愛の家族

愛の家族

私は終戦直後のべビーラッシュに生まれた、戦後派の代表の一人だ。とにかく人が多すぎて、何をするにも競争の連続だった。入学の時も、就職の時も、結婚にまでその影響は続いていった。人が溢れていたから、仕方がないとしか言いようがない。
中学の時が一番悲惨だった。一クラスに何と、五十人以上の男女が詰め込まれていた。古くてこじんまりした当時の教室は本当に狭く、隣の生徒との間はほとんど隙間がなく席から立つのもひと苦労で、椅子が当たった当たらないでしょっちゅう喧嘩が起きていた。
私がいたクラスは、そんな中でも最悪中の最悪で、場所は何とトイレの真ん前。
クラスが十三もあったので空いている部屋は即、教室になっていったし、グランドに仮設の教室が作られ、運動会がすごくお粗末なものになってしまった。グランドの半分だけで運動会をしたのは、後にも先にも私達世代しかいないだろう。
トイレの前に教室があると、いろんな目にあった。
強い風が吹くと、何とも形容しがたい匂いがクラスを包むのだ。冬は何とか我慢できるが、夏は地獄だ。特に学校で一番楽しいはずの昼食の時は、拷問のようだった。
仕方なくほかの友達の教室に行くのだが、どこもぎゅうぎゅうで、座る場所が無く立って食べていた。男子は汗をダラダラ流しながら、グランドの木陰を探して食べていた。勉強どころではなかったのを、今でも憶えている。
高校の時も人が多すぎて、受け入れる学校が極端に少なく、公立高校のレベルが上がってしまい出来の悪かった私は、何とか私立に合格したが、三年間も高い授業料を親に払わす事になってしまった。
就職はもっとひどく、何度も面接に落ち、卒業式までに就職は決まらず、結局は知り合いの会社の事務員にもぐり込んだ。

…でも私は幸福だ…

何故かと言うと、父が戦争から生きて帰り、この世に私を誕生させてくれたからだ。
苦労知らずの学生の頃は、
「何でこんな人の多い刻に生んだの、何で今なの!」
そう言って、父や母に悪態をついていた。
しかし、この時代に生まれて来る事がどれだけの奇跡なのかを、その時の私は知る由もなかった。




私の父は三十代を戦地で過ごし、三十七歳のとき終戦を迎えた。
父は満州から全財産のリュックサック一つを持って、汽車のデッキにしがみつき、何百キロもの気の遠くなるような道を歩き続け、草を食べ、木の根をかじり、カエル、ネズミ、ヘビ、食べれそうなものは何でもまず口に入れた。後はほとんど水だけを飲み、飢えに耐えて、母の待つ大阪の家に帰ってきた。
これは、晩年の母から聞いた話なのだが、私には戦中に生まれた歳の離れた姉が二人いる。しかし、下の姉は父の顔を覚えていない。長女はおぼろげだが父に抱っこされた記憶はあるのだが、四歳年下の次女が物心の付く頃には、すでに父は戦争に狩り出されていた。だから家の前に立ってキョロキョロと、中を見ている挙動不審な父を見て怖くなり母に、
「お母ちゃん、知らんおっちゃんが家の中のぞいてる」と言った。
母は驚き、恐る恐る家の中から外を見ると、何とそこには生死の音沙汰さえなく、終戦の混乱の時から音信不通だった夫ががりがりに痩せ、それでも満面の笑みを浮かべて、家の前に立っていたのだ。
一日たりとも忘れた事のなかった。
夢の中でしか逢えなかった夫がそこにいた。
母はどれだけ嬉しかっただろうか…

私の両親はそろって明治四十二年生まれなのだが、当時では珍しい恋愛結婚をしている。母は鳥取県で生まれた。七人姉弟の上から二番目で、次々に妹弟が産まれた為に、小さい頃から家の用事を任されていたが、父親が病弱で生活が苦しくなり、生きる為に仕方なく大阪に働きに来て、家に仕送りをしていた。
父との出会いは、母が大阪の玉突き屋さんで働いていた時で、今で言う、ビリヤードの店の店員をしていた時に知り合った。
父は若い頃は、かなりの「やんちゃ」だった。
地元でもそこそこの家柄で、先祖が残してくれた大きな家に生れた父は、性格が明るく話好きで世話好きで、いつも幼馴染の連中とわいわい言って遊んでいた。だから友達も多く、父もその玉突き屋の常連で、友達としょっちゅうやって来て、ビリヤードの腕もなかなかのものだったらしい。
しかし最初の頃から父は母を見るとブスっとした顔をし、母にはあまり話をしなかった。傍にはよく来るのだが、別に用事を言いつけるでもなく、話をするそぶりも見せない。
それで母も黙っていると、しばらくするといつの間にか居なくなるのだが、店に来ると必ず、母が居るかどうかを確かめる。ただそれだけで、あとは少し遊んで帰ることが多かった。多分、父の方は最初から母を意識していたようだ。
けれど母の方はといえば、小さい時から奉公に出され、使い走りから始まり、紡績の女工さんをやったり、住込みの女中さんをやったり、とにかく家に仕送りを続けていた。そしてお給料のいい、今の仕事場に変わった時に二人は出逢った。母親の愛を知らないまま大人になった私の母は、お世辞の言えない社交べたな性格になっていたが、結構可愛らしかったので、色んな男に声をかけられた。
しかし母は無視していた。というより、
「遊び方が分からなかった」
という方が正しい。
母は毎日黙々と働き、遊びにも行かず家に仕送りをして、少ない残りのお給料の中から毎月少しずつ貯金をしていた。休日は大好きな編み物をして過ごした。
セ―ターを編み、小さな財布や小物入れ等色んな物を作り、貴重な休日を楽しんでいた。人付き合いの苦手な母にとって一番心の休まる刻でもあった。
母は最初の頃、出来上がった小物を同僚の女の子にあげていたが、それが気に入られ噂になり、安くお店の人に売ったりして結構小銭が入ってきたが、節約家の母はもらったお金でお洒落をする事もなく全て貯金した。
その時の母には、お金しか頼れるものが無かったからだ…
それに比べ父達はいつも何人かで来て遊んだ。
 日曜とか土曜とか来る日に決まりはなく、大抵がどこかで飲んだ帰りが多かった。酒の勢いをかりて、女の子と話をする。そんな硬派な男達だ。
父は生粋の河内の男で、声が大きく言葉も荒い。母は、
「この人いつも喧嘩してるみたい」
そう感じ怖くて最初は出来るだけ、目を合わさない様にしていた。だから二人の仲は一向に進展しなかった。しかし二人は結婚した。
親の恋愛なんかに子供は興味が無い。だからどこでどうなったのか、詳しい事は解らない。大体の見当はつくが、もっと詳しく聞いておけば良かったと、今は後悔している。
これは私の勘なのだが、きっと父が母を好きになったのだと思う。
子供が親を褒めるのもおかしな話だが、母は優しく、若い時の写真は美しかった。
小柄で目が大きく、白黒写真に写っている母は間違いなく、父の興味を引いた気がする。
父は仲間内でも気性の荒い方だったが、母の前ではただ母を見て、傍に行くだけの日が何ヶ月も続いたらしい。
見かねた悪友が恋の橋渡しをして、二人だけにしてやったが、
「その後どうなったかは、俺は知らないよ」
その人は意味ありげに笑った。

こんなお節介な父の仲間の後押しもあり、何とか二人は結ばれた。
結婚して母は女の子を二人産んだ。しかし男が一番という時代の中で、母は親戚中に気兼ねをしていた。二人目を出産して、生まれた赤ちゃんが又女の子だと分かった時、母は父に「ごめん…」と謝った。
すると父は母の枕元で、
「男でも女でもかめへん。
元気で生まれてきてくれた。
それで十分や。よう頑張ったな」
そう言って、いつもの大きい声で褒めてくれ、頭を撫でてくれた。
照れ屋で頑固で、愛情表現のへたな父の、精一杯の妻への労いの言葉だった。



そんな我が家の穏やかな日々とは裏腹に、世界中で戦争が始まっていた。働き盛りの父の所にも、その恐れていたものが来た。
「赤紙」という名の死神。
母が奈落の底に落とされた瞬間だ。
昔の人はそんな紙切れ一枚で、愛する人達と切り裂かれた。そして、ただ我慢するだけの人生を送る。生きて再会できるのなら、人は一縷の望みにかける。希望を持って待つことが出来る。しかし、愛する人が今どこで何をしているか、生きているのか死んでいるのか、それさえ知らされず、ただ待つことが当たり前。
それが、当時の日本の女の美徳とされていた。
「お国の為に笑って死んでこい!」
どんな顔をして言えたのか?
その言葉の奥に、どれだけの家族の悲しみが詰まっていたかと言う事を、当時の軍人は知っていたのだろうか。いや、誰一人そんな事など思ってはいなかった。当時の兵隊はただの消耗品に過ぎなかったからだ。父は有無を言わさず招集された。
育ち盛り、食べ盛りの二人の娘を残していくのは、子煩悩な父にとって身を裂かれる思いであったろう。
父は最前線に送り込まれた…

母は父が戦争に狩られ、一円の収入もなかった数年間を、着物の仕立てや、毛糸のセーター作り等の仕事をしてお金を稼いだ。趣味が母子三人の命を支えていたのだ。最初は一軒一軒回り、どんな小さい仕事でも探してきて、徹夜で仕上げた。引っ込み思案な母にとって、この行動はどれほど勇気がいった事だろうか。
母の仕事は丁寧で値段も安くしたので、少しずつだが口コミで伝わり、仕事の数は何とか生きて行ける辺りまで増えて行ったが、毎日あるとは限らない。
暇なときは家の庭で野菜を作り、その根っこまで食べた。水で柔らかくして大根の葉と一緒に混ぜ、麦を少し入れ塩で炊いて食べた。お金の無い時は、そうするしかないのだ。当時の母達の食事とは生きる手段であって、美味しいとか、まずいとか、そんな生易しいものではなかった。大きな不安が母を押しつぶそうとしたが、ぎりぎりの生活でその日その日を食いつなぎ、毎日、毎日、神仏に夫の無事を祈り、必ずここに帰ってくると信じ、どこにも行かず母はひたすら夫の帰りを待ち続けた。その時の母には頼れる味方は誰もいなかったし、帰る家も無かったからだ。

父と母の結婚は父方の人間が大反対した。特に姑には目の敵にされたらしい。
父には親が勝手に決めた許嫁がいたのだが、父はその人には興味を示さず、母を見染め強引に母の心の中に入り込み、所帯を持った。
父は勘当され、家を出て風呂も便所も共同という小さな家を借り二人で住んだ。だから母にとっても、こんな環境の中で生きて子供を守ること。それ事態が、母にとっての戦争だった。姉から聞いた話だが、
「母が地方の人間なので、格が違う家風が違うと、父の居ない時、姑が来ていつも母に嫌味を言うのを、子供心にも覚えている。私は幼すぎて母をかばう事が出来なかった。
そんな自分に腹を立てていた事が悲しい記憶として、今も私の頭のどこかにある」
姉の子供の頃の辛い思い出だ。
しかし母は辛抱強く父を信じ、ただひたすら待ち続け耐えた。
父もそんな母の祈りに答えるように、激しい敵地での戦火の中で、奇跡のように生き残り母の元に見事に生還した!
そして翌年、私がこの世に生を受けた。
性別は、又もや女の子だった…
けれど父は物凄く喜び、私を可愛がり、どこに行くにも連れて行き、良いか悪いかは別にして、私を男の子のように育てた。  
母が一度だけもらした独り言。
「本当はあの人、男の子が欲しかったんやろな…」
しかし、女の子でも私は父に溺愛され、いつも肩車してもらっていた。その肩越しから見る風景は、子供の目線と違い、遠くまでもよく見えた。私は偉くなったような優越感を感じ、父と一緒の時はワクワクしていた。だからいつもいつも、私は父が大好きだった。父は本当に優しかった。私は父に怒られたり、叩かれた記憶がまったく無い。大きな声で怒鳴られた事も記憶にない。あり得ないと言われるかもしれないが、嘘のような本当の話だ。父は娘三人と母を心の底から愛してくれた。

