理屈


買ったものなのか,借りていたものなのかは分からないけれど,私の小さい頃から使われ続けているカメラが一台あった。フィルムのものだった。デジカメやスマホが当たり前に使われるようになってからも,父や兄,そして私が時々使っていた。父や兄が撮っていたのは例えば旅行先で収めた印象的な風景が主だったけど,私が撮っていたのはポートレイトだった。一人,一枚。結局は趣味だし,また,結構な枚数を撮った後でも,「もう一枚お願いします」とモデルになってくれた人に言うだけの勇気をいつまでも持てなかった。「写真家になりたいの?」と訊かれると,赤面してしまう傾向がより強くなってしまって,妙に真実性が増すのが苦手だった。使っていた三十五ミリフィルムカメラは,写真に詳しくない,撮らせてくれた人から見れば,立派な名機のように褒めてもらえたことも誤解を招く要因だった。
「古いね。おさがりかい?」
「ええ,まあ」
私はそう答えてから,では,と言ってシャッターを切ったし,撮り終えた後なら違う話を振ったりして,レンズにきちんとキャップをはめ込んだ。カポッというのを感触で確かめてたら,自然と背中に隠したり,片手で持って,その存在を薄める努力をした。撮らないことなんて選択もしなかったくせに,指摘されたくないなんて,よっぽど捻くれていると感じていた。フィルムが巻き取られる最後の一枚になる頃には,イケナイことをした気分でいっぱいだった。カメラの背後から取り出す私のひと巻きは,そうしてため息と一緒に役目を終えた。使い終わった本体は,必ず電話が置かれたリビングの棚の上に置く約束だった。だから私たちはそうした。自分以外の誰かが使い終えるまで,空白の時間に気持ちの整理をつけるようにして,その一台を使い続けた。大切に,壊れないように。
覗き窓越しに見た人たちの笑顔やポーズはいつも眩しかった。でも,それを本当に感じるのは,仕上がった一枚一枚を手にとって見る時だった。標準サイズの一人ひとりは動きやしないのに,その場に居たという実感がすごく湧いてくる。父はよく,記録を残す写真には振り返るという行為が付きまとう以上,そうなるのは仕方ない,なんて深刻ぶって答えたりしていたけれども,言っていることに間違いはないって思っていた。写真は振り返るものだ。記憶はそれに助けられる。感情は最後に現れる。今という瞬間に湧き上がる。だから写真について語ろうとすると,センチメンタルな感じを拭いきれないんだって,私は兄に語ったり,母に語ったりしていた。それを聞いて,母は「そうなのかもねー」と緩やかに同意してくれたけれど,兄は「そんなのお前だけだろ」と素っ気なかった。それなら,と兄に写真を撮る動機について訊いてみると,兄は,その瞬間を捉えることが写真を撮る動機だと答えた。瞬間を切り取って,永遠に残し続ける。それはクリアな心情になってこそ可能なことであって,センチな気分じゃ,自分が出過ぎて上手くいかない。撮る側に熱は要らない,写真は機械で理屈なんだ。熱っぽさでいい写真が残せるか,ということだった。それにはすごく納得できない私は兄に向かって反論し,兄も兄で再反論をし,で熱い議論となるのが落ちだった。
「そんなに写真が好きなのねー。」
と応じてくれる母だったが,私たちはそれに聞く耳を持たなかった。兄と私は,このことについてだけは,よくケンカをした。そのくせ,毎月隔週で行われていた父と兄,私の間で行われた作品発表会(のようなもの)では,与えられた一票を,お互いの一枚に投じ合うことも多かった。おかげで,不貞腐れる父をなだめすかすことも多かった。兄が撮る風景は綺麗だった。撮っている人を除いて,そこには誰もいない気がしてならなかった。雲が活きていて,天気が伸び伸びとしていた。樹々が色々と変わっていた。切り取られた瞬間だった。兄は,私の写真に対してはいつも二言だけを寄越した。「好きなんだな。」
「好きじゃなきゃ,誰もこんな顔はしてくれない。」
理屈は抜きにして,私が進路を決めることになったとき,私たちの愛機は修理に出されていて,いつ直ってくるか,幾らかかるのかも心配せざるを得ない状態にあった。それでも私は決めていた。反対の声は上がらなかった。兄も特に何もコメントしなかった。私が所有し,父や兄がそれを借りる。その関係性は無償で保たれることになった。ただ,使用における私の都合は,他の二人に対して優先されることになった。それが所有することで得られる唯一のアドバンテージだった。修理費は私が持った。全額を支払ったあとの数ヶ月は,カメラとともに出歩いては声をかける,充実した日々を過ごさざるを得ない日々となった。ひとつ,入賞もできた。
感謝の一枚,という訳でもなかったけれど,父と母,そして兄の写真をそれぞれ撮った。似ている似ていないに関係なく,皆が皆,無表情になっていて,緊張しているような印象も受ける仕上がりは,今もリビングに飾られている。私のものは兄に撮ってもらった。セルフはタイマーでも苦手だったからだ。最後に,
「入れるのは何がいい?」
と訊かれたから,迷わず,スタンドタイプの写真立て,と言ったら兄に疑問を呈された。けど,私は何も気にしなかった。許される範疇内のもの,と私が判断したからだった。
その証拠に,私はピッタリと合った木の枠に囲まれている。額縁内でまっすぐに立って,緊張の面持ちよりは一歩進んだ,そういう顔をしている。写真にある事実だ。
時々,振り返ったりしている。

理屈

理屈

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-25

Copyrighted
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