さよならの続編
「プロローグ」
太陽が照りつける。ザ、ザ、と砂利道を進んだ。
***
ジリジリジリ―と、けたたましく部屋中に鳴り響いた騒音は、彼の眠りをひどく邪魔した。騒音の正体は、学生にとっては必需品とも言える目覚まし時計である。
うーん、と不機嫌そうに唸りながら、彼はカチリと目覚まし時計を止めた。そして再び、モソモソと布団の中に潜り込む。
彼にとっては、二度寝は日常茶飯事なことであった。
再び彼は夢の中へと舟をこぎ始めていたのだが、恨めしいことに今度は携帯電話の着信音が眠りを妨げる。
くそ、とか、うぜえ、など(彼の寝起きは最悪)と、ぶつぶつ念仏のように呟きながら彼は電話に出た。その表情は、目覚まし時計で起こされた時よりもずっと不機嫌さを増している。というか、不機嫌は軽く通り越しているようにさえ見えた。
それくらい不機嫌だった彼の声のトーンは、勿論かなり低かったのだが、電話の相手はそれを気にする風もなく、そしてあまりに軽かった。
『その感じだと、お前、絶対今二度寝しようとしてたろ。ったく、なんの為の目覚まし時計だよ…』
「…うるさい。それで、用件は何」
『うるさいってお前なあ…はあ、まあいいか。お前、おにぎりの具材、梅とツナならどっちがいいよ?』
ふむ。
まあ、なんというか、全くもって良く出来た幼なじみであると、つくづく彼―改め赤崎静はそう思う。
赤崎が低血圧で、早起きが絶望的なまでに苦手であるとわかっているくせに、電話の彼はこうやって毎朝眠りを妨げてくるのだ。しかも、毎度の如く謀ったようなタイミングで。それはもう、不機嫌もレベルアップするというものだ。
だが、赤崎も赤崎で彼がこうして電話をくれなければ、確実に寝過ごして学校に遅刻してしまうだろうという自覚があるのもまた、確かである。
それに加え、弁当の中身やおにぎりの具材を選ぶ時は、連絡してくれと赤崎の方から言っているのだ。文句の言いようがない。
だからたとえ、幼なじみに多少の悪気があったとしても、その悪気に助けられている赤崎は何も言えないのだ。不機嫌はレベルアップする一方である。
えーと、それで、電話の内容はなんだっただろう。赤崎は頭を捻った。
「…ツナ」
そう、おにぎりの具材の話だ。それにしても、具材が梅かツナかの二択だなんて、今日は随分バリエーションが少ないなと赤崎は思う。というか、その二択なら赤崎が後者を選ぶことくらい、わかっていて良さそうなものである。伊達に幼なじみをやっていないのだから。
それでもこうして律儀に連絡をくれるのが、この幼なじみではあるが。
電話越しに「りょーかい」と言った幼なじみの声を聞いた後、「じゃあまた」と言って赤崎は電話を切った。そして、自然と言うにはおこがましいほどの壮大な溜息を一つ。
彼の二度寝は常であったが、それがまるで謀ったかのように妨害されてしまうこともまた、日常茶飯事なことであった。
未だに布団の中でぼうっとしていた赤崎であったが、やがて諦めたかのようにもう一度溜息をつき、布団から脱する。そして、マイペースに学校へ行く準備を始めた。
欠伸をしながら一階に降り、洗面台の前で歯を磨いて、顔を洗って黒い髪を適当にいじってから、リビングに放り投げてある制服に着替えると、もう七時近かった。
彼は、「おはよう」とは決して言わない。
この家には、早く飯を食べろと台所に立つ母親も、ネクタイをしめて新聞を読む父親もいない。ならば一体、誰に「おはよう」などと言えばいいのか―言えというのか。
赤崎は冷蔵庫から、昨日あの良く出来た幼なじみが作り置きしていった、肉じゃがと焼き魚を取り出して適当にレンジで温めると、味噌汁を火にかけた。それと平行して茶碗にご飯をよそう。
“独り”という、莫大な寂寥感にもすっかり慣れた高校三年生の彼は、今日も一人で食卓につく。
「いただきます」
これが彼の、朝の風景だった。
序章 「日常」
「―か、―い…―ずか」
あまりよく聞き取れないが、誰かがとてつもない至近距離で声をかけてきたことが、赤崎にはわかった。机に突っ伏して惰眠を貪っている赤崎だったが―声を聞けば、おのずとそれが誰なのか、わかる気がした。肩を揺すられ、思わず眉間にしわが寄る。
声は次第に大きくなり、眠りを邪魔されたくない赤崎としては、もはや雑音以外のなにものでもない。…のだが、相手が相手なだけにそう思えないでいるのが現状だった。
そしてまた、この声に起こされると気分を害されないことも現状である。
無機質な電子音で起こされる朝とは違い、不機嫌な唸り声は出てこない。
「ん…んー…ん?」
「お、やっと起きたか…うわっ」
とてつもない至近距離、ということはわかっていたのだが、まさか覗き込むような体勢で彼が側に立っているとは思っていなかったので、頭を上げた赤崎の後頭部と彼の顔面は、見事に噛み合ってぶつかった。
顔面に大ダメージを受けた相手は、声にならない声を上げて顔を両手で覆う。対して赤崎の方は、相手方のようなオーバーリアクションはせず、ただ後頭部を押さえて「痛い」と呟くだけだ。
「痛いはこっちの台詞だろうがこのアホ!」
「…いや、うん。…ごめん?」
「なんで疑問系なんだよ!」
珍しく素晴らしい寝覚めだったというのに、何故起きて早々怒鳴られなければならないのかと、赤崎はわざとらしく溜息をつく。
「ったく…溜息つきたいのはこっちだっつうの」
「溜息をついたら幸せが逃げるんだよ、知らないのかい?」
「お前が元凶だろうが!つうかその台詞、そっくりそのままてめえに返す!」
今日はまた一段とやかましいなあ。きちんとカルシウムを取れているのだろうか。全く、毎日毎日その怒鳴り声に付き合わされるこっちの身にもなってほしい。
と、そんなことを内心でぼやいた赤崎であったが、第三者からしてみれば、それはもう色々とつっこみどころ満点の、自分勝手な言動であったに違いない。
未だぼやけている視界の中で、赤崎は目前の彼を見上げた。
―実際、溜息如きで。
こいつの幸せは逃げたりしないんだろうな―と、頭の隅で赤崎は思う。
目前の彼は、そういう男だった。
溜息一つで一生分の幸せが逃げてしまいそうな、赤崎とは違って。
「…おはよう、祭」
「スルーかよ。お前って、なんでこう、そうなんだろうな…まあいいや。おそよう」
呆れたように脱力感を漂わせた彼は、そう言って赤崎の頭を撫でてきた。何故その手を払い除けようとしないのか、実を言うと赤崎自身にもよくわかっていなかったりする―というより、認めたくないだけかもしれないが。
「おいこら、寝んな」
「…わかってるよ」
赤崎は眠気覚ましに軽く目をこすり、クリアな視界でもう一度彼を見た。
そこにいたのは予想通りの人物で。
緑間祭―今朝、赤崎の安眠を妨害した幼なじみと同一人物である。
特徴は、これは地毛ですと言っても全く相手にされない、蜂蜜を焦がしたような綺麗な茶髪と、くりくりとした二重の目だろう。
もう一つ付け加えるとすれば、右腕の“生徒会長”の腕章。
そう、彼はこの学校の現生徒会執行部会長様である。
そしてちなみに、赤崎は副会長というポジションに居座っていたりする。右腕には “副会長”の腕章が安全ピンで留められているのだが、緑間と同じと言うにはあまりによれよれで、皺がついている。
何故、見るからに向いていないだろうと思われる赤崎が副会長なのか―それは、この高校のとても理不尽な生徒会役員選挙のせいであった。あんな決まり事さえなければ、副会長という腕章が赤崎の腕に巻かれることはなかったのだが。
まあ、その話はとりあえず横に置いておくとして。
「起こしに来たってことは…もうそんな時間なんだ」
「午前の睡眠は如何ほどで?」
「最高」
「嫌味にしか聞こえねえよ」
とにかくほら、行くぞ。と若干急かすような言い方で赤崎を促す緑間。その手には、お弁当箱の入った赤と緑の巾着袋が二つ。赤い方が赤崎の今日のお昼ご飯である。おそらくツナのおにぎりもあの中に入っているのだろう。
赤崎のお弁当を作っているのは、母親でもなければ父親でもなく、まして自分ということもなく―そう、目の前にいる幼なじみだった。
一人暮らしのくせに、赤崎はほとんど家事ができないから。
―それでも、好きで一人暮らしをしているわけでは、ないのだけれど。
良くできた幼なじみは、放っておくと餓死しそうで怖いという、あながち冗談とも言えないような理由から、こんな風にお弁当を作ってくる。
しかも、頻繁に(むしろ毎日)赤崎の家に遊びに来るので、晩ご飯と簡単な朝ご飯も作ってくれる。
緑間の作る料理はとてもとても美味しいので、赤崎としては、良くできた幼なじみを持てて幸せだなあと思うばかりだ。
「あんま遅くなると、またあいつらうるせえぞ。ほら、さっさと体を動かしやがれ」
「わかってるって…今日はどっち?」
どっち?というのは、“屋上か生徒会室か”という意味である。彼らを含めた六人は、いつもそのどちらかの場所で昼食をとっているのだ。
「今日は天気も良いし、屋上だろ」
そんな会話をしながら赤崎はゆっくりと腰を上げ、緑間と一緒に昼休みでざわついている教室を足早に出た。
屋上に向かうべく、教室を出て左折した彼らは三階へ上がる階段に向かう。この学校は四階建てで、屋上に行くにはその更に上へ上がらなくてはならない。
ちなみに四階には一年生、三階には二年生、二階には三年生の教室がある。
「今日って体育あったっけ?」
「おー六時間目にな。気合入れろよ、今日はドッチボールだからな」
「安心してよ。体育だけは真面目にやる。体育だけは」
「…なんでそう、嫌味ったらしく繰り返すかな」
緑間が、心底げんなりとした表情で赤崎を見やる。まあ、彼がこんな顔をしたくなる理由は、十分に頷けるものだった。
なんせ赤崎静という男は、授業をまともに聞かない(というか居眠りをしている)にも関わらず、(大して勉強もしていないくせに)万年学年首位なのだから。全教科百点満点という偉業を達成したことさえある。
勿論、というかなんというか、色んなことに無関心な上、適当でめんどくさがり屋な赤崎自身は、そこまで成績に固執してはいないのだれど。
そして緑間祭は、万年学年二位である。
彼は、才能を磨く必要のない天才とは違って、努力家だった。考査前には、寝る間も惜しんで勉学に勤しむことも少なくない。
だが、未だかつてこれが報われたことはなかった。緑間の前には、いつだって幼なじみという壁が立ちはだかっているからだ。げんなりとしない方がおかしい。
「はあ…なんでこんな奴が俺より頭良いんだよ。神様って不公平だ…」
「神様っていうのは不公平なものなんだよ」
ようやく(と言う程でもないが)、三階へ向かう階段に辿り着いた。現在地が二階なので、四階のそのまた上にある屋上へはまだ大分遠い。体力があまりない赤崎には、これが結構きつかったりする。
「?何立ち止まってんだよ」
「…いや…別になんで……も!?」
も!?と同時に赤崎の視界がぶれる。どうやら緑間の方もそうらしく、「うわっ」と声を上げた。本日二度目である。リアクションのボキャブラリーが少ないなあと、呑気にそんなことを赤崎は思った。
「はろー!静、祭!」
事の元凶である人物が、そんな風に挨拶をしてきた。
この“ある人物”こそ、緑間に「うわっ」などという、情けない声を上げさせた張本人である。
水沢青子―この二人の同級生、かつ幼なじみであり、今しがた後ろから勢いよく彼らの肩に腕を回した人物であった。
「はろー青子」
「よーっす」
年頃の男女の体がこんな風に密着している状況というのは、おそらくそれなりに思うところがなくもないはずなのだが、赤崎と緑間は平然と挨拶を返した。まあ彼らとしても、思うところがないこともないのだが―彼女のスキンシップには慣れてしまっているのだ。それこそ、羞恥を感じないくらいには。
伊達に幼なじみをやっているわけではない。
「よーっす、じゃないわよ。お昼は一緒に食べたいから誘ってって、いつも言ってるでしょ。それなのに、どうして!この私を、華麗にスルーして屋上に行こうとしているわけ?」
水沢青子。前述通り、彼女は赤崎と緑間の幼なじみという立場にあり、そんな幼なじみが贔屓目に見なくとも、「プリンセス」と呼ばれるに相応しい容姿を持つ、この学校のマドンナ的存在である。
文武両道容姿端麗、大人っぽい雰囲気に近寄りがたい印象を抱くものの、その反面時折見せる(らしい)無邪気な笑顔に、幼なじみである二人でさえドキッとしてしまうことが多々ある。
気さくで物怖じせず、頼れるお姉さんとして女子からの人気も熱い。男子からの人気は、言わずもがなである。
肩に回されていた腕が退くと、今度は無理矢理二人の間に入り込んで、彼女は半ば強引に腕を組む、という態勢を取った。いい歳した高校生三人が、仲良く腕を組んで歩いているこの光景は、一体どれだけの人に珍妙に見られたのだろう。
こういった、大胆かつ豪快で、TPOを考えないその性格もまた、彼女の長所と言えなくもない…かもしれない。まあ、羞恥を感じないくらいには、青子のスキンシップに二人も慣れているつもりなので、今更動揺だなんてみっともないことはしないし、どれだけの人に奇怪な目で見られようと、気にするような三人ではないので、そのまま仲良く屋上へレッツゴーということになった。
「あのなー、俺は静の面倒を見るのでいっぱいいっぱいなんだよ。第一、誘わなくても来るくせに今更何を言うか」
「何よその言い方。会長様は私に来てほしくないのかしら?」
「誰もそんなこと言ってないだろ。あと、“会長”って呼ぶならもっと俺を敬えよ、書記殿」
―そう、彼女もまた、生徒会執行部役員の一人である。
役職は書記であり、その容姿にみあうだけの、見た者全員が見惚れるような字を書く彼女には、ぴったりの役職であると言えるだろう。
そんな彼女は、絵になるほど美しい動作で溜息をつき、残念そうな表情で言った。
「はあ…昔はもっと素直で可愛かったのになあ、祭。青子悲しい」
その、あまりに盛大な溜息に、うんうんと頷いたのは赤崎だ。
「可愛いなんて言われても嬉かねーよ…つーか、なんでお前まで頷いてんだおい」
「この中で一番泣き虫だったのはまつ…」
「はいはいはいはいストーーーップ!お前今何を口走ろうとした!?俺の黒歴史を掘り起こすなよ!」
「私はあの頃の祭も好きよ?」
「うっせえ!俺は大嫌いだ!」
拗ねたようにふてくされる緑間を他所に、くすくすと赤崎と青子は笑った。
長い階段を登り終えた三人の目の前にあるのは、屋上へと続く古びた扉だ。流石に三人が並列して通れるほど大きな入り口ではないので、青子は仕方なくといった風に腕を解き、緑間・赤崎・青子の順に一列に並ぶことになった。
先頭の緑間が古い扉のドアノブに手をかける。ギィイ、錆びついた音を立てて重い扉が開いた。
そして緑間を先頭に、一行は屋上へと足を踏み入れた―その時。
何かが、勢いよく緑間にタックルをしかけたのだ。
「ぐは…っ!?」
「もー遅いですよー!一体どれだけ待たせれば気が済むんですかー!」
彼の後ろにいた二人は、まるでそれを予め察知していたかのように素早く左右に散り、二次災害を免れる。
緑間はと言えば、咄嗟の判断でほぼ反射的に受身を取ったらしく、そこまでの損傷はないようだったが、それに負けず劣らず、タックルをかましてきた何かの勢いはすさまじかった。そのまま一緒に、コンクリートのタイルに強かに背中を打ちつけた。
まあ、強かに背中を打ちつけたのは緑間だけで、タックルを仕掛けてきた張本人は、彼の体がクッションになったおかげで無傷なのだが。
「痛ってえ!」
と声を上げる緑間を放置し、タックルをかましてきたその人物は、次なる攻撃をしかけてくる。ポカポカと、緑間のことを叩いたのだ。
「ぎゅるるるーって!女の子にそんな大音量でお腹を鳴らさせるなんて、どんだけデリカシーないんですか!?」
「ちょって待てそれって俺のせいなの!?理不尽すぎんだろ!」
大音量で鳴る、お前の腹の虫が悪いんだろうが!と、緑間が続ける。どちらの言い分も、大概理不尽であることに違いはなかった。
「そういうことを平気で言っちゃうから、デリカシーがないって言ってるんですよ!そんなんだから先輩はいつまで経っても―」
と、彼女が言ってはならない(と思われる)一言を口にする寸前で、別の人物が割って入った。
「ストップ!それ以上はダメだって琴乃ことの!仮にも祭さんは、僕らの先輩なんだから!」
…仮にもって。
正真正銘の先輩ですよこんちくしょーめ。
そんな緑間の心の声が、おそらく幼なじみの二人には聞こえただろう。最早同情の余地しかない。
「…響ひびき。助け舟を出してくれたのは嬉しいんだけどさ…その言い方はあんまりじゃねえの…?」
ようやく琴乃の攻撃が止み、ほっと息をつくところなのだが、“仮にも先輩”という一言は、割りとぐっさり緑間の心を傷つけた。
響と呼ばれた彼は、未だにポカポカと緑間を殴る人物―琴乃の両手をがっちり拘束し、それからわたわたと慌てだす。
「あ、ち、違うんですよ祭さん。そういう意味で言ったわけじゃ…!」
「いや、いいんだ別に…俺ってこんなだもんな。うん、仕方ない…つうか、静も青子も、黙って見てないで助けてくれてもいいんじゃね?」
幼なじみでありながら、幼なじみのピンチをただ呆然と眺めているだけなんて薄情すぎる。そんな緑間の心情を瞬時に察知し、顔を見合わせた二人は揃って「ごめん」と謝った。
「「なんか楽しかったから、つい」」
お前ら全然悪いと思ってねえだろおおおおおおおお。
と、力の限り叫ぶ緑間を他所に、二人はくすくすと笑うのだった。
響は緑間から琴乃をベリっと剥がし、涙目で「俺って可哀相…」と呟く先輩に対し、すいませんと深深頭を下げた。彼女の尻拭いはいつも響の仕事である。
「昔から加減ができないものですから…大丈夫ですか?背中とか…」
「とりあえず俺の心が大丈夫じゃない」
この学校の二年生には、悪い意味での有名人が二人いる。どうしようもない問題児だ。―いや、問題児だった、というべきか。
現在その二人は「白金ツインズ」と呼ばれ、手のかかる双子としてその名を学校中に轟かせている。
例えば入学式当日、派手に登場した方がかっこいいんじゃね?という見解から体育館の窓を蹴破って現れたり。例えば調理実習の時間に作った料理を、授業中にも関わらず先輩のクラスに持っていったり。例えば授業中、先生に「暇なのでサボリます」と堂々と宣言したり。
この二人の噂は二年の間に留まらず、一年や三年の間でも広がり、名前を出せば「今度は何をしたんだ」と、問題を起こしたことを前提に会話が進んでいく―それほどに彼らは問題児だった。
今では大分丸くなったが―それでも「白金ツインズ」の名を知らない者は、まず校内にはいないだろう。
中学の頃の肩書きもあって、本当にその双子は有名なのだ。中学の頃の肩書きについては、今はまだ語らないでおくが。
そしてその双子の兄妹というのが、実は今しがた緑間にタックルした女の子と、そんな彼女を止めた男の子である。
名を―白金響と白金琴乃という。
「あ、そういえば挨拶がまだでした。はろーです、しずか先輩、あおこ先輩…と、まつり先輩」
「お前今の絶対わざとだろ。付け加えた感あったもんな!」
「そんなことないですよー相変わらず、今日も被害妄想が激しいですね、まつり先輩は」
白金琴乃。今も現在進行形で緑間とじゃれ合っている彼女は、人から人へと移りゆく噂の中で、「白金ツインズ」という悪名を生んだ双子の内の片割れだ。セミロングの、少し茶色がかったストレートの髪と、緑間に負けず劣らずくっきりとした二重を持ち、前髪は広いおでこを象徴するかのように上へ上げられている。
青子を綺麗系と称するなら、琴乃は間違いなく可愛い系だろう。とても可愛らしい童顔である。
だがしかしその実態は、とても喧嘩っ早く好戦的で、しかも驚くほどに強い。勿論喧嘩というのは正真正銘殴り合いのことである。全盛期だった頃には、三十人にも及ぶ不良を相手に、兄である響とたった二人で勝利を収めたこともあるらしい。
響と琴乃は、どうしようもなくどうしようもないまでに不良だった。
中学時代、二人の強さは異名をもってして瞬く間に広がった。今でこそ「白金ツインズ」なんていう可愛い名称をつけられているが、中学の頃の獰猛さは、ハンパでなかったらしい。
まあ、今ではもうすっかり足を洗って、短い高校生活を満喫しているのだが。
「被害妄想がなんだって?んん?もういっぺん言ってみ?琴乃ちゃーん?」
「ひ、ひはひへふほへひゅあひ(い、痛いですよ先輩)」
年上に敬意を払う気がさらさらない生意気な後輩の頬を、緑間が思いきりつねった。はなしてくださいよう、とじたばた両手を振り回す琴乃も、緑間を含め三人にとっては、どれだけ喧嘩が強かろうとただの可愛い子猫同然である。
「やめなよ祭…大人げない。琴乃が可哀相だ」
「お前ね…可哀相なのは俺だろ。一貫して被害受けてんの俺。なのにも関わらずなんで琴乃を庇うんだよ」
「だって…うん、琴乃は可愛い後輩だし」
「お前の中の優先順位って俺より琴乃の方が上なのかよ…お前にとって俺ってなんなんだよもう!」
なんなんだよもう!と言われても。うーん、と赤崎は考える。
目覚まし時計の代わりで、お弁当を作ってくれて、掃除も時々しに来てくれて、洗濯もしてくれて、洗物もしてくれて、買い物にも行ってくれて…。
確かに幼なじみというポジションにはいるけれど、これはむしろ…。
赤崎はとりあえず、ピーンと閃いたことを素直に言った。
「…家政婦?」
「俺もう泣いていい?」
家政婦という響きによほどショックを受けたのか、力無く琴乃の頬から手を離した緑間は、しくしくと両手で顔を覆った。開放された琴乃の方はといえば、「しずか先輩ナイスです!」と親指を立てて、青子の元へ駆け寄っていく。確かに味方する方を間違えたかなあと、落ち込んでいる緑間を見て、ほんの少し自分の良心を痛めた赤崎であった。
「そんなに落ち込まないでください、祭さん。僕は祭さんの味方ですから」
「響…」
にっこりとくったくない笑顔を浮かべたのは、「白金ツインズ」と呼ばれる双子の片割れであり、琴乃の兄である白金響だ。琴乃とお揃いのピンで前髪を留めており、見た目が既にやんちゃそうな印象を与えてくる。童顔と女顔に、拍車をかけるようなぱっちりとした大きな目が特徴的で、二卵性の為琴乃とそこまで似ているわけではないが、響の割と控えめな性格も乗っかって、姉妹に間違われることもしばしばある。
活発的な琴乃とは対照的で、普段はおっとりしている響だが、中学の頃は相当荒れていた―まあ、不良だったわけだから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが。
最狂に最凶を重ねた、凛々(りり)垣中がきちゅう最強の双子と言われた、そんな「白金ツインズ」が、何故こんなにも赤崎達に懐いているのか―理由は簡単で、二人が赤崎と緑間との喧嘩に負けたからだ。理由はもっと深いところにあるのだが、「“強さの意味”を教えてくれた先輩達には感謝していますし、その強さを尊敬もしています」―と、響はよく言う。そして、“いつか貴方達を超えますよ”とは決して言わない。
もう昔のように喧嘩はしなくなり、クラスでも友人に恵まれている。だが、クラスの友人よりも、赤崎と緑間といる時間を何より大事に思っているからこそ、こうして昼食は一緒に取っているのだ。
つまるところ、響と琴乃が改心した理由というのは、赤崎と緑間に喧嘩で負けたからである。ちなみに、二人に負けるまでは無敗だった。
「というか、そもそもまだ優すぐるが来ていないので、お昼は食べられないんですよね。だから祭さん達が遅くなったことには、全くと言っていいほど非はないんです。今回は完全に琴乃の八つ当たりで…本当にすみません」
「え?…って、確かにいないな、優の奴」
普段、昼休みは屋上か生徒会室でお弁当を食べている。生徒会室は本来部外者は立ち入り禁止だが、勿論響と琴乃は部外者などではなく立派かどうかはさておき生徒会執行部議長であり、二人の腕にはきちんと議長の腕章が留められている。
議長の席は本来一人分しかなく、その点において響と琴乃(というより主に琴乃)が駄々をこねたのだが、生徒会長の権限その①により、議長の席を二つに増やすことで、双子を生徒会執行部に推薦したのである。
そして話を戻すが、普段は昼休み屋上か生徒会室でお弁当を食べている。六人でだ。だが、実際今屋上に姿を見せているのは、赤崎と緑間と青子、それに白金ツインズの計五名である。
あと一人、来ていない者がいるというわけだ。
「珍しいわね、あの子が遅刻するなんて」
「…今日は吹雪かな、季節外れに」
「いや、吹雪じゃ足りねえだろ」
屋上に来てからずっと立ちっぱなしだったので、とりあえず各人は腰を下ろした。円を作るような形でその場に座り、緑間は持っていた巾着の内、赤色の方を赤崎へと差し出す。
ありがとう、と赤崎が受け取るのを、青子は若干面白くなさそうに見た。
「な…なに?青子」
「べっつにー。ただ、毎日毎日見せつけてくれるなあと思って」
「??」
彼女の言いたいことがよくわからなかったようで、赤崎はとりあえず首を傾げてみたが、彼女はそれ以上を語るつもりはないらしく、そっぽを向いてしまった。
なんとなくもやっとしたので、つまり何を言いたかったのかということを青子に訊ねようと、赤崎が口を開いた―その時。
「遅れてすみません!」
勢いよく、屋上の扉が開け放たれた。緑間同様巾着袋を片手に、肩で息をしながら謝罪の言葉を口にした少年が、まだ屋上に来ていなかった六人目であり、名を黒銀優という。
彼の登場に真っ先に反応を示したのは琴乃である。
「遅いよ優!もうお腹ぺこぺこでコンクリート食べちゃうところだったじゃない!」
「す…すまない」
琴乃のコンクリート食べちゃうよ発言いはつっこまず(というか彼にはツッコミの才能がない)、優はもう一度頭を下げた。
そこまで言うなら先に食べていればいいものを…と思うかもしれないが、それが出来ないからこそこの状況である。何故なら、響と琴乃の弁当は優が持っているからだ。彼が、白金ツインズのお弁当を作っているのである。
「おーっす優。珍しいな。ルーズなことを嫌うお前が遅れて来るなんて」
「はあ…えっと、はい。色々あって…」
優は、ある意味この中で最もまともな、常識人と言っても過言ではない。それに加えて規則やルール、約束事には忠実で、どんな理由があろうとも、彼がそれを破ったり守らなかったりするというのは、黒銀優の生き方そのものを否定することと同義である―と言っても過言ではない。なので、今日のような遅刻は本当に珍しいことなのである。
たかが昼休みに、弁当を一緒に食べる約束をしただけだろうという外野の声は、優には全く持って関係がない。
…にも関わらず、何故彼は今日こんなにも来るのが遅くなったのか。
まあ、当然遅くなってしまう要因があったのだろう。
断れない要因が。
そして先ほどの優の動揺っぷり。それが全てを決定付けた。
「そうやって渋っちゃうから、優は嘘をつけないんだよね」
「どうせまた、女の子に呼び出されたんでしょう?」
他人の恋愛沙汰には興味の無い赤崎とは対照的に、にやにやと悪い笑みを浮かべた青子が、「このこの~!」と優のことを肘でつついた。あっさりと事実を見破られたことに驚いたのか、目を丸くしつつ、優はかあっと顔を赤くする。
「か、からかわないでください…!」
緑間も相当モテるが、負けず劣らず優も女子からの人気は厚い。バレンタインには、下足箱とロッカーと机の中に、溢れんばかりのチョコレートがつめこまれていたくらいには。
だが、当の本人はこれまたしょうもないことに、大の女嫌い(というか苦手)で、半径五十センチメートルの領域に女子が一歩でも踏み入れようものなら、気絶してしまうくらいである。ひどい時は吐く。ボディタッチなんかされたら天に召されてしまう勢いである。
今では大分、彼の女性に対する苦手意識は丸くなったのだが―そもそもの発端は、実の母親とあまり良い思い出がないことも挙げられるが、一番の要因は、彼の上にいる四人の姉だろう。五人姉弟の末っ子で、四人の姉に囲まれて育った優には、“女そのもの”に良い思い出がなかった。
なんせ、丑の刻参りや黒魔術などに手を出して、夜な夜な人を呪うような常軌を逸した姉達だ。しかも、直接的に優に手を出してきたことすらある。女装させたり監禁したり、縛ったり拘束したり―これ以上は放送コードに引っかかりそうなので伏せておくが、そんなものが自分の一番近くにいる女であったのだから、苦手意識を持ってしまうのも、自然ときっちりとした人柄になってしまうのも無理はないかもしれない。
むしろ苦手意識で済ませた優はすごいのだ。
…とは言っても、例外もいるもので、(姉に手を出される前より)昔からの付き合いがある琴乃だけは、普通に話したり触れたりしても平気なのである。
ちなみに、優の女性恐怖症の過去を深い部分まで知っているのは、今のところ響と琴乃だけである。
そして、青子にはある程度耐性ができ始めている、今日この頃だった。
「遅れたことは謝りますから、だから、少し離れてもらえませんか、青子先輩…!」
「顔真っ赤にしちゃって可愛いなあもう!」
青子の趣味は、優をからかうことである。
生徒会室で書類整理などをしている時も、彼の集中力が切れるようなことを平気でやるのだ(耳に息を吹きかけたり)。
優もまた、生徒会執行部の役員であり、最後の席である会計を務めている。なので、金勘定や決算整理など、学校全体に大きく関わってくるような仕事を任せられることが多く、こうした小さな妨害は、彼の女嫌いも手伝って作業に大きな支障を出しかねない。
それも全て承知の上で優をからかうのだから、彼女が優にとって琴乃のような心を許せる存在になるのは、まだまだ先のことに違いない。
「もー私、お腹すいてすいて蒸発しそうですってば!全員揃ったんですし、もうお弁当食べましょーよー!」
「水を飲め」
そんな緑間の辛辣な言葉を琴乃は華麗にスルーし、優からお弁当の入った巾着袋を受け取る。
「琴乃の言うとおりだ。昼休みは有限なんだし、いい加減優を解放してあげなよ。お昼食いっぱぐれる」
口を尖らせてぶーぶーと言いながら、青子は優から離れると、ガサガサとコンビニのビニール袋を漁り、おにぎりを一つ取り出した。優はほっとしたように息を吐き、もう一つの巾着を響に渡す。
これでようやく、いつものメンバーが揃った。
六人は、お昼ごはんに手をつける前に両手を合わせ、「いただきます」と声を揃える。
先ほども言ったように、赤崎の弁当は緑間が作っている。同様に、響と琴乃には優が弁当を作ってきている。それについては、とりあえず今は横に置いておくが、残る青子はというと、上記の通りコンビニでお昼を買っている。おにぎりだったりパンだったりと様々だが、何故彼女がコンビニでお昼を買うのかというと、それは壊滅的なくらい料理が下手だからだ。
それではおそらく答えになっていないし、そもそもどうして親がお弁当を作らないのかと聞かれてしまうだろう。だが、とりあえず今はその疑問も横に置いておこう。
いずれわかることであるし、今語る必要は少なくともないのだから。
「あ、そのエビフライ美味しそうですね!もらいますよ、先輩!」
そう宣言した琴乃は、神の如き箸さばきで、緑間の弁当からひょいっと目的のエビフライをつまみ上げ、満足そうに口の中へと運んだ。
それを見てキレない緑間ではない。
「ああ!てめっ琴乃!何勝手に食ってんだよ!人がせっかく大事に残しといたっつうのに!」
「ふっふっふ。油断してる先輩が悪いんですよーだ」
人を小馬鹿にしたような、得意げな笑みを浮かべる琴乃に、緑間はひくひくと顔を引きつらせ、四つ角の怒りマークをうっすらと額に浮かべた。
乱暴に食べかけの弁当箱を置いて、恐ろしい形相で立ち上がった緑間は、向かいに座る琴乃へ一歩一歩近づく。琴乃の方はとても楽しそうな顔をして、ひょいっと立ち上がり緑間と距離を取った。
これが所謂「一触即発」の四字熟語状態であるのだが、二人を除く計四名は「またか」と、呆れたように首を振るだけで見向きもしない。今日も平和だなあ、なんて思いながら呑気に昼食をとっている。
先に動いたのは緑間で、とてつもない勢いとスピードで琴乃に向かって走っていった。
「きゃー怖ーい。食べられるー!」
とてもじゃないが、お前絶対そうは思っていないだろうとつっこまれる程度には、楽しそうな口調で逃げ回る琴乃。新しい玩具を与えられた子供のような、そんな無邪気さがそこにはあった。
「おうおう食ってやるよ!エビフライの代わりにお前を食ってやる!だから逃げんな大人しく捕まれ!」
無邪気な琴乃とは対照的な、かなりマジなその目に若干引きつつ、緑間の食ってやる発言に対して「うわあ」と、四人は白い目を向ける。日常茶飯事になっている二人の鬼ごっこの風景に、彼らは苦笑いを浮かべた。
赤崎は改めて幼なじみに目を向け、つい数秒前まで、恐ろしい形相で琴乃を追いかけていたくせに、今はすっかり楽しそうな表情を浮かべている緑間に思う。羨ましい、と。
楽しい、悲しい、嬉しい、悔しい、幸せだ。
コロコロと表情が変わる彼のことを、主観的に物事を捉えることに難しさを覚えてきている今の自分と違って、輝いていると赤崎は思ったのだ。だからきっと、彼の周りには人が集まるんだろうと納得もしている。
だからこそ、そんな幼なじみが自分のようなものに構い、自分みたいなものと一緒にいるのか、赤崎にはわからなかった。青子に関してもそう。
きっと、どうしてかと聞けば、理由なんてないと言うんだろうけれど。できることならそれが、我慢じゃなくて二人の優しさでできていたら。そして、ほんの少しだけでいい、本音からできていたら嬉しいんだけれど―と、つくづく自分は甘えてばかりだと、赤崎は笑ってしまう。
「?どうしたの?静。急に笑って」
「…ううん。なんでもないよ、青子」
いつか、こんな自分の居場所になってくれる二人に、何か返してあげられたらいいなと、赤崎は思っていた。
それが例えどんな些細なことであったとしても。
―結局、それが叶う日は来なかったわけだけれど。
「痛っ!痛い!痛いですよまつり先輩!ゴンッって!そんな思いっきり殴ることないじゃないですか!」
「うっせーよ。食いモンの恨みは怖えーんだ、覚えとけ後輩」
どうやら鬼ごっこの決着が着いたようで、琴乃は緑間から裁きの鉄槌を頭に受けたらしく、若干涙目になりながら両手で脳天を押さえている。緑間は対照的に、ふふんと得意げに胸を張っていた。
「じゃれ合いはその辺にして、そろそろお昼食べちゃわないと予鈴鳴っちゃいますよ。祭さんも琴乃も」
「響の言う通りです。生徒会が授業に遅れるなんて、生徒に示しがつきません」
響は苦笑いをし、優は呆れ気味に溜息をついた。そして、両手を合わせ「ごちそうさまでした」と箸を置く。響は「いつもありがとう。今日も美味しかったよ」と付け加え、弁当箱を巾着袋の中に戻し、優へと返した。
さて、先ほど響が言ったように、あまり悠長に構えているとあっという間に昼休みは終わってしまう。ちなみに昼休みは、あと残り5分程しか残っていない。
赤崎と青子はあと1分もしない内に食べ終われそうだが、今しがた鬼ごっこをしていた二人は、弁当があと3分の2ほど残っている。タイムリミットはあと5分しかなく、つまり、それまでに緑間と琴乃は、がっつり残っている弁当を食べてしまわねばならないというわけだ。
それはまずい!と素早く定位置に戻った二人は、揃って弁当をかけこみ始める。途中、琴乃がご飯を喉に詰まらせたらしく、必死の形相で水を求める姿が面白くて、全員が思い切り笑った。
***
そういえば、説明し忘れていたことが一つ。これは今後の物語に大いに影響を及ぼす問題だ。
赤崎と緑間には、ほんの少しだけ他の人と違う―異質なところがある。どちらかと言えば悪い意味で、他の人達や―青子達とも違っているのだ。
それはお化け―俗に言う≪幽霊≫の類が見えるという点である。
しかもはっきりと、これ以上ないくらい鮮明に。
赤崎がそれに気づいたのは、ちょうど小学五年生くらいの頃だった。
『ねえ、祭。いっつも君の後ろにいる女の人、一体誰なの?』
『そんなもん俺が聞きてーよ…って、え?お前、まさかこいつが見えんのか?』
昔から緑間は、少し変わった子供だった。誰もいないところで急に話し出したり、誰もいないところを指差して、あたかもそこに何者かがいるかのように振舞ったり―そのおかげで、クラスメイトに気味悪がられたり、ひどい時はイジメられたりもした。
小学校高学年になってからは、“誰もいないところに何がいても気にしないように”務めるようになった。それを口にすると、自分がまた仲間外れにされてしまうのだと学んだからだ。だから彼は、目の前にあるものを、見て見ぬふりをして遠ざけるようになった。
だがある日、そんな赤崎の言葉を聞いて―驚いたように目を丸くした緑間は、それからくしゃりと顔を歪ませて、たくさん泣いた。安心したのだ、自分以外にも“視える人”がいたことに―自分だけが違うわけではないという事実に。勿論あの時の赤崎には、どういった理由で緑間が涙を流したのかわかっていなかったわけだが。
緑間は、物心がついた頃から≪幽霊≫が視えていたが、赤崎自身がそういった類のものを視るようになったのは、小学五年生の―ちょうど、赤崎の人生に一つの転機が訪れてからである。始めはぼんやりと、モヤがかかっていてはっきりと視えていたわけではなく、そもそもそれが≪幽霊≫であることにさえ気づいていなかった。
どうして突然、赤崎にも霊的存在が視えるようになったのかはわからない。もっとも、赤崎の家系―母と祖母も同じように霊感が強かったようなので、同じ血が流れている赤崎に霊が視えても、なんら不思議ではないのだが。
赤崎自身は緑間と違って視えるだけなので、生きていく上では特に問題はないし、「別にいっか」と楽観的に考えている。反対に緑間は、視えるだけでなく引き寄せてしまう霊媒体質である為、放っておけばいくらでも≪幽霊≫が寄ってくる、というのが現状だ。
ただ、緑間曰く「静と一緒だと霊が逃げていく」らしく、このことから≪幽霊≫の類を寄せ付けない力が、赤崎に備わっているかもしれないということがわかる。
このことは、同じように霊感の強い緑間の姉と、幼なじみの青子しか知らないが、近々後輩三人にも笑って話ができればいいと二人は思っている。受け入れてはもらえないかもしれないが、拒絶されることはないだろうと確信しているからだ。
「祭、今日家来る?」
放課後、上靴から少し汚れの目立つスニーカーに履き替えた赤崎が、若干自分より背の高い緑間を見上げつつ、いつものようにそう訊ねる。
返ってくる返事は、よほどのことがない限りいつも同じだ。
「おーどうせ家帰っても暇だしな。しょうがねえから行ってやるよ」
「頼んでないよ。恩着せがましいなあ」
「お前なあ…って、あれ、そういや静お前、バイトは?休みか?」
「あー…うん。まあ、休みといえば休み、かな。ていうか、多分、しばらく休み」
「……お前、また何かやらかしたな?」
核心をついた緑間のそれに、赤崎はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「…ったく。バイトをクビになるなんざ、そうそうあることじゃねえぞ」
「今回は、割と長くもった方だと思うけどなあ…はあ、またバイト探さないと」
「いやだから、お前にバイトなんて無理だって何回も俺は言っただろ。そもそもなんでバイトするんだよ。何か欲しいものでもあるのか?」
緑間が、面倒くさそうな表情で溜息をつく赤崎に、もう何回目になるかわからない質問を投げかける。
「だから、内緒だって言っているじゃないか。でも…そうだな、欲しいものといえば、欲しいもの―なのかもね」
こんな風に、意味ありげな表情で答えを濁すことが、赤崎は常であった。特に、バイトのことに関しては頑なに口を閉ざすのだ。
そんな赤崎に対し、深追いするようなことを緑間はしなかったが、若干の違和感は感じていた。赤崎の性分をよくわかっていたから、尚更である。
それでも深く追及しなかったのは、ある意味彼の怠慢であったのかもしれない。
「まあ、話したくないなら別にいいけどよ…そんで、晩飯のリクエストは?」
俺に作れるモンなら何でも作ってやるよ、と緑間が得意げに言う。第三者から見れば、非常に癇に障る顔だっただろう。
だがしかし、彼の料理の腕は確かなもので、少なくとも今まで赤崎が食べたいと言って、緑間が美味しく作れなかったものはない。
本人は、趣味の範囲で料理を嗜んでいるだけだと言っているが、嗜む程度にカレーをルーから作ることを、人は趣味とは言わないだろう。将来料理店なんかを開けば、間違いなく繁盛するに違いない。
「うーん。今日は特にないかな。何でもいいよ」
「今日は、つうかここ最近ずっとそうじゃねえか。何でもいいっつうのが一番困るって、いつも言ってんだろ。それとも何、お前俺を困らせたいの」
口うるさいオカンのようなことを言う幼なじみである。
「うん」
とりあえず赤崎は首肯しておいた。
「否定しろ」
ぺちん、と緑間が頭をはたく。
毎日飽きることなく、こんな風に軽口を叩きながら、彼らは背中に影を背負って帰り道を一緒に歩いた。ここに時折青子や後輩達が加わることもあるが、基本的には二人で家へ帰ることが多い。
途中スーパーに寄って夕飯の材料を買い、その足でそのまま赤崎の家へと向かうのが―緑間にとっては常であった。そのまま赤崎の家に泊まっていくことも少なくはなく、もしかしたら緑間は、自分の家にいる時間よりも赤崎の家にいる時間の方が長いかもしれない。寝ている時間は別として。
と、ちょうど交差点を曲がったところで、緑間の携帯が鳴った。彼は赤崎に断ってから電話に出る。
「もしもし?…なんだ、青子か。え?ああ、静も一緒。これからスーパー寄ってこうと…は?お好み焼き?それお前が食いたいだけだろ…あ?あとから行くってお前な、それは俺じゃなくて静に…って、おい!待て!まだ話…」
どうやら途中で電話を切られたようで、面倒くさそうに溜息をついた緑間は、大人しくスマホを制服のポケットにしまい込んだ。
「青子、どうかしたの」
「ああ…なんか今日の晩飯お好み焼きにしろってさ。あとから響達と一緒にお前ん家来るってよ」
「よかったね、困っていた晩御飯が決まって」
「いや、論点はそこじゃねえよ?」
赤崎は適当に相槌を打ちながら、そっか。今日は青子達も来るのか。と、緑間の言葉を反復した。
今日はあのからっぽな家も、随分賑やかになりそうだ、と赤崎は思う。普段は緑間が行っているものの、あの広い家は二人では持て余してしまうのだ。油断すると、飲み込まれてしまいそうになる。
だが、少なくとも今日は、違うようだ。
「楽しくなるね」
「まあ…退屈はしねえな」
緑間が、横目でちらりと赤崎を窺う。その表情が、基本的には変化に乏しい赤崎にしては珍しく、心なしか嬉しそうに見えたからだ。
そんな幼なじみを見て、緑間は思うのだ―あとから辛くなるのは、お前の方なんだぞ、と。
楽しい時間なんてものは、あっという間に過ぎていく。世の中というのは不条理なもので、一秒でも長く続いてほしいと願う時間ほど、一秒一秒を短く感じてしまうのだ。
時間が来れば青子や響達は勿論、緑間でさえ自分の家に帰らなくてはならなくなる。
だが、赤崎はその後もたった独りであの家に残らなくてはならない。あのからっぽの家が、皮肉にも彼の帰る場所だからだ。
赤崎に両親はいない。だからあの広い家に、彼はいつも独りぼっちだ。
今日は青子達も加わって、いつもより賑やかな夜を過ごすことになるのだろう。だが、独りになった後の虚無感もまた、いつもの比ではないはずだ。
決して賑やかだけでは留まらない。彼には賑やかな夜の後に、逃れることのできない独りの夜が待っている。
赤崎にとって、“楽しい”と“寂しい”は同義だ。悲しいほどに。
悲しいまでに。
「…祭?どうしたの、さっきからずっとこっち見てるけど」
複雑そうな顔をして自分を見る緑間に気がつき、赤崎は首を傾げた。
だが、その形容し難い表情は赤崎が声をかけたと同時に崩れ、次の瞬間緑間の大きな手が彼の頭に乗った。
「いーや、なんでもねえよ。そんじゃお好み焼きの材料、買いに行くか」
「?うん」
一瞬。
本当に一瞬。
緑間の目が、悲しげに揺らいでいたように赤崎には見えた。
気のせいか、と赤崎は思った。
***
「お邪魔しまーす」
七時を過ぎた頃、青子達ご一行が赤崎の家へとやってきた。せかせかと準備をしている緑間を他所に、一応この家の家主である赤崎が、四人を招きいれる。
男二人の手にはスーパーの袋が握られており、中から2リットルのジュースや、山ほどのお菓子が顔を覗かせている。とても一日で消費できる量ではない。一体何次会までするつもりなのか。
嫌な予感がした赤崎は、おそるおそる青子へと訊ねた。
「…もしかしてお酒、買ってきた?」
「はあ…何言ってるのよ静。そんなの当たり前じゃない」
世間一般では、未成年が酒をあおるというのは、犯罪以外のなにものでもなく、少なくとも当たり前ということはないはずなのだが。
赤崎自身は、彼女に言ったところで全く意味のないことであると順々承知である為、今更なにを言うつもりはなかった。ただ、この涼しげな顔が、ほどなくして完全に崩れ去ってしまうという事実に溜息はつくが。
彼女の酒癖の悪さは天下一品である。
六人の中でもその恐ろしさを一番よく知っているのは優で、酒を飲む前から既に顔色が真っ青だった。 何故なら、酔った青子に絡まれるのは、毎度毎度優の仕事であるからだ。女性恐怖症の彼からすれば、苦痛以外のなにものでもないだろう。
赤崎は二人から差し入れの入ったビニール袋を受け取り、リビングへと促す。テーブルでは緑間がプレートでお好み焼きを焼き始めていた。
「よう、やっと来たか。いらっしゃい。ま、適当に座っとけよ」
「あ、はい。お邪魔します…って、ここ祭さんの家じゃないですよね!?」
「あーうっせうっせ。いちいち細けえことを気にすんな。女子か」
「どういうまとめ方ですかそれ!?」
と言いつつ、響から順に適当に座布団の上に腰を落ち着ける。
「やっぱり料理だけは上手ですよね、まつり先輩」
「だけはってどういう意味だおいこら」
相変わらず皮肉を言う琴乃であったが、その言葉に嘘はなく、もう直焼きあがるであろうお好み焼きを、うずうずしながら見つめている。緑間は琴乃の憎まれ口に口を尖らせつつも、器用にヘラでお好み焼きを返し、出来上がった六枚を皿に盛った。ソースやマヨネーズを回し合い、かけたい分だけかけた後は、最後にかつお節を乗せて完成である。赤崎はその間に割り箸を用意し、青子はと言えば食器棚の引き出しから紙コップを持ち出し、買ってきたジュースを注いでいる。(あくまでジュースだけ)
勝手知ったる他人の家とはまさにこのことだが、赤崎はそれに関して特に気にしていない。
「紙コップなんて家にあったんだ」
「…とてもこの家の主人の台詞とは思えないわね」
昔から付き合いのある幼なじみの彼女は、驚くことに赤崎本人よりもこの家のことを熟知しているようだった。
ちなみに、青子が用意しているジュースは響と優のものである。せめて自分だけは規律を守ろうと徹底している優は、当然飲酒をしない。響にいたっては、飲めないわけではないしそこそこ酒に強くもあるのだが、アルコールを摂取すると眠ってしまう琴乃をおぶって帰るという使命があるので、できるだけ飲酒はしないようにしているのである。
勿論の如く、その他四名は酒を飲む。
「よっし。そんじゃ準備も整ったことだし」
意気揚々にビールを天井に向かってかかげる緑間に続き、その他五名もそれぞれ自分の飲み物を持ち上げる。
お好み焼き奉行というものは存在しないかもしれないが、見てわかるように緑間は場を仕切ることに長けている。というか、人の上に立って指揮を取るのがうまいのだ。彼の発言にはどこか説得力があるし、周囲の目を自分に向けさせることすら、彼にとっては朝飯前だと言えるだろう。
だから…というわけではないが、生徒会長というのは、ある意味緑間の性に合っているのだろう。
「あーこれといった理由はねえが、とりあえずかんぱーい!」
「「乾杯!」」
とにかく騒がしかった。騒ぎまくって、これでもかというほど笑って、思わず泣きそうになってしまうほど。
青子は極限状態にまで酔いが回ると、とんでもない魔物に変化する。キス魔になるのだ。誰彼構わず、というわけではなく、その矛先は必ずと言っていいほど優にしか向かない。
実は、酔っているふりをしてただ単に優をいじりたいだけなのではと思ってしまうくらいだ。普通酔っていれば、相手を選んでキスなんてできないだろう。今日も青子の毒牙を食らった優は、泡を吹いて失神した。
そして琴乃。彼女は酔うと語尾に「~にゃ」と付けるようになる。まるで猫のように―というか、完全に酔いが回ると口調どころの騒ぎではなく、行動一つ一つが猫に近くなる。
赤崎達の腕や、たまに壁なんかを使って爪を研いだり、猫が毛並みを整えるのと同じ要領で自分の手を舐めたり、誰彼構わずかまってサインを連射する。頭を撫でたり、あごをごろごろすると異常に喜ぶ。ちなみにこの状態の琴乃は一番緑間に懐いている。
響は、基本的に苦笑いをするだけでその中に混ざろうとはしない為、赤崎と他愛のないお喋りをすることが多い。
赤崎と緑間も酒を飲みはするが、後々厄介なこと(二日酔い、後始末に手が回らない等)になるし、いざという時にしっかりと意識を保っていられるようにとどこかブレーキをかけているので、飲んでも精々一缶程度だ。
両者共にかなり酒に強い為、その程度のアルコール摂取では、素面の時とあまり変わらないのである。
だから、アルコールに負けることはない。
スイッチの切り方は心得ている。
「おーい、もう十時だぞーそろそろ帰れー」
時間的に頃合いだと判断した緑間が、食い散らかした菓子の残骸や使った食器などをてきぱき片付けながら、全員に呼びかける。まだ意識のある赤崎と響は、共同して絨毯の上に突っ伏している三人を起こす作業に入った。
赤崎が、酔い潰れて眠っている青子の肩を揺らす。
反応なし。
「……」
彼女は、寝起きは悪くないのだが、起きるまでがやたらと長い。
「…ふう。青子、もう遅いからそろそろ―」
とりあえず、うつ伏せになっている彼女を反転させて仰向けにしようと決めた赤崎が、青子の両肩に手を添えてその華奢な体を動かす。
無事に仰向けにすることができたところで、赤崎の思考は一時停止した。青子の顔を見て、彼が「え」と思わず声を上げるまで、大分時間がかかったように思う。
しっかり者で、頼りになるお姉さんで、笑顔が良く似合う、ひまわりのような彼女が―泣いていたのだ。
泣いていると言っても、伏せられた目から涙が流れているというだけで、厳密にいうとそれは、“泣く”という行為とは違っていたかもしれないが。
どうしよう、と赤崎は戸惑う。
嫌な夢でも見ているのだろうかと赤崎は思った。だが、それはどうにも考えにくい。何故なら彼女は「私みたいな幸せ者が泣くだなんておこがましい」と、日頃よく言っているからだ。
泣かないことが、どういうわけか彼女が自分の心に誓った誓約なのである。
それは、生半可な誓いではないのだ―少なくとも、水沢青子という少女にとっては。
たとえそれがどんな悪夢であったとしても、そんな彼女が涙を流すというのはどうにも信じがたい。
では、何故彼女は泣いているのだろう。
「…か。しず…か」
「え、ぼ、僕?」
突拍子なく名前を呼ばれ、赤崎は大きく目を見開いた。
悲痛な声音だった。
依然として彼女は眠り続けているわけだが、寝言が自分の名前であったことに、涙の理由が結びついているような気がして、ますます赤崎は混乱する。
冷や汗が背中を伝い、起こそうにも起こしずらい状況に陥った赤崎は、青子を起こそうとした時と同じ態勢のまま、ぴたりと動けなくなってしまった。横から見ると、何かと勘違いされてしまいそうな構図であったが、彼女の涙の原因が自分だと思い込んでしまった赤崎に、そんなことを考える余裕はなく(元からこの態勢に意識もしていないが)、ただ悶々と自問自答を繰り返していた。
(青子が泣くようなことって…一体僕は何をしたんだ…ああ、考えたくない)
自問自答の行き着く先がとてつもなく最低なものでしかなかった為、赤崎のテンションは下がっていく一方である。
―と、そこで青子が小さく寝返りを打った。
目がうっすらと光を宿している。
あ、まずい。起きる。本能的に赤崎はそう感じ取った。
「ん…んん、しずか…?」
「…や、やあ」
とりあえず赤崎は、笑っておいた。
ノーリアクションで呆けた顔をする彼女に居たたまれなくなったのか、赤崎が気まずそうに目をそらした。青子の酔いは完全に醒めているようで、いつものきりっとした目つきに戻っている。
だが―涙の跡は、消えてはいない。
「その…嫌な夢でも見たの?泣いてたみたいだけど」
え、と今度は青子が驚いたように目を見開く。どうやら頬を伝う涙に気がついていなかったようだった。そっと手を伸ばした赤崎は、彼女の頬を優しくなぞった。
「な…泣いてた?私が?」
彼女は、信じられないとでも言いたげな目をしている。
「うん。寝言で“静”って僕の名前を呼んでて…なんか、ごめん」
肩を竦めて申し訳なさそうに謝る赤崎に、青子は慌てて―そしてまた、彼女の頬を涙が伝った。赤崎がギョッと目を見開いたのは言うまでもないだろう。
ぽろぽろと溢れる涙を否定するように、青子は必死にそれを拭った。
「ちが…違うの。違くて。静のせいじゃ、ないから…ほんとに、違うから」
「青子…」
こんな風に泣く幼なじみを見るのはいつぶりだろう、と赤崎は少しズレたことを思った。
その姿はとても頼りなく、思わず赤崎は身を乗り出した。
赤崎の手が、青子の頭を撫でる。すると彼女はまた泣き出した。
「ごめ…ごめんね。泣きたいのは私じゃ、ないのに」
「…謝る必要はないよ。泣きたい時は泣けばいい」
彼女は何度も「ごめん」と「ありがとう」を繰り返す。
何故彼女が謝るのか―一体誰にありがとうと言っているのか。
赤崎にはわかりそうで、わからなかった。
「わっどうしたんですか青子さん!」
優を起こしにかかっていた(琴乃のことはおぶって帰るので起こさない)響が、青子の涙を見て赤崎のようにギョッと目を見開いた。青子の方はと言えば、今初めて響の存在に気がづいた―というより、ここが赤崎の家だということをようやく思い出したようで、慌ててごしごしと涙を拭う。
ぼんやりと覚醒していた優は青子の涙を見て固まっていた。
「おいお前ら、さっきから青子青子って一体何が…」
そして、騒ぎを聞きつけた緑間が、食器洗いを中断して赤崎達の方へ駆け寄ってくる。
青子と目が合った緑間は途端に表情を固くしたが、驚いた様子はなかった。
「青子」
ただ一言、緑間がそう言った。同時に、二人の表情が微かに歪む。
だが、それは本当に刹那のことで、おそらくその微妙な表情の変化に気がづいたのは赤崎だけだ。
祭、と青子が小さく彼の名を呼んだ。呼んだというより、ただ読んだだけという表現の方が、正しいかもしれない。
二人の間になんらかの意思の疎通があったようで、青子は次第にいつものような落ち着きと笑顔を取り戻していった。
「…わかってる、祭。…ごめんね、静、響。もう大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけなの。だから心配しないで?」
「なら…いいんですけど」
響はあまり状況をよく理解できていなかったが、とりあえずいつものような笑顔を浮かべた彼女に安堵したようで、それ以上は追及しなかった。
赤崎の方はといえば、何かを取り繕うとするそんな幼なじみの物言いに、引っかかるところが幾つかあったものの、何も言わなかった。
涙の理由はもっと別のところにあるのでは、と赤崎は思ったのだが、それを深く追求することは、彼女を困らせてしまうだけなのだろうとわかったので、やむを得なく「よかった」と相槌を打つだけにしておく。
「ったく、紛らわしいことをすんなアホ。おらおら、とっとと荷物まとめやがれお前ら。もう十時回ってんだぞ!」
やれやれと言った風に呆れ顔で溜息をついた緑間が、ビシッと散らかっているテーブルやソファ周辺を指差して、再び台所の方に引っ込んでいった。
「お邪魔しましたー」
いつものように、気持ちよさそうに寝息を立てる琴乃をおぶり、未だにげんなりとした顔をしている優と一緒に、響は一足先に帰っていった。
次いで帰ろうとしたのは青子だったが、やはりまだ浮かべる笑顔にぎこちなさが残っているように思え、独りで帰らせるにはあまりに頼りなかった。
赤崎の家から青子の家までそう距離はないが、あんな泣き顔を見せられた赤崎としては、一人暗い夜道を歩く彼女の姿に不安が過ぎる。
「祭ももう帰りなよ。後片付けは僕がやっておくから」
というわけで、赤崎はもう一人の幼なじみに、青子のことを家まで送らせることにした。緑間の家は青子の家の真向かいにあるので問題はないだろう。
「…は?」
さも当たり前のように、帰る三人を見送るポジションにいた緑間が、その言葉にぽかんと口を開け数秒呆然とした。心底驚いたような顔をする幼なじみを見て、どうやら彼はまだこの家に居座るつもりだったようだ、と赤崎は思った。もしかしたら、泊まっていくつもりだったのかもしれないが。
我に返った緑間は、意味がわかりませんと顔で主張した。
「いや、お前に片付けとか無理だろ」
「まあ確かにそうなんだけど…青子を一人で帰らせるのは、どうにも不安だし」
「いや、でも…」
「でも?」
珍しいこともあるものだと、赤崎は少し意外そうに緑間を見た。
こんな風に決断を迫られたり、頼みごとをされた時に、緑間が渋ったり即決できなかったりすることはまずないのだが、今日は珍しく迷っているようだった。赤崎は、何をここで迷う必要があるのだろうと不思議に思う。
しばらく赤崎と青子を交互に見ていた緑間だったが、ここでようやく「わかった」と返事をし、エプロンを脱いでリビングに鞄を取りに行った。
そんな彼の様子を不思議に思った青子が首を傾げる。
「?祭、どうしたの?」
「もう帰ってって言ったんだ。青子を一人で帰らせたくなかったから」
それを聞いた青子が、バツの悪そうな顔をした。
「さっき私、もう大丈夫って言ったじゃない…別に一人でも」
「うん。でも、ひとりは寂しいから」
ね、と笑う赤崎に、青子は何も言わず、俯いた。
ほどなくして緑間が鞄を肩にかけて戻ってきた。そして、申し訳なさそうに赤崎に謝る。
「悪いな。最後までやっていけなくて」
「僕が頼んだんだから君が謝る必要はないよ」
何か言いたげに口を開いた緑間だったが、結局思い留まったのか「おう」とだけ返し小さく手を挙げた。
青子は伏せていた顔を上げ、思いつめた表情で赤崎を見つめる。その表情は、彼女のことをよく知っている人から見れば、どこか迷っているようにも見えただろう。
彼女もどちらかと言えば緑間に近いタイプで、基本的に物事に対してはっきりとした態度を示すので、珍しく迷っている様子の青子に赤崎は首を傾げる。
「青子?」
どうしたのかと赤崎が訊ねる前に、彼女はぱっと目をそらしてにこっと笑った。いつもの笑顔と違うことがわかってしまったのは、やはり幼なじみとして一緒にいた期間が長すぎたからだろう。おそらく青子の方も、赤崎がその笑顔の不自然さに気づいたことに、気づいているはずだ。
ふと、青子が背伸びをした。
赤崎は彼女に手を引かれ、そのまま下方に引っ張られる。
彼女の真意が、手を引かれた時点でなんとなく赤崎には想像できた。
二人の唇が重なる。
とは言っても、恋人同士で行われるような息が詰まるほどに深いものではなく、軽く触れるだけのキスだったわけだが。勿論赤崎と青子は恋仲ではないので、当たり前と言えば当たり前なのだろうけれど。
「…またね、静」
そっと唇が離れ、同時に別れの挨拶を告げた彼女は、ひらひらと手を振って家を出て行った。残されたのは赤崎と緑間だけである。
やり逃げをされた赤崎はと言えば、特に赤面するわけでもなく、名残惜しいと思うわけでもなく、ただ呆然と突っ立っていた。
青子は過度にスキンシップを取りたがる。
今では大分丸くなったのだが、昔は誰彼構わず男女問わずに、よく軽いキスをしていた。彼女にとっては、挨拶のようなものだったのだろう。そして言わずもがな、幼なじみである赤崎と緑間も、彼女とのキスは数え切れないほど経験している。
だが、ある時期を境に彼女は、“誰彼構わずのキス”をやめた。そしてそれ以来、その(・・)時期・・が来ると、赤崎にだけ昔のようなキスをする。
変わらないフレンドキスを。
「…祭」
「なんだよ、静」
「今日、何日」
基本的に赤崎は、昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのかを気に留めない。学校がある日と学校がない日、赤崎の中ではそれが軸であり。取り立てて覚えようとは思っていない。
昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのか―彼には興味がないからだ。
「三十日だよ。ついでに言うと、明日から七月」
「…そっか」
やっぱり、という赤崎の小さい呟きを耳で拾い、緑間はバツの悪そうな顔をした。
つまるところ―青子が今日響達を引き連れて家に来たのも、涙を流していたのも、思いつめた表情をしていたのも、帰り際にキスをしたのも全て―そういうことだったのだ。
もう、そんな時期だったのか。赤崎は他人事のようにそう思う。
「静」
幼なじみに名前を呼ばれた赤崎は、はっと我に返った。なに、と顔を上げた赤崎の額を、すかさず緑間がピンと小突く。
痛みはなかったものの、赤崎は反射的に両手でその場所を押さえた。
「流石に青子みたくキスは無理だからな」
「別に期待してない…」
けらけらといつものように緑間は笑った。彼のこういうところに、赤崎はよく救われている。
おそらく彼はこれからも、そうして無意識の内に周りの誰かを救っていくのだろう。
今赤崎が救われているように。
「なんだよ静、ぼーっとして」
「…なんでもない。それよりほら、早く行かないと追いつけなくなるよ」
先に行ってしまった青子を追いかけるよう赤崎が促すと、「それもそうだな」と彼は靴を履いた。そして、青子同様ひらひらと手を振る。
「じゃ、また明日な。静」
「…うん、また明日」
最後の緑間が帰り、バタンと無機質にドアが閉まった。
今このからっぽの家にいるのは、どうしたって赤崎だけだった。先ほどまでの明るさは何処にもなく、例え家中の明かりを全て付けたとしても、彼の内に芽生えた虚無感は失われることはないだろう。
どうしてこれほどまでに、失いたいものほど消えてはくれないのか。
どうしてこれほどまでに、失いたくないものばかり。
「…片付け、しなきゃね」
そして今日も彼は、楽しさの残骸を寂しさとして吸収していく。
***
赤崎の家を出てすぐに、緑間は先に行ってしまった青子のあとを追った。結構な時間差ができてしまったから、それなりに距離は離れているだろうと思い、小走りになった矢先目的の彼女を見つけ、緑間は少し拍子抜けしてしまった。
いつもなら「先に行くなよ」とでも言っているのだろうが、それが今の青子にとって酷なことであったということは、緑間にもわかっている。伊達に幼なじみはやっていない。
おそらくあのまま赤崎の家にあと一秒でもいれば、彼女は泣いてしまっていただろうから。
「そこの綺麗なお嬢さん。俺と少し遊びませんか」
「…はは、下手なナンパね」
緑間が後ろから声をかけると、彼女は頼りなさげに眉をさげ、振り返った。その目に涙はなかったが、あと少し経てば直に封は切れるだろう。
赤崎が知らないだけで、青子はよく泣いている。ただ、赤崎の前でだけは泣かないようにしているだけで。
二人は肩を並べて夜道を歩く。帰る方向が一緒なので、送るまでもなく帰り道は一緒だ。
影を連れ歩き、しばらく人気のない道を彼らは沈黙を保って歩いていたが、クスという小さな笑い声と共に青子が動いた。手を引かれ、やばいと緑間が思った時には既に遅く、青子は自分の唇を緑間のそれに重ねた。
「はい、これで静とも間接キス」
「毎年思うけど、マジ意味わかんねえ…」
赤崎ほどポーカーフェイスが得意でない緑間は、すぐに感情が顔に出てしまうので、声音は普段通りを装ってはいるものの顔は真っ赤だった。これが夜でなければ、間違いなく青子に気づかれていただろう。そして、確実にからかわれていたに違いない。
まあ、その逆も然りで、彼女の方も若干顔が赤かったわけだが、夜だったので緑間は気づかなかった。
「今日静にキスしたのは…もうすぐあいつの誕生日だからか」
「そう、ね。どちらかと言えば、“消えた一週間”が始まったからなんだけど」
六月三十日から七月七日。
それを緑間と青子は、“消えた一週間”と呼んでいる。
ちょうど今から七年(もうすぐ八年)ほど前。まだ彼らが十歳だった頃の話だ。赤崎家と緑間家と水沢家は昔から親同士で交流があり、その関係で三人はよく一緒に遊んでいた。その頃はまだ赤崎の両親、そして青子の両親も健在していて、今ではとても考えられないほど毎日が充実していた。
特に赤崎の両親は仲の良い夫婦だと近所でもお墨付きで、離婚など無縁な話だろうと思われていた。
だが、ちょうどその年の六月、その頃から―赤崎の両親は、少しずつすれ違い始めたのである。頻繁に赤崎を緑間か青子の家に預けるようになり、毎晩遅くまで口論のぶつかり合いが続いていたらしい。いがみ合いの原因は未だ不明だ。
そして“消えた一週間”の一日目―八年前の今日、恍惚と赤崎の両親が行方をくらませた。まだ十歳だった赤崎を置いて、だ。
だが、それだけに留まらず、いつまでも帰ってこない両親を不安に思い、“消えた一週間”の五日目に赤崎も姿を消した。信じられないことに、十歳の少年が、両親を探しに一人で外の世界へ飛び込んだのだ。
だが、“消えた一週間”の最終日―そう、七月七日。
皮肉なことに、その日は赤崎の誕生日であった。
その日、隣町で行き倒れていたところを赤崎は通報され、病院へと搬送された。原因は栄養失調と過労。体力の乏しい幼児の体が、二日間も飲まず食わずで持つはずがなかったのだ。
連絡を受けた緑間家と水沢家は、急ぎ赤崎が運び込まれた病院へと向かい、そこで信じられない光景を目の当たりにしたのである。
行方をくらませていた赤崎の母親が―点滴を受けて眠る自分の息子の首を、絞めていたのだ。
間一髪のところで間に合った緑間家と水沢家によって、彼女のそれは殺人未遂に終わったが、最後に赤崎の母親は、自分の息子の誕生日にこんなことを言い残した。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”と。
そしてそれ以来、再び赤崎の母親の行方も掴めなくなった。
それが“消えた一週間”。
そして今日は―一日目。赤崎の両親が姿を消した日である。
それを知っているのは緑間家と水沢家、あとは赤崎の母方の祖父母である藤とう黄おう家だけだ。
「お前、わかりやすすぎんだよ。気づいちまったぞ、あいつ。もうそんな時期なんだって」
「あはは、今年もやっぱり今の今まで今日が六月三十日だってことに気づいてなかったのかー静は」
そう、赤崎は思っていただろう。今日、青子がわざわざ響達までもを引き連れて赤崎の家にやってきたことに、特に理由はないんだと―そう思っていたに違いない。つい先ほどまで。
赤崎の両親が消えた一日目。だからこそ、今のあなたの周りにはこんなにたくさんの人がいて、誰もあなたを置いていったりはしないから―と、そんな意味を込めたいと青子は思っている。だからその為に、大勢で楽しく過ごそうと決めていた。
だが、どうしても緑間には、あとから独りあの家に残される赤崎のことを思うと、むしろ古傷に塩を塗りこんでいるようにしか思えないのだ。
「…これでも一応、わかっているのよ、それくらい。祭に言われなくたって」
自分がひどいことをしているって自覚は、ちゃんとある。青子はそう言った。
ぴたりと彼女が足を止めたので、緑間もそれにつられて立ち止まる。青子の顔は伏せられていたが、アスファルトに転々としみができていることに緑間はすぐ気がついた。
「でも、こんな日だからこそ、傍にいたいの。少しでも傍で静と、喜びや悲しみを共有したい。祭だって、そう思っているでしょう?」
涙に濡れた声は震えていた。
彼女があまりに頼りなく感じられ、掴まえておかなければどこかにふらっと消えてしまいそうだと緑間は思った。ほとんど無意識の内の手を伸ばした彼は、そっと包み込むように彼女の体を抱きしめる。
青子は腕を回すことはせずに、ただ彼のYシャツを力なく握るだけであった。それはまるで縋るように、何かを緑間に訴える。
七年前の“消えた一週間”を境に、彼女は全くと言っていいほど人前―否、赤崎の前では涙を見せないように生きてきた。理由は、七年前の七月七日に、赤崎が泣かなかったからだ。
両親に置いていかれ、本来ならば祝福されるはずだった誕生日に自分の生を否定されて尚、わずか十歳だったにも関わらず赤崎は泣かなかった。
だから青子は決めたのだ。今目の前には自分よりもずっと辛い状況に身を置いている人がいて、それを不幸だと達観していながら、その人が涙を流すことをしないなら―その人よりもずっと幸福である自分が涙を流すだなんておこがましいと。
だから自分は、決して涙を見せないようにしようと。
だが、青子も人間で、それに加え女である。これから一生涯泣かないことなどできるはずがない。ならばせめて赤崎の前では涙を見せずに生きていこうと、心にそう留めたのだ。
泣けない赤崎の代わりに涙を流すのは、自分の役割ではないのだろうと、彼女自身どこかでわかっていたから。
「…そうだな。助けて、とは縋ってこない奴だ。だったら、俺達がいつも傍で手を伸ばしておかねえとな」
優しく、宥めるように緑間は青子の背中をさすった。
「…うん」
「その為にもまず、その情けない面をどうにかしないとな。お前には笑顔が似合ってんだ、いつでも笑ってろよ」
「…はは、さっきのナンパよりも、ずっと上手い殺し文句」
二人は小さく笑った。
「今年の七夕も盛大に盛り上げてやらないとな」
静の誕生日を祝うことはしなくなった。他でもない赤崎静自身がそれを望んだからだ。
だから七年前の七月七日以降、赤崎にとって七月七日は自分の誕生日ではなく、七夕という意識の方が強くなり、誕生日パーティではなく、七夕パーティを開くようになった。
だから毎年、短冊に願い事を書いて葉竹に吊るすことはあっても、誕生日ケーキを用意することはしなかった。
おそらくそれが、赤崎にとっての誕生日プレゼントになるのだろうと思っていたから。
「…ええ、そうね。そうよね、祭」
「お、やっといつもの顔に戻ったな。青子」
抱きしめていた青子の体を解放し、再び夜の道を二人は歩き始めた。
このままではダメなんだろうと、心のどこかでわかっていながら―それでも彼らは、何も出来ずにいた。
いつかそのことを、後悔する日が来るとも知らずに。
「…ふう」
大雑把だが片付けを一段落終えた赤崎は、ぼすっとソファにダイブして寝転がった。
着替えるのが面倒だった彼は、帰ってからも制服のままでいた為、このまま間違って眠りでもすれば、Yシャツなり制服なりにしわがつくのは確実だった。まあ、しわがついたところで、良く出来たあの幼なじみが丁寧にアイロンをかけてくれることはわかりきっていたし、元々自分の身なりにあまり関心がない赤崎は、勿論そんなことをいちいち気にしたりはしない。
このまま寝てしまいたいという気持ちもあったが、明日の仕度も風呂も済ませてはいなかったし(そんなものは明日の朝やればいいという思いの方が強かったりするが)、何より眠れそうな気分ではなかった―このまま眠ってしまえば、確実に悪夢を見るだろうという確信にも似た思いがあった為、夢への舟こぎはもうしばらく後になりそうだった。
「…あ」
(日付が変わった)
ふと目に入った掛け時計を見やると、ちょうど秒針が十二の文字盤を通り越し、日付が明日に変わった。
祭の話によると今日―否、昨日は六月三十日だったらしく、日付の変わった今日は、考えるまでもなく七月一日ということになる。
それがどうしたと聞かれれば、別にどうということはない。
赤崎にとって今日の七月一日に意味はないからだ。彼にとって意味を持つのは、八年前の今日だけである。少なくとも赤崎にとって、十八歳で迎えた七月一日と十歳の頃に迎えた七月一日は同じではない。
あの一週間は終わったのだ、八年前に。
(だから、祭や青子が、あんな顔をする必要はないんだ)
あれは赤崎の過去の事情であり、全くとは言わないまでも二人には関係がない。緑間と青子まで同じ傷を背負う必要はないのだ。
僕の傷は、いつまで経ってもどこまでいっても僕の傷―それが、赤崎の考え方である。
だからこそ、たとえ二人の気持ちは嬉しくとも、できることならこんな醜い傷を抱えてほしくはなかったのだ。それはきっと、いつかどうしようもないほどに、彼らの足枷になるだろうから。
「本当は…離れられれば、一番良いんだろうけど」
そう、赤崎が離れることを選べるのなら。
彼らは少なくとも、赤崎のことで悲しみに暮れたりはしなくなるだろう。
それができれば、彼らはおそらく救われるのだろうけれど。
「それは…やっぱり嫌だなあ」
もしも今二人を失えば、赤崎はおそらくまた、生きる意味を見失ってしまうだろう。七年前の、あの日のように。
(そうしたら、きっと―僕はもう、この世にはいられない)
「…結局僕は、自分を甘やかしたいだけなんだろうね」
そしてそんな彼に対し、緑間と青子はとことん甘かった。そしておそらく、二人はそれを苦痛には思っていないのだろう。
だから赤崎は振り切ることができずに、ぬるま湯の中から抜け出せないままでいる。
向き合わなければならない過去と、向き合おうともしないで。
「…もう、寝ようかな。やっぱり」
ふああ、と欠伸をし、赤崎は大きく伸びをした。
相も変わらず制服のままで、明日の仕度も風呂もやるべきことは何一つ終わってはいないのだけれど、「ま、明日でいっか」と彼は全てを投げ出した。
ベッドへ行くか迷ったが、如何せん動くのが面倒だった赤崎は、手近にあった座布団を半分に折って枕代わりにし、そのままソファで寝ることにした。
寝心地は悪いだろうし、朝目が覚める頃には体中が痛くなっているだろうけれど、それでも良い夢が見られるはずだ。リビングにはまだ、楽しさの残骸が残っている。
電気もテレビも付きっぱなしだったが、そんなものはお構いなしだ。
「…おやすみ」
ゆっくりと目を閉じ、赤崎は小さくそう呟いた。それが誰に対して発せられた言葉であったのか、それを知る術はここにない。
からっぽの家に、今日も彼は独りだから。
第一章 第一話 「死んで、それから」
ずっと一緒にいられたら、と思っていた。
これから先、高校を卒業して、大人になって、多分それぞれが自分だけの未来を描きながら、生きていくんだろうけれど。多分その最中に僕らは何度もすれ違い、衝突するんだろうけれど。
それでも出来うる限り、一緒の未来を描いていきたいと思っていた。
“ずっと”は無理かもしれない。別れはやっぱり訪れるかもしれない。
でも、できることなら、二人が手を差し伸べてくれる限り、僕が自分からその手を離すことだけはしたくないんだ。したくないんだよ。やっぱり、僕の我儘だけど。
でも、我儘の融通が効くのは子供の内だけなんだって、誰よりも僕自身がわかっている。だから、
一緒にいられる現在(いま)を大事にしようと、そう決めたんだ。
いつか離れる日が来た時に、笑って「またね」と言えるように。
(じゃあ、)
「一緒にいられなくなったことが、僕の未練だったのかな」
離れるその時が来るまで一緒にいたい。一緒の未来を描きたい。
それが僕の我儘で成り立っていることは従順承知だったけれど、その想いの強さで僕が〈こっち〉に留まってしまっているというなら、それはもう、我儘という言葉だけでは片付けられないだろう。
「なんだよそれ。そんじゃお前、ずっと〈あっち〉に行けねえじゃん」
僕の独白にも似た独り言に、すぐ側に立っている幼なじみが、困ったように笑いながら返事をした。
―確かに、それもそうだ。
「…うん、でも、それもいいんじゃないかな。別に」
「いいわけねえだろ。何すっとぼけたこと言ってんだお前は」
ぺしっと祭が僕の頭をはたく。痛みはない。はたかれたように見えただろうけれど―実際、はたかれたことに変わりはないのだけれど。
僕の体は、もう祭にしか触れられなくなってしまっていて。
その祭ですら、いつかは僕に触れられなくなることを、僕は知っていて。
それがまるで呪いのように、徐々に僕を蝕んでいく。
僕はいずれ、誰にも視覚してもらえない、触れることも、触れられることさえ、叶わなくなってしまうから。
僕はもう、〈ここ〉にいてはいけないモノだから。
「…だって、〈あっち〉は独りだよ。僕、もう独りは嫌だ。僕は…祭や青子達と、ずっと一緒に、」
「じゃあ、俺も一緒にいってやる」
祭の発言に驚くことはしなかった。それは、この幼なじみが冗談を言っているとわかっているから―などではなく、むしろその逆で、こんな風なことを平気で言える奴だと知っているからだ。そして今でも、祭が罪悪感に苛まれていることを、僕自身がわかっているから。
僕が逆の立場でも、きっと今の祭と同じことを言っただろう。
良く出来た幼なじみは、気づけばいつも僕を軸にして生きている。
それは嫌だな、と思った。一緒にはいたいけれど、祭を〈あっち〉に連れて行きたくはない。それをしてしまったら、僕が何の為にこういう結果を迎えたのか、またわからなくなってしまう。
「俺の命くらい、お前にやるよ。静」
恐れてはいなかった。祭の表情は、悲しいくらいに優しかった。
「…だから、さっさと成仏して楽になれよ、バーカ」
それができたら、苦労はしていないんだけどね。
***
死んだ後、人間は死ぬほんの少し前の出来事が、一時的に記憶から飛んでしまうらしいことを、弱冠十八歳という若さで赤崎は知った。できることなら知りたくなんぞなかっただろうが、いくら嘆いたところで知る前の自分にはもう戻れない。
ふわふわと宙を浮く赤崎は、道路の真ん中で血だらけになって横たわっている自分の体を見下ろした。
(…どうして、)
自分は今ここにいるというのに、自分の体が道路の真ん中に転がっているのだろう。赤崎は首を傾げる。というか、何故自分は空を飛んでいるのか。
幼なじみの緑間が、必死に血だらけの赤崎の体を揺すっている。その顔は蒼く、涙でぐしゃぐしゃに濡れている。そこで赤崎は、ひとりでに「あ、」と声を上げた。
「静…!おい、静…っ目、開けろよ!嘘だろ、なあ!こんなところで…勝手にひとりで、いってんじゃねえ…!目開けろ!バカ静!」
(ああ、そっか)
赤崎は、自分の両手をまじまじと見やる。
「僕は…死んだんだっけ」
まだかろうじてあの体は生を繋いでいるかもしれないが、その体から離れた幽体離脱状態の自分が今ここにいるのだ、おそらくもう直息絶えるのだろう。
自分が死んだというのに、赤崎にはあまり現実味がなかった。何故か他人事のように思えてしまうのだ。
自分は確かに、死んだというのに。
「死ぬな…死ぬなよ…頼むから、目を開けてくれ…っなんで、よりにもよってこんな日に…静!」
よりにもよってこんな日に。
(わかっている…わかっているよ、祭)
今日は―七月七日。記憶違いでなければ、今日は赤崎の誕生日である。本当に、幼なじみの言う通り、“よりにもよってこんな日に”であった。
(いや…こんな日だからこそ、か)
赤崎は薄く笑った。今日は確かに、本来ならば祝福されるべき赤崎の誕生日だ。だがそれと同時に、最も赤崎の誕生日を祝福するべき存在である母親から、その生を否定された日でもある。そう思うと、ある種の必然性のようなものを赤崎は感じた。
まあ、実際は―母親では、なかったのかもしれないけれど。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。おそらく救急車とパトカーが来たのだろう。
(ああでも、救急車はもう要らないかな)
なんて、そんなことを思いながら、赤崎は担架で運ばれていく自分の体を眺めていた。
猛スピードで走っていく救急車を見送り、とりあえず赤崎は溜息をつく。
「さて…これからどうしようか」
一応救急車を追いかけようかとも思ったのだが、どうやら死んだ赤崎の体に、幽体である赤崎は一定の範囲以上近づく事ができないらしかった。体に戻ろうとしても、まるでそれを拒絶するかのように、赤崎のことを弾き返すのである。自分の体に、宿主である自分が拒絶されるなど、なんともまあちぐはぐであった。
本格的にお化け化してしまった赤崎は、これからどうするべきか面倒ではあるものの、一応考えてみる。そもそも今の自分をお化けと認識していいのかすら怪しいものであったが、まあその辺のことはとりあえず置いておこう。
というか、そもそも何故自分は幽霊になんてなってしまったのか―いや、まあそれはわかっている。赤崎が車に轢かれたからだ。緑間を庇って。
(そう、それはわかっている)
赤崎は夢を見たのだ。七月七日の午前一時くらいから七月七日の午前七時―いつものように緑間からの電話で起こされるまでの、その時間に。
学校が終わり、いつものように一緒に帰っている下校の最中、突然車が飛び出してくる。呆気に取られた赤崎を庇い、緑間が車に轢かれてしまう夢だ。まさに今の逆パターンである。
たかが夢。いつもの赤崎ならば、そう片付けていてもおかしくはなかっただろう。
されど夢。それはひどく鮮明で、怖いくらいに現実味を帯びた夢であった。嫌な予感しかしなかったのだ。
だから赤崎は、その夢が現実になる要素を作らないために、夢の内容を変えた。学校に着いてすぐ赤崎は、「今日は一人で帰る」と緑間に言ったのだ。
ところが緑間は、赤崎のそれを「ダメだ」の一言で一蹴したのである。そして、「今日だけは一緒に帰らないと」と、必要にそれを要求してきた。緑間が赤崎に対し何かを強く求めたり、赤崎の意見を突っぱねたりする事は、そうそうあることではなく、また赤崎も、緑間がダメだと言ったらある程度のことは諦めるのが常であった。
それでも赤崎は、退くことができなかった。あれがただの夢だとは、どうしても思えなかったから。
結局最後までお互い折れることはしなかった。赤崎は赤崎で強情だったし、緑間も緑間で強情だった。それは次第に口論へと発展し、最終的には喧嘩になった。勿論殴り合いなどではなく。
喧嘩は、緑間の吐き捨てるような「勝手にしろ」という言葉で幕を閉じた。去っていく緑間の後姿が寂しげに見えて、赤崎の良心は少しだけ痛んだ。
幼少期はさておき、最近は喧嘩などほとんどしたことはなかったし、あんな風に自分の感情を露わにした幼なじみを、赤崎は久しぶりに見た。
今日が僕の誕生日で、“特別な日”だったから。
だから祭は僕をひとりにさせたくなくて、あんなに躍起になっていたのかもしれない―と、赤崎はそう思った。それでもひとりで帰路に着いた。
もうすぐ、夢の中で緑間が交通事故に遭った交差点にさしかかる。だが夢の中とは違い、赤崎は一人だ。緑間はいない。これであの夢は杞憂に終わった―そう、赤崎は思っていた。思っていたのに。
『行くな!静!渡っちゃダメだ!』
とっくに帰ったと思っていた緑間が、すぐ後ろを追いかけてきていたのだ。
『祭…!?なんで』
『いいから!絶対渡んなよ!そこから一歩も動くんじゃねえ!』
彼が何を言いたいのか、赤崎には皆目検討がつかなかった。というか、それはこっちの台詞だった。
『馬鹿!来るな、祭!』
嫌な予感がする。丸っきり夢の通りではないにしろ、このタイミングで緑間がこの場に現れたことに、赤崎はひどく狼狽していた。ダメだ、ダメだ、このままじゃ、祭が。赤崎の頭にはそれしかなかった。
そうこうしている間に一台の車が、ハンドル操作を誤ったのか道路から飛び出し、信号待ちの赤崎に向かって猛進してきた。
(な…っ)
赤崎は動けない。夢の中でもそうだった。
赤崎は動けない。ならば、夢の中で何故赤崎は助かったのか―そう、幼なじみが庇ったからだ。緑間が赤崎を突き飛ばし、彼が赤崎の代わりに事故に遭った。
赤崎は動けない。だが、動かなければ緑間が来る。そして緑間が赤崎を庇う。
(ダメだ…それだけは絶対に…!)。
赤崎は思いきり唇を噛む。そして、動かない体に叱咤し、赤崎は車と衝突する寸前でギリギリそれを避けた。あと数秒判断が遅かったら、おそらく間に合っていなかっただろう。赤崎はぺたんとその場に座り込んだ。
息を荒げた緑間がすぐ傍まで来ていて、赤崎のことを力いっぱい怒った。赤崎はただ苦笑いをして、それを聞いていた。
若干の誤差はあったものの、夢は終わった―そのはずだった。
信号が青になり、二人は道路を渡った。勿論いつものように、二人一緒に―だ。
それこそが、赤崎の夢の真実だとは知らずに。
(…あれ)
そういえば、夢の中で緑間を引き摺ったあの車と、今しがた飛び出してきた車は―違うものではなかったか?
