宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第五話

まえがきに代えたこれまでのあらすじ及び登場人物紹介
 金子あづみは教師を目指す大学生。だが自宅のある東京で教育実習先を見つけられず遠く離れた木花村の中学校に行かざるを得なくなる。木花村は「女神に見初められた村」と呼ばれるのどかな山里。村人は信仰心が篤く、あづみが居候することになった天狼神社の「神使」が大いに慕われている。
 普通神使というと神道では神に仕える動物を指すのだが、ここでは日本で唯一、人間が神使の役割を務める。あづみはその使命を負う「神の娘」嬬恋真耶と出会うのだが、当初清楚で可憐な女の子だと思っていた真耶の正体を知ってびっくり仰天するのだった。

金子あづみ…本作の語り手で、はるばる東京から木花村にやってきた教育実習生。自分が今まで経験してきたさまざまな常識がひっくり返る日々に振り回されつつも楽しんでいるようす。
嬬恋真耶…あづみが居候している天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。一見清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子だが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。
御代田苗…真耶の親友。スポーツが得意でボーイッシュな言動が目立つ。でも部活は家庭科部。クラスも真耶たちと同じ。
霧積優香…ニックネームは「ゆゆちゃん」。ふんわりヘアーのメガネっ娘。真耶の親友で真奈美にも親切。農園の娘。真耶と同じクラスで、部活も同じ家庭科部に所属。
嬬恋花耶…真耶の妹で小三。頭脳明晰スポーツ万能の美少女というすべてのものを天から与えられた存在だが、唯一の弱点(?)については『宗教上の理由』第四話で。
嬬恋希和子…真耶と花耶のおばにあたるが、若いので皆「希和子さん」と呼ぶ。女性でありながら宮司として天狼神社を守る。そんなわけで一見しっかり者だがドジなところも。
渡辺史菜…以前あづみの通う女子校で教育実習を行ったのが縁で、今度は教育実習の指導役としてあづみと関わることになった。真耶たちの担任および部活の顧問(家庭科部)。担当科目は社会。サバサバした性格に見えて熱血な面もあり、自分の教え子が傷つけられることは絶対に許さない。
高原聖…真耶たちのクラスの副担任。ふりふりファッションを好み、喋りも行動もゆっくりふわふわなのだが、なんと担当科目は体育。
池田卓哉…通称タッくん。真耶のあこがれの人で、真耶曰く将来のお婿さん。家庭科部部長。
篠岡美穂子・佳代子…家庭科部の先輩で双子。ちょっとしたアドバイスを上手いことくれるので真耶達の良い先輩。
岡部幹人…通称ミッキー。家庭科部副部長にして生徒会役員という二足のわらじを履く。ちょっと意地悪なところがあるが根は良いのか、真耶たちのことをよく知っている。
(登場人物及び舞台はフィクションです。もちろん作中に出てくる「花芋」も架空の作物です)

 夕食のおかずに見慣れないものが出てきた。
「長く保存が効くから便利なんだよねー」
今日は真耶ちゃんが炊事をしている。基本家事は希和子さんの役目なのだが、宮司としての仕事もあるので真耶ちゃん・花耶ちゃん共によく働く。今日は希和子さんが村の寄合で出かけているので真耶ちゃんが料理を買って出たのだ。私もせめて配膳くらいしなければ罰が当たる。
 その食卓に広げられたおかずの中に、見慣れないものがあったのだ。何やら長いものをスライスしているのだが、くすんだ色でちょっと抵抗がある。
「あー花芋だー。まだあったんだ?」
花耶ちゃんが喜びの声を上げている。ちっちゃい子が食べるには随分渋好みのようにも思える。
「うん。でもこれで最後だから大事に食べてね?」
ふたりはそれを花芋と呼んでいるが、初めて聞いた名前だ。準備も済んだので席に着き、ためしに一切れ取ってみた。かなり発酵しているらしくかなり匂うが不思議と不快感はない。おそるおそる口に入れてみると、酸味が強いのだがもともと素材が持っていたであろう甘みと合わさって、果物のような爽やかさがある。食感は独特の粘りがあるが噛みきれなかったり歯についたりというものではなく、洋菓子に近い柔らかさがある。決して渋好みではない。子供の口にも合うし、かといって子供向けの味とは片付けられない深い味わい。うまみとか、あとかすかにほろ苦さもあって、ご飯やお酒にも合う味。なんとも不思議な食べ物。

 地場野菜と呼ばれるものが話題だ。言葉通りその土地ならではのローカルな野菜。花芋は木花村独特の地場野菜で、このように漬物にするも良し、すりおろしてトロロにするも良し、スライスして揚げるも良し。ここまでは真耶ちゃんの解説だったがあとで調べると実に優れた野菜であることが分かる。栄養が豊富だし劣化しにくいので寒い冬を越すための保存食として重宝される。雪の中に埋めておくと春まで持つ上に甘みが増し土の臭みが消える。それでいてビタミン類などの栄養は失われにくいので健康にも良い。
 こんな万能野菜が木花村とせいぜい隣接する市町村ぐらいにしか知られていないのは、ひとえにその栽培の手間にある。春先にプランターなどに種まきをするとほどなく芽が出るのでそのまま夏前まで育ててから泥田に植える。そのまま年を越させて翌年の秋を待って収穫。寒さを乗り越えさせることでより味わいの深いものに仕上がるのだという。天然のものはまる一年のサイクルで育っていたらしいのだがそれでは食用として熟成が足りなくなるので、このようにおよそ一年と数ヶ月という長い期間をかけて製品に仕上げなければならない。
 しかもこの一年と数ヶ月という期間がくせ者で、中途半端なのだ。夏に植えて翌年の夏に収穫できればすぐ次の苗を植えることができるが、秋までかかるということは次の年の夏まで土地を遊ばせることになる。これでは良くないので泥田を分割して偶数年に苗植えするほうと奇数年に苗植えする方という具合に分けるやり方が確立した。今はさらに地力を回復させるため休耕田を設け、三分割された泥田をローテーションで使うようにしているのだが、これも実は厄介なのである。花芋は、柔らかく酸素を多く含んだ泥でないとよく育たない。だがしばらく使っていない田んぼは土が詰まってしまい、しっかり耕さないと栽培に適さない。しかも地中深くまで成長するので、しっかり深く泥をかきまぜて酸素を入れてやる必要がある。これは機械を使ってもなお難しい作業だ。
 このことが栽培を躊躇させる要因で、村内でも栽培している農家は少ない。そこで今は村が主導で作ることによって種の保存の栽培方法の伝承を行なっている。

