たゆたうきりえ
何かの出来事に直面したとき、人は自分のフィルターを通してしか感じられないし、語れない。価値観、想像力、経験、思考、志向、嗜好、業――。自分の持ちものによって、同じ出来事から様々な物語が生まれる。これはそんな物語です。
1 ザ・不倫
ひやりとした感触のドアノブに手をかけ、むやみに重く感じられるドアをゆっくりと押し開く。秋の気配を含んだ空気が流れ込んできたところで、ドアは突然軽くなる。もりのが自分でドアを開けたのだ。
「こんばんは」
夜気をまとい、こちらをやさしく見ている。伸びやかなエレガントな容姿も、小さな白い顔に浮かべる爽やかな笑顔も、このところ憎たらしく感じるのだった。
「なにしに来たん?」
自分から呼び出しておいて、そっけない口調できりえが言った。
「きりえちゃんに会いに」
もりのはストールを無造作に外しながら、ちょっと戸惑った顔をする。黒髪のショートボブのサイドと襟足が乱れる。
きりえが無視して部屋に上がろうとすると、うしろから抱きしめてきた。「会いたかった」と切なげにささやく。きりえへの飢餓感が伝わる。
「そう」きりえは呼応したがる情熱をやり過ごし、静かにつぶやいた。身体も声もこわばる。身体もぬくもりも声も、大好きなすべてが、無性にしゃくにさわる。
もりのは寂しそうな顔をする。「来ないほうがよかった?」
「別に。帰りたかったら帰って」
「帰りたくない」
「だったら、入り」
もりのは部屋に上がる。猟犬の大型犬のようなシャープな身体の上に、幼犬のような愛らしい顔がちょこんとある。見るからにしょげていた。しょぼくれたラブラドール・レトリバーのような風情だった。きりえは少しかわいそうになり、声をやわらげる。
「泊まれるん?」
声音の変化にもりのは反応し、「泊まりたいです」
「ごはんはいいんよね」
もりのはうなずき、「シャワー浴びてもいい?」
「お風呂わいてる」
「ありがとう」
結局、申し合わせていたように愛し合った。微笑みを交わし、やさしく、せっぱつまった愛撫をかさね、とけあった。前戯も後戯もいつもどおり行き届いていて、きりえは深く満たされる。甘い余韻がおさまると、冷ややかな目線があらわれる。
「私ら、ザ・不倫やな」きりえは美しい頬と唇に、皮肉げな微笑みをたたえた。涼しげで甘い二重瞼の目に憂いがさし、美貌に凄みがます。
「今までだって、あやちゃんがいないときにこんな風に会ってたよ」
きりえは姉のあやと同居していた。もりのが恋人であることは打ち明けていたけれど、自分がいるときはセックスをしないという約束事があった。
「しらばっくれて」きりえは投げやりな感じで、「新婚さん、新生活はいかが?」
「新生活ってほどのことでも」もりのはなんでもなさそうに、「なにも変わらない」
「それはどうやろ」きりえは薄明るい部屋の、あらぬほうを見る。「自分で気づいてないだけちゃう」
「というか、不倫じゃないから」
「不倫やんか」きりえは大きな目でにらみつける。「他の人と婚姻関係のある人とセックスするのは、不倫やの」
もりのが入籍し、結婚相手と同居してから半月経っていた。他の人と婚姻関係がある。そう事実を口にするたびに、きりえは心痛めた。それが事実であり、目をそらすわけにはいかない。
「入籍しただけだよ」もりのは淡々と言った。
「入籍が立派な結婚なの」
「友情結婚は、普通の結婚とは全然違う」もりのは言い切る。強情な一面がのぞく。
「友達の延長で結婚する人なんていくらでもいるやん。熱愛から始まったとしても、結婚したら家族愛とか友愛に変わっていく。友情は立派な愛情やん。友情結婚も立派な結婚やん」
「きりえちゃんがいう一般的な結婚には、性交渉がある」もりのは静かに言う。「私たちには永遠にない。そこが決定的な違いだから」
「セックスなんてほんのとっかかりやん」きりえはあきれる。「あっという間にセックスレスに突入する夫婦なんて、ざらにいるわ」
「それはそうだけど……私とは全然違うよ」
「友情結婚も立派な結婚やから。あんたは不倫してんねん。誰よりも付き合いの長いこの私と」
きりえは自分たちに現実をつきつける。かさぶたをはがすように。傷口は完治することはない。
もりのは黙ってきりえを見つめる。つぶらな瞳が揺れ動く。
「ステージでお客様に夢をお届けしてた私たちは、顔向けのできないことをしてるねん。それはわかっといて」
「はい」もりのはしゅんとした。
すべて言ってしまうと、すっきりとする。しおれるもりのがかわいく見えてくるが、「わかればいいねん」とクールに返した。
きりえは先輩の顔で続ける。「もりのはこの先しばらく、難しい演技を求められるねんよ。周りの人に結婚について、いろいろ聞かれるで」
「たしかに、聞かれるね」もりのは憂鬱そうな顔をする。
「もりのが好きな人と結婚したら、どんな態度とると思う?」
「きりえちゃんなら、デレッデレ」もりのはデレッとした。「慎みたいけど、こんな素敵な人と結婚できたら、喜びがあふれちゃうだろうな」
「デレッデレに語れるの、今の人のこと?」
「いや、無理ですね」
「あんたは下手な演技しないでええわ。そんなにうまくなかったもんな、お芝居」
「厳しい」もりのはうなった。「たまにはいい演技したと思うんだけど……」
「わかってる」きりえは笑う。「でも、役を演じることはできても、自分を偽る演技は難しいで。今までどおり平常心でいるほうが、もりのちゃんらしいわ」
「わかった。そうする」もりのは素直にうなずいた。
「嘘をつくときは、真実をまぜるとええよ」
「たとえば?」
「結婚の理由を聞かれたら、なんて応える?」
「タイミング。これは間違いない」
「相手のどこに惹かれたん?」
「惹かれた? う〜ん……」もりのは長い指であごをつまんで考え込む。
「どこが気に入ったん?」
「気が合うところ」
「それでいこ」きりえはにっこり笑った。「気が合って、人生のパートナーとしていいと思った。これでええんちゃう」
「いい、それ。それなら自然に言える」
きりえはうなずいた。
「きりえちゃん、さすが。というか、こわい。なんで上手な嘘のつき方知ってるの?」
「女優はこわいよ」きりえは不敵な笑みを浮かべた。
「おっかない女優さん、忘れ物はないですか?」もりのはおずおずとリクエストした。
再び愛し合う。きりえは新しい関係に身を投じて以来、自分の痕跡を残すようにしていた。親密な関係の人にしかわからない場所に。
「しっかりつけといた」きりえは満足げに言った。
「ありがとう」もりのはうっとりと微笑んだ。
もりのは翌朝早く帰った。リハビリ系の四年制専門学校に通っている。最終学年になって、病院での厳しい臨床実習を重ねていた。九月の今は、学校の卒業試験と、初春に行われる国家資格取得試験の準備をしていた。夏場に就職活動し、来春からの勤務先はすでに決めている。病院で二年間臨床経験を積み、舞台のパフォーマーを支える仕事に就くのが夢だった。
もりのは自身が怪我で舞台を休演した経験があり、そのときにリハビリの大切さを痛感した。その経験が、今の道へと進ませた。在団中から、学費と独り暮らしの生活費のあらかたを貯金していた。多くのタカラジェンヌがそうであるように、もりのの実家も裕福だった。独立独歩を好むもりのは、親には一切頼らなかった。
「維持費がもったいないし、東京では車は必要ないから」と愛車を潔く手放した。「誰かに大切にしてもらってね」と最後に愛車をやさしく撫でた。きりえを見ると、「これからは乗りたいときに、好きな車をレンタルしよう」と吹っ切った表情で言った。
もりのはレンタカーを選ぶとき、四輪駆動のSUVを徹底して無視した。きりえが理由をたずねると、「SUVは、私にとってあの子が一番だったから。いっそ似てないほうがいい」と寂しそうに微笑んだ。
きりえはこのとき、もりのを役として演じることを想像してみた。頑ななほどの潔さの奥底に執着心がほのみえる。わかっているから、潔さにこだわる。そんなところだろうか。
宝石歌劇団を、きりえは男役トップスターとして、もりのは男役スターとして四年半前に退団した。きりえは芸能活動するため、もりのは出身地が東京ということもあり、大阪府宝石市から上京した。二人で住むことを提案したが、「一人前になるまでは」ともりのに辞退された。きりえは東京で暮らす姉と同居した。
もりのはスポーツマッサージを提供する施設でアルバイトをしながら学校に通い、様々なインストラクターの資格を取得していった。これまでのキャリアを直接的には生かせない、まったく新しい道を歩むもりのは、頼もしく、誇らしかった。
そのもりのは今、自分たちの関係を守る大義のもと、新たな計画を実行していた。その意図は理解できるけれど、きりえの心は揺れ動き、かき乱されるのだった。
二人の間に、約束事はなかった。続くものは続くし、終わるものは終わる。そんなスタンスでいた。
避暑のため、上高地で短い休暇をとっていたときのことだ。もりのは空を見上げながら、こんなことを口にした。
「この世に確かなものなんてないよね」
「ときどき思うねんけど、あんたの無常観すごいな」きりえは苦笑する。「堅実なくせに」
「変化に対応するため、確かな自分がほしいの」
「ときどき、潔さが寂しくなる」きりえはしんみりする。
「きりえちゃんへの愛は変わらない」もりのはきっぱり言った。
きりえは本能的にもりのの言葉を信じた。
「私のことは確かめへんの?」
「数秒間見つめられたら恋に落ちてしまう、こんなにチャーミングな女優さんなんですよ。素敵な人との出会いがたくさんあるし、どこかで覚悟してないと身がもたないです」
「なにそれ、心変わり前提みたいやな」きりえはもりのの頬をつねった。「私も変わらへん」
もりのはふっと微笑む。
「なによ、この人は変わってしまうけど言葉は素直に喜ぼう、みたいな達観した顔して」
そんな風にして、流れにまかせてきた。
それでどうしてここに流れついたんだろう。
きりえは布団にもぐりこんだ。もりのがいた場所に触れる。ぬくもりは消えていた。
2 いっぺん結婚したら
一年前、きりえは事務所の社長に呼び出された。順調なキャリアを高く評価してくれたあと、「男性との噂がないけど、まさか女性が好きということはないですね」と率直に尋ねられた。
「それはないです」きりえは迷わず応えた。好きなのはもりのだけ。他の女に興味はない。
社長はうなずくと、「別に女性を好きでもかまわないんです、クローゼットなら。芸能界は古い業界だから、公になると干されてしまう。それだけ伝えておきたかった」
この件があった直後に、舞台を観劇したもりのが、楽屋のきりえに会いにきた。
若い俳優が、「さっきの人、素敵ですね。長いお付き合いなんですか?」
「うん、一緒に宝石の舞台に立ってたから」
「もちろん男役ですよね、かっこいいなぁ。彼氏っぽい雰囲気ありますよね。あんなにかわいい表情のきりえさん、初めて見ました」
俳優は感想を述べただけだが、図星をさされて、きりえは一瞬うろたえた。異性に、面と向かって指摘されたのは初めてだった。
もりのは両性的な魅力があり、女性と男性を魅了してきた。両性性、男性性、女性性――相対する人の受け取り方でもりのの魅力は変わる。男性はもりのに女性としての魅力を感じるのが普通だった。
もりのは退団後、“彼氏感”がにじみでないよう、また学校で目立ちたくないからと、豊かな黒髪を肩までのセミロングにしていた。おろしていると、ロックでワイルドな風情をかもした。ひとつにまとめると、上品で女らしくなった。観劇のときはたいていまとめていた。ハイブランドのファッションモデルのようなユニセックスなスタイルだが、ちゃんと胸がある。上質な白シャツに黒パンツというシンプルな装いでも、適度な女性らしさと華があった。
在団中、もりのとの関係を噂されているのは知っていた。トップスターお披露目公演の『君主ヴァイオラ』で恋人役を演じたことがきっかけだ。実際に恋人になった。公私混同は慎んだが、化学反応はにじみでてしまうのだろう。宝石歌劇団のファンは、その噂を楽しんでくれているようだったので、放っておいた。
