続・美しい言葉を話す女性は美しい(2)

我々出張者団は、ある日を境に突然暇になりました。
というのも、我々のプロジェクトが完全に破たんし、スケジュールが一から引き直しになったからです。
こういうとき、本国の偉いさん方は冷や汗をかきながら右往左往しているものですが、我々植民地官吏風情はやることがありません。
なにせ大方針が決まらないのですから。

ということで、折角だからまた海にいこうということになりました。どうせまた馬車馬のように働かせられるんだから。暇なうちに楽しいことは全部やっておこうと、そういうことです。
ここはやはり、一日本人として日比親善に貢献しておこうじゃないかという気は全くありませんでしたが、ごく自然に現地の人たちも誘おうということになりました。

まず主任格のケンちゃんとプリンス君。係長のパウエルさんはどうも血圧が280まで上がってマニラに帰ってしまったので無理。あとは日比ハーフのジャイさんとゆりなちゃん。なんやかんや日本に身内のいる人はお金持ってますからね。気兼ねなく我々も遊べるわけです。

サンミゲルライトというフィリピンのビールを飲みながら、沼田さんが言います。
「スタッフの子は呼びますかね。」
僕の頭には当然テアの顔が浮かびます。
「呼んだらいいんじゃないですかねえ。折角だし。どうせ今しか彼らも遊べないでしょ。」
僕は応えます。
「ねえ、今バインちゃんのこと考えてるんでしょう。僕はわかってるんですよ。毎晩バインちゃんのことばっか話してるじゃないですか。」
バインちゃんというのは、まあそこそこの家の出の子で、器量もまあ悪くなく、頭も結構いいが、なんというか、浮世離れしたようなところのある、テアとは違った意味で変わった子です。
何故僕がバインちゃんバインちゃんといっていたかと言えば、それはカムフラージュなんです。


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一度、僕と沼田さんと田中さんとジャイさんで飲む機会がありました。
大分酔っぱらって一同興が乗ってきた頃、ジャイさんが突然、
「あのね、テアさんがあなたのこと、可愛い可愛いっていってましたよ。」
と言い出すのです。
「んなこたあないでしょうよジャイさん。この顔と体つきを見てごらんなさいよ。その可愛いってのはね、そりゃパンダを見て可愛い可愛いといってるのと同じですよ。」

僕はお世辞にも女好きのする背格好はしていません。別におしゃれでもないし。
というわけで、こんな具合にまぜっかえしますと彼は途端に真剣な目をして続けます。
「いや、違います。テアさんは、あなたは煙草を吸うのかとか、女はいるのかとか、休みの日は何をしているのかとか、無駄遣いはしないかとか、何でもかんでも俺に聞いてくるんです。フィリピンでCuteといったら好きって意味ですよ。」

僕は当時はまだ結構ピュアだったんです。
第一職場で色恋沙汰をやるなんて言うのはあまり好ましいことではない。
それに僕は妻子持ちです。不倫っていうのはね、民法上は違法なんです。不法行為っていうことで、損害賠償を請求できるんです。
だからそういう面倒なことになったら、きっと田中さんは僕を日本に送り返すに違いない。僕はそもそも外国勤めというのをずっとやりたかったのです。だからこのチャンスをこんなことでつぶしたくないと思ったんです。

ちょうど沼田さんがつまんなげな顔をし始めたので、よっしゃと思って混ぜっ返しました。この沼田さんという人、いい人で気が合ったんですが、昔女縁に恵まれなかった過去があるようで、こと女の問題に関してはいちいち対抗心をむき出しにするのです。
「いやジャイさん、ワタクシは断じてパンダに違いない。大体フィリピンはカトリックでしょう?カトリックは不倫離婚を絶対認めないわけでしょう?そんな国においてよもやこのワタクシが、パンダでないわけがないのであります!」
ビールを飲むと何でも言えますね。我ながら実に滑稽です。
ジャイさんという人は歳は34ですが、ど田舎の肉体労働者から身を起こして外資系企業の正社員にまでなりおおせた、いわば立志伝中の人物です。
ですから、やはりその辺の機微をよく理解します。僕がこれ以上テアの話をしてほしくないことを察してくれました。

