いつかの空の果てまでも
この小説は架空のものであり、登場人物、地名、団体名なとすべてフィクションです。
1 『シアワセのかたち』
それぞれの「シアワセのかたち」ってなんだろう
1-1「シアワセ」
梅雨のじめじめとした特有の湿気が立ち込める。衛藤葵は土砂降りの雨の中、小さな傘を引っ立てて歩いていた。小さな傘では大粒の雨を防ぎきれず、買い直した制服のズボンの裾が既にびしょ濡れで、それが肌に引っ付く感覚に嫌気がさした。
これが高校生活最後の梅雨の季節なんだと思ってもしみじみと感じる訳がない。
歩いている道の曲がり角を右に曲がればもうすぐ家がを見えてくる。そうすればこの土砂降りともお別れだ。
葵が曲がり角を曲がった途端にピタリと雨が止んだ。「なんだよ」と心の中で呟くと、まだ水滴の残る傘を閉じる。傘の水を払うように大きな音を立てながら傘を振った。傘の水がもう払えなくなった頃には家が目の前だった。
傘立てに傘を入れようとする。しかしそこには見慣れない傘が二本入っており、その意味が分かると無造作に傘をそこに投げ込んだ。
家に入っても玄関に見知らぬ靴が二足。また来ているのかと少し呆れる気持ちもあれば、会えるかもしれないという嬉しさも僅かながらに込み上げていた。
靴を脱ぎ、「ただいま」の一声さえかけずに、一先ず自分の部屋を目指した。階段を駆け上り自分の部屋を開ける。
扉の開いた音と共に「お帰りなさい」の声が葵の耳を塞いだ。
「ただいま」
葵はそう言うと背負っていたスクールバックを椅子にかける。
「冷たいよ。もう少し優しくしないの?」
甘えたような声で彼女は葵の腰に手を回して、自分のいるベッドまで無理矢理に動かした。不意のその力に葵は足を取られてそのままベッドの上へ。
湿気によってべたついた肌が触れるのを葵は嫌う。けれど彼女の腕が離れる気配はなかった。
とりあえず離れてほしい、そんなことを言ったところで彼女が離れてくれないのは目に見える。
葵は身体を反転させて、彼女の顔と自分の顔を対面させた。僅かその距離15センチ。彼女の吐息が唇に触れる。
「奈々未、好きだよ」
顔を横にずらし、彼女ーー橋本奈々未を押し倒す。
そうすると自然に奈々未の腕の力が弱まった。葵はゆっくりとその手枷を外すと、奈々未から離れる。
奈々未はさぞ不満そうに顔を膨らますと、また葵を捕まえようとするがするりとその腕は葵の前で空を切った。
「今はやめよ。今はくっつきたくない」
「なんでよ。別にいいじゃん」
「下にみんないるのにイチャイチャなんて出来ねぇよ。それに今ベタついてて気持ち悪いしさ」
なんとか奈々未を説き伏せると、葵は部屋着と共に風呂場へ向かった。早くにこの鬱陶しさを流し去りたい、そんな思いが強まっていた。
奈々未を説き伏せればいつも勝てる、そんな条理が葵と奈々未の間にはある。普段は冷静で冷たい奈々未だが、彼氏である葵の前では誰にも見せない甘えを顕す。
風呂場から上がり髪をタオルで不器用に乾かしながらリビングに入る。リビングには奈々未、姉の美彩、2人の親友の深川麻衣がいた。
この3人は同じ大学の同じ学部の同級生で、いつも仲が良い。こうして衛藤家に訪れることが多いのだ。勿論沢山訪れている彼女らを葵は認知している。
「姉ちゃんみたいな大学生って暇なのかよ」
葵は椅子に座ると、リビングでテレビを眺めながら携帯を弄っている美彩に向かって言い放った。
「暇じゃないわよ。レボートあったりして大変なんだから」
「その割に奈々未とか麻衣めっちゃ来てんじゃん」
「それは美彩の家がいいとこにあるからなんだけど……ダメだった?」
麻衣が申し訳なさそうな顔で見つめてくる。何ともその愛くるしい表情で見られてしまったら何も言えなくなる。
「いや、やっぱいいよ」
照れたように葵が笑うと、鋭い視線がその笑っている眼に突き刺さった。
「デレてんの?まいまいに言われてデレてんの?」
表情こそ柔らかいが目の奥が笑っていない奈々未が葵に擦り寄る。思わず後退りしながら奈々未のその今にも殴りそうなその腕を掴んだ。
「デレてねえって!それにこの拳やめろよ」
「怒ってなんかないよ?」
そう告げる割には目の奥から炎のようなメラメラとした熱気が見て取れる。
「結局こうやってななみんが来てるから嬉しいんでしょ。全く……姉として恥ずかしいよ」
美彩が諌めるように呟く。そんな美彩の言葉に葵と奈々未は一気にシュンとなった。
「ななみんも満更じゃないみたいだね」
普段はとても優しい麻衣であっても、この美彩に便乗して冷やかしを始める。これには奈々未も困ったような表情を浮かべ、握っていた拳の力を緩めた。
「やっぱななみんと葵はお似合いだわ」
声高々と笑った美彩は指を指す。
「べ、別にそんなんじゃないから……」
「ななみんが照れることないじゃない。2人とも付き合ってるんだしさ」
「奈々未がみんなの前で照れるなんて珍しいかもな」
照れている奈々未とは対照的に葵はそんな様子もなく普段通りに接していた。そんな葵に言われて腹が立ったのか、奈々未は掌を大きく広げて葵の背中を強く叩く。
「いってぇな!」
「……バカ」
「ったく……。困ったもんだな」
そう言って微笑みながら美彩と麻衣の元まで奈々未を動かした。奈々未がソファに座ると、3人とは少し離れた位置に葵の腰掛ける。
熱りが冷めたのか3人とも携帯をいじっていた。そんな風景を葵は目の当たりにして、何しにここに来たんだと思わざるを得なくなった。
すると麻衣が呆れたように携帯を閉じると、先程まで葵のように周りを見渡す。葵と目が合うと、苦笑いを浮かべて直ぐに目を逸らした。
「ねぇ、みさみさ暇だよ」
痺れを切らしたのか麻衣は美彩の腕を取りながらそう告げた。
「ってか暇ならなんで来たんだよって話だよな」
「え?お泊まり会だからだよ」
「は?お泊まり会?」
「うん!だから来たんだよ!」
楽しそうに話す麻衣だが、彼女らのお泊まり会は2日振りで、そんな頻度で行われることに葵は何とも呆れるしかなかった。
