このろくでもなき素晴らしい世界
プロローグ
そういえばこの最近寝てない日が続いていた。だからか、今日は眠るように寝てしまった。いや、本当に眠ったのだーーー
なぜ朝から馬糞の鼻を割くような強烈な匂いを嗅がなくてはいけないのだ。というよりなぜ俺は藁の上で寝ている。ちょうどすぐ横に馬糞があり、その臭いが目覚ましがわりとなり、俺の目は朝だが冴えていた。
辺りは山々に囲まれていて、この馬小屋と隣にある小さな家だけがポツンとある。少し離れた所には城下町も見える。
しかし、この一見何かのゲーム世界でありそうな定番の風景が何故俺の目の前にあるのだ。いやまさか、これは夢なのか、そう思い膝をつねるも予想通り痛い。
俺が呆気にとられていると家からシワシワの老父が出てきた。
「金島祐(カネシマ ユウ)じゃな…」
老父は皺だらけの口元をさらにシワシワにさせて苦しそうに言った。
何故俺の名前を知っている…?と声に出したつもりが、喉に何やら妙な物体で痞えて出てこなかった。
すると老父は着ている白いTシャツの中からぐしゃぐしゃになった一枚の紙を出し、それを雑に広げる。
「ルール」
ガラガラな老父の声はとても聞きずらいが、何か大切なことを言いそうで、俺は全神経を耳に集めた。
「一ヶ月に一万ギルを納入するべし…、職業は道化人であり転職はできない…えーー…、
また、現実世界に戻る事はできない…」
老父は文面の内容をそのまま読んでいるので淡々とした読み方だ。読み終わると、紙をしまい、家の中に戻っていった。
しかし、ルールとは一体どういうことだ。そして、現実世界に戻れないというのは…ここはどこなのか…。
俺はいい加減臭いに耐えきれず馬小屋から出て再度思案すると、漠然とした考えを地面に箇条書きで記入した。
*俺は転生し、おそらくここは異世界。
*そして、おそらく現実世界で俺は死んだ、ここは天国なのかも。
*道化人は意味がわからない。
*おそらくなかなかの制度的な束縛がある。
俺はその箇条書きで地面に記された文を見て、決意した。
よし……俺の第二の人生、花を咲かせようじゃないの!!
さて、順風満帆な第二シーズンを送るにはやはりお金は欲しいものだ。
実はこう見えて俺は多彩なのだ。芸術や音楽、スポーツ、勉学、あらゆる美点が確固としてあり、何でもこなすことができる。
「城下町だよな…」
俺はお金を集めるため街に出ると、そこはもはや城下町ではない…言うなればひとつの王国だ。だだっ広い壁門を警備兵に睨まれながらも抜けるとその町の広さに圧巻される。ほとんどがレンガ建てで、市場もあれば、目の前には豪華な噴水もあり、異様な歪をした塔が何個も点在している。全身が毛で覆われたウルフがいれば、耳の長いエルフがいたり、背が低いがその小ささゆえに大きな力を持ったドワーフがいたり、中央通路には大きなトカゲが荷物車を引いている。しかし、ほとんどが俺と同じヒューマンで少しホッとする。
ここは多種族共存の王国なのか…。
しかし客観的に見ると、安物の上下ジャージ姿の俺はかなり浮いていることだろう。
俺は取り敢えず”クエスト受注所”を探すことにした。異世界だ、勿論あるだろう。冒険がない異世界なんて異世界じゃない。ロマンが必要だ。
目の前にある豪華な噴水の前にはどうやらこの町の地図らしきものが貼られていたので俺はすぐに駆け寄って”クエスト受注所”を探す。
「あった、結構近いな…」
”クエスト受注所”は赤のばつ印で示されており、案外その場所は近く…というか目の届く範囲にあった。
噴水の奥にある、どでかい木とレンガで造られた建物には大きく”クエスト受注所”と書かれてある。
俺は早速中に入ると、そこにはきちりと装備された猛者達がいるではないか。いや、当たり前なのかもしれないと、俺は思ったが、すぐに気を改めてカウンターに足を進めていった。
そこには美人なお姉さんとでもいうような、しっかり仕事着を着用し、背筋がすんと伸び、しかしはつらつとした雰囲気を出した女性がいた。
「クエスト受注ですか?」
活溌溌地のその事務的発言は何度も洗練されているが、まだ潤いがあり、初々しさがある。
「…はい」
彼女に見とれ、少し動揺しながら同意した。
「では難易度はどうされますか?」
「一番簡単なものでお願いします」
ただ、後ろで挑戦者達が装備品の点検をしたり笑いあったりしているせいか、彼女の美しさはどんよりとこの空間に押しつぶされている。