退団から三年半経ってから、事務所から思いがけない呼び出しを受け、きりえは胸騒ぎがした。水面下で噂が広まっているのだろうか。
芸能活動している姉に軽く相談すると、「どっちかがいっぺん結婚したらええやん」とこともなげに言った。
姉はきりえよりも小柄だが、ベリーショートの髪型もあいまって、ボーイッシュにみえる。
「なに言うてんの」きりえはあきれた。「好きな相手がいるのに、他の人と結婚なんてできへんわ」
姉はケロッとした表情で、「けっこういるねんよ、偽装結婚の人」
「なんでそんな複雑なことしなあかんの」
「いっぺんしてみて、別れたらええねん。結婚した実績が残るやん」
「いややわ、そんなん」きりえはむくれる。
「そんなムキにならんと」姉は笑って、「こないだきた子たち、二人ともかわいいやん。とくにダンサーの彼、あんたに合ってるわ。彼、たぶんゲイかバイやで」
舞台で共演した若者二人を招いて、お好み焼きパーティーでもてなしたのだ。
「適当なこと言わんといたって」きりえは顔をしかめた。「ダンサーやからってそっちって決めつけんの、お姉ちゃんのあかんくせや」
「あんたと話めっちゃ合ってたやんか。ああいう子はたいてい、ゲイかバイやねん」姉は決めつけた。それからにっこり笑い、「私はお調子者の腹黒くんの方が好きやわ。いい具合に天狗になってて、めっちゃかわいいやん」
きりえは笑う。「お姉ちゃん好みなんやなぁ。彼女いはるみたいやで」
「そうなんや、残念」姉は肩をすくめると、腕を組む。「偽装、名案やと思うわ」
「そんな回りくどいこと、いややわ」
「まあ、そやろなぁ」姉はしみじみした口調で、「あんたはまっすぐすぎるし、もりのちゃんも真面目すぎるもんなぁ。もりのちゃん、いかにも良家の子って感じで、型破りなことできなさそうやし。穏やかで爽やかな常識人、仏のもりのやもんな。まあ、そんなことせえへんわな。おもんな」
「あんたを楽しませるために、私らの人生があるんとちゃうから」きりえは笑った。それから照れくさそうに、「もりのちゃん、けっこう独特でおもろいねんよ。あの人の魅力は付き合ってみないとわからへん」
「セックスがええんやな」姉はさらっと言った。
きりえは赤くなった。
「やっぱりもりのちゃんはむっつりか」姉は愉快そうに笑った。
もりのを「おもんない」と断定した姉は、後にもりのが友情結婚という名目の偽装結婚を決めたことに好感をもった。
「もりのちゃん、やるやん。なかなか腹が据わってる。見直したわ」
もりのの評価はその後も高まった。ある夜突然帰ったら、情事のあとのけだるげな空気を生々しくまとったもりのが、キッチンで水を飲んでいた。パジャマの胸元がはだけていた。目が合うと、気恥ずかしそうな顔をするでもなく、おやすみのあいさつを平然とした。それが悪い人って感じでかっこよかったのだという。寝室に戻るもりのとぶつかってよろめくと、大きな手で背中を支えてくれた。その感じがすごくよかったのだという。
「もりのちゃん、妙に色気あるなぁ」姉は含み笑いをした。「いっぺんしてみたくなったわ。開眼したりして」
「もう、なに言うてんの」きりえは姉の額をはたいた。
「あんたは私より若くて美人でスタイルええけど、私もわりと美人やと思うねん。もりのちゃんやさしいし、頼んだら、いっぺんくらいしてくれるんちゃう?」
「せえへんわ」きりえはもう一度姉の額をはたいた。
その年のはじめに、愛犬のハルオキが天寿をまっとうしてからは、もりのの部屋で過ごすことが増えた。必要最低限のものしかない簡素さは、現役時代と変わらない。変化は、解剖学や生理学といったアカデミックな書物が小さな本棚にびっしり並んでいることだ。ベッドはきりえのダブルベッドより窮屈だった。それはそれで、きりえは気に入っていた。
きりえは事務所から呼び出されたことと、姉が思いついた対処法を話した。
「姉が妹に偽装結婚をすすめるって、ないよね。変なお姉ちゃんやろ」
「あやちゃんらしいね」もりのは笑った。
「うちのお姉ちゃん、だいぶ不謹慎やもんな。あかんことと、あかん人に目が無いし」
「自分に自信があって強い人なんだよ。自分がしっかりあるから、あかんことに飛び込める」
「まあ、そやな」きりえはうなずく。「なんのかんの、キリのいいとこで引き揚げるし。あの人、動物的やわ」
「動物的なところ、似てる」
「ちょっと、どういうこと」きりえは甘くにらんだ。
「自分に忠実なところ」
「もりのちゃんはもっと自分を出したほうがええよ。だいぶ出せるようになったけど」
「きりえちゃんの前では、出せてるよ」もりのはきりえの頬をやさしく撫でた。
「うん」
「ところで、お好み焼きの話、聞いてなかったんだけど」
「言う必要ないやん」きりえはキョトンとする。「宝石の頃もみんな呼んでやってたやん」
「なんで四人なの。合コンみたい」
もりのはちょっとムッとしていた。
「少人数のほうがじっくり話せるやん」
「きりえちゃんのこと、好きなのかもしれないよ」
「ないないない」きりえは笑い飛ばす。「姐さんって呼ぶねんよ。そんなん言われたら、こっちが無理」
「姐さんって呼ばれなかったら、どうなの?」
「もりのちゃん、妬いてる? 実はやきもちやきやんな」
もりのは渋い顔をしたが、「認めます」と素直にうなずいた。
「キスシーンも妬くし」
「きりえちゃんだって、マッサージに妬くじゃない」
他愛ない話をしながらいちゃつき、この話はこれで終わった。しかし、これをきっかけに、もりのの中である覚悟が醸成されることとなった。
年が明けると、もりのは髪を切った。サイドが長いショートボブは、艶やかで豊かな黒髪によく似合った。頭の形がよく、横顔から後頭部にかけて奥行があり、ショートヘアはお手のものだった。初詣のときに新しい髪型で現れた。
「やっぱり似合う」きりえはあらためてときめきを感じた。「めっちゃかっこいい」
「気に入ってくれた?」もりのは照れくさそうな顔をする。
「うん、めっちゃ気に入った」
「やった」もりのは上機嫌だった。
「心境の変化?」
「ううん、長い髪はもういいかなって。今年は春から病院での臨床実習が始まるの。すっごく忙しいんだって。髪は短いほうが楽だし、切ってみると、自分でもやっぱりいいなって」
「もりのちゃん、ショート似合うもんね」きりえは背伸びしてもりのの頭を撫でる。しっかりとした手ごたえがした。
ゆるやかに時が流れた。もりのは春を迎え、アルバイトを辞めて、臨床実習に備えた。
新学期の直前に、きりえの部屋をたずねた。水色のコットンシルクシャツに、ライトグレーのパンツ姿だった。右耳の上品な真珠のピアスが、かっこよさのなかにフェミニンな色合いをそえていた。
無垢のリビングテーブルにハーブティーをいれたティーカップを置く。ハルオキによく似た姉の愛犬のヨシモトが夕日のさす窓辺で寛いでいる。このフレンチブルドッグの女の子のおかげで、きりえはハルオキを喪った悲しみを、いくらか癒してもらえた。
もりのは黒革のバッグから、一目でアクセサリーだとわかるプレゼントを渡した。きりえが喜んで開けると、上品なダイヤのピアスが入っていた。
「よかったら、つけて」もりのはそっと見つめる。「きりえちゃんのステージは全部みたいけど、しばらくは難しそうだから。ときどきつけて、私がそばにいるって感じてくれたら嬉しい」
きりえは寂しさを感じながら、「うん、わかった」とうなずいた。
もりのは自分のピアスに触れ、照れくさそうに笑う。「これ、一緒に買ったの。仕事柄アクセサリーつけられないから。これして勝手にきりえちゃんを感じるの」
きりえは切なくなる。
「会えることは会えるん?」
「それがやってみないと、どんな暮らしになるかわからなくて」もりのは悩ましい顔をする。「実習とレポートでほとんど寝る暇がないらしいの」
「そうなんや……」
「寝るだけって失礼だし」
「寝るだけでもええよ」きりえはやさしく微笑んだ。「爆睡しにおいで」
「ありがとう」もりのは微笑んだ。それから何か言いたそうな顔できりえを見た。
「どしたん」きりえはやさしい笑顔で、「なんか話あるんやろ?」
もりのはうなずくと、ハーブティーをひと口飲んだ。
「あやちゃんの話、一理あると思って」
「なんの話?」
「どっちかが一度結婚してみたらってやつ」もりのはかすれた声で言った。
きりえは驚きとショックを受ける。
「今頃なに言うてんの?」
「あれからずっと考えてたの。そうしたほうがいいんじゃないかって」
「もりのちゃんは私以外の誰かと結婚できるん?」
もりのは肯定も否定もせず、「あなたを守りたいだけ」
「身を引くってこと?」きりえの声には寂しさといらだちがこもっていた。
「そんなこと言ってない」
「私がいながら、そんな発想できるって、本気やないやん」
「本気だよ。わかるでしょ」
「わからへんわ」きりえは語気を強めた。
「あなたが私と同じ一般人なら、こんなこと考えない」もりのは静かに言う。「友達にも、家族にも紹介したいし、外で手をつないで歩いたりしたいよ……」
「そんなかわいいこと思ってくれてたん……」きりえは愛しくなり、「いいやん、そうしよ。私が芸能人とか、もうええやん」
もりのはつぶらな瞳で一心に見つめた。きりえの目の奥に答えを探し求めるように。それから決意をこめたまなざしで、
「きりえちゃん、私と結婚してくれる?」
「うん、しよ」きりえは本能的に即答した。この言葉にうそはなかった。
もりのは感動した面持ちで、「いいの?」
「いいに決まってるやん」きりえは照れくさそうに、「早く言ってほしいくらいやったわ」
もりのは短い顔をさらに短くして、突然泣いた。
「ごめん、嬉しくて……」もりのは恥ずかしそうに涙を拭う。
「もう、なんで泣くんよ。変な人やなぁ」
やさしく突っ込みながら、きりえも泣いていた。
「私ら、なんで泣いてるんやろ」
きりえは自分たちの様子がおかしくて、笑った。
「ほんまにね」もりのも笑った。ときどき大阪弁がうつる。「いいと思ってくれてたなら、きりえちゃんから言ってくれてもよかったのに」
「それはやっぱりもりのちゃんからやろ」きりえはもじもじし、「背高いし、かっこええもん」
もりのはかわいくてたまらないといった表情できりえをしばらく見つめた。それから、力いっぱい抱きしめてきた。
「大好き……かわいい人……ありがとう」
きりえも抱き返す。「こっちこそ、ありがとう」
「もう大丈夫。なにがあっても大丈夫」
もりのは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
身体を離すと、やさしいまなざしできりえを見つめる。
「私の宝物さん、感情的になってませんか」
「なってませんよ」
「あなたの仕事はなあに?」もりのはやさしくたずねた。
「女優です」
「だから、やっぱりダメ」もりのはきっぱりと言った。
「なんで?」
「役者さんでカミングアウトして成功してる人、日本にほとんどいないから」
「じゃ、前例つくるわ」きりえは力強く言った。
「きりえちゃんが大変な思いをして、先陣を切ることない」
「そんな大それたことちゃうと思うけど。私のファンも喜んでくれると思うで。もりのちゃん、素敵やもん」
もりのは冷静な態度で、「祝福してくれるのはごく一部じゃないかな。感性が合う人とか、無心に応援し、愛してくださってる人とか……。たいていの人は、がっかりするんじゃないかな。きりえちゃんの相手が一般人、それも女で、学生だなんて。もっと立派な相手がいいってね。キャリアへの影響も心配だろうし」
「もりのちゃんは私が見込んだ究極の男役やん」
「それは過去の話。今の私は普通の人なの」もりのは引き締まった表情で、「役者がカミングアウトするのは、リスクが高いよ。リスクが高くなければ、カミングアウトする人はもっとたくさんいるはず。盤石の地位を築いてる人でも、踏み切れないと思うの。なぜかわかる?」
「わからへん」きりえは肩をすくめた。