(夢の中で、祭を轢いたのは)
信号を無視して、勢いよく曲がってきた車が飛び出した。赤い車だった。
体が動いたのは、おそらく反射などではなく―正真正銘、赤崎の意思だ。
緑間の体を突き飛ばし、歩道側へと追いやる。
幼なじみの顔は、見ないようにした。
そして僕は―
(車に轢かれて…そう、死んだ)
夢は終わったのだ。違った結末を迎えて。
そこまでは思い出した。自分が今肉体を持たない“幽霊”になっている理由も、頭では理解している。だが、問題はそこではない。
どうして幽霊になってまで現世に留まっているのか―それが今、赤崎が最も考えるべき優先事項だろう。
「人っていうのは、死んだら天国か地獄にいくんじゃないのか…」
幼稚な発想ではあるものの、あながちその考えは間違いでもないのだろう。というか、現世に留まる方がよっぽど間違っている。
しかしどうしたものか―幽霊の赤崎は、彼の意思とは関係なしに、天国やら地獄やらにいくつもりはなさそうだった。困ったものである。
霊が現世に留まってしまうのには理由がある。そのほとんどが“やり残したことへの後悔”や、“未練”に当てはまり、そしてそれが事実であるということを、赤崎はよく知っている。想いが強ければ強いほど、霊が成仏できなくなることも、成仏できないまま彷徨い続け、自分が何であったのかさえ忘れてしまうということも、最終的には悪霊になりかねないということも。
幽霊の類を毎日のように見かけていた赤崎は、そういう未練を残して成仏できずにいる霊を、何度も見てきた。
(…ということは)
「今、現在進行形で現世に留まっている僕も、そのパターンに当てはまるのかな…」
未練なんて、あんな望まれない人生の中に、僕は未練なんてものを置いてきたとでも言うのだろうか。死ぬ時はぽっくり逝くだとばかり思っていたのに、なんだかとても、らしくない。
(僕の、未練)
それって一体、なんだろう。
第一章 第二話 「消失と、再会」
雨が、降っている。
「まるで、今の俺の心の中みたいだな…」
なんて詩人みたいなことを呟いてみたはいいが、それがあまりに似合わないものだから思わず彼―緑間祭は失笑してしまう。
緑間は窓を開け、空模様を窺った。重たい鉛色の空、しばらく雨は止みそうにない。
ふと、携帯の着信音が鳴った。馬鹿みたいに明るい、今の緑間とは対照的なアップテンポのその音楽がやけに耳障りだった。
一息ついてディスプレイを覗くと、映し出されたのは可愛い後輩である響の名前で、「またか」と緑間は呟く。申し訳ないとは思いつつ、緑間は後輩からの電話を放置した。
つい五分ほど前には琴乃から電話がかかってきているが、その電話にも彼は出ていない。おそらく心配してくれているんだろうと頭ではわかっているのだが、誰かと話す気分にはどうしてもなれない―それが緑間の今の心境であった。
あれから五日、緑間はずっと家に引きこもっていた。学校にも行っていないし、姉とも最低限の会話しかしていない。
(……静)
七月七日。あいつは俺を庇って死んだ。自分の命よりも俺の命を優先して。ただの幼なじみの為に―あいつは、命を捨てた。
あの日、静は執拗に一人で帰ると言って聞かなかった。その日に限って、だ。俺の気持ちも知らないで。
夢を見た。
放課後、いつもなら一緒に帰る岐路に、静は一人で着いていた。隣りに俺がいない、変な夢だった。そしてもっと変な事に、夢の中で静は交通事故に遭って死んだ。変な夢じゃなくて、ただの悪夢だった。予知夢でないことを心底祈った。
万が一それが正夢であったとしても、俺と静が一緒に帰らない日なんてそうそうないから。だからそれが現実になるわけがないんだと、そう思っていた。それなのに、
―静が、一人で帰りたいと言い出したのだ。
どうしても今日だけは、と何かに怯えているかのような目をしていて、今思えばあの時の静は、どこか様子がおかしかった。おかしかったことに気づいた時には、あいつはもう。
いつもなら、“わかった”の一言で済んでいただろう。静がしたいと言ったことは極力、出来うる限りさせてやりたいと思っていたから。
それを言われた時、頭を過ったのは今朝見た夢のことだった。あれがただの夢だとは、どうしても思えなかったから―どうしても、あいつを一人で帰らせたくはなかった。
話し合いは口論に発展し、それでも静は頑として一人で帰ると聞かなかった。結局俺は、「勝手にしろ」と突き放すような言葉を置いて、その場を去った。静と喧嘩をしたのなんて、何年ぶりだっただろう。まさかあの日のあれが、静と喧嘩する“最後”になるなんて、思ってもいなかった。
そうしてあっという間に一日が終わり、俺は一人で下校していく静の背中を教室の窓から見下ろした。あの背中を見るのが、もしかしたら今日で最後になるかもしれない―なんて、そんなことを、一瞬でも思ってしまって。
夢での出来事が脳を過ぎった。
そうしたらやっぱり不安になって、後悔したくなかったから俺は全力であいつを追いかけた。
『行くな!静!渡っちゃダメだ!』
追いついた時にはもう、静は夢で事故が起きる交差点にさしかかっていた。もしもあれが、万が一にも正夢になったなら―もう直必ず車が飛び出してくる。白い車だ。
俺が後ろから呼び止めると、静は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように目を見開き、心底驚いている様子だった。俺は、とにかく必死になって渡るなと念を押した。
『馬鹿!来るな、祭!』
すると、あいつにしては珍しく声を張り上げた。今思えば、どうして静は俺に「来るな」などと言ったのだろうか。
だが、あの時の俺には、少なくともそんなものに耳を傾ける余裕は、皆無であったわけで。
(ふざけんな…あんなエンディング、まっぴら御免だっつうの!)
たとえ俺が死ぬ事になったとしても、静だけは生かしてみせる―そんな風に思っていた。
今日があいつの誕生日だったから。
あいつが生まれてきた日だから。
結局、生かされたのは俺のほうだったわけだけれど。
案の定、夢の通り白い車が静に向かって飛び出した。これほど望まない正夢もあったもんじゃない。
必死に手を伸ばしても、俺と静の距離は埋まらない。
俺は結局間に合わなかった。
でも、だからと言って静は死ななかった。飛び出してきた車を、寸でのところであいつは避けたから。
俺は静が無事だという事実に心底胸を撫で下ろし、涙をぐっとこらえてしかりつけるように怒鳴った。俺と帰っていればこんなことになってなかったのに!
静は情けない笑顔を浮かべて、俺の説教に耳を傾けていた。助かった事に安堵したのか、あいつの体は小刻みに震えていたように思う。
とりあえず、夢は終わった。静は死ななかった。俺も死ななかった。それが現実だ。
それだけの現実が、泣きそうになるほど嬉しかった。
嬉しかったのに。
『…ああ、そういうこと』
そうして二人で信号を渡る直前、静は悟ったような―まるで昨日の夕飯のおかずを思い出したかのような、軽い口ぶりでそう言った。
その直後、信号を無視した赤い車が俺たちに向かって突っ込んできた。おかしい、こんなのは俺の夢にはなかったはずだ。
呆気に取られて動けなくなった俺を、静が歩道側へと突き飛ばした。その衝撃でしりもちをついた際、俺は思わず目をつぶってしまった。
この時目をつぶったのは、俺にとっては多分不幸中の幸いで、もっと言えば幸せなことであったんだと思う。
目を開けた俺の前に広がっていたのは、真っ赤な鮮血と道路に転がっている幼なじみの姿だった。
―静は、俺を庇って、車に。
(あ…ああ…)
気がおかしくなりそうだった。
俺たちは幼なじみで、小さい頃からずっと一緒にいて、これからも一緒にいる予定だったし、あいつには俺がいないとダメだから、だから―なんて。
嘘だ、本当は、あいつがいないとダメなのは俺の方だ。俺の方だった。
でも、静は今、俺を庇って、血まみれの状態で倒れ伏せている。生きているのか、死んでいるのかさえわからない静に、俺は何を言えばいいのか。
あいつがもう目を開けないことを、俺自身のどこかよくわからない冷静な部分が、悟っていて。悟りきっていて。その事実が冷たく胸を撫でた。
そうして我に返った俺は、静に駆け寄って体を揺する。よくあるドラマのワンシーンのようだった。
静の体は重たかった。華奢で痩せ型なこともあり、静は高校男子の平均体重を大幅に下回っていたはずだった。それでも、静の体は重たかった。体を支えることを、放棄しているようにさえ感じた。
息はもうなかった。その目は開く気配すらなかった。
『…っ静あああああああああああ!!』
俺はその後気を失った。目を覚ましても、あれはやっぱり夢じゃなかった。
葬式ならびに告別式は一昨日と昨日、滞りなく行われた。少しくらい滞ってもいいんじゃないかと思うくらい、本当に、あっさり。
静の両親は相変わらず行方知れずで、あいつが亡くなったことすら、多分知らないだろう。連絡が取れなかったあいつの両親の代わりに、孫の死を聞きつけた静の祖父母(藤(とう)黄(おう)家)が、色々と手を回したようだ。
式場では、みんな泣いていた。俺の家族も、青子の家族も、藤黄家の人たちも、クラスの連中も、もっと言えば、そこにいた人たちみんな、静が死んで泣いていた。
響と琴乃と優には、どうしても伝えることが出来なかった。いつまでも隠しておけることでないことくらい、わかっていたはずなのに。
青子の姿だけが見えなかった。
俺は泣かなかった。いや―泣けなかった、の方が正しい。多分まだ、現実を受け止める事が出来ないでいたんだろう。
俺は本当に弱い人間で、今も昔も何一つ変わってなんかいなくて、見たくないものから目をそらす子供だった。
こうやって“あの日”のことを回想出来るようになった今でさえ、「ただいま」と言って静がひょっこり帰ってくるんじゃないかと思っている。馬鹿だ、俺。
青子の方も相当状態が悪いようで、かろうじて生を繋いでいるような、危うい状態らしい。姉から聞いただけで本人には会っていないが、青子の状態は容易に想像出来た。
当たり前だ、俺たち三人は昔からの付き合いで、ずっとずっと一緒だったのだから。立ち直るには、相当時間を要することになるだろう。
勿論それは俺だって例外じゃない。
そもそも、立ち直れるのかさえ、定かでないのだから。
俺は多分、あいつに依存していたんだろう。赤崎静という人間に、どうしようもないほど固執して、依存してしまっていたんだ。俺の世界っていうのは、多分そんな感じで、静を中心に回ってた。俺にとってあいつは、それくらい大きな存在だった。
“あの日”からずっと、俺の胸にはぽっかり穴が開いている。どうしたって埋めようのない穴だ。最早埋めようとすら思わない、空いた空白。
何故穴が開いてしまったのか。
依存の対象がなくなったから?
それとも、俺の世界を回していた、大事な歯車が欠けてしまったから?
―きっと、そんな難しい理由を俺は持ち合わせてはいないんだろう。
(俺はただ、)
あいつがいなくなって、哀しくて苦しくて辛くて―泣いてしまうくらい、寂しいだけなんだ。
きっとあの馬鹿は、俺がこんな気持ちになるとは露ほどにも考えずに、自分の死を選んだんだろう。残される側の気持ちは、一切合財考え無しだ。
結局あいつは、どこまでも唯我独尊で、自分本位な人間だった。ただそれだけだった。それに対して怒りなんてものは湧いてこないし、むしろ清々しささえ感じてしまう。
(…ま、今の俺には清々しいなんて思う余裕、ないけどな)
馬鹿だと思われても構わない。ここ数日、ずっと静の後を追おうか考えていた―迷って、いた。ただの幼なじみの為にそんなことを迷うなんて、自分でもおかしいと思う。周りも多分、おかしいと言うだろう。
でも、だってしょうがない。俺とあいつの繋がりは、“幼なじみ”という枠の中に入りきらないところまできていたんだから。
それでも、例えそうであったとしても、やっぱり迷うなんておかしいんだ。
俺はあいつに生かされたんだから。
あいつに生かされた結果が、今の俺なんだから
あいつの分も生きる義務っつうのがあるわけで。後を追う追わないなんて、そんなことで迷っていいはずがないんだ。おかしいという自我がある。そこが俺と静の決定的な違いかもしれなかった。
俺は結局、静のようには生きられない。
「静…ほんと、馬鹿だよ。お前」
雨は止まない。
「そんな顔をしている人に、馬鹿だなんて言われたくないよ」
(―は、)
声が聞こえた。よく知った、聞き慣れていたはずの、それでいてひどく懐かしい声が聞こえた。
幻聴かと思った。というか、幻聴でないはずがなかった。だってこの声は、ついこの間失われたはずで。
俺の前から、跡形もなく消えたはずで。
「なんて顔をしているのさ…まあ、その様子だと視えているみたいだね、祭」
ああ、視えてる。視えてるとも。視えていないはずが―ないだろうが。
でも、だからって。
こんなこと、信じられるか。
「…それ、不法侵入なんだけど」
「何を今更。今の僕には法律なんて適用されません」
「プライバシーの侵害だ、馬鹿」
「それも今更だよ…って、なんで泣いているのさ、祭」
なんで泣いているのか、だって?お前がそれを俺に聞くのかよ。つくづく馬鹿だ。大馬鹿野郎だよお前は!この野郎!
「…泣いてねえ」
静は何も言わなかった。“どう見てもそれ、涙でしょ”とか、生きていた頃なら確実に言ってきたようなことを、何も言ってはこなかった。
代わりにその表情が泣きそうに歪んだ。あいつは、泣きそうな顔で笑ったんだ。
「ただいま…で、合ってる?」
「合ってねえよバカ静……おかえり」
こうして。
こうして、そうして、ああなった結果。
幽霊となった赤崎静と、幽霊が視え、尚且つ引き寄せてしまう霊媒体質である緑間祭は、少々奇妙な形で再会を果たす。
もうすぐ雨は、止むかもしれない。
***
「で、お前なんでいるんだよ」
緑間が回転式の椅子にまたがり、くるくると回りながら今更のようにそんなことを赤崎に聞いた。勿論赤崎としては、そんなことを聞かれたところでこう答えるしか手段がない。
「……さあ?」
「さあってお前ね…」
というか、それがわかれば初めから苦労などしていない。
赤崎自身もわからないなりに考えはしたが、それでも結局結論には至らなかったのである。だから最後の望みにかけて、彼は緑間の家にやってきたのだ。自分のことが視える緑間なら、一緒に解決策を練ってくれるのではと思って。
「わからないんだよ。気づいたらお化けになってた。理由があるからこっちに留まっているんだろうけど、その成仏できない理由っていうのが、いまいちピンとこないんだ」
赤崎は緑間の部屋のベッドで、足をバタつかせる。勿論幽体なので、赤崎自身にはベッドに座っているという感触はない。
そういえばと思い返し、彼の部屋―どころか、家に来ること自体幾久しいことに赤崎は気がつく。大概緑間の方が赤崎の家に通う形で落ち着いていたし、幼少期に五年間ほど居候していた時期を除くと、本当に数えるほどしか赤崎はこの家に上がった事がなかった。
まさかこんな形で祭の家を訪れることになるとはな―と、赤崎は苦笑いをする。
「んー、そういうのは俺じゃなくて、姉ちゃんのが詳しいかもな」
「ああ、美咲さんか…確かにそうかもしれない。僕や祭と一緒で霊感も強いし」
緑間には三つ歳の離れた姉がいる。名は緑間美咲と言って、誰にでも優しく温和な、大げさにいうと聖母のような女性だ。将来は看護士を目指しているようで、今は専門学校に通っている。
赤崎も幼い頃からお世話になっていたし、本当の弟のように可愛がってくれていたことも知っている。それでも、会うのは久しぶりのことだった。
「よし、じゃあ下行くか」
「うん」
ちなみに、今この家に住んでいるのは祭と美咲の二人だけである。
彼らの両親は、故人などではなく勿論健在しているが、今は両親共々海外出張に出ていて日本を離れている。生活費やその他諸々にかかる費用全般は、二人が困らないように仕送りされているので、あまり生活には困っていないし、家事はほとんど美咲が担当しているので、緑間の生活は割りと悠々自適のようだ。例外として、料理だけは緑間が担当しているようだが。
「姉ちゃん、ちょっといいか?」
二階から降りて(この家は二階建てで、緑間の自室は二階にある)リビングに入ると、キッチンに立って食器を洗っている美咲がいた。赤崎は久しぶりに彼女を見て、何も変わっていないことに何故かほっとする。
緑間に声をかけられた美咲が、きゅっと水道の蛇口を閉めると、タオルで手を拭きながら「なに?」と振り返った。
その瞬間、ぽろりと彼女の手からそのタオルが滑り落ちる。
まん丸に見開かれたその目は、確かに赤崎を捉えていた。
「え…あ、え?なんで…」
「お久しぶりです、美咲さん。こんな形でまた会うことになって…なんか、すみません」
ぺこりと赤崎は頭を下げたのだが、彼女からの反応はない。突然の事に頭がついていけていないのか、美咲は呆けたような顔をしていた。目を何度も瞬かせ、赤崎と緑間を交互に見ている。
「本当に…静くんなの?」
未だに信じられないものを見ているかのような、戸惑いと困惑がない交ぜの目が赤崎に向けられる。
これでも一応、赤崎静という人間は死んだ設定になっているので、そういう反応になるのは無理もない。たとえ幽霊であったとしても、死んだはずの人間が目の前に現れれば誰だって驚くだろう。
赤崎は小さく頷いた。すると、彼女の表情は見る見るうちに歪んでいき、ぽろぽろと涙を流して小さく泣いた。
「静くん…静くん、」
「はい、美咲さん」
こんな世界でも、あんな―望まれない人生だったとしても、やっぱり捨てたもんじゃなかったのかもしれない。今更になって、そんなことを赤崎静は思った。
ここには、彼の為に泣いてくれる人が、確かにいる。
「…ってことなんだよ、姉ちゃん。こいつ、なんでこっちに留まってるんだと思う?」
美咲が落ち着きを取り戻した頃合いを見かね、とりあえず二人は一通りの状況を説明した。
未だに彼女は鼻をすすっていたが、涙はもうすでに引っ込んでいる。
「…成仏できずに現世に留まってしまう霊は、そのほとんどが現世でやり残した事への未練や、後悔によって縛られてしまった霊なの。現世に対する強い執着、憎しみ、愛情、後悔…その想いが強ければ強いほどその霊は現世に縛られ、その状態が長く続くと、地縛霊や最悪悪霊になってしまう場合もある。静くんに限って、悪霊に堕ちてしまうことはないだろうけど…」
「つまりこいつには、こっちに留まってしまうだけの未練やら執着やらがあるってことか?」
「おそらくね」
二人の目が一斉に赤崎の方へと向いた。当の本人は、居心地悪そうに肩を竦める。
(そんなのはわかってる)
赤崎とて伊達に幽霊が視えていたわけではない。これまで幾重の期間、数多の霊を視てきたのだ。赤崎が成仏できない理由が、その中の大多数の霊と同じように未練や後悔であるということを、それこそ目を覚ました時から気づいていた。
だが、問題はそこではなく、もっと別のところにあるのだ。
「お前、心当たりあるか?」
「ない」
「だよなーお前のその目、とてもじゃないけど未練やら執着やらがあるようには見えねえもん」
緑間の言い分は、弁解の余地がないほどその通りであった。
それは赤崎が、目が覚めた時にも考えたことだ。考えはしたものの、それでも答えはまっさらであった。
“成仏できない霊は、その大多数が現世への未練や後悔によって縛られている”
だが、赤崎にはその「未練」や「後悔」、「執着」が全くと言っていいほどないのだ。それに結びつく何かを、赤崎は全く持っていないのである。
“成仏できない理由”に値する未練など、後悔など―赤崎は持ち合わせていないし、まるで身に覚えもなかった。
「僕には、未練なんてない…ないはずなんだ」
「静…でもよ、じゃあなんでお前」
「きっと、それがわかっていれば、僕はここにはいないんだろうね」
赤崎は薄く笑った。
しばらく沈黙が続く。あの緑間でさえ、暗く重たい表情を浮かべていた。
「でも…何かあるはずよ。静くんの心を強く現世に引きとめる“未練”や“後悔”が」
それがわからなければ、静くんはずっと成仏できないと思う。断定はしなかったが、美咲はそう言って目を伏せた。
「力になれなくてごめんね」
そうして彼女はまた泣いた。そして、小さな震える声で「祭のこと、助けてくれてありがとう」と確かにそう言った。緑間は何も言わず顔を背ける。
赤崎は首を横に振った。
「…僕の意思でやったことですから」
おそらく彼の中で、それだけは決して揺るぎない事実であったのだろう。
誰になんと言われようと、赤崎静は緑間祭を庇ったことに、後悔などしていないのだから。
***
さて、ちょっと困ったことになった。
勿論赤崎の未練やらなんやらの正体がわからない問題も、解決はしていない。赤崎自身、やはりそんな上等なものは持ち合わせていないというのが現状だ。
そもそも赤崎が成仏する為には、自分自身で“それ”を思い出さなくてはならない。
それが絶対条件で、赤崎が“それ”を思い出さない限り話は全く進まないのだが―それ以前の問題が、ここにきて発生してきたのだ。
「おいおいおいおいおい…マジかよ」
緑間の顔が見る見る内に引きつっていく。赤崎も同じような表情を浮かべていた。というか、今この状況下において、それ以外の感情を表情に表すのは難しいだろう。頬の筋肉がぴくぴくと痙攣を繰り返している。
今更になって思い出したことがある。生きていた頃はそれが当たり前の日常だったので、赤崎も緑間もすっかり忘れていたくらい、今更の事だ。
それは、緑間がただ霊感が強いだけではなく、引き寄せてしまう霊媒体質であったこと。そして生前の赤崎は逆に、原理こそわからないものの、霊を寄せ付けない体質であったこと。
そしてもう一つ―赤崎自身が今現在、引き寄せられる側の存在であることを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「…残念ながらマジっぽいよ」
迂闊に近づくんじゃなかったな、と緑間の家を訪れた事に対し、赤崎はほんの少しだけ後悔していた。
緑間の体質が、霊である赤崎を引き寄せる。
そして赤崎は、振りほどけないほどの強い力で、緑間に引き寄せられてしまう。
それは、つまり。
「ちょっとは否定しろよ…」
「否定の余地がないことは、祭もよくわかっているんじゃないの…それに、こんなところで嘘をついてどうするんだ」
二人は顔を見合わせ、揃って深く溜息をついた。
―赤崎は緑間から、そして緑間は赤崎から、離れられなくなってしまったのである。
「…ごめん、祭」
そうしてそのまま夜になり、もうすぐ日付が変わる頃だ。
ぼうっとただ椅子に座っていただけの赤崎が、不意にそんなことを言った。パジャマに着替えている最中の緑間は、彼の唐突な謝罪に怪訝な表情を浮かべる。
よくよく見てみると、緑間の所有物は極端に緑色をしているものが多い。彼が今着替えているパジャマも、白と緑のチェック柄だ。本人に至っては、特に緑が好きというわけではないようで、自覚はないらしい。不思議なものである。
そんなどうでもいいようなことを、生きていた頃は気にも留めていなかったそんなことを、赤崎は思った。
「は?なんで謝んの?」
緑間はがさつな手つきでパジャマのボタンを留め、首からかけていたタオルで風呂上がりの髪を拭いた。
彼の手はもう、赤崎静に触(さわ)れない。
「これは…僕の事情だった。成仏できないのも、未練や後悔が残っているのも、それは全部僕の事情で、祭には関係なかった。それなのに…」
「そんなこと言うなよ」
巻き込んでごめん、そう続けようとした赤崎を緑間が遮った。そう言った彼の表情は、見る者が見れば寂しげに見えただろう。
少なくとも、赤崎にはそう見えた。
「僕の事情とか、俺には関係ないとか…そんな寂しいこと言うな。俺はさ、自慢じゃねえけど、寂しいのがすっげえ嫌いなんだ」
「…知っているよ、祭が寂しがり屋なことくらい。何年僕ら、幼なじみやっていると思ってんの…でも、」
「お前さ、なんであの時俺のこと庇ったんだ?」
またも言葉を遮られた赤崎だったが、それに対し嫌みの一つも言えなかった。緑間の目は真剣で、からかえるうような声音ではなかったからだ。
(なんで僕が、祭を庇ったのか)
死にたくないとは思っていなかったはずだ。そしてまた、生きたくないとも、思っていなかっただろう。彼はどっちつかずで曖昧で、自分の意志というものを持ったことがあまりなかった。
それでもおそらく、この結果を迎えることを選んだのは、他の誰でもない赤崎自身の意志だったのだ。彼は最後の最後で、ほんの少しだけ自分のことを好きになれた。
だから後悔はないのだろう。赤崎が緑間を庇った理由、それは。
「祭に…生きてほしかったから」
赤崎にとって理由なんてものは、それだけだった。
「俺もそう思う」
「え?」
「お前に渡るなと言ったあの時、俺はお前が車に轢かれるんだとばかり思ってた。だからそうならないように、俺もお前を庇いたかったんだ。静が死ぬなんてまっぴらだった。どっちかが消えなきゃならないなら、俺が消えようってそう思う」
それでも結局、生かされたのは俺の方だけどな。と緑間が目を細めた。その目には、際限ない後悔が窺える。
「もしもあの時死んだのがお前じゃなくて俺だったら。そんでもしも…俺が今のお前と同じ状況に陥ったとしたら、多分俺も今のお前と同じことを言うと思う。でもさ、それってすっげえ寂しくねえ?」
「それは…」
先ほどの自分の言葉を思い返し、赤崎の心はとても重たくなった。
関係ないはずがなかった。緑間が赤崎を庇って死んだなら、庇われた本人が関係ないだなんてことはありえない。
“関係ない”ということは、これ以上の関わりを拒絶されるということで、緑間にそれを言われることは、残された赤崎からしてみれば相当きついことだろう。
何故ならそれは、自分のせいで命を落とす結果となった緑間に、これ以上入って来るなと線を引かれるということなのだから。
「同じだろ、同じなんだよ。だから、頼むからそんな寂しいこと、言うな」
それは、とても寂しいこと―なのだろう。
(僕は、いつもそうだ)
緑間ならそんな風に言うだろうと―赤崎は、心のどこかでわかっていたはずだ。
幼なじみという枠に収まって十余年。長い付き合いなのだから、自分の幼なじみがこういう奴だということを、誰よりも赤崎はわかっていた。わかっていたはずだった。
(結局僕は、祭の揺るぎない甘さに付け込んで、安心したかっただけじゃないか)
生きていた頃となんら変わらず、死して尚、彼は自分本位で我儘な子供のままだった。要するに、赤崎静は死んでも何も変わらなかった。
「俺には関係ないなんて言わせねえよ、もう。こうなったらいけるところまでいってやる。だから、最後まで付き合わせろ、バカ」
未練も後悔も全部清算して、お前が成仏出来るまで付き合ってやる―と、緑間はそう言った。
結局、赤崎が死んでも変わらなかったように、赤崎が死んだところで緑間は何も変わらなかった。変わってなどいなかった。相も変わらず、赤崎が良く知る緑間祭がそこにはいた。
変わったことと言えばそれは、赤崎が死んで幽霊になったことくらいだったのだ。先にそのことに気づいたのは、死んだ彼に庇われた緑間の方だった。
「ごめん…」
「なんでそこで謝るかな。言う台詞が違うんじゃねえの?」
不機嫌そうに顔をしかめた緑間が、赤崎の額を小突いた。痛みを感じる程度には力がこもっていて、赤崎の方も顔をしかめる。
「俺が俺の意思で決めたんだ。自分の為にそうしたいと思った。だからお前が謝る必要はどこにもねえよ」
緑間はそう言って赤崎の頭の上に手を置く。慰めにも似たそれに、赤崎の涙腺が一瞬緩んだ。
(わかってる)
本当に慰めを必要としているのが、自分ではなく自分の目の前にいる彼の方なのだと、赤崎はわかっていた。
そして、自分では彼に慰めを与えられないということも。
いつだって赤崎は、緑間に与えられて生きてきたのだから―今回のことも、おそらくそうなのだろう。
最初にそれに付け込んで、彼の優しさを利用したのは、赤崎だ。
(わかってる。でも、)
今更引くことなど、出来るはずがない。それに、赤崎にはもう、この手を離すことなど出来るはずがなかった。
この手はこんなにもあたたかいのだから。
(僕にはもう、なかったことにして忘れるなんて、出来っこない)
―それが今までの彼の生き方であり、そしてまた生き様であり、死して尚変わらない、赤崎静という人間を構成する根っこの部分であるのだから。
「ありがとう、祭」
「おう、どういたしまして」
緑間の表情から不機嫌さが消え、頭の上に置かれているその手が赤崎の頭をくしゃっと撫でた。まっすぐな黒髪が、たった数秒で鳥の巣のようになる。
と、そこで赤崎はある種の不自然に気がついた。
鳥の巣のようになったのは、赤崎の頭だ。それなら、その原因を作ったのは誰だった?該当する人物は、一人しかいないはずだ。
赤崎は不自然の正体に気がつく。緑間のせいで―でなくとも、そもそも誰かのせいで髪が崩れるなど、ありえるはずがないのだ。何故なら赤崎は、もう何者にも触れられることのない“お化け”になってしまったのだから。
それなら、何故、彼の手は?
「祭…どうして君は、僕に触れているんだ?」
「はあ?何言ってんだよお前、そんなもん―」
そこでようやく緑間の方も違和感に気がついたようで、口を開けたまま目を何度も瞬かせた。赤崎の頭から手を退き、信じられないものでも見るかのようにその手を凝視する。どうやら緑間も、今の今までその不自然さに気づいていなかったようだ。
「…一回確認する。お前、正真正銘“幽霊”だよな?」
「ちょっと自信なくなってきたけど…うん、一応はそのはずだよ」
「でも俺、今お前に触れてたよな?未だに感触残ってるし」
「僕にも確かに感触があったよ…おかしいな、そんなはずないのに」
緑間はもう一度自分の手をじっと見つめ、今度は赤崎の頬をつねった。いきなり何をする、と非難の声を上げた赤崎だったが、頬には引っ張られているという感触が確かにあった。
それはつまり、緑間が赤崎に触れるという事実が、現実味を帯びて確立したということになる。これが夢でないことは、つねられた頬の痛みによって証明されていた。
「触れてるな、俺」
「うん、驚くことに」
「あー…なんでだ?俺に霊感があるからか?それともあれか、霊媒体質だからか。それとも―俺とお前だったから、か?」
「僕に聞かれてもね…まあ、事実今まで霊に触れたことなんてなかったし、僕と祭だからって考えるのもありかもね」
赤崎は、自分の両手をじっと見つめた。
(祭が、僕に触れる)
今まで日常であったはずの|それ《・・》に、自分はどうしてこうも驚き動揺しているのだろう、と赤崎は思った。それはやはり、彼自身が自分を幽霊だと肯定してしまっているからなのだろう。
(もう、無理だと思っていた)
誰かに視てもらうこと。誰かと話をすること。誰かに触れて、そのぬくもりを感じること。
あの日のたった数秒で、彼は全てを失ってしまった。
緑間を庇ったことに後悔はなくとも、彼はそれを、“未練”と思わなくはなかったのかもしれない。
(これが、僕の成仏出来ない理由?)
―いや、違う。多分、もっと…
「なんで泣くんだよ」
「え?」
困ったような笑みを浮かべ、緑間が手を伸ばす。その手はそっと赤崎の頭の上に乗った。その手のあたたかさに、赤崎は余計目頭が熱くなるのを感じた。
泣いているつもりは、なかったのだろう。ただ彼の中で、嬉しいのと悲しいのが混ざり合い、それを上手く処理出来なかっただけで、涙を流すつもりなどなかったのだ。それこそ青子の言い分ではないが、涙はもう随分昔に置いてきたはずだから。
「おかしいな、泣くつもりはなかったんだけど」
「そりゃあな。そんなつもりのある奴がいたら俺も会いてえわ」
軽口を叩く緑間の声が微かに震えていることに、赤崎は気がついた。気取られないように覗き込むと、緑間の目は赤く充血していて今にも涙が零れそうであった。人のこと言えないじゃん、と赤崎が小さく笑う。
「な、なんだよ」
「いや、ただ…祭も泣いていると思って」
赤崎の発言に「は!?」と声を上げ、緑間は素早く自分の顔を確認する。そして、ほっと安堵の息を漏らした。
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない。泣きそうだよ」
「泣きそうなだけだろうが。まだ泣いてねえし、勝手に泣かせんな」
「でも、まだってことは、いつかは泣くんでしょ」
図星をつかれた緑間が、返す言葉も見つからずに押し黙る。
―昔からそう。滅多に感情を表に出さないくせして、赤崎は人の気持ちを察するに長けていた。読心術でも心得ているのかと周りに思わせるくらい、ずばりと見事につっこんでくる。
そもそも緑間には泣くつもりなんて、そんな予定はない。だが、予定はなくとも、そんな彼の意に反して伝う頬のそれを、緑間は良く知っている。
結局のところ、自分のことは、自分が一番良く分かっている―と、そういうことなのだろう。緑間もわかっているのだ、その涙の意味が、理由が、赤崎と同じであることくらい。
緑間の手が、静かに赤崎の頭から離れる。その時、不意に二人は目が合った。
ほんの一瞬の出来事であったけれど、お互い何かしら思うところはあっただろう―赤崎の方はともかく、少なくとも緑間はそうだ。
―帰ってきた、とは言えない。
そんなことを言う権利が自分にないことを、緑間は良く知っている。誰のせいで赤崎がこうなってしまったのか、誰よりも彼自身が一番良くわかっているから。
それでも、もう一度会えたことを喜んでしまう自分がいるのもまた、事実だった。それはもう、涙が出てしまうくらい―悔しいけれど、それくらい緑間には嬉しかったのだろう。
赤崎静との再会は。
「ありがとな、静」
“緑間祭”という人間を形成する際において、 “赤崎静”という存在は必要不可欠である。
彼の世界を構成する大部分を占めているのは、右も左も上も下も、馬鹿の一つ覚えみたいに赤色一色だった。それくらい、彼にとって“赤色”は特別だったのだろう。
だからその赤色を失った時、彼の世界は途端に色を欠いた。残されたのは緑色と青色だけで、色彩を欠いた彼の世界は、枯れる一歩手前だった。
だから―嬉しかったのだ、緑間は。もう一度会えたことが、本当に。
「…こっちこそ、ありがとね。祭」
緑間の“ありがとう”は、赤崎には随分と脈絡のないものだった。
それでも赤崎は、緑間の色々な感情を汲んだ上で、それを自分なりの“ありがとう”で返した。
緑間の頬を、透明な雫が伝った。
第二章 第一話 「幕開け」
「ん…」
朝の気配を感じ、緑間は小さく声を上げた。
窓から光が差し込んでいるのがわかり、そういや昨日カーテン閉めないで寝たんだっけか、とうわ言のように呟く。軽く寝返りを打ち、緑間はゆっくりと目を開けた。
驚きを隠せなかった。
(…○△%¥$※#*Σ×☆!!?)
咄嗟に口を押さえたので悲鳴を上げるのは辛うじて免れたものの、緑間は激しく混乱した。なんだこれ夢か、と目をこすって、彼はもう一度“それ”を見やる。ついでに頬もつねってみたが、どうやら夢ではなさそうだった。
「なん…で、」
すぐ目の前、三十センチほど向こうに、よく見知った彼の幼なじみが寝ていたのだ。
(なんで静の野郎が俺の…)
強烈且つ衝撃的なその朝の風景に、すっかり眠気が飛んだ緑間は、とりあえず状況を把握する為に頭を捻る。思い出すのに、そう時間はかからなかった。
(そうだ、昨日)
突然、死んだはずの幼なじみが目の前に現れた。
勿論赤崎が死んだその瞬間、緑間は確かにそれを見ていた。だから、赤崎が生きて帰ってきた―などということはなく。
霊となって、緑間の元へやってきたのだ。
それと同時に、赤崎が自分から離れることが出来なくなったことも、緑間はついでのように思い出した。
(…懐かしいな)
緑間は赤崎の髪にそっと触れる。触れている、という感触はやはりあった。くせ毛で茶髪の緑間とは対照的な、綺麗で指通りの良いまっすぐな赤崎の黒髪。
昔は、こうやってよく一緒に寝ていた。ここに青子も加わって、きょうだいのように一つのベッドを共有していた時期もある。そう、そんな時期も確かにあった。
「ん…ん?」
髪を触られていることに気がついたのか、赤崎が若干眉間にしわを寄せて小さく唸る。このままだと起こしてしまうかもしれない、と思った緑間だったが、結局それでも手を止めなかった。
「ん…祭…?」
寝ぼけ顔でうっすら目を開けた赤崎が、緑間の顔を見て首を傾げる。目が半分も開いていないものだから、焦点が若干ずれていた。学校で見る赤崎の寝起きの方が、少なくとも今よりはまともである。朝一番の寝起きが最も無防備だと、緑間は訂正しておくことにした。
「おーよく眠れたかよ、静。おはよう」
「ああ…良い夢を見ていた気がするよ…おはよう、祭」
「そりゃ良かった」
良い夢。そういえば今朝自分はどんな夢を見ただろう、と緑間はそんなことを考えた。頭を捻ってはみたものの、良い夢だったのか、それとも悪い夢だったのか、それすらも覚えてはいなかった。
だが、ここ最近ずっと見ていた、赤崎が死んだあの日の夢でなかったことは確かだ。そもそも、まともに眠れたのが緑間にとっては本当に久しぶりのことである。
「あれ…そういえば僕、なんでここに?」
ようやく目が覚めた赤崎は、目をこすりながら体を起こし、確認するように部屋の中を見渡す。
「ここ、祭の部屋だよね」
「まあ、どっからどう見てもお前の部屋じゃあねえな」
「じゃあ、なんで僕は…」
言いかけたところで昨日のことを思い出し、赤崎が「あ、」と声を上げる。緑間もベッドから起き上がり、赤崎に対して若干の皮肉を言ってやった。
「幽霊も寝るんだな。まさか霊になったお前と一緒のベッドで寝ることになるだなんて、思いもよらなかったぜ」
「…僕だって、思っていなかったとも」
けらけらと緑間が笑うと、拗ねたように赤崎がそっぽを向いた。緑間は笑いながら、頭の隅で昨晩のことを考える。
(さて、これからどうしたもんか…)
赤崎が成仏できるよう、最後まで付き合うと決めた。決めたはいいが、具体的に何をどうすればいいかわからないのが現状だ。
当の本人は未練や後悔など無いと言うし、これではどこに向かって歩けばゴールに辿り着けるのか、わかったものではない。加えて八方塞だ。迷宮入りしてしまう。
あれやこれやと悩んでいた緑間に、若干慌てた様子の赤崎が声をかけた。
「祭、もう七時だよ。学校、行かないの」
「…は?」
「だから、学校。最近ずっと行ってなかっただろ。今日も行かないつもり?」
ふと、緑間は思い出したようにカレンダーを見た。今日は平日で、なんなら明日も平日だった。
とても学校なんて行ける状態でなかった緑間は、それこそ赤崎の葬儀が行われた日を除けば、今日までずっと部屋に閉じこもっていた。曜日感覚など、無くなって当然かもしれない。
だが、今は赤崎がいる。
生き返ったわけではないけれど、どういう状態であれ今ここに―緑間の目の前には、赤崎がいる。一応は、赤崎のいる日常が戻ってきた、と言っていいだろう。それは少しばかり、以前とは違った形であるけれど。
果たして今の自分には、学校に行かない理由があるだろうかと緑間は考え、考えるまでもなく答えはすぐに出た。
「…お前が行くなら行くんだけど」
「じゃあ、決まりだね」
僕は祭から離れられないし、と赤崎は笑った。
さて、新たに気がついたことが二人にはあった。
それは、お互いに“テレパシー”が使えることだ。
口に出さなくとも、相手に心の中で呼びかけるだけで、思っていることが伝わるという、なんともまあ現実離れした力である。そして今のところ、このテレパシーは赤崎と緑間の間でしか発動しないようだ。
非常に便利―に思えるが、ただ単に他より少し霊感が強く、霊媒体質であっただけの設定に、若干付加価値が付きすぎではないだろうかとも思ったりする緑間であった。
「おーっす」
そんな感じで、緑間は久しぶりに学校へ登校した。最後に登校した時と違うのは、隣りを歩いていたはずの幼なじみが、霊となって後ろをついていることくらいだろう。そして赤崎の机に、花の数本入った花瓶が置いてあることくらいだ。
改めて突きつけられる“赤崎の死”という現実に、緑間の表情が若干翳る。
「ま…祭、」
クラスメイトの一人が、赤崎の机をじっと見つめたまま動こうとしない緑間に声をかけた。緑間のことを名前で呼ぶくらいには、親しい友人である。
気まずそうに目を伏せるそんな友人に、緑間は「なんだよ」と返事を返した。周りをぐるりと見てみれば、クラスメイト全員が同じような顔をしている。
赤崎と緑間が特別仲の良いことは、クラス全員が知っていたことだ。おそらく気を遣われているのだろう、と緑間は小さく肩を竦めた。
「その…花、なんだけど」
「え?ああ、これ…もしかして、みんながやってくれたのか?」
これ、というのは赤崎の机に置いてある花瓶のことだ。花は枯れていないし、中の差し水も綺麗なままだ。誰かが用意してくれて、尚且つ手入れもしてくれていたのだろう。
そして少なくとも、その“誰か”は、赤崎の死を悼んでくれたに違いない。
「余計なことだとは、思ったんだけどさ。気に障ったなら…」
「ありがとな」
どうやら友人は、その場から動かなくなった緑間が怒りに震えているのだと勘違いしていたようで、柔らかく放たれたその感謝の言葉に「え、」と目を丸くした。
緑間の視界の斜め上には、宙に浮く幼なじみの姿がある。テレパシーで、赤崎の思っていることが彼の頭の中に流れこんだ。
「…あいつも、ありがとうって言ってる」
目前の友人はぽかんと口を開け、それから照れたように「おう」とはにかんだ。
***
“昼休み、いつも通り屋上に集合”
そんなメールが届いたのは、ちょうど3時間目の授業が終わってすぐのことだ。差出人は、彼らにとっては先輩にあたる緑間からだ。
そのメールを受信した三人は瞬時に目配せをし、それから小さく頷いた。これもある種のテレパシーと言えなくもないだろう。
少し前から、良くしてくれていた先輩達がぱったり音信不通になり、学校へ来なくなった。もっとも、その内一人は来なくなったというより、来れなくなったという方が正しいかもしれない。
彼らがそれを知ったのは、ここ二、三日のことで、それ―というのは、つまり赤崎が事故に遭って亡くなった、ということである。
いつものように屋上へ行っても見知った三人の先輩は姿を現さず、結局昼休みが終わっても、弁当を片手に三人が屋上へやってくることはなかった。
そんな日々が続き、生徒会執行部が召集された放課後でさえ、三人は姿を見せなかった。不安になって連絡を取ろうともしたが、返事が返ってくることなかった。
『赤崎の奴がさ、交通事故でついこの間亡くなったんだよ。それで…』
三人が屋上へ来なかった理由。生徒会執行部の召集に応じなかった理由。連絡が取れなかった理由。
その全てに合点がついた、たった一言の情報。十分にそれは、彼らの心を抉った。
何を言われたのか、初めは理解できなかった。初めどころか、一生理解したくないとさえ三人は思った。
ついこの間まで、一緒に屋上でお弁当を食べていた。家に遊びに行って、お好み焼きもごちそうになった。本当に、ついこの間のことだ。
何もかもが新鮮だった。
初めて出会った日のことを、今だって昨日のことのように思い出せる。
『強さの意味を、教えてあげるよ』
あの日―そんな感じで赤崎は不敵な笑みを連れ、緑間と共に白金ツインズに喧嘩をふっかけた。中学時代それなりに悪名高かった彼らに対してその暴挙は、馬鹿としか言いようがなかっただろう。
売られた喧嘩を断るわけもなく、あの日四人はどちらかともなく喧嘩を始めた。
勝負の結果は、白金ツインズの圧倒的な敗北だった。
あそこまで圧倒的な力を見せ付けられた負け方をしたのは、初めてだった。というか、負けたことが自体が、そもそも彼らは初めてだったのだ。
悔しさは―なかった。いっそ清々しいくらいに晴れ晴れとした、不思議な感覚だった。
あの日以来、響も、そして琴乃も、ずっとその強さに憧れ慕ってきた。あの絶対的な強さと、それとは反対に位置している優しさを、尊敬もしていた。
そうして関わってきてもう二年、その中でわかったことが一つある。
“あれは、一個人に備わっている強さの上限を超えている。”
赤崎と緑間は確かに強い。身体能力も、運動神経も、他と比べれば高水準に位置しているだろう。
だが、幾度となく喧嘩を繰り返し、培われてきた技、感覚、そして何より経験の差。彼らと白金ツインズの間には、確かにそれが存在していた。本来ならあの日、赤崎と緑間は負けるはずだったのだ。勝てるわけが―なかったのである。
それでも結果として、彼らは見事白金ツインズに勝った。それも圧倒的なまでの力量差で。
それは、二人が一緒だったからだ。
あの二人は危険だ―対峙した瞬間、そんな風に響の中で警報が鳴った。強さに圧倒されたからではない。二人が一緒にいること、それ自体が危険だと本能が警告していたのだ。
そしてそれは見事に的中し、かの有名な凛々垣中最強の双子は、喧嘩などドがつくほど素人だったに違いない赤崎と緑間に負けたのだ。
その理由が、ずっとわからなかった。
だから知りたいと響は思ったのだ。二人の底知れぬ強さの根源と理由を。
―結局、出てきた答えは“二人一緒だから”であったわけであるが。
響には、それで十分だった。響と琴乃も、お互いが背中を預け合うことのできる唯一の存在であるからこそ、あそこまで強くなれたのだ。二人の強さの理由がそこにあるならば、双子である響もそれに納得できた。
負けたのは、繋がりの結びつきが赤崎たちの方が強かったからなのだろう、と。
それを認めることは、響にとってはとても苦いものであったし、“二人で一つ”―そんな双子よりも確固たる絆が二人の間にはあったのだと、それだけのことを認めるのに、一年かかった。
だから赤崎が亡くなったと聞いて、いち早く響が思ったことは“まずい”だった。
体も心も、赤崎と緑間は人並み以上の強靭さを持っている。二人でいれば、尚更だ。
だが、今回のことで二人は一緒にいれなくなってしまった。赤崎がいなくなった今、緑間は―どこまでいっても“孤独”である。それは例えば、響が己の半身である琴乃を失うことと同義だ。青子では、埋められない空白だ。
もしも琴乃を失うようなことになれば、響の精神は崩壊し―最悪、後を追って死ぬことも十分ありえる。響自身もそれを自負していた。
そしてあの二人の繋がりは、そんな双子よりもずっと確固たるものだったのだ。
だからこそ響は、最悪の結末を想像してしまったのである。
その最悪こそ、緑間が赤崎を失った深い悲しみによって、後を追うように死んでしまう、という結末だった。
青子は、本来赤崎と緑間のストッパーという役割に位置している。白金ツインズでいうところの、優のような存在だ。
だが、今回の赤崎の消失に、青子も精神的ダメージを被った。それが一時的なものか、半永久的なものか―それは響の及び知るところではないが、赤崎の死が青子を再起不能にしてしまったのは事実である。
つまり今の青子は、強行に走るやも知れぬ緑間を止める役割にない。それどころか、最悪青子まで命を絶ってしまう恐れすらある。それこそ、赤崎が戻ってでもこない限り。
不安に駆られる毎日だった。中でも響は、緑間の弱さに気づいている。強さの裏側には弱さが常に伴っているということも、響は彼らに教わった。
そして今、緑間の強さは裏側に隠れ、弱さの部分が筒抜けになっている状態だ。それを誰よりもわかっていたのは響だった。
だから「良かった」と、そう思わずにはいられない。良くないことも確かにあったけれど―緑間からメールが着たことに、響は心底安堵したのだ。
屋上に集合、ということは今日は学校に来ているのだろう。思ったよりも立ち直りが早い気がしなくもないが、どうやら響が考えていた“最悪の結果”は免れたようだ。
(…らしくないな、本当に)
この僕が、琴乃と優以外の他人を心配するなんて。どうやら自分で思っていた以上に心を開いていたらしい、と響は苦笑いをした。
赤崎が亡くなったと聞いて、涙が出た。
そして今は、残された緑間と青子の行く末を案じ、心配さえしている。
どれもこれも、今まで琴乃と優にしか抱いてこなかった感情だ。
その他の人間なんて、どうでも良かったのだ。それが昔の白金響だった。
その考えが―彼らに出会ったことで、変わり始めている。それを良い変化として受け入れるかどうかは別として。
チャイムが鳴る。どうやら四時間目が終わったようだ。起立、という委員長の声でクラスメイト全員が立ち上がり、礼、の合図で先生に頭を下げる。着席の合図で再び席に着くと、響の口からは自然に溜息が漏れた。こんな風な憂いのこもった溜息など、もうずっと忘れていたに違いない。
不意に視界が暗く翳った。誰かが響の頭上に影を作ったようである。もっとも響は、“誰かが”などと曖昧に表現しなくともそれが誰か、それこそ生まれる前から知っているのだが。
顔を上げてその姿を確認する。彼女の表情からは不安や戸惑い、それからほんの少しの嬉しさともいえる感情が読み取れた。
「お昼だよ、響」
「…うん、わかってる。行こっか、琴乃」
席を立つと、巾着袋を三つ携えた優が「俺を忘れるな」と言わんばかりの仏頂面を引っさげてやってきた。彼の手にある内の、二つの巾着袋が響と琴乃に差し出される。
早く行くぞと促され、響は小さく頷いた。
「…優」
「なんだ」
「いつもありがとう。お弁当のことだけじゃなくて、その他諸々。全部さ」
響は琴乃の手を引きながら、当たり前のように自分の隣に立つ優にそんなことを言った。どんなリアクションが返ってくるかと様子を窺ったが、優の表情は何の変哲もなく、強いて言うならほんの少し、目が見開かれていたことくらいしか変わり映えしていないものだから、思わず響は笑ってしまった。らしくないね、と琴乃が笑ったような気がして、響は繋いだ手に力を込めた。ああ、そうだ。本当に―らしくない。
「響」
優が不意に立ち止まり、真っ直ぐな目を響に向けた。
優は、自分の気持ちを相手に伝えることが極端に苦手なタイプで、言葉足らずというわけではないが、周りからは色々と誤解されがちだ。そういうところは、どこかの赤色にそっくりかもしれない。
「勘違いするな」
「え?」
「俺は俺の意思で好き勝手やっているだけだ。だから礼はいらない。お前はいつものように振舞っていればそれでいい」
だがきっと彼には、自由奔放でマイペースな赤色よりも、献身的で世話好きな緑色の方がしっくり当てはまるような気がした。そんな風に響は思うのだ。
そしてその場合、自分にはどこまでも我が道を行く赤色がお似合いなのだろうと、響は思った。
***
屋上へ向かう前に、緑間は気まぐれで青子のクラスを覗いた。もしかしたら来ているかもしれない、とそんな風に思ったわけではなく。ただ、いるのなら一緒に弁当を食わないかと誘おうと思っただけだ。今日に限ってそんなことを思った。きっと、教室に彼女がいないことをわかっていたからだろう。
元から青子はメンバーには入っていなかったのだ。勝手に乱入してきて、勝手に弁当を食べているだけである。だから別段彼女がいなくとも、屋上で食べる弁当の味は変わらないし、空の色だって変わりはしない。
『嘘つき。明らかに肩が下がっているじゃないか』
宙に浮いていた赤崎が、廊下に着地して緑間にテレパシーを送った。勝手に人の頭の中覗くなよと言いたかったが、元より自分達の間にプライバシーうんぬんが存在していないことを思い出し、緑間は仕方なく溜息一つに感情を留める。
青子がいないなら用はない―緑間は足早に屋上へと向かった。
青子と連絡は取っていない。電話やメールを使うより、直接会いに行った方が早いだろうと緑間自身思っているからだ。決心はもうついている。今日辺り、彼女の家へ行くつもりだ。
『響達、いるかな』
『いるだろ。なんてったってこの俺直々の召集命令だ。ボイコットなんてしてみろ、俺は学校中、這いずり回ってでもあいつらを探し出すぞ』
赤崎は、緑間のその言葉に苦笑いをした。これがまた冗談に聞こえないのだから、全く困りものである。というか実際、緑間ならやりかねないだろう。赤崎の幼なじみはそういう奴だ。
緑間の手にはいつも通り巾着袋が二つ。緑色のものと―赤色のものが、彼の手からぶら下がっていた。赤色の巾着は赤崎の為に用意されたものだが、それはもう今の赤崎には不要なものである。なんせ彼は幽霊なのだから。
それをわかっていながら、それでも幼なじみは赤崎の分の弁当を作った。
なんの罰ゲームだよ、とはどうしても言えなかった。
ありがとう、は心のうちに秘めておくことにした。
『…祭さ、話すつもりなんでしょ、響達に』
いつものように脈絡と方向性を兼ねそなえなかった赤崎の言葉に、緑間は一瞬目を見開いた。それから、いささか乱暴に蜂蜜色の明るい髪をかき回す。
『はー…なんでわかった、なんて野暮なことは聞かねえけど…何、もしかして俺の考えてることって、全部お前に筒抜けなの?』
『うーん。そういうわけじゃないと思うけど』
緑間は、壮大に溜息をついた。
このテレパシーという能力。初めこそ、言葉にしなくとも意志の疎通が可能だと便利さを感じはしたが、常にこちらの考えていることが相手に伝わってしまうというならかなり厄介である。
迂闊に変なことを考えれば、それが全て相手に伝わる可能性もあるということだ。健全な男子高校生には、少しばかり厳しくないだろうかと思う緑間であった。
それに、緑間の考えていることは今のところ、大部分が赤崎に筒抜けの状態であるようだが、何故だか全くと言っていいほど、赤崎の考えていることは伝わってこないのである。本当に稀にしか。それはとてつもなく不公平な気がしないでもない。
『それは仕方ないよ。基本的に何も考えてないからね、祭と違って』
どうやらまた考えていたことが伝わってしまったようで、緑間はもう一度溜息をつく。もう少しで屋上に着きそうだ。
これが他の誰かなら、緑間も溜息一つに感情を留めるだけでは終わらなかっただろう。こんな風に潔くは割り切れなかったに違いない。それをわかっているから尚更、緑間は非常に面白くなかった。
なんだかんだ言って、赤崎ならばいいかと思っている自分が恨めしい。
『…ま、それは置いといてだな』
『祭が振ってきたんじゃないか』
『細かいことを気にすんな。で、最初の議題に戻るけどな。確かに俺は響達に話そうと思ってる。それがどうかしたか?』
最初の議題、と言ってしまったのは、長らく生徒会に関わってきたが故の“クセ”のようなものだ。緑間だけに関わらず、響達でさえ“討論”や“決済”などという用語を日常生活で使うクセがついてしまっている。だがしかし、赤崎と青子は例外だ。
響達に話す―というのは、緑間が非常に強い霊感を持っていることと、赤崎が成仏できずに霊になってしまっていることであり、今の二人の状況を何一つ知らない後輩達に一から説明するということだ。
果たして―信じてもらえるだろうか、という不安は拭えない。これが青子ならば、話すことを躊躇いはしなかっただろう。事実彼女は、そのことを話しても気味悪がったり敬遠したりせずに受け止めてくれたのだから。
だが、響達は決して青子ではない。青子と違って、知り合ってからまだ三年しか経っていないのだ。彼らのことを信じていないわけではないが、不安はある。
緑間に霊感があることも、赤崎が霊になって現世に留まっていることも、それを立証できるだけの力が二人にはない。何故なら響達には、赤崎の姿が視えないからだ。話したところで嘘だと言われればそれまでである。
それに、万が一にも気味悪がられたりなどされれば、緑間と響達との関係には亀裂が生じ、最悪戻ることはなくなってしまうかもしれない。
人間は自分の目で見たものしか信じようとはしない。だから自分の目には見えないものを恐れる。自分には見えないものが見えてしまう人間のことも、恐れてしまう。
響達は確かに先輩として赤崎や緑間を慕ってくれてはいるが、だからといって全てを話したとき、快くそれを受け止めてくれるとは限らない。
『…祭、あのさ』
『大丈夫だって、大丈夫。お前が心配する必要も、俺が心配する必要もどこにもねえよ。俺はあいつらを信じてる』
緑間は、赤崎の考えを読み取ったかのように、そして自分に言い聞かせるようにそう言った。赤崎は、相手に考えていることが伝わるというのは、具体的に今のようなことを指すのだろうと思った。
『だから信じてやろうぜ。あいつらの強さを』
緑間の言葉には、他者にそう思わせるだけの説得力がある。昔からそうだ。緑間が出来ると言えば出来る気がした。今もきっと、そうなのだろう。
相変わらず、この幼なじみは変わりないと赤崎は小さく笑った。
『うん、わかった。信じる』
屋上はもう目の前だ。
ギギギ、と屋上のドアを引いた。屋上へ出て、改めて学校に来たことを実感する。久しぶりに見上げた空は、変わらず綺麗な色をしていた。
緑間は、辺りを見渡し響達の姿を探した。まだ来ていないのだろうかときょろきょろしていると、後ろからすさまじいたいあたりをくらった。というか、正確に言うとたいあたりのような勢いで何者かに抱きつかれた。
「…琴乃?」
緑間は、振り返ることはせずにそう訊ねた。いつもとは違う攻撃パターンに若干驚きつつ、後ろから回されている腕をぽんぽんと軽く叩く。
「良かった、本当に。良くないこともあったけど、でも、まつり先輩、もう学校に来ないんじゃないかって思ってたから。心配、してました」
緑間の予想通り、何者かの正体は琴乃であったが、普段とは違ってか細い涙の混じっている声をしていた。
良くないこともあったけど。彼女の言葉から、ここ数日で三人が赤崎のことについて知ったのは明白だ。赤崎の凶報を伝えなければと思っていながら、結局緑間は三人と連絡を取らなかった。そういう精神状態ではなかったことも確かだが、彼らにそれを知らせることが憚られたからだ。
何も知らずにいてほしいと思ったわけではない。響達には、それを知る権利が十二分にあったのだから。緑間の独断で―緑間の我儘で、緑間のお節介で、彼らから真実を知る権利を奪っていいはずがなかったのに。
だから響達は、なんとか緑間と連絡を取ろうと、何度も電話やメールを送ってきたのだろう。それを放置して、見なかったことにしようとしたのは緑間だ。
彼らだって不安だっただろう。赤崎が死んだと聞いて動揺し、混乱したはずなのに。
だって当たり前だ。響達は緑間だけでなく、赤崎のことだって慕っていたのだから。
「…ごめんな、心配かけて。もう大丈夫だ…全部、話すよ」
緑間がそう言うと、琴乃は鼻をすすって「はい」と返事をした。
それと同時に、ごめんね、と申し訳なさそうに謝る声がした。勿論琴乃には視えていないだろうが、彼女のすぐ傍には霊になった赤崎が立っている。
もう一度、ごめん、と赤崎が呟いた。赤崎は緑間以外の人間に触れることが出来ない。それをわかっていながら、彼は琴乃の頭に手を乗せた。その表情が寂しげに揺らいでいることに緑間は気づく。
「…え?」
と、そこで別の声が割って入ってきた。琴乃に抱きつかれている緑間は、体ごと後ろを向くことはできなかったものの、少し後ろに響と優が立っていることは確認できた。
二人の内、声を上げたのは響の方で、まるで信じられないものでも見ているかのような目を緑間に向けていた。もっとも、正確に言えばその目は、緑間の隣りに向けられていたのだが。
「え…え?な、なんで」
「?どした?響」
困惑と戸惑いがない交ぜになった表情を浮かべ、響の大きな目は真ん丸に見開かれていた。今この場にいる全員が、響の様子がおかしいことに気がついただろう。
ただ一人、赤崎を除いては。
赤崎にはわかった。目が合ったのだ、ばっちりと。
緑間の方を向いているはずのその両目が、驚愕の色を浮かべながら真っ直ぐに―視えていないはずの赤崎を捉えていた。寸分違わず、真っ直ぐに。響の目は、初めから緑間ではなく赤崎に向けられたものだった。それにいち早く気がついたのは赤崎である。
そして、ある疑問が頭に思い浮かんだ。
まさか、僕のことが視えてる?
