雨上がりは突然に
私は死ぬのだと、そう思った。
視界は徐々に闇に覆われ、全身の感覚が薄れてゆく。
雨風に揺れるカーテンの隙間から漏れる民家の明かりが、私に手招きしているような気がした。
微かに残る意識の中で、寂しい、そう思った。
もう一度あの人の手に触れたい、そう思った。
すると間もなく、私は死んだ。
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「・・・義さん!和義さん!」
「ん・・・ん?ええと・・・お前は?」
「いい加減に起きろ!舞原和義!」
耳元で叫ばれた彼女の声で、俺はようやく目を覚ました。
「・・・あ!いま何時だ!?」
「8時20分。10時から大事な打ち合わせがあるんでしょ。さっさと顔洗って、さっさと支度する!朝ご飯はテーブルに置いときましたから。」
「ふぁ・・・ありがとう・・・。」
あくび交じりに答える俺を尻目に、制服姿の彼女はスタスタと玄関の方へ歩いていった。引き戸に手を掛けた瞬間、ハッと思い出したかのようにこちらを振り返り、言った。
「それと、私の名前は直花!もう2週間にもなるんだから、そろそろ覚えてよね。それじゃ。」
朝から彼女の威勢に圧倒された俺は、行ってらっしゃいの手を上げたままで、しばらくぽかんとしていた。
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「また暗い話書きましたねぇ、舞原さん。」
「はは、まあ・・・」
新作に目を通した担当編集の第一声は、これだった。
「こんな陰鬱さだけが際立って明確なオチもないような小説、最近の読者にはウケないですよ?」
「いや・・・でもね、ただ暗いだけの話じゃないんですよ。金も家族も失って路頭にさまよう主人公の視点を通して、読者に自分の内面を見直してほしいというか、何というか・・・。」
「内面を見直すって言ったって、これじゃ読み手はますます憂鬱になるだけじゃないですか。いいですか?舞原さん。この不況の中で退屈な毎日を過ごす現代人はね、こう、明日への希望を感じられるような物語を欲しがっているんです。舞原さんみたいな作風を読みたがる人間なんて、悪いけどほんの一握りしかいないですよ。ご自分の作風を貫きたいのは分かりますが・・・、あ、どうです?いっそ趣向を変えて、恋愛小説なんか書いてみるのは。」
「恋愛モノ、ですか。はあ、僕には何とも・・・。」
「まあ、考えといて下さいね。これは他の編集にも読んでもらって上にも掛け合ってみますが、あまり期待なさらないで下さいね。」
「はい・・・、よろしくお願いします。ありがとうございました。」
俺は担当編集の話を適当に聞き流しながらも、深々と頭を下げた。
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「ただいまー。」
「あ、和義さん、お帰りなさい・・・って、またパチンコ行ってきたの?」
「げ、何で分かるんだよ。」
「不機嫌な顔して帰ってきたときは、いつもパチンコ行ってるじゃん。」
「いつもってお前、まだここに来てからたったの2週間だろうが。」
「私には分かるの。どうせまた年下の編集に散々言われて、むしゃくしゃしてパチンコ行ってきたんでしょ。しょうもな。」
「うるせえ。お前みたいな小娘に分かったような口聞かれたくねえよ。」
「その小娘に朝晩ごはん作ってもらってるような男に言われたくありませんよ。ほら、さっさと召し上がり。冷めちゃうから。」
煮え切らない気持ちで渋々と卓袱台ヘ向かうと、ご飯に味噌汁、そして秋刀魚の塩焼きが、食欲そそる香りを漂わせて並んでいた。悔しいが、直花の料理の腕は一人前で、これまで不摂生な生活を送っていた俺は、密かに感謝しているのだった。
「文句じゃないけど、また魚料理か。魚好きなの?お前。」
「もちろん好きよ、健康的だしね。お肉は太っちゃうわ。年頃なんだからそういうのも気になるの。それより和義さん、悔しくないの?」
