目覚め
今年も、その子は目を覚ました。
ふかふかの毛布が敷き詰められた箱に入っていて、その体に合わせて気温を調節した部屋の中で、昼間は日光を浴び、夜は暗闇の中で呼吸して眠っていた子。
中性的な顔立ちで、性別の判断はできない。男性でも女性でもあり、またどちらでも無いようだった。
その子は、未だ目をかたく閉じたまま、ゆるく腕を上げて箱の淵に手をかけた。指先に力を込めるものの、かすかに指先が動くばかりで箱を軽く引っかくだけだった。
ある男が部屋に入ってきた。白衣を着ていて、涼しげな目を持った男だ。
男は箱の中から伸びる腕を見て、少しの間目を見開いて固まっていたが、すぐに優しく目を細めて言った。
「ああ、もうそんな時期か」
起き上がろうと懸命に箱を引っかく手を取り、ゆっくりと起き上がらせた。
「おはよう、スリジエ」
その子の名前はスリジエ。フランス語で「桜」の意味。
「……せんせい」
スリジエは薄く目を開いた。瞳は美しい桜色だった。
スリジエの腕の皮膚に、薄いささくれのような切れ込みが入り、一枚の薄桃色の花びらとなって剥がれ落ちた。
「先生、はい」
先生と呼ばれた男は、スリジエから花びらを受け取り、保管用のケースに移した。これで二百四枚目だ。薬の効果は依然として見られない。
男はため息と共に手元のケースを棚に戻した。
(……ねむい)
男に与えられた時間は短い。スリジエがまた眠りについてしまう前までに、なにか、少しでも成果を出さなければならない。
そうして、男が時間を生み出すのに犠牲にするものは、彼の睡眠時間だった。もう何度、眠らずに夜を通り過ぎたことだろう。
「先生、お外、出たい」
「ああ、わかった」
スリジエが動けるときは、望むときに好きなことをさせてやりたい。それが、どんなに危険なことだったとしても。
スリジエが外に出るときは、絶対に目を離してはならない。外には危険なものが多すぎる。強く吹きつける風、降りかかる冷たい雨、排気ガス、そして、人間。
バルコニーに出る大きな窓を開け放つと、スリジエは喜んで外へ飛び出していった。柵で囲まれているものの、そこそこの広さがある。スリジエは早速見つけた蝶と戯れていた。
窓のそばに置いたベンチに座って、スリジエに危険が及ばないか見守る。今日は天気が良く、風も強くない。
いつにも増して元気が出ているようだ。
「ねえ、先生」
「どうした」
スリジエは頭に何匹も虫をとまらせて、言った。
「やっぱり、諦める気にはならない?」
「ああ」
「そっか」
スリジエの問に男は即答した。スリジエは、口は薄く微笑んでいるのに、目は今にも泣いてしまいそうな、少し複雑な表情をして俯いた。
「ぼくは先生に無理してほしくないんだけどな」
「無理なんか、していないさ」
スリジエは困ったように眉を下げて笑った。今にも零れそうな涙を堪えるようにも見えた。
「無理しないで、休んでね」
「無理なんて、していないさ」
大丈夫だ、と言って男は笑った。
スリジエのために研究をすることに、命を懸けていると言ってもいい。どれだけこの身体を酷使しても、苦しくない。自分の命と引き換えに、スリジエが起きていられる時間が増えるなら、命でも何でも全て捧げる覚悟だ。
男は、スリジエの動ける時間を延ばす研究をしている。スリジエが起きるのは四月ごろ。それから一ヶ月、もしくは長くて二ヶ月ほど自由に動くことができる。目を覚ました瞬間から、身体の組織は花びらになって散り始め、全て散ると一本の桜の枝を残して再び長い眠りにつく。
スリジエは日光を浴びて、身体の中で生きるための栄養を作る。時々必要な養分を補うために、男が作る薬を飲んでいる。スリジエの身体に良さそうなものを調合して作った薬だ。花びらが散る頻度が増えてしまう時もあれば、花びらの艶が増す時もあり、虫をおびき寄せる体質になることもあった。
いろいろな効果を見てきたが、スリジエが起きていられる時間が増えたことは、まだない。これ以上失敗が続くようなら、初めに立てた仮説は否定した方が良さそうだ。また一から考え直しになる。
抗えないほどの倦怠感が身体を重く包んでいる。あまりの眠気に意識が遠のいて、気がつけば目を閉じている、の繰り返し。研究の続きをしたくても、眠気に耐えるのが精一杯で、もう何も考えることができない。
しかし眠るわけにはいかない。スリジエが困っている時、すぐに動けるようにしなければ。
それでも、意思に反して身体は必死に眠りを促してくる。
机の上の器具を壊してしまったらいけない、と考えて、男は椅子から立ち上がった。そしてその直後、頭が大きく揺れて、男は抗う間もなく意識を手放した。