もう一度、赤崎は真っ直ぐに響を見た。偶然目が合った、というわけではないようで、その視線はやはり真っ直ぐ霊である赤崎に向けられている。
「おーい、響ー」
傍から見れば、ぼうっと突っ立っているようにしか見えないのだろう。緑間は首を傾げ、反応を示さない後輩に声をかけた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
響のすぐ傍に立つ優も、心配そうな顔で様子を窺った。緑間から離れた琴乃は、何を言うわけでもなくただそんな響をじっと見つめているだけである。まるで、わかっているかのように。
当の本人である響は、何度か深呼吸を繰り返していた。そして今度は、真っ直ぐに緑間の方に目を向ける。
「話、聞かせてください。自分でいうのもなんですけど、僕は今ものすごく混乱しています」
「…は?」
「…とりあえず、そこにいる静さんが僕の視ている幻の類なのかどうかから、教えてもらえませんか」
その発言に目を見開いたのは、主に緑間と優である。琴乃はさして驚いてはいない様子であったが、「そこってどこ!?」と自分には視えない赤崎の姿を、目を凝らして探し始めた。優もそれに便乗し、あっちこっちと指をさしている。
そして緑間に関しては別の意味で驚いていた。なんの冗談かと一瞬思いはしたが、響が嘘をついていないことは目を見れば一目瞭然であった為、緑間はしばらくの間開いた口が塞がらなかった。当たり前だ、だってまさか自分の後輩が自分と同じように霊感が強いだなんて、誰が思う。
そんな緑間の混乱を他所に、やっぱりね、と赤崎が意味深な発言をした。
お前気づいてたのかよ。
ああ、うん。今さっきだけど。
昼休みは、まだ始まったばかり。
どうやら響も霊が視えるらしい。緑間のような霊媒体質ではないものの、霊を視覚できるくらいの力は昔からあった、とも言った。緑間が自分もそうなのだと明かすと、響の表情が一瞬歪んだ。
琴乃と優は響の体質を知っていたようだ。そのことに関して、「みずくさい。言ってくれれば良かったのに」などと言える緑間ではないし、それは赤崎も然りである。
それがどれだけのリスクを負うか、何より同じ境遇である二人が一番よくわかっているからだ。
響に霊感があるというのは、予想外且つイレギュラーなことであったが、おかげで話は事の他さくさく進んだ。
「そういうわけなんだよ、信じられないかもしんねえけど」
事情を全て話し終えた頃には、昼休みは終わる五分前に迫ってきていた。当の本人である赤崎は、これまた呑気なもので半分意識が飛びそうになっている。緑間が、そんなどうしようもない幼なじみの頭をはたいた。はっと意識が戻ったらしい赤崎の口からはよだれが垂れていて、とても幽霊とは思えない有様だった。
「…そうですね。普通は信じられません」
緑間の話を聞き終え、初めに口を開いたのは赤崎の姿が見える響だ。
「でも、この目でちゃんと視えてます。だから信じる信じないじゃなくて、事実なんですよね」
緑間とその隣りにいる赤崎を交互に見たあと、ようやく響が笑った。
「僕達は信じます。協力しますよ、喜んで。ね、琴乃、優」
もちろん、と何の躊躇いもなく二人の後輩も頷いた。どうやら一つ年下の後輩達は、こちらが思っていた以上に大人だったらしい、と緑間は小さく笑った。良い後輩に恵まれたとつくづく思う。
「ありがとう」
それを言ったのは赤崎だった。緑間は、泣きそうな顔でそんなことを言う幼なじみを横目で見やる。
姿は視えても、声は聞こえないかもしれない。琴乃と優だけでなく、響にもその言葉は届いていないかもしれない。それでも、そうとわかっていても尚、彼は言葉にしたかったのだろう。
強い信頼を示してくれる後輩達に、ただ、ありだとう、と。
そんな赤崎の言葉に、響は首を横に振った。
「今までだって、これからだって…ありがとうは僕らの台詞なんですよ。静さん」
少しでも力になれればいいんですけど、と響は困ったように笑った。首を傾げた琴乃が、クエスチョンマークを浮かべて響の顔を覗き込む。
「?何?今の、ひとりごと?」
ひとりごと、の部分が上手く言えていない琴乃に苦笑いをしながら、響がよしよしと彼女の頭を撫でた。
「…静先輩が何か言ったのか」
独り言にしか捉えられないような響の言葉が、赤崎に向けられたものだと優にはわかったようで、「なんて言ったんだ?」と問いかける。
響は空を見上げた。よく晴れた、雲ひとつない青空だった。
琴乃と優もつられて上を向いた。そこに赤崎がいると勘違いしたようだ。もちろん赤崎は、依然として緑間の隣りに座っているので、少なくとも三人の視線の先に彼はいない。
響が空を見上げたのは、赤崎を視るため―ではなく。そう、ただ、むしょうに空が見たくなったからだ。ただ、それだけのことだった。
今日の空に雲はない。響にとって赤崎は、掴み所がなく、どちらの色にも染まることのできる、雲のような存在であった。
「ありがとう、だってさ」
「…そうか」
それを聞いて、優は小さく笑った。ありがとうはまだ早すぎると、そう思ったのだろう。それには響も同感だった。
「いいなあ響は。しずか先輩が見えて…なんで私、兄妹でしかも双子なのに、響みたいにレイカン?ないんだろ」
「さあ…こればっかりはひがまれてもね…」
いつもの調子で話し始める後輩達を遠目で見つつ、緑間はぽんぽんと赤崎の頭を軽く撫でた。俯いているので表情は窺えなかったが、おそらくいつものような涼しげな顔はしていないだろうと思ったからだ。
「…巻き込んだ、なんて思うなよ。あいつらは俺らが思ってるよりずっと大人だ」
テレパシーは使わずに、呟くような独り言を緑間は口にした。図星だったのか、ぴくりと赤崎が肩を揺らす。
「…わかってるよ。ちゃんと、わかってる」
「ならいいけどよ。お前、死んでからメンタル弱くなったんじゃね?」
「うっさいバカ」
憎まれ口を叩きながら、赤崎は必死に涙をこらえていた。緑間は、そんな赤崎に気づいていた。
今更、やっぱり生きていたかった、なんて。そんなことを思ってしまう自分が、どうしようもなく滑稽で、赤崎はどうしても笑えなかった。
第二章 第二話 「三人の約束」
『なんで泣かないの?』
青子は、いっこうに涙を見せる気配のない赤崎にそう問いかけた。
これはあれから―そう、赤崎の十回目の誕生日が過ぎてから、一週間ほど経った頃の話で、いつものように三人で遊んでいた、まさにその最中のことである。
緑間が、そんな青子の言葉に焦ったような顔をした。乱暴に、彼女の肩を掴みにかかる。
赤崎の両親は依然として行方をくらませたままで、十歳になったばかりの幼い子供が、親もなく一人で生きていくことなどできるはずもなく。本来なら赤崎は、母方の祖父母―つまりは藤黄家に引き取られるはずだったのだが、本人の強い意向と緑間家の申し出により、赤崎は緑間の家で世話になっていた。これはちょうど―その頃の話だ。
『辛くないの?静のお母さんもお父さんも、もう帰ってこないかもしれないんだよ?』
『おい…っやめろ、それは言うなって言われてるだろうが!』
赤崎は、両親が消失した七月七日から一度も泣いていなかった。それは、両親に捨てられたのだという自覚がなかったからではない。赤崎はむしろ、誰よりも真っ先にその事実を受け止めている。
そして、わずか十歳の少年は、その事実を目の前にして、涙を流すどころか泣き言一つ言わなかった。それはある意味、異常なことであったのかもしれない。
青子には理解できなかった。何故、自分と同い年の赤崎が、両親が二人ともいっぺんにいなくなったと聞いて、平気な顔でいられるのか。
自分には無理だと思った。そして青子は、そんな赤崎を怖いとも思った。
『ねえ、なんで?どうして泣かないの…?一人になったの、ねえ、わかってる?』
『やめろって…青子!』
『だって、僕は独りじゃないから』
画用紙に絵を描いていた赤崎は、一旦クレヨンから手を離し、青子の問いかけに対し不思議そうな顔でそう答えた。
『なに、言ってるの。だから、言ったでしょ。静は、一人っきりになったんだって』
『二人がいるよ。祭と、青子がいる。僕は独りじゃない』
それは、青子が想像していた答えとは、全くかけ離れていた。
今頃になって、あの頃のことを後悔している。どうしてあの日、自分はあんなことを聞いてしまったのだろうと。幼い日の彼女は、それが赤崎にとってどれだけ残酷なことであったかを、まるで理解していなかった。
それでも、あの時赤崎が言った言葉の意味だけはわかったのだ。わかっていた、はずだった。
『二人が僕を独りにしないなら、僕は絶対一人になんてならないよ。だから、泣く必要なんてどこにもないんだ』
その言葉を最後に、彼女は過去の回想を止め、現実へと戻る。ほどなくして青子はゆっくりと目を覚ました。
部屋のカーテンは閉じられているため、外の景色を見ることはおろか、日の光すらまともに入り込んではこない。カチ、カチと正確な、時計の秒針を刻む音だけがそこにあった。
今が何時なのか、確かめようとは思わなかった。昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのかも、今の彼女にはどうでもよかった。
ただ、薄暗い部屋に、生きる気力を窺わせない虚ろな目で、人形のように座っている。呼吸を、繰り返すだけの生き物。
(…寝てたの、私)
どうやら気づかない内に眠ってしまっていたらしい。青子は、だらんとぶら下がっている右腕をぴくりと動かし、ゆっくりと持ち上げてみたものの、再びだらんとぶら下げた。
あれから、もうどのくらい経ったのだろう。どれほどの時間が、経過したのだろうか。
青子が赤崎の不幸を知ったのは、ついこの間のことである。当たり前だ、彼が亡くなったこと自体が、ついこの間の出来事であるのだから。
連絡は、直接その場に居合わせた緑間から、その日の内に伝えられた。ちょうど、赤崎の家へ向かおうとしていた、まさにその時である。電話ではなく、緑間は直接青子の家へやってきた。
初めは、なんて気持ちの悪い冗談を、よりにもよって今日言うのだろうと、ほんの少し自分の幼なじみを疑った。そんなことあるわけないじゃない、と笑い飛ばした。
だが、いつまで経ってもその幼なじみは何も言わず、冗談だと笑い飛ばすこともしなかった。
胸騒ぎを感じた。そんなはずがないと思いつつ、自分の顔がどんどん引きつっていくのを青子は感じた。感じてしまった。
幼なじみは、「冗談で言わねえよ、こんなこと」と大きな手で自分の顔を覆い、嗚咽を漏らした。涙が一筋、その頬を伝っていく瞬間を、青子は見た。見てしまった。
わかっている。緑間が演技派ではないことを、青子はちゃんとわかっていた。
冗談で言って良いことと悪いことがあることを、その冗談に乗っかって嘘の涙を流せるほど器用な人間ではないことを、青子はわかっていた。声が、表情が、そして流れた涙が、真に迫っていたことを、何よりもその現実を肯定していたことを、長い付き合いだ、わからないはずがない。頭では、それが理解できていた。
だが、それでも。
理解はできていたとしても、認めたくはなかったのだ。
『あいつ…静が、俺を庇って、事故に』
青子は発狂した。
あれからずっと、彼女は部屋に引きこもっている。食事もろくに取らず、少しの水分で生を繋いでいるような状態だった。もう、何日もろくに食べ物を口にしていない。
水でお腹が膨れるはずもなく、今もぐうぐうと青子の腹は食べ物を求めているが、食欲は不思議とわかなかった。
食べる、という行為は人間が生を繋ぐ手段の一つである。
だが今、赤崎の死により彼女は生きる意味を見失っていた。何もかもが、どうでもよかった。
(どうせ、一人よ)
青子の両親は、彼女が中学三年生の頃に交通事故で亡くなっている。仕事の都合で一時海外へ出張に出るはずだった彼女の両親は、空港へ向かう途中で車と衝突事故を起こし、青子の元へ戻ることはなかった。その時ばかりは、流石に泣いた。
幸い生活に困らない程度のお金は残されていたので、なんと彼女は十五歳という若さで一人暮らしを始めた。青子の家は借家ではなかったため、家賃はかからなかったし、学校も歩いていける程度の距離だったので、贅沢さえ望まなければそれなりにやっていけたのだ。青子の両親は、彼女の将来のために、そこまでのお金を残してくれていた。
昔から縁があったということで、赤崎の時と同様に、緑間の家は青子のことも引き取ろうと言ったが、緑間家には既に赤崎がいたし、来春から高校生になるのだから、周りに甘えてばかりではいけないのだと自分に言い聞かせ、彼女はそれを丁重に断った。辛くなったらいつでも帰ってきていいからね、という緑間の母の言葉に、やっぱり彼女は泣いた。
ちょうどその頃から赤崎も緑間家を離れ、藤黄家の仕送りを頼りに自分の家へと戻り、彼もまた青子同様に一人暮らしを始めたのである。
だから、というわけではないが、主に青子は赤崎の家に入り浸るようになり、それがいつの間にか衣食住を共にするまで発展したため、一人暮らしというよりは、むしろ二人暮しであったという方が正しいかもしれない。
そんな状態が約半年続いたものの、流石に高校に上がる頃にはそういった二人暮しを控えるようになり、いつしか青子は、赤崎の家で寝泊まりすることをしなくなった。
両親を失くしてわかったことがいくつかある。まず第一に、自分が天涯孤独の身になってしまったのだということ。第二に、思っていた以上に自分は家庭的な女の子ではなかった(つまり家事スキルがほぼ皆無であった)ということ。
そして第三に、悲しみは、自分が思っていた以上にあっさりと引いてしまうということ。
両親が亡くなって青子が泣いたのは、最初の一日目だけだった。二日目にはお腹がすいて、ご飯をたくさん食べていた。三日目にはクローゼットを漁って、喪服があったかどうかの確認さえしていた。青子にとって両親の死は、悲しむべき対象にしてはあまりに薄かった。
何故なら、彼女にもまた、幼なじみがいたから。その幼なじみの存在が、彼女の心の支えになっていたのである。
青子は両親の死を悲しみはしたが、残された自分の不運を悲観することは決してなかった。当たり前だ、彼女は一人になりはしたが、本当の独りにはなりきれていなかったのだから。
「ごめん…ごめんね、静」
もう何度目になるかもわからない謝罪の言葉を、今はもういない幼なじみへと青子は呟く。
(独りにしないって、決めていたのに)
二人がいると言った。二人が僕を独りにしないなら、僕は絶対一人になんてならないよと―そう、言っていたのに。
確かに誓ったはずだった。指きりで約束をしたはずだった。これから先、たとえどんなことがあろうとも静だけは独りにしないと、出来る限り一番傍で生きていこうと、緑間と青子はそう決めたはずだった。
それなのに、これは一体、どういうこと?
静は死んだ。もう、戻ってきはしない。
幼き日の約束が脳裏を掠める。
小指を絡めた。
ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます。
『約束する、俺達は絶対にお前を裏切らない。ずっと一緒だ』
『私と、静と、祭、3人の一生の約束ね』
ゆーびきーった。
「約束したのに…結局、守れなかった」
彼を独りにしてしまった。
彼を独りで逝かせてしまった。
今度こそ彼は、独りになった。
「ごめんなさい」
針を千本飲めば許してもらえるだろうか。約束を破ったその代償を支払えば、自分は許されるだろうか。
きっと静は、後にも先にもそんなことを望んだりはしないだろう。
そんな風に思いつめないで、僕の分も精一杯生きて、幸せになってと。そんなことを言うに違いない。長い付き合いなのだから、それくらいわかる。
それでも、それ以上に。
自分の気持ちは、わかりたくなくてもわかってしまう。
「…私も、そっちにいこうか」
そうすれば、彼は独りではなくなる。だってきっと、私達同じところにいけるもの。
別に、今まで生きたかったから生きていたわけじゃない。きっかけがなかったから死ねなかっただけ。死ぬ勇気がなかったから、仕方なく生きていただけ。
(…なんて、馬鹿みたい)
そんなこと、一度だって思ったことはなかったくせに。仕方なく生きてきた、だなんて嘘。毎日が楽しかったじゃない。生きたいと思えるだけの日常が、手の届くすぐ傍に、今までずっとあったくせに。
生きたくても生きられない人がたくさんいる。彼もきっと、その内の一人だった。それなのに、今を生きている私が、そんなことを言っていいはずが、ないのに。
(私は、静を理由に何から逃げようとしているの)
「…っ」
涙が溢れてくる。青子はうずくまって、必死に歯を食いしばった。
ねえ、私どうすればいい?未練、無いって言ったら嘘になるけど、静がそれを望むなら、今ここで針千本飲んでもいいよ。
…ああ、違う。静はそんなこと、望まないんだった。きっと、そう、静がそう言ってくれるのを、私は待っているだけね。なんて都合の良い妄想。
私の知っている静は、たとえどんな時であったとしてもそんなこと、言ったりしないのに。ただ、私がこの現実から逃げたいだけで、この罪悪感と悲しみから、一刻も早く逃れたいだけね。
「静…しずか、」
でも、それもありだと思う。どうせもう、私は一人なんだから。お父さんもお母さんも、いないんだから。
『青子』
ふと、聞き慣れた声が脳裏を過ぎった。この声は、そう―祭のものだ。
(そうだ、まだ)
祭がいる。
きっと怒るだろうな。私が、私も死んだら、きっと。祭はどんな顔をするかな。私の為に、泣いてくれたりするのかな。
(ああ、でも)
私まであっちに行ったら、今度は祭が独りになる。そうだ、それじゃあ意味がない。結果的に、誰か一人が独りになってしまう。
「そんなの…じゃあ、私はどっちを選べばいいの?」
どちらを選ぶことが最善であるか、今の私にはもうわからない。
死ぬ理由も生きる理由も、どちらも今は私の手にある。けれど、どちらを選んでも、誰か一人だけが救われない。そして私は、どちらを選んでも必ず救われる。
だって私は―どちらを選んでも、独りになることはないのだから。
「最低よ…どっちを選んだって、最低じゃない」
初めから、選択肢なんてなかったんだ。私だけじゃない、選択肢は、誰にもなかった。
ブブブ、という携帯のバイブ音が、静まり返った部屋の中に鳴り響く。彼女は、耳を塞いで聞こえぬふりをした。
しばらく経つと、コンコンと今度は何かを叩くような音が聞こえてきた。―コンコン?
伏せていた顔を上げて、青子は辺りを確認する。今のはドアがノックされた音ではない。その音は、全く逆の方向から聞こえてきた。
そう、音がしたのは窓からである。一体どうして?
もう一度、コンコンと音が鳴る。閉じられているカーテンの向こうに、何かの影が一瞬過ぎった。…鳥?
青子はふらふらとベッドを降り、力なくぶら下がっている右手をゆっくりと引き上げて、カーテンを開けた。部屋の中に日の光が差し込んでくる。
空はもう大分赤く、どうやらもうすぐ夜が来るようだ。
―だが、気づくべきなのはそこではなかった。もう夕方だとか、久しぶりに見た空が綺麗だったとか、今考えるべきは、そういうことではなかったのだ。
「な…んで」
窓の縁に何かがぶら下がっていた。ぶら下がっている何かが青子に気づき、へらっと屈託なく笑った。久しぶりに見る顔だった。
「なんで…なんで、そこに」
青子の家は一軒家にして、彼女の部屋は二階にある。どうやっても地上からの距離は、登ってこられるようなものではない。では、このぶら下がっている何かがぶら下がっているのは、おかしくないだろうか。ないだろうか、ではなく、おかしいのだ。一体どうやって?
―何より、何故彼はそんなところに?
青子は現状に驚き、戸惑いながらも鍵を開けて窓を開け放った。心地よい風がぶわっと体を吹き抜ける。外の空気に触れるのは久しぶりのことだった。
青子は深く息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出す。ああ、私は生きていると、、そう思った。改めて自分の生を、痛感させられる。
そして、いつの間にか窓の縁に両腕を乗せ、落ちればそれなりに重傷を負うだろうと思われる高さをものともしない様子で「よっ」と片手を上げる幼なじみを見た。見下ろすと、業務用に使われる程度の大きさはある梯子が倒れていた。なるほど、あれを使ったのか。
久しぶりに会った幼なじみの顔は、最後に会った時と比べると随分明るさを取り戻しているように見える。別段それについてどうこう言うつもりはないが―自分にはまだ、明るさを取り戻すには時間がかかるだろうと、青子は思う。
もっとも、以前のような明るさが戻ってくるかどうかは、また別の話であるが。
「…よっ、じゃないわよ。何やってるの…祭」
「いやーだってインターホン押しても青子出てくんねえんだもん。電話にも出ねえし。だからまあ…不法侵入ってやつ?」
インターホンを押された記憶はなかったが、どうやら先程の携帯のバイブ音は、緑間からの着信だったらしい。
「んで、梯子使ったまでは利口だったんだけどよ、ぎりぎり手が届かなくってさ。なんとか窓に手え届いたと思ったら、間違って梯子足で蹴っちまったんだよ。そんで俺、今すっげー困ってんの」
情けない笑顔を浮かべ、青子の幼なじみは眉を八の字に下げている。その顔が、一瞬赤崎のものと被って見えた。
だからさ、と緑間が続ける。
「よければお手をお貸し願えないでしょうか、プリンセス?」
何がプリンセスよ、と青子は内心で幼なじみを毒づいた。本当に、この幼なじみは人をからかうのが好きである。
一瞬、手を貸そうか迷った。もしも今、身動きの取れない祭の体を、ほんの少し力を込めて押せば。そして、彼と一緒にここから飛び降りればと―刹那にそんなことが青子の脳裏を過ぎった。だがそれは、あくまで過ぎっただけである。
青子はそれを振り払うように首を振り、間抜けな幼なじみに向かって手を差し伸べた。
「本当に、馬鹿ね。救いようがないくらい…馬鹿よ、祭」
きっと、本当に救いようがないのはわたしのほうだけれど。
「ははっサンキュー青子」
私の手を取ったのは確かに祭だった。けれど、もう一つ、感じ慣れたぬくもりをこの手に感じて、何故だかたまらなく泣きそうになった。
***
緑間は青子に引き上げてもらい、なんとか無事に彼女の部屋に転がり込むことが出来た。今更ながら、窓から侵入しようなどと、そんな漫画のような発想が展開できた自分に苦笑いをする。当然土足厳禁なので、とりあえず靴を脱いでお邪魔しますと言っておいた。
「よっ、久しぶりだな、青子」
「…ええ、そうね。久しぶり、祭」
緑間は、出来る限り陽気な感じで切り出してみたわけだが、彼女の反応は想像よりもかなりロウでひどかった。なんというか、言葉に抑揚がなく、何より二つの目に光が宿っていなかったのである。虚ろだった。
ちらりと部屋を見渡すが、空気はとてもどんよりとしていて、まだ夏の五時だというのに、この部屋だけが隔絶されているかのような雰囲気を漂わせている。
悲しい、苦しい、辛い、寂しい。この部屋と彼女を取り巻いているのは、そういった負の感情であった。
やはり響達を連れてこなくて正解だったな、と緑間は思う。彼女はおそらく、今の自分を後輩達に晒したくはなかっただろう。いや、もしかしたら後輩達だけでなく、彼女からすれば緑間にも見られたくはなかったかもしれないが。
約一週間ぶりに会った彼女は、最後に会った日と比べようがないほどに変わり果てていた。話に聞いていた通りろくに何も食べていないようで、随分痩せたように見える。
自慢の髪なの、と言っていた彼女の長い柔らかな髪は無造作に荒れ果て、ぱっちりとした大きな目は充血していて腫れぼったくなっていた。よく眠れていないのか、目の下には隈が出来ている。
原因はもちろん、今緑間の隣りにいる困った幽霊のせいだろう。そして緑間は今日、その幽霊のことを彼女に話すために来たのだ。
「俺、とりあえず今日はお前に話があって来たんだけど…まあ、とりあえずそれは置いといて。台所借りていいか?」
「…台所?」
どうして、と青子が首を傾げる。緑間は、鞄に無理矢理押し込んでおいたレジ袋を取り出し、その中からたまねぎとにんじんを取って彼女に差し出す。意味が分からない、というような顔で青子はそれを緑間から受け取った。まあ、どこからどう見てもたまねぎとにんじんにしか見えないだろう。
「お前がまともに食ってねえことはわかってたからな。この俺様が、あったかいシチューを作ってやるよ」
学校帰り、緑間はいつものように行きつけのスーパーに寄った。いつもと違ったのは、眠たそうな顔をして、それでも文句を言わず買い物に付き合ってくれていた(そもそも緑間だけの買い物ではないのだが)幼なじみが、もう他者から視覚されない霊となって隣りを歩いていたことと、買った材料を調理する場所が赤崎の家ではなく、青子の家だったということだけだ。
何を作ろうかと買い物カゴを片手に、熟年の主婦さながら緑間は悩んでいたわけだが、野菜コーナーや魚肉コーナーをぐるぐると回っている内に、霊となった幼なじみがぽろんと言ったのである。シチューにすれば、と。
『シチュー?なんでよりによってそんな面倒なもんを…』
危うく声に出しそうになったのをなんとか押さえ、緑間はテレパシーを送った。だって、と赤崎が続言った。
『僕ら三人が、揃って一番好きなものだったでしょ』
『…ああ、そういや』
確かにごもっともな意見だったので、緑間はそれに従うことにしたのだった。そういえば幼い頃、緑間の両親がいない時を見計らっては、よく三人でシチューを作ったりしたっけか。一番上手に作れたのは、確か中三の時だったように思う。あの味はまだ忘れていない。
そして今、ここに三人が揃っている。
「シ…シチュー?どうしてそんな、いきなり」
「昔はよく一緒に作ったろ。俺と青子と、静の三人で」
むしろ、三人で作ったことがあったのはシチューだけであった。もちろん、シチューは三人で作る、という約束事があったわけではないが、不思議とシチューだけは三人揃って作っていた。どうしてそこまでシチューにこだわっていたのか、今ではもうよく思い出せないけれど。
「確かにそれは…そうだけど。でも、今、静は」
「ちょうど三人揃ってる。三人一緒なら作れんだろ」
「…っだから!だから、静はもう」
「いるよ」
青子は、その声にはっと目を見張った。
よく通る澄んだ声だった。柔らかで、一瞬誰の声か見誤ったほどに。
もちろんそれを言ったのは緑間である。今この家には、青子と緑間以外には誰もいないのだから。
(でも、今のは…まるで)
青子は戸惑い、困惑した。緑間と赤崎がダブって見えたからだ。おそらくそれは、彼女の見間違いにすぎなかったのだろうけれど。
「あいつはいる。俺らのすぐ傍にいるんだ、青子」
何を根拠にそんなことを言っているの、と青子は思った。
(だって静は、死んだじゃない)
もうこの世界のどこにも、静はいないのよ。
…と、いうことになっているが、実際赤崎は今彼女の手の届く範囲に、幽体とはなっているものの存在しているのが現状である。もっとも、彼女はまだそれについて何も聞かされていないので、知らないのも無理はないが。
青子は唇を噛み締める。ひどく裏切られたような気持ちになった。それは緑間にではない。自分自身にだ。
もしかしたら自分は、悲しんでいるふりをしていただけなのかもしれない。“静はもういない”―そんな風に諦めてしまっている自分が、確かにいるじゃないか。
静が手の届かない所にいってしまったのは、誤魔化しようのない事実だ。けれど、今のは確かに、私自身が彼を過去にしてしまった瞬間ではないだろうか。私はあの一瞬に、静のことを忘却してしまったのではないだろうか。
こんな自分は嫌だ。私の世界からどんどん静がいなくなっていく、その手助けをしている自分が、青子はどうしようもなく嫌だった。
―祭はこの一週間で、静のことを過去にしきれたのだろうか。
「あ、悪い。言い方間違えた。俺が作ってやるっていうのは嘘」
青子が手に持つたまねぎとにんじんを、緑間は意地の悪い笑みを浮かべて指差した。言わずもがな、彼の指に指されたところで、たまねぎがおにぎりになったり、にんじんがチョコレートになったりするはずもなく、あくまで青子の手にあるのは、たまねぎとにんじんであり、それ以外の何物でもなかった。
まあ、これからシチューを作ると言っているのだから、おにぎりやチョコレートに変わったりされては逆に困るのだが。
「…どういう意味よ」
「そのまんま」
スタンドアップ、スタンドアップ、とかなり発音の悪いカタコトの英語を口にしながら、緑間が青子を立ち上がらせる。緑間は肩に鞄をかけ、右手にレジ袋を持って「レッツラゴー」と、左手で青子の手を引いた。
「ちょ、な、なに…そのまんまって、一体どういう」
「シチューは三人で、だろ。だから俺一人で作るっていう選択肢は初めからねえの。OK?」
OK?の部分だけ発音がやけに流暢だったが、青子は敢えて触れなかった。
「そんなこと言ったら、静だっていないじゃない。どっちにしろ、三人じゃないでしょう」
「だーかーら、静はいるんだっての。いい加減認めろよ、往生際が悪い」
何をどう認めろというのだ、この幼なじみは。実際この部屋のどこにも、静は存在していないじゃないか―そんな風に、若干の苛立ちを含んだ目で、青子は緑間を見上げた。
(それとも)
祭には見えているのだろうか。もういないはずの静の姿が、祭の目には映っているとでも言うのだろうか。
「ま、楽しみにしてろよ。全力でこき使ってやるからな。覚悟しとけ」
“俺らのすぐ傍にいるんだ”
(ねえ、祭)
覚悟なんて、できないよ。
だって私には、祭に見えているものが見えないんだもの。
第二章 第三話 「明けない夜はないということ」
静は甘いものが好きだった。幼い頃、外に遊びに行く時なんかも、五~六個の飴がいつもポケットに入っていたような気がする。私と祭は、そんな彼からよく飴やチョコレートなんかをもらっていた。
お菓子が出てくるあのポケットは、きっと魔法のポケットなんだと、その頃は結構本気で思っていたっけ。
静はガムが嫌いだった。ずっと噛んでいなくてはならないこと、味がなくなっていくこと、それから飲み込めないところが嫌いなんだと言っていた。それは高校生になっても変わらなかったようで、静のポケットにガムが入っていることはなかったような気がする。
祭は辛いものが好きで、私は酸っぱいものが好きだった。私達はそれぞれ異なる味を好んでいた。だからカレーなんかは、甘口がいいと言う静と、辛口がいいと言う祭の意見がよく衝突していたっけか。
そういうことがあったから、カレーを食べる機会というのはほとんどなかった。だから、カレーに雰囲気が似ているシチューを、よく作ってもらっていたような気がする。その内三人で一緒にシチューを作ったりもしたんだ。
カレーに雰囲気が似ているから、という理由だけではなかったはずだが、どうにもその辺りの記憶が曖昧だった。ただ、確かなことが一つ。
シチューが、私達三人に共通する一番好きな食べ物だったということ。それだけは、はっきりと覚えている。
『祭には内緒だよ』
ふと、そんな言葉が脳裏を掠めた。いつだったか―今のは静が、昔私に向けた言葉だった。記憶違いでなければ確か―そう、三人でシチューを作っている最中のことだったように思う。
なんだっけ、と追憶する。祭には内緒。一体何を?
(…あ)
そうだ、そうだった。あの手にあった、静が持っていたあれは―チョコレートだった。ミルクではなく、ホワイトの方。
そう、甘いものが好きだった彼は、カレーにチョコレートを入れるのと同じ要領で、シチューにもチョコレートを放り込んだのである。隠し味のつもりだったのだろう。
祭には内緒。だからそれを知っているのは私と静だけ。
(…やっぱり、三人じゃなきゃ無理よ。静はきっと、チョコレートのことを、祭には教えないでいってしまったに違いない)
それにたとえここにチョコレートがあったとしても、あの頃シチューにチョコレートを入れていたのは静だ。シチューに対してどれだけのチョコレートを入れればいいのか、それは彼にしかわからないことである。分量はそもそも存在しないだろうが、そこを適当にしてしまえばあの頃の味は再現できない。やはり静がいない時点で、完成はありえなかった。
青子は隣りの幼なじみをちらりと窺った。まさかこの歳で再び、エプロンを着けた緑間と台所に立つ日が来るなんて、と青子は苦笑いをする。なんだか気恥ずかしい気持ちになった。
中学の頃はさして変わりなかったが、幼い頃は三人の中で緑間の背が一番低かった。順番的には、赤崎、青子、緑間である。
それが高校に上がってまっ逆さまに逆転した。一番背の低かった彼はすぐに青子を追い越し、最終的には赤崎よりも背が高くなったのである。
青子の身長は春の身体測定で163.2cmと出ている。赤崎は175.3cmで、緑間はそれよりほんの少し高い177.1cmだった。
この身長差はいただけない。見上げるという行為は、青子をドギマギとさせていた。誰彼構わず、というわけではなく、やきもきするのは緑間を見上げた時だけだ。
昔は私より小さかったくせに、と内心で毒づく。昔は何も、大した差などなかったのに。今では男女の差が、はっきりと表立ってわかるようになってしまった。
全体的に華奢な青子とは対照的な、とても広い背中、逞しい腕、声変わりの象徴である喉仏、大きな手。改めてそれを意識すると、幼い頃にはなかった目に見えない隔たりを感じて、何故だかとても胸が痛む。
「どした?ぼうっとして」
調理に使ったまな板と包丁を洗っていた青子の手が、いつの間にか止まっていたようで、それを見兼ねてか緑間が彼女の顔を覗き込んだ。―覗き込むだけの余裕があるこの身長差が、本当にいただけない。
「…別に、なんでも」
蛇口をひねり、泡だったまな板と包丁を水洗いする。水温で頭が冷えた。何馬鹿なことを考えているんだ、と自分に叱咤する。不謹慎にもほどがあった。
「洗い終わったら皿、用意してくれ。できるだけ底が浅くて大きめのやつな。あと、自分で食える分だけ飯もついどけ…ああ、一応バターロールも買ってきてあるから、好きな方選んでいいぞ」
そろそろ仕上げの段階に入っているシチューを、ゆっくりと混ぜながら緑間が青子に言った。彼女はハンドタオルで手を拭きながら、小さく返事をしてエプロンを外す。
そして炊飯器と、レジ袋の中から見えるバターロールに目を留めた。どちらを食べるかなど、考えるまでもない。青子は初めから、どちらも食べるつもりなどないからだ。
食器棚は台所のすぐ後ろにあるので、青子は自然と緑間に背を向ける態勢となった。だからもちろん、今緑間がいつもと違うことをしていたところで、背をを向けている青子にはそれがわからない。―そう、わからないのだ。
ぐつぐつと煮込む音がする。いい匂いもした。
(それでもやっぱり、三人で作った味じゃない)
後ろからパキっと、そんな音が聞こえた。もちろん緑間に背中を向けている彼女には、今の音の正体などわかるはずがなかった。
「よっし、おまちどうさん。つっても、俺だけが作ったわけじゃねえけど」
シチューを盛った皿を緑間がテーブルに置く。食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。けれど、シチューを盛った皿は二枚だけだ。三人目の皿は、用意されていない。青子はぎゅっと手を握り締める。
「あれ、お前ご飯は?バターロールにすんの?」
緑間はガサガサと、レジ袋から六個入りのバターロールを取り出し、ほれ、と青子に差し出す。
青子はバターロールが好きだ。パンの中ならダントツで一位を誇る。それくらい青子はバターロールが好きだったし、そもそもご飯よりもパンの方が好きだった。
だから緑間が好きな方を選んでいいと言ったあの時、本当はわかっていたのだ。優しい幼なじみが、自分の為にバターロールを買ってきてくれたことを。
緑間が好き好んでバターロールなど買うはずがない。何故なら彼は、基本的に味の薄いものを好まないからだ。バターロールの味の主体は、その名の通りバターである。青子は、それが緑間にとって味の薄いものに分類されることがわかっていた。だからこれが、彼自身の為でなく青子の為に買われてきたものだということも、わかってはいるのだ。
それでも。
わかってはいても、そのバターロールに手を伸ばすことはできなかった。
「…要らないわ。食欲、あまりないし」
「ふーん、そっか。まあいいけどな」
にやりと緑間が笑う。言い方がとても嫌みったらしくて、青子は思わず「何よ」と聞き返しそうになった。普通なら、今の状況でその顔はしないだろう。にやにやというのがぴったりな、意地の悪い笑みだった。
もうすぐ十八時になる。ここ数日は別として、普段はもう少し遅い―大体十七時くらいに夕飯を食べるのだが、まあいいかと青子は妥協した。待ったところで、どうせ待ち人の分の皿が用意されることはないのだから。
(やっぱり、)
幼なじみとの久しぶりの再会によって、徐々に自分の中で赤崎が過去にすり替えられているように青子は感じた。本当は、過去になんてしたくないのに。
理不尽なこの世界は、どうやら誰かを思う好意でさえ過去にしてしまうようだ。
「そんじゃ、いっただっきまーす」
「…いただきます」
どうしてそんな、平気な顔で笑えるの、と青子は向かいに座る幼なじみに問いかける。声には出さず、心の中で。
(あれからたったの数日で…どうしてあなたは、そんな風に笑えるの?)
祭りは私よりも、ずっと静のことが好きだったはずだ。
好意に優劣をつけるような不躾なことはしたくないけれど、本当に祭は、誰よりも静のことを大切に思っていたはずだった。その好意は、もちろん異性に向けるそれとは大分かけ離れてはいたものの、あれも一種の愛の形だった。それくらい、祭は静のことが好きだったはずだった。
静がいないと地に足をつけて立つこともままならない、祭にとって静は、自分の世界そのものだったはずだ。自分でそう、言っていたじゃないか。
まして静は、祭を庇って死んだのだと聞いている。それは祭にとって、たった数日で過去だと割り切れるものではないはずだ。それを許容できるほど、彼はまだ大人ではない。大人では、ないはずだ。
だからこの一週間、どうしても私は祭と連絡が取れなかった。自分のことで精一杯だったというのも事実だが、本当は、かける言葉が見つからなかったから。どんな言葉も、どんな慰めも、祭が必要としていないのだとわかっていたから。
(ねえ、祭)
なんで笑えるの。本当に、静のことは過去に置いてきたの。新しい世界を手に入れたの。
祭にとって、静ってその程度の存在だったの?
(もし、本当にそうだとしたら)
そうだったとしたら、私は―
「おーい。手、止まってんぞー」
はっと青子は我に返った。向かいに座る緑間が、怪訝そうな顔で頬杖をついている。青子の方はといえば、スプーンでシチューをすくったところで、本当に手が止まってしまっていた。
「ちゃっちゃと食えよ、冷めるだろ。話も進まねえし、お前に食わせる為にシチュー作ったんだからな」
ああ、そういえば。話があるって言ってたっけ。青子は、部屋で緑間が言った言葉をぼんやりと思い出す。その為に来たんだとも言っていた。話とは一体なんだろう。学校に来いとか、そういう類のことだろうか。
緑間は制服で家に来た。ということは、彼は今日学校へ登校したと考えて間違いないだろう。
学校に行かないのに制服を着る必要は、どこにもない。だから彼が制服を着ているということは、つまり制服を着る必要があったというわけで、つまるところ制服を着る必要があるのは、学校へ行く時くらいのものだ。
あれから、たったの一週間で。
この幼なじみは、そこまで立ち直ることができたらしい。
(もしも祭が、学校に来いよ、なんて言ってきたら)
私はちゃんと、自分の感情をコントロールできるだろうか。
「青子?」
「…なんでもないわ」
青子は止まっていた手を動かし、僅かに湯気の立っているシチューを一口食べる。
一口食べて、涙腺がいきなり緩み始めた。
「え…」
ぽろっと涙がこぼれる。この幼なじみの前では泣いてばかりだと、そんなことを青子は思った。不意打ちのように流れた涙は、彼女の意思に反して止まろうとはしない。明らかに無意識の涙だった。
「嘘。なんで、これ」
青子がさした“これ”とは、涙のことではなくシチューのことだ。先ほど、青子と緑間の二人で作ったはずのシチュー。もっとも、青子は野菜を切るくらいのことしかしてはいないが。
もう一度、おそるおそるといった風に、シチューをスプーンですくって青子は食べる。やはり、涙は止まらなかった。
(この味は、)
『祭には内緒だよ』
あの頃三人で作ったシチューの味と同じだった。寸分違わず、全く同じ味をしていた。また一口、もう一口と急かされるようにシチューをすくったが、心に沁みるこの味は、確かに。
ぐう、とお腹が鳴った。ここ数日ろくに食べ物は口にしていなかったが、ここまで盛大に腹の虫が意思表示をしたのは、今日が初めてかもしれない。
「ま、どんだけ悲しくても、腹の虫は正直っつうことだな」
目前の幼なじみが、先ほどと全く同じ意地の悪い笑みを浮かべた。素直にムカつくと青子はそう思った。
おそらくこの幼なじみはわかっていたのだろう、青子がこうなることを。だから保険としてバターロールを買ってきたのだ。さっきの嫌味な笑みの正体は、青子がこうなることをわかっていたからこそ、浮かべられたものだったに違いない。
そう思うと、幼なじみの思惑通りにことが進んでいくことがひどく癪で、彼女は緑間から再び差し出されたバターロールに、意地を張って手を伸ばすことができずにいた。
ぐう、とまたお腹が鳴る。緑間は苦笑いをして、青子が受け取れないでいるバターロールを、テーブルにを置いた。そして、どこか懐かしむような表情を浮かべて、緑間は再び頬杖をつく。
「まさか静のアホが、俺にだけ内緒で勝手にチョコレートを入れてたとはな。あいつにはマジで恐れ入るぜ」
「なんでそれを…だってそれは、私と静の」
二人だけの内緒のはずだった。祭は絶対に反対するだろうから、と。
赤崎本人は、もうそんなことがあったことすら忘れているかもしれないが、青子は記憶の奥底に埋もれていただけで、忘れていたわけではない。それこそシチューを見る度に、あんなこともあったと思い出していたくらいだ。
それでも青子は、二人だけの内緒ごとを口にしたことなど一度もなかった。つまり、赤崎が自分から口に出さない限り、緑間はその内緒ごとに関して知る術を、持っていなかったということだ。そして青子の知る限り、そういう会話を二人がしていた記憶はない。
それではいつ、緑間はそれを知ったのか。多すぎもせず、少なすぎもせず、赤崎にしかわからなかった隠し味の分量を、緑間はいつ聞いたのか。
―そういえば、食器棚から皿を取り出していたあの時、パキっと何かを割るような音を聞いた。あれはチョコレートを割った音だったのかもしれない。今更ながらそれに気づく。
「静が言ったんだ。シチューの中に、ホワイトチョコレートを入れろって。聞いた時は流石にぞっとしたけどな…ま、よく考えてみたら、俺達はそれを作って食ってたわけだから、一概にもあいつの言い分を否定することはできなかったけど」
「静が…?でも、私の記憶違いでなければ確か中三の時以来、シチューは」
「今さっき聞いたんだよ、買い物してる最中にな」
言葉が口から出てこなかった。ただ、自分の目が大きく見開かれたことだけはなんとなくわかった。目が乾く。
(今さっき…ですって?)
この幼なじみは、自分が何を言っているのか本当にわかっているのだろうか。今さっき、買い物してる最中に?
(そんなこと、あるわけないじゃない)
何を馬鹿なことを―静はもう、この世界のどこにもいないんだって、あなたがそれを、一番近くで見ていたんじゃないの。他の誰でもない、あなたがそれを、私に伝えたんでしょう。
それを、どうして。それなのに、どうして、今さっき買い物をしている時に静と一緒だったみたいな言い方をするのよ。
「さっきも言っただろ?あいつは俺達のすぐ傍にいるんだって」
緑間が、隣りの空白の席を見やった。二人は向かい合う形で席についているが、両者共に左隣りの席は空白である。当たり前だ、今この家には、緑間と青子以外誰もいないのだから。
そんな中、緑間はまるで自分の隣りに誰かが座っているかのような目を、空白の席に向けていた。そう、誰もいないのに、だ。
青子もその席に目を向けてみたが、やはりそこには誰もいない。少なくとも青子には、誰かがいるようには見えなかった。
「なんて、適当に濁すのはらしくねえよな、やっぱ」
それは、青子に向けられた言葉ではなかったのだろう。それは独り言のようにも聞こえたし、自分で自分に言い聞かせているようにも感じた。けれどやはり、自分以外の誰かに向けられた言葉であるようにも、思えたのである。今この場には青子と緑間しかいないにも関わらず。
「話があるんだ。俺にもお前にも関係ある、すっげえ非現実的な話が」
全部事実だから信じろよ、と幼なじみは念を押した。どうやらこれから、この私が信じられないような非現実的な話が切り出されるらしい。それは、学校に来いよ―などという類の話では、おそらくないのだろう。なんとなく直感で、青子にはそれがわかった。
青子は、これからこの幼なじみが切り出すであろう話を、頭の中に思い浮かべる。一つ一つ、今まで緑間が言った言葉の端をくっつけていくと、それは思いのほかあっさりと青子の目の前に現れた。ぽん、と思い浮かんだそれは確かに非現実的で、彼女は思わず笑ってしまった。笑えるくらいには、随分精神状態が安定し始めているらしい。
(もしもそれが、本当なら)
自分の思う非現実と、彼の示す非現実が同じであるならば。
―それは再び、私の生きる理由になりうるかもしれない。
「…当ててあげよっか。その、非現実的な話」
青子はもう一度、緑間の左隣りの空白の席を見やる。本来ならそこには、見知ったもう一人の幼なじみが座るはずだった。目を凝らしても、やはりそこには誰もいない。
緑間の言うとおり、どれだけ悲しくてもお腹はすくだろうし、当然夜が明ければ朝が来る。それはもう経験済みで、青子にはそれが痛いほどわかっていた。
世界は何も変わらない。人は悲しみでは決して死ぬことはできないし、明けない夜など存在しない。結局はまた、太陽が昇って朝が来る。ただそれだけのこと。
だから彼女の日常が変わっても、誰かの日常が終わっても、西から太陽が昇ってくることなどありえないし、世界の大部分は、今日も明日も変わりはしない。
「ねえ、祭」
ぽろりと、止まっていた涙が再び頬を伝った。銀のスプーンには、くしゃくしゃに歪んだ自分の顔が逆さに映っている。
「どうして私には、視えないんだろうね」
ねえ、なんで。
緑間が、先ほどとは打って変わった悲しげな表情を浮かべる。ひどく泣きそうな顔で彼は拳を作り、「ごめん」と謝って目を伏せた。伏せられた目から落ちたものが、テーブルクロスにしみを作った瞬間を青子は確かに見た。
ほんの一瞬、空白の席に静の姿が見えた。それが単なる幻想だったのか、はたまた残像だったのか、それとも静本人だったのか―青子にはやはりわからなかった。
***
それから一時間ほど経ち、辺りが大分暗くなってきていることを察した緑間は、事情を説明し終えると早々に帰り支度を始めた。もう少し青子の傍にいたいという気持ちもあったが、とにかく今は時間が必要だろうとも思い、緑間は名残惜しくも彼女の家を出ることにしたのだ。自分がいては、彼女も泣くに泣けないだろうと判断して。
話すべきことは全て話した。それを真に取るも偽に取るも、後は青子次第である。
「そんじゃ、またな」
「…今度来る時は、玄関からお願いね」
「まさか。次はねえよ。今度はお前が来るんだからな」
「ふふ。確かにそれは、その通りね」
彼女の笑顔はやはりまだ頼りなく、緑間は自分が情けなくなった。自分では彼女の悲しみ全てを取り除くことができないことに。
だがそれでも、来た時に感じた危うさを、今の青子からはもう感じなかったので、とりあえずほっとする。
「…じゃあ、明日ね。祭…それと、静」
青子が緑間と、視えないもう一人に対しひらひらと手を振った。もちろん彼女には視えていないだろうが、確かに赤崎は「うん」と返事をして手を振り返している。緑間も「おう」と手を上げた。
玄関のドアに手をかけてお暇しようとした緑間だったが、あることを思い出しくるりと青子の方を振り返った。そして、不思議そうな顔で首を傾げる彼女に、くいくいと人差し指を使って下を向くよう要求する。青子の方が背は低いが、今は玄関の段差のおかげで、緑間が若干見上げるような姿勢になっているのだ。
青子が緑間に言われたとおり重心を低くして、「何?」と訊ねる。目線がちょうど同じくらいの高さになった。
「おまじない、してやるよ」
緑間は不敵に微笑んで、青子の前髪をかき上げる。緑間は面積の狭い彼女の額に、一つキスを落とした。青子の体が、びくりと揺れる。おそらく、唐突なその行為に驚いたのだろう。
周りから「プリンセス」などと呼ばれてはいるが、驚くことにこういった、自分が主導権を握れないスキンシップには異常なまでに反応するのだ。相当モテるくせに、免疫がないのである。
その証拠に、唇を離した後の青子の顔は真っ赤だった。ばっと反射的に中腰の態勢から脱そうとする青子の手を引いて、緑間は耳元で囁いた。
「お休み。良い夢を」
手を離すと、凄まじい勢いで彼女は緑間と距離を置き、真っ赤な顔を隠すようにそっぽを向いた。しっかりと、緑間がキスをした額は押さえ込んでいる。
「バ…ッカ!い、い、いきなり、何を…っ」
「だから、おまじないっつっただろ」
「む、昔はこんなんじゃなかった…!」
怖い夢を見ないように、泣き止むように、風邪が早く治るようにと、昔は色々な名目でよく使っていた“おまじない”。
だが、昔は額と額をくっつけるだけで、間違ってもキスはしていない。青子が言いたいのは、まさしくそれである。
「ま、俺らももうそういう年だっつうことだよ。いい加減自覚しろ、アホ。…まあ、単に俺が、あたふたしてるお前の顔を見たかっただけだっていうのもあるけど」
やられっぱなしは緑間の性分ではない。こういう時くらいリードさせてもらっても、バチは当たらないだろう。
「バカ祭…っバカ!バカバカバカ!」
「バカバカ言うなよ…じゃ、お邪魔しましたー」
「あ、こら!待て!逃げ―」
青子の待ったには耳を貸さず、緑間はひらひらと手を振って彼女の家を出た。ガチャンと重い扉が後ろで閉まる。そろりと振り返ってみたが、とりあえず青子が追いかけてくる気配はなかったので、はーと安堵の息を吐いてから、緑間は歩き始めた。
熱い。
「祭、顔真っ赤」
からかようにくすくすと笑うそいつを、緑間は思い切り睨みつけてやった。周りに人がいないことを確認し、テレパシーではなく直接声に出して、隣りの幼なじみに「うっせーよ」と緑間は言った。それと同時にゴツンと頭も殴ってやる。触れるって素晴らしい!
すると、赤崎が殴られた頭をさすりながら、空いたもう一方の手で反撃に出た。でこぴんを食らった緑間は、「いてっ」と声を上げて軽くよろめく。
「てめえいきなり何しやがる」
「それはこっちの台詞だよ。祭が僕を殴るのが悪いんだ」
「お前が俺に殴らせるようなことを言うからだろ」
「人のせいにするのはよくないな。そもそも祭が青子のおでこにキ」
「だあああああああ!うっせえよバカ静!いちいち言うな!言わんでよろしい!」
自分のしたことがいかに恥ずかしく、らしくないことであったのかを改めて痛感し、そうそうに緑間は白旗を挙げた。
(ああ、くそ。らしくない)
全くもってらしくない。なんであんなことしてんだよ俺は。おまじないって。いや、おまじないはいい。問題はそこじゃない。なんでキスしてんだってところが一番の問題だ。なんでしてんだよほんと。しかも言い訳が“そういう年”って、逆にどういう年なのか聞きてえわ。俺が聞きてえ。つうかほんと、昔みたいにおでこ引っ付けるだけにしとけよ自分。
「僕、百面相って初めて見たかも。ほんと祭って表情豊かだよね」
「そりゃあどうも!どっちかっつうと、俺の表情が豊かっていうより、お前の表情の変化が乏しすぎるだけだけどな!!つうか楽しそうにしてんじゃねえよこの野郎!」
と、そこで我に返った緑間は口元を押さえた。辺りを見渡し、改めて人がいないことを確認する。とりあえず、声の届く範囲に人がいなさそうでほっとした。
いけないいけないと首を振る。
(こいつは、霊なんだ)
だから、緑間にはこうやって視ることができて話すことができても、周りはそうはいかない。傍から見れば今の緑間は、本当に一人で百面相をしながら叫んでいる変人にしか見えないだろう。できればそれは避けたい。だからこそのテレパシーであるというのに、これではまるで意味がないではないか。
ついつい、赤崎が霊であることを忘れてしまう。
「忘れちゃえばいいよ。僕も実際よく忘れるし」
「いや、お前は忘れんなよ」
またもテレパシーで心を読まれてしまったらしいが、緑間はあえて触れないことにした。いちいち抗議するのも面倒である。どうせプライバシーの侵害など、今更であるのだから。
「思うんだけどさ」
赤崎が空を見上げた。どうやら明日は晴れのようで、空にはたくさんの星が散りばめられている。夏の大三角形がはっきりと見えた。
昔もよく、こんな風に星を探して空を見上げていたような気がする。初めて夏の大三角形を見つけたのはいつだったか。確か赤崎が指差したのである。
あの三つの星、すごく綺麗に輝いてるね。青子がそう言った。線で繋いだら三角形になるんじゃね?それを言ったのは緑間である。
『あれは夏の大三角形っていうんだ。この時期には、よく見えるんだよ』
そう言った幼い赤崎は、得意げな顔はしなかった。なんで知ってんだよ、と聞いたら、調べたんだ、とはにかむように笑ったのだ。
(昔から、そうだった)
静は、わからないことがあるととにかく調べた。わからないことを、わからないまま放っておくことができない奴だった。だからおそらく―この夏の大三角形のことも、知りたいと思ったから調べたのだろう。昔から、物静かなくせに変なところで行動的な、掴みどころのない奴だった。
今もそう。この手で掴むことはできても、ずっと捕まえておくことはきっとできないに決まっている。どれだけ力を込めてその手を掴んでいたとしても、こいつは多分、簡単に俺の手をすり抜けていくに違いない。
「思うって、何を」
「…ううん、やっぱりいい。なんでもないよ」
「なんだよ、それ」
とても意味深な顔で話を切り出してきたくせに、とても意味有りげな顔で赤崎はなんでもないと首を振った。そんな風にお預けを食らうなど、後味悪いことこの上ないので、緑間としては詳しく追求したいところであるが、いくら問い詰めたところで口を割らないことは目に見えていたため、仕方なく溜息一つに留めておく。もしかしたら今日は、もやもやして眠れないかもしれない。
「それよりもさ、祭」
「なんだよ」
「いい加減告白すれば?青子のこと、好きなんでしょ?」
前言撤回。しばらくはもやもやして眠れなさそうだ。
***
昔から、なんとなく思っていたことがあった。僕自身そういった類のものに聡いわけではないけれど、それでもやっぱり、生きいてた頃からなんとなくずっと、僕の中に居座っていた、多分、僕にだからわかること。
祭は青子のことが好きで、青子は祭のことが好き。
二人がお互いに向けている好意の形は、多分僕に向けている好意とはちょっと違う。ちょっとどころじゃなく、多分、結構かなり。
多分、自分の気持ちに気づいていないわけではないと思う。いや、気づいていないのかもしれないけれど。―気づいていない振りを、しているだけかもしれないけれど。
どうしてか祭と青子は、その好意に蓋をして否定し続けているように見える。
無理を、しているように見える。
はっきり言えば、おそらく二人は愛し合っているんだろう。
(それなのに)
どうしてかいつも。いつもいつもいつも―祭と青子は、僕を一番に優先している。どんな時も、いつだって。祭が青子を、青子が祭を、僕よりも優先することはほとんどなかった。僕が死んだ今だってそう。二人の中には、いつだって僕がいる。
多分僕がいるから、二人は自分の気持ちと正直に向き合うことができないでいるんだ。僕がひとりにならないように、多分無意識に気を遣ってくれているんだと思う。
だから好きだと認めない。まあ、あくまでそれは僕のなんとなくに過ぎないのだけれど。
「…まだ答え、聞いてないよ」
緑間は家に帰るなりご飯も食べず風呂にもはいらず、制服も脱がないで布団に潜り込んだ。そのだらしなさは、まるで少し前の赤崎のようである。
おそらく、赤崎の問いかけから逃げているのだろう。自分の中で、青子に対する気持ちの整理がついていないのかもしれない。
好きなら好きだと、言えばいいのに―赤崎は、何も言わない緑間を不思議に思う。
もしかしたらもう寝てしまっているかもしれないが、それでも赤崎は続けた。
「自分の気持ちに正直になっていいんだよ。僕のことは気にしないでさ」
もういいんだよ。僕に縛られる必要はない。僕じゃなくて青子を優先していいんだ。僕はもう、死んでいるんだから。
「…もしかしたらそれが、僕の未練なのかもしれないね」
祭と青子が自分の気持ちに正直に向き合ってくれれば、僕は成仏できるかもよ。赤崎は小さく笑ってそう言った。
(…全部筒抜けだっつうの、アホ静)
潜り込んだ布団の中で、緑間は唇を噛んだ。こういう時に限ってあいつの考えていることがわかるなんて、本当に厄介な付加価値が付けられたものだ。
(俺が青子をどう思ってるかなんて)
そんなもん、わかりたくねえんだよ。
お前をおもう気持ちと、青子をおもう気持ちが、どんな風に違うのかなんて。
わかってて、今までずっと目をそらしてきたんだから。
よりにもよってお前が、そんなこと言うなよ。
人の気も知らないで。
***
「青子」
名前を呼ばれた。その声が誰のものであるか、頭が理解する前に青子は振り返った。そこにいたのは予想通りの人物で、彼女は途端に顔をくしゃくしゃに歪める。
「静…!」
ずっと焦がれていた人が、すぐ後ろにいた。
こうして会うのは何日ぶりのことになるだろうか。幼なじみは最後に会った時となんら変わりなく、青子の知っている赤崎のままである。
「静…しず、か」
ずっと会いたかった。もう一度、あなたに会いたかった。
青子は一歩赤崎に向かって踏み出す。だが、二歩目を踏み出す前に、赤崎がふるふると首を振った。
「ダメだよ、青子。こっちに来ちゃダメだ」
「なん…なん、で」
「君は生きないと」
赤崎が困ったように笑う。青子は自分の足元に目を落とした。はっきりと、自分と赤崎との間を区切るような境界線の存在に気がついた。
もちろん青子には、この境界線の意味がわかっている。
「…わからないよ。静がいないのに、生きる意味なんてあるの?」
二歩目を踏み出そうとして、彼女は唇をきつく噛んだ。この一歩が、青子の決断を鈍らせる。いっそ赤崎の方から「こっちに来て」と言ってくれればいいのだけれど。
「なくてもいいじゃないか」
それを言ってくれないのが、水沢青子の幼なじみである。
「…こんなに辛いのに?」
「だって、それを見つけることが、生きるってことなんだから」
そうでしょ、と赤崎が微笑んだ。青子の目から涙がぽろぽろと流れていく。
こんなにもすぐ傍にいるというのに、手が届かないほどの絶対的な距離感を青子は感じた。
「それに、青子はもう、自分が生きる意味に気づいているはずだよ」
「私が…生きる意味?」
わざとらしく聞き返したところで、青子にはそれが何の意味もないことがわかっていた。
わかっている、わかっている。もうずっと昔から、彼に気持ちが向いていたこと。キスの一つも満足にできないほど、彼を意識していたこと。
ずっとわかっていた。わかっていて、気づいていないふりをしていた。今の関係を壊すことが怖かったから。
本当は気づいていた。自分の中で、とっくの昔に優先順位が入れ替わっていたことに。
「それでいい…それでいいんだ、自分の気持ちに正直になっていいんだよ、もう」
「静…でも、」
それは、あなたへの裏切りにならない?
赤崎が苦笑いをする。
「じゃあ、僕からのお願い。傍にいてあげて」
幼なじみ―というより、我が子を心配する母親のような顔で、赤崎は言った。
「あいつは、一人じゃ背伸びしかしようとしないから…傍で、手を引いてあげてほしいんだ」
「それは…私じゃなきゃ、ダメなこと?」
「青子にしかできないことだよ」
「…そっか」
私にしか、できないことなんだ。
じゃあ、そうだね―まだ、そっちにはいけないね。
「頼むよ、祭のこと」
「…うん、頼まれた」
青子は、踏み出した一歩分、後ろへ下がった。
閉じていた目を、ゆっくりと開ける。どうやら―というか、なんというか。
夢を見ていたらしい。
青子は、ベッドから体を起こし、壁時計に目を向ける。
カチ、カチ、カチ、カチ。
規則正しい秒針の音。
ドクン、ドクン、ドクン。
重なるのは、私が生きている証。
(そう、私は生きている)
そしてこれからも生きていかなくてはならない。生きていくのだ、彼と共に。
『傍にいてあげて』
そう、頼まれてしまったから。
(他の誰でもなく、あなたが私に、生きる意味をくれたから)
青子はベッドから降り、机の上に置いてある写真立てを手に取った。写っているのは、幼い日々の自分達である。これはまだ、赤崎の両親が健在していた頃に撮ったものだ。
きっと、写真の中の彼らは、幸せな時間(とき)を切り取られ、止まった時間の中で今日も生きているに違いない。それはきっと“幸せ”ではないのだろうけれど、写真に写る自分達は、泣きたくなるほど眩しい笑顔を浮かべていた。
「…これが、二度目の約束よ。静」
青子は、その写真立てを胸に抱いて静かに目をつむった。
あなたの分も生きる。あなたが命をかけて守った、彼と一緒に。
絶対にあなたを忘れたりしないから。
―ごめんなさいは、もう言わない。
「精一杯生きるね」
もう泣かない。あなたを救うその日までは、絶対に。
コトンと写真立てを置く。どこからか優しい風が吹いてきて、青子の背中をふわりと押した。
***
「祭!」
ガラガラっと教室のドアを引く音と一緒に、つい先日聞いた声が緑間の耳に入ってきた。
声だけでわかる。幼なじみの水沢青子だ。彼女はすたすたと躊躇いなく教室内に入ってくると、緑間の机に両手をつき、「おはよう」と素晴らしい笑顔でそう言った。
いつもの緑間ならば、この笑顔に悪寒の一つや二つ感じていてもおかしくはないのだが、今日に限っては、昨日よりも顔色の良い彼女を見て、ほっと安堵の息を漏らすばかりである。
その反面、昨日の今日でやけに立ち直りが早いような気もしたが、なんにせよ学校に登校できるくらいには、どうやら赤崎幽霊説は信じてもらえたようだ。
これでひとまずは大丈夫だろう、と緑間は判断し、とりあえず「おう」と青子の挨拶に対して返事をした―否、返事をしようとした。
結局、その二言を口にすることは叶わなかったわけだが。
それはほんの一瞬の出来事―ではなかったように思う。
不意に視界が陰る。緑間は、突然のそれに「は?」と間抜け顔をした。
後頭部に手を回され、逃げられなくなる。先ほどまで騒々しかった教室が、一斉に静まり返った。
「―――」
思考が停止する。緑間は、これ以上ないくらい自分の目が見開かれていることを感じた。彼女の双眼は、閉じられている。
青子の唇が、緑間のそれを塞いだ。驚くなという方が無理である。触れた唇は熱っぽくて眩暈がした。体に力が入らない。彼女を押しのけなかったことを、とりあえずそのせいにしておいた。
不意に、緑間の手に何かが触れた。それは唇と同じくらい熱っぽくて、微かに震えているような気がした。青子の空いているもう一方の手が、そっと緑間の手に乗せられている。振り払わなかったのは、彼自身もいつしかその手を握り返していたからだ。
(本当は、)
知らないと、気づいていないふりをしていたかっただけだった。
もうとっくの昔に気づいていたそれに、名前をつけることが怖かっただけだった。
(―お前の言うとおりだよ、アホ静)
唇が離れる。随分長い間キスをしていたように緑間は感じた。これは―まあ、幼なじみにするキスの度合いを、通り越してはいるのだろう。青子の顔はまともに見れなかった。
顔の熱も唇の熱も引かない。緑間として、猛ダッシュでこの場から消え去りたかったのがったが、どうにも腰が上がらなかった。情けないことに腰が抜けてしまったようである。男としてのプライドはズタボロだった。
とりあえず、湧き上がってくる羞恥を誤魔化すために、緑間は手で顔を覆った。
「おま…っ、い、いきなり何しやがる…!」
明らかにそれは女子の反応であったが、今の緑間はそんなもの知ったことではなかった。とにかく、クラス中の視線がぐさぐさと突き刺さってきて痛い。
青子が過度のスキンシップを取りたがることは知っている。もちろんそれは知っていた。だが、よりにもよってキスを、しかも学校でされるとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。
そんな緑間の心情などいざ知らず、青子の方はといえば清々しいくらい満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと緑間から距離を取る。得意げな顔で緑間の額を とん、と小突いた。
「お返しよ」
“おまじない”
それはもう―なんというか、お返しというよりはむしろ仕返しに近いのではないだろうか、と緑間は思った。これではまるで割りに合わない。
「祭が先に仕掛けてきたんだから、これでお合いこ」
「んなわけあるか…!割りに合わなすぎだろ!」
「じゃあもう一回する?今度は祭のからどうぞ」
余裕綽々に顔を寄せてくる青子を、今度こそ「するか!」と押しのけた。
「あはは、冗談よ。冗談。じゃ、用も済んだしそろそろ戻るわ。また後でね、祭」
「あ、おいこら!逃げんな!~~~~~~っ後で覚えとけよこの野郎!」
軽いステップを踏むような足取りで教室から出て行く青子に、負け犬のような台詞を吐いて、緑間は「あーっ!!」と頭を抱えた。くすくすと隣りで悪霊の笑い声が聞こえる。
「悪霊だなんてひどいな」
『ひどいのはそっちだろ!人の不幸を笑いやがって…!』
「あれ、不幸だと思ったの?」
緑間は言葉に詰まった。本当に、この幼なじみは人の急所を抉るのが好きらしい。その聞き方はずるいだろう。
「やっぱり、満更でもないんじゃない?」
赤崎はにっこりと笑った。ああ、本当に。俺の周りはこんなんばっかだ。
「いい加減認めればいいのに。青子のこと、好きなんでしょ?」
うっせーよバカ。そんなもん知るか。
しばらく経って、凍結状態であったクラスメイト達が一斉に緑間へと詰め寄る。
こうして、彼氏にしたい男第一位、イケメン生徒会長である緑間祭と、彼女にしたい女第一位、学校一の美女である水沢青子のキスシーンは、瞬く間に全校生徒へと広まったのであった。
第二章 第四話 「答えは静が知ってるぜ」
屋上までの道のりといったらなかった。おそらく、ここまで青子の隣りを歩くことに居心地の悪さを感じたことは、今までなかっただろう。
たった数時間であっという間に今朝の出来事は広まったらしく、とにかく周囲の視線が痛かった。嫌でも周りのひそひそ話は耳に入るし、いつの間にか付き合っている設定にもなっているようで、本格的に頭が痛くなってくる。青子の方はといえば、特に気にしていない―どころか、上機嫌で腕を組んでくるものだから、最早溜息すら出てこない状態である。いつもいつも振り回されてばかりだと緑間は思った。
「ったく…お前があんなことするから、すっかり注目の的じゃねえか…居心地悪い」
「気にするから悪いのよ。それに注目されるの好きでしょう、祭」
「人を目立ちたがりみたいに言うな。場所を考えろって言ってんだよ場所を。なんでよりによって学校なんか…」
「あら、じゃあ学校でなかったらいいのかしら」
そういう問題じゃねえ、と緑間は彼女の頭をはたいた。というか、今の発言にも大いに問題がある。いよいよ弁解が難しくなってきたのではないだろうか。
第一、好きでもない相手にキスをすること自体がそもそも間違っているのだ。当然、お前もしただろ、というつっこみは受け付けない。俺がしたのはおでこだ、あれはキスには入らん、というのが緑間の主張である。
「少なくとも青子は、そうは思っていないみたいだけど」
緑間は、悪霊の言うことを徹底的に無視することにした。
「ねえ、祭」
悶々としている緑間に、青子が声のトーンを下げて切り出した。彼女の表情に陰りが生まれ、緑間は先ほどまでと一転し、神妙な顔で「なんだ」と返事をする。
「あのね、私…」
先ほどまでの明るさが消え、わなわなと青子の体が震え始める。一体何事かと思ったが、すぐに緑間は赤崎のことだろうと思い至った。よくよく考えれば、昨日の今日で赤崎のことに関して色々思うところがあるのは当然である。
それに、確かに昨日事情は説明したものの、時間的にも精神的にも青子には余裕がないと判断し、適当に流した部分もある。彼女自身、赤崎のことに関して聞きたいことが、多かれ少なかれあるはずだ。おそらくそれを切り出されるのだろうと緑間は思っていた…のだが。
「実は今日お昼持ってきてないのよ。それ、静の分のお弁当でしょ?私がもらってもいい?」
思わずずっこけそうになった。
ぱんぱかぱーん。
屋上へ入るなり三連続でクラッカーを鳴らされ、一瞬思考回路が停止する。隣りの青子もそれには驚いたようで、目をぱちくりとさせていた。
クラッカーから飛び出してきた折り紙や装飾品の数々が制服にまとわりつく。犯人は勿論、クソ可愛い後輩共だ。つーかお前らどっからクラッカー持ってきやがった。
「聞きましたよー!お二人、とうとう付き合い始めたんですね!リア充…もといまつり先輩爆発して下さい!」
「お似合いだと思いますよ。美男美女、すっかり学校公認のカップルですね。というわけで祭さん爆発しろ」
「お前らなんなの一体!?」
やっとのことであの居心地の悪い視線から逃げ出せたと思ったのに、ここもかよ…と、緑間はうな垂れた。しかも爆発するのが自分だけというのは、一体どういう了見なのだろう。響にいたっては、最早先輩への敬意も尊敬もあったものではない。棒読みな上に無表情で、最終的には命令形になっている有様だ。
「すみません祭先輩、俺も実は結構爆発してほしいです。爆発してもらえませんか」
「いや、丁寧に言えばいいって問題じゃねえから。てかお前らどんだけひがんでんだよ!?」
後輩陣唯一の常識人であるはずの優まで、どうやら頭のネジが数本緩んでしまったらしい。しかもこれまた割りと本気っぽい。どうやら緑間がリア充になると、ここまで周りが狂ってしまうようだ。
(って、待て待て待て待て。そうじゃねえだろ)
「あのなあ、勝手に勘違いしてるみてえだけど、俺らそもそも付き合ってないから。リア充じゃねえし。お前も、黙ってないで否定しろよアホ」
「…え?」
「いいじゃない別に。私は全然構わないもの。それにさっきも言ったけど、気にする祭も悪いのよ」
「アホか。勝手に変な噂流されて、気にすんなっつう方が無理だろ。なんでお前はそんなに冷静なんだ」
「さあ、なんででしょう?」
「…あの、えっと、ちょっと待ってください」
緑間と青子の会話に響が割って入る。状況をいまいち飲み込めていないのか、渋い顔をしながら待ったのポーズを取った。琴乃と優も、うん?と首を傾げて腕を組んでいる。
「えっとー…あれ?お二人、付き合ってるんじゃないんですか?」
「だから、違げえっつってんだろ。色々尾ひれつきすぎだっつうの」
琴乃の問いかけに、やれやれといった様子で緑間は答えた。普通に考えればわかるだろうに、何故そこまで驚いたような顔をされなければならないのかと、溜息をつく。
「え…でも、祭さんと青子さんがキスしたって噂が…」
混乱している様子の響が、意義ありと手をあげる。あー…と緑間は生返事をして、がしがしと頭を掻いた。それに関しては、不本意だが事実なので弁解のしようがない。
「それはまあ、いつも通りこいつの気まぐれだよ。挨拶みたいなもんだ。お前らだってされてんだろ」
たかがキスの一つや二つ如きで付き合ってるなんて、大袈裟すぎんだよ、と緑間は付け加えた。たかがキスと言える辺り、彼の恋愛感覚もそれなりに麻痺していることがよくわかる。こればっかりは、本人が無自覚なので救いようがない。
「じゃあ、お二人は本当に付き合ってないんですか…?」
「しつけえなあ。付き合ってないって言ってんだろ」
いい加減このやり取りが鬱陶しくなってき緑間は、半ば投げやりにそう返した。事実を改めて再確認した三人の表情が、一気にクールダウンする。クラッカーと共に騒々しく出迎えた時とは打って変わり、肩を落として、期待はずれだと言うような、冷ややかな視線がぐさぐさと緑間に刺さった。
「そう…ですよね。祭さんがリア充とか…はは、ありえない」
「そもそもあおこ先輩と釣り合ってないし…ヘタレなまつり先輩がリア充とか…うん、ありえないですね」
「紛らわしい噂を流すのは今後控えていただきたい。マジ迷惑なんで」
「だからお前ら何なんだよ!?」
リア充だと勘違いされては、爆発しろと言われ。誤解が解けたらと解けたで、釣り合ってないだのありえないだのと言われ。男としてのプライドはおろか、先輩としての威厳うんぬんもあったものではない。
隣りの青子は何も言わないし、幼なじみの赤崎は心底おかしそうに笑っていて、緑間は結構本気で泣きそうになった。
「…と、まあ与太話はこの辺にして」
「与太話って、そもそもお前らが始めたんだからな」
「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない」
響が、先ほどまでの空気をぶち壊すかのようなきりっとした態度で、緑間のすぐ隣りを見据える。彼の視線の先にいるのは赤崎だ。
「お久しぶりです、青子さん。また会えてよかった。そしてこんにちは、祭さん…と、静さん」
響の言葉を合図に、残りの二人も緑間と青子に目を留めた。
青子には、先日響に霊感があることを説明済みだったので、別段驚いた様子を見せはしなかったが、「本当に静が視えるのね」と薄い笑みを浮かべていた。
だが、決して羨ましいとは続けない。霊が視えるその体質が、必ずしもその人にとって喜ぶべき対象ではないことを、そして、望んで持ち得た力ではないことを知っているからだ。現に緑間がそうだった。
だからその体質のせいで響が辛い思いをしてきただろうことは、青子にだってわかっている。
「挨拶はいい。お前ら五・六時間目の授業は?」
「五時間目は自習です。六時間目は古典ですが、小林先生はかなりボケているので、おそらく抜けていてもバレないかと思います」
答えたのは優だ。自習とはまた、随分運が良い。六時間目の古典だが、これも優の言う通り度外視する問題ではない。あの先生のボケは既に末期状態である。
それよりも―緑間が気にかかったのは優だ。抜けていてもバレないかと思います、とその一言を言ったのが優であったことに、緑間は若干驚いていた。何故なら彼は、ルールや規則を破ることを極端に嫌う、超真面目人間だからだ。その生き方を貫くことが、黒銀優の生き方であり、もう出会ってから二年経つが、彼がその信念に背くところを見たのは、これが初めてのことであった。
「…俺だって、規則を守るより大切なものがあることくらい、いい加減もうわかっているつもりですよ」
そんな緑間の心情を察したのか、優がふいと目をそらしてそう言った。少しバツが悪そうに見えて、緑間は苦笑いを浮かべる。最近はこんな風に心の中を読まれてばかりだと思いつつ、初めて会った時には想像もしていなかった後輩の微かな変化を、緑間は少しだけ誇らしく思った。
優は優なりに、赤崎のことを慕っていたようだ。それが、響や琴乃のように表面に現れることはほとんどなかったけれど。
「…よっし!俺の方は数学と化学が入っちゃいるが、まあその辺はクラスの奴らが上手く誤魔化してくれんだろ。青子は?」
「問題ないわ。どちらも男の先生だもの」
緑間の問いかけに、若干投げやりな様子で青子が答えた。どちらも男の先生だもの。それが理由で授業をサボれる生徒など、おそらく日本中どこを探しても青子くらいのものだろう。
何故なら彼女は、驚異的なほど男の先生方に気に入られているからだ。青子の美貌は老若男女、年齢や年の差も関係なく虜にしてしまうのである。今まで三~四人ほどの先生から告白されているらしい。全く、末恐ろしい女だ。
「お前ら、今日はもう授業に出れるだなんて思うなよ。議論の進行状況によっては、時間の延長も十分有りうる。なんせ前代未聞の議題だからな。案が出るまで帰れると思うなよ」
その場にいた(赤崎を除く)全員が頷き、その視線が一斉に緑間へと向く。全員の視線を受け止め、緑間も静かに頷いた。
「それではこれより、生徒会執行部生徒会長の名の下に、議題“赤崎静の成仏”についての論議を始める」
議事の進行は議長、書記は議会の進行状況と現状のまとめ、論議の結果をメモしておくこと。会計は書記のサポートに回れ。
緑間の、的確で無駄のないその指示に応えるよう、全員が動き始める。この状態を生徒会モードと言い、この時ばかりは緑間も含め、全員が執行部の一員としての役割を真っ当するのだ。まあ、今回の議題が執行部としての役割うんぬんに関係しているかと言われると、それはまた微妙なものであるが。
青子が制服の胸ポケットからメモ帳とペンを取り出したのを確認し、緑間は続ける。
「そして副会長は、議会の進行をスムーズに進めることだけを考えろ」
緑間はそう言って、その場に腰を下ろす。会長らしい、堂々とした振舞いであった。
「「それでは、議題に対する討議を、議長団の宣言により開始します」」
ここまで本格的に話し合う必要はないのではないだろうかと思う赤崎であった。
議題その一、赤崎は何故こちら側に留まっているのか。
「まあ…普通に考えれば、現世になんらかの未練や執着があるから…ですよね」
響が言った。確かにその通りで、霊があの世にいけず、浮遊霊もしくは地縛霊になってしまう理由というのは、大体がそれに該当する。
それはファンタジーの世界だけの話だろうと、世の中の大半はそう思っているだろうが、今までの人生経験において、常に霊を見続けてきた響と緑間にとっては、それは紛れもない事実である。現に二人は、今までそういう霊を嫌というほど視てきた。
だから響の意見が正当なものであることは確かなのだが…それで済まないから困っているのだ。
「でも、静の野郎は、そういう未練やら執着やらが無いって言ってんだよ。一つくらいあってもいいだろうに、全くないって言い張りやがるし」
「静さん曰く、無いものは無いんだからしょうがないだろ、だそうです」
視えない青子達のパイプ役として、響が霊である赤崎の言葉を伝達する。緑間と響の言葉に、青子が納得したようにメモを取りながら頷いた。
「私もそう思うわ。静のことはよく知っているつもりよ。未練を残すほど、自分の生に執着しているようには見えなかった」
「私もあおこ先輩の意見に同感です。しずか先輩って、なんていうか…炭酸?みたいにスカっとしてて、そんなねちっこさはもち合わせてないと思います」
「俺もです。それこそついこの間まで、静先輩は竹を割るようにすっぱりといってしまう人だと思っていました。間違っても未練を残して成仏できなくなるなんて、思ってもみなかったです」
青子、琴乃、優の順で、全員が赤崎に未練があるとは思えないと言った。その件に関しては同感だと緑間と響も頷く。
(そう、きっと、)
こいつは未練だなんて、そんな小難しくて小綺麗なもんは持ち合わせていない。
「僕は随分さばさばしていて冷たい奴だったんだね」
赤崎が薄く笑った。響はそれを、三人に伝えなかった。
青子が器用にペン回しをする。
「仮に、静に未練+aがなかったとしましょう。じゃあ、静が成仏できずにいる理由って、一体なんなのかしら」
議題その二、赤崎がこちら側に留まってしまっている理由とは、一体何か。
「…ていうか、これがわかったら初めから苦労してないですよね」
「言うな、琴乃。仕方ねえだろ、結局のところ、ここの答えを導き出さなきゃなんにも解決しねえんだから」
琴乃の言い分はもっともだったが、だからといってそこを横に置いても何も始まらないし、解決策も浮かびようがない。赤崎が成仏できない理由がわかれば、何かしらの手を打つこともできるだろう。つまるところ、そこを放置したままでは、話は進まないということだ。
「それじゃあまずは、僕らで当てはめて考えてみます?」
響の提案に、青子が賛同した。確かに、当の本人である赤崎がわからないというのだから、まずは自分達に当てはめて考えてみるのもいいかもしれない。
「じゃあ、例えば不慮の事故で自分が死んでしまったと仮定して、その時成仏できずに幽霊になってしまうと思う人は手を挙げてください」
優の言葉に手を挙げたのは、響と優と青子の三人だった。とりあえず青子が、その結果をメモに書き残す。
「あれ、意外です。まつり先輩、未練とかないんですか?」
「あー…多分、ないなあ。割と人生楽しんできたし。つうか俺としては、お前が手挙げなかったことに驚いてるよ」
それには緑間だけでなく、その場にいた全員が同意見であった。特に双子の兄妹である響は、てっきり琴乃は手を挙げるんだとばかり思っていたようで、大きく目を見開いている。
琴乃は、苦笑いをした。
「昔の私なら…多分、成仏できなかったと思いますけど。でも、今は違いますよ。だってもう、響の周りには、たくさんの人がいるから」
私は多分、安心していけると思うんですよね。そう言った彼女は、普段とは打って変わった、大人びた表情をしていた。対する響は、妹のその言葉に複雑そうな顔をしている。
緑間は静かに目を細め、それからくしゃっと琴乃の頭を撫でた。「わわっ」と、琴乃が慌てたような声を上げる。不思議と、純粋に今は彼女の頭を撫でたいと、緑間はそう思った。
「じゃあ…そうだな、響はなんで成仏できないと思うんだ?」
そして、相変わらず複雑そうな顔をしている響に訊ねると、返ってきた返事は随分歯切れが悪かった。
「いや…えっと、その……あれ?」
「いや、あれ?ってなんだよ」
素っ頓狂なことを言う響に、緑間が眉をひそめる。
「あの、ちょっとパスで。なんだかわからなくなってきました」
次行って下さい、次。と半ば強引に響のターンは終了した。
それじゃあ意味ないだろ、と思う緑間であったが、そんな兄の様子をじっと見つめ、「今はそっとしておいてあげて下さい」と琴乃が言うものだから、仕方なく次に順番を回すことになった。
「響はとりあえずパスっつうことで、じゃあ次行くな。優は?なんで成仏できねえの?」
「…家族との仲を復縁できていないから、というのも理由ですが…一番は、おそらく」
そこで区切り、優は混乱している響の方をちらりと見やった。考え事に夢中の響は、もちろん優の視線に気がついていない。
「…まだ、何も伝えていないからだと思います。俺が、一番向き合いたいと思っている奴に、自分の気持ちを伝えることができていないから」
それが誰のことを言っているのか、緑間と響だけがわかっていないようだった。まあ響に関しては、そもそも優のその言葉すら聞いているかどうか怪しいが。
青子が、忘れない内にとメモを取る。
「そんじゃラストな。お前は?」
「私は…」
考えているようだった。というよりはまあ、どう答えるべきか考えをまとめているという表現の方が正しいかもしれない。
緑間は、青子が成仏できない方に手を挙げるだろうと、なんとなく予想がついていた。おそらく彼女はまだ、あの日の約束を引き摺っているだろうから。
「約束したから…って、多分昨日までの私なら言っていたと思うわ。でも、今は違う。優と同じよ…大事な人に、言い残したことがあるから」
青子は、とても優しい顔をしていた。予想外の言葉に、緑間は目を見張る。あの日の約束を引き摺っているんだとばかり思っていたのに―否、引き摺っていた時期もあったようだが、どうやら今は違うらしい。大事な人に言い残したことがるから。それは一体、誰に、何を。
そこを追求すると、本筋から大分逸れてしまうことがわかっていたので、緑間は結局聞かなかった。
「…でも、未練があるとかないとか関係なしにね、やっぱり“一緒にいたかった”って、そんな風に思うんじゃないかって、最近思ったわ」
―一緒にいたかった?
