とある泥棒の話
昭和29年、寝台列車の中で起きた盗難事件。偶然車内に居合わせた刑事は犯人を捕まえたが、被害者は犯人の顔を見るなり彼を見逃してくれと言い始めた――そんな刑事の語る話を聞いた法医学者保科は、話の中には3つの疑問点があると指摘する。そして、この疑問を全て聞けば君にもすぐに事件の謎が解けるだろうと、そう不敵に笑うのだった。
昭和二十九年の暮れ。
私は東京から青森に向かう夜行列車に乗っていた。
窓の外では夜闇に紛れてちらちらと雪が舞い、車内の暖房にも関わらず吐く息には白いものが混じる。
東北というところは寒いところなのだ、などと当たり前のことを思う。
甲高い軋みを上げて列車が駅に止まる。ホームに見える人影は一様にコートを着込み、マフラーと目深に被った帽子で冬の冷気から肌を隠している。ハイカラなどという東京の流行も、東北の寒さの前では灰色に褪せてしまうのだろう。
「相席させてもらっても?」
顔を上げると、男が帽子を取って私を見つめていた。五十過ぎのがたいの良い男で、角ばった顔の片側だけを引き攣らせている。周囲を見渡してみると、混んでいるという印象はないものの椅子が丸々空いているのはここだけだった。
「……え、ええ。どうぞ」
私が勧めると男は向かいの席に腰を下ろした。改めて見てみると、男の右頬には薄っすらと傷跡が残っている。古いものだが、それが彼が片側だけで表情を歪める理由なのかもしれない。
ふと、私は彼の名前を口にした。
「もしかすると、保科教授ですか?」
彼――保科教授はわずかに視線を動かして私を見つめた。
「そうだが……。すると、君は警察関係者かなにかかね?」
「はい。東京の、十文字強盗殺人事件の際にお世話になりました」
私はコートの懐から警察手帳を取り出しながら名乗る。保科教授はちらりと警察手帳を見やると、小さくため息を吐いた。
「それが法医学者である私の仕事だ。それに、あの事件に十文字の名を冠するのは、かの盗人とて流石に迷惑だろう」
「はぁ、それは確かに……。しかし、あの事件は先生のご助力無しには解決しなかった訳ですし。かの怪盗十文字があの事件の犯人でないことを見破ったのも、先生ではありませんか」
「科学的知見からの結論だ。あんなもの、私のもとの学生なら誰でも出せる」
「はぁ……」
あの教授は鑑定の腕は確かだが性格が少し、と話していた刑事たちを思い出す。しかし彼らの言う通り――性格についての言及はともかくとして――保科教授の鑑定は警察も舌を巻くものがある。
先の十文字強盗殺人事件の折には、一部の関係者は彼の有能さを示すのに明智小五郎を引き合いに出したほどだ。それはつまり、かの名探偵に例えられる保科教授だけではなく、かの怪盗――怪人二十面相に例えられる怪盗十文字も凄腕の泥棒ということだが。
法医学者保科竜郎。
紙面上の名探偵に比される彼に、私はこう切り出した。
「保科教授。被害者が犯人を咎めないときというのは、どんな時だと思います?」
「そういった抽象的な質問は好かんな。具体的に言ってくれないか」
「そ、それは失礼しました。これは、先日私が出くわした事件の話なのです。いえ、正確には事件にならなかった話、になりますか……」
ちらりと保科教授を窺うと、それで、と彼は呟く。
「犯人は被害者から指輪を盗み、被害者は当初ひどく怒っていたのですが、犯人の姿を見るや否や態度を変えたのです。それで結局、被害者からこのことは事件にしないようにと言われ、私もそれ以上の追及はしませんでした。しかし、私にはどうにも被害者が何故考えを変えたのが気になって……」
「で、君はどう考えたのだ?」
尋ね返されるとは思わず、私は少し戸惑いながら答える。
「私、ですか? わからないから、保科教授のお力を借りようと思ったのですが……。そうですね、しかし、被害者と犯人は知り合いだったのでは、と」
「知り合いだから許した。なるほど、辻褄は合うじゃないか。それ以上何が気になる?」
「同僚にも、同じようなことを言われました。犯人が知り合いだったのだろう、それか……」
犯人は美青年だったのだろう、と下卑た笑いを浮かべながら言う奴等の顔が脳裏に浮かぶ。
「ですが、どうにも私には納得がいかないのです。もちろん、犯人と被害者が知り合いだったのではないかと思います。しかし、やはりそれだけの話ではないような気がしまして」
「ふむ……」
保科教授は顎を撫で、それから右頬を小さく引き攣らせた。
「太陽が地球の周りを回っている、という説明に納得しない人間が科学者になるのだからな。案外君も、刑事なんかより科学者の方が合っているのかもしれんぞ。どうだ、警察をやめて私のもとにでも来るか?」
彼の言葉を聞きながら、私はやっと彼のその表情が機嫌の良いときのものなのだと気付いた。
「あの……それは、遠慮させていただきます」
