猫と満月
塀の上から、ふたつの満月が此方を見ていた。
ここでひとつ言わせてもらうと、そのとき僕は満月と目が合った、と思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。というのも、その黄色い何かが口を開いて
「やぁこんばんは、人間の兄さん。」
なんて喋ったからである。少し冷静になれば、満月と目が合うなんておかしなことを考えたものだ、と思うだろう。けれどそもそも、その喋ったのが猫だった、というのに驚くのを忘れていた時点で、その時の僕はどこか冷静さに欠けていたのだ。
それはあかるい満月の晩であった。ある日の暮れ、僕は、夜の梅でも見に行こうと思い立ち、日がおちて暗くなってから外へ出た。けれど梅はまだ見頃とはいい難く、それに肌寒い中、わざわざ見に来る様な人も少なかったため、引き返して家路を辿っていたのである。そうして目が、夜道の月明かりの暗さになれてきていた僕は、声のした方を見たとき、はっきりと、塀の上にどっしりと構えて、こちらをにやにやと眺める猫の姿を見ることができた。
はじめに聞こえた言葉は聞き違いか、と思いつつ、僕は取りあえずまわりに人がいないのを見てから、冗談半分で猫に話しかけてみた。
「こんばんは。君は黒猫かい。」
「おかしなことを言うなあ。今は夜中だぜ。おれの色が黒だろうが白だろうが、お前には分からないんだ、どっちだって変わらないだろう。変わらないってことは、つまり、意味をもたないってことだ。」
僕は一瞬おどろいて止まり、それから、やはり先刻の声はこの猫だったのか、と思った。そして、ちょっと考えて、こう返した。
「しかし夜のなかだ、君がまっ黒いのがようく分かる。白猫じゃあ、この暗さには隠れきれまい。つまり、君の色は僕にとって、意味があるってことじゃあないのかい。」
「へへえ、一本取られたな。」
ところで僕には、猫が何のために自分を呼びとめたのか、さっぱり分からなかった。訊ねてみると猫は「別に、これといった理由なんてないさ。」「暇だったんで、ちょっと話し相手が欲しかったところなんだ。」などと言うばかりで、どうもはっきりとしない。僕はあきらめて、猫の話し相手になってやることにした。さっきまで薄寒かった風は、知らぬうちに止んでいた。
「人間は月に兎がいるなどと言うが、まったく頭が弱いな。あれはただの鼠さ。ちょっと見れば分かる。」
僕は猫が次々とでたらめをいうのがおもしろくなってきていて「へえ、それで。」と言ってみた。すると猫のほうもすっかり上機嫌になって、ますます喋りだした。
「ふふん、月の模様は、みんな鼠の掘った穴なんだ。月に行けばおれらに見つからないとでも考えたのか、いかにもばかな連中だろう。」
「ああ、たしかにそうだ。もしか、それで君は月を見ていたのかい。」
猫はふん、と鼻で笑い、こういった。「お前は、人間のくせに話が分かるやつだなあ、気に入ったよ。しかしばかにしてくれるなよ。おれはもう、奴らを食べるのなんて造作ないんだぜ。」
「それでは見せてくれよ。」
僕はいよいよおかしくなって、そういった。しかし猫は涼しい顔で「ああ、かまわないさ。見せてやるよ。」なんていって、塀からひらりと降りて歩きだしたものだから、僕はびっくりして、一寸のあいだ固まってしまった。猫はそれに構わず、僕から数歩離れたあたりで止まり、いつからかそこに置いてあった、水が張られた桶を指さしていった。
「ほら見てみろよ、今日はいい満月だ。」
桶の中には、空にあるのと同じような真っ黄色の月がうつりこんで、明るくひかっている。なんだ、当りまえじゃあないか。僕は頭の隅で、はたしてこの猫は本当に月の鼠を食べるのだろうか、もしか、桶をひっくり返して誤魔化したりするんじゃないだろうか、などとつまらないことを考えてみたりしたが、そのうち、猫が二本の足ですっくと立ち上がり(あまりにも自然であったので、僕はここでも、驚くのを忘れていた)、「人間の兄さん、ようく見ていなよ。」というので、黙っていることにした。
猫がにやりと笑い桶の中に手を入れた、と思うや否や、水から月が跳び跳ねた。桶から飛びでた、手のひら位のまん丸い月は、ぽーんと弧をえがき――ぱくり、猫の口のなかへと納まった。
気付いた時には、猫は得意気な顔でこちらを見ているだけで、何がおこったのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「ほら、月なら食べただろう。」
にやにやと笑う彼にそう言われた僕は、おそるおそる桶の中へ目をやった。するとどういうことか。さっきまで水面にうつっていた月が、確かにどこにも見当たらないではないか。僕が驚いて口もきけなくなっているうちに、彼はぺろりと口の周りを舐め、なんとも幸せそうに言った。
「ああ、こんなに旨い月はいつぶりだったろう!」
そこで僕は理解した。この猫の瞳が暗やみで黄色くひかっているのは、水面の月が、その中でずっとひかっているからなのだ。
にわか、どこか遠くで、知らない名前を呼ぶような声がした。それを聞いた彼は、二本足で立ったままあわてて後ろを振り返り、また僕のほうを見て言った。
「や、今夜はありがとう、人間のお兄さん。おかげで退屈しないですんだ。おれはもう行かなきゃならない。」
「なんだ、用事でもあったのかい。」
まあそんなところさ、じゃあなと彼は言い、前足を地面につけて、向きをかえ歩きはじめた。夜道をすいすいと進む彼の背中を、僕は何も言わずに、ただ見送った。彼の長い尾が二又に分かれていたように見えたのは、僕が暗いので見まちがえたのか、それとも、僕が彼に化かされていたからなのか。後になると不思議で仕方ないが、そのときの僕は、そんなことはどうでもよかったのであった。
気付くとまた、肌寒い風が吹いている。僕はきびすを返して家路をいそぐことにした。夜空に浮かんだたったひとつの猫の目玉が、空っぽになった桶をあかるく照らしていた。
お終い
猫と満月