 「ところで、どうだった今日?」
夕食後の団らんの時間。私が花芋についてネットで調べているそばで、真耶ちゃんが花耶ちゃんに話しかけた。
「えっとね、花耶はよく分からないけど、いつもより深くて濃いって先生言ってた。それで、明日は荒れるかもって」
話の内容はよく分からなかった。まぁ二人の間で意味が通じていればいいわけだからと思って聞き流していると、突然私に話が振られた。
「あづみさん、明日って空いてますか?」
まぁ、空いているといえば空いている。私は教育実習を終え東京に戻る予定だったのだが、ここ木花村での暮らしが気に入ったし、教員採用試験の勉強をするにも環境が良い。そのためしばらくこちらへの居候を延長させてもらったのだが、いつからいつまで勉強すると決めているわけでもないから予定を入れることは全然問題無い。勉強時間をずらせばいいだけの話だ。
「何かやるの?」
真耶ちゃんに尋ねると、ちょうど私が花芋のことを調べていたノートパソコンの画面を指さして、
「ほらこれ。花芋の田んぼはよく耕さないといけないってところ。機械とかじゃ出来ないからあたしたちが手伝うんですよ。と言ってもやり方は…」
そこまで言ったところで花耶ちゃんがさえぎるようにして話に入ってきた。
「それは見てのお楽しみ。あづみさんも見に来ればいいのに。花耶たちが下準備してるから明日はもっと盛り上がると思うよ」
どうやらユニークなやり方であるらしく、小学校の子たちは今日すでに作業を手伝ってきたらしい。さっき真耶ちゃんがどうだった? と聞いていたのはその時の様子を確認していたのだ。いわば花耶ちゃんは偵察といったところ。
「というわけで、あづみさんも退屈はしないと思うから、勉強の邪魔にならない程度でいいんで、見に来て欲しいです…」
真耶ちゃんが人にお願いをすることは珍しいことだし、その先に言いたいせっかくなので応じることにした。
「じゃあ努力の成果を見に行くとしようかな。朝は勉強したいから最初からは無理かもだけど、午前中には行くね」

 しかして翌日、天気は雨。普通なら外での農作業は延期か中止なのだろうが、真耶ちゃんは雨天決行だからと言い残して元気に出ていった。私は朝食の後片付けを手伝ったあと少し勉強してから出かけることにした。希和子さんに借りたワインレッドのレインコートを着込んで自転車に乗り込む。田んぼは中学校のある高台の真下あたりにあるので歩いて行くにはちょっと遠い。雨は相変わらず降り続けているがレインコートを着て自転車に乗ることにも慣れてしまった。場所は真耶ちゃんから聞いていた。いつもの通学路から目印となる交差点を曲がって道なりにしばらく自転車を走らせる。
 見に来て、という風に真耶ちゃんは言っていたが、私も手伝えたら手伝いたいと思っている。教育実習期間は終わってしまったので学校行事に参加していいものか迷うのだが、許可さえ出れば私も参加したい。だから一応レインコートの中にジャージを着ている。下はスカートだが現場で着替えられるようジャージの下も持ってきた。
 何やら行く先が騒がしくなってきた。道路から一段下がったところに何やら人だかりがしていて、ワーワーと声がする。耳を傾けると、がんばれー、とか、そこだーやっちまえー、とか、おおよそ農作業の手伝いには不釣り合いな勇ましい言葉が飛び交っている。専用の自転車置き場まで用意されていたのでそこを使わせてもらい、レインコートのフードだけ取って傘をさして人ごみの後ろを歩いて行くと、高原先生がいた。
「あら~あづみちゃんこんにちわ~、来てくれたのねありがと~。手伝ってくれるだなんて心強いわ~」
高原先生にしては珍しく、比較的シンプルなレインウェアを着ている。まぁそれでも真っ赤なのだが。
「先生こんにちわ。嬬恋さんに聞いて見に来ました。何か作業するというんで来てみたんですが、もし私もできたら手伝わせてもらえばと思いまして…ってすごく賑やかですね」
気持ちは前向きだ。だが周囲の雰囲気に圧倒されている。言ってみればお祭り騒ぎなのだ。高原先生もこんなことを言う。
「あ、でもやっぱやめたほうがいいかも~。まぁ農作業には変わりないんだけど、やるかどうか見てから決めてもいいんじゃないかしら~」
私は田んぼのあぜに案内された。その一角、幅が広くなっているあたりが観客席になっているらしく、椅子代わりにビールの箱や一斗缶が並んで、そこに人々が集まっている。私も空いている席の一つについた。