すると、女性は引き出しから何枚もの黄ばんだ紙を取り出し俺に渡した。
「どうぞレベル一のクエスト一覧です。中には契約金がかかる場合もございますので、よく概要をお読みください」
ニコッと笑いお辞儀をすると、俺の後ろにいた男に対応を移す。
俺は渡されたクエスト用紙を見た、おそらく自分でクエストを決め、別のカウンターでその決めたクエスト用紙を渡し、受注するのだろう。勿論残りの用紙は返却する。
さて、どうするか。
俺はパラパラと見ていった。ほとんどが契約金のかかるものばかりだ。俺は今無一文だから契約金のかからないクエストを選ばなければいけない。
俺はクエスト用紙から契約金のかからないものとを分け、数少ないその中から一つを厳選した。
*始まりの平原に生息するスライムを五匹討伐せよ。契約金なし。
報酬金はどうやら記入されていないようだ。
しかしなぜ俺はこのクエストを選んだのか。それはスライムという単語から、このクエストは誰でもクリアできるのが決まっている…所謂チュートリアルのような意味を含んでいそうな簡単なクエストだと連想したのだ。
早速別のカウンターに行き、そのクエストの用紙を渡した。
これで受注完了だ。
目的地はこの町を出た草原だ。近い。
なぜだか途端に興奮してきた、これが冒険の始まる前の感覚なのだろうか。
そして俺は三分もかからないうちに町を出て目的地に着いた。
緑一色のデコボコした草原。見渡しが良く心地よい風が吹き、規則正しく生えた雑草は天に向かってわれが我よと生え、すぐさまにでも寝転びたくなる。現実世界にこんな理想郷は存在するだろうか。始まりの草原という名前にふさわしいこの場所は、俺の中の全血液をクリーンするほどに荘厳だ。
点々と、青い生き物ーーおそらくスライムが蠢いているが、さほど危険臭はせず、むしろ愛くるしいくらいだ。
「五匹だったよな…たしか…」
俺は自分の格好を確認する。
そういえば装備がない。防具はいいとして、何かしら武器がないのは痛い。
仕方なく俺は近くの木下に落ちてあった、少しばかり頑丈そうな木を武器代わりにすることにした。歪な形の木は中々手にフィットしない。
若干不満はあったが俺は、何度も持ち直しながらスライムの近くに駆け寄った。
「…プニプニしてるな…触ってみるか…?」
近くでスライムというものを見るとやはり愛くるしかった。つやつやした表面は柔らかそうで少し触れてみたいと感じさせる。俺にはこの生き物を攻撃できるか少しばかり自信をなくした。あまりにもの可愛さに攻撃をするのは可哀想なのだ。
そして俺は真っ先に出た好奇心を実行しようと、スライムの体を触ろうとした。
しかし、途端にスライムは回れ右をし、俺の方をまん丸の目玉が睨みつけ、ぷよんと跳ねると俺に体当たりをしてきた。
俺は少しばかり飛ばされた。当たった感触は柔らかであったが、中にずっしりと重みがあり、思ったよりダメージは大きかった。例えるならば、成人男性に腹を殴られるくらいだ。
「ーーゲホッ」
後から来た腹の痛みに、俺は腹部に手を当てた。
すると、スライムはまたもやこちらに向かって体当たりの動作を取る。
待て待て、次は俺のターンだろ。
しかしそんな願望は届くはずもなく呆気なく二度目の攻撃によって飛ばされる。
次は顔面だった。これも成人男性に殴られるくらいに強烈だ。
「ーーあ…」
意識が飛びそうになり、咄嗟に鼻をおさえるとどうやら鼻血が出たらしく、手に大量の血が付いた。
俺はすぐには立てなかった。鼻血を止めるため、咄嗟に空を仰ぐも、その間に三度目の攻撃が始まろうとしている。
待て、ちょっと待て、可愛いと思った俺が間違いだった。あわよくばマイホームで飼おうと思った俺の愚蒙さに腹が立つ。
スライムはぷよんぷよんと滑稽な音を立てているかのように跳ねている。おそらく第三の攻撃の準備だろう。
流石に次奇襲を食らえば、意識を失うかもしれない。そう思い俺は必死で立ち上がり、頼りない武器を構えた。
「もう可愛いと思わねーぞ…」
俺はそう言い放つとおもいっきて飛び込み、スライムに向かって武器の木を振り下ろした。
クリティカルヒットだろう感触がした。結果的に俺の攻撃は見事綺麗に命中しスライムは後方に少しばかり飛ぶと、四方八方にスライムの肉片が飛び散った。
その時に同時に木が折れ、俺の掌も切り傷が出来ていた。