1-2「スクールライフ」
疲れたままの身体で制服を着る。結局奈々未や麻衣たちが寝かせてくれるはずもなく、葵は寝不足に陥ってしまった。
玄関を出るとまた今日は雨だ。昨日の土砂降り程ではないが、雨が止みそうな雰囲気は無かった。遠くの空がどんよりと曇っているのが嫌な感じだ。
昨日よりも大きめの傘を指して歩く。電車に乗れば僅かの時間だけ濡れずに済むが、電車を降りて学校まで向かうとなるとやはり傘を差さなければならない。
駅の前では待ち合わせをしているのか多くの人で溢れていた。学校を通る市営のバスを待つ人も長い行列を作っている。そんな人を横目に葵はイヤホンを耳に付けながら独り歩き出す。
歩き出して数分後、好きな音楽流れると共に肩をトントンと叩かれる感覚がした。イヤホンを耳から外して振り返る。
「おっはよーう!」
「お、おはよう」
耳がキーンとなる程大きな声で挨拶をされてしまっては困るものだ。そんな大きな声で挨拶をした秋元真夏に葵は嫌々返事をする。
「冷たい葵に、ずっきゅん!」
「……朝から要らない」
正直、真夏の「ずっきゅん」は鬱陶しいのが本音だ。自分で可愛らしいとでも思っているのであろうが、そういう可愛さを葵は苦手だ。
そんな真夏を置いていくように葵は足のスピードを早める。真夏はそんな葵に追いつくようにスピードを上げる。だが追いつけるわけもなく、どんどんと差が開く。
「葵待ってよぉ」
「ははっ。待たねぇよ」
こうして真夏をいじめるのが楽しい。こういった真夏の反応が個人的には葵は好きだった。
真夏が追いつけるようにゆっくりとスピードを落とす。真夏が隣に来るとそれに合わせた一歩を踏み込んだ。
「これだから葵は嫌なんだよ!」
「嘘つけ。めっちゃ笑顔だったぜ」
「違うよ!違うから!」
そんな他愛のない話を真夏としているとあっという間に時間が過ぎていき、学校の門まで来てしまっていた。学校を目にすると、降っている小雨でさえもやもやと感じられる。
真夏と一緒に門を越え、下駄箱で履き替える。教室に入るとホームルーム前だというのに教室はがらんとしていた。閉じていた傘を教室の中の傘立てに指すと、真夏の1つ後ろの席に座る。
「今日全然人居ないね」
「みんなバスだろ。雨降ってるし」
この学校に通う生徒は2通りの登校ルートがある。1つは20分程かけて歩くルート。もう1つは市営のバスに乗り7、8分程で着くルート。
こういったじめじめとした梅雨の季節や、雨が降っているときにはこのバスルートが混雑する。そのためホームルームに間に合わない生徒は少なくなく、雨の日のホームルームは殺風景であることは定石のようだった。
そんな中、普段から歩いている葵は無遅刻無欠席で、バスに乗っている人に対して優越感を抱いている。
ホームルーム開始の鐘が鳴った。担任の先生がやって来る頃になってぞろぞろと慌てた様子で教室に飛び込んで来る。しかし皆、傘を持っているため傘立ての周りが大渋滞を起こしていた。
「歩いて正解だろ?」
「そうだったね。葵を見つけてなかったら乗ってるところだったよ」
「それは嘘だな。狙って『ずっきゅん』とかやってきただろ。計算なのはバレてんだよ」
「うっわ、ムカつく」
何時も見せる真夏の細いその目。葵に苛立ちを感じているのは確かだが、本当に怒っているというわけでもない。こういうやり取り、ノリが葵との間であるのだ。
真夏のその大きい頭をポンと叩くと、葵はロッカーに教科書を取りに行く。
1時間目の授業が始まってもなお教室にはぽつりぽつりと空いている席が見られる。担当の教員も少し呆れたような一言から授業を始めた。
基本的に授業中は真面目に受けることはない。話を聞いていないことが殆どだ。高校3年生とはいえども、大学附属のこの高校では受験勉強など不要で、授業を真面目に聞いている人の方が少ないのだ。
そんな授業はとても暇である。かといって話したことが指で数えられるくらいの隣の席の人と話すわけでも無く、授業中はぼーっとしているか前の真夏と戯れているのかどちらかなってしまう。最近になって携帯を見るということもやっているか。
今日はというと前の真夏は既に机に突っ伏していて真夏と戯れるなど出来るわけもなく、ノートの端に絵を描きながら時間を潰した。
しかしそれだけで50分もの授業を乗り越えられる筈がない。先生が黒板を向いている時を見計らって携帯を見る。
携帯には彼女らとのグループからメッセージが来ていた。何故かあの3人と葵のグループがあるのだ。普段から自分のいる意味に疑問を抱いているが、それを口にしてしまうと奈々未になんて言われるか分からない。触れないでおくのが葵の中での鉄則であった。
そんなグループから来ていたメッセージとは、楽しそうに家で遊んでいる写真が1枚、送られてきているだけだった。
こっちが授業に退屈しているのに、なんて思い始めると早く大学生になりたいという願望が湧く。しかし彼女らみたいにはなりたくない。
やっとの思いで1時間目が終わる。鐘が鳴るよりも少し早めに先生は授業を終わらせた。
休み時間になっても未だ前で突っ伏している真夏に、葵は厚い教科書の縁で叩く。
「いったっ!何するのよ!」
「授業中は寝ちゃいけないんですよ〜」
「ほんとに葵ムカつく!」
「うるさいな。それより購買行こうぜ。ちょっと腹減った」
葵が真夏を起こしたのはそもそも購買に行きたかったからだ。葵に叩かれた部分を摩りながら、満更でもないように真夏は財布を手に取ると購買に向かう葵に付いて行った。
1-3「小娘」
6時間目の終わりを告げる鐘が鳴る。どこの部活にも所属していない葵はのそのそと帰り支度を始めた。帰り支度と言ってもペンケースをスクールバックに放り込むだけだ。
「じゃあ私、部活行くからじゃあね」
「おう。また明日な」
帰宅部の葵とは違って真夏は家庭科部に所属している。他の運動部などと比べて活動日数は少ないものの、部活動としてそれなりに活動はしていた。
葵が部活に入らなかった理由は簡単だ。ただ単に面倒臭い。それだけだ。
