金木犀と秋の国
僕は秋が嫌いだ。
山の木々は鮮やかな赤色や黄色に染まって、田んぼに広がる稲穂は豊かに実って黄金の絨毯のよう。お彼岸もあるし、なにより、どの季節よりも夕日が紅い。
辺りに広がる赤色や黄色は、僕の忘れたい記憶を強引にひっぱり出してくる。
だから、秋は嫌いだ。
「……ごちそうさま」
僕は、夕飯を半分以上残して箸を置いた。
「もういいの?」
「ちゃんと食べないと体を壊すぞ」
お母さんとお父さんが心配そうに言った。それでも無理に食べさせようとはしない。そうしたところで結局吐き戻してしまうからだ。どう頑張っても、何を食べても同じだった。
「……うん」
僕は、秋になるとあまりご飯も食べられない。世間は食欲の秋とか言うけど、僕は逆だ。お腹がまったく空かないし、食べなくても生活できそうな気がする。
僕はお母さんとお父さんがまだ食事を続ける中、席を立って食器をキッチンに置いてからリビングを出た。
小さな和室に入ると、部屋の隅に仏壇がぽつんと置いてあるのが見える。僕は仏壇の前に座ってろうそくに火をつけた。ろうそくの先で揺れるオレンジ色を見ないようにして、お母さんに頼んで買ってもらった煙が出ないタイプの線香を近づける。先端がオレンジ色に光り始めたところで火を消して、灰に突き刺す。線香の臭いを嗅がないように、息を止めながら少しの間目を閉じた。
「もうすぐお彼岸だね。おじいちゃん」
僕は穏やかに笑い続けるおじいちゃんの写真を見つめながら、そっと呟いた。
おじいちゃんの優しい笑顔と、息を止めていてもまとわりつく線香の煙の臭いがあの日の記憶を引っ張り出す。
三年前の休日のことだった。宿題も家の手伝いも終わらせて、僕は昼寝をしていた。
不意に不快な臭いが僕の鼻についた。ずっと吸い込んでいると、次第に息苦しくなってくる。
(これは……)
僕はゆっくりと目を開けた。
寝ぼけた頭でもはっきりとわかる。僕は勢いよく飛び起きた。
「煙……!」
家の中に灰色の煙が充満している。どこかから火が出て、家を燃やしているんだ。僕は箪笥からタオルを取って口に当て、体を低くして這いながらゆっくりと進んだ。学校の避難訓練が役に立ってしまう日がくるなんて。
心臓がどきどきして、体が勝手に震える。それでもなんとか手足を交互に動かして進む。
大きな声を出して僕の存在を知らせたい。でも、少しでも空気を吸い込むと、熱い煙まで入り込んできてむせてしまう。喉が痛い……。
空気が熱くなってきている気がする。視界は次第に濃くなっていく煙に遮られて、目を開けていることも辛くなった。早くしなきゃと思うのに、体は思うように動かなくて、手探りでゆっくりと進むしかできない。
一階に降りる階段に辿り着いた。一階に下りれば、すぐに玄関に着ける。あと少しだ。
僕の家の階段は少し長い。十段くらい降りたところで、小さな踊り場があって、また反対方向に折り返して十段くらいの階段が始まる。合計で二十段くらいを降りれば一階だ。
やっとのところで踊り場まで辿り着いた。もう十段を降りようとしたところで僕の体は固まった。
既に一階の廊下全体に火が広がっていた。火は一階の天井に届くくらいに大きくなっていて、もう二階にも戻れない。
空気がさらに熱くなって、僕の肌を焦がす。汗がとめどなく流れて、息ができないほどに苦しい。
視界がぼやけて、意識が飛びそうになったその時。
「大丈夫か! しっかりしなさい!」
目の前におじいちゃんがいた。
おじいちゃんは僕を背負って玄関に向かった。足取りはゆっくりとして、でも一歩一歩しっかり進んでいる力強さを感じて僕はとっても安心できた。
おじいちゃんは玄関の前で、膝をついた。僕の足を抱える腕が離れる。僕はまだ燃えていない床に足をついて立った。それでも足の裏は焼けるように熱い。
「おじいちゃん……?」
「行きなさい」
