配を感じながら、それでも心には薄暗い雲が覆っているようだった。
 省みる時間だ。
 心配事は意識を巡って浮かんでは消える。その不穏なメリーゴーランドの馬に跨って、延々と揺すられてしまっては、眠ることは出来ない。俺は眠ることを諦めて、じっと自分の心の内に向き合った。
 不安の種、心に巣食う闇を探る。饗庭小夜の家庭。瀬川(せがわ)(しのぶ)の動向。…主にこの二つだ。後は慣れ親しんだ痛み、過去の出来事がちらつくだけ。

 俺は集中して、箱を開けるようにそっと闇を紐解く。
 まずは饗庭家の背景だ。これについてはまだ何も知らない。親から受ける暴力の程度は、小夜の肉体に色濃く残る痕跡を見るだけで窺える。近い内に小夜から事情を深く掘り下げてみた方がいいだろう。
 ――少しずつ精神は冷静になる。意識の内にちらつく煩わしい闇は、こうして正視し、観察し、理解することで解決策が見え、落ち着く。この調子で瀬川(せがわ)(しのぶ)についても、改めてどうするか考えてみよう。……どちらかと言えば、饗庭家の事情よりも大きく育った不安の種である。

 ――瀬川忍はこう言った。

『叶わなかった初恋を成就させることが、私たちの悲願なの』

 呪文のように、
 縋るように、
 盲信的に、
 言った。

 鈍く反射する病んだ双眸を俺から逸らすことなく、寧ろ覗き込む程に視線を注いで言ったのだ。
 俺と結ばれるのが悲願であると言う。
 夫を殺し、現在の自分の身体を消滅させたその行動。常軌を逸している。
 正気か疑う。いや、疑うまでもなく瀬川忍は狂っている。
 貝木に相談すればよかったか。と、考える。この件は俺がどうこうできるレベルではない。しかし、貝木に話すと言うことは、この殺人事件そのものが明るみになってしまう。……となると貝木には協力は頼めないな。
 可能な限り穏便に済ませたい。
 ……悲願を達成できなかった場合の瀬川忍は、どのような行動を起こすかわからない。あの分身が一度だけの能力とは限らないのだから、俺も貝木も殺されてしまうのは避けたい。

 まずいな。正視しても余計に闇が深まるばかりだ。
 少し別のパースペクティブから物事を考えよう。
 シンプルに、状況を悪化させないようにするための計画。延命治療はどうだろう。

 俺が瀬川忍と結ばれる場合。
 瀬川忍は己の悲願を達成する。消滅して自殺した瀬川忍の希望通り、人生の分岐点に立ち返って答え合わせ。問題は、

 『幸せにできるかどうかじゃなくて、幸せになるの。それが幸せなの。』

 …この言葉だ。夫との人生は選択を誤ったことが原因。もっと良い選択肢があったのだと思うあまり、俺と結ばれることでより良い未来が手に入ると信じている。それが問題なのだ。
 落伍者、逢魔時の欠落者である俺は、まず間違いなく生活水準も平均年収も下回っている。
 確信している。殺された瀬川の夫よりも酷い生き方をしている。
 瀬川忍は、より色濃い絶望を味わって二度死ぬことになる。

 ……ダメだ。俺は瀬川忍と付き合わない方がいい。その場合はどうなる?

 瀬川忍との交際を断り続ける場合、おそらく手段を選ばずに俺を脅しにかかるだろう。彼女は夫を殺している。背水の陣で臨んでいるのだ、とても交渉でどうにかなる相手ではない。………。
 どちらにせよ、俺と瀬川忍は酷い結末になりそうだ。そう結論付けて、考えるのを止めた。



