父子

 空が燃え立つ焔のような橙に染まってきた頃、横中薫は、その細長い身体には小さい湯槽に肩まで浸かって、中学の頃にミッションスクールで習った賛美歌を歌っていた。明るいのを異様に嫌う薫は日の沈む前か、朝早くに風呂に入る習慣がある。定期的に丹念に洗っているためカビ一つない、白い健康的な浴室が夕日の色に染まって、薫の女のような顔は火照ったようになっている。歌の途中で、薫は突然立ち上がると、素早く、水を飛ばしながら湯槽から出て、ドアの外に掛けてあった青色のバスタオルで手早く身体を拭き、そのまま下着だけを身につけて浴室から出た。薄暗い廊下は短く、すぐにリビング兼寝室の十畳ほどの部屋に出る。薫はそこで初めて、電気をつけた。白い嫌な光が部屋を照らす。ドアの向かい側がベランダになっていて、左手にはベッドがある。一人暮らしには見合わない、どっしりとした木製のベッドだ。その手前にはナイトテーブルがある。こちらも木製で、猫足になっている。ベッドとナイトテーブルはセットらしく、脚の部分に同じ花が彫ってある。部屋の真ん中には上の部分が硝子のローテーブルと、子供用みたいに小さなカウチがある。テーブルの上には、飲みかけ珈琲牛乳と、今朝作って食べきれなかったサンドウィッチが放置されている。
 風呂とは正反対に、部屋は散らかっていた。そこらに服が掛けてあって、本や煙草や雑誌やペンやが、床に放られている。
薫はそれらを綺麗に避けて、クローゼットの中から栗色のズボンと臙脂のニット地のセーターを取り出して手早く着た。ポケットに財布と鍵を入れて部屋から出たかと思うと、また入ってきて、床に放られていた煙草の缶を後ろのポケットに入れるとまた出て、もう戻ってこなかった。

