自然主義に寄り添う猫

レポートをかきますか?

新潮文庫『猫と庄造と二人の女』谷崎純一郎著の巻末解説において、磯田光一氏は次のように述べている。

 考えてみると、猫が人間に奉仕するのではなく、人間が猫のために破滅する世界とは、何を意味しているのであろうか。谷崎純一郎の作品のうちでも、最も見事なまとまりを示しているこの小説は、谷崎文学の最も奥に隠されている衝動を、はからずも明るみに出している。

 極めて正しい見解だと思われる。
 よって、ここからは本作が反自然的かどうかではなく、その具体的要因についての考証である。
例えば「春琴抄」の佐助と春琴関係は、「谷崎文学の最も奥に隠されている衝動」、つまりは反時代的ヴィジョンとしての‶隷属‶、の完全なもので、「春琴抄」ではその美しささえ説いている。
 端的に言えば本作では主人公庄造が愛猫リリーへ‶隷属‶している。しかしこれは完全には本作の反自然主義的側面ではない。なぜなら、例えば愛猫がタンスだったとしたら、本作の反自然主義的側面は穏やかになってしまい、どちらかといえば奇抜性を帯びるのみである。反自然主義的側面が生じるためには、自然主義に反しているというわかりやすく含蓄的なものが必要なのだ。
 結論として、本作の完全な反自然主義的側面は、‶猫‶への隷属だ。
先ほど述べた、「谷崎文学の最も奥に隠されている衝動」としての‶隷属‶への希求、は人に対してのものであるだろう。人間の衝動というものは主に人に対して行われるものであり、それが一番身近なのだ。だからこそ、この衝動を描くのは難しく、またわかりにくい。そこで、おそらく谷崎は人間次元の一つ下の物体として、自然主義にも頻出する猫を隷属の対象にし、‶隷属‶への希求という彼の考える人間の本質を顕著なものにさせたに違いない。そしてそれこそが本作の反自然主義的側面を形成しているのだ。
猫は自然主義に於いてあくまで一つの事象にしかすぎない。あるがままを描く自然主義にとって、外目からの動物的側面のみが猫を形成する要因なのだ。
しかし反自然主義に於いては、かの夏目漱石の処女作である「吾輩は猫である」にその反自然的側面を構成する重要な因子として登場する。当時、社会全体を客観的に見つめなおすというある意味で文学の必ず通る道を歩んでいた日本の文壇に対し、文学の究極の目的とも言っていい人間の本質の探究という部分に目を向けるべきだという考えのもとでの反自然主義の旗揚げとも言っていい「吾輩は猫である」により、ある意味で猫は反自然的要因を獲得したともいっていい。
したがって、‶猫‶への隷属、の反自然的側面は、この引用的な暗示にもよるところもある。
 本文の語りに次のような一文がある。

 実際、品子にも、福子にも、母親にも分かって貰えない寂しい気持ちを、あの哀愁に満ちたリリーの眼だけがほんとうに見抜いて、慰めてくれるように思い、又あの猫が心の奥に持っていながら、人間に向かって云い現わすすべを知らない畜生の悲しみと云うようなものを、自分だけは読み取ることが出来る気がしていたのであったが、それがお互いに別れ別れにされてしまって四十余日になるのである。

 庄造の隷属を顕著に表している一文である。しかし、これが例えば愛人だったりしたらどうだろう。ただの恋文程度の文章(そもそも恋愛というのも一種の隷属なのかもしれない)になってしまうであろう。この文章は庄造の隷属が‶猫‶という特異な対象であることが、本作の反自然主義的側面を支えている、ということを示している。
 また、この一文からは本作の反自然主義的側面としてもう一つ、猫という存在の人間化、これは前述の「吾輩は猫である」にも顕著に現れているが、ということも読み取れる。
 この一文に於いて、日常生活では、つまりは自然主義ではあくまで動物として扱う猫だが、本質的に人間はそれを人間同等の存在として見ざるを得ない、つまり動物に逃げているはずの当人があくまで人間との交流を欲しているということを表現していると思う。これは、前述の人間への隷属の希求を裏付けるものでもある。
 反自然主義に於いては、自然主義の哲学の連続性を否定するサイエンティフィックな側面、例えば疑似動物行動学など、を否定するために、哲学的なものが多用される。人間も動物的で、そこから人間を理解するという考えを否定するために、わざわざ動物を人間的に陥れて、人間の哲学、の特権性を強めようとしているのだ。
ただし、隷属は哲学では非難される。隷属は、当人の無知ゆえにその身を任せる行為であって、よくない自己のありかたなのだ。ただ、本質を解明するという点に於いての共通によって、反自然主義は哲学を肯定する。
 よって、これら二つの側面が相まることで、あくまで、人間を客観的に見る自然主義のアイロニーとしての反自然主義が、本作そのものに寄り添うことができているのだ。
 さて、反自然主義を用いなくとも、人間の本質の探究は可能であろうし、自然主義というそれに寄り添わないものにわざわざ反するのは、いかんせん遠回りだとも言える。しかし、直線的に人間の本質を表現すれば、そこには本来のそれから逸脱してしまうリスクもある。それこそ本末転倒というもので、だからこそ反自然主義の範疇でのそれが求められるのだ。
 谷崎の作品の価値は、人間の本質を解剖するにあたって、反自然主義が、その定義を逸脱せずに、どういう形で利用できるかというのを究極的な形として示しているところにあるのだ。
 また本作は、「谷崎文学の最も奥に隠されている衝動」、つまりは反時代的ヴィジョンとしての‶隷属‶、を敢えて完全な形にすることなく、隷属によって崩壊していく隷属(夫婦関係)なども描ききることで、その新しい形を提示するのに成功している。 

  対象作品「猫と庄造と二人のおんな」谷崎潤一郎     

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いつしかに書いたレポートです。 多分三・四年前だと思います。 でも読むと、すごく違和感があるのです。まるで自分の文章じゃないみたいな。ネットをどれだけ探しても、コピペではないようですし、しかし、明らかに自分の文章じゃない気がするのです。知っている方がいらっしゃったら、twitterまでご連絡ください。 そしてもしこれが僕の文章だったら、僕は自分の退化を感ぜずにはいられません。

  • 随筆・エッセイ
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-14

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