きみへ(天野)
初めて投稿します。よろしくお願いします。
きみへ
みんな知らないと思うけれど、マンションとか街中のビルとか、ある程度高い建物の屋上には大体決まって、赤いランプが一つついている。
それは最終電車がとっくに終わってしまってからもずっと灯り続けていて。誰も起きていないほどの真夜中には、赤い星がぽつぽつと、地平線まで続いているように見えるんです。
君と初めて出会ったのも、赤色が連なる夜景を見ていた時でしたね。時々僕は親の言いつけを破り、ひっそり住んでいるマンションの一番上の階まで上がっていました。そして自殺防止用のフェンスにもたれかかりながらぼんやり、時計を気にせずこの景色を楽しんでいたんです。
なんでそうしていたのかは分かりません。両親ももしかしたら気付いていたのかもしれません。でも僕は面倒事は避けたかったし、そこで女の子と話をしているなんて漏らしたら、更に面倒なことになると思っていたので尚更言えなかった。
君はいつの間にかそこにいました。フェンスにだらしなく寄りかかって、同じようにぼんやりとしていたことを覚えています。
名前は知りません。君が一度も言わなかったから。僕も教えませんでした。理由はないと思います。多分君も。でも中途半端に空いた距離に、僕たちはいつもお互いの話を置きました。赤い夜はいつもいつもきれいでした。
「髪切ったら私、似合うと思う?」
だからあの質問も、いつものくだらない会話の延長線だと思っていた。
その日は初雪が僕たちの街に降った日で、フェンスから身を乗り出して下を見ると、くらりと眩暈がするほど遠い駐車場に、白が少しだけ積もっていました。
「おいこらちょっと。聞いてるの? 目が飛んでるよ」
「いやごめん全然聞いてなかった。もう一回言ってくれ」
「だからね、髪の毛」
「うん」
「髪の毛切ったら私、似合うかなって聞いてるの」
なんだそれ、と思いました。でも珍しく深刻な表情で聞いてくるものだから、仕方なく髪を切った君を、想像することにしたのです。
じょきん。
床屋さんが持っているような大きな鋏が、じょきんじょきんと、夜に溶けそうな君の髪を切っていきます。鋏を持っているのはなぜか僕でした。今まで君の一部だったものが切り離されて、ぱらぱらと下に落ちていく。そして全て終わった時、君は不安そうに上目づかいで、鏡越しに僕を見つめながら、
ねえ、どうかなあ、と。
「ねえ、どうなの?」
目の前にはまだまだ長い髪の君。焦れたように聞く姿はいつの間にかすぐ隣にいて、少し、いやとてつもなく心臓に悪かった。でも見ていると、細くてきれいなその黒を、指で掬い取りたい衝動がふと胸を焦がす。
「……いいんじゃないの。似合うよ、きっと」
不意打ちを食らったかのように固まる君が、なぜかやたらと笑えて。そのまま薄く積もった雪をかき集めて投げつけましたね。逆襲されましたが。でも最後に。
「髪切るの、楽しみにしているから」
そう君は言いました。
なんで切らなかったの。その言葉が喉まで出かかって、でもなんとか飲み込む。無理矢理飲み込んだそれは、鉄の味がした。
いつも通りに微妙な距離で、寒い、寒くないの話をしていました。いつも通りに赤色だけが連なる夜景を見ていました。君はきれいな長い髪のままでした。
「なんで切らなかったの?」
気付いたら口に出ていた言葉を、君はどう受け取ったのでしょうか。思っていたよりも非難がましく響いたその声に、少しだけ沈黙がおりました。
「………………あいつに。あいつに切るなって、言われたりしたとか?」
あいつ、と君の関係は今でもよくわかりません。ただ、君が話す話によく出てくること。面白くて、優しくて、凄くいい奴だということしか知りません。君は一瞬、魚が突然目の前で話し出したのを発見したような、なんともいえない顔をして。そしてよく見なければわからないくらいささやかに、頬を微かに染めて、するりと僕の視線から抜け出した。
「なんで分かっちゃうのかなあ」
「…………」
「いいんだ、別に」
「…………」
「どうせ切っても似合わなかっただろうし」
「…………」
「切らなくて、良かったから」
僕は。僕は似合うって、言ったじゃん。そこまで考えると何だか、堪らなくなりました。泣くなんて格好悪いこと、死んでもするものかとその頃は思っていたけれど。それでも人目をはばからず泣きたくなりました。喚きたくなりました。
想像の中の君の髪を切ります。鋏で、じゃきんじゃきんと。君の一部だったものは切り離されて、下に落ちていく。それにはきっと、僕も含まれていた。
とても深い夜になると、とぎれとぎれの赤い星の世界が見られます。君は覚えていますか。
結局、君の名前は分かりませんでした。あれから僕たちは会えなくなって、どこの学校に通っているのかも、君が本当にマンションの住人なのかも、「あいつ」とどうなったのかも僕には分かりません。
でもあの時間、たとえ君が覚えていなくても、僕はこんなにも鮮明に、鮮烈に、覚えています。君が忘れていても、です。一時も忘れたくなかった。手離したくなかった。焼き付けた記憶は、焦がれて融けて、ぐずぐずになって、取り出すたびに掠れていくような気持ちになりました。それでも。
もう何十年と経ちました。両親はとっくの昔に死にました。僕も今、老人ホームのベッドの上で一日中生活する毎日を送っています。手足は使っていた杖よりも遥かに頼りなく、目も耳も全てが遠いです。掠れた視界に写るものは随分と少なくなりました。
君は、どうしていたのでしょうか。学校を卒業して、就職して、友達を作って、誰かと巡り合い、家族になって、子供と孫に恵まれて、僕のようによぼよぼになっているのでしょうか。そんな、当たり前に良質な幸せを、手に入れていて欲しいなと思います。願っています。
その日、最後の夢を見ました。夢の中で僕は、あのマンションのあの場所で、君と一緒にぼんやりと目の前の夜を眺めていました。冬だと思います。雪が降っていました。夢の中だと寒くないものです。
僕は不意に、よりかかっていたフェンスをよじ登ってそこに腰かけました。
呼吸をし、見渡せば、どこまでも続くのっぺりとした夜空と、とぎれとぎれの赤い光があって、とんとんと屋根は続き、風が穏やかに、雪が静かに空に沈んで。
横を見ます。君がいました。あの日のように、中途半端な、届かない距離でふんわりと、長い髪をゆらして。
長い髪。
さらさら、さらさらと長い髪。
あの頃は、それを出来なかった。それのやり方も知らなかった。鋏さえなかった。
僕はその髪を、僕が切り裂きたかったのに。
でも。今は。
じゃきん。
「…………ほら。よく似合ってる」
僕は、満足です。
無限に広がる赤くて寂しい夜に、君に出会えたこと。話せたこと。笑えたこと。全部、全部。
ああ、だから。
僕は重心を、くらりと前に、前に、前に傾かせ、そして、君の一部を、抱きしめたまま遠く見えるあの夜の底に、落ちていきました。
きみへ(天野)
読んで頂き有り難うございます。これからも精進いたします。