コア・ハート
プロローグ
誰にも“忘れられない瞬間”というのがあると思います。
あの日、あの時、あの人に、どうしてあのような事をしてしまったのでしょう。
あの日、あの時、あの人に、どうしてこのようにしてあげられなかったのでしょう。
後悔、懺悔、戒め。
そんな感情が、頭から、心から、いつも離れなくて絶望してしまいます。
頭の中で何度もやり直したのに、心の中で何度も思い直したのに、現実だけが私の思考についてきてくれないのです。
真っ青だった筈の空。
真っ赤だった筈の太陽。
真っ白だった筈の私の気持ち。
全てが同じ、無色透明で、濃いも薄いも、暗いも眩しいも、何もない世界。
こんな、土地なのか空間なのかも分からない所に私を独り置いて、あの人は一体何処へ行ってしまったのでしょう。
どうして私は此処へ来てしまったのでしょう。
いつから歯車がずれてしまったのですか?
何処で何を間違えてしまったのですか?
もし、もう一度やり直せるのなら、もし、もう一度出会えるのなら、私が叶えたいことは、きっと、たった一つだけなのです……。
一.永訣
冷たい雨に手足が震える。張り詰めた空気で耳が痛い。
いくら命令とはいえ、何故俺がこんな目に合わなくてはならないのだ。
さっさと済ませて、本拠地に戻りたい。
どこぞの見知らぬお姫様の暗殺なんざ、俺でなくとも遂行出来るだろうに、何故ボスは俺を任命したのか。俺はこれでも隊長だぞ。
面倒くさい……あーもう、面倒くさいなあ!
「おいこら黙れ、誰か来るぞ」
俺の小さな独り言を、仲間のハースが遮った。
地位は俺の方が勿論上だが、ハースとは長い付き合いだからな、多少の無礼は許してやらないでもない。
ボスからの任務の概要は、こうだ。
《本作戦の暗殺対象であるセレーナ姫はタルタル国にあるウスター城の王女である。
城の裏にある小さな庭で、毎日、未(ひつじ)の刻に一人で剣の訓練をしているので、そこを狙う事。
尚、ウスター城の所有する獣類は馬のみである為、目立つ事を考え、竜等は連れずに身一つで忍び込む事。
暗殺後、姫の首と、常時身につけている深紅のペンダントを取り、首から下の遺体は城から五百歩南西を流れる川へ何にもくるまずに流す事。
川流し終了後、討ち取った首とペンダントを速やかに持ち帰り引き渡すことで任務完了と見なす。
隊長は部下を一人同行させ、その者に周囲を見張らせた上で事を成す事。
近くに多数の護衛兵が居た場合には部下と共に兵を始末した後に姫を狙う事。》
俺は迷う事なくその部下としてハースを任命した。
こいつ以外に俺とペアを組める奴なんて居る筈がない。
正直、こいつ以外の奴とは言葉すらほとんど交わした事がないのでペアを組む気にもならない。
俺の記憶は五年前からしか残っていないが、少なくともその五年前の一番最初から、ハースは俺の傍にいた。
そんな訳で、俺とハースはウスター城の周りを取り囲む茂みで待機し、セレーナ姫が訓練に現れるのを待っているのだ。この位置ならば城の敷地内ではないので、城の兵からは見付かりにくく、逆にこちらからは庭の様子がよく見える。
「あれは……どうやら今回の目標、セレーナ姫のようだな。深紅のペンダントに、桃色の髪……間違いないだろう。本当にこんな雨の中でも稽古を欠かさないのか……感心するな。なぁ、ラーク」
「別に。大体、髪の色なんざいつの間に情報を得たんだ、俺は聞いていないぞ」
正直、どうだって良い。
今から死ぬ女の事なんか、どうだって。
髪の色は俺が単に聞き逃していただけなのかもしれない。
「相変わらず釣れねえ奴だなあ、桃色の髪なんて最高な情報、俺が見逃す筈がないだろう?因みに任務要請書に書いてあったぜ。髪は淡い桃色の長髪、瞳は空色、肌は白く胸元には深紅のペンダントが光っている、ってな。ちゃんと確認してるのかよ?第一、今日はやけに軽装なんじゃないか?鎧でガチガチに決めて来いとは言わないけどよ……その服って確か耐熱・耐寒に適した防具であって暗殺用ではない筈だぜ?全く、雨に打たれてお前の心が洗われる事を切に願うぜ、お気楽ラークちゃんよう」
「……放っておけ、俺は衣服を見た目で選ぶタイプなんだ」
しかし、やはり書いてあったのか、そんなに事細かく。
女の暗殺、というだけで、俺は何処かこの任務をなめているのかもしれない。
それにしても、お気楽ラークちゃん、だと?
こいつ、俺が隊長ということを忘れていやがる。
……まあ、良いだろう。
ハースとは長い付き合いだからな、多少の無礼は許してやらないでもないんだ、うん。
「にしても、お前って本当に雨に濡れると人が変わるよなあ。色気バリバリだぜ」
突然ハースが頬に手を当ててきたので、俺は力一杯ハースの手を振り払った。
「いひひ、良いではないか、良いではないかあ~!」
今度は、頬を人差し指で突かれた。
ハースとは長い付き合いだからな、多少の無礼は許して……やれるかあああああ!
「離れろよ、気持ち悪い!」
そう言って俺はハースの顎を思い切り殴った。
所謂(いわゆる)、アッパーカットである。
「あーれぇー!」
ハースは勢いよく吹っ飛び、無惨な悲鳴と共に地面の上を滑って行き、その場で、死んだ芋虫の様に身体を丸めて動かなくなった。
氷の床でもないのに、よくもここまで綺麗に滑るものだ。
「!?誰だ!」
……しまった、見つかった。
いや、当前か。
ハースと組む時の唯一の欠点、今回も懲りずに犯してしまったな。
無駄な応酬が多いせいで、任務中という事をつい忘れてしまう。
静かに暗殺する予定だったが、見つかった以上、作戦を変更せざるを得ない。
「ハース、ココアだ!」
何も喉が渇いたからハースを扱(こ)き使おうとしているわけではない。
ココア、それは作戦Ⅱのことだ。
様々な可能性を考えて幾つも作戦を用意するのは当然だが、その作戦名はココアだのカフェオレだの、謎である。
ボスの趣味以外の何物でもない。
この作戦名は、作戦Ⅰはコーヒー、作戦Ⅱはココア、というように名付けられており、作戦の内容そのものは、その都度任務を請け負ったリーダーが決める。
だから同じココアでも任務によって内容は全く異なったものになる、という訳だ。
因みに今回の場合、ココアは「ハースは周囲に気を配り現れた護衛兵達を牽制し、俺が目標を殺しにかかる」である。
後ろから不意を突けないなら、堂々と立ち向かって行く――!
