リノリウム


よく遊んでいたクマの縫いぐるみは,私の物だから,必ず連れていった。買い換えてもらったポシェットには,大事なデコレーションシールを入れられる分だけ,入れた。確かそのときは,まだ靴紐をチョウチョに結べなかったから,いつも履いていた,マジックテープの,白のスニーカーを履いた。あとは,全部ママが持つキャリーバッグに納まった。服とか,下着とか,そういうものだ。手にしていたコートに腕を通して,マフラーを簡単に首に巻いたママは,キャリーバッグを玄関先に置いて,そこに立っていた私を見ずに,一番低いハイヒールを履いた。それから,私が玄関のドアを開けて,ママはキャリーバッグの頭のあれを引っ張り出して,先に出た。私も続いて,外に出た。エレベーターまで一直線の廊下は,大人と子供のセットでも,二人が横に並んで歩くには狭かった。だからなのだろう,ママはさっさと歩いて行った。私は閉まる玄関の向こうを見ていた。私より一回り小さい姿が立っていた。それで,何も言わなかった。ドアが完全に閉じるまでに,名前を呼ばれたようだったけど,隙間が失くなってから後は,それを確かめられずに,またママに呼ばれた私はドアの前から立ち去った。私が踏む足音と,キャリーバッグが,その日の朝をすごく乱暴に起こしている気がした。ママのハイヒールは,キャリーバッグにかき消されていただけで,エレベーターの前に着く頃には,コツっと現れて,カツっと消えた。一階で停まっていたエレベーターが昇ってくるまで,歩く必要がなかったからだ。
手を掴んでいた。だから私の縫いぐるみは,片手に抱っこをしなきゃいけなかった。車が走っていない道路はすごく広くて,信号機が赤のままでサボっていて,自動販売機とコンビニエンスストアだけが,真面目に働いている。画用紙に塗った色を塗り返すみたいに,夜の暗さは薄くなって,明るくなっていくことに,きちんと気付いた。ちゃんとした朝の始まり方を知った気がした。ワクワクしていた。不安と手を繋いで,私の足を交互に動かした。肩掛けのポシェットがお尻のところで跳ねていた。さっき,ママがキャリーバッグから出して巻いてくれた,私のマフラーが暖かかった。吐いた息がいちいち目立った。鼻をすすったりした。それは,私だけのことじゃなかった。他の誰かが通りかかっても,その人もきっと同じことをした。パパがそれをしなかったのは,運転してきた車の中にいて,ただ私とママに向けて,クラクションを鳴らしただけだったからだ。迎えに来たと思ったのは,私だ。あの時に,親切にも,忘れ物を届けに来てくれたのだと本気で思っていたというから,実にママらしいと私は思った。
路肩に停まった窓越しの,二,三言のすれ違いは聞き取れなかった。キャリーバッグの後ろに隠れた私との距離は,思ったより遠かったのだ。二人の沈黙,ママが私に振り返って,私を手招きした。すぐには動けなかった。パパがドアを開けて降りて来て,私に笑顔を向けて,キャリーバッグの頭を持ってあげた。ママが後部座席に向かって,話しかけていた。それでやっと,私は動き出せた。縫いぐるみを抱えたまま,歩いて車に乗った。まだまだ小さかった頃の妹が,寝転がっていたのを止めて,私を見て,ちょっと泣いた。私はクマを抱きしめた。ママまで後部座席に乗り込んで来たために,私と妹は奥へと追いやられて,くっ付いた。帰ることになったんだ,と思うことができた瞬間だった。時刻の上でも,朝はすっかり朝だった。「おはようございます」の要らない私たちの朝だった。
お家に着いたら寝巻きに着替えた。学校は,お休みの一日になった。お昼頃には起こしてくれる約束だった。私はベッドにクマの縫いぐるみを連れ込んだ。妹は,私のベッドに入って来た。いつもなら言っていたであろう,一人で眠れないの,なんてからかいもしなかったし,無視もしなかった。ベッドの中は冷たかった。クマは真ん中に寝かせた。二人で手を握った。どっちも冷たい手だった。動かすのが大変だった。しばらくすると,段々と温かくなって,汗だって滲んだ。それでも,離すことは考えられなかった。どっちかがうつ伏せになったりしても,握れる手を変えたりする工夫をするつもりだった。眠るまで。起きるまで。
白い天井の灯りを消すことを,私も妹も,ママもパパも忘れていた。それでも,私も妹も,ちゃんと眠れていた。そのことに気付く頃には,私たちのどちらも,見た夢をすっかり忘れた後だった。