 「うりゃあああ!」
その瞬間、御代田さん、いやもう嬬恋さんを真耶ちゃんと呼んでいるのだから、彼女も苗ちゃんと呼んでいいだろう。その苗ちゃんがふたまわりは大きいであろう男子生徒を投げ飛ばした。
 泥田の真ん中に何やら円形のものが浮いていてその上に苗ちゃんはいる。どうやら土俵のようだ。土俵の外は泥の田んぼ。つまり、投げ飛ばされた男子は全身泥だらけ。
「こないだ相撲を体育の授業でやるかどうかで揉めてたのは何だったんだって感じだろ? まあこれはお遊びだしな。ちゃんと安全対策もしてるし」
いつの間にか渡辺先生が横にいた。なるほど土俵の上に立つ子はヘルメットをしている。ただ問題はそこではない。そもそも、これって何?
「多分嬬恋から、花芋を作る田を耕すって聞いて来たんだろ? もちろんそれは正解。でもこれ、運動会でもあるんだよ」
ん? 農作業で、それでいて、運動会?
 とか考えていると苗ちゃんの次の対戦相手が登場。今度は女の子だ。確か隣のクラスで、陸上をやっていて運動神経はバツグン、スポーツテストは校内トップレベルだと聞いている。
「はっけよ~い、残った!」
行司役の子の掛け声とともに二人がぶつかり合う。両者共に譲らないが、少しずつ苗ちゃんが土俵際に押し出される。それでも土壇場で持ち直し、そこから一気に土俵の中を動きまわる激しい相撲に。どちらが勝つか甲乙つけがたい戦況だったが、長い長い相撲の上、ちょっとの隙に決着がついた。
「きゃああああっ!」
泥の中に苗ちゃんの身体が落下すると同時に聞き覚えのある悲鳴。真耶ちゃんが両手を口に当てて心配そうに泥田の中を見つめる。泥の中からゆっくりと起き上がった苗ちゃんは、全身真っ黒なお化けと化していた。

 「くっそー! もうちょっと粘れたのになー」
全身泥まみれのまま顔を拭きもせず悔しがる苗ちゃん。
「ホント惜しかったよねー。ちょっと角度が違ってれば勝ってたのに」
冷静に分析する霧積さんこと、優香ちゃん。
「てゆか十人抜き出来なかったのが残念だよー」
「でも敵も一緒に田んぼに引きずり込んだのは一矢報いた感じじゃない?」
優香ちゃんが苗ちゃんの顔を拭いてあげているが、ヘルメットの中から泥がどんどん流れ落ちる。
 今行われた競技は泥んこ相撲。普通の相撲と違うのは、土俵に手をついても負けにはならないという点。あくまで相手を土俵の外、つまり泥の中に落とさないと勝ちにはならない。なんでそんなルールなのかといえば、泥の中に人が入らないとかき混ぜたことにならないから。
 「こうやって泥をかき混ぜるための競技がいっぱいあるんですよ」
と説明してくれる真耶ちゃん。いつの間にか一年B組の子どもたちが私の周りに寄ってきている。ゆうべ真耶ちゃんはこの運動会のことを私に教えようとしたのだが、その瞬間私をビックリさせようという花耶ちゃんの作戦が発動したのだそうだ。そしてその作戦は大成功したのだった。

 花芋を栽培するための田んぼは深い。人間が入ると腰やヘソまで平気で潜る。トラクターなどの機械では耕しきれないし、プロペラ的なものを一定のリズムでただ回すだけでは花芋が美味しく育つために必要な酸素を含んだきめの細かい泥はできない。これは夕べ調べたとおりだ。一番いいのは人力によってムラが出来るようなかき混ぜ方をすることだが、ここの田んぼは面積がそれなりにあるので人数も必要だし、何よりも水以上に抵抗のある泥をかき混ぜるのは相当な重労働。
 そこで考えだされたのが、子どもの有り余るパワーを利用するということ。もちろん子どもに労働をさせる訳にはいかない。それを解決する手段が、イベントにして楽しみながら耕すということ。ちょうど期末試験が終わったばかりで生徒も鬱憤バラシを求めている頃合いだ。
 まず前日に小学校の児童がかき回す。こちらはプール遊びの延長みたいなものでわりと平和に終わる。このときの様子が兄弟姉妹の関係などを通じて中学校の生徒に伝わり、翌日バトンを受けた中学生が本格的にほじくり返す。それが「泥んこ運動会」と称されたこのイベントだ。木花中学校は一学年二クラスなのでA組は赤、B組は白という具合に分かれて対抗戦を行う。
 「三大運動会の皮切りだからね。秋には普通の体育祭もあるし、冬になると雪が降るから今度は雪上運動会。今から楽しみなんだ」
顔だけはあらかた泥を拭きとった苗ちゃんが話しかけてくる。すでに敬語ではなくなっているが、むしろそれでいいと思っている。服装は体育用のシャツの下に競泳水着。ヘルメットは今は外している。競技によって必要な装備が違うのだそうだ。泥田の中では徒競走が行われている。これはヘルメットなどの装備は無し。だが泥の抵抗があるのだろう、ひどく進みが遅いし、転ぶ子もいる。
「だいたい着るものには無頓着な学校だけど、今日だけは服装規定が厳重なんだ。泥も平気なぐらいの重装備したらズルいだろ?」
渡辺先生曰く、苗ちゃんが今している服装が競技時の基本で、危険があるときだけヘルメットなどの装備を追加する。ウェットスーツなどを着ると泥で身体が汚れにくくなり精神的抵抗が和らぐので禁止。極力肌を出して、泥だらけになる条件を平等にする。観る分には楽しいのかもしれないが、やっている方は大変だろうな。