……仲間に、見守ってもらいながら、な。
ボスからの任務概要には、二人で兵を倒してから姫を襲え、とあったが、俺はハースを信頼している。
こいつなら一人でもうまく兵達を足止めしてくれる筈だ。
ハースは転んだままの姿勢で右肩を僅かに二回動かした。これが「了解」の合図だ。
サインを確認し、俺はすぐに目標であるセレーナ姫の元へ突進し、剣を振り下ろした。
「――っ。曲者だ!兵達よ、こちらへ参れ!」
そう叫んだ後、訓練の為に持って来ていたのであろう、やけに大振りの剣を振り回し、抵抗するセレーナ姫。姫の身の丈程の刀身はやけに幅が広く、相当な重量感がある。
剣と剣を何度も交え、甲高い金属音が鳴り響き、暫く、一進一退の攻防が続いた。
「おい、大丈夫か!?兵達は俺が何とか牽制する、急げよ!」
「ああ!」
ハースの言葉に俺の士気は一気に上昇した。
そうだ、いくら武器が大きく立派であろうと、男の力に敵う筈はない!
「――たぁ!」
力ずくで剣を押しこむ様にすると、いとも簡単にセレーナ姫はバランスを崩した。
俺はセレーナ姫を足の裏で蹴り飛ばして転倒させ、馬乗りになるような形で押さえつけ、喉元に剣を付き立てようとした。
が、ほんの一瞬、俺の手は止まってしまった。
「……」
「……」
偶然に目が合い、そして何故だか動揺してしまったのだ。
その隙にセレーナ姫は俺の腹部を蹴り飛ばし、拘束から逃れた。
「うぐっ」
思わぬ衝撃に腹を押さえ、くの字に折れる俺の後頭部を、セレーナ姫はハンマーを振り下ろすかの如く剣の峰で殴り、俺は顔面から地面に叩きつけられた。
ポキュ――。
倒れる勢いで、一瞬、足が奇妙な方向に曲がった気がする……。
形勢は一気に逆転した。
てっきり持っている剣で斬られると思ったが、セレーナ姫は思わぬ行動に出た。
何と、武器を投げ捨てたのだ。
そして飛び掛かるように押し倒し、馬乗りになったかと思うと、ひたすらに俺の身体を押さえつけるだけだった。
成程、武道も会得しているのか。関節を綺麗に抑えられ身体を起す事が出来ない。
なんてスマートな拘束だ。
身体の構造上、関節をピンポイントで正しく押さえれば大きな力を入れずとも人は身体を起す事が出来ない。
身体の自由を奪われた俺は、苦し紛れの抵抗としてセレーナ姫を思い切り睨みつけた。
威嚇のつもりで睨んだが、俺はそのまま真顔のセレーナ姫の目から視線を逸らす事が出来なくなった。
釘付けだった。
別に顔に何か付いていた訳ではないし、まして俺好みの顔立ちという訳でもないのだが、何故だかずっと見つめていたいと思ってしまった。
セレーナ姫も俺から視線を逸らす事はなく、かと言って何か言葉を発するでもなく、目を大きく見開いて俺の顔を凝視していた。
ただひたすらに沈黙が続き、ただひたすらに見つめ合った。
俺の中で何かが動き出したような気がした。
「何してる、しっかりしろ!もう抑え切れないぞ!」
気付くといつの間にか三十を越える兵が集まり、見るからにハースの形勢不利だった。
いや、そんな事より、目標に顔を知られてしまった。
流石にこんな失態は予想外だった。
ここはひとまず退いて作戦を練り直さなくては――。
無様な姿の俺を見ていられなくなったのか、ハースはこちらへ跳躍しながら跳ね寄り、俺の上に乗っていたセレーナ姫を蹴り飛ばした。
セレーナ姫は地面に転んだまま顔だけこちらに向け、何かを一言だけ呟いたが、雨の音で声は掻き消され、何と言ったのかまでは理解出来なかった。
まあ良い。それより、早く此処から逃げ――
「隊長、ここはサイダーで良いよな!?」
「……ああ、その通りだ!」
何という事だ、部下に命令された気分だ。
確かに迅速に命令を下せなかった俺にも落ち度はあるが……こんな侮辱を味わったのは初めてだぜ。
サイダー、それは炭酸飲料の様に泡(あぶく)を吹いて相手の視界を惑わせ、泡の如く上に浮き、泡の如く身体を弾か……要は、尻尾を巻いて逃げる、という事だ。
俺とハースは二手に分かれ、それぞれ逃亡した。
何故あの時、セレーナ姫を槍で突かずに蹴り飛ばしたのか気になるが、それは後でじっくり問い詰めることにしよう。今は兎に角、逃げることに専念すべきだ。
この辺りの地理は調査済みだが、雨で地面がぬかるんで思うように走れない。
ふと後ろを振り返ると、夥(おびただ)しい数の敵が、竜やら巨鳥やらに乗ってこちらへ飛んで来ていた。
これでは、俺が捕まるのはもはや時間の問題かもしれない。
おかしいなあ、ボスの情報では「獣類は馬しかいない」だったのになあ。敵に竜やら巨鳥やらが居ることを知っていたら、もっと違う作戦を練っていたのになあ。
しかも、この敵の数だ。こんなのが後ろに控えているのに、二人で相手にしろという方が無謀だったんじゃないのか?
……情けないな。
何と言い訳をしようと、こんな任務一つまともにこなすことも出来ず、まして自らの力を過信して逃げ道をきちんと作らなかった俺の、完全なる負けだった。
隊長失格だな。
何故ボスが今回俺を任命したのか分かった気がする。
きっと、気の抜け切れた俺に愛想を尽かし、処分するつもりだったのだろう。
だが、ハースは?