倒れようとする男の身体をスリジエが正面から受け止めた。そのまま腕を背中に回してきつく男の身体を抱きしめる。
男もスリジエの身体を抱き返し、彼の髪に顔を埋めた。
目は閉じたまま、規則的な呼吸を繰り返す。
「眠ったみたいね」
スリジエは薄く微笑んで、小さく呟いた。
「よいしょっと……」
スリジエは男の身体を支えながら、あらかじめ敷いておいたクッションの上にゆっくりと座らせ、背後の本棚に上体を預けさせた。お腹を冷やさないように、ブランケットもかけて暖かくしてあげる。
男が眠くてたまらないとき、優しく抱きしめて、髪の匂いを嗅がせるとすぐに眠りにつくことを、スリジエは知っている。少しカールしたふわふわの髪からは、とても落ち着く花の香りがするという。
男の涼しげな目元には、隈が浮かび、血色が悪い。スリジエは軽く目元を撫でた。
「……ぼくのせいだ」
男の目はかたく閉じたまま、動かない。規則的で小さな呼吸の音が部屋に響いていくだけだった。
「先生のせいじゃないよ。ぼくは、このままでもいいと思ってたりもするんだ」
スリジエは微笑んだまま、静かに涙を零した。
「でも、もっと先生と居たいなあ……」
どこからかまた散ってしまった花びらを見つめて、スリジエはなおも泣いた。
「眠るのは、こわい……」
しばらく静かに泣いていると、外からかすかに別の誰かの泣き声が聞こえてきた。
「なんだろう……?」
スリジエは涙を拭いて、声が聞こえる方へ向かった。
バルコニーから外を見ると、庭で小さな少年が泣いていた。彼の膝には小さな擦り傷。きっと転んで怪我をしてしまったのだろう。
この建物の周りは外壁で囲まれていて、スリジエと男のほかに出入りする者はあまりいない。おそらく少年は忍びこんで出られなくなったのだろう。当然周りに人の姿はない。
助けてあげなきゃ、とスリジエは考えた。少し手を伸ばせば届く距離に、困っている人間がいる。それに、スリジエは先生と呼ぶ男以外の人間を見たことが無かった。単純に興味が湧いたのも理由の一つだ。
スリジエは、バルコニーを囲む柵に足をかけてよじ登り始めた。何度も滑りながらも、頂上に辿り着く。先端は槍のように尖っているのに注意しながら身体の向きを変え、今度は降りようとする。
しかし、スリジエが着ているシャツの裾に柵の先端が引っかかってしまった。スリジエは気づかずに降りようとして、バランスを崩した。そのまま落下する。
「あでっ」
べしっと音を立てて、芝生に着地する。受身を取ろうとしてついた右腕がみしりと軋む音を立てた。
少年は突然目の前に落下してきた少年に驚いた様子で、スリジエを見つめている。
「大丈夫?」
スリジエは手を差し出した。少年は怯えた様子で、スリジエから遠ざかろうとする。
「ぼくは怒ったりしないよ。先生はどうかわからないけど……。さあ、先生が起きる前に出ましょ。あ、その前に傷の手当をしなきゃ」
スリジエは少年に向けてさらに腕を伸ばした。もう少しで触れられるところまで近づいたが、彼はその腕を払いのけようと、力一杯スリジエを突き飛ばした。
その小さな手はスリジエの右腕に命中し、肘から先がぽきりと音を立てて折れ、地面に転がった。
「あー、やっちゃった……」
スリジエは苦笑しながら、折れた右腕を拾い、少年に向き直った。
少年は信じられない光景を見た驚きと恐怖から、瞳がこぼれそうなほど目を見開いてしばらく固まったあと、大粒の涙を流しながらすさまじい咆哮をあげた。
「やあああああああああああああああああああああ!!」
その咆哮はスリジエの身体がびりびりと震え、無数の細かい罅が入るほどだった。
男は頬を撫でる風の香りで目を覚ました。
「む、いけない。寝てしまったか」
男は涼しげな目元を軽く擦りながら立ち上がり、スリジエの姿を探した。しかし、部屋のどこを見渡しても、スリジエの姿が見えない。
「スリジエ……?」
男の動悸が速まり、焦りが身体を支配し始める。
なぜ部屋にいない。まさか外に行ってしまったのではないか。スリジエに何かあったら……
激しく波打つ胸を押さえながら、男が開かれたバルコニーへの窓を見つけるのと、幼い子供が泣き叫ぶ声が聞こえたのはほぼ同時だった。
男は急いでバルコニーへと出た。高い柵の向こう側にスリジエと小さな少年がいる。スリジエの右腕が無残に折れているのを見た瞬間、男の理性は焼き切れた。
目の奥に熱が溜まっていくのを感じる。涼しげな目元は攣りあがり、激しい怒りで頭がいっぱいになる。
男はバルコニーと庭を区切る柵を掴み、力ずくで柵を捻じ曲げた。広がった隙間から庭へと出る。
