サドル・ミューティレーション
ベタベタ。まるで、バッファローの糞みたいに。
タワレコのある交差点で僕はハンドルを切った。その先の坂を下り、そして少し行ったところで止まって、そこにあるガードレールに自転車を立て掛けた。そそくさとチェーンをタイヤに回し、僕は周りの人間の顔をなるべく見ないようにしてその場から立ち去った。
僕は山手線の高架下を通り、そこに居たホームレスを一瞥して目を背け、そして明治通りに出た。明治通りは、宮下公園があるおかげで、井の頭通りよか落ち着いた雰囲気だった。新宿か、あるいは千駄ヶ谷みたいな雰囲気だった。
僕は通り沿いに、宮益坂のほうに向かって歩いた。
明治通りは雰囲気こそセンター街なんかとは違うものの、しかしすれ違う通行人の柄はさほど変わりはしなかった。宮下公園に続く階段で座りながら談笑する頭の悪そうな若者たち。道端に座り込む中国人観光客たち。ガイドを見ながら周りをキョロキョロする、おそむらくスクランブル交差点を探して迷っているであろう外人たち。髪を禍々しい色に染めた女たち。これに今にもナンパをしかけそうな軟弱な男たちと、そしてまるでそれを待っているかのような騒がしい女子高生さえいれば、およそ渋谷一般の人種構成になるに違いなかった。
渋谷の地理にどれだけ詳しくなっても、一向に通行人の柄には慣れることがない。意識すればするほど、その頭の悪さにムカついてくる。渋谷の通行人の柄は本当にひどい。新宿もそういった奴らの絶対数は変わらないものの、あそこにはサラリーマンがたくさんいるからまだバランスが取れている。原宿はとにかく外人しかいないから問題が違う。代々木は渋谷と似通った感じだが、少し外れに行くとすぐに人が居なくなるから別にいい。
何故渋谷だけがこんなにも僕をイラつかせるのか。
その理由は自明だった。ルサンチマンに他ならない。
若者の街渋谷。きっとこの街で、童貞はこの億たった一人だけだろう。周りの男は皆一度は、センター街で見つけた女をお持ち帰りしたことがあるに違いない。だが、そんな不純な行為は、何も生まない。利益も、価値もない。自らの高潔を保ち続けるこの僕だけが、この街で唯一マトモなのだ。
僕はこうやって渋谷の街を歩くだけで、そんなルサンチマンに支配される。
そう、ルサンチマンは捨て去らねばいけない。
『町で暮らすのはよくない。発情している者が多すぎる。』
おぉ! やはりあなたもそうおっしゃられるか! それでこそ『超人』だ!
宮益坂の交差点まで来ると、その角に人だかりができていた。人だかりの中心には、赤いジャンパーを着た金髪の男が居た。テレビで見たことのある顔だった。
「諸君等の力を欲しているのだ!」
僕は心の中でそう叫んだ。男はあの言葉を口にしたりなんかせず、女子高生たちと写真を撮っていた。僕は思わず視線を逸らした。
それから僕は交差点の信号を待っていたが、刹那、僕はハッとした。自転車のカゴに、タオルを入れたままであった。そのタオルは、声優ラジオの公開録音でもらった、とてつもなく大事なものだった。
僕はその場で引き返そうとしたが、こんな短時間で往復したらさっきの頭の悪い若者たちや道端の中国人たちに嘲笑されるやもしれないと思って、明治通りを引き返すのではなく井の頭通から迂回して行くことにして、スクランブル交差点のほうに体を向け歩を進めた。
再び高架下を通り、僕はスクランブル交差点に出た。タワレコに戻るには歩道沿いに曲がればいいので、スクランブル交差点を渡る必要はないのだが、しかしそれを待つ群団のせいで通るのにも一苦労だった。外人たちがカメラを拳上してスクランブル交差点を撮ろうとしているのを邪魔しないように、僕は少しかがみながら、すいません、すいません、と言って群団の中を突っ切った。
僕はそれから早い足取りで井の頭通を歩いた。さっきと同じような奴らが、人と人の間を縫うように歩く僕のほうを時折振り返り見たものの、その時の僕には羞恥心なんて生まれ出る隙もなく、ただタオルのことが気がかりだった。
マックを過ぎ、「ミニスクランブル一号」とそこにもいるいくらばかりかの群団も抜けた。
ふと途中の脇道に、サドルのない自転車があった。柄の悪い若者にイタズラされたに違いなかった。
僕はそれを見て焦った。タオルが危ない。高架下に居たホームレスが、意地の悪い若者が、タオルを盗ってしまったかもしれない。
僕は終に走り出した。通行人を避け、走った。渋谷の街で、僕は時折アメフトで培ったカットをして人を避け、走った。
周りの者は皆僕のほうを振り向いた。笑っている者もいた。
それでも、僕は走り続けた。途中息を切らしながらも、虫の息になりながらも、とにかく走った。
そうして終に、僕は自転車の元に辿り着いた。僕はその場で手を膝につき息を整えながら、カゴを確認した。そこには見事にタオルがあった。白黒の、犬の柄のプリントされたあのタオルが、ちゃんとあった。僕は息をついて安心し、そしてタオルを取って畳み、ズボンの尻ポケットに入れた。
僕はとても幸せな気分だった。自分の幸運を無限の知性に感謝した。
だから、自転車にはもうあの擦り切れたサドルがなかったことは、僕は気にも留めなかった。
サドル・ミューティレーション
ルサンチマンの発見。
僕の皮肉さの発見。