それに今になって部活にも入らなくて良かったとつくづく感じる。部活で疲れて帰ってきたところにあれに出くわすのだと思うと身体が震えた。
外は相変わらずの雨だ。やっぱりこの湿気が鬱陶しい。下駄箱で靴を履き替える頃にはむっとした湿気の風が吹き付けた。
まだ家に彼女らはいるのだろうか。そんな鬱な気分になりながら昇降口と外界との境目に立つと、隣に見覚えのある少女が独りぽつんと佇んでいるのが見えた。
「飛鳥?」
飛鳥ーーそう呼ばれた彼女はくるりと振り返る。
「葵……先輩?」
「うぃっす」
間違えて踏み出した一歩のせいで外界からの雨が足元に飛び散ってくる。葵は一歩後退りすると飛鳥の隣に立った。
「なんか今日、湿気やばいな。飛鳥の前髪もなんか変だし」
「なんですか、もう!」
飛鳥は言われた前髪を気にするように携帯の内カメラで確認する。自分のその髪に不満があるのか飛鳥の表情が難しい。
その矛先が一瞬にして葵に変わると、その小さな掌でポンポンと葵の肩を叩いた。
「ごめんって」
葵は逃げるように傘を広げると外に一歩踏み出す。飛鳥は追いかけるのかと思いきや、昇降口の縁で突っ立ったまま前に来ようとはしない。
「ん?もしかして傘無いとか?」
葵の問いかけに小さく飛鳥は首を縦に振る。
「なんだよ。朝から雨だっての持って来てないってどんな神経だよ」
「だって朝、車で送ってもらったから……」
「しゃあねぇな。これやるよ」
飛鳥の元へ近付くと自分が開いていた傘を飛鳥に差し出した。
「え……?貸してくれるんですか」
「うん。一応折り畳みは持ってるしね」
バックの横ポケットから小さな折り畳み傘を取り出すとニコッと葵は笑う。
内心、葵と同じ傘に入れるんじゃないかという飛鳥の淡い期待はふわりと飛んで行ってしまった。
「じゃあな。また明日。傘はいつか返してくれればいいから」
「はい……」
少し俯く飛鳥に気付くことなく、葵はその折り畳み傘で梅雨の中に飛び込んだ。
やっぱり折り畳み傘では雨を凌ぐことは難しい。昨日と同じようにズボンの裾が濡れる。飛鳥にはこっちの折り畳み傘を渡せばよかった、と考えても何とも男らしくない。
仕方がないとその小さな折り畳み傘で走って駅まで帰った。
家に帰るとやはり彼女達はいた。お泊まり会からそのまま衛藤家に居座ったということだ。葵が帰宅した頃は、皆ぐっすりと昼寝をしていて音を立てずに自分の部屋に戻った。
部屋着に着替え携帯をいつもの癖で携帯を手に取ると、20分前に届いていた飛鳥からのメッセージが1件あった。『傘ありがとうございました。明日返します』と短調な言葉を連々と繋げたもので飛鳥らしさというのが感じ取れる。メッセージでもこんなに不器用なのかと思わず口角が上がってしまった。
飛鳥との付き合いはそれ程長くはない。後輩である飛鳥と葵が知り合うきっかけはお互いが昨年の文化祭委員だったということだ。同じ仕事を担当したということから飛鳥と葵は知人という関係になった。しかしその時はまだ業務連絡程度の会話しかなかったのが、文化祭当日は委員の仕事でほぼ飛鳥と二人でいることになり、必然的に業務連絡以外の話もするようになった。
それ以来飛鳥とは話せる仲となり、廊下ですれ違ったりしたは会釈を交わすようになった。
そんな飛鳥のメールの返事に手をこまねていると、もっと時間がかかりそうで葵は携帯を閉じるとベッドの上に放り投げた。
1-4「友達」
「みんなまた来る?」
あのお泊り会の2日後、美彩は共に昼食を取っている奈々未と麻衣を目の前にしてそう問いかける。
「えーどうしよ」
携帯を弄りながら奈々未は少し考える。
「そんな事言って、どうせ葵に会いに来たいくせに」
「そんなわけないじゃん」
照れくさそうに奈々未はほくそ笑む。思わず本音をつつかれてニヤニヤとしてしまう。美彩はそんな奈々未を目にして楽しそうに微笑んでいた。普段、あまり照れる様子を見せることのない奈々未が照れるということ程面白いものはない。
麻衣は笑う2人を優しい眼差しで柔らかく笑っていた。しかし何か思い出したように口をぽかんと開ける。
「でもまた行ったら葵君に申し訳ないよ」
「そんなんどうにでもなるよ。姉であるこの私がいるんだし、なんてったってななみんがいるしね」
「んーそうかな?」
「そうだよ。別にまいまいが気にすることじゃない。最悪ななみんに任せればいいよ」
強く説得されてもどこかに腑に落ちない麻衣。美彩は奈々未を使おうという魂胆だが、葵がそんな簡単に動くのだろうかと麻衣は心配になった。ちょっぴり葵には嫌われたくない気がしてそこが気がかりだった。
「大丈夫だよ。なんかあったらみさに任しなさいよ」
強気に言い張る美彩だがやはり麻衣はどことなく心配そうな目でそれを見る。
3人は持ち寄った弁当を片付けると次の講義の教室に向かう。これからは午後の講義でいっぱいだ。これからのことを考えると美彩は退屈で仕方がない。今日の講義が早く終わることしか頭になかった。
まだ講義が始まるには早い時間だが、3人は教室の机に並ぶ。
「まいまいノート見せて」
少し困ったような表情で奈々未が麻衣に懇願する。一限前の授業ですっかり寝込んでしまいノートをとっていなかった奈々未の責任なのだが、優しい麻衣は素直にノートを貸出した。
「もう。いっつも寝てるんだから」
「まいまいには悪いと思ってるんだけどな」
「でもいいよ。ななみんだから許してあげる」
「まいまいありがとー!」
奈々未はそのノートを受け取ると携帯でパシャリと写真を撮る。何ページも撮るうちに手が疲れてくると、まただらんとした体勢になっていた。
そんな奈々未を見ると麻衣は自然に笑顔が溢れた。無意識の笑みが溢れるほど微笑ましい関係、そう言えるのだろう。
「ねぇ、美彩にも貸して!」
「みさみさも?」
「うん。お願い!」
「全く……けど、いいよ」
「ありがとまいまい!」
麻衣は彼女らの中で聖母のような存在だ。麻衣自身、こういう関係にいることが心地好くて楽しく感じていて、こんな関係がずっと続けばいいとつくづく思う。
