【狼男とヴァンパイア Wewewolf and Vampire】

【狼男とヴァンパイア Wewewolf and Vampire】

関わってくれた友人二人に、感謝を添えて。
2011草書2016訂正

-SCENE1: OVERTURE-

この物語を読み進める前に、一つ、尋ねておこう。こんな噂を耳にした事はないか。
人間ではない生き物が棲む世界がある事を。
化け猫、ミイラ男、雪女、ウェアウルフ、グール…。一部だけ見れば、人間と変わらない部分もあるだろう。けれど、彼等は決して人間でない。
耳にした事はないか、こんな噂を。
『人の世』と隔たれた世界に、人間の血を糧に生きる種族が棲んでいると。
そろそろ思いつくだろう。
生き血を啜り、死ぬ事のない、永遠の夜を生きるヴァンパイア。彼等は御伽噺の存在ではなく、実在する。ただ、一世紀たらずの寿命の人間には、彼等を気付けないだけ。数世紀も前から、ヴァンパイアは人の世と『人外界』とを行き来している。雑然とした人の世だからこそ、魑魅魍魎が紛れ込むにはおあつらえ向きなのだ。
ただ、愚かしい人間には、気付く知恵も能力もないだけの話。
「人の世に、ですか」
「お前はまだ行った事がなかろう。若き頃に冒険しなかった結果だ」
「人の世で…、短命族を見張れば良いだけですか」
ヴァンパイアとしてはまだ年端もいかない、幼さの残るヴァンパイア。少し長めのショートカットの白金髪の奥で、無愛想な赤い目が不満を帯びて見返してくる。
「短命族を見張り、お前は人間の血の味を知ってこい」
「…」
護身用の短剣を手渡すと、俯いて、彼は呟いた。
「野蛮な輩を、何故私が」
「人間の血の味を知れば意味は分かろう」
それだけ言うと、納得をしたのか、彼は短剣を手にその場から去った。

命令を下したヴァンパイアは、自分よりもはるかに階級が上の者だった。少年とも青年とも言いにくい風貌のヴァンパイアは、短剣を片手に、真っ黒のマントのようなコートを羽織って、月明かりの下、窓辺に佇んでいた。
昔からの、どうでもいいしきたり。
ヴァンパイアは一人前と認められるためには、1千年を生きる前に一度は人の世で人間の味を知ってこなくてはならない。その時に、短命族と言われる、人間とともに住む人外…例えば化け猫や狼男とった輩が悪事を働かないか、監視する事もしなくてはならない。
なんとも面倒なしきたりだ。
満月の度に、殺戮鬼になる狼男など、好きに暴れさせておけば良い。遭遇してしまった人間は、それだけの運だった話だ。
何が人間の味だ。内心そう思いながらも、若いヴァンパイアは、相手が相手のため話を飲むしかなかった。血統がものをいう世界が故に、格の違いは有無を言わせなかった。
いつかは行かなくてはならない事ではあったが、どうにも気が進まないまま、人の世へ行く事になった。手段は定期的に開閉する人の世と人外界を結ぶ連絡通路のような次元の橋を渡れば良い。それだけ。その橋を見分けられるように、各自人外界に自らの破片…髪の毛でも良いのだろうが、慣習的に己の血を数滴入れた小瓶を置いて行く事になっている。そして、これまた慣習的に、皆思い思いの品を身につけて旅立って行く。
今回行く事になったヴァンパイアの若者も、昔、悪魔だったか天使だったかに貰った宝石…彼等が言うには虹色の光を放っているらしいが、ヴァンパイアの目には鈍色の鉛のようなものにしか見えない…でできたペンダントを持って行く事にした。特にいわくつきでもないし形見だなんだの大切さもない。ただ好きだからで、それ以上でもそれ以下の理由もない。
「姉様」
気配に若いヴァンパイアが振り向くと、長い髪の人影がそこにあった。軽い抱擁を交わして離れる2人。姉と呼ばれた相手と本人は、顔立ちから体躯まで、どこをとっても似ても似つかない。
「もう行くのかしら」
「…命を受けましたから」
「さっさと終えて帰ってきなさい。私はあなたを忘れたくはないの」
「承知しています」

人の世に行くといってもほんのわずかな瞬きの間に到着するもので、はからずとも夜の時間帯に到着する。
…なんともごちゃごちゃした窮屈な世界。第一印象はそれだけ。以前聞いた人の世の話では、魔女でもなんでもない人間が魔女呼ばわりされ殺されていたり冒涜を受けていたりと、わりと物騒なイメージを受けたが、全くその気配はない。むしろ平穏な、戦など忘れられた世の中に見えた。
何かの気配と同時に物音がした。
反射的に全身を服で隠すように身を潜める。確かに存在はしているが、何と言ったか、幽霊とでもいう類か何かが通り過ぎて行った。こちらが見えていないのか、全く無反応で通過していく。人間の気配と他の存在の気配の区別もつかない。人間の血の香りさえ、実際よく知らない。
軽く自己嫌悪に陥りながら、階段を一つ上るくらいの仕種で、数階建のアパートの屋根に上る。空には上弦の月を過ぎて丸み帯びた月が、それは見事に雲に邪魔されず輝いている。
「あれ?お前、こっち来てたんだ?」
聞き慣れた声がした。嫌そうな表情まんまにヴァンパイアは声の主を振り返る。
「…何故貴様がここにいる」
「そりゃこっちのセリフだ。お前こそ何しに来たんだよ」
声の主こそ、最近よく遭遇するウェアウルフと分類される短命族の一種だ。実際年齢はもう少し上だろうが、人の世ではちょうど20歳くらいだろうか。
「しばし人間どもに用があってな。ついでに貴様等能無しが悪事を働いていないか見に来た」
「ついでに俺達の監視か。ご苦労な事で」
「お望みならばつきっきりで監視してやろうか。あまり度が過ぎれば獣人とて吸い殺しかねん」
「冗談!ただでさえてめぇ等ヴァンパイアなんかと顔合わせたくねぇ」
「私こそ御免被る。貴様の阿呆面は見飽きた」
「てめ、阿呆面とはなんだ!」
胸倉でも掴んでやろうかと出した手が宙を掴み、獲物を損ねる。
「用心したまえ、若造」
ヴァンパイアは数瞬で狼男の背後に移動していた。心臓の鼓動が速くなったのを感じた。ヴァンパイアは相手の首を指差しながら、低く嘲笑うよう一笑する。
「獣人だろうが、ヴァンパイアには生き血は獲物に変わりない」
赤い目が細められる。思えば、初めてきちんと直視した。青い瞳。海のように深く、鋭い青色なのに、どうにも温かみが先立つ青色。自分とはあまりに正反対で、嫌気がした。指を離し、立ち去ろうと踵を返す。
「待てよ」
「…何か?」
表情一つ変えずに足元止めずに返事だけする。移動すれば後を追うよう、だがどこか臆した様子は隠しきれずに狼男がついてくる。
「お前、人間に用事があるって言ったよな?それって…つまり、殺しに来たのか」
「…」
「グールとかの食人鬼達なら仕方ねぇのも分かるけど、ヴァンパイアって血だけなんだろ?なら殺す事もないよな」
様子を伺いながらの喋り方。血の気のない無表情の顔が振り向けば、少し開かれた口元から、見せ付けるようヴァンパイア特有の牙が見えた。
「…人間を殺さず生かし狩れと?」
「あ…あぁ、そうだ」
狼男の臆した様子が顕著になる。無表情のままヴァンパイアは相手との距離を縮めていく。
「たかが一世紀も生きられぬ虫けらを生かす理由がどこにある?」
一歩近づけば、狼男も一歩退く。屋上の端、フェンスもない断崖に辿り着けば、狼男の足は止まったが、ヴァンパイアはさらに一つ歩を進める。
「野蛮な獣人が私に説教とは、随分と偉くなったものだな?」
「だ、って、そうだろ。何も殺さなくても」
すっと、片手をあげ、狼男の胸元からなぞるよう喉元までを指し示す。
「貴様等獣人とて同じだ。狩れど狩れど勝手に数を増やす。いちいち一つ一つの命に構っていられるか」
言葉に狼男はかっとなった。怒りが血筋に呼応し狼男の瞳に明るさが増し変化する。獣人ならではの、瞳孔へ。
「命の重さなんて、長寿族は一生かかってもわからねぇだろうな!でもよく覚えとけ。その虫けらの血肉でてめぇ等は生きてんだからな!」
威嚇が姿にさえ露になる。人間の髪と同じだったそれが、ほんの僅かだが獣のそれに変化する。今宵は満月ではない。だが満ちゆきつつある月夜には、狼男に変化の力をもたらすのか。ヴァンパイアは頭の中でふと疑問を浮かべたが、考える事はやめた。
「鎮まらんか」
淡々と話すヴァンパイア。怒りに身を変えそうな狼男は、無造作に相手の髪をわしづかみ、言い放った。
「無礼な!」
「二度と顔見せんなよ。俺はヴァンパイアは大嫌いなんだ」
振り払えるはずだと思った手は予想外に頑なだった。不死身だとか長寿だとか言われるヴァンパイアだが、どうにも狼男の力には敵わないらしい。なす術なく睨み返してくるだけのヴァンパイア相手に怒る気が失せ、狼男は突き放すよう相手から手を離した。
「奇遇だな。私も貴様が嫌いだ」

-SCENE2: AVENGER-

父さん。
その言葉を向ける相手がいない。自分が生まれた時には、既に死んでいたからだ。死因を知ったのは、ある程度大きくなってから、母親の口から聞かされた。すんなりと、納得できた。むしろ、そうじゃないかと、前々から勘付いてはいた。だいたい最近の獣人といった人間に近い人外は、人間との交わりが進み、純血は存在するのか怪しい。自分が周りと違うと分かってから、母親が原因なのはすぐに本人が暴露してくれた。人間ではない人間に近い存在、人外。狼男なんて、絵本の中の世界だと思ったものが、まさか自分だなんて、笑えなかった。
その時から、個人的にヴァンパイアが嫌いだった。人の世にひょっこり現れて、理性を失う時の獣人を殺すとは伝い聞いていた。それがヴァンパイアだけなのか、他の長寿族もしている事なのかは知らないが、父親を殺したのはヴァンパイアだ。どんな奴で、どんなやり方だったのかは知らないが、その時から嫌いな種族なのは確かだった。それが、何故にこうも同じヴァンパイアに遭遇する。話しぶりからして親の仇ではないようだが、同種族には違いない。
自分には人の世と人外界とを行き来する方法はない。だから、ああいった種族が行き来する機会に便乗して人外界に行く事がある。満月の効果を避けるためだ。帰りは頼めば送ってくれるから意外と助かる。聞けば、同じ事を母親もしていた事があったらしい。皆、考える事は似ているようだ。
満月が近づき、その機会を探しに、ここ数日、出歩くようになった。その最中、獣に近づきつつあるせいか、血の臭いが敏感に嗅ぎ取れた。慌ててその方角へ向かう。自分が行って解決するかは分からないが、放っておけなかった。
町では有名な大きめの公園を通り過ぎ、隣接する河原へ出る。そこに、月夜に照らされた3人を見た。
1人は、もう息絶えた人間の死骸。1人は、犬というより猫に近い男の獣人。1人は、例のヴァンパイアだった。
また、あいつ。
声は出さなかったが、嫌な表情はしただろう。このままやられちまえ。そこまで考えがよぎった。自分より小さいとは思ってはいたが、相手の獣人が大柄のせいか、ヴァンパイアがすごく小柄に見えた。それが目に見えない速さで移動し、獣人の背、首、腕を的確に狙って短剣を突き刺しては距離を取る。その度に獣でしかない大男は咆哮をあげ、挙句にその喉を相手に掻き斬られ叫べずに吐血した。見ていられなくなった。
仲裁に入ろうと走り出した途端、ヴァンパイアに背後を取られた。
「傍観者は最後まで傍観していろ」
一瞬で、全く分からなかった。驚きより恐ろしさが背筋を伝った。振り返る事ができなかった。ヴァンパイアを追いかけてきた大男が、口から流血したまま両腕を上げて振り下ろそうとしていた。その大きな影に飲み込まれはしたが、狼男は苦痛に歪む表情で相手に応戦した。
「それでいいのかよ、お前!」
両手を受け止めようと手を伸ばしたが、それは受け止める事はなく、目の前が明るくなる。大きな衝撃音と地鳴りがして、倒れた大男の肩に小さな影が乗っていた。鈍い音とともに短剣を抜き出し、侮蔑するように一瞥をやる態度に、狼男の中で何かが切れた。殴りかかろうとして、かわされる。ふんわりと、そこだけ重力が弱いように自由に空間を移動するヴァンパイア。無残な死骸2つをそのままに、ヴァンパイアはこの場を後にしようとさえする様子が見えた。
「なんで殺す必要があるんだよ!」
追いかけて掴まえようとするも、やはりひらりと逃げられる。無表情のまま視線だけ向けられたが、興味も何もない視線。血に濡れた短剣を持っていた布で拭く余裕さえ見せて、面倒臭そうに溜息をこぼす。もう一度、もう一度と拳を投げつけ、掴まえようとする。
「お前らは、殺せばなんでも解決すると思ってるのか。獣人だって家族があるんだよ。お前らがもう少し考え方ましになってくれたら俺の父さんだって死なずにすんだかもしれねぇのに」
拳が顔面にヒットした。わざと当てさせたと、直感した。体勢を崩したのは、わざとじゃないらしい。両手をつき尻餅をついたヴァンパイアを掴み乗りかかり、短剣を持つ手を地に押さえつけた。接近戦になれば形勢逆転だった。抗う力が、無力にさえ思えた。その顔を、独特の目を、見ていたくなかった。だから横に頭を押さえつけて、短剣を奪い、思い切り振り落とした。
刃は、ヴァンパイアの首の隣の地面を突き刺した。衝撃で、巻き込まれたヴァンパイアの髪が少し切り落とされた。無我夢中だったため、息が上がっていた。地面に突き刺さる刃物が月明かりに艶めきを返す。視界に入る抵抗をしていないヴァンパイア。
「気が済んだなら、手を退けてくれ」
はっとして、言われるままに手を退ける。地面に押し付けられていたせいで土に汚れた顔で、こちらを睨むわけでもなく見返してくる。
「私と似ているのか、親の仇は」
赤い目が見返してくる。正直、そんな事は何も知らない。ただ、ヴァンパイアという事しか知らない。
「私を殺せば気が済むのか?」
「俺は…」
「重いので退いてくれぬか。他人の腹に悠長に座らんでもらいたい」
掴まえるために圧し掛かったが、相手の言うように、こいつを殺して仇討ちになるわけではない。ましてや、それで何が解決するわけでもない。
わかってはいた。わかってはいたけど、目の前でこんなにあっさりと獣人を殺すヴァンパイアを目の当たりにして、父親の影を重ねないでいられなかった。
「悪ぃ」
すんなりと退いて立ち上がる。ばつが悪くて、どうして良いか、顔を合わせられなかった。ヴァンパイアは顔の汚れやら服装やら整えている様子だった。が、突然頬に打撃を食らった。
「おあいこだ」
唖然とした。自分が狼男だから人間より頑丈にできているのは確かだけど、だ。それでも、だ。人間と同じか、下手したら鍛えた人間以下の軽い拳だった。あまりに軽すぎる反撃に、ヴァンパイアが無敵だという概念が崩れていく。自分の頬を打った拳を、むしろ痛そうにさえしている。
「相変わらず頑丈にできているな、野蛮人は」
「いや…俺の方がびっくりだ。ヴァンパイアって、もっとなんでも無敵なんだと思ってた」
無言の視線が、見返してくる。狼男はヴァンパイアを改めて見直してしまった。そうだ。この体のどこに、そんな力があるだろう。
「不死身で、絶対無敵ってイメージがあったんだけど、今だって、簡単に掴まっただろ」
「打たれたのはわざとだ」
「俺だってそれくらいは分かったよ」
負け惜しみのように聞こえた言葉に、苦笑いのような笑みが零れた。それを不快に思ったのか、視線がそらされる。踵を返し、背中を向けたヴァンパイアに、軽く叫ぶ。
「さっきは悪かった。お前の言うよう、仇討ちしたって、何も変わりはしねぇ」
足を止める相手に、狼男は数歩だけ近寄って改めて背中に言い直した。
「だから、ごめん。お前にはお前の務めがあるんだよな。それに、ヴァンパイアがそんなに非力だと思わなかった」
「…」
「人間みたいなのな、お前らって。それが獣化した奴相手に戦うんじゃ、やばい時だってあるだろ。俺も獣人だ。獣の時の辛さは、よく分かってるつもりだ。もしさ、殺さないで済むんなら、俺はその方が良い。だから」
「ついてくるつもりか、私の務めに」
はっきり振り返り、視線を向けるヴァンパイア。狼男は躊躇いを見せずに、直視して答えた。
「獣の時は本人も何してんのか良く分かっちゃいねぇ。やりたくてやってるわけじゃねぇんだ。だから、力には力。新月に近いと…やっぱり厳しいけど、満月に近ければ十分役に立てると思う。上弦の月まできちまえば、全然問題ないと思う」
「…」
「要は大人しくさせれば良いんだろ。それだけなら、何も殺す必要はないだろ?…殺しはたくさんだ」
視線を決してそらさない狼男の意思を汲み取ってか、ヴァンパイアは一度深く目を閉じてから、試すような目線と笑みを浮かべて言った。
「良いだろう。だが、貴様が月に気をふれさせた時は保障しない」
「上等だ」

-SCENE: TASTE OF BLOOD-

真夜中、血の匂いに誘われるように向かえば、理性を無くした短命族の人外と、被害者の人間が転がっていた。蛇のような女の人外は、酷くややこしい動きをしていた。決して狼男はヴァンパイアに比べて速さはない。ただし、獣ゆえの洞察力か、獲物を追う反射能力と力はヴァンパイアを凌いだ。原型が蛇ゆえ、無駄に長さがあり妙な力がある人外。ヴァンパイアは追う事はできても決定打に欠けた。一方、狼男には簡単な狩りだったようで、容易くその女を追いかけ、捕まえてきた。感嘆に近い表情を見せたヴァンパイアに、狼男は得意げに失神している獲物を地面に横たわらせた。
「こいつの面倒は俺がみとくよ」
「あぁ、頼む」
いつ人間の姿に戻るのか分からない。なるべく昼間に関わる仕事はしたくない。ヴァンパイアは人外の女の件を狼男に引き渡すと、かろうじて息のある人間に目を向けた。巻きつき骨を砕かれたのだろうと、毒牙にかかったのだろうと、外見の無残さで何事が起きていたのか想像がつく。肌は変色し、衣服は破れ、髪も乱れ、血みどろの体は、辛うじて虫の息が聞こえてくる。
「そいつ、助かり…そうか?」
「もうじき死ぬ」
一応訊く狼男にも、人間の末路は分かりきっていた。当然のように一言きっぱりとヴァンパイアが返答し、人間に近寄る。意識を手放した人外を手の届く範囲に移動させてから狼男も近づく。ヴァンパイアがそっとそこに手を伸ばし、肢体に広がる血や泥にまみれた肌の中から傷口をきちんと見つけ出す。じっと見つめたまま、動かない。半開きの唇から覗く牙と舌。唇が、一度開かれようとして閉じられた。
本能だろう。すぐ分かった。
どのみちもう長くない、死にかけた人間の最後を看取るのだ。それならば、と狼男もそれを許した。
「飲めよ、血」
素直に驚きを見せるヴァンパイアに、狼男の方が苦笑いを見せた。
「もう長くねぇんだろ。だったら最後くらい、ひとのお役に立たせてやろうぜ?」
さっきまでかすかに動いていた胸の呼吸も、分からなくなっていた。狼の時ならこの位置でも音が聞き取れるだろうが、今の狼男にはわからない。急ぐよう、でも躊躇って、ヴァンパイアは傷口に唇を寄せた。
「…複雑なのな」
人外の短命族が犯した罪で死に逝く人間の最期を、長寿族のヴァンパイアが看取る。しかも、それを己の血肉に変えて、生きていくために。
しばらくは両腕を頭の後ろで組んで、空を見上げたまま『食事』が終わるのを待っていた。数分の時を待つも、血生臭い空気と『食事』独特の音が気に食わなくて、少し躊躇いはしたが結局声をかけようと振り向き、拍子抜けした。
ヴァンパイアと目が合う。座った体勢で、肢体をわざわざ起こして後ろから抱きしめるように両腕で掴まえている。子供のように屈託ない微笑みを、一瞬だけだが見逃さなかった。何度も喰らい付いたのか、首に何か所も牙の跡がある。
「まさか…と思うけど、お前…人間の血、慣れてねぇの?」
いつもの無表情でとっつきにくい顔に戻って、死体を放り、無回答のまま衣服を整え、横を通り過ぎようとする。狼男は、無視してやりすごそうとする相手の腕を掴み、立ち止まらせた。簡単に掴めただけ、動揺が読み取れた。
「散々若造って言っておきながら、お前もヴァンパイアの中じゃ若い方なんじゃねぇの?」
勝ち誇ったような、にやついた顔で言い、片手で口元を覆い隠すヴァンパイアのじろりと向けられた視線におどけてみせた。
「やべ、怖ぇえ」
「…噛み殺してやる」
「力じゃ勝てないくせに?」
ヴァンパイアが力を込めて抵抗しているのは十分伝わっていた。けれどその腕が動かない。ちょっと力をこめただけで、この様だ。態度はでかいわ、愛想はないわ、たまにムカつく奴だと思うけれど、今の笑顔といい、黙っていれば今くらいが外見に相応しい。小柄で、中性的な、見上げてくる視線。こいつが自分以上に怪力だった方が、同じ人外としてショックだ。
「なぁ、何回も噛み付いたんだろ。それに見たぜ、あの顔!お前本当はあんな顔できるんじゃねぇか。そんな仏頂面してないでさ、もっと笑ったらどうだ。その方が似合う」
「いい加減離せ」
怒って言い放つ相手に観念して手を離すと、とっとと行ってしまう。狼男は人外の女を背負うと足早に後を追った。

