鬼
ホラー要素を含みます 苦手な方はお引き取り下さいませ
小さな窓から見える景色はすごく綺麗に見えた。
上も、下も、右も、左も、白、白、白、白に囲まれたその空間が私の世界。
静謐な部屋で私の時間はずっと止まったままだった。
部屋には、漸く人が一人眠れるサイズの小さなベッドと組立式の簡易テーブル、後は部屋を囲うように大きな白い本棚がいくつも陳列しているだけの質素な部屋だった。
最低限の家具も本棚も真っ白で、唯一白以外の色を持っているのは私の足首まで伸びる長く黒い髪の色と、辺りに飛び散る乾いた血の色。
白いのは回りの物だけじゃなく、包帯だらけの私の体も同様に白い。
肌の色が視認出来るのは首と胸部の辺りのごく僅かな箇所しかなく、アイボリー色のワンピースが更に白を引き立たせていた。
ベッドの柵に背を預け、床に座って本を読み始めると頁を捲る音だけがその空間に響いた。本を読み始めてからいくらか時間が過ぎた頃、不意に微かな音を立てて、純白の扉が開いた。
「姫」
扉の方を向くと、また、彼がいた。
私と同じ人間のような者は私のことを姫、と呼ぶ。彼は人のような容姿だが、人外の生命体である。
その証拠は目に見えて明らかで、光の加減で銀にも金にも見える綺麗に切りそろえられた短髪の間からは二本の角が生えていた。
本で何度か見た事のある、その角を生やした者を本の中の人間は鬼と呼び、時には恐怖し、時には迫害し、
そしてある時には殺した。
鬼は宝物を奪い、人間を叩くらしい。そして、逃げる。
そういうものらしかった。
私の目の前にいる鬼は、本の中の鬼とは違っていた。
本の中の人間は予定調和だと言わんばかりに、鬼が出てくるとその場から逃げて、そして最終的には制裁を加えるのだ。
よく、分からない。本に出てくる鬼も、目の前の彼も。
彼は、私のそんな思考を全て理解していると言わんばかりの表情で微笑んだ。
後ろ手でドアを閉めると真っ直ぐ私の方へと歩を進めてベッドに座る。
彼は手に持っていた暗赤色の櫛で私の長い髪をゆっくりと梳かしていく。
絡まることなく彼の手から滑り落ちる髪を横目で眺めていた。
彼が近くにいると本の内容が頭に入って来ないのだ。
心臓が激しく波打つような、そんな感覚が彼といる時にだけ起こった。
彼は一通り髪を梳かし終わると、櫛をテーブルに置き髪を耳にかけて肩にかかる髪を背中に流してから、肩に顔を埋める。
暫く髪を手で遊ぶと、彼は首筋にキスをした。
「時間だよ」
くぐもっているはずのその言葉はやけに明瞭な色を帯びていた。
私は読んでいた本を完全に閉じると彼の傍を一端離れて本を元の位置に戻した。
一冊分引き抜いたことで寄りかかるようにして倒れていた本は所定の場所に戻ったことでいつもの通り、垂直になった。
そう、いつもの通りに。
彼の元へ歩み寄ると、ベッドにつく前に手を引かれ布団の上に組み敷かれた。強く掴まれた手首が痛くて思わず目を細めると彼は嬉しそうに微笑んだ。
私が見る彼はいつも微笑んでいる。
膨大な時間の中で、彼は少なくとも私の前では、笑う以外の表情を見せたことは一度としてなかった。
彼は左手の拘束を外すと片手で私の腕に巻き付いている包帯を解いていく。
手慣れた手つきなのは何回もこの行為をしているからで、私は赤が滲む包帯が解かれていく様をぼんやりと見ていた。
包帯がなくなるとその下から現れたのは傷口だった。
白い包帯に滲んでいる赤は私の血液だったもの。
小さいものから大きいものまで大小は様々で、傷口に共通しているのは抉られるようにして負傷していることだった。
血の滲むこの包帯はもう使用済みだと言わんばかりに、ベッドの下へ投げた。
彼はワンピースの裾をまくりあげて、太腿を撫でる。
彼の手は冷たかった。触れられたところから冷水に浸っているかのように冷えて、そして急に熱を帯びた。
掌の大きさほどのナイフが突き刺さる。
ベッドが赤く染まるのを気に留めず、彼は自身の唇を私の血液に寄せた。
傷口を舌が蹂躙する。
痛いような、気がする。
痛いも嬉しいも楽しいも苦しいも死にたいも私には欠落していると、彼は毎日私に教えてくれる。
まるで眠りにつく子どもに絵本を読み聞かせるように。
毎日。毎日。
流れ、零れる液体が、床に小さな水たまりを形成した。
また、だ、心臓が、波打つ、動悸がする。
ワンピースの裾をじわじわと赤い色が染め上げる。綺麗だと思った。
「姫には、赤がとても似合う」
口元を拭い、ナイフを抜くと、緩慢な動作で持ち上げた頭を私の肩口にうずめた。