彼女らが出会ったきっかけは大学の入学式であった。元々同じ高校の同級生であった美彩と奈々未はそもそも親友であり、同じ大学の学部に進むということもあって入学式当日から2人で行動していた。そこで一緒になったのが麻衣だ。
長かった講義が終わる。最後の講義は心理学の講義で他の2人が机に突っ伏す中
、麻衣は興味津々になって授業にのめり込んだ。
教室を出る頃には窓硝子からは夕焼けさえ見えず真っ黒に染まっている。構内の蛍光灯だけが灯りをともして照らしてくれていた。
人工の光の分、溜まっていた疲労が3人を襲い掛かる。ずっと講義を真面目に聞いていた麻衣は、眠そうに目元をくすぐりながら歩く。
「すごい疲れたよ。早くみさみさの家に行こうよ」
「じゃあ何か帰りに買ってこよっか」
「そうしよそうしよ!」
美彩の提案を真っ先に奈々未が賛成する。眠たそうな麻衣も渋々首を縦に振った。奈々未は葵に何かを買ってあげよう、そんな気分で踵を返すのだった。
1-5「親友と小娘」
葵には唯一無二の親友がいた。それは小川大輔だ。入学してからの仲でよく2人でつるんでいることが多かった。
大輔は前の席に座って振り返る。
「今日学食?」
「ああ。今日は待ちに待った唐揚げ丼だ」
「ふーん。ってか葵っていっつも学食だよな」
葵は持ち込んだお菓子を机の上に置くとそれを口に運びながら大輔の話を聞く。
「だって洗い物増えるの面倒って母さんが言うから」
「毎日学食のお前が羨ましいぜ」
「弁当の方が羨ましいよ。毎日みんなと一緒に食えんじゃん」
少しいじけたように口にお茶を注ぎ込む。いつも教室の中で輪を作り和気藹々と食事をとっている、そんな大輔の姿を想像すると羨ましくなった。
「なんだ。そんなに俺と飯が食いたいんだな」
「ちげーよ。それにホモホモしいからやめろ」
「それやめろよ!」
笑いながら葵は大輔のツッコミを避ける。そしてまたお菓子を口に放り込んだ。
昼休みを迎えると葵は食堂へと真っ先に向かった。教室にいる大輔は今頃クラスメイトの輪の中で談笑しているだろう。
少し混雑を見せる食堂。食券機の前は僅かながらに列をなしていた。その列の先頭をいやいやしく眺めながら葵は列に並んだ。
「せーんぱい!」
後ろから声がしたかと思えば目を隠される。声からして葵は誰なのかの見当はつく。
「飛鳥だろ。やめてくれよ」」
葵の言葉に反応したのかゆっくりと顔から手が離れる。振り返るとやはり飛鳥だった。
「なんで分かっちゃうんですか」
「いや、声でなんとなく」
「それより!先輩って1人で食べますか?」
葵は飛鳥の質問を耳にすると食堂の席を見渡す。ちらほらと知人がいるがそれぞれに見知らぬ人がいて、割って入るほどの者がいないことが分かった。
「ああ。1人だな。飛鳥も?」
飛鳥が1人で列に並んでいることは見れば分かった。
「はい!なら…一緒に食べません?」
「別に構わねぇけど、いいのか俺とで?」
「先輩だから言ってるんですよ!」
飛鳥はそう言ってにやりとすると葵の制服の裾を掴んだ。
「先輩、昨日のLINE返してくれなかったですよね?」
「いや、寝落ちしたんだ」
「別に理由はいいんです。返信くれなかった罰として…なんか奢ってください!」
飛鳥の狙いは最初からこれだったのだろうか。先ほどのニヤニヤとした笑みはこれを企んでいたからなのか。そのまま飛鳥に言いくるめられ、飛鳥の分の食券を買ってしまった。「やったー!」と無邪気な笑顔で喜ぶ飛鳥を見れば、そんなのは気にしなくなってしまった。
お盆に乗った唐揚げ丼を見ると腹が更に鳴る。先に座っていた飛鳥の前の席にお盆を置くと、水を入れたコップを飛鳥に差し出した。
「あっ、先輩!放課後に傘返しに行くんで残ってもらえませんか?」
「いいけど、部活は?」
聞いたところによると飛鳥は吹奏楽部に入っているらしい。以前飛鳥の口からそれを耳にした。この学校の吹奏楽部は厳しいらしく、飛鳥がそんな部活に所属しているなんてと驚いたの覚えている。
「もうやめましたよ」
「え、やめたの?」
「ちょっと色々あって…」
少しばつが悪そうな表情を浮かべる飛鳥。人間関係についてのいざこざがあったのだろうと想像がつく。
「じゃあ放課後、先輩のクラスに行きますから待っててくださいね!」
「わかったよ。待ってる」
「ふふっ、ありがとうございます」
そこで飛鳥との会話がぷつりと途切れた。ただ目の前の食事を貪るだけになるのはどこか気不味い気持ちになる。
それは飛鳥もそうだった。先輩を目の前にして何時ものように話しかけることが出来ない。もどかしさが喉に突っかかったまま出てこない。
「あっ、そういやさ」
「なんですか?」
「飛鳥って今年も文化祭委員?」
「そうですよ。クラスのみんなも結構立候補してたんですけど、私が勝ち取っちゃいました。先輩もまたやるんですよね?」
飛鳥のクラスの立候補者は女子ばかりで、その殆どが葵は目当てであった。葵がやると知ってから立候補する人ばかりだった。葵は人気者でその隣を一つ下の学年も狙っている。葵は知らず、飛鳥は一人でそこに燃えていた。
「そうだよ。今年も同じとこだったらいいな」
「はい!頑張りましょ!」
「飛鳥はまず期末を乗り越えろよ。夏休み補修になったら洒落になんねぇからよ」
「バカにしないでくださいよ!」
「いやバカじゃん」
「もう!」
そう言いつつも飛鳥には笑顔が綻んだ。葵はそんな飛鳥をあしらうように席を立つ。空になったら丼とお盆を持つ。目の前の飛鳥の分も持ち上げるとそのままそれを返却口へ。
「じゃあ戻るわ」
「放課後ですよ!覚えててくださいね?」
「わかってるって。じゃあな」
色んな人が葵と飛鳥を見ている。そんな中で葵との仲の良さを見せつけることが飛鳥にとっては大事なことだ。
葵先輩は私のものだーーそう強い想いを胸の奥に抱いて廊下を走って戻る。
1-6「秘密の恋話」