-SCENE: HUMAN SIDE OF WEREWOLF-


狼男とは言え、普段は普通の人間と変わらない。確かに一般より強靭な肉体を持ち、少しは若く見られるが、年齢は出生をごまかし、今のところ登録上もれっきとした大学生年齢だ。じっとしていたくない性格故か、よくあちこちに出かけては、はしゃぎ回った。自然と、周りもそういう仲間が集まった。
夏の夜遅く、海浜公園で花火をして遊んでいた。男3人に女2人。いつも決まったメンツ。
「達也ぁ、危ねぇぞー!」
「獅狼、やめろって」
「獅狼君、危ないよー」
「ほら、佳奈も言ってるだろ。浴衣が燃えるって!これ高かったんだぞ」
「知るかよ色男!」
他人に向けて花火をやるものじゃないが、悪ふざけは自分達にはお決まりコースだった。だいたい自分と、今日は浴衣姿の達也が率先して悪ふざけをし出す。だいたいそこに巻き込まれる、今日は甚平姿の啓輔。悪ふざけに乗ってくる長身のモデルみたいな美菜子に、逆に華奢で控えめな佳奈。だいたいこの5人でわいわいやっていた。
花火も終盤。お決まりの線香花火に火をつけて、浴衣姿の女子達と、浴衣、甚平、私服と不揃いの男子どもで誰が最後までもつか勝負になった。勝負の瞬間から既に勝負じゃなくなり、落ち着いてからラウンド2を改めて始めた。
この瞬間が好きだ。人間に囲まれて、人間でいられる瞬間。俺が俺でいられる、他愛のない瞬間。
「あ、負けちゃったー」
最初に火が落ちたピンク色の浴衣の佳奈が、落胆した様子はなく負けを悔しむ。
「おー俺の勝ちだー」
最後まで器用にも火が残った啓輔が、ごつい体躯に似合わずまだかろうじて灯を繋ぐ火を見つめて嬉しそうに言った。付き添うように最初に負けた佳奈がその火を一緒に見つめている。その様子を見て、達也が私服の狼男の首に腕をかけてそこから距離を取るよう離れつつ絡んでくる。
「あの2人、いい感じだと思わね?」
「ん、まぁな?」
「鈍いなー相変わらず!啓輔の方が好きなんだって、あいつの事」
「え、そうだったんだ」
「で、佳奈ちゃんはお前が好き」
「え、え」
友人の言葉に耳を疑う。腕を離して友人は面と向かって言い直した。
「だから啓輔は佳奈ちゃんが好き、佳奈ちゃんはお前が好き」
「佳奈ちゃんの事だから誰が好きとかないと思ってた」
「誰にでも気さくだからなーあいつ」
遠目で、終わった線香花火の後の会話を続ける2人を見つめる。がっしりした体躯の紺色の甚平姿と、華奢なピンクの浴衣姿が、なんとも絵になった。ほうけていると、後ろからどんと押された。
「聞ーちゃった!」
「げ、美菜子」
「知ってたけどねぇー」
「何、俺だけ気づいてなかったの?」
「獅狼は気づかなすぎ!」
「…怒られた」
「ははは!いつもの事だろ」
「ひでぇ」
黒地に紫の大輪を咲かせた浴衣が見事に映えいつもより大人びて見える美菜子。化粧も違うのか、見違える美人に迫られ、自然と逃げ腰になった。
「で?あんたは佳奈の事どうなの?佳奈は本気なの。だから本気で考えてあげて」
「…んな急に」
気づいたのか遠くで雑談していた2人も合流する。なにやら険悪ムードなのは2人もすぐ気づいたようだ。

狼男と一緒になるのは、つまりは人間として生きられなくなる事を意味する。自分の気持ちもそんなんじゃない。だから、結論はすぐに出た。啓輔の事を思えば、尚更だった。ただ…どう断ろう。
「どうしたんだ、皆して真剣な顔して」
甚平姿の啓輔が最初に話題に触れる。佳奈は美菜子と獅狼の様子から、察しがついたようだった。
「恋愛話。誰が好きって話してたんだ」
帯に手をかけて達也が偉そうに切り出す。観念したように、佳奈が俯いた。今日のピンクの浴衣も、髪型も、気合い入れてきたんだろうなぁ。獅狼は他人事のようにどこか上の空でそう思い、視線を自然と佳奈にやり啓輔にやった。
「あー…ごめん、話、聞いちゃった」
癖で頭をかく仕草で謝ると啓輔も佳奈も責める事なく首を横に振った。
「私もちゃんと伝えてないもの。これで伝えたつもりじゃ…不公平でしょ」
「俺は」
佳奈の言葉を遮るよう、啓輔は言った。
「俺は佳奈ちゃんの気持ちを知ってるから言わなかったけど、俺は前から佳奈ちゃんが」
「俺は、佳奈ちゃんの気持ちには応えられない」
啓輔の言葉を遮り獅狼はきっぱり言い放つ。視線をはっきり佳奈に向け、一字一句言い放てば、背を向けた。
「どうして!友達にしか見れないの?私は女としてはダメ?何がいけないの?」
背中越しに聞こえる泣きそうな声に、こっちがやりきれなくなる。そんなんじゃない。佳奈は最高だ。だから啓輔を幸せにしてやってくれ。
「…いつまで茶番劇で待たせるつもりだ」
茶々を入れられたのはその直後だった。
出た!
と心の中で叫んだと同時に妙案が浮かんだ。
「なんだ、お前」
「誰よ、あんた」
修羅場に部外者が来ては不機嫌になるのも無理はない。ヴァンパイアの存在を知るのは自分だけ。しかもこの場所に呼び出しておいたのは自分だったと、今更ながら思い出した。もうそんな時間だったか?
「…あー…悪い。みんな、紹介する」
幸いヴァンパイアの奴は季節関係なく黒ずくめで着込んでいるので何を着ているのか暗闇ではさっぱりだ。なんとかなるかもしれない。
「悪いが話を合わせてくれ」
「?」
耳打ちする。顔に見事にハテナマークを浮かべたのは見物だったが、今はそれどころじゃない。
「…あー…のさ、実はーその…付き合ってるんだ、俺」
ヴァンパイアの肩を抱き寄せて苦笑いをする。騙し通せるか、そしてこいつがこの茶番に合わせてくれるのか、心底心配でならない。今にも文句を言い出しそうな形相で睨み返してくるヴァンパイアに苦笑いしかできず、疑う達也がよりによってヴァンパイア本人の顔を覗き込むよう目線を合わせた。
「へぇー…獅狼さぁ、なんで言ってくれないわけ。…かわいい子?外国の人?」
「ディアナ・フロレクス」
ヴァンパイアは呟くよう小さくそれだけ言うとはっきりと達也を見つめた。暗闇だ。たとえヴァンパイアが赤目だろうと、そこまではっきりわからないだろう。
…しかし、初めて知ったよ、名前。
「月の女神だっけ、その名前」
さすが達也、なんでそんな事知ってるんだよ。
達也が営業スマイルのように作り笑いでにっこり笑いかけるとヴァンパイアは逃げるよう狼男の後ろに姿を隠した。
「あ、もしかして照れ屋さん?」
「人見知りなんだ、気にしないでくれ」
どうやら合わせてくれているようだ。佳奈といえばショックだったのか反応もできず茫然としている。それを啓輔が心配しないはずがない。かたや美菜子はヴァンパイアに興味津々のご様子だ。
「ねぇ、恥ずかしがらないでこっち来なさいよ。ちゃんと挨拶くらいしましょ?私、美菜子。獅狼の友達。さっきのが達也で、あっちが啓輔。その隣が佳奈。よろしく、ディアナちゃん」
見事に背中に隠れていたヴァンパイアが、演技なのか本気なのか、怖ず怖ずと姿を現す。敵意を見せていない時で牙さえ見なければ、ヴァンパイアほど人間と区別しにくい外見のものはない。よろしくの言葉に差し出された手に、無言で控えめにヴァンパイアも手を差し出せば元気よく挨拶を交わされる。じろじろと見られるのが嫌なのか顔を背けるも美菜子は怯まない。内心ばれないかどうかが一番の心配なだけにひやひやしながら見守るしかなかった。
「獅狼、この後、この子と待ち合わせしてたんでしょ?お開きにしよっかー!」
美菜子なりに気を遣ってくれたのか、景気良く叫ぶ。ありがとうと聞こえる程度の小ささで囁けば、美菜子は笑顔で返事を返してきた。
うるさい集団が去り、海浜公園は全く人影がなくなる。静まり返った砂浜。さっきまでの余韻はあるも、隣にいる奴のせいでそうもいかない。
「…さて」
「用件を聞く前に一つやる事がある」
「ん?」
振り向こうとしたが、頬にもろに打撃を食らい、そのまま体勢を崩して尻餅をついた。
「よくも人間の前で恥をかかせてくれたな。しかも恋人役だ?侮辱も大概にしろ」
どうりで痛いはずだ。拳ではなく蹴りだった。戦闘体勢だ。爪が心なしか鋭利な刃物にさえ見えた。
「落ち着けって!悪かった!断る理由がほしくて、それで思いつきで…お前ならごまかせるかなぁー…なんて…」
怒ってる。完全に怒ってらっしゃる。
「いや、でもさっき名乗ってたよな。初めて知ったけど、名前、女みたいのな。ほんとに女でしたーって冗談は抜きな」
ギロリと見下す視線と蹴り一発。
「痛って!みぞおち入った、入った!」
「声で分からんか」
「や、正直どっちでもとれるんじゃ…て、さすがに痛いって!悪かったから、蹴るな」
「私は男だ。あれは思いつきの偽名だ。女名が良かったのだろう?本名はミハイだ。ミハイ・フロレクス」
その夜、ヴァンパイアには散々こき使われ、翌日は友人どもからディアナの事で質問攻めにあったのは、言うまでもない。

-SCENE: LYCANTHROPY-

 はっきり覚えているのは、自分が腕を前に向かって殴り付けようとした事だ。
 そうしたいんじゃない。だから、腹の底から踏張って拳を別の方向に向けた。
 俺は、狼に変化していた。

 麗しい満月の咲き誇る夜に不釣り合いなけたたましい咆哮。続く破壊音は、竜巻に煽られたように散らばった枝葉の破片からだった。それらは土埃を立てて地面に落下し、側にいたに青年に降り掛かった。
 巨大な闇夜に溶ける暗い影に、大人と言うには未成熟な年頃の青年が腰を抜かして動けずにいる。声にならない悲鳴。我を忘れた眼光を彩るには月光は強すぎた。
 「世話の焼ける」
 風一つ動かなかったが、声はした。獣となった狼男を前に、闇に沈む姿がゆっくり進み出る。呆けた人間を見やり、視線を合わせるためしゃがみ込む。
 「運の尽きだな」
 何か言いたそうにした青年の目に、無表情のヴァンパイアが笑った気がした。

 ふとしたぬくもり。
 続く激痛。

 抱き寄せるよう肩に回されたように見えた両手は青年の動きを封じたやすく首筋に牙を落とさせた。

 あぁ、かすかだが覚えている。引き裂かれようが体の一部をもがれようが、何度も姿を元に戻す不死身相手に、がむしゃらに爪を振り向けた。動かない友の亡骸の側を躊躇いなく離れ、形からして人外界から持ちこんだだろう短剣を、空中を自由に舞うようにして近づき、表情一つ変えずに、投げ付けてきたヴァンパイア。
 「…ムカつく奴…」
 「え?」
 「あ、いや、なんでもねぇ」
 声に出た言葉に、隣に座っていた友人が問うてくる。喪に伏した顔ぶれ。目の前には、あの満月の夜、ヴァンパイアに殺された友の遺影。
 強引ではあったが、ヴァンパイアは人外監視の務めを果たした。それ以上に人殺しをする必要性があったのか?前に記憶の改ざんができるって言っていた。なのに、何故。姿を見られたのは失態だとよく分かるけど…だからって…これは酷すぎる。

 「…それで?わざわざ仇討ちに来たわけか?」
 腹を獣の爪に貫かれたままで、ヴァンパイアは相変わらず無表情のまま話す。一筋、口端からこぼれた己の血を指で拭っただけで、抵抗する気配すら見せない。
 「十六夜だからな。突然変化する心配もねぇ。でも獣の力は十分だ。不死身だろうが弱点がないわけでもねぇだろ」
 「…策を練ったか。ない頭で」
 「うるせぇ!」
 貫通していた獣化した腕を引き抜けば、ばっと大量の血が吹き出しても良いはずだった。だがヴァンパイアの体は貫かれた腹の空洞をそのままに、ただ服装を整え傷口を隠しただけだった。
 「…は、本当に化け物だ、てめぇは…」
 呆れた。
 狼男の自分が言うのもおかしな表現だが、化け物相手に仲間だなんだをとやかく言っても通じるはずがない。
 「化けるのは貴様だろう。私は至って普段通りだ」
 多少不機嫌な表情を見せて、ヴァンパイアは踵を返し、傷を負った事がまるでなかった事のように軽々と夜の闇夜に姿を消した。

-SCENE: ALIENATION-

 下弦の月までまだ日数はある。そのせいで、のこのこと姿を現したヴァンパイアに、すかさず狼男は掴みかかろうと拳を向けた。
 「ぬけぬけと俺の前に姿を現せたな」
 ひらりとかわして、距離を取られる。無表情の視線が淡々と見返してくる。
 「私の務めは監視だ」
 「だからってなんで啓輔が死ななきゃならねぇ!」
 今度こそ当たったと思った拳が宙を舞う。背後を取られ、軽い接触を背中に感じた。
 「姿を曝した失態は貴様だろう」
 振り返り際に蹴りを入れてやろうとするも姿を見失う。近すぎる声に、ぞっとした。まだ収まらない悪寒に耐えながら、姿を探す。月明かりの中、黒い人影がどこにもいない。
 「ミハイ!出てこいよ。俺がいると面倒だろ。だったらとっとと殺しちまえよ。獣人の1匹や2匹殺そうが、お前には何の感情も湧かないんだろ。虫けらだもんな!」
 「気安く私の名を口にするな」
 また、背後に気配を感じた。思う壺だ。挑発に乗るなら、背後を取るのは分かっていた。肘を突き出して振り返ろうとするも、また空振りする。
 「反射神経だけは獣ならではだな」
 「あぁ、ちょこまかと!」
 距離を取られては、また掴まえるのに時間がかかる。そんな事もお構いなしに、ヴァンパイアは距離を詰める。
 「勘違いするな。私が好きで人間を殺していると思うな」
 「食事のためと、務めのためか」
 「分かっているなら、わざわざ問うな」
 「ミハイ」
 背を向け去ろうとする姿に話しかける。足を止めるが振り返らない相手に、狼男は続ける。
 「けっこう前だけど、女の子、助けてくれた事、あったよな。俺が化けちまった時に遭遇した女の子、いただろ。あの時、女の子の記憶をいじって、俺の事忘れさせてくれて…あの子は死ななくて済んだ。啓輔はどうして…それができなかった?」
 ヴァンパイアは少し間を置いてから、多少振り返ったように見えた。
 「あそこまではっきり記憶されては、改ざんするにも限界がある。私も万能ではない」
 「…お前、ほんとは…助けようとしてくれてた…のか?」
 「死んだ人間の事など忘れた」
 相変わらず淡々と話し、終えれば歩き出す姿。もし、少しでもその気があって、救おうとしてくれていたのなら、それなのに仇討ちをしかけて、勝手に恨んでいたのなら。
 少しの考え込んだ間に、ヴァンパイアは姿をくらましていた。

-SCENE: ADDICTED-

 ヴァンパイアの人外監視の務めに付き合うと言い出した時から、狼男・獅狼は面白いからかい相手になった。監視の立場を利用して、わざわざ夜に会いに行く事もあった。向こうにとっては睡眠時間だろうが、ヴァンパイアには活動時間だ。いまだ恐怖の対象なのか、少し脅してやれば、言う事に素直に従うからおかしい。特にいつから、というわけでもない。人外界にいる頃から度々遭遇した顔だ。腐れ縁も長引けば、近くにいる事が当たり前になるものだ。
 獣人と長くともに過ごす事などなかった。人外界で知る彼等の姿は、たいてい人間のそれではない。獣となった彼等は血気盛んな化け物だが、狼男の場合、条件が揃わなければ変化する事はない。だから、私は彼の…獅狼の人間の姿しか、知らなかった。
 人の世で初めて目の当たりにした、狼男としての色。完全に化けなくとも、変化に過程がある事が、妙に興味を引いた。その過程に比例して、彼の持つ人間帯びた色と獣の色の割合が変わっていく。血の濃度も同様。一気に獲物に見えた。
 事を立ててはくれないか。そうしたら、私は大義名分の下、牙にかけられる。

 「大丈夫なわけねぇだろ」
 人外監視についてくると宣言してから何回も、戦いで負傷する事はあった。その度に、血の香りに酔いそうになった。いつ死んでもおかしくない短命族。その脆さを傷つけられた怒りに任せて、必要以上に惨殺した事もあった。
 「私の獲物だ」
 「やりすぎだろ!」
 「手を出した報いだ」
 「手ぇ出したって、俺が悪いのかよ。殺さなくてすむからって監視に付き合ってるのに、これじゃ意味…何怒ってんだ、ミハイ」
 「怒ってなどおらん」
 拗ねているのがバレバレだ。無愛想でとっつきにくい奴だと思ったけれど、一緒にいればいるほど、無理して人の世にいるのだと、どこか孤独な気がして、放っておけなくなった。
 人の世で、ヴァンパイア仲間は勿論、自分以外の誰かと一緒にいるところを見た事がない。
 最近たまに見せる表情は、なんだろうか。夜明けの解散間際、悲しそうな、どこか諦めたような、意味深な表情を垣間見る。訊けば、なんだかんだと言い包められてしまうから、真意は分からない。
 本当は、寂しいのか。なぁ、何を考えてるんだ。


