檸檬

すごろく

 俺には、昔からちょっとした妄想癖があった。
 といっても、別に幻聴が聞こえたり幻覚が見えたりするわけではない。
 妄想なんてのは誰でもすることで、俺の場合はそれが人よりも少し長いのだった。
 例えば、学校での退屈な授業中、担当教師の化学式の説明もろくに聞かず、ぼんやりと教室のドアを眺めてここにテロリストが押し入ってくることを妄想してみる。
 テロリストはライフル銃を持っていたり、散弾銃を持っていたり、特大のマシンガンを持っていたり、拳銃を持っていたり、手榴弾を腰にぶら下がっていたり、ダイナマイトを身体に巻いていたりして、とにかく様々な武器を駆使して生徒と教師を脅し、教室を占拠する。
 そしてその生徒や教師を人質にして、政府との息詰まるような緊迫感溢れる交渉。校舎の外側からけたたましく聞こえてくるパトカーのサイレン音も鮮明に聞こえてくるようだった。
 そんな最中、俺はといえば、生徒や教師たちと一緒になって怯えているだけだ。妄想の中なのだから、ハリウッド映画の主人公並みの活躍をさせても良いはずなのだが、どうも緊急事態での俺の立ち位置は、いつも部屋の隅で怯えているような姿しか想像できない。
 それはともかく、俺はそんな妄想している時間が日々の生活の中で最も幸福な時間だった。
 ただ、所構わず妄想してしまうため、授業中に妄想をしている最中に黒板の問題を解答するように当てられ、しどろもどろで答えられず笑われたことがしばしばあった。
 他にも下校中、道路をふと見遣ると、向かいの車線脇で、結構車通りの多い道にも関わらず、風船を持ってそれを見上げながら危なっかしい足取りで歩いている少女がいて、その少女が風船を離し、離した風船を慌てて追いかけてそこに走ってきた大型の車に刎ねられて、風船と同じ高さにまで吹き飛ぶ、という妄想に囚われているうちに、少しずつ車線の内側へと足を踏み入れてしまったようで、危うくトラックに轢かれそうになったところを、そのトラックの運転手にクラクションを鳴らされて我に返り、事なきを得たこともあった。
 それでも、この妄想癖を直そうとは思わなかったし、直るとも思えなかった。
 なぜならこの妄想こそが、俺の十六年の人生の中で最大の楽しみであり娯楽だったからだ。
 小説や漫画などで他人の妄想を覗くよりも、自分が妄想をする方が楽しかった。ただ、それを小説などの文字に起こしたり、漫画などの絵に起こしてみたりはしなかった。あくまでも妄想することそのものが快感だったのだ。だから文字や絵に起こそうとしていても、何も楽しくないし、じきに億劫になってきて、結局最後には放り出してしまうのである。
 妄想は俺の頭の中で毎日次から次へと生み出され、次から次へと忘れ去られていった。
 空き地に段ボール箱に詰められた捨て猫を発見すれば、その捨て猫が死んで化け猫になり、捨てた飼い主を呪い殺しに行く物語を妄想し、芸能人の不倫の報道をワイドショーで見れば、芸能人たちのどろどろの愛憎劇を妄想し、オシャレをして誰かを待っている風の女の子を見つけたら、この後表面上は良い人そうだが内面は外道の彼氏にこっ酷くふられて泣かされる姿を妄想し、長髪の男性を通り魔犯に仕立て、商店街が血塗れになるのを妄想した。
 基本的に、暴力的だったり、残酷な妄想が多かった。
 それは俺自身も自覚していた。別に日々の生活に不満があるわけではない。それなりに人生に一度きりの青春を満喫しているつもりだし、家庭の環境だって至って普通だし、むしろ良好と言えるだろう。幸せか不幸せかと訊ねられたら、まぁ少し逡巡するにしても「幸せだ」と答えるはずだし、俺は十分恵まれている部類の人間だと思う。殺人願望はないし、自殺願望もないし、近所の野良猫だって殺したことはない。人どころか生き物を殴ったことすら、この十六年間の人生で一度もないのである。そんな俺が、なぜ残酷な妄想ばかり浮かぶのか。
「そりゃ、お前が普段暴力的な言動をしないからじゃねーの」
 この話をしてみたら、同級生の一人にそう言われたことがある。