丁重に断りを入れてから私は尋ねる。
「それで、その。話は聞いていただけるのでしょうか?」
「ふん。まあ、時間潰しぐらいにはなるだろうからな」
ぴくり、とまた保科教授の右頬が動いた。
*
「これは先日、私が寝台列車で東京から青森に向かっていたときの話です。実家の母が体調を悪くしていて、この頃よく青森へ帰るのです。そのときは妻もいたので、私たちは三両目の二等客室を取りました」
寝台列車は車両によって一人部屋、二人部屋、四人部屋、それから一等、二等、三等客室とそれぞれに区切られている。
「列車は秋田に入ってから最初の駅に停車していました。深夜で、私も妻もすっかり眠っていたんですが、そこで隣の部屋から悲鳴が聞こえたのです。女性の悲鳴でした。私が飛び起きると、再び、今度は「泥棒!」と叫び声が聞こえました。それで隣の部屋に行ってみると、五十代ほどの女性が一人呆然とした様子で、泥棒が、と繰り返しました。私がどちらに、と尋ねると彼女は右を指差すので、私はそちらに走りました。それから、犯人が列車の中に留まる訳もないだろうと思い、廊下を進んで最初の扉からホームに降りたのです。ホームには数人が歩いていましたが、その中で目深に帽子を被った怪しげな男を見つけて声を掛けました」
私はそこで一呼吸置き、まさにそれが犯人だったのです、と説明する。
「私が話し掛けると、彼は慌てて逃げ出しました。すぐに追いかけて捕まえ盗んだ物を出せと言うと、彼は観念したように懐から指輪を出しました。被害者の女性によると相当に値の張るものだったようです。彼はそれきり黙りこくって、弁解することもありませんでした。四十半ばといったところの辛気臭い男でした。遅れて被害者の女性が出てきて、「その人が盗人なのですね! 早く警察を呼んでくださいまし!」と、そのようなことを言いながら近付いてきました。しかし、私のもとまで来て彼の顔を見ると……」
「態度を一変させた訳か」
保科教授の言葉に私は頷く。
「そうです。驚いたように口元を抑えると、彼女は少しの間を置いて、「け、警察は呼ばなくても構いません……。彼も、何か理由が……お金に困っていたのかもしれません」というようなことを言いました。私は自分が警察であることを説明し、ともかく彼を近くの交番まで連れていくべきだと主張したのですが、取り付く島もありませんでした。もちろん彼が知り合いなのかと、被害者女性にも聞いてみたのですが首を横に振るばかりで……列車の出発を遅らせるほどの騒ぎだったのですが、結局何もわからないままでした」
私はすべてを語り終え、保科教授の顔を窺った。知り合いに何度か話したものの、彼らの答えは凡庸で私を満足させるようなものではなかった。しかしこの教授ならば、あるいは私を満足させる答えを出してくれるかもしれない。
保科教授はこつこつと手すりを叩き、しばらく経ってから口を開いた。
「興味深い話だ。確かに状況を考えれば、単に犯人が知り合いだったと切り捨てるには些か疑問が残る。なにせ寝台列車の中だからな。犯人は彼女が乗る列車を知っていた上に、同じ列車に乗るか前以って秋田の駅で待ち伏せする必要がある。しかも、それだけの準備をして彼女が犯行時に眠っていなければ、指輪を盗み出すことさえできない」
保科教授の言葉に私は大きく同意を示す。鞄を盗むのと指輪を盗むのでは手間が違う。身に着けた指輪を盗もうとすれば、それは彼女が寝ているとき以外にないのだ。
「そうです。そこが私には引っ掛かっているのです。知り合いならば、もっと他に盗みようがあったのではないかと、そう思うのです」
「そうだな……ふむ」
顎を撫でてから、保科教授は指を三本立てた。
「疑問点は次の三点だ」
「みっつ……」
「なんだかわかるかね?」
私は保科教授の指を見つめながら慎重に言葉を選ぶ。
「それは、何故被害者が考えを翻したかではなく、ということですよね。それは……まず、犯人は何故鞄を盗まなかったかということでしょうか? 確か、鞄は被害者の横に置かれていました。盗むのならば、きっと指輪よりずっと楽だったのではないかと思います」
「そうだな。では、犯人が指輪だけを盗んだ理由はなんだと思う?」
「それは……そうですね。指輪の値段は、鞄の中身と比べれば桁が違うものでした。つまり、犯人は指輪の価値がわかっていて、鞄など些事だと思ったのではないでしょうか」
答えながら、これでまるで講義を受ける生徒ではないか、と思う。保科教授は教授らしい貫禄を湛えて頷く。
「うむ。あえて手間の掛かる指輪を盗んだことを考えてもその線は高いだろう。一つ目の疑問から可能な推測は、犯人は指輪の価値がわかる人間だった、ということだ」
「なるほど……」
せっかくなので、私はその保科教授の推論を手帳に書き留めた。
① 何故犯人は指輪のみを盗んだのか?