ハースは一体、何の為に俺と共にこの任務を……?
考えごとに気を取られ、俺は足を滑らせその場に無惨に転んだ。
「痛っ」
右足に酷い激痛が走った。どうやら足首を痛めてしまったらしい。
少し先にある森を目指していたが、これではうまく走れそうにない。ここは平野なので、空からどころか、その辺の小さな蛙共にだって、俺の姿は筒抜けだ。
もはや、これまでか。
――滑稽で仕方がなかった。
俺には尻尾を巻いて逃げることも出来ないのか……。
もう、良いか。面倒くさい。
腹を上にして大の字に寝転がった。
空からは相変わらず滝の様な雨が降り注いでいる。
俺はふと、つい先程のセレーナ姫のことを思い返していた。
何故、俺はあの時手を止めてしまったのだろう。
一体何を思い、何に戸惑ったのか。
セレーナ姫もまた、何故に俺に手を下さず、じっと見つめて動かなかったのか。
そういえば、最後に言っていた一言は何だったんだ?口の動きで母音の連なりだけは予想出来るのだが……。
口の開け方から、恐らくア・ウから成る言葉だろう。
ア・ウ……アーウ……ダーク……パーク……ラーク…………?
ちょっと待てよ。まさか、俺の名を呼んだのか……?
「ちょっとアンタ、そんな所で何を呆けてるのよん!」
――驚いた。
突然、奇妙な物体が俺の顔を上から覗きこんできた。
何だこれは、生き物なのか?
喋っている、ということは、まさか……人間……なのか…………?
「お前……生きているのか?」
得体の知れない物体に恐怖を覚えた俺は、恐る恐るそう尋ねた。
「はああ!?寧ろアンタこそ生きてるワケェ?死んでるワケェ?生きたいの、死にたいの、どーっちなのよん!」
意味が分からなかった。
何だこいつは。俺が生きたいのか死にたいのかだと?
そんな事、俺が聞きてえよ!
俺は何も答えず、痛む右足を庇いながらゆっくり立ち上がり、得体の知れない人間の様な生物を睨んだ。
目は……これか。よく見れば鼻も口も耳もあるな。
やはり人間なのか。
しかし、この容姿はちょっと……反則だろう。
駄目だ、無理だ、もう、こらえ切れない――。
「ぶっ……ふはははっはははははっうえあっはははははは!」
大爆笑をしてしまった。
任務のことも、ハースのことも、セレーナ姫のことも、全部忘れて、ひたすらに大声で笑い続けた。
初めはこいつが何なのか分からず若干の恐怖を覚えたものの、人だと分かった瞬間、それはただの滑稽な姿にしか見えなくなった。
何年振りだろうか、こんなに声を出して笑ったのは。
何だか、楽しいな……。
「ちょっとアンタ、人の顔を凝視したと思ったら突然大笑いだなんて、失礼極まりないわね!もう良いわ、アンタの意思なんかどうでも良い!こっちに来なさい、アタシがアンタをしばいてやるわ!」
そう言って、得体の知れない物体、もとい、見知らぬ人間は、俺の手を物凄い力で引いて走り出した。
右足が痛くうまく走れないのだが、そんなことはお構いなしに走り続けるので、俺はほとんど引きずられてしまっている。
手を振り解こうとすると更に力を入れられ、危うく手首の骨を折られそうになった。
何だこいつ、見た目はこんなにふざけているが、相当強いぞ……。
得体の知れない怪力人間と俺は、先程の平原から真逆の方向にある、元々俺が目指そうとしていた森の中へ入って行った。
暫く森の中を走り続けると、派手な巨大テントに辿り着いた。
入口は解放されており、速度をほとんど落とさずにテントへ駆け込まれ、俺はテント内の入り口付近で何かに躓いてバランスを崩し、転倒こそしなかったものの、地面ではない何かに頭部を思い切りぶつけてしまった。
「痛……っ」
ぶつけた所を思わず両手で押さえ、へたり込んだ。
傍(はた)から見たら、悪戯をして親の拳骨(げんこつ)を喰らった餓鬼のような仕草だったかもしれない。
こいつ、俺が躓いた瞬間に手を離しやがった……。
出来た野郎だぜ。
しかし今日は、よく転ぶ日である。
「ふふ、暗いから、くれぐれも足元には気を付けてね。今明りを点けるわ」
「……おい、此処は何だ?随分と物が散乱しているな」
遅すぎるこいつの忠告には耳も貸さずに俺は立ち上がり、足元に転がっている物を軽く蹴飛ばして、敢えて威厳を感じさせる声色でそう言った。
直前の俺の行動、そんなもの、この暗がりの中でこいつに見えた筈がないからな。
百歩譲って躓いたことには気付いたとしても、その後に晒した俺の無様な姿など、見えた筈がない……よな、うん。
得体の知れない怪力人間は、コツコツと堅い足音を鳴らしながらサーカス小屋の中を歩き回り、幾つかのランプを点けた。
改めて辺りを見回すと、異常に広いサーカス小屋の中は巨大なボールやら玩具のような物やら、謎のガラクタが大量に散乱し、足の踏み場を確保するのもやっと、という程に、汚かった。
「安心しなさい、此処なら誰も入って来れやしないから。ちょっぴり特別な結界が張ってあるのよん。さて、と」
「ん?」
そう言って得体の知れない怪力人間は、訳が分からずに無抵抗な俺をベッドに押し倒し、ご丁寧に俺の下半身をベッドの上に納めた上で、ゆっくりと俺の上に跨った。
所謂、馬乗りだ。
しかも、体勢は四つん這いだ。
しかし、セレーナ姫にされた馬乗りとは決定的に違う点がある。
俺の顔に、こいつの尻が向けられているのだ。
「さあ、お楽しみの時間の始まりよん!」
ちょっと待て。この状況はまさか……え、えええ!?