昼休みの後の5時間目は自習になった。自習になったと知った途端、クラスが感嘆の声を上げる。それに自習監督の先生が一番緩い先生だったのもある。
前の席の真夏は突っ伏している体勢から一気に起き上がると葵の方に身体を向けた。
「なんか話そうよー。自習する気なんてこれっぽっちもないし」
「しゃあねぇな。なんか話あるの?」
真夏の話に乗りかけると、真夏は少しニヤニヤとした表情を浮かべる。そしてその細くなった目でクラスを見渡しながら軽く頷いた。
「こういう時は恋話でもするしかないね」
「なんだよ。ただ真夏がしたいだけじゃん」
「えぇ、ばれたー?」
両手で頭を抱えるように真夏は困ったようにする。これが彼女のやり方というのは百も承知だ。そんな真夏を気にかけることもない。でも真夏の頭が大きいというのは何処かで聞いた気がする。
「んで、誰と誰とかある?そういうの疎くて全然わかんねぇ」
「んーなんだろ。最近なら小川君とか?」
「え!?大輔?」
大きな声を出してしまった。クラス中の視線が一度葵に集まる。
「さーせん」
そう言って頭に手を当てながらペコペコと謝ると教室には笑い声で溢れた。大輔も笑って葵を見てくれていた。
「バカじゃないの?恋話してんのに大声出すとか」
「いやだって大輔にそんな話があるなんて知らなかったから。んで大輔がどうだって?」
「なんか小川君、隣のクラスの子と付き合ってるらしいよ。又聞きだからほんとかどうかはわかんないけど」
「へぇ〜。あの大輔が。まぁ見れば女誑しなのはわかるけどな」
その大輔はこの自習時間も周りの席の女子達と談話を重ねている。親友である自分に隠し事をするなんてと思ったが、大輔の姿を見て心の中で笑ってしまう方が強かった。
「そういう葵はなんかないの?」
「こういうの疎いからわかんねえって」
「違うって!葵のそういう話だよ」
「俺の話?うーん…」
これは困ったものだ。葵は自分の身の上話を学校のクラスメイトに誰も話したことはなかった。聞かれることも殆ど無く、大輔と似ているなと自分でも思う。
別に真夏なら言ってもいいかもしれない。
「じゃあここだけの話な?」
「うんうん!」
「絶対誰にも言うなよ。言ったらまじで真夏のこと嫌いになるからな」
「言わない!約束する!」
真夏の耳元に顔を近付け、手で口元を隠しながら囁き声で話しかける。
「俺、彼女いるんだ」
すると真夏は目を丸くして口を大きく開いたままにしたと思えば、「えぇ!」と大きな声を出してしまった。
先程の葵と同じ状況で、「すみません」と素早く謝るとまたしても笑い声が教室を包んだ。中には「お前ら夫婦かよ」なんて煽る声を聞こえたが、真夏は苦笑いで返した。
少し落ち着いた頃に真夏は葵をじっと見る。
「ほんとに?」
「誰にも言ってなかったけどほんとだよ」
しかし真夏はどこか腑に落ちないのか腕を組んで何か考え事を始めた。そんなことをしても葵の彼女が誰かわかるとは到底思えない。葵は真剣に考えている真夏を見てニヤニヤが止まらなかった。
「えー。でもほんとに誰かわからないや。だって葵モテるから誰が誰だか」
「モテねぇよ」
「嘘つけ。ほんの1週間前に告られてたの見たよ」
「げ、まじ?」
真夏の言う通り、葵は1週間ほど前に告白をされていた。
「ほんとだよ。私見たんだから。確か……1個下の未央奈ちゃんじゃなかったかな」
「うーん、 そんな感じの名前の子だったかな……。でも俺名前覚えんの苦手でさ」
告白されたことは鮮明に覚えている。だけどその子の名前は覚えてはいない。基本的に1つ下の学年の子で覚えている子など飛鳥ぐらいしか思い浮かばなかった。
「ってか問題はそこじゃないよ!誰なのよ!」
「まだ教えねーよ。普通に教えたらつまんねぇじゃん」
「じゃあ周りに言いふらそ」
そうは言ってみたものの、自分のした発言がどれほどのものか想像するととてつもないものだった。
もし葵に彼女がいると分かったら、この学校一の人気の葵のもとにどれだけの女子が集まるのだろうか。
そう考えると何故だかバレンタインデーを思い出す。今年のバレンタインデーは葵に直接渡すためにわざわざ列を作っていたのを見た。
「はぁ、それはやめろよ」
「うん。そうする。やめる」
もし言いふらしたらあの沢山の女子が葵に追い詰めるかもしれない。ましては噂の発信源の自分に来るかもしれない。そう思うとただただ恐怖だった。
「まぁいつかは教えてやるから、それまでよーく考えとけ」
笑いながら葵は真夏の頭を軽く叩いた。
1-7「デート」
結局真夏には教えずに家に帰った。教えたら教えたで面倒くさいことになるのは明白だったからだ。
家に入るとあの人たちはいなかった。真夏にあんな話をしたから奈々未のことを考えていた葵は少し物寂しい気持ちにもなったが、あの騒がしさが無いのだと思うと気が楽になったような気もした。
そういや最近奈々未に構ってあげられてないなーー葵はそう感じると携帯電話を取り出すて奈々未に電話をかける。
『もしもし』
「もしもし、俺」
『そんなの分かってるよ。で用件は?』
「冷たいなぁ。もう少し優しくしてくれてもいいのに」
『まだ講義あるから早く用件言って』
奈々未との電話はいつもこうだ。葵から電話をかけるといつもこのように冷たい態度を取る。そのくせして奈々未からかけてくる時はとても甘えてくる。
そこで葵は奈々未をドキドキさせることを考えた。
「いやただ奈々未の声が聞きたかったってのもあるけど…」
『なによ…もう…』
「あと、今週末空いてる?空いてたらどこか行こうよ」
『ほんとに?行くよ!行く!』
急に奈々未のテンションが上がったのが声ですぐにわかった。喜んでいるであろう奈々未の姿を想像すると何だかこっちまで良い気分になる。
「じゃあ日曜にすっか。また場所とかは後でLINEするよ」
『うん!』
「じゃあーー」
『ねぇ…葵』
「なに?」
『……言って』
「あー分かったよ。大好きだよ奈々未」
『うん、私も……。何か葵にそう言われたら残りの講義も頑張れそう!』
「頑張ってよ。じゃあな」