 ただ目を閉じて体を休める。いつからか眠りに入っていたらしい。
 次に目が醒めると仕事の時間が迫っていた。
 小夜は俺を起こすことなく一人で準備を進めている。ドライヤーで髪を乾かす音で俺は目を覚ました。
 吸気と排気を同時に行う手持ちの家電は、耳障りな雑音を生み出す。俺は眉根を寄せて小夜を見ると、手に櫛を持っている。
「…そんな櫛持ってたっけ」
「…あ、おはよう」小夜はちらりと俺を一瞥して、丁寧に髪を梳かした。「この櫛、貝木さんがくれた服と一緒に袋に入ってたんだ」
 俺に向けてひらひらと見せる櫛は半月状で光沢があり、見るからに上等な代物だった。どんな意図があるのかはさておき、貝木のうっかりということはなさそうだ。
 俺は小夜の髪を梳かす姿に少し見惚れていた。
 傷んでほつれていた髪を丁寧に櫛で梳かす。小夜は長年手入れできずにいた髪を苦労して整えていく。見違えるように真っ直ぐに矯正された黒髪は艶が出て、その変化の様が見ていて飽きない。
「…そんなに見るなよ」と小夜。
「すまん。」俺は起き上がりシャワーを浴びることにした。「髪を梳かすのが楽しそうだな」
「気持ちいいよ。おばあちゃんを思い出して、懐かしい」



 時刻は二時。
 東伏見公園の四阿(あずまや)にいる。
 杵原はあまりご機嫌がよろしくないようだ。
『…それで、『龍』のほうを優先して、僕は一人ぼっちなんだ』
「連絡は入れたろう」俺はため息まじりに弁明する。日程変更はパソコンからメッセージを送ったはずだ。『不死帯:杵原真綸香』にどのようにしてメッセージが届くのかはわからないが、周波数調整員(バランサー)に支給されたパソコンからは、簡易的なメッセージを送ることが可能なのだ。
『それは届いたけどさ、当日に言われても寂しい!』と抗議する。
「そう言われたら謝るしかない。すまん」
『ヤダ! 心がこもってない!』
 杵原は地団駄を踏んで癇癪を起こすが、浮遊バクテリアでは地面を踏み鳴らすことはできない。
「今日はその分たくさん話そう、な」小夜は調子よく笑顔を見せて杵原の怒りを収める。いつの間にか笑顔にも違和感がなくなったように思う。
『どうせ『龍』についての土産話ばっかりでしょー』
「だって、すごかったんだよ。『龍』の皮膚に魚みたいなさ」
『あーあー。聞こえませんー。…そんなことより、(オトリ)とはどうなのよ。最近なんかあったでしょう?』杵原が小夜に詰め寄る。
「な、なんでそんな」
『ほら、あったんだ。そっち聞きたい』四阿の隅に追い込まれた小夜に、杵原は手を伸ばす。梳かした髪が静電気によって逆立つ。

「小夜には服を買ってやったんだ」俺はフォローするように話に割り込む。
『サヨ?』
 杵原はわかっていながらきき返す。言質を取るためか。
「…アエバさんには服を買ってやったんだ」俺は手遅れながらも言い正す。
『下の名前で呼ぶようになって、挙句小夜ちゃんはお洒落な服を着てますねぇ。髪も梳かしてまぁまぁまぁ…服は(オトリ)に買ってもらった?』
 小夜は今夜も貝木から貰ったおろしたての服を着ている。袖や裾の長いパーカーの上に革のジャケットを重ね、ボトムにはレギンス。都会に馴染む派手すぎない年頃の女の子らしい服装だ。
「今まで制服ばかり着てたんだから、いいだろ」
『それは構わないけどさ。……あーもーわかった』杵原はやけくそに空を飛んで俺たちを見下ろして宣言する。『こうなったら僕も『龍』になるんだから』
「できるのか?」俺は杵原を見上げながら言った。
 不死の帯域に存在する彼女は、それこそ無限の時間と、夢幻の可能性を秘めている。『龍』とは都市のイメージの集合体だから、杵原一人で作り上げるイメージは『龍』と呼べるだろうか。
「一人じゃ出来ないかもしれない」
『なら、仲間を集めるよ』
「どうやって?」
『僕みたいに不運な人生のまま死んじゃう子供とかに呼びかけて見たら、なんとかなりそうじゃない?』
 杵原が不死帯になった原因は、昏睡、植物状態の意識をインターネットに接続して延命を図ったことだ。都市に流出した意識が肉体から乖離して、浮遊バクテリアに宿った。
 同じような死に切れない意識を集めたら、確かにできるかもしれない。

