桐子

   道端の黒地蔵
   ねずみに頭をかずられた
   ねずみこそ、地蔵よ
   ねずみ何ど、地蔵だら
   なして猫にとられべ

 歌いながら、わたしは燭台に火を灯した。そして、その火のゆらめきを眺めながら、昼間のことを思い出した。


「僕が弔ってほしいものは、これです」
平たい緑の箱が、唐木の卓の上に置かれた。十四歳だと言った少年は、年に似合わず、大人びた涼しい目元をしている。さらさらした髪は黒く、柔らかそうだった。
「クレヨンでしょうか」
「はい」
「中を拝見しても」
「お願いします」
箱を開けると、十二色のクレヨンが色順に整列していたが、そのすべてが真ん中あたりで折れていた。どこか、痛々しい折れ方だった。
「触ってもよいかしら」
「はい」
 「水色」を手に取り、窓からの光にかざす。よく見ると、クレヨンの先はまったく削れておらず、きれいな円錐形を保っていた。使われたことがないのだろうか。色のせいか、水から、あるいは空から、切り取って固めたように見えた。
「失礼いたします」
音もなくふすまが開く。ほのかな桜の香りが漂った。
「お茶をお持ちいたしました」
「入ってください」
音も気配もなく、カゲオが部屋に入ってくる。カゲオはまるで空気のようだ。いつでもそこにいる彼の顔を、わたしは覚えることができない。少年とわたしの前に置かれた緑茶には、桜の塩漬けが浮かんでいた。
「きかせていただけますか」
カゲオが去ったのを確かめ、わたしは少年に言った。
「このクレヨンは、七歳の誕生日に、祖母が買ってくれたものです」
少年の口調は、その目元にふさわしく、大人びていた。

 僕の家は、とても貧乏だったのです。父が他界してから、母と祖母と三人で暮らしてきたのですが、行政の手当てはあっても、祖母の年金も母の稼ぎもわずかで、とても贅沢などできません。僕のランドセルも、教科書も、体操着も、縦笛も、全部知り合いからもらったものです。おさがりは、もちろんとてもありがたいのですけど、新品と比べると、やっぱりすぐにそうだとわかります。入学式の日からずっと、貧乏貧乏って、まわりの子には言われました。
 クレヨンのことです。近所の子にもらったクレヨンを、僕は小学校に持っていきました。クレヨンは、その子が幼稚園で使っていたもので、箱に「だいだい組」と書いてありました。
――こいつ、だいだい組だって。
――幼稚園児だ。
――幼稚園児が、学校に来てる。
クラスのみんなが、僕をからかって笑いました。貧乏、までは我慢できました。でも、「だいだい組」とか「幼稚園児」と言われることは、恥ずかしくて、恥ずかしくて、もうたまらなかったのです。シールでそれを隠しましたが、一度ついてしまったあだ名は、簡単には消えません。一日中、登校から下校まで、先生の目を盗んでははやし立てられました。
――おばあちゃん、誕生日に、クレヨンがほしい。
入学してしばらくしてから、僕は祖母にそうたのみました。それまで、誕生日のプレゼントは、いつも祖母の手作りのものでした。セーターとか、マフラーとか、手袋とか。誕生日が十月なので、いつも冬に使えるものをもらっていたのです。
――クレヨンだって。持ってるじゃないか。
そう言った後、祖母は悲しそうな顔をしました。僕は、ものをほしがらない子どもでした。ほしいものは、もちろんたくさんありましたが、「ほしい」という言葉が母や祖母を困らせることを、知っていたのです。祖母も、多分、それに思い当たったのだと思います。
――まだ、半年も先だね。
祖母は言いました。
――半年経っても、まだほしいと思うなら、買ってあげようかね。
ありがとう、と僕は言いました。うれしい反面、祖母を困らせたことを後悔する気持ちもありました。
 半年間です。毎日毎日、僕は新しいクレヨンのことを考えながら過ごしました。まだ誰にも使われたことのない、新品のクレヨンのことを。半年の内に、同級生のクレヨンは、どんどん汚れてゆきます。いずれ僕のクレヨンが、一番新しい立派なものになるのです。おかしいですけど、クレヨンさえ買えばすべての問題は解決するのだと、そう思い込んでいました。
 だから、それをもらったときの喜びは、言葉では言い表せません。
――ほら、これでいいかい。
祖母が差し出したそれは、ただ絵を描くだけの道具とは、とても思えませんでした。例えば、絵本の中に出てくるこの世に一つしかない宝とか、魔法とか、神様からの贈り物とか、大げさですけどそんな風に思えたのです。
 よく晴れた、秋の日でした。僕の古びたランドセルのなかには、ぴかぴかのクレヨンが入っていました。何もかもが、いつもと違って見えました。電信柱も、道端の小石も、捨てられた空き缶さえも。それらはみな存在していることの喜びにあふれていて、発見というのはこういうことをいうものかと、僕は思ったのです。
――あ、貧乏人だ。
――だいだい組だ。
 学校へ着くと、同級生の視線が集まりました。僕のクラスは、僕一人を生贄にすることで、一つにまとまっていました。だからみんな、僕をいじめることに一生懸命でした。
 彼らの言葉を無視し、まるで光の塊のようなそれを、僕はランドセルから取り出しました。短いような、長いような、不思議な時間でした。空気が止まって、誰も何も言いませんでした。阿呆みたいに、馬鹿みたいに、間抜けみたいに、黙っていました。阿呆で、馬鹿で、間抜けだから、言うべき言葉を知らなかったのです。僕は、勝ったのだと思いました。半年間耐えて、ようやく勝ったのだと。
――どろぼうだ。
そのとき、一人の男子がそう言いました。
――貧乏人が、クレヨン、盗んだ。
――ほんとだ。
――どろぼうだ。
 どろぼう、ですよ。どろぼうと言われたのです。卑怯な、汚いやつらに。頭に血が上って、僕はやつらをにらみました。しかし、数の力を過信しているのか、やつらは怯みはしませんでした。
――何にらんでんだよ。
――貧乏人のくせに。
五人の子どもが立ち上がって、僕を取り囲みました。一人がクレヨンの箱を取り上げ、残りが僕の体を机に押さえつけました。
――何するんだよ!
そいつは箱を開け、一番はしっこの、黒いクレヨンを取り出しました。そして、僕の目の前で、それを二つに折ったのです。
――やめろ!ふざけんな!
――どうせ、これ、盗んだんだろ。
――盗んでない!ばあちゃんに買ってもらったんだよ!
――うそつくな。
――うそじゃない!
――貧乏人のくせに、生意気だな。
そいつはクレヨンを折り続けました。端から順に、一本ずつ。そして、最後の一本が折られたとき、僕の中で何かが壊れたのです。
 気が付いたとき、僕の目の前では、クレヨンを折った子どもが口を押さえて泣いていました。クラスの子どもたちが、恐怖に固まった顔で、それを遠巻きに見ていました。誰も、何も言いません。見ているだけです。
 うつむくと、床には小さな白いものが、数個落ちていました。それは、僕がそいつを殴って、折ってしまった歯でした。
 何でそいつを殴ったのか、僕は誰にも言いませんでした。先生にも、母にも、祖母にも。殴った理由を言わなければ――当然、相手は不都合なことを言いませんから――、僕が悪者になってしまいます。それでも、あのクレヨンが貶められたことを、僕は誰にも言いたくなかったのです。
――お前、人様を殴って、ケガさせるなんて。
祖母はそう言って、僕の頬を打ちました。母は泣きながら、それを見ていました。
――うちは貧乏だけど、人様に恥じるようなことをする人間に、育てた覚えはないよ。痛いだろう。わかったかい。今度こんなことをしたら、追い出すからね。
何度も打たれて、僕の頬は真っ赤に腫れ上がりました。痛かったですよ、もちろん。でも、体の痛みなんて、心の痛みに比べれば、何てことはありません。クレヨンが貶められたことを知って、祖母が同じ痛みを味わうことが、僕には何より辛かったのです。