 昼休み。雨は上がったのだが皆レインウェアを着たまま。梅雨明けが近いといってもそこは高原地帯でまだまだ寒い。泥水にまみれた身体を寒さから防ぐにはこれが一番いいのだろう。
 私は一年B組の生徒たちが集うエリアに案内されていた。優香ちゃんが重箱でお弁当を作ってきてくれたのでみんなで食べているところ。もちろん花芋の漬物もある。嬬恋家のはまた違った味わいに仕上がっていて、その家々ごとに異なったレシピがあるようだ。
「これうちで育てたんですよ。うちもこれより全然小さいけど一応田んぼ持ってるから」
優香ちゃんの家は農家。花芋だけでなく自分の家でとれた野菜をおかずに使っている。新鮮なのでおいしい。
 それにしても壮観な風景だ。みんな全身泥まみれ。それでも何人かは一部にしか泥のついていない子もいる。
「あまり汚れずに済む競技もあるからな。泥だらけが嫌な生徒には人気だが、そういうのは点数が低いし、汚れるのを気にしていると良い記録が出ないようになってる」
渡辺先生はそう言うが、点数が低くて記録も悪いとしてもそういう競技を選びたい気持ちは分かる。私だって正直嫌だもの。ただ先生が、
「ま、最終的には皆気にしなくなるけどな。そのためのイベントが今から始まるぜ」
と言ってニヤリと笑う。その意味は程なく分かった。
 「よし、あそことあそことあそこ」
いつの間にか上級生数人が私たちの背後でひそひそ話をしていた。その中には家庭科部の二年生、篠岡美穂子さんと佳代子さんの双子の姉妹もいる。気づいて声をかけようとした私に二人はしーっと指を立てると同時に反対の手を上げて何か合図する。すると、
「かかれーっ!」
数名の上級生が、私たちの居る一年生エリアに走りこんでくる。美穂子さんと佳代子さんはクラスが違うのでそれぞれ赤組と白組に散る。慌てる一年生たち。
「逃がすな! とらえろ!」
何も出来ずオロオロする一年生たちの中から一人が、上級生たちに羽交い絞めにされた。その子はまだほとんど泥に漬かっていない子だったが、上級生の身体から泥が付いただけで顔をしかめている。うん、気持ちは分かる。
 だが当人はそれどころで驚いてもいられないようだ。その子は四人がかりで両手両足をつかまれると、運び出され、
「そーれっ!」
という掛け声とともに、
「ばっしゃーん!」
と、田んぼの中に投げ込まれたのだ。あわれ彼は全身真っ黒け。
「や、やば、って、ええっ?」
その様子を見て自分も危ないと気づいた子たちが逃げ出そうとするが、すかさず周囲の一年生が取り押さえる。どうやら一部の一年生はこのイベントを知らされているらしい。
「さっき言った理由で出る種目を見れば大体分かるんだよ。この時間になってもまだ泥で汚れていない者が。だからあらかじめ仲の良い運動部員に根回ししておいてな。逃がさないようにするわけだ」
今度の標的は女の子だ。ちょっと大人びておしゃれな子だったし、だからこそ泥まみれになるのは屈辱と感じるのだろうけど、今は無様にかつがれ悲鳴を上げている。
「や、やめ、い、いや、いやぁーっ!」
ばたついて抵抗しようにも手足を持って運ばれているので出来ない。結果なす術もなく、
「ざっぷーん!」
顔から泥田めがけて一直線。いったん全身が泥の中に消えたと思ったら数秒後浮上すると共に、
「…うわぁぁぁん」
泥で全面コーティングされた首だけを表に出し、泣き出してしまった。ちょっとというか、かなり可哀想だ。
 そのあとも何人か放り込まれた。ひと仕事終えて戻ってきた篠岡さん姉妹が私の困惑した顔に気づいたらしい。
「あ、別に憎らしいとかでやってるんじゃないですよ? 一年生には一種の洗礼みたいなやつ?」
「今は泣き叫んだりしてるけど、そのうち良かったって思えるようになるから。心配は要らないですよ? ちなみにあれも点数に加算されるから。全身泥に潜るのが最低条件で、それプラス飛距離に応じて得点が」
確かに体育委員が投げ込まれた子のところまで飛距離を計測している。投げ込まれた子はそれが終わるまでなるべく泥の中に滞在しなければならないので大変だ。しかし「そのうち良かったと思える」なんてことを言われてもにわかには信じられないが、誰もが笑っているし、投げ込まれた子達も無事救助されたのでとりあえず一件落着したと思うことにした。
 ちなみに両軍が勝利を必死で目指したご褒美が表彰式の後にあるのだという。勝軍の将、つまり先生を祭りあげるという名目で、田んぼの中に放り込むのだ。渡辺先生がレインウェアの中に着込んだ競泳用水着を私に見せながら、
「というわけで準備は万端だ。たぶんやられるのは私だからな」

 ところが。
 一人だけ、まったく無傷もとい無泥? の子がいる。それも不思議だが、その子の肩をポンポンと叩きながら、
「寂しいだろうけど、今は皆見てるから我慢しなよ? あとでいくらでも泣いていいから」
と慰めている子もいる。泥にまみれていないのならその幸運を喜ぶはずなのでは? そのへんの疑問をぶつけてみた。
「真耶ちゃん、なんかうかない顔だけど、汚れずに済んでてよかったじゃない?」
「いや、違うよ。真耶は…」
と横にいる苗ちゃんが答えようとしたのをさえぎって、真耶ちゃんが答えた。
「ああ、あたし運痴だから可哀想だと思って外してくれたと思うんです。気を使ってもらえて有難いですよね。あ、飲み物足りないんで買ってきます、あたし汚れてないし」
と言い残して去っていく真耶ちゃんの後ろ姿が、なんだか寂しかった。そして、
「あづみさんさぁ、真耶のあの様子見て気づかないんじゃ、先生失格だよ?」
いきなり厳しい言葉をぶつけられて、私は戸惑った。ただその意味はまだよく分からなかった。