「先生……」
スリジエが怯えた目を向けてきた。しかし、男は今、庭に侵入しスリジエを傷つけた少年への怒りで他のことが何も考えられなかった。
少年の目の前に立ち、その怯える瞳をじっと睨みながら、ゆっくりと腕を振り上げる。そのまままっすぐに振り下ろせば、おそらく彼の顔には数日消えない痣が残るだろう。
男は慈悲もなく腕を振り下ろした。少年は衝撃に耐えるために固く目を閉じた。
男の掌は子供の頬に命中した。そして、ぼきりという音と共に、スリジエの首が身体から離れていった。ぶたれた衝撃から、何枚もの花びらがスリジエの身体から離れ、一斉に舞い上がる。
「せんせい」
スリジエの目は男を見つめ続けていた。首は重力に従って、身体は支えを失って崩れ落ちていく。
「おこったからって」
男がスリジエの首が落ちていくのを認識すると、目の奥の熱が急速に冷え、目元から力が抜けていくのがわかった。
「ちいさなこどもに手をあげるのは」
男には、大量の花びらと共に、スリジエの首が落下していくのが、まるでスローモーションのように見えた。
「どうかと」
そうして、スリジエの首は地面に落ちた。その顔はまるで眠っているかのように穏やかだった。
男は、スリジエの首を拾い、静かに涙を流した。
スリジエの右肘と首からは、傷を修復しようと琥珀色の液体が溢れ出ていた。男は折れてしまった腕と首をくっつけて、液体が固まるのを確認したあと、さらに固定する措置を施した。
「すまなかった」
「いいえ、ぼくが勝手に外に出たせい」
スリジエの身体は、強い衝撃を与えてしまったため、例年の今よりもずっと身体が小さくなってしまった。おそらく、眠りにつくのも早まるだろう。
「お前は優しすぎる。少しは、怒ることも覚えなければならないよ」
「ぼくが先生を怒ることなんてないわ」
「なぜ」
スリジエは左腕だけを伸ばして、優しく男を抱きしめた。
「そんなの、先生が大好きだから。それだけよ」
男もスリジエの身体を抱きしめた。
「……許して、くれるのか」
「もちろん」
「ありがとう。お前は優しいな」
花びらが散る頻度は増え、スリジエの身体は日に日に小さくなっていった。
身長が男の膝くらいまで縮んだ日、スリジエは涙を流しながら言った。
「せんせい、ぼくね、せんせいが好きだから、ぼくのために大変な思いをしてほしくないの」
男はスリジエの頭を撫でてやりながら、静かに耳を傾けていた。
「でも好きだから、もっとせんせいと一緒にいたいの。ちゃんと来年も起きられるかわからなくて、眠るのも怖いのよ」
スリジエは男の腕にしがみついた。
「ああ、ぼく、せんせいのこと、苦しめてばっかり」
男は答えた。
「私の研究は、本当はしてはいけないことだと言われている。どういうことかわかるか」
「ぼくが、長く起きているのはだめということ?」
「そうだ」
「いや……!」
「ああ、私も嫌だ」
スリジエは顔を上げて、男の瞳を見つめた。
「私も、お前と一緒にいたいから、大変だろうと、誰が何を言おうと研究を続けるぞ」
スリジエは再びはらはらと涙を零した。
「お前をこんなに苦しめてしまうのは、私のせいだ。すまない。今年も、駄目だったな」
「いいえ、ぼく、大丈夫よ。来年も頑張って起きるわ。またせんせいに会うの、楽しみにしてる」
「ああ、私もだ」
そうして、男とスリジエは静かに口づけを交わした。十ヵ月以上の別れを惜しむ、優しく甘いキスだった。
「もう時間みたい。今年もあの子に会えなかった」
「いずれ会えるだろう。急ぐことはない。さあ、力を抜いて」
スリジエはあ穏やかに微笑みながら目を閉じた。
「せんせい、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。スリジエ」
スリジエはうっとりと微笑んで、目を閉じた。
瞬間、スリジエの身体は無数の花びらとなって、砂が流れるように形が崩れ、窓から吹き込んできた強い風が、花びらとなったスリジエの身体を遠い彼方へと運んでいった。
花びらが全て散ったあと、男の手元には小さな桜の枝が一本残った。男は枝をスリジエのためのベッドである箱にそっと入れた。
外は雨が降り始めていた。これから、梅雨の時期になる。
男が窓の外を眺めていると、背後からがたりと物音がした。振り返ると、鮮やかな青色の髪の子が起き上がろうとしている。
男は箱に近寄り、その身体を支えながら言った。
「おはよう、オルタンシア」
その子の名前はオルタンシア。フランス語で「あじさい」の意味。
「……せんせい」
オルタンシアはゆっくりと目を開けた。瞳は美しい藤色だった。
目覚め