緑間は、青子が言ったその言葉に妙な引っかかりを感じた。
響を除く四人の意見が出揃ったところで、再び話を元に戻す。何故赤崎は現世に留まっているのか。優と青子の言い分はほとんど同じだったので、緑間はとりあえず赤崎にそれを振ってみる。そもそも、緑間と琴乃の意見は参考にはならない。
赤崎は、腕を組んでうーんと唸っていた。
「確かに…言われてみれば、なんかそんな感じのありそう」
心当たりがないわけでもないようだった。
ここまでくると、あとはもう当事者である赤崎本人に思い出してもらうしかない。
あの世にいけない理由を。
やり忘れた夏休みの宿題の在り処を。
「うー…あー…ダメだ。思い浮かばない。もう少し時間かかりそう」
「しずか先輩、なんて?」
「思い浮かびそうだけど、まだなんか足りないって」
赤崎が、うんうん唸ってまた考える。響が、そんな赤崎の言葉を代弁した。
時間がかかりそうとのことで、執行部一行は時間が許す限り赤崎の言葉を待った。
そして待つこと二十分。もう既に五時間目の授業は終わっている。
赤崎が切り出したのは、とても予想外の言葉だった。
「考えてみたけど、なんか途中で面倒くさくなった」
「俺らの二十分を返せこの野郎!」
赤崎の面倒くさい発言に、緑間の中でプツンと何かが切れる。
「お前なあ!面倒くさくなったってなんだよ!人が必死こいてなんとかしてやろうとしてるっつうのに…思い出す努力くらいしやがれ!」
「ちょ…!ス、ストップ!ストップです!落ち着いて下さい、祭さん!」
赤崎に掴みかかろうとした緑間を真っ先に止めに入ったのは、この展開を予想していたらしい響だ。他の三人は「えっ?」と戸惑いの声を上げている。どうやら状況を理解できていないようだった。当たり前である、三人には姿どころか赤崎の声すらも聞こえないのだから。傍から見れば緑間は、突然誰かに向かって叫んだようにしか見えない。まあ、それが誰に向けられたものであるかくらいは、流石の三人にもわかっているようだが。
「これが落ち着けるか!こいつは、面倒くさいって言ったんだぞ!?まるで他人事みてえに!てめえ事だろうが!誰の為にこうして集まったと思ってんだよ!」
(……?)
誰の為に。
―――――――誰の、為に?
考えて、緑間は脱力した。
「うん、そうだね。他人事なんかじゃない。悪かったよ、ごめん。でも…頼んでないよ。なんとかしてくれって、縋った覚えも僕にはない」
ぐさりと、その言葉が胸に突き刺さる。どすんと、その言葉の重みに潰されてしまいそうだと緑間は思った。
全くその通りすぎて、怒りを通り越して笑いがこみ上げてくる。
(馬鹿野郎、)
自分で言ったんだろうが。助けて、とは縋ってこない奴だと。だから。
誰の為か、だって?
滑稽すぎて涙が出てくる。
「いくらなんでもそれは言いすぎでしょう、静さん。祭さんは…」
「いや、いいんだ、響。おかげで頭が冷えた。悪いな、もう大丈夫だ」
流石の響もそれはあんまりだと赤崎に噛み付いたが、今度はそれを緑間が制する。止めに入っていた後輩を優しく押しのけ、何度も心の中で深呼吸を繰り返した。
(冷静になれ。流されるな。今更こいつのこういうところに苛立つなんて、らしくない)
「…悪かった。今のは取り消す。確かに俺はお前に頼まれてもいないし、まして縋られてもいない」
むしろ俺が、お前に頼んだ。お前に縋った。この罪悪感から解放されたくて、お前に助けを求めたのは俺の方だ。
誰の為、だなんて愚問だった。俺は静の為以上に、俺自身の為にやってるんだから。静の為と言いながら、ただ単に俺が、静を救うことで少しでも、自分の罪悪感を取り除きたかっただけなんだ。あの時の、俺の全てを清算できればどれだけ良いか。
やっぱりあの日、一緒に帰っていればよかったんだ。あそこで強く静を引き止めなかったのもまた、俺の罪だ。
だからこれは、俺が俺の為に俺の意思でやってることだった。ああ、そうだったんだ。
(それでもやっぱり、お前の為でもあったんだぜ、静)
ふと、赤崎と目が合った。その表情は歪に歪んでいて、どうやらまた心の内を読まれてしまったらしい、と緑間は理解する。いつもの変化が乏しい幼なじみからは想像もできないような、くしゃくしゃで痛ましい表情を浮かべていた。怒っているようにも、見える。
そこでようやくわかった。緑間は、初めて赤崎の気持ちがわかった気がした。これはおそらく、テレパシーではないだろう。
なんで、と問いかけられる。
「なんで祭は、いつも僕を正当化するんだ。自分ばっかり悪役になって、自分ばっかり否定して…お願いだから、僕みたいな生き方はしないでくれよ。罪も罰も、初めから存在なんてしていないんだ。だって僕は、」
「俺さ」
(なあ、静)
残念だけど、俺はお前を正当化しようとしてるつもりはないんだよ。ただ、俺とお前が一対一で対峙した場合、どう頑張ってもお前の方が正当化されてしまうだけで。まあ、当たり前だよな。俺にとって、正当の模範はいつだってお前だったんだから。俺とお前が一致してなかったら、いつだって間違ってるのは俺の方だったんだよ。
「ずっと、お前は成仏したがってるんだと思ってた。成仏させるのが一番良い方法なんだって、思ってたよ」
だからさ、俺がお前を正当化するのも、お前から見て俺が、悪役の貧乏くじを引いてるように見えるのも、俺が俺を否定するのだって全部、元を辿ればお前が原因、だったりするわけだ。
赤崎が、今にも泣き出しそうな顔で「ごめん」と小さく呟く。
(バーカ。一体お前は、何に対して謝ってんだよ)
俺は一度だってそれを不幸だと思ったことはないんだから、それくらいちゃんとわかっとけ。
「なあ、静」
―お前は俺の正義だった。お前は、俺の道だったよ。
「お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?」
え?と、その場にいた全員の声が重なった。赤崎の姿が視えない三人も、状況は理解できていないにせよ、緑間の言葉の意味はわかったのだろう。響ですら、虚をつかれたように目を見開いている。
「ちょっと、祭。それって一体…どういう意味よ」
「答えは静が知ってるぜ」
もっとも、誰よりもその言葉に驚きを隠せなかったのは、当事者である赤崎本人であったわけだが。
第二章 第五話 「それぞれの選択Ⅰ」
結局その日、彼らは六時間目の授業が終わる十五分ほど前に解散した。当事者である赤崎が、心ここにあらずの状況であったからだ。
もちろん、残り十五分で終わる授業に出る気などあるわけもなく、五人は学校を早退することにした。
緑間が教室に鞄を取りに戻ると、クラスメイト達がこぞって訝しげな表情を浮かべていて、よほどひどい顔をしていたのか、授業中にも関わらずわざわざ席を立って「大丈夫か」と問いかけてきた。それに対し緑間は、「大丈夫大丈夫」と笑って、化学の先生に一言断ってから教室を出た。
教室を出た緑間は、廊下で待っていた青子と一緒に玄関へと向かう。
先ほどとは別の意味で、この空気は居心地が悪いと緑間は思った。
「…静、そこにいるんでしょ?」
青子が呟くように言った。彼女の指す“そこ”とは、緑間の右隣りのことである。
そう、赤崎は昔から、大抵いつも緑間の右隣りを歩いていた。それは赤崎に何か意味やこだわりがあったからではなく、おそらく彼は無意識の内に、一種の“在るべき場所”を見出していたのだ。緑間の右側は自分の居場所なのだ、と。
だから緑間も、そのことについて何かを言ったことはなかった。彼の中でも、右側は常に赤崎のために空けてある場所であったから。
その場所が空白になって、もうどれくらい経っただろう。
そして、その場所が再び埋まるようになって、一体、どれほどの。
緑間は、悪い方向に向かっていきそうな思考を取っ払い、「ああ」と短く返す。
「成仏したくないって本当なの?」
それは赤崎への問いかけでもあり、また緑間への確認という意味も含んでいた。当の本人である赤崎は答えるつもりがないのか、俯いてだんまりを決め込んでいる。
「さあな。少なくとも俺は、そうなんじゃないかって思ってる。ついさっき、そう思った。まあ静の方がどう思ってるかは知んねえけど」
「理由は?根拠とかあるんでしょ?」
緑間は階段を下りる足を止めた。それにつられて、一段先を降りていた青子も立ち止まり、そして一つ上の緑間を見上げる。
授業中なので廊下や階段には、もちろん生徒の姿はない。
静かだった。
「死にたくなかったからだよ」
そして、緑間のその言葉は、静まり返ったこの空間の中ではっきりと反響した。
「え…」
青子が呆けたような表情を浮かべる。緑間としては、そんな顔をする彼女の方が、よっぽど理解できなかった。
死にたくない。誰だって、生きていれば一度くらいは思ったことがあるはずだ。死んだ人だってそうだろう。それは、赤崎だけが例外ということにはならない。
「で、でも、静、未練はないって」
「それは嘘じゃないだろうな。あいつは多分、未練も後悔も何も持ってない」
そう―赤崎が持っているのは、未練でもなければ後悔でもない。
「願いだよ、静が持ってるのは。生きて、みんなと一緒にいたかったっていう、すっげえありふれた望みだけだ。その願いの強さが、あいつをこっちに留まらせてる」
「嘘…」
青子が目を見開いて口元を押さえた。どうやら彼女にとって、赤崎のそれは大いに予想外のことであったらしい。
一方赤崎は何も言わない。緑間の言葉に対して、肯定もしなければ否定もしなかった。返事がないことを緑間は肯定と解釈する。
「だからあいつは成仏したくない。今までみたいに…そんで、今みたいに一緒にはいられなくなるからな」
ま、実際のところどうなのかはわかんねえけど。そんな風に緑間は付け加えたが、それでもやはり、それが答えなのではないかと思うのだ。
(お前は、俺に罪なんてないって言ったけどな)
お前を、こんな風に幽霊っていう一つの手段に縛ったのは、紛れもなく緑間祭なんだろう。あの時お前に俺を庇わせた、お前を庇えなかった俺のせいだ。これが罪じゃなかったら、一体なんだっつうんだよ、アホ静。
「じゃあ」
小刻みに肩を揺らし、青子は俯いたまま絞り出すような声で言った。彼女の表情は窺えなかったが、おそらく泣いてはいないだろう。学校で青子と会った時、なんとなく以前よりも“泣かない”という意識が強くなっているように緑間は感じたからだ。
「じゃあ、もしも祭の言うとおり、静が本当は成仏したくないって言ったら、どうするの」
青子の問いかけに、緑間は情けなく笑った。止めていた足を再び動かし、たんたんと階段を下りていく。対する彼女は、その場から動けずにいた。
見上げていたはずの緑間を、今度は青子が見下ろすような形で、二人の視線が交錯した。
「それでも俺は、静を成仏させるぜ」
そう言った緑間の顔はやけに儚げで、捕まえておかないとふらっとどこかへいってしまいそうだと青子は本能的にそう思った。嫌な予感がしたのだ。つい先日の自分を思い出す。
「もう、とっくの昔に覚悟はできてたんだ」
そんな顔で言わないで、と青子は心の内でそう呟く。
今の緑間が、青子には数日前の自分と同じに見えていた。
「世界が壊れたのに俺だけ生きてるなんて、そんなの…おかしいもんな」
青子は、動くことを拒む自分の体を無理矢理動かし、引き止めるようにその手を掴んだ。
「お願い、祭までいかないで。お願いだから…」
彼女がそう言うと、掴んだ緑間の手がぴくりと揺れた。如実に迷いが伝わってきたような気がして、引き止めるなら今しかないと青子はそう思った。
ここでこの手を離したら、きっと後悔するだろうともこの時思った。
「なーに情けない顔してんだよ」
緑間は、いつものような陽気な笑顔を浮かべた。そして彼の手が、するりと青子の手から離れていく。そう、まるで、掴みどころのない赤色のように。
青子にはわかっていた。本当は、緑間が何も振り切れてなどいないことを。
誰よりも赤崎のことを大切に思っていたのは、青子ではなく、彼の方であったのだから。
「バーカ。冗談に決まってんだろ、冗談。本気にすんなよ」
緑間の笑顔は、どこか乾いていた。何かを決めたような、そしてそれと同時に何かを諦めたような、そんな笑い方だった。
「あ、まつり先輩!あおこ先輩!」
玄関に着くと、同じく六時間目を早退した後輩達がぶんぶんと手を振ってきた。どうやら待っていたらしい。
「なんだ、先に帰っててもよかったんだぜ?」
「あ、いえ…少しお話があったので…あれ、青子さん?どうかしたんですか?」
様子のおかしい青子に気づいた響が首を傾げる。だが、彼女はふるふると首を振るだけで口を開こうとはしなかった。響は、おそらく事情を知っているであろう緑間の方に目を向けたが、こちらは「あー…」と言いにくそうに頭をかくだけである。
「ま、気にすんな。で、話ってのはなんだ?」
「どっちかって言うと、祭さんより静さんに話しがあったりするんですけどね…」
響は緑間のすぐ隣りにいる赤崎に目を向けた。どこかやるせない表情を浮かべている赤崎に向かって、響は心の中で二、三度深呼吸を繰り返し、話を切り出す。
「しばらく静さんの家を使わせてほしいんです」
「…は?」
間抜けな声を上げたのは緑間だった。だが、彼だけではなく青子も、そして赤崎本人も少なからず驚いてはいるようで、目を見開いている。まさかそんな話を持ち出されるとは、思っていなかったようだ。
「な…なんでだよ。使うって、何を」
「理由は言えません。使うのは静さんの家全部です。それと、多分色々…準備が終わるまでは、僕ら三人、静さんの家に泊まることになると思います」
響は、言いにくそうに口ごもりながらそう言った。緑間の方は依然として話が理解できていないのか、目を点にしている。
だが、今ここで響達が理解を求めるべきは緑間ではなく、家主である赤崎だけである。
響は、緑間に気取られぬよう注意しつつ、赤崎に向かって語りかけた。
『…ダメですか?』
『ダメっていうか…少し、驚いているだけかな。一つ聞きたいんだけど、それは僕の家じゃなきゃできないこと?』
緑間は知らないようだが、響と赤崎もテレパシーで交信することができる。勿論このテレパシーを、緑間に聞かれないようにすることも。どうやらこの力は、ある程度霊感の強い者ならば誰でも使えるもののようだ。
確認するような、そして探りを入れるような赤崎の物言いに、響は小さく頷く。
『はい。静さんの家じゃないとできません』
『そっか…』
じゃあ、いいよ。と赤崎が言った。鍵は祭が持っているはずだからそれを借りて、とも。響は、思いの他あっさりと承諾されたことに拍子抜けした。
本当にいいのかと確認しようか迷ったが、それ以上話すことは何もないという赤崎の雰囲気を感じ取り、一言「ありがとうございます」と言うだけにしておいた。
その“ありがとう”に対し、優がほっと安堵の息を吐く。
「話の折はついたみたいだな」
「ああ、良いって言ってくれた。断られたらどうしようかと思ってたから、安心したよ」
響も胸を撫で下ろした。それと同時に、「よかったー」と琴乃が安心したように言う。
なんせ赤崎の家を借りる、ということを前提として立てられた計画である。断られた時点で全てがぱあになってしまうのだから、安心せずにはいられなかった。
許可を得た以上、あとは行動に移るのみである。時間は無限ではないし、この計画には制限時間が設けられているのだから、もたもた時間を食いつぶしている暇はない。その為にも、早々に緑間から鍵を受け取らなくては。
響が、ずいっと緑間に向かって手を差し出す。
「静さんが、祭さんから鍵をもらえと言っていました。だから、ください」
「俺かよ。いや、ちょっと待て。お前ら何を企んでる?あいつの家を使って、何するつもりだ?」
こうなるだろうと予想はしていた。たとえ赤崎の説得に成功したとしても、おそらくもっと高い壁―つまりは緑間が、この計画の前に立ちはだかるだろうことを、響も、そして琴乃と優も覚悟していた。
だから、緑間の無意識の妨害も予想の範囲内であり、焦る必要も驚く必要もない。
ここを乗り切ってしまえば、あとは順当にことが進んでいくはずである。三人にとっては、ここが正念場だった。
「理由は、言えません」
「アホ、言えませんがまかり通るか。悪いが俺が納得できる理由じゃないなら、この鍵は渡せない。たとえ静がいいって言ったとしてもな」
ちなみに今静ん家の鍵を持ってんのは俺だけだからな、と緑間が付け加えた。これも予想の範疇だ。
「時期が来ればいずれわかります。だから今は、僕らを信じてください。どうしても理由は言えないんです」
「…祭、響に鍵を渡して」
そんな二人の間に割って入ったのは、意外にも赤崎であった。しかも彼は、幼なじみではなく後輩である響達の味方につくようだ。
納得いくかよ、と面白くなさそうな顔でそう吐き捨てる緑間に、静かな声で赤崎が続けた。
「僕がいいって言ったんだ。それを祭にとやかく言われる筋合いは、ない」
正論である赤崎の言葉に、ちっと緑間が舌打ちをする。そして、至極不機嫌極まりない表情で、響に向って鍵を投げ渡した。唐突なその行為に反応が遅れ、響は危うく鍵を取り損ねそうになったが、ぎりぎりのところでキャッチに成功する。
かなり剣呑な雰囲気になってしまったが、これもまた響にとっては予想範囲内である。できればこうはならないでほしいと思っていたが、とりあえず最低限無事に赤崎の家へ入る許可を得ることができたので、良しとしよう。
ぎゅっと、受け取った鍵を握り締める。
「これも身勝手なお願いですが…僕らが良いと言うまで、その時が来るまでは…静さんの家には極力近づかないで下さい」
「理由は」
「…すみません」
はー…、と緑間が深い溜息をついて、がしがしと明るい髪をかいた。怒りも呆れも通り越した、どうでもいいという表現がぴったりな表情を浮かべている。
「もう知らん。勝手にしてくれ。なんかどうでも良くなった。静の家に近づかなきゃいいんだろ、わかったよ。約束する」
それ以上話すつもりはないようで、一足先に下足箱からスニーカーを取り出した緑間が、「じゃあな」と一言残してその場を去る。いつもなら、一緒に帰っていたはずだった。
追いかけるように青子も靴を履き替えたが、それを琴乃が引き止めた。彼女は引き止められたことに驚いて、一瞬目を見開く。
「琴乃?」
「…私達だけじゃ、きっと力不足です。だから、あおこ先輩の助けが必要になると思います…しずか先輩の幼なじみである、あおこ先輩の力が」
「え?」
青子の表情に、戸惑いの気色が濃くなる。おそらく“しずか”という単語に反応したのだろう。どうやら後輩がこれからやろうとしている事に、自分達が関わっているとは思っていなかったようだ。
「どういうこと?静が関係しているの…?」
響達三人は揃って頷いたものの、関係していないと言えば関係していないと言えなくもなかった。
この度の計画について、主役とも言える赤崎静本人は何も知らない。計画自体には彼は全く関係ないからだ。赤崎が最も深く関わってくるのは、計画の最終段階…というか、計画を実行したその時である。
「静さんに聞かれるわけにはいかなかったんです。だから、あの場ではどうしても言えなかった」
「それに今、静先輩は祭先輩から離れることができません…申し訳ないですが、祭先輩にも、その時が来るまでは何も伝えることができないんです」
響と優は、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
緑間が霊媒体質などではなく、響同様にただ視えるだけであったなら、この計画のことをきちんと説明し、できることなら手助けをしてもらいたかった。本当にそう思っている。緑間を怒らせるつもりなどなかった。怒らせたかったわけでも、なかったのだ。
「あなた達…一体何をしようとしているのよ」
三人は黙りこむ。
どうしても、今日計画について知られるわけにはいかないのだ。自分達なりに赤崎の家と、赤崎のことについて見極める時間が、三人には必要だった。
だが、今彼女に計画のことを伝えてしまえば、その時間が激減してしまうことは目に見えていた。最悪無くなってしまう可能性すらある。おそらく青子は、赤崎のことについて詮索しようとする後輩達を、快くは思わないだろうから。
「今はまだ言えません」
「私の助けが必要になるって言ったじゃない。私は、何も知らされないまま、わけのわからないことに力を貸さなきゃいけないの」
青子の声音が若干厳しいものへと変わる。そういう意味ではありません、と響は弁解を試みた。
「今週中には必ず、僕達がこれからやろうとしていることについて説明すると約束します。だからそれまで、待っていてもらえませんか」
彼女は何も言わなかった。琴乃の手を振り解いて、逃げるように緑間のあとを追って行った。
走り去っていった青子の背中を遠目で見つつ、響は深く息を吐く。
「…まあ、こうなるだろうとは思っていたけど」
「やっぱり怒ったかな、まつり先輩とあおこ先輩」
肩を落とす琴乃の頭を、宥めるようにぽんぽんと響は撫でた。
「大丈夫だよ。あれは多分、怒りとは少し違うから。まあ、不快な思いをさせたことに違いはないだろうけど」
依然として浮かない顔をする琴乃に、響は苦笑いをする。
あまり口には出さないものの、琴乃は本当にあの三人のことが大好きだった。凛々垣中最凶の双子と言われたあの頃の彼女からは想像もできないだろうが、心の底から尊敬していたし、慕ってもいた。過去形ではなく、現在進行形でだ。
琴乃がここまで他人に心を許し、好意を示すことはほとんどない。それは響もよく知っていたし、今まで唯一心を開いた人物がいるとすれば、それはおそらく優だけだ。
だから琴乃が肩を落として落ち込む気持ちが、響にはよくわかる。彼もまた、三人のことが大好きだから。できることなら怒らせたくはなかったし、穏便にことを済ませたかったという気持ちは強い。
結果的に、それは叶わぬ願いとなってしまったわけだが。
「…すまない。俺があんな提案をしたばっかりに…」
謝ったのは、今回この計画を立案した優である。申し訳なさそうに眉を下げた彼を見て、二人は勢いよく首を横に振った。一瞬の迷いもなく優の謝罪を否定する。
「優が謝る必要なんてないよ!謝るようなこと、一つもしてないんだから!」
「琴乃の言う通りだ。ちゃんと決めて、僕らはこの計画に賛成したんだから」
そう、これは優が切り出したことで、なんの変哲もない、誰だって思いつくような提案だった。そして響と琴乃は、一も二もなくそれに賛成し、現状に至る。
赤崎が成仏できていない現状を考えれば、それはあまり空気を読んだ提案ではないかもしれない。
だが、これはきっかけになるかもしれないと響は考えたのだ。なんのきっかけになるのかは、言わなくてもわかるだろう。
とにかく、この計画はきっと意味のあるものになる。赤崎が成仏するためのきっかけになると、響は確信していた。だから優が謝る必要はないのだ。
「だが…俺のせいで」
「優のせいじゃない。誰のせいでもないんだ…まあ、強いて言うなら、あんな日に死んだ静さんのせい、ってことになるんだろうけど」
響は、その手に残された重みをぎゅっと握り締める。
「時間はない。さあ、行こう。静さんの家に」
石は転がり始めた。それは緩やかなスピードで坂を転がり、次第にその速度を増していく。
石の行く先は終わりの始まり。
六時間目が終わるチャイムが鳴った。
第二章 第六話 「それぞれの選択Ⅱ」
“お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?”
その問いかけが、何度も頭の中で繰り返しリピートされている。これで十回目くらいだろうか。それは、赤崎にとってひどく居心地の悪いものであった。考えれば考えるほど、深い迷宮に入り込んでしまうような気がしてならない。
“お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?”
もう一度問いかけられる。確かにその言葉は幼なじみのものであったが、トータルで十一回、初めの一回以外は全て赤崎自身が自ら繰り返したものだ。本当は成仏なんてしたくないのではないか、と。
果たして、川の流れに抵抗せず、流されるまま生きてきた自分に、意思や信念などというものが存在していたのだろうか。
昔から物欲がないとよく言われていた。誕生日プレゼントに何が欲しいかと聞かれた時、特に何もないと答えた自分にも、新しいおもちゃを買ってもらったんだと自慢する緑間に、それが何?程度の興味しか示さなかった自分にも、覚えがある。
それに物欲だけでなく、赤崎自身には「何かをしたい」や「何かをしたくない」等、そういった意思や欲が備わっていなかった。本当に、流されるまま今まで生きてきたんだな、と今更改めて赤崎は思う。
そして、そんな彼を流れに乗せていたのは、幼なじみである緑間と青子であった。彼らは、間違った方向にさえ身を任せようとする赤崎に手を差し出し、いつも正しい道に引き戻してくれていた。二人がいたから、赤崎は今まで不器用なりにも生きていくことができたのだ。
いつだって、手を引いてくれた彼らがいたから。
(あ、)
そっか。と、そこで赤崎は一つの事実に直面する。まず第一に、自分の中に意思がしっかりと確立していたということ。今までだってこれからだって、“一緒にいたい”と思う気持ちは、正真正銘赤崎自身の意思であり、信念でもあった。確かに赤崎には意思があり、信念があり、そしてほんの少しの自我が存在している。
だからつまり、この問いかけに対する自分の答えも、きちんと用意はされていたのだ。
本当は、成仏なんてしたくないんじゃないの?
(ああ、そうだよ。成仏なんてしたくないんだ)
これは、独りになることに対する不安なんかじゃない。どこまでも純粋な、僕の我儘だ。
***
「…ごめん、祭」
家に帰るなり、緑間は部屋にこもって自分のベッドに寝転がっていた。先刻の響との話、そして赤崎のことについて考えていたのだ。
考え始めて二十分ほど経っただろうか、ずっと窓から外を眺めていた赤崎が、ふいにそんなことを言った。何が、と緑間は素っ気無く返す。何に対して謝られたのか、いまいちピンとこなかった。
こういう突発的な脈絡のなさは、どうやら死んでも直らなかったらしい。
「さっき…あんな言い方をするつもりはなかったんだ。だから、ごめん」
「ああ…気にしてねえよ、別に。でしゃばった俺が悪かった。だから、そんな顔で謝ってくれるな」
気にしていない、というのは、決して言葉だけではなかった。実際少しも気にしていないと言えば嘘になるが、そんな深刻そうな顔で謝られるほどの問題ではない。
それにでも確かに、あの時突き立てられた刃が、浅く緑間の奥底に掠り傷を残していったことに違いはないけれど。
それについて赤崎に説明するつもりはなかったし、既に抑えの効かない怒りにも似た感情は冷めている。特に先ほどの出来事について、緑間は腹を立ててはいない。それは嘘ではなかった。
「…それだけじゃないんだ」
だが、どうやら赤崎の謝罪にはまだ別の意味が伴っているようだった。とはいえ、緑間には謝られる理由が特に何も思い当たらない。
確かにこの幼なじみは今まで、謝らなくてなくてはならないようなことを散々緑間にしてきたと言える。 たとえばそれは、昔貸した漫画の十五巻~二十三巻までを紛失したことであったり、最早日常茶飯事となっている、大事にとっておいた弁当のおかずを横取りされたことであったり、人が気持ちよく寝ているのをいいことに、油性マジックで顔に落書きをしたりと、まあ色々あったりするのだが。
「…あ、もしかしてこの間貸した三百円のことか?いいよいいよ別に。こうなっちまった以上、返せとは言わねえから」
「ああ…そういえばそんなこともあったっけ?忘れていたよ」
「お前なあ」
緑間は呆れた風に溜息をついた。
大体そうで、基本的に一度赤崎の手に渡ったものが、緑間の元に返ってくることはまずない。何度注意しても直らないので、緑間自身もそのことについてはもう諦めていた。だから、一度貸したらもう戻ってこない可能性も十分あるとわかった上で、今までこうしてやってきたのだ。
それでも、赤崎が戻ってこない可能性は、今まで一度も考えたことがなかったけれど。
「…ま、いっか。それでなんだよ、それだけじゃないって」
神妙に、深刻そうな表情を浮かべる赤崎とは対照的な、からかうような笑みを浮かべて緑間は言った。つとめて明るく、これからどんな言葉が幼なじみの口から飛び出してきても、動揺しないように。
どれだけ逃げ回っていても、いつかは向き合わなくてはならないことだ。緑間自身、そんなことは嫌というほどわかっている。
こんな能力、ない方がよかったのかもしれない。相手の考えていることがわかるなんて、実際問題苦しいだけだ。
「僕は、」
だが、その苦しさと引き換えに、覚悟と時間の猶予が与えられる。そう、たとえば今のように。
「ん?」
戸惑う必要はない。迷う必要も。自分はもう、十分すぎるほどに覚悟するだけの時間をもらったのだ。
(だから今度は、俺の覚悟が鈍らない内に)
緑間は寝転がっていた体をゆっくりと起こし、赤崎と向き直る。その先を急かすようなことはしなかった。窓から差し込む日の光が、きらきらと赤崎の綺麗な黒い瞳に反射して、とても綺麗だと緑間は思った。
一瞬だけ、時間が止まる。それは一秒よりも短く、そして永遠に近かった。
ゆっくりと時間が動き始める。動き出した時間の中で、赤崎は絞り出すようにか細い声で言った。
「本当は…成仏なんて、したくない」
「…そっか」
緑間は、くしゃっと赤崎の頭を撫でた。見る者によっては、緑間の浮かべる笑みが切なく、悲しいものであったことに気づいただろう。そして、長い付き合いである赤崎が、彼のその不自然な笑みに気がつかないはずがない。
しばらく経って、ぴたりと緑間は手を止める。
「…なあ、静。あの時俺が言ったこと、覚えてるか?」
「あの時…?」
赤崎が首を傾げる。わからないのも無理はない。“あの時”が該当する記憶が、彼らには多すぎた。緑間の言う“あの時”は、数多くあった“あの時”の中の一つにすぎないのだから。
そもそも赤崎は忘れているかもしれない。あの時緑間が言った言葉など。
だからもう一度繰り返す。
「俺も一緒にいってやる」
はっと、まるで我に返ったかのように赤崎は目を見開いた。
そう、これが、あの時彼が言ったこと。
「あの時言ったろ?俺の命くらい、お前にやるって。あの言葉に嘘はねえよ。俺の命くらい…安いもんだ」
(なあ、静)
ずっと、償いたいと思っていたんだ。たとえそれが、俺が自分で作り上げた幻の罪であったとしても。俺にはそれすら、初めから口実だったんだよ。
この命でお前が楽にいけるなら本望だ。一緒にいってやるよ。俺も一緒に〈あっち〉へいけば、お前にはもうこっちに縛られる理由がなくなるもんな。それに、俺にも静がいない世界から逃げ出す口実が出来て、一石二鳥だ。
「違…う、」
「違わねえよ。まだ気づいてないのか?お前、その為に俺のところに来たんだぜ?」
緑間の乾いた笑い声が、しんと静まり返った部屋に響いた。赤崎は口を閉ざし、小刻みに体を震わせている。何かに怯えているようにも見えた。
別段責めているわけでも、まして咎めているわけでもない。元々緑間は、初めて霊となった赤崎が家に訪れた時、薄々感づいてはいたのだ。
―自分を〈あっち〉に連れて行く為に、この幼なじみが舞い戻ってきたのだと。
それに関して赤崎を咎めるつもりは、緑間には更々なかった。この罪の幕引きが他の誰でもない赤崎の手で降ろされるなら、これ以上のものはないと、そう思う。
「ちょっと低いけど、頭から落ちれば普通に死ねると思うんだよな。一応二階だし。まあ、多分いけるだろ、これなら」
「何、言って」
「死ぬのってやっぱ怖いな。出来れば楽に逝きたいところだが…はは、それじゃあ意味ないか」
「ちょっと…祭ってば」
「死んだら天国と地獄、どっちに行くんだろうな。出来れば天国で頼むぜ、天の神様。あーあ、こんなことなら、響にあんなきつい言い方するんじゃ」
なかった、と緑間は続けようとした。だがそれは、ダンっという鈍い音によって遮られる。凄まじい力に、家全体が揺れたようにさえ緑間は感じた。
やったのは緑間ではなく、肉体を持たない、本来ならばそんなことが出来るはずのない赤崎だ。彼がこちらで唯一触れられるものは緑間だけ…のはずなのだが、確かに赤崎の拳はこの部屋の壁を殴っていた。それは見間違いようもなく、そしてまた、一体どういうことだと考える時間も、緑間にはなかった。
何故なら、今まで見たこともないような形相で、赤崎が鋭くこちらを睨んでいたからだ。本当に、今にも掴みかかってきそうな勢いで。
「何…言ってんの、って聞いているんだけど」
その声はとても冷たくて、それからほんの少しだけ泣きそうだった。
「何って…いや、だから」
「ふざけんな!!」
掴みかかってきそうというか、実際に掴みかかってきた。緑間は胸倉を掴まれ、ベッドに押し倒される。ベッドの上を選んだのは、背中をついた時に緑間に衝撃がいかないようにという、赤崎の無意識による優しさだった。
こんな時でさえ、本当に、この幼なじみは。
ベッドに組み敷かれ、顔の両サイドに手を置かれてしまい、緑間は本格的に身動きが取れなくなる。もっとも、彼自身は特に抵抗するつもりなどないのだが。
「ベッドに押し倒されるって、割とどぎまぎするもんだな。誰が相手でも」
「……」
冗談めいたことを言ってみたが、赤崎からの反応はなかった。
「…なんだよ、そんなおっかない顔して」
「祭が、バカなことを言うからだ」
怒っているのかと緑間は思った。それはもしかしたら怒りではなかったのかもしれない。今の赤崎は、呆れているようにも、何かに絶望しているようにも見える。
だが、緑間はどちらでもなく、やはり怒っているのではないかと思った。そしてその怒りはとても不安定で、ほんの少しの悲しみも含んでいる。少なくとも緑間には、そう見えたのだ。
こんな風に感情が荒ぶっている幼なじみを見るのは、いつぶりだろう。考えて、それから、いつぶりではなく見たことがないのだと気がついた。緑間は苦笑いをする。
(バカなこと…ね)
わかっている。自分がしようとしたこと、それがどうしようもなく愚かで馬鹿馬鹿しいことなのだと、わかっている。わかってはいた。ただ一人自分を除けば、他の誰もがそんなことを望んではいないのだと、わかってはいたのだ。
「じゃあ…どうすりゃあ、いいんだよ」
緑間は両腕で顔を覆い、今にも泣きそうな声でそう呟いた。それは独り言のようにも、また誰かに答えを求める問いかけのようにも聞こえる。
(俺は、どうすればいい)
あの時俺がどうすればよかったのかはわかっている。じゃあ、これから俺は、どうすればいい?考えて出てきた答えが、これだった。
それなのに、なんでお前はそれを否定する。俺は俺なりに覚悟を決めて、これを選んだんだ。それを、
「そんな覚悟、僕はいらない。祭が言ったんだ、僕が成仏出来るまで付き合うって。それなのに…こんな、こんな中途半端に放り出されて、そうしたら僕は…僕はどうすればいいんだよ」
くしゃくしゃに歪んだ赤崎の顔を見て、緑間の胸がズキンと痛む。
ああ、そうだ。確かに言った。最後まで付き合ってやると、確かに。
「じゃあ…じゃあ、俺は、俺はどうすればいい?死ぬことも許されない、生きることを許せない。どっちにも転がれない俺は、一体どうすればいいんだよ…!」
「そんなの決まってるだろ!」
ぽたっと頬に何かが落ちてくる。頬に触れて、緑間は“何か”の正体を確かめた。見上げた幼なじみの顔は涙に濡れている。
(ああ、そうか)
「生きるんだよ!!」
これは、静の涙か。
「許せないなら、その許せない自分ごと背負って生きればいい。償いがどうとか、罪がどうとか、そういう綺麗事を並べるくらいなら…僕に悪かったと思っているなら!僕の分も生きて、幸せにならなくちゃダメなんだよ…!なんでそれが、わからないんだ」
赤崎が、しだれかかるように緑間の肩口に頭を乗せた。重みがある。まるで生きていた頃のように、その重みは確かなものであった。
(…泣くなよ、バカ)
でも、こいつはもう生きていない。生きているみたいに感じるだけで、生きていた頃との違いは明白だ。静はもう、生きていない。
でも、俺は生きている。じゃあどうして、俺は生きている?
「生きてほしかったから、こういう結果を迎えたことに後悔はしてない。恩着せがましいことを言いたいわけじゃないんだ…ただ、生きてほしいんだよ。僕にはもう、出来ないことだから」
その言葉があまりに悲しくて、緑間は涙が出た。今更になって、自分の無神経さに苛立ちさえ覚える。
緑間は、歯を食いしばった。
(今一番、生きたいと思ってる奴は誰なんだよ)
それは俺じゃなくて、静の方だろうが。
(馬鹿野郎…どうしようもない、大馬鹿野郎じゃねえか)
そんな奴の前で、救ってもらった命を自分から捨てようとするなんて。どうしようもない馬鹿野郎だ。
「ごめん…ごめん、静」
死ぬことが償いになるのではない。静の言うとおり、生きていくことが償いになる。どうしてそれに、気づけなかったのだろう。
(静にこんなことを言わせるまで、どうしても気づけなかったのかよ、俺は)
本当に、大馬鹿野郎だ。
生きる意味なら、あるじゃねえか。
「謝らなくていい。僕が祭と同じ立場だったら、きっと同じことを言ったと思うから」
涙を拭った赤崎が、小さく笑った。緑間のよく見知った顔だった。
赤崎がゆっくりと彼の上から退く。その目からはもう、先ほどまでの不安定な怒りも、その中に渦巻いていた悲しみも窺えない。どうやらそれは、赤崎の深い心の奥底に身を潜めたようである。
緑間も体を起こした。そして、先ほど掴まれた胸倉と、頭を乗せられていた肩口に手を当てる。
掴まれた感覚は確かにあった。肩口に感じた赤崎の少し低い体温も、くすぐったく首や頬に触れたさらさらの黒髪も、確かにここにあった。そう感じたはずだ。
緑間は幼なじみに目を向ける。「なに?」と赤崎が首を傾げた。
姿をお互い視覚できて、会話ができて、手を伸ばせばいつだってその体温を感じられる。それなのに、
(生きてないなんて、そんなのおかしいだろ)
今までなんとも思っていなかった。霊感が強かったから静が視えて、霊媒体質だから引き寄せた。姿が視えるのも会話ができるのも触れることが出来るのも、全て霊感があったからだと思っていたし、それ以外の理由なんて思いつかなかった。
だから何も変わらなかったんだ。昔も今も、生きている頃と生きていない今に、違いも違和感も感じなかった。静は俺にとって、今も確かに存在しているモノだったから。
今更になって改めて痛感させられる。確かにここに存在してはいるけれど、やはり静はもういないはずのモノなのだと。
それが悔しかった。視えて、話せて、触れて。笑って、泣いて、怒って。確かにここに存在しているというのに。
静はもう、生きていないなんて。
(…いや、違うか)
単に俺が、認めたくなかっただけだ。
「僕はもう死んでいるよ」
立ち上がってベッドから降りた赤崎が、再び窓の外に目を向けてそう言った。随分と脈絡のない切り出し方であったが、また考えていることが読まれた―いや、伝わってしまったのだろうと、緑間は思う。
“僕はもう死んでいるよ”
生きていないのと死んでいるのは同義だ。そう、静は生きていない。静は―死んでいる。
できればずっと、このままみんなと一緒がいい。赤崎はそう言った。
「でも、それじゃあやっぱりダメなんだ。それじゃあやっぱり、僕も祭も、みんながみんな、前に進めない」
だから、と幼なじみは続ける。
(ああ、そうか)
「僕を成仏させてほしいんだ」
それが、お前が俺のところに来た、本当の理由だったんだな。
「は…」
気の抜けた声が緑間の口から漏れた。随分渇いた声だった。それは次第に笑い声となった。
「は、はは。は、ははは…あーやばい、涙出そう」
突然笑い出して目元を押さえた緑間を、赤崎は特に驚いた様子もなくじっと見つめていた。その表情は心なしか、いくらかほっとしているようにも見える。そう、まるで、はぐれた子供が帰ってきた時に母親が浮かべるような表情だ。
緑間は迷子だったのだ、赤崎が死んだあの日からずっと。本人は気づいていなかったかもしれないが、彼は道に迷っていた。大事なものであった赤崎を失い、彼はずっと七月七日のあの日に置き去りにされていたのだ。
それは霊となった赤崎との再会により、一時的に脱することが出来たものの、再び逃れられない袋小路に閉じ込められ、緑間は気がつけばまた道しるべを見失った。そして今、出口のない迷路からようやく、彼は帰ってくることが出来たのである。
見失っていた“生きる意味”を思い出し、出口のなかった迷路に出口を作った。彼を出口へ導いたのは赤崎であり、また赤崎の言葉でもある。
おそらく緑間が迷路に迷い込むことは、もうないだろう。何故なら、彼は生きる理由と“目的”を得たからだ。赤崎を成仏させるという目的を。
その目的が果たされるまで、彼は立ち止まらないだろう。迷うべき迷路でさえ、壊しながら歩き続ける。緑間祭とは往来こういう人間だった。元々、悩んだり迷ったりするのは彼の性分ではない。そして彼は、頭の中でぐだぐだ考えることが大嫌いだ。
でも、もう大丈夫。緑間は迷路から無事に抜け出すことが出来たのだから。
「他力本願なところも、変わんねえな。ほんと」
未だに笑い続ける緑間に、「まあね」と赤崎が返した。
「ったく…言われなくても初めっからそのつもりだっつうの。もう間違えねえよ、お前の望むやり方で、俺が必ずお前を成仏させてやる」
にやりと笑って、緑間は拳を突き出した。しっかりと力強く握られたその拳は、彼の確固たる意思の強さを如実に物語っている。
(もう間違えない。俺は俺を許すことが出来ないけれど、お前が俺に生きろと言うなら、それが俺の生きる意味で、理由になる)
理由があれば、生きられるから。
生きるよ、お前の分も。精一杯、生きるから。
「一生の約束だ、静」
赤崎は、差し出された拳の確固たる強さに、ただ純粋に驚いていた。ああ、やっぱり強いな、と赤崎は目を僅かに細める。
(やっぱり祭しかいないんだ)
僕を成仏させることが出来るのは。
多分じゃなくて、絶対に。
赤崎も拳を作った。残念なことに緑間のような、強さを象徴する拳を作るには、まだしばらく時間がかかりそうだった。時間があとどれくらい残っているかは、わからないけれど。おそらくもう、ほとんど残ってはいないのだろうけれど。
真似る必要はないか、と赤崎は思った。
赤崎は赤崎で、緑間は緑間だ。どう頑張っても、同じものを作ることなど出来ないのだから。
(僕は、僕なりの覚悟をぶつければいい)
「死んだ奴に一生を使うなよ、バカ祭」
赤崎が皮肉と一緒に小さく笑い、こつんと緑間の拳に自分の拳をあてた。「うっせえよ」と緑間は口を尖らせる。
「だったらさっさと成仏しやがれ、アホ静」
「それができたら苦労はしてないさ」
「苦労してんのはお前じゃなくて俺だろ!この悪霊め!」
―でも君は、こんな悪霊を、一生かけてでも成仏させてくれるんだろう?
―当たり前だろ。一生の約束だからな。俺の一生は全部てめえにくれてやるよ、静。
「…いや、“一生”はいらないかな」
「奇遇だな。俺もそう思う」
二人は顔を見合わせる。お互いの考えていることが、手に取るようにわかった。
だが、これはおそらくテレパシーの力ではない。この力が無かった昔から、いつだって二人は互いに考えていることがわかっていたのだから。その感覚を、今まで忘れていただけで。
テレパシーはきっかけにすぎなかった。今ではもう、テレパシーなんて元より存在していなかったのではないかとさえ、二人は思う。
「今すぐに、っつうのはさすがに無理があるけどな。ま、もうすぐ夏休みだし、それまでは我慢しろよ」
「何言っているのさ。我慢しなきゃいけないのは祭の方でしょ。僕は成仏したくないんだから」
「はは、それもそうか」
そう、もうすぐ夏休みだ。そして夏休みが終われば、あっという間に秋が来る。
予感がした。この幼なじみはきっと、夏が終わる前にいくだろうと。そしてそれが変え難い現実になることを、この時緑間は、白昼夢でも見たかのように確かなビジョンで頭の中に思い描いた。
別れの時は、もう遠くはなくなっている。
「それでも僕は、いかなきゃならない。会って、向き合わなくちゃいけない人がいるから」
赤崎が向き合わなくてはならないこと。それは、随分昔に蓋をした、彼自身の過去にある。できることなら思い出したくもないであろう、あの七月七日に。
「本気なんだな」
「…うん」
出来ることなら緑間は反対したかった。もしかしたら赤崎も、心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
「ったく。仕方ねえから、この俺が連れていってやるよ」
けれど、たとえ緑間が反対していたとしても、赤崎はおそらく退かないだろう。これがきっと、赤崎がこちらに留まっている理由の一つであり、そしてまた、雲の上の方に居座っているひげのはえたお偉いさんが、彼に与えた試練なのだろう。
つまるところ、ここから一歩前進するには、その試練を乗り越える必要があるというわけだ。
ならば今緑間がやるべきことは、その道を塞ぐことではなく、彼の道を作ることである。
「お前の母さんの実家に」
たとえそれが、どれほど辛く苦しいことであったとしても。
たとえそれが、どれだけの痛みを伴って彼の古傷を抉ろうとも。
傷つく赤崎を見たくないからと言って、緑間がその道を塞いでいいはずがない。
彼はいつだって、ひどく傾いた赤崎静という地軸を中心に、世界を回しているのだから。
「お前が望むなら、是が非でも必ず―俺が連れて行ってやる」
「…ありがとう。頼りにしているよ、祭」
第二章 第七話 「大切」
「いーーーっやっほーい!響ー!速く速くー!もっと速くーーーーーっ!!」
「よしきた!しっかり掴まってて!マッハで飛ばすから!」
「よしきた、じゃないだろ!飛ばすなバカ!」
注意したのはもちろん優だ。というか、この状況を見て彼が口を挟まないなどという事態になれば、それはまさしく天変地異の前触れである。ちなみにこの状況というのは―
「もう!いいでしょ別に!優のケチ!」
「ケ…っ!?お、俺はお前らのことを心配して…!」
「あはは、心配してくれてるんだ?」
ケチと言われたことはどうやら心外であったらしいが、心配したというのは満更でもないようで、優の顔が若干赤くなった。ここでせめて「悪いかよ」くらい言えれば可愛いものだが、生憎彼の性格上、それはあまり期待出来ないだろう。
「だ…誰が心配なんてするか!なんで俺が、二人乗り且つスピード違反のお前ら二人を心配しなきゃならないんだ!」
そう、この状況というのは、白金ツインズもとい響と琴乃が、二人乗りをしつつ猛スピードで坂道を駆け下りている状況のことである。運良く歩行者の姿は見えないが、これを注意しない優ではない。もっとも、響達を追いかける優の自転車もまた、同じくらい猛スピードで走っているわけであるが。
そして勿論、二人乗りの自転車を漕いでいるのは、兄である響の方だ。
「ぶーぶー優の薄情者ー!そこは心配してるって言ってよねー!」
そして後ろに乗っているのが琴乃だが、座っているわけではなく立ち乗りをしているので、今彼女を支えているのは後輪についている心許ない小さな金具と、細い腕一本だけである。優としては、若干癇に障る琴乃の物言いよりも、そっちの方が大いに気にかかっていた。
正直言って危ない。正直言わなくても危ない。
「お、おい!危ないからちゃんと…」
言いかけて優は目を見開く。わっと琴乃が声を上げた。か細いなりに彼女を支えていたはずの左腕が、自転車が石を蹴った衝撃で響の肩から外れたのだ。
まあそうすると、必然的にというかなんというか、残った右腕もその拍子に風圧に押し負けてしまい、彼女を支えるのは後輪の金具にかけてある両足だけになった。なんとか響の肩に手を伸ばす琴乃であったが、生憎風圧が強すぎてそれは叶わない。アウトである。
この風圧の中、腕も使わずに立ち乗りの姿勢を保つなど、男でも無理がある。案の定自転車の駆ける速度に押し負け、彼女の体は大きく仰け反った。
「バ…っ」
咄嗟に優は、自転車から落ちそうになる琴乃の体を押し返そうとした―のだが。
「大丈夫、ちゃんと心配してくれてるよ。なんだかんだ言って優は、僕らのこと大好きだからさ」
聞き捨てならない台詞が耳に入ったと思ったら、自転車を漕いでいる響が振り返り、意地悪く笑って琴乃の右手を掴んだ。一体どんな教育を受ければ、こんな暴挙に出る子供に育つのだろうと、優は自分の目を疑った。
ぎゅうっとお互いが強く手を握り、響が片手で自転車を操作しながら、ぐいっと仰け反った彼女を引っ張り上げる。可愛い顔をして、実はかなりの力持ちなのだ。
「よ…っと。大丈夫?琴乃」
「大丈夫大丈夫!信じてたから!」
響好きー!と言わんばかり(満更でもないが)の笑みを浮かべ、琴乃は思い切り響に抱きついた。お前ら何自転車乗りながらバカップルやっているんだ、とつっこみたくなる。実際、外見があまり似ていないので、恋人同士だと言ってもおそらく誰も疑わないだろう。
だが、言わずもがな、この二人が双子の兄妹であることに違いはない。
二人は清々しいほどの笑顔を優に向けた。嬉しそうに琴乃が言う。
「なーんだ。優、やっぱり心配してくれてるんだ。やっぱり私達のこと、大好きだったんだね!」
「な…っひ、響の言うことをいちいち真に受けるな…!」
「あれ?違ってる?」
優の抗議に、響がにやにやと嫌な笑みを浮かべながらそう言った。響のこういうところは、本気で性格が悪いと優は思っている。
自分の顔が赤くなっていることが容易くわかった。
優は元々、そういう風に自分の感情や気持ちをオーバーに表現することをあまり得意としない。気恥ずかしさ故か、自ら進んでそういった感情を表に出すことはしないのだ。だからそんな風にストレートに訊ねられると、どうしていいかわからなくなる。
響の言っていることは間違いではない。優は彼らのことが好きだし、心配も、本当はしている。
言葉にすることを億劫だと思ってしまうのは、おそらく彼が口下手で、今までこんな感情を誰かに対して抱いたことがないからだ。
「…別に、違ってない」
「おやおや?優殿~お顔が真っ赤ですぞ~?」
「真っ赤じゃない!」
琴乃がこれ見よがしにからかってくるものだから、優は思わず怒鳴った。怒鳴ったことをあとから後悔したりはしない。そんなものを二人が気にしないということは、わかりきっている。
響が苦笑いをして優を宥める。そして琴乃に対しても、「あまりからかっちゃダメだよ」と注意をした。お前も共犯だ、と優は心の中で毒づいておく。
「優は物事を難しく考えすぎかな。あ、僕らは勿論優のことが大好きだから。安心していいよ」
「…恥ずかしいことを言うな」
「言わないとわかってくれないくせに、よく言うよ」
響がにっこりと笑う。その笑顔を、優は眩しいと感じた。そして、ここまで自分の感情を表に出せる響のことを、羨ましいとも思う。
優は、ある意味六人の中で一番普通だ。ほんの少し腕っ節が強い―というか、幼少期に拳法を齧っていただけで、それを除けばどこにでもいる普通の高校生だった。おそらくあの一件がなければ、中学時代の響と琴乃と関わることはなかっただろう。だから、いつも不思議に思っていた。
何故、こんなにも二人は自分に心を開いてくれているのか、と。
それが自惚れなどではなく、確実に信頼されているということを、優は毎日のように感じていた。それが自分にだけ向けられている好意だということもわかっていた。
優自身も、二人にはそれなりに信頼も好意も寄せている。それが他の誰かに寄せている好意と違っていることもわかっていた。
優にとって二人は特別だ。中学からの付き合いで、それこそ赤崎達と違って幼なじみというわけではなかったが、それでも同じくらい強い絆で繋がっていると思っている。それが、一方通行の想いではないこともわかっている。
だが、他人を信用しないとずっと心に決めて生きてきた二人に信頼や好意を寄せられるほど、自分はそこまで器が大きいわけではないし、大それた人間でもないのだ。あくまで普通の高校生、それが黒銀優のポジションである。
それなのに何故、二人はこんなにも自分に心を開き、笑顔を見せてくれるのか。優にはそれが、いまいちよくわからなかった。
「気にしなくていい」
響が言った。優はその言葉に一瞬びくりと体を震わせる。非現実的な発想かもしれないが、本気で心の中を読まれたのかと思ってしまった。
「そうだよ優!なんてったって私達がいるし!絶対成功するって!」
「あ…ああ。そっちか…」
どうやら響の“気にするな”というのは、これから実行に移す計画のことであったらしい。
(当たり前か。心の中を読まれただなんて、馬鹿みたいだ)
そう、余計なことを考えている暇はない。自分達のこれからは、これから考えていけばいいのだ。
そして今優先するべきは、赤崎と緑間のこれからである。その為にも、一分一秒、時間は無駄にできない。
「とりあえず、一旦家に帰ろう。それで荷物をまとめて…そうだな、十七時に静さんの家で落ち合おうか」
「わかった。十七時だな」
ちょうど分かれ道に差し掛かる。ここでいつも、響達は右に、優は左に曲がってそれぞれの家へと帰るのだ。
彼らはハンドルを切って自転車の向きを変え、そしてハイタッチをする。ちなみに今は、十五時半を少し過ぎた頃だ。
パチン、と手と手が合わさる音と共に、響と優は口を開いた。
「「また後で」」
そうして彼らは、互いに背を向けて自分の家へと帰っていく。
もっとも、双方どちらにも、「おかえり」と言って出迎えてくれる“家族”はいないのだけれど。
***
本当のことを言うと、準備は昨日の内にしてあった。
優と分かれて家に着いたのが十六時近かったので、待ち合わせの時間まであと残り約一時間、二人は大いに時間を持て余すことになった。
「琴乃ー忘れ物はないかー」
暇そうにテーブルに突っ伏していた琴乃は、響のそれにぷくーっと頬を膨らませた。別段怒っているわけではなく、彼女はゆっくりと息を吐き出して膨らませた頬をしぼませる。響が思うに、これはおそらく何の意味も持たない行為の一つだ。無意味は彼女の長所とも言える。
「それ、もう何十回って聞かれてるよ…完璧だって言ったー」
琴乃は、響が作ったホットミルクに手を伸ばし、一口飲んでからそう言った。もう何度目のやり取りになるだろう、確かに彼女の言うとおり、十回はゆうに超えている。
というか、そもそも忘れ物をしてはならないというわけでもない。旅行に行くわけではないのだ。多少距離はあるかもしれないが、取りに戻れない程距離が離れているわけでもない。それに、
「元々、そこまで荷物多くないし。それに、忘れていいものしか忘れないでしょ、私達は」
「それもそうだ」
スクールバッグよりも一回り大きい横長の鞄が二つ、リビングに置かれている。それで二人分の荷物だ。正直この大きさなら、これから学校に登校すると言っても十分通用するだろう。荷物というにはおこがましいかもしれない。優はおそらく、もう少し大きな鞄を携えて来るだろう。
彼らにとって必要なものは、他と比べると随分少ない。忘れてもいいものは必要がないというのが、二人の考え方でもあった。
そして、二人が忘れていいと思うものは此処―つまり、彼らの家には存在していない。
冷蔵庫や洗濯機は元々響達の所有物ではなく、このアパートの大家の人がこの家に置いてくれているものだ。新しいものを買ったからと、家具や生活用品をまるで所持していなかった響達に恵んでくれたのである。だから、これらの家具は全て響達のものではない。こういった家具については、響達の考え方から除外される。
この家にあがったことがあるのは今まで優ただ一人だけだが、おおよそのことについて動揺を表さない彼も、初めてこの家にあがった時はそれなりに驚いていた。生活感がなさすぎると。そしておそらく、誰が見てもそう思うのだろう。
だが、実際それが普通なのだ。高校生の一人(正確には二人)暮らしなんてそんなものだろうし、生活感など求めるだけ無駄だ。
―そう、言い忘れていたかもしれないが、響と琴乃は安い家賃のアパートに二人で住んでいる。と言っても、家賃は出世払いということになっているので、今のところは免除してもらっているのだが。
それでも響の方は、アルバイトをして少しでも家賃を払えるように善処している。それに優が乗っかって、そうしたら「絶対にバイトなんてしたくない!」と言っていた琴乃も、響と同じところでバイトをするようになって。
以前まで大家さんに面倒見てもらっていたことを、少しずつ自分たちで負担できるようになった。それもおそらく、優のおかげなのだろう。
(本当に、救われてる)
響は、小さく笑った。
二人に両親はいない。父と母は二人が幼い頃に離婚をしていて、響と琴乃は母親の方に引き取られた。だが、彼らの母親だったものは、ちょうど三年ほど前にお金だけを置いて家を出て行った。簡単に言うと捨てたのである、自分の子供を。今思えば、それは仕方のないことだったのだろうと、響も琴乃も自負してはいるのだけれど。
そんな二人に救いの手を差し伸べたのが、このアパートの大家だった。初めて出会ったのは、路頭に迷っていた響達が偶然立ち寄ったラーメン屋の屋台である。頑固な老人の第一声は、「子供がこんな時間に出歩いてんじゃねえ!」だった。何故だか泣きそうになってしまった自分を、響は今でも覚えている。
中学生という、何かと情緒が不安定になりやすい時期に親を失くすというのは、おそらく主観的に見ても客観的に見ても辛く苦しいことであるが、二人はすぐに現実を受け止め、その現実に悲観することは決してなかった。あんなことがあったのだから、こうなってしまっても仕方がないと―そう、思っていたから。
そして、ちょうどその頃から彼ら双子は荒れ始め、その存在をあっという間に世間に知らしめた。
二人はいつしか、凛々垣中最凶の双子―「壊す双子」と呼ばれるようになったわけだが、それについてはまた今度。
「響ー」
「ん?」
「今何考えてたの?」
琴乃はテーブルから離れ、小走りで響の座るソファに座った。このソファも忘れてもいいものではあるが、これも大家さんが良かれと思って置いてくれているものなので、ありがたく使わせてもらっている。
隣りに座った琴乃が、真っ直ぐに響を見た。確かに二人は双子であるが、混じりけのない綺麗な黒色の瞳は、響には無いもののように思えた。
別に何も、と返すと、嘘つきと言わんばかりのじと目を返される。
双子は以心伝心やらお互いの考えていることがわかるやらと言われているが、それは多分周りが思っている以上に満更でもない。実際琴乃は響のそういったものがわかるらしいし、響も琴乃のそういったものが、いつでもとは言わないまでもなんとなく感じ取ることが出来る。一種のテレパシーとでも言えばいいのだろうか。
「嘘をつく悪い響には…こうしてやるー!」
「わっちょ、琴乃…!くっあはは、くす、くすぐったいって、やめ、あはははははは」
悪い笑みを浮かべた琴乃が、がばっと飛び上がって響のわき腹をくすぐり始める。
響はかなり弱い。ほんの少しわき腹をつつかれたり、つーっと指で足を撫でたりするだけで過剰に反応する。大笑いする。高校一年生の頃、ひょんなことからそれが緑間達にバレて以来、ことあるごとにネタにされていたりする。
「こしょこしょこしょー!」
「待っ、ちょ、ほんとにくすぐった…あ、あはははは、ははは」
「はっはっは!どうだー!」
琴乃が満面の笑みを浮かべる。そんな彼女を見て、響は少し意識を隔絶させて思った。琴乃は変わったな、と。
昔は、こんな風に笑っていなかった。いつも冷たい目で周りを威嚇して、敵視していたように思う。
それでも、唯一自分といる時だけは笑顔を見せてくれていたけれど―見せてくれていたように見えていただけで、おそらく心から笑えてはいなかったのだろうと、響は今はそう思っている。
それでも、喧嘩をしている間はどこか楽しそうに見えていたのだ―あの頃の響は、それが彼女の空元気だと気づけなかったのだけれど。
優と出会って、琴乃はあれから初めて響以外の人間を信頼した。
信頼して、信頼される。そういった他人との相互関係の心地よさを思い出したのも、おそらく優と出会ってからだ。
優と会って、琴乃は変われた。変わったのだ、おそらくは良い方向に。
だから彼女は今、こんな風に笑えているのだろう。太陽みたいに眩しくて明るい、あの頃のような笑顔で。
(…僕には多分、無理だけど)
こんな風には、笑えない。
「…響さ」
ぴたり、と急に彼女の手の動きが止まる。意識を元に戻し、やっと解放されたことに響はほっと息をついた。見上げた彼女は、どこか困ったような笑顔を浮かべている。
「うん?」
「変わったね」
「え?」
(変わったって、一体何が?)
「前よりずっと笑ってる。作った仮面は、外れたみたいだから」
琴乃が目を細め、ぎゅうっと響に抱きつく。彼女は体温が高いので、密着するととてもあたたかい。
響は抱き返そうと思って腕を上げたが、思いとどまってその腕を下ろした。
前よりずっと笑ってる。響は琴乃の言葉を心の中で反復した。それは、真っ直ぐに響へと向けられたものだ。どうやら彼女には、響が笑っているように見えているようだ。
どうだろう、と響は考えてみる。自分で自分の顔は確認できないからよくわからなかった。だが、他の誰でもなく琴乃にそう見えていたということは、少なからず自分は笑っていたと考えるべきなのだろう。
ならばそれは、どんな笑い方だったのだろうか。今までと同じ、周りに敵を作らないための、嘘の笑顔だったのではないだろうか。きっとそうに違いない。本気で笑ったことなど、あの日以来数える程しか響にはなかった。心からの笑顔なんて、浮かべるに足りない日常ばかりである。
前より笑うようになったことは認める。だが、周りと繋がる為に被っていた仮面が外れたとは思わない。その仮面は響を隠す為に、そして響の笑顔を補う為に作られたものなのだから。
「気づいてなかったと思うけどね。優と出会って、それからまつり先輩達に出会って、響は変わったんだよ。いつだって、心から笑ってた」
それなのに、彼女はそれを否定する。心から笑ってなどいないのに。
「それは…琴乃の方だよ。昔よりずっと、楽に生きてる気がしてた。僕が変わったんじゃない。琴乃が変わったんだ」
「違うよ。響が変わったから、私も変わったの」
お互いに少し体を離し、二人は見つめ合う形となった。
(本当に似ていない、僕の妹)
「今まで一度だって、私以外の誰かの為に泣いたこと、あった?」
あの日から、響は自分の為にさえ泣くことはしなくなった。琴乃がこうなってしまったのは自分のせいだとわかっていたから、不幸面を引っさげて泣くことだけはしないようにと、二人で生きていくと決めたあの日から、思い出と一緒に涙も捨ててきた。
泣けば誰もが同情する。可哀相だと哀れむ。そんなものはいらなかった。琴乃がいればそれでよかった。涙は弱さの象徴だった。
「しずか先輩のことを聞いて、悲しいって思ったでしょ」
「思って、ない」
「嘘」
こつん、と二人の額がくっつく。
(違う、嘘なんかじゃない)
意地を張った。
「もういいんだよ。自分に正直になったって。響の“大切”が私だけじゃなくなったってこと、わかっているでしょう」
だってもう、響の周りにはたくさんの人がいるんだから。
『お友達になりましょ。私は水沢青子。青子でいいわ―ね、響』
その人は、不敵な笑みを浮かべてそう言った。驚いたのは、「壊す双子」の悪名を知った上で握手を求めてきた右手と、怖がられなかったという事実。向けられた笑顔には、自分達が「壊す双子」であることなど少しも気にしていないことが一目瞭然で、初めて会った時、その凛とした声に戸惑ったことを響は今でも覚えている。
なんだかんだ一緒にいる時間が増えて、彼女にからかわれることも少なくはなかった。そんなじゃれ合いを繰り返す中で、響にとって青子は、「姉」のような存在になっていった。居もしない姉のことを、青子を通して「こんな感じなんだろうな」と思ってしまうくらい。
『響は今、幸せなんだね。溜息をついたっていうことはそういうことだ。覚えておくといい、溜息と幸福は同じなんだよ』
不幸だと思ったから溜息をついた。けれどそれは逆に、溜息をつくほんの少し前までは不幸ではなかったということで、それはつまり幸せだったということなのだとその人は言った。響からしてみれば、それは屁理屈にしか聞こえなかったし、その言葉の意味が、初めて聞いたときはいまいちよくわからなかった。
思い返せばいつも、彼は道を示してくれていたような気がする。確かな足取りでしっかりと跡を残しながら、赤崎は常に前を歩いてくれていた。
今でも響は、いまいち赤崎静というその人のことを理解しきれていない。掴みどころのない雲のようなその人を、本当の意味で理解することができるのは、おそらくこの世でただ一人だけだ。けれどその人は、おそらく誰よりも響のことを理解してくれていた。それはおそらく、妹である琴乃よりも。
多くは語らず、常に一歩前を歩いてくれていた赤崎を、響は尊敬していた。響にとって赤崎は、良き理解者であり、先導者であり―そして、敬愛の対象であった。その生き方に憧れていた。
『いやーお前ら強えわ。楽しかったぜ。また今度、喧嘩しような』
負けた響達にそう言って手を差し伸べたその人は、とても鮮やかな青空を背負って笑ったのだ。誰かの笑顔を綺麗だと思ったのは、初めての経験だった。
あの圧倒的な強さの理由を知りたくて、その人達の強さに惹かれたから―だから響と琴乃は、緑間達と同じ高校に進学することを決めたのだ。“また今度”とその人が言った言葉が、何故だか響には涙が出そうになるくらい嬉しかったから。
その人の傍はいつもあたたかかった。面倒見がよくて世話焼きで、後輩である自分達をいつも気にかけてくれた。ただの後輩である響のことを、大事だと言ってくれるような人だった。
いつだって同じ目線で向き合ってくれた、最上級のお人よし。そんな彼のことが、響は大好きだった。
響にとって緑間は、青子のように「きょうだい」を思わせるような存在ではなく、まして赤崎のような「理解者」や「先導者」からは程遠い―そう、そのまま、「先輩」だった。響にとってその人は、いつだって頼れる「大先輩」だったのだ。
そして。
『俺はお前を信じる。だからお前も、俺を信じろ』
あの日―確かに響は、その人を信じた。ざっと五十人はいたであろう不良達を相手に、たった二人で。拉致された琴乃を助ける為に―そう、まるで「友」のように、自然な背中合わせで彼らは戦い抜いた。これが、母親がいなくなって以来、初めて響が他人を信じた瞬間だった。
本来背中合わせとは、背中を預ける相手を信頼していなければ成立しない。それでも確かにあの日、響と優は背中合わせで五十人の不良と殴り合い、そして見事琴乃の奪還に成功した。悔しいけれど、おそらくあの日、響は確かに優を信頼したのだろう。その、真っ直ぐな言葉に。
思えばあの日から、響の日常は変わり始めていたのかもしれない。
誰かを信頼し、誰かに信頼される。それがとても心地良いことだと思い出した。これっきりの関係で終わりたくないと思って、琴乃の二人で優の中学校に乗り込んだ。そうしたら彼は驚いたような顔をして、それから「馬鹿」と困ったように笑った。
いつしか優は、響の中で琴乃と同じくらい大きな存在になっていた。それが弱さだと、思わなくなっていた。
守るものは少なくていい。たくさんあればあるほど、それは確かな足枷となって己を縛る。いつか手が届かなくなって、守るもの―守りたいものは、徐々に手のひらから零れ落ちていくだろう。
だから、守るものは少なくていい。たくさんあればあるほど、それは確かな弱さとなってしまうから。守りたいものを、守れなくなってしまうから。
響にとって守りたいものは、琴乃ただ一人だけだった。それでいいと思っていた。
(それなのに、)
いつからかそれは、増えていく一方で。
それが自分を縛る足枷になっていることにも、それが自分の弱さになっていることにも、響は気づかないふりをしていた。もしかしたら、気づいてすらいなかったのかもしれない。
何故なら彼は、守りたいものが―自分にとっての“大切”が琴乃だけではなくなっていたことにさえ、気づいていなかったのだから。
「しずか先輩のこと、悲しいと思ったでしょ?」
涙がぽろりと、響の頬を伝った。
「…当たり前じゃないか…っ」
ぽろぽろと涙が流れてくる。あの日から泣かないと決めて、これで泣くのは二回目だ。一回目は、赤崎が死んだと聞いた時。
響は唇を噛み締めた。
(何が「思ってない」だ)
悲しくないわけがないだろう。悲しくないわけが、ないのに。
大切な人だった。僕を一番、根っこの深いところでわかってくれていた人だった。僕だってわかりたいと思っていた。僕が生涯でただ二人、憧れを抱いた人だった。
「悲しかった…悲しかったよ、だって、だって僕は」
(まだ何も伝えていない)
失って気づいた。それは多分、失わなければ気づけないほど奥底に眠っていた感情で。失って気づかされたこの感情を、僕は失う前に言葉にするべきだったんだ。
言葉にして、伝えたかったのに。
それができなかったのは、気づかなかった僕のせいじゃなくて、多分きっと、気づきたくないと目を背けていた安っぽいプライドのせいだ。
(後悔先に立たず、なんて)
まさにその通りだよ、本当に。
「僕は…ぼく、は」
「響」
ぎゅうっと、もう一度琴乃が響を抱きしめる。先ほどの抱きつくような勢いはなく、とても優しい、柔らかく包み込むような抱擁だった。
おそらく彼女は、初めから全てわかっていたのだろう。響が優を信じたあの日からずっと―“誰も信用しない。僕らは二人で生きていくんだ”―この言葉が、いつか何の意味も成さなくなることを。響にとって、赤崎達がただ横を通り過ぎていくだけの他人では、なくなってしまうことを。
―響にとっての“大切”が、いつからか琴乃だけではなくなっていたことを。
彼女は全てわかっていたのだ。
「私も同じだから。だからわかるよ…ちゃんと、わかってるから」
響が変わり始めていることに、彼女だけが気づいていた。
だから彼女は変わることを決めたのだろう。それが響にとって、一番良いことであると思ったから。
泣いているのかな、と響は思った。双子は時に感情までシンクロしてしまうことがあるのだ。実際そういった経験をしたことが、何度かある。
抱きしめられているので琴乃の顔は見えないが、小刻みに震える彼女の肩を見て、響はなんとなくそう思った。
響が赤崎達を“大切”だと思う気持ちは、おそらく琴乃とシンクロしているだろうから。
「…僕さ」
「うん?」
「いつ間にかこんなにたくさん、抱え込んじゃってたみたいだ」
「…うん」
響はそっと、琴乃の背に腕を回した。
(本当は、怖かったのかもしれない)
いつか失う日が来ることを、心のどこかで悟っていて。僕はそれを、ただ怖がっていただけなのかもしれない。
(あのね、琴乃)
君のことを抱きしめる、たったそれだけのことで僕の両手は塞がれてしまって。
それなのに二本しかないこの両腕で、どうしてかこの両手には収まりきらないほどたくさんのものを、いつしか僕は抱え込んでしまっていて。
認めることができないまま、それを手離すことがだんだん難しくなっていて。
「でも今更、抱え込んでいたもの全部、手離すなんて無理だから」
「うん」
「守ることに決めたよ。それがきっと、僕が強くなった本当の意味なんだと思うから」
そう言うと、琴乃は笑った。笑ったというより、微笑んだという方が合っているかもしれない。
「私は、そういう響が好きなんだよ」
ぎゅうっと、琴乃の抱きしめる腕に力がこもる。響も負けじと、抱き返す腕に力を込めた。
そしてその後、そのままの体勢でいつの間にか眠ってしまった響と琴乃は、約束の時間になっても起きることはなく、それが待ちぼうけをくらった優の逆鱗に触れたことは言うまでもない。
***
「そういやあいつら、お前の家で一体何するつもりなんだろうな」
緑間は、ふと頭に思い浮かんだ―というか、今の今までなるべく考えないようにしていたことを口にする。もちろんあいつらというのは響達のことだ。
一体あの三人は、もぬけの殻となった赤崎の家に、何の用事があって家の鍵を渡してくれと言ったのだろう。泊まることになるとも言っていたが、それでは一体、何日あの家に居座るつもりなのだろうか。一体何を、するつもりなのだろう。
「俺、お前は絶対ダメだって言うと思ってた」
「なんで?」
「だってお前、あの家嫌いだろ」
緑間は赤崎がどれほどあの家を嫌っているか、よく知っている。自分の家だと認識していないことも知っている。それを響達に気取られたくないと思っていたことも、知っていた。愛すべき後輩達は、良くも悪くも赤崎の家の外側しか見えていなかったから。
あの三人だけで赤崎の家に入るということは、赤崎の家がいかにからっぽで空虚なものであるかということを、知られてしまうこととほぼ等しい。なんだかんだいって響達は、もうすっかり自分たちの内側まで入り込んでいて、以前なら気づかなかったあの家のからっぽさにも、今なら気づいてしまうだろう。それを赤崎は嫌がっているのだろうと、緑間は思っていたのだ。
「それは確かにその通りなんだけどね…前に言われたんだ、響に。僕の家が羨ましいって。その時、じゃあいつでもおいでって言って、結局その場限りのやり取りになったんだけどさ」
(―そうか、あいつは)
羨ましいと言ったのか。
あの家の本質を知ってしまえば、羨ましいなどとは口が裂けても言えないだろうに。
「響って、多分僕に似ていると思うんだよね。響を見ていると、なんだか自分を見てるような気持ちになるんだ。だからかな…響はちゃんと僕のことを知って、僕みたいにはならないようにしてほしいって思って」
それに、なんだかとても大切なことみたいだったから。何も教えてはくれなかったけど、響達のことは信頼してるし。そんな風に赤崎が言う。
「そ…っか」
どうやら赤崎の方も赤崎の方で、思うところがあったらしい。特に響が赤崎に似ているというのは、なんとなくだが緑間にもわかった。
だが、赤崎のように“信頼している”の一言で片付けることが、緑間にはどうしてもできなかった。
―教えることはできない、と三人は言った。
ケンカ腰で別れることになってしまったけれど、本当はそれが寂しかったのだ。誰にだって、他には言えないことや内緒事があるというのは緑間もわかっている。それでもやはり、隠し事はしないでほしかったのだ。
赤崎の家を使うとなると、必然的に家主である赤崎自身も、少なからず関わっていると見て間違いないはずである。そうなると、彼に近しい存在である緑間や青子に関係がある可能性も、なくはないだろう。時期が来れば話すと言ったのだから、尚更だ。
響達と出会って、一緒に関わるようになってもう二年が経つ。二年は、言葉にするのは簡単だが、正直感覚的にも早いものであったような気がする。緑間の感覚では、響達と出会ってから、まだそう時間は経っていないような気がしていた。
だがそれでも緑間は、とりわけ彼らのことを気に入っていたし、好かれているだろうとも思っていた。
(信頼…されていると思ってたんだけどな)
自惚れだったのかもしれない、と緑間は思った。
(そういえば俺は、あいつらのことを知らなすぎる)
「祭の目って、しょうもないところで節穴だよね」
「ああ?」
「そんなに気になるなら行ってみれば?僕の家」
「来るなって言われて行かないって言ったんだから、下手に詮索するわけにはいかないだろ」
「そんでどうでもいいところばっかり律儀だよね」
「うっせえよ」
夏は夜の訪れが遅い。だが、もう十七時半を回っていて、もうすぐ本格的に夜がやってくるだろう。そろそろ姉も帰ってくるに違いない。
さて、と緑間は立ち上がり、ううーんと大きく伸びをした。深く息を吐き、よし、と眼鏡をかける。普段は裸眼だが視力は悪い方で、緑間は家では基本的に眼鏡を着用しているのだ。眼鏡をかけると、ほんの少しだけ大人びて見える。
「晩飯の仕度でもすっかな」
そんな風に呟いて、緑間と赤崎はリビングへ向かった。
そしてちょうど同時刻―白金ツインズ宅にて。
「大体、お前らはいつも時間にルーズすぎるんだ。自分で十七時に待ち合わせっつったんだろうが、違うのかああん?おい、そんなんで社会に出てから通用すると思ってんのか?寝坊しましたっつってクビ飛ばねえと思ってんのか?ほら、言ってみろよ。ほら、」
「だからごめんって。悪気はなかったんだよ…つい眠っちゃって、それで」
響は痺れ始めてきた両足に叱咤しつつ、もう既に小一時間は経過しているであろう優の説教に、もう何度目かになるかもわからない謝罪と言い訳を口にする。同じく隣りで正座している琴乃は、呑気なものでこっくりこっくりと、夢への舟漕ぎを開始していた。
「ほう…人を三十分も待たせておいて“悪気はなかった”、“つい”が通用するとでも思ってんのかお前…は!」
優が冷たく微笑みながら、「は!」と言ったのと同時に琴乃の頭をはたく。普段の彼ならばおそらく絶対にしないことだろう。
優はキレると喋り方が粗暴になり、若干暴力的になる節がある。
「いたっ」
叩かれて目を覚ました琴乃は、自分の身に何が起きたのかわかっていないようで、きょとんとした表情を浮かべている。
「人が話している最中に居眠りか…?琴乃」
そして、優のその言葉にようやく状況を理解した(というか思い出した)琴乃が、「ひっ」とまるで幽霊でも見たかのような声を上げる。彼女の表情から、さーっと血の気が引いていった。
「あー…えっとー…その…」
だらだらと冷や汗をかき始めた琴乃は、響にSOSサインを送ったが、さすがの響もこの状態の優には全く逆らえないので、ごめん無理という意味を込めて首を横に振る。
「いやーでも、ほら!早くしずか先輩の家行かないと!遅くなっちゃうし!」
「誰のせいで遅くなったと思ってんだ?ああ?」
「あう」
彼女の抗議はなんなく一蹴され、優の怒りは上昇する一方であった。まあ、何を言ったところで今の優には全て一蹴されるだろうということは、初めからわかりきっている。
涙目になった琴乃を、よしよしと響は慰めた。
「…まあ」
だが、その琴乃の一言が、優の心をほんの少し動かしたのだろう。彼はやれやれといった風に溜息をついて、響と琴乃のことを交互に見やり、心底仕方なさそうに言った。
「あまり遅くなるわけにはいかないからな…今日はこの辺にしておいてやる」
「「優…!」」
たちまち目を輝かせて生気を取り戻した二人が、「本当に!?」と優へ詰め寄る。彼の説教が二人にとって、相当な苦痛になっていたことがよくわかる図であった。
優が、二人の気迫に押し負け、若干体を仰け反らせながら「ああ」と頷く。どうやらこの様子を見る限り、優の怒りはある程度しぼんできているようだった。
「…ほんと、優ってキレたら性格変わるよね…昔の響みたい」
「そ、そうか?俺は全く無意識なんだが」
優が困ったように頬をかく。まさかあれが無意識だったとは。恐ろしいこともあるものだ。
「まあ、そんな優も愛してるけどね」
琴乃がにっこりと笑った。過剰に反応した優の顔が、真っ赤になる。女子が苦手なせいでまともな恋愛ができていないこともあり、優はこういったものに免疫がない。
ね?と琴乃が響に振った。そこで響に振るあたり、彼女は本当に響のことをよくわかっている。
「もちろん僕も愛してるよ」
「お…っお前ら馬鹿か…!」
茹でダコのように真っ赤な顔をする優に、響と琴乃は顔を見合わせて笑った。
第二章 第八話 「それぞれの選択Ⅲ」
静さんの家の第一印象は、大きいな、だった。初めて来た時、素直にその壮大な建築物に驚いたくらいだ。勿論祭さんや青子さんの家も大きいと思ったし、僕らが住んでいる築五十年以上経っているだろうアパートに比べれば、どんな家だって大抵綺麗にも大きくも見えるけれど。それでもやっぱり、とりわけ静さんの家が大きく見えたのを、僕は覚えてる。
第二印象は、楽しい、だった。僕らが静さんの家に行く時、それは大体祭さんや青子さんも一緒の時だ。というか、僕ら三人だけで静さんの家に行ったことはなかった。
開き直るわけじゃないけど、今更だから弁解はしない。静さん達とみんなでいる時間は、時間を忘れてしまうくらい楽しかったし、みんなで一緒にいる時間が、僕は大好きだった。
静さんの家に行くと大体みんながいる。みんなといると楽しかったから、みんなが集まる静さんの家に行くのは楽しかった。
でも、
『大きい家ですね。ものすごく広々としているし…何やっても怒られないなんて、羨ましいです』
確かに響と琴乃は二人暮しだが、あまりうるさくすると大家さんが鬼の形相で怒るのだ。基本的にどんちゃん騒ぐことを好む二人としては、夜中にどれだけ騒いでも注意する人物がいない赤崎の家は、かなり羨ましいものであった。だからあの時、響はそんな風に言ってしまったのだ。
(でも、もしかしたら僕は、使い方を間違えてしまったのかもしれない)
響は今になって、そう思う。
「こんなところに…ずっと一人で住んでたの、しずか先輩は」
すとん、と琴乃がその場に座り込んだ。嫌だ嫌だと、ひっきりなしに彼女は首を横に振る。
ぽたりと、琴乃の涙が頬を伝って絨毯にしみを作った。
『祭さんって、いつも静さんの家に行ってますよね』
『んー?ああ、まあなー』
『なんでですか?そんなに自分の家に帰りたくないんです?』
『バーカ。そんなんじゃねえよ。間違っても静の前でそんなこと言えねえし…そんなんじゃないんだ』
その時は疑問にすら思わなかった。どうして静さんの前で家に帰りたくないって言えないんだろうと、その時の響はほんの少しそれが頭を過ぎったくらいだった。
響はあの時、笑顔の裏に巧妙に隠された緑間の悲しい感情に、気づくことができなかった。気づこうとすら、しなかったのだ。
『じゃあ、なんでですか?どうして祭さんは、毎日のように静さんの家に行くんです?』
気づけなかった響は、そんなどうしようもない疑問の答えを、緑間に求めてしまったのだ。
「こんなものが家であってたまるか…!こんな、こんなんじゃなかっただろう、静先輩の家は、こんなんじゃ…っ」
「…それが、そもそもの間違いだったってことだよ…優」
あの優ですら、表情に陰を作り、こめかみを押さえながら肩を震わせていた。
(―静さんの家は楽しいところだった。僕らには、上っ面の楽しいところしか見えていなかったんだ)
『あいつの家は、すっげえ寂しいんだ。俺は、一分一秒でもあそこに静を独りにしたくないんだよ…真っ白で何もないあのからっぽの家は、ある意味あいつの敵だから』
(そういう意味だったんですね…祭さん)
今ならその言葉の意味が、痛いくらいよくわかります。だからあなたは…毎日のように、こんなところに来ていたんだ。
『…全然、羨ましがられるようなところじゃないよ、ここは。僕はあんまり、好きじゃない』
(僕は、なんてことを)
ここ数日、宣言通りここで寝泊りするようになってわかったことがある―否、わかってしまったことがある。
赤崎の家に泊まりに来てかれこれ三日。三人はひたすら掃除をし続けていた。この家は広い。そして広いが故に、掃除をする場所もかなり多い。家主である赤崎が全く掃除をしないせいか、家の中は色々とひどい有り様であった。
それでも、赤崎の部屋とリビングだけは割りと清潔が保たれていて、緑間が掃除をしていたんだな、と三人は思い至った。掃除嫌いな赤崎の代わりに、おそらく彼がちらかった家の中を掃除していたのだろう。
だが、綺麗に掃除がされているのはその二部屋だけで、他の部屋は全く手付かずの状態であり、最早開かずの間同然であった。長らく使われていなかったのか、部屋に入っただけで埃アレルギーである優はくしゃみが止まらなくなった。
そしてその部屋―合計で三部屋の内の、リビングから繋がっている部屋を掃除している時、ふとあるダンボールに目が留まったのだ。そのダンボールには、“絶対に開けるな!”と汚い字で書かれている。三人は顔を見合わせ、そのダンボールを開けたのだ。開けるなと書いてあったのに。
中に入っていたのは大量の写真と、アルバム。それと、日記帳だった。
写真は、見知らぬ男性と女性(おそらく赤崎の両親)と、幼い頃の赤崎と思われる子供が映っているものがほとんどだった。だが、その見知らぬ男性と女性ではない男性と女性が映っている写真も、枚数は断然少ないがちらほら見当たった。そして枚数が少ない上に、その二人が映っている写真は、かなり幼い赤崎と映っているものしか残ってはいないようだった。成長してからは、先にあげた二人の男女と映っている写真しか見当たらない。一体どちらが赤崎の両親なのだろう、と三人は首を傾げる。
一枚、おかしな写真を見かけた。おそらく赤崎が二歳くらいの頃に撮ったもので、一緒に映っていた女性(後者)が病院服を着て入院している写真だ。その人物のお腹は、まるで妊娠しているかのように膨らんでいた。
―まるで、ではなく、もしも本当に妊娠していたとしたら?