息を荒立て、呆然と立ち尽くしている。そして、倒した事による衝撃で、なんとも言えない感覚に襲われた後、腰を下ろす。
「何だこれ…一匹で限界なんだけど」
やがてバタッと仰向けになり、雲ひとつない美しい空を見る。
ようやく息が整い、負傷した箇所を撫でる。
「俺の不甲斐ない固定観念のせいか…」
スライムは弱いと、俺は決めつけていた。しかし、実際戦ってみてそんなことはなかった。
俺はこの後悔をそっと胸にしまうとゆっくりと起き上がる。
「リタイアしましょう」
誰に対して行っているのではない、ただ自分に言い聞かせているのだ。
しかし、真っ当な判断であろう。実際このまま連戦すると、早い話ゲームオーバーになりかねない。つまり死ぬ事になりうるのだ。
俺は仕方なく、しかし凛々しい表情で街に帰った。
しかし、俺はまだ気づいていなかった。スライムは強くなどない。この世界では義務教育を終えた子供でも傷ひとつなくスライムを討伐することができるのだ。
そう、俺は間違っていた。スライムが強いのではなく、俺が極端に弱いのだ。
ただ、まだこの世界に来たばかりの俺には到底理解できまい…。
リタイアはしたものの予想をはるかに超えた難易度であり、心身ともに俺は疲れ果てて、噴水の前に設置された木椅子に腰掛け、その周りに充満したよだれが出てきそうな香ばしい匂いを味わいながら物思いにふけっていた。
今まで意識していなかったが俺は腹が減っていた。おそらくこの世界に転生された時からかなり空腹状態であったのだろうが、先ほどのクエストで更に上乗せされており、もう我慢できない。
仕方なく俺は近くの給水器で喉を潤し、平静を保とうとするも腹は正直で、滑稽な音が体内から発せられる。
とりあえず何か食べたい…。というより、この世界の食べ物の味は俺にあうのだろうか。しかし、この匂いは悪くない…熟成された出汁の香りだ。
周りから見て自分はどんなに恥ずかしきものか、しかしそんな事に自意識になるエネルギーはなく、どんなに笑われようともこの香りを大袈裟に嗅ぐことは止められない。
いつの間にか唾液が垂れてきていて、流石に周りから人がいなくなってきているのに気づいた。
身体中が痛く、腹が極度に減り、周りから白い目を浴び、訳のわからない場所で一人居座っていることはどんなに虚しいことか。
俺はいい加減だ液を袖で拭うと、何やら騒がしい集団が近づいてきた。
「クリスティア様のお通りだ!!」
集団の前方を歩く騎士が叫ぶ。
後方には豪華な馬車があり、その両方向にも騎士が淡々と歩いている。
俺は中にどんな高貴な方が乗っているのか気になり、少し怪しげだが覗くようにして見た。
少しばかり中が見え、そこには三人の高貴な人が乗っており白いドレスを着た少女が二人の男に挟まれて座っている。
その少女は少しはにかんでおりすらっと伸びた腕を上げ左右に振っている。
一言で言うなれば妖美で、彼女の妖艶さに俺は目が釘付けになる。綺麗な放物線を描いているかのような輪郭の中に妖艶な目鼻が凛としてあり、とろけそうな唇には妖美さが募っている。
既に空腹感は何処かに飛んでなくなっており、今はただ彼女の美しさに魅了されている。
俺はもう少し近くで見たいと思い近寄ると、騎士に一喝されのけぞった。
その時だった。俺は彼女と目があったのだ。そして何か呟いたように口を動かすと、嘲笑うかのように微笑んだ。それも妖美だった。
俺は刺すような冷徹な目に不思議な感覚を覚え、暫し動くことができなかった。
でも確かに彼女は俺に何かを伝えようとしていた。
心臓をえぐられたかの様に感じさせる瞳だった。
彼女は一体何者なのか。しかし俺が知るにはまだ段階が早すぎる。
俺は取り敢えず町を出て元いた馬小屋にもどった。
既に日が落ち始めており、山々が荘厳な影を作りまるで生きているかの様に生命力が感じられ、とても神秘的だ。
相変わらず馬糞の臭いが辺りに充満しており、期すべく俺は不本意ながらも渋々と掃除する。するとちょうど近くに深い水たまりがあり、俺はすぐさま汚れた体を洗い流し、ついでに馬から漂う獣臭もひどかったので馬の体も手で洗い流す。ゴミや毛を馬小屋から撤去し、ベット代わりにワラを敷くと、見事に生活のできる空間へと変わった。
そんな事をしているといつの間にか暗くなっており、俺は藁のベットへ勢いよく飛び乗る。
「腹が減ったな…」