「ほら、暴れないでじっとして。すぐに終わるからね~っと」
得体の知れない怪力人間、もとい、ただの変態は、俺のズボンの裾をまくりあげ、靴と靴下を剥ぎ、足先を撫でる様にそっと触れた。
何とも言えない感覚に、虫唾が走った。
「ぎゃあああああああああああああああ!」
……………………。
「ん……」
――あれ、此処は何処だ?俺は一体、何をして……?
「お目覚めね」
何となく聞き覚えのあるような、ないような……兎に角、無性に腹の立つ声がする。
「突然叫んだと思ったらそのまま気絶したからビックリしたわよん。まああの怪我じゃ無理もないか。気付いてた?アンタの右足、ポッキリ折れてたのよん。こんな状態で強く手を引いちゃってごめんね」
ああ、そうか。俺はセレーナ姫暗殺に失敗し、逃げていたんだっけ。
嫌なこと、思い出してしまったな。
通りでよく転ぶわけだよ、そりゃあ骨が折れてるのに走ってた方が奇跡というものだ。火事場の馬鹿力の防御版といった所だろうか。
恐らくセレーナ姫とやり合った時か、若しくは逃げている途中でいつの間にか折れていたのだろう。
何もかもが失敗の連続だな。本当、何もかも……。
「足……痛い?アタシ、回復魔法は使えないから、取り敢えず固定しただけなの。ごめんね、きちんと治してあげられなくて」
「別に。頼んでないよ」
あれ、そういえばこいつって、こんな顔してたっけ?いや、もっと全然違う顔立ちをしていた筈だ。
「お前……整形したのか?」
「むっきいいいいいいいいい!何よ何よ、それが命の恩人に対する態度なの!?もーう知らない、アンタの事なんか、もう知らないんだからね!」
何だかよく分からないが、怒らせてしまったようだ。
「おい、何を怒っているんだ、見苦しいぞ」
「なーんですって!?レディーに対して整形とか見苦しいとか、アンタってば失礼ぶっこき過ぎよん!成敗してやる、アンタなんか成敗してやるう!」
そう言って、レディーと名乗る怪力変態人間は、ポカスカと俺の胸を叩いてきた。
しかし、先程俺の手を引いた時の馬鹿力とは打って変わって、まるで猫をじゃらしているかのような、優しい叩き方だった。
「……お前は俺の彼女かよ」
思わずため息が出た。
こいつと居ると、自分が自分でなくなる気がする。
「そうだ、アンタの名前、教えてよん。アタシはルルよん」
「お前みたいな得体の知れない奴に名乗る名などない」
「むっきいいいいいいいい!」
「だってそうだろ。お前、最初に会った時のあの顔は一体何なんだ。奇妙過ぎて人かどうかも分からなかったぞ」
雨の中、大の字になって寝ていた俺に声を掛けた時のこいつの顔。
それはピエロのようでもあり、はたまた爬虫類のようでもあり、兎に角、気味が悪く、そして滑稽でもあった。
更にその身なりは無駄に綺麗なショート丈のドレスにハイヒールの靴と、上から下まで全くもって意味が分からなかった。
それが今は一転して、きりっとした眉、ぱっちり開いた目、筋の通った鼻と、なかなかどうして格好良いではないか。
一つだけ難点を挙げるとしたら、ダサい帽子だな……。
「ああ、あれはショーの時のメイクのままだったから。アタシ、こう見えても大道芸人なのよん。独りぼっちの、ね」
こう見えても、というか……ある意味、見たままなのだが。
「アンタこそ、何だってそんな怪我を負ってまで走り回らなきゃならなかったわけ?実はアタシ、遠目から見てたのよん。アンタが物凄い勢いで走って来て、無様にずっこける様をね。なかなかの転びっぷりだったわよん。もしかして、何かに追われてたんじゃないの?」
「……お前には、関係無いだろ!」
きつくそう言い放った。
地雷を踏む、とは、まさにこのことだな。
女一人殺す任務も遂行出来ず、その女に顔を見られ、反撃の際に怪我を負わされ、満足に逃げることも出来ず、生きることを諦めかけていた、なんて、言えるかよ――!
「そう……。アンタの為を思って匿(かくま)ったつもりだったけど、有難迷惑だったかしらね。ごめんなさいね」
――あれ?
さっきまで、あんなにも、にこやかだったのに、何だよ。急に捨てられた子犬みたいな顔しやがって。
俺が苛めたみたいじゃねえかよ、後味悪いな。
「あ、あり……」
「え?」
「あ、いやその……有難迷惑って言葉を考えた奴って、凄いよなっ!」
「……そうね。それじゃ、アタシは買出しに出掛けて来るから……アンタは少し休んだら何処へでも好きな所に勝手にお行きなさい。じゃあね」
「あ、おい、待てよ!」
――行ってしまった。
ありがとう、と、本当はそう伝えたかったのだが、うまく言えなかった。
ルル、か。
何か……気の良い奴だったな。
ふと、ハースのことを思い出した。
先程にも述べた通り、俺の記憶は五年前からしか残っていないが、少なくともハースは俺の意識が生まれた時からそこに居た。奴の話では、どうやら幼い頃からの知り合いだったらしい。
ハースと共に育った、というのは流石に言い過ぎかもしれないが、俺にしてみれば、俺という人間が存在した時からずっと一緒に生きてきた、唯一の仲間だ。
苛つくこともよくあったが、それも含めての大切な仲間だ。
あいつは、うまく逃げ切れたのだろうか。俺よりはるかに耳が利く奴だが、この雨だからな……。
「まあ、こんな所でグダグダ考えても仕方ないよな」
痛む右足を庇いながら、ゆっくりとベッドから降りた。
普通なら折れた足をちょっと固定しただけで立てる筈はないのだが、あいつ、余程上手に手当てをしてくれたのだろうな。痛みはするものの、動けない程ではなかった。
――きちんと、お礼、言えば良かったな。
見ず知らずの俺を、頼んでもいないのに直感的に匿い、手当もしてくれたなんて、有難い以外の何物でもない。
分かってはいるのだが、どうも素直になれない自分がいる。
「兎に角……ハースのことも気になるし、一度本拠地へ戻ろう。責任を取ることになったら、それはそれで、受け入れるしかないな」
テントを出た瞬間、そこには驚くべき光景があった。
居る筈のない人物が、そこに居たのだ。
「ハース……ハースじゃないか!どうして此処が分かったんだ?良かった、心配していたんだぞ!」
思わず抱きつき……は流石にしなかったが、俺は足の痛みを忘れてハースの元へ駆け寄り、身体をざっと確認した。
びしょ濡れで小さな傷こそあるものの、大きな怪我はしていないようだ。
「しかし本当によく此処へ来られたな、反対方向へ逃げた筈だろう?」
「…………」
「?」
おかしい。
いつもはあんなに明るくお喋りなハースが、無言だと?