気がつくと我が家は男一人に女三人の家族になっていたのだが、それからが大変だった。父は戦争に狩られる迄、大手の鉄工所で旋盤工をしていて、結構良い技術を持っていたのだが、気が短く上司とよく衝突していたという。
だから戦地から帰った父は母に、
「俺はもう工場で人に使われたくない。
けれど土方をしてでも、お前達に不自由はさせん!」
そう宣言した。そんな父に、母は黙って従った。
多くの戦友の死を見つめ、究極の精神状態の中に置かれた夫。
それでも諦めず生き抜いて、自分の所に帰ってきてくれた夫に、妻は黙って従ったのだ。いや、その時の母は、父が傍に居てくれるだけで幸福だったにちがいない。
それからの父は、宣言通り、朝も、昼も、夜も、働いた。母も働きに出て、夜は内職をしてお金を貯めた。私が生まれてからは、歳の離れた姉達が、ほとんど私の面倒を見てくれていた。十三歳と九歳も、年の離れた姉達だった。
そして私が物心のつく頃には、我が家はお百姓さんになっていた。
両親が縣命に働き、少しずつお金を貯めて、やっと田んぼが買えるようになっていた。しかしそれだけでは食べていけないので、父は造園業をしている近くの店に働きに行った。私は父と過ごした人生の中で、父が私より遅くまで寝ていた記憶が無い。病気をして寝ている父の姿も、もちろん見ていない。
父は、朝の五時に起き、田んぼの草むしりをしてから家に帰り朝食を食べ、母の作ったお弁当を持って造園場に行き、大きな石や松の木などを移動さす力仕事をして働き、夕方いったん家に帰り、お茶をたっぷり飲みそれから家には上がらず、その足で田んぼを見に行くのだ。
雨で壊れた土手を作り直したり、余分な水を流したり、乾いている時は入れ替えたり、すぐに伸びる草を抜いたりと、仕事は幾らでもあった。それらの全てを片付けてから、父は家に帰ってくる。地下足袋を脱ぎ井戸で足を洗って、家に入ってきて、土間兼台所にある自分のいつもの場所に座るのだ。それから、首を長くして待っていた私達と夕飯を食べる。私はすぐに父のひざに乗り母に注意されるが、父が何も言わないので私はますます調子に乗り、ちゃぶ台の上の何かをひっくり返し、姉達に怒られてから渋々母の傍にいく。
母は黙って布巾をとりに行く。
父の至福の時だ。
いや、我が家の至福の時だった。
母は私達姉妹にとっていつも優しく、人に迷惑さえかけなければ、大抵のことはさせてくれた。だが一つだけ厳しく躾られた事がある。それは、
「食事は必ず父が帰ってきてから食べる事」
これだけは、どんなにねだっても食べさせてもらえなかった。
それと、お客さんやご近所さんなどから、お菓子などを頂いても、父が帰る迄は、絶対開けさせてもらえなかった。いつもは大きい声も余り出さない母だが、この時の母は少し怖かった。
「お父ちゃんが帰ってから、一緒に開けよな」
これが母の口癖。優しい母の唯一の私達に対する厳しい躾だった。
小さい私は早く夕食が食べたくて、又お土産の中身が知りたくて、玄関で父を待つのだが、なかなか父は帰って来ない。たまらず私は母の心配も無視して家を飛び出し、父のいる田んぼに一人で迎えに行く。子供の足で田んぼに行くにはかなりの勇気がいったが、それでも私は迎えに行った。草に足を取られてこけかけても、石ころだらけのほこりっぽい細い道を睨みつけ、曖昧な記憶だけを頼りに私はただただ父の姿を探していた。
少しずつ辺りが暗くなりだしても私は頑固に、父めがけて歩いて行った。
今思い出しても不思議なほど不安は無かったのだが、見覚えのある田んぼが目に入った時、やっと着いたという安堵感なのか、私の涙腺は爆発し大粒の涙が溢れだした。
そして涙でぼやけ見づらい景色の中に、泥にまみれながら懸命に働いている父の姿を見つけ出した瞬間、私は嬉しさのあまり発射されたロケットのように父めがけて走っていた。
父は汗と涙と鼻水にまみれ、くしゃくしゃな顔をして走って来る私の姿を見て最初は驚くが、訳を知ると真っ黒に日焼けした顔に笑みを浮かべ、私の頭を撫でて、泥だらけの足のまま私を自転車の荷台に乗せ、大急ぎで家に帰るのだった。
帰る途中、私は父のでっかい背中に思い切りしがみつき、キーキーと鳴る自転車の音を聞きながら、なぜか訳もなく大声で笑っていた。
数えきれない程、ワクワクドキドキして父を待ち、私は大きくなっていった。

そんな父の定休日は雨の降った日だけ。造園業は雨の日は仕事にならないらしい。
しかし父はそんな日でも、いつもと同じ時間に起きて、田んぼを見に行き、帰ってきてから朝ごはんを食べ、そして納屋に行く。
納屋とはその当時ならどこの農家にでもあった、道具置場。クワとか、釜とか、雨具とか、大きい物なら畑の稲をお米にする機械の脱穀機等々が、所狭しと置いてある。
父はその機械に囲まれて、藁で草鞋や座布団を作る。
藁を叩いて選りすぐり一から作るのだ。
「誰にあげるの?」
私の質問に、母は、
「誰かにあげてるみたい。
休みの日ぐらい、ゆっくりすればいいのにね…」
半分諦めた、あまり関心の無い答えを返した。
父は根っからの働き者だ。それは誰もが認めていた。しかし本当は身体がいつの間にか、そういう風に覚え込んでしまっていたのだ。遊び盛りの十五歳から、働きに出た父の仕事は旋盤の見習い工員。毎日毎日怒られながら、父は身体で技術を学んだのだろう。そして、青春という人間として一番楽しく多感な刻、世の中は騒々しくなり、戦争という死神どもの渦に巻き込まれ、問答無用で狩りだされ戦地に赴き、理由も定かでない間に自分の意思に関係なく、敵を倒し自分も死に直面させられた…
しかし父は頑固なほどの強い意志を持ち、前線を突破して飢えや孤独に耐へ伝染病に打ち勝って終戦を迎えた。
その時の父の頭の中には、妻とまだ幼い二人の娘の事しかなかったのではないだろうか。
「俺が死んだらあの子達はどうなる」
…父の思い出さえない子供達…
この刻、父はどんな事をしても必ず家族の元に帰ると、その思いだけで、いやその執念だけで過ごしていたのだと私は思う。
こうして父は地獄の最前線より、奇跡の生還を成し遂げた。
この刻、父は三十八歳。
何の財産も無い、文字通り裸一貫の再出発だった。

晩年の母に父の事を聞くと、きまって出てくる言葉がある。
それは、
「お父ちゃんはね、若い頃は瞬間湯沸機器やったんやで」
私には想像がつかないのだ。あの優しく人当たりの好い父からは、そのイメージは湧いてこない。
「会社の上司にでも、自分が悪くないと思った時は、徹底的に喧嘩してたみたい。それに、戦争で一度は投げ出す覚悟の命が助かった。
だから自分の力の限界まで頑張ろう。死んで行った若い仲間の為にも、俺は悔いのない人生を送ろう!」
そう心に誓った。
お母ちゃんはそう感じるんよ。
だからあの人は帰ってきてから死ぬまで、どんなに辛い時でも、苦しい時でも、一度も愚痴を言わなかった。弱音を吐かなかった。それが、
「生き残りし者の心意気」
そんな気持ちでいたような気がする…
遠い所を見ながら母は話してくれた。若い頃の父を思い出していたのだろうか。
戦争から帰ってきて、父は変わった。       
それまでは、神社仏閣どこに行っても、手ひとつ合わせた事の無かった父が、一日と十五日、電車で一駅以上先にある由緒正しい一の宮神社に、誰もがまだ寝静まっている早朝に出向き、静かに合掌する様になった。どんなに寒くても、大雪が積もっても、台風で傘がさせなくても、父の神社参りはかかさず延々と黙々と続いた。
何年か後に、私は父に聞いた。
「戦争に行って、何が一番怖かった?」
思いやりのない非常識な質問だと、今の私には解るのだが…
こんな私の無神経な質問にも、父は本当に正直に、一生縣命に答えてくれた。
「お父ちゃん達はな、その時上層部からの命令で、敵地に向かうため大きな川に身を潜めていたんや。
川の向こうには、敵兵が機関銃を置いて見張っていた。
お父ちゃん達は暗くなるのを待ってたんや。
草があちこちに、背丈ほど茂っていたので隠れるにはいいんやが、鉄砲を水に濡らしたら撃てんようになるかもしれん。
そやから万歳をするような格好で銃を頭の上に掲げていたから、腕が棒のようになってきて、本当にみんなが限界に近い気持ちで、夜になるのをじりじりしながら待ってた。そこに二~三時間もそうしていたら、川底の泥が靴に入り、川に棲んでる蛭が泥の中から血を吸いよるねん。凄い恐怖やった。鉄砲の玉も怖いが、正体が解らん蛭の不気味さは耐えられへんかった。
みんなも同じ気持ちやったと思う。
その時、蛭に驚いた若い二等兵が、我慢できずに少し動いて川の草を掴んでしもてな。そいつはお父ちゃんと仲の良い奴やった。
あとはいつもの地獄や…」
父はそこで一呼吸いれた。
数秒の沈黙があり、その後父は本を読むような口調で話し出した。
「機関銃の玉が容赦なく飛んできて、そいつは、みんなの目の前で、真っ赤な川の水と一緒に流れて行った。
浮き沈みを繰り返し、草にからまりながら下流へと流れて行った。
死ぬことに怖さは無かった…
ただそこにいる誰もがみんな、悔しい思いに耐えていたんや。
身を引きちぎられ、真っ赤な血を流して、戦友が目の前を流れて行くのに、助けてやれんかったからな。その無念さに、耐えていたんや」
私は何も言わなかった…
何も言えなかったのだ…
私ごとき青二才の言葉や慰めが通用する世界でない事が、私でも解かったからだ。
昨日の出来事のようにはっきりと、父は私に話してくれた。
その時の私には、父が物凄く偉大な人間に見えた。
しかし父は、それから二度と戦争の話はしなかった。

終戦後しばらくして、兵隊さんが三人も訪ねてきた。父は見かけよりも優しく面倒見が良かったらしい。
世話になったお礼と、元気で生きている事を上官だった父に報告したくて、父の住所を探し出して、わざわざ報告に来てくれたのだ。
父はとても喜んだ!
陽気な事の大好きな人だから、この年下の戦友達が訪ねて来てくれた事が嬉しく、弟のような彼らが可愛くてたまらないようだ。 
びっくりするような大声で、
「よく来たな! 
腹減ってるやろ。
飯でも食っていけ。
上がれ、上がれ!」
本当に嬉しそうにはしゃいでいた。
しかし、その話を傍で聞いていた母は青くなった。
「お金が無い…
お米も麦飯しかない…
どうしょう…」
けれど母は決断した。
「あの人に恥はかかせられない!」
三人の青年におさ湯を出してその部屋を出てから、母は映画のワンシーンのように、タンスの中にある、ありったけの着物を持って走り出した。
「早くあの三人にご飯を作らないと、あの人が恥をかく」
母は風呂敷に包んだ着物を大切に握りしめ走っていた。行先は少し遠い、行きつけの質屋だ。喋る事の下手な母が、顔見知りになってきている店主に訳を言い頭を何度も下げた。一円でも多く貸してもらいたかったからだ。
いい着物や指輪なんかは、とっくに生活費に消えていた。
「追い返されたらどうしょう…」
石ころだらけの埃っぽい道を走りながら、母はお金の事ばかり考えていた。
しかし、母の気持ちが通じたのか、店主はわずかだが一食分ほどのお金は貸してくれた。母はそのお金でまず生サバ一匹を買い、残りのお金全部でお米を買った。
「何とかなりそう!」
母の汗まみれの顔に、初めて笑みが浮かんだ。
それから母は今来た道を急いで帰り、米を庭の井戸で素早く洗い、釜で炊きにかかった。サバは塩を振り、四枚にさばいて焼いた。
父はと言うと、その若い兵隊さん達とずーっと話をしていた。
ほんとに楽しそうに話をしていた。
ほとんど、父の声しか聞こえなかったが、延々と話は続いていた。
薄暗い土間で、米の火加減を見ながら忙しく働く母の耳に、父達の言葉の一つ一つが、心地よい音楽のように聞こえていた。
夕暮れ近くになって、やっと母の手作りの食事が出来た。
父はまだ、話したり無いようだったが、若い三人はお腹が空いていたのだろう。母の焼いた魚を骨までも食べる勢いで貪り、おひつのお米も味噌汁も、見事なまでに空っぽにした。父は自分のごはんも魚も分けてやり、嬉しそうにその食いっぷりを見ていた。彼らは無邪気に笑い本当に美味しそうに飯を食い、生きている事の幸福を、これからの自分達の夢を真剣に父に語った。
父はそのつどうなずき、大きな声で励まし笑っていた。

楽しい一日が終わり、別れの刻、彼らは父と母に何度も何度も礼を言った。
そして最後には母の前に整列して、
「今日は、本当にありがとうございました」
そういって、直立不動のまま深々と頭を下げた。
もしかしたら母の苦労を感じていたのかも知れない。
だから夕闇が迫ってきても、彼らはなかなか帰らなかった。
立ち止まり少し歩き、そして又立ち止まり何度も何度も振り返り、頭を下げ、名残り惜しそうに手まで振りながら、少しずつ少しずつ帰って行くのだった。
父とその若者達は、共に清々しい顔をしていた。
血みどろの戦争の中を生き抜き、そして今再び出会い、心の底から語り合う事ができた。若者達はその思いを胸に、少しずつ父の側から離れて行った。
その時父は、三人の姿が見えなくなるまで見送っていた。
辺りはもう暗かったが、彼らの姿が見えなくなっても、父は若者達を見送っていた。
母は少し離れて、黙って父の横顏を見ていた。

