幸せの舞う街
ボクの住んでいる街は、幸せの舞う街、という名前で呼ばれている。
その名の通り、空に幸せが舞っている。
薄いピンク色の靄のようなモノが、青い空をその向こうに透かせながら、街全体を覆っている。
そのピンクの靄が『幸せ』らしかった。百年前にこの街の空に突然現れて、下降し、その時に住んでいた街の人達をとても幸せな気分にしたらしい。
ボクが、『らしい』などと、断定できない物の言い方をしているのにも理由がある。その時の街の住人が、みんな死んでしまっているからだ。ピンクの靄に包まれた人達は、とても幸せな気分のまま眠るように死んでしまった。と、街の記録にある。
わずか一日でピンクの靄は街の人達を大量に殺し、また上空に帰っていった。それから今まで、ピンクの靄が下の方に降りてきたことはない。だから、今現在生きている人の中には、幸せに包まれたことのある人間はいなかった。
もちろん、街の人だってただ空を見上げて、幸せが降ってくるのを眺めていたわけじゃない。思わず死んでしまうほどの幸せを、この街の人達が見逃すはずもなかった。この街の人達は、楽して幸せが手に入るなら、死ぬぐらいなんでもないと答えるだろう。だから、手に入れようと努力もした。
まず、塔を作った。
建物も舗装も全てレンガ造りのこの街にお似合いの、レンガの塔を作った。幸せに届くぐらい、高い塔を作った。
けれど、それは失敗に終わった。塔の高さを一段高くするたびに、幸せも一段、上に逃げた。それからはイタチごっこだった。
その内、「幸せをあんな上まで逃がしてしまって、降りてこなくなったらどうするんだ」という住人の反発が高まって、今では『幸せに一番近い塔』の名前を冠するレンガの塔は、地上60メートルでそれ以上高くなるのをやめた。
その後は、気球を飛ばしたり、地上からピンクの靄を捕まえるカゴのようなものを打ち上げたり、色々試してみたらしいけれど、全部失敗に終わった。追い求めれば追い求めるほど、幸せは逃げていくのだった。
街の人達はその事実に苦笑して、幸せを追うことを積極的に諦めた。次に降ってくるのを、ただ待つことにした。
随分と諦めのいいことだと思うけれど、この街の人達ならそれも無理はないと思う。この街は、はっきり言うならダメな人間を寄り集めて作ったような街なのだから。
百年前の住民が全て死に絶えたあと、この街にやってきたのは、幸せを他人から与えて貰うのをただ待つような、そんな人間ばかりだった。自分の力で努力をしようとする人間は余りに少ない。一日を怠惰に暮らし、それでいて「いつか幸せになれないかなぁ」と願うような、そんな人間ばかりだった。刹那的に幸福を求める人達の多国籍な集まり。
街は退廃していた。酒場と売春宿と賭博場を先頭に、あらゆる娯楽施設が立ち並び、街全体が大きな歓楽街になっていた。阿片などの麻薬も横行していた。
酔っ払い、娼婦、男娼、阿片中毒、ヤクザ、浮浪者、犯罪者、そして、上空にぼんやりと浮かぶ幸せ、そんなモノでこの街の日常は構成されていた。クズ達の吹き溜まりのような街だった。
ボクはこの街に生まれて十四年育った。
十四年という年月は、この街を嫌いになるのには充分な時間だった。
十四年目の春、いつものようにボクの体をお金で買おうとする、昼間から酔っ払った見知らぬオジサンを冷たくあしらいながら歩いていたボクは、なんの前触れもなく、空からピンクの靄が降りてくるのを見た。
靄はすぐに街全体を覆って、街中をピンク色に染めた。道行く人々は、ピンクの靄を吸って、ばたばたと倒れた。のぞき込んだ人々の顔は、幸せそうだった。
幸せそうな顔をして、眠るように死んでいた。
ボクは死ななかった。不思議なことに、ボクは幸せになれなかった。
ピンク色の靄は少しの水分を含んでいて、ボクの肌を湿らせたが、それだけだった。いくら吸い込んでも、肌に塗りこんでみても、ボクにはなんの効果もない。
街は日頃の喧騒を一瞬にして失って、とても静かだった。家の中の人も、道を歩く人も、善い人も悪い人も、偉い人も偉くない人も、みんな、幸せそうな顔をして死んでいた。
ボクは、愉快な気持ちになってしまった。日頃あれだけ嫌っていた街が、一瞬にして滅びてしまったのだ。
愉快な気持ち以外にはなれなかった。
ボクは、うきうきとスキップでもしたい気持ちで、幸せの漂うピンク色の街を散策した。
途中、何人もの死体の顔をのぞき込んだ。
ああ、この人はいつも酔っ払って、道の真ん中で寝ているお兄さん。
ああ、この人は花売りのお姉さん。
この人は寂しそうな目で笑う浮浪者のおじさん。