 少年は言葉を切って、緑茶を一口飲んだ。声変りこそしていたけれど、そののどはまだ白く、清潔そうだった。
「学校でいじめられることはなくなりました。友達は、できなかったですけど。からかいの対象でなくなったかわりに、何というか、危険因子のようなものになったのです」
「それで、このクレヨンを弔うというのは」
わたしは、少年とクレヨンを見比べた。少年は茶色い目で、わたしをまっすぐに見ていた。
「あれから、僕は元のクレヨンを使うようにしました。このクレヨンは、もう誰にも傷つけられないように、机の引き出しの奥にしまいこんでいました。でも、夢を見るのです」
「夢を」
「はい。あのときの夢を。僕は子どもで、机に押さえつけられています。そして、夢の中で、クレヨンは何度も折られるのです。同じ夢を何度見ても、僕はクレヨンを救うことはできませんでした」
「弔うと、もう二度とクレヨンは戻って来ません。あなたのその痛みも、クレヨンをもらったときのまぶしいようなうれしさも、何もかも。それでもよいのですか。おばあさまが下さった、大切なものなのでしょう」
少年は、目を閉じて、何かに思いをはせた。清涼な感じのする表情だと思った。
「三年前、母が再婚しました。義父は優しくて誠実な人です。息子ができてうれしいと言って、とてもよくしてくれます。生活もずいぶん楽になりました。僕は今、義父のすすめで私立の中学に行かせてもらっています。新しい環境で、初めて友人もできました。
 祖母は、ほっとしたんだと思います。その頃からだんだん、ぼけの症状が出始めました」
「まあ……」
「毎日卵を買ってきては腐らせたり、すきやきばっかり作ったり、雑巾と布巾の区別がつかなくなったり、そんなところから始まって、だんだんひどくなっていきました。僕のことも、今ではもうわかりません。
「それは、お気の毒ですね」
わたしが言うと、少年は微笑んだ。ここに来てから初めて見せた笑顔だった。
「平気です。祖母は今施設にいますが、とても幸せそうですから。きっと、何のしがらみも、心配もなくなったのだと思います。クレヨンのことだって、もう覚えてはいないでしょう。それで、僕ももう何というか、楽になろうと思ったのです」
 少年の表情に迷いはなかった。それで、わたしは依頼を受けることにした。この森に、この屋敷に、このわたしにたどり着けること自体が、すでに特別なのだ。
「そんなにお若くていらっしゃるのに、あなたはとてもご立派ですね」
門のところで少年を見送りながら、わたしは言った。かたむき始めた太陽が、その背を赤く染めていた。


   ねーずみこーそ、ずんどうよー、
   ねーずみなんど、ずんどうだーら、
   なーして、たたこに、とーられべー

   たったーこーそ、ずんどうよー、
   たったこなんど、ずんどうだーら、
   なーして、こっこに、おーわれべー

 縁側の両端に置かれた背の高い燭台から、それぞれ三本のろうそくが夜の庭を照らしている。わたしは庭に足を踏み出し、土の上に置かれたクレヨンの箱を、その影を、そしてわたし自身の影を眺める。小さな庭でひしめきあう影たち。塀の向こうでは、木々がひそやかにおしゃべりをする。
 北国の子守歌であるらしいこの歌の名前を、わたしは知らなかった。名前は、ないのかもしれない。それでも、鼠と猫と犬と狼が出てくる無邪気さと、お経の節回しみたいな音階と、お地蔵さんの出てくるところがクレヨンの弔いにはふさわしいと思われ、わたしは迷うことなくこの歌を選んでいた。
 火は、ゆれる。ゆらゆら、ゆれる。影もゆらゆら、ゆらゆらゆれる。やがてわたしの影はわたしの足元を離れ、ゆっくりと、クレヨンの影に近づいていった。

   こっこーこーそ、ずんどうよー、
   こっこーなんど、ずんどうだーら、
   なーして、おかみに、おーわれべー

 わたしの影は、喪服の袂をひらひらさせながら――わたしは喪服を着ているので、影ももちろん同じものを着ている――クレヨンの箱の影に、何事かをささやいている。影の声は、聞こえない。影の声は、影にしか聞こえないのだ。自分の影なのにと思うと、妙な心持ちになる。わたしの影はわたし本体よりずっと立派で、わたしの存在は影のためにあるのではないかと思ったりする。
 と、クレヨンの箱の影から、一本のクレヨンの影が飛び出した。きっと水色だ。空や水に似ている。次は、赤色。大人の女みたい。次は、きみどり。若葉の色だ。それから、黄色。昼の太陽の光。

   おーかみこーそ、ずんどうよー、
   おーかみなんどー、ずんどうだーら、
   なーして、のーびに、まーかれべー……

 飛び出したクレヨンの影は、炎に照らされた土の上をあっちへこっちへ、ゆらめきながらかけまわる。一度も使われなかったとは、さぞかし無念であろう。十二色もあれば、生み出せないものなどなかったろうに。
 でも、もう大丈夫。これから行く世界では、何だってできる。だから、大丈夫よ。何も心配しないで、いらっしゃいな。
 そのとき、影の袂から、ねずみの影が飛び出した。水色をつかまえて、ぱくっと食べてしまう。それから、猫、犬、狼。おいかけっこが始まる。弔いではあるけれど、悲壮な感じは全然しない。クレヨンも影も、みんな無邪気で安らかだ。