「その兵隊さん達が帰ってから、お父さんはお母さんに何て言ったの?」
私の愚問に母は曖昧な笑顔を見せただけだった。
母は口下手な人なので何も語らなかったが、誰もいない所で父が母の手を握り多分、
「すまんな」
とか何とか言ったんだと、私は思っている。しかし、二人は子供の前ではそんな事、おくびにも出さない夫婦なのだ。
それからも父と母は支え合いながら、いつも喧嘩しながら私達を育ててくれた。





父は母の事を名前で呼ぶ。
普通の夫婦は「おい」とか「お前」とかだが、父は必ず母を呼ぶとき、名前で呼ぶ。
母は父の事を「あんた」と、少し語尾を上げて言う。
子供の頃、それが不思議でならなかったが、大人になってからは少しだけ嫉妬した。
父が酒に酔った時が一番面白い。
酔いにまかせて父は母の名前を連呼するのだ。
それも三軒も四軒も他人の家が並んでいる、そんな遠くから、父は母の名を呼び、
「今帰ったぞー」
とか、
「そんなに飲んでないから心配するなー」
とか、実にくだらない事を云う。
母が怒って無視すると、増々声がでかくなる。
結局母が根負けして、迎えに行く。
と云うより、小柄な母が酔っぱらった父を、無理やり引っ張って帰る。
想像するだけで、にやりとしてしまう。
お酒が入っている時の父は、子供に戻るみたいだ。
しばらくして、母に叱られ酔いの醒めた父は、私の布団にもぐり込んでくる。
眠たくて、父の酒臭さは嫌だったが、大きな肩で腕枕してもらえるのが嬉しかった。
…私の両親は仲が良いから…

けれど一度だけ母が怒った事件がある。
それはある夏の夕暮れ、近所の女の人が訪ねてきた。これが喧嘩の始まりだった。
その人は戦争未亡人。見合い結婚をして半年後、赤紙が届いてご主人は戦地に向かうため、船に乗って移動されていた時、敵の戦闘機の攻撃を受け、船は大破乗組員のほとんどが犠牲になった。ご主人もその犠牲者の一人だった。たった半年の新婚生活。
その時奥さんは妊娠されていた。ご主人はその事も知らず、亡くなられた。
そして奥さんは、その半年後に双子の男の赤ちゃんを出産された。
ご主人の戦死の知らせが来たのは、その少し後だという。
戦争って惨すぎる…
しかしその人は泣く暇も無く、赤ん坊ふたりを育てご主人の父親、お舅さんの四人で生きて来られた。先祖の残してくれた田んぼを耕し、息子の戦死を知らされ、病気がちになられたお舅さんの面倒を見ながら、必死に生きておられたという。
その人が夜遅く人目を気にして、父に会いに来た。
その時私は隣の部屋で漫画の本を読んでいたが、ぼろ家のため話は嫌でも聞こえてきたし、少し興味もあった。なぜならその双子の男の子は、私より三歳年上で近所という事もあり、仲良く遊んでいたからだ。その人は、遅くの訪問を詫びてから、父にこう切りだされた。
「兄さんですね、うちの田んぼの草を掃除してくれはったのは。
おじいちゃんが、体調また悪くて田んぼにいくのが延び延びになってて、それが今日行くと、きれいに草の掃除が出来ててびっくりしました。
こんな事してくれはるのは、兄さんしかいてないと思いました。他の皆さんはいつも、先
に礼を言わせても、中々すぐにはしてくれません。兄さんだけです。こんな事してくれはるのは…
すぐにもお礼に伺いたかったのですが、人目があるので、こんなに遅くになってしまいました。本当に有り難うございました。
おじいちゃんに言うたら、
『自分とこの事だけでもしんどいやろに、有り難いな』
そう言うて泣いてました」
その人は目にいっぱい涙を浮かべ、頭を下げられた。
その人の家も、父の家も、共に地元の人間で、親しくご近所さんの付き合いをしていた。だから内情もわかっていた。狭い土地、噂好きな人間は、山ほどいた。それにその人はとても綺麗な人で、ただ道で近所の男の人と挨拶しているだけで、怪しいとか媚を売っているとか、ひどい噂もあったらしい。だから父もきっとそれを考えていたのだろう。しかし、父の性格では放っておく訳にはいかなかった。

父は朝の二時に起きた。父はいつもより物音をたてず、静かに作業服に着替えた。外はまだ真っ暗で、ひとっ子一人いない。懐中電灯だけを持ち、自転車に乗りその人の田んぼへと向った。星が近くに感じられる真夜中、父の目は冴えていた。
戦争から帰ってからの父には見るもの全てが変わって見える。全ての物が、新鮮に見えだしたのだ。
草花、大木、空を飛ぶ鳥達、地を這う虫、雨の音、風の叫び、等々。
そんなごく当たり前な日常の風景が新鮮で、愛しく、感じられた。
 草花を見て、
「踏まれるなよ」と思い。
大木を見て、黙して語らない大木の心に話しかける。
大空を飛ぶ鳥達に命の息吹を感じ、地を這う虫に自分を重ねる。
雨音に突然過去の扉をあけられて、風の叫びに胸をうたれる。
これらの一つ一つが、父の心に沁み込んでくるのだ。
今までなら、気にも留めずにそのまま通り過ぎていたのに、今はそれらの全てに生命の不思議を心が感じとっていた。
…俺は今、生かされている…
そう感じ静かにたたずむ父に、待っていたかのように満天の星達が語りかけた。
父は無数の星に圧倒されたが、星達は泥に足を取られぬように、父の足元に光を投げかけてくれた。父は周囲に人の居ないのを確認してから、彼等が照らしてくれる田んぼに入り、黙々と雑草を抜いていった。
夜が明ける前にどうしても、全てを終わらせたかったからだ。
ひとりで雑草を抜きながら、そのとき父は何を思ったのだろうか。
過去の悪夢か、それともこれから切り開くべき未知なる未来。
休む事なく父は、黙々と田んぼの中を動き廻っていた。
…星だけが、父の優しさを見ていた…
どれだけの刻が過ぎたのか、父は働き続け、最後の雑草を抜いた。穴を掘りそれらをひとまとめにしてその中に入れた。土に還すのだ。汗が顔からとどめなく流れていたが、父は気にせず、星達が照らしてくれた田んぼを振り返った。
今まで、雑草に覆われ下を向いていた稲達が、頭をグイっと持ち上げて蘇り、並んで空を見ていた。
父も誘われる様に空を見たが、星達はいつの間にか消えていた。
代わりに朝靄が、きれいになった田んぼの稲を、黄金色に映し出していた。
父の心に充実感がみなぎり、疲れは感じなかった。
父は急いで自転車に乗り、我が家へと一目散に帰っていった。

 その女の人の前で父はただ、照れくさそうに笑っているだけだった。
その人は父に長々と感謝の気持ちを伝え、最後に礼を言い、笑顔で帰って行かれた。
本当にいい話だ。
けど!しかし!その後、我が家はえらい事になって行った。
あの大人しいと思われていた母が猛烈に怒りだした。父が何を言っても完全無視をしたのだ。早い話が、母はその女の人に、嫉妬していたのだ。
「私の前では眠いとか、腰が痛いから揉めとか、いつもゆうくせに。
そら、他人さんの田んぼの草まで掃除してたら、しんどいに決まってる」
ぐちぐち、ぐちぐちと、母は永い間私に愚痴をこぼした。そのくせ、父の前ではふくれてものを言わないだけ。結構、執念深い性格も持っている母だった。
母の愚痴はその後も続いた。
「お母ちゃんはあんたらが居てなかったら、もうずーっと前に別れて田舎に帰ってた。
『一緒になってくれ!』
てゆわれた時に、
『私は田舎者やから、親戚の人とはうまく行くはずがない』
てゆうたら、あの人、
『俺が絶対ちゃんとするからまかしとけ!』
そうゆうたのに何にもしてくれへん。口ばっかしで、
『まずい』て思たらすぐ友達と飲みにいってしまう。
ほんまにお母ちゃんはあの人に騙されたわ。
よその事やと、頼まれて無い事までやるくせに、家の事はお母ちゃんに任せっぱなし、お母ちゃんには、あんなに、にこにこした事なんか、一度もないわ」
子供でも引いてしまうような事を、平気で愚痴った。それは、何日も続いた。母は友達がいなくて、私しか話せる相手がいなかった。父のした事は、男として立派なのは、母にも十分解っていた。父に下心や礼を言ってもらう、そんな気持ちが無い事も、母が一番知っている。妻としては、立派な夫に拍手を送りたい。けれど理屈ではなく、女としては絶対嫌だったんだと、今の私には理解できる。
だから母は大きな声で喧嘩をするのではなく、家事を休む事もなく、沈黙する事で自分の気持ちを父に知ってほしかったのだ。
だから、この出来事の結末は無い!
それから父は、特にいい訳じみた事も言わなかったし、母も問い詰めたりはしなかった。一週間ぐらいで、父と母は又どちらからともなく、普通に話をしていた。
ただ、幼心にも父が母のふくれている横顔を、時々ちらっと横目で見ていたような、定かではないがそんな記憶がある。
…父は母に惚れていたから…
 
貧乏だけど、結構楽しい日々が続いた。戦後の日本は金持ちと貧乏人のどちらかだった気がする。だから、よれよれの同じ服を毎日着ていても、誰も何も言わなかったし、いじめなんかも無かった。何故かと言うと国民の半分以上が、何もない状態から始めていたから、貧しくて当り前。洗濯機も冷蔵庫もテレビも、どこの家にもなかったし、車なんて夢のまた夢。そんな暮らしだったから、子供達は家の外で伸び伸びと遊べた。それに当時の家は雑な造りで、自分の所だけを囲うなんて家は一軒もなかった。他人の家にでも平気で入って行き、親同士の親しい所では、ちゃっかりおにぎりなんかも作ってもらえた。けれど悪さをすると、よそのおばちゃんにでも怒られた。
今では絶対あり得ない事だが、当時はどこの家でも、いやほとんどの家は鍵を掛けずに外出したし、夜も鍵はかけない。
怖がりな母が鍵を掛けようとすると、父が怒るのだ。
「みんな知り合なのに、鍵をかける必要など全くない」と言うのだ。
母の用心深いのは、父が戦争に狩られた時の後遺症なのだが、男の父には理解できず、しょっちゅう他愛のない喧嘩をしていた。
家族そろって出かけるとき、母は忘れ物をしたと言い、家に帰り鍵をかけていた。
そこまでやられると、父も見て見ぬ振りをするしかなかった。がみがみ父は怒るけど、最後は母の要求が通っていた。父は結構、母に甘かった。
我が家にテレビが来た日。
冷蔵庫が来た日。
洗濯機が来た日。
それらの全ての日を私は生涯忘れないだろう。
節約して、少しずつお金を貯める。目標のため文句を言わず、我慢する。
お金が少なくなると、母は生サバを一匹買ってきて塩を振り、五枚にさばいて焼いた。それと、父が田んぼで作ったキュウリで即席のお漬物が付き、運のいい日は朝の残りの味噌汁が出る。それがその夜のおかずの全てだ。
サバは父の分が一番大きくて、次が姉達、私と母はいつも小さいシッポの先。
「お父ちゃんは働いてるから、大きいんやで」
母の口癖。
でも誰も文句を言わない。この私でさえ、母に魚の身をほぐしてもらい、黙って食べていた。そして目標額にお金が達した時、我が家に、
テレビが来た!
冷蔵庫が来た!
洗濯機が来た!
何でもローンで買える現代を悪くいう気はさらさらない。しかし、私は幸福な子供時代を過ごしていたと思っている。特にテレビは嬉しかった。その頃には知り合いのほとんど 
の家にもテレビがあった。みんな好い人達で、夜どうしても観たい番組のある日は、わざわざ呼びに来てくれる。父以外の女達は、ちょっとお洒落をしてウキウキしながら見に行った。父の気持ちも考えず、私達は大はしゃぎで出かけた。
しかし母だけは、いつもいつの間にか先に帰っていた。幼い私は今観たテレビの面白かった場面を、延々と父に話すのだった。
父はいつも、ニコニコして聞いてくれていた。我が家にテレビが来て一番ほっとしたのは母だったかもしれない。
しかし、テレビが来てからの我が家は少し変わった。多分、よその家でもそうだと思うのだが、会話が極端に減った。みんながテレビに夢中になるからだ。
テレビのない時の我が家の夕食の風景は、姉達の好きなスターの噂話で始まり、それに私と母が乗っかって行き、ああでもない、こうでもないと、次第に話が膨らみ時には身振り手振りで盛り上がり、お腹を抱えて笑い出す。姉達は共にまだ二十歳前、まさに箸が転んでも面白い年頃。それにこの時ばかりは母も負けてはいない。
何が面白いのか本当に楽しそうに笑っている。私は、内容はあまり解らないのだけれど、母と姉が笑っているのが嬉しくなって、父の大きな膝の上で、キャッキャ、キャッキャとはしゃいでいた。
父はそれを黙って聞いているだけ。
ある時は私を膝の上に抱き、ある時は新聞を読みながら、黙って聞いているだけだ。
でも私は、父にはそれが楽しかったんだと、今でも確信している。家族の幸福そうな瞬間を感じているだけで、父は満足していたから。
けれど、待望のテレビが来てからは、そんな会話は無くなり、女達はみんなテレビに釘づけになった。あんな小さな箱の中から色々な夢が飛び出して、観た事もない世界に瞬時に連れて行ってくれる。だから、知らず知らず夢中になってしまう。
私の家だけではなく、恐らく日本中の家庭に起こった夢の革命?
それとも悲劇…
それでも父は文句も言わず、私達と同じものを見てくれていた。

