いずれ私の耳は世の中の音を一切拾ってくれなくなる。
 私は生まれつき聴力が低下していく病気にかかっている。なんだかよくわからない名前の病気で、完治しないらしい。
 現在は中学二年生で、イヤホンのような形の補聴器をつけてなんとか普通に生活している。補聴器を使っても聞こえなくなってきたら聾(ろう)学校(がっこう)に移る予定だ。中学卒業までは頑張って聞こえるようになってほしいな、私の耳。
 学校の中で一番好きな場所は図書館と中庭だ。理由は一番静かだから。
 補聴器はたまに大きな音を拾ったりするとハウリングを起こす。耳元で急にキーンって音が頭の中にまで響いて、何回も聞いているとだんだん頭が痛くなってくる。それに、補聴器が耳を地味にしめつけるから耳も痛くなる。だから、昼の休み時間は補聴器を外して休憩をしている。
 今日は天気が良いから中庭に出た。
 園芸部が手入れをしている大きな花壇と、二匹のうさぎが住む小屋と、何匹かの鯉と亀が住んでいる池と、小柄な私にぴったりな小さいベンチがあるだけの静かな庭だ。
 私はベンチに座って補聴器を外した。校舎から響いていた誰かの声がぴたりと聞こえなくなる。風が木の葉を揺らす音だけがわずかに聞こえる。
 はずだけど。
「今日は良い天気ね」
「そうですね。良い甲羅干し日和ですよ」
 補聴器をつけていない私の耳ははっきりとした声を拾った。
「おや、ちびさんじゃないか。こんにちは」
「こんにちは。亀さん」
 私は動植物の声が聞こえる。補聴器をつけていない時にはっきりと聞こえる声が動植物たちの声だ。
 はじめは幻聴かと思った。それでも会話が自然に成り立つし、頑張って耳を澄ませなくても聞こえるし、何度も聞き返してしまう罪悪感もなかったから楽に会話ができた。それが嬉しくて私はあっさりとこの能力を受け入れた。
「ちょっと、おちびさん」
「はい、なんですか? チューリップさん」
「私の根元にある雑草を抜いてくれないかしら。園芸部の方たち、良い肥料を使ってくれるのは嬉しいけど、雑草取りが雑なのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。チューリップさん。いくらなんでも酷くないか? 俺だって生きてるんだぜ」
「うるさいわね。ここの肥料は私たちのものなのよ! 生えるなら花壇の外にしなさいよ!」
「しょうがないだろ。たまたま根を張ったところがここだったんだから……」
「……えーと」
 花壇の植物たちが言い合いを始めてしまった。普段人間はなんのためらいもなく雑草を引き抜くが、植物の声が聞こえてしまうとそれもためらってしまう。
「……じゃあ、ちょっと失礼しますね」
 私は少し考えた結果、雑草さんを抜くことにした。
「ぐえっ?! なんつーやつだ……」
「ごめんなさい。効果があるかわからないけど……」
 私は引き抜いた雑草さんを、花壇の外の土に植え直した。
「これでどうですか?」
「ああ……、根が何本か切れたからまだ苦しいが、そのうち慣れるかもな。ありがとよ。あんたは他の人間より慈悲があるほうだ。酷い奴らは俺らを枯らす薬を撒くんだぜ? それが土にも悪いとは知らずにな。まったく勝手だぜ」
「へ、へえ。そう……」
 強い生命力を持つ雑草さんはもう元気になってきたらしく、私に人間の鬼のような所業を語りだした。
(雑草さんたちにとってはそうだよね……)
 でも普通、人間と植物は言葉が通じないから、私にはどうにもできない。
「おーい、おちびさん。今度はこっちもいいかい」
「はい。なんですか? 鯉さん」
 私はまだ語り続ける雑草さんから離れて、池に近づいた。一匹の鯉さんが、水面で口をぱくぱくさせていた。
「池にごみが入ってきちまった。仲間が間違えて食べるとまずいから取ってくれないか?」
「まかせてください」
 私は池のそばに置いてあった長い網を取って水面に浮かぶごみや枯葉を掬い出した。
「いやー、ありがとう。やっぱり水が綺麗だと気持ちが良いね」
「どういたしまして」
 今度は背後の小屋から
「ねえねえ、ちびのお姉さん」
「はいはい。なんですか? うさぎさん」
「私たち、もうちょっとキャベツが食べたいなー」
「だめですよ。さっきもたくさん食べたでしょ。食べ過ぎて太ったら、後で苦労するんですからね!」
「えー、お願いだよお」
「う……そんなつぶらな瞳で見つめてもだめです!」
「……チッ」
 あ、舌打ちした。この子たち可愛い顔して腹黒だな。
 そんなこんなであちこち移動しながら動植物たちと話をしていたら、あっという間に時間は過ぎて。
「ちびさん、チャイムがなっているよ」
「えっ……ほんとだ!」
 急いで補聴器をつけると午後の授業開始五分前の予鈴の音が耳に入ってきた。
「教えてくれてありがとう! またね!」
 私は動植物たちに一度お礼をして教室へと駆け出した。返事は聞こえなかった。