「人は、自分に似た人に共感するんだよ。きりえちゃんはノンケで、性を超えて相手を好きになったと説明したところで、伝わらない。自分にない感覚だから、ピンとこないの。そして、フィルターのようなものがかかる。この女優は同性愛者だと。きりえちゃんが異性に恋する役を演じたときに、共感を得にくくなる」
もりのは厳しい表情で続ける。
「共感してもらいにくくなるのは、役者として致命的。だから、絶対にカミングアウトさせない」
きりえは言い返したいことが山ほどあるように思うが、「なるほどなぁ。考えすぎちゃうって言いたいとこやけど、どうなんやろな」と返した。
これほど真剣に自分のことを考えてくれていることが嬉しかった。決然としたもりのの態度が素敵で、「この人、ほんまに素敵やなぁ」と心のなかでつぶやいた。
3 味のない金属の輪
きりえは誕生日を、数百人のファンに祝福された。スケジュールが空いていたので、ファンミーティングを開いたのだ。温かい笑顔に見守られて、仕事とファンのありがたさをかみしめていた。人生で甲斐があるのは色恋ではなく、仕事だと思う。
ただひとつ、まりの結婚についてコメントを求められたのには、辟易した。トップスター時代の相手役で、現在は舞台で活躍している。最近、俳優仲間と結婚したのだ。
「報告はけっこう前にありましたよ。結婚するんや、へえって感じでした」
きりえの気のないコメントに会場はざわついた。相手役が男にとられたこと、あるいは相手役に先に結婚されたことへの嫉妬と受け取られたようだ。
みなさん、そういうわけではないんです。きりえは心のなかで否定する。まりちゃんが結婚したのはええことですよね。末永くお幸せにと本人に言いました。言うても、嫉妬心はありますよ。まりちゃんは公にバーンッと報告し、祝福されてますやん。私ともりのちゃんはひた隠しに隠して、まるで日陰の恋。いや、あいつも結婚したんやった。
もりのの結婚が世間に知れ渡ってないことにほっとする。もりののことまで質問されたら、平静を装う自信はなかった。というより、今日はもりののことは誰にもなにも聞かれたくなかった。
先日、『ロミオ&ジュリエット』宝石歌劇団ロングラン記念パーティーが行われ、主要キャストを演じたOGの立場でもりのと出席した。ロミオ役のきりえはもちろん、ティボルト役のもりのも壇上に上がって、あいさつした。もりのが公に姿を現したのは、退団後初めてだった。それもきりえとそろって。このことに触れるファンがいるかもしれない。そんなささいなことに触れられるのもいやだった。なぜなら、誕生日なのにもりのに会えないからだ。
ファンミーティングのあとに会う予定だった。それがどうやら結婚がらみの抜けられない用事でキャンセルになった。前もって祝ってくれたが、誕生日に隣にいてくれない恋人は、いらないと思った。
家に帰ると、姉もいなかった。ヨシモトが尻尾を振りながら足元にやってくる。姉はお世話をしてから出かけたようで、ヨシモトはごはんや散歩をねだるでもなく落ち着いていた。笑ったような愛嬌のある顔と、ぬくもりに慰められる。
きりえが部屋着に着替えようとハニーベージュ色のトレンチコートを脱ごうとしたとき、ドアホンがなった。もしかしたらもりのかと一瞬心が弾んだが、姉だった。
「なんや、お姉ちゃんか」きりえはちょっとがっかりした。
「なんやってなによ」姉は唇を尖らせたあと、ニヤッと笑い、「この人待ってたん?」と後ろを指差した。
姉のうしろからひょっこりもりのが顔を出した。照れくさそうに笑っている。
「わ、もりのちゃん」きりえは驚きと歓びの声をあげる。「うまいこと隠れて」
「なんとかちっちゃくなってみた」もりのは得意気に言うと、「突然ごめんね」
「忘れ物して家に戻ったら、エントランスにおってんな」
「うん」
姉は部屋に入るとすぐに出てきた。
「ほな、ごゆっくり」
きりえは姉が気を利かせたことがわかった。
もりのも気づいたようで、「気を遣わせちゃったね」
「突然きて。誰かと鉢合わせしたらどうするん」
「え」もりのは焦った顔をする。「そういう人いるの?」
きりえは応えず、「まあ、入って」と促した。
もりのはネイビーブルーのドレスシャツに黒のワイドパンツという装いだった。右耳に真珠のピアスをしていた。部屋に上がると、きりえをうっとりと見つめた。
「その格好、すごく似合ってる」
きりえは身体のラインの美しさを際立たせる上質な黒のワンピースを着ていた。
「うん、ありがと」きりえは微笑む。「もりのちゃんも素敵やで」
手に持っていたトレンチコートをクローゼットのハンガーにかける。もりのが後ろからそっと抱きしめてきた。セミロングのやわらかい髪をやさしく撫でながら、首筋の匂いを深く味わう。
「いい匂い……」もりのは吐息まじりにささやく。恋しさが募っているようだった。
きりえは振り向いて、身体を正面から合わせる。甘い微笑みをたたえ、長身のもりのを見上げる。もりのは大きな手で背中をやさしく撫でていた。
会ってしまうと、わだかまりが消えてしまう。こわばっていた心も身体もほどける。どちらともなく唇を重ね、深く何度もキスをする。
寝室で裸になって愛し合う。自分の上で愛撫するきりえの背中を、もりのは大きく温かな手でやさしく撫でた。そのとき、ちくりと胸をさすような違和感が走る。金属のひやりとした感触に、冷や水をかけられる。手の動きを封じて、手に手をとって見せた。もりのの左手の薬指にはシンプルな指輪がはめられていた。
「もりのちゃん、これって……」きりえは傷ついた目でもりのを見下ろす。「夫婦の誓いを、私たちの寝室に持ち込むなんて最悪や」
もりのは痛恨の極みといった表情で指輪をとると、キョロキョロまわりを見回した。どうするのかと思ったら、指輪を口の中に放り込んだ。
きりえはあっけにとられ、「あんた、なにやってんの!?」
もりのは指輪を口の中に入れたまま、目をかわいらしく丸くして、首を振ったり、肩をすくめたりしている。
きりえは思いもよらぬもりのの行動がおかしくなり、また愛しくて、笑ってしまう。もりのの上にまたがると、ふとんを引っ張り上げる。
もりのを甘いまなざしでじっと見て、「それ、どうすんの?」
もりのはう~んと困っている。
「ここに出して」きりえは手のひらを差し出した。
もりのは力強く首を振った。
「ずっと、ほおばってるつもり?」きりえは唇にそっと触れる。「キスできへんやん」
きりえは目をそっと閉じて、もりのにキスをする。唇をこじあけ、舌を絡める。なめらかな感触の味のない金属の輪を舌の上で転がしてみる。口移しするように転がしあった。結婚とはこのようなものかと思う。思っていた以上に重みがなく、頼りないのだった。
きりえは指輪を手にとると、ベッドサイドに置いた。
「いつもしてるん?」
「まさか。今日は仕方なく」
「ふうん」きりえは気のない返事をしたが、もりのの言葉を信じた。扱いなれてないことは明白だった。
「ごめん」もりのはそっと抱き寄せる。
「もりのちゃん、おもろかったから許す」
きりえがキスをすると、もりのはきりえの上になって愛撫をする。
「誰かの身代わりはいややから」きりえはささやいた。
「身代わり? 誰の? あなたの代わりなんているわけない」
もりのはきりえの身体にむしゃぶりつくように、濃密に愛撫する。やさしいのもいいが、激しいのもいい。きりえは妖艶に反応する。愛しくて狂おしかった。もりのの髪をめちゃくちゃにかき乱した。
きりえが先にシャワーを浴びた。ベッドのなかで幸せをかみしめていると、もりのがシャワーから出てきた。パジャマ姿でのんきに水を飲んでいるのが見えた。もりのは自分以外の相手と暮らしている。こんな姿を他の誰かも見ているのだと思うと、やるせなかった。
4 悲しみと寂しさと疑念
女らしくますますきれいになったけど、なにかあった?
近頃、よく言われる。いい恋をしているのか探っているのだ。
「なんもありませんよ」きりえは笑って否定する。「やっと、女優が板についてきたのかもしれませんね」
本心だった。もりのとは長年恋愛関係にあり、今頃恋が始まったわけではない。
とはいえ、心当たりはあった。このような言葉をかけられるようになったのは春からで、臨床実習で多忙を極めるもりのと、思うように会えなくなってからだ。
きりえが女優として初めて主演を務めた公演の、三年ぶりの再演の幕が開いた。女らしく美しくなったという言葉に加えて、女心を繊細に表現している、との評価が高まっていた。
女優としてのキャリアを重ね、さまざまな役を生きることで成長したのだろう。けれど、ある感情の恩恵も想像できた。奥行のある美しさと表現をもたらしたものは、悲しみと寂しさと疑念だった。
きりえは完全には満たされていないし、完全には幸せでもなかった。大切なものを見失いそうで、揺らいでいた。
もしも自分が美しくなっているのなら、それは、心に陰りがあるからだろうか。陰影が顔立ちを魅力的に見せるように。
もりのへの信頼は心の奥底では揺るぎないが、表層では頼りなく揺れていた。
こうなってしまったのは、最悪な形で、もりのの計画が実行されたことを知ったからだ。他人からの又聞きだった。
臨床実習が始まると、もりのは多忙を極めた。初めての休暇に、きりえの一人芝居を観に行く予定を立てていたが、もりのは風邪を引いた。
「迷惑じゃなければ観に行きたいし、会いたい」ともりのは電話をかけてきた。
きりえは舞台を観に来てほしかったし、会いたかった。けれどお互いのことを思い、諭すように言った。
「栄養とってしっかり休み。実習始まったとこやろ。私も風邪がうつるわけにいかへんから」
「わかった。あきらめる」もりのは寂しそうな声で応えた。
一人芝居の次は、東京と大阪のライブレストランで、ジャズのライブを行った。ジャズ好きのもりのは行きたがったが、寝る暇もないほど実習が忙しく、断念した。きりえはパフォーマンスのとき以外は、もりのにもらったダイヤのピアスをつけて、そばにいるのを感じようとした。
ライブが終わってから、再演公演の稽古が始まるまで、もりのの部屋をときどき訪れ、ごはんを作ってあげた。もりのは夜遅く帰宅し、レポートに追われた。
きりえは読書の手をとめ、「なあ、そんなに根つめて、また風邪引かんようにしいや」
「うん、もう大丈夫だよ。慣れればなんてことない。タカライシ時代のハードさを思えば」
「それ、わかるわ」
「もう一息がんばるね」もりのはノートパソコンに向かい、レポートに集中しようとする。
「私、もしかして邪魔してる?」
「なに言ってるの。来てくれて嬉しい。ごはんもありがとう」もりのは心のこもった声で言うと、「ほんとうに、こんなんでごめん」と不甲斐なさそうな顔をした。
「一緒にいて、一緒の空気を吸えたら、それでええねん」きりえは微笑んだ。
もりのはキーボードを打つ手をとめる。そばにくると、「なんてかわいいことを……」と抱きしめ、「今夜はもう寝よ」とささやいた。そして、きりえを深く強く求めた。
翌朝、きりえがうっとりと目覚めると、もりのは一心不乱にレポートを書いていた。
きりえは顔を洗い、歯を磨いてから、淹れたてのコーヒーをそっと置いた。仕事に打ち込む恋人が素敵で、甘い微笑みを浮かべた。ゆるい寝癖のついたセミロングの髪をそっとかきあげた。
「ありがとう」もりのは見惚れたあと、「あなたがいると勉強が手に付かない」と切なそうに言った。
「困ったもんやね」きりえは微笑んだ。
「誘惑しないで」もりのは吐息をもらすと、「ほとんど仕上がったから大丈夫」とつぶやき、きりえにキスをした。
「朝から元気やなぁ」きりえは苦笑してみせるが、嬉しかった。
「きりえちゃんがそばにいると、性欲が高まっちゃうみたい。どうしてくれるの……」
もりのは本当に困ったらしく、仕事が落ち着くまで「きりえ断ち」宣言をした。
それから一ヵ月後、二人はきりえの部屋で過ごした。
「ちょっと落ち着いてきたから、腕試しに身体のケアのセミナーを開こうと思う」
もりのは生き生きとした表情をしていた。
「もりのちゃん、打って出るんやね」
「うん、試してみる」
「応援してる」
「ありがとう。きりえちゃんの存在がいつも力になってるよ」
もりのは感謝にあふれたまなざしで応えた。