…それに夏になれば野球がある!…

女系家族の中でいつも苦戦している父だが、この時だけは大黒柱の威厳を見せていた。姉達も期限付きで、この時だけは、父にチャンネル権を譲った。
父は私を膝に乗せ母が湯がいた枝豆を肴に、小のビ―ルを飲みながら、私に野球のル―ルを教えてくれた。
私も父と一緒に枝豆を食べながら、いつの間にか野球が大好きになっていた。



そんな我が家に、不幸が起きた。
それは、私が小学一年生の時に起きた。
当時二十歳になった長女が、交通事故で亡くなった。
曲がり角で、ダンプカ―に接触されたのだ。
原因はダンプカーの運転手のわき見運転が原因。
姉に落ち度は何も無かった。
七歳の私には死という現実がわからなかった。
ただ、何かが壊れ、それは二度と元に戻らない大きな悲しみ。
漠然とそんな事を感じていた記憶がある。
それは幼い子供の勘ではあったが、的中していた。

「我が家から笑い声が消えた…」

私はこの姉が好きだった。
姉は母に似ておとなしく、そして優しかった。
それに姉はよくチョコレートをくれた。
遊びに行った時、なぜかチョコレートを買ってきてくれた。
数年後、私が人を好きになった時、姉がくれたチョコレートの意味が分かった。
姉は事故死する数か月前にお見合いをしていた。
きっと、幸福のおすそ分けを、してくれたのだろう。
女三姉妹の我が家で、姉が一番できが良かった。
何より家庭的で、父と母にも優しかった。
きっと反抗期もなかったような気がする。
今回のお見合いも、相手の人に気に入られ、
「養子に入っても構わない」
そう相手に言わせていた姉。両親が、
「お嫁に行ってもいいよ」
と言っても、
「お母ちゃん達と一緒に居たい」
と言い、両親を感動させた姉。
「変われるるものなら変ってやりたい」
私の人生の中で、何度も本気でそう思った姉の死。
小さい私でさえこれ程の悲しみを感じたのに、慈しみ、愛し、二十年間大切に育ててきた父と母の悲しみは、想像すらできない。
刻の続く限り、無限に続く悲しみの始まりなのか…
母は葬儀の時、ずっとずっと泣いていた。
そして出棺の刻、
「一緒に行く!」と叫んだ。
母の悲しみが爆発した瞬間だった。
しかし、幼い私にとってその言葉は強烈だった。
「母は姉と一緒に行ってしまうのか?」
私にとって母のその叫び声は、ただ楽しかった昨日までの自分には戻れない、衝撃の一言だった。
その日から私の中に、母に反抗するもう一人の自分が棲みだした。
この気持ちはいつも自分の中にあり、私を意地悪な子に変え様とする、自分自身との戦いだったが、私は負けなかった。
訳のわからぬ苛立ちを母にぶつける事無く、自分の問題として処理する事が出来た。母に今以上の深い悲しみを、感じさせたくなかったからだ。そして私は…
私は、この時の父の事を、本当は書きたくない。
私と父のこれ迄の七年の生活の中で、嫌な事は一つもなかった。
いや、毎日が面白く、父の後をついていくのが好きで母に、
「お父ちゃんに付いてるひっつき虫」
と言う、お墨付きまでもらったことがある。足にくらい付き、背中によじ登り、肩車でのし歩き、二の腕でブランコをしてもらう。そんな楽しい事しか覚えていない。
父は私の前ではいつも笑っていて楽しそうだった。
私はこんな生活が永遠に続き、同じ刻が永遠に流れると信じて疑わなかった。

「しかし、父の顔から笑顔が消えた…」

お葬式は父が一切を仕切り行われ、無事に姉を送ることが出来たが、事故の後処理、お通夜、葬儀と父は動き回り、それ以外の時間はずっと姉の傍に居た。
最後の別れの刻も冷静で、涙ひとつこぼさなかった。
後に聞いたことだが、姉を轢いた運転手が謝りに来たとき、その運転手は父の目を見た瞬間、殺されるのではないかと思ったらしい。
殴られるのを覚悟して、泣きながら土下座して謝ったそうだ。
しかし父は怒ることなく、冷静に対処したと聞いた。
そして相手からは一円のお金も受け取らなかった。

「娘の命に値段はつけられん!」
父は母にそう言った。

当時は今のように保険制度は無いに等しく、個人的に話し合うだけだったらしい。
もしあったとしても、父は絶対受け取らなかったと私は思う。もし受け取っても、どこかにきっと、寄付しただろう。
姉が小さな御骨箱の中に入って、父の手の中に戻ってきた刻、父はどんな気持ちで娘を迎えたのだろうか。
「戦争で死ぬはずの自分が今も生き残り、たった二十歳の娘がなぜ、両親を残して先に逝くのだ。お前には輝く未来があったのに、なぜお前は俺達を置いて逝ってしまうのだ!」
戦争で味わった地獄の苦しみより、父の苦しみは凄まじかった。
父は一週間も十日も寝なかった気がする…
姉の葬儀が慌ただしく過ぎて、初七日が過ぎて、私はやっと父の布団で父と一緒にいた。本当はいつもの様に暴れたかったが、その日は静かにしていた。父は私を寝かそうと頭を撫でてくれていた。私が大人しくしていたので、眠ったと思ったのだろう。父はそっと私の頭から手を離して、横になった。父の息づかいが聞こえてきた。いつもと同じ父の息づかいだ。嬉しくなった私は父に飛びかかろうと薄目を開け、そして父の顔を見上げたとき、私は凍りついた。
閉じている父の目から涙がスーっと流れ落ち、父の耳の中に消えた…
七歳の子供には厳しい現実だった。

しかし、父の立ち直りは早かった。
というより、父の精神力は素晴らしかった。
それからの父は今までにも増して働き続け、何と五十代で家を建てたのだ。
ローンを借金と感じる昔気質の父は、母と共にコツコツとお金を貯めて、田んぼを少し売り、即金で家を建てた。
少しでも安くて良い木を探すため、父は少ない休みの日に、あちこちの材木店に行き、値段の交渉をしていた。
好い所があると聞けば、他県にまで足を運んだ。
仲介者を省けば、上質の木でもかなり安く手に入る。
父は家族のためなら、どんな事でもしてくれた。
顏の広い父だからできた、離れ業だった。
「家が立派だと、俺が居無くなっても、何とか生きて行けるだろう」
材木の交渉に行く日、父は母にそう言った。
「父風な愛の表現」
幸い土地は先祖が残してくれていた。
だが、それにしても、
「父は凄い!」と、私は思う。






長女の死から二年後に次女が嫁いで行き、我が家は両親と私だけになっていた。
我が家の暮らしも、少しずつ楽になっていて、父も造園の仕事に行くとき、自転車ではなく、原付のオートバイに乗っているし、仕事の方でも腕を見込まれ、造園の一切を任されていた。と言えば、かっこいいが、
「責任者兼雑用係りみたいなもので、体よく働かされている。
その証拠に、お給料が少しも上がらない」
母の意見だが、まんざら間違ってはいない。
父は本当に手を抜くことなく働き、若い男の子の面倒も実に良く見てやる。
父は若い子達にも慕われていた。
これは、まだ一番上の姉が生きていた時の話なのだが…
父の生まれた所は、当時はまだぽつんぽつんと、家が点在しているようなのどかな田舎で、楽しみといえば、何と言っても収穫を神様に祈願する秋祭りだ。
父の住んでいる所では、地区単位で豪華な布団太鼓を神社まで担いで行き、神様に今年の収穫を感謝して、そして来年の豊作をお願いする、年に一度のお祭りがある。
娯楽の少ない時代、神社までの沿道には、多くの人々がその雄姿を見に来る。
もちろん若い女の子達も大勢見に来る。だから自然に、坦きての男達にも気合が入りまくる。酒で景気をつけて、一トン以上もある布団太鼓を総勢二十人ほどで担ぎ、神社までの道のりを「ヤッセイ、ヤッセイ」という長老さん達のかけ声で、優雅に恰好よく進んでいく。
父はこの祭りが大好きで、祭り当日は朝早くから母を起こし、腹にさらしを巻く手伝いをさせる。ひとりで出来るはずなのに、なぜか母に手伝わせる。母もぶうぶう言いながら、さらしを巻いている。それが終ると、皆とお揃いのはっぴを着て、おろし立ての地下足袋を履く。そして、
「格好いいだろう」
と言わんばかりに、その辺を行ったり来たりして、母に嫌味を言われる。それでも父はめげる事無く、私を肩車して太鼓の置いてある場所に私と一緒に行く。
もうそこには大勢の人が来ている。見物人、担ぎてのベテラン、そしてドキドキ顏の若い衆。もちろん、着飾った若い女の子たちも大勢集まって来る。
私はその人達の間を通って、太鼓台の前に行き父にひょいと抱き上げられ、太鼓の叩き手の横に座らしてもらえる。普通、布団太鼓は男の子が乗るのだが、私は父の顔で乗れるのだ。
まあそれも、出発する迄なのだが…
でも私は少しの間でもそこにいる事が誇らしくて、誰にも見られていないのに、最高の得意顔をして鼻をヒクヒクさせながら、太鼓台の狭い空間を独り占めしていた。
太鼓台に乗っているのは女の子では私だけだから、たとえそれが端っこでも、すぐ降ろされても、私にとっては最高の自慢だった。
私はその特等席から父の姿を探した。
父は同じはっぴを着た、若い男の子達と楽しそうに何か喋っていた。
「あれが、私のおとうちゃんよ!」
誰かに言いたくて仕方なかった。
父の周りには、すぐに同じはっぴを着た男の人達が寄ってきて、そこだけがいやに目立って私にはすごく輝いていた。
しばらくして母が迎えに来たので、父が太鼓台から降ろしてくれた。私は嫌だったが降りて母と手をつないだ。母はこれから父の為に、ちらし寿司を作るのだ。
「我が家の毎年の恒例行事」
そのとき母は、私の手をつないだまま父の傍に行き、真剣な顔で何か話している。
父は聞いた振りをして、
「はいはい」と言う風に首だけ振って母をあしらっている。父の心ここに有らず。
分かっていても母は必ず釘をさす。

行事の始まりは、午前中にまずその布団太鼓を神社に持っていき、指定された場所に置いてくる事なのだが、その始まり方が面白い。
出発時間は特に決まっていないが条件がある。着飾った若い娘や奥さん達が、布団太鼓の後にできるだけ多く集まり、目立つこと。女達は皆この日の為に最高のおめかしをして、誘い合ってちょっと恥ずかしそうにやって来る。そして太鼓台の後ろに集まりお互いを褒め合ったりしている。姉達も母の仕立てた着物を着せてもらい、内股でおしとやかに歩いている。人数が多ければ多いほど、男達の血が騒ぐのだ。見物人が沢山集まる。これが出発の合図。
総勢二十人以上の男達の、荒っぽい神様詣での始まりだ!
父は中肉中背だが、力仕事で鍛え上げたその疲れ知らずの体力で、みんなの先頭を行き、経験の少ない若い衆を引っ張って行く。さっき母に、
「絶対、無茶したらあかんよ」
そう言われていたが、走り出したら父は止まらない!
私はそんな父が大好きだ!
豪華な祭りが始まった!
その舞台となる神社は威厳のある一の宮神社。鳥居から本堂までは砂利が敷き詰めてあり、約五十メートル程ある。そこに一トン以上もある布団太鼓が多くの地区から集結する。その数、何と十六台。
各地区がそれぞれに知恵を絞って、神仏に敬意を示す飾り物を太鼓台に付けている、どれも豪華な布団太鼓だ。どの布団太鼓にも中央に大きな太鼓がはめ込んであり、それを四人の若衆が神社に着くまで、叩き続ける。
布団太鼓は坂道や下りの多い、まだ舗装されていない道を休みながらも、確実に少しずつ、神社めざして前へと進む。神社までの沿道、そして神社の道の左右に人が鈴なりになって、その入場を観ようと今や遅しと待っている。
その時見物人の中から、悲鳴にも似た歓声があちこちから上がった。
一台又一台と地区の誇りを背負った布団太鼓が、次々と技を競い合い鳥居をくぐって入ってきたのだ。刻を同じくして十数台の布団太鼓が一斉に、美しく着飾った女達を引き連れやって来て、神の御前に勢ぞろいしていく。
それを観ている人達は、いつしか自分がその真っ只中で太鼓を担いでいるような、そんな錯覚を抱き、共に興奮していった。
全ての太鼓台が並び終えるのは夕暮れに近い。
威風堂々と並んだ姿は闇に溶け込み、見る者を圧倒する。
闇が訪れると神社の灯篭に灯りが灯る。
それを合図に男達の、祭りの宴が再び始まった。