 午後最初の種目はレスリングだ。これは午前の相撲と違って先鋒から大将までの五人による団体戦。柔道や剣道などのそれを元にしてはいるが独自のルールになっていて、例えば白組の先鋒が五人抜きで赤組の大将まで倒してしまっても良い。その場合は白組の一勝となるし、勝利に要した選手が少ないほど高いボーナス点が獲得出来る。しかしそこから次は二回戦が行われ、白組は再び先鋒から、赤組は同じ選手でもいいし新たな選手を投入しても良い。つまり二回戦以降は前の対戦で負けたチームほど有利になるというわけで、結果的にはおおよそ均衡した結果になるという。これで逆に白組のスタメンだった大将が負かされるまで競技は続く。ちなみに我らが白組からの選抜メンバー五人には苗ちゃんがいる。スポーツの得意な子は何種類もの競技に出るのだ。一年生では唯一だがそれだけ運動能力は認められているということ。ポジションは先鋒。
 これは相撲と違って最初からリングが泥の中である。レスリングといっても正式なルールではなく、相手の身体を抱え込むなどして首から下を泥の中に埋めた状態で三秒間キープするか、リングの場外に出したら勝ち。特別な装備としてはスイミングゴーグルと爪の長い生徒は手袋が必須。下半身を田んぼの中につけた状態で向き合う両軍の先鋒。すでに殺気立った雰囲気がある。
 ゴングが鳴って試合開始。早速両者相手をとらえようとするが手が泥でツルツルと滑りなかなか捕まらない。一見手袋をしている方が有利に見えるがそうでもないらしい。
「爪でお肌にキズついたら可哀想でしょ~? だから爪の長い生徒ちゃんには手袋つけてもらうんだけど、あれ滑る素材でできてるの~。素手のほうが相手を捕まえやすいんだけどそれには爪切らないといけないから~。オシャレのために不利な条件も引き受けるって、女の子の性よね~」
それにしても我が先鋒苗ちゃん、強すぎ。あっという間に大将まで倒してしまった。だがおかげで苗ちゃんの身体は全身泥まみれ。自分が泥の中に頭まで潜ってでも相手の身体をホールドすれば勝ちが手に入るので、その躊躇が無いのも強さの理由だろう。なるほど泥を嫌がらないほうが有利というのは納得だ。
 というか、気づいてしまったのだが。二回戦が始まってもなお、苗ちゃんは泥の中で真っ黒な姿のまま戦い続けるのだ。
「これって、勝ち抜いている人ほど泥まみれになるってことですよね…」
私の質問に高原先生がいつものにこやかな笑顔で答えた。
「そうよ~? 勝ったご褒美に真っ黒さんになれるの~」
いや、ご褒美じゃないと思う。

 「それにしても、なんで真耶ちゃんは出ないの? やっぱり運動苦手なのにかわいそうだから?」
さっきのグサッと来た一言が気になって、戻ってきた苗ちゃんに聞いてみた。
「うーん、やっぱ説明しないとわかんないかなぁ」
呆れたように苗ちゃんは、
「真耶も泥だらけになりたいんだよ」
とだけ言い残すと、次の種目に向けて集合場所へ向かう。やっぱりよく分からない。なんでわざわざ泥だらけになりたいとか思うの?

 さて、戦況であるが。
 今のところ赤組リード。白組は苦戦を強いられている。
「一年の御代田がエースってのはそれだけ我が方の戦力不足ってことでもあるのだよ。確かにあいつは抜群の運動神経ではあるがまだ成長途上だ。二年や三年が当てにするというのはそれだけずば抜けた選手が少ないってことだ」
渡辺先生にしては悲観的な見方だと一瞬思ったがそうではなかった。
「ま、運動会ってのはチームワークが大事だ。そのへん見せつけてやらないとな。お、あれは何か考えついた顔だな」
再び戻ってきた苗ちゃんと、一緒に戦っていた優香ちゃん。今度の競技は泥の中に設置された平均台やロープの上を歩いてゴールを目指す「泥んこバランスレース」。バランス感覚が必要なのは勿論だが泥で滑る上に敵チームが妨害しても構わない。苗ちゃんは見事クリア。優香ちゃんは赤組の選手を邪魔して失格させるのに大きく貢献した。二人が戻ってくると、例によって身体の泥を落とす間も惜しんで話が切りだされた。
「これは、苦渋の決断をせねばならんな」
「だねー。お友達ごっこやってる場合じゃない。勝ちにいかなきゃ」
ふたりは三年生のところに行くと何やら相談し始めた。そこには家庭科部の部長池田卓哉くんをはじめ、何人かの三年生がいる。白組の運営をある程度仕切っているのが彼らであるようだ。
 「何を考えついたんですか? 彼女たちは」
ん? という顔で渡辺先生は、
「いやだから、決まってるだろう。勝利のため、そして金子がさっきから気にしてる、嬬恋のためだよ」
真耶ちゃんが、どうしたのだろう? さっきからどうもそのへんがよく分からない。
「だからな?」
渡辺先生が私を諭すような顔になった。
「壁があるんだよ」

 「というわけで、今度の騎馬戦でエントリーの変更を行います。今から言う人は騎馬の編成に変更がありますのでそれに従ってください」
三年生の女子が説明にやってきた。騎馬戦は今までの種目と比べても参加人数が多いのでエントリー変更の影響は大きく、皆ざわざわとなる。
「静かに! 我ら白組を勝利に導くためのエントリー変更です! 参加したい人が出られなくなるということは無いから安心すること!」
その子の迫力と白組の勝利という決め言葉に皆シンとなる。その後ろで渡辺先生が私に耳打ちした。
「どうやら、壁が壊れたらしいな。勝つための編成替えというのは確かだが、もうひとつ目的があるはずだ」
そして一分ほどかかっただろうか。エントリー変更の告知は結構長く感じられたが、どうやら終わるようだ。
「…最後! 騎馬の人数が一人足りないところがありますが、御代田さんはいろんな競技に出すぎて疲労しているので最後のリレーに備えて休憩させます。そのかわりに」
ひと呼吸置いて、その名前が告げられ、それとともに再び皆がざわめいた。
「嬬恋さんが入ります!」

