CRUMBLING SKY
・CRUMBLING〈クルムブリング〉 ぼろぼろな
・SKY〈スカイ〉 空
エピローグ――昧旦《まいたん》の欠落者――
饗庭小夜は毒虫のように生きていた。
しぶとく、強張りながら、じっとして動かなかった。
彼女の母親はステンレスハンガーを握りしめ、蹲っている娘の背中に振り下ろす。
鋭い風切り音の後に、容赦のない痛みが爆ぜた。
饗庭小夜は歯を食いしばり、目に涙をためて呼吸を浅く繰り返す。
鞭打ちは断続的に、悪意を込めて不規則に、幾度も振り抜かれた。
痛みの雨に打たれる最中、饗庭小夜は己の罪について内省していた。
……しかし、どれだけ考えても、叩かれてきた理由を理解できたことは、一度もなかった。
なので彼女は、いつからかこの行為を当然のものだと認識し始めた。
自然災害に悪意を求めないように、彼女は親の暴力も、ただの『そういうもの』だと思っていた。
悲しいことに、彼女は親の理不尽を当然のことと受け止めていた。
それ程まで幼い頃から、常習的に虐待行為は繰り返されていたのだ。
ステンレスハンガーがすっかりひしゃげて使い物にならなくなると、母親は鞭打ちの執行を終了する。
次に母親は、憔悴して床に額を押し付けている饗庭小夜の頭に手を伸ばした。
乱れた髪を鷲掴みにして持ち上げ、ごみ袋を捨てに行くような歩調で玄関まで引っ張り歩く。
饗庭小夜は苦しい体勢のまま、母親の歩調についていく。
ずかずかと進む母の脚と、散らかった廊下が視界に映る。
母親は上がり框を裸足のまま出て、玄関の扉が開かれた。
掴まれた髪が放られる。
その勢いで頭から転げ落ちる。
荒れた玄関先は冷え切っていた。
とても寒いはずなのに、痛みのおかげで全身が暖かい。体からは湯気が立つようだった。
饗庭小夜は、ほんの少しだけ清涼さを感じていた。
視界の端、母親が扉を閉める姿が見えた。
錠をかける音が一つ響いた後には、静寂が耳に詰まる。
毒虫のように耐え凌いだ彼女は、やがてゆっくりと身を起こした。
枯れ枝ばかりの庭に隠していたサンダルを履いて、まだ暗い昧爽の街を歩き出す。
第一話 都市の幽霊 上
深夜にも関わらず、住宅街の町並みはぽつりぽつりと灯りが点いていた。
大晦日から夜通しで起きている人達が居るのだろう。
俺は武蔵関公園のベンチに腰掛け、池の水面に反射している空を眺めて過ごしている。
この時間のこの場所が好きだった。
鴨の泳ぐ池をじっと眺めていると、決まって、こんな空想をしてしまう。
――それは、「睡眠中の意識が夜に溶け出す」というものだ。
肉体が睡眠状態に入ると、魂を格納している容器にわずかな隙間が生じる。そこから漏れ出した意識が、目に見えない極小の粒子、あるいは霊素となって大気に拡散される。
人々の意識は大気を漂いながら複雑に交じり合い、結合と遊離を繰り返して微弱な電気を発生させる。この電気信号が睡眠時の夢として現れる。
そして夜通し飛び回った意識は、夜明けとともに自身の容器へ帰還し、狂いなく魂が再構築されることで覚醒へ向かう。
人間は、そうして夜ごとに意識を手放し、崩壊と再構築を経て、自我の連続性を保っているのだ。
今はまさに、人々の意識が再構築されつつある時間帯。そう考えると、眠らずに池を眺めているこの自己という存在が、特別なものに思えてくる。
この世界を見守る、特別な役割を俺は果たしている。
孤独で、静かで、妙に救われた気分になる。
空が白み始め、夜間勤務ももうすぐ終わりだ。
後には清廉な朝靄が漂い、武蔵関公園はどこか神聖な空気に包まれる。
始発電車の走行音だけが、このひと時を現実へと繋ぎとめる。
そして――誰かの足音が一つ。
その足音は、木々が枝を広げている小道を進み、こちらへと近づいていた。
おそらくベンチに座る俺の存在にはまだ気づいていないのだろう。
俺はわざと姿勢を変えてベンチを軋ませ、さりげなく存在を主張した。
「っ……」
息を呑む声。足音が止まった。
俺は白みかけた公園に立つ人影を観察する。
――不用心だな……。
こんな時間に娘が一人なんて、新年に浮かれているのだろうか。
いや、どうにもそうではない。
彼女の纏う雰囲気は陰鬱としていて、新年を迎えた人の顔つきではない。
浮かれているというより、沈んでいる――そう表現する方が正しいように思えた。
街灯に照らされた少女の瞳は、警戒の色を浮かべて野良猫のようにこちらを見つめる。
着ているのは冬用の制服。おそらく学校指定のものだろう。この町で同じ制服を見かけたことがある。……もちろん、日中にだ。夜に見るものではない。
黒いセーラー服の彼女を見て、「通夜だ」と思った。
まるで喪服の代わりにそれを纏い、不吉を身に宿しているかのようにすら感じられた。
「……おはようございます」
俺は沈黙を断ち切るように、挨拶をしてみた。
どれだけ見つめ合っていたのか分からないが、相手は女学生だ。これ以上無言でいれば通報されかねない。新年早々、警察のお世話になるのは御免だった。
「明けましたね、新年」
場の空気を和ませようと、処世術めいた世間話を投げかけてみる。
彼女は視線をそらし、短く応えた。
「……どうも」
それきり口を閉ざしたまま。しかし立ち去ることもせず、俺のベンチとは別のものに腰掛けた。
スカートをまさぐり、何かを取り出す。
握りしめて数秒、彼女の手元が赤く灯った。電子タバコらしい。
――セーラー服なのに、喫煙……?
深夜から夜明けにかけて、この一画は俺の場所といっても過言ではない。それほどまでに連日ここで夜を過ごしている。
誰かと出くわしたことはなかった。だから、ここは俺の縄張りだという思いがあった。ここの治安を管理しているのは俺だ、と。
なのに――なぜ今日に限って少女は現れたのか。まさか幽霊ではないだろうか。
俺は彼女に対して興味を抱き、もう少し話しかけてみることにした。
「ここにはよく来るのかい?」
「いや」
彼女は煙を肺にためてから吐き出し、少し鼻をすすって答えた。
その所作は慣れたもので、喫煙は今日明日に始めたものではないようだった。
「……ちょっと気が向いて、散歩にきた?」
「……いいえ」
「じゃあ、そうだな……」俺は少し考える。「普段から家出をしていて、大晦日の夜は暇をつぶせる店がないからここに来た、とか――」
「あのさぁ」声の調子が険しくなる。「次話しかけてきたら通報するから」
彼女は携帯端末を印籠のように見せつける。割れた画面は目にまぶしく、俺は銃を向けられ降伏するように両手を上げた。
……会話する気分ではなさそうだ。
とはいえ、なんとなく事情が見えてきた。あの電子タバコは親からくすねたか、万引きでもしたのだろう。
遠くで知能の低そうなバイクが走り去る。
都道を法外な速度で飛ばしているらしく、曖昧な方角から駆け抜けて曖昧な方角へと消えて行った。
武蔵関公園では、鴨が池から飛び立った。
薄明の空を映していた池の水面は大きく波打ち、その様子を少女はじっと眺めていた。
口元から漏れた煙が風に乗ってたなびいていく。
それぞれの夜が展開される。朝が迫るまでの、残り少ない自由な時間が流れていく。
「家」
不意に彼女は呟いた。
『イエ』――その語感は否定を意味する『いや』でも『いいえ』でもない。建物、あるいは帰る場所としての『家』なのだと理解するのに時間を要した。
「家、がどうしたの?」
俺は恐る恐る返答した。彼女がこちらに話しかけたのか、わからなかったからだ。
彼女は脅しの効力が正しく発揮されているのを確認して、満足そうに煙草をくわえ、大きく吸い込んだ。
「家に帰りたくないんだけど、あんたは近くに住んでんの?」言葉が白く煙る。
「本当に家出少女ってことか。何があったの?」
「いちいち探るのやめなよ」
――……苦手なタイプだ……。
俺は厄介ごとに踏み込んだことを後悔する。
公園のベンチに下手な縄張り意識を持ったせいで、未成年の家出少女と関わってしまった。
「あんたが言った通り、今日はお店どこもやってなくてさ。もうここで野宿するしかないかーって思ってたんだよね」
「未成年だろう? 危険すぎる……帰りなさい」
「帰れないんだよ」
「なんで――」
「だから、いちいち探んなって」
苛ついた表情で俺を睨む。
推察するに、家庭に不和を抱えているようだ。短い会話の中で、彼女の言い分が『帰りたくない』から『帰れない』に転じていることから間違いないだろう。
――心配してくれる親はいないのか。
不審者、誘拐、殺人――幸いなことにこの地域はこれらの事件とは無縁だ。それでも彼女を放置して立ち去るのが正解とも思えない。
立ち振る舞いから、おそらくこういった夜を過ごすことに慣れている。
少しの間、彼女は煙草の火を見つめていた。
「ねぇ。お腹すいたし、ご飯食べようよ?」
彼女の態度が変化した。
いや、攻め方を変えてきたのだ。
明らかにこれは『売り』の誘いだろう。
男に近づいて「家出している」と伝え、それとなく一宿一飯の援助を匂わせる――それが彼女の狙いか。
「なら、俺が買ってもいいのか」俺はベンチから立ち上がり、コートのポケットから財布を取り出した。
「は――」
「お前はいくらなんだ?」紙幣をあるだけ取り出すと扇のように広げ、セーラー服の肩を掴んで突き付ける。紙幣が鼻先を叩いた。
「いくらって……」
彼女は俺の豹変した態度の大いに驚き、目を丸くして怯えた。
きっと即断即決する人間には見えなかったに違いない。
もちろん、俺は彼女を買う気はない。
未成年に大人の怖さを教えるための、脅しに対するちょっとした意趣返しだ。
つかんでいた肩から手を離し、財布をしまう。
「……なんてね。子供が大人をどうこうするなんてやめたほうがいい。嫌でも家に帰りなさい。俺が送ってやる」
「家は嫌」
「未成年の深夜外出は補導対象だ。売春行為はもっと許されない。もちろん『コレ』も」俺は電子タバコを指さす。
「帰りたくない」
「なら交番に連れて行こうか。それとも俺が通報してもいいぞ」
彼女は狼狽え、事態が思った方向に転がってくれない苛立ちに舌打ちして頭を掻いた。
「なんで……助けてくれないの……」
彼女の強がる仮面が剥がれかけた。本心を垣間見た気がした。
潤んだ瞳、心が挫ける気配。
見知らぬ少女を泣かせてしまうのではと、良心が痛む。
未成年と大人には与えられた権利の性質に明確な違いがある。
『安全』を親から与えられるのが未成年の特権であり、自らの裁量で整えるのが大人の特権である。未成年でいる間は無償の愛が手に入り、親に支えられている期間に、自立する能力を獲得し、大人の一員となるのだ。それまで未成年は大人の振る舞いをすることを条令が許さない。
だが、権利を満足に与えられない未成年は、自衛しなければならない。
大人らしく振舞うことでしか、身を守る方途がないのだ。
親の支えを持たない、無償の愛を得られない子供は自立へ向けてもがき苦しみ、歪な社会に引き摺り込まれてその一生を日陰で暮らすこととなる。
彼女はきっと、そんな子供の一人だった。
「……本当に困っているなら、やっぱり警察を頼った方がいい」
俺は真摯に提案するが、彼女は頑なに首を振る。
「警察はダメ……」
「なんで駄目なんだ?」
「探らないで」
「事情が話せないなら俺が助ける義理もない。もし話してくれるなら、そして俺が納得できる理由なら、リスクを負ってでも今夜君を保護しよう」
彼女は閉口し、俯いてしまった。
だがコートの裾をつかんで離さない。俺を留め置いて、言葉を選んでいるようだ。
やはり面倒事の匂いがしてきた。
しかも報酬が支払われる可能性が相当低い。
「……誰にも言わないって約束できる?」
覚悟を決めたように、彼女は切り出した。
「言わない」俺は彼女の目を見て即答する。
「本当に約束してね」彼女は俺の耳元に唇を寄せて、手で覆って囁いた。「私の親は、多分、多分なんだけど……クスリをやってると思う」
「クスリ? それは違法ドラッグという意味か?」
俺は想像の上を行くカミングアウトに耳を離し、彼女の顔を見つめた。
「種類は何だ?」
「わかんない。なんか粉みたいなやつを鼻から吸うの」
「スニッフィング《粘膜吸収》か……」
「だから警察はダメ。通報も補導も嫌。でも帰りたくない……ねぇ、いいでしょ? 私は話したんだから泊めてよ」
確かに筋は通る。家に帰りたくないのは本音だろうし、警察を頼れない事情も破綻はない。出任せの嘘を付いているわけではないようだ。
俺は腕を組み、暫く思案する。
正義感からここで通報したとして、その選択が彼女の人生を大きく変えてしまうかもしれない。安易にそんな行動をとるのはためらわれる。
それであれば、多少リスクを負ってでも保護をしたほうが良さそうだ。
家庭の事情を踏まえると一夜程度の朝帰りで問題にはしないだろう。本当にクスリをやっているのであれば、親の方から警察に通報することもない。
「……わかった」
「本当!? やった」
「とりあえず一晩だけだ。一晩保護する」
少女の表情が造花のように華やいだ。援助が成立したとき、こんな顔をして男の肩に抱き着くのだろう。
「えへへ、助かっちゃった。ご飯は食べる?」
溜息が喉元に引っかかる。
世話をするとなると、飯も俺が用意せねばならないのか……それもそうか。
「……俺にとっちゃ朝飯だな。帰って一度寝るが、ファミマに寄って好きなものを買えばいい。それでいいか?」
「おっけー」
すっかり涙は引っ込み、彼女の態度は気安い。
現金な娘だ。これまでもそうやって、強かに生きてきたのだろう。
武蔵関公園の遊歩道を歩き、俺は家へと案内する。
空はすっかり明るい。携帯端末を見れば時刻は六時に迫っていた。
仕事を切り上げるにも丁度良い時間だ。まだ街には人の姿はなく、少女を連れて歩く姿を見られる事もない。三が日の初日なのだから、外出する人はそういないだろう。
歩き始めて数分。
東伏見駅の踏切を通り過ぎ、約束通りコンビニエンスストアへ寄り道して駅前のマンションに帰宅する。
エスカレーターは一階で待機していた。狭い箱に二人が入り、数秒の密室空間が形成された。
――本当に捕まらないのだろうか……。
初対面の少女を連れ帰っている状況の異様さを、今更ながら実感する。
「散らかっているけど文句言うなよ」
「大丈夫。私の家より散らかってる人見たこと無いから」
……それは家庭環境が荒れているということだろうか。
酷いとは思うが、生活が破綻している情景は容易に想像できてしまう。
重たい冗談の応酬に苦笑いして、エスカレーターが三階に到着すると自室の扉を解錠する。
「さ、上がって」
「お邪魔しまーす。……なんだ、普通にきれいじゃん」
「綺麗ではないだろ」俺は言いながら机のペットボトルを拾ってゴミ袋に詰める。
「『散らかってる』って言うからもっと酷いのを覚悟してた」
「覚悟してもらうために言ったからな。最悪を想定しておけば、こんな部屋でも綺麗に見えるもんだ」
自室にはベッドとPCデスク。アーム接続されたデュアルモニターは電源が付きっぱなしでデスクトップが光っている。
散らかっているのは脱ぎ捨てた服と空のペットボトル、そして昨日食べ終わってから片付けていないレトルト食品の器。それらを掃除してしまえば、客人を招き入れる最低限の空間は整った。
「え、待って。……逆に何もなくない?」
玄関前で、俺が片付け終わるのを待っていた彼女は言う。
「趣味もないからな。こんなもんだろ」
俺は一仕事終えてベッドに腰を下ろし、照明に照らされた彼女をまじまじと眺める。
暗い公園では気付かなかったが、制服のスカートから覗く生脚には細長い痣があることに気付いた。
「なんの傷だ?」
「え?」
「それはなんの傷だ?」
俺が太腿を指差すと、彼女はわざとらしく恥じらい、スカートを押さえた。
「えっち」
「自傷行為か?」
「そんなんじゃないよ。見せてあげよっか? ほんとはお風呂先に入っときたいけど」
「――は?」
「え?」
「……いや、シャワーはそうだな。入っていい」俺は部屋の奥を指さして場所を示す。
1Kの間取りなので迷う余地もない。
替えの下着と宿泊セットも、立ち寄ったコンビニで購入していた。
「じゃあ、浴びてくるね」そう言って鼻歌交じりに廊下へ消える。浴室に入る音が響き、シャワーの水音が漏れ聞こえる。
――どうやら彼女は、未だ誤解しているようだ。
俺が一晩保護する対価として、肉体関係を求めていると考えているらしい。
「俺がベッドに座ったからか……?」
呟いて、デスクチェアに座りなおす。普段の行動を無意識に行っただけで他意はなかったが、気遣いもなかったと少し反省する。
――気遣いといえばこれもか。
俺は付けっぱなしのモニターに向かい、最小表示していたアプリケーションソフトを操作する。今日の業務の締め作業を手早く済ませて保存すると、電源を落とした。
しばらくして、湯上りの彼女が濡れ髪を束ねて部屋に戻る。バスタオルを体に巻いているが、男の視線に恥じらう素振りはなかった。およそ未成年の振る舞いではない。
彼女は裸でありながら、男を前に殻を纏っているのがわかる。
痛々しい――と、俺は密かに思った。
「普通に髪も洗っちゃった」そう言ってドライヤ―を握り、髪を乾かしはじめる。
温風を吹き出すドライヤーの騒音が部屋を満たす。彼女はまだ何か話しているようだが俺の耳には聞こえない。
間をつなぐためのとりとめのない世間話だろう。聞こえていなくても問題なかった。
「そっちはシャワー浴びないの?」
髪を乾かし終えた彼女は言う。
「今日はもう入った。明日でいい」
「えー。そのまま咥えて欲しいの?」
「やめてくれ」俺は眉を顰める。「ここに泊まるのに見返りは要らない」
「…‥えっと……?」
当たり前のことを言ったつもりだったが、彼女は理解できないという顔でこちらを見つめる。少女がリードしていた空気は壊れ、やや気まずい表情で彼女は立ち尽くす。
部屋に上げて二人きり……彼女の振る舞いはごく自然に雰囲気を運んでいた。これまで出会った男達は、なし崩しに肉体関係へ及んだのだろう。
もちろん俺だって人間だ。性欲が全くないわけではないが、見境なく手を出すほど腐ってはいない。それこそ、ここまでの話の流れで未成年に手を出せる男を軽蔑すらできる。
なにより、俺にとってこの人助けは夜間勤務の延長のようなものだ。
「……じゃあ、私はどうしたらいい?」
「何もしなくていい。買ってきた飯を食うなり、眠るなりして過ごしな」
彼女は部屋をぐるりと見まわして寝床を探す。ソファーがあれば、「そこで寝る」と言い出しただろうか。
「私は床でいいよ」
「客人を床で寝かせるもんか。俺はこの椅子で寝る。リクライニング機能もあるからな。君はベッドで寝るといい。
改めて言うが、君は保護されている身だ。俺の指示には従ってもらうぞ。じゃあ、おやすみ」
俺は着替えもせず、コートの襟を立てて鼻先まで埋めると目を閉じた。正直なところ、信用できない部分もあるので眠気が来ない。警戒しているのは向こうも同じだろう。
三分程経っただろうか、さして間を置かずに彼女がベッドから降りた気配があった。足先がシーツを滑り、フローリングに立つ。
足音を忍ばせて、彼女は俺の足元に座った。
「ねぇ、ほんとに何もしないつもり……?」
「……しないさ」俺は薄く片目を開く。「……まさかその年で性依存じゃないだろうな」
「違うよ! そうじゃない、けど……だって、なんにも返すものがないなら、ここにいていい理由は何なの? 私がここに居られる言い訳がない」
「うぅむ――」存外難しいことを考える娘だ。
俺は少し考えるが、彼女の問いはそもそも成立しない。
「――『ここにいていい理由』も『言い訳』も必要ないだろ。子供は本来、安全な夜が無償で提供されるべきだ」
親からの無償の愛というものが、彼女の夜を、朝を、日々を保全するはずなのだ。
それが叶わないとき、社会は彼女を保護する責任がある。
複雑な事情により警察を頼れないから、俺が保護している……誘拐や監禁という事件性を疑われるリスクはあるが、それは俺の責任だ。見返りは求めない。
「過去を聞く気はないが、例えばお前の家出に協力した男が、『助けてやったんだから、わかるよな?』とか、見返りを求めたとして、お前はそれを『助けてもらった』なんて思うな」
「なんで?」
「その夜は決して安全ではないからだ。大事なものを失っていることになる」
少女は真面目に見つめているが、実感が伴っていない顔をしていた。何も失っていないと、そう思っているのだろう。
「安全な夜……」彼女は初めて聞いた言葉を繰り返す。
それはまだ価値を持たない言葉だった。それでも、価値を予感させる言葉として少女の胸に刻まれたのだった。
❖
目を覚ましたのは昼過ぎのこと。
生活リズムが夜勤合わせになっている俺からしてみれば、これでも早起きをしたほうだ。仕事終わりにすぐ就寝したので前倒しにずれ込んだのだろう。十分に休めたようで眠気はないが、椅子のせいで体は妙に凝っている。
身じろぎをして起き上がり、ぐっと背伸びをした。
大きな欠伸を一つ。ベッドの方へ視線を向ける。
もぬけの殻……毛布に潜った形跡はあるが、彼女はもういなかった。
「帰ったか」俺は独り言ちる。
あまり現実味がない。
もしかしたら昨夜の出来事は夢だったのかと思うが、外出着のまま椅子で眠っているのだからその線はないだろう。大方、家に帰る気になったか、俺相手じゃ稼げないと見限られたか……もしそうだと思うと少し落胆する。
――まあ、仕方ない。救えない夜もあるさ。
俺は重く捉えず、コートのポケットに仕舞っていた財布を確認する。……盗られてはいないようだ。
財布を仕舞うと同時、外の通路を歩く隣人ではない足音が壁越しに聞こえる。
「ただいまー」
ドアが開かれ、彼女は部屋に戻って来た。
「……眠れたか?」俺は問う。
「いんや」彼女はそっけなく答えるが、昨晩の作られた笑顔よりも穏やかに見えた。「あんたの臭いが染み付いたベッドじゃ眠れないよ」
「おっと――」
普通に恥ずかしい。
「――それは申し訳ない」
こればかりは気が回っていなかった。消臭スプレーを吹きかけておくべきだったと悔やむ。と、彼女の手荷物に気付く。よく見ると履物もサンダルからローファーに履き替えられている。
「家に帰れたのか?」
「玄関は鍵がかかってるから、窓から入って自分の荷物を詰め込んで、改めて家出して来た」
彼女は学生鞄を俺の方に突き出した。ぱんぱんに詰め込まれている荷物は着替えの衣類だろうか。
――いや、改めて家出したということは……。
俺が違和感を覚えると、彼女は真面目な顔でこちらを見ていた。
「あの、さ」
「なんだ?」
「しばらく、ここに身を置かせてもらってもいいかな?」
「……児童相談所に連絡するつもりだが」
「それもやめてほしい、です。……親は私を探す気なんかないから、あなたは捕まりません。それは、保証、できるので……」
「子供の保証なんて信じると思うか? 一晩匿っただけでもかなりリスキーなんだ。第三者への連絡は早い方がいい」
「お願いです」彼女はフローリングに膝をつき、頭を下げる。
「……土下座なんて大人の真似事をしても駄目だ。責任能力が君にはない」
「二、三日に一度は家に帰るよ。それなら親は確実に何も言ってこない……だって、いつものことだから」
「そんな生活をしてる未成年なんて、結局『児相』案件なんだよ」
机に置いてある携帯端末に俺は手を伸ばすが、彼女は土下座から顔を上げて、咄嗟に腕を掴む。
「児相のお世話には何度もなってる……それでもこの有様なんだよ」彼女の濡れた瞳が真っすぐに俺を見上げた。
「一生のお願い!」
「一生だぁ?」
「安全な夜が欲しいんだ……!」
俺は思わず黙ってしまう。
安全な夜――それは昨晩、俺が言った言葉だ。そして俺が提供したものだった。
切ない願いだ。
未成年の少女がねだるものとは思えない。
あって当たり前のものを、彼女は切望し、俺を頼っている。
俺は携帯端末に手を伸ばすのをやめ、頭を抱えた。
「はぁ……」
「お、お願い、します……」
「待て、今考えてるから」
数日間、この家出娘を匿うことの危険性を考えてみる。
無断で自宅に泊める行為は誘拐や監禁と疑われるリスクが付き纏うだろう。
親や警察に連絡せず放置しては保護責任者遺棄の罪を問われるかもしれない。
たとえ善意でも、指一本触れなくても、社会的に俺は終わるかもしれないのだ。
――どうする。どうしたらいい。
警察に連絡して彼女の身柄を保護してもらえば俺はこの厄介ごとから逃げられる。
だが、親の薬物使用が判明してしまえば彼女の家庭は確実に壊れる。悲しむだろう。
……それも致し方ないのでは? 元々壊れた家族なら、将来的には悪いことではない。
「家族は好きか……?」
俺は問う。
彼女はうなずいた。
「捕まってほしくない。離ればなれは怖いの」
あまり褒められた親ではないだろうが、家族愛はあるようだ。
どんな親なのか俺にはわからないが、薬物さえ断ち切ることができれば関係は修復できるのかもしれない。時間をかけて解決できる未来があるなら、俺が壊すわけにもいかない。
俺は、どこまで踏み込んでいい?