 「明日が満月なんだ。だから頼んでる。俺は嫌なんだよ!狼になるなんて」
 「私の知るところではない。その監視に来ているのは誰だ」
 「ヴァンパイアだろ?行き来する事くらい、どうって事ないんじゃないのか?」
 「今の私には叶わぬ。世界が個を拒絶している」
 あの時、変化が嫌で頼んだ移動で、はっきり理解した。戻りたくても戻れない。人外監視の務めってやつがあるせいで、ミハイは人の世にいなくちゃならない。
 翌日の満月の夜。獅狼はミハイの家で一晩を過ごす事になった。狼男の生態など知らないかと思っていたが、あれやこれやと、この家はどうなっているのか、対策を練ってくる。月光届かない地下でも効果がある事、感情の変化が一番危ない事、それを抑えるのに、ラベンダーやらハーブを用意してきたミハイが、外見が外見なだけに、ヴァンパイアというより魔女に見えた。
 「長生きしてると違うもんだな。俺達ウェアウルフの事なんて、短命族だし、興味ないし知らないかと思ってた」
 「…」
 「でもさ、よくあったな、そんなに色々。普通の家庭にはないぞ」
 「…」
 淡々と支度をするミハイ。やっと一言喋ったかと思えば、黙れの一言だった。いつも通りすぎて、逆に安心した。
 ありがたかった。時折、圧迫感と緊張感が混じった恐怖に見舞われたが、化け所はあるにしても、完全に変化するまでには至らなかった。
 「ミハイ」
 自分自身の事で精一杯で、気づいた時、ミハイは部屋から姿を消していた。部屋は、いつの間にか香が焚かれて独特の匂いに満ちていた。
 扉を開けて、部屋の外を見る。ライトの消えた暗い廊下の向こう、一つだけ明かりが灯っていた。そろりと忍び足で近づこうとしたが、中途半端に変化した体は、逆に扱いにくい。
 微かに開いた扉から覗くと、本がずらりと並んで見えた。書庫のようだ。キィと古びた音を立てて扉を開ける。案の定、そこにミハイはいた。木造の机に何冊も開いたままの本に埋もれて、夜のくせに目を閉じ眠っている姿。何語だかわからない本ばかりだが、写真や絵なら分かった。
 「…俺の事…」
 調べてたのか、ここで。昨日、あの後から?
 恐る恐る、寝入った頭に手を伸ばした。ぴくりと反応はあったが、起きた様子はない。
 冷たい体。獣の自分の体温が高いからなのか、ヴァンパイアがそういう種族なのか、生きた気のしない体温。でも、そのくせに、確かにここに存在して、いつものように堅苦しい格好で、でも子供みたいに無防備に寝入っている。

 …年上だし、男、なんだよな。
 幼い容姿と、女の子みたいな顔付き。そのせいで、たまに女の子じゃないかと勘違いしてしまう。もちろん、野郎だと良く分かっているつもりだ。…いや、男女云々より、年上に見えないのが、いけないのかもしれない。
 頭に置いた手を、そっと動かす。ゆっくりと髪をひと撫でして、手を離した。少しひんやりした感触は、ヴァンパイアという種族のせいか。それとも部屋の気温のせいか。
 冷たい部屋にいるより、自分がいた部屋の方が良い。抱き起こすと、虚ろに瞼が開いた気がしたが、起きたなら嫌がるはずだ。何も言ってこないから、そのままにした。軽い。思った以上に軽い。
 「…マジかよ」
 独り言を漏らす。本当に女の子みたいだ。そんな事を意識してふれた事は、初めてかもしれない。やけに緊張した。
…部屋までの短い距離が、もっと長ければ良いのに。
「馬鹿!」
そんな場合じゃない。
緊張に脈打ち始めた腕が変化を促した。急いで部屋に戻る。焦りを落ち着こうとする意思が抑える。さすがにミハイが目を覚ました。
 「…何故部屋から出た」
 「いないから探した」
 部屋に戻るなり、そっと床に下ろしてやる。普段なら文句か無言の反撃がくるものが、今夜に限っては気を遣ってくれているのか、随分と大人しい。変化に形を変えては戻す両腕を互いで押さえるていたら、ミハイがその両腕に触れてきた。
 「…痛むのか?」
 「いや、痛くはねぇ。ずきずきするくらいでたいした事ないよ。大丈夫」
 「それは痛いとは言わんのか?」
 「…言わ…なくねぇ、か」
 苦笑いと同時に、片腕がぶわっと逆毛の立つように獣のそれに変わった。反対の手でしっかり掴んでいても、それが持ちこたえられそうにない。
 「ミハイ、逃げた方が良い」
 「私には変化の苦しみは分からぬ。…調べるしかできなかった」
 「暴走したら力が半端ねぇんだ。お前が危ないだろ…!」
 押さえつけても震える腕に耐えきれず、後ろによろめく。扉に背中を打ち付けたが、ミハイが再度両腕に触れて、合成獣のような肢体を腕ごと抱きしめてきた。
 「鎮まれ、馬鹿者」
 「危ねぇって言ってるだろ。人外退治で、嫌っていうほど力の差はわかってるだろ」
 「意識を自分に向けるな。鎮まれと言っている」
 「できねぇ。俺はお前を傷つけたくないんだ!離れてくれよ!」
 視線を向けて来なかったミハイが、言葉に遅れて顔を向けた。見上げた顔が、無表情から挑発的な薄い笑顔に変わる。
 「ならば問おう。貴様こそ私が恐ろしくないのか?生き血でしか生きられぬ。だが、死ぬ事がない。化ける事はなくとも、何度でも再生する身体をどう思う」
 「ミハイ、いきなり」
 「答えろ。質問しているのは私だ」
 「…どうって」
 「化けていなくとも牙を持つ身だ。腹に風穴があこうが、血飛沫をたてぬ。それをどう感じた」
 「…」
 「今、どう思う。この体温を生き物のそれと思えるか?人間どもの基準からしたら、死人とどう違う」
 「…ミハイ」
 「私が恐ろしくはないか?」
 見上げる薄い笑みが、悪戯に深まる。挑発的な視線。意味ありげな笑み。質問に最初は当惑した獅狼だが、最後の言葉の後、苦しみか悔しさと安堵の含まれた複雑な顔をして言った。ミハイの意図が、気持ちが察せたからだ。
 「全然。前はそう思った事あったけど、今は恐ろしいだなんて、全然思わない。ミハイはミハイだ。俺が知る、家族以外で唯一の人間以外の奴」
 「…そうか」
 納得したようで、頷いて身を離す。足音をたてずに部屋の奥へ移動しながらミハイは言う。
 「今宵はもう部屋から出るな」
 話していたおかげで人間の腕まで戻った両腕を改めて見直して、脱力感で扉の前で座り込んだ。
 「…あぁ、そうする」
 「貴様の馬鹿さ加減にも、笑うな」
 「…なんだよ、さっきから」
 疲れきった顔を上げて、椅子に腰掛けるミハイを見やる。彼は鷹揚とした態度でこちらを見つめていた。
 「私が貴様の爪で死ぬはずがなかろう。力の差くらい、私も知っている。それがどうした。首が飛ぼうが死なぬ身体だ。私を傷つけたくないなどと、己の望みでしかなかろう」
 立ち上がり、足音のない足取りで近づいていく。
 「私も貴様も、人間ではない。私に人間殺しをさせぬようにとついて来たが、結局は同じ人外監視の務めに行動する事になった。そこで力の差を思い知る事になったな」
 獅狼のもとに膝をつき、彼の顔を乱暴に片手で鷲掴む。
 「つけあがったか、獣。私を傷つけたくないなど、傲慢も良いところだ。貴様はただ、傷つける事に怯えているだけだろう。変化せざるを得ない宿命に、死なぬ私は格好の相手なわけだ」
 言葉に次第に目を見開き驚きを見せたが、一度の瞬きにそれは意思を込めた眼差しに変わった。獅狼はミハイの手を剥がすように退かし、改めて見直した。
 「…あぁ、そう思った事は何回もあるよ。死なないお前に、安心した。けど、それで傷つけて良いとは思った事はない。自己満足と思われてもいいよ。それとこれとは別だろ。死なないからって、傷つけて良いわけねぇだろ。関係ねぇよ、そんな事」
 握った手に、力が篭る。引き寄せれば、ミハイは自ずと身体ごと、引っ張られた。驚きというより困惑に近い顔で見上げれば、獅狼は酷く優しい表情をしていた。
 「獅狼」
 「やっと知り合った人間じゃない仲間なんだ。それだけじゃない。最初はヴァンパイアだからって、毛嫌いしてたけど、だんだんどうでもよくなった。ミハイ自身が見えてきたから、逆に別の種族だから、知りたくなった。昔なら考えられなかったよ。ヴァンパイアの事を知りたいなんて。知るほど、嬉しかった。さっきも、俺の事調べてたのかって知ったら、気持ちがざわついた。うまく言えないけど…気にしてたら悪いけど、小さいし、力もねぇから…心配なんだよ。戦ってる時とか、俺が守らなきゃって思うし」
 「…不死身相手に心配か?」
 「お前、言いたい事それかよ」
 「山ほど反論したい事はある。その前に手を離してはくれぬか」
 「嫌だって言ったら」
 「…呆れた」
 心底馬鹿らしいと顔を背けるミハイだが、どこかへ逃げる様子はなかった。
 「今日はそのまま呆れててくれ」
 冷たい扉の前、体温の低い身体を抱きしめたが、獣化しそうな身体には心地よい冷たさだった。

-SCENE: ENCOUNT-

 深夜の戦闘も、お互いの息が合うようになってきた。狼男の腕力や機敏さ、ヴァンパイアの素早さや知能をもってすれば、たいていの人外は対処する事ができた。
 しかし、今夜は一筋縄どころか、全く歯が立たない。獅狼が紙一重で鎌のような刃物から逃れる。後退した先に、ミハイはいた。
 「なぁ、お前なら知ってんじゃねぇの!なんなんだよ、こいつら!」
 目線は標的のまま、ミハイに問う。彼から応答の言葉はなかったが、代わりに悔しげな溜息が聞こえた。その直後、手足だけが異様に長い黒々とした二足歩行の化け物は、体勢を崩したのかよろめき、狭い廃ビルの並ぶ路地の壁に体当たりをした。のそりとゾンビのような手足を、ゆらりゆらりと無駄に振り回し、狭い路地で窮屈そうにぶつかりながら、しかし確実に近づいてくる。
 化け物は最低2体、何体いるのか不明。
 「さっきから殴っても蹴っても、全然こたえねぇ」
 たまの長い吐息が腐った生ゴミのような臭いがした。2人とも大した怪我はしていないものの、体力的・精神的に追い込まれていた。
 人外のようで、何か違う。痛みを感じない暴走状態は理解できても、さすがに不死身なほど動き続けるのは腑に落ちない。
 「傀儡かもしれん」
 「なんだ、それ」
 「私が他の記憶を操るようなものだ。誰かがこの化け物を操っていると考えてもおかしくなかろう」
 「そんな事できる奴いんのか」
 「知らぬ」
 振り降りてきた腕とは言い難い代物を跳び避けて、2人は更に入り組んだ廃屋の並ぶ地帯へ迷い込む。
 廃屋の一つの壁に背を預けて、2人して荒い息に肩を揺らす。
 「ここ、どこだよ。大分、迷ってねぇか?」
 「方角くらいは分かろう」
 「そりゃ市街地から山の方に来てるくらいは分かるけど、こんな場所あるなんて知らないし」
 「夜明けまでには片付けたいものだがな」
 「今何時頃だ?時計壊れちまったから、俺、正確な時間分からねぇや」
 「半月では時も読めぬか」
 「人間ならそんなもんだって」
 言いながらずるずると体を壁伝えに下ろし、獅狼はしゃがみこむ。
 「まだ追ってきてる?」
 「あぁ、だいぶ鈍いが、我々を探してはいるようだ」
 ミハイの答えに、獅狼はうなだれた。
 「もう勘弁してくれよ。一体何なんだよ」
 「ごちている暇はなさそうだ。来るぞ」
 ミハイの言葉をかわぎりに、2人は別々に廃屋の壁から離れる。頭上はるかに舞い上がったミハイをのそりと見つめ、黒い化け物は長い両腕をミハイへ伸ばす。ミハイの姿は捉える前に虚空から消えた。伸ばしきった腕に、もう1体の化け物が似たように腕を伸ばしてぶつかり合う。
 一度体勢を崩しかけた化け物は互いに支え合うように地を疾走する獅狼めがけて手を伸ばした。
 慌てて建物やらその辺にあった何かの看板らしきものやらを後ろに投げつけるも、もつれた腕は絡まる事なく近付き、ミハイの刃で杭に打たれたように地に倒れ着いた。
 「逃げろ!」
 短剣を抜くと同時にミハイが獅狼に叫ぶ。声が重なった。
 「ミハイ!」
 もつれた腕の山はすべて短剣という杭に打ち付けられたのだが、化け物に腕も脚もなかった。上から覆い被さるよう、2人のもとへ化け物の脚なのか腕なのかもはや分からない物体が伸びてきた。

 さすがに間に合わない。
 ミハイが近付く物体に反射的に逃げるより受け身を取る。獅狼も同様、衝撃に構えた。これが、触れたら最後の代物だったら、終わりだ。
 視界が、一気に白く、明るくなった。
 ミハイでも太陽を直接見なくても太陽の色なら知っている。それとも違う白い光。
 真夜中だが月明かりはある。黒い化け物に襲われたなら、視界は暗くなっても良いはずだ。
 獅狼がようやく光に眩む視界から戻った時、それが閃光のような、一筋の光が通ったのだと認識できた。
 と、同時に、二つの影を捉えた。自分も影も、視界の先にはミハイも、皆が一方向を目指した。
 影は、2人の人間だった。白く見えたものは、人間の放った光線銃みたいなものだと、振り返り反芻して理解した。一発だけじゃなかった。数発の光弾と、自分達に近付いた対処。あっという間の的確な動きは、化け物が何者なのか知っているとしか思えなかった。
 ミハイの注意は、化け物から一転、人間の1人、茶金髪の男の方に移行していた。獅狼より少し背が低いくらいで一般的な体型、細い切れ長の目と少し笑ったような表情が印象的な男。人間の持っているものはサイレント銃のようで、迷う事なく放たれた銃弾は、化け物に当たった衝撃音と光だけ伝えた。
 「佐伯さん、その子達を」
 「ありがとう。先に行くよ」
 佐伯と呼ばれた茶金髪の男は、仲間と数回の会話の後、ミハイに話し掛けた。
 「おいで」
 手招きに、逆にミハイは獅狼の側へ移動した。一度ミハイを見やってから、獅狼は突如現れた人間の導くまま、化け物に追われながらも、廃屋の一帯から抜け出て、車の往来のありそうな通りに出た。文字通り、谷底から這い上がってきたように、道の向こう、整備された崖を見上げれば、だいたいの位置感覚の掴める町灯りが見えた。
 「ここ、登るよ」
 人外ならまだしも、人間には厳しいのではと思う断崖を、佐伯という男は軽々…とまではいかないにしろ、獅狼と良い具合に張り合える速さで登って行く。ミハイは遅れてやってきた。登るふりをしてみせているのだろう。素知らぬ顔で後からついてきた。
 何者なんだ、こいつ。
 獅狼の疑問を余所に、人間は小屋と説明するのが無難な建物に身を寄せた。
 「もう、ここまで来たら、大丈夫かな」
 へらっと笑う人間に、自分達の事は気付かれていないのだと獅狼は安心した。
 「あの、ありがとうございます」
 人間の近くに腰掛けて、獅狼は軽く頭を下げた。人間も軽い会釈で返す。
 「まさか、びっくりしたよー。化け物の対処に来てみたら、子供が2人、襲われてるんだから。危なかったー。あ、僕、佐伯。よろしく」
 気の抜ける口調で話す佐伯という人間。佐伯につられ、獅狼は流れで握手を交わす。その手を離さないまま、佐伯は小さく笑った。
 「でも、まさか襲われてた子供が人外だとはね」
 耳を疑った。
 人外?
 ばれてる?
 目の前の人間はさも当然の事のように、さらっと言いのけた。
 「…え?」
 返す言葉が見つからなくて、しどろもどろの獅狼に、佐伯は焦げ茶色の瞳で獅狼を覗き込んで言った。
 「あれ、固まっちゃった?」
 握手をやめ、獅狼の目の前に手をひらつかせる。
 「…貴様、何者だ」
 友好的に接してこようとする佐伯に、ミハイは突如質問を投げつけた。その声にはどう聞いても敵意が含まれていた。
 「いきなり」
 「正体、当てようか。君は人間そっくりだけど、こっちの青年とは中身と外見が逆だろう?」
 ヴァンパイアの唐突の言葉に臆せず、人間も言葉を返す。敵意を向けるミハイと動じない佐伯を、獅狼は唖然と交互に見返した。
 「金髪の君。君は…死神?いわゆる悪魔かな」
 人外というだけで非常識な話をしているのだ。その上、正体を当てようと言う。正常な精神ならば、少なくとも複数の人外を知らなければ、このセリフは出てこない。ようやく獅狼も立ち上がり、佐伯を見返したまま、ミハイの方へ後退った。
 「恐がらなくて良いよ。ただ正体を当ててみようかって言っただけだよ」
 「ちょっと待てよ。なんでそんな常識はずれした話し出すんだ。他人を悪魔だなんて、なんの冗談だ」
 「…そうやって人間ぶる君は…人狼とか?」
 「なっ!」
 「あ、当たり?」
 思わずカッとなる獅狼に、ミハイは溜息を漏らした。
 「詳しい事は良く分かった。だが、悪魔とは心外だな」
 「あー違ったかぁ…」
 「それに、まず自らが名乗ったらどうだ。どこの何者なのか正体を」
 ミハイの正体を当てようと考え直そうとさせた矢先に素性を迫られ、佐伯は一呼吸置いて、2人を見た。
 「ごめんごめん、順序が逆だったね。僕は佐伯。佐伯望。警視庁公安部所属の…まぁ、警官だ。警官と言っても、ちょっとワケアリってとこかなぁ。要は公表してない事情で動く人かな。裏人間と言えば裏だねぇ」
 相変わらず間延びした独特の喋り方をする佐伯。内容を理解したのか、両手で頭を抱えて獅狼は唸った。
 「…こういうのがいるから、政治家の犯罪とか許されてるんじゃね?」
 「的外れだな、獣」
 「その獣ってやめろよ」
 「表沙汰では、不可思議現象やらのオカルトの類で済まされてしまう現象の、事実を探る者という事だろう」
 「そそ、それ。君、分かるねぇ」
 「…探って、犯人が人外だった時は、どうすんだよ」
 はたと、獅狼は質問するだけして、自ら答えを出してしまった。警官なのだ。真実の先に、犯人が人外ならば、法で裁けないならば、彼の役割は自分達が夜な夜なやってきている事と変わらないのでは。
 「重罪なら、それ相応の対処をするね」
 「昨日の化け物みたいに?」
 「必要とあらば」
 微笑みを絶やさずに応えていた佐伯に、ようやく獅狼も危険を感じたようだ。戸惑いを含む複雑な表情で狼狽える。
 「な…、それって…つまり」
 「人殺しが起これば、殺害の対処をする。危険だと判断すれば、被害のないよう対応する。だから、昨日みたいな事を、良く知ってる」
 ゆっくりと、確実に説明する。佐伯は少し目を細めて、思い出すように言った。
 「知ってるから、君達のような無害な人外は、守りたいんだ」
 言葉を失って、獅狼はゆっくりと腰を下ろした。
 「…なんだ、世の中捨てたもんじゃないな」
 獅狼の言葉に、佐伯は微笑んだ。同意を求めるようにミハイを見た獅狼は、ミハイの表情に、疑問を浮かべた。怒ってる?
 「…しかし、我々は危険だと見なせば殺すのだろう?」
 「さぁね?」
 ミハイの言葉にやはり微笑みで返す佐伯。どうにもミハイには信用ならないようだ。言われて、満月の夜ならば自分もその限りではないと思い直した。
 遭遇のタイミングによっては、自分もミハイも、標的になる。
 「たとえ暴走した人外でも、その原因や対処方法がはっきりしていれば、何も殺したりなんてしないよ」
 へらへら軽く言ってくれる。なんとも言えない顔で獅狼は佐伯を見ていた。
 信用したいけど、やっぱり、まだ信用できない。
 「対処方法なんて、そう簡単に分かるもんなのかよ」
 「ん」
 見つめる獅狼に、佐伯は爽やかに微笑んだ。
 「よくあるお話通りな満月に化ける狼君なら、満月の間だけ好き勝手できないように閉じ込めるなりがんじがらめにしちゃうなり、抑えておけば良いでしょう」
 「…まぁ、それはそうだけど」
 「朝になったら、縛ってごめんねって、お家に帰してあげれば良い。これで答えになるかなぁ」
 にへらっと笑う佐伯。間違ってはいない。獅狼は戸惑いがちにミハイに視線をやった。が、案の定、納得はしていない様子だ。
 「対処方法の分からない場合は、危害を加えるしかないのかって質問があるね。それ、答えたら信用してくれる?」
 佐伯の言葉はミハイに向かっていた。ミハイは佐伯を見てはいたが、ふいと顔を背け、蹲ったまま動かなくなった。
 「…えっとー」
 「…私の対処方法を言え。それ次第では信用してやろう」
 声だけ返答がきた。佐伯は相変わらずにっこり笑ったまま、わざとらしい大袈裟に考え込む仕草をした。獅狼といえば、むしろミハイの正体を悪魔と間違えた佐伯がどう答えるのか興味深かった。
 しばらく考えていたようで、沈黙の後、佐伯は口を開いた。
 「何もしない」
 きっぱり言い切った佐伯。獅狼が笑った。
 「なんだよ、それ」
 「だから、何もしないんだ。話が通じる相手で、特に何も危害を加えるような素振りがないから、何もしない」
 ミハイは動かない。佐伯は続ける。
 「何もしないって言うのも語弊があるね。ただ見張るだけって、言い直そうか。話し合いで解決するなら、それが一番だしね」
 そう言って獅狼を見やる佐伯。同意を求める視線に、獅狼はただ頷いた。
 黒いコートに身を包み丸くなるミハイ。のそりと顔を佐伯達に向け、それから白けた表情と口調で返答した。
 「ならば、私の機嫌を損ねぬようにする事だ」
 それだけ言うと、ミハイは立ち上がり、獅狼を顎で使って言った。
 「逃げ延びたなら、長居は無用だ。一応、感謝しよう、人間」
 …どうやら日の出が近いようだ。次第に空が蒼白くなってゆく。
 獅狼も早々に挨拶をすませ、2人は佐伯の前から姿を消した。
 ミハイの住み家まで、意外と距離があった。朝日が昇り、日差しが照り始める。いつもなら自分より早く、とっとと先に行ってしまうミハイのはずが、遅れを取っているので気にはなっていたが、太陽とヴァンパイア、こんなにも顕著かと、獅狼はミハイのそばに駆けつけた。