私は母がばら寿司を作り、いつ父が帰ってきてもいいように支度をするのを待って、それから、父のところに行く。
通称「宮入り」というこの地方が自慢する、布団太鼓を観るために行く。
豪快な布団太鼓が神殿の前で豊作を願い、境内を練り歩き、人々からやんやの声援を受ける、その太鼓台を担ぐ凛々しい父の姿を見に行く。
私は父だけを見に行く。
行事が始まり次々と、布団太鼓が鳥居をくぐり荒々しく宙を舞っていた。
私はドキドキしていた。いよいよ父の出番がやって来たのだ!
父達は、先導役の長老たちのかけ声「セーノー」で景気良くその一トン以上ある、布団太鼓を一瞬で肩に担ぎあげた。見物人から、
「ワーッ!」
と言う叫び声が、あちこちから聞こえた。重いのは私が見ても分かるが、父達は昔の伝統を守り頑張っていた。父達の布団太鼓は何度も何度も宙を舞いながら、本堂から鳥居まで下りそこから器用に位置を変えて、又本堂に向かっていた。
沿道の見物人から、歓声と拍手が鳴りやまない。
その声援に応える様に、父達の最大の見せ場が始まった。
「行くぞ!」
父の絞り出すようなかけ声で、担き手全員が、
「ふーっ」と息を吐き、精神を統一して、満身の力を手に込めた。
男達はかけ声と共に、肩から一気に布団太鼓を頭の上にもち上げた。本堂に祭られている「神様」に見てもらう為に、二の腕だけで布団太鼓を持ち上げたのだ。
こうなると、見物人の中から自然に、
「サ―セー、サ―セー」の大合唱が始まる。
その熱気と歓声に後押しされて、父達はゆっくりゆっくり本堂目指して進んでいった。この技の出来るのは、父達の太鼓台を入れても三台か四台だけ。下手すると腰を壊してしまうし、微妙な背の違いが命取りにもなる。だから父はみんなの担ぐ位置を決め、どんなに重くても、辛くても、
「絶対諦めるなよ!
ここが根性の見せ所や!
絶対に落とすな!」
全ての男に声をかけまくる。そして父は担ぎ手の嫌がる一番重い場所を担ぐ。
祭りが終わると、父とその仲間達の肩は紫色に腫れあがり、一週間ぐらいは腕も上がらず手の感覚も無くなる。
しかし、この日ばかりは止まらないのだ!
父の声は景気づけに飲んだお酒と、みんなを勇気づけるために張り上げた大声の為に、ガラガラに擦れていた。
それでも父はみんなに気合を入れまくる。
男達の汗が飛び散る、年に一度の度胸試しだ。
この興奮は観た者だけの至福の刻。
熱気が渦になり全ての見物人を興奮させている。
私はその刻の父の動作の一つ一つを今でも憶えている。
私の目に映るのは、父の凛々しい顔と、身体中から飛び散っていた汗だけ。太鼓の音も人々の歓声も私にはどうでもよかったし、もう何も聞こえては来なかった。
ただ父の姿だけが、私に見える全てだ。
…父は私のヒーローだった…

父達の担ぐ布団太鼓は本堂に着くと、ひと際大きい歓声を受け、そして静かに元の場所に鎮まった。他の太鼓台同様、拍手が鳴りやまなかった。担いでいた全員が汗まみれで、身体からは湯気が出ていた。座り込んでしまう者も多くいた。しかし、
「今年も無事にやり遂げた」
と言う充実感で、みんなとっても男前な顔をしていた。
しかし、私は心の中で叫んだ!
「お父ちゃんが、一番かっこ良かった!」
小さい私は母に抱っこされ、一部始終を見たが、母は私の頭しか見ていなかった。
「あんなん、怖くて見てられへん。
怪我せえへんのがおかしわ」
母の言いぐさだ。
けれども、母は必ず毎年私を連れて観に来る。私が赤ちゃんの時、母は私をおぶって観に来たと言う。それは私に観せたいからではなく、一人で帰るのが嫌だから。何故かと言うと、父は祭りの後は必ず友達と、そして若い衆を連れて飲みに行くらしい。
今年も私達は、父を残して母と二人、興奮の治まらないままゆっくり歩いて家に帰った。母と手を繋ぎながらの帰り道で、母は私に言った。
「お父ちゃん、よう目立ってたやろ」
いつもより甲高い母の声に私は少し驚き、そっと母の顔を見た。
母は少しだけいつもより怖い顔をしていた。
「お母ちゃん、見てたんか?」
そう私が聞くと、母は嫌そうな顔をして、
「見てないけど、お母ちゃんには分かるんや」
母は私の方を見ずにそう言った。
幼い私には母の気持ちが分からなかった。
あんなに頑張っているのに、なんで怒っているのか解らず、
「何で、何で見てないのに、そんな事いうのん」
母はそんな私の質問にむきになって言った。
「おとうちゃんは、いつでも目立つんや。
危ない事ばっかりして、今に怪我するわ…
そうなっても、お母ちゃんは知らんからな」
私は又こっそり母の顔を見た。
そこには、いつもと少し違う母がいた。
…やっぱり母も、父に惚れていたのだ…

しかし、父のそんな恰好いい姿を見るのもその日が最後だった。
母に言われたからではないが、父も自分の体の限界に気ずいていたようで、今年が最後と決めていたらしい。
だからなおさら、恰好よく、豪快に、父ははしゃいでいたのだろう。
私達に観ておいて欲しかったのだろう。












私が二十七歳のとき突然父が死んだ。
姉が亡くなって、ちょうど二十年めの夏、父が死んだ。
原因は交通事故。
仕事の途中での事故。
父に何の落ち度もなかった。
姉と同じだ…
悪夢が又蘇った。
信じられない事が起きたのだ。
同じ事が又我が家に降りかかった。
その時私は友達と旅行に行っていた。
当時はまだ携帯電話の存在しない時代。
私は自由気ままに青春を楽しんでいた。
何日か家を留守にしても、それほど気にはならない。
二十年前、姉を亡くしてから、両親は残された私達姉妹に対して、あきれる程繰り返し、言う言葉があった。
「気をつけて」
父は心の中で言うだけだが、母には本当に毎日言われていた。
二十年間、毎日言われ続けた。
だから何か起きるのであれば、それは父や母ではなく私だと、何となく思っていた。
だから、用心も自分なりにした。
それが分かっていたのだろうか、父は私を束縛せず、いつも好きな事をさせてくれた。当時ではとっくに適齢期を過ぎた私に、母は焦っていたらしいが、父は、
「まだ時期が来てないだけや」
と言い、私をかばってくれた。
そんな両親の気持ちなんかにお構いなく私は私の道を歩いていた。
しかし、私は将来この家を継ぐ気でいた。亡くなった一番上の姉がしたように、私もこの家に残り家を継ぎたくなっていた。偶然かも知れないが、なぜか私は恋をしても、長男の人を好きにはならなかった。両親にまだ私の気持ちは伝えていなかった。
それが何より父に対して残る、たった一つの私の悔いの心…
そのうえ私は、父の死に目に立ち会っていない。友達と旅行に行っていたから、三日、四日会っていなかった。

旅行が終わり家に帰る為、私は歩き慣れたいつもの道を歩いていた。電車を降りて十分ぐらいの所に私の家はあった。我が家が見えたが何かおかしい。いつもなら玄関の灯りしか付いていないのに、その日の家は、赤々とどの部屋も明かりがついていたのが、遠目にも分った。
嫌な予感はしたが、打ち消し私は家へと急いだ。庭の門を開けると、近所の人達が駆け寄ってきた。女の人はみんな泣いていた。私は黙って奥の部屋に連れて行かれた。
母が居た。その横に父が、棺のなかで眠っていた。理解できなかった。
部屋の内がスローモーションの様にゆっくりとして、口々にみんなが私に何か言っているのだが、その人達の言葉にも音が無く、ただ棺だけが私の目に映った。
私は近所の人達に別の部屋に連れて行かれ、父が仕事の移動中、トラックの助手席にいて車同士がぶつかり、父だけが死んだと聞かされた。父には何の落ち度も無かったと、その人達は泣きながらその時の事情を話してくれたが、何一つ私の耳には入ってこなかった。
全てが二十年前と同じだ。
同じ事が起きている。
しかし、頼る父がいない。
どんな事でも困った時には、いつも中に入り知らぬ間に難題を解決して、涼しい顔をしていた父。むしろ歳を重ねる方が、その手際よさに磨きが掛かり、人から頼りにされていた父。
その父が…
起きてはいけない事が起きていた。
現実は本当に残酷だった…
正直な所、それからの出来事を私は余り正確に覚えていない。思い出そうとすると、カメラで撮った写真のように、一コマ、一コマしか思い出せない。それも白黒写真で、しかもピントが少しずれている。多分ピントのずれていたのは私の頭だったのだが…
ただ強烈な想いとして、私の中で色あせる事無く生きている風景がある。
それは、もの凄く大勢の人がお通夜に、そしてお葬式に来てくれていたこと。
その中でも、厳つい男達が人目もはばからず、目を真っ赤にして泣いていたのが、記憶の片隅にある。
父の幼馴染。
父の飲み仲間。
父を慕っていた若者たち。
彼らは村の秋祭りのとき、若く血気盛んで、お揃いのはっぴを着こみ、肩が紫色に腫れあがり内出血しても、最後まで担ぎ続けた男達だった。
そんな男達が父の死を悲しみ、人目もはばからず泣いていた。
みんな二十年も昔に夢を語り合った仲間達だ。
ただ違う所はみんな歳をとっていた。
髪は白くなり顔には年輪を思わせる皺ができていた。
初々しかった若者は、今では中堅と呼ばれるようになっていた。
しかし、刻は過ぎても人の心に変わりはなかった。
深い悲しみの中で、私にとっての、唯一の救いだった。




通夜が終わり、夜が明け最後の別れが来た。
私達は父の棺の傍にずっと居た。
私は母のため、刻よ止まれと真剣に祈った。
神でも悪魔でもいい父を蘇らして下さい。
私の命と交換でも構わないと、その時私は真剣に祈った。
けれど数時間後、私の願いは叶わず、父は白い布に包まれた小さな箱に入り、私の腕の中にいた。私の元に帰って来たのだ。
しかし、渡されたその箱のあまりの軽さに、私は悲しさの表現が出来ず、その場にしゃがみ込んだ。二十七年間の楽しい想い出がいっきに私を襲った。
それは走馬燈のように淡く美しいものではなく、針のように私の全身に降りかかってくる今まで感じた事のない痛みだった。

母は私以上に痛々しかった。
言葉のかけようがなかった。
多分、母には何が起きたのか、解っていなかったんだと思う。
自分の人生の中で、二度も最も愛する人を失う。
それも同じ交通事故で一瞬にして…
しかし、私が想像していたより母は強かった。
姉の時の葬儀は父が全てを取り仕切っていたが、今回は父の親戚達が全てを仕切って行った。それでも母は平気だった。
何を言われても気にすることなく、ずっと父の傍を離れなかった。
そんな体裁など、その時の母にはどうでもいい事だった。
きっと母は、父と話をしていたと思う。
母には、父の声が聞こえていたんだと思う。
母は私にさえあまり話しかけることなく、父の傍に居た。
父との最後の別れの時も、取り乱すことなく父を見送っていた。
母は何を考えていたのだろうか…
慌ただしく、儀式のようなお葬式が終わり、数えきれない程いた人の波が、泡のように消えていった。
父の居ない家はものすごく広く感じたが、やっと普通に戻った気がして、少しだけ気が楽になった。
きっと母も同じ事を思っていた気がする。