短期間匿うことで、リスクを負うことで彼女は救われるのか?
「学校は」
「通信制。この格好は外着なだけで、通学してない」
「やめたのか」
「二週間で」
二週間でやめた。か……。
クラスとは馴染めなかったようだ。
「家族は薬物使用の他に問題はあるか」
「ううん」
彼女は首を振る。
となると、問題は二つだけ。
家庭内の不和と薬物問題。
いつかは解決しなければならない問題だが、昨日今日関わっただけの俺がかき乱すには早い。様子を見ながら情報を引き出して、判断する猶予はある。
今しばらくは、俺が安全な夜を提供することが可能だろう。
「……じゃあ、もう少しの間だけ、ここにいていい」
俺がそう言うと、彼女はぱっと笑った。
造花ではない、小さな、薄桃色の花にも似た笑顔が美しかった
それだけで、この選択が間違いじゃないと思わせてくれる。
家族を持たない俺にとってはかけがえのないものに思えてしまう。
「……それよりご飯は食べたのか?」
「まだ、何も」
「そうか、食べに行くか」
「うん。あ、でもお金……」
「気にするな。未成年は金に困ってるくらいがかわいいもんだ」
出所のわからない稼ぎを持っている方がおかしいのだから。
「とりあえず俺はシャワー浴びてくる。君は着替えててくれ」
「え? 制服じゃダメ?」
「三が日に制服なんて目立ちすぎる。ほかの外着はないのか?」
「ないよ」
「鞄の中身は」
「部屋着と下着と、予備の制服」
彼女の返答にため息が漏れる。セーラー服の娘を連れ歩く男……職務質問待ったなしだ。
「待ってろ。たしかサルエルパンツなら男女共用だったはず……」
クローゼットの衣服の中で男女関係なく着れるものといえばそれくらいしか持ち合わせていない。
俺はお目当ての黒いサルエルパンツを引っ張り出してサイズを確認する。多少緩いかも知れないが、腰紐が通っているから縛ればなんとかなるだろう。上はコンビニで買っていた肌着でいいとして、羽織るものを見繕う。
「男物のシャツだが、そういう着こなしだといえば通るか」
俺はクローゼットの中から、ハンガーにかけられたグレー味がかったシャツを彼女に押し付ける。上着には生地の薄い防水防寒特化の黒いアウトドアパーカーを選んだ。地味な配色だが生地の質感で差が生まれているし、なかなか悪くないだろう。
「オーバーサイズだがこれで行こう。着替えてくれ」
言いつけて、俺はシャワーを浴びに行く……と、思い出して振り返りクローゼットの隅を指さした。
「消臭スプレーはそこにあるから」
❖
「――それで、改めて色々教えてもらおうかな」
ファミリーレストランは俺たち以外に客はおらず、店員も最低限の人数で回しているようだ。ほとんどの店が正月休業をしている中で、開いているだけでもありがたい。
注文を済ませて、料理がやってくるまでの間に、いろいろと聞いておきたいことがある。
一夜を共にしておきながら、未だ互いの名前を知らない。
先ずは自己紹介から始めるべきだろう。
「俺の名前は尾鳥春樹だ」
「オトリ? 囮捜査の?」
「いや、鳥の尾と書いて『尾鳥』。春の樹で『春樹』、木は難しい方の漢字で書く。で、君の名前は?」
「饗庭、小夜。……饗庭で『饗庭』。小さい夜で『小夜』」
「じゃあ、小夜ちゃんと呼ぶことにする」
俺の提案に小夜は苦い顔をした。
「なんで下の名前で呼ぶのさ」
「外では親子設定で行かないとだろう。名字で呼び合うと怪しまれる」
「……『ちゃん』は抜きにして。寒気がする」
「じゃ、小夜……俺のことは何て呼ぶ?」
「尾鳥さん」
「お父さんかお兄さんだ。好きな方を選ぶといい」
「いやいやいやいや……待って」
耐えられないと小夜は机に突っ伏した。
「待って、ほんとに無理!」
――俺だってこんな偽装は恥ずかしい。
「逆サバ読んで私が二十三歳ってことにしてさ、もう付き合ってます設定にしよ? 家族のふりは無理すぎ」
耳まで真っ赤にして小夜は提案する。
「本当の年齢は?」
「十七……」
「逆サバも甚だしいな」
「メイクでいくらでもごまかせるから、お願い! 付き合ってる設定にして」
小夜は懇願するように俺の手に指を絡める。
ちょうど店員がやってきて、小海老とアボカドのサラダを運んできた。
つないだ手を振りほどくのも不審に思われそうなので、そのまま料理を受け取る。
「……付き合っている設定でもなんとかなりそうだな」
「でしょ?」小夜は安心したように言った。
「……あるいは兄妹に見えたか」
「それは絶対無理!」
サラダをつつきながら、互いの紹介は続く。
「気になってたんだけど、尾鳥さんって仕事してる?」
「おいおい、あの夜だって仕事してたじゃないか」
「え、待って。……あの夜って昨夜のこと? 公園でベンチに座って……なんかしてたっけ?」
「池を眺めてただろう」
「それが仕事?」
俺ははっきりと頷く。
「あれでお金が稼げるの?」
「いや、なにも変化が起こらなかったから報酬はないな。歩合制だし」
「ほんとに待って、え、……ヤバめな人?」
「失礼な、俺の職業は『周波数調整員』だ」
第二話 機械仕掛けの幻想 上
周波数調整員――二十二世紀の発達したAGIネットワークと浮遊バクテリア、そしてそれにより発生した霊素可視化現象の問題を解決するための組織。
裸眼での拡張現実投影を可能にした極微細コンピュータ――『浮遊バクテリア』は都市部を中心に大気中へと散布され、質量を持たないホログラム広告として活用された。緑化活動のデータ収集、高精度の気象予測、放射線測定など、あらゆる分野においてこの極微細コンピュータは役立てられた。
しかし、脚光を浴びた新技術が生活に定着してからしばらく経ち、重大な問題が発生した。
――浮遊バクテリアによる物質世界への侵食。
それは歴史上最大規模の人的災害となり、集団幻覚をはじめとした事件報告が相次いだ。
拡張現実が見せる幻覚によって、健常者がある日突然、精神異常者と変わらない状態に陥る。さらに、浮遊バクテリアは複数人に同一の幻覚を見せるため、組織単位での集団ヒステリーを引き起こし、社会を混乱へと導いた。
風化しつつあったカルト宗教やテロのような、理解不能の恐怖と混乱を、全世界に同時多発的にもたらしたのである。
具体的な対処法もないまま、人々は三ヶ月もの間、幻覚と共に暮らすことを余儀なくされた。当時の都市は、まさにゾンビ映画さながらのパニック状態だった。
天地が反転する幻覚により身動きが取れなくなった者。
肉体が腐り落ちる幻覚により発狂した者。
都市を徘徊する魑魅魍魎の目撃談――。
誰もが「幽霊を見た」と語り、日本ではこの集団ヒステリーを『霊素可視化現象』と呼んだ。
『地獄の門が開いた』と後世に語られるこの事件は、教科書にも早々に掲載された。
以降、ネットワークの管理は国際法で厳格に整備され、各国の政府によって統制されることとなった。
特に日本では、閲覧権限に応じた納税制度が導入され、現在ではインターネットの接続は携帯端末の納税クラスにより六段階に分けられている。
当時は大きな反発もあったが、アメリカ・EU・中国といった強国からの外交圧力も相まって、この流れを止められる者は、もはや存在しなかった。
お偉方はこの制度に肯定的だった。「行き過ぎたポピュリズムを抑制できる」とのことで、インターネット税制度を容認した。
何よりも、ネット接続を制限してからというもの、浮遊バクテリアの侵食が沈静化したことがその正当性を補強した。
そして周波数調整員は、なおも侵食を続ける浮遊バクテリアと、それによる霊素可視化現象の問題に対応する職業である。その母体は、主に葬祭業の企業。特に経営不振に陥った葬儀屋が新事業として参入するケースが多く、その背景から業界全体が「日陰者」扱いされやすい。
……大雑把に言えば、
『私たち周波数調整員は幽霊退治なのだ』
と、同期は言っていた。
言い得て妙だと、俺も思う。
❖
「周波数調整員……たしかに聞いたことあるかも」
小夜は俺の名刺を眺めて呟いた。
テーブルには注文していた料理がそろい、小夜は生パスタ使用のカルボナーラ、俺は特製ビーフシチューソースのオムライスを食べているところだ。
「浮遊バクテリアって、義務教育で習ったろ。中学あたりで」
「私が授業を真面目に受けてたと思う?」
小夜はパスタを巻きながら、肩をすくめる俺を横目で見た。
「で、なんでその周波数調整員なんかやってんの?」
「理由は二つ。一つは、前の仕事が全然稼げないウェブデザイナーだったから」
「ふーん」
「もう一つは、俺に適性があったこと」
「……てきせい?」
カルボナーラを頬張ったまま、小夜が聞き返す。
「周波数の適性。体内に流れる電気が特殊で、浮遊バクテリアとの親和性が高いんだ」
「……それだと、幻覚を見やすいってことにならない?」
「そう。幻覚を見やすい。この体質じゃないとこの仕事には向いてないんだ。例えば浮遊バクテリアが多く集まっている場所、これから霊素可視化現象が起こりうる場所があるとして、浮遊バクテリアに鈍い奴が調査にやってきても意味がないだろう? 違和感に気付けないんだから。
だから、影響が微弱なうちに感知できる体質の人間がいち早く駆けつけて、対処にあたる必要がある。昨日俺が公園にいたのも、そこに浮遊バクテリアの気配を感じたからだ。……気配って言っても、ほんのわずかな見間違い、幽霊を見たような空目を見分けなきゃいけないから、なかなか難しいんだけどな」
俺は饒舌になっていることを自覚して、彼女を置いてけぼりにしている事に気付いた。
そもそも、こんな日陰者の職種に興味はないかもしれない。
「要は、変人は周波数調整員に向いているってことだな」と、話題を切り上げた。
「何でこんな話になったんだっけ?」
「名前を聞かれて、職業を聞かれたんだよ」
「次は何が知りたい?」
「そうだな……小夜の家が、いつから問題を抱えるようになったのか」
薬物依存はどれくらい常習的なものなのか、それによって彼女が抱える問題の根深さがわかるかもしれない。
「多分、おばあちゃんが亡くなってからかな」
「何年前だ?」
「十四年前……だと思う。私が二歳のとき」
「そうか」
なるほど。俺は顔には出さないように努めたが、かなり絶望した。
おそらく祖母の収入や年金を当てにして生活していたのだろう饗庭家の両親は、かなり根深いところから腐っている。
小夜にとってはそれが日常であり、親の異常性を正しく認識できていない可能性が高い。
――どうしたものか……。
児童相談所に連絡するのはやはり避けられないと思うが、今の関係性、俺に対しての信頼を簡単に壊してはいけないような気もしている。俺が通報することで家庭を失い、さらに誰も信じられなくなってしまっては、彼女の将来は闇だろう。
可能な限り親から隔離しつつ、小夜との信頼関係を築いて、彼女を更生させてあげたい。……であれば、安全な夜を、もっと楽しい日々を、小夜にも味わわせてやれないだろうか。
「さて、昼飯は食べ終えたが、デザートはいるか?」
「大丈夫。次はどこ行く?」
さして考えなくても用事は思い浮かぶ。
出かけるための服を調達したい。
「……少し電車に乗って移動するか。ユニクロにでも行こう」
ファミリーレストランの会計を終え、俺たちは東伏見駅で西武新宿線に乗り、高田馬場まで移動した。
「小夜の親とばったり鉢合わせないかな」
「いるわけないよ」
「何でわかる?」
「仕事に出てるはずだし、お母さんも外には出たがらないから……」
含みのある言葉と表情の翳りを見て、何となく追求するのは避けた。俺としては大きな駅のある繁華街は違法薬物の売買を行っていそうだと考えたりもするが、詳しいわけではない。入手経路はきっと別なのだろう。
駅前の商業ビルは三が日の時短営業もなく、むしろ福袋や初売りセールで賑わっていた。今年は元旦から陰鬱な気分が続いていたので、これほど陽の気が集まる所にいると人酔いしそうだ。
「私こういうところ苦手、早く買い物済ませちゃお」
「意外だな。若い女はこういうところ好きなもんだと思ってたが」
「全然。……いろんな人がいると、なんか、ぐるぐるする」
小夜も人酔いする側の人間らしい。
俺はユニクロで女性用の上着とシャツ、そしてボトムスを二着ずつ買い揃え、付き合っていると見せかけるための化粧道具も同じ商業ビル内のコスメショップで探した。
化粧品の知識がないため、商品選びはすべて小夜に任せ、俺は後ろについて歩き、会計をするだけだ。
――やっていることは援助交際そのものだな……。
そう我に返って、すこしぞっとする。
小夜には悪いが、デート紛いの外出は二度とごめんだと心底思った。
「周波数調整員の仕事って、必ず夜じゃないとダメなの?」
「そんなことはないが、人前で幻覚を見るのはお勧めできない。変動給制だから、報告書さえきっちり出せば好きな時間に働いていい」
とはいえ依頼があれば相手の都合にも合わせなければならないが。と心の中で付け加える。
「報告書に嘘を書いたら?」
「バレる。上から支給されるものはいろいろあって、例えば携帯端末も会社から支給されたものだ。仕事の量や質は筒抜けだ」
「昨日の公園は? 手柄がないからお金もらえないの?」
「そういうわけでもない。『幽霊』を相手にする仕事だから、警戒して監視していたのならそれも報告書を書く。なにか普段と違う出来事が起きたら調査するし、その結果浮遊バクテリアの処理ができたら実績報告して歩合が支払われる」
「じゃあ、私にしつこく話しかけてきたのも、調査のつもりだった?」
「じっと見つめていたのは確かに調査の一環だ。あんな夜中、しかも元旦に黒いセーラー服の小夜が現れたなんて幻覚だと思うだろう。でも、実在する人間だと分かったから、挨拶したんだ。じっと見つめ続けた後に無言のままじゃ不審者扱いされかねないから」
「なるほどね」
小夜は納得して小刻みに頷く。
商品棚に陳列されたイエローカラーのサングラスを試着して、鏡を確認する。
目を隠すだけでも年齢はごまかせそうだ。
少女はお洒落な鎧を身に纏い、大人の世界に溶け込むのだろうなと思った。
「尾鳥さんについていけば、夜に幽霊が見れるの?」
「見れる……かもしれない。小夜の体質が浮遊バクテリアに敏感なら、俺が経過観察している場所に案内できる」
「経過観察?」
小夜はそう言ってサングラスをつけたまま振り返る。
年齢も誤魔化せるだろうし、よく似合っていた。
「微弱な拡張現実発生地が東伏見公園にある。今やっている仕事は女の子の幽霊だから、仲良くなれるかもな」
「本当!?」
小夜は幽霊が見られると聞いて目を輝かせた。
もしかしたらいい刺激になるかもしれない。
「ついてくるか?」
「うん行きたい」
「深夜に調査するから、出勤に備えて昼寝しよう」
「じゃあ、今日は帰ろ?」
「そうしよう。……そのサングラスも買っておこう」
俺は小夜の更生の糸口が見えたことに浮かれ、サングラスを持って会計に行った。値段は二万三千円。
値段を確認しなかった俺が悪いが、予想以上に高かった。最後の最後で痛い出費だが、不思議と後悔はなかった。
❖
夜。
仕事の時間である。
「昨日の公園じゃないんだね」と、後ろをついて歩く小夜が言う。
「あそこは武蔵関公園。今日は東伏見公園の方に行く」
マンションを出て東伏見駅を西武柳沢方面に進むと、左側に鳥居が現れる。
道路に跨る赤い鳥居を潜り、東伏見稲荷参道を真っすぐ歩いていけば目的の公園にたどり着く。
時刻は深夜二時。小夜のような未成年は本来出歩いてはいけない時間だ。
まだ肌寒い風が吹く今夜、彼女は買ったばかりの服を着こんで、上着は俺のアウトドアパーカーを羽織っていた。
「なんか公園ばっかり行くね」
小馬鹿にしたような視線で問う。寝床を探すホームレスと行動圏が被っているが、俺はちゃんと帰る家があるし、働いている。それを証明しなければ。
「この地域には武蔵関公園と東伏見公園、あと武蔵野中央公園の三つがある。その地点を線で結ぶと三角形を描く」
「都市伝説にありそうだね」
「そして公園の一つが神社なのも大きい。……これらによって幽霊、拡張現実と呼ばれる浮遊バクテリアが集まりやすい土地になっているんだ」
「たしか、周波数に感応して浮遊バクテリアが空間投影する……それが幽霊の正体なんでしょ?」
「そうだ。浮遊バクテリアが大気中にネットワークを構築し、それが土地や人間から発生する微弱な電界の影響を受けて霊素可視化現象が引き起こされる。世界集団幻覚事件の当時は、張り巡らされた古いネット回線と極微細コンピュータのネットワークがぶつかり合って混線した」
俺は続ける。
「だから今では国営の極微細コンピュータの回線だけを残して、古い規格のネット回線は全てサービス停止してる。混線が解消したことで集団幻覚は起きなくなった。
だけど、ネットを規制された今も幽霊は現れる」
「なんで?」
「国営だとしても、極微細コンピュータは浮遊バクテリアと同じものだからだ。何かしらの原因で混線が発生すれば、霊素可視化現象が起こる」
「ん……? まって、それなら国営のネットワークを管理してる仕事ってこと? 公務員なの?」
「公務員ではないな。周波数調整員は民営企業だ」
「稼ぎは良さそうだけど」
「……どうだろうな、今はインフラが整いきっていないから歩合がいいだけで、この浮遊バクテリアバブルが弾ければ、稼げない仕事になると思う」
小夜は少し残念そうな顔をした。簡単に稼げる仕事だと思ったのだろう。
実際うまくやれば相当な報酬が得られる。俺の同期にもかなり羽振りがいい奴を一人知っているが、あいつは幽霊退治としてかなり危険な仕事を任されている。そうなると楽して稼げるわけではない。
「それで、幽霊を見るにはどうしたらいいの?」
「昨日と同じ。じっと待つ」
「ふぅん……ここが待ち合わせ場所ってことね」
❖
時刻は三時になった。
西東京市は都心部から外れているとはいえ、遠くには眠らない光がぽつりぽつりと四方を囲んでいる。
公園を縦断する千駄山ふれあい歩道橋の下にある西武新宿線を電車が走る。
俺たちは歩道橋の隣に面した木造デッキへ上がり、欄干に凭れる。背中に触れる金属のひやりとした温度が少しずつ馴染んでいく。
「……何も起きないよ」小夜が手のひらを擦り合わせながら寒さに耐えている。
「俺ほど敏感ではないみたいだな」
「尾鳥さんにはもう見えてるの?」
「ああ。小夜にも少しずつ見えてくるはずだ」
俺は木造デッキの中央を指差す。
そこにはぼんやりと明るい煙のような、夜闇に馴染まない白い粒子の集合体がある。空間にホログラムを展開し、立体投影の絶えず変化するフラクタル図形を描きながら、人の形に近付いていく。
「……あ、うそ……見えてきた……」興奮を押し殺しながら、小夜は「見えてきた見えてきた」と繰り返す。
「やっほー囮。お待たせー」
浮遊バクテリアの立体投影が女の子の姿に固定され、デッキに立つ。
見た目は十四歳ほどだろうか。小夜より背も低く幼く見える。
髪は短く、肩にかかるあたりで切りそろえられている。
病衣を纏い青白く光って見える様はまさに幽霊。
名前は杵原真綸香という。
「おう。だいぶ待ったぞ」
「え? 話せるの?」
小夜は年齢相応の無邪気さで幽霊に興味を示すが、俺から離れず、近付こうとはしない。
「そりゃ話せなきゃ仕事にならない」
「見ない顔だね、誰さん?」
杵原は俺に近付いて服を引っ張り、説明を求めた。小夜は身を隠すように背中に回る。
「訳ありで保護してる家出娘だ。名前は本人から」
「あ、えっと」小夜は戸惑いながら杵原と俺を交互に見て「饗庭小夜です」と短く名乗った。
「初めまして。僕は杵原 真綸香。訳あって死ねない女の子だよ」
破顔一笑。
小夜は俺に視線を送る。
いざ幽霊を目の前にすれば、動揺もするだろう。
「そうだな、仕事内容から改めて説明しよう」俺は杵原と小夜から離れ、二人の前に立つ。「今日の仕事は『不死の帯域:杵原真綸香』の観察。及び話し相手になること」
「うむうむ」杵原は頷く。
「そんな仕事だっけ?」小夜は首をかしげる。
二人は正反対の反応をした。
「確かに昼の話しとは違うな。『この仕事は基本的に幽霊退治』だと言ったが、浮遊バクテリアを乱暴に追い払う仕事じゃない。
彼女……杵原真綸香は、肉体が植物状態となった今も、意識だけを周波数帯域に残している稀有な例で、何故そうなったのかは……言わない方がいいか」
「いや、別に隠すことじゃない」
杵原は言葉を継いだ。
「簡単な話だけどね、修学旅行のバス移動で交通事故に遭って、死にきれませんでしたー」
「……って感じだ。調査資料によると――」
「ま、待ってよ」小夜は俺の説明を遮る。「急にいろいろ言われてもわかんないって! えっと、不死の帯域って何なの?」
「それを説明するには、通常の帯域から話さないといけない。
普通の死者のケースで行くと、霊素が浮遊バクテリアと感応しても一夜限りしか持たない。真綸香は浮遊バクテリアが形成するネットワークの中でも『不死の帯域』と呼ばれる周波数にとどまり続ける。幽霊でいうと地縛霊のことだ」
小夜は眉間にしわを寄せながら「なるほど」と呟く。
「何で杵原さんだけ死にきれなかったの?」
「そこで、調査資料だ」俺は携帯端末を操作する。「事故現場は福島県の山道で、対向車と修学旅行のバスが衝突。……そのままバスはガードレールを突き破り崖から落下。死者は杵原を含め十五名の生徒、その他は重軽傷の大事故だ」
「私は崖下の川に落ちて、水深が深いおかげでまだ死んでなかった」杵原が補足する。
「川に転落し意識不明の杵原は病院で治療を受けたが、大脳は外傷と低酸素によるダメージを負った。植物状態で、身体は今も生命維持装置に繋がれている」
「ここから憶測だけど、その生命維持装置のネットワークに感応した僕の意識が浮遊バクテリア側に移動して、意識だけが特定の周波数帯域に留まり続けたみたい」
「……はー……」小夜は理解が追い付いているのか怪しい返事をした。
「どう、どう?」杵原は無邪気に詰め寄る。
「いや、どうって言われても……! てか、死んでる割に明るいな……!?」
「今じゃ生きてた年数より、幽霊としての年数が長くなっちゃった」
杵原は笑う。
「今何歳だっけ」
「人間で十四歳と地縛歴十五年。合わせて二十九だけど、四月まではぎりぎり二十八歳」
「あ、新年だもんな」
「……はあ、なんかすごい疲れた」小夜は目の前の幽霊に生気でも吸い取られたかのようにデッキにしゃがんだ。「……ちなみに尾鳥さんは何歳?」
「俺は二十五」
「年下だった……」
小夜の言葉に杵原は慌てて取り繕う。
「いやいや、僕は永遠の十四歳だから」
❖
その後も小夜と杵原が雑談に花を咲かせる。
やはり女同士だと話題は尽きないのか、杵原はいつもより饒舌で楽しそうにしていた。小夜も初めこそ人見知りのような態度だったが、早くも打ち解けている。
俺は二人の時間を邪魔しないように、少し離れたところに腰を落ち着かせて会話ログを携帯端末に記録していた。
音声入力のため、データは膨大に膨れ上がっていく。