「ハース、どうした!一体何があったんだ!?何か言ってくれよ、ハース……おい、ハース!」
真顔で俺の目を見るハースの肩に手をかけようとした瞬間、ハースは驚異の瞬発力で後ろへ下がり、背負っていた槍を構えた。
ん?槍を……構えた……?
「おいハース、何の真似だ、笑えない冗談はよせ!」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、ハースはフェイントでもかけるかの様に、華麗に左右に跳躍しながら近付いて来て、俺に槍を突き出した。
間一髪のところでかわしたが、折れた右足で着地してしまい、激痛が走った。
おいおい、嘘だろ。折角会えたのに、こんなことってあるかよ。
ハースの奴、一体どうしたんだ。誰かに操られているのか?
「ハース、目を覚ませぇ!」
決死の覚悟でハースの顔を殴ろうとした。
ハースの悪ふざけが過ぎた時、いつも俺がしていたように。
思い切り、力を込めて。
精一杯の、情を込めて。
「――っ」
しかし、俺の全身全霊を込めたアッパーカットは見事によけられ、勢い余った俺は大転倒した。
足首が不自然に内側を向いているのが分かる程に、俺の右足は変形していた。
もう右足は使い物にならないな。
それ以前に、俺の存在価値が、もう……。
「くっ……ハース……頼むから、目を……」
無様に転倒した俺を見下すようにハースは俺の頭上に立ち、言葉を遮る様に腹を蹴って身体を仰向けにし、槍の先を喉元にゆっくり下ろした。
僅かに槍先が刺さった喉から虚しく血が滴った感覚があった。
何をどう間違えてこうなってしまったんだ?唯一の仲間だと思っていたのに。
ハース、お前にとって俺は一体何だったんだよ。
お前が作ってくれた俺の存在意義は、一体、何だったんだよ――。
槍を見ていた視線をびしょ濡れのハースの顔に向けると、俺は驚愕した。ハースの目が、真っ赤に充血していたのだ。
ハース……泣いている、のか……?
「ハ……」
ハースの名を呼ぼうとした瞬間、槍が高く持ち上げられた。
――ああ、遂にとどめを刺されるのか。
まあ、いいか。
俺が今日までこうして生きてこられたのはこいつのおかげだからな、そのハースの手で終わらせられるのなら仕方がない。
ハースとは長い付き合いだからな、多少の無礼は許してやらないでもないんだ。
本当だぜ、お前を本気で鬱陶しいと思ったことなんて、ただの一度も、なかったんだ。
大切な仲間だって、思ってたんだぜ。
俺は目を瞑り、ハースの行動を受け入れた。
「…………」
あれ?何故刺してこないんだ?
――突如、頭上で何度か物音がした。
驚いて目を開けると、先程まで目の前にあったハースの姿が見えない。
上半身を起こして辺りを見回すと、何故か少し離れた所でハースが腹を抱えて蹲っていた。
ハース愛用の槍は柄の部分が砕かれ、無造作に散らばっていた。
「ハース?どうしたんだ、ハース!」
「動いちゃ駄目よん!」
「!?」
駆け寄ろうとした俺を、聞き覚えのある声が引き留めた。
「お前はさっきの……おい!これは一体どういうことなんだ!?どうしてお前が此処に居るんだ!?」
見ると、ルルは何かの拳法のような構えを取っていた。
「アンタの事が、やっぱり心配でね……近くで様子を伺ってたのよん。それより、この子が、アンタの敵なんでしょう?大丈夫よん、アタシがアンタを守ってあげるからね!安心してそこで寝てなさい!」
「違う、違うんだよ!そいつは俺の仲間なんだ!」
「え?何ですって!?」
ルルは俺の言葉に戸惑い、一瞬、気を逸らしてしまった。
ハースがその隙を見逃す筈はなく、刃先のみになった槍を拾うと苦無(くない)の様に構え、ルルの方へ跳躍し、手を伸ばせば届く程の至近距離まで詰め寄り、背後を取った。
まずい、これはハースの最も得意とする技を繰り出す前兆だ。これを喰らったらいくら怪力のルルであっても即死だろう。
「ルル、逃げろ!それを喰らったら一瞬でお陀仏だぞ!」
そう叫んだ直後、
「いやあああああああん!」
と、ルルが突然に奇声を発し、ルルの身体は青白く発光した。
ハースは技を繰り出すことをせず、石化の魔法でも喰らったかのように、その場で固まった。
「駄目駄目駄目、そんな所に立っちゃ、駄目ぇ~!」
身体をくねらせそう言ったかと思うと、後ろで固まっていたハースを、上半身をひねらせ目にも止まらぬ速さで裏拳で殴り、そのまま暴れるようにハースの全身を何十発にも亘って殴打した。
突然に暴れだしたルルの強さは目を疑う程で、全身に大怪我を負ったハースは崩れ落ちるように倒れ、動かなくなった。同時にルルも力尽きたようにその場に倒れ、意識を失っていた。
「ハース、ハース!」
足を引きずりながらハースの元へ行き、上半身を抱き起こすと、ハースの身体の所々から骨が突き出ていた。
折れた骨が皮膚を突き破って出て来たらしい。
これじゃ、もう、助けられない……。
「ハース……何だってこんなことに……」
「……ごほっ」
ハースは吐血した後、微かに瞼を開けた。
「ハース、大丈夫か!?」
「……ラーク、よく聞け……」
「!?」
此処に来て、初めてハースが口を開いた。
数ヶ月振りに聞いたかと錯覚する程にその声は懐かしくて、聞き心地が良かった。
