無言

 どういう感覚かと訊かれたら、浅い海の上をぷかぷか浮かんでいる感覚と答えるだろう。どうしてかはわからないけど。なぜプールでも池でもなく、海なのかも謎だけど。
 薄っすらと目を開けた。煤けた白い天井が見えた。それだけだった。
 耳元ではピッピッと規則的な電子音が響いていた。
 その合間に、誰かの話し声が聞こえてくる。
 あまりにも小さい声なのか、私の耳が遠いのか、ぼそぼそとしか聞こえず、誰と誰がどういう会話をしているのかはさっぱりわからない。
 ふらっと誰かが私の顔を覗き込む。白衣を着て、眼鏡をかけた男性。
 視界がぼやけていて顔がはっきり見えない。
 えーっと、誰だったっけ、この人は?
 考えているうちに、朧げな意識は引っ張られる。暗い奥の奥の、どこか魔窟みたいなところへ。ぷかぷか浮かびながら。奥へ、奥へ、奥へ、真っ暗な奥へ。目を閉じて。

「何で壊したの?」
 誰かに問い詰められた。たぶん保育士の人だった。
 三歳か、四歳ごろの、私が物心ついたころの最初の記憶。
 目の前では髪を三つ編みにした女の子がわんわんと大きな声を上げて泣いていた。
 私とその女の子との間には、たくさんの積み木が散らばっていた。
 丸かったり、四角かったり、三角だったり、いろんな形の積み木が転がっていた。
「何で壊したの?」
 保育士が再度問い詰めてきた。今度は先ほどよりも険しく、怒りを露にする声音で。
 私は無言だった。謝りも泣きもせず、無言だった。
 私はあのとき、なんと言えば良かったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。さらに奥へ。

「ねぇねぇ、お嬢ちゃんたち、おじさんのおうちにね、とっても美味しいお菓子があるんだよ。高級なお菓子でね。そりゃ滅多に食べられないものなんだよ」
 黒っぽい恰好をして、サングラスをかけた中年くらいの男性が私にそう声をかけていた。
 いや、「お嬢ちゃんたち」と言っているのだから、正確には私一人にではなかった。
 私の隣にはもう一人女の子がいた。髪をツインテールにした、可愛らしい女の子だった。
 名前は何と言っただろう?確か――みんなからはみっちゃんと呼ばれていた気がする。
「どうだい?おじさんちに来て、一緒にそのお菓子を食べないかい?」
 その男性は、茶色く汚れた歯を前面に押し出すようににっと笑った。気味悪かった。
「うん!食べたい!おじさんち行く!」
 男性の問いかけに満面の笑みで答えたのは、他でもないみっちゃんだった。
「××さんも行くよね?」
 みっちゃんは私も誘ってきて、私は何か言った。何を言ったかは憶えていない。
「ふん!別にいいわよ!私がおじさんのお菓子を独り占めにするんだから!」
 みっちゃんは拗ねた様子で私にそっぽを向いて、その男性の元へと近づいていった。
 その瞬間、その男性はみっちゃんにぶさっと覆いかぶさった。捕まえるように。
 気づけば私はその場から逃げ出していた。全力疾走で。
 必死で駆けながら、私は以前テレビで見た食虫植物の捕食シーンを思い出していた。
 当時の自宅に真っ直ぐに帰宅したあと、私は母には気分が悪いと嘘をついて、その日は一日中布団に包まって震えていた。夜も一睡もできず、ただひたすらに震えていた。
 翌日、我が家に警察の人が来た。強面のその人は高い身長を無理やり屈ませて、そのころの私と目線を合わせてきて、いかにも作った感じの気色悪い猫なで声で訊ねてきた。
「昨日、お友達のサイトウミチコちゃんがどこにいたか知らない?」
 私は無言だった。何かしゃべったら、あの男性が私の元へも来ると思ったから。
 みっちゃんを捕食したみたいに、私も捕食しに来ると思ったから。
 私はあのとき、なんと言えば良かったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。さらに奥へ、奥へ。