   ひーとーこーそ、ずんどうよー
   ひーとーなんどー、ずんどうだーら、
   なーして、ずんどう、おーがむべー

   ずんどうこーそ、ずんどうよー
   みーちーばたの、くろずんどう
   ねずみに、あたまを、かずられたー

   ねーずみこーそ、ずんどうよー……

 最後まで残ったクレヨンの箱の影が、ぱっくり開けたねずみの口に飛び込んで、火が消えた。わたしは歌をやめる。暗闇は濃く、静けさは深い。夜の中に、わたしは溶けそうになってしまう。
「桐子さま」
屋敷の明かりが灯り、障子が開いて、カゲオが顔を出した。
「お膳が整いました」
「今、ゆきます」
 弔いのあとは、夜中だけれど、軽く食事をとることにしている。
 薄い明かりの中、影はちゃんと足元に戻っていた。そして、クレヨンのあった場所には、さらさらした灰が小さな山になっている。朝になれば、その灰さえも消えているだろう。ここでは毎晩風が吹き、役目を終えたものをさらってゆく。


 椀の中には、蕨が入っていた。
「これは……」
「昼間とって参りました。もう、山菜の季節でございますね。お吸い物にいたしました」
「昼間、出ていたのですか」
「ええ」
カゲオは短く返事をする。不思議なものだ。目の前にあるカゲオの顔と声に、どれだけ注意を払っても、わたしはその特徴をつかむことができない。何度やっても同じ。いつでも、霧がもやもやかかっている。
 お吸い物を一口いただき、菜の花のおひたしに箸をつけた。後は、お粥が少しと、梅干しが一粒。蕨も菜の花も、生命に満ちた春の味がする。そう、大切なのは生命を感じることだ。生命を全身で味わい、体に行き渡らせる。弔いの後はそうでもしないと、魂が体におさまっているのかどうか、よくわからなくなってしまう。そのまま、影の世界に引きこまれそうになるのだ。
「あ。そうそう」
生命で、思い出した。
「お昼間の男の子に、いただいたのですけどね」
「このこと、でございますか」
カゲオの手には、れんげの花束があった。
――こんなもの、失礼かもしれませんが。来る途中、見事に咲いていたので、思わず摘んでしまったのです。
少年はそう言って、わたしにそれを差し出したのだった。
「ええ。どうしたらよいかしら。やはり花瓶に活けておく?」
「明日お召しになる、紬の袂に入れておきましょう」
わたしが口を開く前に、衣桁の着物の袂に、カゲオは花束を入れた。
「そんなことをしてよいのですか」
食事の途中で立ち上がり、駆け寄ったわたしに、カゲオは袂を開いてみせた。袂の中には、小さな青い空と、小さなれんげ畑が広がっていた。
「あ……」
「着物の袂は、ささやかなものであれば、受け入れてくれるのですよ」
カゲオの声は空間に溶けてゆき、純粋な言葉だけが後に残った。れんげの香りのそよ風が、わたしの頬を撫でた。


   山の端は、澄んで、澄んで、
   金魚や娘の口の中を清くする。
   飛んでくるあの飛行機には、
   昨日私が、昆虫の涙を塗っておいた。

 そこまで読んで、わたしは目を閉じた。畳の上に座ったまま、平衡感覚を失いそうになる。なんて透明な言葉なのだろう。眼前に、青みがかった清潔な風景が広がる。その中へ、わたしは落ちて、溺れそうになる。
「桐子さま」
ふすまの向こうからカゲオの声が聴こえて、わたしは何とか現実にとどまった。
「珈琲を、お飲みになりますか」
「あ、もう少しあとにします」
「かしこまりました」
足音が遠ざかっていく。わたしはためいきを一つついて、『山羊の歌』にもう一度目を落とした。
 屋敷で一番広いこの部屋には、畳の上に、数えきれないほどの書物が積まれている。積もっている、といったほうがよいかもしれない。北国の雪みたいなのだ。わたしはそれらの間になんとか隙間をつくって、書物に埋もれながら、書物の整理をしている。影の弔いと書物の整理が、わたしに与えられた仕事であった。

   風はリボンを空に送り、
   私は嘗て陥落した海のことを 
   その浪のことを語ろうと思う。

   騎兵聯隊や上肢の運動や、
   下級官吏の赤靴のことや、
   山沿いの道を乗手もなく行く
   自転車のことを語ろうと思う。

 文字を追うときにいつも感じるのは、「知っている」ということだった。わたしはこの作品を知っている。あるいは、この感情を、この風景を知っている。
――以前お読みになったものを、お忘れになっているのでは。
カゲオはそう言った。でも、わたしは違うと思う。きっとわたしの影が知っているのだ。影は光とともに、ずっとこの世に存在してきたのだから、それは何でも知っている。わたしたちはその一部を切り取って、借りているだけに過ぎない。本当に、影とお話しできればよいのだけれど。
「……これは、いいや」
『山羊の歌』を詩集の山の上に置き、次に出てきた『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』を、わたしは「つまらない本」の山のうえに置いた。
 ロンゴロンゴの解読とか、ポポル・ヴフの全容とか、古事記以前の神話とか、そういうものが見つかればよいのに。この部屋には、ありとあらゆる書物がある。外に存在するものも、存在しないものも。例えば、今は誰も名を知らない神の話を読んだとき、一体どのような光景が、わたしの前に広がるのだろう。
 いつからか、雨音が聴こえていた。空気が徐々に湿りを帯びる。カゲオが挽く珈琲豆の匂いが、その中に漂った。


「つつじって、よいものですね」
目の前の女が、昼下がりの庭を見て言った。切れ長の一重まぶたの目が、下向きの長いまつげに縁どられている。そのせいで、彫が深いわけでもないのに、目元に陰影が生まれていた。目の先には、鮮やかな赤と潔い白と、そのどちらでもない薄桃色の花が、緑の中に咲いていた。
「どのようなところが」
「つつじは、桜のようにすぐに散ったりしませんから。桜が咲いた時の、あの何とも言えない気持ちといったら。わたし、今二十九なんですけどね、何というか、散り始めた桜の心持ちですわ。小野小町のような器量はありませんけど」
慰める言葉が思いつかなかったので、わたしは庭に目をやり、こう言った。
「薔薇があれば、よいのですけど」
「まあ、なぜ」
「だって、つつじが散ってから紫陽花が咲くまで、間があるんですもの。薔薇は、ちょうどその間に咲くものなのでしょう。ただ、この庭に西洋の花は合いませんから」
「でも、日本の薔薇は合うかもしれませんね。まさゆき、とか」
「まさゆき?」
「正しいに降る雪で、正雪。白い大きな花をつけます。ふわふわしていて、ぼたん雪みたいなのです。どんな名前で呼んだとしても、薔薇は美しいっていいますけど、やはり名前って重要ですわね。和の名前がついたら、和の花に見えますもの」
女は言葉を切って、湯呑に手を伸ばした。今日のお茶に花は入っていなかったが、摘みたての新茶というだけあってとても美味しく、好奇心に満ちたおさなごや、その目が見る世界の新しさを連想させた。
「薔薇に詳しくていらっしゃいますのね」
女は、ちょっと微笑んだ。そうすると、目元の印象がほんの少しやわらかくなった。
「母が昔、薔薇を育てていたのです」
そう言って女が卓の上に置いたのは、コサージュだった。
「これは……」
薔薇ですか、と言わなかったのは、赤系の色ではなく、青に近い薄紫をしていたからだ。
「水の精、という薔薇です。完全に青い薔薇って作れないそうですけれど、これぐらいで十分だと思いませんか。ドライフラワーにしてあります。母が昔、わたしに作ってくれたのです」
「どうして、そんなものを」
女は目を伏せた。うつむくと、まつげの影が一層際立った。