「…出来るかもな。」ただ、それは延命中の肉体から意識を連れ去る事になる。それが残された遺族にとって、どのような事になるのかまではわからない。
 それに、延命治療を受けている人ばかり連れ去っては、その治療はもう延命治療とは言えない。
『とにかく、時間はたっぷりあるからね。僕の目標は『龍』になること。決定』
 杵原は気楽に宣言して、空を漂う。



 時刻は四時。まだ夜闇は暗く、風は冷たい。四阿でじっとしているのも辛くなってきた。
「散歩しないか?」俺はコートのポケットに手を差し込んで、肩を震わせながら二人に言う。
『いいよ』と杵原。
「…どこに行くんだ?」と小夜。
「この公園と並んで東伏見神社があるだろ。往復して歩くだけ」
 俺の提案に否定する事もなく、歩き始める。東伏見公園の舗装された道をなぞって神社の方向へ進みながら話す。やはり『龍』の話題は尾を引いて、触った時の感触や、都市に出現した時の驚き、異形の姿。小夜は楽しそうに杵原に伝えていた。

 ――後日。小夜は新たな傷を作って現れた。

七話 都市の幽霊・下

 饗庭(あえば)小夜(さよ)と知り合って、まだ六日ほどしか経っていない。言葉を変えれば、もう六日も経っている。月並みだが、長いようで短い。
 大人になるにつれ人生は引き伸ばされて、希釈されて、一日一日の価値は下がって行く。
 小夜(さよ)の若い肉体は月の満ち欠けよりも早いスパンで、痣や傷が泡のように生まれては消えている。たまに、傷痕として残り続けるものもある。
 心の傷だってそうだ。



 昨晩、杵原との仕事を終えて眠りについた時、小夜は楽しい思い出に笑顔を浮かべていたのに、朝俺が目を醒ますと隣には居ない。

 二、三日に一度、家に帰るのだ。

 ずっと帰らないでいると、饗庭(あえば)家は警察に捜索願いを出すかもしれない。だから定期的に家に帰って、事件性がないことをアピールするのが目的だと言う。
 だが、事件性とはなんだ?
 虐待され、新しい痣を拵えてまで、明るみに出したくない。その家庭の闇。
 小夜が隠そうとしながらも、その体に纏わり付かせる翳り。
 いよいよ本格的に解き明かさなければならない。その闇を生み出すに至る過程に迫る。
 暗い暗い穴を覗く。
 家庭の闇。
 過程の闇。

 今、再び暗い影を落とす小夜に問う。
「帰らなくていいんじゃないか?」俺はそのまま思ったことを言う。傷つくために家に帰る…。その行動になんの意味があるのか。
「それでも、帰らなきゃなんだ」
 小夜の目には弱々しい蝋燭の火のような意志が見えた。
「まだ、幸せだった時。時々微笑む母さんの顔が、憎み切れないんだよ
 もしかしたら、私が頑張れば、また幸せな家に戻れるかもしれない」
 その希望を、小夜は捨てることが出来ないでいた。
 あの日、『もうダメなんだ』と、絶望していた小夜を思い出す。
 俺と会う前から、一縷の希望だけを携えて長い夜を過ごしてきた小夜。朝と夜を流転するように、もはや自分の意志でもない血の呪いに支配されていた。

 ――ただ、家族だから。

 頬を打たれた時に、口内を切ったのか、恐る恐る表情を作り、苦労して笑う。
 また笑顔が下手になった。心配いらないよと微笑む顔は、むしろ心配せずにはいられない危うさの中にいた。