おじいちゃんは掠れた声ではっきりと言い放った。僕は意味がわからなくて、その場に立ち尽くした。
「早く!」
おじいちゃんは叫んだ。どうして、おじいちゃんは一緒に行かないの? もう少しで外なのに……
「子供がいるぞ! 救出します!」
外から誰かの声が聞こえると、僕の体はたくましい腕に抱えられて一気におじいちゃんから遠ざかった。
待って。おじいちゃんがまだ火の中にいるよ。
僕はそう言いたかったけど、喉が痛くて、声は弱い吐息になるばかりだった。
僕はまばたきもせず、はっきりと見開いた目でおじいちゃんを見つめ続けていた。火の中でうずくまるおじいちゃんはたぶん、もう足が動かせないようだった。
そうして、炎をまとった天井が崩れて、おじいちゃんの姿は見えなくなった。
家だったものがオレンジ色の炎に包まれて小さくなっていく。炎は小さな蝶が飛び立つように火の粉を散らして、紅い夕日に吸い込まれていくようだった。
僕は、あの日以来、周囲が紅く染まる秋が嫌いだった。お腹が空かなくて、眠れない秋が今年で三回目になる。
もう秋になるけれど、まだ空気は湿気を帯びて生ぬるい。部屋の中には行き場の無くした空気が重くこもっている。僕は窓を開けた。
そのままベッドに寝そべる。もやもやした気分はきっと寝ても晴れないのだろう。そう考えながら、僕は目を閉じた。
カーテンをかすかに揺らして、外の空気が入ってきた。どこからか、金木犀の匂いが漂ってきた。
金木犀の匂いだけは好きだった。秋にだけ咲く、特別な花。甘くて落ち着く匂い。
おじいちゃんと一緒に住んでいたころ、庭に大きな金木犀の木があって、おじいちゃんが大切にお世話をしていた記憶がある。でも、もうあの時の火事で灰になってしまった。
僕は次第に眠くなってきた。眠りに入る直前の倦怠感が体を覆って力が抜けていく。まるで体が浮いているようで、永遠にベッドに沈み続けていくような感覚だ。気持ちよくて、もう目を開けたくない。
秋はよくあの時の夢を見て、夜中に起きたきり眠れなくなることがある。今日はぐっすり眠れるだろうか。
金木犀の匂いが強くなるのを感じて、僕は肺一杯に香りを吸い込んで眠りについた。
どれだけ眠っていたのだろう。強い金木犀の香りに包まれて、僕は目を覚ました。どうやら今日はちゃんと眠れたみたい。頭がとてもすっきりして良い気分だった。
でもおかしいことがある。
「……ん、ここはどこ……?」
僕は、全然知らない場所にいた。
僕が横になっていたベッドは、いつものシーツとは違うもので、白いふわふわの毛でできたものだった。周りを見渡すと、頭上には巨大な金木犀の木、紅葉、イチョウ。足もとにはどこまでも広がる彼岸花と、木から落ちた紅葉とイチョウの葉。
景色を埋め尽くす赤と黄。まるであの時の炎に囲まれているような気分になる。僕は周囲の色を目に入れないようにふかふかの白いベッドを見下ろす。
しばらくそのままじっとしていると、突然、ベッドが大きく揺れた。
「うわっ」
波打つような揺れに耐えられず、僕はベッドから転げ落ちた。僕は手をついてベッドを見上げた。
そこには巨大な白いウサギがいた。耳をピンと立てて、どこか遠くを見ているように背を伸ばしていた。ウサギはななめ後ろにいる僕にゆっくりと顔を向けた。
その瞳も紅かった。大きくて丸い瞳がじっと僕を見つめている。その瞳は底が見えない血の池みたいに暗い色なのに、涙の膜を張って光をはね返している。ぞっとするほど不気味なのに、僕は目を離すことができなかった。
「向き合いなさい」
「……え」
どこかから声が聞こえてきた。低くて凛々しい声で力強く僕に言葉を投げかける。
「それを乗り越えなければ、お前に帰る場所は無い」
巨大なウサギはいつの間にかいなくなっていた。
まばたきをする度に、瞼の裏にあの日の光景が映るようだった。零れそうになる涙を堪えながら、僕は走り出す。