ですが、ジャイさんは僕の目を見て、もう一度、噛みしめるように言いました。
「ですけど、テアさんはいい人ですよ。いい女です。」

一瞬の間があって、3人はまたバカ話に戻ったのでした。


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そんなわけで、僕は毎晩彼らの前で、バインちゃんのことを『ミロのビーナス』だと呼ぶことにしたのです。
実際まあ、彼女は割合に美人なんですよ。でも一言で言うと、ちょっとsnobbishなんですよね。お高く留まっているというか。
だから、確かに見た目は美しいけれども手で触れたらとても冷たい、という意味を込めて、『ミロのビーナス』だと毎晩言っていたんですね。

僕は血の通った女の方が好きですから、当然テアの方が好きでした。
でも、バインちゃんも酔っぱらった時だけは可愛かったですよ。
沼田さんは悪い男で、あわよくばバインちゃんをホテルに連れ込もうとでも思ったのでしょうか、しこたま日本酒を飲ませて、で彼女はフラフラになって僕の向かいに座ったわけです。

"Hi Hello~"
おお、このsnobbish girlも酔っぱらうとお世辞の一つも言えるのかと思いながら
"Hey are you okay? You look so drunken."
と医者が患者を診るような心持で聞くと、
"I am OK! I am Happy!"
とかなんとか言っています。
隣の男の子が、沼田さんが多く彼女に酒を注ぎ過ぎて、すっかり彼女は酔っぱらった。普段はお酒なんか飲まない子なのに、云々と教えてくれました。

全く沼田さんもパインちゃんもしょうがねえなあと半ば呆れながらバインちゃんを見ていると、隣に掛けていたテアが食べかけのすき焼きの皿をこっちによこしてきてこれ私いらないから残り食べてとかなんとかいってきます。と、その隣の男の子がオーマイガット、食べかけを人にくれるなんて信じられないみたいなことを言っています。そうか、やっぱりこいつはフィリピン基準でも変人だったのかと、自分の感覚基準がフィリピンでもまあ通用するのだと妙に安心していると、今度はバインちゃんがエビ、テンプラ、エビ、テンプラとかなんとかうわごとを言っている。分かった分かったと言いながら、ウェイトレスを呼んで天ぷらをもう一皿持ってこさせる。因みにこの店のウェイトレス、着物風のスカートのスリットが長くってそれこそショーツが見えそうで、僕はテアが他の子と話しているのを横目でしっかり確認してから彼女の長い脚をしばらく見つめる。と、バインちゃんエビ天を一匹食ったはいいが、本当にいよいよクラクラしだして、おいおいあんたさん家までまともに帰り着けるんかいと聞いたら、大丈夫、大丈夫、あたしは大丈夫!と全く大丈夫じゃなさそうなので、主任のケンちゃんにおいバインちゃんどうすんのと聞いたら、ジョンソン課長が車で送ってくと、でもジョンソンさんも飲んでんじゃんと聞いたら、ナッダッマッチ、ノープラブレムというんで、まあいいやと。そんな具合でその夜は更けていきましたねえ。

そんな酔っ払いのバインちゃんはちょっと可愛かったですね。


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海に出かける前々日、僕はテアに社内SNSで翌朝ホテルから海に誘うことに決めました。彼女はその日早番で、6時にはオフィスにいるんです。
僕は、友人関係でも職場関係でも男女関係でも、来るもの拒まずなんです。去るもの追わずが基本なんです。
だから、自分から誘うっていうのは結構不慣れです。緊張します。
その晩は寝付かれませんでした。1時間たっても寝付かれないので、日本から持ってきたマイスリーを2錠飲みました。
それでも翌朝は6時に目が覚めました。