葵は手にしていた携帯電話をそっと閉じた。やはりいつもは冷たい奈々未も雰囲気によって甘えるようになった。
日曜日を迎える。奈々未とは駅で待ち合わせではなく葵の家で待ち合わせということになった。というよりも奈々未が家に行きたいと言って話を聞かなかった。
葵は起きてすぐに着替えてリビングに降りる。リビングには既に美彩がいて朝食を用意してくれていた。
「あら〜かっこつけちゃって」
「いいだろ別に」
「まぁななみんとデートならそんぐらいしないとね」
美彩はパンを齧りながらニヤニヤと笑って葵を見る。少し鬱陶しいと思いながらも普段通りの姉だった。
「もー全く…葵が羨ましいよ。ほんと惚気けちゃってさ。私も彼氏欲しいー!」
「それ去年からずっと言ってるよな」
「もう!バカにしないでよ!」
ムキになったのか美彩はパンにむしゃくしゃとかぶりついた。
朝食を終えた頃に丁度良く奈々未が家に着いた。葵は荷物を持って玄関へ向かう。美彩は玄関までついてきて葵を送る
「じゃあ行ってくるよー」
「いってらっしゃい。奈々未を幸せにしてあげなよ?」
「わかってるって。じゃあいってきまーす」
笑顔で手を振る姉に照れながら家を出た。
奈々未は家の前で待っていた、いつもみない服装で。それはとても可愛らしくて、奈々未らしくないといえば奈々未らしくない服だった。
「早く行こう?」
「ああ。わかってるって」
葵は隣の奈々未の手を強く繋いで歩き始めた。
1-8「デート2」
奈々未のリクエストで遊園地に来ていた。個人的に葵は絶叫系が苦手なので断っていたが、奈々未がいるのならと渋々行く。
そんな自分の恐怖よりも大事なことを葵はしたかった。それとはプレゼントを渡すことだ。今日は葵と奈々未が付き合って丁度2年なのだ。
葵と奈々未が付き合い始めたのは2年前の梅雨の日だった。葵は高校に入りたての1年生。奈々未は卒業を控えた3年生だった。奈々未は美彩は中学時代からの仲で度々家にやってくる奈々未の顔は知っていた。しかし葵が中3の時に美彩と同じ高校を受けると言った時、美彩と奈々未の2人で葵に勉強を教えた。そこから奈々未とは親しくなるようになった。
高校に入ってからその仲は更に深まり、先に相手に想いを寄せたのは奈々未だった。勉強を教えていた頃にはじめてその感情を覚えた。さりげない優しさを見せる葵に何故か心惹かれていたのだ。まぁ葵の顔立ちが整っていたというのもその理由の一つであろう。
葵は高校に入った時に奈々未のことを意識し出した。冷たいけれど家に帰れば甘えてくる、そんな彼女のギャップに惚れたのだ。
想いを告げたのは葵からだった。2年前の今日、家を訪れていた奈々未を部屋に呼び、率直に想いの丈を伝えた。奈々未は少し照れくさそうに笑いながらもすぐに返事をしてくれたのだ。
付き合い始めた頃をこうして思い出すと、なんて初々しいんだろうと葵は改めて気恥ずかしくなった。
けれど目の前の笑顔の奈々未を見ると気恥ずかしさよりも幸せな気分の方が胸に溢れてくる。
「そういや奈々未そこまで絶叫系得意じゃないよな?」
「苦手っていうか、リアクションが変?みたいな感じよ」
「あーそう言えばそうだったな」
「まぁね。早く乗ろう!」
乗る前までは高揚としている奈々未だが乗った途端に無のリアクションをするということを想像すると何だか不思議だ。
言うまでもないが絶叫アトラクションに乗っている間、葵は声にもならない声をあげた。
〜〜〜
「一通りジェットコースターは乗れたね!」
「……」
あれから奈々未に全部のジェットコースターに乗らされた。一回転するものもあればスピードがあるものなど色々に乗り込み、そして声を枯らした。
あまりの疲労に最早奈々未と会話する気力さえ残らない。
しかし葵には反撃の手段がある。
葵は無言で奈々未の手を取ると歩き出す。
「ちょっと、どこいくの!」
奈々未の声に耳も貸さず真っ先に向かったのはお化け屋敷だった。お化け屋敷が得意な葵は、苦手な奈々未をそこで楽しもうと考えたのだ。
運良く並ぶ時間も少なく早めにお化け屋敷に入ることが出来た。しかし僅かな待ち時間の間も奈々未は掴まれたのその手を離そうとしていた。
いざお化け屋敷の中へ。
奈々未は常に葵の後ろについて行って、その腕をがっちりと固めるように組む。
そんな奈々未に葵は表情に出ないように笑った。
「いや流石に怖いよ…」
廃病院をモチーフとした暗い内装。赤黒く染まった白衣に、今にも動き出しそうな死体のレプリカ。全て驚かせるには充分なものばかり。突然飛びたすお化けや大きな物音も恐怖を駆り立てる。
奈々未も仕掛けの度に声を出して葵の腕を痕ができるほどに強く掴む。
さらに奥に進むと恐怖が増していく。隣でガクブルと震える奈々未を横目に葵はまたしても笑ってしまった。
「ま、まだ終わらないの…?」
「あと少しで終わるっしょ」
そう言いながらのろりのろりと進むと出口らしき扉が現れる。
「これかな?」
「行ってみよ」
葵は勢いよくその扉を開ける。
が、その先に現れたのはお化けだった。
「きゃーー!!」
隣で大声を出したかと思えば、奈々未はそのまま転ぶように尻餅を着いた。立ち上がることが出来ず、腰を抜かしてしまった。
「立てる?」
「…立てない」
手を差し伸べても立てそうな気配はない。葵はそれを悟って自分の背中をポンポンと叩いた。
「おんぶしてやるよ」
尻餅をついたままの奈々未を、彼女の許可なくひょいとおんぶする。
「あ、いや、ちょっと」
「黙って俺におんぶされとけばいいよ」
おんぶされたまま葵と奈々未はお化け屋敷の出口から出ることが出来た。
奈々未は顔を真っ赤にしながら葵の背中を降りる。葵はそんな照れている奈々未を見ると何だか清々しい気分になった。
「急にあんなことしないでよ」
「別にいいじゃーん。別に奈々未も良かったでしょ?」
「まぁ…そうだけどさ」
「ならおっけーってことよ」
少し機嫌がいい感じがする。そんな気持ちが葵にある。