 薔薇は昔、美しく咲いていました。花びらの中には、しょっちゅうミツバチが潜り込んでいました。それは、気持ちよさそうでしたよ。花がふわふわのベッドみたいで。わたしも小さくなってあの中でお昼寝できたらと、何度も思ったものです。やがて手入れされなくなって、カミキリムシにやられて、枯れてしまうまでは。そうして、それは、かつて薔薇の手入れをしていた母の姿そのもののようでした。
 今でも夢に見るのですけどね。髪の毛がぼさぼさで、化粧も何もしていない母が、わたしを銀行とか市役所とか公園とか、人がたくさん集まるところへ連れてゆくのです。そこにある待合席とかベンチとかに、ちょっと素敵な――誰でもよいわけではなくて――男のひとが座っていてね。母は許可も得ずに、そのひとの隣に、こう、ぴったりくっついてしまって。
――わ、わ、わたしね。歯医者さんに、つ、つ、つきまといで、訴えられてね。さびしい、さ、さびしいの。
 こんな調子です。こんな調子でずっと話し続けるものだから、男のひともびっくりして、気持ち悪がって。まあ、当然ですわよね。隙をみて、逃げ出してしまうのです。
――あ、あ……。まだ……。
――おかあさん、ねえ、おかあさん。
わたしは、子どもながらに母をみっともないと思って、腕や服をつかんで必死で呼ぶのですけど、母はね、わたしを見ないのです。声すら届かない。すぐ近くにいるのに、何というか、スクリーンの向こう側にいるようでした。無力感って、ああいうことを言うのでしょうね。
 わたしは、私生児なのです。母が愛したのは、妻子ある人でした。わたしは知りませんが、母はかつて有能な勤め人だったそうですよ。後年色んな人に言われましたもの、「どうしてあんなことに」と。でも、仕方ありませんわよね。そもそも理性で感情を、脳の電気信号を抑えようとすることが、無謀な試みなのだと思います。
 三歳ぐらいまでは、母に連れられて、わたしは父と会っていました。会っていた、といっても、わたしは覚えておりませんけれど。それが、ぱったり連絡が来なくなってしまって、向こうのお宅に行ってみたら、もぬけのからだったと。そうして、母は発狂したのです。発狂してしばらくは、薔薇の手入れもしていたのですけどね、やがて次々と男の人につきまとうようになって、薔薇も、わたしのことも、目に入らなくなってしまいました。高齢の祖父母には、どうすることもできませんでした。
――さっちゃんは、おかあさんがいていいね。
小学校のとき、学友が言いました。その子は、お母さんを亡くしていたのです。わたしは、ひどい話ですけど、その子を憎悪しました。正確に言うと、憎悪という言葉を知らなかったので、例えばその子を川につき飛ばしたり、ナイフでめった刺しにしたり、みんなの目の前で裸にしてののしったり、そんな妄想を繰り広げていたのです。まあ、どうでしょうか。母が治るかもしれない、という希望があるだけわたしのほうがましなのかもしれないし、なまじそんなものがあるだけ余計に苦しいのかもしれないし、どちらがどうと言えるものではないのでしょうけど。
――さっちゃん、起きてちょうだい。
わたしが八つのときの、ある春の夜です。母は、わたしを揺り起こしました。真夜中でしたが、母の目がまっすぐわたしを見ていたので、すっかり目が覚めました。
――おかあさん、治ったの。
名前を呼ばれたのすら久しぶりで、わたしは舞い上がっていました。
――さっちゃん、おかあさんといっしょに行こうね。
わたしのパジャマを脱がせて、ブラウスとつりスカートを着せながら、母は言いました。母は、まともな格好をしていました。長く黒い髪は乏しい明かりの中でもつやつやとしていて、ああ、この人にはこんな美しさがあったのかと、どこか感動すら覚えるほどでした。
 どこをどう、歩いたのでしょうか。月の良い晩で、空気は冷たくても、待ちわびた春の到来に、木や草が心を躍らせているようでした。そして、わたしの胸には、薔薇のコサージュがありました。
――おかあさん、どこいくの。
――いいところ。
――いいところ?
――そうよ。とっても、いいところ。
母は、微笑んでいました。話が通じるのがうれしくて、わたしは何度も母に話しかけました。学校のこと、先生のこと、友達のこと。母は、「まあ」とか、「そうなの」とか、「よかったわね」とか、そんな相槌を打ってくれて、まあ今考えると、ちゃんと聞いてくれていたのかどうか、わかりませんけれど。
 気付いたときは、ビルの屋上にいて……。目の前には小さな夜の街があり、体の後ろには母がいました。
 そこからのことは、実に鮮明に覚えています。ええ、一生忘れることはないでしょう。落ちていくまでの間に、一生分の力ほとんどを使ったのではないでしょうか。
とん、と、そんなに強くなく、肩が押されて、わたしは落ちていきました。わたしと地面の間には、いくつもの窓のひさしがありました。そのひさしに、受け身をとってぶつかりながら、わたしは少しずつ落ちていったのです。わたしの目には、迫ってくるひさしが見えていました。落ちていくその時間を、一瞬一瞬を引き伸ばしながら、わたしは助かるための体勢を整えていました。子どもだったから、助かったのだと思います。まだ自然の声を聴くことができる年齢だったのです。
 打撲だらけになりながら地面に落ちたとき、母は既にそこで死んでいました。背中から落ちたようで、血は流れていましたが、上から見ると、そう見られないものでもありませんでした。死神が、わたしのすぐそばにいました。そうして、わたしはどんな瞬間よりも、生を強く感じていました。やがて夜が明けて、人々が騒ぎ出すまで、わたしはじっとそこに立っていたのです。

「わたしみたいに助かった人って、ほかにいるのかしら。そんなに運動神経がよいわけでもないのですけど」
女はそう言って、微笑みさえした。
「人間には、本当は、すごい力があるっていいますもの」
「そのようですね。普段から発揮できればよいのに」
お茶の残りを飲み干して、女はわたしを見た。
「母が死んだあと、母に関するものはすべて捨てられました。わたしが思い出さないようにとの心遣いからです。でも、このコサージュだけは、隠していたから無事だったのです」
「どうして、残しておいたのですか」
「これには、あの瞬間のすべてが詰まっています。わたしにとって、これは母であり、心の痛みであり、人生の残酷な真理なのです」
「弔って、よいのですか。後悔なさいませんか」
女は、痛みをこらえるような顔をした。
「わたし、結婚するのです」
「まあ、よかったじゃありませんか」
「ええ。でも、結婚するということは、子を持つかもしれないということです。これを抱えたまま、わたし、そんな恐ろしいことはできそうにない」
女は手をつき、頭を下げた。
「わたしの力では、乗り越えられないのです。どうか、お力を貸してくださいませんか」
黒々とした長い髪が、女の肩から流れた。この人のお母さまも、このようなよい髪をされていたのだろうか。
 わかりました、とだけわたしは言った。それ以上何を言ったらよいのか、見当もつかなかった。