この人は、いつも上機嫌な、太ったパン屋のおばさん。
阿片中毒の人。
売春婦のお姉さん。
学校の友達。
浮浪児。
ヤクザ。
みんな、幸せそうな顔で死んでいた。ボクを除いたありとあらゆる人が、分け隔てなく死んでいた。
そうやって死体を眺めながら街の中央、大きな噴水のある広場まで出た時、初めてボク以外の生きている人間に出会った。それも、四人もの人間に。
噴水の縁に腰をかけて談笑していた人達は、みんな男だった。一人は大人で、後はみんな少年だった。
彼らはボクに気が付くと、その内の一人、赤い着物を着た少年がボクに手招きをした。
ボクは誘われるままに彼らに近づいていく。
近づいたボクの顔を見て、痩せた体つきの大人が、微笑み混じりに、「これで幸せになり損ねた人間が、五人も揃ったってわけだ」と呟いた。他の三人の少年は、その言葉に小さく笑う。
「…きみ、名前はなんていうの?」
クマのぬいぐるみを抱いた、ボクより一つ二つ幼い顔の少年が名前を問う。ボクが自分の名前を告げると、他の四人も自己紹介をした。
大人の男性の名前は陽介、クマのぬいぐるみを抱いた少年は有希、赤い着物の少年は美津里、金色の髪と青い目をした、外国の風貌の少年はアリスといった。
「さて、清美くん。清美くんは、どうして自分が死ななかったのか、気にはならないかい?」
赤い着物の少年、美津里がボクの名前を呼んだ。ボクが頷くと、美津里は小さく笑った。
「と、言ってはみたものの、僕らにも何がなんだか解らないンだ。僕らも君とおんなじように、バラバラに此処に集まってきただけなのサ。僕ら死ななかった人間に共通点なんてモノは…」
美津里が笑んだまま陽介をちらりと見る。「この人が来る前まではあったンだけどねェ…」
「悪かったね、一人だけ大人で」
陽介は苦笑して、大げさにすねてみせる。「それでも、みんな男だっていう共通点はあるさ」
陽介の言葉に、アリスが青い目を細めた。
「でも、それはあんまり意味がないんじゃないかな。もしそれが共通点だとしたら、この街の男の人は全員生きていなきゃおかしいもの」
外国の風貌をした少年は、日本語を流暢に話した。
「僕はね、共通点なんかないと思うよ。僕らは偶然に生き残っただけ。偶然に必然を求める必要なんてないよ」
「それはそうなのかも知れないンだがねェ…」
美津里がそう言ったきり、みんな小さく黙ってしまう。陽介が間を繋ぐように、ふとボクの顔を見て尋ねた。「清美くんは、何か気が付いたことはないの?」
ボクは軽く戸惑う。気が付いたことなんて何もなかった。
「うーんと、別にないけど、でも、こうなって良かったって思うよ。ボク、この街も、この街の人達も嫌いだったもの。もしこうならなければ、ボクはいつか、自分からこの街を出て行っただろうし…」
吐き捨てるように言うと、有希がボクの言葉に同調した。
「ぼくも嫌い。早く大人になって、この街を出て行こうと思ってた…」
言い終えた有希は、抱いたクマのぬいぐるみに顔を伏せる。アリスが有希の言葉を継いで「同感だね」と言った。
ボクは驚いて、二人の顔を見渡した。まさか、自分と同じことを感じている人がいるなんて、思ってもみなかった。
有希もアリスも、ボクと同じように驚いたらしかった。驚いた後は、三人、顔を見合わせて微笑みあった。
ボクと同じ気持ちの人達が目の前にいる、理解しあえる人達が目の前にいる、そう思ったら、なんだか小さな幸せが生まれた。幸せな気分になった。
一度生まれた幸せな気分はどんどん大きくなって、まどろんでいる時みたいな、頭の中がとろとろに溶ろけそうな気分になって、ボクは、すごく幸せな気持ちのまま、その場に倒れた。
「人間は、独りじゃ幸せになんてなれない、ってことなんだろうねェ…」
美津里は、「ふむ」と唇に人指し指を当てて、地面に横たわる清美の顔をのぞき込んだ。清美は、幸せそうな顔をして死んでいた。
「どう思うね、陽介さんは?」
倒れた有希とアリスの顔をのぞき込んでいた陽介は、顔をあげて美津里を見ると、「解りあえる人ができて、幸せな気持ちのまま死ねるんならそれでいいだろうさ」
と言った。
見開いたままの有希とアリスの目を指でそっと閉じてから、陽介は立ち上がる。噴水の縁に腰を掛けると、遠い目をして、街を、目の前を流れるピンクの靄を見つめた。
「これでようやく、この幸せの正体が解ったじゃないか。今後の問題点もね。この靄は、孤独を抱える人間を殺さない。幸せになるのにも資格がいるってことなんだろうな」
──そして、死ぬ権利は最大に幸福である人にしか与えられない。