 日の出の直前、足の遅いミハイに気が付いて駆け寄れば、息を荒げて東を睨むミハイがいた。
 「太陽が…」
 言いかけて、やめる。恨めしそうに睨む東から目を反らし、自分の家の方角を見やる。直後、蒼白い空は赤みと明るさを増した。日が出たのだ。
 獅狼にも、距離感は掴めていた。
 夜中、暴走した人外にてこずって朝日までにミハイが帰宅できなくなるケースがなかったわけでもない。そういった時は大抵、地下のどこかに身を潜めて、夜までやりすごした。今日もそうするだろうけれど、あんな戦いの挙げ句、日中をどこかでやりすごすには、体に負担が大きすぎるんじゃないかと心配だった。
 息を荒げるミハイの肩に手を乗せ、獅狼は様子を看る。
 「なんとか帰らせたい。朝日が昇っちゃって、そしたら外は歩けないもんなのか?」
 心配そうに顔を覗く獅狼。ミハイは顔を上げる事も億劫なようで、ゆっくり一字一句答えた。
 「…直接、浴びなければ…死には、しない。嫌いな…だけだ」
 「でも、相当辛そうだぞ、今」
 「眩しい…」
 抗議するように上げられた顔。眩しそうに目を細めて獅狼を見上げる。苦しむ顔を見られたくなくてミハイは俯いたが、獅狼にしがみついたまま、体の力が抜けそうになった。反射的に抱き留めた獅狼が、ゆっくり上体を抱きかかえ、肩を貸した。
 「眩しいだけで、ここまで弱るかよ」
 「…」
 もはや憎まれ口も出てこない。
 獅狼はざっと辺りを見回しながら、ふと思いついた。
 「俺ん家来いよ。ここからだと、ミハイん所より近い。母さんは仕事でいないだろうし、俺の部屋、カーテンかけて、夜まで寝てりゃ良いからさ」
 「…」
 もう何も言いたくないのか、ゆっくり頷くだけ頷いて、ミハイはついに膝を地につけた。
 「ちょっと」
 慌ててミハイを抱き上げて、着ているマントとコートの合いの子のようなコートで完全に包んでやれば、少しは安心したのか、ミハイは険しい表情を緩ませていく。獅狼は大荷物でも抱えるようにして、足早に自宅に戻った。

 案の定、親は仕事でいなかった。朝早くから、夜遅くまでいないのは常だ。マンションの一部屋、自分の家まで戻れば、全部の開け放ったカーテンを閉めて、玄関で蹲るミハイをなんとか歩かせて、玄関すぐの自分の部屋まで案内する。
 「汚ないとか、なしな」
 物が煩雑としている部屋。あまり人様に見せられる状態ではないが、構っていられなかった。
 眠気もあってか、虚ろな目で辺りを見回すミハイ。
 「…暗くなった」
 「あぁ、俺ん家。南向きなんて贅沢な家じゃないから、安心しろ。俺の部屋は北部屋だし、日差しは直接は入らないから」
 「…」
 さすがに埃にまみれたコートは脱がせて、ベッド脇の机に置いた。ベッドに寝かしつけるように横にならせて、布団をかける。子供に話し掛けるように優しくゆっくりした口調で、獅狼が話す。ミハイは獅狼の言葉に従いのろのろと動きながら横になり、大きく深呼吸をして、目を閉じた。かぶさってきた布団を握りしめて、丸くなって蹲る姿は、熱の出始めの病人みたいに見えた。
 「お前、本当に大丈夫か?」
 心配して声をかけるも、ミハイは瞑った目を開けようとはしない。
 ベッドの中、蹲るミハイのそばで、離れるに離れられなくなり、獅狼は傍らの床に腰掛けた。
 「やっべ…だりぃ…」
 夜通しの戦いだったから、安全になった今になって、どっと疲れが襲ってきた。眠気と疲労に負けそうで、獅狼は立ち上がって、リビングの方へ行く。
 ミハイが部屋で大人しくしていれば、何もリビングまでカーテンを閉めっきりにする必要はない。慌てて閉めたカーテンを、今度はきちんと開ける。リビングの棚にある救急箱を見ても、キッチンに行って冷蔵庫を見ても、特にミハイに役立ちそうなものは思いつかない。
 コップ一杯の水を飲んで、獅狼は部屋に戻った。
 「……」
 部屋に戻るなり、ミハイの様子が気になった。完全に無言。動きもしない。そろりと様子を見に枕元を覗くと、完全に寝入った様子で、険しい表情も嫌そうな表情もせず、すやすやと寝息をたてていた。
 やっと、ほっと一息つけた気分だった。ヴァンパイアの生態を、実は詳しく知らない。だから、やれるだけの事をやるしかなかった。
 ミハイの言葉通りなら、直射日光に当たらない限り大丈夫そうだったが、直射日光じゃないにしろ、日中の明るさはヴァンパイアにとって辛いんだなと、様子から察した。だから、ミハイん家は地下にあるんだなとも、妙に納得した。
 ベッドサイドに自分ももたれかかって肘をつく。規則正しい寝息が、妙に安心感をもたらした。
 部屋の時計を見上げ、寝るに短く起きているには長い中途半端な時刻に、今日の大学の授業がだるく感じた。
 …今日、ずる休みしよっかな…。看病って事にしたら良いかな。ミハイ、本当に辛そうだったからなぁ。
 そんな事を考えているうちに、獅狼も疲労と眠気に負けて、眠りに落ちた。
 それから何時間が経ったのか。ミハイはそっと重いまぶたを開けた。太陽は一番輝く場所にいた。
 幸い室内で、直接にも間接にも光が入らないようにドアもカーテンも閉められた部屋は、ミハイにとってはまだ居心地が良かった。とはいえ、けだるさと眩しさは、いまだ拭えない。
 「…」
 気付けば、傍らのベッド端、うつ伏せに両腕を枕に眠る獅狼がいた。
 …全く、不可解だ。
 嫌いと言われたと思えば、後をついてくるようになり、友を牙にかけたというのに、こうやって私を庇護する。
 ミハイは口元を手で隠しながら、眠る獅狼の顔からうなじへ目線をずらした。
 かれこれ何度もの戦いで、人間の味は知った。にも関わらず、この狼の血の味を、今でも気にしている自分がいる。
 そんなに魅力があるのだろうか。
 考えては、馬鹿馬鹿しいと考え直す。本能的に興味を示しているのだから魅力あるのだろうという答えと、こんな単純な獣に魅力なんか感じるものかというプライドが否定する。単に足りないだけだ、血に満足していれば、こんな馬鹿馬鹿しい考えなど浮かばない。
 交差する考えを無視して、手は獅狼の首元に触れていた。思った通り、硬い髪質。本当に狼みたいだと、笑えてくる。
 後頭部に手を置いたまま、息遣いにあわせて上下する肌に、体温と鼓動を感じた。
 …この体温は嫌いじゃない。
 首から手を離し、ミハイはもう一度布団に深く包まった。

 不意に、頭の後ろの方でひんやりとした感触がした。気のせいだと思ってから、しばらくして目を覚ましたらしい。自分で頭の後ろを触ってみても、特になんて事もない。
 ミハイは、余計芋虫のように蹲って眠っていた。そんなに明るくないつもりだが、ミハイには明るいのかと改めて思う。
 ぐっすり眠れているのなら、それで良いや。
 そう安心してもう一度眠ってから、次に目覚めるまで、随分と寝てしまったらしい。次に起きた時には、もうどっぷりと日は落ちていた。案の定、ミハイは姿を消していた。
 「…あー…昼夜逆転…」
 独りごちて、変な体勢でいたせいで硬くなった体をストレッチしてから、ベッドに投げ出した。
 冷えきったベッド。そんなに前にいなくなったのかと思うが、ヴァンパイアが低体温だったと思い直す。
 「…いいや」
 無事、帰れたなら。
 今夜もいつも通りに見回りするのかな。
 色々と思案しながら、獅狼は今夜の出かける用意をした。

-SCENE: INTEREST-


 「お疲れ様でーす」
 「あぁ、獅狼君。お疲れ様。ここであっていて良かったー。間違っていたらどうしようかと思ったよ」
 「佐伯さん、警官がそれじゃマズイでしょうが」
 「あははー」
 私服警官だからか、初回であった時も今回も、同様に堅苦しいイメージはない。どちらかと言えばラフな格好をした男性だ。麻や綿の、ゆったりした服装だ。同様に学校帰りの獅狼も大学生のため私服で、学校のノートが入った薄っぺらい鞄と本人の好きそうなデザインのシャツにジーパン。2人とも『らしい』格好ではあった。
 「こっち」
 獅狼の案内で、2人は込み入った路地を入っていく。物珍しそうに辺りを眺める佐伯の目付きは、仕事の眼だった。そんな様子を遠目に見て、獅狼に警戒心は湧かなかった。
 「生きてるかー起きろー返事しろー俺が来たぜー」
 あまり表の人間が住む場所ではない地帯に来ているのは職業上佐伯には分かっていた。一つの扉を見つけると、手慣れた手つきで、ただし明らかに遠慮なしに鍵のついた扉を叩く。煩い騒音に物音が返ってくる事のないまま、解錠の音だけがした。
 「お。お邪魔するぞ」
 勢いよく扉を開けて、中に入ろうとする獅狼めがけて、本来蝋燭をつけるはずのスタンドが槍のように突っ込んできた。
 「どぉぉ!」
 「貴様は何度言えば学習する!こんな明るい時間に起こすな!」
 「あぁあぁ危ねぇだろ!」
 蝋燭を刺す部分は確かに凶器にはなる。串刺しを危機一髪で避けたは良いが、相当不機嫌な様子だ。
 「どうもぉ」
 「…帰れ、愚民ども」
 はたと目が合ったもう1人の人物に、ミハイは間を入れてから扉を閉めようとした。
 「待て待て待て。ミハイに会いたいってうるせぇんだ。今夜くらい人間の相手してくれても良いだろ?」
 「…いつの間に仲良くなった」
 「ほら、俺も佐伯さんも昼間活動型だし」
 獅狼が後ろに控える笑顔の男を指さす。最初に遭遇した時から変わらない笑顔の印象のままの人間。扉を閉められないように間に立ちはだかる狼男のせいで、鍵をかけられそうにない。
 「昼組は昼組同士、仲良くやっていれば良いだろうが」
 「だから、お前に用事があるんだって。だから昼と夜の間とって夕方」
 「ダメかなぁ。僕も君と仲良くなりたいんだよねぇ」
 「も、とは何だ。この馬鹿者と仲良くなった覚えはない」
 「じゃあ、僕は君と仲良くなりたいです、ミハイ君」
 「いちいち貴様の発言は悪寒がする。それに、名乗った覚えはない」
 夕方から起こされて不機嫌な様子のミハイの背中をばしばし叩いて獅狼が言った。
 「俺達はただの腐れ縁。佐伯さんは普通に良い人だよ。俺達人外の事をよく理解してくれてるし、興味持ってくれてる。お前の方が、より人の世で生きてくには難しいだろ。だから、色々知りたいんだってさ。力になってくれるかも」
 「いやぁ、そこまでじゃないけどね」
 相変わらずの優男ぶりで笑う。その笑顔に心底イラつきを覚えながら、スタンドを持ったままミハイは踵を返した。
 「私にはただの興味にしか見えんがな。出かける支度をしてくるから、少し待っていろ」
 ミハイのだるそうな後姿と返答に、2人して勝利の笑みを交わした。数十分と長い事待たされたにも関わらず、何をどう支度したのか変化がわからないが、再登場したミハイをもはや拉致に近い状態で連れ出して、2人は元々決めていた獅狼の知る店に連れ込んだ。終始嬉しそうにする佐伯の態度に、不信感さえミハイは抱いていた。
 「今日はお疲れ様でしたー!」
 「僕はまだ仕事中だけどねぇ」
 「これ残業なんですか?」
 酒を片手に勝手に盛り上がる昼組2人と、まだ眠たそうにする夜組1人。
 「佐伯さんがここ知ってるとは思いませんでしたよ」
 「職業上ねぇ。僕の方こそ、獅狼君がここを知っていると思わなかったよ?」
 「一応、俺もこっち側なんで」
 個室と言うべきか、隔離された部屋は密会には絶好の場所ではあった。だからこそ、犯罪者の巣窟になるのは想像に容易い。
 「ミハイ君は水で良いの?せっかくだから飲もうよ。それとも苦手?」
 話を振る佐伯に、ミハイは水さえ口にせず眠たそうなまま椅子の背にもたれて2人を交互に見て、溜息をついた。
 「私に生き血以外を口にしろという方が拷問だ」
 「あーそういう違いってあるんだぁ」
 間に座っていた獅狼の事など気にしないように身を乗り出してミハイに近寄る。その態度に至極嫌そうに距離を置こうと退くミハイ。
 「この人間をなんとかしろ、獣」
 「あの…俺、名前あるんですけど」
 「獅狼」
 「佐伯さん、怖がってるから。ちょっと抑えて」
 「怖くはない。不快だ」
 「うわぁ、嫌われちゃっているなぁ」
 両腕を組んで明らかに敵意をむき出しのミハイに、困った顔さえしない佐伯と、どうしたものか考え込んだ獅狼。最初に出会ってから、暇さえ見つけては佐伯は獅狼を訪ねてきていた。佐伯を獅狼の家に招待した事もあれば、大学生としての身分を利用して、見学かねて佐伯の職場に出入りしていた時期もあった。そのおかげで、2人はすっかり情報を共有する仲になっていた。だからこそ、ミハイの家にも直接案内して良いと獅狼は決断した。
 人間と比べて、狼男よりヴァンパイアは生態が違いすぎる。だからこそ、余計に佐伯の興味を引いたのは確かだが、問題は知るヴァンパイアのミハイがこういう性格のヴァンパイアだという事だ。
 「お酒だめかどうか、血中濃度でわかるんじゃない?ほら、飲んで6時間は運転しないでくださいって言うでしょう」
 「じゃあ飲み比べしましょうよ佐伯さん」
 「…勝手にやっていろ」
 まったく何も手をつけないミハイは席の端で目を閉じたが、獅狼に掴まれ、引き戻された。
 「飲めないのか、飲まず嫌いなのかためしたら良いんじゃねぇ?」
持っていた飲み物を目の前に渡される。ミハイはそれを押しのけて観念したように佐伯に話をふった。
 「貴様らが何を飲み食いしようが勝手だが、その血を試しに飲めと言われても私は飲まん」
 席を立ったかと思えば、佐伯の隣に移動する。ヴァンパイアならではの移動速度を直接見て、佐伯の心拍数が上がったのは人外2人にはすぐ分かった。
 「人外に、それも私に興味がある人間というのも、愚かを通り越して憐れなものだな。血を飲まれたいのなら飲んでやっても良いが、それ相応に、私の機嫌をとってみせろ。全く貴様には興味を惹かれん。飲まれたければ私をその気にさせてみろ」
 わざと近づいて、佐伯の喉下に指先を当てる。そこから探りながら相手の首筋にある血管を辿っていく。目線は決して外さなかった。相手も、外してこなかった。外せなかったのか、興味から外さなかったのか、喋る度にちらつく牙にさえ、視線がいった事から、恐怖ではなく興味が勝っているのだろうと思われた。
 「ミハイ」
 獅狼が笑いをこらえながらこちらを見ていた。何事かと思い2人とも獅狼を振り向く。
 「お前、その態度、はたから見てるとすげぇ、なんかエロい」
 「は?」
 「だってさ、『その気にさせる』ってさ、口説いてるみてぇ」
 「あはは、僕、口説かれた?」
 「誰が貴様を!」
 怒りを露に獅狼の方へ行こうとするミハイを佐伯が止める。掴まれた手をほどこうとはしなかった。力では、五分五分のように思えたからだ。それをここで勘付かれる方がミハイには侮辱でしかない。
 「でも、獅狼君の言うように、それがヴァンパイアのやり方なのかもね」
 「やり方?」
 「そう。獲物を捕らえる狩りの仕方」
 離された手を振り払って、元いた席に戻る。座って隣にいるいまだ笑いをこらえる狼男を侮蔑して言った。
 「確かにな。生憎と獣人のように直感と力任せの馬鹿な方法は、考え付かん」