 泥の田んぼの中にズラッと並んだ騎馬。騎手のヘルメットには大きな花が付いている。これが花芋の花で、前年に咲いたものをドライフラワーにして保存しておくのだ。敵にこれを取られるとその騎馬は失格。一般に騎馬戦は危険な種目とされているが任意参加なのである程度運動に自身のある生徒が出る。また泥の中で派手な動きが出来ないことによりむしろ安全だし、騎馬が崩れる理由としては足場が悪いための自滅も多いので「交錯して転落し怪我」なんてこともない。だいいち下は泥田だから落ちても痛くない。それでも皆緊張した面持ちなのは、最後のリレーと含めて得点配分が高いので、白組が勝利に近づくには是が非でも落とせないからでもある。
 その中でもひときわ緊張が、それも他の子達とは明らかに違う緊張をしている組がある。騎手は先程のエントリー変更で急遽参加と決まった真耶ちゃん。顔がこわばっている。だがそれを支える騎馬の男子三人は、それ以上に硬くなっている。
「やっぱ思春期の男の子が女の子を上に乗せるってドキドキするわよね~」
といつもの天然なコメントをする高原先生。あれは四人とも男子ですよ、という突っ込みがいつもなら通用するんだろうが、今日はその気持になれない。あの三人が別の理由で緊張していることはわかるからだ。神使様をの身体を預かる、しかも突然のこととあっては硬くもなるだろう。もちろん苗ちゃんを体力温存のために下げて、かわりに男子の中でも体力自慢の三人を選んで足場を固めるという使命を受けた緊張感もあるが。
 号砲のピストルが鳴った。それとともに両軍の騎馬が一斉に動き出しお互いに襲い掛かる。結構激しい戦いなので全員ヘルメットとゴーグルと手袋必須。騎手は自分の花を守りつつ相手のそれを取ろうと必死だ。女子は尻込みするかと思いきや、頭上の花が綺麗なので騎手をやりたがる女子は多い。もちろん女子生徒同士とは言え、いや男子生徒が相手でも必死。そんな中白組の騎馬から騎手が引きずり降ろされた。泥田の中から浮上した騎手の女の子、花は無残にも真っ茶色。もちろん騎手が落ちた場合もその騎馬は負け。花は泥田に落ちてしまったのだが、これは拾われて取った側の陣営に飾られる。つまり花の数を見ればどっちがリードしているかひと目で分かる。

 ところが、一組だけその戦いから外れているというか、仲間に入れてもらえていない騎馬がある。
「な? 壁があるって言ったろ?」
ああ。ようやく合点がいった。真耶ちゃんの騎馬だけは、誰からも攻撃されないのだ。
「なんたって天狼神社の神使様だからな。そりゃみんな敬遠するさ。あいつと同じ小学校だった連中はそうでもないんだが、いかんせん少数派でねぇ。だからみんな遠慮があるんだよ。彼女たちの言葉遣いをよく聞いているといい」
言われてみて周囲の歓声に耳を傾ける。すると、
「嬬恋さん頑張って~」
「真耶さま素敵です、どうかご無事を」
「持ちこたえてくださいね、神使様!」
同級生に対して遠慮があるどころか、敬語を使って、しかも様付けの子もいる。そんな状況では泥田に落とすなど恐れ多くて考えられないだろう。
「敵の連中も、嬬恋をかついでいる三人も気持ちは同じだろうな。むやみに突っ込むわけにはいかないだろう。実際一人抜けたことで他の者に負担がかかっているのだよ。それでも嬬恋を外すのは、神のお子を泥で汚すなんて罰当たりだとみんな考えているのだろう。そういう特別扱いは嬬恋が一番嫌うことなんだがな。それに、泥も土も豊かな実りをもたらしてくれる尊いものであるのに」
「私は、真耶ちゃんが運動できないから参加を免除してもらえてるんだと思ってました」
自分への弁解もあったろう。そんな感想を述べてみたが、当然先生の返答はそれを否定するものだった。
「実際建前としてはそうだ。ホームルームで出る種目を決めたとき嬬恋を外した理由はそれだったんだよ。でも嬬恋以外にだって運動の出来ない女子はいるんだ。考えてみろ、さすがに身体は男だぜ嬬恋だって。ダントツで運動音痴なんて中一となってはあり得んよ。他にも運動が苦手は女子は正直いる。でも彼女たちは全員出場してるんだ。第一、頭数は一人でも多いほうがいい。だからあくまでこれは勝利を考えてのエントリー変更でもあるんだ」
勝利。その言葉を聞いて私はちょっと意地悪なことを思ってしまった。みんなが真耶ちゃんに遠慮しているということは、戦わずして勝ち残れるんじゃないか? でもそれは真耶ちゃんにとって一番寂しいことだろう。この運動会を最初見た時、みんな泥だらけになんかなりたくないんだろうと思ってたし、そうされるのは一種の罰ゲームに感じていると思ってた。が、こうみんながみんなが泥んこになっている今、生徒で一人だけ綺麗な身体の真耶ちゃんは浮いていると言わざるをえない。
「真耶も泥だらけになりたいんだよ」
苗ちゃんの言葉が心にずんとのしかかってきた。そして渡辺先生の一言も、だ。
「嬬恋は、いまだ仲間に入れてもらっていないってことだ」

