人より尖った喉仏

もしかしたらどこかにあるかもしれない。そんな感じのお話です。

人より尖った喉仏

 あなたってよく唇を触っているわよね。君に言われてからなんとなく気にしていた癖。同僚曰く、欲求不満の人間の特徴らしい。欲求不満でもなんでもいいが適当なことを言うなよ、とその同僚と遅めの昼飯を定食屋で済ませていた午後2時20分ちょうど。見慣れない番号から一本の電話が掛かってきた。
「はい、斉藤ですが」
 僕がそういうと電話の向こうの人間はこう言った。あなたの奥さんの雪さんが亡くなりました。
 手を付けていた鯵の開きをそのままに、僕は千円札を置いて店を飛び出した。午後2時32分、自分でもよく分からない速さで病院についた。財布からまた千円札が減っていたからタクシーでも使ったのだろうか。そこが処置室なのか、霊安室なのかどうでもよかった。彼女の存在を確かめねばならなかった。僕がそこで目にしたのは、かつて彼女だったらしい肉と骨とが皮で覆われている何かだった。
「搬送された時はもう心肺停止の状態でした。出血が激しかったようでして。」
 医者がそう言った。出血とはなんのことだろうか。彼女は死ぬほど血を流したのだろうか。
「そうですか。」
 僕にはそれしか言えなかった。

 午後3時14分、僕のもとに警察がやってきた。話しを聞くと彼女はどうやら事件に巻き込まれたらしい。
 僕が家を出た数時間後の午前11時30分、彼女は行きつけの美容室にいた。僕もそれは知っていた。美容室を出たのが午後1時過ぎ。それから彼女はまっすぐ自宅に向かって帰っていったらしい。担当した美容師がそう言っていると警察が言っている。午後1時15分、彼女が信号待ちをしていた時、事件は起きたそうだ。後ろから心臓を一突き。たったそれだけ。救急車の到着が遅れたとか、医療ミスとかそういうのではなくで、刺された傷が深くて、出血が激しくて、血が足りなくなって心臓が止まった。
「そうですか。」
 僕の中にはそれしかなかった。
 警察から色々なことを聞いた。僕も色々聞かれた。でも答えたことは一つだけ。分かりません。その一言以外に発した覚えはない。その日覚えているのは医者と、警察と、僕とが全員どうしようもない人間だってことくらい。知らない間に僕は眠りについた。

 いつも通りの時間に時計が朝を知らせたが、そこにいつも通りの朝は無い。新聞を読む僕にコーヒーを差し出してくれる手も、包丁の音と一緒に聞こえる陽気な鼻唄も、テレビの占いの結果に一喜一憂する声も、昨日切りに行ったきりの艶やかな黒い髪の毛も、何一つここには無い。あるのは僕という虚無だけ。

「犯人が捕まりました。」
警察から連絡があったのは午後2時20分。昨日の鯵の開きはすてられてしまっただろうか。
 犯人は40代の男性。無職。住所不定。僕の口をついたのは
「そうですか。」
 の一言だった。

 それからはあっという間だった。彼女と僕の両親が来て、泣いた。彼女の親は僕を責めることも、僕の両親を責めることもしなかった。僕の両親はずっと謝っていた。息子のところに嫁いだばかりに、と。
 彼女を弔い、燃やし、死後の世界へ送り出した。僕の部屋には小さくなった彼女がはいっている入れ物と、よく分からない漢字が羅列してある無駄に厳かな木がやってきた。毎日毎日意味も分からず線香を燃やした。彼女が選んでくれた僕のお気に入りのスーツは、いつしか線香のにおいが染みついた。それからまた何日か経ってから、寺に出向いて彼女のためにお経をあげてもらった。僕も彼女もすごく退屈だった。
仕事は普段通りにこなしていた。昼飯を一緒に食べた同僚は心配してくれたが、僕は大丈夫だと答えるしかなかった。本当にに大丈夫だったから。
「斉藤くん、ちょっと」
 上司が僕を呼ぶ声が聞こえた。
「なんでしょう」
 わざわざ上司が僕を連れて二人だけの空間にやってきた。
「君、本当に大丈夫なのか。奥さんを亡くして間もないのに、そんなに落ち着いていられるものか。仕事を休んだっていいのだよ。」
 気のいい上司を持ったと素直に思った。
「大丈夫ですから。お気遣い感謝します。」
 でも、僕も部下らしく上司を立てた。
 
 彼女の両親が僕の部屋を訪ねてきた。遺品整理をするそうだ。遺品とはなんだろうか。彼女の物は彼女の物だろうに。
 彼女の着ていた洋服も、身に着けていたアクセサリーも、使っていた化粧品も、僕の部屋から姿を消した。
「とっておいても仕方ないでしょう。私たちで処分しておくから。」
 彼女の母親がそういった。
「わざわざありがとうございます。助かりました。」
 少しだけ違和感があったけど、たぶんこれが正解。

 裁判が始まった。でも僕にはどうでもよかった。その男が何年塀の中にいようとも僕の生活に変化はない。僕の周りの人間は有罪を勝ち取ることに必死だった。滑稽なくらいに。

 その日家に帰って、いつものように線香を燃やした。それから風呂に入って、でき合いの弁当を食べた。洗面台の前で歯を磨こうとして鏡をふと見たとき、自分の肌が荒れていることに気付いた。食生活のせいだろうか。彼女がそんなことを言っていたのを思い出した。唇も白く、皮がめくれている。カサカサとした唇に触れて彼女の言葉を思い出した。
「あなたってよく唇を触っているわよね。」
 僕は確かこう答えていた
「ああ。だって君がどうしようもなく愛しいから。」
「なにそれ。よく分からないわ。」

 僕はその時、初めて君にもう一度会いたいと思った。心からそう願った。
 「雪」 と、君がいなくなって初めて名前を呼んだ。
君の使っていた歯ブラシをみて、君が歯を磨いている姿を思い出した。夢にだって出てこなかったくせに、どうしてこんな光景をいまさら見ているのだろう。それから全部思い出した。君の作った料理の味も、テレビを見て笑う君の笑顔も、隣で寝ている君の匂いも、全部だ。本当に全部。
 家の中を駆けずり回った。君の残骸をそこら中に探した。でもあったのは、歯ブラシと、マグカップと、君の位牌だけだった。ああ、僕は馬鹿な男だ。自分でもそう分かるほどに頑なに目を背け続けていた。その日僕は、初めて君を失った悲しみで涙を流した。君を失った事実をやっと受け入れた。僕は死ぬほどに泣いた。そして初めて犯人が憎いと思った。殺してやりたいくらいに憎かった。君はあんな男に命を奪われたのかと思うと、腹が立って仕方がなかった。行き場のない怒りは、涙になって僕から溢れていった。

 いつだったか君に、こんなことを聞いた。
「僕のどこが好き」
君は笑って答えた。
「普通は女がする質問よ、それ。 でももし答えるなら、あなたの喉仏かしら。」
そういって君は僕の首をしきりに撫でまわした。僕はくすぐったくて手を払ったが、今ならいくらだって触らせたっていい。あんな男に刺されるくらいなら君が好きだと言った僕の喉仏で君の胸を刺してやっていい。

僕はまた唇を触った。君は言った。
「また唇に触っているわ。」
僕はきっと、これからこう答える。
「ああ。だって君に会いたくて仕方ないから。」

人より尖った喉仏

いかがでしたでしょうか。あなた様の心にちょっとでも残れば私としては幸いでございます。

人より尖った喉仏

心って意外と簡単に失うし、些細なことで取り戻す物だと思うの。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-23

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