信頼と愛情は揺るぎなかった。だから、初夏を迎える前に、もりのと自分の関係を探るようなことを相次いで聞かれ、きりえは戸惑った。
第一号は、たまだった。きりえトップスター時代に、若手公演の主演を何度も務めた男役で、きりえを慕っていた。まさの後任としてダイヤ組男役トップスターに異例のスピード出世で内定を決めたところだ。
きりえが激励のメールを送ったら、飛びつくように反応し、感謝や意気込みを述べつくしたあと、こんな言葉をよこした。
「もりのさんはお元気ですか? 最近会いましたか?」
「仕事忙しそうやけど、元気やで」
「変わったことはありませんか?」
「別に」きりえはあっさり返した。
「もしもなにかあったら、いつでもお力になりたいです」
「いったいなんの話よ? だいたい十年早いねん。あんたこれからトップスターやろ。自分の心配しとき」
きりえはそう返すと、首をかしげた。
俳優仲間と結婚することを春に報告してきたまりに、初夏に再び呼び出された。退団してからの交流は少なかった。結婚報告レベルの、よほど大切な話なのだろうと見当をつけた。
まりもまた、やんわりともりののことを聞いてきた。きりえがもりのと付き合っていることを知る一人だった。きりえトップ時代を知るダイヤ組のメンバーは公然の秘密として知っていた。
まりは最後まで言うのをためらっていた。
「なんか話あるんやろ。珍しく深刻な顔して」きりえは笑顔で促した。
まりは決意を固めた表情で、
「もりのさんとまだお付き合いされてるんですか?」
きりえは迫力に押され、「うん」と正直に応えた。
まりは悔しそうに唇をかみ、「もりのさん、二股かけてます」
「どういうこと?」きりえは大きな目をさらに大きく見開く。
「もりのさんは春から付き合ってる彼氏がいて、結婚の約束もしてるんです」
突拍子のなさにきりえは思わず笑いそうになるが、笑えない空気だった。
「ちょっと待って、なんでまりちゃんがそんなん知ってるの?」
「もりのさんの妹から聞きました。友達なんです。高校が同じで」
「ほんまに? いろいろびっくりすぎるんやけど」
「妹はそう言ってました。妹にうそをついてなければ、そういうことです。うそだといいのに」
「本人に確認しないと」きりえは動揺するが、それしかしようがない。
「もりのさん、きりえさんのことは妹になにも話してないんですよ」まりは悔しそうに言った。
「それは、言えへんよ。もりのちゃんは噂が立たないよう、すごく気をつけてるから」
「たしかに不用意に言えませんね」まりは納得する。「でも、二股かけてることが真実なら、私はもりのさんを許しません!」
男前な娘役として名を馳せただけのことはある。なかなかかっこよくて、きりえは感心した。
「ほんまにありがとう。こんなに心配してくれて」
「タカライシ時代の大切な相手役じゃないですか」まりはキリッとした表情で返した。
他にも、きりえを気遣うような珍しい人からの連絡があった。
自分が見たこと、感じたことしか信じないきりえだったが、動揺してきた。長年付き合い、心を通わせ、身体を交わしてきたのは自分だった。もりのの態度からは、二股の気配は一切なかった。
姉に話すと、
「人は見たいものしか見ないし、知りたいことしか知ろうとしないから」ともっともらしい顔で返した。「本人に聞くのが一番早いよ」
「仕事で忙しい時期に、そんなしょうもないこと聞きたくない」
「あんたの自由やわ。放っておくなら、それもいいと思う。あんた的にはもりのは変わってないんやろ」
きりえはうなずく。
「もりのを信じてあげたらええと思う。でも、ほんまに二股かけてたら、あいつ、ただじゃおかん!」とおっかない顔で言った。
季節は夏も盛りだった。もりのは時間が作れたからと、再演ミュージカルを観劇した。きりえは終演後にきれいに化粧をし、もりのと食事をした。白シャツをさらっと着ているだけなのに、爽やかでかっこよくて魅力的だった。こんなに爽やかで素敵な人が二股? しかも男と? あるわけない。もりのを一目見て、安心した。
もりのは久しぶりに観劇できたことがよほど嬉しかったらしく、はしゃいでいた。演技や演出についての洞察力のある感想のあとは、きりえが演じるヒロインの魅力をとうとうと述べ、「美しいし、キュートだし、チャーミングだし、大人の女性の魅力もあるし、私を殺す気ですか」と何度も悶えていた。
シティホテルに部屋をとっていた。もりのは扉が閉まるなり、きりえを抱きしめる。
「会いたかった」
「私も」
何度もキスをする。このままベッドになだれ込みたいが、汗が気になった。
「先にシャワー浴びよ」ときりえはささやいた。
「うん」もりのはうつむき、そっと目を閉じると、きりえと額を合わせた。
きりえはシャワーを浴びながら、もりのの感じを思い返す。きりえのことがほしくてほしくてたまらないのが伝わってきた。二股をかけ、男と結婚を考えているとは、どうしても考えられなかった。
「髪を切って一番いいことは、早く乾かせること」
もりのは甘い微笑みを浮かべ、ベッドのなかに入ってきた。きりえを包み込むようにして抱くと、愛おしそうに髪を撫でた。バスローブの胸元が少しはだける。白く艶やかな肌がのぞく。
「めっちゃシャワー早かった」
きりえは微笑むと、恋人のすべすべのうなじの感触を味わう。
もりのはふっくらとした唇で、きりえの耳たぶに触れる。
「こないだ、まりちゃんに会ってん」
「まりちゃん、元気?」
「めっちゃ元気よ」
「よかった。退団してから全然会ってないから」もりのは微笑む。
「まりちゃんに聞いてんけど、もりのちゃん、結婚の約束してる彼氏いるん?」
きりえはさらっと聞いた。
もりのは愕然とし、固まっている。きりえは真実だと知った。
血の気が引いたあと、激情がわきおこり、渾身の力でもりのを突き飛ばした。もりのはベッドから転げ落ちた。
「いっぺん死んでくれる?」
きりえは低い声で言った。心はえぐられ、血が噴きだしていた。
もりのは起き上がり、「相手はゲイです、偽装の彼氏」と必死になって言った。
「なにわけのわからんこと言ってんねん、あんたの顔なんか見たないわ、帰れ!」
きりえは感情的になって怒鳴った。
「帰らないよ、ちゃんと話を聞いて」もりのは必死だった。
「話なんていらんわ」きりえは声を震わせた。不意に涙が出てきた。感情がたかぶって、おさえられなかった。「気づけなかったなんて、とんだまぬけやわ。私の感覚なんて当てにならへん。ぽんこつや……」
もりのはいたわるような表情で、ベッドの端で泣いているきりえを抱きしめる。
「きりえちゃんの感覚は合ってる。二股なんてしてない」
やさしい声とぬくもりが憎らしくて、もう一度突き飛ばそうとするが、もりのは体幹に力を込めてこらえた。
「ちゃんと話を聞いて」
もりのはやわらかな長い指できりえの涙をやさしく拭う。
「偽装結婚に最適な相手と出会ったの。だから、実行する」
「なに勝手に決めてんの。人に相談もなく、こっそりと」
「相談したら、進めないから」
「なんで私より先に、周りが知ってるん? なんで私に先に言わなかったん?」
「言うの忘れてた」もりのはきりえを見つめ、「あなたといると、幸せすぎて忘れてしまう」
「あんたは平気でうそをつけるん? 忘れるって、ありえへんわ」
「あなたに会えたら、それだけで胸がいっぱいになって、それ以外のことはほんとにどうでもよくて」
もりのは思いのこもった表情と声で語りかけてくる。
きりえは警戒しながらも、なんとなくそうかもしれないと思う。涙のあとを拭う。
「相手の人、どんな人なん?」
相手はアサヤという名前の男性で、臨床実習の指導員だった。年はもりのより三つ下だが、高校卒業後に四年制専門学校に入り、卒業後すぐにこの道に進んだため、大ベテランだった。患者思いでありながら適切な距離を保つバランスのとれた仕事ぶり、実習生に対する公平な態度、的確な指導を尊敬した。
何気ない会話を通して、〝女〟が好きな普通の男性とは感性が違うことにすぐに気づいた。物の見方が好もしく、話が合った。たやすく本心を見せない警戒心の強いもりのだったが、自然と心を開いた。ランチをしながらお互いの恋人のことを話すようになった。彼にも恋人がいた。恋人について話す口ぶりと態度から、彼はゲイなのかもしれないと思った。
実習生歓迎会が行われたとき、二人は隣りに座って静かに語り合った。もりのはアルコールに強いためいくら飲んでも酔わないが、気分がよく、開放的な気分になっていた。
「実は私の恋人は女性なの」
もりのはさらっとカミングアウトした。誰かにわざわざカミングアウトした経験がなかったので、カミングアウトの意識もないほどだった。
「タカライシの先輩で、私にはもったいないほど素晴らしい人で、在団中続けばラッキーくらいに思ってたの。それが今も続いてるの。最高に幸せ」
もりのがきりえのことを初めてのろけられた相手だった。
「へえ、そうなんだ。素敵だね」彼はそう返しながら、明らかに動揺していた。
彼が席を立ったとき、もりのは言ってはいけない相手に言ってしまったかと、少し後悔した。
ほどなく彼が戻ってきて、「僕、もうびっくりしちゃった。実は僕もそうなの」と小声で打ち明けてきた。ゲイ仲間以外にカミングアウトしたのは初めてだったとかで、よほど嬉しかったのか、彼氏のことを饒舌に嬉々として話した。声が大きい、ともりのがあわててしまうほど。話し方も微妙にかわいくなっていた。あとでわかるのだが、これが彼本来の話し方だった。
その夜をきっかけに、ちょくちょく食事するようになった。仕事で遅くなるのが同じだったので、ちょうどよかった。そのとき、一度結婚してみるというアイデアを思い出した。
結婚するなら彼がいい、彼しかないと思った。信頼できる好人物であることはわかっていたし、気が合うし、きりえの話をできるし、友情を抱ける。偽装であっても、友情結婚といえる相手がいい。ちょうどいい相手とちょうどいいタイミングで出会った。これはいくしかないと決意した。
「それで、私から持ちかけたの」
「もりのちゃんから」きりえはそうつぶやくと、「アサヤさんだって男の人やろ……もりのちゃんとしたがるんとちゃうの」
もりのは肩をすくめる。
「彼はゲイだよ。彼に失礼なこと言わないで」
「でもなぁ。話がうますぎて、信じられへん」
「一度アサヤに会って。会えば一発でわかるから。それこそ感覚で」
アサヤとの関係を見せつけられたような、いやな気持ちになる。いつの間に、信頼と愛を育んでるねん。
「会いたない」きりえはそっぽを向いた。「そんな結婚もしてほしくない」
もりのはなだめるように、やわらかな髪を撫でる。
「私たちにとって、こんなにちょうどいい相手はいないから」
「あんたにとって、やろ」きりえはぷいっとする。
「まあ、ごはんも上手だし、たしかにいい相手です」
「ごはん上手なん? それがあんたの決め手か」
きりえは自分と得意分野がかぶっていることに傷つく。
「きりえちゃんほど料理上手じゃないよ、もちろん。手際も全然よくないし」
「ごはん作ってもらっといて、その言いぐさはなんや」きりえは叱った。
「すみません」もりのは大きな身体を小さくした。
「いつの間にごはん作ってもらってたんよ」
「すごく忙しい時期に。彼はごはんを作ってくれたら、彼氏に会いに行くの。私は勉強に集中できて、乗り切ることができた」
「私はあんたのなんなん?」きりえは傷つく。「大変な時期になんもしてあげられへんかった」
「そんなこと言わないで。あなたという存在が、私のすべての原動力なの」
きりえは大きくため息をついた。
「もりのちゃん、ちゃっかりしっかり、結婚相手選んだな」
「偽装結婚だからこそ、ちゃんと見極めなきゃ」
きりえは疑わしそうな顔をする。
「ほんとの結婚ちゃうん?」
「まさか」
「もりのちゃん、男の人いけるやん」
「いつの話? もう無理。きりえちゃん以外無理」もりのはきっぱり言う。「セクシャリティがきりえちゃんなの。それに、彼にも失礼。彼はゲイなんだよ。女性を受け付けない」
「なんかあったら気づくから」
きりえは全てを見透かすような美しい目で見つめた。