時も経ち夕焼けも遠くのどこかへと消えていった。空は燦燦と煌めく星々が光を出していて、月も主張しがちだ。
葵はこの時を待ちに待っていた。この遊園地には夜景が良く見える観覧車があるのだ。
「観覧車乗らない?」
「でも…凄い並んでるじゃない」
「いいからいいから」
少し無理に奈々未を観覧車の列に並ばせる。並んでいる間は普通に他愛もない話をした。
そして葵たちの番が来る。
小さな扉から屈んで入る。風でガタガタと揺れるゴンドラがちょっぴり葵には怖く思えた。
葵と奈々未は向き合って座る。荷物はその横に置いてゴンドラからの景色を眺めた。
「うわ…すごく綺麗…」
ゴンドラから見える景色は言葉にならない。思わず奈々未は声が漏れてしまった。声には出ないものの葵も口を開けてその美しさに見とれてしまった。
「こんなに綺麗だなんて思ってなかった…」
「俺もだよ」
頂上に近づくにつれてその高さが顕著なものになってきた。まるで羽が生えたようにゆっくりなゴンドラから見える景色は少し前とは大胆に変わっている。
葵の鼓動もだんだんと早くなっていく。何時になったらプレゼントを渡す時の緊張が苦しくなくなるのだろうか。出来るなら今すぐに消えて欲しい。けれどそんなことはなく、葵は緊張に支配されていた。
「あ、あのさ…」
「ん?何?」
葵の声に奈々未は正面から葵を見る。葵はそのまま奈々未を見返した。
「これ。記念日のプレゼント」
鞄からプレゼントの箱を取り出した。中身はネックレスにピンキーリング。とっておきはペアルック用のパーカーにお揃いのハートが象られたストラップ。
奈々未は包装を解くと箱を開ける。出てくるプレゼントに無意識に笑顔が溢れてしまっていた。そんな奈々未の笑顔に葵も笑って、そして嬉しくなった。
「ネックレスとピンキーリングは奈々未に似合うかなって選んだ」
「ほんとに?ありがとう!」
「あと前に奈々未がペアルックしたいって言ってたからその服と俺の気分でストラップもプレゼントだよ」
「なんか…ほんとに嬉しい…」
奈々未は目の前の葵とプレゼント、それに外の夜景を見上げて改めて息を吸う。
「すごい幸せ。葵を好きでよかったなぁってつくづく思う」
「それはこっちの台詞だっての!俺も幸せだし、奈々未のこと好きでよかったし!だからこれからもよろしくな!」
「うん!」
奈々未の体を抱き寄せて、そして口付けを交わした。
1-9「忘れ物」
少し時は遡る。
飛鳥は6限目が終わるのをそわそわしながら待っていた。
「そんなにそわそわしてどうしたの?」
隣の席の堀未央奈は少し怪訝そうにそう聞いた。
本当は葵に借りた傘を返しに行くだけだ。返したついであわよくば葵と話したい。そんなことを考えていたら動かずにはいられなかった。
けれどそれを未央奈には言えない。
なぜなら未央奈は葵に振られていたから。
「別になんでもないよー」
「なんでもないは嘘でしょ。だって雨でもないのに傘を持ってるんだもん」
「はっ!」
飛鳥は無意識に傘を手にしていた。
「何があるの?教えてよ」
「いや傘はなんでもないよ。放課後にちょっと用があってさ」
「は?一緒に帰ろうって言ってきたの飛鳥からじゃん」
あ、そう言えばそうだったーー飛鳥は心の中でそう思った。今日の朝、未央奈と一緒に登校してその道の途中で飛鳥は未央奈と帰る約束をしていた。
今の飛鳥は葵のことを考えるだけでただ精一杯だった。
「用ってなんなの?」
「えっと…それは…」
「何?私に言いにくいこと?」
未央奈の言葉は図星だった。もう未央奈には隠し事はできない、そう思う。
「別に怒んないから言ってよ」
「えっと…この傘を先輩に返しに行くんだ」
「先輩って…衛藤先輩のこと?」
未央奈の問いに飛鳥は小さく頷いた。飛鳥はもう未央奈の目を直には見ることが出来なくなっていた。代わりに見ることが出来たのは教室に映る光だった。
「飛鳥って先輩と仲良かったもんね」
突き放したように未央奈が言い放ったのを見ると申し訳ない気持ちになる。未央奈の気持ちに足を踏み入れてしまったようで、苦しさが喉につっかえる。
「じゃあ早く返しに行こうよ。私もついてくし」
未央奈がそう告げた途端、授業終わりのチャイムが鳴った。
「え!?未央奈も来るの?」
「うん。別に悪くないでしょ」
「そうだけど…」
「いいから、早く行こう」
もはや未央奈に連れていかれてしまいそうだった。それほど未央奈の勢いは強く感じられた。
傘を片手に飛鳥は隣の未央奈を見る。少し綻ぶ微笑み。これは何かあるのかと疑問に思う。というより未央奈は何故葵の元へとそんなに急かすのか。
答えを知るには未央奈に聞くしかなかった。
「未央奈は…その、いいの?」
未央奈とは目を合わせないように歩きながら問い掛ける。
「ん?どういうこと?」
「先輩に会うことだよ」
「あー大丈夫だよ。逆に会いたかったから」
「会いたかった?」
「ううん。何でもないよ」
未央奈が何か言いたげで、でもそれを飛鳥は問い詰めることなど出来ないでいた。未央奈には未央奈なりの気持ちがあるんだろう、私が干渉するなんてもっともだーー飛鳥はぱっとそう思った。
葵がいる教室に着く。放課後になってからまだ時間はそれほど経っておらず、教室にはまだたくさんの人がいた。けれど葵の姿は何故かなかった。
「先輩いないね」
「うん…。傘だけ置いてくる」
飛鳥は恐る恐る教室に1歩踏み出した。廊下とはまるで空気がガラリと変わる。なんとも言えない空気がモワッと漂っていた。
飛鳥が入ったことにより多くの人が飛鳥に目をやる。その視線を気にしながら飛鳥は葵の机を確認し、その机上に傘をぽつりと置いた。
「もういいの?」
戻ってきた飛鳥に未央奈はそう声をかける。
「いないんだもん。もういいよ。それより未央奈の方はいいの?」
「私ももういいよ」
「じゃあ帰ろっか」
少し心の中がどこかぽっかりと穴が空いた気がして、飛鳥は未央奈と帰路についた。
2 『友達以上恋人未満』
「友達」って何?
「恋人」って何?
「友達」と「恋人」の違いって何?
