きらきらひかる(天野)

「きらきらひかる」
天野しづか

 
 朽ち果てる寸前の扉を開けると、乾いた臭いと埃が十年ぶりの懐かしい客を出迎えてくれた。崩れたドーム型の天井からの光が、中身をむき出しにした長椅子を、そこら中に散らばる瓦礫を、誰かが置いた植物の入った汚いブーツを照らし出す。空間の中心にある大型の機械の塗装は完全に剥げ、赤さびが覆っていたが、その特徴的な形が辛うじて、ここがプラネタリウムであったことを知らせていた。
 俺は、ぱきぱきと何かが崩れる予兆のような音をたてる床を蹴り、長椅子の列を通り抜け、瓦礫に躓き、そして、さびに覆われた台の上に鎮座する、汚れたブーツを前にして立ち止まった。
 その靴は、彼女のものだった。その植物も、きっと彼女のものだった。彼女のものはここにあるのに、彼女はいなかった。俺の未来の行く先の何処にも、彼女はいなくなった。それが死なのだ。だからここに、俺は一人だった。

 二×××年。人間は進化した。でも、人間が進化した分それだけ、俺たちの地球は汚れていった。汚くて、臭くて、美しくなくなった地球を愛している人間なんてもういやしない。人類の大半はスペースシャトルに移り住み、地球に残っているのは馬鹿みたいな希望に追いすがっている一握りの研究者か物好きな金持ちか、貧乏人だけだった。
 そんな哀れむべき人間達の中に彼女はいた。子供の時から一緒で、いつから付き合っていたのかも曖昧だった。気づけば、そんな二人だった。突拍子もなく飛び出して帰ってくる俺を、彼女はいつも笑って迎えてくれた。十年前のあの日も、久しぶりに彼女の家を訪ねた俺に「待ってたよー。元気だった?」と笑いかけ、いつものように二人でプラネタリウムへ向かった。

 その施設は彼女が子供の時に見つけたものだった。当時は魔法使いみたいな老人が機械を操って、ドームに星空を映し出していた。でも魔法使いはいなくなり、いつの間にか操作を教えてもらった彼女が、機械を動かしていた。プラネタリウムの空は、地球の澱んだ星空よりも遙かに美しかった。ここには作り上げられた都合のいい輝きがある。現実はうまく覆われていた。でも、もう隠し通すことは不可能だった。何百回と目にした作り物の星空を見終えた後、少しだけ間を置いて、切り出した。

「俺は宇宙へ行く」

 地球から飛び出し、月を越えて、火星を越えて、人類を移住させるための新たな地を探す。そんな場所があるかも分からない、生きて帰れるかも分からない調査団に、俺は志願した。俺は果てしない宇宙を昔から愛していた。無垢である空間に憧れた。子供の頃は宇宙飛行士達の図鑑をむさぼるように読み、成長してからも宇宙に関わる知識を片っ端から頭にたたき込んだ。きっとそれは、彼女が見つけてくれたプラネタリウムで、眩い光の世界を目にした瞬間からだったと思う。宇宙が好きだった。プラネタリウムではなく、本物の星空を宇宙で見れるようになっても、まだ明かされない宇宙の秘密に俺は、きっと永遠の恋をしていた。

「訓練とテストが終わって、今日調査団から通知が来たんだ。俺は宇宙に行く。新しい星へ行くんだ。」
「すごい。だって新しい星なんて、誰も見たことのないものがいっぱいあるんでしょう?」
「うん。多分ね。」
「食べ物はおいしいかしら。星は綺麗に見えるかしら。」
「…………。」
「また写真送ってね。お話、聞かせに来てね。」
「…………。」
「…………どうしたの?」

 心配そうに俺の顔をのぞき込む彼女を見て、俺は少し息を吸った。吐いた。そして。

「もう地球には帰れない。」

 と言った。すると予想通りに、彼女は「え?」と戸惑ったように首をかしげて、俺を見て、宙を見て、それから「え?」とまた俺を見た。
 調査団は、新たな星を見つけるまで地球には帰れないのだ。火星を拠点にして銀河系を巡る。彼女は宇宙旅行すらしてことのない貧乏人だったから、宇宙で会うこともきっとないだろうと思った。
「…………そう。帰れないの。」
「ああ。」
「寂しくなるわね。」
「うん。」

 それっきりもう、彼女は何も言わなかった。老人がいた頃に比べてだいぶ汚れが目立ってきた床に目を落とし、ここではない暗闇を見つめ続けた。

「あの、さ。」

 貧乏な彼女に金はなかったが、俺にはあった。それにこんな所に、彼女を置いていけなかった。

「こっちに、来ないかい?」
「…………え?」
「火星を拠点にするから、調査団の家族はそこに移住が出来るんだ。なあ、俺の所に来ようよ。食べ物もおいしいよ。星空だって本物さ。もういい加減に、一緒に行こうよ。行ってそこで一緒に暮らそう。」