結局今日得たものは何もなく、むしろ失うものの方が多かったのかもしれない。そんな事を考えていると、腹が雄叫びをあげ俺のテンションをがくりと下げさせる。
金が欲しい。しかし、どうすればいいのだろうか。
現実世界の俺もこんな感じだった。考えて考えて、考えるけれども行動せず、行動すれば失敗する。そんな不甲斐ない自分が嫌になり、俺はニートになった。別に学歴は悪くなかった、むしろ良かったくらいだ。一応二流大学を現役で卒業したし、当時はダメ人間なんかじゃなかった。でもいつからか…いや、そんなことはっきりわかってる。大学を卒業してから俺はダメ人間になったんだ。就職しなかったのは”やりたい事がなかった”からで、多分俺は先について考えてなかった。
学生時代が一番輝いてた…多分もう俺は輝けないけど。
突如俺は急激な眠気に襲われた、今日の疲れがどっと出てきたのだ。眠ればまた明日が来る、今日のことは忘れてまた明日考えればいい。
”リセットボタンはあるから”
そして俺はまた、眠る様に寝た。
「ゴヘ!!」
と淫らな声を朝一番に叫んだ。
びっくりして目を開けると、馬が俺の上に馬乗りになっていたのだ。
流石に一瞬で目は覚め、馬の足を振り退けると馬は「ヒヒーン」と俺を嘲笑う様に泣いて隅の方に走って行った。
「くそ…」
昨日負傷した箇所を運悪く踏まれ、腹部を撫でて痛みを取り除こうとする。
すると、馬小屋の横にある家の中から、老父が顔を見せ、こちらに歩いてくるのではないか。しかも昨日と同じ服装である。
「あ!ジジイ!お前、この異世界転生はどういうことだ!お前が説明してくれたもんな、今俺が馬小屋で餓死寸前なこの状況に陥っているのは何故なんだ!!一言一句丁寧に説明しろ!!」
もはや俺はこのろくでもない世界などからとっとと出て行きたかった。
確かに美しい場所ではある。しかし、生きることだけでもハードなのだ、俺の体のあちこちから悲鳴をあげている。
「どうして異世界転生なんてしたんだ!!何故俺なんだ!?」
俺の悲痛の叫びはちょうどあの荘厳な山岳にまで行き届いているに違いない、きっと、街までも、あの冷徹な目をした女にも…届いているはずだ。
「説明しろよ!!!」
何だか涙が出てきそうだ。
俺が輝いていた時、よくこんな声を出してた、部活をしていたからだろうか。
何故だろう、俺という人間はもう本当にどうしようもないやつで、神様は俺を見捨てたのだろうか。だから、いいことなど起きないのか。でもそんな理不尽認めてたまるものか。
足掻いてやる、足掻いてやる、そう思って足掻いても、俺の辿るレールには蜃気楼に包まれた一方通行しかない。
こんあ不甲斐ない俺に、分岐点はあるのか、もうこのまま俺は蜃気楼に包まれてしまうのか。
すると老父は無表情さに隠れた老人ならではの優しい雰囲気で言った。
「働け」
その瞬間あたかも電流が身体中に流れたかの様な感覚が走り、老父は瞬間移動したかの様に一瞬で消えた。
そして、一瞬にしてあたりから音が消えた様に感じた。まるでこの世界には自分しかいないかの様に。
だが、”働け”という言葉に俺は不意にも強い衝撃が走った。そういう概念がなかったのかもしれない。おそらく老父はこの不甲斐ない俺に決定打となる答えを提示したのだろう。そして、役目を終え消えた。もしかすると老父は所謂俺の”担当”だったのかもしれない。機械的に淡々と説明した口ぶりからして老父はそうであったに違いないと確信さえする。おそらく内臓されたことを淡々と俺に伝えたのだ。
だが、老父の最後の言葉”働け”には感情がなかったなど断定できない。
そうだ。よくよく考えてみれば俺の人生にはいつも周りの人が答えを出してくれていた。だがそんなことも知らず俺はちゃらんぷらんとしてしまっていたのだ。
神様は理不尽じゃない。悪いのは俺だった。
老父は俺にそう伝えたのだ。…伝えたかったのだ。
俺はニヤリと笑みを浮かべる。
「…働け、か…」
このろくでもない世界で過ごすには働くしかない。冒険者にはなれないのだから。
そして、俺はこの数秒の間に蓄積された思いを胸にそっとしまい、決意する。
辺りは本当に美しい。何度見ても魅了し続ける。
春夏秋冬また違った素晴らしいこの世界を堪能できるのだ。
ーー俺はこのろくでもない…だけど素晴らしい世界で……強く生きてやる!!!ーー
ほんの一瞬死んだ母の声が聞こえた気がした。
そして俺はリセットボタンを押した。
このろくでもなき素晴らしい世界