さらさらとしている髪が皮膚に当たるのがくすぐったかった。
「本当に、綺麗だ」
言葉を紡いだことにより開いた口のまま、肩に歯を突き立てられた。
血が吸われる感覚、
くらくらと眩暈がする。
彼の顔が見えなくて不安が募る。
背中に回された手が熱を帯びていて、体に沿ってだらりと落ちる腕は痺れていて、彼と同じように背に回すことは出来ない。
もどかしい。
それでも彼は微笑むのだ。
「どうしたら僕のモノになってくれる?」
姫と僕は、運命の赤い糸で結ばれているんだ
そう、言葉を続けると、丁寧な仕草で私の手を取った
まるで物語の王子様が見惚れる程美しい姫君の手にキスをするかのように
私も、彼も、私の手を、指を見つめる。
数秒後、
長細い鋭利な爪によって左手の薬指に穴が開いた
「あぁああぁあああぁぁあああ…!!!!」
穴から向こう側が、見える
貫通、している。血が、止まらなくて、怖い
呼吸が止まってしまいそうになる、恐怖
痛いなどという、陳腐な言葉ではあらわせられない
痛いなどという感情は忘れたのではなかったのだろうか
傷口はやけるように熱を持って心臓を素手で握りしめられている恐怖が、消えない
ドクンドクンといつもは聞こえないはずの心臓の音が彼の耳にも届いているように感じる
彼の表情は変わらなかった
笑顔。
「どうしたの、姫?」
「ひっ…あぁあっあ、」
分からない、心臓が痛い
「…怖い?」
「う」
「大丈夫だよ、これは証さ」
彼はベッドに櫛を突き立てて布を切り裂いた。糸の繊維が壊れて元の貧弱な姿に戻った。
引っ張り出した一本の糸を赤色に染め上げる。
鮮明な赤色とは程遠い、赤黒く部屋に飛び散った水たまりと同一の色の糸を針の穴に通すように私の指に通した
ぐじゅぐじゅになった肉片に糸が触れると、声にならない叫び声が口から洩れる。
彼は私の指に通された糸をまきつけると自分の小指にも糸を巻き付けた。
「姫、これは運命の赤い糸。ずっと一緒だよ。ここで、ずっと」
糸の先端は、私の指と、彼の指に、
再度取られた手は指を一本ずつ絡められた。腕を伝う水滴が肘をも濡らす
もうだめかもしれない
「もうだめかもしれない」
「ねぇ、姫、いま、どう?」
彼は、笑う。
「いた、い」
「うん」
「さむい」
「うん」
「けど、あつ」
「うん」
「…こわい」
「うん」
「それはね、恋っていう感情なんだ」
「俺に恋をしているんだ」
「こい」
この心臓を握り潰されそうな恐怖はこいと呼ぶのか
本にはなかった
初めて知った
「教える、ありがと」
「どういたしまして」
何だか、彼に繋がる赤い糸が幸せの象徴に見えてきた。
視界が、彼の顔がぼやけて見える。
「もう、眠るのかい?」
首を縦に振ろうとするが、頭が動かない
「そうか、もうだめなのか」
彼は髪を手で梳くが、毛先まで手が行くことがない
髪に飛び散った血が固まっているからだ
血が止まらない
手が彼の手によって心臓よりも高くあげられる
その先には彼の口があった
何度目かの血が溢れる感覚とぬめりとした感覚が指の先から伝わり、霞む視界に目を薄く細めると目の前にいる彼の口の中に
指先があった
第一関節から先っぽの、本来手の先にあるはずの、それ
感覚は何もなかった
声もでなかった
何がどうなってるのか分からなかった
これはもしかしたら異常なのかもしれない
指先が、彼の口の中に、千切れた状態で、そこに居座っていた
彼が口を閉じると、ゆっくりと咀嚼する、ゆっくりとゆっくりとゆっくりゆっくり
動く喉元が見えた。
人肉は、食べるものではない、
私の、知識に、そんなものはない、
、
狼狽する私の躯はもう指先一つ動かない
喰われる、
私にはもう、逃げる術は何もなかった
唯一開いている目は彼の奇行を映す
痛覚と聴覚は苦しい感情ばかりを切に私に訴えかけてくる
肩を抉られ、目を刳り出され、音のなかった空間に咀嚼音が響く
血が零れる私の口を、彼は自身の唇で拭うように塞いだ
気づいた時には、もう
いつのまにか目の前は漆黒に染まっていた
何か黒い魔物に雁字搦めにされて底の知れない沼に引っ張られるような、
恐怖
悪夢に落とされるように、私は、目を閉じて、もうその目は開くことは永遠にないように思えた
血だまりに浮かぶ、赤い塊、それを喰らう、白銀の獣
いつの間にか鼓動をしなくなった人間だったものを見て、
鬼は笑った。
鬼
読んで頂きありがとうございました。少しでも怖いと思っていただけていれば作者明利に尽きます。