 ある夏の日の午後。
 お昼ごはんをお腹いっぱい食べた後で、窓からの風は程よく気持ちいい。さらに優しい声の国語の先生の授業だ。眠気がすごい……。
 でも、この耳のせいで、私はいつでも先生の目の前の席だ。寝たら一番に見つかって叱られてしまう。わかってはいるけれど、まぶたが閉じてしまう。寝てしまう……。
「きゃあ!」
 私の意識が夢の世界に飛びそうになったところで、クラスメイトの女の子が悲鳴をあげて、補聴器は短くハウリングを起こした。眠気が一気に吹き飛んだ。振り返るとみんな慌てている。
 全開にした窓から一匹の雀が教室に迷い込んでいた。雀さんはかなり混乱しているようで、教室の天井を縦横無尽に飛び回っている。
クラスメイトたちも同じくらい慌てていて、雀さんがぶつからないように頭を低くして、動物が苦手な子は絶えず悲鳴をあげていた。そのたびに補聴器がハウリングを起こした。
先生もどうしたらいいかわからないみたいで、教室は混乱の渦に呑まれてしまった。
 私は補聴器を外した。クラスメイトたちのどよめきは遠ざかって、慌てふためく雀さんの声がはっきりと聞こえてきた。
「あわわわ、ここどこ?! 壁が近いよ、止まり木が無いよ。と、止まらないー!」
「……こっちにおいで」
 私は小さな声で雀さんに呼びかけた。
「えっ、どこ? どこに行けばいい?」
「ここ」
 私は雀さんをじっと見つめて、こっそり人差し指を立てて自分の頭を指差した。
 くるくると飛び回っていた雀さんはやっと私の居場所をつかんだようで、何回か旋廻して体勢を整え、私の頭に着地した。
 クラスメイトたちが一斉に私を見て、遠ざかる。何か言っているみたいだけど、ちょっと今は聞こえないや。
 ベランダに出るための引き戸は教室の後ろにあったが、クラスメイトたちで道がふさがっているからそこまで移動できない。
 私は雀さんを頭に乗せたまま、一番近くの窓までゆっくり移動した。アルミ製のサッシに足をかけて、窓から身を乗り出す。見下ろすと外の地面まで結構な高さがあった。少しだけ背すじが冷えて、サッシを掴む手に力が入る。
「本当に助かったよ。ありがとう」
「うん、どういたしまして。次は気をつけてね」
 雀さんのお礼に私はまた小声で返事をした。
「わかった。ありがとう。またね!」
 雀さんは広い空に飛び立っていった。
 私はゆっくり教室の床に足を戻して席に戻り、補聴器をつけた。
「うおお! すげえ!」
「雀を頭に乗せるなんて、どんだけ動物に好かれてるんだ!」
「ねえ、今のどうやったの?!」
 クラスメイトたちがどっと沸いた。私の周りにみんな集まって大きな声で話しかけてくれる。けど、声が大きすぎて補聴器がハウリングを起こすからほとんど何を言っているのか聞こえない。
「こら、みんな落ち着きなさい! 授業を再開しますよ!」
 先生に注意されてクラスメイトたちはすごすごと席に戻っていく。助かった……。
 でも、私が動植物と話せることがばれてしまっただろうか。なんて言い訳をしよう……。

 放課後、やはり私はクラスメイトたちに囲まれてしまった。動物と仲良くできることについていろいろ聞かれたけれど、もともと動物に懐かれやすい体質だと言ってごまかした。幸い、私が動物とお話できることは、ばれていないようだった。

ある秋の日。
 私は部屋で花を育てている。毎日話し相手になってくれるし、毎朝私を起こしてくれる。ちなみに今育てているのは百日(ひゃくにち)草(そう)。
「おはよう。朝よ」
「んー、おはよう……。だんだん寒くなってきたね」
「そうね」
 百日草さんとお話をしていたらお母さんが部屋に入ってきた。私は慌てて補聴器をつける。