「××さんってさ、最低だよね」
 中学校だったか、高校だったか、どこかの校舎裏、私は罵られた。
 私を罵ったのは、同じクラスの、確か高橋さんという女子生徒だった。
 短髪で丸眼鏡をかけた、地味な感じの。
「私がいじめられてお金盗られてるところをさ、ばっちり見といて素通りなんて、酷過ぎる」
 高橋さんは私に向かってそう怒鳴りつけて、そしてきっと睨んできた。
 はて?私はそんな現場、本当に目撃したのか?していなかったのか?
 たぶん、この子がそう言うんだから目撃したのだろう。私の今の記憶にないだけで。
「いじめを無視する行為もさ、いじめなんだよ?最低な人間なんだよ?」
 高橋さんは私の返事も待たず、私を傷つけようとする言葉をいくつも投げかけてきた。
 私は無言だった。単純に、高橋さんのあまりの怒りのエネルギーに呆気に取られていたから。
 高橋さんはその後もしばらく、なおも私に対する恨み言を叫び続けていたが、そのうち叫び疲れたのか、いつの間にか呆然とする私を校舎裏に残して姿を消していた。
 翌日、高橋さんはこれみよがしに学校の屋上から飛び降り自殺を図り、死んだ。
 その際に遺書を残していたらしく、その遺書の中には恨みを持っていた人物の名前がひたすらに書き連ねられていたそうで、その中には私の名前もあったようだった。
 また警察の人が私の元へとやってきた。もっと前の「あのとき」みたいに。
「××さん、高橋ハルミさんとはどういうご関係でしたか?」
 ただのクラスメイトだった、と私は言ったと思う。
「それじゃ、なぜ高橋ハルミさんの遺書にご自身の名前があると思いますか?」
 私は無言だった。あのときのことを言えば私もいじめっ子の一員にされると思ったから。
 私はあのときもあのときも、なんと言えば良かったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。さらに奥へ、奥へ、奥へ。

「うっさい!この泥棒猫っ」
 殴られた。誰に?女性に。髪を金色に染めて、口紅は真っ赤な派手な女性に。
「あんたが私の彼を寝取ったんでしょ?私のものなのにっ。私のものなのにっ!」
 女性は倒れた私に馬乗りになってきて、さらに私を殴ってきた。
 右頬、左頬、交互に。硬い拳で、繰り返し何度も。
 殴られるたびにぐぎゅっと骨が歪むみたいな音がして、口の中いっぱいに鉄臭い味が溢れて、何本かの歯が口の中から飛び出して、周囲の畳の上に転がった。
 その女性の言う肝心の彼というのは、殴られる私の隣でぶるぶる震えていた。
 座り込んで、情けなく股間を濡らして、地獄でも見るような顔でぶるぶる震えていた。
 私は無言だった。私を殴る女性に対しても、私が殴られるのを見ているだけの彼に対しても。

 ぷかぷか浮かびながら。さらに奥へ、奥へ、奥へ、奥へ。

「あなたの旦那さんが、強盗及び殺人の罪で逮捕されました」
 また警察の人だった。その人は機械的な調子で私にそう告げた。
 これで警察の人と顔を合わせるのは通算何回目だろう、とそんなことを考えていた。
 その人は私がぼーっとしているのを、ショックで言葉が出ないのだろうと勘違いしたらしく、今更悲痛な感情を込めたような声音で、頼んでもいないのに言葉を続けた。
「一家三名を惨殺しているので、死刑は免れないかと」
 だから何だよ、という言葉は喉元まで出かかって押し戻され、胃袋の中で消化された。
 私の腕を、五歳くらいの男の子が、口に指を銜えて引っ張っていた。
 家の奥からは、女の子の赤ん坊の甲高い鳴き声が鼓膜を劈いた。
 私は無言だった。何もかも、もはやどうでもよくなって。
 私はあのとき、なんと言えばよかったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。さらに奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ。

