しかすら社員と、なのにバイト
「内定者研修だからって無給じゃないよ。ちゃんと給料は出す。うちはブラックじゃないからね」
そんなこと当たり前だと思いながらも、杏野は笑顔で「ありがとうございます」と礼を言った。とりあえず、この丸岡という若い編集長には印象を良くしておこうと決めてきたのだ。
「まあ、杏野くんには少しでも早く仕事を覚えてもらって、4月から即戦力になってもらわないとな」
結局、アルバイト程度の賃金で、入社前に実地研修を済ませてしまおうという魂胆であろう。杏野もその程度のことは覚悟している。
「がんばります」
「じゃあ、とりあえず、我が『タウン情報マチマチコマチ』のスタッフを紹介しとこう」
丸岡は自分のデスクを離れ、杏野を連れて編集部の中を移動した。最初に、杏野とさほど歳のかわらない、黒縁メガネの男のところに行った。
「彼は広川だ。杏野くんの一年先輩になる」
だが、広川という男は、自分が紹介されていることなど意にも介さず、丸岡に質問してきた。
「編集長、『商店街に歴史あり』のコーナーの原稿ですけど、頼んでた八百屋の大将が電話で断ってきました。どうしましょう?」
丸岡の額に少し血管が浮いた。
「八百屋がダメなら、魚屋でも肉屋でもいいだろう!」
何故か広川は驚いた顔になり、すぐに不満そうに口をとがらせた。
「だったら、最初にそう言ってくださらないと」
「それぐらいは自分で考えろ。とにかく、原稿が先だ。今すぐ商店街に行って、誰かに頼んでこい!」
「はあ」
広川は、いかにもやる気なさそうに立ち上がり、カバンを持って編集部を出ようとしたが、急に振り返った。
「魚屋と肉屋、どっちにしますか?」
「どっちだっていい!」
唖然としている杏野に、丸岡は自嘲するような笑みを見せた。
「驚いたろう。杏野くんは、ああなっちゃダメだぞ。まったく、あいつときたら、言われたことしかやらないんだ。いわば『しか社員』だな。だが、まあ、まだマシな方さ」
丸岡は、杏野を次の相手のところに連れて行った。三十代ぐらいの髪の長い女で、仕事中にもかかわらず、自分のデスクでネイルの手入れをしている。
「姫野くん、忙しいと思うが、ちょっといいかな?」
丸岡の皮肉が多少通じたのか、姫野という女子社員はマニキュアを塗るのをやめ、「はい?」と言った。
「4月から入社予定の杏野くんだ。今日から内定者研修で、うちの仕事を手伝ってもらう」
杏野は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「逆に、よろしくー」
丸岡は苦笑を浮かべつつ、姫野に尋ねた。
「ああ、ところで、姫野くん。頼んでた見積りは、もうできたかい?」
「逆に、あれって、今日必要でしたっけ?」
再び、丸岡の額に血管が浮いてきた。
「昨日、念押ししただろう!」
「逆に、明日じゃ、ダメですか?」
「ダメだ!」
ムッとした顔でノロノロと仕事を始めた姫野の席を離れると、丸岡は小声で「あいつは言ったことすらやらない。『すら社員』だ!」と杏野にグチった。
突っ込まない方がいいと思ったが、聞かずにはいられなかった。
「あれでいいんですか?」
丸岡はちょっと困った顔になった。
「うん、まあ、いろいろあるのさ」
丸岡は言葉を濁したが、杏野は、このタウン情報誌の社主が姫野という名前であることを思い出した。さすがに娘ではないだろうが、おそらく親戚であろう。
その後も何人か紹介されたが、杏野の見たところ、いずれも『しかすら社員』ばかりのようだった。
最後に、編集部の一番端の席に案内された。そこのデスクだけ安っぽく、しかも二人で使っていた。一人は四十代くらいのヒョロリとやせた男、もう一人はポッチャリした若い男だった。のんびりした他の席と違い、そのデスクだけ忙しそうだった。
「大原さん、ちょっといいですか?」
丸岡が遠慮がちにやせた男に声を掛けると、男は校正中の原稿から赤鉛筆を離した。
「何でしょう」
「彼が4月入社の杏野くんです。いろいろ教えてやってください」
「わかりました」
それだけ言うと、大原は原稿をポッチャリした若い男に、「赤のとこだけ訂正」と命じて渡した。受け取った若い男は、それを黙々とパソコンに打ち込んでいる。ピリピリした雰囲気に、丸岡もそれ以上声が掛けづらいようで、「じゃ、よろしくお願いしますね」とだけ言って、杏野に戻るよう促した。
編集長席に戻ると、丸岡はホッとしたように座った。
「まあ、これで部内は一通り紹介したから、これから昼飯を食いに行こう。そのままぐるっと商店街の辺りを回るぞ。お得意様だからな」
どうしようか迷ったが、杏野は疑問に思ったことを聞いてみた。
「編集長、あの大原さんって、どういう役職の方なんですか?」
丸岡は、一瞬、どう答えようか考えているようだったが、フッと表情を緩めた。
「隠してもしょうがないな。アルバイトだよ」
「え?」
「おれも詳しいことは知らないんだが、学生アルバイトでうちに入ってきて、そのまま正式に就職はせず、ずっとうちにいる人だ。先代の編集長が社員登用試験を受けるよう勧めたら、『縛られたくないから』と言って断ったらしい」
「へえ、変わった方ですね」
「ああ。だが、仕事は抜群にできる。実を言うと、おれも新人の頃、大原さんに編集の心得を教わったんだよ」
「はあ、そうなんですね」
「あの人がいなかったら、この『タウン情報マチマチコマチ』はとっくに廃刊になってただろう」
「なのに」
「そう、なのに、アルバイトなんだ。それから、大原さんの横に若い男がいただろう?」
「ええ」
「彼は現役の学生アルバイトなんだが、大原さんに気に入られて、メキメキ編集力を付けてる」
「なのに」
丸岡は溜息をついた。
「そうさ。『なのにバイト』なんだよ」
(おわり)
しかすら社員と、なのにバイト