++++ -SCENE: RESQUE-


虚ろな記憶がはっきりするまで、けっこうな空白がある。原因はそうだ…獅狼が我が住処を人間にばらした事だ。それさえなければ、無様に捕まる事などなかった。
こんな状況になってから獅狼と再会する数日前。私は何かの施設に囚われた。目覚めた時は、既に捕まっていた。無様に横たわっている自分。いつもの見慣れたベッドの上ではなく、無機質な床に心ばかり敷かれた布の上。その時から両手と両足が拘束されていて、マスクか何かが顔の下半分を覆っていた。まるで、囚われた獣だ。
「佐伯の言うとおりだ」
数人の声や足音とともに聞こえた名前。佐伯。覚えのある名前に、動揺はなかった。むしろ、納得と敵意が増した。噂通り、登場した笑顔の人物に、ミハイは睨む。
「嫌われちゃっているなぁ」
鉄格子の中に囚われている事を把握する。いつもは私服の佐伯が、制服なのだろう、畏まった姿で、解錠の音とともに牢獄内に入ってくる。
「目覚めの気分はどうかな?」
喋れないヴァンパイアの無言の訴えに、佐伯は無防備にくつわを外す。それを見ていた牢屋の外の人間が注意をするが、佐伯は心配ないと、2人にしてくれと促した。監視に立っていた人間が去るのを確認してから、佐伯が喋りだす。
「こうでもしないと、君は僕と話してくれないでしょう」
「強引な奴は嫌いだ」
「でも僕は君が大好きだ」
「その喋り方にいちいち悪寒がする」
「獅狼君は助けに来ないよ」
にっこり笑って、人間が言う。表情こそ変えないが、ミハイは佐伯を再度見返す。
「驚いた?獅狼君は助けに来ない」
「誰が野蛮人の助けを求めていると?」
「そうかなぁ?けっこう仲良しさんに見えたけど?特に獅狼君は君を慕っていると思うけどね」
「知らぬ」
獅狼の友を牙にかけて、まだ月日が浅い。それなのに何故、あの男が自分を助けに来る必要がある。元々あの男には憎まれている種族だ。状況を知ったところで、自分の死を望むのが自然だろう。
「でも、さすがだね。太陽のないところでも、夜になったら目が覚めた。そういう種族なんだろうね」
佐伯の言葉に、今が夜なのかと思うも、信用に足りない。佐伯が近寄れば、ミハイは距離を取る。
「もう新月が近い。獅狼君は今頃ぐっすりかもね」
壁際まで追い込まれても、なおも逃げる。それでも近づく佐伯は、薄く笑みを浮かべて言った。
「生き血なら良いんだよね、ミハイ君?ここはねぇ、そういう研究所なんだ。無期懲役の犯罪者は、つまりはそういう事なんだ。言いたい事、わかるよね?」
「…とんだ外道だな」
「君に興味があるだけだよ」
口元に佐伯の手が伸びる。反射的に両手でそれを振り払う。
「牙を見るくらい、ダメ?」
「私に触るな」
「今の、手加減した?それとも本気?君の性格上、本気だよね?」
「!」
手錠とも違う何かで繋がれた両手を捕まえようとするも、追い詰められているため逃れにくかった。容易く掴まれば、抵抗の力はすぐにばれた。
「狼男とヴァンパイア。こんなに違うものかねぇ。驚いた」
「離せ人間!」
「これでも警官だ。鍛えてはいるよ。こんな力…片足を鎖で繋いでおくだけでも、全然逃げられないんじゃないかなぁ」
「悪趣味な奴め」
「君が協力的になってくれれば、こんな事しなくて済んだんだよ」
「信用できん」
「本当、子どもの力みたいだ。軽くてかなわないや」
蹴りを入れようとする両脚さえ、軽々と受け止められる。驚きではなく悔しさで睨むヴァンパイアに、にんまりと人間は笑った。
「力で僕に勝とうとしない方が良いよ?武術は一通り心得ているからね。君はすでに籠の中の鳥だ」
手が離されれば、脱力し、その場に呆ける。なす術がなかった。それからしばらくして、佐伯に連れられて獅狼の所に行かされ、目を奪われた。何かを叫んでいるのは覚えているが、獅狼が何をしていたかまでは、記憶が曖昧だ。
また離れ離れになれば、佐伯の言葉通り、両手の拘束が外され、代わりに鎖に繋がれた。他の人間達がやってくる。何か話し声が聞こえるが、ヴァンパイアの耳には、入っても頭には残らなかった。
1人の人間が同じ牢獄に運ばれた。いわゆる『えさ』だろう。口にする気が全く起きなかった。人間は終始ヴァンパイアに怯えていたが、そのうち牢獄内で自殺した。その一部始終を、ヴァンパイアは黙って見守る事さえせず他人事のように目線さえくれなかった。
入れ替わり立ち替わり運ばれる『えさ』達。そして、その死に、いい加減疲れてきた。度々訪れる佐伯は物珍しそうに、欲しかった玩具が手に入った子のように、いや、元々笑顔の人間だが、いつも笑顔でヴァンパイアに会いに来る。それも疲れの一因だった。ヴァンパイアは次第に衰弱していった。

一体、何週間がすぎただろう。

佐伯が正体を明かしてから、月が一回りした事が、狼男の獅狼には、天を見なくても分かっていた。以前にミハイが教えてくれた、月光を浴びていなくても、感情の変化が獣化には影響が強い事が、こんなところで役に立った。
扱いは家畜並。狼だと知ってか、皮肉にも首輪で鎖に繋がれた。満月にはさすがに監視の人間の数が増えたが、逆に月が欠けていけば、人間の数は激減した。
いなくなった奴等は、ミハイの所に行ったんだろうか。
下弦の月を過ぎてから、佐伯は面白いくらい姿を現さない。汚いわけではないが、薄暗く、空気の悪い場所だ。ミハイと会った場所よりも地下にいる気がするのは、勘だが、信用したいところだ。
「交代だ」
「どうした、浮かない顔して」
見張りが交代する。その度に、獅狼は動かず眠っているふりで聞き耳だけ立てていた。
「また佐伯の後始末」
「あぁ、例のガキ」
「司法解剖やってきたから、死体処理は慣れてはいるけど」
「お疲れ様」
…ミハイが、そんなに人間を殺して…。
「毎回驚くよ。処理してる最中から、本人復活だからな」
「佐伯が夢中になるのもわかるな」

むせ返る鉄の臭い。口端から零れ落ちる一筋を、指先で拭い取ってやる。
「良い子にしていてくれないかな。いくらヴァンパイアでも死んじゃうよ?」
ゆっくりと目玉だけ動かして相手を見返して、無言のままミハイは目を閉じた。頭に置かれた手が離れれば、ミハイは咳き込むよう下を向いて、口の中の血を吐き出した。
「あーあ。生き血を飲んでくれないから、わざわざ採血してあげているのに」
「…」
「前より体温が下がったね。数値が下がっている。このまま下がっていったら、いつか活動が止まるのかな。冬眠する?凍ったりするのかな。それでも死なないんでしょう?」
「…」
「君には長寿への可能性がありすぎる」
にこにこと話しかける佐伯を、やつれた顔だが無表情のまま淡々と見返すと、ミハイはまた無関心に視線をそらした。
ふと、遠くから、だが鮮明な血の香りがした。明らかに、今流されたばかりの血だと、ヴァンパイアにはすぐに分かった。閉じかけた瞼を開けて、その方角をゆっくりと見つめる。この牢獄の出口の、奥の奥の、そのまた奥で、どこからかは分からない。
軽い振動が、動かない2人には伝わった。佐伯が異変に気づいたようで、ミハイから離れ、牢の鍵を閉め、挨拶もなしに部屋を後にした。淡々とその後ろ姿を見つめながら、早く殺してくれと、心のどこかで思い始めていた。

「何の騒ぎかな?」
ミハイのいた場所とは別の場所で他の研究員と合流すれば、佐伯は指揮をとる人間に話しかける。銃を両手に相手は目線も向けず応答する。
「例の狼が脱獄です」
「獅狼君が」
かすかに驚きを見せるも、それはすぐに笑顔に変わる。蹴飛ばす勢いで開く扉と、それに続く1人の負傷した人間の無様な姿。続いて現れた獅狼は、首輪こそそのままだが、特に狼に変化しているわけでもなく、人間の姿のまま、ただし明らかに人間の力ではなく片手で軽々と大人の男を持ち上げたまま、こちらを向いた。
「やぁ、獅狼君」
挨拶の言葉と同時に佐伯は獅狼の脚に向かって発砲した。命中はしなかった。抱えていた男を盾に、無言のままじっと佐伯を睨み付ける。
「月が一回りしたから、君は用無しだと思っていたけれど、まだこんな力を隠していたんだねぇ。つくづく人外は興味深いよ」
構えた銃を片手に、他の研究員にもう片手で指示を出しながら、途中から両手銃で獅狼に攻撃する。もはや人間の動きではない移動速度で、獅狼は銃弾を軽々と避け、宙に跳んだ。
「がら空き」
佐伯が応戦する。片手は6弾分すべて撃ち終えた。腕、脚、手、脇腹、頬…数十箇所にも及ぶ火傷や傷跡を負いながらも、獅狼は痛みを忘れたのか、そのまま佐伯に圧し掛かった。
何かの攻撃が来る。
そう思ったが、獅狼は踏み台にしただけで、その先へと早々と走っていった。その場の全員が唖然として見送ってしまったが、急に佐伯が叫んだ。
「ミハイ君だ!彼の目的はヴァンパイアだ」

-SCENE: WEWEWOLF -

 遠くから人間の声がする。騒々しい音と、全く静まらない機械音。眠りたい体には、音も振動も、何もかもが煩くてかなわない。ミハイは牢獄の中、佐伯が用意した柔らかなクッションの上、人間の死体数体に囲まれたまま天を仰いでいた。
 冷たいとも感じない死体。自分もこれくらいの体温なのかと、改めて思う。佐伯が言っていたが、このまま何も口にしなかったら、どうなるのだろうか。死ぬのなら、それでも良い。これ以上、人間に惨めな思いをさせられるのは御免だ。
 すぐ近くで何かの崩れる音がする。ミハイは目を閉じたまま、視線を向ける事もしなかった。ただ、血の香りだけは鮮明になった。嗅いだ事のある香り。酷く懐かしい気がする。
 思わず、目を開けた。開けた瞬間が、ちょうど目の前で数人の人間が獅狼に向かって銃撃を食らわせているところだった。
 「…」
 獅狼。そう名前を呼ぼうとして、声を出す元気さえなくなっている事に気づいた。ただ、空気が喉から抜けていく。この喧騒の中では、到底聞こえはしない。
 1人の人間を腕に掴み取れば、軽々と引っ張り回し、その勢いで別の相手に回し蹴りを入れる。腕で首を掴んだ人間を物のように振り回して他の人間にぶつけては、そのまま遠心力で放り投げた。銃撃が下されれば、獣のように地を蹴って誰かしらを盾にその場を凌ぐ。既に負傷している身体からは、動く度に血飛沫が飛び散った。
 命を大切にする獅狼の戦い方では、到底ない。
 獅狼!
 呼ぼうにも声にならない。鉛のように重たい身体を動かして、ミハイは側に転がる人間の死体に目をやった。
 「…」
 一番新しくても死んで1日は経つ。生き血とは、ほど遠い。
 躊躇いは数秒後の打撃音とともに消えた。構ってなどいられなかった。ミハイは体を引きずり新しいも何も関係なく、一番近くの死体に頭を寄せた。口を開き牙を突き立てようにも、死後しばらくした人間を身体は欲しないのか、牙を立てる体力すら残っていないのか、その体勢から動けなくなった。
 「追いこめ!牢屋のレベルをあげた」
 人間の言葉に、自分の捕まっている牢獄の鉄格子が危険地帯になった事を知る。さすがに半分人間と言えど、獅狼でも危ない。ヴァンパイアの自分には、触れる事はできても手が崩れるだけで、何も敵わない。
 動いた軌跡を作る血痕。今までならそれにどれだけ誘惑されてきたか分からない。今は、それをなるべく早く止めてしまいたい。ミハイは再度動き出し、知っているのに鉄格子に手をかけた。瞬間、蒸発するように両手が消えてなくなっていった。人間達のうち、佐伯を含めた数人が明らかに反応の視線を向けた。その一瞬に獅狼が将棋倒しをするように佐伯を含む数人を横倒しに一蹴した。
 共倒れになる数人を冷ややかな視線で一瞥してから、獅狼は牢獄へ向かった。蹲っているうちに次第に回復する両手。ミハイが見上げると、獅狼は全く笑わない表情で、格子に手を伸ばした。
 「…っ!」
 止めようと叫ぼうにも、声が出なかった。が、獅狼はいとも簡単に格子を握る事も、そのまま捩曲げる事もしてのけた。驚き動けず、ミハイは閉口した。目の前の獅狼が、必死に格子を開ける際に傷口から飛び散る血飛沫も、自分に焦点のない視線も、見た事のない怒り狂う表情も、すべてが獅狼なのに獅狼に見えなかった。黙ったまま動かずにいると腕を乱暴に掴まれ、こじ開けられた牢獄の穴から引っ張り出された。よろめき倒れそうになるところを片腕で抱えられる。その腕の傷が重さに悲鳴をあげているのが間近に分かる。それに全く血を口にしていない。きつく目を閉じて場を凌ごうとしたと同時に、ミハイは落とされたわけではないが、部屋の隅へと軽く放られた。
 応戦する獅狼。もう、肉体的に限界はきているはずだ。
 「何故だ。どうして人外対策が効かない」
 人間の1人が叫ぶ。その叫びが阿鼻叫喚に変わり、消え失せる。ミハイの側で転がる死体だと思った人間が、低く笑った。
 「…おしまいだ」
 ミハイは弱った腕でそっと人間の頭に手を置くと、動くのも億劫で、身体を曲げれば届く人間の頬近くに体重の重みで牙を突き刺した。
 「…ヴァンパイア…っ」
 抵抗されそうになったが、数口飲み込んでしまえば、回復は速かった。牙を抜いて近寄れば、人間は既に意識がはっきりしていない様子だった。
 「…勝手に死に逝け」
 首筋をすぅっとなぞってやるが、なんの反応もない。息の根が止まった事がわかる。ミハイは見定めるよう、目を細め、それから獅狼達に顔を向けた。
 いまだ暴走を続ける獅狼。応戦する人間の数が減っている。ここの人間の数は元々限られているのだろうか。
 「獅狼…」
 立ち上がる仕草から消え入り、ミハイは人間達の戦いの場に分け入った。途端、背中に人間の放った銃撃を、正面から獅狼の拳を喰らい、壁にぶち当たる形で吹っ飛んだ。衝撃音はしなかった。人間達の方が一瞬の怯みを見せた。その隙に飛び掛かる獅狼の目の前に、既にミハイは移動していた。
 「鎮まらんか、馬鹿者」
 腕力で勝てないのは分かってはいたが、獅狼の首輪を掴んで引き寄せてはいつも通りの口調で直視した。遅れて、ミハイの後ろからカラカラと金属音が何回も鳴った。先程の銃弾がようやく床に落ちたのだ。その金属音に呼応して、数回の瞬きとともに獅狼が不思議そうな顔でミハイを見返した。それを見て、ミハイが低く一笑した。
 「人間ども。懺悔の時間だ」
 背を向けていた人間達に振り返る。見開かれた瞳と、笑った顔。まだやつれが回復しきっていない事も相俟って、輝きのない目はギロリと人間達を見つめ、笑った。
 太陽のない室内ではヴァンパイアは圧倒的に有利だった。例え人外対策用の武器でさえ、破壊されてしまえば持っている意味をなさない。その瞬間を捉える事もできず、諸々の戦力は消え失せた。続いて獅狼が飛び掛かる。鍛えてもないインドア人間相手には、赤子の手を捻るより簡単だった。1人を他へ放ってやれば共倒れになる。
 「次はどいつだ!」
 傷だらけになりながらも血が騒ぐのかやけに元気な獅狼の姿を見て内心安堵感を抱いたミハイではあったが、急な悪寒に視線を泳がせた。
 「しろ」
 言い終らぬうちに、ミハイの身体を何かが貫通した。ミハイが押し退けたおかげで軌道からそれた獅狼はスローモーションのように倒れるミハイに手を伸ばしかけたが、2人とも間に合わず、床に倒れ伏せた。
 「佐伯ぃ!」
 先程までとは違う武器を手に、壊れた壁やがらくたの山の塹壕から姿を現す。
 「お遊びはここまでだ。おいたも過ぎると、始末しなくてはならなくなるね」
 構えた小型の銃の形状をした何かわからぬ武器が光を放つ。佐伯は倒れたミハイに照準を定めながらうっすら微笑んで言った。
 「死ぬ前に教えてあげる。擬似太陽光。死なれては困るから実験しなかったけど、ヴァンパイアはやっぱり太陽には弱いんだねぇ…なかなか起き上がってこない」
 胸元近くを両手で押さえながらうずくまるミハイ。息があがっている。下手に動くわけにいかず、獅狼はミハイの側から動けずにいた。するとぞろぞろと足音が四方に散らばる。集まってくる人間に、囲まれたと思い知らされる。
 「チェックメイト。追いかけっこはおしまい。君達の負けだ」
 「…つけあがるな」
 静かだが怒気を孕んだミハイの声と同時に停電が起きた。続いて非常灯が点くが、それも次々に破壊され消えた。暗がりの中、慌てふためく人間達。誤った発砲が同志撃ちをしたのか、悲鳴が聞こえた。
 「真の恐怖を知らぬ愚か者どもが、不老不死を手にしようなんざ、侮蔑も憐れみになろう」
 暗闇にこだまする声。低い笑い声に、佐伯は臆せず叫び返した。
 「さすがミハイ君。僕達の意図するところが分かったならもっと協力的になってくれて良いものを!君達は実に面白かった!調べ甲斐があったよ。でもこうなっては生かしてはおけない。全く惜しいよ!」
 「安心したまえ。ここが貴様等人間どもの墓場だ」
 「お前、俺だ俺!こっちに向け」
 不意をつく非常灯の点灯。暗がりに慣れたせいもあって、それでも十分だった。見えた視界に互いを撃ち合おうとする研究員数人がいた。
 「何をしている!」
 「無駄だ」
 佐伯が声をかけようとする隙に、獅狼が殴りかかる。銃を構え発砲するも、狼男相手には軽い火傷程度にもならないようで、獅狼は思い切り顔面に拳を殴り込んだ。どこかの骨が折れる感触がした。勢いで床に叩き付けられたが、それに追い打ちをかけて獅狼が佐伯の胴に足を乗せ踏み込めば、吐血する相手を知らぬ顔で胸倉を掴み上げ、あいた片手で殴りかかった。
 数人は共倒れになったは良いが、残りの数人の研究員は逃げ出そうとしている。ミハイは獅狼と佐伯の攻防をほんのわずか見つめていたが、踵を返すと逃げた人間達を追いかけた。数は4人。なんて事はない。先程佐伯が持っていた小型銃と同じ物を照射してくるが、たかが研究員には焦点は上手く定まらないらしい。避けるまでもなく1人に近づいて今まで自分がされてきた目の抉り出しや指の切断等を仕返ししてやった。脆いものでそれだけで悲鳴をあげて動かなくなる人間達に興醒めした様子で、ミハイは2人に暗示をかけては、その場を後にした。
 足音もなしに来た道を戻ると、生々しい有機的な音と機械音が混ざって聞こえてくる。遠くてもはっきり見えた。一方的に人間を嬲り殺しているように見えた。しかし、そのスピードが、狼男のものとは、少し違った。ミハイは躊躇いもなく獅狼のところへ駆けつけると、両腕でがっしりと獅狼を抑えつけた。
 「もうやめろ、獅狼。身体がもたん。今は獣ではないくらい、分かっておろう。それ以上は」
 言いかけて、片腕が引っ張り損ねる。佐伯が持っていた光線銃が、腕にヒットして消え失せたのだ。
 「獅狼!」
 残る片腕で必死にしがみつきながら、力の限り叫ぶ。獅狼は一度だけミハイに視線をやったが、その後2回ほど大きな蹴りと拳の打撃を与えれば、獅狼の動きはやっとそこで止まった。かたや佐伯も動く事もなかった。
 擬似とはいえ太陽光だ。片腕の再生には時間がかかるようで、残る片腕で必死に食い止めようとしたまま、ミハイは動こうとしない。獅狼はゆっくりミハイを振り返って、それから辺りを見回した。惨劇を物語る血生臭い戦場跡。ヴァンパイアの戦い方と、狼男の暴走の仕方の違いなら、嫌というほど見てきている。思わず、獅狼は息を吸い込んだ。
 「うわぁあ!」
 血塗られた両手。服のあちこちに付着した血痕。足跡になっている血の軌跡。自分の傷跡。今更湧き起こる傷の痛み。何もかもが現実として押し寄せた。
 片腕で必死にしがみついていたミハイが顔を上げる。うろたえる獅狼。片腕では簡単に振り落とされ、佐伯の隣に床に投げ落とされた。
 「…」
 両手を、両腕を掴んで、辺りが霞んで見えた。目の前にいるはずの知った顔が霞む。声を発しているのか、分からない。