朝の特別講義が終わってすぐ,ママから届いたメッセージの内容は,今夜の夕飯は自分たちで用意してね,今夜はパパが予約したお店で記念日を過ごすから,というものだった。パパが予約したお店,という部分が下線部によって妙に強調されているから,さっきの講義中に届いた妹からのは,このことに関するものだったかもしれない。こっちの置かれている状況を知らせるために,素っ気なく返事しちゃったけど,でも,この内容からは,まあ問題はないと言って構わない。
『おめでと。楽しんできてね。』
とママには返事をして,妹にはママからのメッセージをそのまま転送した。パパには『おめでと』だけを送った。ママからまた返事がきて,感謝のアニメーションが照れて,笑って,また照れた。私はホーム画面を押して,スマホを隠した。決まりを守る,というよりは,取り上げられた後の手続がメンドくさいからだった。ちょうど,チャイムが鳴った。ホームルームの五分前が報らされた。ぞろぞろと,外に出ていたクラスメートの大半が戻ってくる。一時限目の前に,実際には今日の一時限目を終えた気だるさは,でも緊張感にピンと張られている。小テストのせいもあるかもしれない。私も一応,机から出した教科書の指定ページを開いて,軽く復習する。歴史はすっかり近代に近付いたもの,記述式になっても,それは短時間で終えられるものになるだろうから,要点が何より重要になる。私はどこが要点になるか,履いていた靴下を上げてから,当たりをつけていった。隣の席の男子が,それを仕切りに知りたがった。何個か適当に教えて上げた。お礼を言われて,返事をする前に担任が入ってきた。私は口を閉じた。本命のチャイムが長めに鳴って,私たちは朝の挨拶をしなければいけなかった。出そうになった欠伸を隠した。涙は私の目から溢れた。
移動教室から戻るときに見つけた忘れ物を手にして,サッちゃんと一緒に廊下を歩いていると,先生に話しかけられて,教室に戻った後のプリントの回収を頼まれた。本来,その役目を負うべきである委員長のカジ君が風邪で休んでいるため,代わりとなる人が必要だったからだ。私はすぐにそれを引き受ける返事をした。先生は「すまんな,頼んだ」とホッとした顔で,次の授業をすべきクラスに向かって歩いていった。私たちも教室に向かって,すぐに歩き出した。昼休みを除いて,休み時間は十分しかない。身だしなみを整える意味でも,特にトイレに行く必要性を感じてはいないけど,早めに席に着いていたい私と,それを知っているサッちゃんは,気持ち早めに足を動かした。サッちゃんが筆箱として使っている,四角いクッキー缶の中の色鉛筆が,あちこちにぶつかっている音がした。サッちゃんは色鉛筆をよく使う。マーカーより,使い勝手がいいそうだ。
「これ,消しゴムで消せるからね。」
「でも。消せるマーカー,あるじゃん。」
私がそう突っ込むと,サッちゃんは「そうだけどー,」と続けて,
「種類が豊富だし,色鉛筆の方が使い勝手がいいの。」
たとえばー,と階段を上りながら,さらに続けて私に説明をしてくれるサッちゃんは,要は鉛筆で描いたり,塗ったりするのが好きなだけで,メール等も送るけど,手紙も送るし,むしろそっちの方が気合が入っていて,文面だけでなく,背景といった余白の部分にも手の込んだ工夫を凝らしている。貰ったうちの何枚かは私部屋の壁に貼っている。お気に入りは,もう,手紙というよりは一枚の絵だけど,色調が明るくて,構図がユニーク,こちらに背中を向けたままのドワーフが一休みしている。湯気が立っていることは窺えるけれど,何を飲んでいるのか分からない。美味しそうで,何を飲んでいるのかを知るために,覗き込みたくなるけれど,ドワーフの方もそれを知っていて,横顔をこっちに向けて警戒している。積極的にそれを隠そうとしている。その様子を何かに見られている。影だけが描かれたそれは,シルエットで言えば耳が長くて,尻尾も長い。ウサギのような別の生き物と思えるし,ウサギと,犬か猫といった別のものがそこにいて,影がたまたま重なったようにも見えてくる。何頭,何匹いるのか分からない。ザワザワザワっと賑やかさが増す。カサカサっと,枯葉の上を飛び回る季節が,個人的な記念日を祝ってくれる。定型文みたいな一文も,手書きじゃ残念なものにならないんだから,すごい。
それを貼ったのは自室の室内灯の上だった。変わった位置だと妹には言われたけど,電気は無駄にしない私を思って,そこに飾ると,その日の私が決めた。部屋を出るときに見かけて,部屋に戻れば必ず見つける。机の前より最適な場所だと思った。飽きたりしない。サッちゃんも,本当のところを教えてくれない。だから,永遠の謎かけに見送られる毎日。
「分かってくれる?」
階段を既に上り終わって,教室に入る前にサッちゃんは私に訊いてきた。申し訳ないけど,その全部を「ながら」で聞いていた私は,でも自信をもって,サッちゃんに答えた。
「もちろん。分かるよ。」
好きなんだね,サッちゃんは,と付け加えると「そう!」と元気に答えてくれたサッちゃんだった。思わず綻んでしまって,明るい気分で席に着いた。そうそう,と思い直して,大きな声でみんなに言った。
「例のプリント,私に出してね。今日の放課後,先生に持っていくから。」
うぃーという男子の返事に,マジかまだ書いてねぇし,という焦りの声と,またボランティア引き受けたの?エライねー,という呆れた褒め言葉を頂いた。
「でしょ?」
と返事した私の横から,後ろの席のヨシコが心配そうにアドバイスをしてくる。
「つーか,マジで損するよ。担任だって,あんたのそんなところに付け込んでるんだから。」
あんたって,他人に飴を譲るタイプ?というヨシコの例えは,妙に古い感じがしたけど,昭和のアイドルの曲や映像を好むヨシコらしい感じがして,変に納得してしまった。飴を譲る,確かにそうかも。でも,
「そうだね。でも,飴を諦めるタイプじゃないよ。」
そして授業のチャイムが鳴った。私は前を向いて,急いで教科書と参考書と,ノートを引っ張り出した。前の授業のものを片付けようとして,ヨシコに肩を叩かれた。振り向くと,例のプリントがそこにあった。
「よろ。」
オッケー,と口の形で返事をした。ヨシコは軽く頷いて,鼻の下を指で擦った。昔の映画に出てくる男の子みたいだった。私は笑ってしまって,ザワつきの収まりとともに聞こえた足音に,前を向いた。二分過ぎ。
地理の先生はちょっと遅刻した。