…父、享年六十五歳。
波乱の人生を生きた…



話は少し前後するが、私達母子が家を売るまでの、三年余りに、本当に沢山の人達が、父の訃報を知り、駆け付けて下さった。
その全ての人が、父に世話になったと言って下さり、皆さん涙を流して仏壇にお参りして下さった。そして母や私の知らない、父の素顔もいっぱい教えてもらう事ができた。だから母はだんだん強くなれて、余生を送れたと私はその方々に心から感謝している。
ある日近所では見た事のない、髪の毛の真っ白な、優しそうなおばあちゃんが訪ねて来られた。付添の人と一緒だった。
少し足を引きずるようにしてその人は我が家に入られ、頭を深々と下げられた。
私が応対に出たのだが、すぐに父の知り合いの人だと思った。それ以外、知らない人が来る訳がない。
勘は的中。そのおばあちゃんは仏壇に手を合わしてから、ゆっくり話しだされた。
その時は母も同席していた。
父とはかれこれ二十年近い付き合いだと言われた。息子が酒乱で普段は大人しいのだが、酒が入ると母親でも容赦なく殴り、母親がパートで稼いだ生活費を持っていく。
説教をすると「殺す」とわめきだし、酒が切れたら涙を流して、
「もう絶対しないから」
と土下座して謝る。
よくドラマでは観るが、実際にもあるんだな、と私は思って聞いていた。
事の始まりは、父が仕事で初めて行った現場での事。その近くの文化住宅の中から女の人の悲鳴が聞こえてきた。女の人が男に殴られている様子だった。野次馬は大勢いたが、誰も止めてやらない。父はそんな男が大嫌いだから、自然に止めに入ったらしい。近くに行くと、男から酒の臭いがした。
「お前、男のくせに、女殴るな!
なに昼間から酒飲んどるんじゃ!
仕事せんか!仕事!」
父が一喝した。
私からしたら、この位の父の話し方、ごくごく普通なんだけれど。その男には、父はどこかのヤクザに見えたらしい。父は仕事が終わってからその家に行き、素面になったその男に会い、コンコンと説教した。
「声がデカくて、顔が怖くて、口が悪い」
そんな父の説教を、おばあちゃんの息子は小さくなったり青くなったりして、神妙に話を聞いていた。
その後も父は、その人の家の近くに行くと、様子を見に必ず立ち寄っていた。息子も少しずつ酒の量を少なくしていたらしいが、父と知り合ってから二年目に酔って車にひき逃げされたそうだ。旦那さんは早くに亡くなり、母ひとり、子ひとりの暮らしだった。それからも父はそのおばあちゃんに何かと力を貸した。
息子といっても四十過ぎで、奥さんにも愛想を尽かされ離婚していたようだ。その時おばあちゃんはもう、六十を過ぎていた。父はそれから、痛んだ家の修理とか雑用をするため、月に一、二度家を訪ねていた。
父はどれだけ働いても絶対に謝礼のお金は受け取らなかった。父らしい。まあ私の父だから当たり前だ。
おばあちゃんは足が不自由な為、今は市に面倒を見てもらい、小さい借家に住んでいた。市の職員は老人ホームの入居も熱心に進めたが、父がいろんな雑用をしに来てくれたので、「おかげさんで、気楽な一人暮らしをして来れた」
そう笑顔で話された。しかし、父の訃報を聞いた時は、
「頭の中が真っ白になって、最初は涙も出えへんかった」
そう言って、ハンカチで顔を覆われた。
母も一緒に泣いていた…
その後おばあちゃんと母は意気投合して、二人は父の好い所ばかりを探して話をしていた。昔からの友達のように打ち説けた二人。
「ほんまにあんたは幸福な人やで」
と言われ、母は今まで見たこともない得意顔をした。
天国の父は、どんな気持ちで聞いているだろうか?
私が想うには、父も得意顔をしているのではないだろうか。
夫婦は似てくると、世間ではそういう風に言うから。
おばあちゃんは帰る前に言われた。
近いうちに、老人ホームに引っ越すと。
でもその顏に暗さはなかった。
「来れてほんまによかった。
あぁ~。やっと胸の閊えが降りたわ。
ありがとやで」
そういって、おばあちゃんは帰って行かれた。母は満面の笑みで手を振りながら、おばあちゃんが付添の人の車に乗るのを見送った。
父が逝ってからはじめて見た、母の本物の笑顔だった。
その後も、私達がまったく知らない人たちが不意に訪ねて来て下さった。
母にはそれが、何より生きる支えになって行った。






父の居ない生活にも、何とか妥協できる様になったある日、我が家に貫録のある二人の紳士が訪ねてきた。その日も私が応対に出た。
その紳士は自分達の名を名乗り、
「お母様は御在宅でしょうか?」と言われた。
私は奥の部屋にいる母にその人達の名前を言ったが、母に記憶はなかったので、直接母が玄関に来てその二人に会った。
母の顔を見た瞬間、二人の目から涙が溢れだした。
私達は正直な所びっくりした。
多分、父の知り合いの人とは思うのだけれど…
私達が戸惑っていると、二人は深々と頭を下げられ、そして
「昔、先輩に陸軍でお世話になった者です。終戦後、数年経ってから三人でお訪ねしたのですが、覚えておられませんでしょうか」
そういうと、二人は真っ直ぐ母を見た。
私も母の顔を見た。
刻の流れを探していたのだろうか、母もその二人の男性の顔を見つめていた。
少しずつ母の顔に驚きの色が見えた。
少しずつ、母の目に涙が浮かんでいた。
母は何も言わず二人を奥に通し、仏壇の前に案内した。
二人は無言のまま正座し、仏壇に飾ってある父の遺影を永い間見つめ、そして静かに手を合わした。
永い間父の遺影に合掌した後、二人は母に向かってこう言われた。
「あの時、ご馳走して頂きました、飯と焼いたサバの味は忘れられません。
突然伺ってまさか、夕食までご馳走して頂けるとは思ってもいませんでした。
奥様のご苦労も知らず、ただただ美味しく頂きました」
そう言って二人は又、深々と頭を下げられた。
母は思い出していた…
二十歳を少し過ぎた、まだ顔に幼さの残る三人の若者達だった。
あの人に恥をかかせない為、家中の金目の物を質屋に持っていき、必死でお金を借りて食事を作った事。夫の分もその子達は食べ、屈託のない笑顔を見せ、夫と四人で大笑いして顔をクチャクチャにして腹を抱えていた。
そして見送りの時の、夫の少し寂しげな横顔を、母は思い出していた…

その後三人は、毎年欠かさず父に年賀状を送ってきていたと話された。
それぞれに行く道は違ったが、戦場での父との出会い。
その後生きて再会し、父から言われた励ましの言葉。
そして、その日いただいた心のこもった食事の味は、
「一生忘れる事のない、私達の心の支えになりました」
お二人は口を揃えて言って下さった。
飾り気のないその言葉の一つ一つが、私達母子の心に沁みた。
母がもう一人の人はと聞くと、戦争の時に受けた傷が元で亡くなられたそうだ。
しかし、残された二人は頑張り通し、今では二人とも小さいながら会社を経営しているとの事だった。二人とも謙遜されていたが、きっと将来大きく羽ばたくと、私と母は思った。時間の経つのも忘れ私達は父の話をした。私の知らない若い血気盛んな頃の父の話を、この人達は自分たちも昔に戻り、ゆっくりと、かみしめるように話してくれた。
「三人の二等兵」
私はこの人達の事をそう呼ぶことにした。
今、私の目の前にいる二人からは想像できないが、当時は痩せて丸坊主で上官の行動に、ビクビクしながら、隠れるように父の後ろを歩いていたそうだ。
ある時そのうちの一人が、へまをやらかし、殴られていた時、父が仲裁に入り父も一緒にいや、父は板に釘を打ちつけられた棒で殴られたらしい。
昔の日本の軍隊の、典型的な野蛮な行為だ。
大昔の私の記憶の中に、父とお風呂に入った時、右肩の少し下辺りに、どす黒く肉がえぐれたような、変なくぼみ方をした所があったのを、思い出していた。
父に聞くと、
「戦争でな、お父ちゃんが上の奴の言うことを聞かんかったから、殴られたんや。」
幼かった私は父の表情までは憶えていないが、
「父でもやられるのか?」
そんな風な事を感じた記憶が蘇った。
その二等兵さんは今まで以上に父に恩義を感じ、父の事を兄のように慕い、常に父と行動を共にしていたという。その二等兵とは、今日来ることの出来なかった病で亡くなった人だった。その人は出来があまり良くなく、常に上司に目の敵にされよく殴られていたが、父が陰で元気づけてくれていて、そのお蔭で生き延びることが出来たと仲間に言っていた。戦後父の事を必死になって探したのも、この二等兵さんだった。
しかし、父に会えたのも束の間、この人は戦争中の無理が原因で亡くなられた。新入りの二等兵の中でも一番体力がなく、要領も悪かった。それが前線で戦い抜き、生きて帰って来て、わざわざ自分に会いに来てくれた。
父はその訃報を聞いたとき、
「自分に別れを言いに来てくれたのか…」
何通かの手紙にそう書いて出していた。
その後二等兵さん達は、がむしゃらに働き続け、
「気がつけば二十数年が過ぎていました」
感慨深く、懐かしそうに話された。
玄関で直立不動の姿で母に声をかけ、我が家を後にされる二人の姿を見つめながら、
「二人とも幸福な人生を勝ち取られている」
そんな気がして、私は久々に心が晴れる思いだった。
私達母子には、少しずつではあるが前に向いて歩ける。そんな自信めいたものが、湧いてくるようになっていた。それらは、多くの父のお知り合いの方々の、心温まる励ましの言葉に他ならない。
父の三回忌を内輪で済まし、私達母子はこの地を捨てたが、何の未練もなかった。

引っ越したマンションは、私と母には十分すぎる広さだったが、家具は結局ほとんど買う羽目になってしまった。けれど、なんでも新しいと言う事は、気持ちをウキウキさせてくれる。引っ越してからしばらくの間、私達は買い物に少しの幸福を感じていた。父の家の敷地は約九十八坪もあり、バブルの少し前ではあったが、満足できる金額で売る事ができた。
私達はこのお金と少しある田んぼも売り、それらの全てを、母と今は嫁いで家を出ている二番目の姉、そして私の三人で公平に分けた。これは母の願いだったし、父もきっとそう望んでいたはずだから。しかし、私は父のお金は出来るだけ使いたくなかった。母も同じ考えだったみたいで、私達はひとまず銀行に預けた。母は父の事故が労災と認められ、そのお金が入っていたのでそのお金で生活していた。勿論全然足らないがそんな時は、有り難く、父のお金を少しずつ出して使った。
当時の私達にとって、マンションという隔離された場所は最高に快適だった。
誰からも束縛されず邪魔されず、静かにひっそりと生きて行ける。一生居るつもりは毛頭ないが、頼りにしていた親鳥を突然亡くした母鳥と子鳥が、ゆっくり傷を癒すには最適だった。一番有り難かったのが、台風だ。父が居無くなってから、夏が怖かった。父は器用な人で、私達の怖がりそうな所は早めに対策してくれていたから、いつも気が楽だった。しかしこの三年ほど、心細い夏を過ごした事はなかった。こんな事で、父の有り難さを再確認するとは、母があまり私を頼りにしない気持ちが、最近何となく理解できる…
でもまあぁー。喧嘩はよくやるが仲の好い母子だから、母には我慢してもらおう。
秋の夜長ではないが、誰にも邪魔される事のないマンションだから、二人になると自然に父の話に花が咲く。でも最近の母は、今までのように、
「父、絶対賛美!」
から卒業して自分の事を言い出し始めた。
私が居たから、あの人はあんなに人のお世話が出来た。分かりやすく言えば、
「私をもっと褒めなさい!」
 こんなに露骨に言わないが、自分の内助の功も知って貰いたいのだ。
しかし、こんな気持ちが出てくると言うことは、母の気持ちにも少し余裕が出来たと言うことなのか?
「何でも聞いていいよ」
みたいな顔をしている母のプライドを傷つける訳にもいかず、愛とか恋とか、少しは分かる年になった今、両親の恋愛にも少しは興味もでてきた。それで、
「おとうちゃんって、浮気したことあるの?」
私は、とんでもない所から切り込んだ。しかし、母はニヤリと笑い、そして、
「待ってました」と言わんばかりに話し始めた。  
「お父ちゃん、ああ見えても結構モテてな。
やっと所帯持って、お父ちゃんはよう働いてくれて、いつも残業してくれてた。
お母ちゃんも着物の仕立ての内職して、それで少しずつ所帯道具を揃えていったんよ。お母ちゃんとお父ちゃんは周りから結婚反対されてたから、住む家もなかって、お父ちゃんの知り合いの人が、今は誰も使ってない空き家の小屋を貸してくれてな。
それをお父ちゃんが、たったひとりで住めるように作り直してくれてん。
狭いからお布団を敷くと、それでもう部屋はいっぱいになってた」
私が、食事はどこで作ったのかと聞くと、
「それは外に決まってる。
七輪でご飯炊いてそれから魚やくんよ」
母は魚が大好きだった。生まれが鳥取県で海が近く新鮮な魚がいつも獲れた。
だから、魚が好きだと私は単純に考えていたのだが…
「お母ちゃんな本当は肉の方が好きやねん。もちろんお父ちゃんもな。
そやけど、高いからどうしてもお魚になるんや。今やったらどんなに高いもんでも、お父ちゃんに食べさせてあげられるのにな…」
浮気話で父に激怒するのかと、少し期待していたが結局いつもの、
「父賛美」になった。
こういう所も母らしい。先は永い今夜はこれで終わりにしょう。
他にも部屋はあるのだけれど、私と母はいつも同じ部屋で寝た。
そして母の話は止まらなくなっていくのだった。父が亡くなり人目を気にしなくなった今、母は突然喋り出す。それが朝でも昼でも真夜中でもお構いなしに喋りだす。
「お父ちゃんって人は、何でも文句言わずに食べてくれてな、それはほんまに有り難かった。お給料の数日前はお母ちゃんの財布の中は小銭しか入ってないからな。
そやからお弁当のおかずはいつも梅干しだけ。それと家で漬けたタクアン。
運よく鶏が卵産んでたら、卵焼き出来るねん。
けどお父ちゃんは白いご飯だけでも、黙って一粒残さず食べてきてくれるんよ。
『ご飯のおかずは、ご飯で充分じゃ』って、ゆうてくれてな。
ほんまに苦労したけど、あの人やったからお母ちゃんは辛抱できたんやろな。」