「悔しいって、何が?」
「年下の編集者に毎回あれこれ言われて、悔しくないのって聞いてるの!」
直花は食後のコーヒーを飲みながら、食事中の俺にそう問いかけてきた。
「ああその事ね・・・。悔しいっちゃ悔しいんだけど、そいつの言ってることも間違ってないんだよな。やっぱり売れるためにゃあ、読者のニーズに応えるモノを書かなきゃならんのかもなぁ。俺もそろそろ方向性を考え直してみるかな・・・。」
「ったくもう・・・、情けないなあ。いい?私は文学のことなんか分からないけど、和義さんの小説は暗すぎ。読んでてつまんないもん。もっとこう、暖かくて、希望の持てるような・・・そういうのが最近の人にはウケるんじゃない?」
「担当と同じことを言うな。あと、俺の小説を勝手に読むんじゃねえよ。」
「あ、そうだ!いっそ、恋愛小説なんか書いてみたら?ロマンチックで、ちょっと現実離れしたようなやつ!」
「好き勝手に言うけどなぁお前、俺は生まれて30年、まともな恋愛経験もなけりゃ、そういう相手も居やしないよ。経験も題材もなけりゃ、小説書くなんて無理な話だ。」
「ふーん、そういうもんかなぁ。」
そう言うと、直花はしばらく黙った。俺はやれやれとばかりに溜め息をついて、食事を再開した。こいつと居ると、どうも調子が狂うな。まだ2週間という短い付き合いだが、何故かこいつは俺のことを見透かしたような言動が多い。しかもそれがほとんど当たる。超能力者か何かかこいつは、困ったもんだ。あれこれ考えながらも、いつも以上に腹の減っていた俺は、残りの白米を一気にかき込んだ。茶碗を下ろすと、目の前に直花の顔があった。
「相手なら、私がいるじゃん・・・、ん?」
いつの間にか卓袱台に身を乗り出していた直花は、上目遣いで俺の顔を覗き込み、猫撫で声でそう言った。両手で頬杖をつきながら、じっと視線を向けてくる直花。色白の肌に、くっきりとしたアイライン、少しつり上がった目先。大きな瞳は見る者を吸い込むような漆黒の輝きを放っていた。その蠱惑的な眼差しに、俺は不覚にも狼狽えてしまった。
「馬鹿いうな、誰がお前みたいな女子高生に・・・。」
「ふ~ん、まぁ、冗談だけどね。」
ショートヘアの黒髪を耳元でかき上げながら、直花はニヤニヤと笑っている。まずい、このままではこいつのペースだ。何とかして取り返さねば。そう考えた俺は、いつもの話題を持ち出すことにした。
「ていうかお前、いつまでウチに居るつもりなんだ?耕一も心配してるだろう。」
「もう・・・、またその話?いいの、暫くは帰らないって言ってあるし。そもそも、あの人も何も言ってこないんでしょ?」
この話題になると、直花は途端に不機嫌になる。耕一とは、舞原耕一。こいつの父であり、俺の弟だ。耕一とはもう何年も疎遠になっていて、住所も電話番号も知らない俺には連絡する手段もない。耕一にこんな娘がいることさえ知らなかったほどだ。どういう理由か知らんが家出してきた直花は、親戚である俺を頼って、これまたどういう方法でか俺の家を探し当て、転がり込んできたというわけだ。妙な話だが、俺は直花が来た時のことを全く覚えていない。直花の話によると2週間前にここに来たそうだが、何故かもっと昔から居たような気もする。おそらく相当酒に酔っていたのだろう。でなけりゃ、女子高生を安々と家に住まわせるような真似、俺は絶対にしない。
「それとも、私が居たら迷惑ですか。」
急に悲しそうな表情を見せる彼女に、俺はまたも焦ってしまった。
「いや、そういう訳じゃないんだが・・・。」
「そ。じゃ、私お風呂入ってくるね。」
俺の返答に満足した直花は、途端にパッと笑顔になり、嬉しそうに風呂場へ向かっていった。