「お前に帰る場所は無い」
この言葉だけが、繰り返し頭の中に響いていた。
僕はひたすら走り続けて、森の出口を示す光を見つけた。周囲の秋色と悪夢のようにまとわりつく思い出を振りほどきたくて、僕はさらに速く走った。でも、早まる動悸と息切れがトラウマを助長させるようで、さらに苦しくなった。堪えきれずに涙が一筋零れる。
そのまま光の中に飛び込むと、景色は一変した。
周囲には本棚が立ち並ぶ、図書館のような場所だった。しかし、まばらに置かれたテーブルでは読書をする人、食事をする人、絵画に色をのせている人、一心に木を彫っている人、楽器を演奏する人など様々な人が座って思い思いに過ごしていた。
僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。すると、一人の男がにこにこしながら近づいてきた。
「やあ、久しぶりのお客さんだ。そんなところに立ってないで、こっちに座りなよ」
「え……、ちょっと」
彼は僕の返事を待たずに僕の腕を掴んで席まで引っ張った。僕は流されるまま席につく。
男もまた席について、読みかけの本を開いて読み始めた。テーブルには同じように本を読んでいる人たちが座っている。
「秋は素晴らしい季節さ。読書がとっても捗るんだ」
僕をつれてきた男は一冊の本を僕に差し出した。そしてすぐに手元の本に視線を落としてしまった。
僕も周りの人たちに合わせて、受け取った本を開いてみた。その本はたくさんの詩が集められた詩集だった。読んでみると、どのページにも秋を題材にした詩が印刷されていた。
「……」
秋を強く嫌っていた僕だったけど、詩を読んでいると不思議と嫌な気分は消えていた。
窓からは涼しい風に乗ってほんのりと金木犀の香りが入ってくる。心地良い風に包まれながら、詩が紡ぐ文字を追うと僕はたちまち穏やかな気持ちになれた。
僕はそれほど長くない詩集をあっという間に読み終えた。一息つきながら視線を上げると、男と目が合った。
「その本は君にあげるよ。持ってお行き」
彼はウインクをしながらそう言った。僕はお礼を言って詩集を持って席を立った。
読書をする人たちのテーブルから離れたところで、僕はまた腕を掴まれた。今度は少し太った男の子だった。
「君、お腹空いてない? ごはん食べていきなよ」
男の子はそう言って、僕をまたテーブルへと引きずっていく。また流されるままに席についた。
テーブルにはごちそうが隙間無く並べられていた。サンマの塩焼き、牡蠣のバターソテー、きのこたっぷりけんちん汁、松茸の炊き込みご飯、焼き芋、栗のケーキ、梨のシャーベット、ぶどうのジュース……
どれも秋にとれる食べ物を使った料理だった。テーブルに座っている人たちは手を休めることなく、次々と料理を口に運んでいる。
「早く食べないと無くなっちゃうよ! 秋のごはんは美味しいからね」
男の子も口の中一杯に食べ物を詰め込みながら言った。
秋は食欲がわかない僕だったけれど、ごはんを美味しそうに食べる人たちを見て、料理の良い匂いを嗅ぐと、僕のお腹の虫は元気よく鳴いて空腹を知らせてきた。
僕は我慢できなくなって、みんなと一緒にごはんを食べた。いつもの僕とは思えないほどお腹が空いていて、口に放り込む料理全てが美味しい。僕は心から幸せな気分になった。
テーブルに並ぶ料理が少なくなると、料理人らしい人が料理をたっぷり載せたお皿を運んできた。
「おっ、君、良い食べっぷりだねえ。美味しいか?」
「……っ! ……!!」
「ははは、目がキラキラしてる。嬉しいね。よく噛んで食べなよ」
料理人の問いかけに僕は首を縦に振って答えた。口の中が一杯で言葉が出せなかったからだ。
僕はお腹が苦しくなるまで食べた。満足するまで食べてやっと箸を置くと、料理人はすぐに食後のお茶を出してきた。僕はゆっくりとお茶を飲んで、膨れたお腹が落ち着くまでのんびり過ごした。