…父の話をする時の母は、優しい女の顔になる…
 
こんな母と一緒にいると、ひっき虫だった頃の私の血が騒ぎだしてきた。
母だけに父の話をさせるのは、不公平すぎる!
私にも父との想い出はいっぱい、いっぱい有り過ぎるのに。
母に負けてはいられない。
「私が子供の頃はまだ、家の近くにはスーパーやデパートのような大規模で高級な店は無く、私達親子は父の給料日を待って父の数少ない休日に三人揃って買い物に行く。その月の食費を除いたわずかなお金を母が着物の帯の中に大切にしまい買い物に行くのだが、父の買い物のやり方が凄まじい。
何が凄まじいかと言うと、その買い方だ。
例えば靴を買う時。まず靴屋に行く。ここまではごく普通。
しかしここからが父の独壇場だ。まず父は、ふらりと店に入って行く。見た目の怖い父はとにかく目立つ。だから店員が飛んでくる。しかし父はそんな相手には目もくれず、自分の気に入った靴を数個、勝手に棚からおろし、そして当たり前のように椅子にどっかと座り、おもむろにその靴を履きまくる。その間わずか数秒、凄い早美技だ。私も母も店員さんも、あっけにとられて見てるだけ。いや多分その店員さんはビビッて父に声をかける事ができなかった気がする。
その後、父はその店の靴のほぼ半分ちかくを出し履きまくった。しかし、何が気に入らないのか父は眉間にしわを寄せたまま初めてその店員さんと目を合わした。
そして怖い顔のまま言った。
「また来るわ」
 言い終わらぬ内に父はその店を出て次の靴屋を探し始めていた。
 戦後の初期は今のような企業体にはなっておらず、立地の良い場所に自然と人が集まってきて商売を始めた。
私達の行きつけの布施商店街という場所も個人の人達が少ない資金で自分の店を出していたのだ。服屋さん、靴屋さん、着物屋さん、もちろん食べ物屋さんも所狭しと小さいスぺースに、品物をあふれさせて商売をしていた。
安い借り賃で少しでも売り上げを良くする事を考えた、戦後の日本人の生き残りを賭けた知恵だった。
しかし、父はそんなお店の人の願いにはわれ関せずで、靴屋のハシゴを始めるのだった。慣れているのか母はと言うと、
「また始まった」
とでも言いたげに、始終うつむいたまま、早足の父の後を追うのだった。
その後も父のぺ―スは衰えず、いやむしろ加速して行くのだ。
それからの父は、幾つの靴屋さんを餌食にしたのだろうか。
やっと気に入った靴があっても、値段で折り合いがつかず又「ぷい」と飛び出す。
父には悪いが、付いている値段から半分以上負けろと言われたら、私でも売る気が失くなる。
結局その日は仕事用の地下足袋、それもセールスの物をさらに値切って買っていた。
私も母も恥ずかしくて退屈で思い切りふくれていたが、父はその値切ったお金と母が少し足したお金で私達に素うどんを食べさしてくれた。
靴をいっぱい散らかす父は嫌だけど、帰りに食べた素うどんは本当に美味しかった。
秋の夜長に私と母は、父の武勇伝を延々と、身振り手振りで話し合った。
そんな日が何日も続いて、いつしか父は私達のヒーローとなり、
「伝説の男」になっていくのだった。
 時間は全てを美しい想い出に変えていった。




今日の母は朝からとっても機嫌が好い。
久しぶりに孫が遊びに来るからだ。
私と居る時とはまるで顔つきが違う。
私と一緒の時はいつもふてくされた様な顔をするくせに、孫だとこうも違うのか。
子供よりも孫が可愛いいとよく聞くが、あれは事実だ。
姉には年子の女の子がいる。二人ともまだあどけない小学生なのだが、何か欲しい物が出来たら、おばあちゃんのお家にふたり揃ってやって来る。
最初は一応ママに聞いてみるが、駄目と言われたら、さっさと照準をおばあちゃんに切り変えやって来る。姉の家から我が家までは結構遠いのだが、バスだと終点の駅なので安心して姉も、電話一つで済ましている。
母は孫の好物を私に買いに行かせる。
「ケーキにハンバーグ。
それから、あれも、これも…
私はこんないい物食べなかったぞ。
ほんとに甘やかせ過ぎだ」
ブツブツ言いながらも、姪っ子達の使い走りをする私。
お昼少し前、小さな豆台風が我が家に上陸した。
母はとろけそうな顔をして、孫を迎えた。
姉の子供達は小さいが父のことを憶えている。
期間は短かったが父はこの可愛いい孫娘達にも、自分のもてる愛の全てを注ぎ尽した。だからこの子達は、ちゃんとおじいちゃんの事は憶えている。
ふたりは来るとすぐ仏壇の部屋に行き手を合わす。そして、
「おじいちゃん。来たよ」
と言う。
もちろん、姉が来る前に言い聞かせているのだが、こうすれば、誰が喜ぶかを一番知っているのは孫たちだ。
もうおばあちゃんはデレデレで、デパートを丸ごと買ってやるような勢いだ。ほんとに孫は可愛いいらしい。
姉の家もいろいろあって、父が亡くなる寸前に離婚していたが、父の遺産の取り分で今は母子三人、楽しく暮らしている。
姉は、仕事はしているが、子供達が学校にいる短い時間だけにして、出来るだけ三人の時間を大切にしている。
子供がもう少し大きくなったら何か手に職を付けるそうだ。
「みんな、おとうちゃんのお蔭や」
姉もよく口にする言葉。
しかし、最近の母には、その言葉が気に入らない!
「苦労したのは、あの人だけやない。
私が一緒にいたから、此処まで来れたんや!
あの人が、飲みに行くお金かて、私が内職したお金渡した事もあるのに…
それに、友達が怪我して生活が苦しいらしいて言われて、お母ちゃん全部信用して少ない貯金おろして、おとうちゃんに渡したら後で嘘て判った。
女の子にええ恰好してたんや…
そんな時も、お母ちゃんは我慢したんや!
お父ちゃんひとりやったら何にもできへんの、お母ちゃんには解ってたから」
意外な所で父の浮気の事実を知らされた。
母が愚痴りたい気持ちも分からないではない。しかし、
「みんな、お父ちゃんのお蔭や」
この気持ちは私も同じだ。
だが、母が居なければ、父はここまで人の事を思いやれたろうか?
母が家をしっかり守っていたから、父は安心して人の為に飛び回れたのだ。
そして、若い衆の面倒が見れたのだ。
そのとき私は母には言わなかったが、心の中で思っていたことがある。
それは、
…やっぱり私の両親は最高だ…










父が逝ってから五年後に私は結婚した。そして子供にも恵まれた。
最初の子は、女の子だった。そして二人目の子を妊娠した時、私は夢を見た。
「五月五日に男の赤ちゃんが産まれたよ」
男の人の声ではっきりそう聞こえた。
目が覚めて私は笑ってしまった。私はあまり夢を見ない。と言うより、夢を見ていたとしても、いつもぼやけていて、時間が経つと忘れてしまうのが、今までのパターンなのだ。しかし、今回はなぜか、ちやんと正確に憶えている。
「産まれたよ」
はっきりそう聞こえた。目覚めた後も薄れること無くはっきり憶えている。
子供の日に、男の子か…
うちは女系家族だから…
でも、確か予定日は四月だ…
可能性は有る…
でもまあ私はどっちでもいいし…
私はその日一日中、そんな事を考えていた。
けれど父が居たら、
「男でも、女でも、元気な子ならそれで十分や!」
そう言うに決まってる。
だから私は夢のことは誰にも言わなかった。
病院でも、男の赤ちゃんか女の赤ちゃんか、聞けば教えてくれるが私は聞かない事にした。産まれてからのお楽しみだ。
平凡だが普通の刻が流れていった。母もたまに腰痛を起こして病院に入院はしたが、特に大きな病気もせず孫達に囲まれて、平和な毎日を送っていた。
長女は今三歳、お腹の子が生まれるときは、四歳になる。
母はこの子に係りきり、甘やかし放題。
「あぁ~。先が思いやられる。」
けれど、日々順調に私のお腹は大きくなっていった。
暑かった夏が過ぎ、つわりで苦しんだ秋もなんとか乗り越え、冬が来た。
寒さにも負けずお腹の赤ちゃんは元気に育ってくれていた。炬燵の中で除夜の鐘を聞き、無事に年を越しみんなで初詣に行き、お腹の子の幸福をひたすら願った。この時の私の心には、無事生まれて来る子供の事しか頭になかった。

刺すような寒さが少し去り、一日の中でちよっとだけ暖かくなるお昼過ぎ、私は娘と久しぶりに散歩に出た。
私は娘とお腹の赤ちゃんと、三人で話をしていた。一月生まれの娘は四歳になった。
いつも私のお腹を不思議そうに見る。そして、そっと小さな手で私の大きなお腹を触る。お腹の赤ちゃんの動くのが、手に伝わって楽しいらしい。
娘は「お姉ちゃん」と言われるのが嬉しいみたいだ。
少しずつ自覚が出来て来ているのか、小さい荷物は持ってくれる。
おじいちゃんにお供えするおまんじゅうを買ったら、すぐに娘がひったくるようにして持ってくれた。得意げに大きい袋を持ち、娘は私の少し前を歩いていた。
その娘が突然立ち止まり、目を真ん丸にしてある場所を指差した。
そこには、まだまだ風寒いこんな日なのに、つくしが頭を出していた。線路脇の柵の中、誰も入れない安全地帯で、つくしの親子がいっぱい頭を出していた。
嬉しかった。春がもうそこまで来ている…
私達親子はしばらくその可愛いいつくしの親子と話をした。
つくしは娘とばかり話していた。娘も側を通る人達の好奇な目にはお構いなく、立ったりしゃがんだりしながら、つくしの目線に合わせて楽しそうに話をしていた。
家に帰るとすぐに、娘が自慢気におばあちゃんに得々と、友達になったつくしの親子の報告をしていた。おばあちゃんはと言うと、娘の言う事にいちいち頷き、大袈裟に驚き、その刻を楽しんでいた。
その頃の私は出産の準備に忙しく、夢のお告げの事は頭の隅にも無かった。
しかし、奇跡はやって来た。
はち切れそうなお腹を抱えて、寝返りをするのも苦しかったそんな時、陣痛が始まった。一度経験しているとはいえ、この痛さには気が重くなる。けれど、私が言うのもなんだが、確かに母親は強い。私は十数時間汗まみれになり、痛みと戦い、そして無事出産する事ができた。山のようにそびえ立っていた私のお腹は、風船の息を抜いたように見事にしぼんでいた。
「やった!」
充実感が何重にも私を包み、私はその至福の時に、しばし身を置いた。
女に生まれて本当に良かったと思える、数少ない一瞬だ。
その時看護婦さんが、タオルに包んで赤ちゃんを見せに来てくれた。
そして、その看護婦さんの口から木魂のように響いてきた言葉。
「はーい。元気な男の子ですよ」
「・・・」
言葉より先に涙がこぼれた…
大きな真っ白いタオルに包まれたその子は、体の何倍もの大きい声で泣いていた。私は長女と初めて逢った刻に言ったのと、同じ言葉を心の中でつぶやいていた。
「ありがとう! 
私の子供に生まれてくれて」
その刻、私の心に突然、父の言葉が蘇った。
「男でも女でも、元気に産まれたらそれでいい。 
よう頑張ったな」
父が褒めてくれていた。
ずーっと、ずーっと、父に言いたかった言葉がある。
私はその言葉を今やっと言えた。
「お父ちゃん、男の子産まれたよ。
 元気な男の子産まれたよ。
お父ちゃんの孫、産まれたよ」

赤ちゃんと対面後、私は部屋に戻りベットに横になった。
体が軽かった。へっこんだお腹をそっと触った。
ほんの少し前までここにいた子だった。
それが、形となってこの世に生まれ出た。
「本当に、命って凄い!」
喜びがうまく表現できなかった。
知らない間に私は眠りに落ちていった。
心地よい眠りから目が覚めた時、私の横に小さなベットが置いてあり、その中には真っ白なべビー服を着た私の赤ちゃんが静かに眠っていた。
マジマジと顔を見た。
「可愛いい!」
「可愛いすぎる!」
もちろん、親バカなのは百も承知だ。
そのとき、ノックと同時に看護士さんが入ってきた。
様子を見に来てくれたらしい。
ベテランの看護士さんで私とは顔馴染み。
私が礼を言うとその看護士さん、軽く返してこう言った。
「凄いね、男の子を。
それも、五月五日の子供の日に産むなんて」
「・・・!」
私がぽかんとしていると、看護士さんは赤ちゃんのほっぺをさわり、笑いながら出て行った。
「・・・・・・・」
長い間、私はただ黙ってじっとしていた。
本当の喜びに出会えた刻、人は言葉を失うのだろうか。
それとも、言葉など必要としないのだろうか。
夕暮れの迫った病院のベットで、私はただ赤ちゃんの顔を見ていた。