「ラーク、お前はボスに見捨てられた。セレーナ姫の暗殺そのものがボスに仕掛けられた罠だった。俺の任務は、暗殺に失敗し、逃げるお前を殺す事だった。だから、反対方向に逃げた振りをして、こっそりお前の後を追っていた……」
「そんな……嘘、だろ……?」
「嘘なんかじゃない……最近のお前の任務に対する態度はひどかったからな、ボスには全部お見通……」
「馬鹿野郎、そんな事じゃねえんだよ!」
苛立った。
初めて本気で、こいつに、苛立った。
「仲間だと思っていたのに、簡単に裏切りやがって……」
もしかしたら俺は無意識に涙を流していたのかもしれない。
ハースは俺の頬に手を当て、ふっと微笑んだ。
「ボスがセレーナ姫を処分したがっているのは事実だ。お前の代わりに、ジュドウ隊長が明朝、襲撃する予定だ。城ごと、一気にな」
「そんなこと、どうだって……」
ジュドウは俺と同じ隊長格の人間だが、人を見下す態度が気にくわなくて、まともに会話をしたこともない。
「そんな奴のことはなぁ、今はどうだって良いんだよ!それより、俺の問いに答えてくれよ!どうして、俺を裏切ったんだ。どうして、俺を見捨てたんだよ、ハース……!」
「……ラーク、セレーナ姫を助けろ。あの女はただの一国の姫なんかじゃない。お前にとって、生涯かけがえのない存在となる筈だ」
「言ってる意味……分かんねえよ……」
「……ぐほっ。ラーク、セレーナ姫を……助…………」
「!?ハース、ハース!」
「………………」
「ハース――――っ!」
……謎の遺言を残して、ハースは動かなくなった。
俺はハースの亡骸をきつく抱き締めた。
こうして人の身体に触れるのは初めてだった。
雨は相変わらず冷たいけれど、ハースの身体は暖かくて、死んでいるなんて、思えなかった。
もう、動かないなんて。
もう二度と、こいつの餓鬼みたいな笑顔を見られないなんて……。
俺はこれから先、一体どうすれば……。
目眩で俺の意識が飛びかけた時、思い切り左足首を何かに掴まれた。振り返ると、目を覚ましたルルが泣きじゃくりながら俺の足を掴んでいた。
左足の骨も折れるかと思う程に、強い力で。
「ごめんね……ごめんね、ごめんね、ごめんね――っ!」
「――っ!お前ぇ、ごめんじゃねぇんだよ!!」
俺はルルの手を振り払い、ハースの亡骸を丁寧に地面に戻すと、再びルルへ鋭い視線を向けた。
「てめぇ……何してくれてんだよ!ハースが一体お前に何をしたって言うんだよ!あいつはなぁ、俺の大事な仲間だったんだぞ!唯一の大親友だったんだぞ!俺が生きていられるのは、ハースのおかげだったんだ!ハースが……ハースが、俺のぉ……っ!」
ハースが、ハースだけが、俺の生き甲斐だったんだ――。
「ぐ……うわあああああああああああああああああ!」
俺は泣き叫びながら、夢中でルルの顔面に殴打の嵐を浴びせた。
ハースがこいつにやられた数とは比較にならない程に、何発も、何十発も、何百発も、殴って殴って、殴り続けた。
こんなもんじゃない。
ハースの受けた痛みは、こんなもんじゃない――っ!
ルルは何も抵抗せず、目を瞑って、俺の打撃を受け続けた。
「目ぇ、開けやがれ!自分のしたことから、目を逸らすんじゃねえ!」
「くふぅ……っ」
ルルは目を力一杯開いて、俺を見た。
腫れ過ぎて半分も開かない瞼を、一所懸命開けようと力を入れている様子が見て取れた。
ルルの顔はひどかった。
真っ赤に充血した目から滝のように涙が溢れ、ヒクヒクと膨らんだ鼻からとめどなく鼻汁混じりの鼻血が垂れ、唇を強く噛み締め過ぎて口の形が歪んでいた。
いや、口どころか顔全体が歪んでいた。
顔面は痣だらけで腫れあがり、鼻血が広がって口や鼻の周りが赤黒く染まっていた。
「はぁ……はぁ…………」
ひどく悲しんでいた筈なのに、ひどく激怒していた筈なのに、目が合った瞬間、何故だかそれ以上殴る気になれなくなってしまった。
初めて会った時よりその顔は滑稽で、情けなくて、馬鹿らしくて、何故だか笑えたんだ――。
「はぁ……はぁ……すまない、やり過ぎた……」
「うぐぅっ……アタシ、アタシ……うわあーんっ」
――その晩、雨が止んだのを確認して、俺はルルと共にハースの亡骸を火葬した。
火葬、といっても、枯れ草のベッドの上に亡骸を置いて俺の上着を掛けただけのお粗末な物だが。
ハースの愛用していた槍の刃先と、好物だった食べ物をありったけ用意して、一緒に火葬した。
食べ物と一緒に大量の燃料を用意し、ハースの身体と枯れ草に浴びせた。
「ハース、冷たいか?次は灼熱地獄だぜ……。ごめんな、勘弁してくれな」
まんべんなく燃料が浸ったのを確認し、種火の為に用意していた松明(たいまつ)を投げ入れた。
火が一気に燃え盛り、ハースの身体はあっという間に炎に包まれた。
俺とルルは近くに腰を下ろし、その様を見届けた。
煙の行き先を見ると、漆黒の空に満天の星と大きな満月が光り輝いていた。
「ハース……今まで、ごめんな」
思えば、いつも迷惑ばかり掛けていた……。
五年前のある日、俺は何故か全身に傷を負った状態で、草原の中に倒れていた――。
「う、ん……」
……何だ、寝ていたのか?
此処は何処だ?俺は何故こんな所に居るんだ?