 俺は何をした。

 そうだ。
 人間達の会話が聞こえて、ミハイの事を話してるって分かって…。すぐに肉体を元に戻す治癒力を持つヴァンパイア。研究だか何だか知らないが、ミハイの体を好き勝手に傷付けているって分かった。
 分かって、何かが切れた。
 ふざけるな。
 ミハイは物じゃねぇ!
 そう思ったのは覚えている。勘を頼りに辿り着いたのか、その辺は全く覚えていない。気が付いたら、血の海に自分はいた。
 「獅狼」
 ただ、ミハイを助けたかっただけだ。この違和感はなんだ。
 身体中がぎすぎすする。
 傷口がずきずきと痛い。
 喉がからからだ。
 腹の底から、何か吐き気のする気持ち悪さが込み上げてくる。
 血の海の惨劇は、どう見ても人のレベルではなくて、ヴァンパイアのようにスマートでもなくて。どう見ても、自分の仕業で。
 怖くなった。
 狼の時ならまだしも、人間の姿のままで、記憶なしに暴れたのだ。人間の姿のままで…。
 満月どころか月の気配はしなかった。今でもそんな気はしない。なのに、何故。
 「獅狼」
 傍らのミハイが悲痛に名前を呼んだ。ミハイにしては珍しい、怒りや侮蔑以外の感情の声。
 「…」
 「獅狼、戻ってくれ…獅狼」
 何度も名前を呼ぶミハイ。いつもなら、落ち着けとか、鎮まれとか、嗜める言葉を投げるくせに、今は悲しげに心配して呼ぶ。目の前には、無惨に殴られ腫らした顔の佐伯がいる。
 「…あぁ、大丈夫。今は、もう大丈夫。…大丈夫だ」
 自分に言い聞かすように、大丈夫、大丈夫と繰り返す。佐伯を凝視したような状態で、獅狼は硬直していた。
 軽い乾いた音が響いた。
 「…ミハイ?」
 目を丸くして獅狼がミハイを見返す。ミハイが軽く獅狼の頬を叩いたのだ。
 「愚か者」
 いつもながらの言葉。いつもと違って柔らかい口調。
 安堵に苦笑混じりの表情をしたミハイは、くるりと佐伯を体を向けた。
 「しぶといな。まだ足掻くか」
 佐伯は健在だった。ぜいぜい細い息を繋げながら、殴られてもまだ無事だった片目でこちらを睨む。
 「…ま…だだ…」
 「強がるな。私には他の寿命くらい、わかる」
 佐伯の無様な姿の、左胸を足蹴にして、ミハイはくすりと笑った。
 「何故、仲間で殺し合ったか『死ぬ前に教えて』やろう。記憶操作。ヴァンパイアには、他の記憶を書き換える能力がある。『チェックメイト』だ、人間」
 最後は囁きかけて微笑めば、表情も読み取れなくなるほど無様な姿になった佐伯は静かに息を引き取った。
 「…ミハイ、あのさ」
 「何故来た」
 重なる言葉。ミハイは衣服を整えつつ問う。多少驚いた顔をしてから、獅狼は当然のようにさらりと答えた。
 「何故って、お前を助けにだろ」
 「…」
 「なんだよ、文句あるなら言えよ」
 「忌み嫌う種族だ、仇討ちの相手だ、短命族など虫けらだと言う、そんな相手を、今度は助けに来た。…私には貴様の思考が分からん」
 「…あー…もうその話はよそうぜ」
 「礼は言おう。ただ、どうにも不可解だ。嫌いだと吠えたと思えば付き纏う。狼が故か?」
 心底不可解だという表情でミハイはふてくされている。獅狼にしてみれば、当初の遭遇から月日は流れ、随分ミハイの印象は変わった。ミハイの中では、そんなに時の流れは早くないのかもしれない。
 「時の感じ方が違うのかな」
 「…私の考えが古いとでも?」
 「お前のイメージ、最初に会った時と今とじゃ、全然違うって事。だから前にどう言ったからとか、もう昔の事は昔の話にしようぜ」
 「昔の事か…そうだな、だから時の感じ方が違うと言ったのか」
 「あぁ、俺とお前じゃ、違うだろうと思ってな。だから、昔の事は昔の事」
 「逆に難しいな」
 口元を隠しながら考え込んだ様子を見せたミハイだったが、遠くからの物音で、2人は置かれている現実に意識を戻す。
 「ここは恐らく地下だ。地上まで倒れるなよ」
 「手負いの獣が生意気な。そのまま言葉を返す」
 最後に佐伯に一瞥もくれずに、2人は走り出す。人数がまばらな施設内は迷路のような造りが問題なだけで、戦闘にはほとんどならなかった。
 途中、マジックミラーのような通路を横切る時に垣間見た光景。人間の死体と思われたが、それが無駄に変形した肉塊を目撃した。
 あれが、まさか。
 「浅ましい」
 ミハイの呟きが、なんとなく予感を肯定した。
 「佐伯達と会った時の化け物?」
 ミハイは否定も肯定も返さない。ここは、二度と開かれてはならない場所だと、獅狼も出口目指して走り抜いた。

 時刻は真夜中を過ぎた頃だった。やはり地下にいたらしく、地上に出れば、今どこにいるのか、大体把握できた。いつもいる場所から、かなり遠くまで来ている。街中とも田舎とも言い難い。森とは言わないが、林がすぐそこに見える。夜空は、雲一つなかったが、月が見当たらない。
 「…新月。貴様、何故このタイミングで助けに来た!」
 「だーから別にいいだろ、俺の勝手で」
 「新月なら人間と変わらんはずだ。その体でどうしてあんな無茶…!」
 振り向かない獅狼を振り向かせようとした手を振り払われ、両腕が掴まれた。その力に、覚えがあった。獣人の力だ。
 「勘違いしてるのは、お前だ。新月だろうが、俺は獣人だ。抵抗してみろ。分かるだろ、人外の力だって。お前がいつだって生き血でしか生きられない体のように、俺もそういう体してんだよ。いつだってな」
 両腕の手を離し、歩み出す。少し困惑したまま、ミハイが遅れて小走りについてくる。
 「ならば…体を巡る血の感覚も、新月でも…変化の可能性はあるのか?」
 「心配してるの?」
 「あるのかと訊いている」
 「ねぇよ。あ、でも、ほとんどな。ゼロじゃないってだけでさっきみたいな暴走はなくもねぇ」
 「…」
 「でも、変身はしなかったろ?化ける心配はねぇよ」
 複雑で訝しげに見つめるミハイが、やっと安堵の溜息を漏らした。視線をやると、素直に安堵感に仏頂面を和らげている。何か言ったら、それをまた仏頂面に戻してしまいそうだったから、何も言わなかった。
 ミハイに嘘をついた。
 確かに新月なら化けはしない。人間のままでいられるはずで、暴走したり変な事になる危険性はゼロだった。少なくとも今まではずっとそうだった。だから、新月だって分かった時、自分が一番驚いた。化けないから、半月になってないだけで、ほぼ半分くらいはいってるものだと思っていた。体の変化はなくて、感情だけの暴走。こんなの、初めてだ。
 何かが…自分の中で変わってきてるのかもしれない。
 夜道を歩きながら、獅狼は傷ついた両手を見つめ、両手を握りしめた。

-SCENE: VICTIM-

 夜のパトロールとも言える一仕事。夜型のミハイはともかく、昼型の獅狼も睡眠時間や体の調子を含め、慣れてきた時期だった。
 慣れた時が、気を抜いて怪我をしやすい…だなんて、常套句すぎて真剣味を感じなかった。
 ただ、獅狼にとって気がかりな事は個人的に起きていた。

 体の異変。
 佐伯の一件があってから、月は2周ほど回っていた。満月の変化は仕方ないにしろ、そうでない新月を含む一週間くらいは、いつも特に狼の血気盛んな衝動は感じない。…感じなかった。
 最後に化けかけてから、獅狼は気になる事ができて、四六時中、それが頭から離れないでいた。

 今夜は本当に穏やかな夜で、何事もなくすんなりと時間が過ぎた。
 つい数日前には、けっこうなスプラッタものの惨事があり、瀕死の人間がヴァンパイアの餌食となった事を思い起こした。
 いつもながら、なんとも言えない気分に、獅狼はなった。
 「ミハイ」
 何気なく話しかける。何かと小首を傾げて、ミハイが返答の代わりに顔を向けてくる。
 「ヴァンパイアってさ、死んだ奴からはダメで、生きた奴からの血じゃなきゃダメなんだよな?」
 「…それで?」
 だから、なんだ。
 そう言いたげな視線に、獅狼は苦笑した。
 「生き血じゃなくて、代理になるものって、ないのかなって思って」
 口元に手を添えて、少し考えてあぐねてから、ミハイは納得はしていないようだが、一応は答えてくれた。
 「水で凌ぐ事も…可能ではあるが、血と違って、栄養にはならんからな。活力にはならん」
 「水はいけるんだ?」
 「意外な顔だな」
 「血ぃ以外、何も口にしないかと思った」
 「エネルギー摂取の意味では、その通りだろうな」
 しれっと答えるミハイの回答に、獅狼がまた考え込んで唸っている。
 いつものくだらない悩みだろうと、格別気にしない様子で監視の務めも含め傍にいるミハイを、獅狼はなんとはなしに見つめながら、ふと呟くように問うた。
 「…なぁ、本当に手はねぇもんなの?人間を手加減して殺さない程度にしてやれば、何も毎回人殺ししなくて済むだろ…?そういうの…一世紀も生きてない奴ら相手には、やっぱり構ってられねぇ?」
 自分に焦点はなかった。ぼんやりこちらを見る獅狼の視線は、どこか遠く、その先を見つめていた。
 「しつこいぞ」
 「…やっぱ、ダメか」
 声を聞いて、獅狼の視線とかちあう。苦笑いの後、反らした顔は、背中を向けられ見えなくなった。
 彼の意図しようとする事は前々から耳にたこができるほど聞いている言葉のせいで容易く汲み取れた。殺さず生かしながら糧にだけしろという、短命族ならではの勝手な注文。餌食になる命が、遅かれ早かれ数十年の差で死ぬのなら、大事ではないだろうと、長寿族には思えてしまう。
 たとえ、固執したい味に出会ったとしても、それを生かし寿命の尽きるまで糧とするのは、さすがに傲慢というものだ。
 「何考えてた?」
 「は?」
 「口元をおさえてたから。何か言いかけてたんじゃね?」
 「…」
 たまに観察力が鋭いと思う。特に言いかけてはいないつもりだったが、ふむと思いを巡らせる。
 「…人間はさすがに難しい。脆すぎて、私の牙に何度も耐えうるとは思えん。貴様のような人外ならば、まだ別の話だろうがな」
 「…前にもちょっと言ってたな。人間以外でも生き血なら、問題ないって」
 「あぁ、嘘はない。ヴァンパイア同士で互いに餌食になる事も珍しくない」
 「互いに餌食…」
 獅狼は、うわ…と嫌そうな顔をして、身震いに両腕を互いに擦る。ヴァンパイア同士が噛み付き合ってる姿でも想像したのだろう。ヴァンパイアのミハイには見慣れた光景だった。
 「苦労せずにすむ関係だ。だから私はこちらに長年来なかった。無論、人間に魅力を感じなかった事もあるがな」
 「…なら、暴走した人外の血って、どうなんだ?」
 「あんな気色悪い血を啜れと」
 「あ、やっぱ違うんだ?」
 「元は同族や人間が糧なのだ。犬猫ならともなく、トカゲやクモのような人外は、どうにも私は受け付けん」
 今度はミハイが嫌そうな顔をする。ヴァンパイアや人間と、トカゲやクモは、さすがに別物だろうなと獅狼も納得に苦笑した。
 「なら狼の俺なら、大丈夫そうだな」
 苦笑混じりに言われた言葉に、ミハイが耳を疑う。
 「…今、何て」
 「ん?俺みたいな人間と狼が混ざった人外なら、お前の牙にも耐えられて、お前も生き血探しに困らないのかなって」
 「…何を口走っているのか…分かって言っているのか?」
 にわかに信じがたい様子で獅狼を見つめる。彼はごく普通の事を言ったまでだというようで、一度頷いた。
 「可能なんだろ?」
 獅狼の言葉にミハイは狼狽する。
 「そもそも、お前にとって俺が餌になれる血をしてるかどうかって話があるけどな」
 笑う獅狼。ミハイはつられて引きつって笑う。
 「殺さずの餌食になるに、人外ならば問題なかろう。問題はその処理だ」
 「処理?」
 思わぬ単語に首を傾げる。相手の胸元に手をあてて、心臓の鼓動を確かめるようにして、ミハイは言葉を続ける。
 「牙の餌食となる場合の、単なる現象だ。我が刃で殺した場合はしかと覚えているのだが、牙を抜いた後に死んだ場合、どうにも餌食の存在を我々ヴァンパイアは忘れるようにできているらしい。無論、逆もしかりだ」
 胸元のミハイの手に、どこか不安感を感じた。獅狼はその手を取り、下げるよう退けて、ぎゅっと握り返した。
 「長生きの秘訣かもな。何百だか、何千だかの餌食になってきた奴がいるわけだろ。それを全部覚えていさせないためだろ」
 「…最近、やたらと鋭いな」
 少し感心したように返すと、獅狼は無理に笑ったような、悲しい笑顔をしてみせた。
 「だって、お前。何世紀も生きてきたんだろ。…何回、それやってきた?こんな…やり方あるのに教えてくれなかったし、嫌がってたって事はさ…なんかあったんだろ。よくわかんねぇけど」
 そう言い出した獅狼に、ミハイは返す言葉を躊躇い、結局黙り込んだ。
 「教えてくれたって事は、少しは俺、信用されたって事かな。後は…ミハイ、お前次第だ」
 「…?」
 「お前が俺の血を気に入るかどうかって事」
 真摯に言われて、ミハイは何度か瞬きをしてから、間をあけて冷笑した。
 「愚か者。私がそう簡単に満足すると思うな」
 片手で口元に触れながら、じっと獅狼の目から首筋に視線を落として、ミハイはくすりと笑った。
 「自ら餌食を望む愚か者。私に人殺しをさせたくないのなら、それを止めない事だ」
 くすくすと笑って、ミハイは獅狼の心臓を指してみせた。