カップを置いたところで、背後から袖を引っ張られた。振り向くと、中性的で整った顔の女の子が立っていた。髪が短くて、一瞬男の子かと思ったが、真っ黒なワンピース姿で、棒のように細くて真っ白な手足が目立っていたから、女の子だとわかった。
女の子は笑顔のまま、僕の服の袖を弱く引っ張ってくる。引っ張られるままに席を立って女の子についていくと、今度は様々な芸術に勤しむ人たちが見えた。
キャンバスに向かって、絵を描いている人。そっとキャンバスを覗くと、海に沈んでゆく夕日が描かれていた。
真っ赤な夕日は僕にあの日の記憶を思い出させる。だから夕日は嫌いだった。そのはずだけど、不思議と僕はその絵を見ても嫌な記憶を思い出さなかったし、素直に美しいと感じた。
大きな木の塊を一生懸命彫っている人。木の上から半分までが微笑む天使の像になっていた。
きっと、あの日、僕がもっと頑張って自力で避難していれば、おじいちゃんは死ななかったかもしれない。だから、おじいちゃんが死んでしまったのは、きっと僕のせいだ……。でも、天使の優しい微笑みは、僕を許してくれているように見えた。
次第に周囲には楽器を演奏する人たちが増えてきた。みんながバラバラの位置に居るのに、女の子と僕が通り過ぎると、進む先に一緒に移動していく。
そうして、大勢の演奏者たちが扇を描くように並んで、一つのオーケストラが出来上がった。女の子は僕の手を離して、オーケストラの前に立った。
「秋は素晴らしい季節よ。とっても素敵な音楽が聴こえてくるの」
そう言って、女の子はオーケストラに向かって腕を一振りした。演奏者たちは息を合わせて演奏を始める。
伸びやかなオーボエのソロから、そよ風のようなフルートの音が重なって、ストリングスへ。オーケストラの音はだんだんと厚みを増していく。
女の子は透き通るような声で歌い始めた。
その歌は秋を讃え、命と自然の恵みと神様に感謝する歌だった。女の子の声はとても不思議で、一人で歌っているのに、一オクターブ低い音域やハーモニーになる声が一緒に聴こえてくるのだ。
突き抜けるような高音に、穏やかに流れるような低音。囁くような声でも力強く、叫ぶような声でも繊細に。軽やかに階段を昇るような音の跳躍はとても見事だった。嘆きに乗せて、強烈なビブラート。神様の赦しを得て、穏やかに収束する。
そうして、演奏は重厚なハーモニーを響かせて静かに終わっていった。周囲から割れるほどの拍手と歓声が上がる。
僕も一緒に拍手を送ったが、だんだんと不安な気持ちが心に満ちてきた。
聴こえてくる音が変化しているように感じる。拍手は炎が爆ぜる音に、歓声は逃げ惑う人々の叫び声に。
これは、あの日に聞いた音……。
一度まばたきをすると、僕の周囲にいた人たちは紅い炎に包まれて消えた。あの穏やかな空間が一瞬で燃え上がって消え、炎の中に僕だけが残された。
「……いやだ!!」
僕は頭を掻きむしり、声を上げて泣いた。誰かに助けを求めようとする本能から。弱い僕を許してほしくて……
僕はあの日の記憶に縛られたまま、このトラウマを乗り越えることができないのだろう。きっとこれからも苦しむことになる。それが、弱い僕への罰なのかもしれない。
周囲を焼き尽くす炎が足を焼き始めた。熱くて、痛い……。煙が僕の胸を締め付ける。息をするのも苦しい。
誰か、助けて……
ふいに、煙の臭いに混じって、金木犀の甘い香りが鼻についた。炎に包まれた熱風の中で、金木犀の香りが乗った風だけはとても冷たくて、僕の苦しみを少し和らげてくれた。
誰かが、僕の肩を優しく叩いた気がした。
顔を上げると、目の前にはあの日死んだおじいちゃんが立っていた。