 薫のアパートから市街の方まで出るには、電車で三十分ほど掛かる。大学の近くにアパートを借りてもらったからだ。しかし、大学にはあまり行っておらず、バイトをするか、遊びに行くかで勉強もしていない。部活をしていた頃はこんがりと気持ちのいい色に焼けていた肌も、ほとんど昼間に屋外で生活することがなくなると、生来の、白人よりも黄色味のあるクリィム色のような肌に戻ってしまった。祖母かその母親かが英吉利人らしく、灰色の瞳と、よく見ると茶色味のある温かな印象の髪色はその血からきているらしい。
薫は電車からまさに言葉通り、飛び降りると、地面を蹴るような独特の歩き方で人の多いホームを抜けて、南口から外へ出た。六時からカフェで人と会う約束があるのだ。感じがいいが格式張った店でないので、薫はそこが好きだった。だから待ち合わせは大体、その「ムーラン」というカフェだった。
ムーランの、贋物のステンドグラスの嵌った扉を開けると、上部に備え付けられた金が乾いた音をたてた。しかしボーイたちは、ちらと一瞥しただけで、こちらには来ない。先客がすでにあり、その連れだと皆知っているからだ。
カウンターの隣の、四人掛けのボックス席に、神崎広峰は腰掛けていた。四十を丁度越えたばかりで、白髪が幾らか目立つが、不潔な感じはない。深い蒼色にグレーのチェック地のジャケットに、揃いの細身のズボン。幾らか明るい青のブラウスにグレーのネクタイを締めている。座るときに、脚を組んで、左に寄り掛かかる癖があり、今もそうして座っている。勿論、気の知れた者の前でだけである。冷えた珈琲が、雫を滴らせたコップの中で氷で薄まってある。
 薫は向かいの席に座ると、机の上に無造作に置かれたメニューを開いた。本来なら注文時に回収されるものだが、ボーイ達は薫の後から来るのを分かっていたので、そのままにしておいたのだ。広峰は無言で右手を挙げてボーイを呼んだ。
「ジンジャーエール」
薫が手短に言うと、ボーイは肯いて注文を繰り返し、踵を返してカウンターの中へ入った。
「珈琲じゃないの」
「朝飲んだのよ」
 広峰は薫の保護者だ。薫の両親の仕事仲間だったのだが、二人が出張先のパリで事故に遭って亡くなってから、ずっと面倒を見ている。それは十年ほど前のことだ。両親は幾ばくかの財産を薫に遺したが、薫はそのお金の使い方も分からなかったので、広峰が管理している。広峰はそのお金を薫がもしもの時のために取っており、生活費は広峰の懐から出ていて、薫もそれを知って恩義に感じており、広峰に甘えてもいる。薫は広峰の仕事をちゃんとは知らないが、大層お金持ちであるので、重役なのだろうとは分かっている。
「ご飯は食べたの?」
「まだ」
「じゃあ飲んだら食いに行こうか」
「うん」
 口許で微笑んで首肯く薫に、広峰も優しい父の顔で微笑みかける。そこには幾らか、違ったものも混じっているが、薫にはそれをわかるには注意力が無さ過ぎる。薫はポケットから煙草の缶を出して、一本口に咥えた。他のポッケを探り、マッチを忘れたことに気づくと、髪をかきあげて溜息を吐いた。
「また燐寸忘れたんだろ」
 広峰はそう笑いを含んだ声で言うと、ジャケットのポケットから桃のマークのマッチ箱を取り出して、火をつけてやった。
「私は煙草を喫まないのに、君のせいで何時も燐寸が入ってる」
「僕が忘れっぽいのが治らないのは、お父さんが甘やかすからだよ」
「莫迦」
 ボーイがジンジャーエールを運んで来たので、そこで会話は一旦止まった。ボーイはジンジャーエールの隣に伝票を伏せて置くと、目礼してまたカウンターへ戻っていった。 氷が溶けきって薄くなった珈琲を、広峰はもう飲む気はないらしい。薫は灰皿に煙草を置いて、ジンジャーエールを飲み始めた。
 「今日は家に来る?」
 「行くよ」
 二人は三十分後にムーランを出ると、広峰の知り合いのしている中華料理店で夕食をとって、タクシーを拾い広峰の家に帰った。
広峰は妻子もなく、父母もすでに他界しているため、彼らの遺した洋式の白い家に一人で暮らしている。彼が薫を引き取ってから高校を出るまでは薫もそこに住んでいた。薫の寝室はその当時のままされてあり、服なども家を出るときに十分買い与えてやったのでほとんど置いてある。泊まるときはその寝室を使う。薫の寝室は二階に、広峰の寝室と書斎は一階の奥の、裏庭に面したところにある。一階には他に、居間、キッチン、ダイニング、洗面所、浴室、ゲストルームもある。二階には寝室が薫のを入れて五つあるが、ほとんど閉め切っている。広峰の祖父母のころの大家族であったのの名残である。ほとんどは戦火の中死んだ。
 薫は居間の座りなれたカウチにだらしのないほど深く、半ばずり落ちるような態勢で腰をかけると、ポケットから煙草の缶を出した。カウチの前にある木製のローテーブルの上には常に底が蒼いタイルが不均等に並んでいる灰皿と燐寸がある。その灰皿は広峰の仕事の旅行にカナダへ付いて行った時に入った中古の店で買ってもらったものだ。
 「飲む?」
 居間と背の高い扉一つで隔てられているキッチンからグラスを持った広峰が顔を出して訊ねた。
 「いらない」
 薫は灰皿の上にカバーもなしに置かれていた、広峰の読んでいる途中らしい文庫の本を手に取った。仏蘭西語の本だった。大学で習っていると言っても、一回生の頃から怠けがちだったので、簡単な単語と少しの文法しか知らない薫には、何が書いてあるのかさっぱりである。ただ小説であろうということだけ分かった。それも一つの長い話でなくて、短編がいくつも載っているようだった。中には戯曲なのか、科白ばかりのもあった。薫は、知っている単語を見つけて、頁を捲る手を止めた。