饗庭「杵原さんは姿を消してる間どこにいるの?」
杵原「うーん……ネットワークの中にいる、気がする」
饗庭「気がする?」
杵原「夢というより、ブラウジングしてる感じなんだよね。いろんなサイトの情報を泳いでるみたいな」
饗庭「昼間はネットサーフィンしてるってこと?」
杵原「うん。サーフィンしてる。今日は外国のニュースと料理動画だったかな。すごく美味しそうで……体が在ったら食べたいもんだよ」
饗庭「それってどんな料理?」
杵原「チェルノブイリゾット」
饗庭「聞いたことないな」
杵原「お皿が光ってて奇麗だったー」
――ガイガーカウンター案件だろ。
俺は心の中で突っ込んだ。
饗庭「地縛霊になってから、尾鳥さん以外には会った?」
杵原「ううん。親に会いに行こうかなって思ったけど無理そうだし、見えない人に近付いても浮遊バクテリアが崩れちゃうんだよね」
饗庭「私は平気? 触っていい?」
杵原「……平気みたい。見える人ってやっぱり何か違うんだね」
饗庭「めっちゃべたべた触るじゃん! なんかピリピリする」
杵原「触ってる側も痺れるねこれ……バブみたい」
――入浴剤かよ。
❖
「尾鳥さんとはどんな話をするの?」
小夜は雑談もそこそこに、少し真面目な話題に踏み込んだ。
「んー、僕もいい年だからね、饗庭ちゃんには言えないかな」
「え、そんな話してるの……?」
俺は携帯端末の文字を目で追いながら「永遠の十四歳じゃなかったか」と割り込む。
杵原は聞いていないふりして小夜の耳にそっと呟く。こちらには聞こえない声でなにか伝えたようで、小夜は信じられないと言いたげな顔で俺を見た。
「意外と初心だね。かわいい」
「あんまり小夜で遊ぶなよ三十歳」
「二十八!!」
今日一番の大声が杵原から発せられた。
これだけ盛り上がっている会話も、見えない人には聞こえないのだ。
せっかく小夜が仕事の話に戻してくれたので、俺も会話に参加する。
「普段はもっとつまらない話ばかりだ。不死の帯域にいる別の幽霊の情報とか」
「杵原さん以外にもいるんだ?」
「報告があるのは二つ。杵原を含めると三人いるわけだ。資料によれば、他の二名も好き勝手に暮らしてるらしい」
「どんな風に?」と言う小夜の横、杵原は少し心配そうに目を細めた。
「あんまり気分のいい話じゃないぞ」
「いいよ」小夜は俺の警告を意に介さない。
「怖い話になるよ」杵原が念を押して確認する。
「頑張る」
小夜が言うと、杵原はそっと手をつないだ。
俺は資料を読み上げる。
「不死の帯域:佐藤太郎(本名不明)」
――経緯、借金苦により飛び降り自殺を試みたが失敗。
病院で一命を取り留めたが頭骨の陥没骨折と半身麻痺に苦しみ、一時帰宅の際に服毒自殺を試みたと推定される。
調整員発見時、佐藤太郎の醜形と呪詛に影響され、調整員本人も自殺衝動に駆られるが、幸い同行していた他の調整員によって止められる。
「彼は現在も服毒自殺を行ったアパート内にて死ぬ方法を模索している。新たに入居者を入れることができないため、経過観察を任された調整員は常に複数人で対応している……だそうだ」
俺は資料の一枚目、概要を読み上げたところで止めた。
後に続く報告書の数ページは不死の地縛霊となった佐藤太郎氏の傍迷惑な自殺奮闘記が書き連ねられていたので読む気にはならなかった。
「死にたがりな不死なんて大変だね」杵原はあえて軽口を言う。
「もう一人は?」と小夜。
「もう一人は事例が特殊すぎて、厳密には不死の帯域とは別件な感じだ」
――まあ、この報告書を提出したのが業界内でも一癖も二癖もある奴だから、こんな荒唐無稽な報告書でも今更驚かないが。
「また嫌な話になる?」
「いや……昔話みたいな感じだな」
俺はその報告書を読み上げる。
「ええと、『不死の帯域:封月灯』……」
それは特異体質家系の娘が生み出した存在で、もとより死者ですらない。妄想が浮遊バクテリアを介して具現化した事象を不死の帯域に分類したという、やはり荒唐無稽な昔話めいた案件だった。
小夜のおかげで杵原との経過観察はだいぶ楽に済ませることができた。
空はうっすらと白み始め、携帯端末を確認すると退勤時間が迫っている。
「もう朝だな」
「今何時ー?」杵原は背伸びをして空に浮遊する。
「五時。経過観察は順調そうだな」
「ねぇ尾鳥さん」小夜が問いかけた。「この経過観察って最終的にどこに向かうの?」
「……さぁ?」
「『さぁ?』って、不死の地縛霊なんでしょ? 杵原さんはいい人だから問題ないかもだけど、佐藤太郎案件は何かしらの解決をするんでしょ?」
「不死の帯域は前例が少ないからな。対処法は特に決まっていない」
「じゃあ杵原さんはどうなるの?」
小夜の問いに俺は答えられない。
「僕は神にでもなろうかな」
重苦しい空気になる前に、杵原はそんなことを言う。
「ほら、ちょうど神社も近くにあるし、神になってあそこに住むよ」
「……不死には可能性と時間があるからな、頭ごなしに否定は出来ない」
もしかしたら浮遊バクテリアを介して遠い未来に顕現するかもしれない。
「饗庭は?」
「え?」
「これからどうしたいのか、目標だよ」
杵原は問い返す。未来のこと。将来のことを。
「うーん。……目標か……」
饗庭は欄干に肘を置いて街を眺める。
「尾鳥さんと会って、まだ二日しかたってないのにいろいろなものが見れた。視界が開けた気がするんだけど、まだ先のことはわかんないや」
「……つまり?」
「つまり、もっといろいろなものを見たい。それが目標かな」
小夜は振り返り、俺を見つめる。
最初にあったときとは別人のような、微笑みの柔らかさ……。
「いいじゃんいいじゃん」杵原はにっこりと笑う。「囮の目標は?」
「俺か? ……そうだな――」
「私の第一シンパかな?」
「それはない」
俺と杵原が笑う。
「そういえば、杵原さんが尾鳥さんを呼ぶときの発音って変じゃない?」
「あぁ、仕事では『囮』って名乗るからイントネーションが違うんだ」
「何で囮なんて名乗ってるの?」
「調整員は面倒事に首を突っ込む仕事だけど、俺は面倒事に巻き込まれる体質なんだよ。だから職場内で囮って呼ばれ始めて、職場ではそう名乗ることにした」
「囮は夜に公園にいるだけで仕事が舞い込むもんね」
「へぇ……いいな……」
小夜は羨ましそうに俺を見た。
会話を遮るように始発電車が走り抜ける。仕事上がりの時間だ。
「よし、俺たちは帰る。じゃあな」
「じゃあまた。……饗庭ちゃんはまた来るの?」
「本人次第だな」
「私はまた来たい」
「じゃあ決まりね」
こうして、不死の帯域:杵原真綸香は朝日に溶けていった。
第三話 告白/酷薄 上
瀬川忍。
義務教育から高校までの学生時代を共にした同輩。女性。
同窓会に顔を出したことは一度もなかったが、噂では大学進学後に就職せず、そのまま入籍したと聞いていた。
――俺の、叶わぬまま潰えた初恋の相手だ。
そして、彼女が今、目の前にいる。
武蔵関公園の公衆トイレ近くの休憩所。蔦が這うそのベンチに腰を下ろした俺は、街路灯の光を浴びる少女と向き合っていた。
不気味なまでに静かなその姿。顔を見た瞬間、記憶が鮮やかによみがえる。
瀬川もきっと、俺のことをわかっていてここに来たのだろう。
「尾鳥君、でしょ……」
「瀬川忍、だよな……驚いた」
思い出の中の彼女と、数年ぶりに再会した彼女は――何も変わっていなかった。
今夜、饗庭小夜はいない。三日に一度家に帰るという約束通り、一時的に帰宅している。
状況を思えば、案外運がいいのかもしれない。
俺は息を呑み、努めて平静を装った。
「……まず、その包丁を下ろしてくれないか」
距離はおよそ三メートル。瀬川は包丁を握ったまま、まったく動かない。
十七歳のまま時を止めたような彼女は、内面だけが月日を重ねたように、どこか異様な雰囲気を纏っていた。
これは喜ぶべき再会ではない――そう確信していた。
瀬川は俺と同じ二十五歳のはずだ。ならば今目の前にいるこの少女は、いったい何なのか。
「久しぶりね」
右手に握られた包丁は、赤黒く濡れていた。血だ。――冗談では済まされない。
「……そうだな。高校卒業以来、だろ」
「いえ、五年ぶりよ。成人式で見かけたわ」
瀬川と意見が食い違ったことに俺は動揺する。
「すまない、どうにも成人式で会った記憶がない」
「ふふ。落ち着きなさいな。私が一方的に見かけただけだから」
「なんだ……声をかけてくれたらよかったのに」
笑ってみせたつもりだったが、息が乾き、唇がひび割れる。たぶん、うまく笑えていない。
そんな俺を見て、瀬川はくすくすと笑った。弄ぶように、手元の包丁をくるりと回す。
光が反射して、俺は思わず身を引く。
逃げる隙は――ない。どうやっても彼女が上だ。
彼女の姿も、包丁も、態度も。すべてが常識から外れていた。
「……困ったな。俺はどうしたらいい?」
ついに取り繕うのをやめた。目的が見えない。
「別に、何もしなくていいわよ」
俺は腰が抜けたように立ち上がれずにいた。瀬川はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。
「とりあえず、包丁は捨てましょうか」
「え――」
腕が振り上げられた一瞬、反射的に身を固める。
しかし痛みは来なかった。
――彼女は、背後の池へ包丁を放り投げただけだった。
どぽん。
水音が静かな夜に響く。
「本当に、久しぶりね。尾鳥君」
そのまま俺の隣に腰掛け、顔を寄せてくる。唇が触れそうな距離に心臓が跳ねた。
恐ろしいはずなのに、目の前にいる瀬川は――あの頃と、同じ顔をしていた。
高校を卒業して、もう何年も経った。初恋の甘さもほろ苦さも、とうに色あせていたはずなのに。
「……瀬川、なんだよな? 今いくつだっけ……」
「十七よ」
「それは……なんで?」
彼女の異様な若さ。説明を求めるしかなかった。
「……聞きたい?」
そう言って、瀬川は俺の目を覗き込み――そして、唇を奪った。
❖
自動販売機に硬貨を投入する音が聞こえる。商品を選択して、間の抜けた電子音と共に飲料缶が取り出し口に落ちる。
夜間照明に照らされながら缶を拾い上げる瀬川を、俺は茫然と眺めていた。
少なくとも今の瀬川は包丁を持っていない。その上両手がふさがった状態で、俺の座るベンチとは距離もある。……だが、逃げ出す気になれなかった。
ここで逃げても、瀬川は俺を追い詰めるだろう。住所を把握されているかもしれない。
なにより、彼女の若返りの秘密をこれから話してくれるというのだ。
『聞きたい?』と問うていた瀬川の暗い瞳が脳裏に焼き付いている。本当に恐ろしい目をしていた。人殺しの境地に達した者の、悟りにも似た深い闇を見た。
これから彼女が語るであろう出来事は、きっとあの包丁にも関わっているだろう。――俺はそう直感している。
「尾鳥君ってコーヒー飲めたかしら?」瀬川は缶コーヒーを一つ差し出した。
「ブラックじゃなければ」
「よかったわ。はい、モーニングショット」
――なぜ朝専用……?
瀬川は俺の隣に腰掛けて開栓すると、コーヒーを一口飲む。ちなみに彼女が飲んでいるのはカフェオレだった。
「女友達だけの集まりがあってね、『そこだけでも顔を出して』って、外で待っていたの」
「……ああ、……成人式のときか」
何の話をしているのかすぐにはわからなかった。
どうやら会場の外で待っているとき、俺を見かけたのだと言いたいようだ。
「懐かしかったわね。私は大学卒業してからすぐに結婚してしまったけれど、五年ぶりに会うとみんなすごく奇麗になってたわ。仕事もバリバリこなす人生を歩んだり、想像もつかない進路へ進んだ人もいて、……人生って不思議よね」
「そうだな」聞き役に徹しながら、缶のプルタブを開けて口をつける。
「尾鳥君って私のこと好きだったでしょ」
「ごは――っ」俺はコーヒーをのどに詰まらせて咽る。
「人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに」
「……高校時代に、脈があったとは思えないが」
目の前の瀬川を見ると鮮明に思い出す。そして彼女の美貌は大人になった俺の目から見ても間違いない。
「俺には手の届かない、高嶺の花だったよ」
「それでも勇気を出すべきだったわ」
「勇気を出せば付き合えたか?」
少しだけ可能性を信じてみたくなって、俺は問うてみる。
瀬川は即答せず、カフェオレ缶を両手で包み、しばし黙した。
細い爪が小気味良く缶を叩く。
「……だめね。お断りしていたわ」
――駄目じゃねぇか。
「それでも、連絡先の交換くらいはできたと思うわよ。卒業してからも、友人でいられたかも」
「いや、残酷すぎだろ!」俺はつい声に出してしまう。「大学に行って彼氏ができるんだろ? 卒業後に結婚するんだろ? 友人の立場で手も足も出ないなんて、そんな世界線はごめんだね」
「確かに、そうかも」瀬川は納得する。
「この話って今の瀬川の問題と繋がってるのか?」
できることなら本筋に戻ってほしい。俺にはこの話題がただの懐かしい思い出話にしか聞こえなかった。
しかし瀬川は首を振る。
「ちゃんと繋がっているわ」
「……それなら、まあ」
俺はもう少し話を聞くことにした。
自他共に認める巻き込まれ体質なのだ。
この異変だって、仕事に繋がるはずである。
「その女子だけの集まりでね、尾鳥くんの話題が出てきたのよ」
「俺の?」
「『絶対瀬川のこと好きだったよね』とか、『態度に出てたからバレバレだった』とか。結構盛り上がったわよ」
「やめてくれ」
「尾鳥君は血液型Bだったかしら? 態度に出やすいらしいわよ。ゴリラと一緒ね」
「勘弁しろよ……」
――陰で笑うのはいい。本人に垂れ込むのはどういう了見なんだ……。
「今は周波数調整員なんですってね」
「……!」
急に本題に繋がった。
――おいおい、こいつの会話のハンドルさばき荒すぎるだろ……。
「俺が調整員だから、会いに来たのか?」
「逆よ。調整員が尾鳥君だから、会いに来たの」
「……違いあるか?」
「あるわ。ちゃんと繋がってる」
月明りに照らされる十七歳の瀬川の顔が俺を見つめる。
まるで吸血鬼のような、永遠の若さ。
……いや、違う。
歳はちゃんと取っている。成人式で女子だけの二次会に行ったのなら、瀬川はちゃんと大人になっていたはずだ。
何かしらの異変を経て、瀬川の時が戻っている……。
「十七歳に戻ったのは、何が原因だ?」
「聞きたい?」
瀬川は再び同意を求める。
ふざけているのではない。俺の覚悟を試しているんだろう。
「聞かせてくれ。こう見えて俺は周波数調整員だからな」
❖
「夫を殺したのよ」
瀬川は薄笑いを浮かべてそう言い、カフェオレを啜った。
聞いたからには後戻りができない話題だ。しかし出会い頭に見せつけた包丁から、覚悟はできていた。
危険な夜だ。
小夜がこの場にいないのは本当に幸いだった。
「大学時代に付き合った男か?」
「ええ。結婚生活は順風満帆そのものだったわ。なんの不満もない日々だった」
「それは結構なことで」
俺はコーヒーを呷る。
初恋相手の口から聞かされると妙に耳障りが悪かった。
器の小さい男だと、自分が少し嫌になる。
「ならなんで……包丁なんか……」
「人生は不思議なものよ。順調な時でも油断ならないわ」
瀬川は忘れていた怒りを思い出したように目つきを鋭くして、ベンチから立ち上がるとブランコに移動した。
揺れる座面の砂を払い、きぃきぃと体を揺らす。
「『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は、精力的に働いてくれていたわ。私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で……暗雲を呼び込んだのは、私のほう」
俺は無言で続きを促す。
瀬川はしっかりした女性だ。家庭に不和を持ち込むような人間ではないと知っている。いったい何が起こったのだろう。
「子宮内膜の悪性腫瘍……つまりは癌よ。夫の思い描いていた未来を私が壊してしまったわ。『二人で乗り越えよう』なんて、表面上ではいつもの笑顔でも、心が遠のいていくのを感じた」
そして暗雲は雨を呼び、二人の歩む道は泥濘に変わった。
「あの日のことは忘れもしないわ。私が癌を発見して数ヶ月、通院から疲れて帰る日のことよ――」
夫の姿を見つけたの。
私は声をかけようとして、すぐにおかしいと気付いたの。
『今日は仕事で夜遅くなる』と言っていたのよ。なのに、昼過ぎに街を歩いているなんておかしいでしょ?
隣にいる親しげな女性を見て、私は眩暈がした。
どうか会社の後輩でありますように。
取引先の女性でありますように。
お昼休みでありますように。
ラブホテルに消える二人を、私はただ見送ったの。
私はその光景に気をやられたような、どこか心をなくしたような気分になって、眩暈に導かれるように歩き始めた。
どこに向かっているのか自分でもわからなかったけれど、大学時代の通学路だと気づいたわ。
一歩、また一歩と足を動かして、青春の日々が鮮明に蘇るのを感じた……いえ、走馬灯だったのかも。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は、次々と色褪せて消えてゆく。
そして悟ったの。もう思い出すこともないんだって。
大学正門前にたどり着くと、そこにもう一人の私がいたわ。
というより、二十五歳の私が待ち合わせしていたようにそこに立っていた。
気付いた時には、私は十七歳の体に戻っていたのよ。
❖
「私達は全てを共有していたわ」
二十五年の人生のすべての経験を、共有していた。
複写されたドッペルゲンガーとの邂逅が、瀬川を動かした。
「つまり……」俺は真相に辿り着く。「十七歳の瀬川が殺人を実行して、すべての罪を二十五歳の瀬川が背負ったんだな?」
「惜しいわね」瀬川はブランコに揺られるのを止めて、俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた瀬川は、殺人の容疑者として警察に追われているわ。そういう意味ではすべての罪を背負っているわね」
「捕まらずに逃げているのか?」
瀬川は否定する。
「違うのよ。きれいさっぱり消えたの」
目的を達成したドッペルゲンガーは砂のように崩壊して、大気に溶け消えた。
浮遊バクテリアのように。
「十七歳の瀬川だけが残った、と……」
俺は経緯を把握したが、目の前の若い瀬川の謎を解決できない。
浮遊バクテリアがドッペルゲンガーを形成するのは理解できる。
だが、生きた人間が若返る超常現象は初めて見る。
「なんでこうなったのかはわからないけど、私の話せることはすべて話したわ。……最後に、私が会いに来た理由もわかるかしら?」
瀬川はブランコから立ち上がり、カフェオレの最後の一口を飲み干した。
「俺が周波数調整員だってことを思い出して、ドッペルゲンガーの原因を調べてもらおうとした?」
「ちがうでしょ」
瀬川は俺の前に立つ。
唇を舌で湿らせて、再びキスをする。
絡めた舌は暖かく、ほのかに甘い。
生きている体だ。
瀬川は幻想ではない。
「十七歳に戻った意味は何だと思う?」
「け、警察の捜査から……逃れるため」
「わからず屋ね、忠告するわよ尾鳥君。鈍い男はチャンスを逃すわ」
初恋当時の姿で厳しいことを言われると、俺は立つ瀬がないほど傷ついてしまう。
――いや、初恋……そうか。
『人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに』
『調整員が尾鳥君だから、会いに来たの』
「ちゃんと、繋がってる……」
俺は天啓を受けたかのように呟いた。
瀬川は満足そうに頷いた。
「ま、まて……! 俺の意志は――」
「初恋が叶うのよ? 喜びなさいな」
初恋なんて、風化させておくものだ。
今更墓暴きのように掘り起こしても、輝きは取り戻せない。
「分岐点からやり直せると思ってるのか!?」
「なんの問題もないじゃない。体は穢れを知らないあの頃のものよ」
瀬川は俺に跨り、蠱惑的に視線を細める。
美しい思い出から掘り起こされた若い体が誘惑する。
しかし心だけは、俺より何枚も上手だ。
「再燃してくれないかしら?」
白状しよう。俺は彼女との再会に心を奪われてしまっている。
危険な女だと理性ではわかっている。
わかっているのに……甘い夢を見ているようで、抗えなかったのだ。
「……わかった……考える時間をくれ……」
なんとか絞り出した言葉だった。
問題の先送り。
殺人犯を街に泳がせるなんて、正気の判断ではない。
しかしどうすればよかったのだろうか?
十七歳の瀬川忍は殺人の容疑者ではない。
今の日本で、世界で、彼女の完全犯罪を暴き、捕らえることができる人間はいないのだ。
手ごたえのある答えを引き出せた十七歳の瀬川は、武蔵関公園から立ち去る。
別れ際に言い残す。
「叶わなかった恋を成就させる。私たちはいい返事を期待しているわ」
分岐点からやり直すこと――それが二人の瀬川の悲願なのだ。
第四話 龍を追う者
時刻は八時。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝日を他人事のように眺め、俺は今日の報告を書き上げる。薄暗かった室内はすっかり明かり要らずで、俺は手元のリモコンで間接照明の電源を切った。
脳内は血に汚れた包丁のイメージが焼き付いていた。しかし同じくらい瀬川と交わした唇の感触がまだ残っている。
恐怖と快楽という強烈な二つの体験が結びつき、こんな時間になっても目が冴えている。
「考えるったってなぁ……」
ため息が漏れる。
瀬川は扱いきれない女だ。
例え殺人を抜きにしても生きている世界が違う。
持ち合わせた美貌と才覚。人間力とでも呼べるものが俺とは吊り合わない。
「どうしたもんか……」
腕を組んで書き上げた報告書を眺めていると、不意に携帯端末が振動した。
俺は心臓が飛び出るほど驚いて、慌ててロックを解除する。
メッセージの受信通知。
貝木からだ。
『お疲れ様です。
多分まだ寝てるかな?
急だけど情報共有。
龍の出現予測が発表されたから飲みに行こう。
今日の十八時に新宿駅東口に集合ね。
強制です。時間厳守!』
「げ……」
メッセージを開封したのは悪手だった。
開封通知が貝木の携帯端末に表示されてるだろう。
まだ返信をしていないのに貝木から連続でメッセージが届いた。
『見たな』
……恐ろしい。読まずに眠るべきだった。
急な予定が入るのは面倒だが、相手が貝木となると無下にできない。
それに、『龍』についての情報は是非とも手に入れたい。俺はせめてもの反抗としてメッセージには返信せず、目覚ましのアラームを十六時に設定して目を閉じた。
――小夜も連れて行こう。
身を休ませているとそんな考えが思い浮かんだ。
『龍』の事を伝えれば、きっと目を輝かせてくれるだろう。……まだまだ知らない世界を見せてやりたい。
そんな、庇護とも慈愛とも言えない気持ちが湧いてくる。
俺は親代わりにでもなりたいのだろうか?