   ときしもぶりにく、しねばいトーブが、
   くるくるじゃいれば、もながをきりれば、
   すっぺらじめな、ポロドンキン、
   ちからのピギミイふんだべく。

 ぶつぶつつぶやきながら、わたしはろうそくに火を灯す。夜の庭。ゆらゆらゆれる影。
 あの人は、ずいぶんと大人だった。二十九といったら、それはもう子どもではないけれど、一滴の涙も流さずあんなことを語れるなんて、誰にでもできることではない。
でも、それと同時に、あの人は小さな子どもでもあった。時間は平等に流れるように見えて、あるところでは歩みを早め、あるところでは歩みを止めるのだ。
 『鏡の国のアリス』の「ジャバウォッキー」がぴったりだと思った。甲冑をまとった小さなアリスの絵が、幼き頃のあの人と重なった。

   「心せ、むすこ、ジャバウォックに!
   かむあご、かくつめ、心せよ!
   ジャブジャブ鳥に気をつけい、
   するしいクチナバ、よけるがいいぞ!」

   むすこはひるめくつるぎをさげ、
   マンクスのかたきさがして長の旅、
   タムタムの木のほとりで休み、
   しばらく思いにふけっていた。

 少し調子が出てきた。くるくる踊るわたしの影が、小さな女の子に変身して、甲冑をまとう。薔薇の影はというと、ジャバウォッキーではなく、そちらも同じ姿の女の子になった。薔薇は暗いところで見ると、本当の青色に見える。

   あらぶる心で立ってると、
   おりしもジャバウォックほのおの目で、
   ふるふるたるじい森を、ひゅう、ひゅう、
   さざやきうなって通ってきた!

         ひゅう、ひゅう
            さざやきうなって

               ひゅう ひゅう
              ひゅう ひゅう
             ひゅう ひゅう
            ひゅう ひゅう

 ……何かしら。何だか、ざわざわする。影たちが――わたしの影も、他の影も――、ざわざわしている。暗い森が怯え、ひそひそと、何事かをささやきあっている。二人のアリスが、手を取り合ってきょろきょろしている。
 塀を越え、庭に張り出した木の枝の影が、震えながら伸びるように見えた。まずい。これは、間違えたかもしれない。明るい歌に替えよう。

   げろげろ合戦、ごめんやす
   あとからよいどがぼってくる……

                  あとからよいどが
              あとからよいどが
         あとからよいどが
    あとからよいどが

 わたしは、いつからか、震えていた。わたしだけじゃない。そこら中の影が、すべて震えている。不用意なことをしてしまった。暗闇の中には、色々なものが潜んでいるのだ。言葉は時に、それらを呼んでしまう。
 ぽた、ぽた。額から汗が落ちる。ひゅう、ひゅう、さざやきうなって、あとからよいどが、ぼってくる。
 どうしたらいいの。どうしたら、よかったのだっけ。あとからよいどが、ふるふるたるじい森を、ひゅう、ひゅう、さざやきうなって、
「怖い!」
「もーんを、しーめーたッ」
瞬間、何かが閉まった。気が付くと、両肩の上にカゲオの手が置かれていた。辺りは再び静かになり、屋敷の明かりが灯っていた。
「桐子さま」
覚えられないカゲオの目は、優しいように思われた。
「お膳が、整いましたよ」
「……弔いは」
「立派に、終えられました」
見ると、コサージュのあったところには灰しかなく、わたしの影は足元に戻っていた。
「どうぞ、お手を洗って、お戻りになってください」
そう言い残し、カゲオはさっさと戻って行ってしまう。ほうっと、わたしは大きく息を吐いた。
 そういえば、前もこんなことがあった。「通りゃんせ」を歌って、変なものを通してしまったときだ。あのときは、カゲオが「帰りゃんせ」を歌って、それを帰してくれたのだったっけ。
――帰りゃんせは、まあ、替え歌みたいなものなのですけどね。
あのとき、カゲオは言った。
――歌い継がれるうちに、力は宿るものなのです。
 よく、気をつけないといけない。ああいうものは影を伝って、わたしに迫ってくるのだ。

「この服、胸がきゅうくつだわ」
気温と運動のせいか、少し暑かったので、わたしはジョーゼットの紺のワンピースに替えていた。今日の夜食は、よもぎを練り込んだおうどんを、冷やしたものだった。
「きゅうくつ、でございますか」
「ええ。着られないことはないのですけど」
去年は、確か、余裕があるくらいだった。太ったわけではないと思う。胸が成長したのだ。
「明日にでも、仕立て直してさしあげます」
「胸はこんなに大きくなって、手足だって伸びたのに」
わたしは自分の唇に触れた。
「どうしてわたしの歯は、小さいままなのかしら」
理由はわからないけれど、わたしの歯は乳歯ばかりで、永久歯が一本もない。そのせいか、顎がとても小さかった。
「桐子さまの小さな歯は、真珠のようで、とてもかわいらしいですよ」
「いやだわ、わたし」
「なんだってそんなことを」
「だって、きゅうりを食べられないじゃない」
子どもじみたことを言っている、という自覚はあったけれど、言わずにはおられなかった。
「きゅうりなら、たくさん酢の物にしてさしあげますよ」
「そうじゃなくて、わたし、こうやって、まるかじりにしたいの。歯が小さいからだめだって、あなたはいつもそう言うでしょう」
カゲオは、ためいきをついた。
「酢の物のほうが、ずっと召し上がりやすいし、おいしいですよ」
「でも、わたし、あの青臭さをそのままいただいてみたいのです。きっと、生命の味がすると思うのですけど」
それについてカゲオが何も言わないので、わたしはだんだん心細くなってしまった。
「だめかしら」
「わかりました」
カゲオは、今度は諦めたように、長いためいきをついた。
「今度だけですよ」
「……ありがとう」
何だか恥ずかしくなって、わたしは自分の白い髪に触れた。今やわたしの髪は真っ白だった。アルビノではない。眉もまつ毛も瞳も真っ黒だし、髪だってかつては同じ色をしていた。いつだったか、もう、忘れたけれど。
「時間は、ここでは、少し変わった流れ方をするようです」
「え」
「……失礼します」
その次の瞬間には、カゲオはもう消えていた。
 冷たいおうどんを、わたしはつゆに浸して啜った。時間はここでは、少し変わった流れ方をする。でも、それは本当に、ここだけの話なのだろうか。
 一体、わたしは何歳なのだろう。影が覚えていてくれる、という慢心のせいか、わたしは色々なことを、すぐに忘れてしまう。