「もうダメなんだって、自分で言っただろう。」俺は小夜の肩を抱く。「もう、…ダメなんだよ」
「そ、そうかもしれないけど、いつか昔みたいにさ、……できるって、」小夜の声は狼狽えて、少し上ずった。「ほ、ほら、これでも親父も機嫌がいい時は私の事、殴らないんだ」まだなんとかなるかも。小夜は気丈に振る舞おうと努める。
「ダメだ。」俺は強く抱き締めて、続ける。
 言いたくはない。でも、言わなければならない。
「普通の家庭ってのは、機嫌が悪くったってお前を殴らない」
「………っ!」
 小夜は俺の言葉に反論するための言葉を探した後、どうしようもなくなって、押し黙ってしまった。
 俺の部屋に、急行電車の走行音が響く。そしてそれが遠くに消えると、一層深まった無音が部屋を包んだ。
「親父だって、頑張ってきたんだ。『仕事が上手くいけば、きっと生活が良くなる』って…朝から晩まで働いて、母さんのため、私のために擦り切れて、壊れちゃったんだ。」
 嗚咽。
 小夜は悲しみの濁流の中で、溺れながらも言葉を発する。
「それからは、母さん、が。わ、『私がなんとかするからね』って、それで。そ、れで…」
 それで、次は小夜の母が壊れそうになっている。叔母がまだ亡くなる前は、少ない貯蓄、家事の手伝い、精神的な拠り所があったが、亡くなってしまった今では、家は洗濯物も、使い終わった皿も散乱し、循環することも出来ずに家庭は機能不全に陥った。
「私、幸せに死ねなかったばあちゃんが、悲しくて、報われない親父が悲しくて、優しかった母さんが悲しくて」小夜を抱く肩が、暖かく湿る。涙が流れているのだ。「助かりたい。…助かりたかった。殴られてもなんでもよかった。その先にきっと、報われる日が来るって思ってたんだ」

 小夜は声を押し殺して泣いた。それ以上の言葉を出そうにも、震える喉では言葉にならない。

 遣る瀬ない。
 報われない。
 途方もない。

 もうダメだ。諦めてくれ。俺は言おうとしていた言葉を言えずにいた。あまりにも、可哀想だった。

 ――泣き疲れた小夜をベッドの上に寝かせて、俺は一人、武蔵関公園に向かった。

八話 酷薄/告白・下

 俺は一つの考えがあった。
 明るみに出たがらない闇が二つ。
 幸せになりたい者二人。

 闇夜に蠢く逢魔時の欠落者。ここは俺が一仕事してみせよう。

 ――周波数調整員(バランサー)として。



 俺は武蔵関公園で待ち合わせをした。
 約束はしてないが、彼女はきっと現れる。
 確信を持って待ち続けている。

 あの時と同じように、ブランコに座って公園を眺めていると、やがて薄暗い公園の入り口から人影が現れた。
 砂を踏む足音がこちらに向かって近付くにつれ、輪郭に張り付いた闇は街灯に剥がされて、姿を現した。
 瀬川(せがわ)(しのぶ)だ。

 俺は前もって自販機で買っておいた缶コーヒーを一つ差し出して、瀬川(せがわ)に渡す。
「よう」俺は短く挨拶をする。
「………」瀬川は俺の態度に警戒しているのか、その表情は固い。
「返事。持ってきた」俺は自分の分の缶コーヒーを一口飲み込んで、公園を眺める。
「そう。聞きたいわ。」瀬川は隣のブランコに座って、落ち着き払って返事を待つ。
「だが、その前に確認したい。」
「あら、何よ」
「瀬川、お前はまた分身を作れるか?」
「…どういう意味かしら?」
 瀬川は俺の言葉の意味を問う。確かに突飛な発言ではある。
「お前と幸せになるためには、二つの条件がある。
 一つは、俺の妹を受け入れること。
 一つは、殺してほしい人がいること。」
「…余計にわからないわね。あなたに妹なんていたかしら」そう質問する瀬川も、心の内では予感していたのだろう。顔には動揺は見えない。
「俺の妹、名前は小夜(さよ)っていうんだ。」
「…へぇ。」瀬川は愉快そうに笑う。「それで、誰を殺してほしいのかしら」腕を組んで口元を手で隠す瀬川。声音は微かに愉悦に震えている。俺のことを、楽しそうな顔で眺めた。

 俺は一つ深呼吸して、勤めて静かに伝える。
小夜(さよ)の両親。二人ともだ」
「あなたの妹の両親…。それはあなたの両親ではなくて?」クスクスと、凄惨に笑う。指の檻の向こうから、死生観と愉悦が同居した細い月のような唇が、艶やかに光を反射する。
「改めて確認するぞ。瀬川。お前はまた分身を作れるか?」
 末期の饗庭(あえば)家を殺して、小夜の人生から病巣を摘出する。
 それには俺と瀬川、そして何より小夜のアリバイが必要なのだ。明るみに出ないように、再び分身に活躍して欲しい。