「全部あんたのせいだ」
 また怒鳴られた。あの校舎裏のことと、あの金髪の女性のことを同時に思い出した。
 怒鳴ったのは、茶髪のごく普通の女の子。自分の娘だと思い出すのに数秒かかった。
「あんたが父の殺人を止められなかったからだ。だからうちはめちゃくちゃだ!」
 娘は安い机をばんと叩いて、身を乗り出して私を指差した。そのまま脳天を突き刺すように。
「ねぇ、お兄ちゃんが今どんな目に遭ってるか知ってる?どれだけ頑張って努力して勉強して資格を取ったって、就職もままならないんだよ?だって書類選考の時点で、殺人犯の息子だからって理由だけで落とされちゃうんだから。私だってそうよ。小学生どころか幼稚園のころから酷いいじめをいっぱい受けて、今だって、今だって――」
 娘はしゃべっているうちに目に涙を溜めだしたかと思うと、急にぎゃーぎゃーと泣き叫び始めた。私はまるで獣みたいな自分の娘を、どうすることもできず眺めていた。
「とにかくねぇ、あんたが悪いのよ、あんたがっ。あんた自身は自分も被害者だとか悲劇のヒロインぶってるんだろうけど、お父さんの同罪の人殺しなんだから!この人殺し!」
 娘は私が何も言わないのをいいことに、好き勝手に散々喚き散らした。
 私は、別に悲劇のヒロインぶってはいないとか、同罪ではないとか、そもそもそこまで言われる筋合いはないとか、好きであんたらを産んだわけじゃないとか、月並みの言いたいことはたくさんあったような気がするのだが、結局のところ無言だった。
 何を言ったって、どう言ったって、娘はただ逆上するだけだろうと思ったから。
 私はあのとき、なんと言えば良かったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ――。

「乳がんですね。末期です。助かる見込みはありません。余命は――」
 その年老いた医者は、私にあっさりと死を告げた。
 あの人が逮捕されたことを伝えにきた警察の人よりも、もっと何の感情もなく。
 私は無言だった。その医者の声音と同じで、無感情だった。虚無だった。
 私はあのとき、なんと言えばよかったのだろうか?

 ぷかぷか浮かびながら。奥へ――あぁ、もうない。もう奥はない。行き止まりだ。
 ここはどこだろう?真っ暗ではない。まだ微かに明るい。でもどこかはわからない。
 行き止まりということは、私はどこかの最果てに行き着いたはずだけど、一体どこの?

 私は閉じていた目を開けた。
 視界は先ほどよりもさらに不明瞭に、霞んでいた。
 相変わらず白衣を着て、眼鏡をかけた男性が私の顔を覗き込んでいる。
 いや、今私の顔を覗き込んでいるのは、この人一人だけではない。
 その人とは別に、二人の人が私の顔を覗き込んでいる。一人は男性で、一人は女性だと思う。
 それ以外のことはわからない。それ以外のことはもう私の目には認識できない。
 私は何か言おうとした。最後くらい何か言わなければ。そう思って。
 でも、声が出ないことに気づいた。何一つ、口から発することができないことに気づいた。
 そして言いたいことも何もなかったことにも気づいて、笑いそうになった。無理だけど。
 あぁ、そうか、もうこのときが「あのとき」になることはないか。
 私が今まで抱いてきた「あのとき」も、全部消えてなくなるんだ。
 そう思うと、そんなことを思うと、ふっと気が楽になって、安心してしまって、安心してはいけないのかもしれないけど安心してしまって、そっともう二度と上げない瞼を下した。

 ぷかぷか浮かんでいた意識は、ついに浮かぶのをやめ、ぶかぶかと沈んでいく。
 ぶかぶかとどこまでも深く、沈んでいく。微かな明かりもなくなって、真っ暗になっても、深く。どこまでも深く、深く、深く。終わりなんてないほど深く、どこまでも――。
 深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く――。

無言

無言

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-11-13

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