「気づくことはなにもないよ」
「もりのちゃんのうそがうますぎて、信じられなくなってきた」
「うそがうまいんじゃなくて、うそじゃないの。偽装結婚はただの手段。大したことじゃない」
ベッドのたもとにひざまずいてそう言い切るもりのは、背徳的でセクシーだった。
この人、本当はとんでもない悪党なんじゃないかと思ってみる。
「私はほんまに傷ついたし、寂しかった」きりえは静かな声で言った。
「ごめん」もりのは髪にそっと触れながら、「思い切り突き飛ばされたとき、実は嬉しかったの。きりえちゃんが本気で傷ついてくれて、本気で怒ってくれて」
「最低」きりえはにらんだ。
「私が身も心も愛してるのはきりえちゃんだけ」
もりのは立ち上がると、ベッドのなかに入ってきた。
代わりに、きりえが出る。
「どうして出るの」
「もりのが入ってきたから」
「こっちきて」
「今日は無理」きりえは背中を見せる。
「きて、お願いだから」
もりのは大きな手で細い肩を包み込むようにしてつかむと、ベッドに引きずりこんだ。そのままおおいかぶさり、首筋に甘い吐息とともにキスをする。
「身勝手な人」きりえは甘くにらんだ。
「愛してる」
もりのは情熱的だった。感じたくないのに、開きたくないのに、濡れたくないのに、求めたくないのに、身体はもりのに応える。肌を合わせていると、純粋な感情がわきおこり、愛しくなる。深く求め、受け入れる。
一人になると、きりえに揺り戻しがやってくる。もりのを本能的に信じてしまっているし、本能が間違ったことはなかった。見抜く力があると信じてもいる。けれど、もりのは病的なうそつきで、本当は二股をかけていて、本気で相手に惚れているのかもしれない。そんな想像も浮かんでくる。もりのは、女も男も手放せないだけかもしれない。
だからどうなるというものでもない。もりのが好きで、離れられない。好きなものは好きなのだ。もりのがうそをついていたとして、うそをついている間は、自分は見たいように見るし、感じたいように感じてしまうだろう。
信頼と疑念が交互にやってくる。きりえはだんだん、もりののことが憎らしくなってきた。
その後行われた、『ロミオ&ジュリエット』宝石歌劇団ロングラン記念パーティーで、檀上であいさつするきりえを、隣のもりのが温かなまなざしで幸せそうに見つめていた。
「人前でじっと見るのやめてくれへん。厚かましいやつ」きりえは邪険にした。
「かわいいから、見ちゃうの。仕方ないでしょ」もりのはデレッとした。
セックスをしていて、もりのが抱かれたがっていることに気づいても、抱かないこともあった。背中をみせて眠ったりした。もりのは背中に抱きついて甘えてくるが、触ってあげなかった。切なそうな悩ましそうなため息も無視した。
疑念に支配されるとき、もりのの美しい手とふっくらとやわらかな唇が誰かの身体をやさしくはいまわり、あたたかく湿ったところが誰かを受け入れることを想像したりした。気が狂いそうだった。
「なんかあったら絶対に気づくから。気づいたら、終わりやから」
きりえは何度かそう宣言した。
自分と過ごす時間を削り、友情という信頼と愛情を育み、結婚相手として見極めていたことが、どこかで許せなかった。
もりのと過ごしたあとは、恋人候補者をリストアップする。実際にデートもしてみた。たいてい一回で終わった。人として、俳優として、彼らはそれぞれ魅力がある。けれど、ぐっとこないとしかいいようがなかった。キスしたいとか、触れたいとか、そういう気持ちがわかない。もう一度会いたいと思えない。
もりのは本命が現れるまでのつなぎ。きりえはそう思ってみる。抱かれたいから会うだけ。うまくて手際よく気持ちよくしてくれるただのセックスパートナー。するときの顔も、感じてるときの顔も好き。ただ、それだけ。
5 深まる秘密
もりのの入籍から半年経っていた。年が変わってから、会うのは初めてだった。長い付き合いの中で、これほど期間が空いたことはなかった。
きりえは舞台稽古と公演に、もりのは国家試験の勉強に打ち込んだ。二月の終わりに千秋楽を迎え、もりのは国家試験を終えた。その間もりのは観劇できなかったが、束の間でいいから会いたいと何度か電話をかけてきた。きりえは理由をつけて断った。
会っていると満たされ、離れていると寂しさに襲われる。それくらいなら、会っているときの幸せを優先する。会いたいのに会いたくないのは、関係の変化を思い知らせされたからだ。
クリスマスから大晦日まではこれまでとそう変わらなかった。お正月に現実を突きつけられた。一緒に過ごせなかったのだ。これまでも、きりえの仕事の都合で過ごせなかったことはある。結婚の都合とは意味合いが違う。
結婚相手の実家で、もりのがお雑煮の郷土色の違いに感心している様子が目に浮かぶ。きりえの実家でそうしたように。もりのは大阪の実家で、たびたびお正月をともに過ごした。家族公認の仲だったのだ。白みそのお雑煮をおいしそうに食べる笑顔が思い出された。
「今年はもりのちゃんがいなくて寂しいなぁ」父親がぽつりともらした。
「相手の家でうまいことやってるんやろ」姉は肩をすくめた。
きりえは黙々とお雑煮を食べていた。
偽装結婚のことは、両親に話している。両親が生物学の著名な学者であるせいか、この家には進取の気風と多様性を好む傾向があった。在団中からきりえを心身ともに支えてくれていることに感謝していたし、純粋に気に入っていた。二人の交際を心から喜んでくれていた。きりえはもりのの結婚が他人から伝わる前に、自分で説明した。又聞きほどつらいものはない。
「びっくりせんといてな、もりのちゃん結婚してん。でも、私たちの関係を守るための便宜的なもんやねん。偽装結婚ってやつやね」
両親は二人が決めたことならなにも言うことはない。これまでどおり見守ると言ってくれた。
そんな両親も娘の寂しそうな表情に、さすがに心を痛めたようだ。
きりえはわれに返り、「そんな辛気臭い顔せんといてよ。結婚ってそんなもんやん。全然気にしてへんから」と明るく笑った。
お正月をきっかけに、夫婦や家族なら当たり前のことを、自分たちが共有できないことを思い知った。お正月、法事、集中治療室、お葬式、お墓――。お墓に一緒に入れないことを残念がるのは先取りしすぎだとしても、こういった折々に一緒にいられない関係がむなしかった。それならいっそ、関係を終わりにしたくなるのだった。
二ヵ月ぶりに会うもりのは、髪型も雰囲気もなにひとつ変わっていなかった。夕暮れの街角に立っているだけで絵になった。長身にサンドベージュのトレンチコートがよく似合う。きりえを見つけると、白い歯をみせて爽やかに笑った。会えた喜びなのか、試験を終えた解放感なのか、ひときわ輝いていた。
変わらないもりのの姿に、きりえの胸に郷愁に似た切ない感情がふいに押し寄せた。
「やっと会えた」もりのがしみじみつぶやいた。
「うん」
本人と間近に接すると、きりえは惹かれてしまう。「元気そうやな」とこみあげるものを抑えて言った。
「きりえちゃんも」もりのの声も少し上ずっていた。「ほんとに会えてよかった」
視線がきりえのピアスの上でそっととまる。自分の贈ったものでないことがわかったのか、寂しそうにそらされた。もりの自身は真珠のピアスをしていた。
「試験はうまくいったん?」
「うん、観劇をがまんしたから、絶対に受かってみせる」もりのは力強い笑顔を浮かべた。
「頼もしいやん」
もりのはそっと見つめ、「今夜は一緒に過ごせる?」
「うん」きりえは素直に応えた。
たまトップスターお披露目公演を隣り合って座り、観劇した。新生ダイヤ組公演は、大成功だった。後輩たちの雄姿に、二人は目頭を熱くした。
公演のあと楽屋を訪ねた。尊敬するOGの登場に組子はわいたが、微妙な空気の組子もいた。きりえトップスター時代に、きりえともりのが恋人だったことを知る組子だ。
もりのは、きりえという素晴らしい恋人がいながら二股をかけ、挙句、男との平穏な結婚を選んだつまらない人間として、一部で評判を落としていた。視線は刺さるものがあり、針のむしろだった。
とくに、きりえを慕うたまからの当たりがきつかった。
きりえに対して、ちぎれんばかりに尻尾を振って、飼い主に全身で喜びをしめす無邪気な大型犬のようなのに、もりのに対しては敵意とも殺意ともとれる目を向けるのだ。「きりえさんを傷つけておいて、よくも一緒にのこのこ観劇できたな。ただじゃおかないぞ」と顔に書いてある。きりえはもりのがかわいそうだと思うものの、なんとなく気分がいいのだった。
きりえを慕うもう一人の男役は、興味深そうに二人をみていた。若いのに色気のある小柄でシャープな美形のジュンは、勘の良さそうな目を光らせている。たまのように、額面通りには物事を受け取らないようだった。この二人にはなにか秘密があるのではないかと、見透かそうとするまなざしだった。
もりのを慕う大柄で真面目なまゆは、もりのが最低最悪なことをしても敬愛は変わらない、そんな態度で接していた。
しばらくして、二人の存在に慣れてきた組子のうち、在団中からもりののことが好きだった娘役が、思い切ってという風にハグを求めてきた。結婚に傷ついたので、慰めてくださいと。もりのはやさしく応える。両性的な魅力に惹きつけられた娘役たちが、次々とハグを求める。もりのは紳士然として、一人ひとりをやさしくハグした。満更でもない顔をして。この女好きめ。きりえは心のなかで毒づいた。
便乗して、もりのにマッサージの施術を求める娘役もいた。もりのは気やすく応じる。もりのに背中や腰や足のつけ根のあたりを触れられて、感じてしまっているのがわかった。熱いほどに温かい手は、身体の望みを汲み取っているのだろう。もりのはプロの態度で接している。真剣に身体と向き合う表情に色気がある。
姉の言葉を思い出す。もりのちゃんやさしいし、頼んだら、いっぺんくらいしてくれるんちゃう? そう勘違いさせるような、惑わせるようなムードが確かにある。
誠心誠意、誰にでもやさしく、身体を思いやって身体と会話ができるこのセクシーな人は、自分には特別な姿をみせる。ただやさしいだけでなく、われを忘れ、貪り、乱れる。
もりのとの官能的な思い出にひたっていると、ジュンと目が合った。きりえは赤くなって、目をそらせた。
食事をしたあと、姉のいない部屋で過ごした。
抱き合って体温を感じ、高い鼻をうずめるようにして首筋の匂いをかぐと、もっとほしくなる。髪やうなじや背中を触りながら、やわらかな唇となめらかな舌、甘い吐息を心ゆくまで味わうようにキスをした。うっとりとした微笑みが絶えることはなかった。
もりのは身体のすみずみを、パーツの一つひとつを、かけがえのないものとして、大切に愛おしむ。唇や手がやさしく官能的に触れなかったところはない。お互いを確かめ、味わい、刻みつけるように、ゆっくりと時間をかけてセックスした。
きりえはもりのの裸の肩を枕にしていた。やわらかな肌の感触と甘い匂いにやすらぐ。
「秘密はなくならへんな」きりえがささやいた。
「秘密が深まったね」もりのはふっと微笑む。「私たちのこと、仲間に話せなくなった」
「もりのちゃん、つらくない? あんな目でたまに見られて」
「殺気を感じたけど、なんとか大丈夫」もりのは笑った。「たま、きりえちゃんのことが大好きなんだね」
「慕ってくれてるなぁ」
「きりえちゃん、たまに告白されたらどうする?」
「そんなんちゃうよ、たまの好意は」きりえは笑った。
「わかんないよ、そんなの」
「考えたことなかったわ。ありかもしれへんな」きりえはいたずらっぽく笑う。
「ちょっと」もりのはあわてた顔をする。
きりえは長い指に自分の指を絡ませながら、「結婚のこと、かわいこちゃんに残念がられてたな」
「うん。結婚のこと、たいていの人が残念がってくれるね。同期なんて、もりのが花婿じゃないのは納得いかないとか言ってくるし。泣いてくれた人もいたよ」もりのは満更でもなさそうに、「永遠の王子、理想の結婚相手みたい」
「調子乗んな」きりえはわき腹をつねった。