 瀬川が自分の夫を殺した時のように、第三者の暗殺者が必要なのだ。

「………。」
 真っ直ぐに目を合わせてから数刻。瀬川の顔からは笑みはなくなり、真剣な表情に変わった。

「あなたが私を拒絶した場合にとっておいたの。……最後の分身よ。」瀬川が唐突にそう言った。
 それが何の話題なのか、一泊の間をおいて理解した。
「出来るんだな」
「ええ、私のとっておきの分岐点。『私の子宮が病に侵されなかった場合の人生』」
「…おい、……それって………!」

 それは、瀬川の人生における分岐点。
 一つ目が初恋。
 二つ目が子宮頸癌。

 瀬川が夫を殺すために使用した分身が、初恋。だから、もう一つの分岐点が残っているのだ。

「まさにとっておき。…最終手段。
 これを使うと私は完全に子を産む能力を失う。
 だからね、もしあなたとの初恋が、上手く行かなかったら、子宮と引き換えに、あなたを殺す事も考えていたわ。」

 俺は戦慄する。覚悟して臨んできたはずだが、背中はぞわりと粟立っている。
 瀬川の持つカードの強力さには、末恐ろしいと感じる。
「ねぇ、尾鳥(おとり)君。…あなたは子供欲しい? 子供が出来ないことで私を捨てたりする?」
 この問いかけが、おそらくは俺の周りすべての人を左右する重大な選択だ。
 覚悟を。埋み火を今一度再燃させてみせる。
「捨てない」はっきりと、宣言する。「お前が構わないなら、小夜を娘のように接して欲しい。」
 俺は目の前の狂気に怯えを感じながらも、真っ直ぐに見つめてそう言った。

 頭の中、どこか冷静な自分いる。この状況を俯瞰して、まるで悪魔との契約だ。なんて思う。
 瀬川と小夜、二人のためのスケープゴートだ。と、力なく笑う。まさにその通りだ。スケープゴート。身代わり。(オトリ)

 でも、まぁ、悪くはないよな。
 これでも瀬川(しのぶ)は俺の初恋の相手なだけあって、顔立ちも性格も美しい。
 それに、小夜の呪いを断ち切ることが出来るだろう。

『そういうのを引き寄せる体質だから、お前のことは(オトリ)って呼ぶよ』

 昔の貝木(かいき)の言葉を思い出す。

 やり遂げてみせる。
 長い時間をかけて、杵原が《龍》になるまでを見届けながら。
 闇は明るみに出ないまま、幸せを見つけてやるさ。

CRUMBLING SKY

 闇は闇のままに、闇の中での幸せを模索する。…逢魔時の欠落者たちの日常を描いた物語。

 幸福というものには平均というものがあります。しかし、本来は自分の身の丈にあった適量というものがありますね。
 私の中では、ハッピーエンドなのですが、果たしてこの物語を読んで頂けた皆様にはどう映るのでしょうか。幸せと呼ぶには物足りない?いっそ不幸?
 尾鳥たちのこれからを夢想してみるのも面白いかも知れません。

 楽しんでいただけたのなら、幸いです。

CRUMBLING SKY

拡張現実との均衡を保つために帯域を調査する周波数調整員。 その活躍を描くとするなら『俺』は主人公には向かないのでは…… 都市の幽霊。機械仕掛けの幻想。龍を追う者。 逢魔時の欠落者。その日常を描く。 この作品は「星空文庫」にも掲載しています。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. エピローグ――逢魔時の欠落者――
  2. 一話 都市の幽霊・上
  3. 二話 機械じかけの幻想・上
  4. 三話 告白/酷薄・上
  5. 四話 都市の幽霊・中
  6. 五話 龍を追う者
  7. 六話 機械仕掛けの幻想・下
  8. 七話 都市の幽霊・下
  9. 八話 酷薄/告白・下