   つゆの草原 はだしでゆけば、
   足があおあおそまるよな。
   草のにおいもうつるよな。

 昼間降った雨が丘の草を濡らし、夕日がその水滴を黄金色に染めている。わたしは履物を脱いで、草の精気をはだしに感じながら、そこに立っていた。
立ち並ぶ家々が見える。そうして、その風景の薄皮を一枚剥がしたところにある、田畑の並ぶ風景も見える。さらに、田畑以前にそこにあった、森林の風景も。それらはスライドを重ねたみたいに、同時に存在している。時にこんな風に、影はその記憶の断片を、わたしに見せてくれる。
「カゲオ」
「はい」
カゲオは、呼べばすぐそこにいる。
「ときどき、夢を見るのですけどね。わたしの影が、わたしの周りにたくさんいるのです。一つではなくて」
「影は、一つとは限りませんから」
「それで、わたしもたくさんいるの。子どものわたしと、娘のわたしと、老婆のわたし」
ツキツキツキ、という鳥の声が聴こえた。何の鳥かしら。
「わたし、自分がそのうち分解して、溶けてしまうんじゃないかって思う」
「あらゆるものは、やがて分解して、溶けていってしまうのですよ」
「ええ。そうなのだけど」
そこまで言って、わたしは話すのをやめた。何か、つかめそうな気がしたけれど、それはわたしを通り過ぎて行ってしまう。カゲオはガーゼでできた手拭いを差し出した。
「濡れてしまったでしょう。お使いください」
「ありがとう」
「そろそろ、戻りませんか」
「ええ。もう少しだけ」
太陽の姿はもう見えなかったけれど、西のほうの低い雲が、まだ橙色に染まっていた。また朝が来るとはわかっていても、夕方というのは、本質的に悲しいものだ。


 子どもは、生きて生まれては来ましたが、結局一度も泣かぬまま、人生を終えました。手術室へ行くとき、「あ、これで最後なのだな」という予感が、わたしにはありました。母親だから、わかったのでしょうね。夫の方は、ただただ、神様に祈っていましたけど。
 この、神様というのが、わたしたちの不幸の始まりなのだと思います。
――聞いてほしいことがあるんだけど。
雨が降っていたので、公園にはほとんど人がいませんでした。ちょうど今みたいに、あじさいが満開でした。
――なあに。
――俺、今、神様のこと勉強してるから、結婚したら、迷惑かけるかもしれない。
何の迷惑、と無邪気に答えたわたしは、本当に無知だったと思います。その言葉は、ただただ、わたしを思って言ってくれたものでしょう。夫は――その頃は、恋人でしたが――善良ですから、言葉に裏はなかったはずです。しかし、「かまわないわ」と答えてしまったことを、わたしは後に悔やむこととなりました。つまり、わたしが神様ごと、彼を受け入れてしまったことを。
 わたしたちは、大学の同期でした。彼は、もてるタイプの人間ではありません。黒縁の眼鏡をかけて、勉強ばかりしていました。かといって、付き合いが悪いわけではなく、友人もいましたし、クラスの――外国語大学だったのですが、専攻言語ごとにクラスがあったのです――飲み会にも、大体は参加していました。
 わたしも真面目なほうで、授業をさぼることもなく、せっせとノートをとっていたのですが、そういうタイプの人は、テスト前にすごく頼られます。ノート貸して、テストの日を教えて、場所を教えてって。わたしは、ノートを貸しましたよ、もちろん。でもね、同じように頼られた彼のほうは、絶対に貸さないんです。
――人間には、すごい力があるんだから、自分で頑張るんだ!
そんなことを言うんですよ。悪気が全然ないから、相手も怒ったりしなくて、おかしそうに笑ったりしてね、なんか、まっすぐな人だなって思ったんです。
 自慢じゃないけど、彼と付き合う前も、付き合ってからも、わたし結構誘われたりしたんです。でも、自分から声をかけた男の人は、彼が初めてでした。「君のこと知らないから、考えさせてほしいんだけど」だなんて予想外の答えが返ってきて、わたし、うろたえてしまいました。でも、わたしたち、お互いを思いやれるよい関係だったと思います。彼は愛情がとても細やかな人でした。
 思えば、彼のプロポーズを受け入れて結婚し、妊娠が分かったころからでしょうか。だんだん耐えられなくなってしまったのは。
――真実は、一つしかないんだよ。
彼は、口癖のようにそう言うようになりました。
――俺たちのほうでは、いつでも、君を受け入れる準備があるから。
そうも言いました。「俺たち」というのは、夫と義父母のことです。彼らは善良で、親切でした。誠実で、勤勉でした。そして、狭量でした。彼らの正しさが、だんだんわたしを追い詰めてゆきました。自分の正しさを信じることが、時に相手の正しさを否定することになることを、彼らは知らなかったのです。
 わたしは集会に連れて行かれたり、書物の感想を求められたりしました。彼らはわたしを正しい方向へ導いているのだと、心から信じていました。だから、わたしの抵抗する理由を理解することができませんでした。
 赤ちゃんには、申し訳ないことをしました。きっと、こんな状態で生まれてきてほしくないとわたしが願ったから、死んでしまったのです。

「あなたのせいでは、ありません」
わたしは思わず、口をはさんでいた。子を産んだとはとても思えない、少女のように見えるその女は、下を向いたまま、何度かまばたきをした。
「みなさん、そうおっしゃいます。そう言ってくださると、わたしの心はほんの少し軽くなります。でも、そんなことは気休めに過ぎません」
女はそう言った。わたしは、そうではないと思った。しかし、どんな言葉も届かないだろうと思い、口を閉じた。
 ずいぶんと、日が長くなった。もう四時を過ぎているはずだが、昼間のように明るい。緑茶は氷がすっかり溶けて、ぬるく、薄くなっていた。そろそろカゲオが入れ直しに来るはずだ。
「お子さんが亡くなって、どうされたのですか」
「夫は、わたしに断ることなく、子を自分の宗教に入れてしまいました。あの子が死ぬ前に」
「なんてこと……」
「父親としてできる最大限のことを、とでも思ったのでしょうね。葬儀も、彼らの方法で行われました。子どもは、わたしの手の届かないところへ、連れて行かれてしまったのです」
女の唇が、ぷるぷる震えていた。しかし、何とか涙をこらえて、女は若草色の産着を卓の上に置いた。わたしは少し戸惑った。
「断っておきますが、死者の葬儀はできません。ここは、普通の葬儀では弔えないものを、弔う場所なのです」
「知っています。弔ってほしいのは、あくまでこの産着です。これは、わたしの心の痛みなのです」
「痛みをとることは、できます。しかし、痛みだけをとるわけではありません」
「知っています」
女の顔は、涙を流していない分、余計に悲壮であった。
「知っています。でも、どうか、お願いします。わたし、後悔しているのです。生まれてこなかったらよいなんて、考えてしまって。あの子は、とてもきれいな顔をしていました。わたしのこと、これっぽっちも恨んでいない顔でした。どうか。わたし、もう、生きていかれないのです」
 産着をとって、女はそれを顔にあてた。一度も口をきかなかった赤ん坊のことを、これほどまでに思えるものなのだろうか。わたしはどこか遠い気持ちでそう思い、そう思った自分のことを、薄情だと思った。