「うぐっ」
起き上がろうとした瞬間、全身に激痛が走った。
俺の身体には無数の切り傷があり、その傷に蝶共がたかっていた。
「ひっ……こいつら!」
俺は身体にたかっていた虫共を急いで振り落とし、ボロボロの身体を引きずるように辺りを散策した。
何だ、一体どうなってるんだ。どうしてこんなことになっているのか、思い出せない……。
「ラーク!ラークなのか?おーい、ラークー!」
「?」
突然、後方から男の声が聞こえた。
何となく振り返ってみると、その男は凄い勢いで俺の方へ駆け寄って来た。短い金髪に、緑の瞳をした色白のその男には、全く見覚えがない。
「やっぱりラークだ!良かった、心配したんだぞ!よく生きててくれたなぁ!」
そう言って、力強く抱き締められた。
「うっ……離せよ。ラークだと?何だそれは、誰の事だ。人違いだぞ。俺はそんな名じゃない。俺は、……俺の名は、えっと……」
何故だ?思い出せない。俺の名は、何だ……?
「ラーク、お前まさか、記憶が!?……兎に角、こっちへ来い」
俺はその男に手を引かれ、彼の仮宿だという小さなテントへ連れられた。
そこで傷の手当てを施され、食事も与えてくれた。
「しかし、困ったな。まさか、記憶喪失になっているだなんて……。でも、無事で良かった。お前は俺とペアで暗殺の任務をしている最中に、敵に不意を突かれて襲われ、そのまま拉致されたんだ」
話を聞くと、この男はどうやら拉致された俺のことを、何日も探し回っていたらしい。
どういう経緯で敵の手から逃れたのかは分からないが、俺は奇跡的な生還を遂げたようだ。
俺の身体の傷がほぼ治ると、ハースはコーティと呼ばれる組織へ俺を連れ出した。どうやら元々そこで上級隊長を務めていたらしい。
「ラーク、ボスはお前がもう死んだと思っている。記憶を失った事を知ったらもしかしたら解任されるかもしれない。それどころか、下手したら殺してさよならだ。俺がフォローするから、何とか話を合わせて、任務失敗の報告をして欲しい。大丈夫、心配するな。時機に全部思い出すさ!」
そう言って、コーティの本拠地へ連れて行かれた。
俺は訳が分からなかったが、特に行く宛もないので、ひとまずこの男の言う通りにし、ボスとやらへ、任務の報告を行うことにした。
どうやら記憶の事は気付かれなかったらしく、失敗の代償として隊長への降格の処分を受けたが、上級隊長時の記憶がないので痛くも痒くもなかった。俺を助けた男もまた、隊長から隊長補佐へと降格されたようだ。
そしてそのままの流れで、俺はコーティの隊長として、様々な任務を与えられ、遂行するようになった。
剣術は身体に叩きこまれているようだが、頭の回転がついて行かず、何度も任務を失敗しかけた。
しかし、毎回ペアを組む男……俺を草原で助けてくれた男が、上手くフォローしてくれるおかげで、大きなミスはしなかった――。
五年前、傷を負って徘徊する俺を助け、コーティの隊長という職を取り戻させた男。
その男こそ、ハースだ。
徐々に俺は任務に慣れ、ハースとも親しくなっていった。
昔の記憶は俺にはないが、そんな物は必要ない位に、ハースとは意気投合した。
困った時には助けてもらい、落ち込んだ時には励ましてもらい、時には殴り合いの喧嘩もして、仲を深めていった。
ハースはいつだって、俺の傍にいた。
頼んでもいないのに、世話を焼いてくれた。
俺の為に、全身全霊、尽くしてくれた。
そして、笑わせてくれた。
記憶も身寄りもない俺の人生に、光を灯してくれた。
あの時、ハースが俺を見付けだしてくれなかったら、俺は今、こうして生きていることは、なかっただろう。
何かを後悔することも、誰かを大切に想うことも、きっと、なかっただろう。
俺が俺でいられる理由は、ハースが俺の名を呼び、俺のことを想ってくれるからだった。
俺はいつも、ハースに背中を守ってもらっていたんだ。
――それなのに、俺はどうだ?
俺はハースの為に、一体何をしてあげられたのだろうか。
ハースの人生に、光を灯すことは出来ていたのだろうか。
俺はハースにとって、頼りになる仲間でいられたのだろうか……。
「ハース、俺はいつもお前に頼り切っていた。何かあってもお前が助けてくれるって思っていた。そんなんじゃ、駄目だったのにな。俺も、お前の為に、もっともっと、頑張らないといけなかったんだよな。本当に、ごめんな。最後の最後まで、俺は役立たずで足手まといだ。こんな俺にやれることなんて、もう、ありそうにないよ。だからさ、俺も、そっちに行っても、良いかな……?」
「!? ちょっと、アンタ何して――」
俺は立ち上がり、ハースのいる炎の中へ、足を一歩踏み入れた。
「これからはさ、俺がお前の背中を守るよ、ハース……」
「ちょっと、やめなさい!戻ってきなさい!」
ルルが俺を引き戻そうと手を差し出していることは分かっていたが、俺はそれに応えなかった。
ハースの屍の隣に、思い切って仰向けに寝転がり、目を瞑った。
熱いな……。
丈夫な防具服を身に纏っているので、身体はすぐには燃えず、猛烈な熱気が服の隙間から流れこんできた。
頭部が焼けかけた時、突然熱さが和らいだ。
驚いて目を開けると、炎は相変わらず俺を包んでいる。それなのに、熱くない。一体、どういう事だ?
(馬鹿野郎、何していやがる!)
「!?」
今のは何だ?
何かが俺の頭の中に直接言葉を掛けてきたような……!?
(何だってお前はいつもそうなんだ、ラーク。いつも……いつもいつも、俺に手間を取らせやがって……!)
「ハース、ハースなのか!?」
俺は起き上がり、燃え盛る炎の中、ハースを探した。しかし、姿は何処にもない。
(ラーク、お前を裏切り、命を奪おうとした事は本当に申し訳なかった。ボスの脅迫に逆らう勇気が、俺にはなかった……。お前を殺さないと、家族を殺すと脅されてな。俺は、お前より家族を取ってしまった。ずっと一緒に苦境を乗り越えて来た仲間だったのに、お前を選んでやることが出来なかった。俺にはもう、お前に想われる資格はない……許される筈がない。だからさっき、お前の問いに何も答えられなかった。お前に恨まれるのが怖かったんだ。でも、お前が苦しんでいるのは、やっぱり、放っておけない……っ)
「そんな……俺のせいで、お前の家族までもが危険に晒されていたなんて……」
俺は一体どこまで、ハースに迷惑を掛けているんだよ――っ!!