その女性が赤崎の母親であるかは定かでなかったのでなんとも言えないが、もしかしたら赤崎には、きょうだいが居たのではないだろうか?
次に三人が目を留めたのは日記である。もう随分ぼろぼろで、紙は日焼けしてしまっていた。よほど昔に書いたものなのだろう。代表して、響が日記帳を開いた。
字は本当に汚かった。一体いつ頃書いたものなのだろうと疑ってしまうくらい。だが、読めない字でもなかった。三人は無言で読み進めた。
『きょうはおにごっこをした。まつりはたっちしたらないて、どうしようってなった。つぎはかくれんぼにする』
『きょうはかくれんぼをした。おにのまつりが、みつからないってないた。どうしようってなった』
この辺は、微笑ましくて思わず笑ってしまった。ほとんど緑間が泣いたと書いてあって、これを使って今度からかってみようか、なんて三人で話したくらいだ。
だが、問題は―そんなことでは、なかったのだろう。
ページが進み、日記帳の半分ほどまで読んでいった頃、書いてある内容に変化が起きた。
『お父さんとお母さんがけんかした』
『今日もけんか』
『ぼくのことほっといて、けんか』
日付は書いていなかったが、漢字が徐々に混ざり始めているところを見ると、おそらく小学生の頃に書かれたものだと考えて間違いないだろう。初めの頃に比べると、随分字も上手くなっていた。
胸騒ぎを覚えたが、それでも三人は日記を読んだ。
『お父さんがいなくなった』
『お母さんがごはん作ってくれない。おなかすいた』
『お母さん。いたい。たたくのいやだ』
文章からその情景が痛いほど思い浮かんで、三人は何も言えなくなった。これは一体どういうことなのだろう。途中までは、とても中睦まじい家族描写も描かれていたというのに。
『お母さんがこわい』
『朝おきたらお母さんがいなくなってた。テーブルに、ごめんねって書きおき。なんであやまるの。早くかえってきて』
『祭のいえ。お母さんいつになったらかえってくるの。さびしい』
ごくり、と誰かの生唾を飲み込む音がやけに響いた。
『お母さん、ぼくのたんじょう日。生まれてこなければよかったのに、って。なんで?』
そこで日記は終わっていた。見てはないらないものを見てしまったような気がした。涙が出て止まらなかった。だってまだ、小学生の子供なのに。
なんとなく全てわかってしまって、わかってしまったら、途端にこの家が怖くなった。
響達が赤崎の家に来た理由は、大きく分けて二つあった。その内の一つが、赤崎自身のことを知る為である。
何故こんな広い家に一人で住んでいるのか。両親はどうしたのか。そして何故去年の七月七日、赤崎の誕生日を祝うことをしなかったのか。何故七夕をメインとしたパーティを行ったのか。
知りたいと思いつつ、踏み込んではいけない領域であるような気がして、ずっと聞くことができなかったそれを、知ることができると思った。探せば出てくるだろうと。
だから三人は予定よりも早くここに来た。そしてそれらは、探すまでもなくすぐそこに在ったのだ。
『えー羨ましいですって。住み込みしたいくらいです』
『…じゃあ、いつでもおいで。歓迎するよ。そうすれば、僕が言った言葉の意味も、響なら理解できるかもしれないしね』
『はい!今度ぜひ!』
(確かにわかりましたよ…ええ、わかりましたとも)
羨ましいと思っていた。この、大きくて綺麗で広々とした家を所有し、住んでいる静さんのことを、羨ましいと思ってはいた。
でもそれは、違っていた。
静さんの言ったとおり、羨ましくなんてなかった。ここで過ごす時間の中で、羨ましいなんて思えなくなってしまった。
(こんなところに住むよりは、僕の古ぼけたアパートの方がよっぽどマシだ)
“大きい”や“広々としている”だなんて、そんな生易しいものじゃない。僕は言葉の使い方を誤った。
静さんの家は、「無」だ。
洗濯機、冷蔵庫、テーブル、テレビ。家具はたくさん置いてあるし、電気もガスも水道も、まだ止まらないで通ったままだ。机、ベッド、タンス…静さんが使っていたものも、ここにはまだちゃんと在る。それこそ僕の家と比べると、生活感がありすぎて逆にびっくりするくらいだ。
でも、僕が言いたいのはそこじゃない。
静さんの家は、「無」なんだ。
いつか祭さんが言っていたように、本当に真っ白で何もないからっぽなところだった。それこそ、家と呼ぶにはおこがましいと思ってしまうくらい。
ただ耐え難い虚無と寂寥感があるだけで、ここには楽しいも嬉しいも存在していなかった。静さんの家に来て「楽しい」と感じていたものは全て、それは祭さんや青子さんがこの家の外から持ち込んできたものだったんだ。
元々静さんの家に在ったものじゃなかった。静さんの家には、虚無と寂寥の二つしかなかった。
おはようも。
おやすみも。
いってきますも。
いってらっしゃいも。
おかえりも。
ただいまも。
此処には何もない。
何も、なかった。
静さんは、こんな何も“無い”ところに、今までずっと住んでたっていうのか。
今まで、ずっと。
響はぎゅうっと、手に持った日記帳を胸に抱え込んだ。痛いくらい気持ちがわかる、なんてとても言えない。
響と琴乃も、確かに母親に捨てられた。けれどその時、響にはまだ己の半身とも言える琴乃が残っていたし、中学時代は荒れていたものの、大家さんがまるで本当の子供―あるいは孫のように、たくさんの愛情を持って接してくれたから、両親がいないことを寂しいと思ったことは一度もなかった。
だが、赤崎は。
小学生なんて、まだ右も左もわからないような子供で。まだまだ親に甘えたい年頃であったはずだった―そんな時期に突然、どこともわからないところにひとり放り出されて。
その時の赤崎の気持ちが、その気持ちを抱えて今まで生きてきた赤崎の気持ちが、響にわかるはずがなかった。
「僕達は結局、今まで静さんのことを知っているような気がしていただけで…本質的なところは何も、何も知らなかったんだ」
響の口から、無意識の嗚咽が漏れる。最近は泣いてばかりだと、他人事のようにそう思った。
何も知らなかった。何も知らされていなかった。
「僕はそれが、すごく悔しい…っ」
(知りたいと思った僕の気持は、やっぱりもう、今更でしたか。静さん)
知りたかった。少しでも近づきたいと思った。今更かもしれないけれど、それでも。
大切だったのだとわかった今だからこそ、 “白金響”という人間を知ってほしいと、そして僕が大切だと思った静さん達のことを知りたいと、思ったんだ。
でも、そうしたら、静さんのことだけじゃなく、祭さんのことも青子さんのことも、知っていると言えるだけのことを知っているとは言い切れないくらい、僕達は何も知らなかったことに、今更気がついた。
「僕達は初めから、輪の中に入れてもらえていなかったって、そういうことですか…静さん」
「響…」
(ああ、でも。仕方ないのか)
僕らだって同じように、何も知らせてなどいなかったのだから。
―それでも、僕らは。
「だからこそ、僕はやっぱり、この場所をきっかけに、あの人の道をつくりたい」
これは、恩返しと罪滅ぼしだ。
僕らに手を差し伸べ、導いてくれた。心からの笑顔を思い出させてくれた、恩返しを。
そして、土足で静さんの領域に踏み込み、その足跡を残してしまう結果となってしまったことに対する、罪滅ぼしを。
(だから僕達は、今日から八月七日までを、あなたへの恩返しと罪滅ぼしに使おうって決めたんです)
「僕達には、泣いている時間も迷っている時間もないんだ。全ては八月七日、なんとしてもそれまでに」
響は涙を拭い、「ね、」と座り込んでいる琴乃に手を差し出した。彼女はやはり未だにぐずっていたが、 それでもごしごしと目元をこすって響の手を取る。
「それって…しずか先輩からしたら、やっぱりお節介でしかないのかもしれないね」
「…そうだな。お節介にしか、ならないかもしれない」
(これは多分、僕の自己満足でしかないんだろうけれど)
「でも、それでも僕は」
「―やると決めたらやる。お前は、そういう奴だったな」
優が小さく微笑んで、ぽんと響の頭に手を置いた。
(うわ、不意打ち)
響は、目を見開いて口元を押さえる。そうでもしないと、にやけているのがバレてしまいそうだった。普段の優からは想像もできないような、とても優しい手に、不覚にも涙を誘われる。
本人には言わないが、響は優のこの手がとても好きだった。
これには結構、救われている。
「そうそう、僕ってそういう奴だからさ…って、元々これは優が提案したんでしょうに」
「それもそうだ」
「…でもきっと、優が言わなくったって、多分誰かが言ってたと思うな、私は」
琴乃の言葉に三人は顔を見合わせて、改めて覚悟と意思を確認するように頷き合い、手を重ねる。一番下に琴乃が、真ん中に優が、そして一番上に響の手が置かれる。触れたぬくもりはあたたかく、生きていることを実感した。
そして彼らはこの時、この真っ白で何もないからっぽの家を、少しでも赤崎があたたかいと思えるよう、少しでも楽しいや嬉しいという感情で満たされるよう、頑張るんだと決めた。
「一日でも早く静さんが成仏できるように、絶対に成功させよう」
この家はとても息苦しくて、生苦しい。漠然とした「無」に押し潰されて、ぺしゃんこになってしまいそうになるくらい。本来なら、こんなところでやるべきではないのかもしれないと、響は今でもそう思う。
(でも、決めたんだ)
どうして静さんの誕生日を祝おうとしなかったのか、その意味も理由も、なんとなくだけれど理解した。わかりたくなどなかったけれど、それと同時に、やっぱり僕はそんなの間違ってるって、そう思うんです。 だからこの場所でやることを、今改めて決めました。
「もちろん」
「やるっきゃないでしょ!」
―これは僕らの恩返しと、罪滅ぼし。
「ああ、やろう!僕たちで!」
「「「静さん(先輩)の誕生日パーティを!」」」
こうして彼らは、来たる八月七日に向けて動き始める。
予告通り彼らが青子にSOSサインを出したのは、ちょうど前期期末考査まで残り一週間を有に切った頃であった。
第二章 第九話 「それぞれの選択Ⅳ」
「高校生活最後の夏休みだ。宿題やりつつも、思う存分羽目外して楽しめよ!それじゃあ以上!解散!」
「起立。気をつけ、さようなら」
クラス全体のまとめ役として、緑間が最後をしめる。彼の声にしたがって椅子から腰を上げた生徒たちが、約一ヶ月顔を合わせることがなくなるであろう担任に、頭を下げた。
明日から夏休み。依然として赤崎はこちらに留まり続けているし、教室の赤崎の席も空白のままだ。
「ああ、言い忘れていたが、期末考査の結果はもう廊下に貼り出されているからな。今回ダメだった奴はもう後がないことを自覚して、挽回できるよう有効に夏休みを使うように。いいな」
今しがた高校生活最後の夏休みを謳歌しろと言ったアンタがそれを言うのか、とクラス全員がそう思った。
いち早くSHRが終わった青子は、人だかりの原因である期末考査の結果に目を留め、自分の名前を探していた。
言い訳になるかもしれないが、彼女は今回ほとんどテスト勉強をしていなかった。
元々今の成績をキープしなければならないほど、内心点が悪いわけではないし、彼女自身、そこまで成績に固執しているわけでもない。
ただ、近しい存在である赤崎と緑間の成績が過分に良かったので、青子もそれに負けじと、今まで勉学に勤しんでいた―わけだが、今回だけは違ったのだ。
どうしても、自分の勉強に回す時間を取ることが出来なかった。
だから今回テストの点数はあまり褒められたものではなかったし、順位が今までより落ちていても仕方がないと青子は思っていた。
(う、わ)
しばらくして自分の名前を見つけると、青子はがくっと肩を落とした。これは、思った以上に。
「お前にしちゃあ、えらく順位が低いじゃねえか。どうしたんだよ」
「ひっ…て、なんだ…祭か。もう、びっくりさせないでよ」
息がかかる距離で背後から急に声をかけられ、青子は思わず飛び上がってしまいそうになる。この男は一体自分をどうしたいのだろうと、本気で思った。
「悪い悪い。あんまり無防備だったから、ついな」
そして、悪びれるわけでもなくこんなことを言うのだから、青子としては白旗を挙げる他ない。本当に、この幼なじみは良い性格をしていると青子は思った。
「で、なんでお前は今回そんなに順位低いんだよ。そこまで難しくなかっただろうが」
「う…」
基本的に、基本的に学年で十位以内には青子の名前が必ず入っていた。そしてそのほとんどが、学年で三位という好成績であった。つまるところ、赤崎・緑間・青子の三人が、ほとんどの割合で一位から三位までを占めていたのである。
その彼女が三位はおろか十位内にも入らないというのは、普通に考えればまずありえる話ではなかった。
今回青子の順位は、三年生百八十人中二十九位。贔屓目に見なくとも、普通ならば喜ぶべき順位なのだろうが、如何せん彼女の普通は三位なので、肩を落とすのも無理はない。
出来ることなら、青子は言い訳をしたかった。
『今回のテスト、どうしても赤点を取るわけにはいかないんです。だから助けてください、お願いします。青子さん』
それでも、最終的に判断を下したのは紛れもなく彼女自身であり、それを今更言い訳にして、自分の失態に対する責任を彼らに追及することは間違っているし、押し付けるなど尚更だ。
それに、彼らからは決して言わないでほしいと口止めもされていた。だから彼女は、結局何も言えずにいる。
「…色々あったから、勉強とかそういうの、うまく手が付けられなかっただけよ」
「お前、」
「それよりも祭は自分の名前、見つけたの?」
「いや」
「あ、じゃあ私も探すの手伝お―」
「一位だよ」
話題を変えようと話を振ったが、若干方向性を間違ってしまったかもしれない。もういっそテストから離れてしまえばよかった、と青子は思う。
貼りだされた期末考査の結果を、彼はまだ見ていないと言った。だから青子は探すのを手伝おうと思ったのだが、よくよく考えれば、改めて探す必要はなかったのだ。
間髪入れずに一位だと答えた緑間は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「…見なくても、わかんだろ。一位以外、ありえねえ」
愚問だった。何故なら彼は、今までずっと学年二位だったのだから。そして学年首位にはいつも、僅差の点数で負けていた。
だが今、学年首位に居座っていたその人はもういない。緑間と競い、そして常に白星をあげていた彼は、もういない。だから、必然的に緑間の順位は繰り上がる。考えればすぐにわかることであった。
昔も今も、緑間と互角に競い合える存在は、今はもういない赤崎だけだったのだから。
「ご…ごめん」
「なんで謝んだよ、バーカ。そこは普通、おめでとうだろ」
なんて、そんな風におちゃらけて彼は言ったけれど。
「言えるわけないじゃない…こんなのただ、空しいだけでしょ」
(だってこれは、アンタが望んだ結果じゃ、ない)
「…ああ、そうだな。確かに空しいだけだった。でもこれが、俺が自分で選んだ“結果”だったんだよ」
緑間がどこか遠い目をした。青子は首を傾げる。一体何を選んだというのか、と。
そんな青子の心情を察したのか、緑間が予想だにしていなかったことをケロっと言ってのけた。
「今回のテストな、本当は全部白紙で出すつもりだったんだぜ、これでも」
その言葉に、えっと青子は目を丸くする。目前の男は、学年首位にあるまじきことを言ってのけた。
なんの冗談かと笑い飛ばそうと思ったが、苦笑をしている緑間を見て、青子は喉から出かかったそれを飲み込んだ。嘘か冗談か本当か、長い付き合いなのだから、それくらいわかる。
だから、聞き方を変えた。
「…なんで?」
「俺がもしも学年首位になっちまったら、静がいないから一位になれたんだって、嫌が応でも認めざるをえなくなるだろ」
だから一位だけはなりたくなかった。でも、手を抜くのは性分じゃない。だから手をつけないことにしようって、何日か前までそう思ってた。と、緑間は言った。確かにこの男は、何事においても手を抜ける性分ではない。
「でもよ、当の本人である静が言いやがったんだ。“祭は、僕以外の人に負けるんだね”って。そう言われて思ったよ。それだけは絶対ごめんだって」
赤崎と緑間は確かに良き親友であったわけだが、それと同時に他とは少しばかり違った、好敵手という関係も兼ねていた。それは、互いに競い合い、高め合い、勝っては負け、負けては勝ち、そうして積み重ねてきたもう一つの絆だった。そう、青子の入り込む余地のない繋がりだ。
「俺は…こう言っちゃあなんだけどよ、俺が負けることを許容できる相手っつうのは、後にも先にも静ただ一人だけだったんだよ。もちろん負けたっていいと思ってたわけじゃないし、あいつにはいつだって真正面から全力でぶつかってたつもりだ。でも、やっぱりどっか心の奥の方で、静になら負けてもいい、なんて思ってる自分も確かにいた。俺にそう思わせることが出来る奴ってのは、あいつ以外にはいないんだよ」
だから思った。静以外の奴に負けるだなんて、死んでも御免だってな。そう言った緑間は、困ったように笑っていた。少しだけ、青子には嬉しそうにも見えた。
おそらく今緑間のすぐ傍には、話の中心人物である赤崎がいるのだろう。もしかすると今、この二人の間ではなんらかの意志の疎通が行われているのかもしれない。それはやはり、青子には確かめようのないことであった。
「俺は結局、プライドとプライドの板ばさみの中で、ここ数日ずっと考えてた。俺はどっちを許容できるのかって。ま、今となっちゃあ考えるまでもなかったって思うけどな」
で、結果があれだ、と緑間が貼りだされている期末考査の結果を指差した。そこには確かに、“一位 緑間祭”と書かれている。得点は十教科中九百七十八点。赤崎が生きていた頃でも、緑間がここまでの高得点を出したのは、初めてのことであった。
「皮肉なもんだ。あいつがいなくなってからの方が点数良いってどういうことだよ。ったく」
けらけらと緑間が笑った。どこか痛いような笑みだった。
そんな笑顔を見ているのが辛くて、青子の手が無意識の内に緑間へと伸びる。背伸びをした青子は、両手で緑間の口を塞いだ。いきなりのことに動揺したのか、緑間が目をぎょっと見開く。
「笑わないで」
緑間は、赤崎が死んでからというもの、いつもどこか無理に笑っているように青子には見えていた。響達はおそらくそれに気づいてはいなかっただろうが、青子にもそれがわからないかと言われると、勿論そんなことはない。
青子は、緑間のその笑い方が嫌いだった。笑いたくもないのに無理して笑顔を浮かべる彼が嫌だったし、それを気づかれてないだろうと高を括られていることも嫌だった。
だが、それよりも。何よりも。
自分に対しても、そういう笑顔を向けてくるという事実が―本当に嫌だった。
「私の前では、そんな風に無理して笑おうとしないで。お願いだから」
「青子…」
緑間の口から手を離し、青子はそっと彼の頬を両手で包み込む。すると、ぎこちなく持ち上がった緑間の手が、おそるおそる青子の手に添えられた。
「悪い、俺…」
と、そこまで言って緑間がぱたりと口をつぐんだ。妙に表情を強張らせていることを不思議に思い、彼女は首を傾げたが、その理由はすぐにわかった。
いつの間にかたくさんの人に囲まれていて、全員の視線が一点に集中していたからだ。もちろん一点というのは緑間と青子のことを指し、決して期末考査の結果のことなどではない。
一度それに気がついてしまうと、何故今までこの居心地の悪い視線に気づかなかったのだろうと、不思議に思ってしまうくらいだ。良い見せ物状態である。青子は、ぱっと緑間の頬から手を離した。
周囲に見られていたという事実が羞恥へと変わり、自分の顔の熱が一気に上がったように青子は感じた。緑間の方も大概顔が赤くなっていて、それが少しだけ青子には嬉しかった。
だが、当面の問題はそこではない。この場をどう乗り切るか、である。
このままこの場に長居すれば、色々と厄介なことになりかねないだろう。青子は、どうするかと緑間に訊ねようとした。
(――え)
だが、青子はそれを訊ねる前に、緑間に手を掴まれたのだ。
あたたかいと思ったのも束の間、次の瞬間ぐいっと力強く引っ張られ、足がもつれそうになる。
「逃げんぞ、青子!」
人の波を掻き分けて、走る緑間がそう言った。なんとなく、幼少期にタイムスリップしたかのような感覚に陥ってしまって、青子は返事をすることを忘れてしまう。
だが、そんな悠長なことを考えている暇はなかった。
先ほどまで青子達を囲んでいた人だかりが、逃げるように駆け出した二人を追いかけたのだ。これにはもう驚くしかない。まさか追いかけてくるとは思っていなかった。
「な…!なんであいつら追いかけてくんだよ!」
「私が聞きたいわよ!」
「てめえ祭、この学校のマドンナに手え出そうなんざ、一億光年速えんだよちくしょうが。ちょっと面貸せやああん?」
「光年は距離だけどな。でも、面白そうだから俺にも一発殴らせろ」
「そんな…っ青子ちゃんがたった一人を選ぶなんて、嘘だ…!嘘だと言ってくれえええええ」
「お前まさか俺達を裏切って、リア充満喫しようとか思ってるわけじゃあねえよなあ?俺達友達だもんなあ?」
「お前達は完全に包囲されているぞー無駄な抵抗は止め、速やかに戻りなさーい」
「青子ちゃん、初めて見た時からずっと君のことが好きだったんだ!緑間なんてやめて俺にしときなよ!」
「てめえ何どさくさに紛れて告白してんだよ」
「祭殴る」
「いや、祭殺ス」
「リア充爆発しろ」
「お前ら一体俺になんの恨みがあるんだああああああああああああああ」
***
「あー…疲れた」
「はあ、はあ…七割は、アンタのせいだからね、祭。どんだけ僻まれてるのよ…」
「知るか…ったく、俺を僻む暇があるなら、彼女でも作れっつうの…」
追っ手から逃げて逃げてひたすら逃げて、見知った公園を通りかかったところで二人は足を止めた。そして、後ろに誰もいないことを確認して、彼らはその見知った公園へと入っていく。
滑り台とブランコとベンチが一つ、あとは申し訳程度の砂場だけの、こじんまりとした質素な公園だ。二人はブランコに座り、青子の方が先に勢い良く地面を蹴った。
風が気持ち良い。
「でもまあ、久しぶりに走れて気持ちよかったから、今回のことは多めに見てあげるわよ」
「そりゃどーも」
緑間も青子に次いでブランコをこぎ始める。先にこぎ始めたのは青子の方であったが、すぐに高さを越されてしまった。
青子はブランコをこぎながら緑間の方を見やる。
「懐かしいね、ここに来るの。最後に来たのはいつだっけ?」
「おーいつだっけなあ…まあ、ここ二、三年は来てなかったかもなあ」
二、三年。言葉にするのは容易いが、その年月の長さは計り知れない。こんなちっぽけな公園でも、あの頃の彼らからしてみれば、とても大きな自分達だけの城だった。
幼い頃というのは、今現在どんなに大人しい人であっても、大抵は家の中より外で遊ぶことを選ぶ元気な少年少女であるものだ。それは彼らとて例外ではない。もっとも、赤崎だけは幼い頃からずっと、今と大して変わらない感じだったのだが。
それでもおそらく、昔の方が笑っていたと―青子は時々思うことがある。
「ブランコの取り合いとか、結構凄まじかったよね…祭、じゃんけんで負ける度に泣いてたから、静がよくブランコ譲ってたっけ」
「俺の黒歴史を掘り起こすな」
そう、昔はよくこの公園で、三人仲良く遊んでいた。朝から夕方頃までずっと。こんな、ブランコと滑り台しかないようなところで、一体何を毎日飽きもせず楽しんでいたのだろう。幼い頃というのは本当に、何をしていても楽しいものであったらしい。
今はもうあの頃のように無邪気には笑えないし、遊ぶことも出来ないんだろうと青子は思う。大人になるというのはそういうことで、子供の頃の無邪気さを代償とすることと、おそらく等しい。
子供のまま大人になることは不可能だ。それに今は、赤崎がいない。
「そういえば聞いたんだけど、静の後任は要らないって言ったんですって?」
「あ?…あーそのことか」
おう、言ったぜ。特に悪びれる風でもなく、緑間がそう言った。まあ青子自身も、空席となった副会長の席に新しい人を据えようなどという話を、彼が容認するとは毛ほども思ってはいなかったのだけれど。
「俺が会長である限り、副会長はあいつ以外認めねえよ。静の後釜なんて、そんなもんは必要ない。これ以上…あいつの居場所が無くなるようなこと、俺が嫌なんだ。だから断った。どっちにしろ、もうすぐ生徒会は一掃するしな。お前は新しい副会長、欲しかったか」
「…まさか。要らないわよ、そんなもの。それに、元々祭が作った執行部だもの、祭の好きにすればいい」
「そっか」
緑間の返事は短かったが、その表情は心なしか嬉しそうに見えて青子は内心でほっと息をつく。
「そういやお前だけだよな、生徒会の一員になったことに対して反発しなかったの。響達も確か…」
と、そこで彼は口をつぐんだ。青子はやれやれと深く溜息をつく。
あの一件以来緑間と響達との仲はどことなくぎくしゃくしていて、あまり良好ではなかった。特に響とは最近ほとんど連絡を取っていないし、弁当も今は緑間と青子の二人でとっている。
もちろんそれには理由があって、赤崎の誕生日パーティの準備や話し合いを、お昼の時間も利用して進めようとしているからであり、決して一緒にお昼を取ることを嫌がっているからではないのだが、それを緑間に伝えると、パーティのことまで説明することになりかねないので、青子は何も言えずにいる。
緑間が響達のことをとりわけ気に入っていることは青子も知っていたし、それと同じくらい響達が緑間のことを慕っていたこともわかっている。だからこんな風にすれ違われてしまうと、第三者から見るに非常に辛い。
青子自身、ここで響達を裏切ることは容易かった。青子の優先順位上、緑間か響たちならば、彼女は迷わず緑間を取る。だが―それができていれば、青子は話を持ち出された時点で、響達の言う計画を全力で潰しにかかっていただろう。間違っても協力するだなんて、言ったりはしない。
だが、最終的に協力すると頷いてしまった以上、響達を裏切ることは青子にはできなかった。
「…あいつら、テスト大丈夫だったんかな」
優はともかく、響と琴乃は他に類を見ないほど頭が悪い。特に琴乃にいたっては、放っておくと平気で全教科赤点を取りかねないくらいだ。
だからいつも、テストが近くなると昼休みや放課後の時間を使って、緑間と青子が三人に勉強を教えていた。頭は良いが人に教える能力が皆無であった赤崎は、それをただ遠目に見ているだけであったが。
そして今回―彼らは緑間ではなく、青子にだけ勉強を教えてほしいと頼んだ。
仲がぎくしゃくしていたのも理由の一つだろうが、一番の理由はやはり、計画が露見してしまうおそれがあったからだろう。だから青子に頼んだのだ、期末考査まで一週間を切った頃、その計画の概要と共に。
勿論緑間はそのことを知らない。
「…大丈夫よ、きっと。今回はなんとしても赤点は免れないとって、言ってたから」
「そうなのか?」
「ええ。追試の補習期間が、ちょうど大事な予定と被ってるって言ってたし…それがなんなのかはわからないけど」
「……」
(ごめん、嘘。本当は全部知っているけど、そこに静がいるなら、私はそれを教えるわけにはいかないの)
それにこれは、祭の為でもあるのだから。
青子はきゅっと目を細め、先日の響との会話を思い出す。
『あの時言ったように、静さんの幼なじみである青子さんの力が必要なんです。力を…貸してもらえませんか』
本当は、協力するつもりなど青子はなかったのだ。彼らがやろうとしていたことを全て知った上で、手を貸すつもりは更々なかった。
当たり前だ―“静の誕生日は祝わない”―それが、緑間と青子が二人で決めたルールであったのだから。
だから去年だって、赤崎の誕生日ではなく、七夕をメインとしたパーティを開いたのだ。響達と出会う前から、ずっとそうだった。そうしてきた。他の誰でもない、赤崎がそれを望んだから。
だが、それをよりにもよって今、彼らは崩そうと言ったのだ。赤崎の誕生日を祝えない理由を、赤崎がどんな想いで誕生日を祝わないことを望んだのかを知らないくせに、よくもまあそんなことが言えたものだと、それを聞いた瞬間はさすがの青子もキレそうになった。というか、実際キレた。感情を抑えることが出来なくなり、割りと思い切り響の頬に平手打ちをしてしまったのである。
それでも結局、こうして彼らに協力することになってしまったのだけれど。
もちろんそれは、自分の意思で。
『勝手なことを言わないで…!静の痛みも、悲しみも、何も知らないくせに…っ』
『“生まれてこなければよかったのに”ですか』
響のあの言葉が、青子を大きく揺さぶった。それがただ、彼女の脳裏を横切るだけの言葉ではなかったからだ。それは紛れもなく、赤崎の過去であった。
おかしいと青子は思った。赤崎の過去を、響達は知らないはずだからだ。
勿論それは青子の知る限りの話であったけれど、赤崎と緑間がそれを積極的に口にしようと思わないことは明白だったし、少なくとも、それをわざわざ伝える必要がないことは明らかだった。
だから青子は、響達が赤崎の過去を知っているはずがないと、高を括っていた。
(でも…)
このタイミングで“それ”が出たということは、響達は何かしら赤崎の過去に気づき始めていると、そういうことなのだろうか?
響をぶった右手が痛かった。
『なんで、それを』
『なんとなく、静さんの誕生日を祝わなかった理由は、わかっているつもりです。それでも僕は、このままじゃダメなんだって思ったから、琴乃と優と一緒に、この計画を実行することを決めました。誕生日を祝わないことが、あの人の為になるとはどうしても思えません。僕には、過去を腫れ物のように扱って、逃げているようにしか見えないんです。静さんも、祭さんも、青子さんも』
そのまっすぐな目が青子に赤崎を連想させ、ほんの一瞬彼女は動揺した。愚かにもこの時、響の後ろに赤崎の面影を青子は確かに感じたのだ。
『僕はちゃんと言いたい。“生まれてきてくれて、ありがとう”“誕生日おめでとう”って。ちゃんと祝って、静さんの周りにはたくさんの人がいるってことを、知ってほしい。青子さんだって、本当はずっとそうしたかったんじゃないんですか?』
目頭が熱くなるのを青子は感じた。響をぶった右手が痛かった。
まだ出会って間もない後輩に、こんなことを諭されるとは思わなかった。情けない。本当に、情けない。一体何年、自分は彼の幼なじみをやってきたのだろう。
誕生日を祝わないでほしいと赤崎は言った。けれど本当は、もしかしたらずっと、それとは反対のことを望まれていたのではないか。本当は毎年、誕生日を祝ってくれることを、彼は心のどこかで望んでいたのではないだろうか。そう思うと、涙が止まらなかった。
そしてその結果が今だ。
「…そんな顔するくらいなら、意地張ってないでさっさと仲直りしなさいよ、バカ」
「ケンカしたつもりはねえよ…それに、今はまだ、その時じゃないんだろうからな。気長に待つさ…待つのには慣れてる」
「…そう」
緑間がブランコをこぐのを一旦やめる。苦笑いをしたかと思えば、今度はどこか真剣そうな表情を浮かべていた。青子は首を傾げる。
しばらく何かを言いかけては、思い留まったように口を閉ざす、を繰り返した緑間であったが、やがて決心を固めたのか、ブランコに揺られている青子をまっすぐに見た。
「…本当は、言わないでおこうと思ったんだけどな。やっぱお前には伝えておくべきだろうって、今思った」
「?」
唐突な切り出しに「何を」と青子は訊ねる。徐々に失速させ、彼女もブランコをこぐのをやめた。
「静の母親の実家に行ってくる」
風がザーっと木の葉や枝を揺らした。緑間がなんと言ったのか、青子はいまいちよく理解できなかった。聞き間違いであればいいと、そう思った。
「今…なんて」
「夏休みに入ったら行こうと思ってたんだ。準備が終わり次第、俺はあいつの母方の祖父母の家に行く」
もう一度繰り返される言葉に、聞き間違いではなかったことだけ青子はわかった。
「な…なんで、そんなこと。必要ないわよ、そんな、今更…」
「静が望んだんだ」
そんな馬鹿な、と青子は思った。赤崎が、自ら進んであの忌々しい過去に踏み込もうなどと言うはずがない。言うはずが、ないのだ。
それでも、こういう局面で緑間が嘘や冗談を言うわけがないことを、あの日と同じように青子はわかっているのだけれど。
その告白はあまりに唐突で、怒りすら湧いてはこなかった。響達の時のように、彼女の右手は持ち上がらなかった。何故なら、
「あいつは、止まった時間を動かそうとしてる。だったら俺がしてやれんのは、静の道を作ることしかないだろ?」
(誰よりも辛いのは、きっと祭の方だから)
静が再びあの過去に足を踏み入れること、その為に傷つく静を一番近くで見ていなくてはならない祭が、私よりも、当の本人である静よりも辛いのだと、わかっているから。
「…だから、そんな顔で笑わないでって言ったでしょ」
「…ごめん」
緑間がへにゃりと情けなく笑った。情けない笑みではあったけれど、やはりどこか強い決意を秘めた目をしている彼を見て、ああ、止められないな、と青子は思った。
「私は…一緒には行けないのね」
返事はない。その沈黙は、青子にとって肯定を示すのに十分な間だった。
わかっている。ダメ元で聞いたとはいえ、それを拒まれることを青子は容易に想像することができた。それが意地悪などではなく、この幼なじみの精一杯の優しさなのだということも、青子には痛いほどわかっていた。
(あなたはいつだって、自分以外の誰かの為を一番に優先する人だから)
「青子には待っていてほしい。俺達が帰る場所を見誤らない為にも」
―こんな風に優しい拒絶しか出来ない人だと、わかっているから。
彼らが何故、どういった理由で赤崎の母親の実家に行こうとしているのかを、青子は知らない。だが、おそらく八年前のあの日のことが関係していることは、間違いないだろう。おおよそ、居場所のわからない赤崎母を探す為に、手始めにその母方の祖父母―確か藤黄と言ったか、その家に行くといったところか。
藤黄の家は赤崎に良くしてくれていたので、行って早々に追い払われるなどということはいだろうが、そこまで物事が順調に進んでいくだろうか、と青子は思う。それにあの家には、“彼女”がいるのだ。
“俺達が帰る場所を見誤らない為にも”
その言葉にどのような意味が込められていたのか、青子にはわからない。わかることはただ一つで、青子には待つことしかできないということだ。
「必ず…っつうのは、まあ、当たり前のことなんだけどよ。帰ってくるから、だから」
「信じて待ってろ、でしょ」
「……、」
「大丈夫。何も聞かないし、止めたりもしない。私はここで二人を待ってる。だから」
青子は伏せていた顔を上げ、緑間と目を合わせる。
(私はここで、私のやるべきことをする)
静が先へ進むことを望むなら。
そして祭が、その道を作るというのなら。
私もその手助けがしたい。私が二人の、背中を押してあげたい。
そしてその為に何をするべきか、誰よりも私自身がそれを一番よくわかっている。
「必ず帰ってきて」
この時彼女は、本当の意味で、八年間守り続けてきたルールを壊すことを決心したのだった。
「おう」
そうして二人は指きりをした。お互いの小指同士を絡め、軽く揺する。指切りをするはいつ以来だろうと青子は思った。
「…飲ーます。指切った」
第三章 第一話 「穏やかな日々の断片」
夏休みに入って早二日。今日は八月一日、現在の時刻は午後三時を少し過ぎた頃である。ちなみに夏休みは七月三十一日からで、他の高校と比べると若干始まるのが遅い。
「やっと終わったー…」
「ん、お疲れ。祭」
ようやく荷物をまとめ終え、緑間はほっと一息ついた。ようやくと言っても、緑間の予定ではもう少し時間がかかるはずだったのだが。
ぼふっとベッドに身を沈め、枕に顔を押し付けた。すると、たちまち睡魔が襲ってきて、「ああ、やばい寝そう」と緑間はうわ言のように呟く。
「あー…悪い、静。少し…寝る。五時くらいになったら起こして…」
うとうとと夢の中に意識を持っていかれそうになりながら、緑間はなんとかそれだけを絞り出す。
「わかった。お休み」
「おー…」
そうして緑間の意識はゆっくりと閉じていった。
しばらく経って微かな寝息が聞こえ始め、随分眠りにつくのが早いなと感心しながら、赤崎は緑間の眠るベッドに腰掛ける。よほど疲れていたのだろう、ねぎらいの意味も込めてそっと彼の頭を撫でた。ぬくもりがあたたかい。
(ありがとう、祭)
本当に良く出来た幼なじみだった。文句のつけようがない、百点満点の幼なじみ。生きている頃でさえどうしようもない人間であった自分に手を差し伸べ、死んだ後もやっぱりこんなどうしようもない自分の為にわざわざ時間を割いて、一緒に悩んでくれて。
僕の一番を一番に優先してくれる。
その結果、傷つくのはいつだって祭の方なのに。
僕はただの幼なじみなんだよ。口には出さず、心の中でそう言った。
カチ、カチ、カチ、と秒針が時間を刻む音が聞こえる。緑間の姉も、大学は絶賛夏休み中であるが、バイトをしているので今は家にいない。とても静かな時間だった。
だが、この静けさはあの家とは比べ物にならないほど心地よく、穏やかだ。当たり前である、ここは緑間の家であって、赤崎の家ではないのだから。
(まあ、僕の家だって思ったことは一度もないけど)
それでも、祭をはじめ青子や響達が来てくれていたから。その間だけはあの家を――――と、思ったこともあった。
そしてそれを一番僕に思わせてくれていたのは、この良く出来た幼なじみだ。態度には出さなかったものの、祭が毎日のようにあの家に来てくれたことには感謝していたし、本当に救われていた。
(君はそれに気づいていただろうか)
きっと気づいていただろう。僕が救われていたことにも、そしてあの家のからっぽさにも、きっと気づいていただろう。
この幼なじみはおそらく、僕のことなら僕よりもわかっているに違いない。
「…祭、」
返事はない。当然といえば当然だ、緑間は深い眠りについている。だが、赤崎は構わず続けた。
「一つ、聞いてもいいかい」
早ければ明日、遅くとも二、三日の間に向かうことになるだろう、赤崎の母方の実家。藤黄の家。祖父母と顔を合わせるのも、“彼女”と顔を合わせるのも、かれこれ二ヶ月くらいぶりだろうか。
いつかは向き合わなくてはならない過去だと思っていた。まさか自分が死んでしまうとは思っていなかったので、その“いつか”は当然、生きているであろう自分の未来を指していた。
生きていた頃の自分は、その“いつか”を先延ばしにすることしか考えていなかった。
けれど今の自分には、その“いつか”を先延ばしにできるほどの時間が、残されていない。
だから今更、やはり行くのはやめようなどと言うつもりは毛頭なかった。いくつかの疑問に対する答えを、赤崎は受け取らなくてはならないからだ。そしておそらくそれは、彼が成仏する為に必要なものでもある。
「…あのさ、祭。僕、わからないんだ。あの人に会って…いや、あの人に会ったら、自分が何を一番望むのか」
親というものを、赤崎は断片的にしか覚えていない。そして、どうにも父親の印象が弱く、思い出せるのは母親の面影だけだった。
赤崎には、おおよそ両親と呼べる人物が二人いる。それは死んでようやく思い出すことが出来たわけだが、やはり記憶が混濁していて、どっちがどっちなのかわからないのが現状だ。
まだ幼い頃、海の見える場所で綺麗な夕焼け空を、二人で眺めたことがある。それはどちらの母親とも経験があったことで、記憶の中で手を引いてくれた二人の母親は、片やあたたかさを伴っていれば、片や思わず身震いしてしまうほどの冷たさを持っていた。
いつかに取った家族写真を、ペンダントに入れていつも首からかけていたのは、どちらの母親だったのだろう。赤崎は頭をひねってみたが、どうにも記憶が曖昧だった。
唯一鮮明に覚えているのは、名前と、そしてあの日の言葉だけである。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”
だが、それはもう過去のことだと赤崎自身は割り切っている。八年前のあの日は、八年前にしか存在しない。今の赤崎には、全く関係のないことなのだ。
「…恨んではいないんだ。でも、わからないんだよ。…ああ、何がわからないのかさえ、わからなくなってきた」
赤崎は、親というものを断片的にしか覚えていない。―思い出せない。
「つまり何が言いたいのかっていうとさ」
もしかしたら、料理がとても上手な人で、僕はそれを美味しいと言って毎日食べていたのかもしれない。家族団らん、楽しく食卓を囲んでいるような家庭だったのかもしれない。
僕はあまり気にしないけれど、もしかしたらとても綺麗好きで、毎日掃除機をかけるような人だったのかもしれない。僕は時々ジュースなんかをこぼして、しかられたこともあったかもしれない。
両親は共働きで、もしかしたらどちらも仕事に就いていたのかもしれない。僕は保育園に通っていたから毎日お迎えが必要で、仕事でくたくたに疲れているにも関わらず、「遅くなってごめんね」と笑顔で迎えに来てくれるような人だったのかもしれない。そして帰り道は手を繋いで、僕は今日あったことを話しながら、影を並べて帰るんだ。そうだったらいいのに、と思った。
もしかしたら、お風呂に一緒に入っていたのかもしれない。背中を流し合ったりなんかも、したのかもしれない。もしかしたら湯船には、アヒルがぷかぷか浮いていたのかも。
もしかしたら三人で、川の字で寝ていたりしたのかもしれない。僕は寝相が悪いから、夜中に蹴っちゃうことも多くて、それでもやっぱり、僕が真ん中で寝てるんだ。それが多分、僕の理想だったんだと思う。寝る前に絵本を読んでくれたりしたら、言うことなしかな。
僕が怖い時は、抱きしめてくれるような人だったのかもしれない。泣いた時は、優しく頭を撫でてくれるような人だったのかもしれない。
もしかしたら、親子でケンカすることもあったのかもしれない。たとえばどんなことで怒るんだろう。好き嫌いをした時かな。だって本当に、ニンジンだけはダメなんだ。同じ食べ物が嫌いだったら、なんかちょっと親子っぽいかも。
それで、僕が笑ったら、笑い返してくれるような人だったらいいな。
そして、
僕のことを、愛してくれていたら。
愛してくれた頃も、確かに存在してくれていたら。
僕も愛していたのなら。
愛情を伴った感情が、僕とその人の間に育まれていたのなら。
そうだったらいいのに、と今はもう思い浮かべることしかできないけれど。
「親って一体どんな感じだったんだろうねっていう」
僕は愛されていたんだろうか。
―僕は、愛していたんだろうか。
「そんなどうしようもない問いかけに対する答えが、欲しかっただけなんだ」
ごめん、変なこと言って。赤崎は困ったように笑った。
彼は知らない。眠っているはずの幼なじみに、まだぼんやりと意識があったことを。
彼は知らない。幼なじみが、その問いかけに対する答えを持っていないことを。
彼は知らない―今、幼なじみがどんな顔をして、何を思っているのかを。
彼は気づいていない―自分が今、どんな顔をしているのかを。
「…なんか眠たくなってきたな。幽霊なのに、変なの。でも起こしてくれって言われたし…うーん。まあ、いっか」
そうして赤崎も眠りにつく。何も知らずに、何にも気づかずに。
美咲が帰ってきたのは、空もまだ大分明るい五時くらいの頃だ。帰ってくるなり「まつりー」と引っ切り無しに名前を呼ばれ、緑間は仕方なく一階へと下りていった。
五時頃まで寝るつもりが、赤崎の勝手な独白のせいで、すっかり眠気など覚めてしまった。そして癪に障るが、当の本人である赤崎は、ぐっすりと気持ちよさそうに眠りこけている。
そういえばこれは、夏休みに入る少し前から分かっていたことであるが、赤崎が眠っている(というか意識がない)時は、どういうわけか霊媒状態が解け、お互い離れることができるようだった。現に今、実際にそれができている。もっとも、このことを赤崎が知っているのかどうかは不明だが。
「…ったく。なんだよ、帰ってきて早々、引っ切り無しに人の名前呼びやがって」
「買い物してきたのよ。しまうの手伝って」
語尾にハートがついていることが緑間にはわかったが、正直あざとさの欠片もない。
青子に負けず劣らず綺麗な顔をしてはいるが、それが姉ともなると可愛さは微塵も感じられなかった。
緑間は溜息をつきつつ、「へいへい」とだるそうに返事をする。
「そういえば珍しいわね。普段ならもうこの時間、夕飯の仕度始めてるじゃない。どうかしたの?」
それはまさしく、姉の言う通りであった。いつもなら、もうとっくに作り始めている時間である。今からでは、あまり手の込んだものは作れないかもしれないと、緑間は申し訳なく謝った。
そもそも、今日の夕飯を何にするかすら、現段階で緑間は決めかねている。というか、今の今まで夕飯のことなど頭になかった、という方が正しいかもしれない。
頭にあったのは、つい二時間前赤崎が独り言のように呟いた言葉だけだ。
「なあ、姉ちゃん」
「うん?何?」
「…親って、どんな感じなんかな」
それだけを言って、言葉足らずだったかと緑間は思った。
美咲がほんの一瞬だけ表情を強張らせる。少しの間、彼女は買ってきた野菜などをしまう作業を止めていたが、しばらく経って再び買い物袋に手をつっこみ、今度はチーズを冷蔵庫に追いやった。
「静くんが言ったの?」
緑間は静かに頷く。言葉足らずではあったが、どうやらというかやはりというか、姉にはきちんと伝わっていたようだ。余計な説明の段階を踏む必要のない美咲との会話は、緑間にとってはとても楽なものだった。
言わなくとも察してくれるというのは、本当にありがたい。
「俺は…なんて答えたらいいか、わからなかった。どう答えてもあいつを…静を傷つけるだけだって、思ったんだ」
緑間には一つ、赤崎と青子に対して後ろめたいと思っていたことがあった。響達のことは知らないが、これは緑間にとって、赤崎と青子との決定的な違いでもある。
それは、両親が健在していることだ。
今はどちらも海外に出ている為日本にはいないが、緑間には血の繋がった正真正銘の父親と母親がいる。姉だっている。
だが、赤崎にはおおよそ両親と呼べるものがもういない。存命はしているだろうが、あれはもう彼にとって、親でもなければ血の繋がった家族でもないだろう。高校一年生の頃に、「実は僕には妹がいたらしい」と言われたことがあったが、緑間はそれを冗談だと思っている為、赤崎にはきょうだいもいない。
そして青子にもまた、両親がいない。彼女の両親は交通事故に遭い、亡くなっている。きょうだいはいない。
つまり何が言いたいかというと、二人には両親もきょうだいもいないということ、そしてその中で緑間だけに両親がいるということだ。
両親が健在しているというのは、、おそらく主観的に見ても客観的に見ても幸せなことであるのだろうが、それと同時に緑間はいつもその幸せに対する罪悪感と後ろめたさを抱いていた。
羨ましいと思われることが辛かった。
妬まれることが怖かったわけではない。仲間外れにされることを恐れていたわけでもない。
『ただ、生きてほしいんだよ。僕にはもう、出来ないことだから』
その言葉と同じように―そう、如実に責め立てられているような気持ちになる。
両親が健在している緑間が、両親のいない赤崎や青子の気持ちがわかると言えば、それは全くの嘘になる。それがどれほど辛く悲しいことであるか、それは実際に体験しなければわからないことだ。いや、わからなくはないだろうが、緑間自身自分勝手にわかったような気にはなりたくないし、おそらく赤崎と青子も安直にわかってほしくはないだろう。
だから緑間は、わかっているようでわかっていないのだ。その部分に関して羨ましいと二人が思う理由が、わかっているようでわかっていない。
羨ましいと思われるのは、二人に両親がいないから。
わからないのは、両親がいないという現実が与える苦痛。
わかっているのは、その現実が与える痛みが、両親の健在している緑間といることで、少しずつ肥大していくということ。
だから後ろめたい。だから罪悪感が芽生える。
おそらく二人はそれに関して無自覚で、「罪悪なんて覚える必要はない」と言うに違いないのだろうけれど。
「なあ、姉ちゃん。一つ…聞いてもいいか?」
「…うん?」
“親って一体どんな感じだったんだろうね”
もしも俺が、いつも傍で見守ってくれる、あたたかい存在だと言っていたら。
もしも俺が、断ち切ることのできない特別な絆で結ばれた、代わりの効かない存在だと言っていたら。
もしも俺が、成長の過程で一番近くにいてくれる、自分にとっての一番の理解者だと言っていたら。
もしも俺が、無条件で自分を愛してくれる存在だと言っていたら。
あいつは一体どんな顔で、何を思って、どう返してきたのだろう。
“じゃあやっぱり、僕には親なんて初めからいなかったんだね”なんて、言ったりしたのではないだろうか。
「俺はあいつにどうやって…どんな風に、答えてやるべきだったんだろうな」
どんなに考えても、赤崎が泣きそうな顔をする場面しか緑間には思い浮かばなかった。どんな答え方をしても、赤崎にとっては偽善にしか聞こえないのではないかと思った。
美咲が、ぽんぽんと緑間の頭を撫でる。俯いているのでわからないが、よしよしと囁いた姉は微笑んでいるのではないかと緑間は思う。大丈夫、と言われているような気がした。
「それはね、祭が諭すことじゃないわ。静くんが、自分で思い出さなくちゃいけないことよ。答えは、その人しか持ってないものだから」
きっかけもね、と彼女が言う。
緑間は、何故だかたまらなく泣きそうになった。
第三章 第二話 「軋んだ覚悟」
夢を見た。
真っ白な何もない世界で、緑間と赤崎が向かい合って対峙している。夢はそこから始まった。
夢の中であるはずなのに意識があって、しかも白濁としていないはっきりと澄んだ意識だ。これが夢だと認識できる夢は初めてだった。
緑間は赤崎を見やる。
「気にいらねえ」
対峙する赤崎は、不思議そうな顔をしていた。
この夢は実に不愉快で気に食わない―その原因は、向かいにいる赤崎だった。いや、正確には、“赤崎になりすましている何か”である。
「てめえは誰だ」
「え?何言ってるのさ、祭」
さもありなん、心外だと言わんばかりにむっとする赤崎。どうやらこのままシラを切るつもりのようだ。
だが、それを許す緑間ではない。
「わざとらしく首傾げてんじゃねえよ。見え見えだって言ってんだ」
「だから何を…」
はあ、と溜息をつく。緑間はがしがしと頭をかき、じろりと彼(または彼女)を睨みつけた。
「本気で言ってんのか」
「え?」
がっと緑間は赤崎の胸倉を掴む。一瞬かち合った赤崎の目は、冷たさしか宿してはいなかった。あいつは俺に対してこんな冷めた目はしない。
「俺が、本気で!あいつを見誤ると思ってんのかって言ってんだよ!」
「……」
「何が目的だ。なんで静の姿で現れやがった。てめえは何者だ」
そこまで言って、今度は赤崎が溜息をつく。やれやれといった風に首を振り、心底鬱陶しそうな顔で緑間を見た。
「面倒だな…君がそういう風に設定したのが悪いんだよ。君が僕を見て、赤崎静を連想しちゃったから」
覚えてないの、と訊ねられる。赤崎が何を言いたいのか、まるでわからなかった。
(静を連想?なんのことだ?)
そこで、ピキンと何かがひび割れるように、耳鳴りが緑間の意識を突き刺した。頭に鈍い痛みが走り、思わずこめかみを押さえる。
(なんで…夢ん中だろ。痛みなんてあるわけが、)
「それがそもそもの間違いなんだって、まだわからない?」
「!なんで、俺の考えてることが…!?」
痛みと格闘しつつ、緑間は大きく目を見開いた。
これは赤崎ではなく、赤崎に成りすました何かであるはずだ。それなのに何故、赤崎同様テレパシーが有効なのだと、緑間はズキズキ痛む頭を押さえつつ考えた。
ほとほと呆れたように、もう一度赤崎が溜息をつく。
「馬鹿なこと言うなよ…当たり前でしょ、僕らは同じなんだから。もっとも、今の君には、同じようには見えていないだろうけど」
「わけが、わからん…痛ってえ」
頭痛は増していく一方だったが、それよりも気になったのは耳鳴りの方だ。きりきりと、自分の神経が削られていくような錯覚に、緑間は陥った。
それは、何かを知らせる警報のように思えた。何かを訴えるような痛みだと、緑間はそう思った。
「…まあいいや。説明したってどうせ無駄だろうし。あんまり時間がないんだ。今日は忠告と、もう一つ用があって会いに来た」
と、そんな感じでさくさく話を進められ、いやいやいやと緑間は赤崎を制した。すると、途端にその表情が険しくなり、ひどくうんざりとした顔をされ、別人だとわかっていても、赤崎の顔でそれをされると中々に傷つく緑間だった。
「…何」
「いや、だから。何の目的で、てめえは何者で、なんで静の姿で現れやがったんだって聞いて…」
そこで、続きが言えなくなるほどの痛みが緑間を襲う。頭がひび割れてしまうのではないかと思ってしまうくらいの激痛が走った。立っていられなくなり、かくんと膝が折れる。
(この痛みは、本物だ)
夢という曖昧さが与える痛みなどではない。列記とした、今現実に自分が感じているリアルな痛みだ。
(でも、そんなのおかしいだろ)
これは確かに、夢のはずだ。
「だから、さっき言ったよね。忠告ともう一つ用があって来たって。それに僕は赤崎静の姿で現れてなんかいない。僕は僕の姿で君と対峙しているよ。さっきも言ったように、君が最初に僕を見て赤崎静を連想したから、君には僕が赤崎静に見えてるんだ」
こればっかりは君の意識の問題だからどうすることもできない、と赤崎は言った。
緑間は、まるで意味がわからなかった。僕は僕の姿で?君が最初に僕を見て赤崎静を連想したから?全く持って意味がわからなかった。この意味のわからなさだけは、赤崎に類似していると言えなくもないかもしれない。
第一、つじつまが合っていないのだ。僕は僕の姿で、と言っているが、目の前のこれは緑間が最初に対峙した時からずっと赤崎の姿で、
ピキン、と再び何かがひび割れるような音がした。
(なんか、違う)
―つじつまが合わないのは、どっちの記憶だ?
「僕も本当は、赤崎静の姿じゃなく、ありのままの姿で君と話がしたかったんだけれど…この姿は、良くも悪くも君の目には毒だろうから。まあ、僕は別に構わないんだけどね。この姿は、僕にとっては都合が良い」
「どういう…意味だよ」
「そのまんま…っと、ああ、まずい。ごめん、そんな悠長に構えている暇はないんだ。詳しくは今度また、遇えた時にでもね」
遇えるかどうかはわからないけれど、と赤崎が言う。どこか嬉しそうな顔をしていた。
頭痛と耳鳴りは未だ止まず、もういっそ気絶したいと思ってしまうくらいだった。悪い夢なら醒めてほしい。
「だから夢じゃないんだって…まあ、それはとりあえず置いておこう。いいかい、君は、僕がこれから言うことと、きちんと向き合う必要がある。それは僕の為であり、そして君自身の為でもあるってことを忘れないで」
だから、意味がわからない。
「これは忠告…じゃあない方だ」
意味はわからなかったが、どうしてか聞きたくないと緑間は思った。聞けば自分の中の何かが揺らいでしまうような―そんな気がしたのだ。
「僕はね、君の一番近くで君を見ている。だから言おう、君はもう少し自分に正直になった方が良い」
聞きたくない。
「そうじゃないと後悔する。もちろんそれは僕が、じゃなくて君がだよ」
「や…め、ろ」
(俺が、後悔するだって?)
この俺が?はは、バッカじゃねえの。なんでそんなこと言われなきゃなんねえんだよ。お前みたいなよくわかんないモンに。
後悔なんて。
「このままだと後悔する。これは既に決定事項だ。君もそれをわかっているはずだよ、僕がわかっているくらいなんだから」
「何を…わかってるって?お前が、俺の、一体何を…わかってるっつうんだよ!」
「だって、君は僕で僕は君じゃないか。さっきも言ったよ、僕と君は同じだって」
まだ気づかないの、僕がなんなのか。残念そうな顔で赤崎が言う。
そして、同じだからたとえわかりたくなくてもわかってしまうんだ。とも言った。
「僕は、君を後悔させたくない。その為にはやっぱり、君が言葉にしなくちゃ始まらないんだ」
「…っやめろ、言うな…」
(聞きたくない)
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!
「本当は」
「違う…っやめろ、俺は…違うんだ。違う。やめてくれ、頼むから」
「成仏なんて、してほしくないんでしょ?」
静の顔で、俺が今までずっと押さえ込んできたそれを、口にするな。
頭の痛みが引いていく。疎ましかった耳鳴りも止んだ。
記憶がカチリとかみ合う。
(ああ、そうだ。そうだった)
初めてこいつと遇った時、こいつに姿はなく、目に見えない俺の力そのものだった。そして俺は、それを一瞬だけ静と見間違えたんだ。お前、夢にまで干渉してくるようになったのかよ、と軽口を叩いてやるつもりだった。
でも、違ったんだ。
それは静じゃなかったし、これは夢でもなかった。
(…そういうこと、か)
それは確かに俺自身で、これは俺の内側そのものだった。
「なーんだ、ちゃんとわかってんじゃねえか」
それの姿が、まるで糸が解けていくかのようにゆっくりと、しかし確かに赤崎から別の何かへと姿を変えていく。おそらく緑間の意識が、完全にそれを赤崎ではない別のモノだと認識したからだろう。それは、緑間のよく見知った姿へと変化していく。
「ご名答。俺はお前の力そのもので、ここはお前の精神世界だ」
それは完全に赤崎の姿を脱し、ありのままの姿で緑間と対峙する。
そこにいたのは、紛れもなく緑間祭自身だった。
「俺はずっと、ここからお前と、お前の目に見える世界っつうのを見てきたつもりだ。だから俺には、お前にすら見えてねえモンも、ちゃんと見えてる」
(そりゃあ―そうだろうとも)
俺には、お前がいないと視えないモノが多すぎる。
「いいか、これは…忠告じゃねえ」
「じゃあ、なんだっつうんだよ」
にやり、とそれは笑った。
まるで鏡みたいに同じ顔、同じ体、同じ声。漫画風に言うと、もう一人の自分。
「お節介」
これはただの、俺のお節介だともう一人の緑間が言った。
(―ああ、そういうところまで一緒なんだな)
「余計なお世話だ…お前のせいで、また俺は」
天秤にかけなくちゃならなくなった。
「俺のせい?そいつは違うな。お前は既に気づいていたはずだろ?ただ蓋をしていただけで。俺はただ、その蓋を外しただけだよ…それに俺は、きっかけを作っただけにすぎない。蓋を閉めるかどうかは、てめえで決めろ」
一度目は簡単だった。今まで数え切れないほどの霊を視てきたから、霊が哀しいものだと緑間はわかっていた。だから一度目は、すんなりとそれに蓋をすることができた。
「でもまあ…お前が蓋をしきれてないから、俺がこれを言うんだけどよ」
二度目は少し難しかった。成仏したくないと赤崎が言ったからだ。だが、動揺はしたものの、完全に蓋が開くことはなかった。それが赤崎の為にならないということを、緑間はわかっていたからだ。
だからもう二度と蓋が開かないように、一生の約束だと釘を打って蓋を閉じた。
そして今が三度目。
自分自身に諭され、完全に蓋を剥ぎ取られた末に内側から飛び出してきた、俺が今まで蓋をしてきたものに。
「お前のそれは未練だよ」
俺はもう一度、蓋をすることができるのだろうか。
「未練?」
「ああ。しかも、赤崎静と全く同じ形のな」
静と同じ?そんな馬鹿な。あいつに未練はなかったはずだ。それに、未練は、未練を持っているのは俺じゃなくて。
「なあ、「俺」。俺はこう思うんだよ」
「〈未練〉っていうのは―――――」
――――――――――――――――――
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――――――――――…
はっと、そこで緑間は目を覚ました。ばっと体を起こし、辺りを確認して―ここが自分の部屋だとわかり、心底安堵する。時計を見ると、なんとも微妙な午後十一時を指していた。
勿論外は真っ暗だ。
「なんだってこんな時間に…」
と、口に出してから思い出す。
そうだ、一応明日出発の予定で、だから今日は早く寝ようと、早々に夕飯と風呂を済ませてベッドに入ったのだった。確か最後に時計を見たのは午後八時であったはず。
ふと目をやると、隣りではすやすやと寝息を立てて眠っている幼なじみの姿があった。ここ最近はずっとこんな感じで、緑間は幽霊になった赤崎とベッドを共有している。
「……」
緑間はそっと赤崎の頬を撫でた。途端に夢の内容がフラッシュバックしてきて、何故だか眩暈がする。吐き気がした。
「…いや、夢じゃあなかったんだっけか」
あれは夢とは違う、現実とは隔絶された緑間にとってのもう一つの世界だった。起きた今でも、頭に走った耐え難い激痛は鮮明だ。そして今も、余韻のように頭が痛む。
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
ズキン、と体中が軋んだ。
(ああいう風に対峙したのは、初めてだったな)
いつもは緑間が一方的に霊力を使っているだけで、まさかその霊力そのものに意思があるとは思いもしていなかった。まして、あんな形で対話することになるとも。そして、あんな形で今まで押さえ込んできたものを、こじ開けられてしまうとも。
突きつめる必要はない―“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”―答えなど、導き出したら最後だ。もう戻れなくなる。赤崎静の一番を一番に考える緑間祭は、いなくなってしまうから。
(…大丈夫)
答えは要らない。どれだけかかっても、今度こそ俺は二度と開けられないよう、奥底にしまい込んで蓋をする。俺にとっても静にとっても、それが一番良いことだ。
“もう少し自分に正直になった方が良い”
「ったく…それができてりゃ苦労なんかしてねえっつうの」
今も昔も、自分に正直に生きてきてんだよ、俺は。俺は俺なりの我儘を通して、生きてきてんだ。生きてきているはずなんだよ。
だから、頼むから。そんな風に俺を惑わせてくれるな。吐き気がする。
「俺はもう決めたんだ。必ず…」
ブブブ、とそこで携帯のバイブ音が静寂の中鳴り響いた。真っ暗な室内で、微かに携帯が光る。
緑間は赤崎から手を退いてスマホを手に取る。どうやら、メールではなく電話のようだった。ディスプレイに表示されている名前と、現時刻をもう一度確認して緑間は顔をしかめる。こんな時間に電話など―一体全体どういう用件なのか。
これ以上は赤崎を起こしかねないと判断し、緑間は電話に応じた。
「もしもし…ったく、今何時だと思ってんだよ、お前は」
『はは…すみません。それと、こんばんは、祭さん。お久しぶりです』
「おう、久しぶりだな。響」
第三章 第三話 「未練の在り方」
ちょっと出てきてもらえませんか、話と…渡したいものがあるんです。出来れば静さんにはバレないように。
そう言われて向かった先は、緑間の家から少しばかり離れた、小さな丘と噴水がある広場だ。昼間なんかは子供たちの遊び場になっているのでそれなりに賑わってはいるものの、如何せん今は夜中であるのでそこには静けさしかなかった。
仲良し広場。ここは―緑間と赤崎が初めて白金ツインズと出会った場所であり、そしてまだ、「壊す双子」の名を、捨てていない頃の彼らと出会った場所だった。
赤崎を起こさないよう、そろりそろりと家を抜け出した緑間は自転車に乗り、その広場へと着いたのは零時を回った頃だった。響はもう既に着いていて、緑間の姿を発見すると、困ったような笑みを浮かべて手を振った。
緑間もそれに応えるように手を振り返し、自転車を止めて広場の中へと入っていく。
「すみません。ある程度時間が遅くないと、静さんが起きているかも、と思って…」
「その様子だと、やっぱ気づいてるみたいだな。あいつに意識がない時は、俺が単独行動できるって」
「…僕には、視えますからね」
いつ気づいたのかとは聞かなかった。それに気がつく時間が響になかったことは明白だったが、緑間には一つだけ心当たりがあったからだ。
自分しか気づいていないと思って高を括っていたが、どうやらそれは間違いだったようである。緑間は自嘲気味に笑った。
久しぶりに会った響はどこか纏う空気が変わっていて、憑き物が落ちたみたいにすっきりした顔をしていた。
最後に言葉を交わしたのは、それこそ夏休みに入る二~三週間前くらいのはずだったが、その間に響の中で何か契機があったのかもしれない。なんというか、距離を置く為に引いていた線が、なくなっているように緑間は感じた。それにどこか、開き直ったような…何かに吹っ切れたかのような、清々しい顔をしている。
「…静に聞かれちゃまずいことなのか?」
「まずいというか…あまり好ましく思わないと思います。きっと静さんは僕らに知られたくはなかっただろうし、見たくないだろうし、聞きたくない話だと思いますから」
どうにもこうにも、緑間はここ最近はずっと、結論に至るまでの過程で遠回りをする言葉のキャッチボールしかしていないような気がした。
どうして自分の周りには、遠まわしにあまり意味を成さないオブラートで、言葉を包む人間が多いのだろう。
「…ま、いいわ。そんで、あいつが好ましく思わない用件っていうのは、一体なんだ?」
「なんだかすごく嫌味に聞こえるんですけど…」
と言いつつ、響は手に持っていた本のようなものを緑間に差し出す。広場にある電灯はチカチカしていて、尚且つ辺りが薄暗いせいか、初めは本当に本にしか見えなかった。
だが、よく目を凝らしてその本の表紙を見てみると、そこには英単語が五文字横並びになっていた。明朝体である。
「ダイ…アリー?日記か?」
「ええ、まあ。そういうことになりますね」
手渡されたのは、やけに日焼けしているボロボロの日記帳だった。どこかで見たことがあるような気がして、緑間は首を捻る。
「日記、ねえ…こんなん渡されても困るんだけど。つうかこれ誰の…」
「聞きたいですか、誰のものか」
響の声のトーンが一気に下がる。
含みのあるその言葉に首を傾げ、もう一度しげしげと日記帳を見やり―
緑間は目を見開いた。
「お前…っあの家を探ったのか…!」
反射的に手が伸びる。緑間はぐいっと胸倉を引っつかみ、息のかかる距離で響のことを睨みつけた。
“絶対に開けるな!”
それを書いたのは、他の誰でもない、緑間と青子だ。
「これはあいつの…静のモンだろ…!」
「だったらなんです?」
「お前…っ」
響が、胸倉を掴む緑間の手首を強く握った。それは、離せという威嚇だった。
響は男子にしては可愛い顔をしているが、これで握力は軽く五十kgを超えている。ぎりぎりとその握力で手首を締め付けられ、緑間は眉間にしわを寄せた。血液がせき止められ、緑間の手首は途端に熱と色を失っていく。
(こいつ…!)