❖
今朝は夢も見ずに眠った。
俺は身体を揺すられていることを感覚する。
「尾鳥さん? ……なんか目覚まし鳴ってるけど、起きなくていいの?」
小夜の前ではそれなりに大人の振る舞いをしてきたつもりだったが、昨晩の疲れが抜けていないのか、だらしない姿を晒してしまっている。
「いや、……起きなきゃならん……」
涙腺がうまく働かず、乾いた眼がなかなか開かない。
「すまないな、昨日は忙しかったんだ」
「べつに謝ることないでしょ。起きなよ尾鳥、アラーム止めて」
言われるがままもぞもぞと手を伸ばし、枕元に置いた携帯端末のアラームを停止する。力尽きたように俺はまた目を閉じる。
瞼が重い。……こうして小夜の手で揺すられていると、かえって心地よく二度寝してしまいそうだ。
「……あれ、小夜はどうやって部屋に入ったんだ?」
玄関の鍵は掛けたんだったか。俺は昨晩の記憶を遡る。
「普通に開いてたよ。私が家出しに来るってわかってるから、わざと開けてくれたんじゃないの?」
……そんなはずはない。
俺は急速に目が覚めて、ベッドから起き上がる。
昨晩は瀬川の一件に気を取られていたから、小夜がくることを失念していた。
ならば普段通り戸締りをしたはずだ。
室内を歩き回り、侵入者がいないか見て回る。
玄関は確かに開いている。下駄箱の上に置かれた鍵も持ち出された形跡はない。
財布もある。部屋の中で失くしたものもなさそうだ。
「……急に飛び上がってどうしたんだよ?」
「いや、何でもない」
――瀬川の仕業か、それとも俺の記憶違いか……。
「出かける準備をしてくれ」
「買い物?」
俺は携帯端末を確認する。時刻は十六時を少し過ぎた程度、新着メッセージは無い。
「新宿に用事がある」
「仕事?」
「いや、……飲み会だ。同期と会うぞ」
「そんなところに私が行っていいのかよ」
「貝木は気にする奴じゃない。あ、貝木ってのは同期の名前だ。女の人だから怖がらなくていい」
「え、待って。女同士じゃ歳バレるでしょ」
面倒くさそうに化粧を始めた小夜を背にして、俺はシャワーを浴びに風呂場に移動する。簡単に髪と顔を洗って全身の汗を流すと、タオルで乾かしながら片手間に携帯端末のメッセージを確認した。今度は一通のメッセージが届いていた。
予想通り貝木からだ。
『鶏肉か牛肉どっち?』
――キャビンアテンダントか。
ビーフorチキンとは、相変わらず能天気な奴だ。
『鶏肉』とだけ文字を打ち込み返信し、その後に『連れが一人いる』とメッセージを連ねた。
開封記録が付いて既読になる。
貝木から了承の返事が来る。
『おっけ』
洗面台で歯ブラシを取り、歯磨き粉をつけてデスクチェアに腰掛ける。
歯を磨きながら、今度は杵原に向けて『今日の経過観察は中止』とメッセージを送った。
なんだかんだと準備をするだけで集合時間が迫る。現在は十六時半。
西武新宿には電車で三十分かかることも踏まえると、準備ができ次第さっさと出た方がいいだろう。
小夜の方は部屋の姿見とにらめっこしてダークブラウンのアイラインを瞼に引いている。瞳には青味がかったカラーコンタクトが入っていた。
「二十三歳になれそうか?」
俺は問いかける。
「どうだろ。髪を染めればかなり違うんだろうけど」
「髪?」
「黒髪って校則で縛られてる女の子のイメージがあるから、茶髪でも金でも染めちゃえば一気に歳がわからなくなるよ……通信制だし、私も染めようかな」
「染めたら親は怒るか?」
小夜は鏡に映る自分の顔から眼を離し、天井を見上げる。
「あー、怒るかも。インナーカラーとかならバレないかもだけど、自分でできないし……」
――そういう悩みなら、まさにうってつけの奴がいる。
俺は携帯端末を開いて貝木にメッセージを打ち込む。
貝木の本業は周波数調整員だが、世間の風当たりを気にしてアパレルで副業をしていたはずだ。伝手を頼れば美容室の紹介をしてくれるかもしれないと、早速メッセージを送る。
『美容室?』
『男向けのおすすめはあんまり知らないよ』
――いや、女向けで問題ない。
『女装でもするの?』
『似合わねー(笑うスタンプ)』
『(吐血のスタンプ)』
――(地団太のスタンプ)
出かける準備が完了した俺は、デスクチェアに寛いで小夜の化粧が終わるのを待っていた。
正確には化粧自体は完了しているのだが、着てきた服が顔と一致しないので急遽コーディネートを変更しているのだ。
小夜が今着ているのは、いかにもドン・キホーテで売っていそうな何のこだわりもないジャージと、デニム風生地の丈の短いパンツ。靴は厚底で、確かに顔と体の年齢がちぐはぐな印象を受ける。
「俺のコートを羽織れば誤魔化せそうだが?」
「飲み会なら結局コートは脱いじゃうし、シャツとサルエル貸してよ」
小夜は返事を待たず、クローゼットから引っ張り出して着替え始めた。ブラトップの後姿を流し見て、彼女の背中に蚯蚓腫れを見る。
何の傷なのか……俺は無意識に視線を反らし、見ていない振りをする。
持ち合わせの服ではどうにも足りそうにない……このあたりも貝木に相談してみよう。
❖
十九時過ぎの西武新宿線に俺たちは乗り込んだ。到着時刻は集合時間の少し前には間に合うだろう。
……車両内はそれなりに混み合っていて、座れる席はなさそうだ。俺は最後尾に立ち、吊革を掴んで車内広告をぼんやりと眺める。
そういえば、霊素可視化現象を経験した社会では、車両内での過ごし方にも大きな変化があったのだそうな。
拡張現実災害が起こるまでは一人に一つ、だれもがAGIネットワークサービスの恩恵を受けていた。老若男女問わず、携帯端末を肌身離さず持っていた時代があったのだ。その保有率は驚異の一一〇パーセント。一人の人間が複数台持っていることさえも珍しくなかったのだそうだ。
今ではインターネットは国営となり、税制によって大きく制限された。
一般のユーザーが使えるネットサービスは通話とメッセージ、天気予報やニュース、簡単なアプリゲームと検閲の入ったソーシャルネットワークサービスだけだ。
匿名での情報発信は全面規制され、あらゆるやり取りは履歴として残り国に情報提供される。それにより、携帯端末は暇つぶしツールとしての輝きを失い、ゲームを楽しむなら専用の携帯ゲーム器を購入するようになり、書籍や雑誌は再び紙媒体が光を浴びることとなった。
そんな時代の流れによって、車両内の様相は個性が目立つものとなっている。
ゲーム機の握るもの、本を読むもの、友人同士会話を楽しむもの、業務用端末を忙しそうに操作するもの……。
災害以前を生きた人間に言わせれば、『依存から抜け出すような感覚だった』らしい。万能のツールがあらゆるアプリケーションを提供していた時代は、皆が常に端末とばかり向き合い、個々の関係が希薄になっていたと聞く。
「尾鳥さんの携帯は高額納税ネットに繋がってるの?」
小夜は素朴な疑問を俺に向ける。
電車移動の手隙を利用して報告書を作成している俺を見て、税率の高い専用回線ネットワークに接続されていると思ったのだろう。
「……これはただの業務回線だよ」
――嘘である。
周波数調整員に支給されている携帯端末は、その業務内容から高度な専用回線と契約している。
少し気が緩んでいた。未成年に専用回線の存在を明かすのはよろしくないと聞くし、これからは小夜の前でも携帯端末やパソコンをあまり弄らない方がいいかもしれない。
「ローカルデータで書き留めてるだけさ」
俺は露骨すぎない声で高額納税ネットと接続されていないと否定した。車両に乗り合わせた他人にも聞こえるように言っているのだ。金を持っているなんて誤解をされたらいいことはない。
「ふぅん」と、小夜は窓外に視線を移す。「今日は杵原さんに合わないのか」
「今日は休みとする」
東伏見公園と武蔵関公園を交互に見張るのが、俺の基本的なルーティンワークだ。隔日で杵原の話し相手をして、浮遊バクテリアの情報を得る。
だが今日は『龍』の出現予測が伝えられたので、杵原と小夜には我慢してもらうほかない。
「杵原は明日会いに行こう」
小夜は残念そうに眉を下げる。
「……これからイベントがあるんだよ」
「イベント?」
「そう――」
半音上がった疑問符の言葉に頷く。
「――僕たちはこれから『龍』を追う」
❖
西武新宿上り線の終着駅に到着した俺たちは、そこから徒歩移動で新宿駅へ向かう。
いつの時間でもそうだが、新宿駅は常にキャパシティオーバーな人口密度でごみごみとしている。用事がなければ赴きたくない街だ。
人混みを縫うように進むと、小夜が俺の袖をつかむ。
「もっとゆっくり」
俺以上に人混みに慣れていないらしい。
「思ったより時間がない。手を繋いでいこう」
「待ち合わせてる人はもうついてるの?」
「連絡は来ていないが着いてるだろうな」
「どこで待ち合わせ?」
「東口だ。このまままっすぐ歩けばいい」
「私が参加するのは伝えてある?」
「伝えてあるから心配ない」
そんな話をしながら路地を進み、新宿駅東口改札前に到着する。しかし貝木の姿はない。
時刻は十九時四十五分。彼女が先に待っていてもおかしくない時間だ。
――キオスク前にいないのか……。
新宿駅は南口、新南口、東南口、東口、中央東口、西口、中央西口と、その他にも改札口が存在している。正気とは思えない駅である。貝木は東京に住んでいるわけではないので、久しぶりの迷路にさ迷っているかもしれない。
三が日も終わる今日は往来もいっそう激しく、夥しい人波に待ち合わせの相手を探すのは苦労しそうだ。
「お、いたいた。囮」
後ろから声をかけられて振り向く。
「よかった、探そうかと思ってたところだ」
「明けましておめでとう」
貝木は腰まで届く長い髪を鮮やかな赤色に染めていた。
「明けましておめでとう。派手になったな」
「副業の影響でね。それで、お連れの方は?」
貝木は俺の隣に立つ小夜に気付くとにこやかに会釈をする。
「饗庭小夜だ。仕事を少し手伝ってもらってる」
「饗庭ちゃんね。はじめまして」
「はじめまして、よろしくお願いします」
貝木は小走りに距離を詰めて握手を求め、小夜が応える。
本物の大人の女性、それもアパレル系の仕事もしているとなると俺も緊張する。
小夜が未成年だと明かすべきかどうか、俺は貝木の出方をひそかに伺っていた。
小夜は握られた手を揺すられて、動揺しながら貝木と見つめ合う。貝木の視線は素早くシャツの襟と唇、アイラインと移動し、もう一度「よろしくね」と言った。
「派手な見た目で絡んでやるなよ。怖がられるぞ」
「私は貝木 椛。『貝木さん』でも『椛さん』でも『お姉さん』でも好きに読んでね」
「はい……あの、貝木さん――」
恐る恐るというような態度で小夜は続ける。
「尾鳥さんと同期なんですよね? そのぅ……」
視線は貝木の向こう。都市の冬空を見上げている。
「なるほど」貝木は未だ小夜の手を放さず、「饗庭ちゃんには見えるのね」と言った。
俺は何のことかわからず、小夜の視線の先を追った。新宿のビル街に切り取られた空は煌々と輝き、別段おかしなものはない。
「何か見えてるのか?」俺は貝木に訊ねる「悪霊でも連れてきたんじゃないだろうな」
「私はちゃんと除霊してきたから」貝木はおどけて言う。
「じゃなくて、……そうじゃなくて、その、後ろに……」
小夜は指先で指し示す。
暴力的なまでに夜を追い出す都市の灯……いつもの新宿にしかみえない。
「後ろってどこだよ?」
「見えてないの? え、ほんとに言ってる?」と小夜は共有できない恐怖を溜め込んで、不安そうな顔をする。
「大丈夫、怖がらなくていいよ。今夜はまさにそいつが目当てなの」
貝木は全て理解しているような態度。
――待てよ……?
貝木の言葉から察するに、もう『龍』が姿を現れているのか?
「変だな。俺には見えない」どれだけ目を凝らしても、『龍』を視認できない。
「嘘!? あんなに大っきいのに」と小夜。
「まぁまぁ、時間はたっぷりあるから。とりあえず飲みまひょー」
貝木は呑気にそう言って、そこにいるはずの『龍』を無視して歩き始めた。
俺は何度も振り返り、依然として見えないことに歯がゆさを感じながら、貝木について歩く。
「なんで俺には見えないんだ? 貝木、お前は見えてるか?」
「私もまだ見えてなーい。饗庭ちゃんは『龍』と相性がいいみたいね。呼んできて大正解よ」
❖
新宿上空に可視化を始める超広域浮遊バクテリア群……『龍』。
現在時刻は二十時。行き交う人々は、誰も空を見上げない。
腹が減っては戦はできぬ。俺たちは三丁目方面に進み、雑居ビルの中にある居酒屋へ入った。掘り炬燵式の個室で男女に分かれ、三人が座る。
店は新年から稼ぎ時らしく、薄い壁越しに酔いどれのにぎやかな声が漏れ聞こえる。
最初の注文を決めるため、俺はメニューを開く。
「とりあえず貝木は生だろ」
「え」貝木は信じられないという顔をした。「初めは生でしょ。生三つ」
「俺まだビールわかんねぇんだよな」
「はっ、青二才が。じゃあ私と饗庭ちゃんは生で、囮はカルピスね」
「そこまでガキじゃねぇ」
貝木は軽快な会話のやり取りに笑い、俺もつられて口角が吊り上がる。
さりげない視線のやり取りで小夜ともアイコンタクトを送る。――お前は未成年だからソフトドリンクだ。
「小夜は飲めないからジンジャーエールとかにするか」
「もう、最初は生ビールがお約束でしょ! 『とりあえずビール』。『とりビ』よ『とりビ』!」
「うるさいなぁ」
「じゃんけんで言えば最初がグーと一緒! 残しておくべきミームよミーム!!」
――こいつはもう酔ってるのか?
貝木は乾杯する前からやかましい。
「ジンジャーエールって初めて聞いた。お酒?」
と、小夜が言うので俺は少々驚きながらも説明する。
「いや、ジュースだよ。生姜シロップの炭酸割。俺はシャンディガフにしようかな」
「ジャンディガフも初めて聞いたー。ジュース? ねぇジュース?」
「おまえは知ってるだろ!」
貝木の茶々に突っ込みながら、呼び出しボタンを押す。
店員がくるまでの間に選びたいから、と貝木がメニューを引き取った。
さして待たずに店員が個室の暖簾をくぐり、注文をうかがう。
「あ、生一つとー、ソフトドリンクのジンジャーエール、あとダブルカルチャードで。お願いしまーす」
店員は慣れた手つきでオーダーを入力すると、さっさと戻ってしまう。
「なんだ? ダブルカルチャードって」俺は貝木に冷たい視線を送る。
「シャンディガフと同じよ、半分はビールでできてる」
一分も待たずに三人の飲み物がそろった。
貝木の言う通り、俺の前に置かれた酒はビール由来の細かい泡がグラスに注がれている。液体の色はやや白い濁りがある。
「駆けつけ一杯! それじゃあ乾杯!」
貝木は楽しそうに音頭をとって杯を掲げた。
あとに小夜と俺が続く。
「お疲れ様ですー」「お疲れーぃ……」
乾いた喉に一息酒を呷り、喉を鳴らす。
なるほどダブルカルチャード……確かにビアカクテルだ。
苦みと甘みが両立しているのが『ダブルカルチャー』という名前の由来か。
この甘みは――
「カルピスじゃねぇか!!」
ガキ扱いしやがって! と俺が声を荒げると貝木は大笑いして、小夜も楽しそうにけたけたと笑みをこぼす。
楽しい夜が始まった。
❖
「東京都区部を円で結ぶ山手線がいわゆる陣だっていうのは饗庭ちゃんも知ってるわよね?」
「はい、有名な都市伝説ですよね」
「旧態依然なシステムから乗り換えられない都市インフラは内部に大量の浮遊バクテリアをため込んでいるの、それこそ飽和しているほどよ。
……ほら、囮の仕事場も公園で三角形を結ぶでしょ? あれと同じね」
貝木は注文した料理をつまみながら、小夜に対して周波数調整員の仕事を熱く語っている。
「土地や人間から発生する電界……」
「そう! 囮から聞いてるみたいね。山手線は巨大な上に人が多いでしょ? 内側に囲われた都市全体が電界になって、アングラネットワークとスパークすることで巨大な異変が生じるの。東京で毎年『龍』が出るのは当然のことなのよ」
「龍って……さっき見た大きな化け物ですよね。あれってなんなんですか?」
「浮遊バクテリアよ?」貝木は当然のことのように言う。
「そうじゃなくて、こうして楽しそうに飲んでるってことは、危ないものじゃないんですよね」視線は俺に向いていた。貝木相手では笑い飛ばされてしまうと思ったのだろう。
「規模はでかいが、この霊素可視化現象は調整員レベルの適性がないとまず拝めることができない」
「……あれ? 饗庭ちゃんには説明してなかったの?」貝木が首をかしげる。
「急な話だから内緒にしてた。その方が楽しいと思ってな」
「にゃるほど。先に見えちゃったから怖くなっちゃったか。……えっと、『龍』ってのはね、要は浮遊バクテリアの初日の出よ」
ぴっと人差し指を立てて、貝木は得意げに話を始めた。
――龍が浮遊バクテリアの初日の出か……言い得て妙だな。
「饗庭ちゃんはもう姿を見たと思うけど、どんな感じだった?」
「え、っと……ビルのおっきいモニターから、映像が飛び出るみたいな、感じでした」
「混濁したネットワークが具現化しようとするから、しばらくは蚊柱みたいにぐちゃぐちゃしてると思う。……いわゆるラジオの砂嵐だね。そこから時間をかけて『龍』は姿を現す。浮遊バクテリアが溜め込んできたイメージが結びついて、人間の想像を超える姿を生成するんだよ」
貝木はうっとりして頬杖をついた。
「その姿は毎年ランダム。今年もどんな姿になるかわからないけど、私たちはそれを見て楽しむ。見える人たちだけの、お祭りみたいなものよ」
「お祭り……」饗庭は言葉を転がす。その表情は少しだけ、期待と興奮を帯びていた。「じゃあ、私みたいに調整員以外も新宿に集まってるんですか?」
「あの人込みはそうかもね。同業者の顔も見かけたし、見える人はここに集まってると思う」貝木は不敵に笑う。「でも、インターネットを規制されてからは情報共有が難しくなったし、見える人は結局、調整員の道に進むよ」
「そうなんですね」小夜は感慨深そうに頷く。将来の進路として一つ展望が見えたようだ。
見える人とは、ある意味で浮遊バクテリアと似ている。
光に集まる羽虫のように、幻想の世界へと誘われる。
深夜に街を徘徊するような落伍者でなければ幽霊とは出会わないし、周波数が合わなければ『龍』の姿を見る機会は訪れない。
その点でいえば、間違いなく小夜は素質がある。
この霊素可視化現象というオカルティックなバブルがいつまで続くのかはわからないが、不良少女が更正する道はあるのだ。
さて、三人の認識共有がひと段落したところで、改めて飲み物の追加注文をする。
生ビールとシャンディガフとジンジャーエールが届くと、貝木は龍の出現を祝して二度目の乾杯をした。
「ぷはーっ! …美味い!!」貝木は旨そうに生ビールを呷り、立派な白髭を付ける。
「上機嫌だな」
「まぁね。『龍』の出現は予測が来てから飛んできたんだから。これを見ないと年が明けた気がしないわ」
貝木はほろ酔いで笑う。蕩けた眼差しが俺を見る。
「お二人はどんな関係なんですか?」
小夜は炭酸が昇るグラスを眺めながら聞いてきた。
「同期だ……もう八年か」
「囮とはそんなに一緒なの!? 歳はとりたくないわー」
貝木はぼやきながら水餃子を頬張る。
「最初は仕事の担当地域が近いから関わるようになったんだっけな」
「そうよ。というか私の狩場を横取りしたの」
「横取り?」と小夜。
「武蔵関と東伏見公園はもともと私の縄張りだったもの。それをこいつが奪って――」
「奪ってない。引き継いだんだ。三年目に引っ越したんだろうが。『弟が事故った』とかなんとか言って」
「弟が事故にあって心配だから、新潟に戻ったの。あ、私新潟生まれなのよ」
「今実家か? 一人暮らしだと思ったが」
「新潟には帰ったけど親とは暮らしてないわ。少し離れた賃貸で弟と二人暮し」
「えー、仲いいんですね」と小夜は少々のけ反る。家庭仲がいいことに驚いているようだ。
「普通よ普通。弟の彼女ちゃんとも仲良いけど……二人きりにはさせてあげないの」
ひひひ。と貝木は意地悪に笑う。
「弟は幾つだっけ?」
「二つ下だから二十三」
「おお、小夜と同じだ」
俺は小夜が成人しているとさりげなくアピールしたが、悪手だった。
「饗庭ちゃん二十三?」眉が怪訝そうに吊り上がる。「もっと若いと思ったけど」
「おお、二十三だよな」
「うん」
「……本当かなぁ……?」
ひやりとする。
「そうだ。服!」俺は話題を変えた。
「服?」
「小夜の服をいろいろ買い揃えようと考えていたんだ。俺が選ぶより貝木に聞いた方がいいと思って」
「ちょい待ち。囮……あんたこんな若い娘と付き合ってるの?」
「い、や、付き合ってないが」
「じゃあなんで服のプレゼントなんか」
「プレゼントなんて言ってないだろ」
「『買い揃える』って、プレゼントとしか思えないでしょ」
「小夜は、……少々訳ありでな」
この話題も悪手だと今更気付く。
――貝木に事情を説明することになる……芋づる式に隠し事が暴かれてしまう……。
視線から動揺を悟られたか、貝木は小夜に向けて距離を詰める。
「ねぇ、饗庭ちゃんは今学生? それとももう働いてる?」
「あ……っと、働いてる? 感じです」
「どんな仕事」
「……コンビニバイトで」
「ふーん……大変ねぇ。ローソンかしら? ファミリーマート?」
「あー、ファミリーマートですよ?」
――まずい。
「ファミマね。この時期はおでんの販売もあって忙しいでしょう」
「そうですね……」
「おでんは何が好き?」
小夜の目が泳ぐ。当然だ。やったことのない仕事についている設定で、さもよく知っている風に装う必要がある。
単純に大根でも玉子でもいいはずの質問に思考する間が生じてしまう。それを見逃す貝木ではない。
「牛すじ串とかロールキャベツもあるのよ」
「あー、ロールキャベツ好きですね」
小夜は完全に追い詰められている。もはやどちらが店員なのかわからないほど知識の差があった。
貝木の提供した情報以上の会話が展開できていない視点で、もう黒だと見破られただろう。
焦りからか、小夜は席を立とうとした。その手には電子タバコが握られている。
「あら、饗庭ちゃんタバコ吸うのね」
「はい、ちょっと失礼……」
十七歳の限界だ。
大人ぶる精一杯の背伸びが、喫煙者アピールなのだろう。
「はーい。気をつけてねー」
貝木の声に感情が乗っていない。俺は酔いが吹っ飛んだ。
小夜が煙草を吸いに席を外した後、仮面のような笑顔が俺を睨む。
「……囮」
「はい」
「未成年よね。すこし幻滅、いえ、かなり幻滅したわ」
「誓って手は出していない……! 聞いてくれ」
貝木は槌を叩くようにビールグラスを卓に置いた。
「ええ。聞かせてもらいますとも」
こうして俺は、新年の出来事を洗いざらい話した。
❖
時刻は二十二時半。しこたま酒を飲み、肴に腹くちくなった三人は店を出る。
「いくらだった?」と貝木。
「ざっくり二万」
「とりあえずこれは奢りね」
「致し方ない」俺は貝木の言葉を受け入れた。
未成年を保護していることは貝木に明かした。警察にも児童相談所にも頼れないことを伝え、今は仕事を手伝ってもらっているのだと。