2-1 「夏のはじまり」
鬱陶しかった梅雨が明け、ムシムシとした暑さが漂っている。照りつける太陽の光が葵には眩しすぎた。けれど梅雨のジメジメとした空気よりもこっちの方が過ごしやすい。
テストも終わり、気付けば夏休みになっていた。葵は去年のように文化祭の仕事で学校へと足を運ぶ。
夏休みにある文化祭委員の仕事は基本、予算や出し物、後夜祭の話。委員会中でも葵が出る幕はあまりない。
「あーまじだりぃ」
葵は足を組んで委員長の話を面倒臭そうに聞いていた。葵の仕事は後夜祭で、今はずっと出し物の話をしている。
「そんなこと言っちゃダメですよ。もう少しやる気出しましょうよ」
ボケっとしていた葵に声を掛けたのは飛鳥だった。
「言っても飛鳥も暇だろ?」
「そうですけど…」
「ならなんも言えねーよな」
そう言って葵は笑った。飛鳥は口を膨らませていじけるように葵のことを見つめる。
委員会が終わると、各担当毎に仕事が振り分けられる。葵は後夜祭担当の係長になった。
「えっと、ここの長の衛藤葵てす。よろしく」
軽く挨拶を済ませると配属された人もそれぞれ挨拶をする。当然飛鳥の姿もあった。
「堀未央奈です。よろしくお願いします」
ある1人の挨拶を見て葵は見覚えのある顔だということが分かる。暫く経ってから彼女のことを思い出した。
そういえば告白してきてくれた子じゃんーーそんな風に未央奈を凝視した。未央奈は飛鳥と仲良さそうに話していた。
振り返ると葵の担当の後夜祭部門にはほとんど女子生徒しかいなかった。唯一の男が葵といったところだ。それも仕方が無いものだった。その女子生徒は葵に憧れを抱き、惚れてしまっているのだから。
「じゃあとりあえず今日はまだすることないんで解散ってことで。あとグルチャ作りたいんで連絡先教えて」
葵の一言で解散となった。次々と連絡先を残していった女子生徒を目で見送る。ほとんど終えたところで、最後に飛鳥と未央奈がやって来た。
「私のはいらないですよね?」
「飛鳥のは持ってるからいらない。でも隣の堀さんのは持ってないから教えてくれる?」
「あ、わかりました!」
未央奈の連絡先を教えて貰う。そのまま飛鳥達は帰るのかと思いきや何故か葵の前に立ち尽くしていた。
「ん?どした?」
「この前の傘、忘れてましたよね?」
「傘?ーーあぁ、完璧忘れてた…」
飛鳥に残ってと言われた日、あの日は教習所に行く予定があったことを思い出した。
「残って下さいってお願いしたのにいないのは酷いですよ」
この話を未央奈は飛鳥の背中に隠れながらひょいと顔を出して聞いていた。まさかこんなにも葵と飛鳥の仲が良かったなんて思ってもみないことだった。
「ごめんごめん。その日は教習があって」
「言い訳は聞きたくないですよーだ」
意地悪そうに葵に話しかける飛鳥を見て、未央奈は少し居心地が悪く感じた。
「そんなに言わなくても…」
「いいんだよ。別に先輩はこんなことで怒んないし」
「マジで飛鳥って俺のことなめてるよな」
呆れるように葵はぼそっと呟いた。可愛い顔して葵には盾をつく、そんな飛鳥の姿はどうしようにもならない。
「罰として今日もまたお昼奢ってください!」
「それはお財布と相談…」
別に満更でもない葵は財布の中身を確認した。一応それなりの金は入っている。
「しょうがねぇな。行くか」
「ほんとですか!?やった!」
嬉しそうにはしゃぐ飛鳥、そんな飛鳥とは正反対に申し訳なさそうに縮こまる未央奈の姿もあった。
「じゃあ私は先に帰りますね」
「堀さんも飯行こうぜ。俺の奢りだから」
この前この子を振ってしまったお詫びの気持ちも少なからずあって、これで帳消しに出来ることなら容易いと葵は考えた。
「いいんですか?」
「いいって言ってるんだし行こ?」
未央奈は戸惑いながらも飛鳥に連れられる形で3人で飯を食べることになった。
2-2 「大食い」
「げっ…こんなに払うのかよ」
昼飯を食べ終えた葵は会計の時に思わず呟いてしまった。まさかこんなにお金がかかるとは思ってもみなかったのだ。
その張本人は笑顔で飛鳥と話している未央奈だった。彼女の食べっぷりは葵の予想をはるかに上回っていた。華奢で今にでも折れてしまいそうな身体からは想像もつかない食欲で、葵よりもたくさんの量をペロッと平らげたのだ。
だが彼女はまだ満腹ではない様子だった。僅かながらに葵に気を遣って減らしたのだが、それでも葵の財布には大打撃だ。
「ご馳走様でした!」
「はい、どういたしまして」
満面の笑みで未央奈は葵に向かってお辞儀をする。内心はトホホと思う。
彼女達は葵よりも先に店を出た。会計を済ませて葵が店から出ると店先に彼女達は立って待っていた。
「今日はありがとうごさいました!」
ニヤニヤしながら飛鳥がそう告げる。だが飛鳥はどこか憎めなかった。
「じゃあまた今度な。って言っても俺ら集まることないと思うけど」
後夜祭担当とはいえども、後夜祭でやることは去年とさほど変わらず、また二学期に入ってから有志を募るという形なので、夏休みに集まることなどまずない。
「えー。でも集まりましょうよ」
拗ねるように飛鳥は目を細めて葵を見る。
「集まっても意味ねえじゃん」
「じゃあ私達3人だけでも集まりましょうよ」
「それこそ何すんだって話」
「ただ遊んだりとか?ね、未央奈」
不意に飛鳥から振られたせいか未央奈は瞳孔を思いっきり見開かせた。
「え、あ、はい」
「未央奈もそう言ってる事だし、決定で!」
「まー考えとく」
少し可能性が見えたのか飛鳥の様子が少し変わった。
「また連絡しますね!じゃあまた!」
そう言って飛鳥は未央奈を連れて葵から逃げるように帰っていった。
そんな2人を葵は少し面白がって見る。なんだ、飛鳥ってかまってちゃんなのかーーそう考えると飛鳥が可愛らしく思えた。
ーーー
「ねぇ飛鳥止まってよ!」
自分よりも先に走る飛鳥に未央奈は声をかける。別に疲れた訳では無いが、もう葵は見えないし走る理由が見当たらなくなったからだ。
未央奈が声をかけて数秒後。ピタリと飛鳥は止まった。無意味に走りすぎたせいか息が荒くなる。
「なんで走ったのよ」
「なんでって…ちょっと先輩から逃げたくなって」
「どうして?」
「…恥ずかしくなっちゃって」
飛鳥の言葉の真意を未央奈は直感的に分かった。
「未央奈はさ、もう大丈夫なの?」
飛鳥の中には僅かの物思いがあった。葵の教室に行った時に未央奈が言った「逆に会いたかったから」の言葉を思い出した。
「何が?」
「葵先輩のこと」
「あぁ…」
未央奈の顔が曇り出す。
「だって未央奈、葵先輩のことまだ好きでしょ?」
「えっ?」
飛鳥の「まだ好きでしょ?」というこの問いに未央奈は目を丸くした。
そんな未央奈を見て飛鳥の物思いは一つの確信に変わる。それは未央奈がまだ葵のことを諦められていないということだ。
「図星だね」
「い、いやっ違うよ!」
「ムキにならなくてもいいよ」
「なってないってば!」
どう考えも未央奈はムキになっているーー飛鳥にはそういう風にしか見えなかった。
飛鳥が目にしている未央奈は、頬を赤らめて話す未央奈の姿だった。
そんな未央奈を見ながら飛鳥は小さく呟く。
「あーあ。私も好きなんだよな」
いつかの空の果てまでも