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翌朝、俺はひどい頭痛に苦しみながら目を覚ました。昨晩は全くと言っていいほどアイデアが浮かばず、結局酒に逃げたのだった。時刻は午前11時。卓袱台の上には、「学校行ってきます。」という直花の書置きとともに、昨日の残りの秋刀魚が朝食として置いてあった。ありがたい、今日は素直にそう思えた。郊外に建つこの一軒家の周辺は昼時でも人気がなく、直花のいないこともあってリビングはぽっかりと穴が空いたように静まりかえっていた。舞原直花。この2週間は嵐のように過ぎ去っていったが、落ち着いて考えてみると不思議な同居人である。どういう理由か俺のことをよく知っており、いつも見透かしたような態度をとる点、そして、どうしてここまで尽くしてくれるのか、という点。この2週間、直花は高校に通いつつ、炊事洗濯に渡る家事全般から孤独な俺の話し相手まで、様々に世話を焼いてくれている。居候の恩返しといっても、普通ここまで尽くしてくれるものだろうか。しかも、親戚という繋がりはあれど、初対面の俺を相手にだ。俺は直花の世話焼きに感謝しつつも、不思議な同居人の存在に不気味さすら感じ始めていた。そしてもうひとつ、引っかかる事がある。直花と話している時にいつも感じる、こいつと俺は2週間どころじゃない、もっと長い付き合いなんじゃないか、という感覚だ。決してそんなことはあり得ないはずなのに、何故かそう感じずにはいられない。俺の中での彼女の存在が、ますます浮遊感を帯びてきたのだった。
酒酔いのせいで全く食欲のなかった俺は、朝食の秋刀魚を半分残し、いつもの癖で縁側に立った。
「おーい、クロやー。ごはんだぞー。・・・あら?今日も居ないのか。」
クロとは、ここらに棲みつく野良猫である。ベタな名前は俺が付けたものだ。何年も前に気まぐれに餌をやったのがきっかけで、うちの庭に棲みつくようになった。しかし、ここ最近は全く姿を見せてくれず、独り身の俺は寂しい気持ちでいっぱいだった。雌猫探しにでも出かけたのか、それとも別に棲み良い場所を見つけたのだろうか。ああクロよ、どうか俺の元へ帰ってきておくれ。これからはもっと美味い飯をやるから。
そうして秋刀魚の載った皿を持ったまま縁側に佇んでいると、歩道の方から声がかけられた。
「また舞原さん!猫に餌やろうとしてたでしょ!」
見ると、生け垣の隙間から隣家のおばさんがこちらを見ていた。
「本当にもう!やめてくださいね。ゴミとか荒らされて困ってるんだから。飼うならちゃんと飼ってください!」
「ああ・・・、すいません。気をつけます。」
「まったくもう・・・、はいこれ、回しといてね。」
そう言うとおばさんは、生け垣越しに回覧板を差し出してきた。
「ああ、どうもありがとうございます。」
回覧板を受け取った俺は、どうせ大した内容でもないので普段は読みもしないのだが、おばさんの目もあるので一応目を通しておく。
「とは言ったけど、最近は野良猫もぱったり見かけないわねぇ。どこ行っちゃったのかしら。」
「そうなんですよ、うちの庭に棲みついてたのも消えちゃって。」
「もしかして、売れない小説家に愛想つかして出て行ったんじゃないのぉ?」
「ははは・・・やめて下さいよ。」
おばさんの冗談を適当に流しつつ、回覧板を読み進めた。ゴミ取集の曜日変更に、新しくオープンしたパン屋の広告、町長選の日程や公園清掃の当番表。今回もどうでもいい記事ばかりだな。そう思いながら、回覧板のページをめくった。
そして、頭が真っ白になった。
気が動転する、という感覚は初めてだった。全身から血の気が失せ、脳はぐるぐる回っているのに、何も考えられない。回覧板を持つ手が、小刻みに震えていた。
「あらやだ舞原さん、真っ青じゃない!どうしたの!」
おばさんの心配も耳に届かない。どういうことだ・・・?え?じゃあ、あいつは一体・・・。
「舞原さん大丈夫?小説の仕事も大変だろうけど、程々にね。もし倒れてもアンタ、助けてくれる人いないでしょ!」
じゃ、回覧板頼みますよ。そう言い残しておばさんは去って行った。