目が本気だった。
これは響の目ではない―二年前初めて会った、「壊す双子」精神的破壊担当、「二重破壊」としての響の目だった。久しぶりに見る、好戦的で純粋にケンカを楽しんでいた、裏の響。
二年前とは僅かに違っているように見えるが、それでもやはり圧倒されてしまいそうなこのオーラは変わっていない。
などと、悠長に構えている暇は、緑間にはなかった。
響の右脚が持ち上がり、勢いよく緑間のわき腹めがけて蹴りこまれる。
「くそ…っ」
緑間は瞬時に避けられないことを判断して、咄嗟に左腕でその蹴りを相殺する。完全に勢いを殺しきれず、緑間は元いた場所から若干ずらされた。
じんじんと緩やかな痛みが左腕に走ったが、構わずその右脚を押し返し、響の握力を振りほどいて間合いを取る。
「響てめえ…いきなり何しやがる」
「いきなり?何言ってんですか。こういうのは不意打ちが基本でしょ、祭さん」
ちょっと久しぶりにやりません?ケンカ―響は、思わずぞっとしてしまうくらい綺麗な笑顔を浮かべてそう言った。
一方で緑間の体は、本人の想像以上に疲弊していた。今日は一度に色々なことがありすぎたのだ。そしてその全てにおいて、緑間はひどく混乱している。
だが―手は抜かない性分だ。そしてまた、逃げないことも彼の性分なのである。
「いいぜ、来いよ」
―それでも最近は、逃げ出したくなってしまうような現実ばかりだけれど。
響が少しだけ驚いたような顔をした。冗談のつもりで言ったのか、まるで緑間がそう答えるとは予想していなかったかのように。
だがそれはほんの一瞬で、刹那の間緑間の前に現れた表の響は、すぐに姿を消した。
そういえば、こんな風に響と一対一でやり合うのは初めてのことかもしれない、と緑間はぼんやりとそう思う。あの日は琴乃と、そして赤崎がいた。
緑間は、ダメだダメだと首を振る。
“成仏なんて、――――――”
(思い出すな。今これは必要ない)
必要なのは、意識を響に集中させることだ。生半可な姿勢では、掠り傷一つ与えることのできないような相手である。
ザーっと一陣の風が木の葉をさらって、木の枝を揺らした。雲に隠れていた月が姿を見せる。
二人は同時に動いた。
先手を取ったのは響の方だ。見かけよりもずっと重たい拳が、緑間の顔面に向かって放たれる。緑間はそれを首だけで避けるが、瞬時にもう片方の拳が飛んできて、反射的にひゅっと腰を落とした。響の拳は空を切り、今度は緑間がしかける番である。
空振りとなった左腕を掴み、響の動きを封じて頭突きをかます。
「痛たいっすよ、せーんぱい!」
にやりと笑った響も、負けじと緑間に頭突きをかました。その頭突きに思わず目を閉じた緑間の、一瞬ともいえる隙を見逃さずに、響が緑間の右腕を蹴り上げて掴まれていた自分の手を解放する。額は割れ、互いにたらーっと血が流れ出ている。
風はあれっきり吹いてはいない。ケンカをするには最高の天候状況と言えた。これで明るければ、尚良いのだけれど。
響がぐいっと額から流れ出る血を拭った。そんな動作ができるくらい余裕のある響とは対照的に、緑間は瞬きをすることさえ億劫に感じていた。一瞬たりとも彼から目を離さないよう、慎重に距離を取る。
緑間は自分から先攻を取るつもりはないので、しばらく沈黙が続いた。響が嫌味っぽく笑って「甘いですね」と言う。
「そんな悠長に構えてると、負けますよ?」
「は…っ俺に負けたお前には言われたかねえよ」
中学時代、凛々垣中最凶の双子「壊す双子」として名を馳せていた響と琴乃は、赤崎と緑間に出会い、その名を捨てた。誰彼構わずケンカを売ることはしなくなったし、売られたケンカも器用に流せるようになった。
暴力を振るうことも、感情に身を任せて暴走することもなくなり、彼らは「壊す双子」であった頃の全てを捨て、普通になることを決めたのだ。
それでも時々。時々とても苦しそうな顔をしている響を見かけて、緑間はよく背中をさすったり頭を撫でたりしていた。響は時に、喉が潰れかねないほどの大声で叫ぶことも、我慢ならなくて暴れ出すこともあったけれど、そんな響を止めるのは決まって緑間と赤崎で、どちらかといえば緑間の方が割合的には多かった。
琴乃には何故かそういった衝動じみたものがないようだったが、響のそれは、簡単に言えば蓄積されたストレスの容量オーバーを意味していたのである。
響には、二つの人格がある。と言っても過言ではない。普段の響を表とするなら、裏の響は「壊す双子」精神的破壊担当「二重破壊」であり、今は表の響が、裏の響を自分の中に封じ込めるといった形で落ち着いている。だから今は日常生活において、裏の響が姿を現すことはほとんどない。
だが、ほとんどないだけであって、実際には姿を現すこともあったのだ。響のストレスは、主に裏の響を封じ込める際に発生するもので、それが限界に達した時、先ほど上げたように、響は少なからずそのストレスを発散する。響は緑間達と出会ってからの二年間、ずっとそれを繰り返してきた。
たとえどれだけ押さえつけようと、同じ自分自身を永遠に日の当たらない場所へ追いやることは難しい。いつだって蓋が開くきっかけは、すぐ傍にあるのだから。
それはたとえば、
(俺みたいに)
「覚えてます?祭さん。あの時も確か、ここでしたよね」
「ああ、思い出すぜ。初めてお前らとケンカした時のことを、よ!」
二人は互いに拳を交えながら、その最中でとても懐かしそうに目を細める。
あの時―というのは、あの日。つまり、赤崎と緑間が白金ツインズと出会った日のことである。あの日も確か今日のようによく晴れていて、天候に恵まれていた。そう、雲ひとつない快晴。清々しいほどの綺麗な青空を、今でも緑間は覚えている。
その日「壊す双子」は、ちょうどこの広場で他校の不良とケンカをしていた。そのケンカは見るからに双子の方が優勢で、彼らはあと一歩のところまで相手を追い詰めていた。後から聞いた話によると、その時彼らは不良達に囲まれていた一人の少女を助けようとして、ケンカになったらしかった。
『おいこら。お前らここがどこだかわかってんのか?仲良し広場だぞ仲良し広場。わかったら仲良くしろよアホ。間違ってもケンカなんてしてんじゃねえ』
そして、ちょうどその時たまたま現場に居合わせてしまった緑間と赤崎が、二人がトドメをさそうとした時にそう言って、あろうことか「壊す双子」にケンカを売ったのである。
もちろん緑間達は、ケンカを売ったつもりなどなかったのだが、彼ら双子は確かにそう捉えたのだ。そして更に言えば緑間と赤崎は、その双子がかの有名な「壊す双子」であることに気づいていなかった。
それでも二人は、最凶の双子と名高い彼らを相手に白星を挙げたのである。
―あれからもう、二年が経った。
「確かに祭さんの言う通り、僕らが負けたのは事実ですよ。弁解はしません。あなた達は強かった。認めますよ」
「は、そりゃどーも!」
緑間は、ヒュンっと拳を突き出す。渾身とも言える力を込めて放たれた拳は、だがしかし響の手によって器用に相殺され、ぐっと握りこまれてしまう。右腕の自由を奪われた緑間は表情をしかめ、強い力で握りこまれる拳を解放しようと抵抗を試みたが、響の握力を前に成す術もなく舌打ちをした。もう片方の拳を響の注意をそらすために繰り出したが、これもまたあっさりと避けられる。
「でもね、祭さん。あの時とは決定的に違うこと、一つだけあるでしょ」
響がぎりぎりと緑間の拳をねじり上げる。後輩の前だからと意地になって声は堪えたが、表情だけは誤魔化せなかった。かなり痛い。
そんな緑間を見てか、響が心底楽しそうに、愉快そうに口元を歪めている。
「だってもう、静さんは――じゃないですか」
ドクン、と心臓が脈打つ。
“成仏なんて、――――――”
思い出してはならないと、あれほど自分に強く言い聞かせたというのに。
その言葉が緑間を揺さぶった。
(もう迷わないって、決めたはずだろ…!)
そして、必ずあいつを成仏させるとも。
静は生きていない―静は、死んでいる。そんなの、今更お前に言われなくたってわかってんだよ。
「くっそ…離せ、響!」
「はは、しょうもないこと言うんですね。離せって言われて離してあげられるほど、僕はお人よしじゃあないですよ」
「は…っお前、意外と腹黒いとこ、あるもんなあ…!」
緑間は、痛みに顔を歪めつつもにやりと笑い、次の瞬間ものすごいスピードで自分の腕をねじ上げる響の腕を蹴り上げた。そのまま宙で一回転し、ふわりと着地する。
響の方は蹴られた腕が痛むのか、ゆっくりと手で撫でている。
「まだそんな力が残っていたなんて、驚きましたよ」
そう言いつつも、まだ大分余力を残している様子の響が、緑間はひどく恨めしかった。少しは焦ったような顔しやがれ、と可愛げのない後輩を一瞥する。
緑間の方はもうそろそろ限界だった。肉体的にも、精神的にも。
そして何より、響が言いかけたあの言葉は。緑間の心を蝕むのに十分事足りた。彼自身もそれをよくわかっている。
負けたくはない。だが、抵抗出来るだけの力も気力も、緑間にはほとんど残ってはいなかった。あの蹴りが、緑間に残されていた最後の力だったのである。
(後輩に負けるとか、世話ねえな)
幸いなのは、赤崎がこの場にいなかったことだ。こんな姿、絶対にあの幼なじみだけには見られたくないと本気で思う。
「…ほら、やっぱり。あの人がいないことは致命的ですよ」
そんな緑間の様子を見兼ねて響が言った。まるで、初めから用意されていたシナリオを読んでいるかのように。
「一つ、言っておきますよ。祭さん」
響が素早く間合いを詰めて、緑間に足払いをかける。抵抗する力が残っていなかった緑間の体はあっけなく揺らぎ、地面へと倒れこんだ。
「俺はあんたに負けたんじゃねえ」
背中に走った衝撃に、緑間は一瞬目を瞑った。起き上がろうと腕に力を入れたが、それは容易く響の手によって押し戻される。緑間は、再び地面と背中をくっつける破目となった。
響に乗っかられ、ますます身動きが取れなくなる。
「俺は、あんたら二人に負けたんだ」
それは確かに、その通りであった。
「そりゃあ…そうだな。確かに、そうかもしんねえ…いや、かも、じゃねえか」
緑間はまっすぐに響を見上げる。いつもは見下ろすばかりだから、それが少し新鮮だった。居心地悪そうに響が目を反らす。
「否定しないんですね」
否定しないんですね、か。
「否定しようがないだろ。それは紛れもなく、事実じゃねえか」
そう、今更否定しようだなんて思わない。赤崎がいた頃でも、そしていなくなった後でも、それは確かに緑間にとって事実だった。
いつだって隣りには赤崎がいた。赤崎がいたから、緑間はどんな時も諦めず、そして何事にも臆することなく立ち向かうことができたのだ。全て赤崎がいたから。
響達に勝つことができたのだってそう。本当に、響の言うとおりだった。
(俺が響に勝ったんじゃない)
静がいたから勝てたんだ。
「俺は…一人じゃなんにも出来ねえ。あいつがいないと、なんにも出来ねえんだよ」
俺の負けだ、と情けなく緑間は笑う。傍から見ればそれは、どうしたってこの状況下で浮かべる笑みではなかっただろう。響は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目を細め、端整なその顔をくしゃくしゃに歪めた。その目には、悲しみが潜んでいるように見える。
「それがあなたの答えですか」
「あ?…答え?」
「本当は、成仏なんてしてほしくないんでしょう、静さんに」
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
(俺と、同じ…)
どうして、どいつもこいつも揃ってそんなことを言いやがるのか。実に断定的な、今一番俺が聞きたくないと望んでやまないその言葉を、どうして。
その問いかけに対する答えが、初めから解答用紙に記されていたことは知っていた。だが、どうしても、自分はその解答用紙に書かれた答えを見ることが出来ないでいる。
「揃いも揃って、なんだってそんなこと言うんだよ。関係ないだろ…なあ、響…関係ないんじゃ、ないのかよ」
声が震えた。柄にもなく泣きそうで、そんな顔を後輩に晒すことはプライドが許さなかったから、緑間は自分の腕で顔を覆った。
どうしてこう、揃いも揃って、人の急所を抉ってくるのか。
「このままじゃ、結局やっぱり、静さんも祭さんも前に進めないから」
頭上から降ってきた響の声は、緑間の声とは段違いに泣いていた。そうすると自分だけ顔を隠しているのが馬鹿らしくなって、緑間は何秒と立たずに腕を退ける。
見上げた響は今にも泣き出しそうな顔をしていて、目が真っ赤に充血していた。
目を見ればわかる。―こいつは響だ。
「ひび、き…」
「このままじゃ、いつまで経っても静さんは成仏出来ないんですよ…僕らのせいで」
「――は、」
間抜けな声が口から飛び出す。成仏できない?静が?どうして?
(俺達のせいで?)
「なんだって…?そりゃ一体、どういう」
「もうとっくに気づいているでしょ、祭さん。あなたは実に聡い人だ」
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
そう、本当は。
それを言われた時に、薄々気づいてはいた。
(ああ、そうだよ)
本当は、成仏なんてしてほしくない。幽霊のままでいいから、一緒にいたかった。もっと、ずっと、ずっと―一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怒って、それから。
俺はただ、一緒に生きたかったんだ。
「僕、静さんと祭さんを見ていて思ったんです」
ぽた、と緑間の頬に水滴が降ってきた。勿論それは雨などではない。今日は一日中快晴だった。ならばこの、頬に落ちてきた水のようなものは一体なんだろう。
響の涙だった。
そしてどうしてか、つうっと緑間の目尻からも涙が一筋流れた。
「《未練》って、死んだその人じゃなくて、生きている人が持っているものなんじゃないかって」
―そう、きっと、本当に未練があったのは、静じゃなくて俺の方だった。
響はおそらく、そのことを遠回しに伝えようとしてくれていたのだろう。他人に干渉することを好まない彼が、不器用なりにまっすぐ。
おそらく響は、赤崎を失った緑間の悲しみを一番理解している。もちろんそれは、緑間の憶測でしかないけれど。
響にはたった一人の肉親とも言える、血を分けた双子の妹がいる。生まれる前からずっと一緒だった、響のことを世界中で誰よりも愛してくれる、彼にとって何よりも代えがたい大切な存在だ。そしておそらく琴乃も、響のことをそう思っている。
緑間も赤崎のことをそう思っていた。生まれる前から一緒だったわけではないし、ましてそういった、むず痒くなるような愛を注いでくれたわけではないけれど―緑間にとって大切な存在であったことに変わりはない。それはきっと、青子よりも。もっとも、赤崎がどう思っていたのかはわからないが。
そして緑間は赤崎を失った。緑間にとって大切な存在であった赤崎は、緑間を生かす為になくなった。それは緑間にとって、耐え難いほどの痛みを伴った。
たとえばもしも。
それが赤崎と緑間ではなく、響と琴乃であったなら。
もしも赤崎が琴乃で、緑間が響であったなら。もしもあの日、琴乃が響を庇って命を落としていたら。響が残されていたとしたら。
響もおそらく迷うだろう。どうしてあの時気づけなかったのか、やっぱり一緒に帰っていればよかったんだと後悔するだろう。琴乃が死んでしまったのは自分のせいだと、嘆くだろう。
後を追おうとして、結局死に切れなくて、どうすればいいかわからなくなって、きっと迷子になってしまう。そうして突き当たってしまうのだ、今緑間が直面している壁と、全く同じものに。
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
成仏なんてしてほしくないに決まっている。響にとって琴乃は何よりも、自分の命よりも大切な存在であったのだから。
まして響は、緑間同様霊が視える。だったら尚更、たとえ霊であっても共に在りたいと―そう願ってしまってもおかしくはない。
だから、緑間と響は同じなのだ。少なくとも緑間はそう思う。何にも代えがたい大切な存在がいるからこそ、その存在を失ってしまった時の悲しみを、目を背けたくなってしまうほどの現実も、その人がいないという虚無感と喪失感を、一緒にいたかったと嘆く未練も。響は自分に置き換えて、理解していたはずだ。
だからこそ、今緑間が見上げる相手は、響以外ありえなかった。
「僕達がいます」
響が、か細い声でそう言った。
響は傍から見てもわかるほど緑間に懐いていたし、尊敬もしていた。だが、それと同時に、赤崎のことも尊敬していたのだ。どちらも同じだけ。
天秤にかけては釣り合うほど、どちらのことも尊敬していた。当たり前だ、彼は二人に負けたのだから。
「あなたは一人じゃない。祭さんを大切に思う人はたくさんいます。たくさんいるんです。青子さんも、優も、琴乃も…僕だって」
響には、緑間と同じように“人ならざるもの”を視る力がある。それはつまり、緑間に憑いている赤崎の姿が視えているというわけだ。そしていち早くそれに気がついた響は、平行を保ち続けていたその天秤を、傾けることに決めたのだろう。
「だからお願いです」
(ああ、そっか。気づいてたんだな、響)
姉ちゃんですら気づかなかったそれに。お前は気づいて―気づいて、くれたのか。
お前はそれを確かめる為に、俺にケンカを売ってきたんだな。ったく、聡いのはお前の方じゃねえか。
(お前は、つけたくもない優先順位をつけてまで、俺に伝えに来てくれたんだな)
―死んだ静のことも、生きてる俺のことも、両方助けるために。
そっと響に手を伸ばし、緑間は頬を伝うその涙を拭ってやった。ふわりと微笑むと、響は目にいっぱいの涙を溜めてぎゅっと緑間の手を握った。
「お願いだから、祭さんまで…いなくならないで下さい」
いなくならないで下さい。響が言ったその言葉の意味も、今ならよくわかる。
(いや、違うか)
本当は、あいつと再会したあの日から、俺はずっとわかっていたんだ。
もしもこのまま静がこっちに留まり続け、俺の気持ちが変わらなければ。
(俺は…俺も、こっちにはいられなくなる)
これが、精神世界でもう一人の俺が言わなかった忠告の正体だ。
もしもこのままの状態が長引けば、遅かれ早かれ俺が死ぬっていう、忠告だった。
その理由も、そうならない為の方法も、俺はちゃんと知っている。そして響の“いなくならないで”は、俺のそれを知っているからこそ、静を成仏させたくないという気持ちを捨て、俺の未練を断ち、俺が死なないように静を成仏させて解放してくれ―と、そういう意味だった。
俺の命を助ける為に。
そして、自分の意思とは関係なしにこっちに縛られてしまった静を、成仏という手段で助ける為に。
これが俺と静の両方を助ける為の方法で、それは同時に、俺と静の永遠の訣別を意味している。
(本当は)
本当はあの日―静と再会するほんの少し前、ちょうど空が泣き始めた頃。
俺は死ぬつもりだった。
何もかも忘れたくて、こんな空しい世界から消え去りたいとそう思った。
でも、結局死ねなかった。俺は今こうして生きている。
それは静に生かされたから―じゃない。
『おはよう、祭!』
『うわっ。やめてくださいよ、祭さん!』
『まつり先輩!構ってください!』
『あなたは本当に馬鹿ですか…祭先輩』
―こいつ等の顔が、頭を過ぎったからだ。
緑間の目に、再びじわりと涙が浮かぶ。
一瞬でも迷ってしまった。青子に、響に、琴乃に、優に、もう会えなくなってしまうのだと、一瞬でも思ってしまったから。そしてその、ほんの一瞬の迷いと躊躇いが、彼にその機会を永遠に失わせてしまった。
だからこれは、言わば俺が死ぬことの出来る、唯一最後の手段でもあった。
(このままの状態を保てば、俺は)
「静さんがいなくなって、祭さんまでいなくなったら…僕は…僕、は」
緑間は優しく、宥めるように響の頭を撫でる。逆の立場なら、おそらく緑間の方が響にこう言っていたのだろう。お前までいなくなったら、と。
「…泣くなよ」
「祭さんだって、泣いてるじゃないですか」
言われなくとも、頬を伝う生温かい何かの存在に、緑間は気づいていた。それでも彼は、顔をくしゃくしゃに歪ませている響とは対照的に、いつものように笑うのだった。
「知ってるよ」
ありがとな、響。こんな俺の為に泣いてくれて。
降り注ぐ月明かりは、冷たくもなければ温かくもなく、かといって怖くもなければ優しくもなく。
ただただ、二人を見守る静寂となった。
第三章 第四話 「出発」
チュンチュン。チュンチュン。
絶え間ない鳥のさえずりが、緑間の意識に溶け込んでいく。
だが、覚醒にはまだほんの少し足りない。緑間は目を瞑ったまま、まだ起きたくないと唸り声をあげる。あともう少しだけ、夢の狭間を行き来していたい。
ふと、あたたかい感触が頬に触れた。それは何度も緑間の顔を行ったり来たりしながら、ゆっくりと上方へと上がっていく。どうやらその温もりは、緑間のとげとげしい茶髪が目的であったようで、ぽんぽんと頭が撫でられていることがわかった。優しくゆっくりと、労わるように髪が梳かれる。
とても気持ちが良い。
「…ん」
「あ、」
緑間はゆっくりと目を開ける。第三者から見ると、引かれかねない至近距離に赤崎の顔があった。どうやらというかなんというか、予想通り、先ほどから緑間の頭を撫で回していたのは赤崎であったようだ。一回目とは立場が逆だと、緑間は小さく笑った。
「?なんで笑うのさ」
「いーや、なんでも…はよ、静」
「ん、おはよう」
緑間はベッドから体を起こし、んーっと大きく伸びをした。そして朝の空気を全身に取り込む為に、カーテンを開けて窓を開放する。とても良い天気だ。快晴である。
緑間はすうっと息を吸い込み、大きく吐いた。
「―よし、」
そして、パンっと両頬を叩き、気合を入れ直した。
「はい」
旅路(?)の荷物を肩にかけ、身支度を整えて一階のリビングへ向かうと、何やらアルミホイルに包まれた温かいものを姉に手渡された。形といいこのアルミホイルといい、緑間の頭にはおにぎりが思い浮かんだ。
「朝ご飯、食べないで行くんだろうって思ったから作ったのよ。あまり形は良くないけどね」
確かにそのつもりだったので、それを見抜かれた緑間は目を丸くした。
そして受け取った、ほんの少し不恰好なおにぎりに緑間は目を向ける。どうやら全部バレていたようだ。姉の優しさが胸に沁みる。
こういう時、改めて愛されていることを実感する。
「サンキュー姉ちゃん」
美咲が困ったような笑みを浮かべて頷いた。
玄関まで見送ってもらい靴をはいたところで、緑間は彼女に優しく抱きとめられる。美咲の額が、そっと緑間の肩口に押し付けられた。
「姉ちゃん?」
「心配はしてないわ。信じているもの」
昔のあなたは、周りを心配させる天才だったけれど、と美咲が小さく笑った。それに対し、緑間は「昔のことだろ」と拗ねたように口を尖らせる。否定出来ないことが悔しかった。
美咲が静かに体を離す。
「いってらっしゃい、祭」
そう言って微笑んだ彼女は、緑間から目線をずらし赤崎と向かい合う。見る者によっては、彼女の目は悲しげに見えたかもしれない。
「この子のこと、よろしくね」
一瞬驚いたような顔をして、それでもなんとか頷いた赤崎のことを、緑間は何も言わずじっと見ていた。
(―よろしくね、なんて言ってくれるな)
そんな簡単に、俺のことを、任せるだなんて。
こいつがまた、俺を庇って死んだりしたらどうすんの。
「任せてください。必ず僕が、祭をここに帰しますから」
だが、そんな緑間の心中を察したのか、赤崎が躊躇いなくそう言った。不覚にも涙が出てしまいそうになったものだから、緑間はぶんぶんと首を横に振って美咲に背を向ける。
「そんじゃ、行ってくるな!姉ちゃん!」
八月二日の、午前九時二十五分のことであった。
***
ブブブブ、というバイブ音と聞きなれた着信音に目を覚ました青子は、「うーん」と唸りながら目をこすってスマホを操作する。メールを一件受信。差出人は見知った幼なじみである。
こんな朝早く(というにはおこがましい時間)に何用かと、青子は意識半分にメールを開く。そこにはたった一言、「いってくる」と文字が並んでいた。
「んん…?」
(いってくる?いってくるってどこに?どうしてそれを私に?)
しばらくの間青子はぼんやりと考えていたのだが、何度もそれを繰り返すうちに徐々に目が冴えていき―
「え…っ」
彼女がその短い本文の意味を理解したのは、そのメールを受信して十分ほど経った頃だった。
「青子、怒ってるんじゃない?今頃」
交通手段は、電車かバスかで迷って結局電車を利用することにした。緑間自身、バスを好ましく思っていないことも理由の一つである。
電車の出発時刻は午前十時八分。これに乗り遅れてしまうと、次の電車まで小一時間待たなくてはならない。もっとも、彼の家から駅までの距離というのは、歩いて十五分程度のもので、特に間に合わないなどという問題は発生しないだろうが。
緑間は腕時計で時間を確認しながら、駅までの道をいつも通りの速さで歩く。そして、「はあ?」と先ほどの赤崎の言葉について怪訝な顔をした。
「なんで青子が怒んだよ」
「たった一言、しかもメールで済ませておいてよく言うよ。誰がどう見ても軽いじゃないか」
やれやれといった風に呆れ顔で赤崎は首を振られたが、緑間はメールの何が悪いんだとぶつぶつ文句を言う。仕方ないだろ、と腕を組んだ。
「あいつがそんなんで怒るか。そこまで小さい女じゃないだろ」
「だからそれは…」
と、赤崎が言いかけた矢先、緑間のスマホが鳴った。ちょっと待ったと赤崎に言って、ポケットからスマホを取り出す。ディスプレイを確認し、そこに映っていた名前を見て緑間の動きが一時停止した。赤崎が画面を覗き込んで、嫌味たっぷりの笑顔を浮かべる。この悪霊め。
「どうやら祭の予想に反して、随分小さい女の子だったらしいね」
「…うっせえよ」
とりあえず、通話ボタンを押して電話に出た。
『遅いわよ、バカ』
第一声がこれだ。確かに電話に出るのが若干遅れてしまったのは事実だが、たとえそうであったとしても、ここは普通「もしもし」や「おはよう」から始まるべきではないだろうか。それにも関わらず、“遅いわよ、バカ”。しかもバカ。
声のトーンから、彼女が若干怒っているということがなんとなく伝わってきて、緑間はとりあえず謝っておいた。
『たった一言、しかもそれをメール如きで済まそうだなんて、甘いんじゃないの?』
彼女―もとい青子は、赤崎と全く同じことを言ってきた。緑間はといえば、「あー」と決まり悪く言葉を濁している。
「…悪かったよ」
二度目の謝罪を口にした。我ながら、安い謝罪だとは思う。
『嫌』
そしてやはり、安い謝罪には安いなりに誠意が足りなかったのだろう。あっさりと一蹴されてしまい、緑間は溜息をついた。この女は、物分りが良いくせに時々こんな風に駄々をこねる。
「嫌ってお前なあ…」
じゃあどうしたら許してくれんの、と渋々緑間はそう聞いた。何故、メールで済ませたことをここまで非難されなければならないのか…むしろ連絡を入れたことに対して褒めてほしいくらいだった。
まあ、それを言ったらややこしいことになことはわかりきっていたので、緑間は敢えて口にはしなかったが。
何も言わない青子に、「おい?」と緑間は訊ねる。「じゃあ」と、どこか決心を固めたような意気込みの口調で、彼女が言った。
『帰ってきたら、一緒に遊園地に行きましょ。それでチャラにしてあげる』
「ゆ…遊園地ってお前、また随分突拍子のないことを…」
遊園地。そういえば最後に行ったのは高二の修学旅行の時だっただろうか。その前にも確か、中学時代の修学旅行で行ったことはあったが、思い返せば遊園地へ行くという機会は、今までその二回しかなかったような気がする。
『で、どうなのよ』
緑間は、にやりと笑った。
「俺とお前の二人だけで、っていう条件を飲むなら、行ってやってもいいけど?」
これはまあ、世間一般でいうところのデートというやつだった。少なくとも緑間は、そのつもりで彼女に提案している。
そしてそれは電話の向こうにいる青子も同じで、緑間の顔が若干赤みを帯びたのと同様、彼女の顔も真っ赤に染まっていたのだけれど。
『…言われなくても、初めからそのつもりよ』
「じゃ、決まりな」
電話をしつつも、緑間と赤崎は歩みを止めてはいない。そんなことをしていたら、電車の時間に間に合わなくなってしまう。
それからしばらく沈黙が続いた。ながら動作をあまり好まない緑間は、用件はそれだけかと言おうかと思ったが、結局思い留まって口を閉ざした。黙って青子の言葉を待つことにしたのだ。
緑間の中ではもう、彼女に対して言う言葉は決まっていた。帰って来た時に言う言葉も、次会った時に言う言葉も、その遊園地に行った時に言う言葉も、もう全て彼の中では決まっている。
だから後は、青子の言葉を待つだけだ。
『…気をつけて』
「おう」
『…あと、最後に一つだけ。必ず八月七日までには帰ってきて』
「あ?」
『いってらっしゃい』
最後に一つ、と言われて続いたそれに若干気を取られはしたが、それは一瞬のことで。青子の「いってらっしゃい」という言葉は、それなりの威力を伴って緑間の急所を抉った。
この時やはり、「いってくる」と本人に直接言いに行かなくてよかったと緑間は思った。
彼女に会っていたらきっと、決心が鈍っていただろうから。
「…ただいまはちゃんと言うから、今は電話(これ)で我慢してくれよ」
『え?』
緑間の小さな呟きは、どうやら彼女には届かなかったようだった。まあ、それもありだろうと緑間は思う。おそらくこれは、彼女にとって聞く必要のない言葉だったのだろう。ならばそれを繰り返す必要はない。
今はただ、この言葉を重ねるだけで。
「いってくる」
***
電話を切り、ふうと息をつくと青子は後ろから声をかけられた。
「よかったんですか、見送りに行かなくて」
「あら響、おはよう。もしかして起こしちゃった?」
いえ、そんなことは。と響が言った。確かに、今さっき起きたにしては些か目が冴えすぎているように見える。おそらく響は初めから起きていて、幼なじみとの会話は筒抜けだったんだろうと青子は推測した。
夏休みに入ってすぐ、青子も後輩達に混ざって赤崎の家に泊まりこむようになった。幸いまだ電気やガスは通っているので、当面は生活する上での問題はない。それに、泊まる期間もあと一週間とないのだ。八月七日で、全てが終わるはずなのだから。
赤崎の家はというと、今は割としっちゃかめっちゃかな状態で、幾重にも重なり合った布団がリビングの三分の一を占めている。そしてその三分の一を利用して、青子を含む四人は毎日雑魚寝状態であった。
初めは響と優も渋っていたが、その状態が何日も続くともうどうでもよくなったらしく、今では仲良く一緒の布団で寝ている。
この後景を見たらどう思うかなあ、と青子の頬が緩んだ。
隣りの部屋にはベッドは三つあったのだが、一つは赤崎のものであることに変わりないものの、もう二つはどうやら赤崎の両親が使っていたものらしく、どうしてもベッドで寝る気にはなれなかったのだ。
どうして未だにこんなベッドが残っているのだろう、と青子も不思議に思った。ベッドだけでなく、日用雑貨はほとんどそうで、どうやら赤崎はこの家を、両親がいなくなったあの日のままにしていたらしい。
ベッドが三つあるのも、つまりはそういうことなのだろう。ずっと一緒にいたというのに、青子はそれに今まで気づいていなかった。
―もしかしたら、ある日突然「ただいま」と帰ってくる望みを、赤崎は捨て切れていなかったのかもしれない。
人を恨み続けることは、難しいから。
「青子さん?」
響が顔を覗き込んでくる。相変わらず可愛い顔をしていると思っていると、その可愛い顔には似つかわしくないものが窺えて、青子は目を見張った。響の額に手を伸ばし、刺激を与えないようにそれに触れる。
「おでこ、切れてるじゃない。血はもう固まっているみたいだけど」
よく見ると、顔にはまるで殴られたかのような痣も出来ていて、痛々しくも紫色に腫れている。目も充血していて、響はどこか疲れているような顔をしていた。
青子は、響が昨晩少しの間だけ家を出ていたことを知っている。その前に、自分もよく知っている人物と電話のやり取りがあったことも、自分達を起こさないようにと最善の注意を払いながら家の鍵をかけたことも、全て知っていた。
帰って来た時間はそれほど遅くはなかったものの、「痛てて」と言いながら再び寝床についた響を、青子は怪訝に思ってはいたのだが―まさか、ケンカでもしてきたのだろうか。
そうなると当然、顔だけでなく体中に怪我を負っている可能性もあるだろう。青子は心配に思ったが、それを確認するのは自分の役目ではないと判断し、あえて触れないでおくことにした。
そっと響の頬に触れる。微かに涙の跡が残っていて、青子はきゅうっと目を細めた。そして、「はあ」と大げさに溜息をつく。
「全く、あんまり生傷を増やすんじゃないの。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」
「あはは…」
青子は布団から出て、救急箱を用意する。そういえば、救急箱の場所が木棚の上にあるところも、昔から変わっていない。一応中を確かめたが、湿布にテープ、絆創膏に消毒液、ガーゼなど、今必要なものは全て入っていた。使われた形跡はあまりない。
ぱたりとふたを閉め、再び響の元へ歩み寄る。
「あんまり心配かけるんじゃないの。私達は本当に、響のことを大事に思ってるんだから」
「容赦なくぶっておいてそれ言いますか」
「それはそれ、これはこれ」
言いながら、青子はちらりと横目で、狸寝入りを決め込んでいる優を見やった。
そう、実のところ優は既に起きている。響の方はどうやら気づいていないようだが、青子が電話を切った頃にはもう眠りから醒めていたのだ。
何故起きてこないのか―響の体中にあるであろうその怪我を、一刻も早く手当てしたいと思っているのは、優だろうに。
まあ、大方起きるタイミングを逃したのと、青子に気を遣っているというのが理由だろうが。本当に、変なところで義理堅いというか律儀というか。そういう彼の性分を、決して青子は嫌ってはいなかった。
「…わかってますよ」
しばらく沈黙を保っていた響が口を開いた。その言葉が、先ほどの自分の言葉に対する返事だと気づくのに、約十秒。
その目はとても真剣で、まっすぐで。一瞬緑間を連想したくらい。
「僕の体は僕のものだけど、僕だけのものじゃない…そう、教えてもらいましたから」
にっこりと屈託なく響が笑った。
(どうしてだろう)
響の言葉は、何故だかとても胸に残る。青子にとってそういう相手というのは、今までずっと二人しかいなかったのに、だ。
(…不思議な子)
まるで、二人の幼なじみを見ているようだった。顔も声も性格も、何もかもが違うというのに、どうしてか響が、赤崎と緑間に被って見えることがあった。
周りを寄せ付けないように自分から線を引くくせに、その線を踏み越えて本当の自分に手を差し伸べてくれる誰かを、いつも寂しそうに待っていた赤崎。誰かに縋ることも、頼るどころか弱みさえ全て一人で抱え込んで生きてきて、他人を上手く信じることができなくなった静。
周りと自分との間に一切の距離を作らず、いつもまっすぐにぶつかっていた反面、同時に本当に心の底から信頼している人しか立ち入ることの出来ない領域も、自分の中に作っていた緑間。やっぱり自分から助けを求めたりはしないけれど、彼には誰かに手を差し伸べることが出来る勇気があった。きっと、その手でたくさんの人を、知らず知らずの内に救ってきたに違いない、決して他人を裏切らない祭。
足りないものを、互いに補ってきた二人。
どうして響が、そんな二人と被って見えるのか。青子には、この時はまだわからなかった。わからなくてもいいと、そう思った。
「生意気。じゃあ怪我しないでよ、もう」
くすくすと青子は笑った。それはちょっと約束し兼ねます、と困ったような顔で響も笑う。
「救急箱はここに置いておくわ。好きなように使って構わないと思う。だからちゃんと消毒して、湿布貼ってあげるのよ、優」
え、とその言葉に響が目を見開く。ぎくりと、優の動揺を表すかのように彼のかぶっている布団が動いた。どうやら本人も、バレていたとは思っていなかったらしい。
本当は黙っておくつもりだったが、気が変わって無性に優に意地悪をしたくなったので、青子は狸寝入りを決め込んでいる後輩の布団をばさりと剥いでやった。案の定、優は起きている。
「私は寝るわ。お昼になったら起こしてちょうだい。それじゃあお休み、二人とも」
「あ…」
響が何かを言いかけたが、構わず青子は布団をかぶり直した。そして、少しでも早く就寝出来るように、ぎゅっと目を瞑った。
すぐ傍でカチャカチャと金属がぶつかる音が聞こえ、おそらく優が響の手当てを始めたのだろうと青子は判断する。ここからはもう、自分が立ち入る領域ではない。さっさと寝てしまおう。
「…聞きそびれちゃったな」
白濁した意識の中で、最後に青子が聞いたのは響のそんな呟きだった。
『よかったんですか、見送りに行かなくて』
―行けばきっと後悔するだろう。後悔していたに違いない。
(だってやっぱり、行ってなんてほしくない)
それを口に出して、行かないでと引き止める。それだけは嫌だった。道を塞ぐことはしたくなかった。
けれどその反面、大切な幼なじみ二人が傷つくところは見たくない、そんなのは見過ごせないという気持ちも確かにあったのだ。お節介かもしれないけれど。
だが、傷つくとわかっていてそれでも。二人はそれを望んでいる。
だからどうしても、青子は見送りに行けなかった。
『私は…一緒には行けないのね』
あんなことを言っておきながら、結局一緒に行く勇気などなかったのだ。待っていてくれと言われた時、内心ほんの少しだけほっとしていた。聡い彼はきっとそれに気づいていたのだろう。だから、一緒に来いとは言わなかったのかもしれない。
見送りに行かなかった理由、それは。
笑顔で手を触れる自信がなかったから。
(静…祭、)
ごめん。それと、頑張って。
そうして彼女は眠りについた。
「聞きそびれたって、何を」
響の小さな呟きを拾った優が、青子の置いていった救急箱をありがたく漁りながら仏頂面でそう言った。ご機嫌ななめな様子の優を見て、響は苦笑いを漏らす。
青子に言われなければ、おそらく優が起きていたことには気づいていなかっただろう。彼が目を覚ましていたことに、響は純粋に驚いていた。いつもの自分なら気づいていたに違いない。だが、現に響は気づけなかった。それはおそらく、
(気を…緩ませすぎているのかな、やっぱり)
響は、新たに見つけた小さな変化を微笑ましく思いながら、なんでもないと首を振る。
すると、てきぱきと救急箱から中身を取り出していた優の手が、ぴたりと止まった。
一瞬のことだった。
そう、「壊す双子」などと呼ばれていた響が、全くといっていいほど反応できなかったくらいには。
突然優の手が伸びてきたと思ったら、そのまま勢いよく響は床に組み敷かれた。まあ、床といっても敷布団がひかれている場所だったので、それほど大きな衝撃は受けなかったのだが。おそらくそれは、意識的にしろ無意識にしろ、彼の優しさだったのだろう。
だが、そんなささやかな優しさとは対照的な、鋭く上から睨みつけてくる優に、響は驚いていた。
「この期に及んで、まだ俺に隠し事か」
怒っている―というより、責めているという表現の方が正しい双眼に、響は息を呑む。その物言いから察するに、どうやら彼も響が昨晩家を出たことに気づいているようだった。心配をかけないようにと最善の注意を払って家を出たというのに、これではまるで逆効果ではないか。
「俺は…お前らに、信頼されているんだと思ってた。先輩達の言う特別な繋がりがあるんだと…馬鹿みたいだと笑われてもいい。本気でそう思ってたんだ。でも、」
お前は昨日、何も言わずに一人で行った。優はそう言う。それは確かにその通りだった。
たとえその裏側にどんな理由があったとしても、それは間違いなく弁解の余地もない事実である。だから響は、言い訳はしない。
「どうして一人で行った?」
「…それは多分僕にしか出来ないことで、僕ができる唯一のことだったから」
「違う、そういうことを言ってるんじゃない」
優は首を横に振った。
「なんで一言も、俺や琴乃に相談していかなかったのかと聞いてる」
「それは…」
おそらく緑間がそれを望まないだろうと思ったからだ。彼は自分の弱さや迷いを察せられること、悟られることを極端に嫌っている。
それに緑間の“それ”を話してしまえば、それに同調して優や琴乃―何より青子の方が、赤崎を現世に留めたいと思ってしまうおそれがあった。響はそれをしたくなかったのだ。
これ以上赤崎を、居心地の良い鎖で縛ってしまうことに抵抗があったし、そうなれば本格的に赤崎は地縛霊となって、緑間の命さえ危うくなってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
これ以上失いたくはない。
(僕は、今生きている人を選ぶ)
その為なら。
「お前は、いつでもそうだな」
優はどこか遠い目をしていた。近くにいるのに、手が届かない。そんな距離感を響は感じた。
「大事なことは何も言わない。自分一人で抱え込む。俺はそんなに頼りないか?」
いつもは眩しく思ってしまうほどまっすぐで強い目をしているくせに、今の優のそう顔はとても頼りなく揺れていた。長い付き合いだが、そんなことを言われたのは初めてである。
「優…」
「響、俺はな」
楽しいことも
悲しいことも
嬉しいことも
苦しいことも
全て分かち合うことの出来る―
「お前の親友になりたかったよ」
響は目を見開いた。
濁りのないまっすぐな言葉が、渇いた心に沁みこんでくる。
(お前は、いつでもそうだね)
いつもまっすぐ、遠回りも回り道もしないで一直線に向かってくる。僕なんかと違って、回りくどいことは一切しない。お前はいつでもまっすぐだ。僕の隣りにいることが、相応しくないくらい。
ぽた、と何かが響の頬に降ってきた。何かと言うのは野暮な話だが、見上げた優の目には、予想通り涙が溜まっている。
(…ああ、人って)
こんなに綺麗に泣けるんだ。
「泣くなよバカ。綺麗だけど」
「泣いてない。それに俺は男だ」
「でも、綺麗だよ。多分僕は、優の泣き顔がこの世で一番綺麗だと思う」
「…嬉しくない。それにこの世で一番とか、お前大袈裟すぎだ」
「大袈裟なんかじゃない。実際綺麗だし、なんか感動した。そう言われるの、嫌いか?」
「…嫌いだ。姉さん達を思い出す」
「怒った?」
「怒ってる」
「ごめん」
「……」
しばらく沈黙が続いた。先ほどとは打って変わった、穏やかな静寂だ。
やがて優は諦めたように溜息をつき、響の上から退いた。そして何も言わず、黙って手を差し出してくる。怒りはどうにか収まったようで、どうやら手を貸してもらえるようだった。
響も何も言わず、その手を取った。
「…まずはその、目立つ額から手当てする。異論は」
「手当て、してくれるんだ」
少しだけ驚いていた。てっきり放置されるのだとばかり思っていたからだ。そう言うと、ふん、と優はそっぽを向いた。
「お前の怪我の面倒を見るのは、俺の仕事だ」
「はは、違いない。世話をかけるね」
「何を今更。それに、お前ならいい」
再び投下されたまっすぐな言葉に、響はきゅうっと目を細めた。
“親友になりたかったよ”
―まだ少し、今の僕には言葉にするのが難しい。
(でもいつか、)
胸を張って「親友だろ」と言えるようになりたいと、確かにこの時そう思った。
「痛たっ…す、優…もうちょっと優しくしてくれても、」
「ああん?」
「…なんでもないです」
第三章 第五話 「夢と現実」
赤崎の母方の実家は、電車に乗って小一時間程度で到着する、緑間たちが住んでいる町と比べればかなり田舎の、小さな町にある。事業に成功した、大きな財閥の社長であったと聞いているが、どういった理由でこんな田舎に身を置いているのか…緑間には皆目検討もつかない。以前赤崎に聞いたことがあったが、よくわからないと言っていた。
それに、元からこの田舎町に住んでいたわけでもないらしく、確か赤崎の両親がいなくなって一年くらい経った頃、引っ越してきたのだと赤崎が言っていたような気がする。
緑間も一度だけ、赤崎に付き添って藤黄家に訪れたことがあるが、そこでとてつもなく嫌な思いをしたのだろう。何故だかそれ以来、頑なになって行くことを拒んだ記憶がある。
そして、とてつもなく嫌な思いをしたことだけは確かなのだが、緑間はどうにもそれが思い出せないでいた。その時の記憶だけ、ぽっかり抜け落ちてしまっているのである。まあもっとも、嫌な思い出をわざわざ思い出す必要は、そもそもないのだが。
電車の中では互いに沈黙を保ち、テレパシーも遮断して、緑間は無言で窓から見える景色を眺めていた。両者共に考える時間が必要だったのだろう。
赤崎は両親のことを、そして緑間は赤崎のこと、そして響に渡された日記のことを。
日記の中身は知っている。全てを覚えているわけではないが、あれをダンボールに詰め込んだのは緑間(と青子)であるのだから、そこに書かれていた内容は、少なからず覚えがあった。だから見るつもりはない。ないのだが…
(どうも、引っかかるんだよな)
響があの日記帳を、ただ自分を挑発する為だけに渡してきたとは、どうにも思えなかった。響はああ見えて、頭は切れる方なのだ。成績は悪いが。
だから何かしらの意図があるとも緑間は思うのだが、日記帳を読もうにも赤崎への罪悪感が先立って読めずにいるのが現状だった。覗き見や盗み聞きなど、こそこそするのは彼の性分ではない。かと言って、日記のことについて赤崎に訊ねるのは、やはり気が引ける。
どうしたものかと緑間は溜息をついた。
そんなこんなで、道中およそ一時間はあっという間に過ぎていった。
電車を降り、改札を抜けて駅を出ると、一時間ぶりに触れる外の空気が心地よくて、緑間は大きく息を吸った。さすが田舎と言うべきか、駅にも人はあまりいなかったが、外にも人はあまりいなかった。
車通りも少ないのでとても静かだったが、田舎独特のこの静けさが彼は嫌いではない。むしろ好んでいるくらいだ。
都会にはない澄んだ空気、綺麗な青空、緩やかな時間の経過。
忘れていたもの、失くしたもの、全てが鮮明に自分の元へと還ってくるような感覚だ。
もっとも、彼が失くしたもの―赤崎静がかえってくることは、ないのだろうけれど。
「ここから先は、お前が道案内してくれよ。俺もう覚えてねえし」
緑間はどちらにしようか迷って、結局テレパシーは使わないことにした。人も少ないし、おそらく問題はないだろう。
ん、と赤崎が頷いた。この幼なじみの記憶力は超がつくほど悪いので、道を覚えているのか緑間は多少不安に思ったわけだが、どうやらそれは杞憂だったようである。
実は自分が知らないだけで、割りと祖父母の家にお邪魔していたりしたんだろうか、と何気に緑間はそんなことを思った。
「んーまあ、最後に行ったのは確か二~三ヶ月くらい前だけど、それより前は、一週間に一回くらいのペースで行ってたよ」
その何気ない疑問に対する返しが思った以上に意外で、緑間は目を見張った。一週間に一回って。そんなに行く時間がいつあったんだと緑間は思う。一年に一回行っていれば良い方だと踏んでいたのだが、意外と親孝行、改め祖父母孝行なところがあったようだ。
ああ、でも、そういえば。
まだ親というものが、赤崎にとって意味を成していた幼い頃でさえ。
(割と親孝行な奴、だったもんな)
そうでもないけどねと、赤崎はいたって平坦にそう言った。無表情である。
「ただ、定期的に顔を見せる条件でこうやって…いや、ああやって一人暮らしさせてもらっていたわけだし。お世話になっていた手前強いことも言えないし、心配はかけたくなかったから」
十分孝行してるじゃねえか、と思う緑間であった。
―と、そこで。
ピキン、といつぞやのような痛みが頭を走り、ぐらりと緑間の重心が傾いた。え、と緑間だけでなく赤崎も目を見開く。
倒れるのを防ごうと赤崎が咄嗟に、幽体になったその手で緑間を支えようとしたが、その手は本来触ることができるはずの緑間の体を、容易くすり抜けた。これにもまた二人は目を見開き、さすがに今更体勢を立て直せなくなっていた緑間は、そのまま地面に倒れ伏せる―はず、だったのだが。
その時、ふわりとした浮遊感のあと、体を支える誰かの存在を緑間は感じ、頭を押さえながらも横を見た。腰の辺りまで伸びている綺麗な黒髪が、視界の端を過ぎった。
どうやらその人物は、緑間の左腕を引いて上体を起こしてくれたようだ。
「……?」
「大丈夫?」
未だに足元が覚束ず、中腰だった緑間の頭上から、そんな声が降ってきた。緑間はその声に目を見開き―耳を疑った。
(そんな、バカな)
この声は。聞き間違えるはずも、聞き違えるはずもない―この声は。
「しず…か?」
逆光で顔が見えなかった。太陽が邪魔だ。ああ、意識が閉じていく。頭が痛い。
「え…あ、ちょ、ちょっと!」
気を失う直前、最後に聞いたのは―やはり赤崎の声だった。
そう、ありえないくらい鮮明な、はっきりとした声だった。
***
いつも通りの朝。
うるさい目覚まし時計を止めて、緑間は重たい体を起こし、うーんと大きく伸びをしてからベッドを降りる。
変な夢を見ていた。いや、変な夢、というより嫌な夢だった。それだけは確かだ。だが、何一つ夢の内容は思い出せない。思い出す必要はない気がする。
とにかくあれは、夢だった。
「今日は何にすっかなー」
そんな独り言を呟きながら、緑間は制服に着替えリビングへと向かう。
姉はいなかった。
どこ行ったんだ?と緑間は首を傾げる。大学?それにしては随分時間が早い。
リビングのソファには、何故かビニールをかけられている喪服が置いてあった。緑間のものである。一体どうしてこんなものが置いてあるのだろう。誰かの葬式予定でもあっただろうか。またしても緑間は首を傾げる。
何故かその理由は深く追求しない方が良いような気がして、「ま、いっか」とその一言で終わらせた。頭から疑問を取っ払う。
いつも通りお弁当を二つ作る。本日のおにぎりの具材候補は、梅・ツナ・すじこだ。おそらく赤崎ならばツナと答えるだろうが、一応確認の為電話をかける。
「…あ?」
いつまで経っても、赤崎が電話に出ることはなかった。
珍しく電話のコールで起きなかった。ただそれだけのことだろう。
仕方なく緑間は、おにぎりの具材にツナを選んだ。
もう一度電話をしてみてもやはり繋がらなかったので、若干心配になった緑間は少し早く家を出て赤崎の家へ向かうことにした。合鍵を使って中へ入る。
中には誰もいなかった。
「もう学校行ったのか、あいつ…」
折り返し連絡をくれてもいいものを、と緑間はぼそりと呟く。
テーブルには、赤い携帯電話が置き去りにされていた。
本当に、本当に気まぐれで青子の家にも行ってみた。この時間ならばまだ家にいるはずである。インターホンを鳴らした。五回。
扉が開く気配はなかった。
今日はやけに学校に行くのが早いな、とそう思った。
赤崎の家と青子の家に寄ったため、緑間はいつもより大分学校に着くのが遅くなった。八時を若干過ぎた頃である。
「はよー」
いつも通り手を挙げてクラスメイトに挨拶をする。
はずだったが、なんとクラスには誰もいなかった。隣りのクラスにはいつも通りたくさんの生徒がいるのに、だ。笑い声がやけに疎ましく聞こえた。
「インフルエンザでも流行ってたっけ?」
学級閉鎖?そんな話はこれっぽっちも聞いてないのだが。ならばボイコット?こいつ等(クラスメイト)ならやりかねないと、緑間は冗談半分にそんなことを考えた。
さて、クラスには誰もいないということだが、それでは赤崎は一体どこにいるのだろう。てっきりもう学校に来ているものだとばかり思っていたので、緑間は首を傾げる。
その時、緑間のスマホが鳴った。発信元は、今朝姿の見えなかった姉である。
電話に出た。
「もしもーし、こちら祭ー」
『…ふざけてないで、今、どこにいるの』
姉の声には心なしか怒気が含まれていて、思わず緑間は面食らってしまう。
どこにいるのって…
「学校、だけど」
『早く帰って来なさい!』
答えた瞬間、鼓膜を破らんばかりの大音量が緑間の耳に響いてきた。思わずスマホを遠ざける。
「声でけえよ姉ちゃん…」
『あんたが馬鹿なことやってるからでしょ!学校?ふざけるのも大概にして!寝言は寝てから言いなさい!今日は―』
緑間は電話を切った。
窓から覗いた空は、泣いていたように思う。
そこで場面が切り替わる。
とても広い部屋だ。そこにはたくさんの人がいた。そして、そこにいたたくさんの人は泣いていた。たくさんの人の中には、クラスメイトの姿もあった。
ここはどこだろう。見渡す限り何もない、広々とした部屋だった。目に付くのは、紫色の座布団だけである。
(この匂い…)
随分かぎ覚えのない匂いが鼻をついた。線香である。
そこで初めて、緑間は自分が制服ではなく喪服を着ていることに気がつく。真っ黒な弔いの色だ。よく見ればたくさんの人は、全員喪服を着ていた。
葬式だ。
一箇所に人が集中している。皆、淡い色の花を手に持っていた。彼らが囲んでいるのは棺だろうか。一体誰の葬式なのだろう。クラスメイトの姿があるということは、うちのクラスの誰かなのだろうか。赤崎の姿も、青子の姿も見当たらない。
写真が飾られている。おそらく棺の中身と同一人物だろう。緑間は目を凝らしてその写真をよく見た。
(―え、)
そこには、よく、見知った人物が。
ぽん、と肩に手を置かれる。こちらもやはり喪服を着ていた。姉である。
花を渡された。行きなさい、と促される。どこに? 棺の中にその花を入れてくるの、と姉が言った。目が赤かった。
緑間は棺に一歩一歩近づいていく。棺を囲っていた人の群は、緑間を通す為にあっさり割れた。
やっぱりみんな泣いていた。
泣いていないのは俺だけだった。
棺を覗く。
その人物の顔は白い布で覆われている。
その布を剥ぎ取る。
静がいた。
ぱさり、と姉から受け取った花を落とす。白い布も、一緒に落ちる。
(う…あ、ああ…)
一歩一歩、後退する。つまづいて、しりもちをついた。
頭を抱える。息が乱れる。意識が遠のく。
そうだ、静は、俺を庇って―死んだじゃないか。
「う…あ、うわあああああああああああああああああ」
夢の続きを蛇足のように引きづりながら緑間はそう叫び、ばっと勢いよく体を起こした。浅い息が繰り返される。がたがたと体の震えが止まらない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
(誰か、)
「…大丈夫?」
声がした。聞き馴染んだ幼なじみの声だ。おそるおそるといった風に、緑間は横目でちらりとその姿を確認する。
赤崎がいた。
―否、正確には、赤崎にとてもよく似た女の子がいたのである。そう、緑間のことを駅前で引き上げた人物と同一人物だ。
だが、今の緑間には何も、何も関係なかった。
くせがなく、真っ直ぐ腰の辺りまで伸びている黒髪。小柄で華奢な体躯。女性の絶対的象徴とも言える豊かな胸。おそらく制服だろうと思われるスカートから覗く、すらりとした長い脚。緑間には、全てがどうでもよかった。
ただ彼の思考は、彼女に生きている赤崎の姿を被せたのである。
「……っ」
堪えられなくなって、緑間は強引に彼女を抱き寄せた。目一杯腕に力を込めて乱暴なくらい強く、細い彼女の体を抱く。本当に、壊れてしまうのではないかと思ってしまうくらいに。
強く、強く、生きたぬくもりを抱きしめた。
「…っ!?」
彼女の方はといえば、もちろん動揺していた。当たり前である、なんせ彼女と緑間は初対面であるのだから。
彼氏でもなければ好きでもない、見ず知らずの緑間に抱きしめられて、平静を装えという方が無理だった。むしろここで力任せに殴ったり蹴ったりしなかったことが、十分褒められるくらいだろう。
もっとも、彼女の心情を今の緑間が考慮するはずもなく。まして省みるなどありえなかった。あくまで今、緑間にとって彼女は、死んだはずの赤崎そのものだったのだから。
赤崎を見誤るはずのない彼が、そんな勘違いを犯してしまうくらい―彼女は赤崎に似ていたのだから。
それはもう、致し方ないことだ。
「…静」
緑間は、涙混じりの声で名前を呼んだ。彼女は、緑間の声が泣いていることに気づいていた。
「生きてたんだな…死んだなんて、嘘だったんだろ?」
―何を、言っているのだろう。
この目ではっきり、見ていたくせに。
最後のその瞬間、確かに<それ>を、見ていたくせに。
「…馬鹿だなあ、俺。あんな、あんな変な夢を見るなんて」
―ああ、本当に。大馬鹿野郎だ。
あれは決して、夢などではなかっただろうに。
あれは紛れもなく、現実だったはずではないか。
「お前はちゃんと、ここにいるのにな」
ここにはもう、いないのに。
「…ごめん。本当は、嘘をついてあげたいけれど」
彼女は言った。嘘をついてあげたいけれど―嘘はつけない。
それでいい。
「あなたの言う“静”は、もういないよ。ここには、いない」
その言葉は、嘘でもなければ夢でもない。それが現実で、この世界のほんとう。
諭されて緑間はようやく気づく。今腕の中にいるのは―赤崎では、ない。
(……)
彼女は、一体誰なのだろう。考えて、考えるまでもなく当てはまる人物が一人くらいしかいないことに、緑間は薄々気づいていた。以前赤崎に言われた言葉を思い出す。
一番の決め手は、彼女の声が赤崎の声にそっくりだったことだ。若干赤崎の声より高いような気がするし、意識がはっきりとしていればおそらく聞き間違えることはなかっただろうが、それにしたって似すぎていた。それに、パーツの一つ一つが、どことなく赤崎に近い雰囲気を持っている。
そこから導き出せる人物というのは、一人しかいなかった。
―会うのはこれが、初めてだけれど。
「落ち着いた?」
宥めるような、優しい声音が耳を浸透する。本当に赤崎だと錯覚してしまいそうだった。
正直、辛いと緑間は思った。だがそれは、彼女に言ったところでどうにかなる問題でもないのだろう。
緑間は、きゅっと下唇を引き結ぶ。
「…悪い。嫌だったろ、知らない男に抱きしめられるなんて」
彼女が一瞬固まって―そしてゆっくりと、首を横に振ったのがわかった。こういうところが本当に、赤崎にそっくりである。
彼女の手が静かに緑間の背中に回った。優しく背中を撫でられる。まるで子供をあやすような、そんな手つきだった。緑間はそっと腕に込めていた力を抜き、彼女の肩口に顔を埋める。
彼女の善意に甘えることにした。
「…あのさ」
「いいよ」
ほんの少しだけ、このままでいさせてほしいと言うつもりが、彼女に先回りをされて言葉に詰まった。読心術でも心得ているのだろうかと一瞬思ったが、そんなはずがないことは、緑間が一番よくわかっている。
―なんせ彼女は、生きているのだから。
「あなたがそうしたいと望むなら、私の肩は貸してあげる。だから、堪えなくていいよ」
緑間は、掠れた声でありがとうと言った。
***
「久しぶりねえ、静くん」
「…うん、本当に。久しぶりかな…おばあちゃん」
同時刻。赤崎は、居間にて祖父母とテーブルを挟んで向かい合っていた。これだけ言えば普通に、孫と祖父母の久しぶりの再会だという風にとれるだろう。だが、生憎今の赤崎には肉体がなく、更に幽霊というのが現状だ。つまり、普通は赤崎を視覚することなどできないのである。
それを知らない人が見れば、この後景はかなり奇抜だったに違いない。傍から見れば、赤崎の祖母が一人で話しているようにしか見えないからだ。実際、彼の祖父はそのパターンである。
赤崎のことが視えているのは、祖母だけだ。
「びっくりしたわあ。あの子が、男の子を背負って帰ってくるんだもの。そうしたら静くんも一緒でねえ…」
「すごい偶然だったと僕も思うよ。遥が通りかかってくれて、本当に助かった」
そう、あの時―駅前で倒れそうになった緑間を助けたのは、赤崎もよく知る人物であった。否、その存在を初めて知ったのは割りと最近のことになるので、よく知るというのは表現として間違っているかもしれないが。
緑間を助け、目的地である祖父母の家まで運んだのは―三歳年下の、妹であった。
名は、藤黄遥と言い、藤黄は祖父母の苗字である。赤崎とは苗字が違うが、列記とした兄妹であるらしかった。
だが、いくら兄妹であるといっても、赤崎がその事実を知ったのはつい最近のことで、ちょうど二年くらい前のことだ。話を聞いた時も、初めて彼女と会った時も、勿論赤崎は戸惑ったし、動揺もしたし、とてもすぐには受け入れられなかった。
いくら顔が似ていても、はいそうですかと簡単に受け入れられるはずがないし、今更妹がいたなどと言われたところで、どうこうなるつもりも赤崎にはなかった。そう、本当に、初めの頃は。
いつの間にか、彼女は赤崎にとって、今まで埋まらなかった空白の一つを、埋めてくれる存在になっていた。かけがえのない大切な存在だと、今は本当に心から思っている。
つじつまが合わないと、初めて話を聞いた時はそう思った。全てが矛盾しているではないか、と。
けれど今は、つじつまが合っていなかった理由が赤崎はきちんとわかっている。つじつまが合わなかったのも、矛盾していたのも、それは全て―自分の記憶の方であると思い出したからだ。
「で、どうしたの、静くんは。お盆にはまだ少し、時間があるけれど。少しだけ早く、こっちに帰ってきたのかい」
お盆。それは、死んだ人が還ってくる日。
「違うよ、おばあちゃん」
祖母はあくまで笑みを絶やさない。反してその隣りに座っている祖父は、こめかみを押さえて、老いた体を小刻みに震わせていた。
この家の居間は、六畳ほどの和室へと繋がっている。その部屋は仏壇がほとんどのスペースを占めているため、普段は活用されていない。
線香が立てられている。
そこには赤崎の遺影と― もう一つ。
『これって誰なの?おばあちゃん』
『…ああ、それはね』
おばあちゃんにとって、とても大切な人だよ―と。いつだったか、聞いたことがある。
とても大切な人。当たり前だ、だってその人は、おばあちゃんの娘だったんだから。
そしてその人は、僕にとっても大切な人…だったんだと思う。
「…僕の母さんに、会いに来たんだ」
だってその人は、僕の母さんだったんだから。
「…そうかい」
祖母はどこか悲しげに微笑んだ。まるで全てを初めからわかっていたかのように。
第三章 第五話 「そしてさよならの準備を始める」
緑間が次に目を覚ましたのは、空が大分赤みを帯びている頃だった。
ゆっくりと体を起こすと、右手を何かにくいっと引っ張られる感覚があり、なんだろうと目を向ける。
そこには、緑間の手をぎゅっと握りながら眠っている女の子がいた。器用に座って寝ている。きっちり十秒固まってから、緑間は首を傾げた。
(どっかで見たことある顔だな…)
割と身近にこんな顔した奴がいたような…んん?てか、ここどこだ?俺ん家じゃないよな。なんで俺、こんなところにいるんだ?
「目、覚めたみたいだね」
その声がした方を向く。緑間の首は存外忙しかった。
目を向けた先には赤崎がいて、そこでようやく緑間は合点がついた。
「お前に似てるんだ」
「は?」
いきなり脈絡のないことを言われた赤崎としては、首を傾げる他対処する術がない。緑間の方は、彼女と赤崎とを交互に見比べて、満足そうに「うんうん」と頷いた。
「いや、こいつさ…どっかで見たことあんなーって思ったら、そう、お前だったんだよ。こいつ、お前にそっくりなんだ」
「ああ…うん。そりゃあね。似ているところもあるとは思うよ、妹だし」
「妹か…そうか、妹…あれ、嘘じゃなかったのな…」
“実は僕には妹がいたらしいんだ”―などと言われたのは、確か高校一年生の頃だ。突然で脈絡がなかったし、到底信じることなどできなかった緑間は、あの時は冗談だろうと適当に相槌を打った。
(まさか本当に…)
妹がいたとは。
「まあ、祭は多分信じてないだろうなって思っていたけどね。僕もそれでいいかって思っていたし。いつかはちゃんと紹介しようと思っていたんだけど、まさかこんな形で会わせることになるとは思ってなかったよ」
「そりゃこっちの台詞だ…」
だんだんと思い出してきた。
(そうだ、俺は)
静の母親の実家に行く途中で倒れたんだ。頭痛がひどくて、それで、立っていられなくなって。その時、薄れていく意識の中、俺を引き上げてくれたのはこの少女だった。
あの時は、逆光で顔を見ることができなかったけれど。
(一瞬でも、俺がこいつと見間違えたんだ)
静の妹以外、ありえない。
「いや、一瞬…でもないか」
「え?」
夢を見た。静の葬式の日の夢を。それは、我を忘れて取り乱してしまうくらい、俺にとっては嫌な夢で。息苦しい夢で。生苦しい夢で。
勿論あの夢が現実であるということを、俺はよくわかっている。俺が一番、よくわかっている。
(…いや、本当は)
一番わかっていなかったのは、俺だったのかもしれない。
夢から覚めて、夢だったことに安堵した。夢の余韻を引きずって気が動転していた俺は、彼女を静だと勘違いして抱きしめて。
生きていたんだな、と言った。馬鹿みたいなことを言った。
そして、そんな俺を引き上げてくれたのは、彼女だった。
夢を夢だと思っていたくて、彼女を拠り所にしようとさえした俺に、優しく彼女は否定した。静はもういないよ、と。それだけで救われたような気がした。涙が出るくらい。
俺が二度も、他人と静を見誤るなんて今までなかった。考えたこともなかったし、これからもありえないと思っていた。けれど実際に、そのありえないことが起きたんだ。
顔だけでなく、言い回し、目、仕草や声が。
彼女そのものから、静に近い雰囲気を感じたから。
本当に錯覚してしまいそうなくらい―実際に錯覚してしまったくらい、彼女はこの幼なじみによく似ていた。
当たり前といえば、それは当たり前のことなのかもしれない。
彼女は、赤崎静の妹だったのだから。
(…となると、ここは―)
「そう、僕のおばあちゃん家」
「はは、なんつう偶然。すっげえ確率だなあおい。運良すぎだろ」
「本当だよ。祭はもう、一生分の運、使い果たしちゃったかもね」
思わず緑間は笑ってしまった。
(お前を助けなかった俺に、運なんて今更あるわけねえだろ)
俺はいつでも、自分のことしか助けない―など、そんなことを危うく口走りそうになったが、緑間はなんとかそれを抑える。もっとも、赤崎には考えていることの大半が筒抜け状態なので、意味などなかったかもしれないが。
「もう具合は大丈夫そう?」
赤崎がどこか不安げな顔をする。
その表情の意味するところを、緑間はよくわかっていた。
「ん、もう平気だ。全快だぜ」
赤崎本人が気づいているかどうかはさておき、緑間が倒れた要因は、一貫して赤崎にあるといっても過言ではない。もっとも、緑間の方はそのことに関して、赤崎を責めるつもりは毛頭ないが。
何故ならこれは、緑間が甘んじて受け入れていることだからだ。
原因は赤崎にあるかもしれないが、その赤崎を原因にしてしまっているのは紛れもなく―緑間(かれ)自身だ。
だから赤崎がそのことに関して心配したり、そんな顔をする必要はないと緑間は思っている。これは、自分とって必要な痛みだとも。この痛みによって殺されることもやぶさかではない。おそらく以前の緑間なら、そう言っていただろう。
この痛みが彼を殺すのに、そう時間はかからない。それが明日か、明後日か、一週間後か、あるいはもっと先のことか―それは勿論、その時になるまではわからないことだ。
だが、この痛みはきっと、いつか緑間を滅ぼす。
この状態が長く続けば、おそらく彼は死んでしまうだろう。響が言っていたのは、つまりそういうことなのだ。
だが、今の緑間は、少なくともそれによってもたらされる死を受け入れるつもりはない。だったらせめて、この痛みくらいは受け入れようと、今の彼はそう思えているはずだ。
生きることが償いになる。精一杯生きると約束したのだから。
「そう、なら良かった」
「おう」
「じゃあ、少しだけ付き合ってくれない?」
「どこに」
「内緒」
そう言って赤崎が立ち上がる。疑問形だった割に、どうやら拒否権はなさそうだ。まあ、初めから拒否するつもりなど緑間はないのだが。
赤崎に次いで緑間も立ち上がろうとした―が、右手が彼女に握られている為、うまく立つことができなかった。それを見た赤崎が、若干目を細める。
「そういえばさっきから気になっていたんだけど、どうして祭は遥と手を繋いでいるのかな」
どうやら妹の名前は遥というらしかった。
「いやーこれはまあ…えーっと、色々あってだな」
色々について説明するのが憚れたため、緑間は適当に言葉尻を濁す。ふうん、と赤崎が相打った。
「…僕の遥に手を出したら、たとえ祭でも許さないから」
そしてどうやらこの幼なじみは、存外シスコン気味のようだった。
「お前と似たり寄ったりな顔と声してる奴に、そんな気起きるか!」
実際そこまで似てねえし!
どっちかっつうと好みのタイプだけど!
「まあ、祭には青子がいるから大丈夫か」
…否定できねえ。
それはさておき。
緑間はそっと彼女の手を解いて、今しがた自分が横になっていた布団にそっと寝かせた。規則正しい息遣いが聞こえて、少しだけ顔が綻ぶ。緑間は、ありがとな、と呟いてから起こさないように部屋を出た。
そしてとりあえず一階に降りたはいいが、これは一応挨拶していった方がいいのではと思い、そのまま直で玄関へ向かおうとする赤崎に、緑間は「待った」と声をかける。
「俺、まだ挨拶もしてねえんだけど」
別にそんなものは後でもいいと赤崎の顔には書いてあったが、緑間の方も引くつもりはなかったので「そういうわけにはいかない」と無言で訴えた。
しばらく経って、これは言っても無駄だろうと判断したらしい赤崎が、「わかった」と頷いた。そして居間に通される。
真っ先に、線香の匂いが鼻をついた。
目的の人は、ソファに座っていた。もう一人の姿は見えない。
(あれが、静の祖母―)
「おばあちゃん、僕らちょっと出かけてくるから。夕飯までには戻るよ」
「…はっ!?」
夕飯までには戻るって、そんな馬鹿な。まるで夕飯をご馳走になるかのような赤崎の言い方に、緑間は目をひん剥く。
ここにお世話になるつもりは、はっきりいってない。そこまであつかましい計画ではなかったのだ。そこで緑間は首を傾げる。
(ん?じゃあ俺、どんな計画でここまで来たんだ?)
そういえばと思い返し、今日の宿先さえ決めていなかったことに緑間は今更気づく。ああくそ、なんて無計画だ。あれだけ時間はあったというのに、どうしてそんなことに頭が回らなかったのか。
だが、それにしたってここで世話になる理由にはならない。適当に宿でもとればいいのだ。幸い一泊くらい泊まれるだけのお金は持ち合わせている。果たして一泊如き凌げたところでどうにかなるものか―そこまで順当に話が進んでいけばいいが、二日三日泊まることとなれば…
そこまで考え、緑間は首を横に振る。後のことは後で考えればいい。
とりあえず、突然何の連絡もなく押しかけておきながら、夕飯をご馳走になるなどありえない。そう言おうと思って緑間は口を開いたが―
「あと、こっちは緑間祭。僕の幼なじみなんだ。じゃあ、そういうことだから。いってきます」
「いや、そういうことだから、じゃねえだろ!」
というか、頼むから自己紹介くらいさせてくれ。
(…あれ)
そこで緑間は、変な違和感に気がつく。
(てか、静のばあさん、視えてんのか?)