 俺は自分の申し出に満足以上の満足を感じながら、沈黙する彼女を見た。でもきっと心のどこかで、彼女の答えは分かっていたんだと、思う。

「私は地球に残る。」
「…………。」
「家族も、友達もいるし。」
「…………。」
「ここに種を咲かせるって夢もあるから。」

 俺は宇宙という途方もないものに恋をして、彼女は訳の分からない植物の種に永遠の恋をしていた。地球に植物はもうない。しかし彼女は、あの魔法使いがいなくなる前に託された、何かの種をどうにかして芽吹かせようとしていた。シェルターの中で作られたクローンではなく、本物の植物。入れ物をどこからか集め土をしいて種をまき、少しでも日の当たる場所を見つけて置く彼女に、俺はいつも無理だと言っていた。彼女は無理かな? といつも笑った。

「…………そうか。お別れか。」
「ええ。でも待ってるから。」
「待ってなくてもいいよ。別に。」
「帰れるかもしれないじゃない。それにそのころには、咲いた種も見せられるかも。」
「咲かないよ。無理だ。」
「咲くかもしれない。そしたら、私を連れて行ってね。宇宙に。」
「…………。」
「待ってるから。」

 そうか、と俺はもう一度呟いた。そうよ、と彼女は笑った。それが最後だった。
 
あれから十年後、俺は帰ってきた。これぽっちも愛していなかった地球に。地球は相変わらず、灰色ののっぺりとした空、汚らしい黒色の海に覆われていた。それにひきかえ、宇宙は美しかった。けれど、俺は美しいものを見るたび、彼女を思い出した。作り物の星空を思い出した。彼女がいた地球を思い出した。寂しいと思った。帰りたい、と願った。

(宇宙の十年は、地球には百年だった。)
(宇宙では地球から離れる度に時間の進み方が少しずつ、)
(ずれた。)
(ずれてい
った。)

 俺は、彼女との家が廃墟になっているのを確認し、彼女の墓石も、確認した。その後、彼女がいなくなった家に残っていた色々を、こつこつ回収した。数少ないそれらを手に取りながら、俺はなんだかぼんやりしていた。彼女の家族も友達も、もういない。俺だけが、宇宙でたった一人、彼女を知っているように思えた。だから、実感がわかなかった。涙も、出なかった。きっと、待たせてばかりいたから出て行ってしまって、今度は俺が待つ番なのかもしれないとさえ、感じた。でも彼女の家からはどんどん、何もなくなっていく。何もなくなっていく。何もなくなっていった。
 気づいたら、あのプラネタリウムの前に俺はいた。どうしてそうなったのか、ドーム型の天井は半壊し、奇妙に欠けた卵の殻みたいになっていた。最後に見たときよりも更にぼろぼろになり、こころなしか小さくなった懐かしの建物。懐かしの夢の残像。朽ち果てる寸前の扉を開けると、十年ぶりの景色も、十年前にはなかった景色もそこにはあった。中身をむき出しにした椅子。そこら中に散らばる瓦礫。そして。そして。
 俺は床を蹴った。ぱきぱきと何かが砕ける音がしても、何かに躓いても、気にしなかった。そして、どんなに部屋を探しても見つからなかった彼女の靴の片割れに、咲いた緑を、見た。薄汚れた彼女の靴。燃えるような、彼女の緑。
 嬉しくて、嬉しくて、でも悲しくてどうしようもないのは、俺がそれを美しいと思ったからだった。彼女を、思い出したからだった。待ってくれたのだと、思ってしまったからだった。
待ってくれていて、ありがとう。
 そう思いながら、やっと、ようやく彼女がいなくなったのだと思った。待ったって、何も帰ってくることはないのだと、一人になってしまったここで、しくしく泣いた。

 今日、地球を発って基地に戻る。俺はそこで、大切に保存した彼女の植物の研究をするつもりだった。俺たちの新しい星に芽吹かせることは可能なのか。そして、地球で再び咲かせることはできるのか。
 ふと、彼女の墓石を思い出し、彼女の緑に想いをはせた。きっと俺は、何度でもあそこに帰り、何度でも宇宙へ行くのだろう。君が待っていてくれる汚い地球へ。君と約束した寂しい宇宙へ。どこにいても君がいれば構わなかったのだと、今更気づいたから。それに君は、夢を叶えて約束を守ってくれた。だから今度は、俺の番だった。
 プラネタリウムの空よりも先。暗がりの遙か先。俺は行く。今度は彼女と共に。

「君を連れて行くよ。宇宙に。」

きらきらひかる(天野)

きらきらひかる(天野)

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更新日
登録日
2016-11-22

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