-SCENE: VAMPIRE-

先日の戦いで、ミハイは深手を負った。
2対2だったのだ。獅狼が相手をした、同じ力任せに似たような大型犬の感じのした相手は、一緒にいた女の人外と、どうやら恋人同士のようだった。
 サキュバス。異性を誘惑して操り嬲り殺す、悪魔のようなもの。人外というには、あまり混血といった様子は見受けられなかった。犬の人外は、それに魅力された哀れな飼い犬にも見えた。
 「可愛い坊や」
 ヴァンパイアという事さえ躊躇わないのか、彼女はミハイに触れる寸前までのキスを迫った。当然、ミハイは馬鹿にされたと激怒した。女は軽くあしらいながら、犬の人外に2人の相手をさせていた。どうにも、その態度がミハイを怒らせたらしい。
 「女。その色気は獣にしか通用しないようだな。馬鹿犬だけしか、尻尾をふってくれぬとはな。哀れな女だな」
 ミハイの挑発に、相手も軽々乗った。獅狼は犬もどきに食ってかかったが、一足遅かった。顔から胸元を通り、脇腹まで、斜めに獣の爪はミハイを切り裂いた。
 その後、獅狼の力押しで事は収集したものの、反省の色を見せなかったサキュバスは、またどこかで悪さをしてもおかしくない。早急に捕まえて正確に対処すべきだったが、思った以上に深手だったらしく、しばらく夜中にでかける事は控える事となった。
 普段なら見ているうちに傷口をなくしてしまう特異な体質のミハイ。一週間以上はかかるな。そう思った獅狼は、半月もしないくらいに一度は見舞いに来たが、一向に回復の兆しは見えない。悪化もしていないだけマシだが、どうにも気になった。
 床に伏してから半月以上経ってからの二回目のお見舞い。それでも回復は見込めない。さすがにおかしいと、獅狼も苛立ちと不安を募らせた。周りの友人達が心配してくれたが、母親が病気で…とごまかして、午前中に早退して、真っ先にミハイの元へ走った。
 勝手知ってるだけに、無遠慮にずかずかとミハイの住まいに入ってくるなり、獅狼はノックもせず「開けろ」と言うと同時に乱暴に鍵のかかった扉を力ずくでこじ開けた。寝室の、天蓋付きのベッドからのそのそと影がうごめく。簡易だったにせよ壊れた鍵の扉を形だけ閉め、獅狼はいつ見ても堅苦しい格好のミハイの胸倉を掴み怒鳴った。
 「お前、最近全然飲んでないだろう!」
 「…真っ昼間から何事だ」
 「何故傷が治らない。あれからもう随分経つだろう」
 「遅い時もあろう」
 「前はこんな遅くなかっただろうが!」
 「貴様には関係ない」
 「そうはいかない」
 眠りを妨げられ不機嫌そうに手を離させようとするも獅狼はなおも見下すように近づき、言い放った。
 「どんだけ腐れ縁やってきたと思ってやがる」
 言い終われば掴んだ手を放ち、解放されたミハイは乱れた衣服を整えながら、いつも以上にけだるい様子でベッドの背にもたれて、そのままずるずるとへたり込んだ。
 「眠らせろ。元々貴様のように昼間活動するようにできていない」
 「…まぁ、それは…悪かった、けど」
 ここは室内といえ外は太陽が昇っている。思い立った勢いで押しかけて来てしまったが、相手の都合を思うならせめて夕方過ぎまで待てば良かった。
 見れば、蒼白の顔に死人のような表情。いてもたってもいられず、獅狼はまた口を開いた。
 「なぁ。前に、餌食の話、したよな。あれから…飲んでねぇんじゃねぇ?」
 「…」
 微動だにしない相手に、諦めず獅狼は話を続ける。
 「…回復ちゃんとしてた頃は、変な言い方だけど、ちゃんと血ぃ吸ってたもんな」
 ベッドサイドに両腕をかけて何やら企んだ笑みを浮かべ詰め寄る獅狼の行動に、さすがにミハイも邪見にするわけにいかず視線をやった。
 「これでどうだ」
 悪戯ににやりと笑う相手の仕草の直後に、ミハイは物凄い勢いで相手を突き飛ばした。
 「…ってぇ。びっくりした」
 床に尻餅をついた格好で、ばくばくうるさい心臓を落ち着かせるよう片手を胸に置き深呼吸する。刃物になるものはヴァンパイアの牙くらいしか思いつかなかった。だからちょいと口端を借りて自分の指先を突き刺した。思ったより簡単に、針のようにプツリと刺さった気がしたら、突き飛ばされた。
 「…!」
 両膝をついた体勢で、両手で口元…いや、鼻含めほぼ顔中央を覆い隠した状態で、ミハイは肩で呼吸をしながらこっちを凝視している。見開いた眼が獣のようにも、無機質にも、無表情にもとれる、まさに化け物の眼だった。
 「お前…」
 その姿は震えていた。獲物を前にした興奮の奮えでは決してないのは、明らかだった。鈍い針が刺さった跡のような指先を見る。じんわりと血がにじんでいるも、たいした事はない。もう止血している。
 獅狼は立ち上がり、震えるミハイの前に行き、目線の高さを合わせるよう、しゃがんだ。
 「ほれ。飲みな」
 先程傷つけた方の手を差し出せば、緊張が途切れたのかへたりとベッドの上に座り込み、両手も離し、先程までの化け物のような目つきが急にいつもの知った顔に変わる。ふてぶてしい嫌そうな目つきと仏頂面。
 「断る」
 「でも今、明らかに反応したろ、俺の血に」
 「ヴァンパイアが血に反応しない方がおかしい。ただし相手は選ばせてもらう」
 「そんなに俺は嫌か」
 止血した指先に力をこめる。まだ時間が浅いせいですぐに牙の跡からは血がにじんだ。
 「だから止めろと…!」
 「こうでもしねぇと、お前、餓死するだろうが」
 また口元を抑える。その直前に、牙を剥こうをする仕草が垣間見えたのは間違いなかったようだ。血の香りに理性で抑えつけようとも身体がそうはいかない。種族の本能が逆らわせない。それは獅狼自身が一番よく分かっていた。ミハイは態度こそ嫌がってはいるが視線が獅狼の指先から外れないのは獅狼にも伝わった。
 「貴様は意味を分かって言っているのか」
 「言っただろ、前にも。人殺ししなくて済むなら、俺はそのつもりだ」
 言葉と裏腹に差し出された指先をミハイは既に両手で捕まえていた。噛もうとする仕草を一度は見せたが、やめたようで、じんわり滲んだ指先の血を、軽く舌先で舐めとっただけだった。しかもそれを飲み込んだ気配さえない。いつもなら躊躇う事なく獲物の動脈に牙を食い込むヴァンパイアが、何を躊躇っているのか、指先ひとつに怯えている。
 しばらく硬直している相手にどうしたものか声をかけてみた。…反応なし。
 視線は指先のまま、見向きもしない。獅狼は打つ手なしに、もう相手の好きにさせておいた。
 もう一度、同じ場所に牙が刺さった。軽く、ちくっとしただけの浅さ。狼に変化して理性を失い負った傷の方が何倍も酷い。こんな傷、普通の人間ですら生活してりゃあ怪我する程度だ。注射した後か、そのちょっと増したくらいの傷からは流れるようには血は出てこない。浅い傷口に唇を添えるヴァンパイアの姿に、変な違和感を覚えた。
化け物とも、普段とも違う、とげのない表情。眠っている時に見た無垢な顔に似た、けれど、どこか艶っぽい表情。
 なんだ、これ。
 「もう、終わり。ちょっと、なんか、俺が無理」
 たいした事ない傷口なのにまだ目で追い手さえ追うミハイの仕草に、獅狼は先程までとあまりに態度が違う相手の扱いに困り始めた。
 微量でも血を口にしたせいか、顔色に変化があるのは見てすぐ分かった。まだ表情は病人のように酷いものの、ここに来た時より幾分か良い。ただ、この顔は見た事がない。血を欲する素直すぎる顔。血族の本能に従順すぎるほど素直な姿。視線が痛いほど突き刺さる。敵意で睨まれる事はあっても、求める視線で見つめられる事はない。
 「足りぬ。餌食ならば早くしろ」
 「…俺、もう餌食になってんのかよ」
 「指で良い」
 「聞いてねぇし」
 「聞こえている。喋る時間が惜しい」
 囁く声色さえ違って聞こえる。腕を伸ばしてまるで女性相手にダンスのリードでもする優しい仕草で片手を頬に、片手を腰に回せば、案の定首筋に、今度は思い切り良いほど潔く牙を突き刺す。頬の手が首に落ちる。腰にあった腕が獲物を逃がさないようがっしりと背を掴んでくる。どんな表情して屠っているのかわからないが、必死なのは牙からも身体からも伝わってきた。
 どくどくと脈打つのがわかる。近すぎるミハイの貪欲な屠り方が、あれだけ人に醜態を曝すのを嫌ったミハイが、無心になって今自分に噛み付いている。支える首の手や背中の腕に込められる力からも余裕がない事が伝わってくる。
 引き寄せられるまま、獅狼もベッドに手をつく。妙に目眩がするのは吸われすぎか?いや、狼男がこれくらいで貧血になるほどやわじゃない。ヴァンパイアの牙に何か仕掛けでもあるのだろうか。
 「…は!」
 なんだかんだ考えていたら、ミハイは急に我に返ったのか、突如牙を抜き、唇を離す。深くえぐられた跡は、生々しい血肉の跡といまだ無惨な生き血を垂れ流していく。
 「どうした?満足した?」
 痛そうにしながらも勝ち誇った表情で獅狼が言う。声を聞いてふと間近に相手を見、状況を把握したのか自ら抱きついていたくせに、ばっとその場から後退り距離をとる。血に濡れた口元を覆い、ミハイは困惑した様子が隠しきれずに喋り出す。
 「…すまない…。餌食にするつもりは…すまない…」
 「謝る事ないだろ。せっかく人が親切で献血してやったのに」
 「献血」
 単語を繰り返し、ミハイは自嘲気味に乾いた笑いをした。
 「献血か。良い例えだ。ボランティアなんて良い趣味じゃないか」
 すっかり血色のよくなったミハイの姿に、獅狼は内心ほっとした。あのまま放っておけば、こいつの事だ。本気で餓死しかねない。何がきっかけだかわからないが、いきなり生き血を飲まなくなった。
 「…すまなかった」
 顔はそむけたままだったが、もう一度ミハイがそう口にした。言われた獅狼の方も、何を返して良いやら返答ができず、時だけが流れた。乱れを整え、ミハイが先に立ち上がり、部屋の外へと促す。
 「さぁ、まだ昼間だろう。貴様にはまだまだ活動時間だ。私はもう一度眠る」
 「それもそうだな。押しかけて悪かった」
 扉に向かい、特に悪びれた様子もなく部屋を出て行こうとするすれ違い様。
 「助かった」
 ミハイが呟いた。目線こそくれなかったが、確実にそう口にした。獅狼は笑みを返し、ぽんとミハイの頭に手を乗せた。
 「よほど気に入ったようじゃねぇか。真剣だったぜ」
 「…正直、下手な人間より上質だ」
 口元を隠して消え入るような声で呟いた台詞に、獅狼の方が拍子抜けした。思ってもみなかった答えだったからだ。
 「…そりゃどーも」
 口元を隠し、顔をそむけるのは癖だとなんとなく分かってはいたが、その仕草が今回限りは、なんだかとんでもない暴露をしてくれたみたいで、どことなく勝ち誇った気分にさせてくれた。

 ミハイのいる部屋は、ヴァンパイアといえばよく想像されがちな、ゴシック調の雰囲気そのままで、らしいと言えばらしい部屋だろう。元々、豪華な造りをしていたように思える部屋に綺麗好きが住めば、見た目がよりいっそう引き立つのは想像に難くない。地下に造られた部屋だけに窓はないが、その代わりのように飾られた鏡や時計が、なんともそれらしい。
 「見舞いに来た」
 夜になれば活動時間だ。昼間とは違い、起きて何かしら作業していたようだが、訪れた獅狼の姿を確認して手を止めた。
 「具合、ほんと良くなったな」
 何かを隠すよう小さな小箱が閉じられた。一度目線をやり、ミハイは無言のまま棚にそれをしまった。
 「…もう用事はなかろう。何をしに来た」
 「だから、見舞いに来た」
 「気分は回復した。去れ、餌食」
 「つれねぇの」
 部屋のソファに腰掛けて、獅狼は両膝に肘をついたかたちで、少し俯き加減に呟いた。
 「なぁ、なんで飲まなくなった」
 言ってからミハイを見上げる。一度動きが止まった。それからゆっくり見返してきたが、無言のまま背を向けられた。
 「餌食の話をした後からって思ったけど、佐伯の事があった後から、じゃないか?時期が被ってるから、最初は餌食の事が原因かと思ったんだけどさ…」
 「貴様の知るところではない」
 「あいつに何された?」
 少し強めの、はっきりとした言葉でも、ミハイは返事も振り返りもしない。沈黙だけが、無駄に時間を費やして流れていく。獅狼が再度、同じ質問を繰り返した。ミハイはやはり答えない。代わりに振り返り、無表情の顔に、ゆっくり薄い笑みを浮かべていく。
 「目覚めたら…私は牢獄にいた。忌ま忌ましい…あの場所だ。両手と両足は、自由ではなかった…。獅狼、貴様は不死の詳細を喋ったそうだな。天井から吊るされ、銃弾をまともに受けた。人間達にはヴァンパイアは銀が苦手だという話が流れているのは本当らしいな。貴様が以前つきつけてきたように、銀製の銃弾や刃物も食らう事になった」
 「お前…」
 薄い笑みは決して柔らかいものではない。凍りつくようで、決して目は笑っていない。
 「人間の恐ろしいところは、同じような形をした私でさえ躊躇いなく切り刻めるところだ。指を切り落とされた。その再生する様が面白いらしい。何回か似たような事をされた。…わかろう?両手、両足の自由を奪われ吊るされた私に、なす術などない。それが1日目だ」
 「それで1日!?」
 一歩、また一歩とゆっくりと獅狼に近づいて、相手の驚いた様をミハイは嘲笑った。
 「あぁ、1日だ。その後の順番など忘れた。どこかで貴様と会ったな。毎夜人間が運ばれた。血で生きる私への食事のつもりだろう。牙にかける様を見たがっている事も良く分かっていた。だから、一度も口にしなかった。私の血を抜き取って、わざわざ人間に飲ませる事さえした。愚かなものよ。人間が私の…人外の血を飲んで正気でいられるはずがなかろう」
 獅狼の側まで近づけば、相手の口元に自分の腕を持っていく。
 「人外の貴様でさえ、飲みたいと思うか?他人の血を」
 「い…いや、思わねぇ」
 「傷口から流れ落ちる赤い血の香りを、何と思う。肌の上に浮き出た血管の姿に、何を思う」
 「…それ見て、食らいつきたくなるんだろ、お前らヴァンパイアは」
 「思わんだろう、それ以外の種族は」
 「思わないな」
 腕を外して、無機質だった笑みがいつもの仏頂面に変わる。獅狼は深い溜息をついて、ミハイの肩にぽんと手を置いた。
 「そんな事になってたなら、飲みたくなくなるのも…無理ねぇや。ごめんな、喋らせて」
 「あの馬鹿な人間本人がやらかした愚行と比べたら、貴様の暴動など可愛いものだ」
 「え」
 「聞きたそうな顔だな」
 驚きと恐ろしさの混じった顔をする獅狼。ミハイは相手が乗せた肩の手を取ると、ぐいと押し戻すように急に力を入れる。突然の事で反射的に止めようと力をこめると、それは止まる。思う壺だったらしい。ミハイが喋りだす。
 「ほら、すぐに分かる。我々はどうにも誤解されやすい種族らしい。怪力だと思われていたようだが、そうでないと分かった途端に、足だけの拘束に形が変わった」
 「それで…足に鎖が」
 「あぁ。逃げるために銃弾で撃ち切ったため、金具がついたままになっていたのはそのせいだ」
 「手錠は」
 「どこか縛り付けていないと気がすまないのだろう?」
 「…」
 抵抗しない獅狼の腕を押しやると、それは簡単に膝元に落ち着く。離さなれないミハイの手に、余計に力がこもる。見開かれた目が、獲物を見る目とは違う、どこか怯えたような、しかし脅かすような恐ろしさを含んで見つめてくる。
 「容易い想像だ、獅狼。牙が見たければ、口元に触れれば良い。夜目の効く瞳の仕組みが知りたければ、眼球を抉れば良い。再生し続ける身体の仕組みが知りたければ、奪えば良い。人間ごときが、あんな虫けらどもに…何の、歯もたたん。…飢えと戦い、屈辱に耐え、生き存える苦痛。あれほど太陽を恋しく思った時はない」
 「ミハイ…」
 「あの男は…佐伯は個人的に私に興味を抱いていた。断言しても良い。他の人間の興味の視線と違い、あの男は我々が獲物を狩る時に似ていた。私が何に反応を示すのか、生き血でも何が好みなのか。結局は自分の血を私に飲ませたがった」
 「…自分の」
 「他人を傷つける事はできても、自分を傷つける事は難しいらしいな。刃物でも爪でも歯でも自らを傷つける手段はあるはずなのに、奴は針を使った痛みのない方法で自らの血を持ってきた」
 「…注射、か」
 「単語までは忘れた」
 「…飲んだのか?」
 「愚問だ。吐き出した」
 「吐き…、それって、無理矢理飲まされた…?」
 「愚問と言ったはずだ」
 腕の手を離し、獅狼の胸元に触れる。突然の事に不思議そうに見返す相手に、淡々とミハイは視線を自らの手の示すところを辿る。
 「たとえば…貴様もそうだ。私には…獲物が、健全な方が好みだ。逞しい腕、引き締まった身体、余計な脂肪のない整った隆起のある筋肉美、時折浮き上がる首筋の筋肉」
 「…男好きに聞こえるぞ、それ」
 獅狼が苦笑いで答える。自分がそれほどの肉体を持ち合わせているのか確信はないが、そう思われていると思ったら、急に照れ臭くなり、ごまかして笑った。
 「言い方を変えよう。しなやかな曲線。きめ細かに潤った肌、折れそうな手首、細い腰、肉付きの良い脚、細い首筋」
 「あぁ、その方がわかりやすい。でも、その話ぶりじゃ…あいつ、警官だろ。鍛えてないはずないだろ。だったら何故」
 「分かれるようだな。蝕まれた者と、そうでない者」
 「どういう事だ」
 「さぁな」
 ミハイは興ざめして距離を外す。獅狼から離れると、自らのベッドに向かい、そこに軽く腰掛け、天を仰いだ。
 「人の世は、昔も今もつまるところは変わらんな。何の興味も湧かぬ。健全な人間が少なすぎる。だからだろう。人外の方に、私は興味を惹かれた」
 「…」
 「人間の何がそんなに美味なのか、聊か理解に苦しむ」
 「でもさ、こっちに来なきゃなんねーんだろ、お前らヴァンパイアって」
 「決まり事だからな。1千年を迎える前に、一度は人間の味を知っておけと、上から命じられてこっちに来るしきたりだ」
 「え…お前、いくつ?」
 「…愚問だ」
 くすりと小さく笑ってから、ふいにミハイは瞳を閉じて詠うように言葉を綴り始める。
 「永遠の夜を生き、変わらぬ閉鎖的な世界で、淡々とただ生きる。変わり続ける人の世と、ただ一度だけの関わりのひと時。時の流れを見続け、生き続け…時に縛られる永遠の生。自ら幕引きをしない限り、永遠に生き続けるいのちが、どうして短命族のいのちを奪って生きる資格があろう」
 「…ミハイ?」
 うっすら開かれた瞳は、いつもより柔らかい赤色をまとって、獅狼に向けられた。
 「人の世に来るしきたりは、自らの終幕を試される期間なのかもしれんな」
 やけに深みのある笑みでミハイが笑う。獅狼は動揺に近い疑問の表情で相槌と反論を入れた。
 「え、あぁ。でも、そんな死んでこいなんてしきたりがあるわけねぇだろ」
 「死んでこいとは言っておらん。終わりたければ、この機会に終わらせても良い、という意味だ。短命族を知る機会は、この時しかないからな」
 「…ん、でも、お前はその前からよく向こうで俺とはちあってたよな」
 「人の世に行けとの命令が遠からず下ると感じていたからな。憂鬱に人の世を眺めていた」
 「それで良く会ったわけ?」
 「恐らく」
 「そんなに、こっちの世界は嫌?」
 獅狼の疑問に、ミハイは苦笑して答える。
 「毎晩満月の世界があったら、行きたいか?我々は人の世に現れる日差しに当たれば灰、塵と成り果て消える。朝と夜が忙しなく入れ替わる世界に、わざわざ行きたいと思わんだろう」
 「あー…そりゃあ俺も嫌だな」
 獅狼の嫌そうな納得に、ミハイは薄く微笑む。
 「だから、このしきたりは終幕を迎えたいか、一種の淘汰に思えてな」
 自分の片手を首に、片手を胸元に当てて、ミハイは言う。
 「窒息しても、心臓を貫いても、死ぬ事はできぬ。獅狼、いのちをとやかく言う貴様なら、どう思う?自ら死ねぬ私が、自分の最期は自分で決めて死ぬと言えば、止めるか?」
 じっと獅狼の答えを待ち見つめるミハイ。獅狼は返答に悩み、唇をかみしめた。
 「生きていれば、そのうち良い事がある…人間が苦境の時によく使う言葉だろうだ。…それは限りあるいのちだから言える台詞だ。終わりがあるからこそ、生に良し悪しが付けられよう」
 「終わりのないいのちは…」
 「自らが終わりを決めるしかなかろう」
 複雑な気分でミハイを見返す獅狼に、再度ミハイは問う。
 「止めるか?私が終わりを決めたなら」
 「…止めたい。けど、止める権利はねぇよな」
 不安に見つめる獅狼の頬に片手を数秒だけ添えたようにふれて、ミハイは低く笑った。
 「案ずるな。まだ数世紀は悩むつもりだ」
 ミハイの言葉に、またもや複雑な心境で、獅狼は顔を歪ませた。