 その同級生によれば、人間というのはどれだけ本人が幸せだと思っていても、知らず知らずのうちに無意識下でストレスや日々の不満を心の奥底に溜め込むものなのだという。不良など、普段から暴力的な言動をしている人物は、むしろそんな妄想をしたりはしない。なぜならする必要がないからだ。ストレスや不満は、その日常的な暴力によって自然と発散されているからだ。しかし、大抵の人は常識があり、人に容易く暴力を奮ったりはしない。それならば、どうやって溜め込んだストレスや不満を発散しているのか。まぁそれは人によって様々な方法があるだろう。ある人は激しく動くスポーツで発散するだろうし、ある人はアクションゲームで発散するだろうし、ある人はハリウッド映画を観て発散するだろうし、ある人は遊園地のジェットコースターなどのアトラクションに乗って発散するだろう。俺の場合は、やはり妄想だ。俺は刺激的かつ暴力的な妄想することによって、無意識下で溜め込んでいたストレスや不満を、同じく無意識下で発散しているのだ、というのが、その同級生の分析で、俺もその同級生の分析には「おぉ、なるほど」と概ね同意した。
 俺は確かに自分が恵まれた側の存在で、幸せな方だと自負しているが、日々の退屈さにつまらなくなったり、言葉にできない鬱屈が襲ってくる瞬間があるのは事実だった。
 すると別の同級生がこんなことを言った。
「なんか高部の妄想ってさ、梶井基次郎みたいだよな」
 俺は無知で梶井基次郎という名を知らなかったものだから、素っ頓狂な声で訊き返した。
「え?梶井基次郎?」
「正確には梶井基次郎の『檸檬』みたいだなってことな」
「いや、そもそも梶井基次郎って誰だ?」
「知らないのか?有名な文豪の一人だよ」
 その同級生から、梶井基次郎という作家のことを教えてもらった。
 梶井基次郎とは、十九世紀にいた作家だ。三十一歳という若さで亡くなり、生前はそんなに評価が高くなかったそうだが、死後に徐々に評価が上がっていき、今は日本を代表する文豪の一人と紹介されることの多い作家だった。
 その梶井基次郎の代表作が、『檸檬』というタイトルの短編小説。
 俺は近所の図書館に立ち寄ったとき、その『檸檬』とやらを読んでみた。
 昔の難しい文体が読みづらくて非常に煩わしかったが、短編なのでそこまで苦なく読めた。
 はっきりと感想を述べてしまえば、面白さはこれっぽっちも感じなかった。
 ただ男が鬱屈を抱えて散歩をし、檸檬を買い、その檸檬を文房具屋の棚に爆弾に見立てて置いて、その爆弾が爆発することを妄想するだけで終わる。そんな起承転結のへったくれもない小説に、どうやって面白さを見出せばいいのか?こんなものは、当時は売れたかもしれないが、今出版しても一部の自称玄人のお高く止まっている評論家さま方に受けるだけで、一般には受け入られず、ほとんど売れないに決まっているのだ。
 しかし、この主人公にはとても共感できた。
 得体の知れない不吉な塊に押さえつけられている感覚に囚われ、それを、檸檬を爆弾に仕立てるという少し突飛な妄想で発散する。その気持ちは、俺にはすごく頷けるものだった。
 それから、梶井基次郎という人物があまり他人のようには思えなくなった。
 だからといって、別にどうってことはない。梶井基次郎はとうの昔に死んでいるし、また生きていたとしても、ただ単に興味のある作家という範疇からは抜け出さなかっただろう。
 それに俺はそもそも、小説などの人の妄想自体は好きではないのである。
 そんなこんなで俺の妄想で退屈や鬱屈を紛らわせる日々は滞りなく過ぎ、ある日のことだ。
 母から買い物を頼まれ、俺は近所のスーパーへと出かけた。
 渡された買い物メモを眺めながら、買い物かごにそこに書かれているものを入れていく。
 鶏もも肉、片栗粉、小麦粉、料理酒、醤油、油――。
 なるほど、今晩の夕飯は唐揚げか、と俺はすぐに察した。
 さて、買い物かごに母から頼まれていたものはすべて入れたわけであるが、総合額を計算してみたら、母からもらった金を払っても五百円ばかりお釣りがくることがわかった。金が余ったら、好きなものを買っていいと母から言われていたので、この五百円で何を買おうかとスーパーの中を何となく歩き回っているところに、それはふと目に飛び込んできた。
 それは果物コーナーの目立つところに大量に積まれた、鮮やかな色合いの檸檬だった。
 価格は一個二百円。五百円で十分買える金額だ。
 俺はその檸檬を買うことにした。理由はない。そこまで檸檬が好きなわけでもない。ただ檸檬を見た瞬間に、梶井基次郎の名が浮かんで、何となく買ってみたくなっただけだ。
 俺はスーパーの帰り道、スーパーの袋の中から檸檬だけを取り出した。
 黄色くて、ラグビーボールのような形の檸檬。至って普通の檸檬だった。
 ふと、俺は過去にタイムスリップして、あの小説の主人公になりきる妄想をしてみる。