   月ぬ美しゃ 十日三日
   女童美しゃ 十七ツ
   ほーおおいーいちょーおおが

   東から上がりょる 大月ぬ夜
   沖縄ん八重山ん 照ぃらしょうり
   ほーおおいーいちょーおおが

 月の良い晩であった。ろうそくがなくともよいのではないかと思い、ちょっと待ってみたが、やはり影は動かなかった。諦めて、わたしはろうそくに火を灯す。この行為には、明確な意思が必要なのであろう。

   つきーぬーかいーしゃ、とぅかーみーいっかーああ
   みやーらびーかいーしゃ、とぅおーななーつー
   ほーおおいーいちょーおおが

 産着の影が、動き出した。影は、頭のない赤ん坊みたいに見えたが、それでいて不気味なところは一切なく、本物の赤ん坊のようにかわいらしかった。
 わたしの影はその袂から、空にあるのと同じ、真ん丸な月を取り出した。それがふわっと舞い上がり、産着の影にたどりつくと、月は形をわずかに変えて、赤ん坊の頭になった。
 産着の影は今、世界を見ている。主が見られなかった世界を。あ、でも、本当にそうなのかしら。本当は、赤ん坊は大人よりずっと、世界を見ているかもしれない。

   ありーからーあがーりょる、うふーつきーぬゆーうう
   うちーなんーやいーまん、てぃらーしょーりー
   ほーおおいーいちょーおおが

――……あ。
「え?」
 聞こえるはずのない赤ん坊の声が、耳に届いた気がした。
「……いるの?」
辺りを見渡したけれど、動いているのは、炎と影だけであった。その影はお互いに、だんだん近づいていく。わたしの影は、腕を大きく広げて、産着の影を抱きとめる。それから産着の影を、歌ってあやし始めた。
 赤ん坊には、不思議な力がある。彼らは、わたしたちの世界と、もう一つ――あるいは二つ、三つ――の世界の、ちょうど間にいるのだ。そしてその力は、産着の影からすら感じることができた。

   月の光が照つてゐた
   月の光が照つてゐた

     お庭の隅の草叢に
     隠れてゐるのは死んだ児だ

   月の光が照つてゐた
   月の光が照つてゐた

――きゃ、きゃ。
「あ」
やっぱりいる。
「あ」
そのとき、わたしはブチのことを思い出した。ずっと昔屋敷にいた、ぶち猫のことを。
――ブチ?
ブチ、と呼ぶと、まばたきをした。潤んだ目でわたしを見上げて、「にゃああ」と鳴いた。
――ブチなの?
庭で草が音を立てて、その名を呼んでから、ブチがもういないことに気付く。悲しみとは、あのことを言うのだ。
 どうして忘れていたのかしら。あれは、一体いつのことだったのだろう。
 袂の中へ、影は消えていく。待って、と余程言いたかったけれど、なんとかその言葉を飲み込んだ。わたしには、どうすることもできないのだ。
「桐子さま」
すぐ後ろに、カゲオがいた。
「お膳が、整いましたよ」
「……はい」
「大丈夫で、いらっしゃいますか」
「いたわ」
「はい?」
「赤ちゃんが、いたの」
カゲオは、かすかにうなずいたようだった。


 きゅうりは四分割にされ、青い皿の上に置かれていた。
「まるかじりじゃないわ」
「同じようなものでしょう。それで折れてくださいませんか」
仕方ないですね、と言って、わたしはそのうちの一つに楊枝を刺し、口に入れた。小さな歯でしゃりっと砕くと、青臭さが口中に広がった。
「いかがですか」
「まあ、思ったとおりです」
「さようでございますか」
カゲオはわたしの返事をさほど気にすることもなく、繕いものをしている。その指は、白くてしなやかに見えるけれど、本当のところはわからなかった。きゅうりは、夏のような味がする。生きた味だった。
「あれで、よかったのかしら」
珍しく、わたしは弔いのことを口にした。
「よかったも何も、わたしたちは選べないではありませんか」
「そりゃあ、そうだけれど」
わたしは口を尖らせた。カゲオの言う通りだ。わたしには選べない。選ぶのは、森だ。ここにたどり着けることが、すでに答えだった。わたしに残された仕事は、ただ話を聞いて、影を弔うことだけ。
 一度だけ、例外がある。四本足の女性がやってきたときだ。正確に言うと、腰から下が二組ある女性だった。外側の脚は標準的な大きさで、内側の脚はほんの小さなものだったから、ロングスカートをはくと――実際、彼女はいつもロングスカートをはくと言っていた――腰回りが少し豊かなだけに見えた。左側は処女で、右側は母親だった。処女で母親だなんて、聖母マリアみたいだから、森がぼうっとしてしまったのだと思う。
――この、不安かしら。
――え。
――弔ってほしいもの。わたしね、とっても恵まれているし、とっても運がいいの。だから、いざ何かが起こったとき、きっと乗り越えられないんじゃないかって、不安なのよ。
――それは、多かれ少なかれ、誰でもそうなんじゃないでしょうか。
――まあ、そうね。
豊かな感じの赤い唇がほころぶ。魅力的な女性だった。
――脚は。
――え。
――脚のことは、何とも思われないのですか。
――正直ね。
――まあ、ごめんなさい。
――いいのよ。
瞳の色は薄く、少し緑がかって見えた。
――そりゃあ、ぴっちりしたジーンズがはけないとか、そういう悩みはあるわね。でもそんなものって、脚が太かったり、短かったり、曲がっていたりする人と、同じようなものじゃないかしら。
「桐子さま」
「え」
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
「眠っていらっしゃるように見えたのですが」
何だか、頭がぐらぐらした。たどっていた記憶の中に、そのまま潜りこんでしまったのかもしれない。細部までリアルな映像が、まだ目の前に残っていた。
「お休みになりますか」
カゲオは屈んで、わたしの背中を支えた。手の感触に、わたしはそっと目を瞑る。ほのかなきゅうりの香りが、粒子になって、辺りに漂っている。