「もう、痛いって」もりのは笑いながらきりえの身体を抱き寄せると、やわらかな髪に顔をうずめた。
「楽屋でかわいこちゃんにマッサージしてあげてたやん」
「うん」
「あの子、たぶん感じてた」きりえは美しい目でにらみ、「気づいてるやろ?」
「いや、まさか」もりのはごまかし笑いを浮かべる。
「やっぱり確信犯か」
「まさかまさか」もりのは何度も手を振る。
「抱いてって言われたらどうするん? 抱いてあげんの?」
きりえは気になっていたことを聞いてみた。
「え~ひどいなぁ」もりのは唇を尖らせる。「そんな風に見える?」
「もりのちゃんはやさしいし、やらしいから」
「私は好きな人としかしません」もりのは甘いまなざしで、「きりえちゃんとしか」
きりえは疑わしそうな顔で、「アサヤくん、もりのちゃんとしたがらへん?」
「全然。彼はゲイだよ」
「もりのちゃんは?」
「セクシャリティがきりえちゃんって言ったでしょ」
「絶対無理? なにがなんでも?」
「う~ん」もりのは長めの前髪をかきあげる。形のいい広い額がのぞく。「めちゃくちゃがんばれば、できなくもないかなぁ」
「ほらね」きりえはぷいっと背中を向ける。
「ほらね、じゃないの」もりのは苦笑する。きりえの身体に長い腕をまわし、華奢な背中を包み込む。「いろんなことを駆使してやっとってレベルじゃないかな」
きりえは腕のなかから抜け出し、正面を向く。
「駆使する? どんなこと?」
もりのは目を伏せ、「エッチな気分になるアイテムを使うとか。熱く火照ったり、潤う媚薬ですかね」
「具体的すぎる」きりえは恥ずかしくなる。
もりのはやさしく髪を撫で、「きりえちゃんに協力してもらうとか」
「なんてこと言うん」きりえは赤くなった。「絶対せえへんから」
もりのは笑い、「だから、アサヤとはできないってこと」
「でも、あんたら普通に夫婦になれると思う」
「無理です」もりのは肩をすくめる。
「普通に夫婦になれるって。気が合っても、身体の相性はいまいちって夫婦いくらでもいるやん。最初は相性がよくても慣れたら飽きるし。義務でしてる夫婦はいると思うねん」
もりのはきりえの美しい頬を両手ですっぽりと包み込んでじっと目を見る。
「私が結婚してみたのは、私たちの関係のためという前提を忘れないで」
「そんなん望んでなかった」
「一度アサヤに会って」もりのは真剣な表情で言った。
きりえは話をそらす。
「もりのちゃん、使ったことあるん?」
「なにを?」
「媚薬」きりえは言ってから、恥ずかしくなる。
「ないよ」
「どんな風になるんかな」きりえはもじもじする。
「きりえちゃん、使ってみたいの?」もりのは嬉しそうな顔をする。
「もりのちゃんに使ってみたい」
「やめて」もりのは赤くなる。「ただでさえ、きりえちゃんは私にとって媚薬みたいなものなんだから」
きりえはふふっと笑い、「どこで売ってるんかな?」
「通販」
「なんで知ってるん? やっぱり使ったことあるんやろ」きりえはにらむ。
「夫婦生活に悩んでる友達と、一緒に探したことあるの。通販ってなんでもあるね」
「通販けっこう好きやで」きりえはにっこり笑い、「さっそく買う?」
もりのは悶える。「やめて、死んじゃうから」
きりえは澄んだまなざしで、「会ってもええよ、アサヤくんと」
「ほんと?」もりのは目を輝かせる。
「うん」
「じゃ、今度の週末に」
きりえはうなずいた。それからふと気になっていたことを思いだし、
「ところで、アサヤくんとこのお雑煮はなに仕立てやったん?」
「普通におすまし」もりのは淡々と応えた。
「そうなんや」
香川の白あん雑煮のように珍しくてインパクトがなかったことに、気をよくした。
6 私は普通です
待ち合わせ場所へ急ぎ足で進みながら、改札口の外にもりのを探す。人並み外れたスタイルの良さから、すぐに見つけられた。黒のライダースジャケットに黒のインナー、白パンツという格好だった。広い肩のしっかりとした上半身の上にちょこんと小さな顔がある。きりえを見つけると、爽やかに笑った。
サイドが長めの黒髪ショートは、顔の小ささを際立たせる。幅が小さく厚みのあるヒップ、すらっとまっすぐ伸びる長い脚。見慣れているはずなのに、新鮮な感動とともに惚れ惚れする。
きりえは改札口を出るなり、「攻めてるなぁ」と冷やかした。
「攻めてみた」もりのは髪をかきあげ、かっこつけた。真珠のピアスが上品に輝く。
「きりえちゃんも攻めてるね」
「おそろいやな」
きりえは苦笑する。キャメルのライダースジャケットに白のニット、細身のジーンズという格好だった。
もりのは恋するまなざしで見つめる。
「私はハードだけど、きりえちゃんはやわらかくてフェミニンで、すっごく素敵。その髪型もかわいすぎ」
きりえは肩までの髪をアップにし、前髪をゆるいポンパドール風に遊ばせていた。額からフェイスラインにかけて美しさが強調される。耳元にはゴールドの繊細なチェーンピアスが揺れている。
駅の外に出ると、きりえは大きく深呼吸した。冬の寒さのなかに春の訪れを感じる、そんな夜だった。
「今日の中華ね、きりえちゃんと行ってみたかったの」
「うちの家ともけっこう近所よね」
「うん、便利でしょ」
「そやね」
きりえの心は複雑だった。もりのの新居は、きりえの最寄りの隣駅にあった。アサヤが元々住んでいた家に住んでいる。関係がうまくいけばいいが、いかなければ気まずい。
アサヤをまじえての会食は、いわば今後を見極めるためにあった。自分が見たことのないもりのを見せつけられ、少しでもつらいと思ったら、この関係を終わりにするつもりだった。“つもり”ほど、当てにならないものはないが。
「迎えにきてくれなくてよかったのに。一人で行けたで」
「私が迎えにきたかったの」
もりのは車道を歩き、きりえをさりげなくエスコートする。
迎えにきてくれて本当は嬉しかった。店で夫婦そろって歓迎されでもしたら、つらいだろう。
「ありがと」きりえは素直に言った。
「来てくれてありがとう」もりのの声には心がこもっていた。
三階建ての大箱の中華料理店だった。二階の広々とした個室の一つに案内された。
案内係の女性が大仰なドアを開けると、髪の短い、大柄な青年が座っていた。
人好きのするなつっこい顔で、「アサヤです、はじめまして」と席を立ってあいさつした。きりえと目が合うと、「わ!」と驚き、ぴょんとうしろに飛び跳ねた。
変な反応に面食らいながらも、「きりえです、はじめまして」と笑顔であいさつした。
「美人、美人、超美人! きれいすぎて、やばいんだけど!」アサヤは騒いだ。
「すごくきれいな人だから、覚悟しといてって言ったでしょ」
もりのは自慢げな顔で言った。きりえのジャケットを受け取り、コート掛けにかけた。自分のジャケットをかけると、きりえの隣に座った。円卓を三人で贅沢に使った。
きりえはアサヤを眺める。アサヤは学生時代にラグビー選手だったといわれてもうなずける、適度にがっちりとした体格をしていた。やさしい草食動物のような目をしている。とくに顔立ちが整っているわけではないが、味があった。柔和な雰囲気、身ぎれいな格好が、女受けしそうだ。
もりのは落ち着いたムードだが、見た目が異常に若々しい。そのため、年相応のアサヤは、実際は年下なのに年上にみえる。
この日のもりのは、辛口でスタイリッシュな一流ファッションモデル然としていたので、彼は付き人か友達にしかみえない。もりのの服装次第でカップルにみえるだろう。美しい女性が隣にいることで、彼の男ぶりもあがることだろう。
「きりえさん、そんな綺麗な目でじっと見ないでくださいよ。心臓がばくばくしちゃう」
アサヤはまろやかなテノールの声質をしていた。その声でかわいらしく話す。
「その気持ちわかる」もりのは大きくうなずいた。
きりえは美しい目を細めて、困り顔をする。
「かわいい!」アサヤは悶える。「その顔、かわいすぎ!」
もりのはアサヤの率直なリアクションをニヤニヤと楽しんでいる。きりえは戸惑うばかりだった。
アサヤはもりのときりえを交互に見て、うっとりとする。
「僕、美人さんが好きなんです。美人さんを純粋に眺めるのが。二人の並び、すっごくいい! 眼福、眼福」
「お似合いでしょ」もりのは得意気に笑った。
「うん、とってもお似合い。姉貴に見せてやりたい。嬉しくて死んじゃうよ」
「お姉さん? なんで?」きりえはびっくりする。
「姉貴、きりえさんともりのちゃんの大ファンなの。二人には恋人として付き合っててほしかったんだよ」
「うん」もりのはうなずいた。
きりえはびっくりし、「どういうこと?」
おまかせコースに紹興酒を合わせた。一品目の花椒のきいた麻婆豆腐を食べながら、アサヤは話し始めた。
アサヤの実家は、関東の造り酒屋の老舗だった。長男が後を継いだので、真ん中の姉と、三男のアサヤはしたいことを職業に選び、自由に暮らしていた。
女友達はいるものの、女っ気のないアサヤが突然結婚を決めたので、両親は驚いたが、もちろん喜んだ。
もりのを紹介すると、アサヤの母親がおおげさでなく卒倒しかけた。
「もりのちゃんじゃないの! 信じられない! ダイヤ組のもりのちゃんよね!」
母親は大のタカライシファンで、多くのタカラジェンヌの後援者だったことをアサヤはこのとき思い出した。
「ナオミが大ファンなのよ。今から呼ぶわね」
そう言って、近所に住む姉を呼んだ。
「もりのちゃん!」姉はもりのを見るなり、倒れそうになった。「か、かっこいい!」
姉の恋する顔を、アサヤは初めてみた。姉は結婚しているが、旦那にわりとそっけない態度をとっていた。
「会えて嬉しいけど、この状況、信じたくない!」姉は全力で落胆した。テーブルの上に出された、お茶も飲めないようだった。
「どうしてですか?」もりのがやさしくたずねた。
「やさしい! 紳士! かっこいい!」姉はポーッとした目で悶える。「こんなにかっこいい素敵な紳士が、男と結婚するなんて」
「あなたの弟ですよ」もりのは苦笑した。
「弟とか、そんなのどうでもいいんです。もりのちゃんには女の人と結婚してほしかった」姉はしょげる。
「その気持ちはわかるけど、もりのちゃんも女性なんだし」母親がフォローした。
「女の人とは結婚できませんよ」もりのは楽しそうな顔をした。
「でも、女の人が似合うの、もりのちゃんの隣には」姉は強情な顔をした。
「無茶言いなさんな」母親がたしなめる。
「あ~がっかり。立ち直れない」姉はしおれた。
もりのは悪びれる様子もなく、むしろ楽しげに、「夢を壊してすみません。これが現実なんです」と追い打ちをかけた。
「あんた、なかなか冷たいな」きりえが思わず突っ込む。
「だって、なんか、おもしろい人だったから、つい」もりのはテヘッと笑った。
姉はもりのをまっすぐ見ると、「この際だから言わせてもらいますよ。私、もりのちゃんの相手はきりえさんがよかったんです」
もりのはさすがに狼狽し、「どうして?」
「お似合いだから。ずっとそうだったらいいなって妄想してました」
「へえ、そうなんですか」もりのはそういうしかなかった。
「実際のところ、どうなんです?」
「あんた、なにめちゃくちゃ言ってるの」母親がため息をついた。
「お母さんだって、妄想してたくせに」
「それはそれよ」母親は気まり悪そうな顔をした。
「もりのさんにとって、きりえさんはどういう存在なんですか?」
もりのは髪や唇を触りながら、「えっと、大切な先輩です」
「仲良しですか?」
「ええ、まあ。親しくさせてもらってます」
「親密なんだ」姉は嬉しそうな顔をした。
もりのはなにも返さなかった。
「親密ならよかったです。ありがとう。いい夢みられそう」姉はにっこり笑った。
もりのはあいまいな顔で微笑んだ。
姉は思い出したように弟を冷めた目で一瞥し、「もりのちゃん、こんなんのどこがいいの?」
「ひどい、姉貴」
「こんなんの、どこが良くて結婚決めたんですか?」
「う~ん」もりのは少し考え、「気が合うところです」
姉はうなずくと、「気に入らなくなったら、すぐに別れちゃってくださいね。私はもりのちゃんの連絡先さえ教えてもらえればそれでいいから」
もりのは苦笑した。
「あ、子どもとかつくっちゃいやですよ」姉は注文をつけた。