俺が会計を奢るのは、秘密にしていた罰ではあるがそれだけじゃない。小夜に似合いそうな服の提供とヘアーサロンの紹介料が含まれている。
「おー。だいぶ可視化が進んでるじゃん」
貝木は駅前につながる大通りを見渡して『龍』を視認した。
そこには液体金属のような、流線型のシルエットがビルの上空に聳え立っている。
都市のきらびやかな明かりを反射する巨躯。
足下を走る車はノーブレーキで龍に突っ込んで飲み込まれる。誰も姿が見えていない。対向車が龍の体をすり抜けて走り抜ける。
「ダイダラボッチみたいだね」貝木は言う。もう小夜の件で怒ってはいないようだ。
「不思議……」饗庭は恍惚と、しかし興奮に開いた瞳孔でその景色を眺める。「こんなに大きいのに、みんな『龍』が見えないんだ」
「量子の話、知ってる?」貝木がふいに言った。「ちょっとだけでも聞いたことあるでしょ? 『シュレディンガーの猫』とか」
「名前だけなら……」
「観測されるまで、猫は生きても死んでもいる。あの例え、まさにこれじゃん。この龍もさ、観測者に見られるまでは『いる』とも『いない』とも言えない。
けど一度誰かが“見た”瞬間、世界のどこかで、それが“在る”ことになる」
貝木は龍を仰ぎ見ながら、どこか楽しげに肩をすくめた。
「この街にいるのは“可能性”の塊みたいな幻想。見てる奴がいるからこそ、こうして形になる。
“見る”ってさ、世界に影響を与える行為なんだよ」
「じゃあ、俺たちが見てるから……龍は、いる?」
「そ。『波動関数の収縮』……量子が“現実”になる瞬間」貝木は指をぱちんと鳴らす。「ロマンだよ。空を覆う巨大な龍も、見つけてもらえなければ存在しないことになるんだから」
俺は新宿駅前交差点の鉄柵を背にして龍を見上げる。
すれ違う人々は空に目もくれず、足早に通り過ぎていく。
彼らは俺のことを、街頭広告を眺める暇な人間と認識しているのだろう。
けれど俺には、確かに龍が見えていた。
「世界はそれを集団ヒステリと呼ぶ」貝木は自嘲して笑う。
「でも、奇麗……」
小夜は目を奪われて離せない。
「私達が同じ幻覚を見てるなんてすごい……同じ夢を見てるってことでしょ?」
「そうだな」
例えこの龍が、多数決では存在しないものだとしても。
集団ヒステリの産物だとしても。
観測者は夜を共にし、同じ夢を見上げる。
この経験が小夜の心に光を灯せるのなら、充分だ。
可視化した龍が新宿のビル街に顕現する。
質量のある巨大な幻想は、建築物を破壊せずにゆっくりと移動している。まるで合成写真のようだった。
龍は長い首を降ろして駅前の方へと傾いだ。幸運にも正面からご尊顔を拝める機会が訪れる。
夜空を滑る龍の首は、いくつもの建造物をすり抜けながら俺たちの目の前に覆い被さる。
「今回の『龍』は鏡みたいだね」
貝木は言いながら、その鏡面反射する冴え冴えとした外殻に手を伸ばそうとする。
反射して映る俺たちの姿は、複雑な流線形に沿って引き伸ばされたり圧縮されたりして歪んで見えた。鏡像の奥に目をこらすと、龍の表面を滑る魚影を発見する。
それは手を伸ばしていた貝木の指先に向かっていた。
「おい、貝木」俺が伝えようとするより早く、魚影は龍の外殻からぷくりと顔を出す。
鮭の稚魚と似た形をしているその魚影は、まん丸に膨らんだ腹に眼球を備え、きょろきょろと世界を見回している。
「おわ、びっくりした」
貝木は手を引っ込めて、そしてまた手を伸ばす。背伸びをしても届くかどうかの距離がある。小夜にはちょっと怖いらしく、手を伸ばす勇気が出ない。
魚は腹の眼球で貝木を見つめると一つ瞬きをして、ぐるりと白目を向いた。
そのまま尾ひれを差し出して、貝木の腕に向かって突き出す。
尾ひれが人間の手に変形する。
指先同士が触れ合う。
俺と小夜はその光景に息を飲んで見守り、貝木は声にもならない驚きの表情で「今の見た!?」と訴える。
邂逅。
そうだ。
まさしくこれは、龍との邂逅。
観測者と量子が出会った。
「わ、わ! ……すごい……!!」
子供のような無邪気な反応をする貝木。瞳には龍の反射が写り込んで潤んでいるように見える。
ふと視界の横に気配を感じ、俺はすぐそばまで迫る龍の外殻を見る。
ここにも魚影が二つ。こちらの様子を伺っている。
「お、尾鳥……」小夜が俺を呼ぶ。
俺は頷いて、手を伸ばしてみせる。
それに続くように小夜も手を伸ばす。
龍はおそらく、外殻の表面を滑る眼球によって俺たちを見ている。
そしてコミュニケーションを図るように、握手を交わした。
浮遊バクテリアで構成された手の感触は滑らかで、大理石に触れているような硬さがあった。これが幻想とは思えない、確かな質量を感じたのである。
龍はいつの間にか消滅していた。
俺たちは空に手を伸ばす三人として、往来の奇異の視線を集めていた。
「あ、あれ?」小夜は状況を理解して、慌てて腕を引っ込めた。「消えちゃった……?」
「いつも呆気なく消えちゃうのよ」
貝木は名残惜しそうに掌を見つめて饗庭の疑問に答える。
「私たちって周りの人からはどう見えてたんですか? ずっと変人だと思われてた……」小夜は己の奇行を俯瞰して、耳まで紅潮していた。
「貴重な体験が出来たんだから気にしない気にしない」
まさに『集団ヒステリ』ってね。――貝木は愉快そうに笑った。
第五話 都市の幽霊 中
『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かった。
ひたすらに飲み歩いた。
――全額、俺の奢りで。
街灯から街灯へと、ふらふら歩く夜の記憶。
気がつけば、夢から覚めるようにして、俺はベッドの上にいた。
――知らない天井だ……。
鏡張りの豪華な空間。だが、どこか陳腐さも滲む狭い室内。
ここがどこか、俺には見当がついた。
「なんでラブホテルなんかに……」
脱水症状か、ひどい頭痛がした。喉もひりつくように渇いている。
衣服を探ると、上着こそ脱いでいたがベルトは締まっている。裸ではない。
少なくとも過ちは犯していない。
安堵したところで、隣に眠る人物の確認に移る。
貝木か、それとも小夜か――小夜だ。
一応の確認として、小夜の掛け布団をそっと捲る。
彼女は入浴後らしく、ホテルのバスローブをまとっていた。
次に、枕元のアメニティを確認する。包装された避妊具は――二個、未使用。
ほっと胸を撫で下ろす。
「使ってない……よかった……」
心の底から安堵の声が漏れる。
俺は、小夜を抱いてなどいない。
「ゴムを使わずに抱いた――」
「うわ」
不意に聞こえた貝木の声に、心臓が凍りついた。
「――って可能性もあるけどね」
「……びっくりした……いたのか」
思考が追い付かない。
「でもまぁ、その様子じゃ本当に手は出してないみたいだね」
薄暗い部屋の隅。ソファーの肘置きを枕にして、こちらを見ている貝木の姿があった。
「寝てなかったのか……?」
「まさか。私もさっきまで寝てたよ。囮より少し先に目が覚めた」
「昨日はどうなったんだ?」
このホテルに入るまでの記憶がない。
「飲み過ぎて囮が歩けなくなったから、私と饗庭ちゃんでこのラブホに泊まることにしたの」
「そんなに飲んだか……ごめん。ここも俺が払うよ」
「いいよ。私も終電逃してたし、どうせ東京に泊まるつもりだったから宿代は割り勘にしよう」
申し訳ない気持ちもあるが、実のところ財布が限界に来ていたので助かる。
貝木も特に怒っている様子はない。
「俺がソファーで寝るよ。貝木はベッドでちゃんと休んでくれ」
「ありがと。お言葉に甘えるよ」
そう言ってベッドへ向かうかと思いきや、貝木は急に俺を押し倒す。
「貝木……?」
小夜が隣で眠っている。声を荒げるわけにはいかない。
貝木の体温がしなやかに押し寄せ、思考が追い付かない。
彼女はそっと照明のスイッチを操作し、室内の明かりを落とす。
空気が湿り気を帯び、胸がざわついた。
「……一個、使う?」
その意味は、すぐに理解できた。
「あんなに酔っぱらう囮は初めて見たよ。ストレス溜まってるみたいだし」
貝木が耳元で囁く。肌が粟立つ。
「ちょっと、すっきりしてみる?」
俺の脳が、最高回転で動き始める――いや、空転して、むしろ停止しかけていた。
一秒にも満たぬ沈黙の間に、さまざまな葛藤が脳裏を過ぎる。
例えば、友人である貝木と肉体関係を結ぶことへの好奇心と、自制心。
発散しきれていない性欲を言い訳に、今の関係が壊れることのリスク。
隣で眠る小夜の存在。そして、答えを保留している瀬川の存在――
「だめだ」
思考が、声になっていた。
貝木は何も言わず、ただ重みを増すように体を預けてくる。
彼女の匂いがする。柔らかく、甘く、どこか危うい。
思わず、このまま倒れそうになった。
胸の内で貝木を受け入れれば――きっと、気持ちいいに決まっている。
わかっている。わかっているのだ。
――だが、駄目だ。
ここで受け入れてしまえば、何かを失う気がした。
その危うさは、貝木の罠ではない。瀬川忍――あの殺人犯の気配だった。
もし俺がここで貝木と関係を持てば、瀬川は彼女を殺すかもしれない。
「は、ははは」
俺は笑った。
この誘いを、冗談だと受け取ることにした。
「……俺を試すなよ。騙されないぞ貝木」
寄りかかる重みが、ふっと軽くなる。
魅力的な誘いだったが、俺は断らなければならなかった。
「これで分かっただろ。俺の理性は硬いんだ」
「……そうね、合格よ。これだけ堅いなら饗庭ちゃんを任せてもいいかもね」
貝木は薄闇のなかで微笑み、柔らかな胸を健気に押し返している脈打つものを指さす。
「理性じゃない部分も硬いみたいだけど」
「……こいつには苦労をかけるよ」
「へへへ、がんばりたまえ囮君」
貝木は俺の本能を司る器官を慰めるように撫でた。
その甘美な誘惑に飲み込まれそうになる直前で、貝木はあっさりと手を放した。
「じゃあ、私は寝るね」
「あ、ああ……俺はシャワーでも浴びて酔いを醒ますよ」
ソファーへ逃げて、俺は気を鎮める。
昂ぶったその器官は熱心に抗議するように、いつまでも未練がましく脈動していた。
❖
一夜が明けて、チェックアウトには余裕をもって出ることができた。宿泊料金は貝木が言っていた通り折半で支払う。
「じゃあね」と新宿駅へ消える貝木に手を振り、たった一夜の出来事が面映ゆく胸に迫る。
真夜中の誘いを俺は断った。貝木を傷つけないように言葉を選んだつもりだったし、うまくはぐらかせていたはずだ。貝木の女性としてのプライドも傷付けてはいない。と、思いたい。
友人として、また来年も龍を見たいと俺は思う。
「さて、今は何時だ?」俺は独りごちて携帯端末を見る。
午前の九時。イベントを楽しみ、思うさま深酒をした俺は生活リズムを狂わされ、真人間の生活リズムと一時的に同期した。
「……俺が活動する時間じゃないな。帰って寝るか」
「まだ寝るつもりなの!?」
眠気が晴れた小夜は俺の提案に乗り気ではない。が、実際問題俺は夜勤のリズムに戻さなければならない。今夜も仕事が待っているのだ。
「今から起きてたら、夜に杵原に会えない」
「むむむ」
小夜は一理あると口をつぐみ、西武新宿線に向かう俺の後ろをついて歩いた。
ホテルが密集する路地から大通りに出る途中、一人の男が顔を上げ、小夜を見た。
俺はすれ違ったまま振り返らず、数歩先を歩きながら耳を澄ませた。予想通り、男は小夜に向かって声をかけた。
「アイちゃん……?」
「えっと?」
戸惑いはするが否定はしない。そんな小夜の反応に、俺は二人の接点を悟った。
「いや、やっぱりアイちゃんじゃん! 俺だよ、フミヤだよ」
男が小夜の前に立ちふさがったか、歩く靴音が止まる。
俺は振り返り、事態を静観した。
「覚えてない? この前一緒に遊んだじゃん? このあたりのカラオケでさ。その後だって――」
「あー……うん。そうだね。たのしかった」
小夜の顔が曇る。
男の顔を思い出せないというわけではない。
思い出せているから、曇るのだ。
『アイちゃん』という名前に心当たりがないならこんな返答はしない。
「今日もこのあたりで遊んでたの? てかさーマジ偶然じゃん? 連絡先交換してなかったから、正直探してたんだよ。超ラッキー」
ちらりと小夜は俺を見る。
「なんなら今日の夜空いてる? 暇してるから遊ばない?」
「『アイさん』――」
と、俺は小夜を呼ぶ。
「――知り合いかい? 先に駅に行ってようか」
「いやっ……」小夜は首を振り、慌てて俺の腕を掴む。
そして男の方へ振り返り、「ごめんね」と謝った。
「私用事あるから遊べない」
男はやや不満そうに引き下がる。追ってはこないが、吐き捨てた愚痴ははっきりと聞こえてきた。
「先客か」
残念がる男の言葉に鋭い響きはなかった。傷付けようとする意図はなく、きちんと納得して引き下がる常識を持っている。
しかし、だからこそ。
小夜は俺の腕を掴んで震えていた。
『アイちゃん』と、彼の関係は明らかだ。
過去に体を売り、そして買ったのだろう。
俺はこの場面に出くわしてしまったことをどう受け止めるべきかわからず、無言で西武新宿駅へ歩いた。
三が日も終わって初の平日。ビジネスマンの姿を多く見かける駅前で、本音を打ち明けるなら、腕を放して、離れて歩いてほしいと思ってしまった。
❖
電車内では会話もなく、小夜が口を開いたのは俺の部屋に上がり込んでからだった。
「ごめんなさい」
「何の話だ?」
俺はとぼける。しかし半分本気でそう思った。何に謝っているんだろう。
小夜の過去に対して怒る筋合いはない。
「さっきの、フミヤって男の話だよ」
「謝ることじゃない。なんとなく事情は分かったしな」
「私……助けてもらえるような人間じゃない」
落ち込んだ態度で彼女は踵を返し、入ってきたばかりの玄関へ向かおうとした。
俺は背中を追いかけ、扉を押さえる。
「小夜。勝手に結論に辿り着くな」
「ごめんなさい……」
小夜は泣き出しそうな顔を俯かせて隠し、再び謝罪する。
彼女が過去に援助交際を行っていたのは知っている。俺はそれを知っているのだ。
だからあの光景に鉢合わせたからと言って怒りはしないし、問い詰めもしない。
「謝らなくていい。俺は怒ってない」
小夜は首を振り、俺の胸に抱きついた。
「尾鳥さんに出会ってから、『どうでもいいや』って思えなくなったの」
小夜は言う。
「毎日、辛いことばかりだし、全部どうでもよかったはずなのに、どうでもよくなくなったの……。
男の人からお金をもらう方法なんてあれくらいしかないし、どうでもよかったから、楽だなって思って……でも……でも……っ」
小夜はこれ以上言葉を紡ぐことができず、声を押し殺して泣いた。
誰にも迷惑をかけないように、泣き声を上げることはせずに涙を流していた。
きっと俺に出会う前から、小夜はいくつもの夜を泣いて過ごしていただろう。
誰にも聞こえない声で泣いていたのだろう。
『助けて』という叫びすら、押し殺して生きていたに違いない。
「……小夜。お前は過去を振り返って泣くことができた。それは成長しているってことだ。変われたんだよ」
「本当……?」
「いい方向に進んでいるから、自分の過ちを後悔できる。だからたくさん泣いていい。声を我慢しなくていい。これからも俺が力になる」
「変われるのかな……? 私、本当に取り返しのつかないことしたのに……許されるのかな……?」
「許されるさ」俺は断言する。まだ小夜は若い。更生の機会はいくらでもある。「小夜が人生の中で失ったものを、俺が取り返して見せる」
俺は優しく彼女を抱き上げて、部屋に運ぶ。
「杵原がきっと会いたがってるはずだ。泣き止んだら仮眠を取ろう……あんまり思い悩むなよ」
「うん……」
小夜をベッドに座らせて眠るように促すと俺も隣で目を閉じる。
「ごめんなさい……」
小夜は三度繰り返す。
――そうか、過去の自分に謝罪しているのか。
第六話 機械仕掛けの幻想 下
時刻は二時。
俺たちは東伏見公園の木造デッキにいる。
杵原はご機嫌がよろしくないようだった。
「……それで? 『龍』のほうを優先して僕は一人ぼっちだったんだね」
「連絡は入れたろう」
膨れ面で不貞腐れている杵原に、俺は弁明する。
日程変更はメッセージを送ったはずだ。携帯端末の送信履歴にもはっきりと証拠が残っている。
だが、杵原が癇癪を起こしているのは、メッセージの行き違いではない。
「当日に言われても寂しいんだよ!」
「そう言われたら謝るしかない。すまん」
「ヤダ! 心がこもってない!」
杵原は地団駄を踏もうとするが、浮遊バクテリアのホログラム体では地面を踏み鳴らすことはできない。怒りを表現する手段を持たない少女の姿は、どこか滑稽だった。
「今日はその分たくさん話そ?」
「そりゃ話すけどさぁ?」
小夜が宥めるように微笑みかける。
その穏やかな表情は、昼間に泣いていた姿が嘘のようだった。
「どうせ土産話でしょ? 私を置いて楽しんだ新宿の話するんでしょ」
「話しづらいやつだな」
俺は雑談係を小夜に任せて、ベンチに腰を下ろした。
「聞きたくないなら別の話にしよっか?」と、小夜。
「あー、龍を見に行って楽しんだくせに、勿体ぶるー!」
杵原はもう手当たり次第だった。
構って欲しいという気持ちが先行し過ぎて面倒な人になっている。子供の外見も相まって、厄介な子供そのものだ。
話し好きな人間なら杵原の態度も気にしないのだろうが、小夜にそこまでの図太さは期待できない。たじたじになっている小夜に助け舟を出すため、俺が導入を語ることにした。
「貝木に誘われたんだよ。今年の龍は新宿に出るから飲みに行こうってな」
「椛に? わざわざ新潟から見に来たってこと?」
「そう、貝木椛だ。当日の朝に連絡が来たから杵原に伝えるのも急になってな。夕方から飲みに出かけて、一軒目を出た後に龍を見たんだぞ」
俺はそこから小夜に目配せして、続きを譲る。
「杵原さんと貝木さんて知り合いなの?」
「そうだよ。元々この公園を担当してたのが椛だもん」
小夜は話が繋がったという顔をする。
「んで、椛は私のこと何か言ってた?」懐かしい名前に杵原は興味を示すが、残念ながら貝木は何も言っていない。
「あー……」
小夜は言葉を濁す。
「なんでよぉ!?」
杵原は再び癇癪を起こして公園で地団駄を踏む。
どれだけ暴れても無音なのでかなりシュールだ。
「僕と椛って結構仲良かったはずなのに、酷くない?」
「それはそうだな」
貝木は妙に冷たい距離感を保つところがあるから、杵原のことを話題にすらしなかったのは確かに冷たい。
「ていうか、囮も私の話題を振ったりしないわけ?」
「あー……」
俺は言葉が続かない振りをした。
「くぬぅ……!」
杵原は期待通り身を捩って癇癪を披露する。
というより怒りに任せてツイストを踊り出した。
「あははっ、なにそれ」
小夜は吹き出して笑う。東伏見公園の夜に楽しげな談笑が響く。
❖
不死の帯域に棲む地縛霊『杵原真綸香』との面談を小夜に任せ、俺はいつも通り端末で報告書を作成する。
二人の話題は龍について語られた。
「すごかったよ。龍の皮膚に魚みたいな目が泳いでてさ」
杵原はいまいち姿形を想像できずにいた。舌を出して嫌がっている。
「でかくて気持ち悪いだけじゃん。何がいいの?」
「違うの! 気持ち悪いけど、もっとこう……神秘? 的な?」
「鏡みたいにぴかぴかで、皮膚に魚が泳いでて、魚のお腹に目玉……どこが龍なのかわかんない」
「大晦日から元旦にかけて回線が混雑するだろう。浮遊バクテリアが山手線内で活性化し、巨大な霊素可視化現象が起こる。初めて観測されたのが辰年の三が日だったから、『龍』と呼ぶようになって、以降は毎年恒例のものになった」
俺は由来の説明のために口を挟む。
「杵原さんは龍見たことないの?」
「西東京市は東京じゃないから」
――なんて事言うんだ。
都会だけが東京じゃないというのに。ともかく東京都区部から外れている場所で地縛霊となった杵原は、残念ながら龍を見ることができない。
「あーもーわかった」
杵原はやけくそに空を飛んで俺たちを見下ろして宣言する。
「こうなったら僕も龍になるんだから」
「できるの?」小夜は杵原を見上げて目を輝かせた。
「できるね。なんてったって成長期だから」
「いや、もう三十だろ」
「二十八!!」
杵原は俺の言葉に喰ってかかるように声を荒げる。
今日はピーキーな性格してるな……。
「十四歳の設定で行かないと成長期を過ぎたことになるぞ」
「あ、確かに。……いやでも私は『永遠の十四歳』だから、いつまでも成長できないことになるかも……?」
杵原は宙に浮かびながら腕を組んで考えている。
こんなやつが龍になろうというのだから、おかしな話である。
「じゃあ、こうしたら良いんじゃない?」小夜は指を立てて提案した。「永遠に十四歳だから、永遠に成長期なんだってことで」
「おほぉー! 天才ジーニアスじゃない!?」
杵原は興奮して奇声を上げる。
「ずっと成長期だから巨大化も可能! これで『杵原真綸香、龍になる計画』は見えたね」
「そうだね。で、実際のところなれるものなのかな?」
ひとしきり杵原の冗談に乗っかり終えた小夜は、俺の方に訊ねる。
不死の帯域に存在する彼女は、それこそ無限の時間と夢幻の可能性を秘めている。
『龍』とは都市に蟠る浮遊バクテリアからなる霊素可視化現象だから、論理的には杵原も同種のものなのだ。問題は規模の差だ。
イメージの集合体が龍だと定義するなら、杵原が一人で大きくなっても、それは龍ではない。巨大化した杵原だ。
「一人じゃ出来ないな」俺は真面目な結論を提示する。
「なら仲間を集めるよ」
「どうやって?」
「僕みたいな地縛霊とか、植物状態の患者に呼びかけてみたら集まりそうじゃない?」
杵原が不死になった原因は、生命維持装置を経由して特定の周波数帯域に意識をつなぎ留めたからだ。死に切れない者たちの意識を集めたら、確かに『龍』になれるかもしれない。
「……出来るかもしれない。が、問題が多いな」
「ほう、例えば?」杵原はふてぶてしく問いかける。
「仲間を集めるということは、生命維持装置を使って生にしがみつく患者を連れ去る事になる。これは大問題だ。
延命治療を受けたはずなのに死んでしまうなら、杵原の体を保管している生命維持装置はリコールされるだろう」
「それはまずいね」小夜は苦笑した。
「あとは、集まった仲間の意識と混ざり合っていくうちに、『龍』にはなれるが『杵原真綸香』ではなくなってしまう」
「え、怖いこと言う……」
「あと……」
「まだあるの?」
杵原はげんなりしていた。
「地縛霊同士がどうやって集まるかだ」
俺の言葉に杵原も小夜も沈黙してしまう。そもそも東伏見公園から動けない杵原は、仲間を集める手段がない。
「なるほど。僕の夢がとても大きいってことはよくわかったよ」
「あきらめるつもりはないのか?」
「無いね! 仲間が集まらないなら、私が分身したらいいんだよ」
分身――杵原の意識を浮遊バクテリア内で複写して、体積を増やすということか。
確かにそれなら主人格は薄まらないが……。
「どうやって」
「それはまだわかんないけど。死ねない人生なんだもん、僕はでかいことを成し遂げちゃうのさ」
杵原は宣言する。