 「どちらかの騎馬が全員負かされるか、規定の時間を越えたら試合終了」
これが最終的な勝敗決定のルール。試合は接戦であり、赤組の騎馬が倒されるとすかさず白組も反撃、と言った具合で経過している。泣いても笑っても時間が来れば勝敗は付く。
「ねえねえ、このまま真耶さまの騎馬が逃げ切ったら、うちら絶対有利だよね?」
さっきの私と同じ事に気づいた生徒が何名かいるらしく、そんなひそひそ話が聞こえる。しかしそれは真耶ちゃんにとって嬉しい勝利なのか? もちろん真耶ちゃんは、口ではこう言うと思う。
「あたしが我慢したことで白組が勝てるなら」
でもそんなの、本当の勝利と言えるのだろうか。特定の誰かをおみそにすることで得た勝利に、意味はあるのだろうか。私と同じ気持ちでいると分かるのは苗ちゃんと優香ちゃんだが、このまま真耶ちゃんの不戦勝を願うクラスの空気の中で完全にふくれっ面だ。
 試合時間半分経過を告げる放送が入った。が、そこで放送は終わらなかった。
「試合を一時停止します! それぞれの騎馬は、今の位置で待機してください!」
何だろうと思って放送席を見る。放送席は本部席と同じテントなのだが、そこで何やら揉めている様子が見える。その中には篠岡美穂子さんの姿。彼女は赤組だ。
 「これは…ほほう、そういうことか。佳代子が美穂子に相談したな? 生徒たちの決め事に教師が介入するのも野暮だと思っていたからホームルームの時以来ずっと静観してたんだが、やはり自浄能力が働いたかもしれん」
渡辺先生の言葉の意味は分からなかったが、程なくもめていた輪が解け、再び放送が入った。
「審判団よりお知らせします。戦闘に参加していない騎馬が一騎ありますが、これはルール違反ですので、今後この状態が試合終了まで続いた場合、該当する騎馬は失格といたします。また他の騎馬につきましても、該当の騎馬に対戦せざるを得ないのに消極的な姿勢を見せた場合、警告もしくは失格といたします」
沈黙は一瞬だった。程なく白組サイドからはブーイングの嵐。それはそうだろう、戦わずして一騎キープできるという目論見が崩されたのだから。結果的に味方を裏切った形になった佳代子さんは知らんぷりをしている。一方苗ちゃんと優香ちゃんはこっそり二人で親指を立て、
「運営グッジョブ」
とつぶやいた。

 要は相撲で言う「無気力試合」や柔道の「積極的戦意の欠如」といったものと同じ発想だという。ヤル気がなく逃げまわるだけというのは卑怯とみなされるルールがあるのだ。なぜ佳代子さんがそれに気づいたのかといえば、体育の授業でどんな武道をやるのかで高原先生が迷っていたので、家庭科部が実際色々な武道を体験してみたことがあった。そのときルールなどを勉強して覚えていたのだ。で、今回真耶ちゃんが騎馬戦に出ると決まった時に直感した。同じ事になると。慌ててルールを確認するよう本部に行く。本部には体育委員以外にも生徒会が詰めており、その会長屋代さんと副会長岡部くんは家庭科部とも親しいというか岡部くんは家庭科部員でもある。彼らの助言もあり大会ルールが確認され、違反と認定されたのだった。これで真耶ちゃんも他の皆と同じように競技に参加できる、真耶ちゃんをよく知る子達全員がそう安堵したはずだ。
 だが、そううまくも行かなかった。真耶ちゃんたちの騎馬は主戦場へと突っ込んでいったが、そうするとまるでモーゼの奇跡のように他の騎馬が散ってしまう。それでも反則の笛が鳴ると一応向き合いはするが手を出してヘルメットの上の花を取ろうとする手がいかにも形式的だ。だから逆に真耶ちゃんが敵の騎手のヘルメットに手を伸ばすとアッサリ届き、花を取ることができてしまった。
 白組の応援席は沸いたが、真耶ちゃんに親しい側は当然複雑な表情をしている。
「あんなので嬉しいわけ無いじゃん」
苗ちゃんが小声でつぶやいた。その通りだ。もっと真剣に勝負してほしい。しかしそんな私たちの願い虚しく状況は変わらない。決して赤組が勝負を捨てたわけではなくて、役割分担が巧みなのだ。弱い騎馬にうまいこと真耶ちゃんたちの騎馬をあしらわせつつ、強い騎馬が白組の騎馬を倒しまくっている。そのせいでいつの間にか白組は劣勢に立たされる。次々と頭上の花は奪われ、騎手が泥の中へ沈んでいく。
 いつの間にか白組は真耶ちゃんたちの騎馬だけになってしまった。赤組はまだ三組残っている。いよいよ追い詰められた感があるが、真耶ちゃんの顔が心なしか明るくなった気がする。それもそうだろう。残りの騎馬が自分たちだけとなれば、必然的にガチバトルに雪崩れ込む。勝っても負けても全力をつくす。そう思っているに違いないのだ。
 だが、しかし。

 「残り時間一分です」
放送の声が虚しく響いた。これでは大したことは出来ないし、すでに赤組は白組最後の騎馬をやっつけることなく勝利を手にする準備に入っている。三組が交互に、ある騎馬が後退すると別の騎馬が、その騎馬が後退するとまた別の騎馬が、といった具合でお互いトドメを刺せないが無気力試合でもないといった微妙なバランスを作り出しているのだ。
 実は敵方の騎馬を全滅させるとボーナス点が入る。赤組からすれば真耶ちゃんの騎馬を倒したほうが勝利に近づくに決まっている。にもかかわらずそれをしないなんて。正直、そこまでして真耶ちゃんを腫れ物扱いするのかと、腹立たしくすらなってきた。
 と、その時。
「!」
真耶ちゃんの身体が、泥田めがけて落ちそうになったのを、騎馬の三人が必死で受け止めた。
 いや、落ちたのではない。自分から飛び降りたのだ。真耶ちゃんは泥の中へのダイブは阻止されたものの、騎馬から騎手が落下したということには変わらない。誰も声を上げられなかった。騎手が自ら負けを選ぶという前代未聞の事態。しかもそれをやったのが、人一倍他人のために尽くそうとする気持ちの強い真耶ちゃんとなれば、驚きは一層である。
 しばらくの沈黙ののち、
「真耶、そこまで思いつめて…」
と、渡辺先生が小声でつぶやくと、頭を抱えてしゃがみこんだ。いつもは公私混同しないようにと基本苗字で生徒を呼んでいる先生が名前で真耶ちゃんを読んだことから、冷静さを無くしているのが分かった。

 いったんすべての騎馬が引き揚げさせられた上で、長い審議が行われた。裁定が下るまで数分だったと後から聞いたが、そのときは数十分にも感じられた。
「審判団よりお知らせします」
そのアナウンスがされた時、誰もが同じ事を願っていたであろう。今のは無かった事にして競技を再開してくれと。私もそう強く念じながらスピーカーに耳を傾けた。
「ただいまの騎手の行為についてお知らせします。騎手自身が騎馬を飛び降りたという前例はありませんが、騎手が落とされたら負けというルールはあります。よってこれは」
アナウンスをする放送委員の子の声が震えている。
「自分で自分を落としたと解釈し、該当の騎馬を失格とします。よって…すべての騎馬を失った白組の…負け…と…赤組には…敵の騎馬を…全滅させたボーナス点が…」
敗北したことを改めて知らされた白組の誰もが、言葉を発することが出来なかった。だが赤組からも勝どきの声は一切上がらなかった。