「はい・・・ありがとうございます・・・。」
俺は状況が整理できないまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。
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その日の夜も、原稿は全く進まなかった。筆は机上に放りだされ、煙草の本数だけが減っていく。直花は相当疲れていたようで、夕飯を作るとすぐに寝入ってしまった。カーテンを開け、外を眺めた。昼間のことで頭がいっぱいで、何も手につかない。ふっと吐き出した白煙が夜闇に消えていくのを、俺はぼんやりと見送っていた。そう、聞いてみればいい。本人に直接確認してみれば、すべて分かることだ。悩んでいたって仕方がないだろう。そうだ、きっと、明日の朝には聞いてみよう。
次の朝、直花は学校の支度を済ませ、朝のニュース番組を見つめていた。
「午後から雨かぁー。買い物済ませたらさっさと帰ってこようっと。和義さんはどっか行くの?」
「ん?俺は家で原稿でも書いてるよ。」
「いつも通りってことね。ははは、じゃあ雨なんて関係ないね。」
「まあ、そうだな。」
どう声を掛ければいいのだろう。俺はタイミングを窺っていた。
「じゃ、そろそろ行こうかな。」
「なあ、ちょっと。」
「ん?」
「おまえさぁ・・・その・・・。」
「ん?何?」
「いや、何でもないんだ。気をつけてな。」
「ははは、ヘンな人。今日の和義さん、なんか可笑しいよ?」
そう言い残すと、直花は何だか楽しそうに家を出ていった。
聞けなかった。
直花がどうしてここに居るのか、それを知るのが怖かったわけじゃない。そうじゃない。俺は、寂しくなったんだ。聞いてしまえば、直花との生活が終わってしまうような気がして。自分でも気づかぬうちに俺は、ずっとこの生活が続けばいいと、そう思ってしまっていたのだ。そんなこと、決してあってはならないのに・・・。
時刻は午後1時。予報通りの土砂降りだった。風も強く吹いていて、古くなった網戸がギシギシ鳴っている。俺は卓袱台の上に原稿を投げ出し、床に仰向けになって天井を眺めていた。あと3、4時間もすれば直花は帰ってくるだろう。その時俺は、ちゃんと話を切り出せるだろうか・・・。そんな事を考えながら目を閉じていると、いつの間にか眠ってしまった。
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おかしな夢を見た。
その夢の中で俺は、一匹の小さな野良猫だった。土砂降りの大雨の中、深夜の路上で横になって倒れていた。夢の中にいながら、ああこれは夢なのだな、と実感できた。とりあえず辺りの様子をと思い、身体を動かそうとしてみたが、思うように動かない。視線を下に向けると、コンクリートを流れる雨水に交じって、脇腹の辺りから鮮血が流れ出ていた。しかし全く痛みはなく、温かさに包まれているようで心地よかった。ああ、俺は死ぬのだなと、漠然とそう思った。しばらく路上に降りつける雨をぼんやりと見ていると、ここが俺の家の前を走る道路だと、ようやく気がついた。視線を遠く見据えると、生け垣の間から光が見えた。そして、風に揺れるカーテンの隙間から、卓袱台に肘をついて原稿を書いている俺の背中が見えた。寝ぐせだらけの頭と紺色のジャージ、悩みながら左手で後頭部を撫でるのは、昔からの癖だ。そんないつも通りの俺の姿を見ていると、無性に懐かしさが込み上げてきた。おかしいな、これは夢の中で、俺は俺を見つめているだけなのに。その懐かしさは次第に寂しさに変わり、俺の後ろ姿、風に揺れるカーテン、その手前に広がる縁側の風景が、恋しくて恋しくてたまらなかった。寂しい、寂しい・・・あの場所に行きたい。このまま誰にも看取られずに死ぬのか。もう一度、あの人の腕に抱かれたい・・・。この小さな野良猫の、身体の奥の奥から、そんな感情が溢れ出て止まらなかった。俺は必死であの場所に向かおうとしたが、身体はこれっぽっちも動かなかった。意識はどんどん薄れてゆく。眠るように目を閉じると、急に浮遊感に襲われ、これが死というものか、そう感じた。