意外にもこの夜の面談は進展があった。俺は報告書に書き込める事柄としてメモを残す。
「ところで、囮はどうなのよ。最近でかいことあったでしょう」
「は――」
杵原にしては鋭い。
俺は不意を突かれて取り繕うことができなかった。
「ほら、あったんだ」
「まぐれ当たりかよ……」
「いやいや、僕も馬鹿じゃないからね。いつもと違うことはわかるよ」
――可能な限り普段通りに振舞っていたつもりだが、どうやら杵原にはわかるらしい。
「年の功か、三十路は伊達じゃないな」
「二十八。二十八だから」
軽口で流そうとした俺を小夜が見つめている。『いつもと違う』という言葉を聞いて、自分のせいではないかと考えたのだろう。「悩んでたりする……?」と問いかける。
「いや、小夜のことじゃない。別件の仕事でな、まあ厄介な案件があるのさ」
時刻は四時。
まだ夜闇は暗く、風は冷たい。
木造デッキで立ち話をしているのも辛くなってきた。
「散歩しないか?」
俺はコートのポケットに手を差し込んで、肩を震わせながら二人に言う。
「いいよ」と杵原。「公園内ならどこでも」
「……どこに行くの?」と小夜。
「この公園と並んで東伏見神社があるだろ。往復して歩くだけ」
公園の舗道をなぞって神社へ進む。女二人の雑談は尽きない。
『龍』の話題は尾を引いて、触った時の感触や都市に出現した時の驚きを、小夜は楽しそうに語る。
少し後ろをついて歩く俺は、明日の仕事について考えていた。
武蔵関公園で、おそらく瀬川が待っている……。
第七話 都市の幽霊 下
ふと気づくと、俺は高層ビルの屋上に立っていた。
景色は見渡す限り茫漠としていて、乳白色の空間が果てもなく広がっている。
このビル以外に人工物はおろか、海も山も、空さえも無い。
無限の空間にビルが存在し、その屋上に俺だけが立っている。
音階を持たぬ笛のような風が横殴りに吹きつけ、俺の身体を弄んだ。
落下防止の柵はなく、まるで見えざる意思が「落ちろ」と責め立てるようだった。
俺は落下への恐怖感から身を低くして風の抵抗を減らす。
ふと、俺の腰には命綱が括りつけられていることに気付いた。だがそれが、何に繋がっているのかは分からなかった。
綱の先を視線で辿ると、ビルの塔屋へ続いている。その扉の向こうで何かに括り付けられているのか、俺には窺い知ることができなかった。軽く引っ張った時の張力、その手ごたえが何かに繋がっているということを知らせてくれる。
屋上の縁へ移動し、俺はそっと下を覗いた。
何故そんな危険を冒すのか自分でもわからない。
無意識のうちに誘われた――衝動と言ってもいい。
深い、深い、奈落の穴。
眩暈がするほどに底が見えない下の景色。
ビルの壁面には人が立つのがやっとのわずかな段差があるのを見つけた。
恐ろしいことにその断崖に、饗庭小夜が居た。
「小……夜……?」
呼びかけるが、恐怖で声が出ない。
そんなところにいてはいつ足を滑らせてしまうかもわからない。見ているこっちがはらはらしてしまう。
気付いてもらえるように、俺は何度も叫ぶ。
「小夜……! 小夜!!」
声が届いたか。小夜はこちらに振り向いた。
彼女は目が合うと我に帰ったように表情が宿る。酷く焦った様子で青褪め、ビルの壁面に背を沿わせて助けを求める。
なんでそんなところにいるんだ。――とは思わなかった。なんとなく、下を覗くときには彼女がいるのではないかという予感がしていた。俺は彼女を助けるためにここにいるのだと思った。
「待ってろ! 俺が助けてやる……!」
覚悟を決めて、命綱の張りを確かめる。
強く引っ張ってもびくともしない。この綱を垂らして壁面を降りていけば、助けられるかもしれない。
俺はゆっくりと、屋上の縁に足を垂らす。吹き上げるビル風に背筋が粟立つ。勇気を振り絞り、慎重に奈落へ降りて行った。
綱を握る手が汗で滑る。爪先の感覚だけで窓の縁に乗り、体重をかけてよいかを吟味しながら着実に下降する。足の親指の先だけで壁面の僅かな凹凸を捉えて踏ん張り、両腕は綱を巻き付けて操る。小夜が居るところまではあと4メートルほどだろうか。しくじれば死ぬ。
「……大丈夫、もう少しだから……」
しかし、無情にも俺の体重を支えていた屋上の縁がもろく崩れ落ちた。コンクリートの破片が頭上から降り注いで、頭を庇う。瞬間視界が回転する。
「しまっ――!!」
全身を恐ろしい浮遊感が包んだ。
俺は落下して宙にぶら下がる。命綱が張り詰めて軋む。
呼吸を忘れ、俺は状況を確かめる。
現在位置は小夜のいる断崖を超えて、かなり下まで落ちてしまった。
綱は俺の腰に括り付けられているため、体勢は仰向けで、起き上がることすらままならない。冷静になればなるほど絶望的だと悟る。
断崖に立つ小夜は声もなく、心配そうな視線で俺を見下ろしている。
――このままじゃ命綱が持たない……せめて小夜だけでも……。
死を悟った俺は、小夜に声をかける。
「俺のことはいい、この綱を登れ!」
小夜は頷き、張り詰めた綱を掴んで上へ登っていく。
踏ん張る際のわずかな振動が、俺の体を左右に振る。
擦れた綱が少しずつ断裂し、小夜が屋上に手をかける頃には細い糸になっていた。まもなく命綱が――切れた。
ばちん。と音を立てて、張力を失った綱が飛び掛かる蛇のように俺のところに飛んできた。
身体は自由落下を始める。
すぐ横にあるビルの壁は目まぐるしい速度で流れていく。
壁に手を伸ばしても、指が弾かれてしまうだろう。
俺はひたすらに落下する。小夜がいるはずの屋上はもう遥か天上にある。
死への恐怖に意識が遠のいてゆく……。
地面に体を打ちつけたような衝撃に飛び上がり――悪夢から目が覚めた。
「……ゆめ……?」
考えてみればあまりにも現実離れした状況だった。
現実離れした景色。終わりのない乳白色の奈落。
大丈夫、ただの夢だ。俺は生きている。
それでも心臓は早鐘を打ち続けていた。
鼓動が落ち着くまでしばらくかかるだろう。
全身もびっしょりと汗ばんでいる。
――これほどの悪夢は、人生で初めてみた。
何故そんな夢を見たのか、俺は内省する。
悪夢に現れたメタファーを分析して、自分なりの解を得ようとした。そこに隠された意味を見出すことで、安心したかったのだ。
巨大な高層ビル。腰に繋がる命綱。それが千切れ、落下する……。
「去勢恐怖か」
と、俺は独言つ。
ここ最近の心労を思えば納得できる解釈だ。
『去勢恐怖』。自身の男性性を失うことに対する恐怖。ビルや命綱は一種のファルス・メタファーだろう。
思い返せば、俺は小夜と共に過ごすようになって、頑なに性欲を押し殺していた。そのくせ何故だか女性に関する受難が立て続けに舞い込んでいるからたちが悪い。きっと無理が祟ったのだろう。しかも今日は小夜が居ない日で、夜には瀬川と会う。悪い条件が重なっていた。
自室のベッドから上体を起こし、横に視線を向ける。いつもと変わらないベッドなのに、広く感じてしまう。
夜勤明け、別れ際の会話を思い出す。
❖
「帰らなくていいんじゃないか?」
杵原との面談から帰ってきた俺は、部屋で帰り支度をしている小夜に向かってそう言った。
朝日が昇れば六日目になる。建前上『保護』という形をとっているこの家出は、捜索願いが出されないようにと三日に一度は帰宅する約束だった。
「定期的に帰れって言ったの、尾鳥さんじゃなかった?」小夜は意地悪に口角を吊り上げた。
「きっと通報なんてしないとわかった」
「子供の保証は信じないって言ったのに?」小夜はますます意地悪くとぼけてみせた。
確かに、初めは警察の目に付くことを恐れていた。しかしこの生活を続けていくうちに慣れ始めた自分がいる。経験則でしかないが、小夜の親は通報しないだろうと確信している。
違法薬物に耽溺している手前、娘が帰ってこなくとも通報できないだろう。ならば、一時帰宅という行動になんの意味がある。
「ここは安全だ。きっとこのままここで暮らしても、誰も何も言ってこないさ」
「それでも、帰らなきゃ」
意外にも小夜は、真正面から俺の提案を断った。
目には蝋燭の火のような、弱弱しくも確かに灯る意志が見える。
「小夜が帰ったところで、またすぐここに家出してくるじゃないか」
「……まぁね」
「なら帰る意味なんてない」
「すぐに戻るんだから帰ったっていいじゃんか」
「小夜……」
「どうしたのさ……? 尾鳥さんらしくない」
小夜の言葉に、俺は言葉が詰まってしまう。
焦りを悟られた。確かに俺らしくない。
だが、焦りもする。
当然だ。
初めて小夜を部屋に招き入れた時から、気付いていた。
ずっと見えていたのに、見えないふりをし続けた。
見えないものを見るのが、俺の仕事のはずなのに。
「傷だよ……――」
俺は意を決して、言わずにいたことを小夜にぶつける。
「――小夜が家に帰るたびに、蚯蚓腫れが増えてる」
小夜の内股、首、二の腕……服に隠しているが、きっと彼女の背中には数えきれない蚯蚓腫れが刻まれているのだろう。
初めは自傷行為か何かだと考えていた。小夜を保護したあの元旦の早朝。内股にある傷はストレス発散のためのレッグカットだと……。
しかし違うのだ。小夜の精神が安定していても、一時帰宅の後には傷が増えている。
原因は明白だ。小夜の親は薬物依存だけでは飽き足らず、子供を虐待している。
それも相当幼いころから、日常的に、だ。
これ以上は見過ごせない。帰すわけにはいかなかった。
俺の覚悟が伝わったか、小夜は少し苛立ったように頭を掻き、雰囲気が刺々しくなる。
「お母さんはさ――」
彼女の声や態度が硬い仮面を被る。
不良で未成年の家出少女――五日前の饗庭小夜に戻っていた。
「時々やさしいんだ。……もしかしたら、私が頑張れば、また笑ってくれるかなって、どうしても考えちゃうんだよ」
悲しい話だ。と、俺は憐れむ目をして、小夜は造花のように微笑む。
「捨てきれない希望に何回裏切られたんだ」
俺は小夜の肩に手を乗せる。どうか諦めて欲しいと願った。
「だって……私にはわかんないよ……」小夜の声が上擦る。「機嫌がいい時はハンガーで叩いてこないときだってあるんだよ?」
俺はやるせなさに耐え切れなくなって、小夜を抱き締める。
「普通の家庭ってのは、機嫌が悪くったってお前を殴らない」
言いたくはない。でも、言わなければならない。
彼女が大切に抱えている希望の卵は、もう腐っているのだということを。
窓の外を通過する貨物列車の走行音が響く。
それが遠くへ走り去ると一層深まった沈黙が部屋を圧した。
「……普通って、なんだよ……」
小夜は床の一点を見つめて呟く。
「生まれたときから、私の普通はこうだった……! 親が殴るのなんて普通でしょ! 薬キメるのなんて普通でしょ!? 私の生きてきた人生だって、普通なんでしょ……?」
嗚咽。
小夜は悲しみの濁流の中で、溺れながらも言葉を発する。
「ねぇ、そう言ってよ。尾鳥さん……っ。私の世界は間違ってないって言って」
懇願し、俺の胸を叩く。
小夜の拳は痛くない。だが、胸が痛んだ。
「じゃなきゃ……耐えられないよ……」
俺は、突き放すように告げた。
「間違っている」
親が理由もなく暴力をふるうのは間違っている。
違法薬物に依存するのは間違っている。
小夜の生きてきた人生は――普通じゃない。
「この先、小夜が大人になった時に思い知ることになる。君の人生は他に類を見ないほどにまともじゃない。『周りのみんなもなんだかんだ大変だったはず』とか、『形は違えど苦労を乗り越えて生きてきたんだろう』とか、そんな幻想は捨てろ。
君以外のみんなは、もっと穏やかで幸せに生きてるもんだ」
「そんな……」
小夜は膝から崩れ落ち、それこそ急所を殴られたような衝撃を受けている。
あまりにも常習的に異質な行為が行われていたせいで、小夜は認知そのものが歪んでしまっている。
子供のころに形成された価値観が、世の中の普通とどれだけ乖離しているのか分からなくなっているのだ。
「大人になったら、いつか報われる日が来るって思ってたのに……」
「同じ痛みを抱える理解者と出会えると思っていただろう。俺も残念だよ。
だが、諦めてくれ」
小夜は声を押し殺して泣いた。そして吐き気に震えるように痙攣し、俺の部屋から飛び出していった。
追いかけようとしたが、躊躇いが足をもつれさせる。玄関を出るとマンションのエレベーターは下降していて、そのまま見失ってしまった。
家族関係の修復を諦められない小夜は、家に帰ったのだ。
常習化した虐待が改善すると信じ、薬物依存から脱却すると信じ、腐った卵を持ち帰る。
結果は明らかだ。
❖
日付は一月六日。
饗庭小夜は尾鳥との口論の後に部屋を飛び出し、誰もいない武蔵関公園で時間をつぶしていた。
懐に仕舞っていた電子タバコに気付いて卓の上に取り出すと、しばらく眺める。
結局、彼女は火をつけることはなく、懐に仕舞った。
「追いかけてこなかったな……」
当然か。と、饗庭小夜は諦観する。
――尾鳥さんのところを抜け出したのは私の方だ。
すっかり日が昇ったのを見届けると、頃合いを見てベンチから立ち上がる。
自宅に辿り着くと玄関には入らず、荒れた庭の横を進んで隣家との境にあるコンクリートブロック塀をよじ登り、自室の窓から帰宅する。
「おかえり」
母の声がした。
「え……?」
「何よ。文句あるわけ?」
母親は娘に対し脅すように言う。論理を跳躍した、理不尽な怒りが兆す。
饗庭小夜は、一瞬でも薬の抜けた優しい母親なのではないかと期待してしまった自分を呪った。
「あんたさ、最近いないけど、サツにバラしてんじゃないわよね」
小夜は首を振る。
「あの、さぁ……」
恐る恐ると言った調子で母親に声をかける。
「警察には言ってないよ。だけど、その……変な薬……? やめてくれないかなって……」
そんな饗庭小夜の提案に、母親は無言で見つめた。
娘から面と向かって薬物使用を咎められるのは、初めての出来事だった。
母親のとろけ切った脳内で思考が巡る。娘が警察に相談する可能性、すでに別の誰かに伝えている可能性、自己保身のためにはこれ以上娘を外に放り出すわけにはいかない。
「……馬鹿なこと言うんじゃないよ」
母親は小夜の部屋に押し入り、物干し竿にかけてあるステンレスハンガーに手を伸ばした。
小夜は。「あぁ」と思った。「いつものだ」と悟った。
大事に抱えた希望の卵を守るように、静かに身を丸め、毒虫のように蹲った。
身を裂くような痛みが背中に走り、唇を引き結んで顎に苦悶の皺が寄る。
これが饗庭小夜の世界。
これが饗庭小夜の日常。
これが饗庭小夜の普通。
――今は思い出したくないのに……。
小夜は慣れ親しんだ痛みに心が折れそうになった。
――なんで、尾鳥さんの顔が頭に浮かぶんだろう。
饗庭小夜は知ってしまった。私の世界は間違っていると。
小夜は体験してしまった。安全な夜を過ごす日常を。
私は気付いてしまった。これが異常だってことを。
「いい加減にして!!」
私は燃えるように痛む背中を反らして立ち上がり、母の腕を掴んだ。
「もううんざりだよ! こんな人生!!」
手に持っていた卵を投げつけるように、私は母親に初めて抵抗した。
とても怖かった。けど、今まで感じたことのない高揚感で脳が痺れる。
力任せに掴んだ母の腕は、今までさんざん痛めつけてきた割には対して力強くなかった。簡単に押さえつけることができて、「勝てる」と直感した。私は万年床に押し倒し、馬乗りになる。
「全部警察にバラす……! 私への仕打ちも! わけわかんない薬も!!」
今まで出したことのない大声が出た。妙な全能感に笑みがこぼれる。こんなに弱かったんだ……私の母親は。こんなに、こんなにどうしようもなくて、ちっぽけだったんだ……。
「おい小夜」
横から呼びかける声。
私は咄嗟に振り向くと、顔面に足蹴りを受けて星が散る。鼻がじんと痛み、血の味が舌に広がる。
「調子こいてんなよお前、ぶち殺すぞ」
その言葉遣いで父親だと理解する。自室で騒いだせいで駆けつけたのだろう。
「おい、灯油もってこい」
父は言う。私にじゃない。母に指示したのだ。
私は視線でい抜かれたまま、母を追いかけることができず、父を睨み返すことしかできない。
「ポリタンク全部だ!」
言葉の意図が読めなかった。父がなぜ灯油を持ってくるように言ったのかわからない。ただ、とても不吉な予感がしていた。
逃げ出した方がいい。本能ではわかっている。しかし父の威圧感に身動きができない。帰宅することを引き留めていた尾鳥さんのことを思い浮かべて、私はここに戻ってきたことを後悔する。
❖
悪夢のせいか二度寝をする気にならなかった。
俺はPCデスクの前に座り、書き溜めていた報告書をぼんやりと眺める。
正直なところ集中力は皆無だ。
就寝前の口論の果てに出て行った小夜のことが頭に思い浮かんでは、あの断崖の光景が脳裏に展開される。
俺の中では、夢は浮遊バクテリアと同じ解釈だ。
睡眠中の意識が夜に溶け出し、霊素となって他者の意識と感応し合うことで夢の映像が生成される。
だからあの悪夢も、俺に影響を与えた他者の意識があるということだ。
それはどこかで息を潜めているであろう瀬川忍であったり、新潟に帰った貝木椛であったり、虐待を受けている饗庭小夜であったりする。
パソコンの画面の時計が『12:00』と表示される。
「……たまには、昼の公園にでも行くか」
そう思い立ち、武蔵関公園へ出かける準備を始めた。
昼日中の公園はそれなりに人が集い、主に老人や子連れの母が多かった。池の外周をウォーキングしている人も見える。夜の静謐とは対照的な活気で満ちていた。
もしかしたら小夜はここに居るような気がしたが、これだけ人が多いと別の場所に移動したかもしれない。いや、やはり帰ったのだろう。
俺は未練がましく空想に耽る。
あのとき、うまく引き止めることができていれば、小夜は家に帰らなかったのだろうか。もっと前の段階から少しずつ普通の日常を体験させていれば、家庭の問題がいかに異常であるかを理解してくれたのかもしれない。
――普通、か……。
『普通って、なんだよ』
小夜の言葉が脳内で再生される。
――なんなんだろうな。普通って。
人並みの幸せを感じられる生活が『普通』なのだろうか?
『普通が一番だ』という言葉が示す生活水準は、その実、多くの人間を切り捨ててはいないだろうか?
小夜の人生は俺から見て確かに不幸で、普通ではなかった。しかし、小夜本人からしてみればこれが普通なのだ。虐待される日常も、薬物に依存する親も、他人の生活と比べて劣っていることも含めて、小夜の日々が形成されている。
翻って、俺は普通だろうか?
小夜に高説を垂れた俺は、それが言えるような人間だったか?
――違う。
俺もまた、世の『普通』からあぶれた人間だ。
『普通』の平均値から逸脱した不良品の一つだ。
この昼の公園に居ていいような人間ではない。
『普通』であることに挫折したからこそ、特別な自分であろうとした。
本当は青空の下で生きていたいくせに、世界を見守る夜間勤務に落ち着いている。俺は……都市の幽霊だ。
それなのに、小夜が自分なりに築き上げていた平穏を、独り善がりな正義感で不躾に踏み入って、壊してしまった。
恥を悔やみ、俺は仰け反るようにベンチの背凭れに身を預けた。
冬の薄曇りな空は穏やかな青色をしている。雲間から差し込んでいる陽光が砕けていた。
❖
夕暮れになり、武蔵関公園はすっかり人気のない場所に変わる。
俺は日がな一日、家と公園を行ったり来たりして無為な時間を過ごしてしまった。心のどこかで小夜に会えないかと探していたのだ。
だが――そうすぐそこに夜が迫っている。
仕事の時間だ。
今日の業務内容はきっと瀬川忍の案件だろうという予感があった。彼女に対する返事を、決めなければならない。
「……尾鳥君って結構暇なのね」
申し合わせたように、瀬川が木陰から現れた。
彼女はどこからか調達したであろう冬用の学生服を纏い、首元は長いマフラーを巻いている。
こうして見ると本当に、初恋の記憶が色鮮やかに甦るようだった。しかし同時に、不吉な気配を纏うセーラー服の家出少女とも面影を重ねてしまう。
――まぁ、瀬川の方が一層凶悪なのだが……。
「暇に見えるか? これでも忙しくしているんだがな」
「そうかしら? 日が暮れるまで公園でぶらぶらしていたようにしか見えなかったけど」
「……いつからいた?」
瀬川は不敵な笑みを浮かべるのみ。ずっと見張られているのであれば、やはり俺の住所は特定されているだろう。抱えている仕事の内容も、おそらく把握されている。
――勝てそうにないな。
俺は密かに結論付けて、かえって体が軽くなる。
縄張りとして居座っていたベンチから立ち上がり、公園入口にある自動販売機へ向かった。
「奢ってもらったからな。今日は俺が買うよ」
「あらうれしい」瀬川は後ろ手に組んで付いて歩く。
「カフェオレでいいのか?」
瀬川は頷く。俺は硬貨を入れてカフェオレ缶を選択し、手渡した。
「ありがと」
少女の指が触れ、缶を受け取る。さりげない接触ではあるが、確実にわざとやっている。
「ブランコのところにいるわね」
「ああ」
――さて俺は何を飲もう。
一人自動販売機と向き合って、商品を眺める。下段は背の低い子供用にジュースが並んでいるが、上段にはしっかりコーヒーがラインナップされていた。……ますますモーニングショットを選んだ瀬川の意図が謎だった。
とはいえ、あの日初めて飲んだコーヒーはなかなか悪くない味だった。
なので俺も瀬川に倣い、同じ商品をリピートした。
「……あら、ふふ」
ブランコに座って開栓した俺を見て、瀬川は笑った。
同じ商品を選んでくれたことが嬉しかったのだろうか。
「それ朝専用コーヒーよ」
「わかってるよ……」
――お前が選んだんだろうが。
納得いかないが、俺はコーヒーを一口啜り、気を取り直す。
「早速だが、本題に入ろう。瀬川には待ってもらったしな」
「そんなに急がなくてもいいのに。でもちゃんと考えてくれたのね」
瀬川が白々しく喜んで見せた。
選択肢なんてないような状況に追い詰めておいてよく言う。
「でもね――」と、瀬川は人差し指を立てた。「少し早いわ。あと二分待ちましょう」
――早い?
瀬川の言葉の意味を理解できなかった。二分待って、どうなるんだ?
俺はそう問いかけようとしたが、瀬川は未だ口元に指を立て続けている。『静かに』ということだろう。
静かな夜。
池で鴨が羽ばたく音が一つしたきり、東京とは思えない沈黙が包んだ。
一分経ち、俺は眉をひそめて瀬川の顔を窺う。あんまり真剣だったので、携帯端末にアナログ時計を表示して秒針を追いかけた。
一分三十秒。四十秒。五十秒……。
「来たわ」
不意に言う瀬川の声にぞっとして、俺は警戒する。何が来たんだ……?
鬱蒼とした木々の闇をゆらゆらと歩く人影、足元は覚束なく、いまにも倒れそうな少女の陰には見覚えがあった。
「……小夜――!?」
饗庭小夜だ。
俺はブランコから弾かれるように駆け出し、今にも倒れそうな小夜を支える。すぐに違和感に気付いた。立ち昇る異臭は何だ……?
全身が濡れていて、氷のように冷たい。
触れた衣服から染み出す液体が妙にひやりとしていた。気化しやすい謎の液体と、独特の臭い――灯油だ……!