 La mort d'Antinous Rachilde

 (la mortは死だ。きっと後ろのは名前だろう)
 中身はさっぱり読めなかった。いつの間に来ていたのか、隣の、薫の座ってるのと同じ生地だが二人がけのカウチに座った広峰が、カウチから身を乗り出して、薫がさらに頁を捲ろうとしたのを、紙を右手で押さえて止めた。
 「アンティノウスの死、だよ」
 「誰」
 「ハドリアヌスの愛人さ」
 「羅馬の?女なの?」
 「男だよ」
 「ふうん」
 薫はもう興味がないようで、広峰が手を退けるなり本をテーブルに放り出してしまった。広峰は黒い瞳でそれを追っていたが、薫がふと顔を上げると、優しい父親の笑みを浮かべた。
 薫は広峰の財産のあるのと、頭の良いのを非常に尊敬していて、また自慢にも思っていた。薫の尊敬の念と愛情は、年端のいかぬ子供が両親を全能と思い込んで彼らに向ける感情と似たようなものだった。彼は彼の友人らの親の愚痴を聞いたり、バイト先で厭な中年男を見たりする度に、(僕の父さんはすごいんだ)という優越感を、彼らへの軽蔑の中に感じるのだった。また、それが免罪符のようにも思われて、軟派な不良をしている自分が、広峰に愛されていて、彼の母親が子供に注ぐような細やかな気遣いを受けて生きているという事実によって許されるような、本当の自分より随分立派なように思うのだった。彼は彼の友人たちを愛していたが、軽蔑してもいた。それは無意識のうちのことで、彼の彼らに対する言動から憐れみや軽蔑が滲み出るのにも気付いていない。目聡い広峰は、薫が友人の話をするときの言葉の一つ一つからそれを感じて知っていたが、驕慢なその態度がひどく可愛らしく思え、矯正しようとは思わなかった。
 広峰が薫の放り出した本を拾い上げて読み始めると、退屈になった薫は、手当り次第に物を取り上げてはひっくり返してみたりして、退屈であることを暗に広峰に訴えかけていたのだが、すっかり物語の中にいるので気付かない。仕方なく、キッチンに行ってチーズとパックの不味い珈琲を持ってきて食べるが、腹が空いてるわけでもないので何とも感じないし楽しくない。広峰が本を置いて顔を上げたときには、薫は不貞腐れてカウチの中で首を不自然な形に曲げて眠りこけていた、茶に近い黒の、細い、癖のある髪が目と左頬にかかっていて、それを鬱陶しがるように眉間にうっすら皺がよっている。拗ねたように突き出した薄い唇は、もう二十歳も過ぎたと言うのに幼さがある。
 (本当にこれが大人の男なんだろうか)
 広峰は眠る幼い子にするように、目と頬にかかった髪をよけてやりながら思った。
 (こいつは両親が死んだときの歳のまんまだ。甘やかし過ぎたかもしれない)
 もうなんでも自分で出来る歳になった薫は、独り立ちしようだとかいう気は更々無いようだった。広峰の愛情と奉仕に感謝しているが、それをどこか当然の物のように捉えている節もある。傲慢で、不幸というものを知らず、他人を愛していると思っているが、実際は自分しか愛していない、そんな子供であった。広峰はそれを薫にとってもよくないことだと知ってはしても、薫の無邪気な好意から逃げられないでいる。(両親の遺産もある。アルバイトだが働いてもいる。自立できる歳だ。けれど、私が放り出したらこの子供はきっと生きてはいけないだろう……)この考えが頭に浮かぶと、広峰は眠る薫が一層愛おしいものに感じた。支えに頼る人形のように、自分に依存していか生きていけない、赤子同然の美しい男を、自分は独占できる立場にある、という事実が、広峰の中に胸から湧き立つような歓喜と締め付ける悲しさを感じさせる。広峰は暫くじっと、暗い火の潜む目で薫を見つめていたが、ついに立ち上がって、ブランケットをかけてやると、居間の電気を消して、薫を残したまま寝室に向った。

父子

父子

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-07

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