「子ども、ほしいじゃないの」と母親。「もりのちゃんの素晴らしい遺伝子を残さないと」
「遺伝子だって、あさましいな。趣がないんだから」姉は顔をしかめる。「だいたい、相手がアサヤだったら、もりのちゃんの魅力がうすまるだけじゃない」
「もりのちゃん的にはうすまるけど、わが家的にはだいぶ進化させてもらえるわよ」
「アサヤがきりえさんみたいに美男子だったらよかったのに」姉はため息をついた。
そんな意欲はないが、ひどい姉と母だとアサヤは少し落ち込んだ。
姉は言い尽くすと、もりのとの時間を楽しんだ。あらゆる角度からもりのを堪能して、
「もりのちゃんみたいなすごい人がアサヤと結婚するなんて、やっぱり納得いかない」
「私は普通の人です」もりのは穏やかな顔で言った。
「なに言ってるの、その容姿で。エクストラオーディナリーなんだから」
「エクストラオーディナリー?」もりのは首をかしげる。
「類まれな人って意味なんです」母親がフォローする。「この子ったら、もりのちゃんの舞台姿を見ながら、いつもそう言ってたのよ」
もりのは照れたように、「とんでもない、私は普通の人ですよ」
「全然普通じゃないけどね」姉はそう強調すると、「アサヤごときでいいなら、私にもチャンスあるかも」とにっこり笑った。
アサヤは二品目の大海老のチリソース煮を食べながら、「姉貴のやつ、好き放題言ってくれるよね。そのときは、きりえさん、なんぼのもんじゃいと思ってたけど、姉貴の言ってることがよくわかりました」
「なんか、私のせいでごめんな」きりえは頭を下げた。
「きりえさん、いい人!」アサヤは嬉しそうに、「悪いのは姉貴なんだから、謝らないで」
「そうそう」もりのは紹興酒をひと口飲む。
「姉貴、ほんとのこと聞いたら、狂喜乱舞するよ。今日の会食みたら、絶対鼻血だす」
「世間は狭いね」もりのは感慨深そうな顔をする。
「まさかやんな」きりえは笑うと、「その後うまくいってるん?」
「うまくいってるんじゃないかな。大切にしてもらってると思う」
アサヤは言葉少ななもりのに代わって説明する。
「ものすごく大切にされてるよ。もりのちゃんはなにもしなくていいと、至れり尽くせりの歓迎ぶりでね。僕にも、もりのちゃんに勉強とお仕事に専念させてあげなさいって口ずっぱく言うの。料理が得意なんだから栄養のあるおいしいものを作ってあげなさいとか、もりのちゃんのきれいな手に家事をさせるわけにいかないから、あんたが全部やりなさいとか。もりのちゃんが芸能活動したくなったら、あんたが全面的に支えなさいとかね」
「もりのちゃん、めっちゃ大事にしてもらって、めっちゃ恵まれてるやん。感謝しいや」
「はい、感謝してます」
この店の目玉の黒酢酢豚が出てきた。
「めっちゃおいしい」きりえは感激した。「普通のお酢よりコクがあるわ。それにカラッと揚がっててめっちゃおいしい」
もりのはやさしい顔できりえを見つめた。
きりえは気さくな性格だが、初対面では人見知りするタイプだった。人懐っこくおしゃべりが好きなアサヤは、付き合いやすいタイプだった。
アサヤが会話をリードし、多彩な話題で盛り上がった。きりえはアサヤに親しみを感じてきた。
きりえは聞いてみたかったことを思い出す。
「もりのちゃんの仕事ぶり、どんな感じやったん?」
「それはそれは、素晴らしかったよ」
「いやいや、普通だから」もりのは謙遜する。
「普通じゃないよ。僕、こんな実習生みたことない。タカラジェンヌってみんなこうなの? 頭はいいし、体力はあるし、すごい集中力だし」
「知性は人それぞれやけど、体力と集中力はたしかにすごいよね」
「そうだね。だから、タカラジェンヌに不可能はないよね」もりのはうなずいた。
「やっぱりそうなんだ。素晴らしいね」アサヤは何度もうなずき、もりのの仕事ぶりを生き生きとした語り口でほめたてる。
「もりのちゃん、きれいでしょ。もう、普通の人とは全然違うの。お肌は人間離れした美しさで、内側から発光してるでしょ。きりえさんもそうだけど、美にして善を体現してるよね。古代ギリシャ人も納得なんじゃないかな。美しいってだけで、ありがたがられるの。場が清められ、明るくなるの。患者さん、もりのちゃんと接するだけですごく笑顔になって。パワーをもらえるのかな、元気になるのかな」
アサヤは紹興酒でのどを潤してから、話を続ける。
「ちゃんと親しみやすさがあってね。コミュニケーション力も卓越してるんだよ。話を丁寧に聞いてあげるけど、巻き込まれたり、流されたりしないの。やさしいから一歩間違えると依存されそうなタイプなんだけど、その隙を与えない。自分は自分、あなたはあなた。リハビリと身体のケアは裏切りませんよ、とね。手技も天賦の才があるし、天職じゃないかな」
「すごいやん」きりえはもりのの評判を聞いて、自分のことのように嬉しかった。
「大げさだなぁ」もりのは照れている。
「白衣も似合ってたやろ?」
「似合うなんてもんじゃないです。立ち姿がこうスッとしてて。きりえさんもそうだけど、ほんとに姿勢がいいですよね。ほんと、こうスッとしちゃってて。女性スタッフは盗み見ては、うっとりしてたな。真面目な職場だから、女性スタッフも騒ぐのを抑えてるんだけど、『タカライシの男役スターだったんですよね』と話しかけたりしてたな。もりのちゃんは『過去の話です。今は一般人です』と謙虚な態度で。もりのちゃんは品がよくて丁寧だから、まわりも自然と丁寧になってね。もりのちゃんの実習期間中は、職場が清められ、活性化されたわ」
「目に浮かぶわ」きりえはもりのを見て、甘く笑った。
もりのは照れくさそうに、「ありがとう。打ち合わせどおり褒めてくれて」と笑った。
「ちょっかいかけてくる人いた?」きりえはたずねた。
「僕の知るかぎり、いないと思う」
もりのはうなずいた。
「あ、でも、スポーツマッサージのバイトしてた頃は、けっこうあったんだよね?」
「なにそれ、聞いてない」きりえは目に力を込めてもりのを見る。
「いらんことを……」もりのはため息をつく。
「別に話したらいいじゃない」アサヤはキョトンとしている。
「アサヤくん、教えて」
「ちょっかいというより、勃起されたんだって」アサヤは笑う。「それもかなりの率で。自然現象だから仕方ないよね。勃起率ナンバーワンすぎて、女性客しかとらなくなったんだって」
「そうなん?」きりえはびっくりした。
「そう」もりのはおもしろくなさそうな顔をした。
「どういなしたん?」
「そのことについて謝ってくる人には、慣れてます、気にしてません、と返すのが一番効きましたね。すぐに落ち着いてくれたよ」
「もりのちゃん、わかってる」アサヤは嬉しそうに言う。「恥ずかしがられたら、男はバカだから、興奮しちゃうもんね。僕は、そういうバカな男が好き」
「女性だって反応するやろ?」
「ほら、見た目にはわからないから」
「そういう問題とちゃう」きりえはもりのをにらんだ。
「もうバイトしてませんよ」
「心配やわぁ」
「なにこれ」アサヤは頬杖をついて、にこにこしている。「きりえさん、妬いてるの? 長い付き合いでもこんな風に妬けるんだ。素敵だなぁ」
「もりのちゃんだって妬くやん、キスシーンで」
アサヤは「あら、そうなんだ」と嬉しそうな顔をする。
「だって、私が観劇したとき、その、舌を入れてるように見えたから……」
きりえは肩をすくめ、「普通は阻止するねんけど、盛り上がるときってあるやん」
「盛り上がらないでよ」もりのは頭を抱えた。
「ごちそうさま」アサヤはかわいらしく微笑む。「僕も彼氏に会いたくなっちゃった」
「彼氏、どんな人なん?」
「素敵な人」アサヤは両手を組んで目をきらきらさせる。「なにもかも、すっごくタイプなの」
「偽装結婚してる、悪い人だよ」もりのはため息をついた。
「あんたらもやん」きりえは冷静に指摘した。
アサヤはチャーハンを飲みこむと、「僕らとは全然違うよ。彼のことが好きなノンケの女性と結婚してるんだよ。残酷で、罪深いよ」
「そうそう」もりのはうなずき、「そんな悪い人とは手を切ったほうがいい」
アサヤはもりのをキッとした目で見ると、「彼、奥さんとは別居してる。いつか別れるって言ってくれてるもん」
きりえともりのは思わず顔を見合わせた。不倫男によくある言動だと思ったのだ。脈はなさそうだと思った。
「彼、なんで偽装結婚を?」
「金融業の人なの。堅い仕事だから」もりのが応えた。
「それ、いつの話?」アサヤはキョトンとする。「それ、去年の春に付き合ってた人だよ」
「え、今は違うの?」
「遅れてるなぁ、あれから三人変わってるよ。いまの彼は、広告代理店だよ」
「同じように偽装結婚?」
「そうだよ」
「こりないねぇ」もりのはあきれた。
「因果やなぁ」きりえも突っ込んだ。
「今回の彼はね、ほんとに離婚してくれるよ。僕、わかるんだ」
きりえともりのは微妙な顔で、見つめ合った。
紹興酒で身体が火照っていた。冷たいデザートが心地いい。
「アサヤくん、もりのちゃんのこと最初どう思ってはったん?」
「素敵な人だなって」アサヤはにっこり笑う。
「恋人いるって聞いたとき、女の人って想像した?」
「どちらでもいけそうとは思ったけど、正直よくわからなかった。僕、ゲイは見抜けるけど、そうじゃないと見抜けないの」
もりのは苦笑し、「アサヤ、いろんな人をゲイと決めつけて騒いでるから、当てにならないよ」
きりえはこの際だからと、気になっていたことを聞いてみる。
「アサヤくんは、もりのちゃんも私のこともいいって言ってくれたやん? それってどういう感覚なんやろ?」
「美しいと感じることと、動物的にさ、なんというかさ、股間にぐっとくる感覚は違うじゃない」
アサヤはぐっとくるのところで、拳をにぎり、小さく突き上げた。
「五感?」きりえは聞き返した。
「こ、か、ん」アサヤは丁寧に発音すると、「もう~」と恥ずかしがった。
もりのはくすくす笑い、「わかる、それ。ぐっとこないとどうにもこうにも、ね」
きりえもなんとなくわかる。ぐっとこないと、恋愛関係にはならないのだ。
「僕、もりのちゃんの裸みても、ほんとになにも感じないよ」
「裸?」
「もりのちゃん、裸族じゃない」
「そうなん?」きりえはびっくりする。初耳だった。
もりのはきりえを見て、「裸族は言いすぎだけど、お風呂あがりに裸で過ごすのが好きなの。刺激に慣れるといけないから、きりえちゃんの前では、そういうとき以外は裸を見せないようにしてるの」
「そうやったん?」
「うん。アサヤはいても気にならないから、つい」
「空気だよ、僕は」アサヤは苦笑する。「美しいから、許す」
7 美学
近くの自宅で飲み直すことにした。アサヤはもりのにワインの買い出しを頼んだ。
「やっと会えたよ、きりえさん」アサヤはしみじみとした口調で言った。
「そやね」きりえは笑った。
「僕のこと、避けてたでしょ」アサヤはずばり指摘した。
「そやな」きりえは暗い空を見上げた。
「やきもち?」
「そんなかわいいもんとちゃうよ」きりえは美しい横顔を見せたまま、「いややってん」
「すごいな、愛し合ってるんだね」アサヤは羨ましそうな声で言う。「僕たちゲイはね、一般的に長続きする人があまりいないの。サイクルが短いっていうのかな。長続きするカップルは、僕のなかでは階級の最上位なの。半年続いたことのない僕でも、ミドルクラスってところ」
「そんなに短いんや」
「まあ、僕の経験上だから、これを一般的って言うと語弊があるかもしれないけど」
「うん、話半分にしとくわ」きりえは笑った。
夜の散歩を楽しむように、ゆったりと歩く。
「男女の差なんかな」きりえはつぶやいた。
「そうかもね。僕らは身体重視で、飽きるとダメなの」
「飽きるんや」
「きりえさんは、もともと飽き性じゃないの?」
「たぶん、飽き性やったかな。熱しやすく冷めやすいって、どの占いみても書いてるし」
「もりのちゃんは飽きないんだ」
「飽きへんなぁ。なんでやろ」
「セックスも飽きない?」
「うん」きりえは照れもせず、素直に応えた。