「最近の若い子は元気が良いねえ。もう体の具合はいいのかい、祭くん」
どうやらしっかり視えているようだった。どうにも自分の周りには、妙に霊感の強い人が多いらしい。
「あ、はい…ありがとうございました」
「いいんよ、お礼なんて。困った時はお互い様やからね。積もる話もあるだろうけれど、とりあえず今は行っておいで」
赤崎の祖母がにっこりと微笑む。ほら、行くよ。と赤崎に手を引かれた。
このまま流されるのは、非常にまずいと緑間は思った。
「いや、でも、これ以上迷惑をかけるわけには」
「袖振り合うも多生の縁」
老人は言った。袖振り合うも多生の縁。袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものだ―ということわざである。緑間がこれを聞くのは二度目だ。
一度目は赤崎が言った。
「迷惑だなんて思わんよ。静くんの大切な人なら、尚更。祭くんは少し…気を張りすぎかもしれないね。力みすぎるのはよくないんよ。それとも―祭くんの周りには、肩の力を抜くことを、許してくれない人でもおるんかい」
緑間は目を見開く。まさか初対面(といっても遜色ない)の人物にそんなことを言われるとは、思っていなかった。
(さすが、こいつと同じ血が流れてるだけある)
妙に聡い。
緑間は、しっかりと首を横に振る。すると、満足げに赤崎の祖母は頷いて、緑間の頭を優しく撫でた。とても自然な動作だった。
そのあたたかさを、自分は一生忘れないだろう。確かにこの時、緑間はそう思った。
「美味しいもの、たくさん作って待っとるからね。なるたけ遅くならんように、帰ってくるんよ。いってらっしゃい」
不覚にも涙が出てしまいそうで、緑間は俯いたままこくんと頷いた。
「…いってきます」
赤崎に付き合ってと言われて連れて行かれたところは、藤黄家から大分離れた海―そう、海だった。いい具合に沈みかかっている太陽は、綺麗にその海を夕暮れ色に染め上げている。写真を撮って、携帯の待ち受けにしたくらいには綺麗だった。
今はちょうど十七時を少し過ぎた頃で、ビーチと呼べるほど広い砂浜ではなかったが、意外にも人は誰もいなかった。この時間ならば、まだ子供が遊んでいてもおかしくはないのだが、強いて言うならかもめが数羽、そして更に言えば並みに打ち上げられたであろう貝がたくさん。
空と海との境界線が識別できないほど同調しているオレンジ色を見つめて、赤崎が言った。
「ここさ、ずっと昔…僕がまだ全然小さかった頃に、一回だけ母さんに連れてきてもらったことがあるんだ」
「…そうなのか?」
「ちょうど今くらい陽が沈んでいて、僕はまだ小さかったから綺麗とかそういうの…よく、わからなかったんだけど」
今はちゃんとわかるよ。この景色の素晴らしさが。赤崎がそう続ける。
態度には出さなかったものの、緑間は若干どころでなくかなり驚いていた。あの赤崎の口から、母親との思い出などというありえないものが飛び出してきたからだ。
赤崎が自分から母親の話を持ち出すなど、八年前から一度もなかったというのに、一体どういう心境の変化なのだろう。
赤崎がくすくすと笑った。
「そんな、鳩が豆鉄砲食らったような顔するなよ」
どうやら思い切り顔に出ていたらしい。
「ああ、いや、その…悪い」
「そんなにびっくりすること?」
そんなに、と赤崎が言うということは、本当に自分は驚いた顔をしていたんだなと緑間は思った。ポーカーフェイスを出来ない自分に、思わず溜息をつく。
どう答えようか緑間は迷って、誤魔化そうかとも思ったが結局やめた。嘘なんてつくだけ無駄だ。
「まあ…そりゃあな。びっくりするだろうよ。てか、俺じゃなくてもびっくりしたって」
「それもそっか」
どこか意味深に微笑んで、ゆっくりと赤崎が砂浜を歩く。もちろん足跡はつかない。残らない。
「祭が寝ている間に話をしたんだけど、おばあちゃんが明日…母さんに会わせてくれるって」
「そう…か。随分あっさりしてんだな」
赤崎は何も言わなかった。
「…多分明日、祭は真実を知って…すごく、動揺すると思う」
「俺が、か?」
変な言い方だった。緑間だけが動揺するという風に捉えることのできる言い回しを、純粋に不思議に思う。
仮に真実を知ることになったとして、その時動揺するのはおそらく緑間だけではないはずだ。むしろ緑間は第三者である。動揺するというなら、それは緑間ではなく、赤崎の方であるはずだ。
赤崎が、波に打ち上げられた小さな石を拾おうとして身をかがめる。が、もちろん彼にその石が拾えるはずもなく、石は容易く赤崎の手をすり抜けた。
「だから覚悟しておいて。そしてできれば、その時はちゃんと、僕の傍にいてほしい」
赤崎がかがめていた体を起こし、緑間に背を向けたままそう言った。
なんと言ったらいいかわからなくて、緑間は何度も口を開けては閉ざすを繰り返す。きゅっと下唇を引き結んだ。
この幼なじみは、どうにも時折こちらの急所を抉ってくる―そう、思いながら。
「…バーカ。俺は、お前から離れられないんだっつうの」
「はは、祭らしいや」
ありがとう、と赤崎が言った。振り返った赤崎はとても綺麗に微笑んでいて、その微笑があまりに儚げで消えてしまいそうだったものだから、緑間は咄嗟に赤崎の腕を掴んだ。掴めた。
まだ、掴める。
やはりあの時、赤崎の手がすり抜けたのは、ただの錯覚だったのかもしれない。だって今、ちゃんと触れているのだから。
―錯覚だと信じたい。
「なに?」
「あ…いや、なんでも」
突然腕を掴まれたことを怪訝に思った赤崎が、首を傾げる。自分でも本当に無意識だったし、特に意味という意味はなかったので、緑間はそのまま手を離した―離してしまった。
この日のことを、いつか後悔するとも知らずに。
「変な祭」
「うっせえよ」
確かに自分の行動は変と言われるに十分足りていたが、赤崎に言われると何故だか癪に触って、緑間はふいっとそっぽを向く。
「…あのさ、祭。お願いがある。聞いてくれるかい」
そんな緑間を赤崎が笑って、そうしたら神妙な様子でそう切り出された。そっぽを向いていた緑間が視線を元に戻すと、赤崎とばっちり目が合った。真っ赤な夕暮れも相まって、赤崎の目はとても綺麗な赤色をしていた。
「いいぜ。俺に出来ることなら、聞いてやらんこともない」
(なあ、静)
願いが。死んで尚、お前に願いがあるというなら。そして、それを叶える資格が、俺にあるというのなら。
(聞いてやるよ、いくらでも)
十個だろうと二十個だろうと。
百個だろうと千個だろうと。
赤崎は言った。
聞いてほしいというお願いを。
「泣かないでほしいんだ」
それはお願いというより―
切実な、懇願であったように思う。
「できれば、さよならも言わないでほしい」
それがいつのことを指しているのか、緑間には嫌でもわかってしまう。
「最後は笑って…見送ってくれるかい」
まるで、恋人同士が別れる時の予行練習をしているみたいだと緑間はそう思った。
だが、赤崎は勿論恋人などではなく、ただの幼なじみである。バカな幼なじみを庇って死んだ、バカな幼なじみの幼なじみだ。
バカな幼なじみは、ここで一つ嘘をついた。
どうせすぐにバレてしまうような、薄っぺらい嘘を。
「当たり前だろ」
(それでも、)
たとえそれが、今は嘘であったとしても。
「泣かねえよ。最後は必ず、笑っててめえを見送ってやる。だから、」
今日ついた嘘が本当になるよう、これから残り少ない時間をかけて、俺はお前を思い出に出来るように頑張るから。
だから、
「…その時までは、せめて俺の、一番近くにいてくれよ」
赤崎が目を見開く。
それから、くしゃりと顔を歪ませて泣きそうな顔で笑った。
「だから僕は、祭から離れられないんだって」
第三章 第六話 「藤黄家」
二人が藤黄家に戻ったのは、十八時を少し過ぎた頃だった。和風な造りの家にはあまり似つかわしくないインターホンを見かけ、緑間はそれを押そうと手を伸ばす。
「いちいち鳴らさなくていいよ…ていうか、ああ、そうだ、このインターホン鳴らないから」
「は?」
そんなバカな、と緑間は実際にインターホンを押した。
うんともすんとも言わなかった。
「電池?切れちゃったらしくてさ。確か…五年くらい前?に。まあ、使う機会もないだろうからって、電池換えてないらしくて」
「ああ…そう」
だったらもういっそ外せよ、と緑間は内心で毒づいた。
仕方なく緑間は、お邪魔しますと声をかけてから家の中へと入った。
中に入ると、途端にいい匂いが漂ってきて無意識に緑間の腹が鳴る。そういえば、結局昼飯も食べていないことに今更気がついた。
玄関のすぐ左斜め手前は台所に繋がっていて(今時珍しい、居間と台所が別々の場所にある家なのだ)、いい匂いはどうやらそこから漂ってきているようだった。あまりうろうろすると迷惑だろうかと緑間は思ったのだが、結局気になって台所を覗く。
赤崎の祖母と妹、女二人がエプロンを身に着けてせっせと料理を作っていた。否、厳密に言うとエプロンを着ているのは遥だけで、赤崎の祖母は割烹着を着用していたわけだが…まあ、そこはあまり問題視するところでもないだろう。
遥の方は、はねる油と奮闘しながら揚げ物を作っており、祖母の方は―驚くことにピザを作っていた。それはもう、随分な手際の良さで。加えて、ピザの生地から手作りである。今はのし棒(ピザの生地を伸ばす道具)を使って、円の形に整えられた生地にケチャップや具材をトッピングしている最中のようだ。
なんというか、少々…いや、かなり油っこい夕飯になりそうだと思われる料理が作られていたが、今の緑間にはそれすら最早どうでもよかった。
「すっげー…」
「うん?…おや、二人とも。帰ってたのかい。おかえり」
遥の方は揚げ物と奮闘することで手一杯らしく、帰って来た緑間の方を見向きもしなかったが、赤崎の祖母は緑間の呟きを耳で拾い、にっこりと微笑んだ。緑間はぺこりと頭を下げる。
赤崎の祖母はすぐにピザ生地に視線を戻し、トッピングの終わった生地を、取っ手のついている鉄板の上に乗せ、職人よろしくの本格的で大きいかまどの中に入れた。焼き始めである。
そこで赤崎の祖母の仕事はひと段落ついたようで、再び緑間に話が振られた。
「祭くんは、料理はするんかい」
「え…あ、はい。料理するのは好きです」
「ほう、男の子なのに珍しいねえ。うちのじいさんとは大違いだ。静くんも、料理はからっきしだったからねえ…」
「そこ違うから。祭が料理出来るから、僕が料理出来なくてもよかっただけだから」
聞き捨てならないと言わんばかりに、赤崎が割って入ってきた。まるで緑間が悪いみたいな言い分である。なんという奴だ。
「実際お前料理出来なかっただろうが」
「違う。僕は出来なかったんじゃなくて、やらなかっただけだ」
「そこに明白な違いはねえだろ。つか、尚悪いわ!」
屁理屈ばかり言いやがる幼なじみに、緑間は溜息をつく。仲が良いねえ、と赤崎の祖母が嬉しそうに言った。このタイミングでそれを言われるのは大概癪であったが、緑間は否定はしなかった。
「見たところ祭くんはしっかりしていそうだし…どうだい、うちの遥を嫁にもら」
「「いや、ありえないから」」
ぴしゃりと声を揃えたのは、赤崎兄妹である。そんな全力で否定してこなくても良いだろうに、と緑間は思った。というか、そこだけ反応するな妹。
「ほっほっほ。冗談じゃよ、冗談」
「「おばあちゃんが言うと冗談に聞こえないよ…」」
若干うんざりしたように、そしてまたしても一語一句、微妙な強弱までぴったりと揃えた赤崎兄妹。双子並みのシンクロ率である。
「それはそうと祭くん。立ってないで、居間で休んでいていいんよ。出来上がりには、まだ少し時間がかかるしねえ」
「あ、いや、えっと…あの、ここにいたら邪魔になりますか」
出来ることなら手伝いをしたいものだが、他人が台所に立つことを極端に嫌う人ももちろんいる。緑間はまさしくそれだ。そして、こう言ってはなんだが、昔の人というのは、意外とそういう考えを捨てていない。
それに、たとえそうでなくとも、この家は緑間にとっては知らぬ家同然である。どこに何があるか把握できていない以上、手伝うと切り出すことは、有りがた迷惑でしかないように思えた。
「その…出来れば見ていたいんですけど」
「見ていたい?」
不思議そうに首を傾げられる。何を、と訊ねられる前に緑間は言った。
「図々しいことを言っているのはわかってます。でも俺、ピザを最初っから作ってる人に初めて会って、俺、家にかまどとかないから、本格的にピザ作ったこととか一度もなくて…」
だから見ていたいと、緑間はもう一度繰り返す。言った本人もびっくりするくらいの図々しさだった。
「そうかい」
呆れられただろうか。言うんじゃなかったな、と緑間は肩を落とす。
「なら、一緒に作るのが一番手っ取り早いねえ」
だが、予想とは大きく反したことを言われ、緑間は思わず「はあ?」と言ってしまった。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、その言葉をじわじわと理解していく内に、緑間は大袈裟に首を横に振る。ぶんぶんと、そんな音が聞こえてきそうな勢いだ。
「そんなつもりで言ったわけじゃ…本当にいいんです、全然、俺は」
「迷惑をかけたくないと、まだ言うかい」
緑間は何も言えなくなった。
「それはとても傲慢なことよ」
それは、一体どういう意味なのだろう。傲慢とは一体、どういう。
「祭くんが、それに対して迷惑をかけてしまうと思うのは勝手。けれど、それを相手に押し付けるのは、とてもお門違いで…とても、傲慢なことなんよ」
―自分の幸せは自分で決める。だって、他人が理想とする幸せが、僕の望む幸せだとは限らない。僕の幸せは僕だけのものだから、他人様の理想を押し付けられても困るんだ―
いつだったか、赤崎がそんなことを言っていた。何故そんな話になったかを、緑間は思い出せない。
おそらく、言葉は違えども行き着く先は、今彼の祖母が言ったそれと同じなのだろう。
(傲慢…か)
そういえばあいつは、いつだって自分の死を俺のせいにしたことはなかった。俺が勝手に罪だの罰だの言って、拗ねて、俺が一方的に、それを静に押し付けていただけではなかっただろうか。だって確かにあの時、“罪も罰も初めから存在していない”と、あいつは言ったのだから。
(俺は結局、)
自分の傲慢さを、否定してほしかっただけなのかもしれない。
「でもね、祭くん」
彼女が緑間と緑間のすぐ横、つまりは赤崎を見比べてにっこりと微笑む。
「君のその傲慢さに救われた人も、ちゃんといるわ。だからその全てを、悪いとは思わんよ。だから私は、そういうのも全部含めた上で、祭くんの気持ちを知りたいの」
ああ、この、内側からじわじわ侵食される感じ。
(静そっくりだ)
偽ることは、もう出来そうにない。
「…やりたいです。教えてもらえませんか、作り方」
これが彼の得意料理の一つとなるのは、もう少し先の話である。
***
夕飯を食べ終えたのはそれから約二時間ほど後で、二十時のことだ。今日はあれですか、誰かの誕生日ですか。もしくは結婚記念日ですか。などと言いたくなるくらいたくさんの料理が食卓に並び、気分はすっかり正月であった。普段からこんな感じなのだろうかと、緑間は勝手に心配になった。一体、正月にはどんなことになっているのだろう。この家のエンゲル係数は正常だろうか。
とりあえず夕飯時は赤崎のことは横に置き、赤崎の祖父母と妹の遥、緑間の四人で楽しい雑談が繰り広げられた。厳密に言うとその場には赤崎もいたので、正確には四人と幽霊一人という数え方になるのかもしれない。
そしてというかなんというか、かしこまった自己紹介なんかは綺麗に後回しにされた。
現在。
夕飯前に既に入浴を済ませていた赤崎祖父(姿が見えないと思っていたら、どうやら風呂に入っていたようである。えらい長風呂で、二時間はあがってこないらしい)に続き、二番風呂に緑間はつかっていた。
体と頭を洗い終えて、かれこれ十分。緑間は、温泉さながらの大理石の浴槽を堪能している。入浴剤には、数ある香りの中からゆずを選んだ。珍しくカモミールなんかもあったが、緑間はハーブが苦手だったので遠慮しておいた。
結局、緑間はこの家で数日お世話になることとなった。夕飯の際、ごく当たり前のように泊まっていくだろうと問われ、いやそれは流石にと首を振ろうとしたのだが、赤崎祖父にそうしなさいと促され、赤崎妹にやった!と喜ばれた挙句、赤崎本人がもちろんそのつもりだと、さも当たり前のように緑間を無視して言ったものだから、結局流されるままそういうことになったのである。
申し出はとても嬉しいし、有りがたいことではあるのだが―非常識な人間、だと思われていたらどうしようかと、緑間は未だに自分の良心に悩まされていた。
そして風呂を借りることになったわけだが―勿論緑間としては、居候の身である自分が、この家の住民よりも先に風呂に入るというのはかなり抵抗があったのだが、まあ、いい具合に丸め込まれてしまったわけで。なんというか、赤崎の家系は緑間の扱い方を心得ていた。
緑間は顔の三分の一を湯船に沈め、ぶくぶくと息を吐く。
「どうしたのさ、溜息なんて。随分らしくない」
「静…」
そしてやはり、浴室までついてくる幼なじみであった。
実際この家に限らず、お互い離れられない状態が続くようになってからは、緑間が入浴する際赤崎も一緒だったわけだが、まさかここでもそうなるとは思わなかった。この後景、視える人が見ればかなり奇怪だろうなあと緑間は思う。
勿論男同士なので、裸体を見られたところでどうということはないのだが、どうにも赤崎だけが服を着ているというのは、あまりフェアではない気がして仕方がない。いいえて微妙だ。だが、かと言ってお前も服を脱げなどと言えるはずもなく(それではまるで変態だ)。そもそも、赤崎が服を脱げるのかさえわからないのである。
そういえば描写が遅れていたかもしれないが、赤崎は今現在高校の制服を着用している。最後に着たのは白装束であったはずなのに、どういうわけか彼、事切れるその時まで着ていた制服を着て、あの日緑間の前に現れた。
勿論血塗られてなどは、いない。
「一つ聞くけど、もしかして僕はいない方がいい?」
それは。
それはおそらく、浴室に、という意味であっただろう。お互い離れられないからといって、ミリ単位でぴったりとくっついていなくてはならないというわけでもない。
赤崎が脱衣所へ行ったところで、緑間(浴室)と脱衣所(赤崎)を隔てるものは、ガラス戸一枚だけである。さして問題はないだろう。
だからこのタイミングで、赤崎のその質問の意図は、後にも先にもそれだけだった。それだけだったはずだ。
「バーカ。俺がそんなもん気にすると思ってんのかよ、お前は」
だがそれでも、そうとわかっていても―やはり緑間は、首を縦には振れなかった。
今頷いてしまったら、このまま赤崎が「そっか」と言って消えてしまうような気がしたからだ。
やはり、消えないでほしいと願っている自分もいるようだと、緑間は自嘲気味に笑った。
「そう。ま、それもそっか。祭はむしろ、裸を見せびらかせたいタイプだもんね」
「おい、そりゃあどういう意味だ」
赤崎が軽口を叩いて、浴槽の外枠に座った。かなり奇抜な後景である。
そういえば、緑間は以前にも似たようなことを言われたことがあった。注目されるの好きでしょ、と。確かあの時は青子だったような気がする。
緑間は別段注目されるのが好きなわけでも、裸を見せびらかせたいタイプなわけでもないのだが、どうやら周りからはそういう風に思われているらしい。存外ショックである。
「そういえばさ、もうすぐ誕生日だね」
「あ?誕生日?誰の」
誰か誕生日が近い奴でもいただろうか、と緑間が考えていると、赤崎が「うわあ」となんともいえない微妙な顔で若干身を引いた。お前バカ?というオーラが滲み出ていて、お前に言われたかねえよと思いつつ(言われてはいないが)、そこまで赤崎に言わしめるほど、自分は変なことを言っただろうかと緑間は首を傾げた。
「本気で言っているの、それは」
「んなところで嘘つくかよ」
「はあ…誕生日でしょ、」
赤崎が深い溜息をついて、やれやれという風に首を振る。随分前に溜息をつくと幸せが逃げるうんぬんと言ったのは、どこのどいつだと緑間は言いたくなった。
だが、この幼なじみがここまで感情を表立って表現することは、そうあることではないので、自分の発言にも問題があったのだろうことは緑間にもわかっている。
だがしかし、わからないものはわからない。
「だから誰の」
「祭のだよ!ま・つ・り・の!」
「…………………は…っ!」
言われて「んん?」と腕を組み、今日の日付を思い出して緑間は目を丸くした。
(ああ、そうだ、確かに)
今日は八月二日。そして緑間の誕生日は、赤崎と一ヶ月違いの八月七日である。
「すっかり忘れてたわ…」
ここ数週間、色々なことがありすぎたせいだ。赤崎が死んで、それだけでもう十二分手一杯だったというのに。なんの因果か某神様よろしく、三日後に生き返りはしなかったものの、その二日後に幽霊となって緑間の前に現れたりと、とにかく日常に浸る暇が全くと言っていいほどなさすぎた。自分の誕生日などもってのほかである。
「まさかお前に誕生日を諭される日が来るとはな…」
「その調子だと、八月七日までには帰ってきてって言われたことも、忘れているんだろうね…」
「…あ、そういえば」
今朝電話で青子にそんなことを言われたと緑間は思い出す。あの時は対して気に留めていなかったが、なるほど、そういうわけか。
だが、一体八月七日がなんだというのだろう。緑間にとって…というか、青子にとっても、誕生日など今更なんの意味もないというのに。
赤崎の誕生日を、祝わないと決めたあの日からずっと。
「はあ。祭の記憶力を僕は時々疑うよ」
「否定しがたいがお前にだけは言われたくねえ」
そもそも記憶することさえしないような奴に!
「…まあいいや。話を戻そう」
赤崎がごく自然な動作で、ゆずの香りが漂う湯船に手を入れた。もちろん波紋ができることはなく、水面は少しも揺らがない。
果たしてこの幼なじみは、その行為にどのような意味を見出そうとしたのだろう。考えたが、緑間には到底わかりそうもなかった。
緑間はそっと赤崎の手に触れる。
(俺はちゃんと触れられるのに)
―世界はこんなにも、この幼なじみを拒絶したがる。
そして本当は、俺も拒絶しなくてはならないんだろうけれど。
俺が一番、この幼なじみを拒絶しなくてはならないんだろうけれど。
「何かほしいものはある?」
「ほしいもの?」
うん、と赤崎が頷いた。そして、付け加えるように「ああでも」と困ったように笑う。
「今の僕が出来る範囲のことでよろしく頼むよ。物はやめてほしいな。僕の家にあるものなら、別に何を持って行ってくれても構わないけど」
僕に出来ることがあるなら言ってほしいと、そんな風に赤崎は言った。とても胸に突き刺さる言葉だった。
(ほしいもの、か)
帰って来いよ、とそう言ったらどんな顔をするだろう。お前が生きて帰って来てくれるなら―それ以外は何も望まない。これからの生涯、どんなことがあってもそれ以上のことは望まないと、居もしない神に誓って、俺はそう言い切れる。
それでもそれが、どうにもならない、どうしようもない願いだとわかっているけれど。
言葉にすれば終わってしまうと、わかっているから。
「ねえよ、そんなもん…ああ、でも、強いて言うなら」
「うん?」
敢えて、言うならば。
「さっさと成仏して楽になれよっつうことくらいだな」
―縛っているのは、きっと俺の方だけれど。
赤崎の返事は待たずに緑間は湯船からあがった。
二十一時である。
テーブルを挟んで、向かい合わせに四人は座った。赤崎祖父母はソファに、そして緑間は遥と並んで絨毯の上に座っている。勿論赤崎もいて、緑間の右隣りに腰をおろしていた。
これからとりあえず、先延ばしにされていた自己紹介や、その他諸々を始めるのだろう。もう二十二時近いのでそこまで込み入った話にはならないだろうが、現状確認くらいはしておきたかったので、緑間としてはありがたかった。
トップバッターを切ったのは、浴衣を着ている赤崎祖母だ。
「初めまして…と言っても、昔一度だけ、祭くんはうちに来たことがあったけれど。藤黄環です。私としては、名前で呼んでくれると嬉しいわ」
どうかしら、とその提案に対して意見を求められ、緑間はもちろん戸惑った。戸惑いはした。
だが、少なからず彼女がそれを望んでくれているのなら。
それはつまり、迷惑などではないということなのだろう。実際緑間自身、遥以外の呼び方には困っていたのだ。
「環、さん」
にっこりと赤崎祖母―環が笑った。
そして次に赤崎祖父が咳払いをして、口を開いた。
「藤黄衛だ。わしのことは…まあ、お義父さんと呼ぶといい」
「「なんで!?」」
緑間と赤崎兄妹の声が見事にハモった。混声三部合唱。
というか、今の発言には大分問題があるのではないだろうか。第一あんた父親じゃなくて祖父だろうが!と緑間は本気でつっこみたくなった。
「なんでって…将来わしの義理の息子になるんだから、当たり前じゃろう」
「なりませんよ!どうしてそんな結論に至ったんだ!?」
「お前さんになら、娘同然の遥を安心して任せられると思うんだがなあ…なあ、ばあさん」
「そうですねえ」
「…じゃ、ないでしょう!」
この二人、どうしてか遥と自分をくっつけたがっているように見えるのだが、一体何故だ。
ひと悶着(?)の末、ようやくその話題から脱することが出来て、緑間はほっと息をつく。そして切実に思った。こんな短時間で、娘同然の孫を任せるに足りる人間だ、などと過大評価されたくはないと。自分は、そこまで出来た人間ではないとも。そして、青子を連れてこなくて本当によかった。
当然お義父さん呼びは緑間と遥(と赤崎)が反対し、本人は渋々といった様子だったが、「衛さん」と呼ぶことになった。
そして次は、流れ的に彼女の番である。
幼なじみと瓜二つ―どころか双子と言われても納得してしまいそうなくらいそっくりな、それでいて少し幼い顔立ちをしている、静の妹。
「受験真っ只中の中学三年生で、正真正銘血の繋がった、静お兄ちゃんの妹の藤黄遥です。名前は…好きなように呼んでくれて構わないから、そこは任せるね」
「中学三年生…?」
意外だった。まさかそこまで赤崎と歳が離れているとは、思っていなかったからだ。確かに顔立ちは幼いが、高校生だろうと思っていたのに。
「うん?」
「いや、なんでもない」
「そう?じゃあラスト、祭兄どうぞ!」
「お…おう」
祭兄という呼び方について緑間は問いただしたいところだったが、とりあえずは横に置いておく。
緑間は回ってきた自分の順番に、柄になく緊張しながらすうっと息を吸い込んだ。
「静と同級生で幼なじみの、緑間祭です。物心ついた頃から幽霊の類が視えて、尚且つ霊媒体質だったことから、俺と静は今、互いに離れることが出来ない状態です」
「ああ、なるほど。だから祭くんもうちに来たのねえ」
そうなのだ。そうでなければおそらく、赤崎は一人でここに来ていただろう。むしろ、出来ることなら一人で来たかったはずだ。思い出したくもない過去について、不本意にも緑間に知られてしまうことになるのだから。
ちなみに聞いた話によると、赤崎の姿を視覚できるのは祖母である環だけらしかった。ただ、遥は姿こそ視えないものの、ぼやあっとそこにいるというのが感覚でわかるらしく、更に赤崎の声はきちんと聞こえているらしい。
以前聞いたことはあったものの、赤崎の家系はどうにも霊感が強い者が多いと緑間は思う。この調子でいけば、今は声しか聞こえない遥も、やがて霊そのものが視えるようになるかもしれない。
「静は…事故に遭った日からずっと、成仏できずに彷徨い続けている。俺はなんとかして、あいつを成仏させてやりたい。だから」
「そう、か」
赤崎祖父―衛が、初めからわかりきっていたことだったと、そんな表情で呟いた。
「…平気な顔をしっとったが、根に持っていたんだなあ。静は」
おそらくそれは、八年前の七月七日のことを言っているのだろう。
「…明日、静の母さんに会わせてくれると本人から聞きました」
「ええ」
心なしか、そう頷いた環の表情が、一瞬強張っていたように緑間は感じた。というか、あまり気は進まないけれど、とそういうオーラが滲み出ている。
そりゃあ気は進まないだろう。息子を捨てた自分の娘と、その息子を、わざわざ引き合わせようだなんて、後ろめたいに決まっている。
「俺には、どうにも話が出来すぎているとしか思えない。十年近くもほったらかしにしておいた息子のことなんて…覚えているかも危ういはずだ。明日、なんてそんなのはおかしい。そう思うのは俺だけですか」
赤崎は何も言わない。
「…それでも明日、静くんと祭くんは、確かに「奏」…私の娘に会うことになる。そしてその時、本当の真実を知ることになるんよ」
真実。
真実?
あの、弁解しようのない事実―“あんたなんか生まれてこなければ”―その言葉の裏側に、一体どんな真実があるというのか。それを知ることで、赤崎の“何か”は変わるのだろうか。
「…真実は過去を塗りつぶす。祭くんには、それを受け止めるだけの覚悟が、ちゃんとあるかい」
だが、たとえ赤崎の“何か”が変わったとしても。緑間の中で、絶対に変わらない事実がある。
(俺は絶対に許さない)
静のことを捨てた、静の母親のことを。
この時彼は知らなかった。その場にいた四人と一人の幽霊の中で、彼だけが唯一、事実の片鱗すら知る由もなかった。
だから彼は頷いた。
「そうかい」
緑間のそれに対して環は、そんな風に短く相槌を打っただけだった。
「それならもう、語ることは何もないんよ。全ては明日―静くんの全てに、決着をつけよう」
こうして話し合いは、込み入るどころか予想以上にあっさりと終わり、明日に備えて早めに就寝することとなった。
第三章 第七話 「消費期限」
日付が変わり、現在の時刻深夜0時17分。
「祭兄、ここ、よくわかんないんだけど…」
「頼むから寝かせてくれ…」
そう、緑間は―ちょうど一時間ほど前から、遥の受験勉強に半強制的に付き合わされていた。早く寝るつもりが、どこをどうしたらこういうことになるのだ。
しかも赤崎にいたっては、時の時点で既に睡魔に襲われていて(元々夜行性要素は皆無)、三十分ほど前に妹の部屋にも関わらず眠ってしまっている。ああ、くそ。羨ましい。
「仕方ないでしょ、私中三だし。それに…もう少し頑張らないと、志望校受からないかもだし」
「今日…つうか昨日?一日休んだところで、何も変わんねえだろ」
「…とか言いつつしっかり世話焼いてくれる辺り、さすがお兄ちゃんの友達だよね」
あと何時間付き合わされることになるのやら。緑間は力なくうな垂れた。
勉強を教えること自体は、別段そこまで抵抗があるわけでもないのだが、如何せん時間が時間だし、明日のこと(いや、もう今日か)を考えると、正直さっさと寝てしまいたいというのが、緑間の正直な気持ちだった。
―が、この小娘は、人の話を全くと言っていいほど聞きやしない。
「だってお兄ちゃんがもういないから、勉強教えてくれるような人、いないんだもん」
「………」
お兄ちゃんがもういないから。
そうだった。
この小さな少女から、血を分けた兄を奪ったのは、紛れもなく―俺自身だ。
思いっきり目が醒めた。
「…悪いな」
「なんで祭兄が謝るの?」
聞いていないはずがない。あいつは俺を庇って―死んだんだ。
(そうだ、俺は)
恨まれていても、おかしくはないんだ。
そう、たとえ今ここで刺されたとしても―文句は言えない。
「さっきおばあちゃんが言ったこと、もう忘れた?」
「…謝るくらいさせてくれよ」
遥がシャープペンを一旦机の上に置き、隣りに立つ緑間を見上げた。その目は赤崎と同じく、吸い込まれそうなくらい綺麗な黒色をしている。
一体どこまで似ていれば気が済むのだろう、この兄妹は。
「お兄ちゃんね、祭兄のことよく話してくれたよ」
「…は?」
そして毎度毎度、どうしてこうも脈絡のない話を突拍子なく振ってくるのだろう、この兄妹は。
「朝さ、六時くらいになると電話が来るって。大体決まっておにぎりの中身の話なんだけど、時々用もないのに電話がかかってくることもあるんだって。でも、お兄ちゃん言ってた。本当はおにぎりの中身すら口実で、朝に弱い低血圧な僕を起こすために、毎朝電話をくれるんだって。相当なお節介だね、って言ったら、ただのバカな幼なじみだよって、すごく嬉しそうに言ったの。お兄ちゃん、こんな風に笑えるんだなって思わず感心しちゃった」
「……」
遥が、困ったように眉を八の字に下げて笑う。赤崎もよく浮かべていた表情だ。
「祭兄のこと話してる時が、一番楽しそうだったの。大切な人なんだなあってすぐにわかった。だから守ったんでしょ?」
赤崎は確かに、妹がいるとは言っていた。緑間がそれを信じなかったのは、なんでもないような顔で赤崎がそれを、どうでもよさそうに言ったからだ。言った本人がそれでは、信じようがないではないか。
だから緑間は、赤崎に妹など存在しているはずがないと思っていた。仮に百歩譲って存在していたとしても、おそらく赤崎は今までの生活を変えたりしないだろうし、その存在が赤崎に変化をもたらすことはないだろうと思っていたのだ。
だがそれは、ひどく思い違いだったようで。
赤崎は赤崎なりに、遥は遥なりに、それぞれ向き合って歩み寄ろうとしていたのかもしれない。
「お兄ちゃんが守った大切な人を、恨むなんてできないよ」
この二年間で、十分すぎるほどお互いの存在を認め、信頼し合えるほどに。
祖父母孝行だけではなく、兄妹孝行までしてやがったのか、と緑間は目を細めた。
「…まあ、お兄ちゃんが視えるのは素直に羨ましいけど」
私は、声しか聞き取れないからと遥が言う。
「それでもさ、私達、せっかくこうして出会えたんだから」
―もしも。
もしも、もっと違う形で、この少女と出会っていたら。
もしかしたら自分は、この少女のことを好きになっていたのかもしれない。
あの幼なじみの妹でさえなければ、あるいはそんな「もしも」が。
「恨むとか、憎むとか、そういう物騒なのは横に置いておいてさ。仲良しになった方が嬉しいよ」
あったかもしれない、なんて。
そんなことを、緑間は刹那に思った。それは、今となってはありえるはずもない「もしも」であることに違いないのだけれど。
「…ありがとな、遥」
「あは、初めて名前呼んでくれたね」
緑間は思った。
これからは、出来うる限りこの少女の為に時間を割こうと。たとえ彼女がなんと言おうと、やはり彼女から|赤崎を奪ったのは緑間なのだ。それは事実である。
だからせめて、その兄の役目であった勉強を、代わりに教えようと。
彼女にとって兄のような存在になりたい。などと、そんなおこがましいことは言わない。彼女にとっての兄は、後にも先にも赤崎静ただ一人だけだ。
だが、それでも。
“祭兄”
そう呼ばれるに足りる、彼女にとって自分が頼れる存在になるのだと―なりたいと、緑間は確かにそう思った。
これも一種の愛情の形だ。
傍から見れば、やはりただの自己満足でお節介でしかないのだろうけれど。
「…んん?そういやあいつ、勉強教えるとかそんな起用なことできたっけか?」
「あー…いや、うーん」
「なんでそこで口ごもんだよ」
「ぶっちゃけ言うと、お兄ちゃんには人にものを教える能力が皆無だよね。頭は良いけど」
***
太陽が照りつける。ザ、ザ、と砂利道を進んだ。
もちろん影はない。
彼は―死んでいるのだから。
暑くもなければ寒くもない。五感は全て失われてしまっている。死ぬということは、そういうことだ。
この世界に干渉することを拒まれ、自分がここにいることを拒み続ける。
死ねば何も残らない。
死ぬことは人を無意味化する。
僕はそれを、弱冠十八歳という若さで知ることになろうとは、これっぽっちも思っていなかった。出来ることなら、一生知りたくなんてなかったのかもしれない。
そして、出来ることなら。
僕は生きていたかった。
死にたくないと思ったことは、なかったはずだった。でも、それでも。死んで初めて、生きたいと強く思った。
ザ、ザ、ザ、と坂道を登る。鼻をつくのは―僕の体に染み付いて離れない、線香の匂い。
近い内に、僕もきっと、この辺りに眠るのだろう。
目的の場所に着く。僕は、目の前に建つそれを見た。
「は…は、か?」
幼なじみは目の前に建つそれを見て、どうやら困惑しているらしかった。まあ無理もないか。なんせ彼は、何も知らされていなかったのだから。
おばあちゃんとおじいちゃんと遥は、幼なじみのように表立った動揺は見せない。三人は既に知っているから。
そして僕も知っていた―いや、思い出したというべきか。
だから、知らなかったのはこの幼なじみだけだ。
おばあちゃんが花束を添える。おじいちゃんが桶に汲んできた水を、杓子でそれにかける。
おばあちゃんとおじいちゃんと遥が、両手を合わせて黙祷をした。僕もそれに倣う。幼なじみだけがぼうっとしていた。
もうきっと、聡い幼なじみは気づいているだろう。
藤黄家之墓。
そう、ここは、死者が眠る地。僕もいつか、眠りにつく場所。
「あのさ、祭」
僕は、静かにその名前を呼ぶ。
あのさ、祭。僕、やっぱり生きていたかったよ。君を庇ったことに後悔はしていない。それは多分本当だ。でも、それでもやっぱり、生きていたかったんだって、そんな馬鹿みたいに子供っぽい我儘に、今更気づいて。本当に、らしくない。君は笑うかい?いや、笑わないな。
あのさ、祭。多分気づいていないだろうけど、僕、本当はもう、祭から離れることが出来るらしいんだ。祭に意識がないとか、僕に意識がないとか、そういうの全部抜きにさ。僕はもう、今この瞬間、君の傍を離れて遠くに行くことが出来るんだよ。
夏休みに入って、いつの間にか、自分が祭に引っ張られていないことに、気がついた。気づきたくなんてなかったよ、本当に。
世界は僕を拒み続ける。
そして僕もまた、この世界を拒み始めた―僕の体は、消えかかっている。
あのさ、祭。
どうやら僕の未練には、消費期限があったらしいんだ。もうすぐ僕は、この世の未練だとか、君の罪悪感だとか、周りの変化だとか、妙に居心地の良いこの足枷だとか、そういうもの全部、全部関係なしに。もうすぐ僕は、消えなくちゃならないらしい。
拒み続けることは、僕にはもう、難しいかもしれないな。
本当なら、僕は今日、一人でここまで来なくちゃ行けなかったんだ。祭に頼らず、僕自身の力で。だって今の僕にはもう、それが出来てしまうんだから。
それをしなかったのは、出来なかったのは。結局僕の、“甘え”でしかなかったんだろうね。一人で来るのが怖かったんだ。そんな僕を君は笑うかい?笑ってくれ。
いつか来る別れの時も、君だけはどうか、笑っていてほしい。僕には多分、出来そうもないから。
でもまだ、まだ消えないよ。消えれない。祭の誕生日―八月七日が来るまでは、絶対に。
でも、その日が過ぎたらちゃんと逝くよ。約束する。
ながいながいおわかれは、いまのぼくにはとてもつらいことだけれど。
ぼくのきえたこのせかいで、どうかきみがわらっていますように。
「―僕の母さんは、遥を産んですぐ亡くなっているんだ」
カラスが鳴いている。
赤崎はその黒い死者に連れて行かれないよう、ぎゅっと手のひらを握りこんだ。
第三章 第八話 「昔話」
「そういえばあんた達って、なんでそんなに仲が良いのかしら?」
唐突にそんなことを言ったのは、青子だった。あんた達、の対象である白金ツインズと優は、リビングを飾り付けている手を一旦止めて「え?」と首を傾げる。
ちなみに今、響は琴乃を肩車して、壁に折り紙で作った鎖をもよおす装飾を、画鋲でひっつけているところだ。優は琴乃に、その装飾を手際よく渡す係である。
青子はといえば、はさみとのりを使って五メートルほどの長さの模造紙を作り、じっと眺めてマジックを片手に何と書くべきか考えている。かれこれ三十分、“誕生日おめでとう”と書くか、“ハッピーバースデー”と書くか悩んでいた。
だが、朝からずっと休まずの作業だったので(ちなみにもうすぐ正午になる)、その質問のついでに、お昼も兼ねて休憩を入れようというのが彼女の算段である。
青子は「決ーめた」と、ようやく決断を下し、ハッピーバースデーと英語(しかも筆記体)で素早く書いて、マジックを放る。そして、早く早くと急かすように、質問に対する答えを響達に要求した。
「え、えーと…どういう意味ですか?それは」
琴乃を肩車から降ろした響が、その質問の真意がわからないという顔で青子を見る。この人はいつも唐突だ、と思いながら。
「うーんと、ほら、響と琴乃が仲良しなのはわかるのよ。兄妹だし、双子だし。でも、優は出身中学校さえ違うわけでしょう?それなのに、中学からの付き合いだって言うじゃない」
そう、青子の言うとおり。白金ツインズと優は、別々の中学校に通っていた。しかも二つの中学校はおよそ対極の場所に位置しており、つまるところ響達と優が住んでいた場所も、遠く離れていたわけである。接点などないのだ。
「ずっと気になってたのよね。女嫌いのくせに、どうしてか優は、琴乃のことだけは平気だったみたいだし」
あ、その設定まだ生きてたんだ、と思う人もいるかもしれないが。
優は大の女嫌い(というか苦手)である。それはもう、自分の領域内に女属性が入ってきただけで、吐き気をもよおして足元が覚束なくなり、眩暈と頭痛のダブルアタックを受け、その数分後にはばたりと気絶してしまうくらい、女が苦手なのだ。
そしてその要因というのが、以前紹介した四人の姉であり、優よりも一足早くこの世に生を受けた彼女たちが、彼に一体どんなトラウマを残したのか―それはご想像にお任せする次第である。
ちなみに優は、そのトラウマを訊ねられるだけで大いに精神的ダメージを被るので、その話題に触れることはタブーとされていたりする。
そしてその女嫌いの優だが―どうしてか琴乃にだけは、どれだけ近づかれようと拒絶反応を示さないのだ。青子に関しても、若干免疫がついてきたような気がしなくもないが、琴乃だけは初めから、免疫も抗体も関係なしに、そもそも拒絶をしていなかったのである。
そのことに関して、青子は今までずっと疑問に思っていたのだ。
「それは…まあ、琴乃は…他とは少し違うというか」
優が、言葉にしづらいというか、言葉にするのが億劫だとでも言いたげな表情で口ごもる。
「特別ってことかしら」
「…そういう括りで表すなら、多分琴乃は特別ですが。俺にとっての特別は、琴乃だけでなく、響にも当てはまることなので」
その“特別”は、好意であっても恋情ではない。彼が選んだのは、そういう括り方だった。
「相変わらず、優ってほんと馬鹿みたいに正直だよね。まあ、そういうところが気に入ってたりもするんだけど」
琴乃は、優の“特別”発言がツボに入ったらしく、くすくすと笑って、珍しいことに響ではなく優にがばっと抱きついた。「うわっ」と上がった声と同時に、その反動で優の体がよろめく。だが、転倒するなどという無様は晒さず、しっかりと体勢を立て直した優が、ぽんぽんと肩にかかる彼女の腕に手を置いた。
自他共に認めるくらいにはシスコンである響も、優なら構わないといった様子で、琴乃のスキンシップもあまり気にしていないようだった。ここから鑑みるに、この三人の信頼度がかなり高いことがわかるだろう。
「…ていうか、僕らのことって話したことありませんでしたっけ?」
「ないわよ、少なくとも私は聞いたこと。だから聞いているんじゃない」
「それもそうですよね…えっと、どこから話せばいいのか…」
うーん、と悩ましげに響が腕を組む。片や優は、そっと琴乃から離れ台所へと向かった。赤崎の家は、カウンターを挟んでリビングとキッチンが合体しているため、台所にいても会話を続けることは可能である。
優が、腕をまくって手を洗い、冷蔵庫を開ける。中には、ここに泊り込み始めてから買い足した食材などが入っている。冷蔵庫の中身を吟味しながら、チャーハンにするかなと彼は呟いた。
そして優が、冷蔵庫からベーコンと玉ねぎ、にんじん、ピーマンを取り出す。
「簡単に言うとですね」
「うん」
「僕らが中学二年生で、琴乃が誘拐…というか、拉致された時のことなんですが」
「うんうん」
「その時、琴乃を助ける為に、一緒に敵地に乗り込んだのがきっかけですかね」
「うんうん……ううん?」
青子の眉間にしわが寄る。
「あの事件…まあ、事件っていうほど大袈裟なことでもないけど、あれがなかったら、今みたいに優と仲良くなったりはしてなかったんだろうなあ」
琴乃がどこか感慨深そうに目を細める。その動作が、普段の彼女よりも大人びていたのだが、今青子が反応するべきなのはそこではなく。
琴乃が巻き込まれたという事件の方だった。
驚かないわけがない。というか、驚けないわけがない。初耳すぎる。
「ら…拉致されたって…一体どういうことなの?」
「いや、えっと…拉致されたっていうか、あれですよ、別に身代金要求とか、そういうのじゃなくてですね」
青子の反応に、慌てたように響が両手を振った。それを聞いてとりあえず青子はほっとする。
だが、それでは一体拉致されたというのはどういうことなのだろう。一体誰に。
「あー…えっと、まあ、復讐?みたいなものですよ。過去に「壊す双子」にボコボコにされたことがあるクズ共が寄せ集まって、積年の恨み?を晴らすために、僕らが一人になった時を狙ったといいますか…そういうわけです。まあ、さすがにクズだからといって、五十対一は分が悪すぎたんですよ、いくら琴乃でも…だからどうか、責めないであげてください」
「責めないわよ。むしろ生きて今ここにいることを、全力で褒め称えたいくらいだわ」
青子は若干顔を引きつらせる。
物語の序盤でも説明したように、白金響と白金琴乃、今では二人合わせて白金ツインズなどという愛称の下、人気者の問題児である彼らだが―中学時代は、全く逆の方面において問題児だった。というか、問題児などというそんな生易しい言葉で片付けていいのか、心底疑問に思ってしまうくらいの問題児だった。
凛々垣中(略して凛々中)最凶の双子、二つ名は「壊す双子」。その名を知らない者は、市内の中学生ではまずいなかったと言えよう。というか、風に乗って高校生や大人達の間でも、一時期騒がれていたくらいだ。
もっとも流布していた通り名が「壊す双子」だったが、他にも「二対の逆鱗」、二人の苗字を文字って「白金粉砕」などとも呼ばれていた。
売られた喧嘩は例外なく買い、売られない喧嘩は例外なく売る。そういった、ただひたすらに喧嘩をすることに明け暮れていた彼らは、そこに自分の生きる意味を見出そうとし、そしてまた揺るぎない強さを証明することで、お互いを形成する世界を守ろうとした―のだろう。
理由がどうであれ、喧嘩をすることに全てを賭けていた響と琴乃は、負けなしの実力であっという間にその存在を周りに知らしめ、“体を壊し、心を壊す”その戦い方から―いつしか「壊す双子」と呼ばれるようになった。その名はわずか数ヶ月で知れ渡り、当然青子たちの耳にも入ってきたくらいだ。
もっとも、赤崎に関しては他者にあまり興味を持つタイプの人間ではなかったので、彼らのそんな異名を知っていたかどうかというのは分かりかねるが。
赤崎と緑間以外の人間に負けを認めたことはないと、そんな風に彼らは言ったし、実際に青子もそれを疑いはしなかったが、勝ち負け以前にそんな過去があったとはと青子は思う。
まあ、彼らほど悪名を轟かせ、周りに敵を作っていたとなれば…拉致や誘拐の一つや二つ、あってもおかしくはないのかもしれい。無論、ないにこしたことはないが。
「で、まあ、そこから色々あってですね。結果、僕と優は琴乃を助け出すために、約五十人強のクズ共を相手に喧嘩をして―最終的には、無事に琴乃を救出することに成功したわけです」
先ほどから響がやたらに“クズ共”を連呼しているのだが、そこには触れないでおいた方がいいのだろうか、と青子は思った。
「無事ってほど無事だったわけでもなかったでしょ。二人ともボロボロだったし」
琴乃が横槍を入れたが、響は何食わぬ顔で首を傾げている。言っている意味がわからないな、とその顔にはしっかり書かれていた。意外と自尊心が高いのかもしれない。
「そういう琴乃も十分…ていうか、よっぽどボロボロだったと思うけど。スタンガン浴びせられて、若干帯電してたし。痣だらけだし血はだらだらだし…何より」
と、そこで響が口を閉ざした。
「響?」
何より、の続きが気になって青子は後輩の顔を覗き込んだ。が、響は先ほどとは打って変わった、見るに堪えないひどい顔をしていて、青子は目を見張る。
まるで、思い出したくもないことを無理矢理自白させられているような、遣る瀬無い、それでいてどこか怒りを滲ませているその表情に、青子は無意識に身を引いた。こんな響を見るのは初めてかもしれない。
「顔が怖いよ。あおこ先輩、困ってる。それにあれは響のせいじゃないんだから…負い目とか罪悪感は、感じなくていいんだよ」
「それでも…あの日、僕がいつも通り琴乃と一緒に帰っていれば、あんなことには…あんな奴らに、だって、琴乃は、体を」
「その辺でやめておけ、響」
そこで別の声が割って入る。台所で昼食の用意をしている優だった。目を向けると、彼の方も響と同じような顔をしていた。
「あれはもう過去の話だ…なんて割り切るつもりは更々ないが、あまり思い出させてやるな。お前の後悔より、琴乃が受けた仕打ちの方が、よっぽど痛い」
なんとなく。
なんとなくだけれど。
青子には想像がついた。
想像が、ついてしまった。
琴乃は、童顔故か実年齢よりも幼く見られがちで、可愛い顔をしている。不特定多数の人間に好まれそうな顔なのだ。青子と同じように。
もしも響が言おうとしていたことが事実で、青子の想像が間違っていなければ。
それはもう―辛いなどという、そんな生易しいものではない。琴乃は男という性を、一生受け付けない体質になっていてもおかしくはないのだ。まして優に抱きつくなど、一体、どれほどの勇気がいるものか。
自分達に辛い過去があったように、響達にもまた、そういった過去があったということなのだろう。そして自分は、どこまでそこに踏み込んでいいのかを、しっかりと見定めなくてはならない。そしておそらく、琴乃のことに関しては、これ以上踏み込むべきではないだろう。それは、彼らだけの領域だ。青子はそう思い、響にそれ以上の続きを要求することはしなかった。
所詮青子と響達との繋がりなど、そんなものである。その程度のドライな関係で、直接的な繋がりなんてものは、何一つ存在してなどいないのだから。
青子が響達と関わるようになったのだって、赤崎と緑間の二人を通じてからだ。
「そんなことよりも、話すべきことはもっと他にたくさんあるだろう。俺とお前が再会した時のこととか」
「え…あ、ああ。うん、そうだね。再会…」
優のさり気ない助け舟により、この居心地の悪い雰囲気からなんとか全員脱する。そして響は、優に話を振られた再会の日のことについて思い出しているようだった。
「俺は絶対に、これから先たとえどんなことがあろうとも、絶対に忘れない。お前の第一声が“五秒以内に俺の視界から消えろ。さもなくば壊す”だったことを」
「ちょ…地味に根に持たないでよ。昔の話じゃないか。イメージ悪くなる」
トントントン、と野菜を切っていた手を止め、優がじとっと響を睨みつける。その視線に、先ほどとはまた違った意味で居心地の悪くなった響が、「うっ」と気まずそうな顔で唸った。
そこで青子は、「ううん?」と首を傾げる。
「響って、昔は一人称が「俺」だったの?しかも、今のを聞いた限り口調も大分…」
「あー…まあ、否定はしませんよ。ほら、僕、これでも元不良ですから」
困ったように眉を八の字に下げて、響が小さく笑った。
元不良。青子の中では、随分昔にすっかり風化していた設定だった。
彼らが「壊す双子」だと知って動揺したのは、出会い頭のほんの一時だけであり、そしてそれ以来、青子は一度だって響と琴乃を、そういう目で見たことはないつもりだ。
過去に彼らがどのような形で存在していたかなど、今の彼らには全く関係のないことで、それをいつまでも引きずるような女々しさを、少なくとも青子は持ち合わせていなかった。彼女はそういう風に、過去に折り合いをつけて生きている。
「しかも、見事に俺のことを忘れていただろ、お前。これが根に持たずにいられるか」
「わ、忘れてないって。昔の僕の知り合いだったんだろうなって…だから、せめてもの情けで壊さずに、鳩尾に一発決める程度にしてあげたじゃないか」
「尚悪いわ!」
優がとても痛そうに表情を歪める。もしかすると、今しがた響の言った“鳩尾に一発”決められた、重い拳を思い出しているのかもしれない。響は飄々と言ってのけたが、鳩尾などという急所を狙った攻撃がせめてもの情けで、しかもそれをその程度とのたまう辺りが、若干ズレているのは確かだ。
そしてまたも青子は、「ううん?」と首を傾げる。
「さっきから気になっていたんだけど、“再会”とか“忘れてた”とか、もしかしたあなた達…中学に上がる前に会ったことがあったの?」
「はい!実はなんと!なんとなんとなんと!私と響と優は、小学五年生の頃まで一緒の小学校に通ってたんですよ!」
青子の質問に答えたのは、なんとか元気を取り戻したらしい琴乃である。
「通ってた?」
「親の都合でですね。私達、転校しちゃったもんですから」
「たった二、三年で、よくもまああれほど完膚なきまでに俺を忘れてくれたな、お前は」
そしてやはり、嫌みったらしく皮肉を言う優であった。存外ねちっこい性格である。
「だから、忘れてないってば。琴乃に聞いてちゃんと思い出したんだよ、僕」
「そうか。次に会った時の第一声は、“俺はお前なんて知らねえよ”だったような気がするが」
「弁解の余地もありません」
話を聞く限り、どうやら再会当初の白金ツインズと優の仲は、とてつもなく剣呑としていたようだ。仲の良い今の三人を知っている青子には、全く想像がつかなかった。
もっとも、それをいうなら一人称が「俺」で、ぞんざいな口調で話す響も、可愛い顔で「壊す双子」の一翼を担う、身体的破壊担当「粉骨砕身」と呼ばれていた琴乃も、「壊す双子」の一翼を担う、精神的破壊担当「二重破壊」と呼ばれていた響と、五十人の荒くれ者相手に立ち回ってみせたという優も、想像出来るかと言われれば、青子はこれっぽっちも想像できないのだが。
「…で、そこまで仲が険悪だったあんた達が、どうして琴乃を助ける為に協力して、現在進行形でそんなに仲良くなっちゃってるのよ」
そう聞くと、響と琴乃が顔を見合わせ、そしてくるりと体の向きを変えて、昼食の準備(がこの中で唯一まともにできる)をしている優の方を見やった。
すると、中々どうして、互いに思うところがあったらしく、響と優は揃って肩を竦めた。琴乃はそれを、どこか嬉しそうに見ている。
「詳しいことは…話せば長くなりますから、また今度、祭さんもいる時にでもお話しますよ。本当に、果てしなく長いので」
祭さんも、と言ったその言葉には、どこか含みがあったような気がした。
―その頃にはもう、赤崎はいなくなっているかもしれないと、この時青子は、なんとなくそう思った。
「祭は知らないの、そのこと」
「まあ…祭さんだけでなく、静さんもですが。良くも悪くも、お二人は引き際をわきまえていたんですよ…というか、こっちが踏み込んできてほしくないところを敏感に感じ取って、あえて触れないでいてくれましたから」
いつかお前らが話して良いと思えるその日まで待つと、どうやら二人はそう言ったらしい。
青子はなんとなく、自分がとても劣悪なことをしたような気持ちになった。
「…ごめん。私は、土足で踏み込んじゃったのね」
そんなことはない、と響が首を振った。
「いいんです。だって僕らは…僕は、青子さんにも救われましたから」
「え?」
「いえ、なんでもないです。それに、謝らないでください。失礼ながら、僕らもこれから、青子さんの踏み込んできてほしくない領域に土足で入るつもりなんで」
―は?と、響の言葉の意味がわからず、青子は首を傾げた。言ったのは響だが、何故か琴乃も、一緒ににやにやと悪そうな笑みを浮かべている。嫌な予感がした。そして大抵、青子の嫌な予感というのは的中する。
準備が終わったらしく、チャーハンを盛った皿を右手と左手に一枚ずつ、そして右腕と左腕にもそれぞれ一枚ずつ、合わせて四枚の皿を優がテーブルへと運んできた。かなり器用なことをする。そしていい匂いだ。
四人はそれぞれテーブルに着き、優が作ってくれたチャーハンを前に手を合わせ、いただきますと声を揃えた。そしてスプーンでチャーハンをすくい、それぞれ口に運ぶ。もちろん美味しかった。
「ところで青子さん、ひとつお訊ねしたいのですが」
「?なによ」
「祭さんのこと、どう思っているんですか?」
ブフッッッッ。
青子は盛大に吹き出した。まことに美人が台無しである。
けほっけほっとむせた青子は、麦茶の入っているコップを凄まじい速さで鷲掴みにし、一気に飲み干した。はあ、とコップを置いて小さく息を吐く。
まあ、誰だってそんな、いきなり踏み込んできてほしくない場所に触れられれば、リアクションの一つや二つ、オーバーになるというものだ。
「な…っ何をいきなり…!?」
クール&ビューティーと名高い彼女にしては珍しく、顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせていた。そんな青子を見て、ほとんど無意識に、可愛いなあと響は思う。そしてそんな自分の無意識に気がついて、響は苦笑をした。
もちろん彼にとって、妹の琴乃よりも可愛いものはこの世に存在していないと思っているし、青子に対しての「可愛い」は、恋だの愛だのそういった面倒くさい感情が取り巻く好意ではないので、あしからず。
「だってまつり先輩とは、ある程度の段階をすっ飛ばしてキスまでしてくれちゃってる仲じゃないですか!しかも学校で!にも関わらず、この先も“幼なじみ”なんていうショボイ関係をまかり通そうとか、見てるこっちが苛々しますよう!」
琴乃が、ぶうぶうと口を尖らせる。
「そ、それは…」
「まあつまるところ、この際その辺の色々をはっきりさせておこうと思いまして。言ったでしょう、土足で踏み込むと」
「そんな殺生な!」
確かに青子自身、その辺の曖昧な関係については、近い内に地につくよう確立させなくてはならないだろうと思ってはいた。そして、その為に取り付けた遊園地デートの約束であり、その時に言うつもりだったのだ。青子の中で答えはもう決まっているし、今更誤魔化すつもりもない。
だが―ここで、このタイミングでそれを口にするのは、青子はなんとなく間違っているような気がした。
「「で、どうなんですか?青子さん(先輩)」」
興味津々に目を輝かせる白金ツインズ。青子は、「うっ」と顔を引きつらせて唸った。優に関してはあまり乗り気ではないようで、やれやれと溜息をついている。
これのどこが、そしてこれを見た誰が。この二人を、かの有名な「壊す双子」だと思うのだろう!
「どう…と、言われても。普通に好きよ、祭のことは」
「はぐらかさないで下さい。まつり先輩のこと、付き合いたいだとか恋だとか、そういう意味で好きなんですかって聞いてるんです」
琴乃がぐいぐいと押しにかかる。青子は、自分の逃げ道がなくなっていることにようやく気がついた。
さすが、「粉骨砕身」などと呼ばれていた過去を持っていても女の子。この手の話には、本当に興味津々であるらしい。
「好きですよね、まつり先輩のこと」
ほぼ断定されたに等しい問いかけだったが、青子としては勿論―首を横に振ることなどできるはずがない。
響と琴乃の推測…否、思惑通りというべきか。青子は祭…緑間祭のことが好きなのだ。それは後輩の言う、そういった意味での“好き”で。
だから勿論、否定はできない。
「どうしてそんなことを聞くの」
「どうして、ですか?理由なんて一つしかないですよ。私が、まつり先輩のことを好きだからです」
「!」
青子は、その言葉に目を見開いた。
(琴乃が、祭を好き?)
そんな素振りは一度も―と否定的になったところで、そういえば琴乃が、赤崎ではなく緑間の方によく懐いていたことを青子は思い出す。そういえば緑間だけだった、響と優は除いて、琴乃が自分から抱きつきにいく対象というのは。
何より、「壊す双子」としての彼らを更正させるきっかけを作ったのは、赤崎と緑間だ。それは決して、赤崎だけの力によるものではない。憧れや尊敬が好意へと変わっていったと言われれば、それは十分にありえる話だ。
「あおこ先輩が、なんとも思ってない、ただの幼なじみだって言い張るなら。もらっちゃいますよ、まつり先輩のこと」
だがしかし。
しかし、それでも。
ここで焦燥感を煽られる水沢青子ではない。
「なあに言ってるの」
青子は、ひどく艶やかに微笑んだ。
仮に琴乃が緑間のことを好きだったとして。
だから一体なんだというのだろう。
そんなものは何も。何も関係がないというのに。
何故なら彼は初めから。
「あれは私のものなんだから。ダメに決まっているでしょう?」
それはもう、好きだと言っているようなものなのだが。と響と優は思った。
琴乃がにっこりと無邪気に笑って、「やっぱり」と言う。
「好きなんじゃないですか、まつり先輩のこと」
「………まさか、」
初めからわかっていたと言わんばかりの琴乃に、青子は「あちゃー」と頭を抱えた。
なるほど、彼女が緑間のことを好きだと言ったのはつまり、青子にそれを言わせる為だったようだ。どうやらかまをかけられたらしい。らしくない、と青子はうな垂れた。
響がこの世界で誰よりも琴乃を愛しているのと同様に、琴乃もまた、響のことを世界で一番愛しているのだ。そこに恋だの好意だのという感情は一切ないにしろ、それがこの双子の本質で、少し考えればわかることだった。まあ、琴乃に関してはもしかすると、異性として優に好意を抱くことがこれから先あるかもしれないが…。
全く、落ち着いて考えれば、みすみす青子があんな罠に引っかかることもなかっただろうに。
『私が、まつり先輩のことを好きだからです』
あの、たった一つの見え透いた嘘で、少なからず自分が揺さぶりをかけられたことは事実だった。それを、表には出さないにしても。
恋は盲目、などとよく言ったものである。
「…否定はしないわ、もう。そうね、私はどうやら、あの馬鹿な幼なじみのことが好きみたい」
随分前から既に自覚していたことではあるが、改めて言葉にしてみるとすとんと胸に落ちてくるものが確かにあった。
「じゃあ、なんでそう言わないんですか?祭さんに、好きだって。お節介かもしれませんが、あの人も多分」
「言えないのよ」
そう、おそらく―響の言うとおりで、青子の思う限り。
緑間の方もおそらく、青子に同じ意味合いを持つ好意を抱いている。
お互いに片想いをしていたのだろう。両思いならぬ、両片思い。もっとも、緑間の方はおそらく、自覚したのはつい最近のことだろうが。だからこそ、そんなこんなで今までずっと、幼なじみとしての現状を壊さずに守ってきたのだ。
響達はおそらくそれを、今の関係を壊したくないから、などというありがちな理由だと思っているだろう。
だがそれは、少なくとも青子にとっては、若干違った。
「…私は、静のことも好きだったから」
今度は響達の方が目を見開く番である。見開きすぎて最早目が点になっていた。青子は気まずくなって顔を伏せる。優の手からスプーンが滑り落ちた。三人とも、熱帯魚のように口をぱくぱくとさせている。
「「「え…ええええええええええええ!!?」」」
それはつまり、お二人に恋をしていると、そういう意味ですか!?そう聞いてきた琴乃はひどいパニック状態に陥っていて、目をぐるぐると回している。そして、ここはさすがと言うべきなのか、響も彼女と全く同じ顔をしていた。さすが双子。シンクロ率は百二十%である。
ちなみに優は、石化してしまったかのようにフリーズしてしまっていた。
「…違うわ。言ったでしょう、好きだったって」
そう、青子にとって赤崎への想いというのは、もう随分昔に過去形へと姿を変え、風化してしまっている。今ではもう、大切な幼なじみという括りでしかない。
今青子が想う相手は、もう一人の方の幼なじみである、緑間だけだ。
けれど赤崎のことが好きだったのもまた、事実であることに変わりはない。想いを伝えた中学時代、青子のそれは優しく拒絶されてしまったけれど。
『違うよ。青子が好きなのは、僕じゃない』
気持ちは嬉しい。でも、いつかきっと後悔する。僕は青子の一番にはなれないから。
赤崎はあの時、そんな風に言ったのだ。そう、まるで、こうなることが初めからわかっていたかのように。
―青子が緑間のことを好きになると、初めからわかっていたかのように。
今なら、あの時の言葉の意味がよくわかる。
「今はね、確かに祭のことが好きよ。それは本当。でも、それでもやっぱり私は、静のことも好きだった…私はまだ、それをきちんと伝えていない。それを静に伝えるまでは…言えないわ。私にはまだ、あいつの隣りを歩く資格がないもの」
青子は静かに目を瞑った。すると、響が「ああ」とまるで何かを思い出したかのような口ぶりでそう言った。
「それが、あなたの未練だったんですね。青子さんにもあったんだ、ちゃんと」
「え?」
確かに好きだったのだと。それは嘘ではないけれど、結局私は彼のことを好きになったのだと―その想いを伝えたかった故に、青子もまた、赤崎のことをこの世に留めたいと思ってしまったのだ。
青子自身が前に進む為に。
「言えばいいんですよ。きちんと伝えてしまえばいい。静さんの為にも、祭さんの為にも、そして…あなた自身の為にも」
「響…」
響が、止まった時間動かすように、ばくばくとチャーハンを食べ始める。途中でチャーハンが喉に詰まったようで、危うく窒息死しそうになっていたが、それでも五分とかからず昼食を食べ終わり、「ふう」と彼は息を吐いた。ごちそうさま、と手を合わせ響が勢いよく立ち上がる。
「さ、早く食べちゃってくださいよ!ただでさえ時間おしてるんですから、ちゃっちゃと作業開始しないと!」
全ては八月七日。残り時間は、もう少ない。
だが、なんとしても必ず。三日後に彼が成仏出来るよう。
別れの日は、もう近い。
第四章 第一話 「バカな幼なじみ」
結局緑間が就寝したのは、夜というには若干おこがましい午前四時頃のことになる。珍しく朝起きられなかったのはそのせいだろう。遥に起こされるまで、緑間は普通に惰眠を貪っていた。
環が用意した朝食を食べ終え、身支度を整えた頃にはもう十時を回っていた。ちなみに緑間が起きた(起こされた)のは八時である。
昨晩、二時頃に遥から解放されたはいいが、色々今日のことについて思うことがあったわけで、寝るに寝付けず結局寝たのは朝方の四時だったのだ。それはもう、起きられなくても仕方がないかもしれない。
赤崎の母親との八年ぶりの再会。勿論緑間は遠足前日の小学生ではないし、ドキドキわくわくなど持ってのほかではあるが、それでも―思うところはある。
らしくもなく、暴力を振るってしまうかもしれないと緑間は思った。というか、暴力を振るわない自信がそもそもなかった。赤崎の母親の対応いかんによっては、我を忘れて殴りかかってしまうかもしれないなど、緑間は冗談抜きに思っている。
おそらく彼女を恨み憎む気持ちは、当の本人である赤崎よりも、緑間の方が強いだろうから。
だが、そんな緑間に対し赤崎は、
「殴れれば、いいんだけどね」
と、意味深に言うだけだった。
目的地へは車で行った。運転したのは赤崎の祖父である衛で、助手席には祖母の環、そして後ろに緑間と遥がそれぞれ座る。三十分ほどかかると言われていた道中は、始終ほとんどが無言だった。赤崎に似ても似つかずよく喋る遥でさえ、沈黙を保っていたくらいだ。
緑間としてはその、なんともいえない微妙な空気を不思議に思いはしたものの、かといって何を喋るわけでもなく。車窓から移り変わる景色をぼんやりと眺めていた。赤崎はやはり無言だった。
目的地に着いたのは、十一時近くである。いつの間にか眠ってしまっていたようで、緑間は今朝同様遥に起こされて目を覚ました。何故だかとても眠たかった。
車は砂利道の続く長い坂道の手前で停め、そこから先の交通手段は各々の足のみとなる。
照りつける太陽を背に、足場の悪い砂利道の坂を上りながら―どうしてこんなところで落ち合う約束をしたのだろう、と緑間は思った。
暑さにやられているのか、足元が覚束ない様子の遥に手を貸しつつ、しっかりと地に足をつけて一歩一歩前進する。途中から、坂道の両脇に生える木々達が良い感じで日陰を作ってくれて助かった。
だが、どうしたところで緑間の疑問が解消されることはない。
一体何故―どうしてこんな山奥に?緑間は、環に何度か問いかけたが、彼女は苦笑いをして「もうすぐわかるんよ」とただはぐらかすだけである。もすぐわかるなら今教えてくれ、と緑間は本気で思った。
赤崎の方は飄々と涼しげな顔で宙に浮いていて、そこには一種の隔絶された空間が出来上がっているようにさえ緑間は感じた。暑くはなさそうであった。
ようやく坂道が終わって一行は一息つく。そこで初めて気がついたのは、線香の匂いがすることだ。さすがにこの後景には、緑間も唖然とした。
坂道が終わっても砂利道は続く。手を引いていたはずの緑間は、いつの間にか遥に手を引かれて歩く形になっていた。
赤崎静には、昔から霊を寄せ付けない力があった。霊媒体質だった緑間祭は、赤崎のその特異な体質によって、今まで霊(主に悪霊)の手から逃れることが出来ていたのだ。そう、赤崎がいたから。
その力は赤崎が霊となってからも有効であったようで、赤崎は生前のように―霊のくせに、緑間から霊を遠ざけた。
だからたとえ、今此処に百を越えるほどの霊がいたとしても、それらが緑間に対して何かを仕掛けてくることはない。どれだけの霊が此処にいようとも。
だが、引き寄せはしなくとも姿は視える。声だって聞こえる。今だって緑間の中には、たくさんの霊が抱えている負の感情が流れ込んできていた。
死にたくなかった。生きていたかった。助けてほしかった。お前が死ねばよかったのに。どうして私が死ななくちゃいけなかったの。
緑間は、ぶんぶんとそれを振り切るように首を振って、目を反らすように俯いた。繋いでいる遥の手は、心なし震えているような気がして―当たり前だ。彼女だって、姿は視えなくとも声は聞こえる。それはある意味、姿が視えている緑間よりも、辛いものなのかもしれない。というか、今この状況で何も感じないのは衛くらいだろう。
一体どうして―盆が近い、霊がかえってくるこの時期に、“墓地”を再会場所に選んだのか。
精神的に厳しいことは、環にだって視えているのだからわかっているはずだろうと緑間は思う。視覚的にも聴覚的にも、正直かなりしんどかった。
それに、墓地にいる霊の全てが、良い霊だとは限らないのだ。今の赤崎に対し、悪影響を及ぼすおそれがある霊だって、多かれ少なかれいるはずである。それに関しても、環はきちんとわかっているはずなのだ。
それなのに、よりにもよってこんなところで落ち合う約束をするなど。
最早自殺行為だ。
この時点で若干(いや、かなり)キレかかっていた緑間だったが、なんとか理性でそれを押さえ込み、遥に手を引かれるまま歩いていく。
そして。
「は…は、か?」
一行が足を止めた先にあったものは、山ほどある内の一つである墓標だった。
藤黄家之墓、そう書いてある墓標の前。
混乱する。藤黄家―これは一体、誰の墓だ?
環が墓前に花束を置き、衛が杓子で桶に汲んできた水をすくい、墓石にかける。ちょろちょろと、水が墓石を流れていく。そして、遥も一緒に黙祷をした。緑間はしなかった。
怒りが急速にしぼんでいくのがはっきりとわかった。
赤崎がそっと目前の墓標を撫で、目を伏せる。
「あのさ、祭」
くるりと身を翻し、赤崎が緑間の方を向く。とても辛そう―いや、悲しそうな顔をしていた。
―何も知らないのは緑間だけである。赤崎も、環も、衛も遥も。緑間を除く全員が、全てを知っていた。知っていて、今まで隠していた。
そのことに関して、緑間は怒りすら湧いてこなかった。ひどい脱力感だけが自分を支配している。
確かに環は、一度だって待ち合わせたとは言っていない。
それに、おかしいとは思った。昨日の今日で会える―だなんて、おかしいと、そう思ったじゃないか。
遥がぎゅうっと緑間の手を握った。歯を。歯を、とりあえず食いしばる。というか、食いしばることしか出来ない。
(何が、絶対に許さないだ)
こんなの、許すも許さないも、ねえだろうが。
『殴れれば、いいんだけどね』
殴ることすら、出来ないって言うのかよ。会って文句を言うことすら―出来ないっつうのかよ。
赤崎の気持ちが、埋もれてしまいそうになるくらい膨大に、とめどなく緑間の頭に流れ込んでくる。
ああ、だから、本当に。
(厄介な能力だよ、こいつは)
その現実に、誰よりも覚悟が出来ないでいたのは。 ※もう離れられること。
バカな幼なじみを庇って死んだ―バカな幼なじみの幼なじみではなく。
消えたあいつの方じゃなくて、
「―僕の母さんは、遥を産んですぐ亡くなっているんだ」
幼なじみに庇われて生かされた、バカな幼なじみの、俺の方だ。
第四章 第二話 「遠い遠い昔のお話」
ほんの少し、長い話になるだろう。
今から十五年前―赤崎…ここでは静と呼ぶことにしよう。静かがまだ幼い、三歳の頃のことだ。彼の母親である奏は、後に静の妹として生を受ける遥を身ごもった。
遥の命が母体に宿ったのは、七月のことである。出産予定日は九ヵ月後の四月。春だった。奏は、自分の身に宿った二人目の尊い命の誕生に感謝し、喜んだ。
この頃既に、静の父親は病により他界してしまっている為、彼女は女手一つで幼い息子を育ててきたということになる。生活保護や、両親である環と衛の支えもあって、それなりに不自由なくやってこれていたが、これが二人となると色々と変わってくるものもあった。
経済的な面での問題は無きに等しかったが、生まれたばかりの赤ん坊の世話を、それだけでなく静の面倒まで見なくてはならない。行動の幅が大きく狭められてしまうし、父と母からは無理ではないかと何度も言われていた。
だが、それでも。彼女はそれを押し切って、遥を産むことを決断する。
それが後に、静や遥、そして彼女自身の運命や、周りのこれからの人生を百八十度変えることになるのだが、それはやはり、今の彼女にはわかりえない話であった。
この頃、遥を産むにあたって奏は苗字を旧姓に戻している。それが「藤黄」だ。
遥を身ごもって、八ヶ月ほどが経った。三月の初めの頃である。
その時は唐突に、何の前触れもなく訪れた。
彼女は定期検査の為、いつものように病院へと向かった。病院まではバスで通っていた。タクシーは料金が高いからだ。
そして、それ故に起きてしまった悲劇だった。
奏の乗ったバスが、トラックと衝突事故を起こした。重傷者三名、奏はその内の一人だった。
決断。
そして、決断を迫られる。
彼女の生涯において、最も辛く悲しい選択を。
―“どちらかしか救えない。母体である奏か、それとも彼女の中に宿る小さな命か”―
医師が下したのは、そういう決断だった。
このままでは、母体が受けた事故のダメージにより、赤子が流産してしまうこと。それを防ぐためには、帝王切開で赤子を摘出するしかないこと。だが、事故により重傷を負った彼女の体は、激しく体力を消耗する出産には、耐えられないこと。
二人を救うことは、限りなく不可能に近いことを。
奏を助けるならば子を諦め、子を救うなら奏自身の命を懸ける覚悟を決めろと―医師が言ったのは、そういうことだった。
勿論彼女の両親は、娘の命を優先しようとした。そしてそれがおそらく、最善であったのだろう。
生きていれば、再び子供を授かる機会があるかもしれない。奏が選ぶべきは、誰がどう見ても自分自身の命を優先することだった。
彼女には、まだ三歳の息子がいる。その幼さで父親だけでなく、母親まで失うなど―果たして堪えられるか。それは、あまりに酷過ぎる。静のことも考えた上で、それでもやはり彼女が選ぶべき選択肢は、一つしかなかったのだ。
その一つを選ぶべきだと、誰もがそう言ったというのに。
―“大切な人を失う辛さは、私もよくわかってる。でも、たとえどんな理由があったとしても…誰かの身勝手で誰かの命を奪うなんて、私には出来ないよ。きっと、あの人だってそう言う”―
彼女の回復を待つことは不可能で、だからつまり、選択に有することができる時間も、少なからず限られていて。
その中で、必死に歯を食いしばって彼女が出した答えは、「子供を助ける」方だった。
―“この子を、助けてください。私は、どうなってもいいから”―
そうして彼女は笑ったのだ。とても苦しそうな顔で、笑顔を作った。
―“静と、この子のこと…お願い”―
それが、奏の両親、つまりは環と衛が彼女から聞いた、最後の“お願い”であり、生きている彼女を見た最後のことであった。医師もなんとか奏の命を繋ぎとめようとしてくれたが、結局彼女は亡き人となり、代わりに小さな命が誕生した。遥はこうして、この世に生を受けたのである。
当然、静と遥のことは藤黄家が引き取る予定だった。奏から託されたのもそうだが、娘の忘れ形見を無碍にできるはずがなかったのだ。
だが、奏の死を聞きつけて葬儀に出席した、彼女の妹―赤崎結が、姉の代わりに子供を育てたいと申し出たのだ。
結は結婚もしていて夫との仲も良好だったが、一つだけ悩みがあり、それは子宝に恵まれないことだった。結婚をしてもう三年が経とうとしていたが、未だに子はなく、流産を繰り返すばかりだった。
そこで結は提案してきたのである。静と遥を引き取ろうと。
さすがに老体で、幼い子供を二人も育てるのは厳しいだろうと判断した藤黄家は、悩んだ末に―静の方を、赤崎夫婦に任せることにしたのだ。
結の方も、どちらかといえば息子が欲しいと言っていたし、以前から静のことを可愛がっていたからだ。姉妹なので、必然的に何かしら似ている部分もあるだろうし、静の方も、かえって赤崎家の方が馴染めるかもしれないと判断し、藤黄家の方で生まれたばかりの遥を引き取ることにしたのだ。
さすがに、子育ての経験値が皆無である結に赤子を任せることは気が引けたし、それに経済的にも、赤崎家にいきなり子供二人は無理があった。そして環と衛には、時間にも経済面にも余裕があったからだ。
そうすることで、静と遥は離れ離れになってしまうわけだったが、それはまあ、ある程度落ち着いた頃にもう一度話し合えばいいだろうと両家で折り合いがつき。
こうして三月九日、奏が命を懸けてこの世に生み落とした赤子が産まれ、その一週間後に静は赤崎家に引き取られた。そして後に「遥」と名づけられる赤子は、藤黄家に引き取られたのである。(三月十六日)
彼ら兄妹は引き裂かれ―次に会うのは、静と遥がそれぞれ高校と中学に進学して、ほどなく経った頃となる。
赤崎家に引き取られた静の一週間(三月二十三日まで)は、それはそれは見るに堪えないものであった。用意されたご飯にはろくに手をつけず、ひたすら暴れまわって食器やおもちゃなどを壊し、義理の親になった結とその夫、赤崎和人に対して敵意をむき出しにする一方で、ことあるごとに「ママはどこ!」「ママのところに帰して!」と叫ぶばかりである。
これにはさすがに参ったという様子で、静を引き取って二週間が経った頃(三月三十日)、事情を話すべく藤黄家へ戻った赤崎夫婦だったが、静の態度は祖父母である環と衛に対しても変わらなかった。むしろひどくなったくらいだ。
つまるところ静は、母親が亡くなったという現実を、受け入れられずにいたのだろう。
そして。
いや、だから、と言うべきか。
静は逃げた。
その日―結が静のことを話す為に藤黄家へ訪れた、三月三十日に。
静は恍惚と、彼女らの前から姿を消した。
勿論全員が慌てふためいた。
あの、子供の小さな体で遠くへなど行けるはずがない。両家は必死にあちこちを駆け回り、警察にも届出を出したものの、静の姿が見えないまま二日が経った―その日。
警察署から、道端に倒れていた子供を保護し、病院へと連れて行ったという人物の話を聞きつけ、隣り町の病院へと両家は急ぎ向かった。そうして、ようやく静のことを発見することができたのだ。
どうやら栄養失調と過労で倒れたようで、その当時静はまだ三歳の子供であったのだから、当たり前といえば当たり前である。
そして、ひっきりなしに「ママ」と静がうわ言のように繰り返していたことも、両家は聞いた。
静はその日の内に目を覚ましたが、第一声のその言葉に、赤崎家と藤黄家は目を見開いた。
―“ここはどこ?ぼくはだれ?”―
静は、生まれてからたった今までの、三年間の記憶を失っていたのである。
専門医の話によると、静は「心因性健忘症」という病にかかり、もっといえば「全生活史健忘」という、“発症以前の出生以来すべての自分に関する記憶が思い出せない”状態であるらしかった。主に記憶喪失と同一視され、心的外傷やストレスにさらされたことでおこる健忘である。おそらく、奏が亡くなったことが原因なのだろう。
効果的な治療法は「催眠療法」で、うまくいけば早期に記憶を蘇らせることが出来るとのことだったが、医師に事のあらましを話すと、なんとも微妙な顔をされた。そこまで深く事情が込み入っているとは、思っていなかったのだろう。
―“お子さんのことを考えれば、このままの状態を放置しておくのはよくありません。ですが、仮に記憶が戻ったとしても、同じことを繰り返してしまうおそれがあります。健忘は本人の意思の問題なので、お子さんが変わらなければ何度でも発症するでしょう”―
ここまで幼い年齢で健忘症にかかることは珍しく、まず前例がほとんどないとのことで、このままにしておけば記憶が戻らない可能性もあると医師は言った。
確かに、静のことを考えるなら、一刻も早く記憶を取り戻させるべきなのだろう。
だが、それは本当に静の為になるのだろうか?