-SCENE: BAD OMEN-

 獣化が近い、満月まで後1日の夜。満月を挟んだ前後1日間は、いつ感情に左右され獣化してもおかしくない状態になるのがわかってから、ミハイとは3日間は一晩中ともに過ごすようになっていた。
 随分と獣人として成熟し、満月の夜でもある程度は自制心が保てるようになっている。ただし、完全に制御が効くわけではない事は、本人も重々承知だ。
 獣化。普段にはない強靭な肉体と生命力を持つ生き物となる。魔性と化した姿が、ヴァンパイアの目に、獲物として魅力的に見えないはずがない。
 監視役。他愛ない会話をふってくる相手から、普段にはない芳醇な香りが漂う。獣人特有の、人間と人外の混じる魔性の香り。すうっと、炎のような蒼い瞳に囚われる。餌食と知っているから、躊躇いがない自分の本能が恐ろしい。
 向けられたミハイの視線に気付いて、獅狼の方が声を高めて呼びかけ、彼の目の前でひらひらと手を振ってみせた。
 「おーい、監視に来てんだろ。お前がおかしくなっちまってどうする」
 「…あ、あぁ、すまない」
 「今、完全に俺を獲物として見ただろ」
 言われてびくりと微動する。素直すぎる反応がおかしすぎて、獅狼は思わず噴き出して笑った。
 「お前、それで監視役やってりゃ世話ねぇや」
 返す言葉もなく、黙り込むミハイ。顔をそむけるのも、口元を押さえる仕草も、もう見慣れた癖だ。獅狼は高架下の座れそうなコンクリートの段に腰をおろして、たいして綺麗でもない壁にもたれた。
 「妙な仕事押し付けられてるよな、お前も」
 「は?」
 「だって、そうだろ」
 劣化した人工の橋の錆ついた橋の骨組を眺めながら狼男は続ける。
 「狼男だろうが、ひとに変わりねぇ。それが人間より美味かった。ご先祖様がそれを知らないはずがねぇ。それなのに代々お前らヴァンパイアは監視役だとか言ってこうやって人の世に来る。人間の味とか言ってるけど、本当は俺達短命族を滅ぼしに来てるんじゃねぇの?」
 「何を」
 苦笑いのような、でも、どこか優しげのある微笑みで、獅狼は笑う。
 「美味いもんの方が良いに決まってる。だから、人間の味ってのは建前。本当は俺達が邪魔なんじゃないのかってな。面倒だろ。短命族のせいで人外の存在が知られて、お前らまで迫害に遭う目になったらさ」
 「…馬鹿なりに、考えたな」
 ミハイは驚きはしたものの、いつもの憎まれ口を返す。
 「人間が…たかが獣人1人を発見したところで、ヴァンパイアまで信じるとは限らんだろう。同じ末路を辿るほど、長寿族は愚かではない」
 「それもそうだな」
 空の見えない高架下。2人して何するわけでもなく、何事も起きない事を祈りすごすだけの時間。狼男にとっては眠りの時間だが、ヴァンパイアには活動の時間だ。それを知ってか、なるべく起きて話しかけてくる相手に、煩わしく思う事はあっても適当に返事は返していた。
 「なぁ、さっきは止めて悪かった。良いよ」
 「もう良い」
 「いや、今日にしとけ」
 自分の首筋を人差し指でとんとんと指し示して狼男が笑った。疑問しか浮かばない顔で無言の訴えを返すと、くすくすと笑い声がした。
 「獣化してる姿に反応してるのは確かだろ。明日はどうなってるか分からねぇ。だから、今日。前も言ったろ?獣人の力を持つには前日でも十分だって」
 「それとこれとが何の関係がある」
 「だから、今のうちに飲んどけって言ってんの」
 「だから、何故今私が貴様に牙を立てねばならんと訊いている」
 「最後の夜かもしんねーから」
 「…は?」
 月が雲から出てきたのか、すうっと地面に明かりを見せる。暗がりの影の中、まだ光を放つ獣の眼が月明かりを返して、空を仰いだ。
 「ヴァンパイアにどういう仕組みがあるのか知らねぇけど、狼男にも色々あってな。先月、変化した跡が朝になっても残ってた。手が、完全に戻りきるまで半日かかかった。そういうのって、次が危ねぇんだ」
 ちらちらと炎を宿す瞳が閉じられ、清々しいほど潔いはっきりした言葉が聞こえた。
 「人間に、戻れなくなるかもしれねぇ」
 月が、また風で雲に隠れる。暗がりが余計暗くなる。見えなくなる表情がどう変わったか分からないが、獅狼の視線が空からミハイの方へ向き直された。
 「明日はよろしく頼むな」
 物音のほとんどしない足音が近づく。ヴァンパイア特有の足音とも言い難い足音。コンクリートに座る獅狼の前に来れば無表情のまま、見下す。
 「監視は私の務めだ」
 ミハイが姿勢を低めてくる。なんだかんだ言って吸血するつもりかと獅狼が思うも、ミハイは両手で獅狼の手を握り締めた。俯いたまま黙り込むミハイ。声をかけようと口を開きかけたが、何か言うのも無粋な気がして、獅狼もそのまま何も言わなかった。ただ一度相手の肩に手をぽんと乗せただけだった。
 「心配してんなら心配してるって言えよ、分かりにくい奴」
 「単純にできていないものでな」
 「あっそ」
 「…先程の言葉は、了解して良いのか?」
 「先程の言葉?」
 首元に指を持っていき、意味を伝える。納得して笑いが込み上げた獅狼がそのまま思ったように笑った。
 「ほんと分かりにくい奴!血が欲しいって素直に言えよ。飯食いたいとか、そういうの言うのと感覚近いんじゃねぇの?」
 「……」
 「じゃなかったら…何だ。食べ物じゃなかったら飲み物?のどが渇いた?」
 「近いが違う」
 「実際どんな感じなんだ?血ぃ飲んだ時って」
 まじまじと質問され、深く考えた事なかった事柄だけに、ミハイは一度難しい顔をしてから考え出す。
 「潤う…いや、満たされる?満足感…快楽?」
 「俺達が飯食う感覚よりかは満足感あるんだろうな」
 「乾ききった砂漠に泉が湧き起こる潤いと、熟した果実がもたらす芳醇の香りに囲まれた至福の時を味わうが如く、だそうだ」
 「なんだそれ」
 「以前、他から聞いた説明の仕方だ」
 「余計分かりにくい」
 「だから使わないで説明しようとした」
 「こいつ」
 首に腕をまわしてわざとらしく締め付ける。謀ってか、体勢上抱きしめ合う状態になり、相手の肩に唇が当たる。冷静さを保つのが必至だったのは、おそらくミハイの方だっただろう。
 それから何も言ってこない獅狼。高鳴る鼓動を抑えつけようがない。目の前の誘惑に自然と口を開いた。牙を突き刺そうとして、躊躇う。

―理性を失って否が応でも獣にならなくてはならない短命族の命を喰らうお前は何様だ―

 躊躇いを押し退けるよう、獅狼の手が頭を押す。自ら突き刺すように、ヴァンパイアの牙が肌に食い込む。獣人の、人間でも獣でもあるような中途半端な味が嫌でもその咥内に流れ込む。
 「それで、いい」
 逆らえない本能に、嗚咽が混じって聞こえる。空の見えない橋を見上げたまま、必死に喰らい付く頭を撫でてやり、瞳を閉じた。
 この痛みが、今生きている気になれた。人間でいられる気になれた。
 獣化したら、理性どころか痛みがなくなる。痛いと感じられるだけ、俺はまだ大丈夫なんだと確信できる。こんな話をしたら、こいつは笑うだろうか。
 突然、ミハイが距離を取った。というより、一方向に向かって威嚇しているように見えた。
 「出てこい。盗み見とは良い趣味だな」
 少しとは言えない距離から、物音がする。人間だと、すぐ分かった。
 「達也…!」
 獅狼が驚きを見せる。顔見知りも顔見知り、獅狼の人間としての友人だ。ミハイも以前に一度、顔を合わせている。走って逃げていく達也と呼ばれた青年の人間。追おうとした獅狼を、ミハイは止めた。
 「人外を知った者をどうするかは、私の務めだ」
 「ちょっと待てよ!あいつは俺の友達だって知ってるだろ!」
 人間の走る速さと、ヴァンパイアの追う速さは比較にならなかった。追うと言った直後に、ミハイは達也に追い付いた。獅狼は必死に後を追った。
 「どうりで外国人さんなわけだ。化け物とはな」
 「達也ぁ!」
 「獅狼、お前は知ってたんだろ、こいつが化け物だって!」
 ミハイの方を向いたまま、後ろから追いかけてきた獅狼に叫ぶ達也。
 「でも、何も言ってくれなかったじゃねぇか。お前は化け物の仲間か」
 「化け物化け物言うな!そいつだって必死で本能と戦って生きてきてんだ!」
 達也の言葉に怒鳴り返す獅狼の気配が変わる。
 「鎮まれ、戯けが」
 ミハイは獅狼の側に回る。ほんのわずかだったが、体の各所に獣化を見せた獅狼の姿に、達也が渇いた笑いを浮かべた。
 「なんだよ、本当に仲間かよ、お前ら」
 それだけ言うと人間は走り去る。完全に人間を標的にした表情に変わったミハイを、獅狼は反射的に力ずくで止めた。達也が殺されると思ったからだ。
 「あいつは逃がしてくれ。頼む、放っておいてくれ。喋ったところで誰も信じねぇだろ、こんな事。大事にはならねぇ」
 ミハイは煮え切らない表情だったが、しばしの間の後、一応の納得をしてくれた。

 それから数時間、まだ月が効果を消すまでには時間がある。たまには仮眠を取る事もある獅狼も今夜は起き続けた。あんな事があったから、場所は移動した。同じ場所にいては、危険な気がしたからだ。街中は危険だと思い、海辺へ移動した。貨物船の並ぶ港のようで、部分的に使われていない。できる事なら、地下でもあれば好都合だ。立ち入り禁止区域に入っていく。汚いと愚痴をこぼすミハイに獅狼は、ヴァンパイアの眠っている棺桶のイメージの方が汚れていると笑った。
 「よかった。今夜は何事もなさそうだ」
 月が傾き始め、あと数時間で空が青さを増すだろう。獅狼は先を歩いていたから、そろそろ帰ろうと言おうかとミハイを振り返った。
 「そろそろ…!」
 こちらに背を向け、両手を広げる姿。その向こうに、まだ暗い闇夜の中、獣化していなくても気配だけはしっかりと感じ取れた。
 カラカラと音がする。無数の銃弾が地面に転がり落ちる。血飛沫一つ立てない姿が、数秒後に強い光で照らされた。
 「総出のおもてなし、感謝する」
 ミハイは礼儀正しく、一つ礼をして、それから笑った。踵を返し獅狼のもとに向かう姿を見れば、穴が開いたのは服だけで、多少の血の滲み跡はあるものの、傷跡などなくなっている。2人は錆びれた倉庫の並ぶ船着き場の中を逃亡し始めた。

-SCENE: FINALE-

 始めのうちこそ、会えば売り言葉に買い言葉がお決まりの挨拶だった。
 何が監視役だ。
 何が貴族だ。
 噂でまことしやかに言われたヴァンパイアの嫌うものを片っ端からつきつけてやろうが、全く相手にされなかった。逆に軽く嘲笑われて終わるだけだった。
 最初こそ、印象は最悪だ。それが変わったのは、ある満月の夜、変化し意識を奪われかけていても守りきろうとした人間といた時だった。血に足掻いてまでも守ろうとするのは、その人間が自分にとって友人だったから。人間ってのは脆い。すぐ死ぬ。だからこそ命は尊い。
 何度も説明はしたが、どうにも腑に落ちない様子でヴァンパイアは話をそらした。それが、その夜に限っては友と自分を引き離し、安全な場所まで運んだらしい。勿論、本人は記憶操作されて覚えていないし、奴は奴で趣味じゃないから狩らなかったとしか言わなかったから、本当のところはわからないが。

 第一印象は例に漏れず、野蛮で低能で人間染みた獣人そのもの。加えて、まだ四半世紀ほどしか生きていない若造。
 何が人間の味だ。
 何が監視だ。
 ただのやっかい払いだろうとしか思えなかった。別に人間でなかろうが生き血なら問題はない。人の世に来た初日から、早くもホームシックだったのは、否定しない。特定の獣人を監視するわけではなかったのだが、事ある毎に姿を現す1人の狼男と、いつしか腐れ縁になっていた。
 その腐れ縁が仲間意識に変わったのはいつからか。…いや、仲間などと考えたくもない。けれど、確実にその狼男に今まで考えた事もない概念を見せつけられた。単細胞が故の発想と馬鹿にするのも改めた。我ながら、呆れた。どうにもこっちに来てから頭がいかれたらしい。
 「死なせねぇ」
 あぁ、この声。この血の香り。狂わされたのは何が原因だっただろう。人間と似た生活が送れる獣人に嫉妬でもしたのだろうか。何故、私はこの若造に固執した。何故、私は庇った。
 「不死身じゃなかったのかよ、てめぇ」
 人間達が狙った標的は自分達ではなく、その上の柱だった。倒れてくる柱と、支えを失った天井が崩れてくる。それを防ぐには獣の力に頼るしかなかった。けれど、発揮できなくなっていた。その瞬間の戸惑いを見たのか、ミハイが身代わりに崩れる天井の下から突き放し、瓦礫の下敷きになる事から救ってくれた。逆に瓦礫の下敷きになったミハイは服装こそぼろぼろになったが、瓦礫をもろともせずその場に立ったまま、不死身ゆえに砕けた体を元に戻して行きはしたが、その場所は、天井をなくしていた。時刻は、日の出を過ぎていた。
 悲鳴とも咆哮とも違う声が劈く。
 銃弾や瓦礫の下敷きで破けた服はなんの障壁にもならなかった。片腕が乾くように灰に変わり、風に消えてなくなっていく。目の当たりにした消えゆく腕に、獅狼も腰を抜かした。蹲り、言葉にならない悲鳴をあげるヴァンパイアの姿など、見た事がなかった。
 人間達がやってくる。銃口が自分ではなくミハイに向かっているのが分かる。
 粉塵が舞う。一瞬、何の事が分からなかったが、理性を取り戻したのか、逃げ出したミハイの姿を捉え、獅狼は後を追う。
 「大した仲間だな、貴様の友とやらは」
 「なんでだ。あいつ、最初から」
 俺の事も知っててつけてきてた?
 「小賢しい」
 太陽は知らぬ間に完全に姿を現していた。屋根のない廃墟の中、逃げ場など到底見つかりはしない。辛うじて見つけたトタン屋根の錆びれた倉庫跡の隅に潜む。
 夜があけた事が自分の中の血の変化でもよく分かる。あんなに不安だった獣人の血の反応が、全く消えている。反比例して、ミハイが次第に息を荒げていく。直射日光を浴びていなくても、ヴァンパイアには辛い状況なのは以前によく知っている。早くしないと、片腕どころか、取り返しがつかなくなるかもしれない。
 「そんな顔すんな。なんでもいいから生きろ。簡単に諦めるんじゃねぇ!不死身なんだろ?片腕、前見せたみたいに生えてくんだろ?」
 「…馬鹿か」
 「あぁ、獣人は馬鹿だ。だからもがくんじゃねぇか!」
 「陽射しに削られては戻りようもない。…人間どもは私を恐れているだけだ。捨て置き逃げろ」
 「嫌だ!」
 言葉に重なり、一際大きな銃声が耳を劈いた。

 一瞬。

 ほんの、一瞬。
 日陰にいた者、そこからさほど距離のない者はすべて息絶え、中距離の武器は何らかの手段で破壊されていた。目の前のミハイは背を向け立ったまま、振り向かない。
 「…今、何をした」
 カラカラと、音がする。こちらを振り返り、何かを言う唇の動きまでは見えたが、それが聞こえないまま、灰となり消えていくのが見える。
 「おま…何をした!」
 叫びとほぼ同時に、目の前の人型だったものが風に流され服だけが銃弾を隠すように地面に落下する。受け止めるにも、腕が…動かない。
 「大丈夫か、青年!」
 1人の大人が駆け付ける。振り向く事ができず、呆然と服を見つめる。ゆっくり、手を伸ばし、服を掴み上げてみても、そこに見えたのは、太陽に光り輝く無数の銃弾だけ。
 「あぁ、通報通りだ。本当に化け物だったんだなぁ。怖い思いをしただろう。救急車も来ている。立てるかい?」
 首の傷跡を確認して、大人が獅狼の腕を掴み立ち上がらせようとする。ヴァンパイアが着ていた服を掴んだまま、なされるがまま、連れて行かれる。
 「それ、持って行くの?誘拐犯の化け物の物でしょ?」
 「…」
 「まぁ、持って行くなら持って行きなさい。さぁ、乗った」
 促されて、救急車に乗り込む。横になるほどでもないのだが、寝ていないせいもあり、横にならせてもらう。灰になった時に落ちた数だけ、弾丸を浴びていたのがわかるほど、服はぼろぼろになっていた。眼を閉じて、深呼吸をする。これ以上見ていたら、泣きそうになった。
 …何故、今、俺は泣きそうなんだ?

Fin.

人物紹介

【狼男とヴァンパイア Wewewolf and Vampire】
使用用語: 人の世 人外界 長寿族 短命族 純血 混血 ひと 人間 人外 獣人 狼男 ヴァンパイア 餌食

【ヴァンパイア】
1,000年は悠に生きる長寿族のひとつ。1,000年を境に、若者か大人か、区別している。また、若者のうちに人間の血を知る事で、一人前とされる。排他的で、他種族とは極力関わらない生き方を好む。餌食(えじき)という契りがあり、生き血が食事の彼等にとって、特に幼い頃(100歳未満)は互いの餌食になり、血を分けあう習慣がある。古くからのしきたりで、1,000年に近づく前に、人の世に行き、人間の生き血を口にする習慣がある。
風貌は様々で、人間と大差ない。どれだけ身体がばらばらになっても、不死身で、いくらでも再生する。原動力は生き血のみ。飲んでいないと回復は遅い。
弱点は唯一、直射日光。反射した光や紫外線等は苦手だが平気。直射日光を浴びた部分は灰となって消え、再生不可能。
◆ミハイ・フロレクス(Mihai Florecs)
純血の貴族。貴族階級だが上流階級ではないらしい。長寿族としてはまだ1,000年も生きていない若者に当たる。人外界を出た事がなく、人間の血を知らない箱入り育ち。本物語で初めて人の世に行くが、短命族を見てきてはいるので、人間のように100年生きない種族の生き様は知っている。天邪鬼で無愛想で挑発的。不死身だが、体力と腕力はない。金髪、赤目。小柄で女性か男性か分かりにくい風貌をしている。
◆ミハイの姉
似ても似つかない風貌。髪が長い。実の姉ではない。
設定は、お互いがお互いの餌食。それゆえに契りを交わしている。

【ウェアウルフ】
人の世に紛れこんで生活をしている獣人と呼ばれる種族のひとつ。人間より少しだけ長生き。平均寿命120歳。普段は人間と全く変わらない外見をしているため、気づかれない。ただし、ウェアウルフの場合は腕力や脚力、嗅覚といった身体能力が普段から優れているため、生活の中で幼い頃から人間より苦労して生きてきている事が多い。
人の世で生活しているため、純血種は全滅しているといわれている。ほとんどが混血で、血の濃さにより、変化の度合いに影響が出る。血筋を引いていても薄いため変化しない者もいるらしい。
満月の夜を挟んだ数日間のみ、月の光と、主に感情の起伏に影響して、身体が狼へと変化する。変化している間の記憶はほとんどない。成人してしばらく経つ頃で、やっと変化に慣れ、記憶を保っていられたり、理性を保っていられたりしていられるようになるが、なかなか難しい。変化の最中は、痛覚が鈍くなり、ほとんど痛みを感じない。
◆香川獅狼(かがわしろう)
人の世に生まれ育つ獣人の青年。実際は25年程度生きているが、外見は20歳くらい。大学生として生活している。母親がウェアウルフで、父親が人間。母親も混血。獣人と関わったため、ある満月の夜、父親は人外との血の交わりに心身が逆らえず発狂し、ヴァンパイアに殺害されている。母親は再婚せず、母子家庭で育つ。面倒見がよく、誰からも慕われやすい。平和主義で、温厚だが、曲がった事や間違ったと思った事はとことん突き詰める。親の事もあり、人間とは深く関わらないと心に決めている。黒髪、青目。人間として平均的な体躯だが、獣人の性質上、身体能力は人間をはるかに凌ぐ。


【人間】
獅狼の交友関係
◆啓輔
佳奈をしたう体躯の良い男性。大柄で、優しくて、細かい事にもよく気がつく性格。物語途中、獅狼の正体を知ってしまい、ミハイに殺される。
◆達也
仲良しグループの中では二枚目担当。羽目をはずしすぎるところがある。ちゃらちゃらした雰囲気をわざと出している部分もあり、良く喋るが疑い深い性格。物語終盤でミハイの正体を通報し、人外2人を追いこむ張本人。
◆佳奈
獅狼の仲間を大事にする心に惹かれ、慕う女性。マイペースで大人しい癒し系。決して引っ込み思案ではない。登場人物の中で最も小柄で華奢。
◆美菜子
佳奈の親友。獅狼と達也の2人とよくつるんでいる。勝気で自分から首を突っ込む。モデルスタイルで美人。

+++追加+++
警官
◆佐伯望(さえきのぞむ)
物語中編のキャラクター。人外2人と直接接触する警官の優男。いつも笑顔で真意を読ませない。仕事人間ではないらしいが、何故か部下には慕われている。良く知る同僚やらには癖のある奴だと言われているらしい。個人的に人外に興味があるため、仕事の内容と趣味の内容が矛盾する。生態からして異なるミハイに強く興味を惹かれる。事ある毎に夜な夜な2人のいる場所に出没する。神出鬼没。茶金髪、茶目。
本人はミハイに興味があるのだがミハイとは仲良くなれず、獅狼とはある程度仲良くなる。


佐伯追加に伴い、+++ が物語の区切り箇所。まだ差込可能部分。

【狼男とヴァンパイア Wewewolf and Vampire】

【狼男とヴァンパイア Wewewolf and Vampire】

人の世にすまう人ならざるもの、狼男とヴァンパイアの、少しだけBL要素も含めた異種族同士の友情物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-11-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. -SCENE1: OVERTURE-
  2. -SCENE2: AVENGER-
  3. -SCENE: TASTE OF BLOOD-
  4. -SCENE: HUMAN SIDE OF WEREWOLF-
  5. -SCENE: LYCANTHROPY-
  6. -SCENE: ALIENATION-
  7. -SCENE: ADDICTED-
  8. -SCENE: ENCOUNT-
  9. -SCENE: INTEREST-
  10. ++++ -SCENE: RESQUE-
  11. -SCENE: WEWEWOLF -
  12. -SCENE: VICTIM-
  13. -SCENE: VAMPIRE-
  14. -SCENE: BAD OMEN-
  15. -SCENE: FINALE-
  16. 人物紹介