いまだに消えぬシミ
着物に付いたシミなら漂白するか、捨ててしまえば済む。しかし、脳に刻まれたシミや心に残ったシミは消すことが出来ない。
私は子供のころ、家の薪割りを毎日やっていたせいか他の子より少し力があり、小柄ながら相撲は強かった。それに国語、算数が少しできたので先生の覚えがよく、私より大柄で腕力がある子でも虎の威を借る狐に手向かう者はいなかった。
ある日の放課後一人の男の子が数人にいじめられていた。こずかれたり、悪口を言われたりして、教室の床に額をつけて泣いていた。この子は普段から青洟をたらしているから私も好きではなかった。だから笑いながら他の子たちと一緒に見ていた。翌日、学校からの帰り道で、この子は空に向かって腕を大きく振りながら私に言った。「○○君は天の神様に大きなバッテンを書かれた」と。彼は私をクラスのリーダーだと思っていたらしい。それが何故いじめをとめて、助けてくれなかったのかと非難したのだ。彼の言葉は少年の私には衝撃的だった。彼は後述の「日曜学校」に行っていた。彼は神の力を借りて私を罰したのだと思った。以来、私はいじめる側に立つことはしないようになった。何につけても強い者を嫌うようになった。しかし、空を見上げると今でも天に書かれた大きなバッテンは消えないで浮かび上がってくる。シミのように脳に残っている。
この様な事があったころ、私は信者ではなかったがキリスト教の日曜学校に行ったことがある。ある日、女の人(あとでこの人が牧師さんだと分かった)が来て、家の前で母と話をしていた。夕飯の時、母から「村の屯所に日曜学校ができたから、今度行ってごらん」と言われた。私が弟と行き始めたら村の子供達も行くようになった。集会所を兼ねた消防屯所の二階で話を聞いたり、賛美歌を歌ったり、帰りには綺麗な絵が描かれたカードを貰った。皆が、優しい牧師さんからそれを貰うのが楽しみだった。
この牧師さん一家は満州からの引揚者で、私の家族と同じだった。牧師さんの家族は4人の子供が居てみんな優しく穏やかで、好ましい人達だった。会うのは嬉しいことだった。ある年の12月24日に日曜学校の大人も子供も集まってクリスマスパーティが開かれた。待ち遠しく楽しいはずだったのに、私はこの日のことを思い出すと心が曇ってしまう。私は母の隣で配られたお菓子を食べていた。そのうち、クジで指名された人が歌をうたう、という提案がなされた。菓子の味が変わり、嫌な予感は的中し、内気な私は動揺してしまった。ボーイソプラノの賛美歌を期待した皆の前で、そそくさと「もしもし、かめよ、かめさんよ」と場違いの童謡で済ませてしまった。クリスマスイブなのに、大好きな母や牧師さん達の居るところでなぜ「きよしこのよる」か「もろびとこぞりて」を歌えなかったのか。歌い終わってすぐに心が痛みだした。場の雰囲気を壊したと思ってばつが悪く、恥ずかしかった。それが今でも心のシミになって残っている。それからしばらくたって、寒い冬の日に牧師さん一家は東京に引っ越して行った。私はとても寂しく悲しかった。
私は宗教に深入りしたことは無い。都合のいいように対応して、御盆には休みを取り、クリスマスにはケーキを食べ、正月には神頼みをして、あとは勝手気ままな生活をしていただけだ。これでは御利益は望めないだろうと思っていた。
妻が日本の代表的な古典文学と言って薦めた林望著「源氏物語」を読み終えて次を催促したら、彼女は「若い時に読んだものだけど、これはどう?」と言って、いくつか読んだ宗教関係の本の中から一つを選んでくれた。私は、「だいぶ傾向が変わってきたな、でも絵画や文学の題材としてよくとりあげられるから関心はあるよ」と言って、この齢になって、犬養道子著「旧約聖書物語」「新約聖書物語」を読んでみた。
読むことによって、幼い少年の頃に、頭と心に付けてしまった二つのシミは、その後に付いた諸々のシミまで伴って一層鮮明に浮かび上がって来た。私の体が煙になるまで消えそうもない。
けれども、その本は私の心に安らぎを与えてくれた。苦しみも悲しみも神の意思によるものなら、それを受け入れよう。そしてこんどは妻に図書館から仏教に関する易しい本を借りてきて貰って読んでみようか。心が癒され、死の運命にあらがう気持がなくなるかも知れないから。
2016年6月22日
いまだに消えぬシミ