→犯人は指輪の価値がわかる人間だった。
「二つ目の疑問点はなんです? 私にはどうにも思いつきませんが……そうだ。どうして犯人が急いで逃げなかったのか、ということでしょうか? 私が見つけたとき、犯人はホームの他の人間に紛れ込んでいました。しかし、そんなことをせずに走って逃げていれば、私が彼を捕まえることはなかったでしょうから」
私の考えを聞くと、むしろその逆だ、と保科教授は呟いた。
「犯人が逃げるのが早過ぎるのだ。考えてもみたまえ、もし犯人がもっと遅くに逃げていたら、犯行を遅らせていたら、君は犯人を捕まえることができたか?」
「遅らせていたら……どうでしょう? 何か、変わったでしょうか?」
「わからんかね。君らはこの手の方法でよく尾行を撒かれているじゃないか」
そこまで言われて、私はやっと保科教授が求めているだろう答えを口にする。
「つまり……列車の出発直前まで犯行を遅らせていれば、追っ手を列車内に取り残すことができたはずだと? 発車前の、扉が閉まるタイミングぎりぎりに逃げ出すことで、追っ手を撒くことができたはずだということですか?」
「そうだ。犯行時に君はすっかり眠っていて、被害者の声で目覚めた。もちろん急いだのだろうが、車内では犯人の影すら見ていないし、ホームに降りてから見つけたのも周囲に紛れ込んだ後だった。状況的には、犯人が列車を出てから少し間があったはずだ」
その通りだった。ならば、もし犯人がもう少し後で犯行に及んでいれば、追っ手を振り切ることができたということになる。
「確かに……そうかもしれません。では、何故犯人は犯行を早めに行ったのでしょう?」
「ふむ。君はどう思う?」
「私は……」
天井の頼りない明りを見上げ、私は適当な答えを探す。
「例えば、犯人は列車に乗ったことがなかったのでは? 貧民層ならば、そういうことがないとも言えないでしょう」
「指輪の価値がわかる男が、かい?」
「それは……」
私は手を挙げて降伏の意を示す。
「じゃあ、教授はどう考えているのです?」
「簡単なことだよ。犯人には時間が必要だったのだ。だから早めに犯行を起こし、ホームに降りた」
「時間……」
② 何故犯人は発車時間ぎりぎりに犯行を行わなかったのか?
→犯人は時間が必要だった
手帳にそう書き込んでから、私は考え直して文末に付け加えた。
→犯人は時間が必要だった?