「お願いですから、望みをかなえてください」
「奥様、どうか、落ち着いて」
「お願いです、もう、わたしにはこれしか」
わたしの膝にしがみついて泣いているのは、この間の母親であった。涙が、直してもらったワンピースの布地を通って、わたしの肌を濡らした。
 しゃわしゃわしゃわ、しゃわしゃわしゃわ、しゃわしゃわしゃわ。蝉が鳴き始めている。死者の魂を乗せて飛ぶのは、あれは、蝉だったかしら。あ、蝶だったわ。蝉のほうが、情緒があってよいのに。
「こんなことになるとは、思ってもいなかったのです。わたし、あの子のことを考えても、悲しくない。身ごもっているときに感じた、ほんのわずかな喜びさえ、残っていない」
「それが、弔うということです。あの産着に込められた、あなたの思いを送ります。記憶は残っても、思いは残らない。それが、あなたの願ったことです」
「そうです。わたしはそれを願いました」
女は顔を上げ、わたしの顔を真面に見た。透明な感じのする目から、透明な涙が流れていた。
「わたしは、愚かです。夫の話をよく聞かぬまま結婚し、自らを不幸にしました。子どものことだって、胸の痛みさえとれればすべては終わるのだと、そう思い込んでいました。でも、そうではなかった」
ふすまの向こうに、カゲオの気配を感じた。わたしは今、決断を迫られている。助けてほしかったけれど、これはカゲオの助けられる領域ではなかった。
「桐子さま、お願いです。わたしを、わたし自身を、このまま弔ってください」
「奥様……」
「どうか、お願いです。わたし、影の世界で、あの痛みと、ほんの少しの喜びを、取り戻したいのです」
「痛みを抱えたまま、永遠にさまようことになっても?」
「はい。そのほうが、今よりずっと、ずっとよいのです」
再び膝で泣き始めた女の頭を、わたしはそっと撫でた。ぱさぱさに痛んだ髪が、指にからまりついた。

   愛するものが死んだ時には、
   自殺しなけあなりません。

   愛するものが死んだ時には、
   それより他に、方法がない。

 いや、違う。これは自殺ではない。永遠に生きるということだ。
わたしはふすまを見、それから影を見た。カゲオも影も、わたしの決断を待っている。もう、逃げられなかった。
「わかりました」
「桐子さま」
「あなたの望み通りにいたします」
しゃわしゃわしゃわ、しゃわしゃわしゃわ。蝉の声が、空間に満ちた。


   あーかい鳥小鳥 なぜなぜ赤い
   あーかい実をたべた

   あーおい鳥小鳥 なぜなぜ青い
   あーおい実をたべた

 わたしは、思いつくままに歌っていた。小鳥の歌を歌いたい気がしたが、本当に歌いたいものを、どうにも思い出せない。

   しーろい鳥小鳥 なぜなぜ白い
   しーろい実をたべた

 土の上で、女は目を閉じている。鳥たちの影が舞っているが、ただ舞っているだけで、弔う気配は見せていない。わたしの影は少しずつ、女の影に近づいていった。
――ねえ。
にわかに、目の前に映像が広がる。
――生き物って、何で死ぬの。
小さな女の子が目の前にいた。女の子は、土を掘って、蝉の墓を作っていた。
――何にも、意味はないの。
そう言ったのは、わたしだったのか、わたしの影だったのか、あるいは女の子の母親だったのか。
――じゃあ、何で生きるの。
――何にも、意味はないの。ただ生きて、死ぬだけよ。
――やだ、わたし、そんなの。
女の子は、土の上で目を閉じている女の、幼いころの姿だった。
――せっかく頑張って生きても、何の意味もないなんて。
「あなたはやがて、元いた場所に帰ります」
今度は、わたしが言った。
「あなたが得たすべてのものを持って。そこからまた、新しい何かが生まれるでしょう。例え意味はなくても、そうやって世界は続いて行くのです」
 そこでわたしは、求めていた歌に思い当たった。そうだ。「唄を忘れたかなりやは」にしよう。

   唄を忘れたかなりやは
   象牙の舟に 銀の櫂
   月夜の海に浮べれば
   忘れた唄を思い出す

 女の影が、小鳥に姿を変える。わたしの影は袂から小さな舟を取り出して、小鳥をそれに乗せた。舟はゆっくりと動き出す。
「あ」
ふんわりと、やわらかで暖かなものにくるまれたような気がした。これが、忘れた唄なのだろうか。
 風が吹いて、ろうそくが消えた。それと同時に、映像が消える。目を開けると真っ暗で、影もわたしも、すべては闇の中だった。
「奥様」
わたしは女に近づいた。女の形をした真っ白な灰が積もっているのが、闇の中でもわかる。それはわずかに発光しているようにも見えた。
「……美花さん」
美しい花、というのが、その人の名前であった。
 そのとき、再び風が吹いて、灰をさらっていった。さらさらさら、さらさらさら、灰は飛んでゆき、女の形は崩れていく。後には、何も残らかなった。
「桐子さま」
カゲオの声が聴こえた。
「お食事は、いかがなさいますか」
「今日は、結構です」
「もうお休みになりますか」
「ええ」
 闇の中から、女と赤ん坊の声が聴こえた気がした。わたしはこれから、すべてのものの影の中に、彼女たちの姿を見るだろう。


「今日は、お疲れになったでしょう。ごゆっくりお休みになってください」
小さなろうそくランプが一つ灯るだけの、暗い部屋の中で、カゲオはわたしに朝顔もようの夏布団をかけた。ぽん、ぽん、と、肩のあたりをゆっくり軽く叩いた後、カゲオは立ち上がる。
「ランプは、消しますか」
「カゲオ」
わたしは、布団から片腕を出し、伸ばした。
「こちらへ来て、お布団に入ってくれませんか」
「桐子さま」
「生きているって、感じたいの」
カゲオはこちらを向いた。その表情は、わからなかった。
「カゲオ」
「わたしは、桐子さまをお慕いしておりますが」
白目が、きらっと光った気がした。
「わたしには、男としての機能がないのです」
「知っています。かまいません」
知っている、とわたしは言った。知っているのは、影かもしれないけれど。
 カゲオが、布団に入ってくる。体温の低いその体に、わたしは腕を回す。つめたくて、気持ちがよかった。
 ひんやりした指が、まぶたに、頬に、唇に触れる。そのたどった跡が、冷たくて熱い。横を向くと、壁の上にぼんやりと、わたしの影が映っていた。カゲオの影は、わからない。
 ゆらゆらゆれる影。その中に、わたしはあの母親を見る。死んだ子どもを見る。カゲオを、わたしを見る。生も死も、一つにまざって、見分けがつかなくなってゆく。
「そうだったのね」
「何がです」
わたしたちは、あれら全てのものの、ひとときの影に過ぎないのだ。わたしはそれを口に出すことはせず、そっと目を閉じた。言わなくても、カゲオはきっと知っているだろう。
 ゆらゆらゆれる、ゆらゆらゆれる、すべてのものが、ゆらゆらゆれる。やがてランプが消え、何もかもが、夜の中に溶けて行った。

桐子

桐子

わらべうたや詩をいろいろ引用しております。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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