「おい……! 大丈夫か!!」
小夜の体を揺する。冬の外気に曝されて肉体から熱が奪われていた。震える体力すら残っておらず、俺の腕の中で意識を失っていた。
「ひどい親もいるものね」
静観していた瀬川は言う。
どういうわけかは知らないが、彼女はこうなることを予知していたみたいだった。当然のように小夜の家庭の事情も把握している口ぶりだ。
――いや、今はいい。
「話はあとだ! 救急車を!!」
❖
閑静な住宅街のはずが、その夜だけは別世界だった。
武蔵関公園の前に止まった救急車の赤色灯が、裸の枝を茜色に染めていた。年明け早々、異様な騒ぎに引き寄せられた野次馬たちが、冷たい吐息を漏らしながら騒然とした空気を作り出す。
小夜は担架で運ばれ、救急隊員の「低体温と外傷あり!」という声が聞こえた。俺は距離を取ったまま、それ以上近づかなかった。
あくまで通報者――その立場を崩せば、すべてがややこしくなる。付き添いの申し出もせず、警察の誘導でそのまま事情聴取を受けることになった。
瀬川の姿は、気がついたときにはもうなかった。
後で医師から聞かされた診断は、予想以上に酷かった。
右前腕の橈骨骨折。灯油の揮発による中等度の低体温症。腹部には打撲痕があり、臓器――具体的には肝臓に軽い裂傷が見つかった。炎症を起こした皮膚は赤く爛れており、乾燥した冬の風がそこにしみただろうと想像するだけで、胸の奥が冷えた。
すべて、実の親による暴力だった。
数日後、ようやく見舞いに行くことができた。
名目は発見者としての様子伺い。
病院の受付で病室を尋ね、白く消毒液の匂いが満ちた廊下を進む。
小夜は個室のベッドに寝かされていた。
天井を見つめたまま、こちらに気づいてもまばたきひとつしなかった。
声をかけようとして、喉が詰まった。
これまでの、どの彼女とも違う表情をしていた。
薬物依存の親に暴力を受けていたこれまでの饗庭小夜とは違う。
俺と共に、不思議な夜を過ごしたこれまでの饗庭小夜とも違う。
希望を失って絶望した饗庭小夜が、そこにいた。
脱力してベッドに転がる腕。右腕にはギプス、もう一方には点滴のチューブ。卵を温めることを止めた手が無為に開かれている。
青空を飛んで行けると夢見た雛は、夢を見たまま死んだのだ。
「小夜……」
俺は、かけるべき言葉を探した。だが見つけられなかった。
「私、がんばったんだよ……」
天井を見つめたまま、小夜は言う。
「きっと最後のチャンスだって思ったの。次に尾鳥さんのところに行けば、もう家族のところには帰れないなって思った。……だから、『もう薬止めて』って、『もう叩くのやめて』って、言いたいだけだったの」
痛切な思いが手に取るようにわかる。
幼いころから虐待が常習化した家庭で、小夜はそれが当たり前だと思いながら生きてきた。
ところが、はじめて安全な夜を経験し、全く異なる価値観に触れた。触れてしまった。
小夜は戸惑っただろう。自分の人生が世の常識から逸脱していることを知り、それでも家族の可能性を信じて、親に説得を試みたのだ。
誤算だったのはこの説得が失敗することを知らなかったことだ。
小夜は薬物依存者に説得が通じないことを知らなかった。
子供を虐待する親に説得が通じないことを知らなかった。
初めからあの家に救いは無いのだと、知らなかったのだ。
「もう夕方だね」
小夜は目に涙を溜めて窓外から差し込む茜色の空を眺める。
「なんだか空が崩れてくみたいだ……」
このまま世界が終わっちゃえばいいのにね。と、小夜は呟く。
俺は、彼女の親がどうしても許せなかった。
第八話 告白/酷薄 下
東伏見駅北口を出て〈かえで通り〉を進み、富士町三丁目を俺は徘徊していた。
一軒の家の前で、足が止まった。注意深く見なければ見過ごしてしまいそうな地味な建物――だが、微かな違和感が引っかかった。
その家はうらびれた雰囲気を纏い、郵便物がたまったまま放置されている。
半ば開かれたカーテン越しに覗く室内は、ひどく荒らされ、まるで空き巣に入られたような様相……そのくせ玄関前だけは、妙にこざっぱりとしていた。
――家宅捜査を受けたな。
郵便受けに書類が詰め込まれているのは、ここ数日家主が不在であることを示している。
玄関だけが片付いているのは、家宅捜査の際、押収品を運び出すために通路を確保した結果だろう。
玄関先の雑草や折れた枝、鉢植えは、無造作に左右に押しのけられている。壁際の室外機も、無理やり取り外されていた。……薬物の隠匿を疑われた家に捜索差押えが入った。そう見て、まず間違いない。
つまりここが、饗庭小夜の実家。
住所を突き止めるまでに大した苦労もなかった。
小夜から聞かずとも、武蔵関公園に徒歩でアクセスできる住宅街は絞られる。虐待の目撃情報が過去に上がっていないことから人通りの多い立地は除外して、目星の付いた場所を地道に歩き回れば特定は可能だ。
小夜が倒れてから十日が経過している。一月も後半に入り、街に新年の空気は薄まっていた。
その間、俺は仕事を放り出し、昼の街をあてもなく彷徨っていた――
❖
小夜の両親は、病院からの通報を受けて警察に事情を聴かれた――いわゆる任意聴取というやつだ。
とはいえ、実態はほぼ拘束に近い。医師が確認した背中の蚯蚓腫れは、過去からの繰り返しの暴力を物語っていた。外傷の一部は治癒しかけており、新旧の痕が重なっていたという。診察した医師は即座に「継続的な虐待の疑いあり」と判断。児童虐待防止法に基づき、病院側が警察と児童相談所に通報した。
法律上、医療機関には通報義務がある。それを怠れば、今度は医師側が責任を問われる。
だからこそ、今回は異例の速さで行政が動いた。警察による捜査と並行して、児相が一時保護の措置を取り、今は施設ではなくこの病院が一時保護の場となっている。
俺は、あくまで発見者という立場で病院を訪れていた。警察からも継続的に連絡は来ているが、今のところ、俺と小夜との個人的な関係が表に出た様子はない。
もちろん油断はできない。一度でも口を滑らせれば、それで終わりだ。
「親、たぶんもう無理だと思う。……なんか、児相の人が『親権停止の方向で調整してる』って言ってた」
見舞いのとき、小夜はそんなことをぽつりと口にした。
「今はその児相の人が『保護者代行』っていうの? 面会とか診療の同席とか、全部やってくれてる」
その声に、安堵も悲しみもなかった。
ただ、疲れたように俯いていた。
ベッドサイドに立った俺は、言葉を返せずにいた。
❖
これで、小夜の家庭をめぐる問題は一件落着……とはいかない。
――いかせてたまるか。
俺は玄関の横、門柱に嵌められた表札に視線を落とす。
『饗庭』
守るべきものと切り離すべきものを結ぶ血の鎖をただ見つめる。
両親の名前を知りたいが、名字しか書かれていない。
いっそ家に忍び込もうかとも思ったが、路肩に停まる車からの視線を感じ、思い直した。
――警察か……。薬物関連で監視の目を光らせているみたいだな……。
それならば、家の中に入ったところでめぼしいものは見つからないだろう。ただの野次馬と思われているうちに、俺はこの場から離れる。
携帯端末で一度時刻を確認する。
十三時を少し過ぎた昼下がり……。付近の喫茶店か飲食店を周れば情報が得られるかもしれないが……。
「何が目的なの?」
饗庭家から離れた路地を一人で歩いていると、背後から問いかけられて俺は振り返る。
昼の街にジャージ姿の瀬川忍が立っていた。
「……瀬川……?」
「ひどい顔をしてるわよ」
俺はばつが悪くなって無精髭の伸びた頬を掌で撫でた。張りのない頬がいやに冷えている。
「まだお昼も食べていないみたいね」
思わず変な笑いがこみ上げた。
「そういうお前は呑気なもんだな。警察がうろついてるっていうのにこんなところにいていいのか?」
完全犯罪か知らないが、こうもふてぶてしく殺人犯が街を歩けるものなのか。
瀬川は恥じることなど何もないというように腰に手を当てて胸を張る。
「警察は私捕まえられないもの」
「……どうやって生きてるんだ?」
「ふふ。先に聞いたのは私よ。仕事もしないで尾鳥君は何をしているの?」
ここ四日間、俺が歩き回る目的は何か……。
「……わからん」
瀬川の問いを誤魔化した訳ではない。
本当に、自分でも何がしたいのかわからなかった。
胸の奥がむかつき、仕事が手につかないのだ。
小夜の病室には児童相談所の保護者代行が忙しく書類を整えているので、毎日見舞いに行くのも場違いな気がしていた。
だから、饗庭家を特定するために街を徘徊していた。特定できた後のことは、なにも考えていない。
「何がしたいんだろうな」
「ふふふ……」瀬川は、答えを知っているかのように嗤う。
目的を見失って立ち竦む俺の手を取って、瀬川は先を案内する。
「どこに行くつもりだ」
「尾鳥君が聞いてきたんでしょう? 私がどうやって生きているのか……サイゼリアにでも行きましょう」
❖
俺と瀬川はかえで通りへと戻り、都道に面した立地に店を構えるファミリーレストランに入った。
メニューを開いて眺めるものの、特に惹かれるものがない。ページを捲っては戻り、また捲っては戻っての繰り返しだ。
パスタ類がまとめられたページで手が止まる。ふと目に入ったカルボナーラに、小夜とファミリーレストランへ出かけたときを思い出し、これに決めた。
「単品で足りる? 大盛りじゃなくていいの?」
「ああ」
「温玉も乗せられるわよ?」
――お前は母親か。
俺は目を細めて首を振る。
「瀬川は何にする」
「そうねぇ」と卓に広げたメニューを眺め、「ピザの気分ね」と注文を決めた。
オーダーを店員に渡して料理が届くまでの間、俺は携帯端末を取り出して操作を始めた。
すると対面の瀬川が、少し身を乗り出してくる。
「ちょっと、画面ばっかり見てないで会話をしましょうよ。子供じゃないんだから」
ちくりと小言が刺さる。
見た目では父と娘に見えなくもないが、内面はむしろ母と息子のようだ。本来は同年代のはずなのだが……。
「いろいろ知りたいことがあるでしょう? 今しかないわよ」
あまり気乗りしないが、『今しかない』と言うのなら聞いておかなければ勿体無い。俺は端末から顔を上げて椅子に凭れ、ため息混じりに瀬川と向き合った。
「じゃあ、瀬川は人間か?」
「失礼ね」眉が跳ね上がる。
「聞いておくべき質問だろう。『若返り』なんて霊素可視化現象では説明がつかない」
「あら……周波数調整員ってオカルトな仕事してるんでしょ?」
「浮遊バクテリア専門だ。科学的に証明出来る領域しか対応出来ないし、実情はそこまでオカルティックじゃない。……この際だからはっきり言っておくが、元の姿に戻すことは出来ないからな」
「ふふ。それはいいのよ。女は若い方が嬉しいし」瀬川は頬杖をついて口角を吊り上げた。「むしろ戻されちゃ困るもの……ねぇ」
二十五歳の瀬川忍は、夫を殺して行方をくらませている。まさか犯人が十七歳に若返ったなんて思わないだろう。
警察はきっと、この事件を解決できない。
「とにかく、私は浮遊バクテリアなんてものじゃないわ。ちゃんと人間よ」
「そうか。……なら次は、どこで暮らしているのか教えてくれ」
人間だというのなら眠る必要がある。食べる必要がある。その上、社会に溶け込むのなら身だしなみを整えていなければならないものだ。
瀬川はもう『瀬川忍』を名乗れない。ホテルやネットカフェ、銭湯にカラオケ、その他あらゆる場所で身分証明ができないのだ。一体どうやって生活しているのか。
「シェアハウスを利用してるわ。上石神井駅からすぐのところ」
「『瀬川忍』じゃ警察に見つかるだろ」
「外国人向けだから身分証明の必要がないの」
……そんな手口があったとは。しかし、人を殺す前は一般的な主婦であったはずの瀬川が、なぜそんな知識を持っているのだろう。
問いを重ねようとしたが、瀬川は項垂れて愚痴をこぼす。
「でもねぇ……隠れて暮らす寝床は確保出来てるけど、さすがに金銭面では厳しいものよ。口座からお金は下ろせないし……もし尾鳥君がいいなら、私のこと匿ってくれないかしら?」
そんな提案に、俺は鼻で笑った。
「誰が人殺しを家にあげるかよ」
「冷たいわね」
にやりと笑みを作りながらも半目で睨む瀬川の心が見えず、俺は肝を冷やした。会話が途切れる瞬間、幸いにも店員が料理を運んできた。両者の間に流れる沈黙は、提供される料理の香りに紛れる。
――人殺し、か……。
あくまでも軽口のつもりで言ったが、半分は本音だ。
甘えてくる瀬川を家に上げて、寝首を掻かれる未来が容易に想像できる。
店員が下がり、瀬川は仕切り直すように声音を明るくした。
「こう捉えてはどう? 『久しぶりに再会した初恋の相手が宿に困ってる』……匿ってあげたくならないかしら」
「同情を誘おうってか」
「考えてみなさいよ。確かに私は夫を殺したけれど、その前段階ではずっと被害者じゃない?」
――女特有の被害妄想か。
そう一蹴しかけて、沈思する。
瀬川は夫を殺した。
だが、そこに至る過程はどうだったか。
夫は瀬川を家庭に入れ、主婦として献身した。その果てに浮気の事実を知ったのだ。
病を患い、子を産めなくなった不運を責めることはできないだろう。
瀬川は俺のカルボナーラにフォークを突き立て、一口分攫っていく。
俺は咎めることはせず、咀嚼する十七歳の唇を見つめた。
饗庭小夜の面影を重ねて、微かに憐憫の念が湧いている。
「世の中には、二つの悪があると私は思うの」
瀬川の声色が、鋭くなった。
その言葉に、彼女の話の癖を思い出す。
突飛に見える話題も、ちゃんと繋がるのだ。
「一つは『共感できる悪』。もう一つは『どうしようもない悪』」
続く言葉は、きっとこの話題の核心に急接近するだろう――
「ねぇ、尾鳥君。人を殺していない『饗庭崇』と『饗庭愛美』は、私よりもまともな人間だと思う?」
「……は?」
――タカシと、マナミ……?
思考が途切れかける。ぎりぎりの思考回路が高速に回転し、瀬川の言葉をなんとか処理した。
饗庭という名字から繋がる二人の名前……小夜の両親か。
いや、待て。
俺は大事なことを聞き忘れているじゃないか。
「瀬川」
「なにかしら」
「四日前、武蔵関公園でのことだ。お前は『少し早い』って言ったよな。『あと二分待ちましょう』とも」
瀬川は切り分けたピザを頬張りながら、眼差しだけで肯定する。
「言われたとおり二分待ったら、そこに小夜が現れた。……どういうことだ? 未来がわかるのか?」
俺の問いに、瀬川の眼差しが笑みに歪む。口内で噛み溶かしたピザを細い喉がごくりと飲み込む。
「私に宿っている不思議な能力は話したわよね。分岐点からやり直す力……」
「ああ」
「夫を殺した後、私の体は二十五歳から十七歳に戻って、もう一人の私と出会った」
「ああ」
ドッペルゲンガーだ。確かにその話は聞いた。
二十五歳の姿を受け継いだドッペルゲンガーが容疑者となり、この世から消滅した。結果、捜査は混乱し、瀬川忍は今も行方不明の殺人犯のまま――
「……ところで、『ドッペルゲンガーは世界に三人いる』って聞いたことあるかしら?」
話題が逸れたように思えた。
「聞いたことはある。三人目に会うと死ぬんだろ」
「……それなら、どうして私は死んでないのかしら? もう何人も合ってるのに」
ぞくり、と背筋を冷たいものが撫でた。
「は? 何人も……?」
言っていることの意味が、すぐには理解できなかった。
だが、彼女の目の奥に光るものが、俺の本能に警鐘を鳴らす。
この言葉こそ、瀬川から引き出すべき核心だった。
原因こそ不明だが、瀬川は人生の分岐点からやり直す力を宿している。その力を用いて夫を殺し、警察の捜査を逃れ、俺に接触した。利口な瀬川は知恵と行動力で一度のミスもなく今日まで逃げ延びているのだとばかり思っていたが、その認識は間違っていた。
今日まで瀬川は何人ものドッペルゲンガーと出会っている――『成功』と『失敗』の分岐がその時点で発生し、瀬川は成功するまでやり直しているのだ。警察は手掛かりを見つけては忽然と消える瀬川に踊らされ、絶対に捕まえることができない。
なぜなら捕まった時点で、瀬川の人生が分岐するからだ。
「ふふふ……。わかってくれたみたいね、尾鳥君?」
「凶悪が過ぎる……」
つまり、俺もまた、瀬川には絶対に勝てない。
彼女の悲願である初恋の成就を断れば、その場で殺されていただろう。
「……だが、未来が見える訳じゃない。お前は過去に遡ることはできないだろう? 小夜が来ることを予知したことに、まだ答えてもらってないぞ」
「簡単よ。私はずっと尾鳥君の周りをストーキングしていたから、饗庭小夜の存在も把握していたの。饗庭小夜を監視した私と、尾鳥君を監視した私、二つの分岐点で動向を把握していたのよ」
なんてことはない。という風に語る瀬川は、切り分けたピザの最後の一枚に辛味調味料をたっぷりと振りかける。
白く油の浮いたチーズの上に赤いオイルが滴って、まるで死肉を頬張るように見紛う。
瀬川は規格外の化け物だ。
彼女に当時のような常識や倫理観を期待してはいけない。
「で、私の質問に戻るけど。饗庭崇と愛美夫妻は、どっち?」
「どっちって……?」俺は圧倒されて言葉が詰まる。
「『共感できる悪』か、『どうしようもない悪』か」
「それは……共感できない悪だ……」
思考を働かせて、俺は本心から答える。
自分たちの娘である小夜を、幼少の頃から虐待している意味がわからない。薬物に溺れる人間に共感する余地はない。
そうだ――俺は足掛かりを得て怒りを思い出す。
この世には救いようのない悪がいる……あんな親、生かしちゃおけない。
「また怖い顔に戻ったわね――」
瀬川は水の入ったコップを揺らす。
「――ねぇ、今度は私が聞いてもいいかしら。
尾鳥君が饗庭小夜を助けようとする理由って、何?」
俺は瀬川の目を見つめた。
――お前は俺の学生時代を知っているだろうに。
「……やっぱり、親のこと? 尾鳥君自身も相当苦労してたみたいだものね」
「……ああ」
小夜と同じく、俺もまた親の問題を抱えていた。
とはいえ、全く別の方向で子を縛る親だった。
勉強以外の一切を許さず、「医者か法律家か政治家になれ」と無理な期待を背負わされたものだ。自分の子供のことを、言えば願いを叶えてくれるランプの魔神か何かだと勘違いしている親だった。
結局、両親は老衰で亡くなるまで生きていたが、何度も「死んでほしい」と願った。死んだ後でも「早く殺した方が良かった」と思っている。
「瀬川、一つ聞いていいか?」
俺はある考えが浮かび、問いかける。
「饗庭家の親を殺したら、俺は警察に捕まるよな。……投獄された俺を見ても、幸せになれる未来が描けるか?」
瀬川の表情が、ここに来て初めて翳りを見せた。
逆転の発想だ。
『瀬川忍』が絶対に捕まらないのなら、俺が捕まればいい。
分岐点はあくまで瀬川個人の人生しか変えられない。投獄されてしまった俺を、彼女はどうすることもできないだろう。
「十七歳の私は、あなたの初恋を叶えるためにあるのに……捨てるっていうの?」
「初恋は叶わないもんさ。叶ったところで、いつかは別れる……。もう俺は大人になったんだよ」
「……私の悲願を邪魔するつもり?」
「さぁな……。ただ、抱えている二つの案件が片付くと思っただけだ」
俺は冷めてしまったカルボナーラを口に運ぶ。
心は決まっていた。
――悪いな小夜……俺は、お前の両親を殺すよ。
第九話 逢魔時の欠落者
■東京都西東京市で児童虐待事件 17歳の少女が重体 両親を現行犯逮捕
10日未明、東京都西東京市富士町で、17歳の少女が意識不明の状態で倒れているのを近隣住民が発見し、119番通報しました。
警視庁田無警察署によると、少女は自宅で両親に灯油をかけられた状態で屋外に放置され、自力で逃げ出した後、公園内で倒れているところを発見されたとのことです。搬送先の病院で低体温症や外傷を確認した医療機関が「虐待の疑いがある」と警察に通報し、捜査が始まりました。
調べに対し、同居していた両親の饗庭崇容疑者(47)と饗庭愛美容疑者(43)は「しつけの一環だった」などと供述しています。二人からは違法薬物の陽性反応が検出されており、その場で覚醒剤取締法違反の疑いで現行犯逮捕されました。
捜査関係者によりますと、少女の体には複数のあざや蚯蚓腫れが確認されており、過去にも継続的な暴力を受けていた可能性があるとみられています。警視庁は、傷害や監禁致傷の疑いも視野に入れ、両親による常習的な虐待の実態解明を進めています。
少女は現在も入院中で、重度の低体温症に加え、皮膚の炎症、前腕の骨折、内臓破裂といった重傷を負っており、医療関係者によれば「発見が遅れていれば命に関わる状態だった」とのことです。幸いにも容体は安定し、意識も回復しているということです。
地域の児童相談所はすでに介入を開始しており、親権停止を含む保護措置の手続きが進められています。警視庁は、家庭内暴力や過去の学校関係機関からの通報歴の有無なども含め、事件の全容解明を急いでいます。
■西東京市・児童虐待事件の両親、拘置所内で急死 毒殺の可能性も視野に捜査
東京都西東京市で17歳の少女に対する虐待の疑いで逮捕されていた両親、饗庭崇容疑者(47)と饗庭愛美容疑者(43)が、勾留先の東京拘置所で21日に急死していたことが捜査関係者への取材で分かりました。警視庁は当初、いずれも「急性心不全」による自然死と発表しましたが、その後の司法解剖により体内から毒物が検出され、第三者が関与した可能性が浮上しています。
饗庭容疑者らは、1月10日に覚醒剤取締法違反および少女への傷害容疑で現行犯逮捕され、都内の拘置施設に収容されていました。しかし、事件から数日後の深夜、相次いで体調不良を訴えて死亡。死因はいずれも「急性心不全」とされ、当初は心中による自殺とみられていました。
ところが、遺体の司法解剖の結果、両名の血液および胃の内容物から劇物指定を受けた薬物が検出され、警視庁は毒殺の可能性があるとして捜査を開始。拘置所内での行動履歴や面会記録、防犯カメラ映像などをもとに調べを進めたところ、外部からの接触があった疑いが浮上しました。
現在、都内在住の男・尾鳥春樹容疑者(25)が事件に関与した可能性があるとして、警視庁が任意で事情を聴いています。尾鳥容疑者は、饗庭夫妻と以前から面識があった可能性があるとみられており、交友関係や動機についても調査が進められています。
警察は引き続き、毒物の入手経路や拘置所への持ち込み経路などについて慎重に捜査を進めており、事件が第三者による計画的な犯行だったかどうかの解明が急がれています。
❖
「……なにやってんだ、囮の奴……」
新幹線の車内で携帯端末を眺めていた貝木は、思わず声が漏れた。
連絡先を交換していた饗庭小夜から「入院している」との連絡が届いたときから、嫌な予感はしていた。
彼女が尾鳥の保護下にある――その関係性の危うさに、いずれ何かが起きるだろうと想定していたし、尾鳥自身も覚悟はしていたことだろう。
だからこそ貝木は、端末内のコンサルタントアプリにキーワードを登録していた。
『尾鳥』『饗庭』『西東京市』――
それらを含む記事がネットワーク上に公開されれば即時プッシュ通知されるよう設定しておき、必要なら時系列のログや、AGIによる事件相関の予測図まで表示されるようにしていた。
一つ目の記事は、まだよかった。想定内の出来事だ。
尾鳥なら大人として、然るべき対応ができると信じていた。
けれど――第二報は私の想定から大きく外れていた。
親を毒殺した疑いがあるとなれば、話が違ってくる。事態が大きすぎる。
貝木は、ニュース記事を最初からもう一度読み返した。
何かの見間違いであってくれと願いながらも、画面には確かに『尾鳥春樹容疑者』の文字がはっきりと記されていた。
「実名じゃん……死んだわあいつ……」
携帯端末から目を離し、貝木は座席の背凭れを倒す。
――とはいえ、尾鳥が失敗るなんてらしくない。……何か見落とした……?
リクライニングシートに身を休めながら、貝木は静かに思考を巡らせる。
――今思い返せば、新宿で飲んだときに仕事の話をしなかった。私がその話題を出さないなんて考えられない。尾鳥は意図的にこの話題を避けていた? 饗庭ちゃん以外にも、悩みを抱えていたのだろうか……?
新潟駅発、東京行の新幹線は長いトンネルを走行する。
窓外の景色に楽しめるものはなく、夜のような真っ暗い闇の中を時速三二〇キロメートルで駆け抜ける。時折景色が明るくなると、だだっ広い田舎の風景を望むばかりで、やはり見応えはない。
車両内の急激な気圧変化に耐えず耳が詰まり、貝木はさっさと目を閉じた。
❖
交通機関を乗り継いで、貝木は西東京中央総合病院に辿り着いた。
見知らぬ病院でも見舞い手続きは滞りなく、階段を登って案内された病室の扉を開く。
「……元気にしてるかな?」
「貝木さん……? どうして……!」
饗庭は目を丸くして驚いていた。
本当なら、『元気そうじゃん』と気安く声をかけたかった貝木だが、病室のベッドに身を休めている彼女の横顔を見て、かけるべき台詞を変更した。
「すごいね……点滴にギプスに、なんだかいかにも患者って格好だ」
どうにか明るく振る舞いたい。
貝木はそんな思いで笑顔を作るが、饗庭の方は笑っていられる状況ではない。まだ傷の癒えない体で、饗庭はベッドから起き上がって貝木に縋りつこうとした。腕に取り付けられた点滴のチューブが突っ張って外れそうになり、貝木は駆け寄って饗庭を抱き止める。
「あのっ、尾鳥さんが……、尾鳥さんが……!」
「どうどう、落ち着いて」
「でも――」
「大丈夫だから、話は聞いてる」
「えっ……尾鳥さんと、話したんですか!?」
貝木は頷いた。
これは貝木なりの優しい嘘だった。
事件を知るまで尾鳥とは通話もメッセージのやりとりもしていない。
あくまでニュース記事を読んで、ここに駆けつけただけだ。
虐待事件の第一報から、様子を見に行く程度の気楽な外出予定のはずだったのだが、新幹線の車内で通知された第二報が全てを狂わせた。
流石の貝木も、ほとほと目を疑った。
「大変だったね、饗庭ちゃん」
「私なんか……私なんかと関わったせいで……っ、尾鳥さんが、大変なことに……」
「それとこれは別の話よ。饗庭ちゃん」
貝木は身を屈めて饗庭をベッドに座らせ、目線を合わせて続ける。
「饗庭ちゃんが悪いんじゃない。あなたの父親と母親が悪いの、その次にあいつだね。これだけははっきり言わせて貰う」
「ごめん……なさい……っ」
「饗庭ちゃんに謝って欲しいんじゃない。責任は別の誰かにあるって言いたいだけ。いい? 饗庭ちゃんと、饗庭ちゃんの両親は別。別なの」
わざわざ見舞いに行って責めようなんて考えていない。
――この子は、自分を傷つける環境を変えたかっただけ……。
いや、正確には多少の不良行為は犯していると聞いている。けれど、彼女が何かしらの悪事に手を染めていたとしても、それは『そうしなければならなかった』環境に原因がある。子供を守れない社会にこそ、責任があるのだ。
同時に、饗庭小夜を救おうとした尾鳥を悪と断ずることができない。
救うための手段こそ間違えてしまったが、彼の動機は理解できるものだ。
――そう、理解はできる。理解はできるのに、彼は致命的なまでに行動を間違えてしまった。
饗庭の痩せ気味で小さな背中を摩り、貝木は励ましに持ってきた見舞いの品を取り出そうとした。前に尾鳥から伝えられていた、饗庭小夜のための服を何着か見繕って持ってきていたのだ。
だが……そんな二人の後ろ、病室の扉を開けて一人の男が現れた。
「――そうだ。小夜は謝らなくていい」
貝木はその声だけで誰かわかった。
ここにいるはずのない男だ。
「囮……」
――なぜ、ここにいる……!?