 その後のリレーで白組は善戦するも一歩及ばず、総合得点で赤組に勝利することは叶わなかった。騎馬戦で赤組に与えられたボーナス点が無ければ勝てていたほどの微差であった。つまり、真耶ちゃんが自ら失格を選ばなければ勝てていただろうということだ。
 表彰式の後、赤組の生徒たちが先生をとっつかまえて泥の中に放り込むお約束もなかった。もっともそんな重い空気を取り払いたいとばかりに、誰が言い出すでもなく次々と生徒たちが田んぼに飛び込む。これも毎年恒例だから、せめてこっちだけでもってことなのだろう。すでに三年生までみんな泥だらけ。さっき嫌々放り込まれた子も今は進んで泥に飛び込んでいる。
「さっき一年から何人か投げ込まれたろ? 荒っぽいけど、一度汚れちまえば抵抗感無くなるからな。これでみんなと遠慮無くはしゃげるってことだよ」
渡辺先生の説明する声にはいつもの勢いがなかった。泥だらけになることで、みんな仲間になれるのだろう。でもだとしたら、ただ一人「キレイ」な身体をしている子の立場は…。そしてそのことには皆気づいているはずだ。
 だから私には、彼ら彼女らの笑顔が取りつくろったものにしか見えない。

 「何とかしてあげたかったんだけど…」
いつも語尾を伸ばしてのんびりしゃべる高原先生が、スッパリと言葉を引き取った。誰かに負かされたわけではない。だから何とか今のは無しにしてあげたい。それは人情だと思う。でも。
「ルールはルールだ」
冷たく言い放つ渡辺先生の言葉が真実だと、私も思う。そしてそういう先生の口が震えていたところに、心のなかの苦悩が現れている。
 田んぼのそばには即席のシャワーが一台しか無いので、生徒たちは坂道を登って中学校に戻り、泥を流す。家が近い生徒の中には上にレインウェアを着た状態で帰宅して、自宅で身体を洗う子もいる。
 だがそもそもシャワーを浴びる必要の無い生徒が一人だけいる。
「真耶ー、帰るよ?」
苗ちゃんと優香ちゃんがやってきた。二人とも家まで結構距離があるのだが顔と頭の泥を拭いただけでレインウェアを着ている。すぐ帰れる真耶ちゃんを待たせたくないという配慮だろう。でも私の脇にちょこんと座る真耶ちゃんは、うつむいて答えた。
「今日は、あたしに話しかけないほうがいいよ」
苗ちゃんが一瞬気色ばんだ。だが優香ちゃんがそれを止めると目で合図する。苗ちゃんはそれで悟ったのだろう、
「ごめんね」
とだけ言い残してシャワーを待つ列についた。
 残された私は、真耶ちゃんに何も話しかけられなかった。しばらくの沈黙ののち、真耶ちゃんの方から口を開いてくれた。
「あたしと一緒にいると、苗ちゃんや優香ちゃんまで嫌われちゃうから」
瞬間、瞳の奥がツンとなった。すべての責任を自分が一人でかぶるつもりだと分かったのだ。
 おそらく真耶ちゃんは自分のせいで負けたことで責任を感じているし、みんなは自分のことを恨んでいる。そう思っているのだろう。でも私はそう思いたくない。皆が皆、真耶ちゃんをそこまで追い詰めたことを悔やんでいるし、責任を感じていると信じたい。

 「キー子には連絡したよ。仕事終わったからすぐ迎えに来るそうだ」
真耶ちゃんは希和子さんの到着を待って一緒に帰ることになった。こういうときは保護者に任せるのが妥当だという渡辺先生の判断だ。それまで保健室での間、真耶ちゃんは休むことになった。私が付き添ったが、相変わらず何も言えなかった。
 しばらくして希和子さんが迎えに来た。宮司の格好のままなので法事を終えてすぐ駆けつけたのだろう、タクシーを待たせたまま駆け込んできた。希和子さんと真耶ちゃんと私でそのタクシーに乗り込んで帰宅。途中ケーキ屋に寄ったが、あれ美味しそうとおねだりする真耶ちゃんが、無理に元気さを装っているようで痛々しかった。

宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第五話

 重い終わり方になってしまいました。当初計画では真耶が突然騎馬戦の騎手に指名されるところまでは同じなのですがそのあと真耶が大活躍の末勝利する予定でした。しかし書いているうちにだんだん変わってきて、真逆の結末になってしまいました。ものを書いているとこういうことはよくあるんですね。そういう時は大体横道にそれたままで行っちゃったほうが面白くなる気がします。
 今回の泥んこ運動会ですが、田植えのシーズンになると水を引いた田んぼの中で駆けっこをしたりバレーボールをしたりするニュースが流れるので、それにヒントを得てそこからどんどんエスカレートさせたものです。本来、新たなスポーツを考えついたときはそのルール説明に字数を割くべきなのでしょうが、リズムとかを考えて割愛しました。苗ばかり泥だらけになっている気がしますが、スポーツが出来るという設定のせいで運動会では活躍するのだ、ということにしておいてください。

宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第五話

村のはずれの神社に住まう嬬恋真耶は一見清楚で可憐な美少女。しかし居候の金子あづみは彼女の正体を知ってビックリ! 期末テストの鬱憤も溜まっている時期に農作業の手伝い? でもそのやり方は過激かつユニークなものだった。思春期の有り余るパワーが発散される中、憂鬱な感情に支配される子が一人だけ…。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-10

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