 寒さが増してきた日の夕方。
 私は園芸用品の買い足しのために地下鉄に乗って出かけていた。いつもなら親が車に乗せてくれるけど、今日は仕事が忙しくてできないらしい。一人で出かける私をしきりに心配していた。ちょっとだけだから大丈夫なのに。
 地下鉄に乗って、目的地の駅で降りる。
 車内はそこまで混んでいなかったけど、ホームは通勤通学帰りの人でいっぱいだった。
 ぶつからないように慎重に、でも邪魔にならないようにすばやく、神経を尖らせて人ごみを掻き分け、なんとか改札を抜けた。これだけのことでこんなに疲れるなんて……。
 いつも利用している園芸用品の店は、駅を出て少しだけ歩いた場所にあった。
 久しぶりに一人で外出してちょっと緊張していたのかもしれない。心臓がどきどきして少し息切れをしていたから、お店に行く前に少しだけ休憩することにした。
 通行人の邪魔にならないように壁に寄りかかる。それから人ごみの喧騒を律儀に拾い続ける補聴器を外した。
 外で補聴器を外すのは危ないけど、耳を休めたいから、ちょっとだけ。
 いつものように騒がしさが遠のいて、ぼうっとした静けさがやってくる。
 と思ったけど。
「ぁぁぁあああああ! 天井が低いいいぃぃぃ……」
 背後から叫び声がクレッシェンドしながら、一匹の鳩が低空飛行で通り過ぎて、声はデクレッシェンドした。
 どこかから駅の中に入り込んで、出口がわからなくなったのかもしれない。鳩さんは明らかに地下へと向かって飛んでいった。早く教えてあげないと出るのが大変になるかもしれない。
 私はもう一度補聴器をつけて、鳩さんを追いかけた。
 鳩さんは地下のコインロッカーの前でおとなしく歩き回っていた。私は補聴器を外して、柱のかげに隠れるように移動しながら鳩さんに話しかけた。
「鳩さん、迷っちゃったの?」
「あんた、俺の声が聞こえるのか。そうなんだよ。なんか迷い込んじまってなあ……。出口どこか知らね?」
「うーん、この駅ちょっと複雑だからなあ。えーと、一緒に来る?」
「いいのか?」
「いいよ」
 私は片耳にだけ補聴器をつけて、歩き始めた。もう片方の補聴器は無くさないようにしっかり握り締める。鳩さんが足元について歩いてきた。鳩さんは私に気を使っているのか、終始黙ったままだった。
 片耳から周囲の音が入ってきて正直気持ち悪い。それに、こころなしか周囲から見られているような気もする。でも早歩きしたら鳩さんとはぐれてしまう。私は居心地の悪さに耐えて出口を目指した。
 しばらく歩いたところで出口が見えてきた。私はまた柱のかげに隠れて補聴器を外した。
「あそこが出口だよ。ここまでで大丈夫かな」
「おう、助かったぜ。マジでありがとな!」
「うん。どういたしまして。次は気をつけてね」
「おうよ」

 すっかり寒くなった冬の日。
「おい、起きろ! おーきーろー」
「んあっ……? あれ、バッタさんがいる……」
 私は大声で呼ばれて目を覚ました。私の鼻先に一匹のバッタさんがとまっていて、しきりに声を上げていた。私はまだ寝ぼけていて、ぼんやりとしたまま返事をした。
「バッタさんが、しゃべってる……」
「バッタが喋って何がわるいねん。あっ、こら! 二度寝すな!」
「バッタさんは、しゃべらない……」
「アンタ、俺の声が聞こえとるんとちゃうんか!」
「あーそうだった」
 私が目を擦りながら起き上がると、バッタさんはぴょんと布団の上に降りた。
「あんな、突然やけど、今から大事なことを言うで」
「なにー?」
「アンタは! 今日から!」
「魔法少女や!!」
 漫画でよく見る集中線と大きな効果音と共にバッタさんは言い放った。

 はっ……。
「おはよう、ずいぶんと早いお目覚めね」
 窓辺の百日草さんが呼びかけてきた。
「うーん、この辺にバッタさんいたりした?」
「は?」

 やっと頭がはっきりして、あれは夢だったと理解した私は、百日草さんにその夢のことを説明した。
「……なんて夢でさ。バッタさんが関西弁喋っててびっくりしたよー」
「いやそこじゃないでしょ。もっとおかしいところあるわよ。最後とか……」
「まあでも夢で良かったよ。百日草さんと同じ部屋にいると百日草さんの葉っぱが食べられちゃうからね」
「そうね」
 
 いずれ私の耳は世の中の音を一切拾ってくれなくなる。
 だから私は思う。
 自然に声が聞こえて、会話ができることはなんて幸せなことなのだろう。
 私のこの能力がいつまで続くかは、わからない。
 だから、動植物たちとお話が出来る時間をこれからも大切にする。
 少しでも長く、声が聞こえる時間が続きますように。

動植物たちの声が聞こえる女の子の日常。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-07

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