PCを立ち上げると、果たしてテアはオンラインでした。
胸がドキドキします。
先にシャワーを浴びることにしました。

シャワーから上がって、いよいよ意を決してタイプします。
"Hi Thea-san, Good Morning."
"Hello, Good day"
彼女はその後、機関銃のように誰それと誰それと誰それは時間通り出勤しているが、何々さんだけは道が混んでいるので遅刻している、システムは問題なく稼働していて、緊急事態は何も起きていない云々みたいなことを伝えてきました。
テアさん、今日のワタクシはいつものワタクシじゃあないんだよ。
"No, I am not talking about work now.*
*So What?*
"Won't you join us to visit the sea tomorrow?*

その後返事が来るまでの3分間がとてつもなく長く感じられて、たまらず僕はトイレで歯を磨き始めました。

PCに戻った後、恐る恐るメッセンジャーを開きます。
"Umm... let me see if others will join or not, Okay?"
直観的にこれは6割方成功だと思いました。少なくともオフィスにいる彼女は顔をほころばしているに違いありません。

案の定、テアはいつもの5割増しの笑顔でグッモーニングと声を掛けてくれました。
来てくれるのかなあ。


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僕はここに至ってなおカムフラージュでバインちゃんも誘いました。
まあ、カムフラージュなんで、会議室で堂々とね。

「ねえ、バインちゃん、みんなで明日海行くんだけど、バインちゃんも来ないかい?」
なんたって『ミロのビーナス』ですからね、「うん、行く」と言ったらそれこそフィリピンに雪が降りますよ。
果たしてバインちゃん、甲高いよく響く声でこうのたまいました。
「ノー!」
僕は沼田さんと大爆笑しました。いたずらが思惑通りに成功したときほど面白おかしいものは有りませんからね。

しかし、フィリピン人からすれば、バインちゃんを本気で誘っているように見えたのかもしれません。
彼らは夜な夜なサンミゲルライトを飲みながら僕が『ミロのビーナス』だとか何とか言っていることを、知りませんからね。
あるいは日本人とフィリピン人ではユーモアのつぼというか、言語感覚が違うのかもしれません。
俄かにフィリピン人たちがバインちゃんを囲んでなにやら騒ぎ出しました。

「ねえ、バインはあなたのことCuteっていってますよ。」
色黒で皮肉屋のヘンリー君がニヤニヤしながら言っています。隣の沼田さんは苦りきった顔をしています。僕はきょとんとした顔をしていました。
"Byne, Thanks :)"
努めて軽い感じで挨拶しておきました。

ミーティングの合間に、彼女は下を向きながら黙ってポテトチップスを一袋僕に持ってきて、黙って自分の席に戻っていきました。

あの珍妙奇天烈なテアがいなかったら、ひょっとしてバインちゃんに惚れてたかもしれないですね。


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ミーティングが跳ねた後、部屋を出るとテアが弾んだ声で声をかけてきました。
「ねえ、海ってどこにいくの?」
「オスロブ」
「何するの?」
「知らないよ。いったことないから。オスロブ行った事ある?」
「ある。シュノーケリングができるよ!あたしは泳げないから出来ないけど。」
「ねえ、なんでフィリピン人って周り中海だらけなのに泳げないの?」
「だって学校にプールなんかないから。泳ぎを教わらないの。」

僕は再び意を決して聞きました。
「で、テアは来るの?」
テアはちょっとだけ小首を傾げてから、いたずらっぽく目を細めて、言いました。
「考え中。」


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僕はミーティングが跳ねてからもはや仕事が手につきません。だれかれかまわず海の話ばかりして大爆笑しています。
僕は最初ここにきたとき、オフィスの中で突然歌いだす男とか、しなを作って踊りだすオカマとか、そんなのを見て絶句していましたが、いまやまさしく僕も完全にフィリピン人化していましたね。
田中さんや沼田さん達とはいまだに付き合いがあるんですが、あう度に言われます。「お前はあの時狂ってた。」って。