「もりのちゃんがね、きりえさんと会ってきた日は、すぐにわかるんだ。見たことのない幸せそうな、切なそうな顔で帰ってくるの。お風呂も入らず、まっすぐ自分の部屋にこもっちゃって。あるとき、そっとのぞいてみたの。そしたら、枕を抱きしめて、きりえちゃんって」
もりのの姿を思い浮かべると、きりえはたまらなくなる。
「奇跡だよ。男男、女女、男女問わず、そんなに長く付き合って熱々なのは」
「ほんまやね」
案内されたのは、高級住宅街のマンションだった。生前贈与の形でマンションを購入したのだという。
「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
「ありがとう、紅茶いただける?」
「おいしいのいれるね」
アサヤは楽しげにキッチンへいった。
「長いこと住んでるん?」
「三年かな」
「いい家やね。見せてもらっていい?」
「うん、ちょっと待ってね」
アサヤは紅茶を用意してから、簡単に案内した。広いリビングに、アサヤの十畳の部屋ともりのの八畳の部屋があった。
「僕、ほとんど一部屋しか使ってなかったから、もりのちゃんが住んでくれてちょうどいいの」
アサヤの部屋はこだわりが随所にみられ、調度品がしゃれていた。アロマもたいている。高級そうなダブルベッドを見ると、枕が真ん中にぽつんと一つあった。
「ご家族、遊びにきはるん?」
「それは勘弁でしょ。でも仕方なく、一度だけ」
「枕が一つやと、変に思われへん?」
アサヤは得意気に、「僕、こう見えてぬかりないんだよ。もちろん、ちゃんと枕をふたつ並べるよ。もりのちゃんの部屋にベッドがあるのは、僕がいびきがうるさいときのためとか、なんとでも言える」
「そうなんや」
アサヤと会って話し、二人の住まいを見て、腑に落ちてくる。
きりえがおいしそうに紅茶を飲んでると、アサヤが静かに口を開いた。
「もりのちゃんのお灸はもう十分じゃない? あんまりいじめないでね。きりえさんのこと、すっごく好きなんだよ」
きりえは苦笑いし、「そんな風に言ってたん?」
「もりのちゃん、今年になってすごく落ち込んでたから。きりえさんに会ってもらえないんだなって思ってた。僕、偽装結婚してる男の恋人としてはプロだからさ。きりえさんの気持ちもわかるの。いやだよね、一緒にいつもいられないって」
「そやね」きりえはこの不思議な状況におかしみを感じて、くすっと笑った。
「でも、もりのちゃんの事情と、僕の恋人の事情は全然違うじゃない。もりのちゃんが僕と結婚したのには、理由があるの」
「私のためやろ」
「そうなんだけどね、なんというかね」アサヤは少し考え、「もりのちゃんは、きりえちゃんのお姉さんから偽装結婚のアイデアを聞いたとき、気になって、自分たちの情報を探ったの。よせばいいのにネットでね。そしたら、『もりのちゃんは今なにしてるんだろう。まさかほんとにきりえさんのひもなのか』というつぶやきを見つけたの」
「ひも?」きりえは耳を疑う。
「気にしなければいいのに、もりのちゃんの美学が許さなかったんだよね。あの人、美学があるじゃない。退団した直後は『きりえさんと添い遂げ、付き人になるのか』と一部で噂されたみたいだね」
「付き人の噂は知ってる」
「もりのちゃん、ほんとは学校を卒業して国家資格を取ったら、きりえさんと一緒に暮らすつもりだったんだよ。だけど、そのつぶやきをみて、まだ無理だと思ったの。誰の目にもわかりやすい形で一人前になるまでは絶対に無理だって」
きりえは黙って聞いていた。
「だったら、結婚してみようとなったの。僕と結婚すれば、二人の噂は解消されるでしょ。僕は家持ちだから、家賃はいらない。それを貯金すればいいって。生活費は負担してもらうけどさ。家賃が浮くと、もりのちゃんが納得する形でより早く一人前になれるでしょ」アサヤは紅茶を飲み、「もりのちゃんも、くやしいんだよ。同じ状況でも相手が男だと普通に結婚として受け入れられ、きりえさんだとひもになることが。でも、そこは割り切ったの」
「そうやったんや……」
きりえは聞いたばかりの話をしみこませる。事情はよくわかる。けれど、自分にすべてを話してくれていないことが寂しかった。
「もりのちゃん、そんなこと私に話してくれへんかった」きりえはぽつっとつぶやいた。
アサヤはにっこり笑い、「もりのちゃんは、きりえさんの前ではかっこよくありたいの。好きな女の前ではずっとかっこよくありたいって、いじらしいじゃない」
きりえはアサヤのなかに母性のような広い愛を感じ、一瞬たじろいだ。
「アサヤくん、ほんまええ人やなぁ。もりのはほんまに幸せもんやなぁ」と心から言う。「なんでそんなにもりのちゃんにやさしいの?」
「友達だからじゃない? 恋人だとこうはいかないよ」アサヤはちょっと笑うと、「それに僕、全然やさしくないし。純粋に、僕にとってもいい話なのね。もりのちゃんは冷静で聡明で、相談に的確に乗ってくれる。美しくて眼福だしさ。もりのちゃんみたいな素晴らしい女性との結婚なら、別れたときが楽でしょ。僕の家族はやっぱりと納得するし、僕がこの先再婚しなくても、あんな女性のあとじゃ無理かと納得してくれる」
「ちゃっかりしてはるねんね」きりえは笑った。「でも、好きな人と暮らしたいとは思わない?」
「そういう相手ができたら、もりのちゃんは追い出すよ」アサヤはニヤッと笑った。
きりえはアサヤのいちいち率直な話しぶりが気に入った。
ドアホンが鳴ったとき、「もりのちゃんには言ってないんだけど……」アサヤは言いにくそうに、「ツイッターで『もりのちゃんはきりえさんのひもなのか』とつぶやいてたの、姉貴なの。つぶやきをたどってわかった。ごめんね、ほんとに」
きりえは目を丸くする。「ぐるぐるごちゃごちゃ、つながるなぁ」
8 悲しみと寂しさは友
冷気をまとったもりのは、二人の仲睦まじそうな様子を見て、嬉しそうな顔をした。「なんかいい顔してるね。欠席裁判でもしてたの?」と笑った。
もりのはすっかり冷えていた。気持ちいい夜に誘われるままに散歩したのだという。もりのにはそういうところがあった。
三人でワインを二本空けたとき、アサヤに彼氏から呼び出しがかかった。
「会いにいくの? こんな時間から」もりのは表情をくもらせる。
「だって、会いたいんだもん」アサヤはもう身支度している。
「都合のいい男扱いされてる」もりのは冷静に言った。
「そんなことないよ。彼は僕のことが好きなの」
もりのはため息をつきながらも、アサヤの着こなしをチェックする。ジャケットの肩を合わせてやる。マフラーの巻き方が雑だったので、きちんと整えてあげた。男役だっただけに、メンズファッションの着こなしには敏感なのだ。
「うん、パリッとした。いい男になったよ」
「ありがとう」アサヤはこの日一番の笑顔を浮かべた。
「いってらっしゃい」もりのは手をかるくあげた。
「きりえさん、もちろん泊まりだよね。今夜は帰らないし、心ゆくまで楽しんでね。必ずまた遊びにきてね」
アサヤは両手でかわいく手を振った。
「ありがとう」きりえは手を振る。「暗いし寒いし、気いつけや」
アサヤは力こぶをつくり、意気揚々と出かけた。
「楽しい人やな、アサヤくん」
「うん」
大柄で賑やかなアサヤがいなくなると、部屋が必要以上に大きく、静かに感じた。主のいない部屋はよそよそしかった。もりのといろんなホテルの部屋で過ごしたが、これほど落ち着かなかったことはない。日常を生きる部屋なのに、もりのの色が少しもなかった。
もりのはジャズをかける。少し、もりのらしさが出た。
「楽しそうに暮らしてるやん」きりえは率直な感想を言った。
もりのは言葉のニュアンスを探るような間を刻み、うなずいた。
「もりのちゃんが幸せそうで、よかった」
もりのは心配そうな顔で見つめる。
きりえは立ち上がると、「ちょっと部屋借りていい? 一人で考えたいねん」
「もちろん」もりのは応えた。つぶらな目に動揺の色がにじんでいた。
きりえはなじみのあるセミダブルベッドに寝そべる。小さな灯りをともす。アサヤからもたらされた情報が、ぐるぐるとめぐる。
整理すると、もりのは結婚生活をけっこう楽しそうに送っている。嫁姑、小姑問題は皆無。それどころか、スター扱いで大事にしてもらっている。夫は暮らしを万全な体制で支えてくれ、妻の恋人にまで理解がある。恋人との関係は完全に良好とまでいかなくても、愛し合っているのはたしかだった。恋人の家族はもりのを気に入っていて、偽装結婚を見守ってくれている。
もりのに陰りがあるとしたら、夫と恋人とその家族としか秘密を共有できないこと。それくらいか。順調ぶりが頼もしいと思う一方で、憎らしくなってくる。
きりえはふとんの中にもぐりこむ。かすかにもりのの甘い匂いがして、落ち着いてくる。枕を引っ張り込んで抱いてみた。ぬくもりも厚さも弾力も足りない。
ふとんから出ると、部屋を見まわした。一人暮らしの頃となにも変わっていなかった。ストレッチポールとバランスボールが無造作に置かれている。もりのは暇さえあればバランスボールの上に座って、ぽんぽん弾むのだ。
見慣れた小さな本棚には、アカデミックな書物が並んでいる。
禅の初心者向けの本に目が留まる。初めてみた本だった。きりえはなんとなく本を手に取り、パラパラとめくった。折り目がついていた箇所には「三毒(貪・瞋・癡)」を捨てる」「調身・調息・調心」「一息に生きる」とあった。もりのにも葛藤があり、より良い人間になるための努力をしているのだろう。きりえから力がふっと抜ける。
もりのと出会ってからの、いいこと、悪いことのリストを頭のなかでとりあえずつけてみる。途中であきらめる。どちらが埋め尽くされるかは、最初からわかっているのだ。
ふと思いついて、あいまいなページにこう記してみる。感情を耕すことで、豊かな実りを得る。他人の人生を生きる特殊な職業の人間には、悲しみと寂しさは友となる。
部屋から出ると、もりのがリビングテーブルの上でなにかを書いていた。左利きのため、たどたどしく見える。きりえは愛おしくなる。
もりのが振り返った。つぶらな瞳が少し赤くなっていた。泣いたのだろうか。
「どうしたん?」きりえはやさしくたずねた。
「きりえちゃんと別れたくない」もりのは思いつめた顔をしていた。
「誰もそんなこと言ってへんやん」きりえは豊かな髪をやさしく撫でた。「なに書いてるん?」
きりえは肩越しにのぞき込む。離婚届けだった。
「アサヤも異存はないよ」もりのは静かに言った。
「そんなに簡単に離婚したらあかん」きりえは叱る。「性格の不一致とか、もうあかんってならん限り、あかん」
「あなたが少しでもいやなら、別れる。そう決めてた。あなたより大切なものはない」
「気張ってくれてんねんなぁ」きりえはやさしく笑った。「私なら大丈夫やで。大丈夫になってん」
「そうなの?」もりのは思慮深い仔犬のような目で、推し量るように見る。「ほんとに?」
きりえは甘く微笑むと、もりのの手をとった。もりのの部屋に入ると、ドアの鍵を閉めた。ベッドの上に、手をとったまま身を投げ出す。
もりのにまたがると、前髪をやさしくかきあげ、無防備にさらされた額にキスをした。
「ええよ、このままで」きりえは甘く笑った。「先のことはもうええやん。もりのちゃんにそのうち飽きるかもしれへんし、離婚してって言うかもしれへん。そのときになってみないとわからへん」
「そうだね」もりのは熱っぽい目でそっと見つめる。きりえを感じて、盛り上がってきているのがわかる。心も身体も健康で素直なのだ。きりえの前髪に触れ、「かわいい」とささやいた。
「もりのちゃんの子どもがほしくなるかもしれへんしね」きりえは思いつきを口にした。
「子ども?」もりのは心底驚いた顔をする。
「先のことはわからへんってこと」きりえは笑った。「今が気に入ってるから、それでええやん」
もりのを抱きながら、動くたびに軋んだ音のするこのささやかな乗り物が、宇宙船のような船のような気がしてくる。いつでも出発する準備はできている。慎重なようで大胆で、おそれながらも変化に飛び込む。この普通なようで、はかりしれないおもしろい人と、流れるままに進んでいこう。たまたま、つづくかぎり。
たゆたうきりえ