うにの冒険譚
半年ほど前に、この場所に初めて足を踏み入れた。この世界についてのことなど誰にも教わることは無く、幼くして両親とも離別。国道沿いにダンボールに入れられて、僕ら兄弟4人は捨てられた。山笑う頃、寒さが残るその場所で生まれたての僕らは身を寄せ合って暖をとった。二度目の夜を越えようとしていたところで、心優しいのかあるいは些細な興味心で、僕らを乗せたダンボールを拾い上げて、乗ってきたであろうシルバーのヴィッツに運び入れてた人がいた。今の生活があるのも、この人のおかげであるが、背丈や顔、果ては性別ですら、もう記憶に遠い存在になってしまった。その人は僕らをダンボールに入れたまま助手席に置くと、車を走らせて自宅に向かった。衰弱しきっていた訳ではないが、生後間も無い僕らは明らかに栄養失調だった。部屋に着いても、ダンボールから出される事は無かったが、ご飯を与えてくれた。そんな平穏な日々が続いて、僕らはこのままこの人に飼ってもらえるのだろうと、そう思っていた時だった。兄弟が一人、二人とダンボールの外の世界に連れ出されていく。
「ずっとみんなで一緒にいたいかもしれないけど、四匹一緒に飼ってくれるって人はなかなかいないんだ。それでもお前たち二人の面倒を見てくれるって人が現れたから、今からその人のところに行こう」
詳しくは分からないが、どうやらこの人は僕らを保護してくれた人。そして僕らを飼ってくれる人を探している人だった。貰い手が見つからないと僕らは保健所という所に連れていかれて、殺処分に合うらしい。そうか、ここにはずっと居れる訳では無いのか。僕と残された兄猫はその状況を察すると、兄猫たちとの別れを惜しんだ。きちんと別れを告げれなかったことを悔やんだ。
深い眠りに落ち、うっすらと重たい目を開けた時、頭上に兄猫の尻尾の先が見えた。少しして何が起きたのか理解した。兄猫もついに引き取り手を見つけたのだ。お別れの挨拶を交わせなかった事が気がかりではあったが、「良かった、これで安心だね」と小さく呟いて、一人取り残されたダンボールの中を見渡すと、突然寂しさに襲われた。
何日か過ぎた頃、突然その人間は僕の体をずっと持ち上げた。ついに貰い手が見つかったのだと察して、嬉しくて何度も鳴いた。その人間は、僕の体を目の高さまで持ち上げて、僕の瞳の奥まで見つめるようにして言った。
「やっぱりそんな気はしてたけど、お前だけ引き取ってくれる人が見つからないや」
そう言うと、すぐに僕をダンボールの中に戻し入れ、どこか見えない所に去って行った。
一週間が経った。僕はダンボールの中に入れられたまま、物置き部屋へと移動していた。薄暗くて物静かで、鳴き続けた。ご飯と僕のトイレ掃除のとき以外、人間の姿を見る事はほとんど無くなったが、その人間が見えると何度も何度も鳴いた。しかしその人間はこちらに見向きもせず、部屋の戸を閉めた。僕の鳴き声だか虚しく響いた。
みんな今頃どうしているだろうか、楽しく暮らしてるだろうか。みんなの事が心配だった。僕は、ただひたすら寂しかった。生き延びていく希望も無かったけど、兄弟四人で一緒にいた日々の方がよっぽど楽しかった。みんなに会いたい……。
この家に住まわせてもらうようになってから三週間になろうとしてた。保健所と殺処分という言葉が、この頃頭から消えなかった。
殺処分されるくらいなら、室内じゃなくてもいい。野良として生きていく方がまだマシだ。
僕は誰かに引き取ってもらう事は殆ど諦めて、この部屋からの脱出経路を思案し始めた、そんな時だった。騒々しく部屋の扉が開いた。あの人間が駆け寄ってきた。よく考えたら久し振りに見る気がする。僕のことなどもう忘れたのかと思うほどに、当分会っていなかった。
その人間はそのまま僕を抱えて、出会った時のようにシルバーのヴィッツに僕を乗せた。今度はダンボールではなく、僕がやっと入れるような小さな紙袋に入れられて、車は発進した。
保健所に連れていかれるのだろう、と思った。自分のいく末を察して、無駄な抵抗はしなかった。しかし思いとは裏腹に涙は流れた。僕は鳴き声も出さず静かに泣いた。
しばらく車を走らせると、その人間は車を止めた。パンプキンという文字が記されたくたびれた建物の前で看板にはカラオケと書いてある。その人間はスマホを取り出すと誰かに電話をかけ始めた。
「あ、着きました。パンプキンの前で待ってます」
するとその人間は僕を紙袋ごと持って車外へ出た。紙袋から頭をひょこっと出して辺りを見渡す。車中では単なる曇り空だと思っていたが、ぽつぽつ雨が降っている。ここで誰かに引き渡して、保健所に送られるのだろうか。
そして、すぐにその人は来た。その人は僕を紙袋に入れて持っていた人間といくつか話をすると、僕を紙袋から出して抱きかかえて、そのままその人間と別れて僕を連れてどこかへ歩き出した。
それが僕と、その時現れた女まりとの出会いだった。半年経って、大きく変わったことと言えば、僕の体がふくよかになったことだ。まりとの生活は今の所、何一つ不自由ない。しかしまりの家に初めて訪れた時、僕は自分の思慮の浅さを思い知らされた。
そこには当時の僕より、ひと回りもふた回りも体の大きい先住猫がいたのだ。
うにの冒険譚