あの国には何か、こう、人を極端に感情的にさせる空気があるんです。体験したい方はどうぞ当地に。英語学校かなんかの先生を引っ掛けるのがまずは順当でしょう。大体あの国は学卒でも仕事がないので、人文系の女学生で割合に美人なのはみんな英語の個人教師になるんです。
で、当地は既に皆さんご推察の通り、オンとオフの区別がどこまでもあいまいですからね。英語のレッスンの素材もぶっ飛んでいて、例えばあなたに好きな女の子がいて今いい感じだ。しかしなにやら彼女の様子が最近ちょっとよそよそしい。なぜかといろいろ探って見るとどうやら彼女にモーションをかけてる別の男がいるらしい。さああなたは英語で何と言って彼女の気持ちを引き止めますか、みたいなのもあるらしいです。それを4畳半くらいのブースで学校出たばっかの女の子とやるわけですから、もはや学校だかキャバクラだか分からない世界ですね。

ビジネスマン各位におかれましては、まあまともに日本の英会話学校で英語を教わることをお勧めします。ことにアングロサクソン系の女性を特に薦めます。なぜならば彼女たちはビジネスはビジネス、プライベートはプライベートという区別をそれこそ恐ろしいくらいに突き詰めるくらいですからです。
ちょっとでもちょっかい出して見たらいい。きっとこういわれますよ。この上なく冷たい目で。
"Excuse me, Sir."


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はてさて6時になりました。
テアは早番なので4時には会社を出ていいのですが、まだぶらぶらしてくっちゃべっています。
これは、僕がいい加減白黒はっきりさせないといけないんですね。じゃないと彼女は帰れない。

「で、どうするの?来るの?来ないの?」
「うーん、ごめんね。明日はちょっと予定があるから無理みたい。」
でも、彼女は小声でこう付け加えるのです。
"But you know, next time, let's go to Moalboal by ourselves. It's better than Oslob."
僕は中学校でby myselfが自分だけでという意味だと教わったから、by ourselvesは私たちだけになるはずだ思って、果たして調べたらその通りでした。

彼女は帰りしなにもう一発爆弾を放りなげて帰っていきました。
"So see you tomorrow!"
えっ?明日来るの?と思いかかった矢先
"Oh, Sorry. Tomorrow is the day when my boyfriend will be back."

いやあ、フィリピン人はね恋愛小説を書かせたら世界一だと思いますよ。甘い甘い、でもちょっとウィットのきいた面白いのを書くでしょう。


実はね、僕はこの直後、テアは僕と漫才をやってるんだって思ったんです。恋愛ごっこですね。それならいろいろ理屈が付くでしょう。こっちにゃ嫁と子供がいる。あっちにゃ大学時代からの彼氏がいる。こっちは日本人。あっちはフィリピン人。オフィスの外でデートしたことなんてありゃしない。いちゃいちゃしてても会社でだけ。こういうことの全部説明が付く。

でもね、やっぱりこうやって縷々書いていて思うのは、彼女はきっとね、僕が朝の6時半に海に誘ってから、ずうっとずうっとこの別れしなの台詞を考えていたんだと思います。
何故ってね、実は僕はテアとまだかかわりがあるんです。しかもひどい喧嘩をしています。要は、お互いの関係性をどう整理するか、このとても難しい問題に直面せざるを得ないタイミングがついに来たんです。それは本稿の主題を超えるものですから本稿では語りませんが、この投げキッスよりも甘い、でもちょっとミントの利いた台詞はね、彼女が全身全霊を傾けてやってのけた一つのお芝居だったと思います。それだけの想いがこの時点でなかったら、僕たちは真正面からぶつかり合うような関係にはいたらなかったはずです。

喧嘩するってのは疲れますからね。どうでもいい人とは喧嘩しません。

続・美しい言葉を話す女性は美しい(2)

続・美しい言葉を話す女性は美しい(2)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-18

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