僕がおじいちゃんの目を見つめると、地面から冷たい水が湧き出して、周囲はあっという間に大きな湖になった。金木犀の香りを乗せた風が、炎の残滓を吹き飛ばして、炎は跡形もなく消え去った。僕とおじいちゃんは水面の上に立っている。冷たい水が、焼けた足の痛みを癒してくれた。どこまでも続く大きな湖。水平線に沈んでゆこうとする夕日が見える。
「おじいちゃん……」
「元気にしていたか?」
おじいちゃんはにっこり笑ったまま、僕の頭を優しく撫でた。
僕は耐え切れずに涙を零した。しょっぱくて生温い水が瞳の膜を破って次々と流れ出す。おじいちゃんの胸にしがみついて、必死で叫んだ。
「ごめんなさい! 僕がおじいちゃんを殺したの!」
僕は壊れたラジオみたいに、ごめんなさいを繰り返した。おじいちゃんは震える僕の背中を優しくさすってくれた。
「よしよし、辛かったな。よくお聞き」
おじいちゃんはその場にしゃがんで、僕と目線を合わせた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった僕の顔を優しく拭いながら、穏やかに話し始めた。
「謝るのは、わしの方なんだ。簡単に自分の命を諦めて、お前をこんなに苦しめてしまった。本当にごめんなあ……」
おじいちゃんは僕をしっかり抱きしめた。金木犀の香りが一層強くなる。僕もおじいちゃんの肩に顔をうずめて、短い腕で力一杯抱きしめ返した。
「でも、わしはもう老い先短いところだった。最後にお前を守ることができて、わしは幸せなんだ。お前が謝ることは無い。殺したなんて思わないでくれ……」
おじいちゃんに抱きついて、金木犀の香りを吸い込むと、心が落ち着いて、次第に涙も収まってきた。
「ほら、ご覧。綺麗な夕焼けだぞ」
おじいちゃんの大きな手に引かれて、僕は立ち上がった。大きな夕日が、まるで湖に溶けていくように輝いていた。空の青色と夕日のオレンジ色が混ざり合って淡い紫色の境界線になる。だんだんと青色が濃くなって、宝石を散りばめたような星空が降りてきた。
もう何も怖くなかった。あの日の象徴のような色をした夕日も、世界を包み込もうとする夜空も、すべてが美しく見える。
「わしは、いつでもお前を見守っている。怖いことがあっても大丈夫だ。立ち向かっていくんだ。わしがお前を支え、守るから、大丈夫だ」
「うん!」
「よし、良い返事だぞ!」
おじいちゃんが僕の頭を力強く撫でた。
また金木犀の香りを乗せた風が吹いて、空からは紅葉やイチョウが降ってきた。
「そろそろ、帰る時間だ。久しぶりに会えて、本当に良かった。さあ、目を閉じて」
おじいちゃんは僕の目に大きな手のひらをかざした。その温かさに触れて、僕は目を閉じた。
金木犀の香りに包まれて、僕の意識は途切れた。
誰かに呼ばれて、僕は目を覚ました。視界にお母さんが入ってきた。
「おはよう。よく眠れたみたいね。朝ごはんができてるけど、食べる?」
「うん」
僕は盛大に鳴き声をあげた腹の虫の声と一緒に即答した。お母さんは少し驚いた顔をしていた。
甘い栗と一緒に炊いた栗ごはんを掻きこみ、肉汁が溢れるソーセージにかぶりつく。噛み砕いてから、牛乳で流し込み、卵焼きを口に放り込んだ。
いつも朝ごはんを食べない僕を心配していた両親が、今日はすごく驚いたように目を丸くしている。
「お母さん、この栗ごはんとっても美味しいね。おかわりある?」
僕が言うと、お母さんとお父さんは少し固まったあと、ぱっと笑顔になった。
「え、ええ。あるわよ!」
「食欲が出てきたのか? 良かったな! よく噛んで食べるんだぞ」
僕は二杯目の栗ごはんを口いっぱいに詰め込んで、あることを思い出した。
「そうだ……むぐ……お父さん、お母さん」
僕は噛み砕いたごはんを飲み込んでから、言った。
「僕ね、消防士さんになりたいんだ」
金木犀の香りを乗せた秋風が、そっと僕の背中を撫でていった。
金木犀と秋の国