その時、誰かの手が身体に触れたのを感じた。ゆっくりと目を開くと、一人の少女が心配そうな目をして俺の背中を撫でていた。色白の肌に、少しだけつり上がった目先。綺麗に整えられた眉毛は、悲しそうに歪んでいた。真っ黒で大きな瞳の輝きに、俺は吸い込まれるように惹かれていった。
そして、俺の意識は途絶えた。
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「こんな暗い部屋で、原稿なんか書けるの?」
「どうせ書けないなら、暗くても同じだろ。」
「あほらし。」
突然に灯った部屋の明かりと直花の声で、俺は目を覚ました。直花は俺に背を向け、卓袱台で数学の課題に取り組んでいる。両手で頬杖をつき、尖らせた唇にシャーペンを乗せている様子に、可愛げな幼さを感じた。
「・・・うちの庭に、何年か前から野良猫が棲みついてたんだ。名前はクロって言ってな、よく餌をやったりして可愛がってた。いつも名前を呼ぶとすぐに縁側に駆け寄ってきて、俺の腕の中で甘えるんだ。それが、ちょうど2週間前くらいから、急に姿を消しちまってな。」
「・・・」
直花は黙って俺の話を聞いていた。
「なあ、本当に馬鹿なこと話していいか?」
「ん、何?」
「例えばの話なんだが、死んだ野良猫の魂が人間に乗り移るなんてこと、あると思うか?」
直花はシャーペンを回しながらしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「さあ。もし本当ならロマンチックな話だね。きっとその猫は、何かやり残したことでもあったんじゃない?」
雨は次第に勢いを増し、家の前を走る車が水たまりを撥ねる音が聞こえた。時刻は午後5時、窓の隙間から吹く風は肌寒く、冬の訪れを感じさせた。再び静寂に包まれた部屋で、直花がページをめくる音だけが響く。
「なぁ直花・・・お前は、誰なんだ。」
「誰って、和義さんの弟の娘の、舞原直花よ。どうしちゃったの?」
俺をからかうようにそう答えたが、彼女の声はどこか動揺しているようにも聞こえた。
「・・・今日、久々に親父と電話してみたんだが・・・親父の話が本当なら、俺の弟に、耕一に、娘なんていない。」
直花はこちらに背を向けて黙ったままだ。俺は、思い切った。
「2週間前から、隣町の女子高校生が行方不明になってるそうだ。名前は・・・遠山直花。下校途中に姿を消し、捜索願も出されているが、まだ見つかってない。ちょうど、今日みたいな大雨の日だったそうだ。」
俺は昨日おばさんから回ってきた回覧板を直花の背中に突き付け、行方不明の女子高生の顔写真を指さしながらそう言った。
「なあ直花・・・これ、お前だろ。」
俺はやけに落ち着いていた。直花はやはり俺に背を向け、黙ったままだ。隙間風に揺れるカーテンを眺めながら、ぼんやりと直花の返事を待っていた。
「確かに、私は死んだと思った。」
不意に、直花はそう呟いた。そしてゆっくりとこちらに向き直り、どこか諦めたような顔で笑っていた。
「あの大雨の降る夜、私は確かに死んだわ。車に撥ねられたのか、何かに襲われたのか忘れちゃったけど、身体が全然動かなくなって、私もう死んじゃうんだなあって、そう思ってた。その時、この娘が声をかけてくれたの。もう手遅れだって分かってるはずなのに、この娘、必死でね。涙に潤んだ大きな瞳がとっても綺麗で、私、釘付けになっちゃった。そして気づいたら、私はこの娘になってたわ。」
「・・・」
俺が黙ったままでいると、彼女はスッと立ち上がり、ガラス戸の前に前に立った。カーテンに手を掛けて外の様子を眺めながら、彼女は言葉をつづけた。