病院で赤ちゃんに対面した時の母の喜びは異常だった。
無口で人嫌いだった昔の母からは、絶対想像できないはしゃぎ様なのだ。血圧が上がって血管が切れるのではないかと、心配するぐらい母は舞い上がっていた。多分、私達の事は母の視野から消えていたと思う。母はただただ、飽きる事無く赤ちゃんを眺め、抱っこのお許しが出るともう離さない。看護士さんも苦笑いするしかなかった。
「今すぐ退院しなさい」
と言う、母の命令を無視して私は五月十日に退院した。
それでも母は、「遅い!」と言う。
人はこれほど変われるのか…
入浴もおむつ替えも、ほとんど自分の担当だと勝手に決めていた。私がお乳をあげている時も、じっと赤ちゃんの顔を見ている。しかし、そのお蔭で私は長女を構ってやる事ができた。夫はほとんど単身赴任で家にいない。母の存在は有り難かった。
だからという訳ではないが、息子の名前を決めるとき母にも協力をお願いした。最後に決めるのは勿論私だが、母にも親孝行せねばとの思いからのアイデアだ。
しかし意外と母は尻込みをした。
母は目の前に孫が居る。
自分の目の前に居る。
それだけで良いみたい。
それならば、と私が考えた名前。
実は前から決めていた。
決まった名前が憲一郎。
私の父の名前が憲一。
何と平凡で軽薄。
「手を抜いたな!」
と思われるかもしれないが…
字数も調べ、性と名との相性も調べた末の私の判断なのだ。
それに、母にも喜んでもらいたかったから。
それ以来、息子の呼び名は「けんちゃん」
父も地元の友達からは「けんちゃん」と呼ばれていた。
母も大喜びで、毎日毎日その名を連呼している。
「少しは親孝行ができた!」
そんな気がして嬉しかった。
赤ちゃん育ての毎日は、一日三十時間あっても足りない。
いや、限られた時間の中で収まるはずがないのだ。赤ちゃんは本当に偉大だ。どんなに疲れていても、知らない間に周りの人の顔を穏やかでとびっきりの笑顔にしてくれる。一日が早回しのテ―プの様に、あっという間に過ぎて行く。
そんな我が家で珍事が起きた!
 母がけんちゃんの前で、素っ頓狂な声を出し、その後、嬉しそうに笑い出したのだ。私は驚き見に行くと、何とけんちゃんが母の顔におしっこをかけていた。子育ての大ベテランの母だが、母は女の子しか育てていない。だから、女の子と同じ姿勢でおむつを替えようとしたらけんちゃんのおしっこが、自然におばあちゃんの顔にかかったのだ。この頃の母の顔には、笑い皺がいっぱい増え楽しい日々が続いた。
明日はけんちゃんのお宮参りだ。

早朝、タクシーで一の宮神社に着いた。
母はけんちゃんを抱いたままゆっくり車から降り、目を閉じた。
昔を思い出していたのだろう。
ここは父が青春を謳歌した場所。
大勢の仲間と太鼓台を担ぎ、若さを思い切りぶつけた思い出の地。
そして晩年は若くして散った戦友達の為に手を合わせ、亡き友と静かに語り合った、
゙父の心の聖地゛
母は新品の着物にくるまれた赤ちゃんにつぶやいた。
「けんちゃん、お参りしましょう」
母は今、父と私の息子を重ねていた。
そして、心の中でつぶやいた。
「あんた、やっと見せに来れたよ。
 あんたの孫のけんちゃんやで。
あんたと同んなじ名前や」

当日の母の気合の入れようは半端ではなかった。
この日の為に、母は昔から贔屓にしている呉服屋を呼び、長女の時と同じ衣装一式
こしらえさせた。そして何と自分の着物まで新しく注文していた。それも大島の一番高い着物。母は日に日に若くなっていき、孫達を父の分まで愛してくれた。







母は父が亡くなってから、二十年後に父の所に逝った。
母はその歳月を、父の分も孫達と楽しく過ごした。
晩年は入院する事も多く八十一歳の時、病院で透析をしなければ余命三か月と言われ、迷った末に家に連れて帰ることにした。
高齢になった母に痛い思いはさせたくなかった。責任は全て私が取ればいい。
私は、母を病院から連れて戻ってからは、一切の薬を捨てた。
その代わり母の食べたいものを聞いた。母は、
「牡丹餅が食べたい」と言った。
牡丹餅は父の大好物。いつも母が手作りしていた。
「ファンタジュースが飲みたい」
何故か母は温いファンタジュースが好きで、孫から冷えてないから美味しくない、と反感をかっていた。
「畳の上でお布団引いて寝たい」
母は病院生活の時、いつも畳に寝たいと思っていたのだ。
「けんちゃん達と毎日居たい」
母はこれから毎日けんちゃん達に会える。
「チャンバラが観たい」
私はすぐに、母用の大きなテレビを買った。
私は全てを用意した。悔いを残したくなかった。
父の分も孫達と遊んでほしかった。
たとえ三か月でも充実した日々を送ってもらいたかった。
しかし、ここでも私は奇跡を見せてもらった。
 母は衰弱するどころか、徐々に回復していった。
おむつ等の世話にはなったが、母は何とそれから四年もの長き日々を、私達と一緒に生きてくれた。
これを奇跡と呼ばず何と呼ぶのだ!
母は死ぬまで呆けていなかったと、私は思っている。
横着になったのは確か。
物忘れが多くなったのも確か。
都合の悪い時は聞こえない振りをしたのも確か。
けれど、父の思い出は全て母の心の中にあった。

母が病院から戻って、四年目にある事が起きた。
理由は忘れたが、なぜか私達母子はおばあちゃんの部屋で騒いでいた。
おばあちゃんの部屋にはおやつが常にあるので、子供達の休憩所みたいになっていた。ともかく何か、ワイワイ馬鹿なことを話していたのは憶えている。
おばあちゃんはいつもほとんど聞き役で、ニコニコして孫の話を聞いている。
孫たちは、おばあちゃんの布団の頭元の、お菓子か果物を食べながら、買ってもらいたいおもちゃの話をして、おばあちゃんの反応を伺っている。この日もそんな話しをしていた時、急に母がベランダ越しに見える生駒山を見て言った。
「おじいちゃんが、山から降りて来てる。
ニコニコしながら、降りて来てる」
そして、
「おじいちゃん、今修行中なんやけど、
お休みもらって、会いに来てくれたんやて」
そう言い、自分も笑っていた。子供達は、
「どこ、どこ」
と言う感じでベランダに行き、生駒の山を見ている。
私は複雑な気持ちになっていった。私は母に幻覚が始まったとは思っていない、母は退院してからの方が病院にいた時より元気になっていた。もちろん年齢による衰えは隠せない。足腰も弱り耳も聞こえにくくなっている。しかし心はしっかりしていた。
その母がはっきりとした声で、父の事を言った…
母は若い頃、父と一緒にお風呂の薪を取りにこの山に登っていた。今の様にスイッチひとつでお湯が出る時代ではないから、お金の無い父達は二人で山に行き、折れた木を探し背中いっぱいに背負い、帰ってお風呂を沸かしていた。その若い頃の貧乏ではあったが、楽しかった思い出が詰まった山から、父が会いに来たと母が言った。
複雑な気持ちだった。何が嫌なのか分からず、私は悶々とした日々を送った。
しかし、それからの母はいつもの様に孫達と遊び、テレビで時代劇を観ながら、温いファンタジュースを飲んで、孫達にお小遣いをあげ何かをねだられるのを、唯一の楽しみにしてよく笑っていた。
そんな母の笑顔を見ているうちに、私の心のもやもやも消えていった。母がだんだん子供に返って行くのだ。母の顔がやわらかく、幼くなっていくのだ。
「これからは、何が起きても受け入れられる」
そんな気持ちが私の中に少しずつ出来てきた。
人はいつも、立ち止まる事の許されない今を生きている。
母も、私も、子供達も例外は無い。
自分の意思に関係なく、私達は延々と続く刻の流れの中に立ち、生きて、愛して、そして刻の彼方に去って逝き、想い出になる。
父が居た。
母が居た。
そして今は私が居る。
私もいつかは、子供達の内で想い出になる…
母は最愛の娘を亡くした時、絞り出すような声でこう言った。
「なんで先に行くの!」
そして、晩年にはこうも言った。
「子供がする親孝行は親を見送ること、決して先には逝かないこと」
私の心が少しだけ軽くなった。



その数か月後、母は眠るように亡くなった。
本当にきれいな顔をしていた。死因は老衰。
母は天命を全うして、愛しい父の所に逝った。
葬儀は母の遺言通り見内だけで行なったが、私の判断で二等兵さん達には連絡した。お二人はすぐに駆けつけて下さった。
淋しさはあるけれど、母の葬儀に暗さはなかった。
心の通い合った人達だけが、母を見送って下さった。
息子と娘は泣いていた。
子供心にも何となくだがこの日の来るのは、解っていたと思う。
しかし、大好きだったおばあちゃんとの別れは、やはり辛く悲しいものだ。
ふたりは目を真っ赤にして、おばあちゃんの傍を離れない。
いつか私は両親の生き様を、子供達に話すつもりだ。子供は自分達の親は、
「最初からずっと、親をしていた」
そう思っている。
親に若い頃があり、父と母が恋をしていた何て考える事すら無い。
自分がどれ程愛され守られて育ったか、この子達が大きくなったら話してあげよう。
こうして母は、何の思いを残す事もなく、父の所に帰って逝った。
父はきっと待っていてくれたと思う。
いや多分、方向音痴の母が迷わない様に、父は迎えに来ていた気がする。
「もっと、ゆっくり来たらええのに」
なんて、憎まれ口を言いながら。
むこうの世界では、好きな時代の自分になれると聞いた事がある。
私が想うには、父はやんちゃな若者で、母は、父が一目ぼれした刻の可愛いい娘。
ふたりは顔を見合わせ、父が母に声をかけながらゆっくり上がっていく。
「よう我慢してくれたな。
 もう充分や。ご苦労さん」
…父の声が聞こえた…





私は今、父と母の事を想いだしながら書いていて、改めて父と母が好きになった。
今思えば、父には謝りたい事ばかりが思い出される。
幼い頃はひっつき虫と言われるほど、父について歩いていた私だが、思春期の頃の私は生意気盛りで、自分一人で大きくなったつもりでいた。
何も起きていないのに、多分それが気に食わず溜め息ばかりついて、親に逆らい、親の言うことなんか一つも聞かなかった。
しかしそれは父だから母だから、許してくれると、そんな甘えがあった。
それでも父は、私を慈しみ愛してくれた。
先の先の事まで、考えていてくれた。
父が死んでから、世間の冷たい風が一気に私に襲いかかってきた。
父はそれらの全てを見込んで、私達の事を考えてくれていた。
それが痛いほど解かったのは、父が居なくなってからだ。
「謝りたい…」
 ずっとその想いを抱いたまま、私は大人になり母になった。
想えば長い道のりだったが、母を見送れた今、私はようやく父に褒められそうな、そんな気持ちでいる。
両親の写真を見ながら私は想う。
何度生まれ変わっても私は、
「お父ちゃんと、お母ちゃんの子供になる!」
 そして男の子に生れて、父と一緒に畑を耕し米を作りたい。
 
私が二十代の時、遊びに行った帰り道、父がひとりで畑に水を入れ耕運機を使い田植えの準備をしていた。そのとき私は自分の目を疑った。
畑が物凄く広くて、父が小さく、か細く見えた。
その時の父は、多分還暦を過ぎていた気がする。
 私は父の目にふれないよう、遠まわりをして家に帰った。
 帰り道で、言いようのない罪悪感が私を包んだ。
「私は何をしているのだ…」
 父の一心不乱な姿を見て、私は初めて自分の馬鹿さ加減を知った。
 その時初めてもっと親孝行をしようと思った。
 それからの私達父子は、今迄にもまして仲の好い父子になれたと思う。
 多分、私が両親に対して、悔い改めた初めての出来事だった気がする。 




人はいつも、無い物ねだりをする。
自分がどれほど恵まれているかも分からず、あたかも悲劇の主人公みたいな顔をして、幸福の中から不幸を探し出しその不幸を嘆く。
しかし、それは仕方のない事なのかもしれない。
人はこの世では一度しか人生を生きられない。
止まる事のない刻のなかで、手探りで生きるしか、術を知らない。
不幸や困難は、流れ星のように、我々の身に降りかかる。
それを予測する事などは、人間には不可能なことだ。
争い、奪い合い、傷つけあう。
その行きつく先は、絶望だけなのか?
「違う!」
私は自信をもって言える。
人間には、家族が居る。
家族には、愛がある。
愛は、全ての困難に立ち向かう勇気をくれる。
勇気は人を強くして、不可能を可能にする。
同じ失敗を繰り返さない限り、人は前に進める。
経験はその人を謙虚にさせ、人を魅了する。
愛のある言葉は人を感動させ、導く力がある。
悲しみを乗り越えた人の話には希望があり、何より明日の糧へと繋がって行ける。
私はそれらの全てを、両親からもらった。
父も母も普通の平凡な人間だったが、ひたすら前進して愛する者を守り抜いた。
泣きごとは明日言う事にして、私も両親のように歩いて行きたい。
人は皆、止まる事の無いこの刻のなかに、いつか流れ去っても。
その想いその愛は父から子にその孫にと永遠に受け継がれていく。
刻の流れに負けないように、愛の家族が今も、ただ前を見て歩いている。
                
完 
                

                 

愛の家族