 ――ここは京極を下っていく道。目の前に広がるのは十九世紀の裏通りの街の景色。俺は――いや私は、肺尖カタルや神経衰弱を患い、借金取りに追われ、よく通っていた文房具店の丸善ですら息苦しい場所に変わるような毎日を送っていた。だが、先程寺町通の果物屋で檸檬を買い、幾分か鬱屈も和らぎ、私は幸福だった。するとあれだけ避けていた丸善に今日は抵抗なく入れる気が湧いてきて、「今日は一つ入ってみてやろう」と丸善の中に入る。しかし、丸善に入った瞬間、せっかく幸福だった感情はだんだんと逃げていくではないか。私は画集が並ぶ棚の前へと言った。画集の重たいのを取り出すのでさえ、いつもにも増して力が必要だった。それくらい、私は幸福から一点再び鬱積に苛まれているのである。元の位置に戻すのも億劫で、画集を出しているうちに、自分の前には画集が積み重なる結果となった。私はその積み重ねられた画集をぼんやりと眺めていた。するとあるアイデアがふと脳裏を過る。「あ、そうだそうだ」と懐から先程買った檸檬を取り出し、その積み重ねられた画集の上に置く。私はそれを見て興奮した。その檸檬の鮮やかな黄色はガチャガチャした本の色の諧調を紡錘型の中へと吸収し、カーンと冴えかえっていたのだ。そして不意に第二のアイデアが浮かんだ。「出ていこうかなあ。そうだ出て行こう」とわざとらしく言って私はすたすたと丸善を出ていった。変なくすぐったい気持ちの中で私はほくそ笑んだ。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けたという妄想をしていたから。もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心に爆発したらどんなに面白いか、そんなこと考えていたから――。
 俺は我に返った。手元を見遣ると、片手に握っていたはずの檸檬が消えていた。
 スーパーの袋を探ってみたが、どこからも檸檬は出てこなかった。
 慌てて元来た道を引き返し、心当たりのある店に入った。そこはチェーン店の本屋だった。
 果たして、その本屋の画集コーナーに、その檸檬は置かれていた。
 妄想であの主人公になりきっているうちに、行動までなりきってしまったのだ。
 その檸檬の前で、この本屋の店員が不思議そうに首を傾げていた。
 俺はすかさずその店員に謝り、檸檬を回収した。
「困りますよ、お客さん」と店員から少し小言を言われた。
 俺はその本屋を出て、再び家路につき、また檸檬を見つめた。
 俺の中には『檸檬』の主人公になりきっていたときのような興奮も幸福感ももうなく、残っているのは、退屈とがっかり感だけだった。俺は『檸檬』の主人公になりきって、あの本屋の画集コーナーに檸檬を置きながらこう思ったのだろう。
 ――この檸檬を爆弾に見立てて置いたら、何か変わるのではないか――と。
 結果から言えば、檸檬を爆弾に見立てて置いたところで、何も起こらなかった。
 当たり前のことである。俺が置いたのは檸檬に見立てた爆弾であって、爆弾ではないのだ。
 もちろん爆発することなどあるはずもなく、そこから悪魔が召喚されたりだとか、毒ガスが噴出されたりとか、宇宙人が襲来したりだとか、そんなことも起こり得るはずがない。
 それでも俺は、あの瞬間、『檸檬』の主人公になりきった状態で、密かに期待していた。
 この退屈した日常を、日々を、爆弾で爆発してくれるような――そうでなくても、何か小さくても、そんな毎日を少し特別なものにしてくれるような、刺激的なものにしてくれるような、そんなことが起こるのではないか、と根拠もない期待感を、少し抱いていたのだ。
 あの主人公も、と思った。あの『檸檬』の主人公も、こうは思わなかったのだろうか?
 丸善に爆弾に見立てた檸檬を置き、そしてまたその丸善に来たとき、丸善が爆発していなかったことに、何一つ変わっていなかったことに、がっかりはしなかったのだろうか?虚しくはならなかったのだろうか?それでも興奮や幸福感は保てたのだろうか?
 俺は『檸檬』の主人公に、そして梶井基次郎に思いを馳せながら帰宅した。
 ただ母に買ったものを渡して昼寝したら、そんな妄想もすべて忘れてしまった。
 檸檬は、夕飯に出た唐揚げに汁を搾ってかけ、皮は生ゴミなので棄てた。

檸檬

檸檬

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