「和義さん、私ね、嬉しかったの。もう一度あなたに会えるって思ってね。私、本当に感謝してるの。野良で身寄りもない私の遊び相手になってくれて、いつもご飯をくれるし。味のない煮干しや腐りかけの缶詰ばかりだったけどね。ふふっ。」
「・・・悪かったよ。」
「私、小説を書いてる時のあなたが好きだった。いつも頭はボサボサで、毎日同じ服ばっかり着ててだらしないけど、ペンを握った時の真剣な表情、あれは別人ね。時々うなったり、頭を掻いたり、原稿投げ出して仰向けになって寝てたり・・・。そんなあなたの様子をこの庭から眺めるのが、私大好きだったわ。もし許されるなら、このままずっと、あなたと一緒に暮らしたい・・・。でも叶わぬ願いよね。この娘の人生を奪っちゃうなんて、そんな酷いことできないもの。私は、もう終わったんだから・・・。」
俺は何も言えない。目の前で起きている非現実的な出来事に混乱している訳ではなかった。ただ、彼女にかける言葉が見つからないのだ。叶わぬ願いなら、俺も同じだ。何もできずに、どうしようもなく、彼女の背中を見つめているしかなかった。すると急に、ボゥッという音とともに雨風が部屋に吹き込んできた。ガラス戸を開け放った彼女は、いつの間にかカーテンの向こう側にいた。スラリと伸びるシルエットの顔が、こちらを振り向いたのが分かった。
「ありがとう、和義さん。最後にお礼が言えて良かった。あなたは優しい人だから、きっと良い小説が書けるわ。あなたと暮らした2週間、毎日が楽しくて、暖かくて、幸せだった・・・。この身体はこの娘のもの、そろそろ返してあげなきゃね。」
俺は無意識に、彼女に手を伸ばしていた。激しく吹き込む雨風に、視界がぼやける。
「それじゃ、さようなら和義さん。元気でね。」
「待っ・・・!」
俺は彼女の腕を掴もうとしたが、別れの言葉を告げると同時に、カーテンの向こうのシルエットは消えてしまった。慌てて外に出て辺りを見回したが、彼女の、一匹の野良猫の姿はどこにもなかった。俺は静かに後悔していた。なぜもっと早く、彼女を抱きしめてやれなかったのか。
雨は次第に上がり始め、灰色に広がる雲の隙間から、茜色の夕日が光を差していた。
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「いやぁ~舞原さん、良いですよ!良い!この小説!まさか本当に恋愛小説を書いてくるなんて、夢にも思いませんでしたよ。」
「いや、まあ、はは・・・。」
今日は自宅での打ち合わせ。新しく書いた小説を気に入ってくれたようで、担当編集は満足そうに笑っている。
「しかし、舞原さんがこんな話書くなんて意外ですね~。死んだ野良猫が行方不明の少女に乗り移り、世話になった男を訪ねて愛を告げる。しかし幸せな日々はすぐに終わりを迎え、雨上がりとともにフッと姿を消してしまう。いやぁ~切ない。これは期待できますよ、舞原さん。」
「ありがとうございます。上の方にも通してもらえますかね。」
「もちろんですよ!編集長も気にってくれると思います。でも、本当に変りましたね、舞原さん。以前からの淡々として落ち着いた雰囲気は残しつつ、何というか、文体が柔らかくなったというか、暖かくなったというか。何か心境の変化でもあったんですか?」
「そんな大したことはないですよ。ただ、少し前に同居人が亡くなりましてね。これは彼女への哀歌みたいなもんです。」
「あっ・・・これは大変、失礼なことを。哀歌、ですか・・・。」
「いえいえ、お気になさらず。まぁでも、実体験をもとにして書いたので、僕の実力とは言い難いですけどね。」
それを聞いた担当編集は、とうとう頭がおかしくなったんじゃないかと、怪訝そうな顔つきで俺を見つめていた。
爽やかに晴れた冬の午後。凍てつくような寒さは、まだ当分続くのだろう。とうにぬるくなったコーヒーを飲みながら、ふと庭先へ目をやった。小さな野良猫が、どこかから俺を見守ってくれているような、そんな気がした。
雨上がりは突然に