「その、根拠はあるのですか? 今の解釈は、少し無理があると思うのですが……」
恐る恐る反論した私に、保科教授は残った人差し指を示した。
「根拠は最後の疑問だ。というより、この事件はここから考え始めれば、なんら悩むところなどなかったのだがね」
「それは、つまり……」
私は息を呑む。
「教授には、もうこの事件の謎は解けていると?」
「なに、難しいことはない。君もこの疑問を聞けばすぐにわかるさ」
人差し指を折って保科教授は続ける。
「疑問点の三つめ。被害者は君の隣の客室にいた。君の客室は夫婦で二人部屋だったから、つまり被害者の客室も二人部屋だったことになる。そして、この泥棒騒ぎは列車が遅延するほどの騒ぎだった。だというのに、彼女の連れはいったいどこにいたのだい?」
そう言って、保科教授は右頬を引き攣らせるようにして笑みを浮かべた。
*
結論から言えば、保険金目的の偽装窃盗、というのが保科教授の見立てだった。
ただし、被害者の女性――犯人の妻は、このことを知らされていない。犯人である夫は、彼女が眠り列車が駅に入ると、顔を隠した後にわざと彼女が起きるように指輪を盗んだ。その後、素早くホームに降り、帽子やコートなど犯行時に使用した物を駅で処分してから何食わぬ顔で列車に戻れば、同乗していた彼を疑う者はいなくなる、という手筈だったのだ。
しかし、途中で邪魔が入ったため、彼は被害者であり彼の妻である彼女に引き合わされることになってしまった。そう考えてみれば、彼女の豹変ぶりも納得できるというものだろう。何か理由が、お金に困っていたのかもしれない、という言葉は最近の自分たちの暮らしぶりを振り返ってのものだった訳だ。
「そういうことでしたか。まさか犯人が被害者の夫だったとは……」
「まさか、と思える事ほど疑うべきなのだよ。感情ほど思考を妨げるものはないのだからな」
「なるほど……」
「そして逆もまた然りだ。真実を隠すためには意外な事実に紛れ込ませれば良い。例えば、必然の出会いを偶然に見せかけるには相手に座る席を選ばせるのだ。それだけで、人はそれが偶然の出会いなのだと思い込む」
「…………」
「もう良いだろう、十文字君。君の児戯には十分に付き合ってやったと思うが」
彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。彼にここで会ってから初めて、私は心底愉快な気持ちで口角を吊り上げる。
「これはこれは、児戯とは手厳しい。しかし、確かに先生には詰まらないものだったのでしょうか。まさか私の正体まで見破られるとは誤算でしたよ。警察手帳の作りが甘かったのでしょうか?」
私の称賛にも彼はふんと鼻を鳴らすだけだった。
「警察手帳など見るまでもない。簡単な推論だ。どこぞの小説から取ってきたのだろうが、その舞台は暖かいところだったのだな。ここは――」
保科教授は窓の外を手で示す。
窓の外は夜闇の中に雪が降っていた。雪の流れが少し緩くなっているようだから、列車の速度が落ちているのかもしれない。
「寒いのだ。帽子やマフラーで肌を隠した人間など、それ以外を探した方が早いほどにな。つまり君が犯人を見つけたときの話は嘘だということになるが、しかしこんな手の込んだことをする人間など、私にはあの酔狂物の盗人以外に思い付かなくてな。それに、この列車はちと込み過ぎだ」
今度は車内を手で示して保科教授は言う。ちょうど彼の視線の先には、客のふりをさせて私の部下が座っていた。
「……どうにも、こちらに来るのは初めてのことでしてね」
「ふん。ならば次はもっと上手くやるのだな。そんなことでは、天下の大怪盗の名が地に落ちるのも時間の問題だぞ」
「ご忠告痛み入ります。しかし――」
私は立ち上がり、それから保科教授を見下ろす。ちょうど列車が終着駅に止まったところだった。
「今日は、教授にお礼を言いきただけなのですよ。前の事件では、私の汚名を濯いで下さり感謝しているのです」
「私はただ科学的見地から意見を述べただけだ」
「まさしくそれが素晴らしいと言っているのです。今度はぜひ直接お手合わせ願いたいものですよ」
私の言葉に、保科教授は小さく右頬を引き攣らせた。
「縁起でもないことを言うな。私は法医学者だぞ」
「ならば次はミイラでも盗みましょうか。出番ができるかもしれませんよ」
本気で言ったつもりだったが、ふん、と保科教授は鼻で笑うだけだった。本当に連れない男だ。
「それでは」
私は会釈をして、保科教授を背に通路を歩き始める。座っている部下の一人と目が合うと、彼はぎょっとした顔で私から視線を外した。果たして自分が今どのような表情をしているのか、さしもの私も判断が付かなかった。
ホームに降りてから、保科教授がいた車両に目をやる。
「それでは、また、ぜひ」
呟きに合わせて、白い息が漏れる。
東北は寒いところなのだと、そんな当たり前のことを思った。
とある泥棒の話