貝木はその言葉を呑み込んだ。饗庭には『彼と話した』と嘘をついた手前、驚いてはいけないと判断したからだ。
頭に浮かぶ疑問は、饗庭が代弁する形となった。
「どうして……!? 尾鳥さんは捕まったんじゃ……」
「ああ。捕まったよ。警察には散々問い詰められたさ」
長い時間取り調べを受けていたことだろう。尾鳥は一度、さも疲れ果てたかのような身振りをする。そして小夜に対して笑みを作ってみせた。頼れる大人としての余裕をたっぷりと含ませた、不敵な笑みだった。
「俺は無実だ。捕まるわけがない」
「それって、お父さんとお母さんを殺してないって、こと……!?」
「もちろん」
饗庭の悲しみは喜びに変わり、見る間に表情が明るく晴れる。
「尾鳥さん……っ!」
堪えられないと言わんばかりにベッドから飛び出して、彼女は尾鳥に抱きついた。引きずられて倒れかかった点滴のスタンドを貝木が支える。
「俺が人を殺すような人間に見えるか?」
尾鳥は、我が子を愛おしむような眼差しで頭を撫でる。
鼻を埋めていた饗庭は頬ずりをして彼の衣服で涙を拭い、上目遣いに微笑んだ。
「ちょっと、見えるかも」
おいおい――と、尾鳥は笑い飛ばし、饗庭の目尻から喜びの涙が一つ光る。
「とにかく疑いは晴れたんだ。俺の無実を伝える続報記事だって出るだろうさ。……と、そうだ。身の潔白ついでにもう一つ、小夜に伝えないといけないことがあった」
尾鳥は抱きついている饗庭の肩にそっと手を添えて、少女の顔を見下ろす。目に慈愛の父性すら宿して彼は告げる。
「小夜の親権停止手続きに伴って、俺が後見人になろうと思う。……つまり親代わりだな」
饗庭は予期せぬ報せに固まってしまう。理解が追いつかない様子だった。
その沈黙を尾鳥は不安に思い、やや慌てる。
「あ、いや、別に『お父さん』と呼べなんて言わないからな! 小夜はそういうの無理だって知ってる。あくまで後見人、今まで通りの関係でいられるんだ。だから、重く受け取らないでいい――」
「あはっ、はははっ」饗庭は吹き出して笑う。
「こんなの……こんなの夢みたい。ありがとう尾鳥さん。本当に嬉しい」
「そうか? なんだ、ならよかった」
二人は顔を綻ばせ、この一件の顛末が良い終わりを迎えたと喜ぶ。
家族関係を修復しようと努力していた饗庭小夜にとって、両親を喪う悲しみはどれほどのものなのかはわからない。奮闘した果てに完膚なきまでに打ちのめされ、危うく命を落としかけた彼女は、案外未練もないのかもしれない。世間からしてみれば薬物依存に虐待を繰り返すような、絵に描いたようような毒親なのだから、これでよかったのだろう。
確かに、これで少女は救われた。
しかし貝木は腑に落ちない。
一人取り残された彼女は、満足げに笑い合う二人をただじっと見つめていた――胸に拭えない不信感を抱きながら……。
❖
吉報を携えて向かった見舞いは、望み通り小夜の驚きと笑顔を引き出してくれた。俺は、その結末に満足していた。
その後は、試着会とまではいかないものの、貝木が持参していた衣類を広げては小夜の好みに合う服を選んだり、和やかな時間を過ごした。
あまりに楽しくて、ここが病院であることを忘れるほどだった。
やがて日も暮れて面会時間が終わると、俺は小夜に手を振りながら階段を降りた。
足取りも軽く、このまま家路に就くつもりでいた――が、エントランスで貝木に呼び止められた。
「さてと、囮。説明してくれる?」
その声は淡々としていた。
病室での楽しそうな笑みの名残もなく、あたかも『演技に付き合うのはここまで』と言わんばかりの表情で俺を見つめる。腕を組んで、睨みつける視線が刺さる。
――説明とは、この事件の経緯についてか。
「正直なところ、病室に貝木がいたのは予想外だったよ。と同時に、貝木なら来るだろうとも思ってた」
昔から貝木は只者じゃないと思っていた。
やり手の周波数調整員であり、人間としても一枚上手だ……隠し続けるのは難しいだろう。
俺は受け売りな言葉で答えてみる。
「聞きたいか?」
聞けば後戻りができなくなる、それでも知りたいのか。覚悟を問う。
貝木の返答は偶然にも、あの夜の武蔵関公園を再現した。
「聞きたいわ。これでも私は周波数調整員だもの」
「……そうか。そうだな」
俺は喉の奥に笑みを留め、夜空に浮かぶ月を見上げる。――薄曇りだ。
星の見えない重たい夜だ。
「田無駅まで歩こう。道すがら話すよ」
俺は背を向けて先を歩く。
新宿で飲み明かした夜とは対照的な、素面で、どこか鋭さを感じる足取りだった。
「とはいえ、ここ最近いろいろなことが起こりすぎた……なにから話すべきか」
「重要なところから聞くわ」貝木は言葉通り単刀直入に切り出した。「囮、あんたは独身でしょう? 饗庭ちゃんの後見人になるなんて、まず無理よね?」
その指摘は正しい。
法律上、保護児童となった小夜は親族が引き取るのが通常の手続きだ。
赤の他人、しかも独身の男性が娘を引き取るなんて、普通じゃない。
「条件は確かに厳しい。が、不可能じゃない」
「というと?」
「小夜にはまず、他に頼れる親族がいない。通常の手続きで進まないんだ。そして俺は、あくまで後見人だ。重ねて言うが、養子縁組になるわけじゃない」
そう。俺はあくまでも『後見人』なのだ。『保護責任者』ではない。
小夜を迎え入れる里親にはならないので、家庭裁判所の判断次第で選ばれる可能性がある。
「でも、饗庭ちゃんは女性で、囮は男性でしょう? 申請が通るとは思えないけど」
「原則として、候補者が現れた場合、家庭裁判所が選任する。小夜自身の希望も反映されるが、まともな審査を受けるなら俺じゃ通らないな」
小夜が俺と一緒に居たいと希望しても、未成年には責任能力がない。最終決定は大人たちが行う。
俺の収入や、今住んでいる環境も踏まえて、適任とはならないだろう。
「でしょう」
「だが杵原なら?」
「……は――?」
後ろを歩く貝木の足音が止まった。
「……なんでそこで、真綸香ちゃんが出てくるのよ……?」
振り返って顔を見てみれば、珍しく困惑した表情が見られた。
長い付き合いだが、そんな顔は初めて見た。
あの貝木椛がそんな顔をするとは――俺は思わず笑みを隠す。
「そりゃあ出てくるだろう。彼女は俺と知り合いで、西東京市に住む成人女性だ。小夜とも仲がいいしな。……過去に入院していた経歴が引っ掛かるかもしれないが、それができるだけの家庭資産がある。候補者として申請すればまず間違いなく選任される」
「ちょっと、待ちなさいよ。……真綸香ちゃんは地縛霊でしょう? 生命維持装置がないと呼吸すらできないのに、どうやって申請するのよ?」
俺は腕を組み、あくまで真剣な面持ちを装った。
顎に手を添えたのは、込み上げる笑みをもみ消すためだ。
――違うんだよ。貝木……。
貝木と向き合い、ゆっくり首を振る。
「杵原が地縛霊? おかしなことを言うもんだな」
「だって、十四歳の頃に事故に遭って――」
「別の誰かと勘違いしてないか? 杵原が入院したのは癌治療のためだ。後遺症で子を産めなくなったけど、今でも子供は好きだから教員資格の勉強をしてる。今年二十八。四月には二十九になる」
「えっ、おかしい……そんなはずないわ――」
「まったく……どうしても信じられないなら、会ってみるか? 東伏見駅で待ち合わせにしよう」
❖
「お久しぶりです。貝木椛さん」
西武新宿線、田無駅から一駅移動した俺と貝木は、東伏見駅北口改札で杵原と待ち合わせた。
寒空の中、ベージュのロングコートをすらりと着こなす杵原がコンコースを歩いてやって来た。彼女は俺を見つけて小走りに駆け寄ると、「お待たせ」と微笑み、次いで貝木に向かって挨拶をした。
貝木は、言葉を失っていた。
「杵原…… 真綸香……?」
「おいおい、久しぶりの再会なのにそりゃないぜ」俺は茶化すように貝木を責める。
貝木は酷く狼狽え、自身の記憶と目の前の杵原との齟齬に戸惑う。
「いやぁ、いきなり呼び出して悪かったな」俺はそう言って貝木を指差す。「貝木が杵原のことを『十四歳の幽霊だ』って言うから、ちゃんと思い出してもらおうと思ってさ」
「ふふ。全然会わなかったからかしら。でも嬉しいわ。久しぶりに再会できるなんて。確か弟さんの病気で、新潟に帰ったきりだったわね」
俺たちの会話を、貝木は呆然と聞いている。目の焦点が心なしか定まっていない。
「お前がここを離れてから色々あってな――」
俺は杵原の腰に手を回し、報告をする。
「――俺、実は杵原と婚約したんだ。だから小夜の事情も杵原は知ってるし、お互いの事情も合うから、後見人になることも賛成してくれたんだ」
貝木は未だ何の反応もない。
目眩を堪えているかのように立ち竦んでいる。
「――がう……」
貝木の声が、かすれて聞こえた。
「なんだって?」
「違う。この人は真綸香ちゃんじゃない……!」
決然とした瞳で貝木は杵原を見つめ、次に俺を睨んだ。
駅のコンコースには疎らながら人がいる。突然声を張り上げた貝木に奇異の目が集まった。
「ど、どうしたんだよ。貝木」
俺が肩に手を伸ばすと、貝木は叩き落として後ろに引いた。
「存在を操作したんだね……? この人は誰?」
閃いたように貝木は目を丸くした。
「そうか、この人が、毒を……」
貝木の言葉に杵原の肩が強張る。
「……私のこと覚えてないの? 杵原よ?」
「いや、覚えてないね……当然だよ。毒殺の真犯人とは初対面なんだから」
「おいおい、駅前で物騒なことを言うなよ」
「囮。報告書を出していない案件があったよね。確か一月五日にカテゴリー未分類のまま、作成途中の報告書だ」
その報告書は、俺が初めて瀬川と再開した夜のことを報告しようとして、書きかけのまま放置しているものだ。作成中のデータもサーバー内で保管しているため、会期でも閲覧は可能な状態にある。
「……そんなものまで目を通してるのか」
やはり手強い。
貝木は続ける。
「『浮遊バクテリアによるドッペルゲンガーの出現』……報告書はずっと更新されなかった。ちょうど饗庭ちゃんの事件と時期が被っているからそのせいだと思っていたけど、そうじゃなかった。君はこの案件をわざと保留したんだ」
穏やかな表情を維持している杵原が、微かに殺気立つのを感じた。
俺は腰に回していた手を肩に添えて、対面している貝木に顎で示す。
――場所を移そう。
貝木は小さく頷き、我先にと東伏見公園の方へ歩き出した。
距離が開いて二人きりになると、杵原は耳元に口を寄せて囁く。
「口封じする?」
「まさか……! 人を簡単に殺そうとするな。それに貝木になら全て話してもいいと考えてるよ」
「私たちの行動に納得すると思ってるの?」
「貝木は切れ者だからな……それでも、隠すより説得した方がいい」
❖
貝木は東伏見公園の木造デッキに立ち尽くしていた。
時刻は二十一時を過ぎて、園内に俺たち以外に誰もいない。
不死の帯域に棲まう地縛霊も、今宵まだ現れない。
「本当の真綸香ちゃんはどこ?」
拳を固く握りしめる貝木は、怒りの焔が揺らめいてみえた。
「『不死の帯域』にはまだ早い。もう少し待たないと」
「それに本物の杵原は私ですしね」
隣に立つ杵原が余計な一言を付け足した。
不愉快な冗談だと抗議するように、貝木は杵原を睨む。
対する杵原は、本物の余裕とでも言いたいのか、挑発的な笑みで視線を受け止める。
「……じゃあ、それまでは囮の話を聞かせてもらうことにする。
饗庭ちゃんの両親をどうやって殺したのか、順を追って説明してよ」
断定的な物言いだった。
既に貝木の中では、俺たちが毒殺したと確信していた。
「俺は殺してない」
「共同正犯……完全犯罪を目論み、それがバレた場合、悪質な犯行として罪は重くなる」
貝木ははっきりとした口調で脅す。
「直接犯行に及んでいなくても、指示役の君は殺人教唆の罪に問われる」
貝木の声は夜の公園に響く。
この薄闇の中で誰かが聞いているとも限らないので、俺は気が気じゃなかった。
「やってないって」
「もったいぶるなよ……殺したんだろう?」
口調は友人としての語りかけではない。仕事のスイッチが入っている。
周波数調整員の中でも例外案件に対応する『特異霊象調整員』――貝木椛の本領を発揮されては、俺は太刀打ちできない。
「やめてくれ、貝木……!」
「どうして? だって君たちは無実なんでしょう? なら堂々としていなさいよ。……殺していないなら狼狽える必要ない。そうでしょう?」
俺は反論できず口籠る。
東伏見駅を発車した電車が、車輪を響かせて千駄山ふれあい歩道橋の下を通過する。忙しなく駆け抜ける走行音が早鐘を打つ鼓動にも思えた。
貝木は俺の動揺をつぶさに観察し、不安を煽る。
「気温は寒いはずなのに、囮は何だか暑そうね。汗をかいているのは何故?」
「……悪かった」
「何がかな?」
「俺は無実ではない。嘘をついたことを謝る」
貝木は幾許かの溜飲を下げ、内圧を高めていた怒りを排気するように息を吐き出す。
「じゃあ改めて、饗庭ちゃんの両親をどうやって殺したのか、全部話して」
「構わないが……一つだけ、条件がある。この件は俺の担当だ。杵原についての報告書は書かないで欲しい。記録も残さないでくれ」
数秒の沈黙の後に、貝木は渋々納得して携帯端末の電源を落とした。妥協点として納得してくれたようだ。
「これでいいのね」
「……助かるよ。約束通り、順に話そう。
まず、この杵原だ。彼女は元々、別の名前だった。『瀬川忍』という」
「ちょっと……瀬川忍って」
「ああ……指名手配中の彼女で間違いない」
夫を殺して行方を眩ませている貝木忍は、初めはローカルニュースでしか取り扱わない小さな事件だった。
しかし、殺害後に忽然と姿を消し、都内のあらゆるところで目撃情報が多発した。警察の捜査が難航するにつれて、瀬川は全国区のニュースに取り上げられるようになっていた。
夫の殺害方法は毒ではない。包丁で心臓を一突きだ。
瀬川の得も言われぬ余裕な態度の意味を理解して、貝木は警戒を高める。話がこじれた場合、貝木を殺すのも厭わないのだろう。
――そうはさせない……。
「まさか瀬川忍が例外案件だったとはね。囮には荷が重かったんじゃない?」
「否定はできないな」
「……何で瀬川忍と繋がったの? 巻き込まれ体質のせい?」
「かもな。瀬川からのご指名なんだ。
もともと高校の同輩でな、俺が周波数調整員として働いていると知って、仕事を依頼してきた」
「ドッペルゲンガーを解決しろって?」
「違う。『初恋を成就させろ』って依頼だ」
俺の返答に貝木は眉を顰めて困惑した。
急に話の筋が逸れた感覚は、俺もよくわかる。
「瀬川のドッペルゲンガーは、人生の分岐点を再現する特徴があった」俺は説明を続ける。
「異能が発現したのは、交際相手を選び間違えたことに起因する。子宮に悪性腫瘍を患い、子を産めないと知った夫が浮気をしたんだそうだ。
瀬川は人生をやり直すために十七歳の体へと若返り、ドッペルゲンガーが現れた」
「十七才に若返る……」
「ああ。瀬川はただ分身するわけじゃない。分岐点の体に変化するんだ。だから警察の捜査も逃れることができたらしい」
そこで杵原――瀬川は付け加える。
「逃げた先で尾鳥君を探したわ。高校時代、尾鳥君は私に片想いしていたのよ。十七歳の体に戻ったということは、きっと尾鳥君こそ、私を幸せにしてくれる相手だと思ったの。人生をやり直すのにふさわしい人だって」
「ずいぶんとお花畑な思考で――」
貝木は腹立たしそうに頭を掻いた。赤く染めた彼女の髪が乱れる。
「――それで、饗庭ちゃんの両親を殺害するのにちょうどいいと、瀬川に取引したわけだ。『人生のやり直しを手伝う代わりに、殺してほしい人がいる』って」
「そんな言い方はしていないが、まあ流れは合ってるよ。小夜が親に殺されかけて、俺はどうしても許せなかった」
「尾鳥君ったら、あの時はかなり自暴自棄になってたわ。自分の手で殺そうとしていたもの」瀬川が言う。
「それだと饗庭ちゃんも悲しむだろうし、瀬川忍も本意の結末ではない……だから実行犯と指示役の協力関係になったというわけね」
「夫殺しと同様の完全犯罪を達成すれば、婚約してもいいと伝えた」
「なるほど。そういう流れでつながるのね。犯行手段は?」貝木が問う。
「ニュースの通り毒殺だ。瀬川は犯行時十七歳の姿だったから、小夜の友人という設定で拘置所に向かった。面会受付には『親権に関する同意署名を貰うため、小夜の代理で伺った』と言えば、まず警戒されない」
「親権停止の手続きは実際に進められているから、書類も本物が用意できるのか……よく考えたものだね」
「女子高校生の立ち居振る舞いに警察が目を光らせる可能性は低い。実際すんなり面会できた」
ここからは瀬川が説明を引き継いだ。
「饗庭崇と愛美にそれぞれ一人ずつ、計二回行ったわ」
面会窓のある個室に監視カメラと警備が一人だけ。
瀬川は『児童相談所からの書類を持ってきました』と言って、手に下げた紙袋を床に置いて中をまさぐる。
そこで初めて、中に入っている缶に気付いた。……という演技をした。
なんの変哲もない160ミリリットル缶の麦茶である。監視カメラに残されたとしても、毒と怪しむ者は居ないだろう。
児童相談所側の気づかいで用意されていたその缶を、とりあえずと机に置く。
瀬川は警備を担当していた若い警官に伺うような視線を送った。『差し入れを渡しても?』という意味を込めて。
飲料缶程度なら問題視されないと判断され、瀬川はそれを饗庭崇に向けて差し出す。
「無造作な振りをして、上下逆さに缶を置いたわ。それから缶を横にして面会窓の隙間から渡したの」
瀬川は当時の行動を詳細に語った。
「缶を逆さにすることに何の意味が?」
という貝木は問いには俺が答える。
「缶の底に沈殿物があることを示す。つまり『この差し入れはただの茶じゃない』と伝えたんだ」
この所作は薬物の売買に関わる者にしか通じない暗号だ。
貝木は、俺が胸に秘めていた殺意を目の当たりにして息を呑んだ。
瀬川が説明を続ける。
「『児童相談所からの差し入れみたいですね』と伝えると、饗庭崇は逆さの缶に込められた意味をきちんと汲み取ったわ」
缶の上下については、監視カメラが捉える可能性があった。
しかし、警察署内に設置しているカメラは決して高性能ではない。画素数が足りないうえにズーム機能もないため、上下どちらに置いたかを後から確認することはできないだろう。
「見張りの警察は気付かないものなの?」
「ええ。気付かなかったわ」
「薬物取締に関わる警官でない限り、そこまで目を光らせないだろうな」
たとえ逆さまに置かれているのを見たとしても、瀬川は缶を置く際に視線を紙袋から外さずにいた。無造作に置き、偶然逆さまだったと言い逃れることも可能だ。
「あとは児童相談所からの必要書類を手渡し、別に世間話をする必要もないわ。同様の手順で愛美にも麦茶を渡し……あとはニュースの通りよ」
『西東京市・児童虐待事件の両親、拘置所内で急死』――そして司法解剖により毒殺の疑惑が浮上し、容疑者として尾鳥が連行された。
「ここが繋がらないわ。容疑者は瀬川になるはずよ」
貝木は腕を組み、俺を見る。
「名前通り、俺が『囮』になったんだ。瀬川の後に俺も面会して、詰れるだけ罵詈雑言を浴びせた。
『饗庭小夜を助けた第一通報者が事件の詳細を知り、行き過ぎた正義感から親を罵倒する』……それだけで印象操作は抜群に働いたよ」
「囮も毒物の差し入れを?」
「小夜の服を差し入れた。灯油の染みで黒ずんでいたし、殺虫剤を振りかけておいたから、有害成分が検出されたはずだ」
これで饗庭崇と愛美の急死に関する疑いは成人男性に集中する。
真犯人が女子高生の方だとは誰も思わない。
そしてその女が瀬川であるなどとは、絶対に考えないだろう。
「犯行手段はわかったわ。最後に、瀬川の外見が指名手配の顔と違う理由と、杵原真綸香を名乗る経緯を教えて」
「ああ。……だが、貝木はもうわかってるんじゃないのか?」
「うすうすわかっていても、だよ」
貝木は不機嫌そうに続ける。
「私は探偵ごっこがしたいわけじゃないの。自分の口で語りなさい」
自分の言葉で罪を告白しろ――貝木の主張は正しい。
代弁されることで説明責任から逃れようなどと、甘えてはならない。
「……現時点での問題は三つだ」
一つめは、瀬川の身分。このままではずっと逃亡生活を余儀なくされる。十七歳の体もいつかは毒殺の容疑で怪しまれるだろうし、未成年の体では『初恋の成就』も達成できない。
二つめは、『初恋の成就』を達成しなければ、俺も瀬川に殺されるということ。例外案件の異能だが、俺一人でこの問題を解決しなければならない。
三つめは、小夜を救うこと。俺は死ねないし、捕まってもいけない。この町から姿を消すことも避けたかった。
「瀬川を警察に売って、囮は逃げればいいじゃない」貝木はぶっきらぼうに言う。
「逃げられないわよ。毒殺を遂行した時点で分岐点が生じているもの」
饗庭の両親を殺す人生と、殺さなかった人生の分岐点。これが瀬川の武器となる。裏切れば俺の命はない。
「とにかく厄介なのは瀬川の異能だった。だが、俺はこの異能を利用して状況を打開する方法を閃いたんだ。瀬川にもう一度取り引きを持ち掛けた」
「どんな取り引き?」
「貝木が言い当てた『存在操作』だ。瀬川には究極の分岐点からやり直してもらうことにした。『もし、瀬川忍ではなく、別の誰かとして生きていたら』……」
「そんなことができるの?」
「できたよ。協力者のおかげでな」
貝木は一度眉間に皺を寄せて考える。が、答えはすぐにわかる。瀬川は杵原を名乗っているのだ。
「真綸香ちゃんが協力したの?」
俺は頷く。
「杵原の肉体は今も生命維持装置がなければ生きていけないはずだった。一方で瀬川は身分を別の誰かに入れ替えたかった。つまり分岐先になる体が必要なんだ」
「瀬川は警察に追われない体を手に入れたけど、真綸香ちゃんに何の得があるの?」
不死の帯域に棲む地縛霊は罪を被せられ、帰るべき肉体を奪われた。
こんな不利益しかない話に、なぜ協力してくれるのか。
「杵原……現在は瀬川か。永遠の十四歳を自称していた幽霊には夢があるんだ」
「え……どんな夢なの……?」
「――龍になることだ」
それは、浮遊バクテリアの集合体。
超巨大な霊素可視化現象であるところの『龍』。
浮遊バクテリアで構成された幽霊である彼女の目標は、荒唐無稽で、前途多難な夢だと思った。
なぜなら、龍ほどの巨大な幻想を作り上げるには彼女一人では足りないからだ。
多くの人間のイメージが流れ込み、複雑に混ざり合うことで龍はその巨体を構成する。かといって、杵原が大勢の他者からなるイメージを取りこめば、体積に比例して彼女の人格が薄まってしまう。龍を生み出すことはできても、杵原の意思は反映されなくなってしまうのだ。
だが、しかし……。
「……二十二時だ。そろそろ出てきてもいい頃だろう。おい、『瀬川』」
俺は夜の東伏見公園で呼びかける。
寒空に煙る吐息のような靄が、木造デッキに蟠る。
浮遊バクテリアから展開されたホログラムがフラクタル図形を描きながら、少女の肉体を構築する。
「……馴れ馴れしく呼び出すなぁ」
十七に成長した姿の地縛霊が、俺たちの前に現れた。黒いセーラー服を着た瀬川忍だ。
「これが、真綸香ちゃん……?」
「ん? おぉー!?」
瀬川はふわりと浮遊し、貝木に飛び掛かる。
「椛じゃん久しぶりー!!」
浮遊バクテリアの体を擦り付け、再会を喜ぶ瀬川。
貝木の方は気持ちの整理がつかず困惑する。
「元気、見たいね……? 真綸香ちゃん」
「そりゃあね。僕は病気しないし。それに、いいものも手に入ったんだよ」
「いいもの?」
「うん」瀬川は満面の笑みで自身の胸を持ち上げる。「見てよこれ! 超でっかい」
「違うだろ」思わず突っ込まずにはいられない。
「えへへ! いい体でしょー?」
「お前は俺たちの会話を聞いてなかったのか?」
「なんとなくは聞いてたけど、だってシリアス過ぎない? 私には無理だよあんな会話」
中身は相変わらず騒がしいままだ。
そんな様子を見て、貝木も毒気が抜けている。
「ほんとに入れ替わってる……」
「だろう? ちゃんと納得できる落としどころだ」
俺は手柄顔で鼻先を指で掻いた。
「瀬川は杵原になって、警察から追われない身分を手に入れた。その代わり異能も失ったから、今はただの一般人だ。
杵原は植物状態の体を譲り、瀬川と存在を入れ替えた。そのおかげで分岐点の異能を手に入れた」
「そうでした。僕が手に入れたのはおっぱいじゃなくて――」
「そうそうおっぱいじゃなくて」「僕たちのことだよね」「分岐点ってホント最高!」
瀬川は分身を生み出してみせた。
全く同じ姿をした十七歳の少女が貝木の横に、杵原の後ろに、俺のそばに出現する。
「使いこなしてるな」
「まぁねー」
瀬川は満足そうに笑う。分身たちもそれぞれが個別の反応を見せて、主人格の瀬川の中へ戻っていった。
「どうだ。貝木」
「え?」
「小夜の問題も、瀬川の異能も、杵原の夢も解決したぞ」
家族に絶望し、それでもあこがれを捨てられない小夜には、新しい家族を。
子を産めないことで家庭が崩れ去った、異能の殺人犯には、新しい人生を。
事故によって地縛霊となり、龍になることを夢見る娘には、新しい能力を。
歪な彼女たちの存在を整え、俺はすべてを解決した。
「周波数調整員の役割を全うしたと言いたいの? ……こんな仕事、報告書には書けないでしょう」
「ああ、何度も報告書と向き合ったが、提出できそうにない」
「世間だって、囮の働きを認めたいだろうね」
「そこは覚悟の上だ」
「『共犯的真実』ってことか。……でも、まぁ。私は納得したよ」
「そうか――」
俺は肩の荷が下りたように緊張を解いた。
思い返せば年明けから怒涛の忙しさだった。厄年だったりするのだろうか。
ともあれ、万事解決だ。我ながらいい仕事ができたと思う。
惜しむらくは、これが報告書には書けないということだ。
それでも俺は満足だ。
この静かで騒がしい夜の空気を肺にため込み、一息に吐き出す。
「――そう言ってもらえるだけでも、助かるよ」
――完――
CRUMBLING SKY
『CRUMBLING SKY』は、2017年に一度完結し、2025年に書き直しました。
虐待・更生・犯罪・SF要素を重層的に織り込んだダークでエモーショナルな物語です。
テーマは『共犯的真実』。
夜風のような読後感を楽しんで頂けたらとプロットを組みなおしました。
倫理観の揺らぎを読者に突きつける力作になったんじゃないでしょうか。