呟いた陽介の言葉を、美津里が拾う。
「おや。随分と詩人じゃないのサ」
幸せそうに微笑む清美の髪を指で梳いてから、美津里は陽介の隣に腰を落ち着ける。
「問題だよねェ。こうなって来ると、死んでいない人間ほど問題だということになる。まァ、百年前だって、こうして生き残った人間がいたからこそ、このピンクの靄が幸せを呼ぶって伝えられたンだろうけど」
美津里の言葉に陽介は答えなかった。ポケットからタバコを取り出し、一本、口にくわえた。タバコは、靄のせいで湿っていた。「湿ってやがる」
呟いて、次はマッチを取り出し、擦った。だが、何度擦っても火はつかなかった。「これも湿ってやがる。イヤな靄だな」
美津里が小さく笑う。「ジッポにしとくんだったね」
「まったくだ」
陽介は苦笑して、くわえたタバコを足元に吐き捨てた。それからは二人、無言だった。
「…陽介さんの孤独を、聞いていいかい?」
思い出したかのように、ポツリと美津里は言った。
「聞いていいのか? まったく同じ孤独を抱えていたら、聞いた途端に死ぬぞ」
小さく笑って言う陽介に、美津里も笑顔を返した。
「それで死ねるンなら悪くないサ」
「そうか。じゃあ、話してみるか」
ひと呼吸おくと、陽介は話し出す。「別に大したことじゃないのさ。オレもこの街が嫌いだ。ここには、諦めと悪徳しかない。嫌いだった。嫌いだったけれど、出て行く勇気もなかった。その頃にはもう、この街の悪意にどっぷりと浸かっていたし、しがらみだってあったしね。そこが、この少年達と違うところさ」
足元で眠るように死んでいる少年達の姿に目をやると、陽介は自重気味に笑った。「ここに来るついさっきまで、オレはペットだったのさ。厚化粧の太ったマダムに、子供の頃から飼われてた。オレは孤児でね。生き延びるためにはそうするしかなかった。孤独だったよ。奴隷の孤独。周囲にはたくさん人がいたが、オレはペットでしかないし、主人以外の誰かと喋ることを許されなかった。心を許せる人なんか一人もいない。人の中にいて孤独ってのは、随分と堪えるモンさ。…って、それだけの話だよ。大したモンでもない」
そう結んだ陽介の言葉に、美津里はただポツリと、「そうかい…」と答えた。
「美津里は? 君は何を抱えている?」
「僕もねぇ…」
美津里が話し出す。「嫌いなのサ、この街がね。壊してしまいたいほどに。僕のこの街に対する気持ちは憎悪でしかないンだ。逃げ出すなんて考えられないのサ。壊してしまいたい。僕の体も心も含めて、この街に関わった全てのモノを、ぶっ壊してしまいたい。僕の着物の下に隠れた無数の傷を見れば、陽介さんも納得するだろうよ。どうして僕が、こんなにもこの街を憎んでるかってことをね」
美津里は憎々しげに顔を歪めると、小さな声で、
「幸せの舞う街。幸せは上の方で舞ってるだけサ。下にはないンだ」
と呟いた。
それから、着物の袖口に手を引っ込めると、中から円筒を束ねた物を取り出した。
「だからねぇ、こんな街をぶっ飛ばしてやろうかとダイナマイトを造って、まずは一番お世話になった場所、マフィアのアジトから、と思ったんだがねェ…」
美津里がそっと微笑む。「まさかムダになろうとは予想外だった、という訳サ」
そう言って、美津里は後ろを向くと、ダイナマイトを噴水の水に沈めた。ポチャン、と静かな音を立てて沈んでいくダイナマイトを、美津里と陽介は、ただ黙って見つめていた。
「…なぁ、美津里」
陽介は美津里の顔を見る。「この街を出ないか。二人でさ。もう、この街にはなんにもない。憎むモノも愛するモノもない。オレ達は、どこへだって行ける」
美津里も陽介の顔を見つめ返して、それから、そっと頷いた。
「そうだね、僕を連れてっておくれよ。愉しいだろうねぇ。思えば、この街を出るなんて初めてだよ。ああ、きっと、二人で行く旅は愉しいだろうねぇ」
「よし、じゃあ行こうか。ここじゃない、どこかへ」
立ち上がって、二人、ふと気が付いたように微笑みあった。
「失敗したな…」
陽介の言葉に、美津里が小さく頷く。
「ああ、失敗したねぇ。最後の最後でうっかりするなんて、僕らもよくよく運がないと見える」
美津里はふふと笑うと、言った。「でもまぁ、こういうのも、最後としては悪くないサ」
どちらともなく「やれやれ…」と呟くと、陽介と美津里は、二人、そのまま倒れて噴水に落ち、水の底に沈んだ。
街にはピンクの靄が残るばかり。生きている人間は誰もいない。
その靄も、夕方が過ぎ、夜が過ぎ、明け方になる頃には元に戻って、誰にも掴めない空の上に舞う。
幸せの舞う街