父親を亡くし、母親を亡くし、その現実を受け入れられず、義理の親も祖父母も受け入れられず。世界の全てを拒絶しきってしまっている静にとって、記憶を蘇らせることは、本当に正しいことなのだろうか。
静は、奏の子供であった三年間を忘れた方が、楽になるのではないだろうか。
どのみち、このままではいけないのだとわかってはいた。言って理解できるような歳ではなかったにしろ、あのままの状態が長く続いていれば、どちらにせよ静は倒れていたに違いない。
静の為にも、そしてこれから静と共に生きていくことを決めた赤崎家にとっても、記憶は戻らないままにしておいた方が良い。最終的には、そういう風に判断はした。
だが、後ろめたさはやはりある。自分達はこれから、生まれてから昨日までの静の過去をなかったことにして、すり替える―たとえ三年ばかりの思い出だったとしても、実親である奏の子供であった過去を、彼女らは静から奪わなくてはならない。その後ろ暗さを、一生自分達は背負っていかなければならないのだ。
環は言った。荷が重いなら手離しなさいと。二人とも自分達が面倒を見るから、と。
だがこの時、赤崎結は迷いなく首を横に振ったのだ。
―“私達が、この子の家族になるの。私が、この子の母親になる。私は私なりに、静と向き合って生きていきたい”―
塗り替える思い出の分も、精一杯愛してあげたい。それが彼女と―彼女の夫が出した決断だった。
こうして静はその日、“赤崎静”になったのだ。
奇しくもその日は、四月一日であった。
遥という妹がいることは、静には隠そうと両家の判断でそう決めた。いつ、何がきっかけで戻ってしまうかもわからない記憶だ。どれだけきっかけが些細なことであったとしても、記憶が戻ってしまう可能性は十分にある。もしも遥が妹だと知れば、静は全て思い出してしまうかもしれない。
だから、静と遥だけは絶対に会わせないようにと決めたのだ。その為、奏のように藤黄家に身を置くことは出来ないわけで―赤崎家ご一行は、住居を一転して、出来るだけ藤黄家の近くに引っ越すことにした。いつ、何があってもすぐにお互い連絡が取り合えるように。
そして新居に引っ越してすぐ―それはもう、驚くほどに偶然的な、思わぬ人物との再会を結は果たした。
そう、あの日。道端に倒れていた静を病院へと運んでくれた人物と、ばったり再会したのである。
その人物の名前は、緑間小唄。驚くことに、引越し先のご近所さんだったのである。それはもう、本当にびっくりしたものだ。
彼女には、その当時七歳だった娘と、三歳の息子がいた。そして、家族ぐるみで緑間家と交流があった水沢家も交え、赤崎家も含めた三家は仲良しになった。静と祭と青子―この三人が出会ったのも、ちょうどこの時期である。
そうして月日は流れていった。驚くほどにあっさりと。
そして、傍から見ても贔屓目に見ても、仲睦まじい夫婦であった赤崎夫婦と、その息子赤崎静に不幸が訪れるのは、それから七年の年月が経過した頃のことになる。
静が十歳の誕生日を迎える、ちょうど一ヶ月前の話になる。
六月のことだった。
静の義父、赤崎和人が仕事先の同僚と不倫をしていたことが、結に知られたのである。たまたま偶然、その浮気現場を目撃したのは緑間小唄であった。
その日から徐々に、中睦まじいと言われていた赤崎夫婦の関係は崩壊していった。
和人は朝帰りを繰り返すようになり、結は毎晩酒におぼれ、二人が顔をつき合せれば口論が始まる。その度に静は所在なく、緑間家もしくは水沢家に預けられていた。
二人の仲は険悪になっていく一方で、六月二十日。十余年にも及ぶ夫婦関係に終止符を打ち、結と和人は離婚した。当然、静のことは結が引き取ることとなり、これからは一人で静の面倒を見ていかなくてはならなくなった。
結は専業主婦だったので仕事には就いていなく、まずは仕事を探さなくてはならない。夫が置いていった慰謝料だけでは、いずれ生活が出来なくなってしまうだろう。静を育てるのであれば尚更だ。
だが、そこで彼女は思ったのである。思って、しまった。
―“育てる必要なんてあるの?だってこの子は、私の子供じゃないのよ”―と。
一度自覚してしまったら、もう止まらなかった。
―“私達がいるから、だから。早まっちゃダメよ、結”―
そんな風に何度も、緑間小唄や青子の母親である水沢流歌は、結に対してそう言っていたのだが―それがどういう風に彼女を追い詰めていったかは、言わずともしれるだろう。
そして六月三十日。
赤崎結はたった一言、“ごめん、もう無理”と書き置きを残し、静を置いて家から出て行った。
そして七月五日、行方をくらませた母親を求め―それはさながら七年前の三月三十日のように、静もまた、姿を消した。
そして、七年前の四月一日と同じように静は病院へと搬送され、それを聞きつけた緑間家と水沢家、それと藤黄家が病院へと駆けつけた。七年前を繰り返しているような気持ちだった。
だが、そこには目を疑うような後景が広がっていたのである。七年前とは、違った後景が。
点滴を打たれ、青白い顔で眠る静の首を絞める人物の姿があった。
そう、赤崎結だ。
静の家族になると、静の母親になると、そして自分なりに静と向き合って生きたいと、精一杯愛してあげたいと言っていたはずの彼女が、その時とは全く違った感情を抱きながら息子の首を絞めていた。首を。絞めていた。
それは間一髪のところで小唄たちに止められ、殺人未遂となったが―彼女の気持ちは、変わらなかった。とても冷たい目をして、静のことを見下ろしていた。
―“ごめん、もう無理。だって私、この子がいなければって思っちゃったもの。夫がね、言っていたわ。ずっと我慢してきたけれど、俺にとって全くの赤の他人である静のことを、受け入れ続けることが難しくなって、無理になったって。当たり前よね、似ているところ、一つもないし。
私もね、思った。たとえば私がまた別の誰かを好きになったとして、そうしたらその人は、静のことを受け入れてくれるんだろうかって。子供がいても関係ないって言ってくれるのかなって。
それにもしかしたら、静の方が受け入れてくれない可能性もあるよね。いつかみたいに、また暴れるかもしれない。その人を、父親だと認めてくれないかもしれない。そう思ったらすごく、すごく邪魔だなあって思った。
だから気づかれないように、家を出たのに。これ、わかりやすくいえば捨てたってことになるのに。多分わかってないんだよね。だから私のこと、追ってきたんだよね、きっと。びっくりしたなあ。素直に嬉しかったよ、ああ、私愛されてるんだなあって思った。思ったんだよ。だから、もう一度向き合おうって、向き直ってみようかなって思って、病院に連れてきちゃったけれど。
そうしたらこの子、うわ言みたいに「ママ」って言ったのよ。
それが、決定打だった。だって私、静に「ママ」って呼ばれたこと、一度もなかったんだもの。ああ、やっぱり、忘れていても、心のずっとずっと奥の方で、静は奏姉さんのこと覚えているんだなあって。私、やっぱり姉さんの代わりでしかなかったんだなあって、さ。
お母さん、お父さん。私には荷が重たかったみたい。やっぱりあの時、素直に身を引いていればよかったね。精一杯愛したいとか言わないで。そもそも初めから、大嫌いな姉さんの子供を愛そうとか、多分無理だったんだよね。それでもね、愛そうとした私の気持ちは、本当だったんだよ。
なんで私が、二人を引き取りたいって言ったかわかる?あのね、それは、奏姉さんの子供だったからじゃなくて、司さんの子供だったから。知らなかったかもしれないけれど、私は和人さんと結婚する前、司さんと付き合っていたの。あの人のことが本当に好きだったの。私が、あの人と一緒になるはずだったの。
でも、姉さんが、私から司さんを奪っていって。私に許可なく勝手に結婚して、勝手に子供を作って、勝手に死んで。私本当に悔しくて。
静。私のコンプレックスである奏姉さんと、私が大好きだった司さんの忘れ形見。だからこそ私は、君を引き取ったわけだけれど、結局私は、君をどうするつもりだったんだろうね。
姉さんの面影を見つけては、腸が煮えくり返るような激情を感じて、司さんの面影を見つけては、抱き潰したいほどの愛しさを感じて。私は一体、君をどうしたかったんだろうね。
ねえ、静。きっと君は、これからたくさんの人に出会い、たくさんの人に愛されて、幸せに生きるんだろうね。本当に嬉しく思う。でもね、その反面、私はきっと、静の幸せそうな顔を見たくないとも思ってる。
だって私、姉さんのそういうところが嫌いだったから。
私、姉さんの偽善者ぶりが一番嫌いだった。私から全部、全部!司さんさえも奪っていったくせに!まるで私の気持ちがわかるみたいな言い方で、気持ち悪い同情心なんかで「また頑張ればいいよ」なんて言っちゃってさあ!本当にふざけてる。本当の本当に、大嫌いだった!
ねえ、静。私に、愛されているとでも思った?あはは、そんなわけないじゃない。愛したいとは思ったけれど、愛せるとは思っていなかったもの。初めから、全部、全部嘘だったのよ。全部ね。
それでも静は、きっと私のことを愛してくれていたよね。そう思うと、やっぱり憎たらしい。姉さんも、姉さんに似ている静のことも。
だからこれはね、多分ただの八つ当たりなのよ。一割は冗談。でも、九割は本気。本音。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”
こんな私と今まで仲良くしてくれてありがとう、小唄、流歌。
自分勝手でごめんね、お母さん、お父さん。静のこと、よろしくお願いします。それと、
ごめんね、静。良いお母さんの振りができなくて。今まで楽しかったよ。さようなら。
誕生日、おめでとう。”―
そうして彼女は今度こそ行方をくらませた。静のことを置いて。静と過ごした七年間も、置いて。
その後、静に記憶が戻ることを覚悟した上で、静を引き取ることを決めた環と衛であったが、それを制したのは緑間小唄であった。なんと驚くことに、彼女は―それこそ本当に赤の他人である静のことを、引き取りたいとそう言ったのだ。
藤黄家としては勿論、ではお願いしますなどと言えるわけもなく。一度結に預けた結果がこれで、しかも今度は正真正銘の他人だ、その申し出に対し拒否してしまうのも無理はない。
だが、それでも彼女は退かなかった。どころか、静本人がそれを強く望んだのである。
―“本当にいいの。このまま祭や青子ちゃんと離れ離れになって。本当に静くんは、それでいいの”―
嫌だ、と静は言ったのだ。離れたくない、ずっと一緒にいたいと。
小唄にはわかっていたのだ。静が七年前、母親の消失により暴れつくしたことに対し、今回はその片鱗を見せていない理由を。それが、祭や青子のことを本当の家族のように思っているからなのだと。彼女だけは、静の過去について、結から直接聞いていたのである。
だが、それにしたって不可解であった。何故、赤の他人である静のことを引き取りたいなどと言うのか、藤黄家にはそれがどうしてもわからなかった。彼女にはその動機がないはずだから。
―“だって、結も奏も私の友人ですから。一人で地に足をつけるようになるまで、傍で見守りたいんです。二人の忘れ形見である、静くんのことを”―
この頃すでに、経済的な面においてあまり良くない状況にあった藤黄家は、二人の子供を育てることはほぼ不可能であることが目に見えていて、環と衛は、否が応でも「よろしくお願いします」という他なかった。
そういう過去が、出来あがってしまったのだ。
そうして現在に至る。
第四章 第三話 「赤崎静が欲しかったもの」
「な…は?な、なんだよ…そりゃあ」
緑間のそれはもう、目玉が零れ落ちてしまうのではないかと思ってしまうほどの見開き方であった。だがまあ、驚いてしまうのも無理はない。そんな話は聞いていないのだから。
「母さんは、全部知ってて…俺に隠してたっていうのか」
にわかに信じられない話であった。
「…知らない方が良いこともあるんよ。彼女は大分関わりすぎてしまったけれど…結だけでなく、奏とも旧知だったと聞いた時は、びっくりしたねえ」
環が、困ったように微笑んで俯いた。見れば彼女だけでなく衛も、遥でさえ表情に暗い影を落としている。
(なんでそんな、それが事実なんです、みたいな顔をしやがる)
緑間は、ぎりりっと歯を食いしばった。
「そんなもん…っ信じられるわけが」
「本当のことだよ、祭」
いつものように淡々とした口調で。
いつものように緑間の言葉を遮ったのは。
他の誰でもなく、赤崎静だ。
「本当だよって、お前」
「僕はもう死んでいるからね。実を言うと、その…えーと、心因性けん?なんとかっていう病気は、もう治っているんだ。いや、治っていると言っていいか、わからないけれど…僕はもう、全部思い出した。黙っていてごめん。いまいち確信が持てなかったし…なにぶん随分と昔の話だからね、母さんのことも、断片的にしか覚えていなくて」
(ああ、だから)
だからこいつは、あんなことを。
“ここさ、ずっと昔…僕がまだ全然小さかった頃に、一回だけ母さんに連れてきてもらったことがあるんだ”
「お前は…それでいいのかよ」
「ああ、いいんだ。ちゃんと全部…知ることが出来たから」
少しの間一人にしてほしい、と赤崎が言った。わかった、と言って環達が墓地を後にする。先に車に戻っているとのことだった。
緑間は迷った挙句、結局残ることにした。
今までなら、本来迷うなどという選択肢はそもそも存在していない(お互い離れることが出来ないから)のだが、先ほど赤崎から流れ込んできた意識の中に、それが誤りであるという情報も混ざっていた。
おそらく赤崎本人はそれを、意識的に緑間に伝えようとしたわけではないだろうが…つまるところ夏休みに入ってから、赤崎はもう緑間から離れて行動が出来ていたし、緑間の方も気づいていなかっただけで、赤崎から離れることが出来た、ということらしい。
それを聞いた時、そういえばと、夏休みに入ってすぐ、自分が赤崎の意識がない時だけ離れて行動出来ていたことを緑間は思い出していた。
まあつまり、それが嘘でないことをわかりきっている緑間には、今ここで赤崎を一人にすることは実に容易なことであった。物分りの良い幼なじみを演じて、一人になりたいと言う彼を一人にすることは、決して難しいことではなかったし、どちらかといえば簡単なことだったのだ。
だが、それでも。
緑間は敢えて、それに気がついていない振りをすることにしたのである。何も知らない、聞いていない振りをして、この場に―赤崎の傍に留まることを決めたのだ。
おそらく赤崎はそれを望んではいなかったし、それが自分の我儘であることを緑間は従順承知していたが、それでも。
今の赤崎を一人にしたくないと、緑間は思った。
それは、ある種の使命感のようなものを伴っていたけれど。
(多分本当の理由は、怖いからだ)
今の静を一人にして、そうしたら。
なんの餞別もやれないまま、もう二度と会えないところまでいってしまうような気がして。
だからやっぱり。
これは俺の我儘だ。
「祭、」
「なんだよ。悪いけど、俺とお前は離れられないんだって、わかってんだろ」
「…うん、わかってる」
赤崎は、何かを誤魔化しているかのような顔で、ぶっきらぼうにそう言った幼なじみを横目でちらりと見やった。そして、馬鹿だなあと赤崎は微かに笑う。
(そんな理由をこじつけなくたって、ちゃんとわかっているのに)
君はここに残ってくれるだろうと、僕はちゃんとわかっていたのに。
“そしてできれば、その時はちゃんと、僕の傍にいてほしい”
むしろ残ってほしいと、僕はそう伝えたじゃないか。
優しいのに不器用だとか、それはもう、本当に損な性格だね。
君の優しさは、僕が死んでも死ななくても、多分一生変わらないものなんだろうね。
僕はそれが、ほんの少しだけ悲しいよ。
君は優しすぎるから。
僕はそれが、ほんの少しだけ気がかりだよ。
「怒ってる?黙っていたこと」
「怒ってねえよ、別に。ただまあ…そういう大事なことは、言ってほしかったっつうのも、確かに本心ではある」
(言って、そうしたら、君は)
一体どんな顔をしていたんだろうね。
今の僕と、同じ顔をしていたかもしれないね。
それは嫌だなあ。
「…あのさ、祭」
赤崎は、触れられないとわかっていて、そっと目前の墓標を撫でた。
「前に言ったと思うけどさ、僕、恨んではいないんだよ。全部思い出した今でも、僕より遥の命を優先した母さんのことも、僕を大嫌いだと捨てた母さんのことも。でも、やっぱりわからないんだ」
ああ、確か。前に言った時、祭は眠っていたんだっけ。前にも言ったと思うけどさ、とか、知るわけないか。
幼なじみは何も言わない。慰めることもしなかったし、下手に相槌を打つことも、肩に手を置くこともしなかった。ただ黙って、僕が続ける言葉を待っている。
(本当はもう、悟られているかもしれないけれど)
それでも僕は、口に出して言ってみた。
「僕は本当に、生まれてきてよかったのか、ってさ」
こうやって改めて母さんに会って、今までの色々を全部知って、そうしたら。僕が一番望んでいるものの答えが、わかるんだと思っていた。僕は、僕の生は、本当は望まれていなかったんじゃないかっていう、その疑問に対する答えが、ずっとほしかったんだ。全部忘れていた、僕がまだ生きていた頃でさえ。
「僕は、僕が生まれてきたことに対する理由の裏づけみたいなものが、ずっとほしかったんだよ。それを手っ取り早く証明してくれるものが、ずっとほしかった」
ねえ、血の繋がった僕の母さん。
藤黄奏さん。
あなたは僕を愛していた?あなたは僕を、愛そうとしてくれていた?あなたは僕に、どれくらいの愛を注いでくれたんだろう。
藤黄奏さん。
僕はあなたを愛していた?僕はあなたを、愛そうとしていたのかな。僕はあなたに、どれほどの愛を返してあげられたんだろう。
「つまりさ、赤崎静は」
ねえ、もう一人の僕の母さん。
赤崎結さん。
僕は多分、やっぱりあなたのことを、愛していたんだと思います。あなたはやっぱり、僕のことを愛してはくれていなかったと思うけれど。
僕はあの頃、それが悲しいことだと気づけない子供だったけれど。
「ただ“愛”がほしかっただけなんだ。笑ってくれよ」
言葉にしてみたら、何故だか急に色々なものが奥の方からせり上がってきて、きゅうっと目頭が熱くなった。涙腺が緩んで、涙が流れそうになる。どうしても泣きたくなくて、赤崎は必死になって唇を噛んだ。
「誰が笑うかよ、バカ」
そこで初めて、緑間が動いた。大きくてあたたかいその手が、優しく赤崎の頭に置かれる。不覚にも、多分こういう所に女の子は弱いんだろうなあ、なんて思ってしまった。
(僕は女の子では、ないはずなんだけれど)
ああ、もう、本当に。
いっそ笑ってくれれば良かったのに。
そうしたらきっと、この熱いものも、奥の方に引っ込んでいたに違いないのに。
「今は泣いたっていいじゃねえか。お前は十分愛されてるよ。環さんにも、衛さんにも、遥にも…俺の母さんにも父さんにも、青子の母さんと父さんにも、クラスの連中にも。響や琴乃、優…そして青子にも、俺にだって、お前はちゃんと愛されてる。お前の母さんと父さんだってきっとそうだ。わかってんだろ、それくらい」
緑間の声はどこまでも優しかった。そして赤崎は、その優しさにどこまでも弱かった。
「お前は望まれてなくなんかねえよ。俺が保証してやる。そんで、お前がわからないっつうなら、今ここで俺が言ってやる。お前が生まれてきた理由なんて、初めから決まってんだよ」
そう、まるで。
ごくごく当たり前のことを口にするかのように、赤崎の幼なじみは言った。
「俺達に会う為だよ。そんなこともわかんねえのか、赤崎静は」
(ああ、もう。本当に、敵わない)
僕がずっと探し求めてきたそれを、いとも簡単に君が見つけ出してくるなんて。
(僕は一体、今まで何を見てきたっていうんだ)
答えなんて、すぐそこにあったというのに。
「俺はお前に会えて、すっげえ嬉しかったって思ってる。お前は、違うのかよ」
赤崎は考えて、答えなんて考えるまでもなく明白だったから、迷わず首を横に振った。違わない。違うはずがない。
(…また、気づかされちゃったな)
言われなくてもわかっていたはずだった。今自分の周りにはたくさんの人がいること、そしてこんな僕のことを大切に思ってくれる人がいたことに。
(いや、違うか)
わかっていなかったからこそ、僕はずっとほしがっていたんだから。
愛がほしいなんて、とんだ傲慢だ。僕はこんなにも、ほしがっていた愛で満たされているというのに。
「…母さん」
僕は、母さんの墓標に向き合った。
母さん。
僕の、母さん。
「僕さ、あなたに会うことがあったら、聞こうと思っていたことがたくさんあったんだ」
僕は、母さんと一緒に、もう一人の母さんのことも思い浮かべた。
もう一人の母さん。
僕のことを、嫌いだと言った母さん。
ねえ、母さん。
あなたは僕を愛していた?
ねえ、もう一人の母さん。
僕のことを愛してくれた時が、ほんの一瞬でもありましたか。
(僕は、)
「でも、そんなのはもう、どうだっていいんだ。だって僕は」
たとえ母さんが僕のことを愛していなかったとしても。
たとえもう一人の母さんが、最初から最後までずっと、僕のことを嫌い続けていたとしても。
(僕は、)
「僕は確かに、愛していたから」
会えてよかった。僕を産んでくれて、ありがとう。
「祭」
「なんだよ」
赤崎がゆっくりと顔を上げる。その顔にはもう、悲しみも涙の跡も存在していない。彼は過去と向き合い、そして受け入れたのだ。あれだけ途方もない過去を。
「帰ろうか」
そして次は、緑間が向き合う番である。
現状を受け止め、これから訪れるであろう今生の訣別と向き合う覚悟を、彼は決めなくてはならない。たとえそれが、どれだけ辛く悲しいことであったとしても。
緑間祭は、過去にしなくてはならない。
「おう」
それが、彼が死んだ幼なじみの為に出来る、今生で唯一のことであるのだから。
第五章 第一話 「兄と妹」
それから緑間達は元来た道を車で戻り、藤黄家へと帰った。道中はやはり静かであったが、かといってぎくしゃくとしていたわけでもなく、もう一泊泊まっていってほしいという赤崎祖父母の要望から、緑間(と赤崎)はもう一日、こっちに滞在することになった。
せっかく時間に余裕もできたことだし、緑間としては赤崎の過去やその他諸々についていくつか聞きたいと思っていたのだが、それは自分がするべきことではないかもしれないと思い留まり、結局核心的な部分には触れず、何も知らなかった昨日と同じように振舞った。
が、藤黄家(というか、この田舎町)に着いてすぐ疑問に思ったことが一つだけあり、どうしてもそれは解消したかったので、夕飯の際に緑間は訊ねてみた。
「そういえばずっと思っていたんですけど、なんでこんな古い家…というか、田舎に住んでいるんですか?衛さんって確か」
「昔の肩書きじゃよ、それは」
大きな財閥の社長さんでしたよね、と続けようと思っていたのだが、衛がそれを遮るように言い捨てた。その物言いになみなみならぬ気色を感じ取り、緑間は窺うような形で衛を見る。なんというか、先ほどの温厚な雰囲気とは一転して、とても不機嫌そうな顔をしていた。まるで、思い出したくないものでも思い出したような、そんな顔だ。
(え、俺、なんか言った?)
気に障るようなことを言ってしまったのだろうかと、途端に慌て始める緑間であったが、それに気がついた遥が「ちょっと、おじいちゃん」と衛の体を肘でつついた。顔が怖いよ、と呆れ顔で彼女が言う。
「あ…ああ、すまんすまん。ついな」
「えっと…なんかすみません。軽はずみな気持ちで聞いてしまって」
そう謝ると、衛がゆっくりと首を横に振った。どこかやるせなさそうに、「お前さんは悪くない」と言う。
「会社が息子に乗っ取られてしまってね」
「え…」
まるで予想もしていなかったその言葉に、緑間は目を見張る。知らなくてもいいことは、知らないままにしておいた方がいいこともあるんだよ。そんな風に、すぐ隣りで赤崎が言った。わからないと言っていたくせに、どうやらこの幼なじみは全てわかっていた上で緑間に対し、“わからない”などと言っていたようだ。
緑間は、軽はずみな気持ちで聞いてしまったことを本格的に後悔し始める。
「まさか“翔”があんなことをするとは、思っていなくてな。全く、恩を仇で返すというか、なんというか。ふてぶてしく育ってくれたものだ」
横槍を入れるようで申し訳ないが、環と衛の間には子供が三人いる。まずは長女の奏。次に次女の結。そして、長男でありながら末っ子にあたる、今しがた名前のあがった翔の三人きょうだいだ。
「もう十年以上も昔の話じゃが、今でも時々夢に見るよ。気がついた時にはもう、みんながみんなわしの敵でなあ。本当に、針の筵にいるような気持ちじゃったよ」
「す、すみません…その、俺」
明らかに自分が聞いていい話ではなかったことが一目瞭然で、緑間は勢いよく頭を下げる。ああ、本当に、なんて馬鹿なことを聞いてしまったのだろう。
そんな緑間に対し、「顔を上げなさい」と柔らかい声で衛が促した。
「謝る必要はない。確かに裕福ではないが、少なくともわしは、今の生活を気に入っておる」
「…それでもそれは、俺が謝らない理由には、ならないはずだ」
その返しに、老人は少し驚いたような顔をした。どうやら、別の受け答えを予想していたらしい。
衛が、困ったように微笑んだ。
「お前さんの誠実さを、本当にわしは気に入っておるよ」
今度は、緑間が首を横に振る番だった。
(違う。違うよ、衛さん)
誠実なのは、俺じゃなくて静の方だ。間違ってもそれは、俺じゃない。
ばち、と静と目が合った。
「……」
「えーっと、そ、それよりさ、祭兄。そういう…なんかこう、湿っぽい話じゃなくて、もっと楽しい話をしようよ!私、祭兄の友達の話とか、学校生活の話とか、あとお兄ちゃんの話も聞きたいな!」
居心地の悪い空気を払拭するように、務めて明るく遥が話題を転換した。こういうところは似てないな、と緑間はぼんやり思う。
遥の提案に乗っかって、「私も聞きたいわ」と環が言った。
「わしも聞きたいのう。話してくれるかい、お前さん」
つくづく優しい人達だった。
「…はい、」
その優しさに感謝しながら、緑間はこくんと頷いた。
***
夕飯と風呂を済ませ、その後しばらく雑談をし―二十二時を過ぎた頃、彼らはそれぞれ眠りにつくことにした。緑間は、先日お世話になった客間に布団を敷いて、ごろんと横になる。そして、ふああと欠伸をした。
今日は色々あったし(色々といっても、あったのは一つだけだが)、おそらく身体的―否、精神的なダメージを大きく被っているのだろう。緑間はやけに眠たかった。
このまま眠ってしまいたい気持ちに駆られたが、この後遥の勉強を見てやると約束しているので、なんとか必死に眠気を追い払う。
唸りながらぺちぺちと自分の頬を叩いていると、なんともまあ微妙なタイミングでスマホが鳴った。こんな時間に誰だよ、と悪態をつきながら緑間はその辺に放ってあっるスマホを探す。
「青子だったりしてね」
などと悪霊が茶化してきたが緑間はそれを華麗にスルーし、スマホを発見してディスプレイを覗く。
青子だった。
「もしもし…」
『もしもし祭?…って、あら?どうしてそんなに不機嫌そうなのよ』
「…気にすんな」
彼女の用件は、“いつ頃こっちに帰って来るのか”というものであった。おそらくはまあ、八月七日までに帰ってくるのかどうかということを気にしているのだろう。あえて何故、とは聞かないでおくが、隠す素振りも見せないストレートさに、緑間は少し拍子抜けした。
さて、いつ頃こっちに帰ってくるのか、ということだったが、緑間としては勿論今日帰るつもりでいたのだ。結局いい具合に流されて押し切られ、もう一泊していくことになったが、それを積極的に反対しなかった自分にも非はあるのだろう。
(居心地の良さを感じてしまったから、どうしても首を横には振れなかった)
―ほんの一時でも、静がいない現実の寂しさを紛らわせてくれたから。
「…明日には帰るよ」
明日―つまりは、八月四日である。さすがにもうこれ以上厄介になるわけにはいかない。たとえここにいる人達が、どれだけ優しかったのだとしても。
そう伝えると、「わかったわ」と短くそれだけが返ってきた。
じゃあ、用件はそれだけだから、と青子が電話を切ろうとした―まさにその時。これがまたタイミング良く―否、タイミング悪く。
「まーつーりー兄ー!」
伸ばし棒をフル活用しながら、部屋に遥が入ってきたのである。その姿を見て、サーッと何かが凄まじいスピードで体中を駆け抜けていくのを、緑間は本能的に感じた。
この展開は。
この展開は、あまりよろしくない。
「は…遥…お前、なんつうタイミングで…」
「あれ?もしかしなくてもお話中だった?ごめんごめん。悪気はこれっぽっちもなかったんだけど…だって祭兄、いつまで経っても私の部屋に来てくれないんだもん。約束忘れちゃったのかと思って」
そして、なんともまあ、誤解を生みかねない発言しかしない娘であった。
(この野郎…!)
つうかあれか。わざとなのか?わざとやってんのか!?勉強教えるとか言っておきながら睡魔に負けかかって、且つ青子と電話なんかしてお前のことを放置してた俺が悪いのか!?
電話の向こうで、なにやらとてつもなく嫌な音が聞こえてくる。この女、一体今なにしてやがる。
あまりよろしくないどころか、非常にまずい展開であった。
『ふうん…あんた今あの子と一緒にいるんだ?しかも名前で呼び合っちゃって。へえ…ふうん…で、その女の子の部屋に、一体全体何をするわけなのかしら?』
(うっわ…)
なんかもうめちゃくちゃ怒ってるんですけど。
今のところ怒られる筋合いがない(緑間と青子が恋人同士ではないから)はずなのに、めちゃくちゃ肩身が狭いんですけど!
正直このタイミングで変に嫉妬をされても、緑間としては困る他なかった。
とりあえず弁解はしておく。
「いや、その…か、勘違いをするな。俺は、お前が思っているような不純異性交遊は一切やってない。いいか、こいつは」
「まーだー?早く私の部屋で昨日の続きしようよ。ねえ、」
「ちょっとお前もうマジ黙れ」
妙に甘ったるい声で誘ってくる遥を、緑間は割りと本気で睨みつけた。もっとも、睨みつけたところでそれが彼女に効かないことは明白である。なんせあの、赤崎静と兄妹関係にあるのだから。効かないどころか彼女は、とても楽しそうににやにやしていて、こいつ絶対わざとだ、と緑間は脱力する。
そこで、電話の向こう側から音らしき音が聞こえてこないことに気がつき、緑間は焦って「おーい、青子ー」と呼びかけた。
電話は切られていた。
(あの女、最悪のタイミングで電話を切りやがった…)
悪霊もとい赤崎が、すぐ傍でそれはそれは心底おかしそうに腹を抱えて笑っていた。むろん遥も同様にである。見間違いようもない、こいつらやっぱ兄妹だ。この野郎。
緑間は勢いよく布団めがけてスマホを投げ、ずんずんと遥に詰め寄り「このアホ!何してくれやがる!」と、怒鳴るついでに頭をはたいてやった。「痛い」と彼女は声を上げたが、さして痛くもなさそうな上に、それでも尚にやにやしているというのは如何なものなのだろう。こういうところだけは似てほしくなかった、と緑間は切実に思った。
「やっだー彼女さんとケンカでもしたのー?あははドンマイ!でも、それを私に八つ当たりするのはお門違いじゃないかなー私は祭兄の顔を立てる為に、“善意”で呼びに来てあげたんだから」
「今のは誰がどう見ても“悪意”の塊だっただろうが!」
さらっと虚偽表示をする遥に、緑間は力なくうな垂れた。
(ああ、もう、くそ)
お前のせいで、なんかもう色々と面倒なことになったじゃねえか。どう説明すれば俺の名誉は守られるんだよ。つうかそもそも、あいつはお前のこと知らないんだからな?静に妹がいることすら知らないんだからな?そこから説明しなきゃなんなくなっただろうが…と、ぶつぶつ頭を抱えて念仏のように喋り始めた緑間に、何故か遥は意外そうな顔をした。
「あれ、今の本当に祭兄の彼女さんだったの?」
「なんだその、意外すぎて信じられないみたいな顔は…まあ、違うけどな。幼なじみだよ」
「幼なじみ?それにしては随分と…なんていうか、ううん?あ、実は今の嘘?」
「なんでだよ。今のは水沢青子。俺の話聞いてたんなら、当然青子のことも静から聞いたことあんだろ。俺と静の幼なじみだって」
青子?と遥が首を傾げる。ひどく怪訝そうな顔をしていた。しばらくその顔のまま何かを思い出そうと頭を捻っていたが、やがて彼女の名前に思い当たる節があったのか、遥は「あ、」と声を上げた。
「その人…」
「お?思い出したか?」
「ああ、うん…だってその、青子って人のこと、お兄ちゃんが…」
「遥、」
妹の台詞を遮って、赤崎が制止の声をかける。先ほどまでの馬鹿笑い具合はどこ吹く風で、どこか神妙な面持ちで赤崎が首を振った。まるで、その続きは言ってはいけないと諭しているかのように。意味がわからなくて、緑間は首を傾げた。
だが、遥にはそれがどういった意図を含んでいたのかがわかったようで、途端に口を閉ざした。先ほどまでの会話が、一切合財ぶち切られたような感覚である。そんな風に濁されてしまうと、緑間としては気になって夜もおちおち眠れないというのに。
「なんだよ、言いかけてやめんな。気になるだろうが」
「黙秘権を行使します」
「いや、お前行使しますとか言えるほど立場高くねえだろ」
緑間は軽口を叩いたが、彼女からの反応は薄かった。どうやら本当に黙秘権を行使しているつもりらしく、頑なになって口を開こうとはしない。要するに頑固だった。
おそらくこれ以上追求したところで彼女が口を割ることはないだろうと、彼女の兄も頑固であったことを思い出し、緑間は渋々諦めた。この兄妹、似てなくて良いところばかり似てやがる。
「まあそれは置いておいて。なんで祭兄、付き合ってないの?」
「なんかもう色々すっ飛ばしてストレートすぎる!」
普通そこは、「本当にただの幼なじみなの?」とか、「その人のこと好きなの?」とか聞くところではないだろうか。
「え、だって祭兄、その青子っていう人のこと好きでしょう?」
「断定!?」
「顔を見れば一発で分かるって。恋する乙女みたいな顔だったよん」
「どんな顔だ…つうか、その比喩を男の俺に使うな」
なんというか、遥と話すのは静と話すのとは別の意味で疲れる。こういうとこマジ似てねえ。
「……でも、羨ましいな。そうやって想い合うことが、私にはそもそも無理だったから」
と、急にしおらしく苦笑いを浮かべる遥。その目はとても寂しそうだった。
「なんだよそれ。まるで自分が今、すっげえ報われない片想い真っ只中みたい言い方だな」
遥らしくもない―もっとも、緑間は彼女に会ってまだ少ししか経っていないのだが。
「…うん、まあ、そうだね。片想いは報われないのが常だけど、私の場合は…本当に、二重の意味で報われないね」
どうにもこうにも、先ほどにもましてやりにくい展開になってしまった。たった数日の付き合いではあるが、ここまでしおらしい彼女を緑間は初めて見る。これでは茶化す気にもなれそうになかった。
「あー…えっと、その、俺、お前の気に障るようなこと言ったか?それなら謝る、悪い」
「ううん、祭兄は何も…なんにも悪くないよ。一貫して悪いのは私。だから謝らないで」
そんな、今にも泣き出しそうな顔をで謝るなと言われても、全くもって緑間の罪悪感は拭われなかった。むしろ積み重なっていく一方だった。
「なんか思い出しちゃって…バカだなあ、私。本当に…何も今日じゃなくてもいいのに。ああ、いや、今日だからこそ、なのかな」
妙に納得したような口振りで話す遥に、なんと声をかけるべきかと緑間は悶々と考えていた。
ここは一発ギャグでもやって雰囲気を一転した方がいいのだろうか。それとも、それとなく“何かあったのか”とでも聞けばいいのか…だが、なんとなくそこは遥の領域で、部外者中の部外者である自分が、安易に踏み込んでいい場所だと緑間は到底思えなかった。
「私…本当はずっと、聞いてほしかったのかな。…ううん、そんなわけない。そんなわけないけど…でも、これも何かの縁なのかもしれないね」
「…遥?」
「あのさ、祭兄。ちょっとだけ話、聞いてくれる?」
その聞き方はずるい。それは、相手に断る隙を与えない、相手の逃げ道を塞ぐ聞き方だ。勿論拒否ができるはずもなく、緑間は曖昧に頷いた。
―本当に、似なくていいところばかり、この兄妹は。
「…私ね、絶対に好きになっちゃいけない人のことを、好きになったの」
彼女は、淡々と話し始めた。
―“その人と初めて会ったのは、私が中学生になってすぐのことだった。偶然、本当に偶然、その人が家に来た時に鉢合わせちゃって。後からおばあちゃんに事情を聞いたら、どうやらその人のこと、私にだけは会わせたくなかったみたいなんだよね。なんで、って詰め寄ったら渋々話をしてくれて、ああ、そういう事情があったならそれは仕方ないのかもしれないって思って、妙に納得したんだよ。その人のことは、いまいちまだ、よくわからなかったんだけど。
でも、それまで顔も、名前も知らなかった人だけど、初めて会った日からなんとなくね、ちょっとずつ関わり合うようになったの。
ついこの間まで全くの赤の他人で、私はおばあちゃんの話、正直受け入れられなかった部分もあって、それは多分その人も同じだったはずなのに、それでもその人は、不器用なりに手探りで、私のことを知ろうとしてくれたんだ。私という存在を、受け入れようとしてくれたんだと思う。
その人は、結構頻繁に家に来るようになって、土曜日とかも、わざわざ時間を割いて会いに来てくれるようになって。毎日のとりとめのないこととか、学校でのこととか、友達のこととか、とにかくお互いのことをたくさん、いっぱい話したの。一緒に遊びにも行った。
その人はすっごく頭が良くて、私は…うん、正直言うとあんまり成績は良くなくってさ。だから私、結構思い切って“勉強教えて”って言ったんだ。断られるのすっごく怖かったけど、それでも、もっと一緒にいたいと思ったし、そういう口実があればもっとたくさん会えると思ったんだよね、私は。
でも、その人からの返事はなんか微妙な感じで…あんまり人に物事を教えるのは得意じゃないんだって言われてさ。体のいい断わり文句だなって思って、やっぱ言わなきゃよかったなあって思いながら相槌を打ったら、“うまく教えてあげられないかもしれないけど、それでもいいなら”って言ってくれたんだ。それが本当に、本当に嬉しくて。
一緒にいるのが楽しくて、一緒にいられる時間がとても大事なものみたいに感じるようになって、その人が家にいることが、なんだかすごく嬉しくなって。いつの間にか最初の頃のわだかまりもなくなって、その人が家にいることがすごく自然なことみたいに思えて。
私にとってその人は、そういう存在になってたんだよね。ずっとここにいてくれればいいのにって、思っちゃうくらい。
ふとした時にその人の顔が思い浮かぶようになって、気づいたらその人のことを考えるようになって。今度はいつ来てくれるかな、とか。次会ったら何話そうかな、とか。
そんなことばっかり考えるようになってて、私自身も、それに対して疑問なんてこれっぽっちも抱いてなかったんだけどね。ある日言われたんだよ、「遥、なんか最近雰囲気変わったね」って。「恋をすると女は綺麗になるって言うけど、なんか今その典型例を見ている気分だわ。すごい乙女な顔してる」なんて友達に茶化されたの。なにそれーって冗談半分に聞き流してたら、一番仲良い友達が、私に言ったんだよね。「好きな人でも出来た?」って。
それが、多分決定打だったんじゃないかな。だって私、そう聞かれた時、否定できなかったんだもん。なんとなく納得しちゃったんだ。ああ、これって恋だったんだなあって。
でもさ、でもですよ?それってダメじゃんって思ったんだよ。これが、その人に対して抱いている感情が、恋だったって気づいた時、私、喜びよりも後悔の方が勝っちゃってさ。思わず泣いたんだ。そうしたら、はやし立てていた友達がいっせいにギョってして、なんかよくわからないけど謝られて。別にみんなが悪いわけじゃないのにね。まあ、気づくきっかけになったことは確かだけど。多分私は、気づかないままでいた方が幸せだったんだろうけど。
だって、だってさ。だって私、この世界で唯一、その人のことだけは好きになっちゃいけない存在だったわけなんだよ?そして私は、この世界で唯一、その人とは決して結ばれちゃあいけない存在で、その人から愛とか、そういうの、何一つもらえない存在だったわけで。そりゃあもう、わかっててもやっぱり悲しいよね。うん、泣いちゃうくらいにはさ。
その人に好きな人がいたからっていうのが理由だったわけじゃないよ?…まあ、好きな人は、いたみたいだけど。さっき、お互いのこと、たくさん話したって言ったでしょ?よく聞いてたんだよ、その人と親しい人達のこと。その人が好きだっていう人の話もね。小さい頃から好きだったんだって、困ったような顔で笑ってた。告白したの、って聞いたら、告白する前に失恋したんだよって。
やっぱりその人は、相変わらず私に会いに来てくれるんだよね。そして、頭を撫でてくれて、抱きしめてくれて、笑いかけてはくれたけど。やっぱりそれは、私がその人に対して抱いている“好き”っていう感情とはかけ離れていて。それはやっぱり辛くて、悲しくて、痛いことだったけど。求めちゃいけないってわかってるから、「好き」だなんて言えなくて。
勿論絶対に叶わない恋だってわかってるから、何度も何度も諦めようと思ったんだけど…ちょっとしたことでまた、やっぱり好きだなあ、なんて思っちゃうから。結局色々なもの、全部引きずったまま、時間だけが過ぎていって。気づいたら、その人と初めて会った日から、もう二年も経ってた。
最後に会ったのは、確か二ヶ月くらい前で、その時その人に「今度来た時、話したいことがある」って言われたんだ。今じゃダメなのって聞いたら、まだダメなんだって。時間がかかるかもしれないけど、待っててくれる?って言われて、なんか諸々の事情で離れ離れになる恋人同士の遠距離恋愛前日、みたいな会話だなあって思いつつ、その時私は、「待ってる」って言ったよ。
それからしばらく来てくれなくなって…まあ、メールとか電話のやり取りはあったんだけど。その度に、後もう少しだけ待っていてほしい、って言われて。その度に私は、うん、って言って。
二ヶ月が経って。
その人ね、「今度来た時話したいことがある」って言っていたのに、結局それを私に言わないまま、すっごくすっごく遠い、私の手が届かないところまで行っちゃったんだ。
本当の本当に、
「…報われない恋、だったな」
話を終えて、それでも尚笑顔を作ろうとする彼女を見ていられなくなった緑間は、その細い手首を掴んで若干強引にその体を抱きしめた。悪霊じみた幼なじみは、いつの間にかいなくなっている。
「笑うな。頼むから、これ以上…」
抱きしめる腕に、自然と力がこもる。壊れてしまうのではないかと緑間本人が思ってしまうくらい、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。遥は、痛いとは言わなかった。
報われない恋。
ああ、そうだ、それは、確かに。
「…、ちゃ、ん……お兄、ちゃん」
遥は、泣いた。
ぽろぽろと、ぼろぼろと。
嗚咽を漏らして、涙で顔を濡らして、彼女は泣いた。
お兄ちゃん、と呼びながら。
確かにそれは―報われない恋だ。
「ずっと、好きだった…本当の本当に、大好きだったの。報われないってわかっていても、それでも…」
お兄ちゃんのことが、好きだった”―
緑間は何も言わない。ただ黙って、彼女のことを抱きしめる。報われない恋をしたという、悲しみに濡れた彼女のことを。
(…愛して、やれればいいのに)
それは、彼女の言う兄が、ではない。愛してやれればいいのに、というのは緑間自身が、という意味である。もっとも、どれだけ時間を重ねたところで、それが到底無理なことであることはわかっているけれど。
―彼女にとって兄のような存在に。全てを撤回しよう。
緑間が彼女の兄になることは、至極簡単なことであったのだ。なんせ彼女は、たった一人の兄のことを“兄”だなどと思ったことがないのだから。
果たして赤崎は、このことを知っていたのだろうか。
(ああ、いや)
知っていたからこそ、このタイミングで今、あいつは姿を消したのかもしれない。
どちらにせよ―今の遥を抱きしめるのに、赤崎では役不足だ。きっとそれをわかっていたからこそ、幼なじみはこの場から退場したのだろう。
だが、そこまで考えて、考えたところで今この状況になんの関係もないことはわかりきっていたので、緑間は赤崎に関する思考を一旦閉じる。そして、慰めるように彼女の背中を撫でた。
「…祭兄みたいな人を、好きになればよかったのかなあ」
その小さな呟きを、本来ならば聞き流すべきだったであろうその呟きを、それでも緑間ははっきりと耳で捉え、そして。
「無理だよ、お前には」
それがおそらく、誰もが同じだけ傷つく一番良い答え方だっただろう。
遥は「そっか」と呟いた。
「…ありがとね」
行き場のない“ありがとう”だけが、ここに残った。
第五章 第二話 「閑話Ⅱ」
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん。と、鳥の鳴き声が聞こえてきた。さすがに鳴き声だけで種類を判別することはできなかったが、まあ、それがどんな種類の鳥であったところで、緑間にはあまり関係のないことだ。
とりあえずはまあ、いつも通りの朝なのだろう。
「う…ん、」
緑間は夢うつつに目を覚ました。そして―
「…○△%¥$※#*Σ×☆!!?」
眠気が一気にぶっ飛んだ。
(な……っ!)
緑間のすぐ隣りで、赤崎の妹―もとい藤黄遥が、すやすやと眠っていたのである。それはもうぐっすりと、無防備に。
何がいつも通りの朝だ。
つうか、このパターンこれで一体何回目だよ。
緑間はこれでもかというくらい深く溜息をつき、とりあえず何故こんなことになっているのかと記憶を探った。確かなことは、間違ってもあんなことやこんなことはしていないということだけである。お互い服を着ていることが何よりの証拠だ。いや、そういう問題じゃない。
しばらく経って、緑間はもう一度溜息をついた。
(そうだ、昨日)
遥が大分落ち着いたことを見かねて、「もう今日は部屋に戻って寝とけ」と緑間は言った。そう、確かに言ったのだ。言ったのにこの娘、嫌だなどと言いやがったのである。私はちゃんと話したんだから、祭兄も話さないとダメ―とかなんとか。開き直りやがったのだ。
「…つうか、俺は別に頼んでねえだろうが」
勝手に人の逃げ道を塞いでおいて、遥の言い分はあんまりであった。
だがまあ、流されてしまった緑間にも非はあるのだろう。
その後青子のことについて半強制的に吐かされ、そしていつの間にか寝おちしてしまったというのが、事の真相である。とりあえず、あんなことやこんなことはしていないようで本当によかった。
(まつげ長…)
遥の寝顔を見て、緑間は無意識にもそんなことを思った。そういえば、赤崎の方も負けず劣らずまつげが長かったような気がする。さすが兄妹、寝顔も本当にそっくりだ。
そして髪も同じように、くせのない綺麗でまっすぐな、指通りの良い黒髪である。ここはよく手入れされている分、艶の具合が赤崎とは比べ物にならなかったが。
(あいつがもし、女だったら)
中学三年生の幼なじみは、今の遥のような容姿だったのかもしれない―なんて。
最近はやけに仮定法が好きだな、と緑間は自虐的に自分を笑った。
「何僕の可愛い妹のこと、色目で見ながらにやにやしているのさ」
と、多少ぴりぴりとした感じが否めない声音で、何者かが緑間に言った。体を起こして、緑間はその姿を確認する。その何者か―つまりは赤崎が、壁に背をもたれながら若干険しい表情で座っていた。
緑間は特に焦る様子もなく、呆れたように溜息をつく。
「色目でなんて見てねえし、にやにやもしてねえよ。お前の目は節穴か。それと、おはようの挨拶を忘れんな」
「ああ、そうだね。おはよう。提案なんだけど、これから永遠の眠りにつくっていうのはどうかな」
「おう、はよ…って、そんな不吉な台詞を続けるな。お前のそういう笑顔逆に怖いんだよ!」
と、声を張り上げてから、緑間ははたと口元を押さえる。遥が寝ていることをすっかり忘れていた。
起こしてしまっただろうかと彼女の顔を覗き込んだが、どうにも目を覚ます気配はないようだ。よく眠っている。
「まあそれは冗談だとして」
「そりゃあな。冗談じゃなかったら逆に困るわ」
「どうして君は遥と一緒の布団で寝ているのかな。返答次第では冗談が冗談で済まなくなるかもしれないんだけど」
「だからこええよ!お前が言うと、これっぽっちも冗談に聞こえないんだからな!?つうか冗談じゃなかったのかよあれ!」
つうかあれだよ、俺今回(今回?)は全く悪くねえからな!?むしろ被害者だよ!こいつが勝手に布団の中潜り込んできて!話せ話せってしつこいから!結局色々洗いざらい全部喋らされて、挙句の果てにいつの間にか寝おちしてたとか!それ全面的に俺に非はねえだろうが!
「…なんてね。冗談だよ冗談。これは本当。疑ってなんてないよ」
「どっちなんだよ…」
「信用してる」
「…そりゃどうも」
緑間はそっぽを向いた。“信用してる”―今更ながら、その言葉をひどく嬉しく思った。本人には決して言ってはやらないけれど。
「にしてもお前、ほんと遥のことになると人格変わるよな。正直驚いてるぜ、ここにきてまだ、俺の知らないお前が存在してるんだもんな」
もう十年以上、長いこと緑間は赤崎と幼なじみをやってきていて、お互いおそらく本当の家族よりもずっと長い時間を共有してきた。青子だってそうだろう。幼なじみという枠組みでは足りず、きっとこの関係は、家族のそれによく似ていた。知らないことなど、ないものだとばかり思ってきた。
だから緑間は驚いたのだ。遥と会って、自分が知らなかった赤崎の一面を知れたことに。
「…らしくないとは思うよ。でも…やっぱり嬉しかったんだろうね。僕にきょうだいがいるってわかった時。勿論戸惑いはしたけど…大事にしたいって思った。たった二人だけの家族だし」
たった二人だけの家族。
赤崎のそれに、昨晩の遥の言葉を緑間は思い出した。
赤崎のことが好きだったという、その言葉を。
「なあ、静…お前さ」
「うん?」
遥の気持ちを知っていたのか。だから昨日、何も言わずにいなくなったのか。
言おうと思っていたことはたくさんあった。だが、遥がそれを、赤崎に対して突き詰めることを望んではいないだろうと思い、結局「なんでもない」と緑間は後を濁すことにした。すると赤崎が、困ったように笑ったのだ。
「…別にいいのに。遥の気持ちを知っていたのか、でしょ。聞きたいのは」
ふむ。だがしかしどうして、どうやらあっさりと心の内を読まれてしまったようだ。緑間は返事をせず、ただ黙って俯いた。
「正直言うと、気づいていなかったよ。昨日初めて遥の気持ちを知ったから」
「お前…部屋から出ていったくせに聞いてたのかよ」
「仕方ないじゃないか。わかっているだろ、僕らは一定距離以上離れることは出来ないんだって」
それは。
それは―嘘だろう。
そう言いかけて、緑間は結局やめた。
そしておそらく、話を聞いていたというのも嘘だろう。赤崎は、盗み聞きなんて卑怯で器用なことを出来るような奴でないことを、それくらい緑間はわかっている。
だからやっぱりわかっていたのだろう。昨晩遥が切り出した話の内容も。
つまり、遥の気持ちに気づいていなかった―というのも嘘なのだ。少なくとも緑間は、そう思う。
「…じゃあお前は、それを聞いてどう思った?」
だが、緑間は赤崎がついた諸々の嘘についてはあえて触れず、そのまま話を続けることにした。何もかもオープンな幼なじみが、このタイミングで嘘をついた理由くらい、察しているつもりである。十年―正確にいえば十五年。それほどまでに、長い年月を共にしてきたのだから。
(悪い、遥)
多分お前は、静にこんなことを聞いてほしくて俺に打ち明けてくれたわけじゃないだろうから。
お前はむしろ、静にだけはその気持ちを知られたくはなかっただろうから。
だから初めに謝っとく。ごめんな。
「どう…か。そりゃあまあ、嬉しかったよ。僕は大概、好意を抱かれるにはほど遠い人間だからね」
でも、と赤崎が続ける。そんな顔するなよ、と思わず言ってしまいそうになるくらい、赤崎は痛みを抱えているかのような表情で、悲しそうに遥を見た。
「やっぱり、気持ちには応えられない。それは遥の為にならないし、僕が遥に対して抱く感情は、それに近いようでとても遠いから」
「…もしも遥が好きだと言ったら、お前はちゃんとそう答えられるのか」
困ったような顔をして、赤崎が眉を八の字に下げる。
「うん。はぐらかしたりはしないよ。…遥が前に進めないからね」
「そっか」
予想通りの返答に、緑間はただ短的にそう返した。不思議と、想いを受け入れてはもらえなかった遥のことを、可哀相などとは思わなかった。
“はぐらかしたりはしないよ”
想いの形は違えど、彼女は十分赤崎に愛されている。だからきっと、いつかそんな日が来たとして、彼女も泣いたりはしないはずだ。これもやはり、緑間の推測でしかないけれど。
「…ああ、そういや」
と、そこで緑間はあることを思い出す。
「遥が言ってた、“今度来た時、話したいことがある”っつうのは、一体なんだったんだ?」
「……!」
途端に、赤崎の表情は一変して、大きく目を見開いた。ここまで露骨に驚いた顔をする幼なじみを見るのは、本当に久方ぶりのことかもしれないと緑間は思う。
しばらく経って、赤崎は見開いていた目をゆっくりと細めていき、「そっか」と独り言のように呟いた。
「遥…覚えてたんだ」
出来れば忘れていてほしかったな、と赤崎が苦笑いをする。忘れていてほしかった―ということは、その内容が遥にとって決して良いことばかりではなかったと、そういうことなのだろうか。
それでは一体、何を言うつもりだったのだろう。緑間が目で訴えると(訴えるまでもなく、どうせテレパシーで伝わっているだろうが)、赤崎は静かに首を横に振った。
「…それは言えない。遥にとっては、酷なだけだ…それにもう、実現不可能なことだしね」
「それは、」
それは、俺のせいか。俺を庇ったことでお前が死んだから―だから、実現不可能なことになったのか、と。緑間は言いかけて、言う前になんとか言うのをやめた。
「うん?」
「…いや、なんでもない」
(…だってそんなの、言うまでもないだろうが)
そんなわかりきったことで赤崎のことを困らせたくはなかった。だから言わなかった。それだけのことだ。
「なあ、静」
「なに?」
『好きな人は、いたみたいだけど』
―本当に緑間が聞きたかったことは、これだった。前者の二つよりもずっと緑間の中に重くのしかかってくる、おそらく自分でさえも踏み込むことを許されない、赤崎だけの領域。
『小さい頃から好きだったんだって』
小さい頃どころか、今まで赤崎の幼なじみを長いことやってきた緑間ではあるが、好きな人がいるだの告白されただの、そういう色恋沙汰の話を振られたことは一度もなかった。緑間から振ったことは割りとあるが、反応が素っ気なかったことは言うまでもないだろう。
それくらい赤崎は恋愛に関して疎かったし、恋愛そのものに興味がなかったんだと、少なからず緑間の方はそう思っていたわけだが。
それが一体どうして。
好きな奴がいただと?
(んなアホな)
こう言ってはなんだが、赤崎の人間関係は良好だったかと言われると、正直素直に首を縦に振るのは厳しいものがあった。クラスメイトとも、男女問わず仲が良かったわけではない。緑間が自分から絡みにいくのは確かに赤崎だけであったが、赤崎が自分から絡みにいくのもまた、緑間だけであった。基本的に赤崎は、他人に対して必要以上に関心を寄せない性格であったし、自分が本当に心を許せると思った人物以外とは、極端に距離を作る傾向にある。それは今日においても解消されていない。
だから基本的に赤崎は、緑間以外のクラスメイトとは関係が希薄なのである。
そんな環境で―好きな人など、出来るはずがないではないか。
もっともそれは、ある人物一人を除いての話であるが。
(小さい頃から好きだった…ね)
そう、ある一人を除けば。赤崎が異性に好意を抱くなど、無しに等しいことがよくわかる。―ある一人を除けば。
だが今、ここで“ある一人”を除く必要が、一体どこにあるというのか。
緑間はその“ある一人”のことをよく知っている。
当たり前だ―小さい頃から、ずっと一緒だったのだから。
「…お前さ、青」
「う…ううーん……」
言いかけて、遥の夢うつつなその声に緑間はびくりと肩を縮こせる。なんというか、またしてもバッドタイミングであった。遥が「うーん」と唸りながら目を覚ましたのである。
こうなるともう赤崎と話を続ける気にはならず、緑間は溜息をついた。
(もしも、)
遥が起きず、自分が赤崎にそれを問い、そしてもしもそれを肯定されていたら―どうするつもりだったのだろうか、と緑間は思う。今更幼なじみが恋敵だなど、笑えなさすぎた。そう思うと、遥が目を覚ましたことは、緑間にとってバッドタイミングでもなかったのかもしれない。
緑間は、ぼうっと天井を眺めている遥に、「おーっす」と朝の挨拶をした。すると彼女はゆっくりと首を動かし、緑間の方を見る。そしてゆっくりと辺りを見渡し―。
「…わっ祭兄。あれ、なんで私の部屋に?はっもしかして夜這―」
「勝手に人を変態扱いしてんじゃねえ」
まあ、どこかまだ意識がぼんやりしている様子だったので、そういう勘違いをしてしまうのも仕方ないことなのかもしれないが。
…って、いやいや。仕方なくねえだろ。
「うん?ううーん…えっと…あれ?」
「覚えてないのか?お前昨日、あのまま俺の…っつったら語弊があるけど、この部屋で寝ちまったんだよ。イコールここはお前の部屋ではない」
説明するとだんだん思い出してきたようで、「ああ、そういえば」と納得したように彼女は頷いた。ふむ、悲鳴でも上げられるかとひやひやしていたのだが、どうやら杞憂であったようである。
「そっか…うん、ごめんね、祭兄」
「いや、それはいいけどよ。とりあえずお前も、朝の挨拶を忘れるな。そういうところまで静に似るんじゃねえ」
どうしてこう、この兄妹は似なくて良いところばかり似るのだろう。こちらがおはようと言ったのだから、まずはおはようと言うべきではないだろうか。
緑間がそう言うと、苦笑いをしながら「おはよう」と遥は言った。
「お兄ちゃんも、おはよう」
「…おはよう、遥」
彼女は、姿は視えなくとも声は聞こえている。とりあえずは赤崎から返事が返ってきたことに、安心しているようだった。
なんというかまあ、微妙に微妙な空気が流れ始めたので、緑間はその空気を一転する為にとりあえず何かを言ってみる。
「つうかお前もあれだよな。神経が図太いというか、肝が据わってるというか…よくもまあ、会ってばっかの男と同じ布団で寝るとかいう強行に走れるよな」
若干皮肉っぽく緑間が言ってやると、遥がふいっと拗ねたようにそっぽを向いた。
「祭兄だって人のこと言えないでしょー。それに、私別に何も心配してなかったもん。祭兄は私に手出さないってわかってたから」
「あ?なんでだよ」
「ヘタレだから」
なんだこいつ。ケンカ売ってんのか。
「うん、実際ありえないよね。いくら私が年下で、祭兄に好きな人がいるって言っても、普通男女が夜に一緒の部屋で一緒の布団に入ってたら、男性の方がなんらかのアクションを起こすものだと思うんだけど。あそこまでお膳立てされて何もしてこないとか、それはもう男じゃないよね。鶏だよね。むしろ異性に興味ないんじゃないかって思うよね」
ひどい言われようだった。何故ここまで言われなければならないのだ。
「お前なあ…その言い方、まるで何かしてほしかったみたいにとれるぞ」
「やっだー誰もそんなこと言ってないでしょー」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべて、挑発的な目で緑間を見た。
「まあでも、まさか祭兄があそこまでヘタレだとは思わなかったけど」
「…ヘタレじゃねえよ。つうか、あんまりからかうと怒るぞ」
そう、断じてヘタレなどではない。そもそも緑間は、年下は恋愛対象には含まないことに決めている。だからまず、三つも年下である遥に対して、変な気を起こすことはありえない。
それに、万が一そんな気が起きたとして、緑間が行動に移せるはずがないのだ。なんせ彼女の兄は、赤崎静である。
だから、断じてヘタレなどではないのだ。断言する。
「祭兄の根性なし」
「……」
「祭兄の臆病チキン野郎」
「……」
「祭兄の甲斐性なし」
「……」
「祭兄の―」
そろそろ本気でカチンときた緑間は、ひくひくと口元を引きつらせながら、調子の良いことばかり言う遥に、少しばかり思い知らせてやることにした。
彼女の肩をとんと押し、緑間はその華奢な体を布団へと押し付ける。ここで勘違いをしてほしくないのが、緑間は“押し付けた”のであって、“押し倒した”わけではないということだ。だがしかし、どうやったって構図的には、緑間が遥のことを押し倒している―どころか、襲っているようにしか見えないのだけれど。
ちょうど赤崎は、今しがたリビングへ向かっていったところなので、怖い怖いお兄さんがいない内に少しばかりちょっかいをかけてやろうという算段である。
必然的に緑間は遥に覆い被さるような体勢となり、双方の密着度がぐんと上がった。息がかかる距離に他者の顔があるというのは、たとえ相手が誰であってもどぎまぎするものだと思っていた緑間であるが―
「あったま来た。マジで犯すぞこの野郎」
それは思いの外、見当違いも甚だしい勘違いであったようだ。
「どーぞご自由に。どうせ何も出来ないんだろうけど」
あくまで強気な態度で応じる遥。うーむ。これはやはり、男としての威厳を保つためにも、緑間は何かしらの行動に移らなければならないようだ。
さて、どうしたものか。
考えて、考えて、考えた挙句。
緑間は、がぶりと遥の首筋を噛んでやった。
舐めてもよかったのだが、それだとどうにも卑猥な感じになってしまうような気がしたので。
「いった!いたっ!痛い!」
途端にじたばたと抵抗を始める遥に、お前のそれも男に迫られてる女の反応じゃねえよ、と心の中で毒づいておいた。
「バーカ。この俺を本気にさせようだなんて、百年早いんだよ」
とりあえずはまあ、これで許しておいてやろう。そこまで強く噛んだわけではないから歯形も残りはしないだろうし、これなら赤崎にもバレないはずだ。もっとも、遥がチクったりしなければの話であるが。
満足いった緑間は、遥の上から退けようと体を動かし。
だがそれは、予想外の遥の動きによって遮られた。
遥が、ぐいっと緑間の胸倉を掴んで引き下ろし、同じ場所に歯を立ててきたのである。これにはもう、緑間もびっくりするしかなかった。
「痛…っ」
割と容赦なく噛んできたので、思わず緑間は顔を歪めた。こっちは手加減してやったというのに、この娘、全く持って力加減など皆無である。これ絶対歯型ついた、と緑間は確信した。
がじがじと噛まれていると思ったら、今度は噛んだその部分を緑間はべろりと舐められた。なんだそれは消毒のつもりか。
とりあえず、くすぐったくて仕方がなかった。
「お、おい遥…いい加減に」
しろ、と続けるはずだった言葉は、空しくもそこで遮られる。
ぱたぱたという足音と共に、部屋のドアが開かれた。
「二人とも、もう朝食がで…」
そこには、昨日一昨日と同じ割烹着を着た赤崎兄妹の祖母―藤黄環が立っていた。これこそまさしく、本当の意味でのバッドタイミングである。というか、最早バッドエンドであった。なんせ今、二人は色々と勘違いをされそうな―否、勘違いしかされない態勢にあるのだから。
望んでこういう状況、つまりは緑間が遥を押し倒すという珍妙な状況に至ったわけではないにしろ、見られてしまえば弁解が難しかった。加えて今、遥の方が緑間にダイレクトアタックを食らわせているところだったのだから、尚更である。
「あ、いや…あの、環さん、これは」
緑間は、冷や汗をだらだらとかきながら、環の誤解を解こうとする。だがしかし、時既に遅しとはまさしくこのことであった。
「き……」
ぶるぶると体を震わせ、赤崎祖母が何かを解放した。
「きゃ―――――――っ!は、遥が―――――――!!!」
家中に響き渡るくらいの大声でそう叫び、彼女はばたりとその場に倒れてしまった。
てん てん てん。
「きゃー!おばあちゃーん!?」
「た、環さーん!!!」
我に返ったらしい遥がようやく緑間を開放し、二人はあわやあわやと慌て出す。とにかく急いで駆け寄ろうと、緑間は体を起こそうとした。のだが、同じように緑間の下にいる遥も慌てた様子で動いた為、彼女の足がうまい具合に緑間の足を払い、予期せず態勢を崩してしまう。
「ば、ばあさん!?なんじゃ今の叫び声は…!?どうした!?何故倒れてお――……!」
そして、これがまたなんというバッドタイミング。環の叫びを聞きつけた赤崎兄妹祖父―藤黄衛までもが、二階に上がってきたのだ。部屋の前で気絶している環を発見し、彼はどうしたんだと彼女の肩を揺らす。
そして、衛の目が緑間たちの方を向き―
彼の色々なものが、おそらくは一時停止した。
理由は勿論、娘同然の遥が緑間に押し倒されているからだろう。
というか、先ほどの遥の足払いによって態勢を崩した緑間は、押し倒したなどと生易しい表現では不釣合いなほどに、遥と密着しすぎていた。見る者によれば、これはまあ、緑間が遥の首筋に顔を埋めているように見えるかもしれない。
それに加え、よくよく見てみれば遥のパジャマは、(おそらく押し倒した時の衝撃でだろう)はだけていた。これはもう、本当に弁解しようがない。余地すらない。
案の定、
「は……はる、か……」
叫びはしなかったものの、ぱたりと環同様衛も倒れ伏せてしまった。
てん てん てん てん てん。
この場に赤崎が来なかったのは、本当に、不幸中の不幸中の不幸中の幸いだった。
緑間と遥は、そろって顔を見合わせた。
「……えーと」
「とりあえず、起きよっか」
第五章 第三話 「それじゃあ、また!」
「変ねえ…」
その言葉に、二人はそろって体を強張らせる。
「へ、変って何が?おばあちゃん」
「なんていうか…記憶がすっぽりと抜け落ちているような気がするのよ…」
「いや。いやいやいや。安心してください何かの間違いです」
「ふむ。言われてみればわしもそんな気が…」
「しないよね?全然気のせいだもんね?おじいちゃん」
―と、まあそんな感じで。
時計はものすごいスピードで時を刻み、ただいまの時刻は正午を過ぎた三十分頃。今朝の出来事のせいで精神的ダメージを大いに被ってしまった二人が目を覚ましたのは、今からちょうど三十分ほど前の話になる。つまり、環と衛は五時間近くも気絶していたというわけだ。
二人が気絶して初めに当事者達がしたことといえば、それは勿論現実の偽造であった。
緑間は意識を失った二人を寝室まで運び、朝まだ目が覚める前の状態―つまり、ベッドに寝かせることで、さも自分達が今の今まで眠っていたかのように錯覚させるという作戦である。その為には、衛はともかくとして、環の服を寝衣に着替えさせる必要があったが、そこは遥に任せることにした。
そして緑間と遥は、二人の枕元で「今朝見たのは全部夢」と、五分ほど念仏のように繰り返し、気絶している二人に念を押した。隠蔽工作が終了すると、緑間と遥は空腹感に見舞われたので、リビングへ向かい、おそらく朝食として用意してくれただろうと思われる、味噌汁と焼き魚と目玉焼きと白米を噛み締めながらいただいた。一通り朝の準備(洗顔など)を済ませると、もう九時近かった。
緑間は帰り支度も済ませてしまおうと、遥にも手伝ってもらって、ボストンバッグに荷物をしまい込んだが、それも精々三十分ほどで終わり(元々そこまで荷物は持ってきていない)、遥と共に二人の起床(二度目)を待つばかりとなった。その間、何度お互いに「ごめん」を繰り返したことか。ちょうど赤崎が帰って来たのもそれくらいの時間だった。本人曰く、散歩に行っていたとか。
時間を持て余しているという現状と、緊張による張り詰めた雰囲気に、いい加減堪えられなくなった緑間は、せめてものお詫びにと昼食を作ることにした。勿論遥も一緒にだ。
そして正午、ようやく二人は目を覚ましたのである。真っ青な顔で死んだように眠っているものだから、もう目を覚まさないのではないかとさえ思ったので、とりあえず二人は安心した。念仏が効いたようで、二人は見事に今朝の出来事を忘れていた。
もっとも、あまりのショックに、脳が記憶することを放棄しただけなのかもしれないが…どちらにせよ、それはそれでめでたしめでたしである。
そして今、四人(赤崎を含めると五人)で仲良くテーブルを囲み、緑間と遥が作った昼食を食べている最中だった。とはいっても、作ったのは野菜炒めと肉じゃがくらいのもので、味噌汁は今朝の残りをリサイクルしただけである。茶碗蒸しでも作ろうかと思いはしたが、それはさすがに重いかと結局やめた。
見る者によっては、なんとなく少し寂しい昼食となってしまったような気がしないでもなかったが、それでも二人は美味しいと喜んでくれたので、緑間は結果オーライとする。
それに、こうやって自分が作ったものを美味しいと言って食べてもらえるのは、存外嬉しいことであったりするのだ。
「祭くんは、その道に進むのもありかもねえ」
にっこりと微笑んで、環が独り言のようにそう言った。
「お前さん、今日はもう帰るんじゃろう?」
昼食を食べ終え、環と遥が台所で食器を洗っている間に、衛が唐突にそう聞いてきた。
「はい、三時十七分発の電車で帰るつもりです」
緑間が頷くと、彼は「寂しくなるのう」と残念そうな顔で苦笑いをした。
寂しい。たった三日間でそこまで言ってもらえるとは思っていなかったので、思わず緑間はぽかんとしてしまう。
緑間としても、この家を離れることは寂しい、のかもしれない。良くも悪くも、緑間の家には姉しかいないのだ。両親はどちらも海外出張中である。もっとも、赤崎や青子からすれば、両親が生きて健在しているという事実だけで十分であるのだろうが。
両親がいない、姉との二人暮しの生活に不満を持ったことは一度もない。必要な生活費は送られてくるし、今の時代にはテレビ電話という文明の利器も存在している。遠く離れていても、顔を見ることも声を聞くことだって出来るのだ。だから、寂しいとも、思ったことはない。だが―。
恋しくは、あるのかもしれない。恋しく思うことが、確かにある。
だが、ここはそれを紛らわせてくれる。久しぶりに緑間は、家族というものに直に触れた気がした。
だから、たった三日間だったとはいえ、離れることは、不思議と寂しい。
「またいつでも遊びにおいで。わしらはお前さんを歓迎するよ」
「…はい。ありがとうございます」
プラットホームが込み合うことを想定し、緑間(と赤崎)は十四時半に藤黄家を出ることにした。ここから駅まで約二十分。電車の発車まで十五分程度はゆとりを持てそうなので、おそらく席には着けるだろう。
そろそろ帰ります、と言うと、やはりというかなんというか、三人が玄関まで見送りに来てくれた。慣れないその感覚が、緑間はほんの少しだけ気恥ずかしかった。
「本当に色々とご迷…ありがとうございました」
迷惑、という言葉を使おうとして、迷惑であったかどうかを決めるのは少なくとも自分ではないなと思い、緑間はお礼の言葉だけを述べた。
「…孫が増えたみたいで楽しかったよ。良い思い出をありがとうな」
「俺も楽しかったです。今度来た時には、またお話を聞かせてください」
うむ、と衛が力強く頷いた。
「静くんを、ここまで導いてくれてありがとう。祭くんに会えてよかった。もう一度、会いたいと思っていたの。静くんがよく話していた君に…想像通りの、優しい子ね。ありがとう、今まで静くんと一緒にいてくれて」
きゅっと環に手を握られる。とてもあたたかい。
(俺は、)
優しくなんかない。
緑間は、ふるふると首を横に振った。
「…俺はただそこにいただけで、あいつに何もしてやれなかったですから」
「“ただそこにいてくれる”…当たり前のことのように、思えてしまうかもしれないけれど…それはとても難しいことよ。祭くんは、どんな時も“そこにいてくれた”―それはきっと、あの子にとって一番の救いだったと思う。何も出来なかった、なんて。そんなことないんよ」
そう思うことくらい、許されるだろうかと緑間は思った。それはとても、おこがましい考え方かもしれないけれど―。
(あいつの記憶に存在する俺が、少しでも意味を成していたんだと)
それくらいは、自惚れてもいいだろうか。
緑間はぎゅっと、環の手を握り返した。
「祭兄」
名前を呼ばれて目を向けると、遥が「ん、」と緑間に対してスマホを突き出した。女の子らしい、可愛いケースのスマホである。緑間は、彼女が何を意図しているのかよくわからず、首を傾げた。
「メアド、交換しよ」
ああ、なるほど。そういうことか。緑間は頷いて、ポケットから自分のスマホを取り出す。赤外線で、お互いのメールアドレスと電話番号を送受信した。
「…私が呼んだ時は、ちゃんと駆けつけてね。かっこよく」
「はは、了解した」
緑間は、再びスマホをポケットにしまう。
「…ああ、そうだ。忘れてた」
「え?」
「あの時―ありがとな」
あの時?と、今度は遥が首を傾げる。あの時―というのは、三日前。駅のホームでのことだ。鈍器で殴られたかのような痛みに襲われ、耐え切れず気を失った緑間を引き上げて藤黄家まで連れてきてくれたのは、遥である。
ずっと、お礼を言いそびれていたのだ。
「ああ…いや、うん。別に、改まってお礼を言われるようなことじゃないよ」
「そういうわけにはいかねえよ。本当に、あの時あそこにいてくれたのが遥で良かった」
遥が何かを言いかけて口を開いた。が、しばらく経って彼女は口を噤み、代わりにがばっと緑間に抱きついた。突然のことに驚いてよろめきはしたものの、緑間はなんとか踏ん張った。
「遥?」
「これでさよならは、絶対に嫌だからね」
その声には、ほんの少しだけ涙が混じっていたように緑間は思う。
もしかしたら、また今度と言って結局帰らぬ人となった、赤崎のことを思い出しているのかもしれない。あるいは、それを緑間に投影して不安になっているのかもしれない。どちらにせよ、彼女は泣いているんだろうなと緑間は思った。
「約束、またね」
緑間はその小さな背中に腕を回そうとして―躊躇った。それは勿論、赤崎が見ているからなどというチープな理由故ではない。
腕を回さない代わりに、緑間はぽんぽんと遥の頭に手を置いた。
(そう、きっと)
この少女と自分との距離は、このくらいがちょうどいい。
「ああ、約束だ」
ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます、ゆーびきーった。
そして緑間は、先ほどからずっと沈黙を保っている幼なじみに向かって言う。
「ほら、挨拶くらいしていけよ、アホ」
言わなきゃなんねえこと、あんだろうが。そう言うと、まさか矛先が自分に向けられるとは思っていなかったようで、赤崎は少し困ったような顔をしていた。
いや、それはお前薄情すぎんだろ、と緑間はぎろりと赤崎のことを睨む。「わかってるって」と、赤崎はどこかバツが悪そうに言った。
「…おばあちゃん、おじいちゃん」
赤崎は、二人のことを読むように呼んで、まっすぐに二人を見つめる。
「今まで、本当にありがとう。こんなどうしようもない僕のことを、大事に想ってくれてありがとう。あと、こんな形で別れることになって、ごめん。でも僕、後悔はしていないから。大好きだったよ、二人とも」
とりあえず緑間は、赤崎の姿も声も感じることが出来ない衛のために、赤崎が言った言葉をそのまま耳打ちする。この言葉は、やはり赤崎本人から直接聞きたかっただろうなと思いながら。
彼はそれを聞くなり、途端に涙ぐんで目元を押さえた。環の方も、涙こそ流してはいないが、目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。
当たり前だ、二人は、遥のことを娘同然だと言ったのだから。
赤崎のことを、息子同然に思っていないはずがない。
「阿呆…わしらの方が、何百倍も愛しとるわ。この、バカ息子め」
「…うん、知ってるよ」
赤崎は泣いてはいなかった。涙は浮かんですらいなかったけれど、それはおそらく、涙を流さない泣き方であったのだと緑間は思う。
「…静くん」
「なに、おばあちゃん」
「幸せだったかい」
何の迷いもなく、彼は笑った。
「生きたいと思ってしまうくらいには、幸せだったよ」
「…それはよかった」
それが聞けただけで十分、と環が微笑む。
おそらく、色々と思うところがあったのだろう。もしかすると彼女は、今までずっと、赤崎結に静のことを任せたことに対して罪悪感を抱いていたのかもしれない。やはり自分達が引き取っていればよかった、と。
だからこそ、彼女が聞きたかったのは、後にも先にもそれだけだったのだ。だからそれで十分。もうきっと、言葉はいらないのだろう。
「…遥」
「なあに、お兄ちゃん」
姿は視えていないはずなのに、遥のピントは何故だかまっすぐ赤崎に向いていて、思わず視えているのではないかと緑間は思った。おそらくそれは、たまたまの偶然だったのだろうけれど。
「兄らしいことが、一つもできなくてごめん」
小さく首を横に振って、遥が言った。その表情は、中学三年生が浮かべるものにしては随分大人びていたように緑間は思う。
「してくれたよ、たくさん」
それに対し赤崎は、そう返ってくるだろうとわかっていただろうに、それでも目を見開いて、今度こそ本当に泣き出しそうな顔で遥のことを見た。
そして、今まで緑間の隣りにいた赤崎の体が、遥の方に向かって動いた。赤崎は、遥にしかわからないくらいの小さな声で、耳打ちをしたのである。
「え…?」
遥が、まるで意味がわからないというような顔をした。赤崎の耳打ちの真意が、よくわかっていない様子だった。
だが、しばらくたって自分なりに踏ん切りをつけたらしく、遥はゆっくりと頷いた。
双方にどういうやり取り―意思の疎通があったのか、勿論緑間にはわからなかったが、それを後で赤崎に追求しようとは思わなかった。それはおそらく遥にしか伝える必要がなかったことで、遥にだけ伝えたいと赤崎自身が望んだことであるはずだから。
赤崎兄妹の間での挨拶はその耳打ちで終わり、思いの外大分短くまとまった。生き別れた兄妹、たった二人の家族。思うところも言いたいことも、おそらく山のようにあっただろう。
だがそれでも、この二人の別れの挨拶は、どこまでも簡潔であった。まるでこれが、今生(もっとも、赤崎はもう既に故人となっているが)の別れでないことをわかっているかのような、そんな感じである。
ふらりと再び、赤崎が緑間の隣りに戻ってくる。緑間は確認するように聞いた。
「随分あっさりしてたように思うが…いいのか?もう」
「うん。これ以上は辛くなるから」
そっか、と短く返し、緑間は三人に向き直る。三日間衣食住を共にした、とても優しくてあたたかい人達に。
ここでの生活は、思ったよりもずっと楽しかった。
出来ることなら、赤崎が生きている内に来たかった。
緑間はそんなことを思って、振り払うように首を振る。ダメだダメだ。こういうことを言いたいんじゃない。
湿っぽいのはどうにも苦手だ。最後はやっぱり、笑顔で手を振りたいと思うから。
「それじゃあ、また!」
だから彼は最後まで笑って―気さくな挨拶と共に、藤黄家を後にした。
そして、三日ぶりの帰宅である。
さよならの続編