「ハース、すまない。俺のせいでお前を苦しませて、本当に、すまない。どうして俺はこうなんだ、どうして何もうまくいかないんだ。俺にもっと力があれば、お前も、お前の家族も守れた筈なのに。俺は、お前のことが、こんなにも大好きなのに……っ」
(ラーク……ありがとう。そうだよな、お前は、そういう奴だよな。お前を信じて、きちんと伝えれば良かった。自分で判断しないで、相談していれば良かったんだよな。助けを求めていれば良かったんだよな。ごめんな。お前はいつだって、俺の大事な大親友だよ。今までも、これからも、ずっとだ――)
「ハース……」
(あいつに、お礼を言っておいてもらえないか?俺を止めてくれてありがとう、お前のおかげで大事な親友を失わずに済んだ、って)
「ああ……伝えておくよ」
(ラーク、愛してるぜ……!!)
――突如、俺を包んでいた炎が消え去り、雨は止んでいる筈なのに俺はずぶ濡れになっていた。
どうやらルルが、ショーに用いる浴槽程の巨大な桶のような物に川の水を汲んで炎を消したらしい。
「……馬鹿!馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿!!」
ルルは泣きじゃくりながら俺を抱き締め、そう言った。
ルルの心臓の鼓動は、俺の心臓を押し潰すんじゃないかと思う程に激しかった。
余程急いで水を汲みに行ってくれたのだろう、身体には木の枝で引っ掻いたような、真新しい切り傷が幾つも付いていた。
「心配したんだから!間に合わなかったらどうしようって、本当に怖かったんだから……っ!」
ルルの泣き顔は、相も変わらずひどかった。
思わず失笑する俺を見て、ルルは頬を膨らませた。
ただでさえ腫れあがった頬を膨らませたその顔は増々に滑稽で、俺はルルをきつく抱き返した。
「ラーク」
「え……?」
「ラークだ、俺の名前」
「…………」
「ルル、ありがとうな。右足、手当してくれて。お礼、ちゃんと伝わってなかっただろう?また会えて、良かったよ」
「……そんな、ありがとうだなんて。アタシはアンタの大事な親友を……」
抱き締めた俺の手を振り解き、ルルは俯いてしまった。
「よく聞け、ハースからの伝言だ」
「え!?」
「止めてくれてありがとう、だそうだ。お前のおかげで大事な親友を失わずに済んだから、って……そう言ってたぞ」
「……………」
「……………」
数分間の沈黙が続いた。
ルルが何を考えているのか分からなかったが、それを問い質そうとは思わなかった。
誰にでも地雷というものはあるんだ。
こいつが俺の地雷を踏んだように、ハースはこいつの地雷を踏んでしまった。
ただ、それだけのことだったんだ。
「ごめんね、本当……」
俺の考えに気付いてか、ルルは小声でそう言った。
もし雨がまだ降っていたら聞こえなかったかもしれない。
消え入りそうな声でルルは続けた。
「アタシね、昔、背後から突然知らない女に襲われたことがあってね……ひどい体験だったわ。それ以来、急に誰かに背後に立たれると、どうしても気が動転してしまって、反射的に相手の動きを止める魔法を発動し、我を忘れて暴走するようになってしまったの……。アンタの親友、だったのよね?本当、ごめんね……っ!」
ルルはまた泣きだしてしまった。
子供のように、大声をあげて。
だから、やめてくれよ、そういうの。
俺は案外、人に泣かれると動揺するタイプなんだぜ。
──ペチッ。
俺はルルの真っ赤に染まった頬を引っ叩いた。
結構、強かったかもしれない。
「ひいぃっ。何するのよん!」
ルルは明らかにうろたえていた。
俺は続けて五発程、ルルの頬に往復ビンタを浴びせた。
「きゃあああああ!やめてよう、アタシの美しい顔があああああ!」
ルルは身体をうねらせながら、顔を手で必死に覆い隠した。
美しい顔って……鏡を見せてやりたいな。俺が今叩く前から、相当歪んでいたんだぜ。
他でもない、この俺の手によって、な。
「何するもこうするもないだろ!?人のことをアンタアンタと適当に呼びやがって!名前を聞いたのはお前だろ、ちゃんとラーク様と呼びやがれ!」
「……はあぁ!?」
ルルはベソをかきながら俺を睨んだ。
よし、これで良い。
済んだことをいつまでも悔やんで謝罪されても鬱陶しいんだ。
湿っぽい雰囲気は苦手なんだよ。
「ルル!」
「え?」
「お前が名前を呼んでくれないとさ、誰も居なくなるんだ」
「何がよん?」
「俺の存在を、認めてくれる奴」
「………………」
ルルは下を向いて微かに微笑んだ。
どうやら吹っ切れてくれたようだ。
「さて、今夜はもう寝るわよん!明日も、明後日も、アタシ達の人生は果てしなく続いていくんだからね!寝れる時に寝ておかないと後々後悔する日が来るかもしれないわ!ちょっとアンタ、そのまま外に出ててね。レディーの着替えに立ち会えるのはレディーだけなのよん!」
「ああ、分かったよ。着替えが終わったら呼んでくれ。こんなびしょ濡れの状態で一晩中閉め出すとか、そんな冗談はノーセンキューだぜ」
「アイアイサーン!」
そう言ってルルはスキップをしながらテントの中へ入って行った。
全く、名前を呼べと言っているのに、言葉が伝わらない野郎だな。
まあ無理もないか。得体の知れない物体、だもんな。
――数分後、着ぐるみのような寝巻姿になったルルが満面の笑みを浮かべながら俺を迎えに来た。
その姿があまりに面白過ぎて、思わず俺は左足を軸にして回し蹴りを喰らわせてしまった。
その場に倒れたルルはギャーギャーと何かを叫んでいたが、俺にはよく分からなかった。右足が痛すぎて、ルルの言葉なんざ、一言足りとも俺の耳には届かなかったんだ。
その晩、俺達は仲良く川の字になって眠った。
俺と、ルルと、ハースの三人で、仲良く――。
コア・ハート