放課後,職員室から戻って来ると,サッちゃんがまだ別のクラスの友達とお喋りしている最中だった。私に気付いたサッちゃんが「もうちょっと待ってて!」というお願いを,手のひらを合わせてまでしてきたから,鞄を置いたままだった教室の中を指差して,「待ってるね」と伝えた。うんうん,と返事も短く,サッちゃんは話題の中に飛び込んでいった。教室内に人はいない。みんな,さっさと予備校か,図書館の席取りに行っていた。運動場が見える窓側の席が人気だった。練習の様子を見れば,気晴らしになったりする。元野球部とかは,それがかえって嫌みたいだけど,私を含めて,室内競技だった人たちはそうでもない人が多かった。見慣れない分だけ新鮮だったから,反対に,体育館で勉強するとまた違うだろうし,得してる気分になるのも,そんなに外れたことじゃない気がした。ちょっとステップを踏んで,窓側に近付くと,吹奏楽部の練習音がした。音楽室のベランダ側に並ぶ男子と女子の混合チームは,伸びて,途切れて,また合わせてを反復していた。コの字型の校舎の真向かい,階数も同じだったから,視線が練習の邪魔にならないように,同じくベランダ側に出ながら,運動場側を見るようにした。そのうち,手すりに両腕を置いて,顔を横にした。いかにもありそうな風景の一場面。でも,思ったりより悪くないという発見と,口外しない思い出になった。センチメンタルは一人分を超えると,途端に恥ずかしくなることを,私だって知っている。だから浸って,秘密にする。
廊下から大きな声で届く,「この日はどう?会える?」という会話の断片をキャッチしたから,私は一度,態勢を戻した。そのタイミングで,スマホにメッセージが届いた。ママからだった。開くと二通,一つは写真,もう一つは文字,改行ひとつの文。写真は背の高い木に施されたイルミネーションが,夕日の空に辛うじて綺麗に映っていて,パパもいないし,ママもいない。目の前の光り輝くその一本を,記録しただけのものだった。そして二通目,楽しんでくるね,夕飯はよろしくね,洗濯物も出来たらお願い,遅くはならない予定だけど,遅くなっても内鍵はしないでね。
それとありがとう。加えて最後には,何故かパパとの連名が残されていた。メッセージの送り先として,妹の名前と,私の名前が続いていた。五十音順を守った結果の並びには,確かに愛情が込められていた。ハートが飛んで,ドキドキしている。
サッちゃんに呼ばれた。室内に戻った私は,鞄を取ってから少し待って,廊下に出て,廊下を歩いた。ちょっと先にサッちゃんの友達がいる以外,私達しかいない分,ローファーの底は鳴った。左右交互に,タイミングもバラバラに,「ねえ,見てみて!」という誘いを伴って。人気の参考書とはまた別の,興味が湧く雑誌の記事にはまだ勝てない。冬に羽織るもの,巻くものは数多い。
書店に寄って,参考書も買わなきゃいけなかった。だから,まだ着替える訳にはいかなかった。時間を見計らって,妹にメッセージを送ったけど,妹もまだ着いていなかった。だから。
先に着いたら,「負け」になる競争には,負けてもいいと,私は心から素直に思った。

リノリウム

リノリウム

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-20

Copyrighted
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